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日が沈もうとしている。西の空は夕焼けで鮮やかなオレンジ色に染まっていた。辺りの街路樹もオレンジのまだら模様にその身を染めている。
南へと真っ直ぐに伸びていく市道の端に、うずくまっている人影が見えた。自分と同じ中学校の女子生徒が着用している見慣れた制服だ。ダークブラウンの上着に、タータンチェックの同系色のスカート。
その制服の後ろ姿は嫌になるほどハッキリと記憶している人物のものだった。
「薫! んなとこで、何やってんだよ」
振り返った薫の顔が強ばっている。今年、中学に入学する直前に、自分の家の隣に越してきた少女の表情には、いつもの気の強さがなかった。
遠慮無しに近寄ってみれば、彼女の目の前には段ボールの箱。さらにその中には子犬が一匹、鼻を鳴らしてこちらを見上げていた。
「和紀……」
「なんだよ、子犬じゃねぇか。誰だ、こんなとこに捨てていった奴は!」
ペットに飽きたとか、面倒になったとかで、簡単に捨てていく奴は後を絶たない。すぐ側に公園もあるこの辺りは、動物好きな人間が犬の散歩コースにしていることもあり、ペットを捨てていく者がよく現れる。
「……ったく。後の面倒ばっかり他人に押しつけて、なんて飼い主だ。……な、なんだよ。なんか俺、悪いこと言ったか?」
不機嫌そうに呟く自分をじっと見つめる少女の真摯な瞳に、一瞬たじろぐ。
「別に」
ぶっきらぼうな相手の口調は、彼女が不機嫌なときによくやるものだ。もしかしたら、癇に障るようなことをうっかりと口走ってしまったかもしれない。
「あっそ。……ところで、どうすんだよ。お前、連れて帰るのか?」
その言葉に傷ついたように顔を歪め、薫が首を振る。子犬に聞かれるのを恐れているかのように立ち上がると、小声で早口にまくし立てる。
「駄目。私のところ、父さんが動物大っ嫌いなんだ。連れて帰ったりしたら、虐め殺されちゃうわ。そんなの可哀想で……!」
「んだよぉ。……うちは母さんが動物の表皮アレルギーあるから駄目だしなぁ」
「もらってくれそうな人、いるかな?」
「さぁねぇ……。俺、学校の荷物家に置いたら空手道場行くから、そこで訊いてみるわ。お前も一緒にくるか?」
物問いたげに首を傾げる薫を無視して、しゃがみ込んで目の前の子犬の頭をなでてやる。
人見知りをしない丸い黒眼がじっと見つめ返してきた。自分の命運を目の前の人間が握っている、とでも思っているのか、神妙なその態度は放っておくことを躊躇わせるに充分だった。
「部外者が行ってもいいの? 入門希望って訳でもないし、ただ単に犬のもらい手を探しにきたってだけだと……」
所在なげに佇む薫の表情は常にない、遠慮がちなものだ。らしくないその態度が、可笑しくて思わず笑ってしまう。
「何、遠慮してんだよ。でかい面して入ってきゃいいさ。どうせ、野郎連中ばっかだしな。美人が行けば、大歓迎だぜ?」
「……美人なんかじゃない」
少々ムッとした表情になって薫が反論してきた。さらに混ぜっ返してやりたくなったが、彼女の眉間に寄せられたしわを見て、思いとどまる。いつもの気の強さがなりを潜めた薫の顔からは、孤独感が滲んでいたから。
「まぁ、どっちでもいいさ。道場の連中なら、俺たち中坊みたいに家族に聞かなきゃ、なんてこと言わなくても、犬の一匹くらいもらってくれる奴いると思うぜ?動物好きな奴だっているだろうし……」
どうする?と首を傾げて相手の表情を見る。困惑した表情のまま、薫が頷くのを確認すると、再び子犬の頭をなでる。くんくんと鼻を鳴らしていた子犬がベロリと指を舐めてきた。
「うわっ! 気安く舐めんなよ。さっきハンバーガー買い食いしたから、匂いでも残ってんのかな? ……腹減ってんのか、お前?」
じゃれつかれて思わず指を引っ込めると、残念そうに子犬が喉を鳴らす。その様子を見守っていた薫が小さな笑い声をあげた。
「あんたの指、餌と間違えられてるんじゃないの?」
子犬を抱き上げた薫が、微笑みを子犬へ向ける。徐々に日が沈みかかっているこの時刻、彼女の表情を辛うじて判別できるだけの光源しかない。
それでもその横顔を見ていると、やはり美人の部類に入る整った顔立ちをしているように思える。いや、有り体にいうならば、かなり自分好みの顔をしていると言っていいだろう。
「……どしたの、和紀?」
「い……いや。なんでもない。俺、胴着取ってくるから、お前も学校の鞄置いてこいよな。それから、おばさんに行き先伝えておけよ。遅くなるだろうし……」
動揺を悟られていないかと、思わず早口になる。しかし、当の相手はまったく気にかけてはいないようだった。彼女の関心は子犬にだけ注がれている。
「え……? もらい手が見つかったら、すぐに帰るよ?」
子犬の頭をなでながら、驚いた表情で見返してくる相手を軽く睨む。
「お前なぁ。これから道場に行けば、着く頃には真っ暗だぞ?いくらお前が気が強いったって、女一人で帰せるかよ。んなことしたら、俺が母さんに絞め殺されちまう」
わざとおどけて自分の首を絞めてみせると、薄闇のなかで相手が小さな笑い声をあげた。
「おばさんなら、ホントに怒りそうだよね」
「だろ? ……んじゃ、行くか。そのチビ、段ボールごと運んだほうがいいぞ。たぶんなかの毛布、今まで使っていたやつだろうから」
「うん……。ところで、道場って何時まで?」
連れだって歩き始めると、段ボールのなかから子犬は二人を交互に見比べては、鼻をひくつかせて甘えた鳴き声をあげ続けた。
ポツンポツンと建っている街灯が、弱い光を辺りに放ち始める。子犬の鳴き声と、互いの話し声しか聞こえない。静かなものだ。
「たぶん、八時くらいだよ。いつも早組はそれくらいで上がるからさ。それに、遅組とも顔を会わせるから、飼い主探しには好都合だろ」
「そっか。わかった。それじゃ、準備してくるわ」
納得した顔で頷く相手が清しい笑顔を向けてきた。それに一瞬見とれたが、駆け出そうとした薫を慌てて呼び止める。
「お……おい。そう慌てるなってば。俺だって準備があるんだからさ」
チラリと振り返った少女が口を尖らせる。不満そうな表情が、いつもの大人びた印象を和らげた。
「和紀は着替えるのすぐでしょ? 私は時間がかかるのよ!」
「んなモン、適当なもの着ていけって! どうせ、その段ボール抱えて行くから汚れちまうぞ」
いっそう頬を膨らませて睨んでくる相手を同じように睨み返す。その剣呑な雰囲気を悟ったのか、子犬が再び甘えたように鳴き声をあげた。
「チェッ……。犬になだめられてりゃ、世話ねぇぜ。あぁ、もういいや。俺が犬連れて行くから、お前着替えてこいよ」
薫が抱き上げていた段ボール箱に手を伸ばす。
間近に少女の顔があった。ふと、鼻をかすめる甘い香り。そして、無意識に手と手が一瞬だけ触れ合う。
「……!」
刹那……指先に電流が走った。思わず顔が強ばるが、薄暗いなかでは、相手の表情はほとんど確認できない。
「じゃ、着替えてくるから。この子、お願いね。あ、そうだ。母さんが今日の夜食用にサンドイッチ作ってくれてるんだ。それも持ってくるわ。道場に行きながら食べよ! ……ハンバーガーだけじゃ、足りないでしょ?」
「あ……あぁ」
動揺して返事の声が上擦っている。薫はまったく気づいていない。
パタパタと軽快に走り出した少女の背中は、すぐに薄闇の向こうへと消えていった。彼女はまったく今の電流を感じなかったのだろうか。あんなに激しく身体中を駆け巡っていったというのに。
今も指先は震えている。その甘い痺れに鳥肌がたつ。心臓の動悸が早い。喉がひどく渇いた。
くぅん……と小さく鳴く子犬の声に、ようやく我に返って歩き出す。ぎこちない歩調は、さきほどの痺れの名残か?
「お前、薫に見つけてもらって良かったな……。変な奴に見つかってたら、虐められて酷い目に遭ったかもしれないんだぞ」
甘えた鳴き声をしきりと漏らす小動物に小さく声をかけながら、街灯が照らし出す道を歩く。単調な帰り道のはずなのに、胸のなかがざわついた。
甘く、どこか痛みを伴うそのざわめきが愛しくて、つい顔がほころぶ。
「なぁ。薫の家のサンドイッチはさ……、けっこう美味いんだぜ? 新鮮な卵とハム、それから庭で採れたパセリを入れた卵サンドに、熟したトマトとレタス、薄切りにした鳥の照り焼きに特製ソースを塗ったサラダサンド。お前も食べさせてもらえるかもな」
痺れた指先に僅かに力を込め、しっかりと段ボールを抱え直した。
家々の明かりと街灯を頼りに進む道の先に、他の家から少し離れて、見慣れた外観の家が二軒見えてきた。
自分と……薫の家だ。見れば、二階の彼女の部屋に明かりが点っている。きっとタンスをひっくり返して、着ていく服を選んでいるに違いない。
家の屋根の上、南の空にはとうに星が出ていて、ギラリと鋭い瞬きを地上へと放っていた。西の空も同様だ。太陽の最後の残光が消えれば、さらに星の輝きは増していくのだろう。
「お前、新しい飼い主に可愛がってもらえよ?」
大人しく自分の顔を見上げている子犬に小さく微笑みかけた後、歩調をあげて家へと急いだ。道場へ行く支度をしなければならない。
家の門についたところで、再び薫の部屋を見上げてみる。まだ電灯の光が弱々しく漏れていた。
眉間にしわを寄せて、衣装選びをしているであろう少女の顔を思い浮かべると、胸が暖かくなってきた。その温もりは、きっと、いつまでも胸の奥底で輝く明かりになるだろう。そんな予感がした。
「ただいま~」
小さな電子音が響き、セキュリティーロックが音声に反応して解除された。金属製の玄関扉を引き開け、玄関ホールへと滑り込む。
母親は仕事から帰ってきていないらしく、家の中はガランとしていた。いつもなら一抹の寂しさを感じるのに、今は先ほど感じた胸の温もりが消えない。その暖かさをもっと強く感じようと、段ボールをそっと抱きしめた。
「好き……なのかな? でも、あいつの好きな奴は俺じゃねぇんだよな……」
見下ろした子犬がクゥ~ンと喉を鳴らす。その小さな頭をそっと撫でてやりながら、玄関に設えられている鏡をじっと見つめた。
十三歳の少年の顔がそこにある。子どもから大人へと変わっていく課程の、まだ半人前のその顔が鏡の向こうから自分を見据えていた。
「やっぱり……好きなんだよな?」
誰に問うでもなく呟いた声を聞いている者は腕の中の子犬だけだった。