石獣庭園 -Wing on the Wind-

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偽りの愛情

No. 44 〔24年以上前〕 , Venus at the dawn,偽りの愛情 , by otowa NO IMAGE

いつものように猫が歩く
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ

いつもの場所で立ち止まる
朝靄のなかに溶けながら
異形の友のねぐらの前に

清けき音色で鈴が鳴る
主なき犬小屋に
声無き声で呼びかける


鈴音とともに猫がいく
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ

 人の気配がした。なぜだか気になって足音を消して近づく。どうしてそんなことをしたのか、自分自身にも理解し難いことだったけれど。
 近づいていくにつれ、話し声が聞こえてきた。ひそひそと囁かれる声が意外に大きく響く。
 このまま廊下を歩いて行き突き当たりの角を曲がったら、鉢合わせになるだろう。なぜかその人物たちと顔を合わせることが躊躇われ、角部屋の襖を開けると中へ滑り込んだ。
 襖を閉じても部屋はぼんやりと明るかった。月明かりが障子越しに差し込んでくるからだ。
 真新しい障子に人影が映っている。煌々と照らす月光がその輪郭をハッキリと浮き上がらせていた。
 二人の男の影。見慣れた特徴のある体格だった。耳を研ぎ澄ませば、聞き馴染んだ二人の声がすぐ耳元で話をしているように聞こえてきた。
「お前は薫に冷たすぎるんだよ」
「どこが? 僕は女嫌いだって言ってるだろ。僕にしては最大限譲歩してるつもりだけど?」
「何言ってやがるんだよ。……薫はお前のことが好きなんだぞ。少しは解ってやれよ」
 鼻で嗤う気配が伝わってきた。相手の言い分が陳腐なものだと言っている。堂々巡りを繰り返している押し問答に嫌気が差しているらしい気配もする。
「僕は女の考えていることなんか理解したくもないね。だいたい和紀!お前がだらしないからだろ。いつまで半端な関係でいるつもりだよ。やることやってるんだから、さっさと薫をさらっていけ!」
「そんなことできるか!? 薫が好きなのは俺じゃなくって、お前だって言ってるだろうが。なんでそれがわかんねぇんだよ、竜介!」
 思わず大きな声になり、夜のしじまに大きく反響した。二人は慌てて口を閉ざし、辺りの気配を伺っている様子だ。人が近づいてくるような気配はしない。それに安堵したらしく、二人は同時に小さな吐息を吐いた。
 どちらからともなく廊下に巡らされている欄干に寄りかかる。同じように障子の影法師も欄干の影に絡まる。巨大な寺院に相応しい頑強な造りの欄干なのだろうが、影からは推測することは不可能だった。
「僕に過大な期待を寄せるなよ。薫が僕を好きだったのは高校時代の初め頃だけ。それもほとんど気の迷い! 今はなんとも思っちゃいないよ。薫と寝てるお前のほうがよほど釣り合いがとれるだろうに」
「薫は俺のこと、男として見てねぇよ。俺たちは友人以上の関係だろうけど、恋人じゃねぇんだから。俺が薫と寝てるのは、仕事の成功報酬だからだ」
「……ふん。だらしのない奴。昔っからお前は薫の尻に敷かれてるんだから。見てるこっちがイライラするよ」
 口調にはあからさまな嘲りの色が含まれていた。それに腹を立てたのか、影の一つが欄干から離れ、苛立った様子で廊下を歩きさっていった。
 長い回廊の向こうへと足音が消えるまで、残りの影は動かなかった。
「まったく……。いつまでたっても……」
 忌々しげに舌打ちした影が言葉尻を濁した。
 そして何を思ったのか、欄干にヒョイと腰をかけると忍び笑いを漏らす。まるで悪巧みを思いついたようなその笑い声が収まったとき、空を流れていた雲が月にかかり、その銀盆の姿を下界から遮ってしまった。
「いつまでそうしているつもりだよ。……出ておいで」
 スゥッと音もなく開いた障子から姿を現した者を予想していたらしく、欄干の上から再び忍び笑いが聞こえた。
「竜……。なんで和紀を焚きつけるようなこと言うのよ」
「事実だろ? 薫だって内心ではそう思ってるんじゃないの?」
「関係ないわよ」
「嫌だねぇ。二人揃って意固地なことったら……。僕を巻き込まないで欲しいんだけどな。薫のこととなるとあいつはめちゃくちゃだよ。自分でも何をしてるか判ってないんじゃないの?」
 鋭い視線で睨む相手の怒りをスルリとかわすと竜介が再び口を開いた。
 からかっているのか、それとも警告しているのか。あやふやな印象を与える口調は、彼の内心を隠して決してそれを掴ませない。
「あいつの兄貴に遠慮してる? 確か、綿摘正紀は薫の初恋の人だったよな。それとも……例の、あの事件を未だに引きずっているわけ?」
「どれもこれも大昔のことじゃない。もう忘れたわよ」
「どうだか。薫……。母親の亡霊に取り憑かれているのは勝手だけど、ほどほどにしとかないと和紀に愛想尽かされるぞ。もっとも僕の場合は母親の生き霊に取り憑かれているんだから、君のこと言えた義理じゃないけどさ」
 腰掛けていた欄干から飛び降りると竜介は肩越しに空を見上げた。雲に覆われた月は顔を見せない。
 星明かりのなかで続けられた会話の真意が隣に立つ薫にどこまで通じたのか判らない。黙りこくっている彼女の気配からはそれは読みとることはできなかった。
「じゃ、お休み。僕も持ち場に戻ることにするよ」
 竜介が背を向けて歩き始める。暗い廊下の向こうに消えかかったその背中へ「おやすみ」と女の声が追いついた。それに片手を挙げただけで答えると、彼は振り返ることなく暗闇へと消えていった。
 二人の男たちが消えた後は、ひどく空虚に感じる。身体が空っぽになったように軽い。
 まるで風に押されるようにフラリと欄干に寄りかかると、薫は暗い空の隙間から覗く星たちを見上げた。月が翳っている今の状態だと、星は鋭い光を放ち、地上に銀糸の光を落としていた。
「自分の中に流れる血が許せない……。そんな人間が誰かを好きになってもろくな事はないわ」
 自嘲に満ちた声が夜気を震わせた。その声に呼ばれたように雲間から月が顔を覗かせ、星の光を駆逐する。
 星の銀光はすっかり色あせ、青白い月光が闇を洗い上げていった。まるで初めから月の光しか存在しなかったかのように……。
 薫は頭の中から嫌な記憶を振り落とそうと首を振った。それでも抜け落ちない。忌まわしい記憶たちの奔流から逃げ出すように、和紀の歩き去った回廊へと走り出した。
 思い出したくない。消えてなくなればいい。……できることならば、自分自身の存在さえも。


 部屋の入り口に取り付けたチャイムが不機嫌な声を張り上げている。ひっきりなしに鳴くその叫びに急かされて、起き上がろうともがいた。
 しかし身体は言うことを聞かなかった。
 ガチャガチャとノブが喚いている。あんなに乱暴にしたら壊れるかもしれない、とバカげた考えが一瞬頭を過ぎった。
 考え事をするだけでも頭がガンガンする。何も考えずに眠っていたかった。放っておいてくれないだろうか? うるさくて、眠れない。
 ガチャリと鍵の外れる音がした。それを朦朧とした意識のなかで聞きながら、ウトウトと眠りの淵へと落ちていく。
「薫……!?」
 聞き慣れた声が天井から降ってくる。でも、眠くて……目を開けるのが億劫だ。
「おい。大丈夫なのかよ? 薫……あ!? ひでぇ熱!」
 ひんやりとした手が額にあてがわれると、すぐに素っ頓狂な声があがった。
 瞬く間に冷たい手が生温く感じるようになり、その手が外されると、慌てた足音が遠ざかっていく。
 何も考えたくなくて、うつらうつらとしていると、額にまた冷たいものが押し当てられた。柔らかい感触……。布地のようなものだった。冷たくて気持ちいい。
 熱で身体が蒸発しそうだったけれど、これで少し落ち着くかもしれない。
 眠たくて開くことも億劫な瞼を無理に押し開いて、自分の顔を見下ろしている人間の顔を見ようと目を凝らした。でも熱に視界が霞んでハッキリと輪郭が見えない。誰だろう?
「なんだ? ……どっか辛いとこでもあるのか?」
 心配してかけられる声が耳に優しかった。その声に安心して再び目を閉じる。
 すぐに睡魔が襲ってきた。白濁していく意識の隅で、先ほどの声を追いかける。もう一度、その声を聞きたくて、記憶のなかに紛れ込んだ声の断片を探しまわった。
「薫……? 眠ちまったのか?」
 囁き声が聞こえる。それに答えようとするが声が出ない。眠りに支配されていく身体は自由にはならなかった。
「まったく。心配かけやがって……」
 声がひどく間近から聞こえた。
「男が部屋ン中にいるんだぞ? いつもみたいに叩き出してみろよ?」
 鼻先に息がかかった。次いで、自分の頬を誰かの指がなぞっていく感触……。なんだか、むず痒い。
 首を振って避けようとするが、本当に身体はピクリとも動かなかった。
「薫……」
 熱のこもった声が掠れた。そして、唇の上に温かい感触を感じる。潜めた息づかい。自分の顎に添えられた生暖かい指先……。
 それらがふいに遠ざかった。まるで悪戯を見つかった子どもが逃げ惑うように……。
「俺ってサイテー……」
 自己嫌悪にささくれだった声がなぜかとても寂しく聞こえてきた。腕を差し伸ばしてやりたいのに、それは叶わず……。遠ざかってしまった気配に頼りない気分になる。
 胸が痛んだ。ジクジクと血を流しているように……胸が痛んだ。


 足早に廊下を歩いていった先に煙を吹かしている人物が見え始めた。ぼんやりと月を見上げている横顔に孤独がにじんでいるように見えてひどく胸がざわつく。
 思わず立ち止まって、その横顔に魅入ってしまった。
 その横顔がふとこちらを振り返り、ギクリと顔を強張らせた。くわえていた煙草を慌てて手持ちの携帯灰皿で揉み消す動作がぎこちない。
「また煙草を吸っていたのね。そのうちに肺ガンで死ぬわよ」
「大きなお世話だよ」
 舌打ちをして顔を歪めた和紀の顔には、つい今し方まで浮かんでいた孤独はなかった。
「なぁ、薫……」
「……側に寄らないでよ。私が煙草の匂いが嫌いなの知ってるでしょ?」
 今の和紀に近寄りたくはなかった。しかし自分に割り当てられた部屋の入り口は和紀の立っている場所の真正面だ。結果的には自分から相手に歩み寄っていく形になる。
 だが建物の周りをぐるり一周囲んでいる回廊は一間(※約1.8m)ほどの広さがあり、かなりの間隔を開けて相手とすれ違える筈だった。
 それなのに、吹きつける風を肌に感じたときには、相手の腕のなかにいた。
 月を背にして立っている相手の顔は翳り、表情をハッキリと確認することはできなかった。微かな煙草の匂いに目眩がした。鳥肌が立つ。
「部屋に入れてくれないか……」
「厭よ!煙草臭くなるじゃない!」
「成功報酬が欲しいんだけどな」
「……何言ってるのよ。まだ仕事は終わってないわ。明日、無事に桜華(おうか)たちを送り届けたら終わり!最初に言っておいたでしょ!?」
 自分を抱え込む腕を振り払おうともがく。それほど相手の腕に力が込められているわけではなさそうなのに、逞しい腕は離れなかった。なぜか息苦しい。
「和紀!」
 相手に自分の不快感を伝えるために、わざと不機嫌な声をあげる。その声に反応して、相手の肩が小さく震えた。
 荒い息遣いが聞こえる。強引に部屋に入ってくるつもりなのだろうかと、相手の出方を伺うが、そんな様子はいっこうに見えなかった。
「薫……」
 耳元で囁かれた声が熱かった。背筋に電流のような痺れが走る。それを相手に気取られることが恐ろしく、闇雲に相手を突き飛ばした。
 呆気なく拘束が解かれ、互いの間に人一人分の空間が空く。自分の過剰な反応に相手が驚いている気配が伝わってきた。その先を読まれることが怖くて足が竦む。
「薫……?」
 そのとき、何の前触れもなく月が翳った。まるで自分の見られたくない心を押し包むように……。
 星明かりのなか男の首に自分の腕を絡ませた。動揺に相手が息を飲む気配が腕越しに伝わってくる。相手がどう思っているのかなどかまっている余裕はなかった。素早く背伸びをし、その唇に自分の唇を押しつける。
 それに相手が反応する前に腕を振り解くと、薫はきびすを返して部屋へと走り込み、後ろ手に障子を閉め切った。
 待っていたかのように月の光が障子越しに射し込み、閉じたその障子のすぐ向こうにいる男の影を映しだす。
 その影のなかにすっぽりと収まっている自分の影を見つけたとき、不意に薫の頬を涙が伝った。
「薫……!」
「入ってこないで! 契約違反よ!」
 泣いていることを気取られなかっただろうか? いつも通りの声だっただろうか? そんなことを考えながら、薫はその場に座り込んだ。
 涙がいっこうに止まらない。声を殺すために両手で口を塞いだ。それでも嗚咽が溢れる。
「薫……お前……」
「入ってこないでったら!」
 ヒステリックな声音は逆効果だと頭のどこかで警鐘が鳴った。だがその警告よりも先に言葉のほうが溢れ出ていた。
「一人にして! お願いだから……」
 だがその言葉は聞き入れられなかった。乱暴に引き開けられた障子の隙間から月光が洪水のように部屋のなかを満たす。人型に切り取られた影だけが光の浸食を阻んでいた。
 その影が小さく収縮していき、部屋のすべてが月光に染まると、薫は温かい腕のなかに収まっている自分を発見した。
「放して……」
「厭だ」
 抱きしめられていた腕に力が込められた。痛いほどに強く……。
「やっと捕まえた……」
 再び耳元に落ちてきた囁きに身体が竦んだ。逆らおうとしたが手足に力が入らない。首筋にかかった温かい息に身体が小刻みに震えた。新たな涙が頬を伝い落ちていく感触。その頬を生暖かく柔らかいものが這っていった。
「今度こそ逃がさない……」
 男のほうの声も震えていることに気づいて、なぜかホッとした。なぜそう思ったのか……。薫はもう嗚咽を漏らしてはいなかった。涙も止まった。身体も震えてはいない。
「……逃げるわ。これは月の光が見せた幻。偽りの……」
 言葉の最後は塞がれた口のなかで行き場をなくして萎んでいった。相手には伝わったのかもしれない。最後の言葉がなんであったのか。
 それを確かめる勇気は今はなかった。伝わっていないことを祈りつつも、自分の考えていることなど相手には筒抜けであろうことは判っていた。
 肩を掴まれ、仰向けに畳に押しつけられた。男の表情は逆光で見えない。
「逃げたければ逃げろ。俺はどこまでも追っていくぞ……」
 間近で囁かれた声から顔を背ける。暗がりで光る瞳を覗き込んだら、それですべてが終わってしまいそうな気がした。
 そんな終わり方は卑怯だ。相手に対しても、自分に対しても……。
 でもいつかは終わりがくる。
 その終わり方がどんなものであれ、きっとそれは唐突に訪れて、有無を言わせずに結果を押しつけてくるのだろう。自分の望みさえ見失っているというのに、それは確実に訪れる。それでも、まだ……終わらせたくはない。
「逃げるわ……。ずっと遠くへ。追ってきたければ追えばいい」
 薫の囁き声に対する答えは男からは返ってこなかった。見下ろしている視線だけを痛いほどに感じだ。空気を焼き尽くすような激しい痛みだけを伴う視線だった。
 肩を押さえつけていた和紀の手が弛み、離れていく。そのまま部屋を出ようと、背を向けて立ち上がる。
 そこで一瞬動きが止まった。操り人形のようなぎこちなさで、畳に横たわる薫を振り返る。
「……どうして俺じゃ駄目なんだ?」
「他の誰でも同じよ」
 返ってきた答えに納得したのか、それとも失望したのか……。月光を背にしているその表情を読みとることはできなかった。


 フラリと入ったコンビニの片隅にプライスダウンブックを見つけ、何冊かの雑誌の表紙をぱらぱらとめくった。
 最新号が発売されたために、価格を下げて販売されている本たちは、申し訳なさそうに小さくなってこの一角に縮こまっている。ゴシップ雑誌はともかくとして、上質な絵本を思わせる表紙の文芸誌まである。
 時間から置き去りにされた感が否めないコーナーだった。
 まるで今の自分のようだった。
 普段はあまり目を通さない文芸誌を手に取り、中身をパラパラとめくっていると、一つの詩篇が目に留まった。
 偶然だった。素人の詩の投稿コーナーで、名前は匿名希望になっており、どこの誰が作ったものとも知れない作品だ。

いつものように猫が歩く
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ

いつもの場所で立ち止まる
朝靄のなかに溶けながら
異形の友のねぐらの前に

清けき音色で鈴が鳴る
主なき犬小屋に
声無き声で呼びかける

鈴音とともに猫がいく
白い躰を優雅に揺らし
長い尻尾を滑らかに泳がせ


 奇妙な取り合わせだった。犬を訪ねてくる猫……。まるで性質の違うそれぞれの生き物が友というのはどうかと思ってしまうが、居なくなった相手からの反応をジッと耳を傾けて待つ猫の姿を想像して胸がざわついた。
 特に何かを買おうと思って入ったわけではなかったが、手に取ったその雑誌をレジまで運んだ。そのまま雑誌を棚に戻すことがどうしてもできなかったのだ。買ったからといって、目を通すとは限らないのに。
 コンビニから出たところで、見知った顔がこちらに駆けてくる姿を目にして立ち尽くした。別に何をしたというわけでもないのだが、なぜか顔を合わせずらかった。原因は判っている。
「薫……!こんなとこで何してんだよ。まだ熱があるだろうが!さっさと部屋へ戻れよ」
 頭ごなしに怒鳴りつけられ、思わず首を竦めた。
 気分転換に近所のコンビニにきただけなのだが、病み上がりで出掛けるのは無謀だったろうか? 腕に抱えた袋を抱きしめたまま、恨めしそうに相手を見上げてしまう。そんなにガミガミ言わなくてもいいと思うのだけど。
「……なんだ、本買いにきたのか。言えば代わりに買いにきたのに。ほら!もう行くぞ」
「どうして私にかまうのよ。放っておけばいいじゃない。寮のみんなはとっくに帰郷してるのよ?」
 手を引かれて歩きながら囁いた声に相手が立ち止まった。また怒っているのか、握っていた手に力が込められた。熱で火照った自分の手から相手の手に熱が伝染したように、一瞬相手の掌に激しい熱が籠もったように感じる。
「俺が居たら迷惑か?だったら俺も実家に帰るけど……。でも、今のお前は病人だぞ。寮母だって自分の家の大掃除でお前にばっかかまってられないんだから、俺一人くらい居たっていいだろ?俺のほうは親に今年は帰れないって言ってあるし……それに、おふくろもお前のこと心配してんだからな」
「私なら一人で平気なのに……」
「嘘つけ!この二日間、熱だして起きあがれなかったじゃないか。まったく、医者になりたいって言ってる奴が、そんなことでどうすんだよ!」
「医者……か。もうどうでもよくなった感じ……」
 投げやりな言葉に相手の顔が険しくなった。
 それは非難しているというよりは、何もできないもどかしさに焦っているようだった。どう言えば、自分の気持ちが伝わるのだろうかと考えあぐね、答えを見出せずにいる苛立ちが握った手からジンジンと伝わってきた。
「早く帰ろう……。ちょっと寒くなってきた」
 今度は自分が先に立って歩き始めた。すぐに相手も隣に並んだ。
「どうして私にはお母さんの血が流れてないんだろう……。どうしてあんな女の子どもなんだろうね……」
「薫……」
 辿り着いた寮の玄関でセキュリティチェックを受ける。その電子音が今日はやけに耳障りだった。
 何も考えたくはないのに、思い出すのはここ数日間の記憶の断片ばかりだった。寝込んでいたときのほうがマシだったくらい。熱のせいで何も考えなくて済んだのだから。
「どうしてお母さんは愛人が産んだ子どもなんか引き取ったんだろう。私を見る度に、厭なことを思い出すだろうに……。何も……何も教えてくれないまま、死んじゃうなんて……」
 黙ったまま手を握り返してくる相手の手の温もりが心地よかった。それでも、凍えた自分の心を溶かすことはできなかった。それを溶かせるのは自分自身だけ。でも今は駄目だ。凍てつき鋭く尖ったまま……。
「お父さんも……あの女も許さない……。お母さんが死んだのは、あの二人のせいなんだから」
「薫……」
「心配してくれてありがとう、和紀……。私、大丈夫だよ。死んだりしないから……。お母さんの後なんか追ったりしないから。……一人で、大丈夫だから」
 そう……。朝靄のなかでジッと耳を澄ます、あの白猫のように、一人で生きていけるようにするから……。


 母が私に注いだのは、偽りの愛情だったのだろうか……? 私が和紀と一緒にいるのは、なんのためだろう?
 見つけられない答えを探している私の心は今も凍てついたまま。時折吹きつけてくる温かい息吹に、立ち止まることはあっても、引き返すことはないだろう。
 彼に孤独を与える自分の罪を忘れない。自分のなかに流れる忌まわしい血の記憶がある限り。彼の優しさの上に胡座をかいて、甘えている自分の弱さを許さないように、未だに一人で立つことができない自分の罪を決して忘れはしない。

終わり

〔 8674文字 〕 編集

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