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「お前……! いつ、日本へ……」
藤見と呼ばれた男の声が今度こそ動揺しているのが判る。今までビクともしなかった男とは思えない。
聞き馴れた葛城の声とは違う、大人の女の声が夜の空気を震わせる。
「いつだって、お前が桜華に手出ししそうなときには帰ってくるさ」
オレは自分の窮地を救ってくれたらしい人物を見上げた。月明かりに薄く照らされた顔の半面が藤見を凝視していた。
「随分と手荒なことをしてくれたね。タダじゃおかないよ」
「か、薫さん……!」
葛城の声が聞こえた。彼女はオレを抱きかかえるようにして座り込んでいる。安堵感が葛城から漂ってくる。
そうか。この人物が葛城の言っていた結城薫か。
オレは自分の立場も忘れて、目の前の人物を観察した。
葛城と同じような茶髪に目鼻立ちのハッキリした美人だ。彼女の顔を見ていると、美術の教科書などに載っているギリシャの女神像が連想される。
引き結んだ唇には強固な意志が感じられた。鋭い眼光には、妥協を許さない力強さが漲っている。ただの一睨みで藤見の気勢を削ぐ辺りは並の男より強く見える。
やはり葛城が絶対の信頼を寄せる人物だ。
小石を右手で弄びながら、女は駐車場の入り口からゆったりとした足取りで近寄ってきた。
今気がついたが、藤見はオレを締め上げていた右腕を押さえていた。彼女が小石を投げつけて負わせた怪我なのだろう。
「蓮華になんて言って言い訳するつもりだい? ……ふざけたことをしてくれたね。お前のお遊びにつき合わされる桜華の迷惑を少しは考えたらどうなのさ!」
「う、うるさい! お前なんかに指図される覚えはないよ。第一、蓮華はこの事は知らないんだ! 言い訳も何もあるもんか!」
突如現れた女の言葉に藤見が動揺して半歩下がった。
今までの冷徹さが蔭を潜めた彼の横顔はわがままな幼児のようだった。実際、藤見は成長しきっていない子供と同じなのかもしれない。
「蓮華が知らないって? お気楽なヤツ。だからお前らはいつまでたっても天承院を継げないんだよ! ……出といで、蓮華!」
女の落雷のような声音に藤見は飛び上がった。
「蓮華……!」
一人の男に伴われて、昼間に会った女性がフラフラと姿を現した。昼間に見た哀しげな表情が浮かんでいた。
「藤見……。なんてことを……」
藤見と同じ顔立ちの女性が泣きそうな顔をして囁いた。黒絹の髪が月光を反射して輝いている。
「お前らが蓮華に告げ口したんだな! 卑怯者!」
藤見のわめき声が夜空に空虚に響く。
「もうやめて、藤見!もう……」
涙声で訴える蓮華が両手で顔を覆った。
「自分のやったことを棚に上げて卑怯者とはね。あんたってホントにろくでなしだよ、藤見。大事な蓮華を泣かせているのは、あんた自身じゃないか。……和紀!」
女が蓮華の背後に立っていた男に声をかけた。
和紀と呼ばれた男がゆっくりとした足取りでオレと葛城に近づいてきた。鋭い眼光の野性的な感じの顔立ちの男だ。
「立てるか?」
低い声がオレたちを包んだ。
決して優しくもないが、冷たさも感じさせない穏やかな声がオレの耳には心地よかった。だが葛城は不機嫌そうに顔をしかめて、そっぽを向いた。
オレは男の問いに行動で答えた。
立ち上がり、服に付いた埃や泥を払い、まだ座り込んだままの葛城に手を差し出す。
葛城は素直にオレの手にすがって立ち上がったが、まだ男と視線を合わそうとはしなかった。どうやら、葛城は結城女史の連れであるこの男が嫌いなようだ。
「桜華や彼女の友人を巻き込むなんて許さないよ、絶対に」
突き放したような声が駐車場に響いた。
オレと葛城は男に促されて駐車場の入り口から外に出た。暗い駐車場の敷地内には、藤見と蓮華、そして結城薫だけが残された。
「あそこに見える車で待ってろ。こちらの用が済んだら、すぐに行く」
男は五十メートルほど離れた街灯の下に止められた一台の車を指さし、抑揚の少ない声でオレたちに指示した。
オレが車の位置を確認して男を振り返ったときには、彼はすでに背を向けて駐車場に向かっていた。
葛城は不機嫌そうな顔を崩さずに男の背を見送っている。
「行くか? 葛城」
オレはいつまでもその場を動こうとはしない葛城を促した。きっとここから先はオレたちが立ち会ってはいけないことなのだ。たぶん葛城に配慮をしてのことなのだろう。
だが、葛城は動かなかった。
「葛城?」
「ゴメン、赤間。わたし、最後まで見届けないといけない気がする。先に車に行っててよ」
こいつは言い出したら聞かないところがある。いつもの気の強い顔に戻った葛城の白い横顔は、これまたいつも通りの頑固な意志を示していた。
オレはそっと空を見上げて溜息をついた。オレ一人で行けるわけないだろうが。
こいつはいつだってマイペースだ。なんだってこんなに頑固なんだ。折角、気を使ってあの場からオレたちを逃がしてもらったって言うのに。
「さて、これからあんたたちをどうしてくれようかねぇ?」
結城の冷たい声が響いてきた。
藤見の残忍さよりも背筋が凍る突き放したような声音だ。
藤見などはどう思っただろう?
つい先ほどまでは自分がいるはずもない立場に立たされる気分というのは、不愉快なものだろうが。
「蓮華は関係ないじゃないか!」
藤見の苛立った声が後に続く。
「関係ない? そうかねぇ、蓮華が桜華の通っている学校まで押しかけて行ったと知らなければ、あんたもこんなことまでしなかったんじゃないの?」
オレは息を飲んだ。
蓮華が昼間、学校に押しかけてきたことをどうして彼女が知っているのか?
だが、柏葉監督が迎えに行った人物が彼女であれば、知ることは出来るのだと思い至り、再び息を潜めて駐車場の会話に聞き耳を立てた。
「どうせ二度と桜華に近づくなと約束させたって、破ることは判りきっているんだから、本当に二度と桜華の前に姿を現さないように海にでも沈めてやろうかしらね」
「そんなことさせるもんか! 第一お前は医者じゃないか! 人の命を預かる職業のくせして人を殺す算段かよ!」
藤見の声が怒りに震えていた。
オレに言わせれば“よく言うよ”となるが、目の前で殺しの相談ってのは、ちょっとご免だ。気持ちのいいものじゃない。
そのとき、隣にいた葛城が動いた。
まるで風のように自然な動きのため、オレは一瞬反応するのが遅れた。だが、慌てて後を追う。
「お嬢ちゃん、何しに来たんだ?」
オレたちを駐車場から連れ出した男が葛城の姿を認めて声をかけてきた。抑揚のない淡々とした話し方は先ほどと同じだ。
「桜華……? どうしたの、車で休んでなさい」
「いえ。休んでいる気分ではなかったので……。そこ、どいてください、綿摘さん」
結城に返事を返しながら、葛城のヤツは男を睨みつけていた。この男の名前は綿摘和紀というらしい。それにしても、随分と毛嫌いしているようだ。
肩をすくめて男が身体をずらすと、葛城は滑るような滑らかな動きで結城へと近づいた。
「薫さん。あなたが直接手を下すまでもありません。……今夜のことは、院でふんぞり返っている山の大伯父貴に報告してください。それで充分です」
葛城の言葉に藤見の身体が小刻みに震えているのが夜目にも判る。話題の人物は彼が震えるほどの強権を持っているようだ。
「それでいいのかい?ほとぼりが冷めたら、またこいつらはお前を狙うよ。いっそこの世からおさらばしてもらったほうが楽でいいのに」
結城は医者とは思えない辛辣な言葉を藤見たちにも聞こえるように葛城に返す。
「私のことはどうとでも報告してください。でも……でも、藤見は! 弟のことは、どうか……。この子は、もう天承院の一員ではありません」
「蓮華! こんな奴らに頭を下げるな」
結城の言葉に蓮華が、手を胸に組むように合わせて懇願した。芝居がかった動作が様になる人だ。並の男とかなら、それだけで許しているだろう。
「それは出来ないね。第一、お前たちの母親は、藤見が朝比奈家に入ったこと自体を納得しちゃいない。どうせ今回のことだって、裏ではあの女狐が指示してるんじゃないの!?」
寄り添うように立つ双子を見比べながら、結城が軽蔑したような視線を二人に向けた。同情を誘うことなど、彼女には通用しないらしい。冷淡な態度は、はたで見ているだけのオレですら、怯んでしまうものだった。
夏の時期なのに、空気が凍っているような錯覚さえ覚える。
「母は関係ありません! そうでしょ? 藤見」
青ざめた顔をして蓮華が藤見を庇った。だが、藤見は答えを返さなかった。俯いたまま唇を噛みしめているばかりだ。
「答えられないのかい、藤見。それこそが、真実だね」
「う、嘘です! そうでしょ? ねぇ、藤見! なんとか言って!」
なおも藤見を庇う蓮華の顔がますます青ざめた。
オレは何がなんだか判らずに頭を混乱させ続けていた。
「だったら、なぜ藤見は答えない? 答えられないってことが答えなんだよ」
意地悪く藤見を追いつめる結城を遮る葛城の声が響いたのは、そのときだった。
「もう、いいです。薫さん」
疲れた表情と声の葛城の様子は、誰が見ても彼女が打ちのめされていると思うだろう。今にも倒れそうな葛城を支えているのは、結城の腕一本だけだ。
「……判ったよ、桜華」
溜息とともに結城が小さく頷いた。凍りついた空気がゆっくりと氷解していく。
「お前なんかに……お前なんかに同情なんかされたくもない!」
金切り声をあげて、藤見が葛城へと走り寄った。
「藤見……!」
宵闇に銀線が走る。
藤見の左手から放たれた光の線は一直線に葛城へと飛んでいく。
葛城が避ける間もない。
黒い影が光と葛城の間に立ちはだからなかったら、彼女は胸か腹をその光の刃で貫かれていたかもしれない。
硬質アスファルトの上をサバイバルナイフに似た鋭利な刃物が転がった。
「……和紀! 利き腕をへし折っておやり!」
怒りに燃え上がった結城の声が、黒い影に指示を出した。
男はわずかに彼女を振り返った後、音もなく藤見に滑り寄ると、逃げだそうと身をよじった藤見を難なく掴まえた。
「お願いです。やめてください! 藤見を傷つけないで!」
捕らえられた藤見と男にすがりついて蓮華が泣き出した。
だが、結城は指示を撤回する様子を見せなかった。
自分の腕にしがみつく蓮華を男はつれない様子で振り払うと、藤見の腕をひねりあげた。苦痛に顔を歪めながらも、藤見は助けを乞おうとはしなかった。
憎悪に光る瞳が綿摘と結城を交互に見つめている。
「やめて! お願い。やめて!!」
蒼白な顔をした蓮華が再び綿摘の腕に飛びついた。
だが、無常にも藤見の腕は鈍い音と共にあり得ない方向へと曲がった。
「ウ……ゥッ!」
悲鳴にもならない苦鳴をあげた藤見が土気色の顔をしてアスファルトの上に転がった。力無く垂れ下がる腕が壊れかかった人形の腕を連想させて気味が悪かった。
「藤見ぃ!」
絹を裂くような悲鳴が上がると蓮華が弟を抱きかかえた。
それを見守っていた葛城が目眩を起こしたように結城の腕に顔を寄せた。結城自身は無表情な顔を真っ直ぐに藤見に向けている。
オレは身体が震えだすのを止められなかった。
顔を歪めたまま、藤見が結城と葛城を睨んだ。どんな表情よりも凄まじい憎悪と殺意が込められた視線が二人の女の肌を焼く。
「殺してやる……。いつか、必ず。お前たちを殺してやる……!」
藤見は本気だ。狂乱した瞳がそれを証明している。
だがそんな藤見の怒りをせせら笑うように結城が不快そうに鼻を鳴らした。
あの藤見の憎悪をまともに受けてなんとも思わないとは、それだけでこの女の神経はまともではない。
「だったら今度は自分の命と引き換えにするくらいの性根を鍛えてからにしな! ……お前みたいな乳臭いガキの相手をしている暇なんてこちらにはないんだよ。行くよ、和紀!」
結城は葛城の肩を抱くようにして、闇に背を向けた。それを悠々と追って、綿摘が後に続く。オレも引きずられるような感覚を伴いつつ後を追う。
肩を震わせて泣く蓮華と、屈辱に身体を震わせる藤見を残して、オレたち四人は後ろを振り返ることなく車へと向かった。
「桜華?」
結城の声にも葛城は反応しなかった。皆、葛城の様子に注目する。彼女を見つめる何対かの視線が、その身体に絡みついているように見えた。
結城が無理矢理に葛城の顔を上向かせた。
葛城の顔は、人形のように動かなかった。傀儡のようになんの感情も浮かんでいないその顔は、だた美しいだけで、生命の力強さなど感じはしなかった。
「桜華!」
結城が語気を強めて、葛城に呼びかけた。その声の糸に操られるように葛城の瞳が動いた。と見る間に、葛城の瞳に透明な水が溢れた。
「薫さん……」
疲れ切った葛城の声が車内を染めた。
「眠りなさい。今のあんたには、休息が必要よ」
忍耐強い顔をして結城が葛城の肩を抱いた。それに素直に従って葛城が目を閉じる。
すぐに彼女は深い眠りの淵へと落ちていったようだ。規則正しい寝息が聞こえてくる。
オレは葛城の寝息に耳を傾けならが、今度こそ安堵の息を吐いた。
「自宅には、監督から連絡を入れてもらっているわ。今夜は監督の家に泊まりなさい」
穏やかだが反論を許さない口調で結城が話しかけてきた。
「え……? でも……迷惑じゃ?」
監督の家は一戸建てだがそれほど大きな造りの家ではない。夫婦二人暮らしの家に葛城が転がり込み、なおかつオレまで泊まることなどできるのだろうか? もしかしたら、結城薫自身だって今夜は柏葉監督の家に泊まるのかもしれないし。
「……私には、今夜は寝床は必要ないし、和紀は自分の部屋に戻る。休息が必要なのはあんたも同じ。今から自宅へ帰ったら、家の人を起こす羽目になるわよ?」
オレは結城の言葉に甘えることにした。第一、彼女には何を言っても無駄な気がする。そんなところは、葛城とよく似ていた。
「ありがとうございます。じゃ、お言葉に甘えて一晩お世話になります。……ところで、オレたちがあそこにいるってよく判りましたね?」
オレの質問に運転席から静かな笑い声があがった。
「ちょっと和紀! 何笑ってるのよ! ……あのね、桜華の制服の内ポケットには、いつでも小型のモバイルフォンが入っているの。それが発信器代わりになっているのよ。藤見のヤツも見逃すくらい小型で巧妙に隠してあるけどね。
でも今回は手間取ったわ。桜華が通学路に使っている道にあんたたち二人の学生鞄が放り出されてなかったら、気づくのがもっと遅れたかもしれない」
そういえば、オレは鞄を持っていない。今までは緊張の連続で気づきもしなかった。人通りの少ない住宅街の路地に放り出された鞄を想像して、オレはゾッとした。もう少し遅かったら、オレは死んでいたかもしれないのだ。
「喉の調子はどお? 痛みは?」
結城が医者らしい口調でオレに声をかけた。先ほどまで、殺意を露わにしていた人物と同一とは信じがたい声だ。
「大丈夫です。なんともありません」
実際に首を絞められた後の後遺症は何もなかった。案外、もう駄目だと思ってからも人間はまだまだ生きていられるものなのかもしれない。
「そう。……迷惑をかけたのは、こちらのほうだったわね」
葛城の髪をなでてやりながら、結城がポツリとこぼした。
「あの……。葛城の病気、治りますよね?」
オレは一番の気がかりを聞いてみることにした。葛城の病気が治れば、西ノ宮のバスケ部のコーチとして残っているつもりはないかもしれない。
彼女の病気が治るといい、と思う心のどこかで、治らなかったら……と打算が働いている自分がいる。
「桜華に聞いたの? 珍しいわね、この子が自分から話をするなんて」
「いえ、成り行きで……」
オレは今までの経緯を手短に説明した。
黙って聞いていた結城が微かに口を歪めた。だが、オレにはそれが何を示しているのかは判らなかった。
「お嬢ちゃんにしては、随分と譲歩した。少しは成長したってことだな」
運転席から声がかかった。それに結城が頷く。
「そうね。人間ってものを信用していなかった桜華にしては上出来だ。……あんたは桜華に信用されている数少ない人間ってわけだ」
結城の瞳がスゥッと細くなり、オレを値踏みするように全身を眺めてくる。居心地の悪いものだ。この瞳の前で隠し事をするなど不可能な気がする。
「葛城はオレたちのコーチとして最大限に努力しています。彼女のコーチとしての才覚を部員全員が信じています。
……葛城がオレたちに嘘をつかないから、オレたちは彼女を信用している。それだけのことです」
オレは居心地の悪さに視線をそらせた。
葛城の病気が治らなかったら卒業するまで、あるいは卒業してからでも、ずっとコーチでいてくれるのではないかと一瞬でも思ってしまった自分が恥ずかしかった。
「それでいいのよ、桜華との関係は。……本当はね、五分五分よ。時間との勝負。この子の心臓はもうボロボロだから、いつ死んでもおかしくない」
彼女の言葉がオレへの答えだと気づくと、オレは全身から血の気が引いていく感覚に目眩した。いつ死んでもおかしくない、という結城の言葉は衝撃だった。
「そ、そんなに悪いのですか?」
「二十歳まで生きられないわ。今のままじゃ、ね」
オレは思わず背もたれに寄りかかった。そうでもしなければ、目眩で倒れてしまいそうだった。
「二十歳って……じゃあ、あと三年くらいしか……」
「いいえ、二年よ。この子は今十八だから」
「えぇ!? 十八? だって、葛城は二年生で……」
途中まで出た言葉をオレは飲み込んだ。葛城がオレと同い年でもおかしくはないのだ。西ノ宮に編入してくる前に彼女は入院などでブランクがあるかもしれないのだから。
「お察しの通りよ。桜華は高一の終わりにひどい発作を起こして入院してるわ。二年生になってからは、ほとんど学校へは通えなかった。
今年の春先になってからよ、歩けるまでに回復したのは」
「……葛城は、知っているんですか? 二十歳までの命かもしれないってこと」
オレは沈んでいた。自分があと二年の命だと言われたらどうだろう?オレならおかしくなってしまう。信じたくもない。
「知ってるわ」
冷淡なほどきっぱりと結城がオレに告げた。
「葛城が可哀想だ……」
オレがもらした言葉に結城の眉がつり上がった。
「可哀想? ……病気だから? それとも、不愉快な連中につけ狙われているから? どちらも桜華の前では口にしないことね! この子は同情されることが大嫌いだから」
微かな怒りを含んだ彼女の声にオレは自分の言葉が偽善でしかないことを悟った。葛城は自分を可哀想だとは思っていない。いや、思いたくはないのだ。
同情は葛城を傷つける。
「すみません。絶対に言いません……」
「そうね。今夜、見聞きしたことも、ね」
オレは頷くしかなかった。今夜のことなど話しても誰も信じはしないだろう。
「何も教えられずに黙っていろって? それは不公平だな、薫」
黙ってオレたちのやりとりを聞いていた男が不満をもらした。バックミラーから覗く黒い瞳がオレたちをジッと見つめる。
「知らないほうがいいこともあるわ」
「藤見はこいつも殺そうとするかもしれない。あんな無様な姿を見られたんだ。その記憶を消し去るには当事者全員を抹殺しようとするかもな。
……お前は何も知らないまま、消されたいのか?」
黒い瞳が今度はオレだけを凝視した。
オレは藤見の狂気を孕んだ瞳と声を思い出して身震いした。あいつは普通じゃない、絶対に狂っている。
「桜華だけを守っているわけにはいかなくなった、か」
結城が溜息をついた。それが、オレにいっそうの恐怖を与えた。オレはまだ死にたくなかった。
オレは不安そうな顔をしていたのかもしれない。結城は苦笑すると、一度だけ葛城の寝顔に視線を走らせて、話し始めた。
「いいわね? このことは、誰にも言うんじゃないわよ」
猫の目のように光る瞳がオレの心を覗き込んだ。
天承院家は、古代舞の家元である。代々、女主が家元の座を継ぎ、千年を越える家系を維持してきたのだ。
だがその長大な命脈を保っていた家系に危機が訪れた。今から二十三年も前のことだ。
当時、第四十六代家元である天承院菊乃の一人娘菖蒲が十六歳の誕生日を目前に控えて突然に姿を消したのだ。
この事態に天承院流を支える師範代家系『朝比奈』家と『葛城』家は色めき立ち、早速暗躍を始めた。
跡取り不在で、自分たちの一門の誰かを院の養子という形で送り込むことができるのだ。突然に降って湧いた幸運に彼らは何よりも自分たちの利権の確保に奔走した。
誰も跡取り娘の行方など心配もしない。
だが両家の暗躍も空しく、四年後、菖蒲は天承院に連れ戻された。
両親は娘の無事に躍り上がって喜んだが、連れられてきた娘が抱く男女二人の幼子に愕然とした。
菖蒲にそっくりな子供は間違いなく自分たちの孫である。その事実に天承院内部は揺れに揺れた。
菖蒲と幼子二人はすぐさま引き離され、菖蒲は一門の者が決めた相手と連れ添わされた。
さらに菖蒲の幼い息子は朝比奈家へと養子へ出され天承院を名乗ることを許されず、双子の片割れである娘は天承院家に残されたが父親がいないという理由で跡取りとは認められなかった。
菖蒲と新しい伴侶との間にはすぐに女児が作られた。しかし、それは自然の営みとは反する科学によって作り出された子供であった。
菖蒲は自分の意志に反して生まれてきたこの子供を愛そうとはしなかった。
だが天承院の正式な跡目を継ぐ子供の誕生だ。
周囲から菖蒲の想いは無視され、まして子供に自らの意志など望まれもしない。
その子供の物心がつく頃、形ばかりの夫婦であった子供の両親は再び他人に戻った。
その後子供に無償の愛情を注ぐ者はいなかった。
「おはようッス」
「おうッス」
朝練で体育館に駆け込んでくる部員たちに声をかけながら、オレはチラチラと入り口のほうを伺い続けた。
あらかたの部員が揃い、ストレッチを思い思いに始める。
「はようッス」
「チーッス」
「はようございますッ」
全員が緊張の糸を張りつめて戸口から入ってきた人物に挨拶をする。
「おはよう」
いつも通りの厳しい口調と自信に満ちた双眸が部員一人一人に届けられる。変わらない朝が巡っている。
「コーチ。今日もいつものメニューですか?」
高杉がストップウォッチを片手に指示を待っている。
「あぁ、頼むよ」
葛城の声に部員たちが筋トレ用の道具をそれぞれ手に取る。
「すまなかった。……薫さんが、お前によろしくと」
葛城の小さな声が彼女の前を通りすぎようとしたオレの耳に届いた。
昨夜、オレは監督の家に泊めてもらったが、夜が明けるとすぐに家に飛んで帰っていた。葛城につきっきりだった結城薫とは今朝は顔を合わせていなかった。
葛城はいつもと変わらないきつい眼光を部員たちに注ぎ、的確な指示を出している。
何も変わらない朝。この朝日のなかでは、昨夜の出来事は夢物語のような気がする。
だが夢ではないのだ。
オレの記憶のなかには、結城から聞かされた遠くの世界の話が残っている。決して消えない錦絵のように、肌に刻まれるタトゥーのように。
『この子はね、PUPETT……人形なんだよ。糸で繰くられる操り人形。見えない傀儡師に操られるように生まれてきて、まわりの大人の思うように作られて、そして使いものにならなくなれば捨てられる。
……傀儡のような生き方しか出来なかった。そんな生き方しか許されない。いや、この子だけじゃない。この子の二人の姉兄もまた同じ。傀儡のごとくに操られ続ける……』
朝日のなかで見る葛城の横顔には昨日の脆さはなかった。だが、その仮面の下にある素顔をオレは知っている。暗闇に怯える幼児のようなその素顔を。
「だぁ~! かったりぃ~!」
遠くで佐倉井が不平をもらしている。それを葛城が腕組みしたまま睨む。
「……やりたくないなら帰れ! お前のようなヤツはいらん!」
部員たちが首をすくめ、佐倉井はいつも通り生意気に葛城を睨み返す。
「いい加減にしろ、佐倉井! 真面目にやれ!」
オレはいつも通りに佐倉井と葛城の間に入って、危険なバランスを取る。まったく変わらない日常が今は薄っぺらに感じる。
ふと見れば、葛城が苦笑をもらしている。笑うことのなかった葛城の笑みに、それに気づいた部員たちがざわめく。日常が変わっていく。少しずつ、だが確実に。
いつの日か、葛城は自分の足で立つだろう。傀儡から人へと変わる、その日が早く来ればいい。
そのときは、葛城は誰よりも綺麗に笑うだろう。
終わり
重たい瞼を押し上げた先に見えたものは、葛城の青ざめた横顔だった。
「か、葛城。大丈夫か」
病的な青白さをした葛城の顔は疲れ切っていた。医者にかかっているくらいなのだ、身体のどこかに変調があったのかもしれない。
オレの声に葛城が我に返ったようにオレを振り返った。
「赤間!」
葛城はオレの顔を見て安心したような表情を作った。
「ここ、どこだ? ……あっ! なんだ、これ!?」
オレは自分の今の状況を把握して呆気にとられた。
どこかのビジネスホテルみたいに殺風景な部屋のベッドの足にオレは手錠でつながれていた。同じく反対側の足には葛城がつながれている。
どうやらどこかに監禁されたらしい。
「なんなんだ。あいつら誰だ!?」
理不尽な拘束にオレは腹を立てた。
突然に人を殴りつけて気を失わせておいて、どこだか解らない場所に監禁するなんて、まっとうな人間のやることじゃない。
「ごめん……」
葛城の小さな弱々しい声が聞こえた。
見ると葛城は膝に顔を埋めていた。紺色の制服の間から覗く葛城の頬が常よりも白さを増しているように見える。
「お前が謝るなよ。オレが怒ってるのは、お前に対してじゃない」
どうもいつもの調子と違う葛城の様子にオレは戸惑った。普段の葛城なら素直に謝ったり、落ち込んだ様子など見せはしないのだ。
「でも……やっぱりわたしのせいだ」
俯いたまま葛城が囁いた。
確かにオレたちをさらった連中の目的は葛城にあるようだった。オレはいわば巻き込まれたのだ。だが、不思議と腹立たしさはなかった。
「悪いのは連中だろ? お前のせいだなんて思うな」
「……」
どう言い繕ったものだろうか。葛城はかなり落ち込んでいるように見えた。
「それより、お前、身体の方は大丈夫かよ。顔色、随分と悪いぞ」
血の気の引いた葛城の顔がゆっくりと持ち上がり、オレのほうへと向けられた。普段の気の強い表情が嘘のような弱った顔つきが、オレを不安にした。
「大丈夫。身体は平気」
オレを安心させようとでもしているのか、葛城は口元に笑みを浮かべた。だが、引きつった顔に浮かんだ笑みは彼女を余計に弱々しく見せた。
まるで、人形のようだった。作られた笑顔を貼りつかせるだけの人形のように無感動な笑みが葛城の顔には浮かんでいた。
「そ、そうか……」
オレは言葉に詰まった。今はどんな言葉を葛城に伝えても、彼女には伝わらないような気がした。
黙り込んだオレの耳に部屋のドアを開ける音が聞こえた。
葛城が緊張に身体を強ばらせているのが、離れていても判った。たぶん、オレも同じだ。
「おや。お目覚めかい」
若い男の声に続いて、その声の主がオレたちの前に姿を現した。
「……!」
オレは今どんな顔をして相手を見ているだろう。相手の男はオレの反応を無表情なまま見つめていた。
「そうか……。お前、蓮華に会ったんだ?」
淡々とした口調がオレの肌をなぶっていき、オレの全身に鳥肌を立てた。
男は昼間に見た蓮華と呼ばれていた女性にそっくりだった。体格に男女の差は見受けられたが、顔の造りは瓜二つだ。
双子、という単語がオレの頭のなかに浮かんだ。
「藤見! なんで赤間まで巻き込んだ!」
葛城の詰問も男にはまったく動揺を与えてはいなかった。むしろ、そんな葛城を面白がっているようにさえ見える。
「巻き込まれたほうが悪い。……それに、お前が素直に言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかったんじゃないの?」
藤見と呼ばれた男は葛城に近寄ると、顔を近づけて、気味の悪い笑みを浮かべた。能面の笑みを連想させる作り物の顔だ。
「まったくかわいげのない女だね。少しは蓮華を見習ったらどうなのさ。お前を見てると、また滅茶苦茶にしてやりたくなるよ」
葛城の顔が男の言葉に青ざめた。睨みつけている視線は鋭いままだが、血の気の引いた顔には生気が乏しかった。
「お前なんか大嫌いだよ。さっさと死んじゃえばいいんだ。いつも、いつも、蓮華の邪魔ばかりする。鼻持ちならないったらありゃしない」
毒を含んだ言葉が葛城に浴びせられる。気丈にもそれに耐えながら、葛城は尚も相手を睨みつけていた。
「ボクは不本意だけど、これから院へお前を連れていくからな。蓮華にはできないんだから、今度の花娘はお前が演じるんだよ」
「断る……!」
即答で返事を返した葛城の視線がさらにきつい光を帯びた。
「断る? ……お前に選択権なんか、ないんだよ。ボクだってお前が花娘をやるのは不愉快なんだ」
「なんで蓮華がやらないんだ! わたしはやらないからな」
葛城の声がさらに大きくなった。うわずっていると言ってもいいかもしれない。オレは黙って二人のやりとりを見ていることしかできなかった。
「……できることなら、お前なんかにやって欲しくないよ。でも、蓮華は花娘を教えられていないんだ。知らないことは出来ないだろう?だから、お前がやるんだよ、桜華おうか。蓮華の前で演じるんだ。彼女なら、一度見れば覚えられる。そしたら、お前なんか用済みさ」
「イヤよ! 絶対に行かないッ!」
葛城の頬が鳴った。うっすらの葛城の頬が紅くなる。
「うるさいよ。お前に選択権などないと言っただろう?……一度でいいんだ。蓮華の前で演じるんだよ。そしたら、そのあとはボクがお前を殺してやるッ」
「イヤッ!」
再び、葛城の頬に平手が飛んだ。
「やめろよ!」
たまりかねてオレは叫んでいた。無抵抗の人間に暴力を振るうなんて普通ならやらない。こいつは、どこかおかしいんだ。
「……部外者は黙ってな」
オレの制止の声を不快そうな視線で受けると、男はオレを軽蔑したように見下ろした。冷酷な視線が、オレの背筋に悪寒を走らせた。
それでも、ここで引っ込んではいられない。
「黙ってられるか!葛城は嫌がってるじゃないか!」
男の眉がピクリと動いた。そして、徐々に顔にニヤニヤといやらしい笑いを浮かべる。
「葛城……? はぁ~ん。お前、葛城姓なんか名乗ってるのか、桜華。随分と殊勝なことだ。そのまま葛城でいたほうがお前には都合がいいんだろうけど、今度ばかりは蓮華のためだからね。お前に花娘を演じてもらうよ」
「イヤ! やらないったら、やらないッ!」
悲鳴に近い声で拒絶する葛城の顔は死人のように真っ青だった。
「何度も同じ事言わせるんじゃない!お前には選択権なんかないんだ!」
葛城の拒否に、男はカッとなったのか、今まで以上に荒々しい口調で怒鳴った。顔に怒りのために朱がさす。
「そうだ。良いことを思いついた」
その怒りが突然に冷めたように、男は平然とした顔を取り戻した。
オレのすぐ傍らまで音もなく近寄ると、息がかかるほどの距離に顔を近づけてきた。ニヤリと笑う顔が不気味だ。
「桜華。彼をどうしようかねぇ?」
男の指がオレの首にかかった。夏の時期だというのに、氷のように冷たい指だ。オレの全身が総毛立つ。
「やめろ!赤間に手を出すな!」
葛城の顔が引きつっている。かすれ気味の声が、彼女の緊張感が頂点に達していることを示していた。
「さぁ。どうしよう? ……このまま指に力を入れたら、どうなる?」
男の喉の奥で空気がもれる音がした。男の笑い声だと気づくまでに少し時間がかかった。
「やめて!」
オレの喉は男の指の冷たさに痺れてしまったのか、言葉どころか呻き声一つでない。
「イヤだと言ったら?」
薄ら笑いを浮かべている男の顔に、魔物の哄笑が重なる。この男なら本当にオレの首を絞めることなど朝飯前なのだ。
「お願い。やめて、藤見!」
葛城の唇は青ざめ、震えていた。オレは彼女が泣き出すのではないかと思ったほどだ。だが、葛城はギリギリのところで、泣き声を押さえているようだった。
「だったら、院へ行くんだ。いいな」
「……」
葛城は拒否の言葉を発しなかった。オレを人質に捕られては抵抗などできない。
情けないことに、オレのことにかまうな、とはオレ自身は言えるほどの勇気がなかった。葛城の足を引っ張っているだけの存在である自分が酷く煩わしく思える。
「準備が出来次第、出発する。それまでは良い子で待ってるんだな」
男はオレの首を指の拘束から解放すると、氷の視線をオレたちに投げつけ、この部屋を後にした。
「ごめんなさい……」
伏し目がちに下を向く葛城の目尻に光るモノが見えた。
後ろ手に拘束されている姿勢では、顔を覆い隠すこともままならない。部屋の電灯の光を受けて、葛城の涙が光る。
「な、泣くなよ、葛城」
慰めの言葉が思いつかず、オレは滑稽なほど狼狽していた。
「でも、わたしのせいで……」
声が涙に震えている。
オレは何もしてやれないもどかしさに顔を歪めた。
「自分のせいだなんて思うなよ! お前のせいじゃない。絶対にお前のせいじゃないから!」
オレは夢中で叫んでいた。
普段の傲慢な態度が影を潜めた葛城は、あまりにも弱々しく見えた。そのまま消えてなくなってしまいそうなほどに小さくも見える。
オレの空虚な言葉に、それでも葛城は反応した。
そっと顔を上げた葛城の顔は今まで見た彼女の顔のなかで一番、綺麗で、脆かった。
「お前、行きたくないんだろ? だったら、どうにかして逃げる算段を考えよう。このままじゃ、どうにもならない」
提案をしている自分自身がどうすれば逃げ出せるかなんて思いつきもしないのに、オレは葛城を励ますためだけに偉そうなことを言ってみる。
それでも葛城には効果があったのか、彼女は泣きやんでオレをジッと見つめていた。
「……赤間。ありがとう」
囁くような声がオレの耳に届いた。
普段の葛城からは信じられないほど素直な言葉だ。いつもこんな調子だったら可愛い奴なのに。
だがそんなことをつらつらと考えている時間はない。男は準備が出来次第と言っていた。
準備がいつ出来るかは解らないが、男が葛城の様子を見にきたところを見ると、今少しの時間が必要なのだろう。
どうやったら、それを有効に使ってやれるだろうか?
「赤間。わたしにちょっと考えがある……」
考え込んでいたオレに葛城が声をかけた。
見ると、葛城はいつもの気丈な顔に戻っていた。オレは少しだけホッとしたけど、なんだか惜しいような気分になった。葛城のあんな弱った顔はもう二度と見れまい。
「なんだ?」
「ドアの向こうには見張りがいると思うんだ。たぶんこの手錠の鍵を持っている。だから、その見張りから鍵を奪わなければ、逃げられない」
オレは見張りのいる可能性をすっかり失念していた。
「見張りが自分からこの手錠を外すように仕向けるんだ」
「どうやって!?」
「私が発作を起こした振りをするからお前が外の見張りを呼んでくれ。見張りが藤見からわたしのことを聞いていたら、間違いなく奴はわたしの手錠を外すはずだ」
発作?
オレは聞き馴れない単語に少々戸惑った。
オレの表情からそのことを読み取ったのだろう、葛城は奇妙な顔をした。苦笑というか、自嘲というか、なんとも言いようのない歪んだ顔だ。
「……心臓発作だ」
オレはきっと驚いた顔をしたのだろう。
オレの反応を確かめた葛城が、視線を床に落とした。オレの視線に耐えられないとでもいうように。
「わたしの心臓は精神的なショックを受けたりすると、筋肉が痙攣する発作を起こすことがある。今は……それを利用するしかない」
ボソボソと喋る葛城の口調からは、諦めが伝わってきた。
今まで自分のことを話たがらなかったのは、この病気のせいか。オレは一人で合点して、ちょっと落ち込んだ。
もし葛城が健康になったら、西ノ宮のコーチなどすっぱり辞めて自分がプレイヤーとして活躍するだろう。
それだけの実力が彼女にはある。オレたちにそれを止める権利はないのだ。
反発している佐倉井や氷室たち一年生が近年稀にみる成長ぶりを見せているのは、葛城の指導の賜物だと二~三年生のオレたちは気づいていた。
オレたちが入学してきたときに葛城ほどのコーチがいたらと、内心では思っているのだ。
葛城の病気が彼女とオレたちを引き合わせたのだ。皮肉なものだ。
いっぱしにバスケットプレイヤーを名乗っているオレたちに、葛城は同情などされたくはないのだろう。
同情されてコーチの地位に甘んじているつもりはないのだ。葛城は、コーチとしてやっていくと決めた時点で、プレイヤーとしての誇りを捨てて西ノ宮に来たはずだから。
「本当に上手くいくかな?」
オレは務めて憐憫を顔に出さないように気を使って、葛城の顔を見た。成功したかどうかなんて解らなかった。
「やってみるしかないよ。他の方法なんて思いつかない」
「そうだな……」
オレと葛城はお互いの顔を見合わせて頷いた。
大きく深呼吸した後、オレは大声をあげた。
「誰か! ……誰か、来てくれ!」
オレの声を合図に、葛城が床に倒れ込んだ。身体を小さく丸め、肩で息をし始める。
「誰か! 誰もいないのかよ!おぉいっ!」
葛城の言ったとおり、ドアが音もなく開くと、黒服の中年男が入ってきた。
「なんだ! うるせぇぞ」
「医者を呼んでくれッ!」
オレの言葉に男は眉間にシワを寄せた。そして、何事かに思い至ったのか、視界から隠れていた葛城に駆け寄った。
葛城は演技とは思えない苦しみようを見せていた。
手足が小刻みに痙攣し、何かから身を庇うように丸まる姿は、オレでさえ震えが止まらなかった。
「た、大変だ……!」
葛城の様子に青ざめた男が懐から鍵を引っぱりだす。葛城の手錠を外そうと焦るが、思うようにいかず、忌々しそうな舌打ちが聞こえる。
ようやく手錠を外し終わった男が葛城を抱き上げようと彼女の腕を取った瞬間!
「ゲ……ゥ……!」
無防備になっていた男の股間に葛城の蹴りが決まっていた。
痛いぞ、ありゃあ……。
オレは男に少しだけ同情した。と、同時に男の急所を躊躇なく潰せる葛城の無慈悲さに改めて寒気を覚えた。
苦悶の顔から脂汗を噴き出してうずくまる男の首筋に葛城は腕を振り下ろした。小さな衝突音がした後、男は白目を剥き出し、股間を押さえた哀れな姿で気を失った。
なんの躊躇いも見せず葛城が男の懐を探り、オレの手錠の鍵を見つけだすと、素早くオレを解放した。
「サ、サンキュ。それにしても、お前ちょっとやりすぎじゃないのか? ありゃあ、痛いなんてモンじゃねぇぞ。使えなくなってたら、どうするんだよ」
同じ男としてオレは葛城に抗議してみる。だが葛城の返事は素っ気なかった。
「お前だって同じような目に遭っただろ? こいつらは自業自得だ!」
オレは大事なところを蹴られた覚えはないぞ。
「ちょっと待ってて」
オレから離れた葛城が手錠を持ったまま男に近づく。
「え……?」
オレが見守るなか、葛城は男に手錠をかけていった。しかも、ご丁寧に両手両足が互い違いになるような拘束の仕方だ。
これじゃあ、寝返りだってうてやしないじゃないか。さらに手近にあったタオルで男の口に猿ぐつわまで噛ませている。やっぱりやりすぎな気がする。
右足と左手、左足と右手をそれぞれつながれた男はまだ正気には戻っていなかった。
彼が我に返り、身動きできない、声も出せないその状態でどうやって助けを呼ぶのかと憐れみさえ覚えてしまう。
「さぁ、行こう!」
満足したのか、葛城が立ち上がってオレを振り返った。
いつもの強い眼光がオレを射抜く。さきほどの涙など想像もできない。
オレがやったことと言ったら、助けを呼ぶ振りをしただけだ。こいつはとんでもない女だ。オレは改めて葛城の容赦をしない性格を思い知らされて慄然とした。
廊下に出てみると、そこはやはりビジネスホテルのように殺風景な造りの場所だった。
「行くよ!」
オレより先に部屋を出た葛城が、数歩先から声をかけてくる。
突き当たりに階段を示すマークが見えた。エレベーターではなく、階段で下まで降りるつもりのようだ。
先が読めない状況になることは少ないから、賢明な判断と言っていいのだろう。
オレたちが閉じこめられていた部屋は七階最上階だった。案外大きな建物だ。市街地にこんな大きな建物なんてあったかな?
頭のなかで市の中心街の地図を思い描くが、建物の階数までは思い出せなかった。
「ここ、どこなんだ?」
葛城と並んで小走りに移動しながらオレは訊ねた。
「朝比奈がオーナーをしてる物件だ」
「朝比奈?」
オレの疑問を表す返事に葛城の顔がしまった!という表情を浮かべた。話すとまずいことがあるのだろうか?
「オレが聞くとヤバイことなら、話さなくてもいいよ」
「いや……やばくはないけど」
言い淀む葛城の顔には迷いが去来していた。葛城自身が話題にしたくはない内容なのか?
「なぁ、花娘って何?」
オレの何気ない質問に、葛城はいっそう困ったような顔をした。俯き加減な視線が動揺している。
「……悪い。忘れてくれ」
またしてもオレは余計なことを聞いてしまったようだ。
葛城の眉間に寄せられたシワは不快さよりも、困惑と焦りを濃く映していた。葛城は自分に関わる事柄を語ることを極端に避けているようだった。
「ここってホテルみたいだから、建物の外に出さえすれば、逃げるのは簡単なのかな?」
もう葛城に関する質問はしまい、と誓った後、オレは重苦しい沈黙を破って聞いてみた。葛城の表情がややほぐれた。
「……今は午後九時半過ぎだから、街のなかって言っても人通りは少なくなってるはずだよ。建物から出た後も油断はできないと思う」
「九時半!? オレ、随分と気を失っていたんだな」
自宅ではオレの帰りが遅いことを不審に思っていることだろう。もしかすると柏葉監督の家に電話を入れているかもしれない。いや、監督や奥さんだって葛城が帰宅していないことを心配しているだろう。
「香奈ちゃん、心配してるよね……」
ポツリと呟いた葛城の声が、オレの耳には大きく響いた。葛城が責任を感じていることは明らかだ。だが、情けない話、それを慰める言葉をオレは知らない。
オレたちは辺りに注意を払いながら、息を潜めて一階へと降りきった。
今まで邪魔が入らなかったことに感謝しつつ、オレは一歩前を進む葛城の後ろをついていった。
葛城は恐ろしくしっかりしていた。場慣れしている、とでも言うのだろうか、足音を立てずに進んでいくその後ろ姿を見ていると同じ高校生とは思えない貫禄があった。
ホテルの出入り口に厳重な見張りがいるのかと思ったが、フロントやロビーには呆気ないほど人の気配がなかった。
だが葛城は用心しているのか、ホテルの裏口らしい方角へと進んでいく。
「赤間。あんたバイク乗ったことある?」
裏口をすぐ目の前にして葛城が振り返った。顔には少しだけ安堵の表情が浮かんでいる。どうやら、無事に逃げ切れそうだ。
「いや。全然」
バスケに明け暮れているオレにバイクの免許を取りに行く時間があるわけないだろうが。それにバイクで事故って手足を怪我したらどうするんだ。
……まぁ、興味がないわけじゃないけど、現在のところは乗る気はない。
「……じゃあ、わたしが運転するか」
「へ? お前、乗れるの!?」
「制服のスカートじゃ、乗りにくいし、今は免許証持ってないんだよね。だから、捕まるとやばいけど」
葛城は通用口と書かれたドアをソッと押し開けた。
道を挟んだ向こう側に蛍光灯の青白い光に照らされた駐車場の看板が見える。市営か民営の月極駐車場といったところか。どこにでもありそうな造りの駐車場には、車が十台ほどとバイクが二台置いてあった。
「でも、鍵はどうすんだよ?」
オレは根本的なことを思い出して聞いてみた。バイクが目の前にあっても、鍵がなければエンジンをかけることなどできないだろうに。
「……やりようはいくらでもあるさ」
通用口を静かに閉めながら葛城が囁いた。まわりの様子を伺いながら、道路の向こうに見えた駐車場へと足早に歩いていく。
「それって……。よくバイクの盗難なんかで使われているらしい手口の……」
「たぶん、あんたの言っているやり方になると思うよ。徒歩で逃げるには限界があるから」
仕方ない、といった風情で葛城が肩をすくめてみせた。それにしてもどうして葛城は鍵無しでバイクのエンジンをかける方法を知っているんだ。
だがそれを追及するには時間が惜しいような気がした。
「ここってそんなに家から遠いのか?」
迂闊にもオレは歩いて帰れるほどの距離を想像していたから、少したじろいた。バイクに乗ることには抵抗はなかったが、無事に家に辿り着くまでにはまだまだ時間がかかりそうだった。
「遠いよ。車やバイクでも一時間はかかるかな」
「嘘、マジ!?」
「んなことで、嘘つくわけないでしょ!」
一時間といったら、市を二つや三つは通り越しているくらいの距離はある。それを歩きで帰っていては、帰り着く頃には夜が明けてしまう。
「行こう。グズグズしてると気づかれる」
一台のバイクへと歩み寄りながら葛城がオレを促した。
オレが見てもよく解らない機械を葛城は平然と外し始めた。彼女にはどの部品を外して操作すればバイクが動くのかが判っているようだった。
やっぱりこいつはただ者じゃない。
オレは呆れて溜息をついた。こんなところでバイク強盗の手伝いをする羽目になるとは。強盗の手伝いならそれらしく、見張りでもしていたほうがよさそうだった。
オレはホテルの連中に気づかれてはいないかと気になって、駐車場の入り口へと引き返した。駐車場は袋小路になっていて、ここで追いつめられたらおしまいだ。
「どこ行くの?」
「見張りだよ。ここにいても役に立たねぇモン」
「判った。気をつけて」
了解の印に葛城が片手をあげた。そして、すぐに自分の作業に没頭する。
あの様子だと、車輪をロックしているチェーンや電子ロックなどの解除方法も知っているのだろう。泥棒稼業で生活していけそうなヤツだ。
オレは入り口近くまで戻って手近な車の影からホテルの様子を伺った。建物内部は静まり返っていて、中から人が出てくる様子はなかった。
オレは身体から力が抜けていくような安堵感からその場に座り込んだ。
「やれやれ……。やっと解放された」
「それはどうかな?」
オレは背後からの声に背筋を凍らせた。
反射的に振り返ろうと身体をひねったが、オレは自分の首に絡まった冷たい指に震えあがった。
「まったくバカにしてくれるじゃないか。やっぱりお前も用済みになったら殺したほうがよさそうだな」
全身の血の気が引いていく。
藤見と呼ばれてる男は白い麗貌に本物の殺意を込めてオレを睨んだ。
萎えそうになる気力をオレは振り絞る。首に絡まる男の指は今にも満身の力が込められそうだった。
「か、葛城ぃ~!! 逃げろぉ~!」
このままだと葛城は捕まってしまう。男の配下が近くにいるかもしれなかったが、彼女の不利益を見逃すことは出来なかった。
それでなくてもオレは一度彼女の足を引っ張っている。
「貴様……!」
男の双眸に炎が燃え上がった。
葛城がこちらを振り返る姿が目に入った。驚きと悔恨をにじませた顔が夜の闇に浮かぶ。
オレの声に葛城は反応したが、彼女は逃げ出さなかった。オレはまたしても、彼女の足手まといになってしまったようだった。
「いい根性をしてるよ、お前は。ボクは良い子で待ってろと言ったはずだ。自分の立場が判っているのか?」
「藤見……」
苦々しい表情を浮かべた葛城の顔には半ば諦めが浮かんでいた。
「逃げ出してどこへ行くのかと思ったら、こそ泥の真似事とはね。……お前らしいじゃないか、桜華。泥棒猫に相応しいよ」
毒々しい言葉は葛城の心にしっかり届いているように見えた。オレの耳元から聞こえる男の声が、彼女の心に突き刺さっていく様が見えるようだ。
それでも葛城は歪めた顔を男に向けたまま、歯を食いしばって対峙し続けていた。
「わたしは花娘なんかやらない。蓮華がその技を欲しいのなら、山の大伯父貴に教えを乞えばいい!わたしから盗み取ったもので満足できる花娘ができるとでも思っているの!?」
「……確かにお前の技も未完成だ。だが知っている者と知らない者との差は雲泥なんだ! 伯父貴は蓮華に教えるつもりは毛頭ないんだよ。だったら、知っている者から盗むしかないじゃないか」
オレの首にかかっている男の指は相変わらずビクともしなかったが、男は葛城の言葉に少しだけ怯んだように見えた。
オレは男のその弱い部分を突いてみることにした。そうでなければ、オレは男の拘束から逃げることができない。
「結局あんたも蓮華とかいう人も、花娘に踊らされているってワケか? まるであやつり人形か道化師だな」
オレは精一杯の勇気を振り絞って男を睨んだ。氷の美貌が間近に迫っていたが、先ほどの禍々しいほどの殺意は薄らいでいた。
「貴様なんかに、ボクたちの気持ちが判るもんか!ガキは引っ込んでろ」
首に食い込む指に少しだけ力が込められた。オレの肺が空気を求めてもがいているのが判ったが、オレは男の手首をありったけの力で握りしめた。
オレだってスポーツをやっているのだ。腕や握力を鍛えている。男がどれほど鍛えているのかは知らないが、そう易々とは殺されるつもりはなかった。
「駄目よ、赤間!」
オレの様子を見た葛城が叫んだ。
「遅いよ」
オレの目の前で男の口が笑みを浮かべた。昔ポスターで見た無表情な仮面に刻まれた笑みのように。オレは鳥肌が全身に拡がるのを悟った。
「死んじまいな。ボクに逆らおうなんて、百年早いよ」
オレが握りしめた男の手首は振り払うどころか、頑強にオレの首へと絡みついてきた。痩せ気味の男の身体のどこにこんな力があるのかと思うほどの強い力がオレの首を圧迫した。
「やめて、藤見!」
掠れた叫び声をあげて葛城が駆け寄ってくる足音が聞こえた。
男はオレの首を絞める力をいっこうに弱めることなく、翳りのある笑い声をあげた。夜の闇に消えていくその声がオレの頭のなかでリフレインし続ける。
もう、駄目だ。息ができない。目の前が暗い。
オレの両手が男の指を空しくかきむしった。
意識が崩壊しそうになる寸前にオレは解放された。肺が流れ込んでくる酸素に飛び上がり、オレは激しく咳き込む。
「THE GAME IS OVER……。遊びは終わりだよ、藤見」
明瞭で力強い女の声がオレの耳朶に届いた。
「いいわね? このことは、誰にも言うんじゃないわよ」
猫の目のように光る瞳がオレの心を覗き込んだ。
頷くことしかできないオレを脅す顔は、花さえ恥じらう美しさなのに、凄惨な匂いを漂わせる。
その見知らぬ女の腕に抱かれた葛城の青ざめた横顔が、現実離れしていて夢を見ているようだった。
ボールはリングの縁をクルクルとまわり、弾かれたようにこぼれ落ちた。床にボールが落ちる間もなく、痛烈な声が飛んだ。
「なにやってんだよ、下手くそ! レイアップくらいきちんと入れろ!」
容赦のない罵倒を浴びせられた佐倉井が顔を歪めた。
「……うるせぇな、鬼婆ぁ」
ボソリと囁いた声は相手に聞こえてはいないはずだったが、鬼婆ぁと罵られた相手は目をつり上げて佐倉井を睨みつけた。
「やる気ないわけ!? ……だったら、さっさと帰りな!」
「おい……葛城。それは言い過ぎだ」
「あんたは黙ってな、赤間」
オレの忠告も簡単に却下された。葛城は顎をしゃくり、出口を示す。その顔が傲慢そうに佐倉井を見上げていた。
「誰も、やる気がねぇなんて言ってねぇよ!」
不機嫌そうに吐き捨てながら、佐倉井がボールを拾い上げた。大きな手がバスケットボールを器用に掴み、オレに放ってよこした。
「キャプテン、もっかいパスだし頼むわ」
シュート位置につこうとする佐倉井の背中に鋭い声がかかる。
「必要ない! 佐倉井、今日帰るまでに跳躍千回終わらせろ! それまで、ボールに触るな!」
振り返った佐倉井の顔が怒りに赤く染まっていた。
「葛城……」
これはヤバイ。
佐倉井が切れそうだ。葛城はいくら一年先輩とはいえ、女だ。佐倉井の性格からして、女にここまで言われて黙っているとも思えない。
オレは葛城の腕をとって体育館の隅へ引っ張っていった。
「お前、ちょっときついぞ。あそこまでポンポン言われたら、一年坊主だって頭にくるだろうが」
葛城は不機嫌そうな顔を隠しもせず、佐倉井の顔を睨ねめつけている。
だから、それがヤバイんだってのに。
「誰かが言わなきゃ、あいつにはわかりゃしねぇよ」
口を尖らせたまま葛城はオレを見上げた。黙っていれば綺麗な顔をしているのに、この口の悪さときたら始末に負えない。
「あのなぁ……。お前、もう少し言葉を選べよ」
最悪、身体を張っての喧嘩になったら、身長が二メートル近くある佐倉井に対して、その胸ほどの身長しかない葛城は圧倒的に不利だ。
もっとも身長差の前に、女だってだけで体力的な差がありすぎるが。
「ふん」
ふてくされてそっぽを向いた葛城にこれ以上何を言っても無駄そうだった。まったく、こいつはいつだって傲慢で不遜な奴なんだ。
「コーチ!」
体育館の入り口から声が聞こえた。
バスケット部のマネージャーで、オレの妹でもある香奈が葛城を手招きしていた。葛城が怪訝そうな顔をして歩き出す。
その足がふと止まった。
「おい、佐倉井! わたしが見てないと思ってサボるんじゃねぇぞ!」
しっかり佐倉井に念を押すことだけはわすれない。それにしても、もっとましな言い方ってもんがあるだろうが。
「葛城。そろそろ休憩取りたいんだけどな……」
仕方なくオレはその場のピリピリした雰囲気を消そうと葛城に話しかけた。
他の部員も疲れが溜まってきている。ここいらで休憩を入れたほうが効率が良さそうだった。
葛城もそれに気づいたようだ。了解の印に手を挙げると、香奈の待つ外へと歩き去っていった。
オレはため息混じりに部員たちに休息の指示を出した。
葛城は今年の四月に編入してきた転校生だ。それもバスケット部監督の柏葉先生のお墨付きで、この西ノ宮高校のバスケット部のコーチとしてわざわざ編入してきたのだ。
同年代の、しかも女がコーチに着任して、部員たちは初めは憤慨していた。だが文句はすぐに言っていられなくなった。
彼女が部員たちの目の前で行ったシュートのデモンストレーションは、非の打ちようのない出来だったからだ。
誰が予想しただろう、部員たちの指示する場所から放った、百本を越えるシュートをすべてノーミスでリングに押し込むなどと。
オレたちと彼女の勝負を笑って見ていた監督が止めなければ、彼女は二百本でも三百本でもシュートを放ち、確実に決めていたはずだ。
百発百中、一発必中の正確無比なシュートを見せつけられ、オレたちはぐうの音も出なかった。
誰もそんなことはできない。同じ場所からシュートし続けるだけなら、あるいは奇跡的にできる奴がいるかもしれない。
だが彼女が打ったシュートは一つとして同じ場所から放たれてはいない。
ゴール下はもちろん、スリーポイントのラインを大きく下がった位置からでさえ悠々とボールを放り、リングの淵にはかすりもせずにネットの真ん中を突き抜けていくボールを目で追いながら、オレたちは敗北感に打ちのめされていた。
飄々と百本ものシュートを放った後でさえ、葛城は涼しい顔をしていた。
あいつは化け物だ。誰ともなしに部員たちが言い合っているのをオレは何度も耳にした。
あのデモンストレーション以来、葛城が皆の前でプレイして見せることはなかった。
だが彼女のきつすぎる眼光で睨まれ辛辣な口調で罵られる度に、部員たちがあの見事な放物線を描いて飛んでいく彼女のシュートを思い出しているに違いないことは手に取るように判った。
かく言うオレも、怒鳴りつけられる度にあのシュートがストップモーションのように頭に甦る。
……床の上で軋むバッシュの足音。舞いを舞っているかのように優雅なジャンプ。乾いた音を立ててネットに吸い込まれていくボールの摩擦音。床に落ちたボールがバウンドしている規則的な打音。部員たちのもらす微かな吐息。
葛城をうち負かせる者など、この部内に一人として居はしなかった。
「お兄ちゃん!」
香奈の呼び声でオレは我に返った。
「なんだ?」
「もぅ! やっぱり聞いてなかったのね」
頬を膨らます妹に苦笑いを浮かべて謝ると、オレは缶に残っていたスポーツ飲料を飲み干した。
「だからね、葛城コーチを訊ねてきた人ってのが、すっごい美人なの! しかも清楚って言葉がぴったりくるような!」
「はいはい、それで?」
「あの人、コーチのなんだろうね? お姉さんかな? まだ若いからお母さんってことはないと思うけど」
葛城自身は清楚なんぞという単語からは一番ほど遠そうな性格をしている。
あいつだって、黙っていれば美人の部類に入るのだ。その訊ねてきた人物があいつの身内だっていうのなら、外見で内面まで判断したくはないね。
「おれはその女の人見てないけど、香奈さんのほうが美人だと思うね」
オレの側に座り込んでいた佐倉井がデレデレと鼻の下を伸ばして香奈を見上げた。こいつの反応は分かり易すぎる。香奈が好きだと顔にハッキリ書いてある。
……まぁ、兄の自分が言うのもなんだが、香奈は可愛い。佐倉井が惚れるのも無理はない。
「やぁだ~。佐倉井君ったら何言い出すのよ。でもすっごい美人なのよ~、その人ってば。女のあたしが見てもほれぼれするくらい。
あ……でも、美人でも葛城コーチとはタイプが違ってたなぁ。コーチはどっちかって言うと西洋美人って感じだけど、その人は日本人形みたいな感じだったもん」
どういう例えだ? オレにはどっちでもいい。見てもいない女の噂話なんか興味もない。
「ねぇねぇ、誰だと思う?」
香奈がワクワクと目を輝かせてオレに返事をねだっていたが、まともに答える気にもならず、オレは葛城の出ていった体育館の戸口を振り返った。
「香奈ちゃ~ん。助けて~」
大きな荷物を抱えた高杉真子がフラフラと歩いてくる姿が見えた。彼女もバスケット部のマネージャーだ。
妹の香奈より一学年上だが、香奈が子供っぽいせいか、大人びた顔をしているように見える奴だ。
「真子先輩!? どしたんですか、その荷物!」
前がほどんと見えない状態で足元もおぼつかない様子の高杉に気づいて香奈が飛んでいった。
戸口の段差で立ち往生していた高杉が、香奈の手助けに大袈裟なほどのため息をついてぼやく。
「もぅ~、いやんなっちゃうわ。柏葉先生ったら、私一人にこの大荷物押しつけてどっか行っちゃうんだもの」
「あれ~。これって新しいユニフォームですかぁ~? わっ! 黒地に青赤のライン!西ノ宮カラーですね~」
高杉のぼやきを無視して香奈が荷物の中からユニフォームを引っぱりだしている。休憩していた部員たちの目が光る。
もう後数日もしたら、監督からレギュラーが発表されるはずだ。そのときにレギュラーナンバーの入ったユニフォームを手渡されることを皆夢見ているのだ。
その憧れのユニフォームが目の前にある。目を輝かせるなと言うほうが無理というものだ。
「香奈さ~ん。おれも見たい!」
すっかり子供のようにはしゃいで佐倉井が荷物の山に突進していった。
柏葉監督の方針で、うちの部は実力主義だ。一年坊主でも実力があればレギュラーの座がまわってくる。
佐倉井もここのところメキメキと力を伸ばしてきているから、決して夢物語の話ではない。
もっとも監督が選ぶということはコーチである葛城の意見が多分に含まれるということだ。
反抗的な態度の佐倉井を葛城がどう評価しているのか……少し気にはなるところだ。
わいわいと部員たちが荷物に群がり、ユニホームを引っぱりだしては取り合っている。休憩時間はもうすぐ終わるが、これはしばらく収まりそうもない。
「やぁ、すみませんでしたね。真子くん」
飄々とした声が聞こえたかと思うと体育館の入り口に柏葉監督が顔を覗かせた。
四十代後半のはずだがスポーツマンらしい体型と十歳は若く見える男前な顔の造りで、学校の女子の間で密かに人気が高い。
「もぅ~、酷いですよ。一人でここまで運ぶの大変だったんですから! これ、貸しですよ、監督!」
声をかけられた高杉が頬を膨らませて監督を睨むが、本気で怒っていないのは明らかだ。
「電話が入ってしまってね。……おや? 我が部のコーチはどこに行きました?」
監督が人垣をキョロキョロと見まわした。
葛城の姿が見えないことをいぶかしんいる。それもそのはずだ。葛城が部活時間にこの体育館にいないことなど、今までなかったことだ。
「葛城コーチなら、綺麗な女の人に呼ばれて裏門に行きましたよ」
葛城に伝言をした香奈が代表して答える。
「綺麗な女の人? 誰です?」
柏葉監督の丸眼鏡の奥の瞳が糸のように細くなった。
「えぇっと? ……名前を仰らなかったです。でも綺麗なストレートの長い髪で、色白の優しそうな顔で。葛城コーチより五つくらいは年上に見えました。顔が似てなかったけど、もしかしてお姉さんかと」
香奈は相手の特徴を伝えようと一所懸命に思い出していたが、いかんせん、名前が判らないのでは要領を得なかった。
「……お姉さん。香奈くん、その人、確かに女の人だったの?」
「え? だってワンピース来てましたよ? ……スカートだったから、女の人だと思ったんだけど」
急に不安そうな顔をした香奈に柏葉監督はニッコリと笑いかけた。
「あぁ、心配ないから。裏門だったっけ?様子を見てく……」
「桜華ちゃん……!」
監督の声を遮るように、細い呼び声が体育館に沿って植えられているツツジの向こうからあがった。
部員一同が驚いてそちらを向く。
いつも以上に険しい顔つきの葛城がこちらへと足早に歩いてくる姿が目に入った。その後ろを二十二~三歳の女性が追いかけてくる。こちらも切羽詰まったような顔つきが尋常ではない。
「待って! 桜華ちゃん!」
呼び声の主はこの女性のようだ。まだ三十メートルは離れている距離なのに随分とハッキリと声が聞こえる。
葛城の下の名前を呼んでいるところをみると、やはり身内か近しい知り合いなのだろう。それにしても、葛城の奴も『桜華』なんて、随分と大袈裟な名前をつけられたものだ。
葛城に追いついた女性が、彼女の肩に手をかける。
「放せ! わたしに用はない!」
葛城が乱暴にその手を振り払う。険悪な雰囲気だ。
「あなたに戻ってもらわないと困るのよ」
「うるさい! わたしにはもう関係ない!」
「桜華ちゃん! お母様も待っているの。お願いだから、天承院に戻って」
「関係ないって言ってるだろ!」
「天承院にはあなたが必要なの! お願い、桜華ちゃん! ……桜華ちゃん!」
追いかけてきた相手を無視して葛城がこちらに歩きかかった。
「待って頂戴。桜華ちゃん」
葛城の腕に女性が取りすがった。必至の声と形相がオレたちにもハッキリと見えた。
この人が香奈の言っていた女の人だろう。確かに綺麗な女性だ。日本人形と香奈が言っていたが、その形容詞にぴったりの人だ。眉目秀麗、とはこの人のためにあるような言葉に思えた。
「わたしには用のない家なんだよ!」
青ざめた顔の女性を突き飛ばすように払いのけると葛城が叫んだ。腕を払いのけられた拍子に、女性が蹌踉めいて地面に転がる。
冷酷なほどに冷たい視線で葛城がその姿を見下ろす。
「あんたがやりゃあいいんだよ、蓮華。わたしには、もう関係ない!」
冷え切った声が葛城の口からもれる。オレたちをあからさまに罵倒することはあるが、こんな冷たい口調で喋ったことはない。
「桜華ちゃん……」
「帰って!」
裏門のほうへ顎をしゃくり、葛城は冷たい視線を蓮華と呼んだ女性に向け続けた。容赦をしない口調は聞いているオレたちさえ慄然とする厳しさがにじんでいた。
葛城の態度に屈したのか、女性はフラフラと立ち上がり肩を落とした。青ざめた顔は白さばかりが目立つ。
哀しそうな瞳で自分を見つめる女性のことなど無視して背を向けると、葛城はオレたちの待つ体育館入り口へと歩き出した。
葛城の肩越しに女性が彼女の背中を見送る姿が目に入る。
茫然とこの様子を見ていたオレたちに、歩き始めた葛城はすぐに気づいたようだったが、無表情を保ったその顔からは葛城の胸中を推し量ることはできなかった。
「何やってるんだ? まだ休憩時間だなんて言わないよな?」
いつもの厳しい口調に戻った葛城がオレたち部員を見まわした。まったく乱暴な口調だ。
彼女のきつい視線を受けて、部員たちが慌ててコートへと戻っていった。
遠くに見えた長髪の女性が諦めたのか、力無く歩み去っていく。
「お前がついてて、何やってるんだよ、赤間! もうすぐ地区予選が始まる時期にだらけていてどうする!?」
厳しい叱責がポンポンと葛城の口から飛び出してくる。
「悪かったよ。新しいユニフォームにちょっと浮かれていただけだ」
反論すればするだけ葛城の口調がきつくなることを今までの経験で学習していたオレは、素直に詫びて部員たちの待つコートへ向かおうとした。
「あぁ、赤間くん。ちょっと待ってください」
柏葉監督の声がオレを呼び止めた。監督の口調は先ほどの葛城の様子を見ていたにも関わらず、淡々としていた。
「桜華くん」
「……? はい」
監督に返事を返しながら、葛城が首を傾げた。監督には随分と素直な態度をとる奴だ。
「すみませんが、今日は赤間くんに家まで送ってもらってください。人と会う約束があるので」
「えぇ!?」
驚いてオレは目を瞬しばたたかせた。
葛城は柏葉監督の家に居候している。部活の帰りはいつも監督の車に乗って帰るのだ。
同じ家に帰るのだから、車に同乗してもオレたちは不思議に思わなかった。だが高校生にもなって、家まで送れとはいったいどういうことなのだ。
「柏葉先生。送ってもらわなくても、わたしなら一人で帰れますよ。子供じゃあるまいし」
監督の言葉に葛城が口を尖らせた。それはそうだ。これでは葛城を子供扱いしているようにしか見えない。
「先ほど結城先生から電話が入りました。今夜、到着するそうですよ。僕がこれから迎えに行く約束をしましたから、今日の帰りは君一人になってしまいますからね。夜道の女の子の一人歩きは危ないでしょう?」
部活が終わるのは、夜と言っていい時間帯になっているが、監督の家の距離は女が一人で帰るのに遠すぎるということはない。
だが、葛城は監督の言葉に目を輝かせた。
「薫さんが……!?」
ついぞ見たことのない晴れやかな顔つきだ。普段からこういう顔をしてくれていればいいのに。
「ちょっと監督! オレだっていつも香奈と一緒に帰ってるんですよ。妹も一緒に連れてけって言うんですか!?」
「そんなこと言ってませんよ。香奈くんは今日は他の部員に送ってもらってください。君はキャプテンなんですから、コーチを送っていくくらいのことでガタガタ言わない!」
ふ、不公平な気がする。
監督の家とオレの家は正反対の方角だ。葛城が帰宅する同方角なら、佐倉井や三輪とかがいるじゃないか。
オレたちのやりとりを遠巻きに聞いていた部員たちが困惑している様子が背中に感じられる。
「じゃあ、頼みましたよ」
オレが反論を思いつく前に監督はサッサと歩いていってしまった。
「……別に送らなくてもいいよ。ガキじゃないんだから」
監督の姿が見えなくなるとすぐに葛城がオレに言った。つっけんどんな口調だったが、オレに気兼ねしている様子が微かに伺えた。いっぱしに気を使ってやがる。
「いいよ、別に。送っていくくらいなら。香奈のことは木塚にでも頼むし」
オレは部員のなかで一番信頼の置けそうな男に妹を頼むことを決めると、葛城にチラリと視線を向けた。
普段とは明らかに違う困惑した表情を浮かべた葛城の顔が、このときばかりは女子高生らしく見えた。
部活の終了後、オレは葛城の着替えが終わるのを校門で待っていた。
「ゴメン、待たせた。迷惑かける……」
コーチをしている葛城はいつも体育館や部室の施錠を確認してから、帰るのを習慣にしていたので、部員の中で一番遅く更衣室を出てくる。
今日も女子更衣室の戸締まりに始まって、部室、体育館の施錠を確認して鍵を用務員室に返してから、駆けつけてきたのだろう。他の部員たちはとっくに帰ってしまっていた。
薄情にも、他の男子部員は誰もオレにつき合おうとか代わってやろうとは言ってくれなかった。妹の香奈だけが一緒に行ってもいいと言ってくれたが、あまり帰りが遅くなると母が心配する。やはり先に帰すことにしたので、葛城を送っていくのはオレ一人になってしまった。
「んじゃ、行くか」
オレが先に立って歩き始めると、その後ろを葛城がトボトボとついてくる。部活のときの勢いはまるでなかった。これでは囚人を連行しているみたいじゃないか。
「なぁ。結城って誰?」
重苦しい沈黙に耐えかねて、オレは葛城に呼びかけた。昼間の女性のことを聞くのは葛城の様子からはばかられる以上、オレの関心はもう一人の人物に向かった。
部活のときに見た葛城の喜びようから見ても、結城なる人物は葛城にとっては大切な人なのだろう。
自分のことをあまり語ろうとはしない葛城を喜ばせるような人物にちょっとした好奇心が湧いたこともあった。
「……わたしの主治医」
「へ?」
意外な答えにオレは思わず足を止めた。
「主治医? お前ってどっか悪いのか!?」
「大したことない。……薫さんは治るって言ってくれてるし」
そう言えば、初めのデモンストレーション以降、葛城はオレたちの前でプレイの見本を見せてくれることはなかった。コーチと言いつつも、やっていることは監督代理のように指示を出すことがほとんどだ。
どこが悪いのだろう?
そういえば、葛城ほどの実力があれば、女子バスケでかなりのレベルの学校に入れるはずだ。
彼女が西ノ宮高校のバスケ部コーチでいる不自然さを感じていたオレたちの疑問がこういった形で見えてくるとは思いもしなかった。
オレに追いついた葛城がチラリとオレに視線を向けたが、すぐに外すと先に立って歩き出した。
慌てて彼女を追うと、オレは並んで歩き始めた。
どこが悪い、とは葛城は敢えて口にしなかった。たぶん、言いたくないのだろう。自分のことを語るのが苦手なのかもしれない。
それ以上の追及がしにくい雰囲気に、オレは黙り込んだ。先ほど以上の気詰まりな空気が肩に重くのしかかってくる。
押しつぶされそうな沈黙を破ったのは、今度は葛城のほうだった。
「推薦のほう、どうなってる?」
初めは何を言われたか判らなかったが、それがオレの進路を言っていることに思い至り、オレは葛城の横顔をマジマジと見た。
今まで葛城は部員の進路のことなど口にしたことはなかった。
どう答えたらいいものか。迷っているオレを葛城がどう取ったのかは知らないが、オレにチラリと視線を向けた後、自分の言葉を補足するように続けた。
「昭島大のバスケ部から特待生で、ってことで話がきてるんだろ?……話は上手く進んでるのか?」
「うん……。進んでるって言えばいいのかどうか。条件付きだけど、まぁ、なんとか」
「条件?」
葛城が眉間にシワを寄せてオレを見た。
「あぁ、特待生の条件は……全国大会でベスト4に入るってことなんだ」
「ベスト4!? 随分と厳しいじゃないか。ようやく全国大会に行けるってレベルだった学校の部員にだす条件じゃないよ」
「今年は西ノ宮に期待してるってことだろ? 今のメンバーなら、狙えないこともないと思う」
確かにきつい条件だが、例年以上に秀逸な人材が揃っているのも事実だ。
葛城が口を歪めた。不機嫌そうに鼻を鳴らす。なぜだか、葛城は怒っている。オレの進路なのに、葛城が怒ってどうするんだ。
「今のままじゃ、絶対に無理だ」
ボソリともれた葛城の声は酷く掠れていた。
「え? なんで? 今までの練習試合を見ても、地区予選は楽勝だろうし……」
「全国は、そんなに甘くない」
険しい顔つきの葛城の横顔にはなんとなく焦りが見えた。
「コーチのお前がそんな悲観するなよ。オレにプレッシャーかけてもいいことないぞ」
オレの言葉に葛城はいっそう気難しい顔をした。
ふと、後ろから聞こえる音にオレは耳を澄ませた。
静かな音だったが、車が近づいてくる音がする。数年前からブームになっているソーラーカーの走行音だ。
あの車は近くにくるまで音が聞こえないから、気をつけていないと危ないのだ。
うっかり路地から飛び出した子供が正面衝突なんてことが最近のテレビニュースなどで流れている。
そのオレの視界一杯に光が溢れたのは、車との距離を確認しようとオレが振り返ったときだった。
「……うわっ!」
オレはあまりの眩しさに顔を覆った。ヘッドライトの光だとすぐに理解できたが、不自然さがオレのなかに疑問を投げかけた。
このソーラーカーはオレたちのすぐ後ろの距離に近づくまでヘッドライトをつけていなかったのだ。
辺りは暗くなっていて、ヘッドライト無しで走行するには危険すぎるはずだ。ライトを消していたのは、故意にやっていたとしか思えない。
「な、何が……」
目の前がチカチカして物がよく見えない。
車のドアが開く音が複数回した。
痛む目を懸命に開いてオレはヘッドライトのなかに立つ人物を見ようとした。だが、それは叶わなかった。
人の呼吸音がすぐ目の前でするが、目は一向に視力を取り戻さない。
なんの前触れもなく、鳩尾に激痛が走った。息ができない。
「やめて……!」
遠くに葛城の声が聞こえた。
「うるさいよ、桜華。ボクと一緒にくるんだよ。おい! そっちの奴も一緒に連れていけ」
葛城と争っているらしい男の声が、オレの腹を殴りつけた奴に指示を出す。再びオレの身体に激痛が走る。今度は後ろの首筋だ。
あまりの痛みに苦痛の声をあげることも出来ず、そのままオレの意識は闇に落ちた。