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「あんた莫迦じゃないの!?」
「薫。昔の映画で“莫迦、と言う人が莫迦なんです”ってセリフを言っていた主人公がいたぜ?」
容赦なく俺を罵倒する相手をかわして、俺は関係のない話題を持ち出した。こんなことで誤魔化せるとは思っていない。
脱ぎ捨ててあったジーパンを拾い上げる。
「いいえ。あんた本当に莫迦だわ! どうかしてるわよ! なんであんたがそんな場所にいくのよ。解ってるの!?」
ベッドの上に飛び起きると薫は俺の顔を見据えた。
「俺が行くのは内戦まっただ中の○○○○共和国だ」
「そんなこと訊いてない! ……日本へ帰りなさい。いいわね!?」
イライラとした命令口調がいつもの調子で少し苦笑する。この話し方はずっと変わらない。
「なんで?」
もっと怒らせたくなってわざと神経を逆なでしてみる。着替えのために動かしていた俺の手足がその一瞬だけ止まる。
「なんで、ですって!? あんたね! ご両親になんて言い訳する気よ。あなたがたの息子は戦争に行って、人を殺してきましたって言うつもりなの!? それに、私は医者よ! 戦争しに行くって聞いて、はいそうですかって言えると思うの!?」
案の定、薫は顔を上気させて詰め寄ってきた。着たばかりのシャツの胸元を捕まれる。
「言わなきゃバレないって。俺はフリーのカメラマンだぜ? 報道写真を撮りに行くって言って出てきたさ」
憤りに気を取られていて油断している彼女の唇を奪うと、俺はニヤリと笑った。
「……じゃあ、な」
毒気を抜かれてぼぅっとしている薫が我に返る前に、俺は玄関へと歩き出す。
ふと病院で会った女のことを思い出した。
伊部の死を手紙で知らせてくれたのは彼女だった。
手紙には伊部が俺に会えたことを殊の外喜んでいたこと、俺と会ったあと十日もしたころ容態が急変したこと、桜が見たいと言って医師が止めるのも聞かずに院内の庭に出て、そこで吐血して息絶えたことが書かれていた。
手紙の書面の所々に涙がにじんでいた。もしかしたら彼女は伊部のことが好きだったのかもしれない。
伊部のほうはどうだったのだろう。
人を信用できないと奴は言っていた。最期まで、誰にも心を許さなかったのだろうか?
ピエロのように顔には満面の笑みを湛え、相手には心の中まで覗かせないまま?
「こ、この……わからず屋! あんぽんたん! 莫迦野郎ぅ!」
背後から叫び声が聞こえてきた。
俺が玄関のドアを開ける音に、やっと我に返ったらしい。その声が涙声に聞こえたのは俺の中にまだ感傷が残っているからなのか。
俺はその声を無視して玄関のドアを閉めた。
友達以上、恋人未満。
今のこのアンバランスな関係になる前から俺と薫とのつきあいは続いている。
伊部が俺の前から姿を消してからすぐに彼女と出会った。俺一人が勝手に運命の出会いだったと思っている。
薫は俺が死んだら泣くだろう。だがその涙は友人としてか? それとも恋人としてか? ……たぶん彼女はそのときでさえ、どちらをも選べないだろう。
マンションから出て俺はタクシーを拾った。客を選ばず誰でも乗せるイエローキャブだ。
「”空港へやってくれ”」
俺が日本人だと解るとドライバーはチップをはずんで貰おうと、ニッカリと愛想笑いを浮かべた。
相手の笑みに同調する気になれず、俺は窓を薄く開け、シートに寄りかかると外の流れていく景色に視線を泳がせた。
卒業式は無事に終わった。俺たち六年生は教室で担任から最後の話を聞いて解散ということになっていた。
女子のなかには泣いている子もいたけど、ほとんどの奴はこのあとの春休みに気をとられていて、先生の話もろくに聞いていなかった。
退屈なだけの先生の話を我慢して聞いたあと、俺たち卒業生は思い思いに校舎の外へと飛び出していった。
余計な私物の持ち込みを禁止されていたけど、今日だけはみんなカメラを持ってきている。友達同士で撮りあうのだ。
「えぇ~、どうしてぇ。一緒に撮ってよぉ~」
「なんで? 伊部君、写真嫌いなの?」
女子にまとわりつかれていた伊部のいる方角から声が聞こえてきた。二人で写真を撮りあっていた俺と誠二は、その声のほうへ振り向いた。
伊部は校門近くの桜の木の下で、困ったような顔をしていた。
「写真は嫌いじゃないって。でも、時間がないんだ。もう準備しに帰らなくっちゃ!」
校門へと歩きだそうとする伊部を押し止めようとするように女子がそのまわりにまとわりついていた。どうやら伊部は土日のサーカスの開演のための準備があるらしい。
俺は恨めしそうに伊部を見上げる女子たちの外側から伊部に声をかけた。
「伊部。明日の準備間に合わないのか?」
伊部が俺の声に救われたようにこちらを見た。
「あ……うん。団員の人数はたいして多くないから、僕も手伝わなきゃいけないし。今日は早めに帰れるって言ってきたから、遅れると他の人に迷惑かかる」
カメラを持ったままそれでも伊部のまわりを離れようとしない女子たちにほとほと困っているようだ。
俺は辺りを見まわした。
折良く母さんが俺のほうへ近づいてくる姿が目に入った。
「お母さん!」
俺の声に何か感じたのか、母さんは早足で近寄ってきた。
「どしたの、和紀? 何かあった?」
俺は手短に伊部のことを説明すると広場まで車で乗せていってもらうよう頼み込んだ。
俺の家は学校から遠かったから、今日は近くの有料駐車場まで車で来ている。
母さんはチラリと伊部のほうへ視線を走らせると、軽くうなずいた。OKのサインだ。
「伊部! 俺ンところの車で送ってやる。約束の時間まであと何分だ?」
「え? そんな悪いよ。僕、走っていくから」
「だから、あと何分だよ!」
俺のイライラした声に伊部は渋々返事を返した。
「あと……十五分、くらい」
伊部の言葉に女子たちの間から驚きの声があがった。
「えぇ~! 全然間に合わないじゃん」
「広場まで車で十分以上かかるんだよぉ~」
「走っていっても間に合わないよ~」
伊部の言葉に母さんは校門へ向かって小走りに走り出していた。車を取りに行ったんだ。
俺は伊部のまわりを取り囲んでいる女子をかき分けると、伊部の腕を掴んで校門へと引っぱっていった。
「急げよ! 車なら間に合うだろ。約束、守るんだろ?」
いつもは俺より早く走る伊部がノロノロと俺の後ろを走っている。その後ろを誠二と女子がついてきていた。
「でも綿摘君。記念写真撮ってたんだろ? いいよ、僕走ってくよ」
「だから! 走っても間に合わないって言ってるだろ」
ごねている伊部を引きずるように校門の外へ引っぱりだすと、母さんの運転する車が門の前に横づけた。
「ワリィ、誠二。あとで取りに寄るから俺の荷物、お前ん家に置いといてくれ」
誠二の返事も待たずに俺は伊部を車に押し込むと、乱暴にドアを閉めた。
「ちょっと~、もう少し静かに閉めてよ。この車ポンコツなのよ」
「解ったってば。早く出してよ」
母さんはブツブツと文句を言いながらも、車を走らせ始めた。俺の記憶が辿れるくらい前から乗っている軽自動車は、エンジンをウンウン唸らせ、ステレオからはPOP音楽を流し、軽快に町の中心部に向けて疾走した。
「君はいつも自分に正直な男だったね」
突然の言葉に俺は戸惑いを隠せなかった。
「僕には出来ない芸当だったよ。人を信用しようとしなかった僕には、君のその正直さは羨ましい……いや、妬ましい強さだった」
「そんなこと、ない」
俺は精一杯の抵抗をしてみせた。
「そうかな? 今でもそれは変わらないみたいだけど?」
女子の人気を一身に集めていたのは伊部じゃないか。卒業までのたった三週間のあいだ、お前はクラスの関心を一身に集めていたんだ。男も女も誰もが伊部の行動に注目した。そういうカリスマが伊部にはあった。
「僕はピエロだった。サーカス団での仕事だけじゃなくて、実生活でもピエロを演じ続けていたんだ」
俺の目の前にいる今の伊部には……昔感じたカリスマはなかった。
「ゴメン、独りでベラベラしゃべって。気を悪くしたんなら、謝るよ。少し浮かれていた」
「いや、気にしてない」
俺はそれ以上どう言えばいいのか思いつかなかった。
彼がどうして俺なんかに会いたがったのか解らない。もしかしたら昔の知り合いなら誰でも良かったのかもしれない。
短い沈黙のあと、伊部は俺に人当たりの良さそうな笑顔を向けた。
広場までは車ならあっという間の距離だ。
伊部はサーカスのとんがり頭のテントが見えてくると、安堵のため息をはいた。やっぱり自分で言っている以上に時間を気にしていたんだ。
「ありがと、綿摘君。でも、君けっこうお節介だったんだ」
「なんだよ。人が困っているのを助けるのはお節介かよ」
伊部は話をする余裕が到着寸前になって出てきたらしい。緊張していた顔から力が抜けた。
広場の駐車場に車が滑り込むと、伊部は窓から顔を出して警備員に一言二言話しかけていた。
「すみません、このままテントの裏へつけてください」
窓から頭を引っ込めて、テントの右手を指さす。母さんは再びアクセルを踏み込むと、伊部の誘導でテントの陰へと車を移動させた。
「ありがとうございました。すみません。ここで待っててもらえますか? いま団長を呼んできます」
車が止まると、伊部はシートから飛び降りて俺や母さんの返事も待たずに、テントの中へと駆け込んで行った。
「あ~ぁ、行っちゃった」
母さんがハンドルにもたれかかったまま、ため息をはいた。
「俺、ちょっと見てくるよ」
大人の団員は忙しくて、伊部を送ってきた俺たちに挨拶するどころじゃないかもしれない。
車から降りてテントの入り口へと歩きかかると、伊部が飛び出してきた。
「綿摘君!」
伊部は息を切らしている。
「幸三、待ちなさい」
ジーパンにカッターシャツ、頭髪を覆う赤と黄のバンダナ。一見すると若いいでたちだけど、伊部を追ってきた大人の人はけっこうな年齢のおじさんだった。
「団長! こっち」
このおじさんが団長さんらしい。
「綿摘君とお母さんに送ってもらったんだ。ホラ、あの人!」
俺が車のほうを振り返ってみると、母さんは車から降りていた。
おじさんは車のほうへ歩み寄り、その大きな体を深々と前へ折った。
「うちの幸三が大変お世話になりました」
「いいえぇ~。和紀のお友達ですもの。当然です」
母さんは家では出さないよそ行きの声と笑顔で、団長さんと挨拶を始めた。長くならなきゃいいけど。
「おい、伊部!」
俺は隣で立っている伊部の脇腹を小突いた。
「なぁに?」
「あの人、お前のお父さん?」
団長は伊部とはあまり似ていないけど、今”うちの幸三”って言った。”うちの団員”って言わなかったから、もしかしたらと思った。
「え~? う~ん。お父さん、ねぇ。お父さんだけど、お父さんじゃないなぁ」
「はぁ?」
どういう意味か聞き返そうとしたところに、おじさんの声が聞こえてきた。
「幸三。こっちへおいで。お前もお礼を言いなさい」
それ以上のことを聞くこともできず、俺は伊部のあとを着いていき、母さんの隣に並んだ。
「ありがとうございました。助かりました」
良い子の顔をして、伊部が母さんに頭を下げた。元々、素直そうで、屈託のない性格の伊部は学校の先生からも受けがいい。
その良い子の顔が俺にはむかつく。今どき、六年生にもなってそんな素直な奴はいない。
良い子を望む大人には解らない。子供特有の敏感さで俺は伊部の良い子は作り物だと感づいていた。
初めは、その化けの皮を剥いでやろうかとも思ったけど、伊部には伊部なりの事情があるのかもしれないし、卒業間際の時期にそんなことでクラスのなかを掻き回すのも厭だったので、放っておいたのだ。
素直な子供は大人にとっては扱いやすい。母さんも無害そうな伊部を良い子だと思っているだろう。
伊部は、そんなふうに大人に思われなければならない生活をしているのだろうか?
俺は、ふとサーカスのテントを見上げた。
色鮮やかな旗を風になびかせているテントの屋根は、伊部を覆い尽くす見えない力でもあるのだろうか。人の良さそうな顔の下にある本当の伊部の顔はどんな顔なのだろう?
「君もサーカスを見に来るかい?」
テントを見上げている俺に団長が声をかけた。
「あ……はい。明後日、見に来ます」
「そうか。楽しみに待っていてくれよ。……じゃ、行くか、幸三」
団長は伊部の頭の上に手を軽く乗せると、二人して俺たちにお辞儀した。
それを合図に俺は車のドアをくぐった。母さんがセルをまわして、車のエンジンをかける。
「それじゃ、失礼します~」
母さんは最後に一言、挨拶するとアクセルを踏み込んで車の速度を上げた。
俺たちの車を見送る団長と伊部の姿は見る見るうちに小さくなっていき、広場の駐車場から出るとまったく見えなくなった。
遠ざかっていくサーカスのテントはコンクリートの町並みのなかでは、そこだけ時間に取り残されたような違和感があった。
「今日はありがとう。会えて嬉しかったよ」
やつれた顔に昔のような爽やかな笑顔を浮かべると、伊部は骨張った右手を俺に向けて差し出した。
遠慮がちにその手を握る。俺の右手には病人特有の熱っぽい湿った感触が残った。
俺は逃げるように病室を後にした。
病室の外は、入る前と変わらない静けさが広がっていた。先ほどの女性の姿もどこにも見あたらない。
俺は伊部を忘れていた。ようやく思い出した後でさえ、自分の時間をたった三週間だけの、たいして親しくもない級友のために割くことに腹立たしさを感じていたのだ。
その後ろめたさから逃れるように俺は振り返ることもせずに病院の門を出た。
しばらくの間、桜を見る度に伊部のやつれた顔を思い出して、俺は気分が滅入った。……俺があいつの死を知らされたのは、桜の季節が終わろうとしていた頃だった。
あいつと初めて会った年から十二年が経っていた。
ゾウの上に乗って登場した伊部に、女子が歓声をあげた。
伊部はピエロの格好をしていた。
顔にはピエロのメイクなど、なにも塗っていなかったけど、ブルーとピンクのストライプの衣装はまわりで踊っている大人のピエロたちと色違いなだけで同じ形だ。
日曜日、俺は誠二と兄貴と一緒にサーカスを見に広場までやってきていた。
「きゃ~! 伊部くぅ~ん」
伊部は気づいていないのか、それとも無視しているのか、ゾウの上で観客に手を振り続けている。
下で踊っているピエロがゾウ使いの女性とステップを踏みながらゾウを誘導して会場を一周させると、BGMの曲調が緊迫感のあるものに変わった。
ステージの中央に大きな玉が置いてある。
ゾウはその玉のまわりをグルグルと回り始めた。
ゾウの背中には伊部が乗ったままだ。
ゾウ使いの鞭が地面を打つと、ゾウはゆっくりと玉に前足をかけた。
さらに鞭の音が続くと、器用に後ろ足も玉に乗せ、ヨチヨチと玉乗りをする。ゾウの巨体は微妙なバランスを保ってステージ上を右へ左へと移動する。
ゾウの背中から口笛が響き、伊部が辺りの観客へ拍手を求めて戯けてみせると、歓声と拍手の嵐が起こった。
他にもスリリングな空中ブランコやアクロバットバイクの出し物が披露される。
その間を縫って、伊部たちピエロは観客を笑わせに会場のあちこちへと出没した。俺たちの側にも伊部はやってきて、わざと転んだり、バク転をしたりして観客の歓声を浴びていた。
ピエロを演じているときの伊部も普段と変わらない屈託のない笑顔を浮かべていた。それがいっそう普段の伊部を解らなくした。
地のままでピエロを演じていると言えば、それまでだが、俺には学校での伊部もピエロの伊部も、どちらも嘘をついているように見える。
俺は拍手を送りながら、伊部が一瞬でも本当の自分を見せないものかと目を凝らして、伊部を見続けた。
ショーがすべて終わると、観客は潮が引くようにテントからいなくなった。
女子のなかには伊部に会えないものかとテントの裏側へ回ろうとする奴もいたけど、関係者以外は立入禁止の立て札の前には警備員が頑張っていて、とても近づけそうもなかった。
俺は兄貴と誠二の二人と広場を囲むようにして並んでいる屋台を冷やかしながら見て歩いていた。
「あ~、いかん。ヤニがきれた」
兄貴が自分のポケットから取り出したタバコを覗いて、残念そうにつぶやいた。
「兄貴~。お母さんに見つかったら、大目玉だぜぇ? タバコなんか止めちゃいなよ~」
大学へ進んでから、兄貴はタバコを覚えていた。まだ二十歳前なのに。
「正紀さん。タバコって旨いの~? 臭いだけだと思うけど~?」
俺の言葉より誠二の言葉のほうが効いたらしい。兄貴はちょっと傷ついた顔をすると、俺たち二人を見下ろした。
「臭い? 俺、臭うか?」
「臭い! って言いたいけど、兄貴はコロンつけてるからあんまり臭わない。でもタバコ吸ってすぐには彼女とデートしないほうがいいと思うね。吸ったあとは臭いから」
最近になって兄貴には彼女ができたらしい。母さんや父さんには内緒で夜遅くまで、携帯電話で話している声が隣の部屋から聞こえてくるから、俺にはバレてる。
彼女ができるとそれなりに気を使うらしく、兄貴は今までつけたこともなかったユニセックスコロンを彼女とお揃いでつけている。これは俺の推論だけど。
「やっぱ、ガキには大人の味はわからんか」
「なんだよ、兄貴だってまだ二十歳前じゃんか!」
プリプリ怒っている俺の頭を軽く小突くと、兄貴はタバコ買ってくると言い残してコンビニへと歩いていった。
「タバコって大人の味かぁ?」
隣では誠二が首を傾げて兄貴の後ろ姿を見送っていた。
「んなワケねぇだろ! あれは屁理屈って言うんだよ、へ、り、く、つ!」
「そ~だよなぁ~。臭いもんは臭い。……あ、俺トイレ行ってくるわ。ここで待っててくれよ」
誠二は俺の返答も聞かずに広場の公衆トイレへと走っていってしまった。
俺は移動するわけにもいかず、近くの植え込みの縁に腰掛けた。
「あ~、綿摘君だぁ~!」
俺を呼ぶ声に振り向くと植え込みの向こう側から、伊部が手を振っていた。まわりに取り巻きの女子はいない。
「なんだ、伊部じゃねぇか。テントの後片づけとか手伝わないのか?」
「うん。昨日から連日公演になったろ? だから、明日の準備イコール今日の片付けだから、終わるの早いんだぁ~。それに公演の最中にも片付けはしてたんだよ、みんなと手分けして」
伊部は植え込みを乗り越えて俺の隣に座った。
「お前、こんなとこ女子に見つかったら身動き取れなくなるぞ」
俺の忠告は伊部にはどこ吹く風なのか、笑って聞き流されてしまった。
春祭りの会場は広場だけではないから、俺たちの座っている植え込みの一角などは人は少ないのだが、それでもまったく人が通らないわけではない。
学校でも女子にあれだけ取り囲まれているんだから、校外で会ったら大変なことになりそうなもんだけど。
「みんな楽しそうだねぇ」
道行く人をぼんやりと眺めていた伊部がぽつりと呟いた。
「え? あぁ、そうだな。春祭りは一ヶ月近く続くから、花見も兼ねて人出が多いからなぁ~」
「花見か~。僕は見飽きちゃったよ。毎年桜の開花を追いかけながらの公演なんだもん」
伊部はつまらなそうに足元の小石を蹴飛ばした。近くの下水のマンホールの蓋の上を小石は転がっていった。
「人はピエロのようだね」
「え? ピエロのよう?」
俺は伊部が言って意味が解らずにオウム返しに聞いた。
「うん。僕たちピエロはさ。どんな悲しいことや辛いことを抱えていても、公演のときは笑うんだ。お客さんたちを笑わせるために自分が笑って見せるんだ。人も同じだよ。春がきた、花見をしようって笑っている陰で、実は仕事に疲れていたり、家族や大事な人と喧嘩していたりする。滑稽だよ」
伊部はいつものように笑ってはいなかった。まるで別人の顔をしている。
あぁ、これが伊部の本当の顔か。退屈そうに行き交う人たちを見る冷めた目。
伊部は自分を取り巻く人々をこんな目線で見ていたんだ。
大人たちの理想の良い子を演じて見せる裏では、伊部はその大人たちさえも冷たい視線で捕らえていたんだ。
決して良い子ではない。大人に反抗してやろうと、精一杯突っ張っている俺たちと同じ目をして伊部はそこに座っていた。
俺はようやく伊部幸三という人間がはっきり見えた気がしてホッとした。
「お待たせ。……アレ? 伊部じゃん。お前、まずいぜ。すぐ近くを女子が彷徨いてるぞ。見つかったら大騒ぎだぜ?」
誠二が伊部を見つけると今来た道を振り返った。
「女子に鉢合わせたのか?」
俺が伊部に代わって聞いてみる。
「いるいる。まだトイレの辺りにいるよ」
少し背伸びをするように後ろを見ていた誠二が返事をする。随分と近くにいるじゃないか。
「あ~ぁ、散歩も終わりか。じゃ、僕行くよ」
伊部は砂を払って立ち上がるとトイレの方角にチラリと視線を走らせたあと、俺たちに悪戯っぽい笑みを見せた。
俺はふと気になって、走りだそうとする伊部に声をかけた。
「伊部。ここの祭りが終わったら、また桜を追いかけていくのか?」
伊部が何を当然のことを、いう顔つきで俺を見た。
「そうだよ。桜サーカスは春を追いかけていくサーカスだからね」
「じゃあ、春以外は? ……その他の季節はサーカスはやらないのか?」
「やってるよ。色んなテーマパークや祭りの出し物なんかで呼ばれてる。それがどうかした?」
何を聞いているのかといった風情で伊部が首を傾げた。
「お前、ずっとピエロやってるんだろ?」
頷く伊部の顔は相変わらず怪訝そうな表情を刻んだままだ。
「ピエロやる奴って頭がいい奴が多いって聞いたことある。お前、頭で考えすぎだよ。やりたいこと、やりたいようにやれよ!」
俺の言葉を伊部がどう受け取ったのかは知らない。
ただ俺の言葉に応えるように微笑んだ伊部の顔がなんだか泣きそうな顔に見えたのは俺だけだったのだろうか?
「そう、かもね……」
小さく答えた伊部の声をかき消すように女子の歓声が背中から聞こえた。
とうとう見つかってしまった。
その歓声に弾かれたように伊部が駆け出した。
「ありがと! さよなら、綿摘君、木羽君」
俺には去り際の伊部の声が少し震えて聞こえた。
五月の薫風が車内に流れ込んでくる。
二十分も車を走らせた頃、空港がその巨大な姿を前方に現した。
俺を死地へと運ぶ、白亜のゲート。
「泣くなよ。俺は帰ってくるから、さ」
もう彼女には聞こえない。だから、これは俺自身への約束。
生きて帰るための呪文。愛しい、求めて止まない女の元へ帰ってくるための……陳腐な言い訳。
タクシーを降り、空港の建物の扉をくぐる。
巨大な待合室の椅子の一つから背の高い黒人が立ち上がり、こちらに手を挙げるのが見えた。俺も合図を返す。
「Mr.ワタツミ?」
俺はたどたどしい日本語で話しかけてくる相手に右手を差し出した。
「“カズキでいい。あんたがマードックか?”」
「“OK、カズキ。俺がマードックだ。マードック・ラジュノバ。あんたとあっちでコンビを組むことになっている”」
その俺の右手を握り返しながら、マードックはニヤリと笑いかけてきた。
「“コロンの残り香がする。シュシュのミスティナイト。いい趣味の女だな。今生の別れは済ませたのか?”」
マードックの言葉に俺は口の端をつり上げて笑みを返した。傭兵として雇われる奴に、綺麗なしゃべりを期待するほうが愚かだ。
「“別れ? 抱きたくなりゃ、帰ってくるさ!”」
薫との関係を説明する気にもなれない。
俺の言葉にマードックは猛禽を思わせる顔に満足げな笑みを浮かべた。どうやら俺は気に入られたらしい。
俺はにわか仕立ての相棒の反応を確認すると、顎をしゃくって彼をゲートへと促した。
窓の外には日本の地方都市との姉妹都市提携のときに贈られたという桜の木が植えられている。とうに花は散り、薄い緑が枝を覆っていた。
俺はその桜の木に伊部の死に顔を見たような気がした。
ほんの一瞬咲き狂い、風任せに散り乱される薄紅色の花びらのような奴の人生。
(伊部。お前は俺に自分と同じ死の匂いを感じたのか? ……だとしたら、残念だな。俺は死なない。俺はお前とは違う)
桜のように咲き狂い、何かに飢えたように逝き急ぐ。
俺たちの生き方はどこか似ているのかもしれない。だが、違うのだ、伊部。
俺たちは同じじゃない。
お前は道化師。人に笑いと幸福を与える者。
俺は傭兵。金で雇われ、人に死と恐怖を与える者。
俺がお前でないように、お前は俺ではあり得ない。
お前は天国からでも俺の生き方を笑って見ているといい。殺戮でしか己の存在を示せない、俺の愚かな生き方を。
それでも俺は後悔だけはしないだろう。
そして、これからもきっと、桜を見るとお前とのやり取りを思い出す――。
“人はピエロのようだね”
傭兵と道化。
交わるはずもない俺とお前の生き方。
あいつは満開の桜の下で逝ったという。
では、俺の死は……?
いずれやってくる俺の死に様はいったいどんなものだろう?
望めるのなら、俺は愛しい女の腕のなかで……死にたい。
終わり
桜の咲く頃になると思い出す。
“人はピエロのようだね”
あいつは満開の桜の下で逝ったという。
女の荒い息が聞こえる。首筋に汗が光っているのが目に入った。
「和紀……。どうしたの? こっちに来てから変よ……」
女の問いかけを無視して俺はその艶っぽい声を出す口を自分の唇で封じた。
鼻腔の奥に香水の甘い香りが広がる。シュシュのミスティナイト。他の男から贈られたものだ。昔馴染みの、俺もよく知っている奴。
背中にまわされた腕に微かな力が込められるのが解った。指先が震えている。
離した唇からもれる押し殺した喘ぎに、俺は少しいらつく。
「声を出せよ、薫」
何度言ったか覚えてもいない言葉。素直に従おうとはしない女。
無益な抵抗を試みるように顔を背ける女を虐めたくなり、俺は女の両膝を肩に担ぎ上げた。
「いや! やめ……て……、あぁっ!」
女が身体を硬直させるのが解ったが、俺は彼女の懇願を聞き流した。
「ひぃっ……」
自分の手で口を覆う女の腕を無理矢理に引き剥がす。悲鳴に近い喘ぎ声をもらす女の耳元に俺は口を寄せた。
女の耳には俺が贈ったエメラルドのピアスが光っている。
「いい子だ……。そのまま、声を出せ」
女を蹂躙しながら、俺は数ヶ月前に会った男のことを思い出していた。
あいつと初めて会ったのは、まだガキの頃だった。
教室内が騒がしい。例の季節はずれの転校生のせいだ。卒業を間近に控えた三月初旬に転校なんてしてくるなよ。
一目でクラスの女子のアイドルになった人物はその女子たちに囲まれて得意げである。
「今日からこの六年B組で一緒に勉強する”インベユキミ”君です。彼は町内のふれあい広場にきているサーカスの団員です。このクラスで一緒に勉強できるのはあと三週間ほどしかないけど、皆さん仲良くしてくださいね」
担任のデブ川ぶた実こと出来川秀実が頬の肉を震わせながら紹介すると転校生はチョークで自分の名前を黒板に書き始めた。
「伊部幸三、と書きます。”コウゾウ”でなくて、”ユキミ”と読むから間違えないでね」
爽やか、という形容詞が似合いそうな美少年アイドル系の顔だ。絶対女子にモテそうな顔だな。
案の定、女子たちは拍手喝采している。俺は後ろにいる木羽誠二とこっそり顔を見合わせて、お互いに渋い顔をして見せた。
一時間目の終了直後から奴の机のまわりは群がる女子たちで溢れかえっている。
とばっちりは俺と誠二に降りかかっていた。
「おい! 邪魔だよ。そこは俺の席だぞ!」
伊部幸三は俺の前の席になっていた。
俺の席は窓際の最後部から二番目。このクラスは一列ごとに男女が入れ替わる配置になっているから、俺の右隣の列は全員女子だ。
伊部の席の前はすべて男子なのだが、配置上俺と誠二の席は教室の隅に追いやられる形になり、伊部の席に女子が群れる休憩時間に自分の席にいるのは不可能に近い。
「なによぉ~」
「やぁねぇ~。ちょっとくらい良いじゃない」
「だから男の子って乱暴で嫌いよ。あっ、伊部くんは別だからね!」
きゃいきゃいという擬音が聞こえてきそうな喧噪のなかでも、伊部の奴はニコニコと笑みを絶やさず、そういった所がまたアイドル系の仕草に似てむかついた。
「ダメだよ、美枝ちゃん。そんな言い方したら。ご免ね、彼女たちも悪気があって言ってるワケじゃないから。綿摘君、木羽君」
しゃべり方まで美少年アイドル気取りかい! むかつく。
「ゴメンって言うくらいなら、お前が休み時間は移動しろ!」
むかつきついでに、後先考えずに伊部に当たり散らす。
「さいて~!」
「やぁだぁ~、綿摘君って乱暴ぅ~」
「うるさいな! さっさと退けよ!」
ブーイングを受けながら俺は女子を押しのけて強引に自分の席についた。折良く二時間目のチャイムが鳴ったからだ。
「こぉら~! 席につけよぉ~」
二時間目は理科だ。教科担任の貝原綱雄がチャイムが鳴り終わる時間を計ったように教室に入ってくると、窓際にたむろしていた女子たちが慌てて散っていった。
「お~し! 全員いるな。さっそくだが今日の理科の授業は……外だ!」
本人は格好良く指さしたつもりらしいけど、全然様になっていない姿で校庭を指さす貝原先生は自分が嗤い者になっているとは、夢にも思っていないようだ。
「さぁ~! みんな先生についてこい!」
熱血先生を演じているらしい貝原先生の後ろにゾロゾロと従いながら、6-Bの児童は校庭の桜の下までやってきた。
退屈な先生の質問に俺たちが答える形式で授業は進んでいった。
「綿摘君、綿摘君」
後ろからの囁き声に俺はそっと振り返った。
無邪気そうな笑顔をした伊部と目が合った。さっきまで女子に囲まれて立っていたはずなのに、伊部はいつの間にか俺の背後に立っていた。
しかもなんて人の良さそうな顔をしているんだ。やっぱりこいつむかつく。
「ねぇ、この後は業間休みなんだよね? だったら、学校の中を案内してくれない? 僕、校内のこと全然知らないんだ」
屈託なく話しをする転校生に俺は露骨に厭そうな顔をして見せた。
「女子の誰かに頼めよ。俺は厭だね!」
「えぇ~。だって女の子に頼んだら、喧嘩になっちゃうじゃん。頼むよ。前の席のよしみってことでさ」
ヌケヌケとよく言うよ。喧嘩になるだぁ? そうだろうさ、お前のせいで喧嘩になるだろうよ。平穏無事だった6-Bにお前は波風を立てに来たようなものだからな。
「じゃ、頼むね~」
勝手に決めて伊部の奴は元いた位置へ戻って行った。
「ちょっと待てよ。誰もOKしてないだろ!」
「わ~た~つ~み~。先生の授業はそぉんなにつまらないかぁ~?」
こめかみに青筋を立てた貝原先生が俺の前に立っていた。俺だけのせいじゃないだろうに、手痛いゲンコツを喰らったのは俺一人だった。
「自分だけ都合良く逃げやがて」
俺の不平を聞き流しながら、伊部は学校中を彷徨って俺を引きずり回した。
「ねぇ、ここは?」
なんの目的もなしに歩き回っているとしか思えない伊部の後を歩きながら、俺は彼の指さす方向を見た。
4階。最上階の一番端にある使用していない教室だ。
「使ってねぇよ、ここは。子供の数が減ったから空いてるんだ」
伊部につき合わされて俺は渋々ついてきていたが、それでも案内をサボったわけではなかった。
六年間も通った学校だ。俺が知らない所なんかない。職員室ではどの先生がどの机を使っているかも、校長室にはどんなトロフィーが置かれていて、体育用具室には何が詰まっているかも、職員トイレの故障している場所だって知っている。
「もうだいたいは見ただろ? 業間休みだけで学校中を見回れるわけないんだから、教室に帰るぞ」
休み時間は残り五分を切っている。
次の授業は国語。担任のデブ川の授業だ。遅れたら、あの暑苦しい顔で迫られるんだ。冗談じゃないぞ。
「わかった。じゃ、昼休みも頼むね」
またしても勝手に俺の予定を決めると、伊部は俺を軽々と追い越して6-Bの教室へと滑り込んでいった。
芽吹いたばかりの桜のつぼみが窓の下に見える。
無機質な白いドアの脇に病室ナンバーだけが貼られていた。ナースセンターで確認した番号に間違いない。最近は病人のプライバシーとかで、当人の名前を出している病棟はないから当然だろう。
病室のドアを開けると、中から出ようとしていた女性とぶつかりそうになり驚く。相手も俺に驚いた様子だ。
「あの……?」
戸惑う女の後ろ、衝立の奥から声が届いた。
「だれ?」
若い男の声だ。
「綿摘和紀だ。伊部か?」
女性の顔がパッと輝くのが解った。俺に頭を下げると衝立の向こうへと俺の体を押しやる。
「やあ! 綿摘君。本当に来てくれたんだ」
伊部はよろよろと起き上がった。
白いベッドに身を起こした姿のあまりの弱々しさに俺は目を背けた。
「伊部。お前はあのサーカス団で働いているものだと思っていた」
「そうだね。ずっとピエロのままでいられたら良かった。でも桜前線と一緒に旅したサーカスはもうないんだ」
返答に窮して俺は黙ったままだった。
結果から言えば、俺は昼休みは伊部から解放された。
業間休みに放っておかれた女子たちが、我先にと奴を案内しに出てきたからだ。最初から女子に任せておけば良かったんだ。
その後も伊部は女子にまとわりつかれていたが、気にする様子も見せず、全授業が終わると広場の仮設してある自宅へと飛ぶように帰っていった。
俺は下校するときに校門のところで奴に追い抜かれた。
「バイバーイ! 綿摘君、また明日ねぇ~」
後ろを振り返って俺に手を振る伊部の顔は本当に屈託がなく、無邪気に見えた。
「おぉ~い。かずきぃ~!」
校門を出てすぐに誠二の声が追いかけてきた。
俺は立ち止まって、誠二が追いつくのを待つ。背負ったランドセルをガタガタいわせて、誠二は俺に追いつくと、「悪い悪い」と俺に向かって両手を合わせた。
「おせぇよ。職員室に当番日誌届けるだけなのに、何分かかってんだよ」
誠二は俺の不平にもう一度謝ってから、ポケットから数枚の紙切れを出した。なんだかカラフルな紙だ。
「これだよ、これ! このチケット貰ってたら遅くなっちまって」
ポケットの中で少しシワのよった紙にはこう書かれていた。
『春祭り 桜サーカス入場券』
「桜サーカス? もしかして、ふれあい広場のサーカスのか?」
「うん。伊部幸三が置いてったのさ。再来週の日曜日の招待分らしいよ。見に行かねぇ? タダだし」
こいつ。無料につられたな。
俺は家が少し遠いこともあり、早足で歩きながら誠二の顔を見た。
「お前、ゲームソフトばっか買ってるから金がねぇんだぞ」
こいつは暇さえあれば、ややこしいゲームをやっている。俺なんか分厚い攻略本を見なけりゃクリアできそうもないようなヤツだ。
「それとこれとは関係ないだろ~。お前行きたくないわけ?」
「行かねぇなんて言ってないだろ」
俺は誠二の手からチケットをむしり取るともう一度その紙面を眺めた。
「兄貴も誘うかな……」
去年から下宿しながら大学に通っている七つ違いの兄を思い出して、つぶやいた俺の一言に誠二が噴きだした。
「出たな、ブラコン」
「なんだよ、兄貴誘っちゃ悪いかよ!」
低学年のころはお前だって俺の兄貴に懐いてただろうが。
「やだねぇ~、兄貴兄貴って。もうすぐ中学生だぜ? いつまで兄貴にくっついてるのさ、和紀ちゃん。兄貴の真似ばっかしてるから、爺くさいんだよ、お前」
「き~ば~せ~じぃ~。お前、ゆってはならんことを~」
俺を冷やかして走っていく誠二を追いかけて俺は猛然とダッシュした。
「ゆるさぁ~ん! 待たんか、せいじぃ~!」
翌日以降も伊部のまわりは女子が群れていた。飽きないのかねぇ。
でも徐々にその光景に馴れてきた俺たちは、教室に転校生がいることの違和感を感じなくなっていた。
卒業間近で六年生は授業らしい授業が少なくなっていて、卒業式の練習だとかお別れ会の準備だとか、お祭り気分のほうが強くて日常が非日常に化けていたのもそれに拍車をかけていた。
みんな伊部がサーカスの団員だと知ってはいたが、奴がその話題になると巧みに話をそらすので、いつの間にか誰もその話題を口にしなくなっていた。自分が特別な者を見るような目で見られることが嫌いだったのかもしれない。
春休み前なので、サーカスの開演は土日だけだったし、卒業式が間近に控えていた俺たちは式の前にサーカスを見に行くような気分ではなかったことも話題を控えた一因だ。
それでも誰も決して伊部を嫌ったり、除け者にはしなかった。あいつは誰とでも気さくに口をきいた。
あいつのことを嫌ってはいないが、うっとうしいとは思っていた俺にさえ、他の人間と変わらない口調でつき合っていた。
クラスの奴は皆示し合わせたように卒業式の翌々日の日曜日。あの招待券の日にサーカスを見に行くと言い合っていた。俺も誠二と兄貴と一緒に行くことにしている。
「やっぱり兄貴も呼んだのかよぉ」
誠二の奴はニヤニヤしながら俺を冷やかしたが、俺は真面目に取り合わないことにした。
「綿摘君の撮った写真見たよ。ホラ!」
彼の手には一週間ほど前に発行された報道雑誌が握られていた。確かこの雑誌の担当者からの依頼で渡した写真は中央アジアの、とある国の地方都市の風景だったはずだ。
「懐かしい風景だった。……って言っても、僕は覚えてたわけじゃないんだ。僕の母親から聞かされていた風景、母の故郷の風景だった。カメラマンの名前を見たときは同姓同名かと思ったんだよ」
立ったままの俺を枕元の椅子に腰掛けるよう促すと、伊部は自分のまわりにクッションを何枚か重ねて、その中に身体を沈めた。
「雑誌社に電話をかけてきた声は女の声だったらしいけど、さっきの人か?」
俺が病室に入ったときにいた若い女の顔を思い出した。
「そう。彼女に話したらさ、勝手に電話しちゃって……。雑誌社の人たち、ビックリしたろう?」
「別に。電話の問い合わせなんていくらでもあるって言ってた」
雑誌を刊行していれば、色んな電話がかかってくるだろう。依頼、打ち合わせ、苦情、問い合わせ……。数え切れないくらいに。
「へ~ぇ。でも迷惑かけちゃったね。僕が会ってみたいなんて言い出したばっかりに。彼女、ボランティアでここの病院に出入りしてるんだけど、ちょっとお節介なとこあるから。でも君が会いに来てくれて嬉しいよ」
無邪気に笑う伊部の表情に俺は罪悪感を感じた。
俺は忘れていた。雑誌の担当者から連絡を受けるまで、伊部の名前などすっかり忘れ去っていた。
「母親の故郷って言ったな? お前の母親って外国人だったのか?」
他の話題が思いつかず、俺は伊部の言葉尻に乗って話を振った。
「うん。僕と母はね、中央アジアの故郷の内乱を逃れて、父親の故郷である日本に亡命してきたんだ。僕はまだ三つにもなっていなかったはずだよ」
俺の様子など気にもせずに伊部が話し始めた。
俺はただ黙って聞いていることくらいしかできない。
「でも着の身着のままで転がり込んだ日本の親類の家で、僕たちは厄介者だったよ。父は会社からの出向命令で母の故郷へ来ていたんだ。反対されていたんだよ、母との結婚は……」
そんな話は聞いたことがなかった。俺や俺の同級生が知っている伊部は、人当たりが良くて女子に人気の美少年……。ただそれだけだった。
「内乱に巻き込まれて父が亡くなったことを知ると親類は母と僕を放り出した。行くあてもない母は、幼い僕を抱えて途方にくれたことだろう」
淡々と語る横顔には、怒りも悲しみもなかった。ただ事実を無心に伝えるだけ。
「そんなときだった。町にサーカスがやってきた。……母はね、故郷で雑技団の団員だったんだ。団長に会いにいって、必死に自分を売り込んだらしいよ。片言の日本語で。」
「……」
なにも言わない俺の反応など気にしていないのか、伊部は話を続けた。
「母は疲れていたんだろうね。馴れない異国での暮らし、馴染めない異国の言葉。サーカスの団員になってから一年もしたころ、母は覚えたての空中ブランコの練習中に足を滑らせ、頭を打って死んだ。命綱もネットも張らずに一人で練習していたらしい。見つけたときには手遅れだった」
俺はホッとため息をもらした伊部の横顔を盗み見た。少し疲れたような表情だ。
卒業式の日がやってきた。
今日は母さんも一緒に登校するのだ。朝から準備に余念がない母さんは香水の匂いをプンプンさせて、信じられないくらい濃く見える化粧をしている。
「お母さん、化粧濃いよ」
ドレッサーを覗き込むその後ろ姿を見ながら俺が忠告したが、母さんは上の空で聞いちゃいなかった。
「ふあぁ~……。お。和紀、もう支度できたのか?」
三日前から帰省している兄貴がやっと起きてきた。
「兄貴遅いよ。みんな朝御飯食べちゃったぞ。ねぇ! お母さん。早くしてよ。卒業式に遅刻なんて格好悪いよ」
「はいはい、終わったわよ。正紀、ご飯ラップかけて適当に暖めてね」
化粧で大変身した母さんは兄貴に朝食を指し示すと、俺の手を引いて玄関へと急いだ。
「もう! 子供じゃないんだから、手なんか引かないでよ」
慌ただしく家を出ると俺と母さんは学校へと急いだ。
予鈴が鳴るギリギリの時間に到着すると、母さんは式場になっている体育館の受付へ、俺は6-Bの教室へと向かった。
教室はいつも以上にざわついていて落ち着かない。
「はぁ~い。みんな、おはよう。全員、揃ったわね? じゃ、体育館へ移動しますよぉ~。教室の外に整列してくださ~い」
デブ川……出来川先生がはち切れそうなスーツ姿で現れた。
俺は落ち着く間もなく席を立つと教室の外へと向かった。その途中で伊部に追いつく。
伊部はみんなより少し離れた場所に立っていた。
「……ピエロだ」
伊部のつぶやき声に俺は奴の顔を盗み見た。
笑みを絶やさない伊部の顔が少し引きつって見えた。ピエロ? 誰が? 何を見ているんだろう?
「おい、伊部。早く並べよ!」
俺は伊部に声をかけてみた。奴は我に返ったような顔をして、クラスの連中のなかに混じっていった。
俺は最後尾から辺りを見まわしてみた。だけどピエロのように見える奴など誰もいなかった。
「伊部、疲れたんなら……」
「大丈夫。今日はいつもより気分がいいんだ。それより綿摘君、喉乾かない?」
相変わらずの様子で伊部は俺の顔を覗き込んだ。
「あ……いや。少し……乾いた、かな」
俺じゃない、きっと伊部自身が喉が乾いているのだ。
「じゃあ、そこの冷蔵庫から適当なもの出してよ。あ……僕は飲みかけのミネラルウォーターがあるから、それでいい」
俺は言われるまま冷蔵庫の中を物色して、伊部のミネラルウォーターと自分用にコーヒーを取り出した。
「サンキュ~。悪いね、お客さんを使っちゃって」
冷えたボトルを受け取ると伊部は昔ながらの明るい笑い声を上げた。
曖昧な返答をする俺を横目に伊部は美味そうにミネラルウォーターを口に含んだ。
「母が死んだとき僕は小学校に入ったばかりの歳だった。」
喉を潤すと伊部は話の続きを始めた。
それはまるで死に急ぐ人間が自分の生きた証を何かに残そうとするように、誰かに刻みつけておこうとするように見えた。
「母が亡くなってから、父方の祖母だという人が僕を引き取りに来た。でも団長は僕を渡さなかった。母は自分に万が一のことがあったときのために僕を団長の養子にしておいてくれたからさ。祖母は団長を罵り、僕をなだめすかして連れ帰ろうとしたよ。でも、僕は行かなかった」
伊部は唇の端をつり上げた。彼らしくない、歪んだ笑い。
「何故だと思う?」
「父親の親類を恨んでた?」
適当な見当をつけて答える俺に伊部は意味ありげな微笑みを向けた。
「そう、当たりだ。僕は日本人が憎かった。僕の中に流れている父の血も含めて!」
言葉などなにも浮かばなかった。
伊部は人当たりの良い人格を演じている自分のなかの、隠していた暗い部分を俺に見せて何を言おうとしているのか。
「君の写真を見て思ったんだ。あの写真は懐かしさを感じた。でもそれだけだった。僕にはなんの感慨も浮かばなかったんだ。あそこは僕の故郷だと思っていた。でも……皮肉なもんだね。僕の故郷はいつの間にか、この日本になっていたんだ。憎んで、嫌って、軽蔑していたはずの国が……僕の故郷に」
俺には返してやる言葉がまったく思いつかないままだった。
「疲れちゃったんだよ、僕も母親のように。どんなに馴染もうとしてもこの国は僕を拒絶する」
「伊部……」
顔に浮かべた皮肉っぽい笑みはいったい誰に向けたものなのか。
「もう! タバコはやめてって、いつも言ってるでしょ。臭いじゃない! それに身体にいいわけないんだから」
俺が床に転がったシガーケースの中からタバコを一本取り出して口にくわえると、女はすかさずそれを取りあげた。
ここで取りあげられたタバコを奪還しようなどと、考えて実行すると、手酷いスパンクが飛んでくる。この女の城では、そういった些細な抵抗でも数十倍にして返されるのだ。
「大人しいのはベッドの中だけだ」
俺の独り言に女の目がとんがる。
「なんですって!?」
「なんでもねぇよ。この紅茶もらうぞ」
女が飲み残していた冷めた紅茶を一口だけ口に含む。自慢の紅茶もこう冷めると渋みがきつい。
「私にも頂戴。喉がカラカラ」
俺は女の伸ばした手にマグカップを握らせるとベッドから立ち上がって窓のスクリーンカーテンをそっとずらした。
まだホワイトカラーたちの出勤時間ではないのか、マンションの下の道の人影はまばらだ。
「日本で何があったのよ。あんた、今日はおかしいわよ」
長年のつきあいでお互いの行動パターンの多くは理解されている。だが、今回の些細な気落ちは自分でも説明できるものではなかった。
「……自分でもよく解らん。少し苛ついてるかもな。昔の知り合いに会っただけだ」
下手に隠すとしつこく詮索されてうっとうしい。簡単な説明だけはしておく。
「ふぅ~ん?」
それ以上の詮索に興味を失ったのか、それとも俺自身が感じてもいない何かを感じ取ったのか、女はその話題をそれで終わりにした。
「それで? これからの予定は?」
ベッドの上で足をパタパタと動かしながら女が俺を見上げた。まるで猫を見ているようだ。
気まぐれで高慢で、気位が高い。そっくりと言えばそっくりだ。
「十一時発のフライトだ。朝食は空港で摂るからいいよ。シャワー、借りるぜ?」
「どうぞ、ご自由に。私は今日は非番。見送りにはいかないからね」
元々、見送りにくるとは思っていない。
浴室へ向かう俺の背後から声がかかった。
「ちょっと~。裸で部屋のなか歩きまわらないでよ。バスローブ使ってよね」
「タオル巻いてるだろ? 第一、今さら何を照れて……」
俺は最後まで言い切ることができなかった。女のお気に入りだという大きな羽根枕が二つ、立て続けに飛んできたからだ。
やっぱり、この城で女に逆らうのは賢明なことではなさそうだ。
もう五年以上も異国で生活している女にとって、外の世界でならともかく、この部屋で思い通りにならないことは許し難いことらしい。
彼女なら、自分のほうを向こうとしない太陽を無理矢理に自分へ向けるくらいの傲慢さを持っていても不思議には思わない。