石獣庭園 -Wing on the Wind-

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後日譚

No. 85 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第15章:誘拐

「ちょっと見ただけだと微笑ましい図だけどな。あぁいうのから夫婦の亀裂は入るんだぜ?」
 回廊を並んで歩きながら、シーディが楽しげに声をあげた。隣りを歩くウラートは僅かに目をすがめただけで、相手の話を無視している。
「あのガキ、九歳だよな? ってことは、お偉い王子様の奥方様と五つか六つしか違わないわけだ。十年後には、ドロドロの愛憎劇に発展しそうだなぁ」
 ケタケタと笑いながら洒落にならない話題を話すシーディに、ウラートは険悪な視線を向けた。射抜くような視線だったが、当のシーディはまったくこたえていないようだ。
「シーディ。それ以上、不埒なことをしゃべり続けるのなら、私があなたの舌を引っこ抜いて差し上げますよ」
 言っていい冗談と悪い冗談がある。今、シーディが語る未来の可能性は、不愉快なことこの上ない話題だった。
「おやおや。王子様の忠臣は随分と奥方を信用していらっしゃる。……それとも何か? あの美人の奥方を狙ってるのは、ガキじゃなくってお前のほうか?」
「いい加減にしろ! リュ・リーン殿下を侮辱するつもりか!?」
 姿形はリュ・リーンとよく似ているが、シーディの言葉には毒が含まれていることが多い。態度は我が侭ではあるが、根は素直なリュ・リーンとは対照的だった。
「未来を一つご提案申し上げただけだろ。オレの言い種が腹立たしいなら、オレが言っている未来が起こらないと証明してみろよ」
「未来の可能性の問題を言っているのではありません。殿下が決めたことにいちいち口を出すなと言っているのです!」
「ケッ! 良い子ぶるんじゃねぇや。浮き名の一つも流さないで、年下の野郎の尻ばっかり追っかけているくせしやがって」
 ウラートは一瞬、怒りで目の前が赤く染まった気がした。
 なぜ彼はこんなにも人を傷つけるようなことばかり言うのだろう。こんな男はサッサと追い出したほうがいいのに、肝心のリュ・リーンはこの傍若無人な男を好き勝手にさせている。納得がいかないとはこのことだ。
 相手に殴りかかりそうなのをなんとか踏みとどまり、ウラートはシーディに背を向けて歩き始めた。今は彼と一緒の空気を吸っていることにすら耐えられそうもない。
 ところが、そんなウラートの内心を無視して、シーディは口笛を吹きながら後ろに従ってきた。今度は何もしゃべらないが、ウラートが行くところすべて貼りついてくる。
「どうしてついてくるんですか! 自分の仕事に戻りなさい」
「オレの今日の仕事は終わったぜ。残りはどこにいようが勝手だろ」
「他の人の手伝いでもしてきたらどうです! 暇を持て余すよりマシでしょうに!」
 尊大な態度で肩をすくめるシーディを、ウラートは怒鳴りつけた。苛立ちを抑えるのも限界に近い。
「手伝うと皆、厭~な顔をするんだよな。オレがいないほうが平穏らしいぜ」
「私だってあなたがいないほうが平穏ですよ。鬱陶しいから、ついてこないでください」
 ウラートは腹を立て、サッサと歩き始めるが、またしてもシーディは彼の背後に付き従っていた。嫌味のためにやっているとしか思えない。
 完全に無視を決め込むと、ウラートはシーディを視界の中に入れないように仕事をこなした。話しかけてこなければ、相手の態度は気になりはしない。
 無心に仕事を片付けていくうちに、いつの間にかシーディの姿が見えなくなった。彼がいないと異様に静かに感じるのは気のせいだろうか。
 ようやく相手が諦めてくれたことで、ウラートは胸を撫で下ろした。これで自分の持ち場は平穏だ。
 しかし、ウラートの願う平穏は長くは続かなかった。同僚の一人がバタバタと慌ただしく駆け寄ってくると、引きつった表情で耳打ちしてくる。
「なに!? 王子への面会の許可も求めずに、ギイ伯がここに来ているだと? なんという非常識な!」
 ウラートは同僚と共に侵入者がいるという現場へ向かった。無表情を取り繕ってみるものの、どうしても苦々しい想いがこみ上げてくる。
 ギイ伯シロンはリュ・リーンの義兄の中でも、もっとも油断のならない相手だった。そんな御仁が王子の使う棟に無断で入り込んでいるなど言語道断だ。即刻、お引き取り願わねばならない。
 どれほども歩かないうちに、ウラートの前に痩せぎすで陰湿な眼をした男とその取り巻きが現れた。ギイ伯シロン。リュ・リーンの長姉の夫で、氷のように冷たい態度の男だ。
「退け。お前に用などない」
 命じるのが当たり前といった口調で、シロンがウラートをジロリと睨む。それに負けじと、ウラートも冷たい視線を相手に突きつけた。
「面会の許可をお取りください、シロン卿。殿下のお住まいに勝手に入るとは、無礼ではありませんか」
「許可だと? 兄が弟に逢いにいくのに許可などいるまい。……それから、私のことを卿付けで呼ぶのではない。お前のような下賤な輩が私を呼ぶときはな、様付けで呼ぶものなのだよ」
 ギイ伯の取り巻きが成り行きにクスクスと笑い声をあげた。粘質な笑いが、ウラートの背筋に悪寒を走らせる。
 ギイ伯たちの様子にもウラートは努めて無表情を保っていた。が、一緒についてきた同僚たちの顔色は青ざめている。
 ウラートが奴隷商から買い上げられ、王子に仕えるようになったことは有名だ。それをわざわざ、あからさまに揶揄すると、リュ・リーンは怒り狂って手がつけられなくなる。
 ギイ伯はそれを充分に承知した上でウラートを貶めているのだ。リュ・リーンの兄である自分が罰せられるはずがない、と。
「では言い直しましょう。シロン様、リュ・リーン殿下への面会の許可をお求めください。許可が下りるまでは、ここをお通しするわけには参りません」
 顔色一つ変えずに、ウラートはギイ伯の瞳を凝視した。ここで少しでも怯んでしまえば、相手はそこにどんどんつけ込んでくる。
 何をしにきたのか知らないが、この人物を聖地の姫とドワティスの二人と共にくつろいでいるリュ・リーンの元へ向かわせるわけにはいかなかった。
「お前が私を留めだてる権利などないと言っている。サッサと退け。性奴(スィーヴ)ごときが私に意見するなど目障りだ」
「そうそう。お前は夜伽でもして、主人に媚びでも売ってればいいのさ」
 ギイ伯の後ろから嘲りの声が上がった。それに同調するように他の男の口からも嗤い声が漏れる。
「生憎とリュ・リーン殿下はお忙しい身です。面会の許可をお求めになっていらっしゃらないのでしたら、どうぞお引き取りください」
「黙れ! 私に指図するな!」
 眉をつり上げ、ギイ伯がウラートを怒鳴りつけた。それでもウラートは無表情なまま、目の前の男の瞳を睨みつけている。どれほど嘲弄しようと頑としてその場に立ちはだかるウラートに、ギイ伯は苛立ち始めていた。
「これは指図ではありません。お願い申し上げているのです。面会の許可をお取りください、ギイ伯爵」
「虫けらの分際で……よくも!」
 ギイ伯が拳を振り上げ、それをウラートの左頬に容赦なく振り下ろした。鈍い音がして、ウラートの頬が赤く染まる。
 力任せに奮われた暴力に、ウラートの上体は僅かに傾いだ。が、倒れ込むことはなく、自分を殴りつけた男に冷たい視線を向ける。
「生意気な! なんだその目は!」
「お前、シロン様に逆らって無事で済むと思ってるのか?」
「お引き取りください。許可のない方を、これ以上奥にお通しするわけには参りません」
「黙れ! よくも私にそのような口を利いたな!」
 同じ言葉を繰り返すウラートの態度にギイ伯が逆上した。彼のこれまでの人生、思い通りにならなかったことなどほとんどない。奴隷上がりの侍従ごときに、自分の行動が規制されたことが気に入らないらしい。
 再びウラートを殴りつけようとギイ伯の腕が伸ばされた。ウラートはそれを避けることなく、じっと佇んだままだ。周囲の者たちは、ある者は息を飲み、ある者は嘲りながらその様子を見守っている。
「うるせぇっ! 静かにしろ!」
 高まっていた緊張感を突き破る怒鳴り声が廊下に響き渡った。その声にギョッとして、ギイ伯とその取り巻きたちが声がした方角を振り返る。
 そこに立っていた者を見つけ、さらに狼狽えたように互いに顔を見合わせた。が、ギイ伯はすぐに何かに思い至ったのか、再び尊大な態度で声の主を睨みつける。
「お前だな、オフィディアで飼い殺しになっているランカーンから贈られたという傭兵崩れは」
「それがなんだって言うんだ。この棟の中でギャーギャー騒ぐんじゃねぇよ」
 ギイ伯に向かって投げつけられたシーディの言葉に、ウラートは渋面を作った。この男はどんな相手であっても、まったく態度を改めようとしない。リュ・リーンの立場を考えれば、目の前にいる男にそんな口を利くことはできないのに。
 案の定、ギイ伯はシーディの突っ張った口調にあからさまな不快感を示した。
「王子の側仕えの者はどいつもこいつも教養のない者ばかりだな。お可哀想なことだ。……まぁ、仕方がないか。あの容色では、誰も仕えたがらないだろうしな」
「……ギイ伯爵。今の言葉を訂正してください」
 ウラートの声が殺気立った。夜明け寸前の空色をした彼の瞳が、憎悪をたぎらせてギイ伯を射抜いている。
「なぜ訂正せねばならん? 本当のことではないか」
 ギリリとウラートが歯を噛み締めた。握りしめた両手が怒りに震える。
「あぁ、訂正することはねぇな。好きなだけ言えばいい」
 飄々とした足取りでシーディが近づいてきた。周囲にいる侍従たちが困惑した顔つきでシーディとギイ伯とを見比べる。
「ほぅ。王子の容姿のことを言うということは、お前のことを言われているようなものだが?」
「どうってことねぇな。自分の面なんざ、どうでもいい。……で? 王子様の悪口は終わりかよ、トウヘンボク」
「なっ! お前、私を誰だと……」
「知らねぇよ、てめぇなんか。オレが判っていることは、てめぇが気に入らねぇってことだけだ」
 ウラートのすぐ脇まで辿り着くと、シーディは目の前のギイ伯の青白い顔を睨んだ。シーディは多くの人に怖れられているリュ・リーンに似ているのだ。睨みつける瞳の迫力に差こそあれ、ギイ伯たちはゾッとしたように後ずさった。
「わ、私は王子の義兄だぞ! お前のような下司な輩が……」
「目障りだ。消えろ! 今すぐに、だ」
「シ……シーディ! やめなさい!」
 二人の会話にウラートが割り込んだが、シーディはそんなウラートを背後に押しやり、冷笑を口元に浮かべてギイ伯を嘲る。
「てめぇが誰かなんてこたぁ、オレには関係ない。気に入らない奴は叩きのめすだけだ。……さぁ、誰からがいい?」
「お前、そんな口を利いて後でどうなるか判っているのだろうな!?」
「どうなるか、だと? どうもしないさ。オレが相手にしているのは、王子の許可もなく館に入り込んでいる不法侵入者だ。てめぇが誰かなんてことは関係ねぇんだよ。最近、血を見てねぇんでな。オレの愛剣が血を吸いたがってんだよ」
 スラリと腰に挟んでいた剣を抜き放つと、シーディはギイ伯の首筋に白刃をあてがった。楽しげに、しかし冷たく笑う若者に、ギイ伯は恐怖に青ざめた表情を向ける。
 ギイ伯の取り巻きたちもどうしていいのか判らず二人を見守るばかりだ。
「さぁ、どこを刻んで欲しい? 耳か? それとも鼻か?」
 怯えて後ずさるギイ伯にシーディがにじり寄っていった。獲物を追い詰める狩人のようだ。いや、あるいは捕らえた獲物を弄ぶ肉食獣か。
 いや増しに増す緊張感に、ウラートは唾を飲んだ。このままではまずい。しかし、下手な声のかけ方をすると、シーディの剣はギイ伯の喉笛をアッサリと切り裂きそうだ。
「おや? 物騒なところに行き会ってしまいましたね」
 緊迫した空気を突き破ったのはギイ伯たちがやってきた廊下の奥からだった。その場に居合わせた者全員が暢気な声を上げる人物へと視線を向ける。
 オフィディア伯サイモスがゆったりとした足取りで近づいてくるところだった。脇には何かの包みを抱えている。
「剣の稽古ですか? シロン卿、稽古をされるなら中庭をお借りしてやってもらいたいですね。狭い廊下でやられては、他の方に迷惑ですから。……あぁ、ウラート。リュ・リーン殿下に取り次いでもらえるかな。入り口で声をかけたのだけどね、誰もいなかったから勝手に入ってきてしまったよ」
 口調はのんびりとしていたが、オフィディア伯がギイ伯を見る目つきは氷のように冷たかった。
「サイモス……! 貴様、私を差し置いて……」
「おやおや。あなた、通せんぼされていたんですか? それはそれは。ここの館のご主人は気難しい方なのは、ご存知でしょう? 勝手に踏み込んできて、手痛いしっぺ返しを喰らったからって、怒るのはお門違いではありませんか? 私はちゃんと用があって出向いているんですよ、あなたと違ってね」
 鼻先で嗤うと、オフィディア伯はチラリとシーディに視線を向けた。取り立てて彼に何かを言うわけではなかったが、シーディの扱う剣を見ると小気味良さそうに口角を持ち上げる。
「聖地に到着してすぐに王子にご挨拶申し上げなかったのは、あなたの落ち度ではありませんか、シロン卿。自国の王子への挨拶よりも、どこかの神殿のハゲ親父に挨拶しに行くとは……。王子がご立腹なさるのも当然でしょう。あなた、この聖地に物乞いにでもしにいらっしゃったのでしょうか?」
「サイモス! 義兄に向かってよくもそのような無礼な口を! 私はトゥナ王国のためを思って聖神殿の神官長殿と面会してきたのだぞ!」
 オフィディア伯の辛辣な言葉に、ギイ伯は顔を真っ赤にした。
「おや、そうでしたか。しかし、それにしたって王子へのご挨拶を蔑ろにして良い理由にはなりませんね。お父上がお嘆きになりますよ。後を継いだ末っ子が、礼儀のなんたるかもわきまえていなかったとお知りになったら。いっそのこと、お父上に躾直していただいたらいかがです?」
「貴様……!」
「どちらにしろ、リュ・リーン殿下のお怒りが収まらない限り、あなたがここを通り抜けることは不可能ですよ。サッサと帰ったほうが身のためです。これ以上長居をすると、さらに殿下の不興を買いますよ。せいぜい気をつけることです、名誉あるギイ伯爵家が取り潰されることがないようにね」
 オフィディア伯はそれだけ言い切ると、後はギイ伯のほうも見ることもなく、目の前のウラートに再び面会の許可を取り次ぐよう迫っていた。
 いつの間にかシーディがギイ伯に向けていた切っ先は収められ、彼もギイ伯からオフィディア伯へと興味を移している。
 完全に無視される形になり、ギイ伯は怒りに顔色をどす黒く染めた。何か反論してやろうと思っているのだろうが、怒りが頂点を極め、言葉がすぐに出てこないようだった。
「まだいるんですか、シロン卿? 早く退散したほうがよろしいですよ。……そうそう、先ほどから気になっていたのですけど。そちらの取り巻きの方々、シャッド・リーン陛下に申請された人数よりも多いように見受けられますが、気のせいでしょうか?」
「そんなことはない。人数通りだ!」
「そうですか。いつもいつも誰かに取り囲まれていらっしゃるし、それがお好きなのでしょうけど。殿下と面会されるときには、お一人でいらっしゃったほうがよろしいですよ。……徒党を組むことしかできない輩だと誤解されますから」
「うるさい! 貴様の指図など受けん!」
 怒りに血走った瞳で義弟を睨むと、ギイ伯は足音も荒々しく廊下を引き返していった。彼の背後には取り巻き連中がバタバタと付き従う。
「やれやれ。相変わらず浅慮な人だ。あんな脳味噌で名門ギイ家を継げるとは、トゥナ王国の大貴族の地位も地に墜ちたね」
 自身も大貴族の端くれでありながら、オフィディア伯は貴族の地位を憂えて深いため息をついた。嘆かわしそうに首を振る伯爵の様子に、ウラートも一緒にため息をつく。こちらはギイ伯のことでため息をついているわけではなかったが。
「サイモス卿、あれではシロン卿を敵に回しただけなのでは?」
「彼とはリュ・リーン殿下が生まれる前からずぅっと敵同士だよ。それより、殿下に取り次いでもらえないかな。ドワティスのオモチャと殿下が使えそうな短刀を持ってきたのだけど」
「判りました。こちらの客室でお待ちください。殿下にお伺いして参ります」
 ギイ伯が去るとすぐに、侍従たちは持ち場へと戻っていった。残ったのはウラートとシーディくらいなものだ。
 ウラートがリュ・リーンの元へオフィディア伯の来訪を告げにいくと、伯爵はシーディを手招きして客室へと入っていった。ほぼ毎日リュ・リーンの元に顔を見せている彼にとっては、勝手知ったる他人の家といったところか。
「シーディ。私としては気味が良かったけど、剣を持ち出すのは最終手段にしたほうがいいよ。短気を起こすだけ損だ」
「オレの物に手を出そうとしたからだ」
「君の物? ……もしかしてウラートのことか?」
 オフィディア伯は胡乱げにシーディを見遣った。腰を降ろした位置からだと、立ったままのシーディの態度はいかにも尊大に見える。
「あいつはオレがもらうんだ。他の奴が傷つけることは許さない」
「彼は王子の大事な右腕のはずだけど……殿下に許可はもらったのか? いや、それより何より、ウラート自身が許したのかな?」
「口説き落としている最中だ」
 シーディの言葉にオフィディア伯は軽いため息をつき、小さく肩をすくめた。
「王子の一番の忠臣に懸想するとはね。君はなかなか、大した男だよ」
 異母弟ランカーンが寄越した男は、どうやら騒動を起こすことが好きなようだ。しかし、この若者にまとわりつかれているウラートを気の毒に思いながら、オフィディア伯はちょっとした好奇心からそれを止めようとは思わないらしい。
「あれくらい綺麗で、しかも減らず口を叩ける奴はそういないだろ」
 ニヤリとシーディの口元に浮かんだ笑みに同調して、オフィディア伯も不敵な笑みを浮かべた。
「私も綺麗な子は好きだよ。ウラートの容色ならどこへ出しても申し分ない。シーディ、君もね。殿下に似た容姿というだけで、希少価値は高いよ」
「……お褒めにあずかり恐悦至極に存じます、オフィディア伯爵」
 わざとバカ丁寧な口調で返事をすると、シーディはぷいとそっぽを向いた。自分の容姿を褒められてもあまり嬉しくないらしい。傭兵稼業が長かったせいか、彼は自分の姿形などどうでもいいようだ。
「そう怒ることもないだろう。男に容姿を褒められて嬉しくないのは、ウラートも同じだろうよ。ま、頑張りたまえ。この聖地では娼婦も買えないからね。容色が良いのなら、男でもいいというのは致し方あるまい」
「ついでに性格もよくなきゃな。女遊びができないなら男とでも遊べと言ったのは、あいつのほうだ。せいぜい、あいつで遊ばせてもらうさ」
 シーディの様子を楽しげに見つめた後、オフィディア伯は膝に抱えていた包みをそっと撫でた。先ほどのギイ伯とのやり取りを思い出したのか、瞳の中に鋭い輝きが灯っている。
「引っかかれないように気をつけることだよ。ウラートだけじゃない、シロンの奴にも。あいつは性悪な男だからねぇ」
 華やかな外見とは反対に、オフィディア伯の気配の中には微かな怒りが漂っていた。




 激しい砂煙。耳を覆いたくなる、けたたましい金属音。それらに続いて、ドウと倒れこむ音が辺りに反響した。
 もうもうと上がっていた砂煙が落ち着いてくると、かすれた煙の中にてんと佇む人影が見え始めた。
 スラリと伸ばした腕と、それの延長のような剣が地面を指している。いや、地面に横たわる者の胸元をヒタと抑え込んでいた。
「そこまで! 勝者、アルル・カストゥール候ミアーハ・ルーン!」
 勝敗を宣言する声に続いて、人々のどよめきが沸き起こった。いや、これをどよめきと呼んでいいのだろうか。大地や空気を鳴動させる人々の声やため息は、遙か彼方から迫りくる遠雷を思わせた。
「四回戦も勝ち抜いたか」
 満足げに呟くと、リュ・リーンは他の観戦席で地団駄を踏んでいる他国の大使たちを観察した。
 カストゥール候が勝ち上がっていくということは、トゥナ王家を……いや、時期国王であるリュ・リーンを有利にするばかり。飛ぶ鳥を落とす勢いのトゥナ王国がこれ以上強くなっては困ると言ったところだろう。
 次いで、リュ・リーンは聖衆王が座す主賓席をチラリと振り返った。王の隣りには、ひっそりと隠れるようにしてカデュ・ルーンが座っている姿が見える。
 兄の勝利に安堵しているのかと思いきや、彼女の表情は遠目に見ても凍りついており、今にも倒れそうなひどいありさまだった。
 聖衆王のまわりには聖地の重鎮たちが列席しており、外様であるトゥナ以下周辺諸国の者たちの席はあまりに遠い。彼女に声をかけたくとも、届く距離ではなかった。
 なんともどかしいことか。姿が見えているのに、その肩を抱いて慰めることもできないとは。
「……殿下、ギイ伯爵の動きが妙です」
 滑り寄ってきたウラートがリュ・リーンの耳元で囁いた。
 王子の周囲に人影は少ない。ウラートの小声は、リュ・リーンの脇腹に貼りつくようにして座っている幼いドワティスに、話の内容が聞かれないようにという配慮に違いない。
 聖地に来たときから妙な動きをしている義兄が、こんなときまでコソコソと何かを企んでいるらしい。腹立たしい限りだ。
 ギイ伯爵のことは、天神殿の司祭辺りと密談を繰り返しているという報告を受けていた。
 どうやら、彼の密談相手は正神殿の派閥に属するダイロン・ルーンを蹴落として、自分たちの門閥を拡大したいらしい。対してギイ伯爵は、近いうちにリュ・リーンの義兄になるダイロン・ルーンが、これ以上リュ・リーンと絆を深めて欲しくはないようだ。
 何をやろうとしているのか、確かめさせなければなるまい。暢気に選王会の武芸戦を見てばかりいられないようだ。
「ドワティス、喉が渇いただろう?」
 リュ・リーンの呼びかけに少年が顔を上げ、はにかんだ笑みと共に頷いた。ここ聖地に来てから、目が覚めているときの大半を、この少年は王子の傍らで過ごしている。親鳥に懐く雛のようだった。
 今まで、リュ・リーンにはこれほど無心に他人から懐かれた記憶がない。くすぐったいことであったが、弟ができたようで嬉しくもあり、ついつい少年を甘やかしがちだ。ドワティスの兄サイモスが弟を甘やかす様子に呆れていたが、いつの間にか人のことを言えなくなってきていた。
 少年の豪奢な金髪をくしゃくしゃと掻き回し、リュ・リーンは子どもの耳元に唇を寄せた。
「お前用の花蜜水を取ってくるから、ここで大人しくしているんだぞ」
 少年の前に置かれた杯は空っぽになっている。
 生憎と大人ばかりが列席している貴賓席では、子どもが好む甘めの花蜜水はすぐに用意できない。蜜酒などの大人用の飲み物ではドワティスには強すぎた。
 人を疑うということを知らないのか、少年は素直に頷くとリュ・リーンに手を振った。大人しく待っているから早く戻ってきてくれ、というのだ。
 表情をクルクルと変えるドワティスの様子に、リュ・リーンは眼を細めて微笑んだ。よほど気を許した者の前以外では笑わない彼にしては、無防備すぎる表情だった。
 ドワティスを少年の兄オフィディア伯爵に預けると、リュ・リーンはウラートを伴って観戦席から降りた。
 すり鉢状の会場の一番下の階が参戦している者たちの控え室になっている。その途中でシーディと行き会った。
「シーディ、ギイはここまで来ているか?」
「いや、ここでは姿は見えないぜ。でもここからなら、あちら側にいるご列席のお偉いさんの動きは丸見えだからな。あんたたちの後ろでゴソゴソ動き回っているあのボンボンがどこかへ消えたのはすぐに判ったぜ」
 顎をしゃくって会場を指すシーディにつられて、リュ・リーンも日が射し込んでくる窓の外を見た。彼の言うとおり、確かに貴賓席は丸見えだった。
 リュ・リーンたちが見守る中、今度はギイ伯爵がコソコソと自分の席に戻ってくる姿が見えた。何喰わぬ顔で座席につき、武芸戦の続きを眺めている様子が小憎らしい。
「相変わらず自分では手を汚さずに、他の者を使って邪魔立てする気だな。忌々しいバカ狐め。余計な仕事ばかり増やしくれる。……ウラート!」
「……ハッ! 直ちにギイ伯爵を拘束しますか?」
 侍従頭の過激な意見に、リュ・リーンは思わずウラートの顔を覗き込んだ。
「どうした、ウラート。お前にしては随分と荒っぽいな。何を焦っているんだ。今のままでギイ伯を拘束できると思っているのか?」
「彼を捕らえて、白状させるのが一番確実ですよ。……証拠もないのに彼を捕らえるのは難しいですが」
「これまでも奴は証拠を残すようなことをしていない。今回も同様だろう。無理に奴を拘束するな。つけいる隙を相手に与えるようなものだ。それより、奴が会談を重ねていた司祭は誰なのか割れたのか?」
 ウラートは一つ頷くと、辺りをはばかるように声をひそめた。
「天神殿の司祭長……天神殿長のエウリアット候の息の掛かった者です。間違いなく、カストゥール候の邪魔をするつもりでしょう」
「だが選王会の武芸戦は聖地神殿の関係者しか控え室に出入りできない以上、カストゥール候には手出しできないぞ。彼の剣の腕前はお前たちのお陰で聖地では誰にも負けない」
 リュ・リーンの言葉にシーディが不敵な笑みを浮かべる。彼なりに嬉しさを表現しているのかもしれない。カストゥール候の剣の稽古は、実質的にシーディが一人でこなしたようなものだ。
「彼らの予想以上にカストゥール候が強かったということでしょう。このままですと、天神殿長の子息ガルディエ・ダナン卿と対戦することになります。選王会で叩きのめされては、ぐうの音も出ませんからね。対戦する前に潰してしまおうということでしょう」
「だとしたら、あれだな。あんたの未来の奥方に注意するこった、王子様。彼女はカストゥール候の妹なんだろう? 人質にするにはもってこいだぜ」
「何を言っている。彼女は聖衆王陛下とご一緒だ。どうやってあの場から連れ出して人質にすると言うんだ」
 ムッとした様子でリュ・リーンはシーディを睨む。彼女が人質にされるなどと、軽々しく口にして欲しくはない。
「あの様子じゃ、もうどれほども保たないんじゃねぇのか? 気を失いそうな顔してるぜ。彼女が倒れたときに担ぎ込まれるのはどこだよ」
 窓から見える主賓席では、カデュ・ルーンが青ざめた顔色で眼下の武芸戦を見守っていた。争いごとを好まない彼女には、この会場の熱気や武芸戦の荒々しさは恐ろしいらしい。
「……リュ・リーン殿下! 会場の救護班に当たっているのは、天神殿関係者ですよ!」
 ウラートがハッと思い出して叫んだ。カデュ・ルーンの様子を見守るリュ・リーンが、侍従の言葉に眼を見開いた。
「なんだと!? どうして一つの神殿の者が救護班にかたまって配置されているんだ!」
「参戦者たちの救護には正神殿関係者が当たっているんです。その関係で会場の救護班の数が足りず、天神殿の者たちが駆りだされたものと……」
 リュ・リーンが舌打ちして苛立ちを示す。それを嘲笑うようにシーディが追い討ちをかけた。
「当たりだ。倒れた彼女を天神殿の者が運び出し、それをあのいけ好かない狐野郎の手下どもが隠しちまうって算段だろう。下手したら、未来の王子妃を手込めにしかねんと思うがな。要領よくやれば、あんたの結婚話もぶち壊せるぜ?」
 シーディの不埒な言葉に、リュ・リーンは針のような視線を向けた。が、頭に昇りかかった血を鎮めると、貴賓席で悠々と武芸戦の見物を決め込んでいる義兄の姿を見上げた。
「……救護班の者たちを止めるのは難しい。となると、ギイ伯たちがカデュ・ルーンを隠しておく部屋を見つけだして助けるしかないか」
「そうなると、聖地の方々の中にも協力者が欲しいところですが……」
 ウラートが考え込むように顎に手をかける。伏せられた彼の顔は、それだけで一枚の絵画になりそうなほど、さまになっていた。
「会場の警備責任者はドゥーン・ラウ・レイクナー卿だ。彼なら俺の味方になってくれるかもしれん。話をつけてこよう」
 警備の騎士たちの詰め所へと向かうリュ・リーンの後ろを、シーディとウラートがついていく。
「あぁ、王子様の下宿先の親父ね。一度、空庭(フォルバス)を覗いたときに遠目に見たけど、なかなか男前の顔をしてる奴だよな」
「シーディ……。あなたという人は、人の顔を批評するしか能がないんですか!?」
「なんだよ。あんたは綺麗だって褒めてやっても喜ばないだろ。他の奴を褒めたからって、やっかむんじゃねぇよ」
「誰が私を引き合いに出せと言いましたか!」
 背後で罵り合いを始めた二人の声を聞きながら、リュ・リーンは半ば呆れ、半ば面白がりながら回廊を進んでいった。




 リュ・リーンが花蜜水をドワティスに手渡したとき、微かなざわめきが広がってきた。
 厭な予感がヒシヒシとする。騒ぎの元である主賓席を振り返ると、カデュ・ルーンが何人かの女神官に抱えられて退席するところだった。
「カデュ・ルーン……」
 リュ・リーンの小さな呻き声にドワティスも主賓席を振り返る。リュ・リーンと一緒に自分と遊んでくれる娘の後ろ姿に、少年の顔色も青ざめた。隣の王子の衣装の裾を握りしめ、ドワティスは唇を固く噛みしめている。
「大丈夫だ、ドワティス。心配しなくてもいい」
 少年の肩をそっと叩くと、リュ・リーンは自分自身に言い聞かせるように囁いた。
 王子の視界の隅に、隣の貴賓席の区画で薄笑いを浮かべてこちらの様子を伺っているギイ伯爵が映った。何もかも知ったげな男の顔に唾を吐きかけてやりたくなる。
 奥歯を食いしばって怒りをやりすごそうとするが、リュ・リーンの胸の奥に噴き上げてくる怒りは収まりそうもなかった。どうしてあの男は邪魔ばかりするのだろう。
 ぐいぐいと腕を引かれて、リュ・リーンは我に返った。
「なんだ、ドワティス?」
 リュ・リーンがドワティスの顔を覗き込むと、少年は必死に王子の腕を引っ張って席から立たせようとしている。少年自身はとうに立ち上がり、貴賓席の出入り口を振り返りながら、なおも王子の起立を促していた。
「カデュ・ルーンのところへ行きたいのか?」
 リュ・リーンが困惑混じりに問いかけると、ドワティスは首を大きく縦に振り立てる。
「ドワティス。いけませんよ、殿下を困らせては。聖衆王のお嬢様はあちらで介抱されていますから、心配することはありません」
 ドワティスの兄オフィディア伯が近くの席から諭すように声をかけたが、少年は納得することはなかった。必死の面もちでリュ・リーンの腕を引き、一緒に行こうと全身で訴えている。
「判った、ドワティス。彼女の様子を見に行こう」
 本当は少年に急かされるまでもなく、自分自身がそうしたい。しかし訪ねていったところで、追い返されるだけだろう。出向く前からそれが判っているだけに歯がゆいのだ。
「でもな、ドワティス。彼女のところへ、お前を連れていくことはできない。彼女が休んでいる場所は混雑しているところを通り抜けないと行けないし、彼女は眠っているかもしれないだろう? 俺が様子を見てきて、お前に知らせてやるから、待っていてくれないか?」
 ドワティスを連れて逢いに行けば、救護に当たっている神官のにべもない対応に少年が傷つくだけだ。不愉快な思いをするのは、自分だけでたくさんだ。
 第一、彼女を救い出すためにウラートたちが奔走しているはずだ。危険がないとは言い切れない。そんな場所に、この少年を連れ出すことはできなかった。
 リュ・リーンの言葉に、ドワティスが哀しそうに俯く。
「ドワティス。王子の言いつけを守ると約束しましたよね? 我が侭を言ってはいけませんよ」
 オフィディア伯は、今度は弟の側まで歩み寄ってきた。少年の肩に手を置くと、彼は王子に向かって静かに頷く。
「ドワティス。お前が心配していたことは、ちゃんと彼女に伝えるから、待っていてくれ」
 リュ・リーンは立ち上がりながら、項垂れる少年に声をかけた。他に上手い言葉が思いつかない。自分の不器用さが悔やまれた。
 おずおずと顔を上げた少年が、自分の胸元を飾る金細工をつまみ上げる。淡い光を放つ宝玉を黄金の蔦草が、宝を守るように囲んでいる可愛らしい意匠の細工物だ。先日、カデュ・ルーンが少年に贈った品物だった。
 それを丁寧に外すと、ドワティスはリュ・リーンに向かって、恭しい手つきで差し出した。
「彼女に見せればいいのか?」
 少年がプルプルと首を振り、細工物を胸に飾る仕草をして見せる。
「彼女に渡せばいいんだな?」
 少年が今度は何度も頷いて微笑みを浮かべた。もらった金細工は護石らしい。彼女が早く元気になるよう、この石を持っていけということだろう。
「判った。必ず彼女に手渡そう」
 リュ・リーンはしっかりと頷くと、ドワティスたちに見送られて貴賓席を後にした。
 ウラートたちからの報告を待ち、本当ならここでダイロン・ルーンの勇姿を見守っているつもりでいた。だが、実際に彼女が連れ出される後ろ姿を見てからは、大人しく座っている自信などなかったのだ。
 ドワティスに促されたからだけではなく、リュ・リーンは自らの意志で彼女に逢いたいと思っていた。
「何ごともなければ、それでいい。だが……もしも、彼女に何かあったら……」
 出ていくとき、視界の端にまたしてもギイ伯爵の薄ら笑いが映り、リュ・リーンは燃え上がってくる怒りに、拳をきつく握りしめた。
 カデュ・ルーンに何かあったら、この男だけは絶対に赦さない。どんな手段を使ってでも、必ず報復してやる。
 胸に渦巻くどす黒い怒りに焼かれ、リュ・リーンは魔の瞳(イヴンアージャ)と呼ばれる暗緑の瞳をギラつかせた。瞳の奥には、触れれば火傷しそうな炎が浮かんでいる。この炎を鎮めることができるのは、カデュ・ルーンの無事な姿だけだ。
 すれ違う従者たちが、リュ・リーンの顔つきにギョッとして飛び退いていく。無表情な中で、瞳ばかりがギラギラと輝くトゥナ王太子の顔は、まさに魔神そのものだった。

〔 14092文字 〕 編集

後日譚

No. 84 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第14章:少年

 本来ならカストゥール家という家柄の者が、ウラート程度の身分の者に話しかけるようなことはしないはず。ところが、このミアーハ・ルーン・アルル・カストゥールという男は、ここへ案内するまでの短い間にも、執拗にウラートに声をかけてくるではないか。
 そのことから、ウラートは彼が今日の稽古相手のことをまったく知らされていないことに気づいた。最初の予想通り、カストゥール候は稽古相手の顔を見て驚いた様子だった。
「リュ・リーンの家臣では一番の新顔か? 私は彼の部下にこの様な者がいるとは聞いていなかったが」
 稽古用の剣を利き手から反対側の手に持ち帰ると、カストゥール候は感心したように稽古相手の顔を注視した。
「オレの顔にどれほどの価値があるか知らないが、男に眺められても嬉しくもなんともないぜ」
「シーディ! 無礼な口を利くな。こちらの方は聖地(アジェン)の長の甥にあたられる……」
「ウラート卿、私は気にしていないよ。それに剣の稽古相手に肩書きなどいらぬだろう? それで、シーディとやら。お前の剣の腕はリュ・リーンの保証済みだということだが、期待させてもらって良いのだろうな?」
 最初の驚きが去ると、カストゥール候はふてくされて口を尖らせる相手の様子にもまったく動じることはない。彼は鞘に収まった刀身を抜きはなって不敵な笑みを浮かべた。
「お貴族様にオレが負けるかよ。こっちは物心つく頃から、ずっと傭兵稼業で喰ってきたんだ」
 同じようにシーディが肩に担いでいた剣の鞘を払う。元から好戦的な彼の態度で剣を抜かれると、それだけで辺りには不穏な空気が充満した。
「シーディ。リュ・リーン殿下からのお言葉を忘れるなよ。失敗したら、ただでは済まないぞ!」
 ウラートは剣を構えた二人から遠ざかると、小さくため息をついた。
 リュ・リーンがシーディに課した命題は無理難題に近い。剣の稽古をするのに怪我を負わせるな、というのだ。それなのに手を抜くなとも言う。そんな条件の中で稽古の相手をするなど、よほど剣の腕がよくなければ無理な話だ。
 かけ声も鋭くシーディが相手に突っ込んでいく。傭兵で喰っていたというだけあって動作は俊敏だ。体格の割には小回りが利く。
 動き回る相手を目で追いかけるカストゥール候が、シーディの足下を剣で薙ぎ払う。が、その切っ先が届くよりも先にシーディは別の場所へと移動していた。
 シーディが繰り出す鋭い突きがカストゥール候の剣と絡み合うたびに、防御魔法の呪文がかけられている剣は細かな火花を散らす。
 どうやらシーディはリュ・リーンに言われた通り、相手の身体を切っ先がかすめることなく剣を合わせているようだ。依頼された仕事はキッチリとこなす人種なのかもしれない。
 ウラートは二人の攻防をじっと見守りながら、シーディの認識を少しだけ改めた。文句をダラダラと並べるだけの怠け者であったら、即刻お払い箱にしてやろうと思っていたのだが、剣の腕前は使えそうだった。
 もっとも、ウラートが気づいたくらいだから、リュ・リーンも同じように考えているだろう。きっと過去の自分以上に短気な男の様子に、苦笑いを浮かべながらリュ・リーンは夏の間、シーディの様子を観察していたに違いない。
 シーディが何度もカストゥール候の剣の切っ先を叩き、相手の刃の軌跡を狂わせる。体勢を狂わされるたびに、カストゥール候が苛立ったように舌打ちを繰り返していた。
 候が何度目かに切っ先を跳ね上げられたとき、シーディがふわりと身を沈め、相手の懐へと飛び込んでいった。
 あっと思う間もなく、カストゥール候は足を払われ、その場にひっくり返った。地響きこそ聞こえなかったが、強かに背を打ちつけたらしく、彼は顔を歪ませて痛みをこらえている。
「弱すぎるぜ。これじゃ、話にもならんだろう。ここの貴族はトゥナの奴らよりも軟弱なのかよ」
 カストゥール候の喉元に切っ先を突きつけ、シーディはうんざりした様子で口を開く。彼にしてみれば、随分と手加減しているのだろうが、その不遜な態度にウラートは慌てた。
「シーディ。剣を引かないか。それ以上、粗暴な口を利くことは許しませんよ。この方は殿下の義兄君になられる方です!」
 忌々しそうに舌打ちするシーディを押しのけると、ウラートは膝をついてカストゥール候に手を伸ばした。が、当の相手は伸ばされた手を遮ると、よろけながらも自力で立ち上がった。
「余計な気遣いは無用だと言ったはずだ。もう一本、手合わせ願えるかな?」
「いえ、カストゥール候。次の相手は私です」
「ウラート卿、貴卿がわざわざ私の手ほどきか? リュ・リーンの補佐をしなくていいのか? あれは一人で大変だろうに」
 自分の剣を掴み直すと、カストゥール候が首を傾げた。ウラートをリュ・リーンの片腕と認識している辺り、やはり彼も聖地の貴族らしくトゥナの内情をよく把握している。
「今日だけはこちらを優先するよう、殿下から命じられております。シーディとの立ち合いの次は、私が相手をさせていただくようにと。その後、またシーディと手合わせください。明日からは彼一人がお相手させていただきます」
「判った。……リュ・リーンが何を考えているのか知らんが、それが役に立つのならお願いしようか」
「では、ウラート・タウラニエスク、お相手つかまつる」
 カストゥール候が構えると同時に、ウラートも自身の剣を眼前に構えた。リュ・リーンに命じられた通りに動かねばならない。頭のなかで動きを反芻しながら、ウラートは相手の動きを目算した。
 やや離れたところからやり取りを見ていたシーディが、さも退屈そうに石造りの椅子に座り込んだ。暢気にあくびをしている。
 その様子を視界の隅に捉え、ウラートは先ほどシーディの評価を上げた自分に悪態をついた。やる気のなさそうな彼の態度は気に入らない。何ごとも真面目に取り組むウラートには、シーディの態度は腹立たしいばかりだった。
 かけ声と共に、カストゥール候が切り込んでくる。切っ先をさばいて相手の攻撃をいなすと、ウラートは腕を鞭のようにしならせて反撃を加えた。
 叩き込まれた刀身の重さに、カストゥール候が顔を歪める。剣圧の相当な重量が彼の腕に痺れを刻んだはずだ。
 ウラートはその隙を逃すことなく相手との間合いを詰めたが、突きなどの攻撃は加えず、相手の刀身を叩いてカストゥール候を挑発した。
「なぜ攻撃しない。今の隙を突けば、貴卿の勝ちだったはずだぞ?」
「おや。まだしゃべる余裕がありますか、カストゥール候。……ですが、稽古の間にそんなことをしていると、すぐに息が上がりますよ」
 会話をしながらの稽古は確かに呼吸を乱す。それはカストゥール候にしても判っているのだろう。すぐに口をつぐむと、ウラートの動きを牽制するように左右から剣を奮った。
 ウラートは加えられる攻撃をすべて自分の剣で受け止めると、時折、相手との場所を入れ替わるくらいで派手に動き回ることはしない。ただ、小刻みに体重の重心を移動させるため、身体のどの部分に攻撃が加えられても、すぐにそれに対応できた。
 剣同士が打ち合わされる音ばかりが中庭にこだまする。三人の他にこの場所に居合わせていないが、音の騒乱はきっと他のどの場所よりもやかましいだろう。
 カストゥール候の息が上がり始めた頃、ウラートはようやく動きを見せた。
 動きが散漫になっている相手が剣を大振りしたところを、素早く相手の柄元に突きを入れる。刀身が受けるはずだった衝撃を柄に直接加えられ、カストゥール候が剣を取り落とした。
 ピタリと相手の眉間に切っ先を合わせて動きを封じると、ウラートはホッと吐息をもらす。なんとかリュ・リーンに言われた通りの動きをすることができた。
「なぜ、途中から攻撃をしてこなかった。本当ならもっと早く決着がついていたはずだ」
 荒い息の下からカストゥール候がウラートに詰問する。息を乱していない相手の余裕に腹立たしさを感じているのか、彼は自分の呼吸を元に戻そうと何度も肩をいからせていた。
「カストゥール候。私がどんな動きをしてあなたの攻撃をかわしていたか、憶えておいででしょうか?」
「どんな動きで? どんなも何も、貴卿はほとんど動かずにいたではないか。こちらは隙を見つけようと周囲を走り回っていたというのに」
「そうですね。私はほとんど動いていない。だから呼吸も乱れてはおりません。あなたは息が乱れて、足もふらついているというのに……」
 カストゥール候が怪訝な表情でウラートを見つめる。彼が言わんとしていることがいまいち飲み込めていないようだ。
「無駄な動きが多すぎるってことさ。力任せに剣を振り回していたんじゃ、何人も相手にできないぜ」
 カストゥール候が首をひねり続けていると、横からシーディが割り込んできた。端から見ていた彼には、ウラートが何をやっていたのかよく見えていたのだろう。
「何人も……。勝ち抜き戦のための戦術か?」
「えぇ。たった一人と戦うのでしたら、後のことなど考えなくても良いでしょう。でも一日に複数名と戦う場合、無駄な体力を使わないことも大切なことです。相手の力を利用して自分に有利な体勢にもっていく……もっとも有効な手段だと思いませんか?」
「だから今日の稽古は二人がかりというわけか」
 カストゥール候がかすかな笑い声をあげた。一見すると冷たい印象を与えがちな彼の表情が、今は人懐っこい温もりを滲ませている。
「あんた、そっちの顔のほうが女にもてるぜ? 取り澄ました顔ばかりしてないで、笑ってりゃいいじゃないか」
「シ、シーディ! 失礼なことを言うんじゃありません!」
「なんだよ、本当のことだろうが。眉間に皺寄せていたんじゃ、せっかくの美男子が台無しだぜ。もったいねぇよ。この顔なら女にもてるだろうに」
 二人のやり取りにカストゥール候がクスクスと笑い声をあげた。
 先ほどの笑みよりも素直な印象を与える態度に、ウラートは主人の婚約者の微笑を思い出していた。確か、彼女もこんな透明感のある笑い方をしたはずだ。やはり兄妹は似ているものだと、変なところで納得をする。
「二人とも実にウマが合うようだな。リュ・リーンも退屈せずに済むだろう」
「冗談じゃねぇ。こんな陰険な奴と一緒にしないでもらいたいね」
「……お互い様じゃないですか。私だって一緒にしてもらいたくありませんよ」
 互いに勝手なことを言い合いながら、彼らは再び剣を手にした。それが生き物を殺生する道具でなければ、のどかに談笑しているようにしか見えない風景であった。




 白い指先が弦を震わせるたびに、彼のなかにさざ波がうち寄せてくる。
 リュ・リーンは目の前で竪琴(リース)を奏でる恋人をじっと見つめていた。以前までならその音色にウットリと聞き惚れていただろうが、トゥナの王宮で父親に竪琴の意味を教えられて以来、彼女がつま弾く調べを純粋に楽しめなくなっている。
 落ち着きなく身じろぎしながら、それでも恋人から目をそらすこともできず、リュ・リーンは内心の葛藤と戦っていた。この場所、リュ・リーンの自室に二人きりというが良くないのだ。
 予定よりも早く大神殿長との接見が終わったため、ダイロン・ルーンの剣の稽古を見に行こうかと思っていた矢先、トゥナ王国のために割り当てられた建物棟の入り口付近で、竪琴を抱えたまま右往左往しているカデュ・ルーンに出くわした。
 どうしたのかと思えば、兄ダイロン・ルーンが今日の稽古相手を気に入らなかったらどうしようかと、彼女一人が気を揉んで様子を伺いに来たらしい。こっそりと稽古の様子を確認させると、彼女はホッとした様子で胸をなで下ろした。
 そのままなし崩しにリュ・リーンはカデュ・ルーンを自室へと案内すると、他の従者たちを遠ざけて、彼女の奏でる音色に耳を傾けているというところだった。
 一曲弾き終わったカデュ・ルーンが、それまでの真剣な顔つきをほころばせてリュ・リーンに笑いかける。たったそれだけの仕草にも、リュ・リーンは心臓を踊らせた。
「カデュ・ルーンは楽の才能があるのだな。俺はそちらの才はサッパリだけど、それでも音色の美しさは素晴らしいと思うよ」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃない。本当にそう思うから……」
 自分の言いたいことの半分も言葉にできない。リュ・リーンはもどかしげに唇を噛みしめた。胸の奥で焦れるように炎が揺れている。気を抜くとその熱に呑み込まれそうだった。
「リュ・リーンは楽器を扱わないの?」
「あぁ、全然駄目なんだ。それに……今まであまり興味もなかったし」
 決まり悪げにリュ・リーンは視線をそらす。
 これまで、教養として一通りの詩楽の知識は学んでいるが、彼はそれを自分のものにはしなかった。あくまでも、一般的な知識として扱ってきた。
「今は興味がある?」
「少し……。聴くほうなら」
 その言葉にカデュ・ルーンが笑みを浮かべる。竪琴を脇に置いて立ち上がると、ヒラヒラと舞うような足取りでリュ・リーンに近づき、ストンとその隣りに腰を落ち着けた。
 リュ・リーンは甘い花の香りに目眩を起こしそうだった。カデュ・ルーンはカリアスネの精油を髪や衣装に振りかけているらしい。彼女の本来の体臭と混じり合ったその香りは、リュ・リーンの脳髄を痺れさせる芳しさだった。
「リュ・リーンはどんな楽が好きなの?」
 無邪気な瞳でリュ・リーンの顔を覗き込むカデュ・ルーンには、彼がどれほどの忍耐を強いられているか判っていないようだ。
「優しい、綺麗な音色が……」
「あら。男の人は賑やかなものが好きって人が多いけど、リュ・リーンは静かなものがいいのね」
 リュ・リーンは少女の赤いカリアスネの唇をじっと見つめる。笑みの形に口角を持ち上げた唇は、風に震える花弁そのものだった。
 他の女たちと違ってカデュ・ルーンは化粧の類をあまりしない。そんなものは必要ないほど、彼女の肌は輝きを放っていた。花のような唇も艶やかな光を浮かべている。
「賑やかな音楽が相応しいときは、そちらを好むだろうけど。カデュ・ルーンの奏でる調べを聴くのなら、静かなもののほうがいい……」
「嬉しい。わたしも静かな楽を弾くほうが好きだもの」
 彼女の姿に魅入られそうになり、リュ・リーンは引き剥がすように視線をそらした。心臓は先ほどから忙しなく鳴り響き、その音が彼女の耳にも届くのではないかと心配になる。
 竪琴をつま弾く彼女を目にした途端、父王の言葉が頭を駆け巡り続け、振り払っても振り払っても消えてくれなかった。昨日も彼女とは顔を合わせているはずなのに、身体はなんとも正直だ。
 少しでも身体を離そうとするのだが、彼女のほうが甘えるようにすり寄ってくる。リュ・リーンは自制がどこまで効くのかまったく自信がなくなっていた。いや、限界などとうに過ぎていたかもしれない。
王都(ルメール)でも、今日みたいにわたしの竪琴の音色を聴いてね」
 今の一言に、リュ・リーンの理性は吹っ飛びかかった。残骸のようにボロボロになった理性をかき集めて、なんとか平然とした顔を取り繕ってみるが、もう少しでも彼女に触れたりしたら、自分でもどうなるか判らない。
 それなのに、カデュ・ルーンは白い指をリュ・リーンの黒い前髪に絡ませ、彼の額をサラリと撫でたのだ。
「カデュ……」
 リュ・リーンは自分の理性や自制の糸がプツリと切れる音を聞いた気がした。
 かつて自分が女に振り回されている貴族どもを嘲笑っていたことも忘れ、彼は目の前の少女を腕のなかへ抱きしめると、緩やかに結い上げられた彼女の髪に顔を埋めた。
「リュ・リーン。痛いわ。お願いだから、腕を緩めてちょうだい」
 カデュ・ルーンの苦しげな声にリュ・リーンはハタと我に返り、そろそろと腕を緩めた。彼女が抱きしめられることを嫌がっているのかと、怯えに身体が強ばる。
 しかし、視線を絡めたカデュ・ルーンの表情に不満は浮かんでいなかった。それどころか、今までと変わらない柔らかな微笑が刻まれ、目元を薄赤く染めている。拒絶されているのではないと判ると、彼は内心で意味もなく喝采した。
 リュ・リーンは引き寄せられるようにカデュ・ルーンの上に屈み込み、何度味わっても甘く柔らかい彼女の花唇を奪った。
 幾度も唇をついばみながら寝椅子に彼女を横たえると、無骨な大剣を扱う手とは思えない慎重な手つきで彼女の胸元を緩めていく。口づけに酔っているのか、カデュ・ルーンはまったく気づいた様子がない。
 衣装の胸元を広げた途端、再びリュ・リーンはカリアスネの香りに包まれた。決して押しつけがましくない香りだが、今はそれに絡みつかれ、身体の動きを封じられそうだった。
 ようやく唇を放して顔をあげたリュ・リーンは、息苦しさに自分の襟元をくつろげた。目の前に覗く彼女の白い肌に目眩がしてくる。
「カデュ・ルーン……」
 声がかすれている。これほど緊張したのはいつ以来だろう。心臓の鼓動がこめかみにガンガンと響いてきた。
 間近にあるカデュ・ルーンの若葉色の瞳が、熱をもって潤んでいる。それを目にしただけで、リュ・リーンの神経は酩酊したように痺れてきた。
 再び花唇に口づけを落とし、さらに喉元や胸元にも、触れるか触れないかといった口づけを繰り返す。すぐそばでカデュ・ルーンの不規則な息遣いを聴きながら、リュ・リーンは恋人の胸の谷間に赤い花弁を散らせた。
 リュ・リーンが口づけを落とすたび、カデュ・ルーンが鋭く息を呑み込んだ。何かを堪えるように顔を背ける彼女の頬に、幾筋かの銀髪が張りついている。
 泣きだしそうな表情をして唇を噛みしめているカデュ・ルーンに気づくと、リュ・リーンはなだめるように彼女の唇を指先でなぞった。
「カデュ・ルーン。泣かないでくれ」
 まだ声はかすれたままだ。幾度か唾を呑み込んだが、声は喉の奥に貼りついてしまったような気がして出しづらい。
 もう一度、カデュ・ルーンの柔らかな唇に自分のそれを重ねようと、リュ・リーンが彼女に覆い被さったとき、遠くから複数の足音が聞こえてきた。
 従者たちは遠ざけておいたはずだが、何ごとかが起こったのかと、リュ・リーンは反射的に身体を起こした。耳を澄ますと、間違いなくこの部屋に近づいてきている。
 扉を振り返るリュ・リーンの様子に、カデュ・ルーンも胸元を押さえたまま身体を起こした。自分の胸元に散る鬱血を目にすると、真っ赤になりながら衣装の襟元を直していく。
 足音が部屋の前で立ち止まり、一瞬の間をおいて扉が叩かれた。
「誰だ?」
「ウラートです、殿下」
「……開いている。入れ」
 肝心なときに邪魔が入った。いつもは頼りになるウラートの声が、今この時ばかりは恨めしい。リュ・リーンは感情を押し殺したつもりだったが、声は不機嫌さを含んでいた。
「失礼します」
 扉を開けて入ってきたウラートが、室内にリュ・リーン以外の人影を認めて目を見張った。すぐに視線を伏せると、決まり悪げに頭を下げる。
「すみません。出直して参ります」
「何か用があったから来たのだろう。かまわないから……おい、シーディ。何を笑っている?」
 ウラートの後ろから入ってきたシーディが、口元を歪につり上げていた。視線はリュ・リーンとカデュ・ルーンを交互に行き来している。
「いや、なに。大した用でもないのに、えらいところを邪魔したようだと思ってさ。まさかお大事なご主人様が乳くりあっている最中だとは思わなかったぜ」
「シーディ! 無礼ですよ! 控えなさい」
 リュ・リーンの眉間に微かな皺が寄ったのを、ウラートは目ざとく見つけていた。王子が内心では怒り狂っていることを、長年のつき合いで察したのだ。
「ウラート。用件はなんだ?」
 氷のように冷たい声がリュ・リーンの口から漏れる。彼の背後ではカデュ・ルーンが頬を染めたまま顔を背けていた。
「いえ、申し訳ありませんでした。出直して参ります」
「なんだよ。話してもいいって言ってるんだから、言えばいいじゃないかよ。何を遠慮して……」
 あたふたとシーディの口を塞ぎ、王子の部屋から引きずり出すと、ウラートは彼に珍しいほど狼狽して部屋を飛び出していく。
 それを鋭い視線で見送ったリュ・リーンだったが、彼らが出ていった途端、ガックリと肩を落としてため息をついた。今さら先ほどの続きをする雰囲気ではあるまいに。
 そっと振り返ってカデュ・ルーンを見ると、耳元まで真っ赤になって身体を小さくしていた。慌てて崩れた髪を整えたので後れ毛が乱れている。
 その姿は見ようによっては扇情的だったが、部外者にからかわれて萎縮してしまってる彼女に、これ以上先を求めるのは酷というものだった。
「すまない、カデュ・ルーン……。あなたに恥をかかせるつもりはなかったのに……」
 彼女の華奢な肩をそっと抱き寄せると、リュ・リーンは白い滑らかな額に口づけしながら、何度も彼女に部下たちの非礼を謝罪した。
「平気よ。少し驚いただけ……。お二人をあまり叱らないでね」
 健気に平静を装うカデュ・ルーンの態度に、リュ・リーンは愛しさと同時に苦い想いを噛み締める。
 これは自分の落ち度だ。リュ・リーンは自制が効かなくなった自分の弱さに、内心で悪態をつき続けていた。




 ダイロン・ルーンがトゥナ王家の建物に付属する中庭で剣の稽古をするようになって間もなく、各国の特使たちが続々と聖地へと到着した。王自身がこの地へやってくることはないようだった。
「リュ・リーン。オフィディア伯が到着されました」
 ウラートは王子の私室に入ると、表情を引き締めて報告した。書記机の前で羽根ペンを走らせていたリュ・リーンが、鋭い視線を投げ返してくる。
 開け放された窓から差し込む春先の日差しが床に反射し、王子の青白い肌に淡く鈍い光の陰影を浮かび上がらせていた。まるで幻想の中にいる神のようだ。
「当然、ギイ伯も一緒にだな?」
「言うまでもなく……。オフィディア伯がご挨拶したいとのことですが、逢われますか?」
「ラスタ・リーン姉上の葬儀以来だな。……通してくれ」
「弟君もご一緒なのですが?」
 ウラートはリュ・リーンの表情に怪訝そうな色が浮かぶのを、じっと見守っていた。王子の微妙な表情の変化を見逃すまいと、ウラートはこういうとき、息をするのも忘れて見入ってしまう。
「ランカーンが、か?」
「……いえ。ドワティス殿です」
「ドワティス? あいつならまだ子どもではないか。こんな場所に連れてくるとは……。サイモスの奴、いったい何を考えているのやら」
 オフィディア伯サイモスには二人の弟がいる。異母弟ランカーンとは五つ違いだが、今回聖地に一緒に連れてきた弟ドワティスとは十八離れており、下手をすると親子と間違われることもあるほどだ。
 年の離れた末っ子は、同腹ということもあるのか、サイモスに可愛がられているようだった。
「ランカーン殿を牽制するために同行させたのかもしれませんよ。オフィディア家は、今のところサイモス殿とランカーン殿の二つに分裂しかかっていますからね」
 ピクリとリュ・リーンの眉間に皺が寄る。それをウラートは見逃していないが、表面上は涼しい顔をして相手の出方を待った。
「俺のせいだとでも言うつもりか? ランカーンを手駒に引き入れたのは間違いだったとでも?」
「いいえ、そうは申しておりません。ただ、サイモス殿にしてみれば、跡取りの子どもがいない以上、自分と同腹の弟を後釜に据えたいところでしょう。ランカーン殿は有能ですが、これまでは疎遠でしたしね」
 リュ・リーンが苛立った様子で右手親指のツメを噛む。その仕草は子どもっぽいから止めたほうがいいと何度も注意しているが、ウラートの忠告はこれまで聞き入れられることはなかった。
「ギイ家とサイモスが接触した様子はあるか?」
「探りを入れてみましたが、どうやら個人的には逢っていないようです。しらばっくれているのかもしれませんが」
「やはり本人に逢うのが一番手っ取り早いようだな。サイモスたちを通してくれ」
 ウラートは軽く頭を垂れた後、きびすを返して廊下へと歩み出た。室内の明るい中から廊下へ出ると、目が馴れるまで薄暗く感じる。一瞬の目眩にウラートは壁に手をついたが、すぐに姿勢を正して真っ直ぐに控えの間へと歩いていった。




 リュ・リーンは相手に向き直ると、暗緑の瞳をすがめた。相手の表情から何かを読み取ろうとするのだが、穏やかに微笑む顔つきからは、自身が予想するような後ろ暗さなどは微塵も伺えなかった。
「どういうことです、義兄上?」
「無理に兄と呼んでいただかなくてもけっこうですよ、殿下。ラスタ・リーンを亡くした今、私はあなたの兄ではないでしょう」
「……判った。質問に答えてくれ、サイモス卿。どうして貴卿が神官職になどつきたいと? しかもトゥナの神殿ではなく、ここ聖地(アジェン)の神殿で、とは」
 表面上、リュ・リーンは無表情を保っていたが、内心では相手の申し出がどうにも釈然としなかった。目の前の相手オフィディア家の当主が、当主の座を退いて神殿に籠もると言い出したのだ。
 従者に運ばせた金芳果酒(ゴールドベリー)を一口飲み下すと、リュ・リーンはほっと一息ついた。
「子どもの頃からずっと思っていたのですけどね。私は父の言いつけで当主の座に就きましたが、今までどうにも馴染めずにいたのです。妻のラスタ・リーンも亡くなったことですし、この際は俗世を捨てるのもいいかと。それに、どうせ神殿に入るのなら、しがらみのないアジェンの地にしたほうが良いですし……」
「だからドワティスを自分の後に就けよ、と?」
「まさか! ドワティスもこの春で九つになりますが、こんな小さな子が当主では家の者も心許ないでしょう。私の跡にはランカーンを就けようと思っています。ここへ来る前にあれにも話をしてきました」
 訥々と話を続けるサイモスの様子にリュ・リーンは肩をすくめた。当初は弟たちの権力争いの片棒を担ぐつもりでやってきたのかと思っていた義兄は、それとはまったく反対のことを頼みにきたようだ。
「だったら俺の出る幕などないではないか。貴卿の望み通りにしたらいい」
「それがそうもいかないのですよ。家の者の中にはランカーンを当主にしたくない者もおります。私の跡にドワティスを、という声も出ているのです。このままではオフィディアは分裂してしまいますのでね。殿下のお力でどうにかしていただこうと思いまして」
「どうにか? 伯爵家のことに口出ししろというのか」
 呆れてリュ・リーンはため息をつく。それぞれの家のことは、その家の中で処理するものだ。他の家の者に決定権を与えてどうするつもりだというのか。いつもボンヤリとしている義兄だが、今回の話は特に常識はずれだった。
 当のサイモスはいえば、ドワティスの飲み物として出された花蜜水を弟の手元に運んでやったり、頬についた花蜜を拭ってやったりと、過剰なほどに末弟の世話をしてやっている。
「俺が口出しすればするほど、オフィディアの家の者は頑なになるのではないか?」
「えぇ、単にランカーンを当主にしたのでは、軋轢が増えるばかりです。ですから、こうしてドワティスを連れて参ったのですが」
 何が言いたいのかさっぱり要領を得ず、リュ・リーンは目の前の男と、その膝の上で大人しくしている少年をまじまじと見つめた。
 サイモスの膝に座っている少年は同年代の子よりやや小柄であるが、手取り足取り世話を焼いてやるほど幼くはない。さすがに一人で生計を立てるほどの年齢でもないが、サイモスの愛情の注ぎぶりは過保護にすぎた。
 リュ・リーンは父王の過剰な愛情表現を思い出して目眩を憶えた。どうやら父シャッド・リーンはこのオフィディア家の血を濃く受け継いでいるようだ。特徴的な金髪だけでなく、近しい者に示す愛情の表現は端から見ていると気恥ずかしくなってくる。
「サイモス卿……俺には話がさっぱり分からないのだがな」
 当主の座に就く者はすでに決まっているという。だが、周囲の者を納得させるために、王太子であるリュ・リーンに手を貸せとも言っているのに、そのために目の前の少年を連れてきたと?
「はて。簡単なことだと思ったのですが……。不肖の弟たちのうち、ランカーンは私の跡を継いで当主に、そして末の弟は殿下のお側で養育していただけるように、と思った次第でして」
「はぁ!?」
 リュ・リーンは今まで取り繕ってきた無表情を崩すと、マジマジと目の前の男の瞳を覗き込んだ。何を言い出すのかと思えば、末の弟を人質として王太子に差し出すと言っているのだ!
「自分が何を言っているのか、判っているのだろうな? 俺がランカーンとドワティスを使ってオフィディア家の分裂を謀ったらどうするつもりだ、サイモス卿」
「それができるようでしたら、殿下はランカーンを使って、とっくにオフィディアを潰していらっしゃると思いますが?」
 ニッコリと極上の笑みを浮かべたサイモスの表情に、リュ・リーンは目眩を感じてクラクラした。外見上はぼんやりしている男だが、実は中身は相当な切れ者なのではないか?
 そういえばランカーンが初めて目の前に現れたときも、同じように華やかな笑みを浮かべていた、とリュ・リーンは頭の隅で思い出した。もっとも、ランカーンの場合は下心がバレバレの笑みであったが。
 華やいだ笑みは父王シャッド・リーンも同じように浮かべることが多い。父を産んだ母親がオフィディア家の先々代傍系当主の妾腹の妹であったことを考えれば、この微笑みは血筋なのかもしれない。
「ドワティスは誰に対しても威力のある秘石と同じでしょう? オフィディアの家の者には担ぎ上げたい次期当主。ランカーンには伯爵家当主の座を脅かす後継者。そして……ギイ伯に対しては、殿下の権威を見せつける存在」
「そんな大事な弟を俺に簡単に預けようというのか?」
「大事な弟なればこそ殿下にお預けいたします。殿下の忠臣として、お育ていただければ幸いでございます」
 じっと口を閉ざしたままのドワティスが、兄の言葉にチラリと振り返った。その豪奢な金髪をそっと撫でながら、サイモスは再び華やかな笑みを浮かべる。
 二人の様子を見守っていたリュ・リーンが小さくため息をついた。目の前にいる者には気づかれないようについたつもりだったが、視線を上げたサイモスがさらに笑み崩れた様子を見ると、彼には気づかれてしまったのかもしれない。
「俺に厄介事を押しつけて、自分は隠居する腹づもりですか、義兄上?」
「あぁ、まぁ……。そうとも言えますね」
 あっさりとサイモスが認めたことで、リュ・リーンは今度こそ苦笑いを浮かべた。
「ドワティス。お前はどうなのだ? 兄と別れて、一人で俺のところへ来るつもりか?」
 ようやく自分に話が振られた少年が、こちらも華やかな笑みを浮かべてコックリと頷く。
 リュ・リーンは首を傾げて少年の蒼紺の瞳を覗いた。先ほどから少年は一言もしゃべろうとしない。今も答えは頷くだけだ。
「殿下……生憎とこの子はしゃべることができません。笑い声をあげることはありますが、声を発声することができないのです。今までは外部に漏らさないようにしてきましたが。私がこの子を跡取りにしなかった理由の一つですよ」
 リュ・リーンは驚きに目を見張った。外見上はドワティスは普通の子どもと変わらない。それなのに彼はしゃべることができないという。知らなければ、そのまま過ぎていってしまうだろう。
「そうか……。九年もの間、隠し通してきたということか」
「ラスタ・リーンが庇ってくれなければ、オフィディア家の者によってこの子はとうの昔に抹殺されていたでしょう」
 サイモスはようやく自分のために用意された酒を口に運んだ。喉を潤したくなったのだろう。一気に杯の半分量を干した彼は、満足そうにため息をついた。
「ランカーンは野心家ですからね。この子を任せるには、いささか抵抗があります。ならばいっそのこと、ランカーンや家の者を抑えることができる殿下に引き取ってもらったほうが、この子にも良いかと思いまして」
 杯を机の上に戻したサイモスが、伏せていた視線を真っ直ぐに王子へと向ける。口元には華やいだ笑みが浮かんだままだが、サイモスの瞳は真剣そのものだった。
「判った。望み通り引き受けよう」
 相手の眼差しに、リュ・リーンはしっかりと頷き返した。サイモスが持ってきた話は、決してリュ・リーンの不利益になるものではない。むしろ相手からの提案があったように、オフィディアという家を抑える駒の一つになり得る。
「ありがとうございます。……ほら、ドワティス。お前からもお礼を申し上げなさい」
 リュ・リーンの瞳をまじまじと覗き込んでいた少年が、パッと艶やかな微笑みを浮かべて頭を下げた。言葉を発することができない彼なりの感謝の意なのだろう。
「あ~……。それから殿下。この子はラスタ・リーンにここまで育てられたようなものですので……その……あなたの瞳を怖がることは……ありません。むしろ、妻から聞いた寝物語のせいで……殿下にまとわりつくかもしれないのですが……」
「……どういうことだ?」
 次姉ラスタ・リーンが自分を可愛がっていたことは知っている。その姉が世話をしていた子どもならば、人から怖れられる魔の瞳(イヴンアージャ)を持つリュ・リーンを怖れることのない子に育てたかもしれない。が、それがまとわりつくこととどう関係してくるというのだろうか。
「その……殿下の瞳は、死の王(ルヴュール)の瞳ですから……」
「だから……?」
 急に歯切れの悪くなったサイモスの様子にリュ・リーンは眉をひそめた。姉はいったい自分の瞳をどのように説明したというのだろうか。
「あの……妻と……ラスタ・リーンと逢いたくなったら、橋渡しをしてくれる瞳だと……」
 リュ・リーンは目を剥いた。確かに死の王は死者を冥界へと連れていく者だが、死者と生者を引き合わせるための神ではない。姉は神話を激しく曲解して、目の前の子どもに教え込んでいたらしい。
 そのとき、少年が兄の膝から滑り降りると、王子の足下にうずくまった。じっとリュ・リーンを見上げてくる蒼紺の瞳には、抑えがたい希望の光が浮かんでいる。
「ま、まさか……俺にラスタ・リーン姉上を呼び出せる力があると思っているのか?」
「その……まさかでして……」
 そんなことができるはずがない。が、できないとむげに断るには、足下の少年はあまりにも純粋な瞳を向けてくる。できないと知ったときの、彼の落胆ぶりがありありと判るだけに、おいそれとそれを口にすることはできなかった。
「サイモス卿……。どうして訂正しなかった?」
「訂正したのです。ですが……まったく聞き入れませんで。こうなったら、殿下ご本人から言っていただいたほうが良いかと……。申し訳ありません」
 あまりの申し出にリュ・リーンは頭を抱えた。よりによって、自分がそんな因果なことをしなければならないとは。
 だが、他の者の言葉を目の前の少年が受けつけるとは、到底思えなかった。今まで側にいた者が死に、もう二度と逢えないという哀しみは大人でも信じたくないことだ。
 チラリとリュ・リーンが足下を見下ろすと、少年は期待に胸を膨らませ、さらに瞳をキラキラと輝かせて、こちらをじっと見上げている。
 この瞳が自分の言葉一つで曇ってしまうのかと思うと、リュ・リーンはとても本当のことを伝える自信がなかった。
「ドワティス……」
 困惑した表情でリュ・リーンは少年の肩に手を置いた。
 華やいだ微笑み向けてくる少年の表情を見るにつけ、姉の突拍子もない世話の仕方が恨まれる。どうして姉は嘘などついたのだろう。リュ・リーンに神の真似事などできるはずがないのに。
 戦場では命乞いをする敵を無慈悲に殺しているというのに、何の力もない目の前の少年を傷つけることができず、リュ・リーンは途方に暮れてため息をつくばかりだった。
「ドワティス。今のお前では、ラスタ・リーン姉上に逢うことはできない……」
 少年の表情が見る見るうちに強ばり、輝いていた瞳が曇っていく。その様子にリュ・リーンは慌てて言葉を繋げた。
「ただし、お前が立派な大人になれば、その願いは叶うだろう」
「で、殿下。それは……!」
 傍らでハラハラしながら見守っていたサイモスが息を飲んだ。
 それをリュ・リーンは流し目で制すると、再び少年に向き直って、相手の瞳を覗き込む。失望に曇っていた少年の瞳が再び光を取り戻していた。
「いいか。逢えるのは立派な大人になった者だけだ。お前はどうだ、立派な大人になれるのか?」
 少年は一生懸命に首を縦に振っている。亡くなった者と再会できるという希望がある限り、彼は諦める気はないようだった。
「オフィディアの者は十四で成年だったな。では、これから五年間、俺が言う通りに身体を鍛え、知識を身につけることだ」
 さらに少年は大きく頷き、嬉しそうに破顔して兄に飛びついていった。
 二人のやり取りを見守っていたサイモスは、弟を受け止めながら困ったように王子と弟を見比べる。
「あの……殿下……」
「今は何も言うな……。今後の対策をどうするかは、追々に考えるから」
 リュ・リーンは大きなため息をつき、肩を落とした。前途多難な気がする。純粋無垢に育てられた少年は、相手を疑うということを知らない。
 少年はリュ・リーンを全能の神か何かのように思っているようだ。どうやって死者と生者の境界線を教えたものか。
 外見よりも幼い心を持つ少年の姿を見守りながら、リュ・リーンは先行きの不安に頭を抱えざるを得なかった。

〔 15486文字 〕 編集

後日譚

No. 83 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第13章:両腕

 蕾をつけ始めた花たちの間を行き来する娘の姿が見える。ダイロン・ルーンはその姿を眩しげに眺めていたが、思いきったように口を開いた。
「カデュ・ルーン。そちらへ行ってもいいか?」
 弾かれたように娘の白い顔が上がり、兄の姿を認めると、嬉しそうに手を振って応えてくる。相手の了承を得ると、ダイロン・ルーンはゆっくりと花畑へと足を踏み入れた。
 ここ聖地(アジェン)で春の訪れを教えるものといえば、カリアスネの花の香りと、背後にそびえる山脈から流れくるポトゥ大河の荒々しいせせらぎの音だろう。
 カリアスネは祭壇で焚かれる香油にかかせない。この花の香りを抽出して油に匂いつけをするからだ。聖地はカリアスネの最大最高の生産地でもあった。
 王宮の外にあるカリアスネの花畑であれば、今頃は下働きの者たちが整然と畝に沿って繁るカリアスネたちの新芽の選り分けをしているだろう。しかし、王宮内のこの花園にはカデュ・ルーンと彼女の手伝いをしている宮女数人の姿しか見えなかった。
「兄様、今日は帰りが早いのね。もうお仕事は終わり?」
「いいや、これから空庭(フォルバス)で剣の稽古だよ。選王会の開催が早まったお陰で稽古場は大混雑だが」
「王宮でも誰も彼もが浮き足だっているわ。……怖いくらい」
 美しい眉をひそめてカデュ・ルーンが俯く。長い睫毛に縁取られた新緑の瞳には不安が浮かんでいた。
「私は負けないよ、カデュ・ルーン」
「兄様が負けるなんて思ってないわ。でも、男の人たちがひそひそと物陰で内緒話をしている姿を見ると、良くないことが起こる前触れのような気がして落ち着かないの」
 小さく首を振る妹の様子はあどけない子どものようだ。足下のカリアスネが咲き誇る頃には、彼女も十五歳になるが、まだまだ顔には幼さがくっきりと浮かんでいた。
「選王会は聖地の貴族にとっては一生どころか、一族の命運を左右するものだからね。いかに勝ち上がっていくか、あるいは時期聖衆王の記憶に強い印象を残すかで、皆が躍起になっている。殺気立っている者もなかにはいるから、お前も出歩くときには気をつけなさい」
「はい……」
 選王会は表だっては王を決めるものだ。だが、実のところは聖地の貴族たちの間での足の引っ張り合いが半ば公然化するものでもある。どちらがより優位に立つか、それがこの時期の貴族たちの最大の関心事だ。
 選王会に参加する本人の技量だけで勝ち上がっていくのならいい。が、そんなきれい事が通用するものではないのだ。選王会の裏側では、周辺諸国からの賄賂(まいない)やら策謀が渦巻き、それを見越して立ち回る聖地の貴族たちが蠢いている。
 対立する者のみならず、その親族にも害意は向けられることになる。女子どもなどは格好の標的だ。
 元から表を出歩く質ではないカデュ・ルーンに、こんな脅すようなことを言ったのでは、余計に彼女は外へ出なくなってしまうだろう。しかし、自分だけならまだしも、彼女が狙われるようなことになれば、ダイロン・ルーンは身動きがとれなくなってしまうのだ。
「リュ・リーンから手紙は来ているかい?」
「えぇ。昨日、一番新しい手紙が届いたばかりよ。選王会……トゥナからは彼と、何人かの貴族の方が出席するようよ。お父さまへのご挨拶もあるから、彼だけは早めにこちらへ来るみたい」
「そうか。……貴族たちも来る、か」
 ダイロン・ルーンの表情が一瞬だけ歪み、すぐに元の端正でやや冷たい印象を与える美貌へと戻った。氷色の彼の瞳は感情らしい感情を浮かべてはいない。
「兄様。リュ・リーンと一緒にくるトゥナの貴族の方々は、彼にとっては良い方ではないのかしら?」
「そうだな。リュ・リーンの立場は夏の戦でかなり固まったように見える。が、それを快く思っていない者もまだいるだろう。それにトゥナ貴族の連中の力が弱体化したわけではないからね。まだまだ軋轢が残っているはずだ。カデュ・ルーン。お前もリュ・リーン以外のトゥナの連中とつき合うときは用心したほうがいい」
 素直に頷きながら、カデュ・ルーンが兄の顔を見上げる。信頼を浮かべた視線を向けると同時に、不安そうに寄せられた眉が彼女の内心の動揺を表しているようだった。
「大丈夫だ。リュ・リーンも私もそう簡単に負けたりしない。カデュ・ルーンは笑顔を絶やさないことだ。お前の笑顔がリュ・リーンには何よりの慰めになるだろうからな」
 兄の言葉に励まされたように、カデュ・ルーンがふんわりとした柔らかな微笑みを浮かべる。この場だけ先に春がきたような優しい温もりのある表情に、ダイロン・ルーンは今さらながら心癒されている自分がいることを感じていた。




 足早に大理石を蹴りつけ、廊下を進むウラートの表情はいつもより険しく見えた。しかし、彼の微妙な変化が判る者は少ない。すれ違う従者たちや貴族は、彼に特別な注意を払っているわけではないのだ。
 ウラートの格好は宮廷で生活しているときの衣装ではない。馬に乗りやすい簡素な服装は、彼が遠くリーニス地方から帰還したばかりだということを教えていた。
「まぁ! ウラート卿、お帰りになったのですね」
 脇廊下から上がった声にウラートはハタと立ち止まって振り返った。年のいった女官が見習いらしい女官を数人引きつれて、こちらへと歩み寄ってくるところだった。
「ただいま帰参しました。こちらは変わりなかったですか?」
「えぇ。リュ・リーン殿下がすっかり大人になられたことを除けば、他はつつがなく」
「私が王子を冬の間見なかっただけで、また背が伸びているなんてことはないでしょうね? 夏の勢いで背が伸びたのでは、とんでもない巨人になっているでしょうけど」
 見習いの女官たちはウラートが初めて見る顔ぶれだった。まだ王宮に入ったばかりの者たちなのだろう。気恥ずかしそうにチラチラと上目遣いでウラートを見ては、隣の者たちと目配せをしている。
 地方の領主の娘たちなのだろうか、彼女たちの立ち振る舞いは、柔らかではあるがどことなく田舎臭さが抜けていない。
「冬の間にもほんの少し背が高くなられましたわ。ウラート卿を追い抜いたのではないかしら。今度からお説教をするのが大変ですわよ?」
「見上げるような背になっていたって、誰が負けるものですか。王子の我が侭を注意できる人間が私の他にいるとでも? ほぼ半年ぶりですからね。私がいない間は好き勝手していたのでしょう? 気を引き締め直していただきますよ」
「まぁ、怖いこと。殿下にしてみれば、あなたのお帰りは嬉しさ半分、怖さ半分といったところでしょうね。でも去年に比べて、本当に丸くなられましたわ。それでも、この娘たちには怖い存在のようですけど。そうそう。あなたは初めてでしたわね。ご紹介いたしますわ」
 ようやく自分たちに話題が振られ、若い女官たちは一様に頬を染める。目の前に立つ美貌の従者に舞い上がっているようだ。
 ウラートはいつもの反応に内心で苦笑しつつ、年かさの女官から一人一人女官たちを紹介されるたび、優雅に腰を折って彼女たちに微笑みかけた。
「よろしく、お嬢さん方。王子付きのウラートと申します。皆さんの働きに期待していますよ。殿下は気難しい方ですから、気を使うことも多いでしょう。今のうちに私からお詫びしておきますよ」
 ゆったりとした仕草で頭を下げる王子付きの従者の態度に、緊張のあまり涙目になっている娘もいる。
 ウラートはいつも通りに柔和な笑みを向けるだけで、若い女官たちとそれ以上話をしようとはしない。見習いたちは彼の笑顔に顔を真っ赤に染めている。
 ウラートは馴染みの女官に向き直ると王子の所在を訊ね、女官たちを残してさっさと立ち去ってしまった。
「じょ、女官長様。あの方はいつもあんなにお優しいんですの?」
「男の方なのにあんな綺麗な方、初めて見ましたわ」
「王子様は怖そうな方なのに、あの方はなんて物腰が柔らかいんでしょう」
 口々に騒ぎ始めた見習いたちに向かって、中年の女官が顔をしかめる。眉間に浮かんだ皺が彼女の苛立ちを如実に表していた。
「皆さん、おしゃべりが過ぎますわよ! さぁ、しゃんとなさい。街娘でもあるまいに、そんなに浮かれていてどうしますか!」
「でも……!」
「あぁ、もっとお話したいわ」
「女官長様。あの方のこと、なんでもいいから教えてくださいな」
 ウラートが立ち去った後には、見習いの女官たちが年上の女官を質問攻めにしている光景があった。




 一年ぶりの王宮は、やはり聖地(アジェン)での選王会の話題で浮ついている様子だった。ほぼ二十年ごとに巡ってくる水面下の騒乱は、貴族たちの最大の関心事だと言ってもいいだろう。
 ウラートは女官長から聞いた場所へと急ぎながら、廊下の柱の陰で囁き合う貴族や宮廷従者たちの様子に舌打ちした。
 胸がむかついてくる。ここはトゥナ王国の王宮だ。遠い聖地の長に忠誠を誓うのと同じだけ、この王国の王家にも忠誠を誓ったらどうなのだ。
 彼ら貴族を養っているのは、聖地でお高くとまっている神殿貴族どもではなく、王家ヒルムガルであるというのに。
 王の執務室に続く廊下の手前で、ウラートは先触れをする従者に声をかけた。案の定、王子リュ・リーンは父王の元で話をしているとのことだ。
 王子付き従者の特権だ。遠慮なく廊下を進み、執務室の扉を叩くと、室内からのいらえも待たずに扉を開けた。
「ウラート! 帰ってきたのか!」
 目を細めて不敵に口元を歪める王とは対照的に、リュ・リーンは暗緑の瞳を大きく見開いて驚きを露わにする。が、それもすぐに満面の笑顔へと変わった。
「ウラート・タウラニエスク、リーニスより帰参いたしました」
 腰を折り、上目遣いに挑むように王に頭を下げると、シャッド・リーン王が喉の奥で笑い声を上げる様子が見える。
 この国王はいつでも臣下を煙に巻くが、決して凡庸な王ではない。そのことをウラートは厭と言うほど見せつけられてきた。
 ウラートが腰を伸ばし、リーニスの現状を報告しようと口を開くより早く、王は顔をフニャリと崩して隣りに立つ息子に声をかける。
「リュ・リーン~。ウラートも戻ったことだしぃ~。お前は少し休めぇ~」
「そう言って俺の従者をこき使うつもりか? 冗談じゃないぞ。リーニスから戻ったばかりのウラートを親父の手足のごとく使われたら、俺が聖地に行くときの侍従頭がいなくなるじゃないか! リーニスの報告なら書面で届いていただろう。俺の侍従は連れて帰らせてもらうぞ」
 リュ・リーンの瞳が剣呑な光を湛え、父親の言葉に反抗した。スタスタとウラートの傍らに歩み寄ると、リュ・リーンは遠慮なく従者の腕を取り、執務室から引っぱり出そうとする。
「リュ……。殿下、王陛下への報告が終わっておりません!」
「お前がこまめに送ってくる報告書のお陰で、口頭での報告は必要ないはずだ。長旅で疲れているんだから、お前は今日くらい休め! でないと、親父にいいように使われるだけだぞ」
「報告書は報告書です。詳しいことはやはり私の口からでないと……」
「お前の主人は俺だ。親父じゃない!」
 ギラリとリュ・リーンの瞳が光った。トゥナの人間ならその瞳を見ただけで怖じ気づいてしまいそうだが、ウラートには通じないようだった。
 腕を鷲掴みにしている王子の手をそっとはずすと、ウラートは相手の瞳を覗き込んで言い含めるような口調で相手をなだめた。
「陛下へのご報告はすぐに終わります。信用していただけないのなら、廊下でお待ちください。終わったらすぐに王子宮へお供しますので」
「……判った、廊下で待つ。おい、親父! 俺の従者をサッサと返せよ!」
 父親をチラリと一瞥すると、リュ・リーンは足音も荒々しく部屋を出ていった。もちろん、そのまま廊下を歩いていったりはせず、扉のすぐ目の前でウラートを待っているのは間違いない。
「やぁれやれ。ウラートが帰ってきた途端に我が侭の虫が騒ぎ出したようだな。まったく、我が侭を言う顔つきはミリアにそっくりだ。……で、ウラート。報告書の内容以上に重要なことでも起こったのか?」
「いえ、砦でちょっとした話を聞きまして。……リュ・リーンがオフィディア伯サイモス卿の異母弟ランカーンとつき合いがあると」
 ウラートの潜めた声にシャッド・リーンが片方の眉をつり上げた。苛立っているという表情ではない。この国王は明らかに面白がっていた。
「ほほぅ。あいつもいっぱしにランカーンを顎で使うようになったか」
「笑い事ではありません。リュ・リーンがオフィディア家の当主をすげ替えようとしていると噂にでもなったらどうなさるのです。ギイ伯との均衡を取るためにオフィディア伯を重用しているというのに、跡継ぎの王子が現当主を軽視しているなどと誤解されては、最悪の場合サイモス卿がギイ家と手を組みますよ」
 潜めてはいるが、ウラートの声は鋭かった。扉の向こう側にいるであろうリュ・リーンを気遣って大声を出さないが、自分の主人を守るためなら、その主人の父親であろうと容赦しないつもりのようだ。
「おぉ、怖い! ウラートの綺麗な顔で凄まれると、リュ・リーンの癇癪など子供だましだな」
「陛下! 遊んでいる場合ではありません!」
「判った、判った。そう怒るな。……まぁ、大丈夫だよ。サイモスは小心者だ。そしてオフィディア家の人間にしては、欲が少ないときている。もしも異母弟のランカーンが本気で当主の座が欲しいと言えば、あいつはアッサリと譲るだろうよ。妻の地位を守ってやる必要もなくなったことだしな」
 頬杖をつき、睨みつけてくるウラートの藍色の瞳を見上げると、シャッド・リーンはいたずらっ子のような笑い声をあげた。相手の毒気を抜く、いかにも無邪気な笑いだ。
「ウラート。リュ・リーンもバカじゃない。ランカーンの奴を振り回し、引っかき回している最中だ。あれの目に適うような人材かどうか、お前も見極めておけ。……先ほどリュ・リーンが王子付き近衛に増員を要求してきた。どうも、ランカーンが絡んでいるようだからな」
「何もかもご存知、という訳ですか……」
 ウラートがため息とともに肩の力を抜く。気負ってここまでやってきたのがバカらしい。
「なに、かしましい女官連中の噂話がこういうときは役に立つってことだ。お前だってそれはよく知っているだろう、ウラート」
「そのようですね。だからこそ、噂を侮ることはできませんよ。リュ・リーンと話をしてきます。彼が何を考えているのか聞かないことには……」
「あぁ、そうしてくれ。……頼むぞ、ウラート」
 小さく頷き、ウラートは王に背を向けた。その背に王が再び声をかける。
「選王会で貴族連中が浮き足立っている。聖地にはギイ伯シロンとオフィディア伯サイモスも行くことになる。……サイモスはともかく、シロンの動きを封じる必要があるぞ。あれは、リュ・リーンには目障りな存在だからな」
 ウラートは振り返ると、王の真似をして不敵な笑みを口元に湛えた。昔の彼ならこんな顔はしなかっただろう。ただオドオドと相手の顔色を伺うばかりで。
「もちろん、承知しておりますよ、陛下。全力で、王子殿下の行く手を遮る者を排除いたしますとも!」
 大仰なほど深々と腰を折り、ウラートが一礼する姿を、シャッド・リーンが頼もしげに見守っていた。王の口元には至極満足げな微笑みが浮かんでいる。
 無言のままの王を残し、ウラートが執務室を退出すると、すぐ目の前にしかめっ面のリュ・リーンが立っていた。それほど待たせたわけではないが、彼の眉間に刻まれた皺の深さが、端的に彼の不機嫌の度合いを示している。
「お待たせしました、殿下」
「遅い。待ちくたびれた!」
 口を尖らせるリュ・リーンに柔らかな微笑みを向け、ウラートは廊下の先を指さして王子を促した。
「参りましょう。私がいない間の色々をお聞きしたいですしね」
「お小言が言いたくてうずうずしてるだろ。そうはいかないからな。お前がいなくても、俺一人でやってきたんだぞ」
 ふてくされた口調でウラートに返事を返しながら、リュ・リーンは先に立って歩き始めた。心なしか、彼の足取りが弾むように見える。
「お一人でこなせたかどうかは、お話を伺ってから判断させてもらいましょう。……たぶん食事に関する限り、あなたは見張りがいないとメチャクチャですからね」
 背後のウラートの嫌味に、リュ・リーンが渋面を作って舌を出した。
 後ろにいるウラートにその様子が判るはずもない。が、彼は微かな笑みを口元に浮かべ、まだリュ・リーンより精神的に優位にいる自分を確認して満足しているようだった。




 フードを目深に被った男を振り返り、ウラートは眉間の皺を深くする。聖地へと向かう王子の行列のなかに紛れるこの男のことが、ウラートにはよく判らなかった。
 名をシーディ。オフィディア伯サイモスの異母弟ランカーンがゼビ王国より連れ帰った流浪の剣士だと言う。
 瞳の色以外、外見的な特徴はリュ・リーンに瓜二つの男を初めて目にしたときは、さすがのウラートも眼を丸くしたが、見馴れてみると、当たり前のことではあるが雰囲気はまったく別人のものである。
「それにしても……」
 ウラートは知らず知らずの間に小さな呟きを漏らし、それに気づくと慌てて前方の山脈を見上げ、それからすぐ前を往く年下の主人の背を睨みつけた。
 王都(ルメール)に戻ってすぐにリュ・リーンから聞かされたランカーンとのやり取りに、ウラートは少なからず腹を立てたのだが、それ以上に目の前の男を召し抱えたリュ・リーンの酔狂に呆れ返っていた。
 自身の影武者にするでもなく、ただ単に近衛兵にするだけのために召し抱えたと聞いたときには、リュ・リーンの頭がおかしくなったのではないかと思ったほどだ。
 それでもガミガミと説教をするでもなく、リュ・リーンの思うがままにやらせているのは、私生活以外のことでは、リュ・リーンは正しいと思ったことを絶対に撤回したりしないからだ。
 だからと言って、周囲の者の言葉に耳を貸さないわけではなく、間違いがあればそれを訂正する器量も持っている。いつも態度が素っ気ないために、彼が間違いを訂正しているのだと周囲の者が気づかないだけで。
 結局のところウラート自身がやることと言えば、リュ・リーンがより動きやすいように、周囲の者たちとの橋渡しをすることに終始していると言ってもいいだろう。円滑に人を動かせるというのは、組織の頂点に立つ者にとっては何よりも重要なことであるのだが。
「仕方ありませんね。彼の人となりを探っておきましょうか……」
 気乗りしないことであったが、ウラートは自分の役割を思い出したように馬の歩みを緩め、後ろに従っている男の馬と愛馬を並ばせた。
「何か用か?」
 シーディという男は人嫌いというわけではないようだった。その証拠に、こちらから話しかける前に彼のほうから声をかけてくる。もっとも、言葉少なではあるが。
聖地(アジェン)でのしきたりを憶えましたか?」
 これから向かう先は、トゥナの王宮以上に陰険な連中が集まっている場所だ。隣りを歩む男は王子と似ているだけに、何かと注目されるだろう。些細なことで揚げ足を取られるのはごめんだった。
「付け焼き刃ながら、一応は。だが、実際の場面で役に立つかどうかは判らんな。あの王子様と違って、オレは育ちの良くない人間なんでな」
「それでけっこうですよ。完璧など、王子も求めてはいないでしょう」
「どうだか。あんたが王都に戻ってくるまでの間のリュ・リーン王子の態度を知ってるか? オレをボロカスにこき下ろして、使えない奴だと嘲りやがったんだぞ」
 フードの下から覗いているシーディの口元が、腹立たしそうに噛み締められた。自嘲を僅かも含まない憤りに、ウラートは口元をほころばせる。彼の負けん気の強さはリュ・リーンにひけを取らないようだ。
「本当に使えないと思ったのなら、当の昔にお払い箱にしていますよ。王子はそりの合わない人間を手元に置くお方ではありません」
「王子とのつき合いの長さの最長記録を更新しているあんたに言われると、むかついてくるな。捨てられるほうが悪いような言い方だ」
「私は嘘を言っているわけではありませんからね。腹が立つのはそちらの勝手です」
「あんただってオレと大差ないくせに」
 苛立ったシーディの言葉の意味するところを理解して、ウラートは目を細めた。女性的ともいえる彼の柔和な顔立ちが、一瞬にして仮面のように固まる。
性奴(スィーヴ)上がりが王子の養育係をやってるんだ。あの王子様の変わり者ぶりはあんたのせいだろ? どんな手管を使ってたらし込んだんだか、是非ともご教示願いたいね」
「……それを本気で望んでいるのなら、お教えしますよ」
 ウラートの静かすぎる声に、シーディが言葉を詰まらせた。フードの下から覗く彼の灰色の瞳が、気味悪そうにウラートの横顔を見つめる。
「なんで怒らない?」
「ばかばかしすぎて怒る気にもなりません。その程度の挑発に乗っていては、王子の近衛などできませんよ? あのお方は人使いが荒いですからね。覚悟しておきなさい」
 冷たくそれだけを言い渡すと、ウラートは愛馬の脇腹を蹴ってシーディから離れた。
 内心の煮えくり返るような怒りを抑え込むのに苦労する。貴族連中にいつも言われていることだと自身に言い聞かせても、沸騰する怒りに馴れるわけではないのだ。
 なぜリュ・リーンはこんな不愉快な輩を手元に置こうとするのだろうか。別にシーディなどいなくても、彼は充分に王太子としてやっていけるはずなのに。居なくても良い人材など無益なだけではないか。
 表面上は無表情であったが、ウラートは前方の王子の背を射抜くほど鋭い視線で睨んだ。胸の奥に沸き上がってくる苦みが、ひどく息苦しい。
 この想いは、自分がいない間に見知らぬ男を側に置いたリュ・リーンと、似ているというだけで王子の側にいるシーディに対しての嫉妬だろうか? それとも自分の居場所がほんの少し狭くなったことに対する不安なのか?
 ウラートの視線の先では、王子の羽織る新調されたばかりのマントが、縫い取られた金糸を鈍く輝かせて揺れていた。複雑に絡み合う蔓草紋様と鎖紋様のなかに、トゥナ王家の紋章が浮き上がっている。
 見慣れた意匠だった。国王シャッド・リーンも同じ紋章の、さらに派手なマントを羽織っている。王家の直系にのみ使用が許される紋章を、ウラートは複雑な想いで見つめていた。
「ウラート。ちょっとこい」
 ふいにリュ・リーンに呼びかけられ、ウラートは動揺した。一瞬だけ目を伏せたが、すぐに気を取り直すと、巧みに馬を操って前方へと駆けていく。
「御前に、殿下」
 心のなかの動揺を表面に表すことなく、ウラートは主人と馬首を並べた。彼の夜明け寸前の空の色をした瞳が、王子の青白い横顔に浮かんでいる苦笑を見つけて尖った。
「何を面白がっているんですか、リュ・リーン」
「お前、俺を睨み殺すつもりなのか? 先ほどから背中が痛くて仕方がないぞ」
「おや。自覚があったのですか? それは残念ですね。判っていらっしゃったのなら、もっとおおっぴらにやればよかった」
 ウラートの嫌味にリュ・リーンがさらに苦笑を浮かべ、チラと肩越しに背後の隊列を見遣った。蟻のように長く続く列のなかにシーディの姿を見つけると、彼の口元が不機嫌そうに歪んでいることをしっかりと確認する。
「シーディとやり合ったか? お前にしては珍しく、本気で怒っているようだな。何を言われたか知らないが、聖地では機嫌を治してくれよ。お前の調子が悪いと、俺の仕事が一つも片づかないからな」
「あんな俗っぽい男など召し抱える必要があったんですか? 不愉快です。傭兵上がりのくせに、身の程を知らないとは」
「ウラート。お前らしくない言い方だぞ。俺が愚痴を聞かされて喜ぶとでも思っているのか?」
 冷徹な声音のリュ・リーンをウラートは剣呑な視線で睨んだが、すぐに瞳を伏せてため息をついた。
「すみません。頭に血が昇っているようです。自分の隊列に戻ってもよろしいでしょうか?」
「あぁ。聖地に到着したら忙しくなる。……頼むぞ」
 ウラートは王子に小さく頷き、馬首をめぐらせて自分の隊列へと戻っていった。胸中に渦巻いていた苛立ちが、リュ・リーンと話をしたことで少し落ち着いてきたようだ。
「他愛のない話をしただけで機嫌が治るとは……。まるで女のようですね」
 誰にも聞き取れない呟きを舌の上で転がすと、ウラートは自嘲に口元を歪めて嗤った。




 気分は最悪だった。ウラートは努めて顔には出さないようにしていたが、たぶんリュ・リーンには気づかれているだろう。
 聖地(アジェン)に入城してすぐ、リュ・リーンはシーディにフードを取るよう命じていた。それでなくても今回のリュ・リーンは周囲から注目を集めるだろうに、そこに余計な話の尾ひれがつくような話題を提供することもあるまいに。
 王宮の棟を繋ぐ回廊を足早に歩きながら、ウラートは忌々しげに舌打ちを繰り返した。今回のリュ・リーンの酔狂が理解できない。王都(ルメール)で詮索したときもはぐらかされたが、ここへ来る道中でも彼の真意を図ることができないままだった。
 ふと回廊の途中で足を止めると、ウラートは視界の隅に映った人影を透かし見る。この不愉快の原因である傭兵上がりの男が、ムスッとした顔つきで回廊の端から階下の様子を眺めている姿があった。
 何をしているのだろうかと微かな好奇心が頭をもたげたが、関わり合いになるのも腹立たしく、ウラートはそのまま行き過ぎようと背を向けかける。が、それよりも早く、相手のシーディが仏頂面のままこちらに向かって歩いてきた。
 前方に立っているウラートに気づいたようだが、ウラートに負けず劣らず不機嫌になっているらしい彼は、ウラートを無視するという選択肢も思いつかない様子で近づいてくる。
「おい! 何か仕事はないか? このままじゃ、オレの気が狂う」
「来てすぐだというのに、もう聖地の障気に当てられたんですか? そんな柔なことじゃ、近衛侍従としてやっていけませんよ」
「侍従? 近衛兵にはなったが、侍従になった憶えはないぞ! 冗談じゃない。オレにあの王子の夜伽でもしろと言うつもりじゃないだろうな」
「あなたの顔では絶対に無理です。安心しなさい。少しは落ち着いたらどうですか。キャンキャンと周囲に当たり散らされるのは迷惑ですよ」
「だったら、何も考えずにできる仕事をよこせ! 何もせずにボゥッとしていると、身体が腐っていきそうだ」
 苛立ちを隠さないシーディの態度は、数年前までのリュ・リーンによく似ていた。ピリピリと張りつめ、少しのことですぐに噛みついてくる。懐かしい感覚にウラートは渋面を作った。
「馬の世話でもしてきたらどうです? どうせ殿下の身のまわりの世話などやる気にならないでしょうし」
「とっくに追い出されたよ。この面でウロウロされると心臓に悪いんだとさ!」
「あぁ、そうですか。では厨房で酒でももらって飲んでいたら?」
「お前、オレが他に何もできないと思っているだろう?」
 こめかみに青筋を立てたシーディを、ウラートは冷たく一瞥したが、すぐに顔を背けて歩き始めた。彼につき合っている暇などない。仕事は自分から探せばいくらでもあるのだ。それくらい自力でなんとかしてもらわなくては。
「ちょっと待て! オレを無視するな!」
 噛みついてくる相手にまともに対応していたのでは、時間はいくらあっても足りない。さっさと無視して自分の持ち場に戻ったほうが賢明というものだ。
 しかし、ウラートの後ろにはシーディがぴったりと張りついている。がなり立てるシーディと素っ気ない態度のウラートの二人連れが廊下を行き過ぎると、行き会った他の従者たちは呆気にとられて彼らの背中を見送ることになった。
 さしものウラートも、いっこうに離れようとしないシーディに業を煮やし、険悪な顔つきで振り返って相手の灰色の瞳を覗き込んだ。
「少しは自分で考えたらどうなんですか? あなたは誰かから命じられないと、何もできないんですか!?」
「お前だってやろうとすること全部、そんなことしてもらわなくてもいいと言われてみろ。少しはオレの気持ちが判るだろうよ!」
「そこで大人しく引き下がらなければいいでしょうに!」
「オレが近寄るたびに怯えられてみろ。気が滅入って仕方がない!」
 吼え立てるシーディの遙か後方に、二人の成り行きを見守っている同僚たちの姿が見える。たぶん、自分の背後にも同じように人垣ができているだろう。この階どころか、他の階の人間まで覗きに来ているに違いない。
「だったら、あなたと同じ顔をした人に文句を言いに行きなさい! 私に八つ当たりされるのは迷惑です!」
「あいつは今、女といちゃついてるところだよ!」
「誰があいつですか! ちゃんと殿下と敬称で呼びなさい!」
「自分と同じ顔をした奴に敬語なんか使えるか! 気色悪いだけだろうが!」
 周囲の人間たちはハラハラとした顔つきで見守っているばかりで、止めに入る勇気を持っている人物は一人もいない。殴り合いになりそうな二人の剣幕に恐れをなして、遠巻きに見守っているで精一杯のようだ。
 彼らの間に落雷の声が響いたのは、喧噪が頂点に達しようかというところだった。
「やかましいぃっ! 静まれっ! これ以上騒ぐつもりなら、聖地の外へ出てやってこい!」
 二人同時に声の方角に振り返って見れば、黒と銀の影が寄り添うように佇んでいる。目を怒らせているリュ・リーンと、彼の側に付き従う聖地の姫の存在に、他の従者たちは潮が引くように姿を消した。
「お二人とも元気が有り余っていらっしゃるようね。これなら、兄様のお相手に充分ですわ」
 隣りに立つリュ・リーンの顔を下から覗き込み、聖地の姫カデュ・ルーンがニッコリと微笑みを湛えた。
 それに応えて笑みを浮かべるリュ・リーンの顔つきが、今までに見たこともないくらいに甘ったるく見えるのは、ウラートの気のせいではあるまい。ウラートのすぐ脇では、シーディが胸焼けを起こしたように口元を歪めて舌を出している。
「リュ・リーン。あなたの両腕のうち片腕をお借りすることになるわ。あなたのほうは大丈夫なのかしら?」
「心配しなくていい。シーディの剣の腕前は俺には劣るが、ダイロン・ルーンの稽古相手にはちょうどいいはずだ。彼にも手加減しなくていいと伝えておいてくれないか」
「ありがとう。兄様に伝えておくわ」
「見間違えようもないが、シーディの面通しも終わったし、今日はこれで帰ったほうがいいだろう。俺が奥宮まで送っていくよ」
 カデュ・ルーンの手を取って二人から背を向けたリュ・リーンだったが、ふと振り返ると、固まっている二人に鋭い一瞥を与えた。
「ウラート。明日からカストゥール候がこちらの中庭に通われる。シーディを剣の稽古相手にさせるから、その間は他の者を庭に近づけるな。それから、シーディ。稽古の最中、候に怪我を負わせることは許さん。宿酔(ふつかよ)いなんぞで顔を出したりしたら、ただで済むとは思うなよ」
 有無を言わせぬ主人の声に、ウラートは反射的に腰を折ると了解の態度を示す。が、シーディはなんとも言いようのない複雑な表情を作って、サッサと歩み去る雇い主とその恋人の後ろ姿を見送った。
「なんなんだ、あいつは。オレを貴族の遊び相手に指名しやがったのか!?」
「本当に、なんて人でしょうね。私が王子の右腕なのは判りますが、こんな暴れん坊と一緒にされて両腕呼ばわりされるとは。甚だ不愉快です」
「おい、お前。今、さりげなくオレのことをこきおろしたな!?」
「人間、真実を告げられると腹が立つものですね」
 サラリと相手の言葉をかわすと、ウラートはサッサと持ち場に向かって歩き始めた。シーディの仕事は明日からということが判ったのだ。もう自分にまとわりつかれる理由はない。
「オレをバカにするのもたいがいにしろ!」
「暇人につき合っている時間の余裕なんかありません。遊びたければお一人でどうぞ」
「女遊びもできない辛気臭い街で何をしろと言うんだ!」
「だったら、男遊びでもしたらどうです」
 ウラートの背後からシーディの怒声が響いてきたが、彼は無視を決め込むと、自室に割り当てられた部屋に滑り込んで扉を手早く閉めてしまった。
 廊下では、まだシーディが口汚くウラートを罵っている声が響いているが、耳から入ってくる鬱陶しい音を遮断して、ウラートは自分の仕事へと戻った。
 忙しい。王子はまったくもって自分を忙しくしてくれる。
 トゥナのことだけでも慌ただしいのに、それに加えて明日からはカストゥール候ミアーハ・ルーン卿の世話まである。氷の美貌を持つ貴公子に難癖をつけられないよう、明日は完璧に出迎えねばなるまい。
 不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま、ウラートは明日の準備のための部下の仕事分配を決め始めた。

〔 13544文字 〕 編集

後日譚

No. 82 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第12章:密議

 冬の日差しは弱く、窓を開けても意味がない。部屋の主人は早々に戸を閉めて、暖炉の前の住人になってしまった。
 椅子に腰を降ろした彼を待ちかまえていたように、低い男の声がかけられた。
「選王会の時期をこれほど早められるとは……。何を考えておいでになるのですか」
 顎髭を撫でつけながら、年老いた男が苦々しげに口元を歪めた。厚手の羊毛と柔らかな山兎の毛で織り上げられた灰色の衣装、彼の真っ白になった髪は、それ自体が光を放っているように輝かしい。
「聖衆王の地位を降りると言っているわけではないさ。王位を譲る前に、後継者を決めて共同で統治できるようにしておく。前の聖衆王もそうだっただろう」
「しかし、共同統治の時期が長すぎますぞ。通例であればせいぜい一年ほど。今回の場合はいつもの倍の二年に及びます。周辺の諸侯どころか、聖衆(アジェス)の間にも混乱を招きかねません」
「そこを上手く取り持ってもらいたいと言っているのだ。ウード枢機卿、議院はそのためにも存在しているはずだが?」
 暖炉の赤い炎をじっと見つめたまま、王と呼ばれた男は口元に蓄えた髭を撫でつけて笑った。悪戯を仕掛けてくるような笑みに、ウードと呼ばれた老人はいっそう口元と眉をしかめる。
「あなたの元で議長をやっていると、心労で倒れそうな気がしますな。この老いぼれを酷使して楽しゅうございますか?」
「貴卿にやれないはずはない。できねば王議会の選王侯を束ねている意味がないぞ。……トゥナが国力を上げてきている。さらに力をつける前に次の聖衆王を選ぶのだ。あれが圧倒的な力をつけた後に聖地の長が決まったのでは、こちらが喰われてしまう」
 聖衆王の口元には笑みが浮かび続けていたが、その瞳は鋭さを増していた。冷徹とも取れる視線の切っ先は、目の前の老人ではなく、遙か彼方を見つめているようだ。
「さようでございますな。夏のリーニスでの勝ち戦以来、日増しにトゥナの親王派の力が強くなっていると報告を受けています。しかし、新たな聖衆王が決まれば、この聖地(アジェン)とて新旧の勢力で割れるやもしれません」
「選王会の時期はいつでも起こっていることだ。上手く御せぬようでは新たな王など務まらぬ。今回の新しい聖衆王を作り出す作業は、我ら王議会でも一年では無理だと判断したのだ。当初の予定より早めて選王会を行う」
「御意」
 枢機卿ウードが微かに頷いた。それだけの仕草だったが、王は満足したように視線を一瞬だけ伏せ、再び瞼を上げた。今度は表情から笑みは消えている。
「そうなりますと、冬いっぱいを準備に費やし、選王会は春ということに。例年ですとトゥナとカヂャが戦を始める頃合いかと思いますが……」
 王の表情はどこまでも相手から本心を隠しているような、つかみ所がないものだった。相手も心得たものなのか、別段気にした様子もない。
「春からの戦は始まるまい。聖衆王の選王会が始まるのだ。各国の王や特使たちが神降ろし(エンダル)を通ってやってくるだろう。カヂャにとっては夏に受けた痛手を癒す格好の年となろうがな」
「カヂャにも恩を売られますか。トゥナのシャッド候もその辺りを予測しておるでしょうな」
 ウードの瞳が子どものようにキラキラと輝き始めた。どうやら身内の調整をするよりも、対外的なことで思考を巡らせるほうが好きな人物らしい。まるでチェスの試合を楽しんでいるような口振りだった。
 ウードの様子に聖衆王がほんの一瞬だけ苦笑いを向ける。
「あれが脳天気にしているとも思えない。カヂャが兵力を蓄える以上に、リーニス地方の軍備を増強するだろうな。……あるいは、トゥナの宮廷に蔓延る寄生虫どもを今度こそ根絶やしにするか」
「それはいささか難しいかと。トゥナ貴族たちはミッヅェルやゼビと婚姻関係にある者も多いのです。下手に彼らに手出しをしては北方同盟にヒビが入りますからな」
 ウードの答えに王は小さく頷いた。しかし、口をついて出たのは彼の同調する言葉ではない。
「だが建国以来の懸案であるワーザスとリーニスとの力関係が崩れ始めている。現在、副都(ウレア)にいる副王の権力は脆弱だからな。ここ数年のうちに完全にワーザスに取り込まれ、名実ともにリーニス領はトゥナ国領となるだろう。そうなれば、トゥナ候の地位は盤石だ」
 王の横顔を揺らす暖炉の炎が不規則に身体を揺り動かして、王の顔に炎の影を刻みつけていた。その赤い影をウードがじっと見つめる。
「これまでもリーニスの副王などに権力はありませんでした。名ばかりの地位にございましょう」
「そうだ。名ばかりの地位だった。しかし、その名ばかりの地位と統治の権力を、あの副王は自らワーザスからやってきた若造にくれてやったのだ。今回は黒太子が統治権を返上したから良いようなものだが、あれが王となった暁には、副王の統治権などあるまいよ」
 王の重い声に耐えかねたように、暖炉のなかで薪が燃え崩れ、ザラザラとかすれた音を立てた。それは二人の会話のなかに出てきたリーニスという地方が、トゥナ王朝の力の前に屈している様子を象徴しているように見える。
「……トゥナは勝ちすぎましたな」
「そうだ。勝ちすぎだ。国同士の均衡が崩れるほどに……。ところが、その勢いを遮るだけの力を今は誰も持っていない。御す者がいるとしたら、その手綱の元を握っているはこの聖地の長でなければなるまい?」
 聖衆王の言葉を肯定して、枢機卿は深く頷き返した。細められた眼の奥では、計算高い瞳が鋭い光を放っている。
「まこと、その通りで。御身の娘御と黒太子との婚儀は、暴れ馬に轡を噛ませるには丁度良い時期だというわけですな」
「さて? どうだろうな。果たして大人しくなるかどうか」
 クスクスと聖衆王が笑い声をあげた。面白がっている様子の王に、ウードも同調するように笑う。
「何を仰せです。陛下の娘御に黒い魔神は首っ丈だともっぱらの噂ですぞ。トゥナ中の女たちが、今頃は胸を掻きむしって悔しがっておりましょう」
「その噂が本当であれば、父親としては娘を取られても溜飲が下がるというものだがな。……では、ウード卿。聖地内にて触れを出し、すぐに諸国にも使者を出してもらえるか? 奴らの泡を食った様子を見るのが楽しみなのでな」
「心得ましてございます。トゥナに集まっている注目、そろそろ我が聖地(アジェン)へと取り戻さねばなりますまいて」
 悠然と立ち上がり、衣擦れの音も静かに頭を下げると、ウード枢機卿は聖地の支配者の部屋から退出していった。
 それを見送る王の顔には、表情らしい表情は浮かんでいない。淡々とした彼の態度から、今までの会話の本心がどこにあるのかを知ることは不可能であろう。銀髪の下の瞳は森の奥深くにある泉のように静かだった。
 トゥナ王国がリーニスの朱の血戦で大勝した翌年、聖暦九九七年の年明けは、この通達により周辺の諸侯たちの間に、新たな緊迫を張り巡らせた。もっとも、それは周辺諸国のみならず聖地の内部をも揺り動かしたのであるが。
 本来は厳冬期の静かなこの時期、聖地からの通達はその寂水の水面(みなも)をざわめかせるに充分すぎるものであったのだ。




 執務室に金と黒の二つの影がいた。黒い影のほうが小柄であったが、それでもどちらの影も平均身長はあるはずだ。
「副王はぁ~、お前の代にはなぁ~、廃止だろぉ? リーニスを併呑してぇ~、二百年だからなぁ。よい頃合いであろうぅ~」
 のほほ~んと間延びした声が金色の影から漏れる。首を傾げて黒い影を見遣る瞳は、晴天の下に広がる海洋のような蒼色だった。
「朱の血戦での人選は、今回への布石だったんだな。まったく喰えない国王だ。副王の一族が地団駄を踏んでいる様子が思い浮かぶよ」
 黒い影が小さく嘆息した。しかし、会話のなかの人物に同情しているというわけではなさそうだ。口元に浮かんでいる微かな笑みは、さも気味がいいと言っているように見える。
「ところで、いい加減にその神経に障るしゃべり方、やめてくれないか」
「うっふふ~。お前もマシャノと同じことを言うなぁ」
「それで直したつもりなのか?」
 黒い影の発する声が明らかに低くなった。忍耐の限界を超えそうなのか、秀でた白い眉間によった皺が深い。
「ちゃ~んと聞き取れるだろぉ? 父はこういうしゃべり方なのだぁ~」
「嘘つけ! 俺が子どもの頃はまともにしゃべっていたじゃないか! イライラするからやめてくれ! 俺の神経を逆なでして、そんなに楽しいのか!?」
「ん~。リュ・リーンと話をすると楽しいなぁ~」
 勢いよく立ち上がると、リュ・リーンは剣呑な瞳を父親に向けた。ほの暗い緑の瞳は、こういうとき凄まじいほどの殺気を放つ。見慣れていない者なら、とうに失神しているだろう。
「ほらほら~。そんな怖い顔をするなぁ。せっかくの美男子が台無しじゃないかぁ~」
「俺は顔の善し悪しなんか気にしてない! もう我慢ならん。そのしゃべり方を続けるなら、俺は自室に帰る!」
 足音も荒々しくリュ・リーンは執務室の扉へと歩き出した。背後の父親のほうを一度も振り返らない。
「あぁ……。ミリア・リーン……。一人息子が余を見捨てていくぞぉ~。寂しいなぁ……。いっそ、お前のところに逝こうかなぁ~」
 扉に手をかけていたリュ・リーンの背中が凍りついた。背後から聞こえる涙声に恐る恐る振り返ってみると、父親が椅子の背もたれにしがみついて、こちらをじっと見つめているではないか。
「別に見捨ててないぞ。そのしゃべり方さえどうにかしてくれたら……」
「ミリア・リーン~。息子が余を苛めるぞぉ。小さい頃はあんなに素直で可愛かったのになぁ。大人になって嫁をもらうとなったら、親は用済みなのかぁ~……」
「用済みだなんて一言だって言ってないだろうが。何を一人でひがんでいるんだ、このクソ親父!」
「やっぱり苛めるんだぁ~。父親って損だよなぁ」
 しみじみとした口調で肩を落とすと、トゥナ王は椅子の背もたれからズルズルと滑り落ち、リュ・リーンの視界から消えた。大きな体で椅子の座面に丸まっているらしい。
「判ったよ。判ったから、その態度はやめてくれ。話を聞くから拗ねるなよ。いい大人がみっともないと思わないのか?」
 リュ・リーンはこめかみを指先でグリグリと押し、大きなため息をついた。
 どうしてか、母親の話題が振られると抵抗できなくなる。家臣たちはリュ・リーンの短気を怖れて口にしないが、この父親は平然と亡くなった王妃を持ち出してはリュ・リーンにかまいたがる。
 ひょっこり首を伸ばしてこちらを見る父親の蒼い瞳が笑っていた。涙声などどれだけでも作れるし、この喰えない父親が本気で人前で泣くはずなどないと判っていても、リュ・リーンはどうしてか父の拗ねた態度には逆らい難かった。
 手招きされ、リュ・リーンは大人しくそれに従うと、父親の隣りに腰を降ろした。まだ父親の体格のほうが大きかったが、以前の見上げるような身長差ではなくなっている。そのことが、リュ・リーンには新鮮に感じられた。
「リュ・リーン~。聖地(アジェン)で選王会が開催されるのは聞いているなぁ?」
「あぁ。予定よりも早い。聖地はこのトゥナがよほど怖いのか? 新しい聖衆王をサッサと決めて、その教育にかかりたいらしい……」
 父親がよく使っている香料がリュ・リーンの鼻腔をくすぐった。顔をあげてみると、目の前に父親の顔がある。
「な、なにをしてるんだ?」
「ん~。リュ・リーンは~、目元以外はミリア・リーンに似てるなぁ~っと」
「あぁ、そう……。ちょっと待て。なにをしてるんだ、親父!?」
 トゥナ王はリュ・リーンを抱き寄せると、くんくんと鼻を蠢かせて王子の黒髪の匂いを嗅いだ。
「う~ん。やっぱり匂いはミリア・リーンと違うか~」
「当たり前だ! 母上は花の香料を使われていただろうが! 俺の使っているものは香木だ!」
「チェッ。同じだったら良かったのに~。あぁ、そうそう~。それでなぁ、選王会はお前が顔を出せよ~。余はやることがたくさんあるからなぁ」
 リュ・リーンを抱き寄せたまま、トゥナ王は息子の黒髪に頬ずりした。まるで幼子を可愛がっているような仕草に、リュ・リーンのほうが赤面する。
「やめろ! 気色悪い!」
「気色悪くない~。ん~、やっぱり息子はいいなぁ。娘じゃぁ、こんなことしていたら、婿どもに何を言われるか判らんしなぁ~」
「俺にだってカデュ・ルーンがいる! 離れろ、バカ!」
「そうそう~。そのカデュ・ルーン姫に会えるんだからぁ~。ちゃ~んと良いことしてもらってこいよぉ~」
 首筋まで真っ赤になると、リュ・リーンは腕を振り回して父親の腕のなかから逃げ出した。肩で荒い息をしながら、黒髪の王子は握り拳を震わせている。
「ど、どど……どうしてそういう話になるんだ!? 俺と彼女はまだ結婚してないと、前から言っているだろうが!」
「放っておいたら他の男に盗られるぞぉ~? 選王会って言ったら、各国の男どもがウジャウジャ来るんだからなぁ~。知らないぞ~。彼女が他の男に寝取られてもぉ」
 父親の言っていることは判るが、あまりに直接的な言い方にリュ・リーンはさらに顔を赤くした。
「バカなことを言うな! 聖地(アジェン)内で、聖衆王の娘に手を出す奴がどこにいる!?」
「ここにいる」
 ゆったりと指先をリュ・リーンに向けて、トゥナ王はニヤリと笑う。悪戯を成功させたときの子どもの表情だ。言葉に詰まって立ち尽くすリュ・リーンをたたみ込むように、王はケラケラと軽い笑い声をあげた。
「寝てなくてもぉ、口づけはしただろう~? 下士官どもの間ではぁ、派手な噂になってるそうだぞぉ~。“神降ろし(エンダル)”の地での誓約の口づけは衆目の知るところだからなぁ」
 これ以上は赤くなれないだろうと言うほど顔を染めると、リュ・リーンは動揺に揺れる視線を彷徨わせる。
 下士官たちに見られたのは知っていたが、軍隊どころか父親の耳にまで届くほどの噂になっていようとは思ってもいなかった。こんなに噂になることが判っていたら、絶対にあのとき彼女を抱きしめたりしなかっただろうに。
「だからなぁ~。早いところ孫の顔を見せてくれ~。隠居した父親への孝徳だと思ってなぁ」
「……隠居? どういう意味だ?」
 リュ・リーンは父王の言葉に我に返った。対するトゥナ王は口元に笑みを浮かべたままである。
「まさか、カデュ・ルーンとの婚儀と同時に譲位するなんて言わないよな?」
「それも考えたんだがなぁ~。少々早いんだなぁ。宮廷の害虫どもをもう少し減らしておかんとぉ~、お前の負担が増えるばっかりでなぁ」
 椅子にもたれかかり、頭の後ろで腕を組むと、トゥナ王は面倒くさそうに唇を尖らせた。こういう仕草をすると、さらに子どもっぽく見えるのだが、当の本人はいっこうに気にしていないようだ。
「俺では力不足だと言いたいわけか?」
「そうじゃなくてぇ~。お前の対立勢力を増やす必要もないだろう~。……お前、魔導(インチャント)を学んでいるんだろうぅ?」
 ギクリとリュ・リーンの身体が強ばった。父親にも内緒にしていたのだが、ばれているらしい。この分だと、他の貴族連中にも知られている可能性が高いと見るべきだろう。
「神殿の神官どものなかにもなぁ、お前のことを良く思っていない輩はいるんだよなぁ。貴族の息のかかった連中なんか特になぁ~」
「だからって親父が手を下すこともない。俺が相手をすればいいことだ」
 憮然とした表情でリュ・リーンが父親の言葉を遮った。どうも未だに過保護に扱われているような気がしてならない。いい加減に大人扱いしてくれてもいいようなものだ。
「お前はぁ、神殿の奴らには手を出すな~。あいつらは余が相手だなぁ。お前は貴族たちをどうにかすることを考えろ~。……カデュ・ルーン姫のことはぁ、嗅ぎ回られたくないからなぁ」
「判ってる。だから魔導(インチャント)を身につけようとしているんだから。彼女に手出しする奴らは、ただでは済まさない」
 息子の顔つきを頼もしそうに見つめ、頭の後ろで腕を組んだトゥナ王は、楽しそうに笑い声をあげた。
「手始めにぃ、お前は選王会で他の国の王たちを掻き回す~。その間に余が神殿のなかを粛正ぇ。その後にカデュ・ルーン姫を迎えることになるなぁ。貴族連中はぁ~……う~む。ちと厄介だなぁ」
「俺の即位のときには跪かせてやるさ。あいつらの主が、遠い血筋にあたる異国の王ではなく目の前に立つ者だと……。厭と言うほど思い知らせてやるさ」
 息子の潜められた声にトゥナ王は眼を細め、喉の奥で笑う。リュ・リーンの耳には、その笑い声が先ほどの笑い声よりも残酷で力強く聞こえた。
 やはりまだ父親には敵いそうもない。いつか追いつき、追い越すにしても、その時期は今ではないようだった。




 開け放った窓から差し込んでくる日差しはまだ弱々しかったが、確実に時が経ち、春が近づきつつあることを伝える温みを含んでいた。
「リュ・リーン殿下。例の……あの男が参っておりますが」
 ネイ・ヴィーが足音もけたたましく駆け込んでくる。彼が飛び込んでくる前から、リュ・リーンは彼が部屋へとやってくる気配を感じていた。
「騒々しい奴だな。シーディがきたのだろう。ランカーンも一緒か?」
「は、はい。仕上がりをご覧にいれたいそうですが」
「判った。通せ。そろそろ来る頃だろうとは思っていた」
 窓辺の卓上に足を投げ出していたリュ・リーンがゆったりと身を起こす。だらしないはずの姿だが、彼がやるとそれだけで一枚の絵のようによく似合うから不思議だ。
 再びバタバタと廊下を駆け戻っていくネイ・ヴィーの足音を聞きながら、リュ・リーンは唇に笑みを乗せた。酷薄なその笑いは、彼の姿を魔王そのものに変える。陽光の下にあってもなお暗い翠の瞳が、不気味な輝きを帯びていた。
「さて。どう使ってやるかな」
 一人ごちるリュ・リーンが自分の懐に手を入れて何かを引っぱり出した。握り込んだ掌を開くと、そこには血を溶かし込み、紅玉(ルビー)のように輝く石が乗っている。
「影と成せば恐怖を呼び、対となせば毒を吐く……か。俺にとっては、去年の夏同様の避けては通れぬ障壁だな」
 ふわりと腕を動かして目線の高さまで石を持ち上げると、リュ・リーンは口のなかで低く何事かと呟いた。と、見る間に石の表面が光り、ドクリと蠕動を始める。
 リュ・リーンは石がドクドクと脈打つ様子をしばし眺め、ふと我に返ったように、今度はそっと息吹を石へと吹き込んだ。途端に石の表面に炎の波紋が広がった。炎の波は王子の白い頬にも同じ波紋を映し出す。
「外の様子を見せよ」
 リュ・リーンは当たり前のような顔をして石に向かって呟く。持ち主の声を理解しているのか、脈動する石が身をくねらせて表面の透明度を上げた。血色の輝きのなかに、何やら蠢く影がある。
「ふん。少しはマシな歩き方ができるようになったらしいな」
 石の内部を覗き込んで、リュ・リーンは楽しげに囁いた。見れば、蠢く影は数人の人影となって石の奥に映し出されている。この赤い石は魔導(インチャント)に使われる道具のようだ。
 再びリュ・リーンはか細い息吹を石へと吹きかけた。また表面に炎の揺らめきが蠢き回り、内部に映し出されていた人影も消える。
 王太子は何事もなかったように石を握りしめると、それを無造作に懐へと押し込んだ。酷薄な笑みが消えた彼の表情は、仮面のように無機質なものだ。
 立ち上がった王子は、陽光につられるように窓辺に寄った。冬の終わり、春の到来を告げる薫風はまだ吹いてこない。しかし、その時は確実に近づいてきていた。
 眼下に遠く流れる大河を静かに見下ろし、リュ・リーンは大河の源に佇む王城の鋭き尖塔に思いを馳せた。
「もうすぐ選王会が始まる。ダイロン・ルーン、お前は大丈夫なのか? いかに聖衆王の甥であろうと、お前は選王会での地盤は他の貴族どもの子弟より弱いはずだ……。勝ち残るのは容易いことではないぞ」
 廊下を歩いて近づいてくる者たちより、遙か東の山脈の麓にある聖地(アジェン)へと、リュ・リーンの思いは飛んでいた。身体は王都(ルメール)に縛られていても、心だけは天を駆け、銀色に輝く聖なる王宮に降り立っているようだった。




 黒塗りの馬車がこじんまりとした屋敷へ入っていった。馬止せでその動きを止めると、御者が飛び降りて扉を開ける。
 人影が二つ滑り降りてきた。一人は馬車に乗っていたときから苛立った声をひっきりなしに呟いていたらしく、降りてからも地面を蹴り飛ばし、あちこちに八つ当たりを繰り返している。
「なんなんだよ、あいつは! 俺をなんだと思ってやがる」
「落ち着け、シーディ。殿下の近衛になるということは、ちょっとやそっとの腕前では無理なことだ。お前は物覚えが良いほうだが、やはりまだ殿下のお気に召すだけの教養を身につけてはいないということだ」
 唸り声をあげる若者をランカーンがたしなめる。が、振り返った若者の灰色の瞳は、激昂を抑えるのに精一杯で、ランカーンの言葉の半分も納得して聞いてはいまい。
「俺は貴族のオモチャか? 毎日、毎日、机にかじりついてワケの判らん神話だの伝説だのを憶えて、身体中に痣ができるほど剣の稽古をさせられる。ほとほとうんざりしてきた!」
「そのうんざりするようなことを、あの王子は十七年間やってきているのだがね、シーディ?」
 二人の言い合いの後ろでは、御者がしずしずと馬車を移動させていく。馬たちまでもが、二人の言い争いに巻き込まれることを避けているように見えた。
「十七年! あぁ、考えただけでうんざりする。俺にもこれからずっとそうやっていけってわけか!?」
 うろうろと地面の上を歩き回る若者に近寄ると、ランカーンは若者の肩を軽く叩いた。
「お前は憶えが早い、と言っているだろう。おおよその下地ができれば、ことは息をするのよりも簡単さ。忘れるな。王子に近づけば近づくほど、お前は英雄になれるのだぞ。……王子に取って代われるほどにな」
「王子なんて堅っ苦しいもの、誰がなりたいものか! 俺は暴れ回るための戦場と、飢えなくてすむ食べ物が欲しかっただけだ」
 ランカーンの不吉この上ない言葉にも、若者は渋面を崩さない。苛立ったままランカーンの腕を振り解くと、サッサと建物のなかへと歩み入っていく。
 彼の強ばった背中を見送りながら、ランカーンは苦り切ったため息をついた。
「やれやれ。ウラート卿の苦労が判る気がする。十年以上もあの王子につき合っているというだけで、称賛に値するな」
 軽く首を振ると、ランカーンはゆったりとした足取りで屋敷のなかへと入っていく。
 その彼を招き寄せるように、奥からはシーディの叫び声が聞こえてきていた。空腹を訴えているようだ。怒りを鎮めるために酒や食事が必要なのだろう。ランカーンは苦笑いを浮かべると、待ちかまえていた従者に食事の用意を指示した。
「殿下の我が侭は噂に違わぬ。あいつの我が侭など可愛いものなのだろうな」
 一人呟きながらランカーンは食堂へと向かった。シーディの躾は終わっていない。彼が食事をする間も、あれやこれやと注意をせねばならないだろう。食事くらいゆっくり喰わせろと若者は怒鳴り散らすだろうが、ランカーンとしてはそうも言ってはいられない。
 今日の王子への拝謁でも、彼は不合格のままだった。王太子の近衛とするには役不足だと烙印を押され、シーディは憤懣やるかたない様子だ。いったいいつまでこんな茶番を続けるのか、と。
「茶番でなど終わらせるものか。是が非でもシーディを王子の近衛にする。王子の側に私の息がかかった者を……。オフィディアの当主の座を射止めるには、あの王子の心を手に入れねば」
 ランカーンの囁き声は空気に霧散し、聞き取れるほどの大きさはない。だが彼の表情には微かな野心が覗き、言葉よりも雄弁に彼の内心を物語っていた。




 聖地からの噂は大地を駆け抜け、リーニスの砦にも届いていた。まるで季節の変わり目に吹く風のように一気に駆け抜けた報は、当然のごとくウラートの耳にも達している。
「聖衆王が王議会に対して、選王会の開催を告げたそうだな」
 西のワーザス地方に比べてリーニスの春は早い。温みのある陽の光の下で部下へ指示を出していたウラートの元に、将軍アッシャリーが出向いてきたのは、砦中が噂に浮き足立っているときだった。
「将軍、まさかあなたまで浮ついているのではないでしょうね?」
「まさか。だが通例よりも早い選王会の開催だ。しかも雪解けと供に開かれるとあっては、気にするなというほうが無理だろう。現聖衆王を決める選王会のときは、オレはまだ駆け出しの軍人だったんでな。出来ることなら、今度の選王会を間近で見たいくらいなのだが……」
 顎髭をしごきながら楽しそうに目を細める将軍の様子に、ウラートは大仰なほどのため息をついた。陽光に照らされた彼の夜明け寸前の空色をした瞳が、皮肉をたたえて光っている。
「そういうのを浮き足立っているというのではないのですか? 噂好きな尻軽女と同じ様なことを言わないでください」
「ウラート卿。貴卿はときどき嫌味なくらい冷静だな。選王会ってのは、一生に数度しか行き会わないのだぞ。血統ではなく己の力のみにて王位を選ぶなど、面白いと思わないのか?」
「本来ならば他の王国でも、聖地のように行われていてもおかしくはないでしょう? 王の能力に欠ける者が王位に就いて、国が栄えた試しなどありませんよ。合理的でけっこうではありませんか」
 将軍の好奇心に冷や水を降りかけると、ウラートは大人しく指示を待っている部下に再び命令を下した。
「貴卿と話をしていると、自分がガキのような気分になるぞ。まったく。こんな手厳しい奴に育てられたとは、リュ・リーン殿下もお気の毒に」
「お褒めの言葉はありがたく頂戴いたしますよ。それで? 私と軽薄な噂話をしたくて、こんなところまでおいでになったのですか?」
「それだけなわけないだろうが。噂話はもう一つある。……貴卿にはこちらのほうが重大だろうよ」
 作業に戻ろうとしていたウラートが厭そうに眉を寄せた。が、将軍の真剣な眼差しに不機嫌を押し込めると、相手にまともに向き合った。
「なんですか? 王都で何か起こったのですか?」
「いや、王都では何も起こっていない。……が。リュ・リーン殿下の姉上ラスタ・リーン様がお亡くなりになる少し前より、殿下の側にオフィディア伯の異母弟ランカーン卿がいるらしい」
「ランカーン卿が? オフィディア伯とは兄弟仲がよろしくない方でしたね。まさか伯爵位を狙って王子に近づいてきたのでしょうか……」
「さてな。オレにも判らぬわ」
 自分がいない間に、リュ・リーンの身辺ではきな臭いことが起こっているのではないだろうか?
 ウラートは不意に不安が胸にこみ上げ、顔を歪めた。何か、厭な予感がしてならない。
 オフィディア家は現国王シャッド・リーンの母親の生家でもある。亡き王妃ミリア・リーンの母親の生家ギイ家と同じく名家であるが、どちらも血生臭いお家騒動が絶えないことで有名だ。王家を巻き込んで家督争いをするつもりなら、ウラートとしては容赦するわけにはいかない。
「アッシャリー将軍、ご忠告感謝しますよ。どうやら、悠長に仕事をしている時間はないようです。さっさと作業を終わらせて、王都に戻らなければ」
「なぁに。感謝されることでもないさ。オレはこれでお前さんに一つ貸しを作ったことになる。そのうちに返してもらえばいいことだ」
 普段は軍人肌で王都での権力闘争には興味なさげな様子だが、将軍の耳は意外と早いようだ。王子付きの臣下に恩を売ることも忘れないところなど、なかなかどうして、しっかりしている。
「早いところここでの仕事を終わらせることだぞ。たぶん、選王会絡みで聖地(アジェン)へ行くのは殿下ご自身だろうからな。置いていかれでもしたら、王子の周囲で何が起こるか判らぬぞ」
「そうですね。仕事を急がせることにしましょう」
 ウラートはきびすを返すと、部下たちに再び指示を出しに駆け出していた。強ばった彼の背中を見送りながら、アッシャリー将軍が小さなため息をつく。
「王は一人では成り立たん。いかに優れた臣下を多く持つかで、王の器が決まる。幸い、ウラートの選別眼は確かだ。無能な輩を放置しておくまいよ。……あの王子には公正な王になってもらわねばな。そうでございましょう、シャッド・リーン陛下?」
 砦の外にうずたかく積まれていた同輩の遺骨はすでに埋葬されていたが、大地に染み込んだどす黒い血は未だに点々と残されており、かつての血色の海に浮かんだ骨の山を想像すると身震いしたくなる。
 降り注ぐ陽光の下、アッシャリーは来たときと同様、軽快な足取りで砦のなかへと戻っていった。
 惨状を消すため、砦の周囲の土を削り取って血を消し去る作業を冬の間中続けてきたが、それも間もなく終わるだろう。急いで終わらせることもないのだが、春になると攻めてくるカヂャの軍勢に備えて、一冬の間に完全に終わらせるつもりで作業させていたのが幸いした。
 砦の周囲に点在する部下の間を走り回るウラートの様子を、外壁の上でチラと見遣った後、アッシャリーは腕組みをして東の山並みを睨んだ。
 今年はカヂャ軍は攻めてこれまい。王自身か、その近親者がこのトゥナのリーニス領を通って聖地へと向かうとなれば、聖地の不興を怖れて軍勢を動かすことを手控えるはずだ。
 もっともカヂャにとっては、聖地での選王会を口実に、この時期に軍を休養させられ幸いであろう。カヂャ国内の急進派でも聖地の名を出されては、そう易々とは動けない。兵力を温存して来年まで力を蓄えておける。
「聖地の連中め、やることが狡賢い。カヂャを休ませてやるつもりだな。恩を売っておいて、さらに自分たちはトゥナより先に地盤を固めるつもりか。先手を打たれたってわけだ。王陛下がどう出るか……。いや、王太子殿下が諸国の王どもの挑発を無視できるかどうかが、この夏のトゥナの試練か?」
 アッシャリーの視線の先、薄青い山のなだらかな稜線が、間もなくの春の到来を告げていた。だが、今年はその山並みを超えてくる者は、リーニスに血の嵐を呼ぶ軍隊ではなく、腹黒い策謀を練る策士どもだけのようである。
「まったく! 今年もオレの出番がないではないか。暴れ足りないことこの上ない。やはり聖地の選王会でも見物に行きたいものだな」
 不遜な口調の将軍の立つ外壁の下から従者が声をかけてきた。それに片手を挙げて応えると、アッシャリーは将軍位にいる男にしては軽率なほどの軽々しい足取りで外壁から駆け降りていった。

〔 12605文字 〕 編集

後日譚

No. 81 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第11章:約束

 見上げた夜空は雲がかかり、月も星も隠されていた。なんとも味気ない殺風景な空だ。
 こんな夜は雲の濃淡が描き出す紋様を眺めるしかない。その蠢く雲が別の生き物を連想させて、いつも最後には厭な想い出を思い出してしまうというのに、雨降りでもない限りは、夜ごと空を見上げるのが日課になってしまっていた。
「月が出ていない空など眺めて楽しいものかな?」
 間近に聞こえた低い声に、ウラートはチラと振り返る。
「別に楽しんでいるわけではありませんよ。なんとなく日課のようになってしまっているだけです。……アッシャリー将軍こそ、こんな時間にどうされました? 何か危急の知らせでも?」
「いや。雨を運んでくる風が吹いているのでな。寝つかれないのさ。どうも湿り気の多い風は好かんのだ」
「そういえば空気が湿気ってますね。明日は雨でしょうか」
「たぶん。リーニスでは雨だが、ワーザス地方辺りだとこの冬最初の雪嵐が吹いている頃ではないかね?」
 アッシャリーのいらえに頷きながら、ウラートは眼下に広がる篝火を見下ろした。
 トゥナ王国の東の果てにあるリーニス砦は、夏の惨状が消え去ると、以前と同じく謹厳実直な外観で東の山並みの向こうに広がる国カヂャに睨みを利かせている。血塗れた惨劇が嘘のようだ。
王都(ルメール)は白銀の世界に包まれているでしょうね。雪原を見ない冬を迎えようとは思いもしませんでしたよ」
 ウラートの隣りに立つと、アッシャリーも同じように眼下の篝火を見下ろし、鋭い瞳を細めた。
「これからは増えるかもしれんぞ。リュ・リーン殿下の片腕となるならば、このリーニス地方を抑える手腕が必要だ」
「そうですね。副王が女にうつつを抜かしてウレアに引っ込み、まったくあてにできない状況ではね」
 アッシャリーが刈り込んだ顎髭をしごきながら、不敵な笑みを漏らす。この年若い騎士の辛辣な批評が気に入ったようだ。
 下手をしたら貴族に不興を買うだけではすまないであろうに、ウラートは時々ズケズケと思ったことを口にする。普段は周囲に気を使い、人間関係を壊すような態度を取らないだけに、たまに飛び出す毒舌がアッシャリーには新鮮に映るのだろう。
「手厳しいな。否定はせんが。そういえば、王子からは手紙が届いているのか?」
「指示書くらいなものです。あの人は今は聖地(アジェン)との文のやり取りで大忙しでしょうからね。まったく、薄情なものですよ」
 ウラートがふてくされたように口を尖らせているのが面白いらしく、アッシャリーはいっそうにたついた笑いを浮かべた。
「なんだ。聖地の姫君にやきもちを焼いているのか? 今のところは貴卿のほうが王子の寝顔を見た回数は多かろうに。ところで、その姫。銀髪の美人だそうだが、卿は見たことがあるのか?」
「ありますよ」
「ほう。人となりはどのような姫だ?」
 軽い好奇心に駆られ、アッシャリーは身を乗り出した。それを見てウラートが顔をしかめる。確かこの将軍は意外と女好きだったはずだ。よもやリュ・リーンの妃に手を出すことはなかろうが、聖地の姫を話の種にするとは頂けない。
「……リュ・リーン王子の好みの女性だとだけ申し上げておきましょうか」
「もったいぶったな。少しくらい教えてくれてもいいようなものだが。……そうだなぁ。王子は母君と早くに別れている……となれば、母親似の姫君というところかな?」
「さぁ? カマをかけても無駄ですよ、将軍」
 取りつくしまもないウラートの態度に、アッシャリーは憮然とした表情になった。どうも目の前の若者は一筋縄ではいかないようだ。
「チッ。口の堅いヤツ。もっとも我々としては、深窓の令嬢を気取っているお堅い姫君や男なら相手かまわず閨に引っ張り込むあばずれでもなければ、なんでもいいのだがな」
「随分な言われようですね。王子がそんな愚かな女に引っかかるとでもお思いですか?」
 アッシャリーのぞんざいな言い様にウラートは目をすがめ、ジロリと睨みつけた。リュ・リーンを嘲るようであれば、それが国軍を束ねる将軍であろうと容赦するつもりはない。
 しかし、ウラートの剣呑な視線にめげた様子もなく、アッシャリーはひょいと肩をすくめると人好きのする笑みを浮かべた。
「さぁ? それこそ、殿下の内面は我々には判らぬ。それに一番詳しいのは貴卿であろう」
「それは買いかぶりというものです。私など大した人間ではありません」
「また謙遜を。王子以上に王子のことを知っているのは、ウラート卿をおいて他にいないと、下士官の間ではもっぱらの噂だぞ」
 むず痒くなる称賛にウラートは眉をひそめ、口元を曲げた。どうもこの将軍と話をしていると、上級士官と話をしているというよりも、同年代の下士官たちと雑談をしているような妙な気分になってくる。
 この将軍の出身がリーニス地方で、それほど高位の家柄ではないことを思い出すと、ウラートはそれはそれで仕方がないのか、と小さく苦笑を漏らした。
「また勝手な憶測が飛び交っているものですね」
「なに、あながち嘘ではあるまいよ。少なくとも、貴卿は王子の欠点をよく理解している。それは我々では手出しのできぬ範疇だ」
 年長者としての風格など気にしていないのだろうか。アッシャリーは何度も頷きながら、自分の言葉に自分で納得している。
 ウラートは呆れ顔で小さく嘆息した。戦場での功績はいざ知らず、アッシャリーという男は普段は将軍という自覚が皆無なようだ。彼の性格は、かつてこの砦で軍を指揮していたアルマハンタ将軍の質実剛健な性格とは正反対だった。
「私をそこまで評価していただけるとしたら、それは亡き王妃陛下の教育の賜物というものですね。陛下なくして、今の私はあり得ません」
「ミリア・リーン様の秘蔵っ子か。それは手強そうだな。王妃陛下の気の強さにはシャッド・リーン陛下も手を焼いていたほどだ」
「どういう例えかたですか、それは!」
「有名なことなんだがなぁ」
 軽薄な口調で笑い声をあげたアッシャリーが湿った風が渡っていく夜空を見上げる。つられてウラートも真っ黒な空を見上げた。厚い雲に隠され、月も星も眠りのなかにいるようだ。
「さて。今度こそ本当に寝るとするかな。……ウラート卿。貴卿はまだ眠らんのか?」
「いえ。もう休みます。まだ残務処理は山積みですからね。寝坊するわけにもいきませんよ」
 真面目くさった顔で受け答えるウラートの言葉にアッシャリーが小さく笑みをこぼした。
「真面目なことだな。……だからこそ、貴卿が側に仕える王太子殿下も信用できるというものだが」
 それまでの軽々しい態度とは一変した落ち着いた声に、ウラートはハッと目を見張る。自分が置かれている立場を忘れていたわけではないが、改めてアッシャリーの口からリュ・リーンとの絆について言及されると粛々とした気分になる。
 サッサと歩み去っていくアッシャリーの背を見送りながら、ウラートは深い吐息を漏らした。




「ウラート。果物を切らしてしまったわ。奥の女官に幾つか持ってこさせてちょうだいな」
 王妃が最後に自分にかけた言葉は、ひどく素っ気なく、しかし肉親の親愛が込められたありきたりの言葉だった。
「はい、陛下。ただいま……あ……! すみません。すぐにお持ちします、母上……」
 王やリュ・リーンしかいない場所では、ウラートは王妃のことを母と呼ぶよう言われている。しかし、あまりにも身分の隔たった間柄であり、簡単に馴染むこともできず、ウラートはよく「陛下」と呼びかけて王妃に睨まれていた。
 今回も部屋には王子と王妃、そして自分しかいないのだから、言われた通りに「母上」と呼びかけなければならないのだが、うっかり「陛下」と口にしてしまったのだ。
 お小言をもらう前に部屋を飛び出すと、ウラートは絨毯が敷き詰められた長い廊下をパタパタと駆けていった。きっと部屋に戻ったら、気の強い王妃は口を尖らせながら文句を言うに違いない。
 女官たちがたむろしている部屋までやってくると、ウラートは遠慮がちに扉を叩いた。そして、扉が開けられるまでの僅かな隙に、そっと憂鬱そうにため息を漏らす。
 女たちはいつもウラートを玩具にしたがった。やれ髪を結わせろ、服を着替えさせろ、果てには化粧までさせられそうになったこともある。
 どうやら自分の顔立ちは少女のような造作であるらしいが、中身は歴とした男だ。女たちのように着飾らせてもらっても嬉しくもなんともない。
「あらぁ。いらっしゃい、ウラート。待ってたわよ」
 扉を開けた女官がウラートを見つけた途端に、パッと笑みの花を咲かせた。反対にウラートはガックリと肩を落として顔をしかめる。
 出てきた女官は特にウラートを着飾らせたがる一人だ。それも肌まで磨こうとする念の入れようで、逃げるのに苦労させられる。この様子だと、大人しく帰らせてはもらえそうもない。
 それでもウラートは情けなさそうに顔を歪めたまま、精一杯声を張り上げて用向きを伝えた。
「そう。果物をご所望なのね。判ったわ。すぐに用意するから、部屋のなかで待っていなさい」
「いえ! 外で待ちます!」
「何を言ってるの。こんな寒いところで待つことないわ。それに、廊下で一人で立っていたら、悪い人に連れて行かれちゃうわよ」
 宮殿の最奥にある後宮に悪い人など入り込むわけがないではないか、とウラートは口を尖らせる。しかし、対応した女官の後ろから数人の女たちが顔を出し、ウラートを見つけると我先に彼の腕を捕らえて部屋のなかへと引っ張り込んでしまった。
「陛下がお待ちなんです! 早く用意してくださいっ」
 自分の髪やら頬やらを遠慮なく触る女官たちに向かって精一杯大声をだすが、簡単に逃げられるものではない。王妃付きの女官は一人や二人ではなく、手の空いている女たちは格好の玩具が手に入ったとご機嫌だった。
「この前、出入りの商人から買ったリボンがあるのよ。ウラートの髪に似合いそうだから、髪を結ってあげる」
「え、遠慮します。僕よりもあなたの髪を飾ったらいいじゃないですか」
「前に殿方からいただいた帯飾り、ウラートにあげようと思うの。綺麗な銀細工だから、ウラートの衣装によく合うわよ」
「そんな高価なものいただけません! だいいち、相手の方の失礼じゃないですか」
「あぁ、このすべすべの肌! 白粉ののりが良さそうよねぇ……」
「そんな臭い粉をはたかないで! 陛下からいただいた衣装が粉まみれになっちゃうでしょ!」
 ウラートは最後には敬語も忘れて叫んでいた。女たちの手を振り解くと、わたわたと部屋のなかを逃げ回るのだが、面白がって女官たちは追いかけ回してくる。
 言い遣った用事を済ますまでの短い時間、いつもこうやって追いかけっこが続くのだ。ウラートにしてみれば、不本意なことこの上ない。
「なんで僕にかまうの! やめてよ。そんなものいらないったら!」
「いや~ん。ウラート、可愛いー! わたしにも触らせて!」
「綺麗な子は着飾らなきゃ駄目よ! ほら、ウラート用にドレスも用意したんだから!」
「それ、女の子の衣装じゃない! 僕は男なの! お・と・こ!」
「ウラートなら男でも女でも、どちらの衣装だって似合うわよ! ほら!」
「イヤーッ! ヤダったら! 放してー!」
 廊下にまで響く騒動の末、用意された果物の篭を引っ掴むと、ウラートは這々の体で女官たちの部屋を逃げ出した。あれ以上いたら、どんな有様になっていたことか。
 背後から女たちの笑いさざめく声が聞こえてきたが、ウラートはそんなことに注意を払うどころではない。半泣きで廊下を駆けていき、息を切らせて王妃が待つ部屋の前へと辿り着いた。
 走ってきたため、篭のなかに綺麗に収まっていた果物の幾つかが落ちそうになっている。それを慌てて収め直すと、ウラートは深呼吸をして扉を叩いた。
「ただいま戻りました」
 この後には王妃のお小言が待っているに違いない。少し憂鬱になり、ウラートは俯きがちに室内へと入っていった。
「お待たせしました。果物を……」
 嗅ぎ慣れない匂いにウラートは口をつぐみ、顔をあげると、そのまま凍りついたように立ち尽くす。
 寝椅子の足下に王妃のドレスの裾が見えた。どう見ても床に寝転がっているようにしか見えない。が、王妃が寝椅子以外の場所で眠る姿など今まで見たことがない。
 鼻の奥を刺激する匂いは鉄錆の匂いに似ていた。腕に抱えていた果物篭が、重力に引かれてゴトリと床に落ち、収まっていた果実たちが不機嫌そうに床に転がった。
 心臓が早鐘を打つ。口の中が乾き、耳の奥がボゥッと重い音を立てる。手足が何もしていないのに、小刻みに震えた。
「陛下……?」
 ウラートは床に貼りついた足を引き剥がすと、恐る恐る寝椅子を回り込んで、そこにいる王妃の姿を覗き込む。
 最初に目に入ったのは、鮮やかすぎるほど強烈な色彩を放つ朱だった。鉄錆の匂いがいっそう強く鼻につく。
 匂いに気圧されたようにウラートはよろけ、力の入らない足がガクリと折れて、床に座り込んでしまった。
母様(マァムゥ)。目、開けて……。母様(マァムゥ)?」
 小さな囁き声に、ウラートは視線を動かした。鮮血の池のなかに、衣装を血染めにして小さな王子がうずくまっている。王子の衣装は焦げ茶色に染められた温かな羊毛の短衣(チュニック)だったが、それは血塗れてどす黒い色に変わっていた。
「お、王子……。リュ・リーン殿下……」
 ウラートは這いずって幼いリュ・リーンの元へと近寄ると、王子の黒絹の髪へと腕を伸ばした。
 その腕が途中で止まる。
 彼が腕を伸ばすよりも先に、倒れている女の腕がゆっくりと持ち上げられたのだ。見れば、王妃は荒い息を繰り返し、身体を小刻みに痙攣させている。
「リュ・リーン……。良い子ね。怖くないから、泣かないでね」
 何度も咳き込みながら王妃は血で赤く染まった口元をほころばせた。蝋のように青白い肌に、血の朱は殊更に鮮やかさを増して見える。まるで、王妃の生命そのものが今まさに流れ出してしまったかのようだ。
 ウラートは喉の奥に声を貼りつかせ、ブルブルと震えていた。彼の目の前では、小さなリュ・リーンが母親の手を握りしめてポタポタと涙をこぼしている。
「大丈夫。怖くない……怖くないから。良い子……ね。お前は良い子……」
 しゃくりあげるリュ・リーンが幾度も母を呼ばわるが、王妃の声は徐々に小さく弱くなっていった。
 幼い王子の手が血で滑って母親の腕から離れる。血溜まりのなかに厭な音を立てて白い腕が落ちたとき、ウラートは声にならない叫びを上げ、転がるようにして入ってきた扉のノブに飛びついた。
「だ、誰かっ! 誰か来て! 王妃様がっ!」
 かすれた甲高いウラートの叫びに、廊下の向こう側にある女官たちの部屋から数人の女たちが飛び出してくる。
 次々に部屋へ入っていった女官たちが、息を飲んで立ちすくみ、すぐに一人の女官を残すと、あとの女たちはバタバタと部屋の外へと飛び出していった。
「ウラート。お医者様を呼んでくるから、あなたは彼女と一緒に王妃様の側にいて!」
 早口にウラートに指示を与える女官の顔色は蒼白だ。絶望が彼女の瞳の奥に揺れている。
 痺れて思考が止まった頭で、ウラートはぼんやりと硬いベッドの上で冷たくなっている母親のことを思い起こしていた。
 氷のように冷たかった母の顔は、今の王妃よりもひどい顔色をしていた。まだ王妃の顔色はあそこまでひどくない。まだ、王妃は死んではいない。
 足下がよろけたが、ウラートはフラフラと王妃の側へと近づいていった。女官がリュ・リーンを血溜まりから引き離そうとしていたが、幼い王子は頑としてそれを聞き入れず、取り落とした母の白い腕にしがみついている。
母様(マァムゥ)!」
 震えながら母を呼ぶ王子の声に、女官が顔を背けた。ウラートはそんな彼女の仕草に微かな怒りを覚えた。王妃はまだ死んでいない。まだ身体は暖かいし、顔色だって悪くない。
 王子がしっかりと抱きしめている王妃の白い腕を一緒に抱きながら、ウラートはリュ・リーンの震える肩を強く抱きしめた。
「殿下。お母様を呼んでください。きっとお応えになりますから」
 幼い王子がウラートの言葉にいっそう大きな声を出して母親を呼んだ。何度も、何度も。喉が切れそうなほど大きな声で。
 その叫びが聞こえたのか、王妃の閉じられていた瞼が震え、微かに頬が揺れる。緩慢な動きで王妃は首を巡らせると、自分を呼ぶ息子とそれを支える従者の少年を視界に収めて、安堵したように微笑んだ。
 王妃の薄い空色の瞳は、春の空のように柔らかく霞んで見えた。
 何事かを口にしようと、王妃は唇を震わせる。が、漏れるのは虚ろな風音のような呼吸音ばかりで、言葉は何一つ出てこなかった。
 見開いていた瞼がゆっくりとゆっくりと閉じられていく。そして、ついに青白い瞼が完全に閉ざされると、後は何度呼ぼうとも彼女の瞳が開くことはなかった。




 王妃の国葬が厳冬のなかで滞りなく執り行われた後、リュ・リーンはさらに気難しい子どもになった。
 周囲の大人が抱き上げようとしようものなら、腕に噛みついて逃げ出してしまう。最高潮に機嫌が悪いときなどは、実の父親であっても側に近づけないほどだ。
 唯一、ウラートだけが王子の側にずっと寄り添うことを許されていた。
「リュ・リーン殿下。今日は湯浴みをしてくださいな」
「イヤだ。熱い湯になんか浸からない!」
 王妃の代わりにと、女官たちがリュ・リーンの世話をしようとするが、王子はそれらをことごとく無視し、ウラートにしか心を許そうとはしない。
「リュ・リーン様。我が侭をおっしゃっては困りますわ。さぁ、あちらに……」
「イヤだって言ってるだろ。あっちへ行け!」
 王子が容赦なく小さな拳を振り上げるようになったのもこの頃からだ。彼の癇癪に恐れをなして、年若い女官ほどリュ・リーンに近寄らなくなった。
「殿下。女官たちをあまり遠ざけては……」
「いらない! 女官たちなんかいなくてもいい!」
「でも……」
「いらないって言ってるだろ! あいつら、いつも怯えた眼で見るんだ。大っ嫌いだ!」
 ただでさえ黒髪に暗緑の瞳を持ち、死の王の申し子よと怖れられる王子は、母親の死後はどんどん王宮のなかで孤立した。心を閉ざし、物憂げに佇み、きつい視線を周囲に投げかけていたのでは、それは致し方のないことだろう。
 さらに間の悪いことに、春がきて父王がリーニス地方へと出陣していく時期がきてしまった。そうなると、王子はいっそう王宮内で孤独を囲った。
 リュ・リーンの姉たちも、王子の癇癪に心配を募らせるそれぞれの守り役から止められて、思うようには弟の側にいることはできなかった。
 一年前に結婚したの長姉エミューラ・リーンがギイ伯シロンの子を腹に宿していたこともあり、次姉のラスタ・リーン以下五名の姉たちも長姉を差し置いて王太子である弟の元を訪なうことができなかったことも禍した。
 王妃が亡くなったのは年が明けたばかり、リュ・リーンの五歳の誕生日の翌日だった。ウラートは八歳。彼自身もまだまだ子どもで、リュ・リーンの立場をどうしてやることもできない。
「殿下。でも湯浴みはしないと」
「イヤだったら、イヤだ!」
「そんなことおっしゃらずに。私もご一緒しますから……」
 王妃の死後、ウラートは自分のことを「僕」と言わない。さらに外見とは不釣り合いなほど大人びた顔つきをするようになった。成長することをやめてしまったリュ・リーンの代わりに、彼の分まで成長しようとしているかのようだ。
 ウラートは心を凍らせてしまった王子を心配して、今まで以上に側にいることが多くなった。
「ウラートも一緒に入る?」
「はい。ご一緒します」
「……じゃあ、入る」
 食事も湯浴みも勉学も、リュ・リーンは何もかもウラートとともに行動したがる。それは母親を慕ってついて歩いていた頃と同じだ。他人が少しでも彼らの仲を邪魔しようものなら、黒髪の王子は凄まじい癇癪を起こして暴れ回った。
 ウラートの言葉なら素直に聞き入れるリュ・リーンを、忌々しく思っている人物は多かっただろう。未来の国王としてこの癇癪持ちの王子が不適格であると、早々に結論づけてしまった者も少なくない。
「足下が滑りやすいですから、気をつけてくださいね」
「うん。判った」
 ウラートは大人びた口調で話しかけながら、リュ・リーンの手を引いて歩く。それまではいつも周囲の大人たちの顔色を伺い、緊張し続けていた様子が嘘のような落ち着きようだ。
「結界魔法で冷気は入ってこないようになってますけど、あまり壁際にはいかないでくださいね。身体を清めたら、すぐに上がっていいですし……」
「判ってる。アチッ!」
「殿下。まず手足を温めてから入らないと。指先が冷えているから熱く感じるんですよ」
 献身的に王子の世話を焼くウラートに、王妃付きだった女官たちの多くは好意的だ。しかし、そんな彼ら二人の姿を間近に見ることのない他の者たちは、たまに王子と出くわしては彼の勘気に触れ、いっそう幼い王子から背を向け、その王子の世話をするウラートを悪し様に軽蔑した。
「さあ、殿下! 身体もきれいになったし、湯冷めしないうちに寝ましょう」
 湯から上がると、ウラートは自分の身体から水滴が滴り落ちるのも構わず、リュ・リーンを夜着に着替えさせる。
 冬場の寒さがなくなったとはいえ、そんな状態では風邪をひいてしまう。雪国の春は短い。昼間はまだ温みのある日差しが差すが、夜は寒さに震えることも多かった。
 年輩の女官がそんな守り役を心配して、なにくれとなくウラートの体調を気遣ってやらなかったら、とうに寝込んでいただろう。
「暖かい花蜜湯を持ってきますから、待っていてくださいね」
 水蒸気に当たって湿気ってしまった王子の髪を乾かしながら、ウラートはリュ・リーンを寝室の暖炉前へと引っ張っていった。
 小さな身体がスッポリと隠れてしまうほどの布を王子の身体にかけ、ウラートはバタバタと花蜜湯を作りに奔走する。王妃が生きていたなら、彼女かウラートのどちらかがリュ・リーンの相手をし、もう一人が花蜜湯を作っていただろう。
 出来上がった花蜜湯を持って暖炉の前に戻ってみると、身体が温まってウトウトし始めたリュ・リーンが、布地の繭のなかで丸まっていた。生成りの布地を背景に、リュ・リーンの黒髪が暖炉の炎に照らされて赤くまだらに染まっている。
「リュ・リーン殿下。起きて下さい。そんなところで寝ては駄目です。ほら。花蜜湯は飲まなくてもいいですから、ベッドへ上がってください」
「う~ん……。母様(マァムゥ)……」
「……で……んか……」
 リュ・リーンの寝言にウラートの小さな口元が歪んだ。見る見るうちに、夜明け寸前の濃紺の空色をした瞳に透明な雫が滲む。
 小さな王子を必死に抱き上げると、ウラートは涙をこらえてベッドへと歩いた。八歳の子どもにとっては、これはかなりきつい労働だ。それでも、ウラートは黙々と王子を温かな寝具にくるみ、まだ生乾きの髪を拭く作業に勤しむ。
 亡くなった王妃のことを考えると、頭がどうかなってしまいそうだった。今、この瞬間にも子ども部屋の扉を開けて、王妃が美しい栗毛を輝かせながら顔を見せるのではないかと思ってしまう。
「はは……うえ……」
 食いしばった歯の間から涙に震える声が漏れた。
 眠りの淵にまどろんでいる幼子の顔のなかに、敬愛してやまない王妃の顔が重なる。白い(おとがい)雪花石膏(アラバスター)のように滑らかで秀でた額。リュ・リーンの黒髪や暗緑の瞳に誤魔化されて気づく者は少ないが、王子の顔立ちは母親である王妃に似ている箇所が多い。
 王妃が存命中は気後れして呼ぶことが躊躇われた呼称を、ウラートは幼い王子のなかにある懐かしい面差しに向かって何度も呟いた。もう二度と応えが返ってくるはずのない声を探すように。
 この方に仕えるのだと心決めてから、果たして自分はどれほどのことを成しただろうか? 王妃の足手まといにしかなっていなかったのではなかったか?
 守り役とは名ばかりで、実際のところ、王妃は二人の子どもを抱えて忙しかったに違いない。王の留守中は彼女が王城の主である。それを切り盛りするだけでも神経を使ったであろうに。
 こらえきれなくなり、ウラートは涙をこぼした。一度堰を切って流れ出した涙は後から後から溢れだし、彼の頬を伝って幼い王子の頬に滴る。嗚咽をこらえるのに精一杯で、ウラートは伝い落ちる涙を放っておいた。
「うぅ……ん……。……ウラート?」
 ウラートの涙の滴りに気づいて、リュ・リーンが寝惚けた顔をあげる。眠そうに眼を擦っていたが、自分を見下ろす守り役が声もなく泣いている様子に驚いて飛び起きた。
「ウラート。ウラート……」
 泣き止まない年上の友にしがみつき、リュ・リーンは指先でウラートの頬を拭く。それでもウラートの涙が止まらない様子に、王子は震える背中を撫でながら囁いた。
「泣かない……。泣かない。ウラートは強い。誰よりも強い」
 それはリュ・リーンが母である王妃にあやされるときに必ず言われていた言葉だった。抱きしめ、背中を撫でながら、王妃は歌うように何度も言葉を繰り返し、むずがる幼子につき合っていたものだ。
「王子……。リュ・リー……ン殿……下」
 ウラートはいっそう肩を震わせ、自分を支える子どもに寄りかかった。
「兄様は強い」
 唐突な言葉にウラートは目を見開き、相手の暗緑の瞳を見つめる。王子は今なんと言ったか?
「兄……?」
「ウラート兄様は強い。だから泣かない。母様(マァムゥ)はいつもおっしゃっていた」
「わ、私はあなたの兄上でもなんでもありません。ただの……ただの奴隷上がりの……」
 自分の言葉にひどく傷ついて、ウラートは途中で押し黙った。その通り。自分は国王に買われてやってきた奴隷の子で、王妃の庇護下になければ、何の力もない存在だ。
 こうしてリュ・リーンの側にいるのは、王妃との約束もあるが、何よりも自分自身の保身のためではないか? 再びどこかへ売り払われないために、王子にとってなくてはならない存在になることで、我が身を守っているのではないか?
母様(マァムゥ)は嘘はおっしゃらない! ウラートは家族。父様(ダムゥ)にもそうおっしゃっていた」
 リュ・リーンの言葉にウラートはさらに瞳を見開いた。まさか王妃がそんなことを言ってくれていたとは。
 王妃ミリア・リーンは、誰もいないところではウラートに王と王妃のことを父母と呼ぶことを許してはいたが、人前では臣下として扱っていた。
 ウラートはそれを身分の高い者の気まぐれだとばかり思っていた。娼婦であった実の母親が子どもを孕んだ途端、まったく娼館に寄りつかなくなったという顔も知らない父親のように。
「ミリア・リーン陛下が……そのようなことを……」
母様(マァムゥ)とお約束した。王太子リュ・リーンの守り役はウラートだけ。他に誰もいらない。ウラート兄様がいればいい」
「殿下……」
「ウラートは母様(マァムゥ)と一緒にいたときのように、リュ・リーンと呼び捨てていい。誰も咎めない」
 止まっていたウラートの涙が、再び溢れ始めた。その様子にリュ・リーンが心配そうに手を差し伸べてくる。暖かい小さな手に抱きつかれたまま、ウラートはいつまでも涙を流し続けた。
「リュ・リーン殿下……」
「違う。リュ・リーンでいい」
「……リュ・リーン。私も母上とお約束したように、ずっとあなたのお側にお仕えします。何があっても、どんなときも……」




 眠りにつこうとベッドに腰を降ろしたウラートの視界の隅に、小卓(ハティー)の上に置かれた護符が映った。柔らかな光沢を放ってはいるが、なんの変哲もない石がはめ込まれた護符だ。
「ミリア・リーン陛下……」
 ウラートは立ち上がってそれを手に取ると、石の熱を感じようとでもいうのか、護符を唇にそっと押し当てた。
 頭のなかで先ほどのアッシャリー将軍の声がぐるぐると巡っている。リュ・リーンとの絆、聖地の姫君、亡き王妃……亡き……母。
 皮肉なことにリュ・リーンは自分と同じ五歳のときに母親を亡くしていた。
 決定的に自分と違うことは、彼の目の前で母親が事切れたということだ。鮮血を吐き絶命した母親に取りすがって泣き叫ぶリュ・リーンの声をウラートは未だに憶えている。
 ウラートは母親が病に倒れたときに隔離されており、亡くなって土気色をした顔で硬いベッドに横たわる姿が最後の対面だった。冷たい母の身体が恐ろしく、だた一度触れただけで身体の震えが止まらなかった。
 自分の熱が母の冷たい身体に奪われるのではないかと怯えたのだ。一緒に連れていかれのるのはないか、と。
 リュ・リーンの母親ミリア・リーンの場合はまったく違う。
 彼女は病がどれほど進行しようと息子の側から離れようとはしなかった。日に日に顔色は青ざめ、身体は痩せ衰えていこうとも、凛と胸を張り、頭をそらして王宮の女主人であり続けた。
 ベッドへ戻ると、ウラートは掌のなかの護符をじっと見下ろした。この護符はこれまで自分を守り続けてきてくれた。
 貴族たちは奴隷の子が王族の側にいることをバカにし、それを平然と側に置くリュ・リーンや、それを許しているシャッド・リーン王を異端扱いしている。自分のために被る不利益をはねのけている彼らの期待を裏切るわけにはいかない。そんな思いでこれまで必死にやってきた。
「あなたは誇り高い方だった。私はあなたに仕えることができて幸せです。今はお約束通り、あなたの息子に仕えることこそが……私の至福になっていますよ、母上」
 王妃が亡くなり、リュ・リーンの子ども部屋で泣き明かした夜以来、ウラートは涙を封印している。王子に強くなれと言う代わりに、自分自身が王子に負けぬほど強くあろうとした。
 事実、ウラートや父シャッド・リーンの背を見て育ったリュ・リーンは、この夏以来、凄まじい成長を遂げている。聖地の姫との一件も引き金になっているだろうが、間違いなくリュ・リーンは父王に勝るとも劣らない王になるはずだ。
 玉座の高みから並み居る家臣たちを睥睨する黒髪の王の姿が、ウラートには容易に想像できた。
「もうすぐです……。あなたの息子は誰よりも高い場所に登るでしょう。誰よりも強く、誇り高い王が……もうすぐ……」
 磨かれた石の表面をそっと撫でると、ウラートは再びその表面に口づけを落とす。その横顔は貴婦人の指先に接吻を落とす騎士の顔だった。

〔 12561文字 〕 編集

後日譚

No. 80 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第10章:魔眼(イヴンアージャ)

 祝宴の主役がいなくても、宴の席は賑やかだ。その様子を幕間の隙間から眺めて、リュ・リーンは口元だけにうっすらと嘲弄の笑みを浮かべた。
 このまま、どこかに雲隠れしても、誰も気づかないのではないだろうか。饗宴の片隅に目立たないように配されている番兵すら、主賓がいなくなったことに気づいていない。
 ふと、誰かに見られている視線を感じて、リュ・リーンは鋭くそちらを一瞥した。
 姉たちとともにこの宴へとやってきた男たちの一団のなかから、じっとこちらを見つめている若者がいた。ややくすんだ色の金髪が、宴のあちこちで灯されて蝋燭の揺らめきにけぶるように輝いている。
「あれは……ラスタ・リーン姉上のところの……」
 それが病で伏せっている次姉の家の者だと思い出すまでに、リュ・リーンはしばらくの時間を要した。
 本来なら次姉とその夫が招かれる宴であるが、病で出席できない姉夫婦に代わって、彼らの義弟がやってきている。普段、あまり顔を合わせることのない若者を憶えていただけでも、リュ・リーンとしては奇跡的なことだったろう。
 その若者がリュ・リーンから視線を逸らすと、ふわりと集団のなかから抜け出した。人の波に乗ってあちこちを渡り歩き、思い出したように宴の娘たちにまとわりつきながら、ゆったりとした足取りでこちらへとやってくる。
 飛び抜けて整った顔立ちの男ではないが、娘たちに微笑みかける表情は甘く、世慣れない少女たちならうっとりと見つめ返してしまうだろう。
 自分にはとてもできない芸当だ、とリュ・リーンは苦い思いを噛みしめた。
 外見で損をしている彼にも、この若者のように仕草で欠点を補うことは可能であるかもしれない。しかし、他人の好奇の目に触れること自体が苦手なリュ・リーンには、真似しようという気すら起こらないことだった。
 リュ・リーンはその若者から視線をそらすと、幕間の奥へと引っ込んでしまった。人々の間に入っていき、興味本位に話しかけられるのは好きではない。
 テラスへと続く大窓に寄りかかって星空を見上げると、星たちがチリチリと音を立てて瞬いている様子が間近に迫っていた。外気は冷たいが、他人の煩わしい視線にさらされないだけ、リュ・リーンにはマシに思えた。
「さっさと抜け出してやるかな……」
 疲れを感じて、リュ・リーンは瞳を閉じた。眼裏(まなうら)には、今まで見上げていた星空がくっきりと浮かび上がってくる。
「宴を抜け出されるのでしたら、お供させてもらえますか?」
 かすれた囁き声に、リュ・リーンは驚いて振り返った。いつの間にか、先ほどの若者が幕間の隙間から滑り込んできている。宴の広間から漏れる光と星灯りで、彼のくすんだ金髪がチラチラと小さな輝きを放っていた。
「突然、ご無礼を。こんな機会でもない限り、殿下のお側にはいつもウラート卿がおいでで、わたくしなどは近づけませんので。オフィディア伯サイモスの異母弟ランカーンと申します」
 薄紫の瞳が柔らかな笑みを浮かべている。貴族出身者にしては、顔の造詣はそれほど美麗ではないが、作り笑顔であったとしても彼の浮かべる微笑みは特上品であった。つられてこちらまで微笑みを返してしまいそうになる。
 普段のリュ・リーンならば不機嫌さを如実に表して、暗に相手を拒絶しただろう。ところが、ランカーンと名乗った若者の笑みに毒気を抜かれ、彼には珍しく口角の片方を持ち上げて薄い笑みを浮かべている。
「死神の顔でも拝みにきたか?」
「神のお姿を間近で拝する栄誉を与えていただけるのですか?」
 足音を立てることなく、ランカーンはリュ・リーンの目の前まで歩み寄り、ゆったりとした動作で王太子の前に跪いた。そのまま、若者はリュ・リーンがまとっている儀礼用のマントの裾を手にすると、その端にそっと口づけを落とした。
 あまりにも自然で静かなランカーンの動きに、リュ・リーンは相手を拒絶することも忘れて佇んだままだ。いつも自分を取り巻く不愉快な連中とは、少々勝手が違ってた。
「あまりに畏れ多く、ご尊顔をわたくしの眼に映すことがはばかられます。このままの姿勢で失礼を」
 跪き、顔を伏せたまま、若者がリュ・リーンへと声をかける。
「口の上手い奴だな。俺のこの瞳を見てみろ。どうせ毛嫌いされている瞳だ。今さらどうこう言われてもなんとも思わない」
「申し訳ありません。それはご勘弁願います。殿下の瞳に魅入られますと、自分の強欲さを懺悔したくなって参りますので」
「面白いことを言う。俺の瞳を見て、死の神に招き寄せられそうだと言う奴はいても、懺悔したくなると言った奴は初めてだ」
 初対面の者には無口なはずのリュ・リーンが、目の前の若者に向かっては饒舌だ。相手の反応が、彼には珍しくて仕方がない。
 この魔の瞳(イヴンアージャ)を怖がっていることに代わりはないが、言葉を濁すことなく、実直に恐ろしいと受け答えをする者は、今までほとんどいなかった。
「皆が口下手なのでございましょう。殿下の瞳は、相手に嘘偽りを許さない瞳です。欲深い者には、天罰と同じ」
「フン。では、お前は俺に嘘をつきにきたか? 俺の顔をまともに見られないというのなら、お前も嘘つきだということになるな」
 俯いたままのランカーンをリュ・リーンは嘲弄した。そのリュ・リーンの言葉に、金髪の若者は小さくため息をつく。
「いえ。わたくしは嘘つきではなく、欲深い人間でございます。ですから、殿下のお顔を見ていると、懺悔したくなってくるのです」
「では、その欲深い者が俺になんの用だ? お前の強欲を満たすものを俺が持っているとでも?」
 せせら笑うリュ・リーンの言葉に、ランカーンが俯いたまま首を傾げた。それは一瞬の逡巡だったかもしれない。あるいは、困惑であったのかもしれない。
「実は殿下に引き逢わせたい者がおります。わたくしが外遊先で見つけだした者なのですが……」
「断る。そんなものに興味はない」
 相手の言葉が終わるよりも早く、リュ・リーンは拒否していた。
 それを予測していたのか、ランカーンが再び小さなため息をつく。それは一呼吸おくときの癖であるかのように、ごく自然な動作だった。
「彼は殿下のお時間を割いていただくに値する者かと思います。少なくとも、ギイ伯爵家のシロン卿よりは害をなさないでしょう」
「こそこそと逢わねばならんということ自体が気に食わない。俺の正面に立てぬ者をどう信用しろというのだ?」
 そのときになって、ようやくランカーンが顔をあげた。怯えているかと思った彼の瞳はクッキリとリュ・リーンを見上げ、恐怖に揺れてなどいない。
「お父上の勧めでゼビ王国へ行った折に見つけてきた者です。その男のことは、他の者には内密にしたいと思いましたので」
 父王の勧めと聞いて、リュ・リーンは眉を寄せて考え込んだ。そういえば、去年の秋頃に、父の母親、リュ・リーンの祖母にあたる女性の実家の者を国外へ外遊させると言っていた。では、その若者がランカーンであったというわけか。
 リュ・リーンはようやく目の前の若者が自分の従兄弟筋の者であることを思い出した。長姉が母方の祖母の実家へ、次姉が父方の祖母の実家へ嫁いでいる。その家名に名を連ねる以上、ランカーンもまた王家に近しい者だ。
 口を閉ざしているリュ・リーンをじっと見上げたまま、ランカーンが再び口を開いた。
「本当は外遊とは名ばかりで、オフィディア家からの体のいい厄介払いですが。失礼。これは殿下には関係のないことでした。これをご覧いただけますか?」
 ランカーンが差し出した紙切れを手に取ったリュ・リーンは、いよいよ眉間の皺を深くした。薄暗い幕間のなかでもハッキリと判る黒髪の若者の顔を写し取った姿絵だ。
「こんなものを持ち歩いて楽しいか? くだらない」
 この王国のなかで、姿絵になるほど名の知れ渡った黒髪の若者など、自分しかいないではないか。それをこの若者が持ち歩いているという事実に、リュ・リーンは嫌気が差した。
「よくご覧になっていただけますか? それは殿下ではございません」
「なんだと……?」
 リュ・リーンは改めて姿絵の顔を凝視した。しかし、薄暗さのなかで見るその顔形は、いかにも自分に似ており、他人だと言われてもすぐには信用しがたい。
「この姿絵は王都(ルメール)の裏界隈で商売をしております絵師に描かせたものです。お調べいただければ、宮廷お抱えの絵師の手によるものでないことはすぐに判ります」
 ランカーンの言葉は、暗に宮廷絵師の前に連れ出すことのできない者を描かせたのだと告げていた。リュ・リーンは驚きとともに鋭い視線を相手へ向ける。
「連れてきたのは……殿下によく似た男でございます」
 息をひそめ、囁き声をもらしたランカーンの顔に、このとき初めて計算高い狡猾な色がうっすらと浮かんだ。
「なるほど。お前が強欲な人間だというのは本当らしい。俺の影を紹介する代わりに、何か見返りをよこせということか」
「殿下はお命を常に狙われております。影武者を一人立てたところで、どれほどの効果があるのか、わたくしには見当もつきませんが、使いようによってはお役に立てるでしょう」
 ひそひそと言葉を続けるランカーンの表情は計り知れない。リュ・リーンは相手をどの程度信用していいものか、逡巡を続けていた。読み違いをしたら、それは自分にとっては命取りになりかねない。
「お前の言うことを信用する根拠は?」
 リュ・リーンは努めて冷たい口調で言い放つと、手にしていた姿絵を相手に突き返した。
「根拠など何もありません。ただ、わたくしは欲深い人間でございますので、自分のためにも、殿下のためにも役立ちそうなものを見過ごすことが、いかにももったいないと思ったのです」
 ランカーンが完璧な微笑みを顔に刻んだ。まったく喰えない奴だ。自分の腹のなかを明け透けに見せておきながら、その表情は何を考えているのか少しも読めないのだから。
 リュ・リーンは窓際を離れ、ランカーンに背を向けると、幕の向こうで繰り広げられている饗宴の広間へと足を向けた。
 訪問者を残してその場を立ち去るかと思われた王太子の足が止まる。手にした幕の端を握りしめたまま、リュ・リーンは僅かに振り返った。
「ランカーン。お前の忠誠は王家のあるのか? それとも、俺か? あるいは、自分自身か?」
 リュ・リーンの問いかけに、ランカーンが立ち上がって振り向いた。
 金髪の若者は小さく腰を屈め、相変わらずの上質な笑みを貼りつかせたまま、王子の黒衣の背を見つめ返してくる。
「申し上げた通り、わたくしは欲深い人間でございます。忠誠の第一は自分自身に、そして、その次にわたくしに満足を与えてくれる人間に向いております。これまでの人生のなかでは、わたくしを満足させ得る方は未だに現れておりませんが」
 その答えに納得でもしたのか、リュ・リーンは小さく口の端をつりあげた。
「面白い奴だな。王太子の前で、そこまでズケズケ言える奴も珍しい。……いいだろう。今夜の馬鹿げた茶番劇ももうすぐ終わる。その後に、王宮の東側にある伽藍庭園へと来るがいい。お前の演出する舞台に上がってやろう」
 リュ・リーンの返答に、ランカーンは深く腰を折った。それを視界の端で確認すると、リュ・リーンは二度と振り返ることなく幕間を後にした。




 トゥナ王国の伽藍庭園は諸外国でもよく知られていた。王宮を支える石柱と同じくらいに太い柱が庭のそこここに立ち上がり、柱頭からは優雅な曲線を描いた石梁が隣り合った柱同士を繋いでいる。
 一見すると屋根と壁のない建物のように見えるだろう。代わりに屋根や壁の役割を果たしているのは蔦類の植物だ。実際にそれらの機能を果たしているわけではないのだが、庭園の内側から見渡したとき、それらの植物たちは鬱蒼と繁って見る者を取り囲んでいる錯覚を与える。
 しかし、冬場の今は緑の天蓋を望むのは難しい。枯れ果てた雑草が庭園のあちこちで縮れ、柱に取りすがる白茶けた蔦たちは、寒さから逃れようと必死に石柱にしがみついている。足下の土中では花々の球根や越冬する虫の幼虫たちが、今はまだ遠い春を夢見てまどろんでいるところだ。
 月は雲間に隠れ、途切れた雲の間から光を投げ落としてくる星たちの下で見ると、伽藍庭園は人を拒絶するように頑なな沈黙を守っているように伺えた。
 ほとんど闇一色。僅かに白い石柱が星灯りを弾いて、白灰色の身体を真っ直ぐに天へと伸ばしている姿が見えるばかりだった。
「……待たせたな」
 リュ・リーンの低い声に反応して、石柱の一つから淡くくすんだ金色の輝きが姿を現した。
「おみ足をこのような場所までお運び頂き、恐悦至極に存じます」
 完璧な動作でランカーンが腰を折り、満面に笑みを貼りつかせる。が、その表情が王太子を見た途端に強ばった。いや、正確には、その脇に佇む人物の姿を認め、瞠目したのだ。
「ネイ・ヴィー卿。あなた様もご一緒とは存じませんでした」
「殿下から面白いものを見せてもらえると伺ってな。滅多にない機会であろうから、遠慮なくご一緒させてもらったのさ」
 ネイ・ヴィーと呼ばれた男は、明るい金茶色の髪に縁取られた顔のなかで萌葱色をした瞳を光らせている。口元に蓄えた薄い髭が皮肉を込めた笑みに小さく歪んでいた。
 ネイ・ヴィーは、ようやく十七になるリュ・リーンよりも、五つ以上は年上であろう。ただ、武官と呼ぶにはいささか貧弱な体格が、彼の実年齢を推測する目を惑わせる。
「ご随意に。あなた様にも気に入って頂けると思いますよ。……こちらへ」
 最後の言葉は、斜め後ろの闇に向かって放たれた。相変わらず、ランカーンの口調は内心を読ませない柔和なものだ。
 夜の暗がりから浮かび上がってきた人影に、ネイ・ヴィーが驚きの一声を発したのを、リュ・リーンは背中で聞いていた。
 そのネイ・ヴィーの驚きも無理はない。彼らの前に姿を現した者は、リュ・リーンによく似た漆黒(ぬばたま)の髪に、薄く日焼けはしているが白い肌をしていた。まるで兄弟のようによく似ている。
 唯一違っているのは、その瞳の色であろう。リュ・リーンの深く憂いが籠もった暗緑の瞳に比べ、目の前の若者の瞳は黒っぽい灰色をしていた。
 リュ・リーンはその事実に、がっかりしたようにため息をつく。彼は現れる若者が自分と同じ瞳の色を持っていることを期待していたのだ。自分と同じ瞳を持ちながら、他国で育った者を見てみたかったのだ。
 期待が外れ、リュ・リーンはあっけないほど簡単にランカーンたちに背を向けた。
「殿下!?」
 ランカーンとネイ・ヴィーが同時に呼びかけたが、リュ・リーンはチラリと肩越しに振り返っただけで、向き直ろうとはしない。
「ランカーン。不合格だ。容色は俺とよく似ているが、瞳の色が違いすぎる。今度は俺の瞳の色とよく似た奴を連れてこい。それでは意味がないだろう」
「ひ、瞳の色以外は兄弟のようによく似ております、殿下!」
 このとき、ランカーンが初めて自分の被っていた仮面にヒビを入れた。こんなにアッサリと却下されるとは思ってもみなかったのだろう。
 狼狽えたランカーンを、ネイ・ヴィーが気の毒そうに見遣っていたが、リュ・リーンの決定が覆らないことを知っているのか、何も口を挟んでこない。
「瞳を見られなきゃ、いいんだろ」
 背を向けて歩き始めたリュ・リーンを呼び止めたのは、まったく聞き覚えのない、いや、よく聞き馴染んだ声だった。自分のものによく似た声に、リュ・リーンは思わず立ち止まったのだ。
「こいつ……声まで殿下に似ている」
 ネイ・ヴィーはゾッとしたように首をすくめ、足を止めたリュ・リーンを伺った。すべては王子自身が決めることだ。
 今度こそ向き直ったリュ・リーンが、自分によく似た若者の瞳をじっと注視していた。自分の言葉一つで、彼らの今後が決まる。それは戦のときの駆け引きよりも味気ない、退屈でくだらない決定のような気がした。
「俺の聞いた話じゃ、あんたの瞳をまともに見ることができる人間なんて、ほとんどいないってことじゃないか。顔もまともに見られないような奴らが、相手の瞳が何色なのかなんて気にするのか?」
 目の前に立っている者が何者か判っていないのか、リュ・リーンによく似た若者はズケズケと言葉を並べ立ててくる。傍らで聞いているネイ・ヴィーが、その不躾さに胃痛を起こしたように鳩尾を押さえた。
 リュ・リーンが喉の奥で小さな笑い声をあげる。決して友好的とは言い難い声音だが、目の前に立つ若者の口調を面白がっていることが明白な笑い声だった。
 王子はゆっくりとした足取りで、若者へと近づいていく。
 その様子をランカーンとネイ・ヴィーが、奇しくも同時に生唾を飲み込んで見守っていた。もしも、この黒髪の若者が王太子の機嫌を損ねていたら、問答無用で切り捨てられるだろう。
「俺の瞳を見る者がいない、だと? それは逆だな。皆、俺の眼を恐いモノ見たさでチラチラと盗み見るんだ。そして、そこに死神と同じ瞳を見つけて怯える。見ていないようで、彼らは見ている。死に魅入られるのが怖いくせに、死の淵を覗きたがるのさ」
 若者の目の前に立つと、リュ・リーンは笑みを表情から消し、ジッと相手を凝視した。脇からそのリュ・リーンの顔を見つめていたランカーンが、喘ぐように浅いため息を繰り返し顔を背ける。彼にはそこまでが限界だったようだ。
 無表情ななかに光るリュ・リーンの瞳は、呼び名の通りに魔性のものだ。誰もかれもが気を反らせなくなり、そのまま死へと誘われてしまいそうな錯覚に背筋を凍らせる。
 若者も、目の前で突如光り出したリュ・リーンの暗緑の瞳に、たじろいだように半歩下がった。初めて目にする人外の瞳に、驚きを隠せないのだろう。
「この瞳の名を知っているか? 魔の瞳(イヴンアージャ)と言うのだ。死の魔王ルヴュールと同じ、人間を暗黒の淵へと引きずり込む瞳だ」
 若者が下がった分だけリュ・リーンは相手へと近寄った。すると、また若者が半歩下がる。再び、リュ・リーンが近づく。また若者が下がる。
 それを数度繰り返し、足下の石につまづいて若者が地面に転がった。それでも、若者はリュ・リーンの瞳から視線を逸らすことができず、惚けたように暗く光る暗緑の瞳を見上げている。
 リュ・リーンは黒髪の若者を見下ろしたまま、うっすらと口元に被虐的な笑みを浮かべた。相手に覆い被さるように身を屈めると、相手の顔の間際まで寄り、さらに相手の瞳の奥を覗き込む。
「や、やめろ。それ以上、近づくな!」
 座り込んだまま背後に逃げようと、手足をばたつかせる若者の胸ぐらを掴むと、リュ・リーンはゆっくりと瞬きをした。
 途端に、魔性の呪縛が解けたように、若者の動きが止まった。肩で忙しなく息をしながら、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う様は、心底安堵しているように見える。
「少々、遊びが過ぎたな。だが、憶えておけ。今までに俺の瞳の呪縛から逃れた者はごく僅か。それも俺が本気を出していない場合ばかりだ。お前にできるのか、俺の真似事が?」
 リュ・リーンを見上げている若者が悔しそうに唇を噛みしめた。その顔つきを見下ろしていたリュ・リーンの口元に再び、相手を嘲弄するような笑みが浮き上がった。
「お前、名はなんという?」
 問われて、若者が訝しげにリュ・リーンを見上げる。さすがにまだ恐怖が去っていないのか、彼の瞳を注視することはなかったが。
 再度リュ・リーンに問われ、若者はもそもそと「シーディ」と答えを返す。その名を口に出して確認すると、リュ・リーンは満足したように頷いた。
「雇われる気をなくしたか、シーディ?」
 リュ・リーンは無感動な視線を若者に向け続けている。ランカーンがその様子を固唾を呑んで見守っていた。
「こんな目に毎日遭うのならごめんだ」
 シーディと名乗った若者がふてくされたように返事を返す。そして、自分をこの地に連れてきた青年のほうにチラリと視線を走らせ、すぐにそっぽを向いた。こんな目に遭うなんて約束が違うとでも言った態度だ。
「毎日? それじゃ、毎日ではなければいい、ということか?」
 やや嘲りを含んだリュ・リーンの声に、若者がギリリと奥歯を噛み締め、苛立った様子で吐き捨てる。
「どうせ他に行くところなんかないからな。ゼビ王国にだって、フラリと立ち寄っただけだし」
「ふん……。根無し草か……」
「悪いかよ!? 俺だって好きでさすらっているわけじゃないんだ!」
 リュ・リーンの口調に苛立ちを強めたシーディが、噛みつくように叫んだ。
 彼らの様子をハラハラと見守っていたランカーンが、その態度に顔をしかめて小さく呻く。この王子に対してこんな口調で返事をするとは……なんという恐れ知らずだ。
「さすらえる手足があるだけ、マシだろうに」
 そう言い捨てると、リュ・リーンは座り込んだ若者に背を向けて歩き始めた。今度は若者も、ランカーンも、黒衣の王太子を止めようとはしない。少し離れた場所で成り行きを見守っていたネイ・ヴィーが、ホッとしたようにため息をついた。
 が、彼の安堵もそこまでだった。再び足を止めたリュ・リーンがクルリと取り残された二人を振り返り、意地の悪い笑みを浮かべて言い放つ。
「シーディ。過大な報酬を期待しないのなら、雇ってやろう。……それから、ランカーン。こいつにトゥナの王宮での作法を学ばせろ。別に俺と同じ王太子の作法でなくてかまわん。だが、近衛兵程度の教養は身につけさせろ。お前との話は、それからだ」
 言い捨てると、リュ・リーンはサッサと伽藍庭園から出ていってしまった。あんぐりと口を開けてリュ・リーンの言葉を聞いていたネイ・ヴィーが、我に返ると、転がるように王太子の後を追いかけていく。
 取り残された金髪の青年と黒髪の若者は、目をひん剥いたまま、全身を星の銀色に染め、遠ざかっていく黒太子の背中を見つめていた。




 バタバタと背後に従い歩くネイ・ヴィーが何度目かのため息をついたとき、リュ・リーンはようやくチラリと振り返って、嘲るような笑みを口元に浮かべた。
「俺の決定が不満か、ネイ・ヴィー?」
 俯きがちに歩いていたネイ・ヴィーがハッとして顔を上げる。自分が知らぬ間に不満を漏らしていたことにやっと気づいたようだ。
「申し訳……。出すぎたことを……」
「気にするな。陰でネチネチと嫌味を言う奴らよりマシだ。あのシーディという男がどこまで使い物になるかは未知数だ。お前の不安も当然だろう。……きっと、ウラートなら一も二もなく反対している」
 まとわりつくマントをうるさそうにたくし上げると、リュ・リーンは宮殿の外回廊から夜空を見上げた。凍てついた星たちは、今にも降ってきそうなほど鮮やかな輝きを放っている。
「でしたら、なぜあのように氏素性の知れない者を──」
「知れないからこそ、だ。貴族連中の息のかかった者が側にいたのでは息が詰まる。あの男なら鬱陶しい牽制も無視するだろう?」
「ですが、ランカーン卿の手の者です。ランカーン卿は前オフィディア伯の庶子。嫡子の現当主とはあまり仲がよいとは言えませんよ。彼が殿下に近づいてきたということは、充分に下心があるからですし……」
 見上げていた夜空から視線をそらすと、リュ・リーンはチラリとネイ・ヴィーを振り返った。宵闇のなかで見ると、リュ・リーンの瞳はいっそう物憂げな色をしている。
 まるで深い森の奥で誰かが訪れるのを待っている沼のようだ。周囲の音や空気まで呑み込みそうな暗い緑の瞳は、それを見ているだけで禁忌を犯している罪悪感に駆られる。
「俺の周囲に集う者の大多数は下心がある者ばかりだ。今さら一人二人増えたところで気にもならん。……ただ。ランカーンには、お前やウラートのような無私の忠誠はなくとも、自分自身の欲望には忠実だという利点がある」
 判るか? と首を傾げるリュ・リーンの態度に、ネイ・ヴィーは小さく首を振った。リュ・リーンの言いたいことが判らない。我欲に溺れる者など、リュ・リーンの側に置いておけるはずがない。
「ランカーンには権力が今どちらを向いているのか、正確に計るだけの洞察力がある。つまり、あれが俺に近づいてきたということは、ギイ伯や奴の義兄オフィディア伯よりも俺が玉座に近いと判断したということだ」
「自分の位置を探る物差しになさるおつもりですか?」
「そうだ。あいつには日和見な爺連中よりも若い分だけ野心がある。いけ好かない義兄から嫌味の一つも言われるだろうに、オフィディアの名を背負って外遊に出掛けていくだけの気概も。毒を盛ってくる陰険な輩ではない、と判断した」
 再びリュ・リーンは歩き始めた。ゆったりとした歩調だったが、彼の気配には僅かな緊張感が漂っている。それを鋭敏に感じ取ったネイ・ヴィーはまた小さくため息をついた。
「ご随意に、殿下。でも、あのシーディという者に何をさせるおつもりで?」
「近衛兵にする」
 振り返ることなく、リュ・リーンはネイ・ヴィーの問いに答える。それは日常会話のようにごくアッサリとした口調だった。
「こ、近衛兵ですって!?」
 思わず立ち止まったネイ・ヴィーであったが、リュ・リーンが足を止めないのを見て、再びバタバタと追いかけた。
 近衛兵になれる者は身元のしっかりとした騎士階級の者だけだ。それなのに、どこの誰とも知れない者を兵団に推挙できるはずがない。
「殿下。お気は確かですか!? そんなことできっこありません!」
「できない、のではない。やるんだ」
「殿下……!」
 情けないほど素っ頓狂な声をあげて抗議するネイ・ヴィーの態度に、リュ・リーンが意地の悪い笑みを向ける。
「誰が王宮の近衛兵にすると言った?」
「お……だって、近衛兵と言ったら王宮の……」
 パクパクと口を開閉させ、目を泳がせているネイ・ヴィーの様子が可笑しいのか、リュ・リーンはクスクスと喉を鳴らして笑っていた。そうやっていると、リュ・リーンも年相応の若者に見える。
「王子。意地の悪いことをしないで教えてください!」
 憤懣やるかたない、といった顔つきのネイ・ヴィーに対して、リュ・リーンは屈託ない笑みを浮かべていた。王子のその表情にネイ・ヴィーが困ったように眉を寄せる。
「か、変わられましたね、殿下」
「え? なんだって?」
「去年の冬頃から見ると随分と丸くなられた、と申し上げたのです。よく笑われるようになりましたし」
 眩しげに目を細めるネイ・ヴィーの様子に、リュ・リーンは居心地悪そうに肩をすくめた。突然に何を言い出すのかと思えば……。
「どうせ去年の俺は刃物のように尖っていたと言いたいんだろう」
「自覚があったんですか?」
 心底驚いているネイ・ヴィーの態度に、いささかリュ・リーンはムッとした。が、何を思ったのか、そのまま彼に背を向けてスタスタと歩き始める。
「あっ。ちょっと王子! 待って下さい。さっきの話の答えはなんだんですか!? 教えてくださいよ!」
 足早に歩き去るリュ・リーンの後ろを転がるようについていきながら、ネイ・ヴィーは自分の失言に苦虫を噛み潰していた。
 ここ最近のリュ・リーンの雰囲気の軟化に気を抜いていた。前までのリュ・リーンならもっと冷たい態度を取られただろうが、今でも十分王子は不機嫌になっている。
「俺をよぉっく見ているはずのお前なら判るだろう。それでも判らないのなら、俺自身よりも俺を知っているお前の義弟にでも聞け!」
「やめてくださいよ。ウラート卿なら、我がタウラニエスク家に養子に入って以来、一度も里帰りしてきてないんですよ。義弟なんて言われても、ピンときません! 第一、どうして彼が殿下以上に殿下のことを判るんですか!?」
「自分で考えろ」
 取りつくしまもないリュ・リーンの口調に、ネイ・ヴィーは情けない表情でため息をついた。やはりこの人には、油断してはいけないのだ。




 翌日、リュ・リーンは次姉の見舞いのためにオフィディア家へとやってきていた。
 しかし、随分と待たされているのに、いっこうに姉のところへ案内されない。しばらくの間、談笑につき合っていた姉の夫も先ほど出ていったきりで戻ってこない。
 焦れてリュ・リーンは部屋のなかをウロウロと歩き回っていた。他に誰も人がいないからいいようなものの、俯きがちな姿勢で行ったり来たりを繰り返す彼の姿は王太子の威厳とはほど遠い。
「いったい何をしているのだ!」
 とうとうリュ・リーンは部屋から飛び出すと、手近にいた召使いの一人を捕まえた。震え上がっているその男を脅しつけて、姉が臥せっている部屋へと無理に案内させる。
 屋敷の主人であるオフィディア候がギョッと顔を強ばらせてリュ・リーンを迎えたが、王子は相手の様子を完全無視して部屋の主へと声をかけた。
「姉上。お加減が悪いと伺って、急いで参上したのですが……。逢ってはいただけないのですか?」
 紗の降ろされた天蓋のなかで人の蠢く気配がする。人影がノロノロと起きあがり、こちらへと顔を向けていた。
 病人を少しでも明るい雰囲気の場所へとの心遣いからか、窓から差し込む光が姉のいる天蓋の内側まで届いている。肌寒さを多少は感じるが、澱んだ空気が漂っていないだけに陰気さとは無縁なことにリュ・リーンはホッとしていた。
 次姉は姉弟のなかでも、もっともリュ・リーンを甘やかせた姉である。長姉が優しくとも、時には厳しい言葉を口にするのに対し、次姉はリュ・リーンの我が侭をいつも寛容に許していた。
 よほど無理難題を押しつけたとき、本当に申し訳なさそうにできないと答える彼女の態度は、リュ・リーンには長姉の厳しい叱責よりも胸に堪えたものだ。
「リュ・リーン……? 病が移るわ。早くお帰りなさい」
「紗越しにお話することも叶いませんか? せっかくきたのに」
 低く囁くような女の声に、リュ・リーンは小さく眉をひそめた。最後に聞いた次姉ラスタ・リーンの声はこんなにか弱くはなかったはずだ。姉は明るい、光が弾けるような笑い声をあげる人だ。
「相変わらずね。──外してくださる?」
 後の言葉は、二人の間に立って途方に暮れている彼女の夫へと向けられてものだ。妻の容態を気にしつつも、王太子の要求をはねつけるだけの気概もないのか、オフィディア候は渋々といった態度で部屋から出ていった。
「結婚が決まったそうね、リュ・リーン。おめでとう。わたくしはそれまで生きていないかもしれないから、今のうちにお祝いを差し上げるわ」
「そのように気弱なことを! 父上が嘆かれます。早く元気になってください、姉上」
 苛立った口調でリュ・リーンが姉の言葉を遮る。彼の態度に、紗の向こう側からかすれた笑い声があがった。
「ずいぶんと背が伸びたのね。……死ぬ前にもう一度逢えて良かったわ」
「ラスタ・リーン姉上!」
 リュ・リーンの口調がさらに険しくなる。死ぬことを前提にした言葉など聞きたくない。自分はここに見舞いにきたのであって、遺言を聞きにきたわけではないのだ。
 しかし、リュ・リーンの思いを知ってか知らずか、ラスタ・リーンは自分の死を予見する言葉を覆しはしなかった。
「自分が死ぬか生きるか、判っているのよ。それだけ。悲観して言っているわけじゃないわ。……ねぇ、リュ・リーン。王宮の伽藍庭園はまだ綺麗に整備しているかしら? 荒れ果ててはいない?」
「えぇ。今は花たちは眠っていますが、春には赤や白の花たちで賑わうでしょう。皆で植えたナナカマドも花をつける──」
 肩を落とし、ため息をつきながらリュ・リーンは姉の言葉に答えた。彼女の瞳は自分を映しているだろうが、実際に見ているのは今ここにいるリュ・リーンではなく、幼い頃、たった一度ではあったが姉弟全員で訪れた伽藍庭園での光景だ。
 光り輝いていた幸福なひとときだった。リュ・リーンのなかではおぼろげな記憶でしかないが、子どもたちの守り役たちをすべて退け、両親と姉弟だけで過ごした数少ない想い出の場所だ。
 王宮のなかで、ほとんど顔を合わせることのない姉弟たち全員が逢えたわずかな時間だった。毎年夏の間は戦場に出ている父王が、その年はずいぶんと早く帰還でき、のんびりと家族だけでくつろげるとは、望外の幸運であっただろう。
 あの風景を憶えているからこそ、自分たち姉弟は決定的にいがみ合うことなく今に至っている。
「秋の終わりだったわね。赤く色づいた蔦葉や枯れずに最後まで咲いていた紅いカリアスネが、とても綺麗な色をしていて……。リュ・リーンはまだお母様に甘えたい盛りで、わたくしが成年を迎える頃だった。あれが子供時代の──お母様との最後の想い出」
 リュ・リーンは姉の言葉に応じることができず、立ち尽くしていた。姉の言うとおり、あれが母が王宮の外に出られた最後の機会だった。その後すぐに母は胸の病を患い、翌年の冬に悪化すると大量に吐血して他界したのだから。
「ねぇ、リュ・リーン。お祝いは何が欲しい?」
 ふとラスタ・リーンが我に返り、リュ・リーンを呼ぶ。姉の問いに、王子は一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに口を引き結んで微かな微笑みを浮かべた。
「姉上のお顔を見せてください」
 天蓋から戸惑いの気配が伝わる。しかし拒絶の言葉は聞こえてこない。再び、リュ・リーンが顔を見せてくれと声をかけると、天蓋の紗が微かに揺れた。
「病んだ姿を見せろというの? 化粧もしていないわ」
「姉上のお顔を見ないまま帰れと仰るのですか?」
 弟の表情のなかに何を見たのか、ラスタ・リーンは長い長いため息をつく。
「ここに、おいでなさい」
 頑固な弟に諦めたのか、意外とあっさりラスタ・リーンは王子を手招きした。姉が心変わりしないうちにと、リュ・リーンは足早に天蓋に近寄り、姉が作った紗の隙間から天蓋のなかへ割り込んだ。
 ラスタ・リーンの顔色はかなり悪かった。身体も随分と痩せている。夏のわずかな間だけで病が急速に進行したらしい。病んでなお輝きを失わない金髪と、深い蒼色をした瞳の大きさばかりが目立った。
 彼女の色を失った唇が弱々しい笑みを刻む。
「ひどい有様でしょう?」
「……いいえ。今もお綺麗です」
 嘘ではなかった。痩せ衰え、身体が弱っていてさえ、姉は光に包まれているようだった。ただ、この痩せ方に憶えがある。
「姉上……。やはり胸を──?」
 死に際の母によく似ていた。ラスタ・リーンの容姿は父親であるシャッド・リーンに似て華やかだったが、痩せて眼の大きさばかりが目立つ顔は、亡くなる前の母の状態にそっくりだった。
「そうよ。移るかもしれないから側に来て欲しくなかったのに」
 リュ・リーンはベッドの縁に腰を降ろすと、姉の細い指をとり、そっと握りしめた。なんという細い指だろう。危うく力を入れすぎたら折ってしまいそうだ。幼い頃に、繋いだ手はもっとふくよかであったのに。
「皮肉ね。エミューラ・リーン姉様のほうがお母様に似ているのに、死に方はわたくしのほうがそっくりになりそうよ」
「やめてください。まだ、希望はあります! 遠方の国の薬を手に入れましょう。国中の医者を集めて……」
 リュ・リーンの言葉にラスタ・リーンが微笑みを浮かべる。その表情にリュ・リーンは言葉を詰まらせた。
 それは死を悟った者の顔だった。諦めて自暴自棄になっているわけではなく、ただあるがままに、命の灯火が消える日を待っている表情だ。
「死ぬのは、怖くないの。死の王が迎えにきても平気よ。きっとルヴュール神は、リュ・リーンによく似た綺麗で優しい顔をしているでしょうから」
 自分の顔が綺麗で、しかも優しいはずがあるものか! リュ・リーンは喉まで出かかった叫びを呑み込んだ。姉は病に臥す自分を嘆くどころか、死を楽しんでいるように見える。
「首が据わったばかりの黒髪の赤子に逢ったときは、怖かったわ。本当に。死の神が目の前にいるような気分になってね」
 王太子の胸がチクリと痛んだ。皆がそう思っているだろう。自分の黒髪と暗緑の瞳は、この国の人間には死そのものだから。生の対極にあるものが目の前に立っていて怖れるなというほうが無理というものだ。
 それでも、周囲の人間の反応や言葉は否応なしにリュ・リーンを傷つける。
 顔をしかめたリュ・リーンにラスタ・リーンが笑いかけた。青ざめた肌に、ほんのわずかだが赤みが戻ってきている。
「でも、あの伽藍庭園で走り回っている男の子は、とても綺麗な瞳をしていた。わたくしたちは知っているわ。その鉄仮面の下にどんな優しい顔を持っているのか」
「姉上……。それは買いかぶりすぎです」
 リュ・リーンの囁き声にラスタ・リーンがそっと俯いた。
「ごめんなさい。わたくしたちの態度がリュ・リーンを傷つけているのよね。死を怖れるばかりに、死の神に似ているというだけの理由で……」
 何も答えないリュ・リーンを伺い、ラスタ・リーンの視線がチラリと上がり、すぐにまたベッドの上に落とされた。
「リュ・リーンを傷つけたかったわけではないのよ。知らない死というものが、怖かっただけ……。でも、もう怖くないわ。全然、怖くないのよ。お母様の穏やかな死に顔を見てからは、全然怖くないの。わたくしも静かに逝ける──」
 ラスタ・リーンの指を握っていたリュ・リーンの手に力が込められた。その僅かに強められた力に答えて、ラスタ・リーンも細い指で握り返す。
「また次に生まれていくための、魂の船に乗るだけよ。寂しくないし、怖くもない。だから、またどこかで逢いましょうね、リュ・リーン?」
 顔を上げたラスタ・リーンは、やつれた顔に花のような笑みを浮かべていた。光を弾き、自身が輝きを放っている金色(こんじき)の花のような笑みを。
 リュ・リーンは強ばる顔になんとか笑みを刻み、小さく頷くしかなかった。死の息吹は戦場で間近に感じたことがある。しかし、こんなに穏やかに寄り添う死は知らない。
「また皆と一緒に、あの伽藍庭園で遊ぶのよ。小さかったナナカマドが、大きくなって迎えてくれるわ。だから、そのときには迎えに行ってあげる。きっとリュ・リーンは不慣れで迷子になってしまうでしょうから」
 唇を噛みしめて胸に刺さる痛みをやり過ごすと、リュ・リーンはようやくしっかりと笑みを口元に刻んだ。
「お願いします、姉上。母上と一緒に迎えにきてください」
 満足げにラスタ・リーンが頷き、口を開きかかったとき、部屋の入り口に人の気配がした。心配したオフィディア伯が様子を見に来たのだ。
 紗の間からのぞく姉弟の様子に一瞬狼狽した表情を浮かべたが、館の主は何も言わず、再び姿を消した。
「サイモスが心配しているわ。行きなさい。……また逢いましょう」
 リュ・リーンは名残惜しげに口を尖らせたが、姉の言葉に素直に従って立ち上がった。しかし、すぐには戸口へと向かわず、握りしめたままの細い指先にそっと口づけを落とし、低く囁いた。
「また、お逢いしましょう」
 胸が苦しかった。鋭い剣をねじ込まれたとしたら、こんな痛みが走るのだろうか? そう思うくらいに苦しかった。それを無理矢理にねじ伏せると、リュ・リーンは自分にできる最良の微笑を姉に向ける。
「さよなら。また逢いましょう。……今日はわたくしが見送るわ。わたくしの旅立ちのときには、リュ・リーンも皆と一緒に見送ってくれるでしょうから」
 姉の言葉に頷き返し、リュ・リーンは彼女に背を向けて歩き始めた。背中に暖かい視線を感じる。それは日だまりのようにリュ・リーンを包み込んでくる。
 戸口の陰で佇んでいる義兄に面会の礼を伝えると、リュ・リーンは最後にもう一度天蓋のなかの姉と視線をかわした。姉の大きな瞳が笑みに細められる様を確認し、リュ・リーンは今度こそ廊下へと歩み出した。
 もう二度と振り返らない。
 次姉ラスタ・リーンが、長い旅路へと出発したという知らせがリュ・リーンの元へ届いたのは、冬の寒さがもっとも厳しくなる時期のことであった。

〔 16428文字 〕 編集

後日譚

No. 79 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第09章:竪琴

 半年ぶり以上の王都(ルメール)であったが、リュ・リーンはそれほど深い感慨を抱くこともなく大通りを駆け抜けていった。
 本来なら聖地にずっと留まっていたかった。だが、母国に戦勝報告をしていない。面倒なことであったが、それを終わらせないことには、彼の戦は本当の意味で完結しないのだ。
 海のある西側から肌を刺す寒風が吹きつけ、凍てついた大地は石よりも硬く、騎乗している愛馬の蹄を容赦なく酷使させる。彼が生まれ育った大地は今まさに氷の大地へと変貌しているところだった。
 常に黒衣をまとっているリュ・リーンの姿は、雪が舞い始めた白銀の世界ではよく目立つ。地響きを轟かせて近づいてくる馬影に、家々の戸口には王都の住民たちが顔を覗かせた。
 その目の前を駆け去っていく未来の王に彼らは口々に歓声を送ってくる。リーニスに侵攻してきたカヂャ公国軍を、完膚無きまでに叩きのめした王子の戦いぶりは、すでに人々の知るところとなっていたのだ。
 リュ・リーンが王宮に近づいていくと、扉を固く閉ざしていた城門がギシギシと軋んだ音を立てて開いていった。
 その空間を当たり前のようにして駆け抜けると、リュ・リーンは下馬庭まで一気に駆け寄った。背後に続く騎士たちもそれに倣って付き従う。
「リュ・リーン殿下、ご帰還!」
 城門周辺を守護している兵士たちの間から、轟くような歓声があがった。その騒乱のなか、リュ・リーンは相も変わらず無愛想な表情のままで馬を下りる。
 すぐに近寄ってきた馬丁に手綱を手渡し、疲弊気味の愛馬の首を柔らかく叩いて労ってやる姿に馬丁が苦笑を漏らした。この王子は人間よりも動物に優しい。
「こいつもよく走って疲れたでしょう。たんまりと褒美をやることにしますです、殿下」
 真面目腐った口調の馬丁にチラリと視線を走らせると、リュ・リーンは微かな笑みを口元に湛えた。
「あぁ、頼む。ほとんど毎日乗り回していたからな。よくやってくれたよ。ゆっくりと休ませてやってくれ」
 馬丁は、滅多に口をきかないリュ・リーンが笑みまで浮かべて声をかけてきたことに驚いた。この夏の間に、王の跡取りは身体だけでなく、精神も随分と成長したようだ。
「それとも、聖地の綺麗なお姫様を妃に迎えるってんで、あの仏頂面の王子様でも嬉しいのかねぇ」
 旅用の簡素なマントをひるがえして去っていく王子の背中を見守りながら、馬丁は嬉しそうに微笑んだ。何にせよ、王子の顔に笑みを見つけることは稀なことだ。今後、その機会が増えるというのなら、喜ばしいことだった。
 馬丁から評価を上げてもらえた当のリュ・リーンのほうはと言えば、表面上は浮かれた様子などまったく見せていなかった。いや、実際のところは鬱屈とした気分でいたと言ってもいいだろう。
 王都へと帰還しなければならない時期がきたとき、彼は身を引き裂かれるような思いで聖地を後にしてきたのだ。カデュ・ルーンがいない場所はなんと味気なく、灰色に染まっていることか。
「おや。英雄のお帰りで。ようこそ、ようこそ」
 粘質の強い声に背筋を撫でられ、リュ・リーンは思わず身震いしそうになった。前方の廊下の支柱に寄りかかるようにして、三十そこそこの男とその取り巻きらしい数人が立っている。
 王宮へと足を踏み入れ、父王の待つ居室へと向かおうとしていたところだ。その宮殿のなかでも深部に近い場所に出入りできる者は限られている。
「これはギイ伯爵。そんなところで何を?」
「なぁに、大事な義弟殿の無事を確認しに参ったのですよ。よくぞ生きて帰られた。カヂャの蹄に蹴散らされはしないかと心配しておりましたぞ」
 ギイと呼ばれた男の明るめの青い瞳が、ギラリと光る。その眼は「どうして死んでくれなかった」と非難がましくリュ・リーンを責め立てていた。その取り巻きたちも口にこそ出さないが、友好的とは言い難い視線をリュ・リーンへと浴びせる。
「お心遣い感謝しよう。そうそう、姉上はいかがお過ごしです? 随分とお逢いしておりませんが」
「もちろん、元気ですとも。元気でいてもらわなくては。私の大事な妻ですからねぇ。それにしても、義弟殿。戦場ではこの王都よりも美味いものを食べさせてもらえたようで。その勢いで身長が伸びては、いずれ宮殿の天井を突き抜けてしまわれるのではないか?」
 クスクスと喉の奥に絡まるような笑い声をあげながら、リュ・リーンの義兄は冷たい視線を送り続けてきた。半年ほど見ない間に伸びたリュ・リーンの身長ですら、目の前の男には鬱陶しかったのだろう。
「ご忠告通りにはなりますまいよ。俺は父に似ているそうだからな。……では、失礼する。王に報告をせねばなりませんから」
 相手の冷笑に負けない冷たい笑みを口元に浮かべると、リュ・リーンは男たちを押しのけるようにして宮殿の奥へと向かった。
 その彼の背を憎しみの籠もった幾対もの瞳が見送っている。それを背に痛いほど感じながら、リュ・リーンは苛立ちに眉をひそめた。
 戦に圧勝したとしても、王都の人間が自分に向ける視線が変わることはないだろう。その評価を完全に覆すには、リュ・リーン自身が王位に就き、彼らに忠誠を誓わせるしかあるまい。
 奥宮殿へと足を向け、父王が待つ部屋への取り次ぎを頼むと、リュ・リーンは控えの間をウロウロと歩き回った。帰ってきてすぐだというのに、宮殿に立ち込めている毒の臭気に吐き気がする。
「カデュ・ルーン……」
 氷原の向こうの街に残してきた娘の名を呟くと、リュ・リーンは暖炉のなかで揺れる炎をじっと凝視した。揺らめく赤い手がかつて彼女が舞っていた舞の動きに見えてくる。
 彼女を守るのだと心に誓いながら、それでもリュ・リーンの内心から不安は去らなかった。こんな場所に彼女を連れてこなければならないのかと思うと、それだけで暗澹とした気分になってくる。
 頑強な壁を拳で殴りつけ、リュ・リーンは小さくうめいた。
「彼女に何かあったら……俺はどうすればいいんだ」
 無意味に募る焦燥感を落ち着けようと、リュ・リーンは幾度も深い呼吸を繰り返し、脳裏に銀の舞姫を思い描いた。不思議と、彼女の笑顔を思い出すと心が鎮まってくる。
 眼を軽く閉じ、眼裏(まなうら)の花の微笑みに微笑み返すと、リュ・リーンは安堵したように肩から力を抜いた。昔ならまだ不機嫌さを引きずっていただろうに、今は彼女を思い出すたびに、僅かではあるが心に静穏が訪れる。
「カデュ・ルーン」
 彼女の名を呼べば、心の奥底に暖かい灯火が点る。本当に、彼女の名にはいったいどんな魔法がかけられているというのだろうか?
 廊下から足音が聞こえてきたのは、そんなときだった。
 その足音が控えの間の前で止まり、その足音の主は無遠慮に大きく扉を開いた。その空間から大柄な男が室内へと滑り込んでくる。
「お、親父! こんなところまで何しに出てきた」
 本来なら息子であるリュ・リーンが王の居室に案内されるはずだ。それが、王自らが控えの間まで足を運んでくるとは。いかにも腰が軽い国王である。
「リュ・リーン~。息災であったかぁ~?」
 半年前と変わらぬ間延びした声に、リュ・リーンは脱力したように肩を落とした。ときどき、自分の父親が本当にこの男なのかと疑いたくなる。こんなとぼけた王がどこにいるというのか。
「元気だからこうして報告に戻ってきたんだ。どこを見てるんだ、まったく」
「んふふ~。やぁっと背が伸びたなぁ」
 大股で息子に歩み寄ると、トゥナ王は息子の顔を両手で挟み込んでじっとその暗緑の瞳を覗き込んだ。
 かつては腰を屈めなければ、間近に見ることができなかった息子の瞳を、今は悠々と見ることができる。息子の身体の成長ぶりにそうごを崩すと、王は子どものような笑い声とともに息子の頭をグリグリとなで回した。
「うわっ。やめろってば。俺はもう子どもじゃないんだぞ!」
「いや~。子どもだ、子ども~。リュ・リーンはぁ、いつまでたっても~、余とミリアの子どもだぞぉ?」
 どうしようもないほど笑み崩れている父親の顔を見上げ、リュ・リーンは困惑とともに苦笑いを浮かべた。どこまで真実で、どこまで偽りなのか判らないが、父王の態度が今はひどく懐かしい。
「この調子ならぁ、来年の冬には余の背に追いつくな~」
 いつまでも息子の髪をくしゃくしゃと掻き回している王に、リュ・リーンが苦笑混じりの声をかける。
「これじゃ、いつまで経っても戦勝の報告ができないんだがな、親父」
「おぉ~。そうそう~。忘れていたぞぉ。……でも、お前が報告せんでも、ウラートからちゃ~んと聞いているがなぁ」
 戦地からリュ・リーンに付き従っていたウラートが報告書を送り続けていたのだろう。トゥナ王はニヤリと口元をつりあげて悪戯っぽい笑みをみせた。
「どうせそんなことだろうと思った。しかし、今回の戦は親父が裏でグンディを牽制してくれたお陰で助かったよ。せっかくトゥナが勝っても、ゼビやミッヅェルがグンディに呑まれていたんじゃ目も当てられないからな」
 手近な長椅子に腰を降ろしたトゥナ王がさも楽しそうに息子を見上げる。そして、リュ・リーンが思ってもみなかった言葉を突きつけてきた。
「んっふっふっ。よく判っているじゃないかぁ。それでぇ、聖地ではカデュ・ルーン姫といいことしてきたか?」
「な、なななな……! 何を……!」
 真っ赤な顔色になった息子の様子に、トゥナ王シャッド・リーンはつまらなさそうに口を尖らせた。
「こ、このスケベ親父! どうしてそういう話が出て来るんだ。俺と彼女はまだ婚約したばかりで、結婚しているわけではないんだぞ!」
「なんだ~? まだなのか~? チェッ。早く孫の顔がぁ、見たいのにな~。どうせ来年には一緒になるならぁ、早いも遅いもないがなぁ」
「けじめってものがないのか、親父には!」
「けじめ~? だって、お前ぇ、竪琴(リース)を置いてきたんだろうぅ? あれの意味が判ってないのか~?」
 突然に出てきた竪琴リースという単語に、リュ・リーンは戸惑い、それを贈る意味を真面目に考え始めた。
「確か竪琴(リース)の意味は“汝、その音色にて我を慰めよ”だったと──」
「そうそう~。で、それから~?」
「そ、それから? それ以外の意味があるのか!?」
 息子の狼狽ぶりにシャッド・リーン王は呆れたように目を見開いた。
「リュ・リーン~。もしかしてぇ、本当に知らないのか~?」
 父親が目の前で深いため息をつく姿を見て、リュ・リーンは顔を強ばらせる。いったい竪琴(リース)を贈るということにどんな意味が込められているというのだ。
 返事もできずに突っ立っている息子を差し招くと、トゥナ王は自分の隣の席へとリュ・リーンを座らせた。
「あのなぁ、竪琴(リース)という単語は女性詞だろう~? だからぁ、特定の女の姿を指すんだなぁ」
 ため息混じりの父の口元を凝視して、リュ・リーンは一語一句を聞き逃すまいと息をひそめる。そんな息子の様子に、トゥナ王はますますため息をついた。
「その特定の姿ってのはなぁ~……」
 ふとそこで口をつぐむと、シャッド・リーン王は生真面目な顔をしている息子の耳元に口を寄せ、ごにょごにょと小声で囁きかける。途端、リュ・リーンの顔が先ほどの赤面以上に赤くなった。
「女の……声? それも……それも……」
 動揺に震える息子の声に、トゥナ王は再びため息をついた。トゥナの王族男子なら、成年の儀式の一部で経験済みであろう。だが、目の前の息子がその場数を踏んでいるとは思いがたい。
 この手の恋愛の駆け引きにはまるで疎い息子の横顔を苦笑混じりに眺めると、トゥナ王は励ますようにその背を叩いた。
「まぁ、なるようになるさ~。どうせ来年にはぁ、カデュ・ルーン姫はここにくるんだからぁ~。というわけでぇ、孫の顔を~楽しみに待ってるぞぉ」
「そんな……。そんなバカな……。俺はそんなこと全然知らなかったぞ……。そんな……」
 もはや息子が自分の声など聞いていないほどの衝撃を受けていることに、トゥナ王はようやく気づいた。鈍すぎるのも良し悪しだが、どうやら息子の場合はこちらの知識のことも鍛え直しておく必要性があるようだった。
「嘆くな、リュ・リーン~。父がついておるだろぅ?」
 悄然と肩を落とすリュ・リーンが、恨みがましそうな視線を父へと向けた。なんの慰めにもなっていないような父親の言葉に、文句の一つも並べてやりたいところだろう。
「どうしてあのとき、竪琴(リース)なんか持ってきたんだよ! あれさえなかったら、こんな恥ずかしい想いしなくても良かったんだぞ」
「そうか~? でも、そうなったらぁ、お前はこれからもずぅっとぉ、知らないままだったんだぞ~?」
「うぅ……。そ、それは……。で、でも! カデュ・ルーンがこのことを知っていたら……知っていた……ら……」
「ま~、知ってるかもなぁ」
「あぁっ! 耐えられない。彼女の前で俺はどれだけバカ面をさらしていたんだ!?」
 呻き声とともに頭を抱えたリュ・リーンの背を再び叩くと、シャッド・リーン王は少しも慰めにならない言葉を息子に贈った。
「リュ・リーン~。長い人生のなかにはなぁ、幾つかの汚点も残っているものだぞ~」
「こんな汚点なんかいらない! まだ負け戦のほうがマシだ!」
 父の言葉に反論しながら、リュ・リーンは自分の片手で自分の首を締めつける。こうでもしないと、叫びだしてしまいそうだ。
 なんという失敗だろう。これまで、彼女がリュ・リーンの贈った竪琴(リース)を奏でている音色を平然とした顔で聞いていた。その音色を思い出すたびに、自分の無知に罵声を浴びせてやりたくなってくる。
 竪琴(リース)を贈るという意味にそんなものが含まれているなんて、少しも考えつかなかった。女が、寝所であげる泣き声だなんて……!
 彼女はなんと思っただろう? しかも、贈っておいて何もしなかった自分を、どう感じただろう?
 信じられない失態に、リュ・リーンは呻き声をあげ続けた。




「素晴らしい勝ち戦だったとか……。王国中、殿下の噂で持ちきりでございますよ、リュ・リーン様」
「戦模様をぜひともお聞きしたいものですな。きっと、他の者も聞きたがっておりますぞ」
 もったいぶった口調の貴族たちに取り囲まれ、リュ・リーンはうんざりしていた。なぜ彼らと楽しくもないのに、一緒にいるのだろうか。まだ始まったばかりの饗宴の空間を、リュ・リーンは冷めた視線で見回した。
 王都に帰ってきてからのリュ・リーンは、表面上は戦の起こる前と大差ないように見えた。身長が飛躍的に伸びて同年代の若者よりも高くなったお陰で、彼の欠点をあげつらう箇所が減り、不満に思っている輩もいるようであるが。
「我が娘など、殿下の姿絵を買い求めておりますぞ」
「姿絵……?」
 芳しくない表情のまま、リュ・リーンは隣でおしゃべりを続ける男の顔を見返した。いま、彼はなんと言ったか?
「そうそう。街でもあちこちで飛ぶように売れておるとか。今では宮殿どころか、王国中の女たちの憧れですな」
「どうしてそんなものが出回っている?」
「もちろん。リーニスの朱の血戦の英雄に娘たちが熱をあげているせいではありませんか」
「誰もかれも、殿下に夢中でして。他の公子たちが妬むほどですぞ」
 リュ・リーンの声が一段と低くなったことにも気づかず、貴族たちは下品な笑いを口元に浮かべている。彼らには、リュ・リーンの声の調子から王子の機嫌の善し悪しを判断することなどできないのだろう。
 元から鋭いリュ・リーンの視線が、いつもに増して険しくなった。
 自分の知らないところで、自分の虚像が勝手に歩き回っている。顔も知らない女たちが身勝手な想像で王子に憧れを抱くのは自由だが、それでリュ・リーンの気分がよくなるわけではない。
 苛立ちを込めた視線を周囲を取り巻く男たちに送ってみるが、彼らはいっこうにリュ・リーンの不機嫌さに気づいていなかった。
 こんなときにウラートがいたならば、彼がさりげなく不愉快な連中からリュ・リーンを遠ざけてくれたことだろう。しかし、ウラートがいない今は、リュ・リーン自身がなんとかしなければならなかった。
 リュ・リーンは全身から不機嫌さを放出して気難しい顔をしている。ところが、貴族たちはそれを照れとでも受け取ったのか、なおも揶揄するようにしゃべり続け、遠巻きにリュ・リーンを眺めている貴婦人たちへと意味ありげな視線を送っていた。
 不快感にリュ・リーンの背中には虫酸が走っている。もうこれ以上は辛抱できないギリギリいっぱいのところだ。
 と、そのとき。饗宴の広間にさざ波のように歓声が広がっていった。
 振り返ったリュ・リーンの視線の先に、数名の女が目に入った。他のどんな貴婦人たちよりも華やかに、艶やかに、堂々と人垣を割っていく彼女らのすぐ脇には、女たちを引き立たせるためにいるとしか思えないような男たちが寄り添っている。
 うっすらと、リュ・リーンの口元に嘲弄が浮かんだ。男たちは威厳を保とうと必死なようだが、隣りに立つ女たちのほうが数段貫禄があるように見えるのだ。リュ・リーンには、どんな道化の狂態よりも滑稽な光景に映った。
 人の波を掻き分けて進む集団が、リュ・リーンのいる場所へと一直線に向かってくる。その様子を、リュ・リーンは黙って見守っていた。自分のほうから近づいていこうとはしない。
「ごきげんよう、弟殿。今回のお手柄、お祝い申し上げますわ」
 リーニス地方に広がっていた秋の麦穂を思わせる豊かな女の声に、リュ・リーンは慇懃に腰を折った。長姉エミューラ・リーンが、他の姉たち数人を引きつれてリュ・リーンのために催されている饗宴へとやってきたのだ。
 それまでリュ・リーンを囲んでいた貴族たちが、遠慮した様子ですごすごと引き下がっていく。その逃げ足を内心で嘲笑いながら、リュ・リーンは姉の白い手をとり、薄い手袋に覆われた爪先に接吻を落とした。
「姉上も相変わらずお美しく、お健やかなご様子で何よりです」
「お前も相変わらず綺麗な顔ね。背も伸び、すっかり凛々しくなったこと。我が家の年若い侍女たちまでお前の話ばかり。黒衣の王子は、かしましい女たちの噂の種よ」
 無表情なリュ・リーンの顔をじっと観察していた姉たちが、小さく喉の奥で笑い声をあげた。皆、それぞれに父母の美貌の恩恵に預かり、光り輝かんばかりの華やかさがある。
 その中でも、長姉エミューラ・リーンはもっとも母親の容姿を濃く受け継いでいると聞く。栗毛の滝髪を高く結い上げた髪型の下に覗く、すんなりとした(おとがい)の輪郭が、リュ・リーンのなかのぼんやりとした記憶の母と重なっていった。
 ふと、この場にいる姉たちの数に気づき、リュ・リーンは首を傾げた。
 彼女たちの数は四人。リュ・リーンには六人の姉がいる。数年前に他界した一番下の姉を抜けば、この場には五人の姉が揃っていなければならないはずだ。
 長姉のエミューラ・リーンに気取られていて、リュ・リーンはそのことにようやく気が付いた有様だった。
「ラスタ・リーン姉上はどうされました? お姿が見えないが……」
 この場に居ないのは次姉である。すぐ下の妹を思いやっているのか、長姉エミューラ・リーンの表情が翳った。
「夏の終わりに体調を崩してね……。以来、床に臥せっているわ」
「それほどお加減が悪いのですか? 少しも知りませんでした」
「お父さまが、あなたには知らせないように仰ったのよ。お姉さま、すっかり痩せてしまわれて……もう……」
 胸を詰まらせて涙ぐむ三番目の姉の肩を、エミューラ・リーンがそっと抱き寄せて首を振る。
「まだ、どうかなったわけではないわよ、セイシャ・リーン。お祝いの席で、こんな湿っぽい話は止めましょう。……ねぇ、皆さん。楽師に竪琴(リース)を弾かせてちょうだいな。今日は弟の戦勝祝いなのですからね」
 声を高くしたエミューラ・リーンの態度に、沈みそうになった場の雰囲気が再び華やいでいった。
「リュ・リーン……。ちょっとこちらへ……」
 長姉エミューラ・リーンが手招きして末弟を側に呼び寄せたのは、王の娘の病の翳りをうち消すように賑々しく楽師たちが音楽を披露し、人々がその音色に合わせて踊り始めた頃だった。
「おや、エミューラ。我が愛しの妻よ。またまた君は弟殿を独り占めかい?」
 粘質な男の声に、リュ・リーンは一瞬だけ厭そうな表情をしたが、それをすぐにヴェールの奥へとしまい込んで、いつもの無表情に戻った。
「まぁ、シロン。あなた、義弟にやきもちでも焼いているの? わたくしの夫はそんなに狭量な男だったかしら」
 わざとらしく肩をすくめるエミューラ・リーンに、彼女の夫であるギイ伯爵はムッとした表情で答えを返した。
「もちろん、やきもちなんか焼いているものか。しかしね、君。英雄を独り占めというのは良くない。彼は王国中の宝ではないかね」
 皮膚の上をまとわりつく男の声に、リュ・リーンは小さく身震いする。何度聞いても、馴染めない男の声だ。どうしてこんな男が自分の義兄であるのか、ほとほとうんざりしてくる。
「あら、すぐにあなたがたの英雄はお返しするわよ。でも、ほんの少しくらい、弟とお話させてもらっても文句を言われる筋合いじゃないと思うわ。そうでしょ、シロン?」
 あどけない童女のように無垢な微笑みを夫へと向けたあと、エミューラ・リーンは弟の背を押して幕間を通り抜け、バルコニーの一角に腰を落ち着けた。
「嫉妬深い夫を持つと大変だわ。そう思わないこと、リュ・リーン?」
 苦笑いを浮かべる姉の言葉に同調することなく、リュ・リーンは無表情のまま眼下のポトゥ大河を眺めている。この河の上流、遙か大タハナ湖の畔に立つ都にいるはずの恋人を想いながら。
「相変わらず無愛想ねぇ。その態度じゃ、うちのオリエルが癇癪を起こすのも無理ないわね」
「別に謝るつもりはありませんよ。十歳の子どもと見合いさせられたこちらの身にもなってもらいたい。俺は子守じゃありませんからね」
 冷え冷えとしたリュ・リーンの声に、エミューラ・リーンがつまらなさそうにため息をついた。
「なんて愛想のない叔父様かしらねぇ。可哀想なオリエル。こんな人と一緒にならなかっただけ幸せってことかしら」
「嫌味を言うためにこんなところに引っ張ってきたのですか、姉上? 娘のオリエルとの縁談を持ちかけてきたのはそちらでしょう。そのあとに、断ってきたのもそちらだ。俺にとやかく言うのは止めてくれ」
 苛立ちの籠もったリュ・リーンの声に、彼の姉は小さく(かぶり)を振って肩をすくめた。
「オリエルとのことをうるさく勧めてきたのは、シロンのお父上よ。判っているでしょう。先の国王陛下、わたくしたちのお祖父様が奴隷に産ませた娘を貰い受けてから、ずっと、あの人は王家に劣等感を抱いているのよ。末っ子のシロンを……王家の姫に産ませた子どもの血筋を少しでも王家そのものに近づけようと必死」
「それで、姉上は同情して自分の娘を、自分の弟と見合いさせたと? ばかばかしいにもほどがある! ギイ伯は現国王の従弟という地位と、未来の国王の義兄という地位があるではないか。それ以上を望むとあらば……」
「望めるのなら、玉座そのものを欲しがるわよ、あの人」
 リュ・リーンの言葉を遮って、エミューラ・リーンは不吉な声をあげる。ひそめた声の迫力にリュ・リーンが眉を寄せた。
「娘との縁談は、きっとお前が壊してくれると踏んでいたから、他からなんと言われようが平気よ。オリエルの癇癪をなだめるのが大変でしたけどね。でも、お前が妃を迎えるなれば、また状況が変わってくるわ」
「彼女に手出しするなら、姉上でも容赦しない!」
 リュ・リーンの声が一気に殺気立つ。普段から人々が怖れる彼の瞳の色が、夜の闇のなかで、鋭すぎる輝きを点した。その様子を見て、エミューラ・リーンが身震いする。
「いつ見てもぞっとするわね、お前の瞳の色は……。いいわ。お前にその覚悟があるなら大丈夫でしょう。自分の妻を守るための努力を惜しまないことよ。お前自身とともにね」
 黙ったまま姉を睨みつけている弟に微かな微笑みを浮かべると、エミューラ・リーンは弟と並んで大河を見下ろした。
「まわりに無関心だったお前を夢中にさせるなんて、どういう娘かしらね。綺麗な子? 優しい子なのかしら?」
「……美しい、白いカリアスネの花のような人です」
 夜風に吹かれながら、リュ・リーンは淡い微笑みを口元に浮かべる。弟の整った横顔を見つめていたエミューラ・リーンが満足そうに頷いた。
「お前のそんな顔は初めて見たわ。良い娘なのでしょうね。今から逢うのが楽しみよ」
 姉の囁き声に、リュ・リーンは意地の悪い笑みを湛えて混ぜっ返した。
「自分の娘をフッた男の妻のあら探しでもするつもりでしょう?」
 そのリュ・リーンの言葉に、エミューラ・リーンが鼻で笑う。さも気味がいいといった態度で弟を見遣ると、風に絡まる後れ毛をなで上げた。
「もちろんですとも。娘の敵討ちもさせてもらえないなんて、母親として、これ以上つまらないことはないわ」
「彼女を泣かせたら許しませんよ、姉上。俺の恐ろしさはご存知でしょうが」
 充分に凄みを効かせたつもりだったが、リュ・リーンの言葉にも恐れ入った様子など見せず、エミューラ・リーンは楽しそうに喉の奥で笑っている。「心得ておくわ」と答えながら、その瞳は大きく笑み崩れていた。
 姉の態度に憮然とした様子だったリュ・リーンが、ふと思い出したように次姉の容態を問いただした。弟の言葉にエミューラ・リーンの顔も翳りがちになる。
「あまり良くはないわ。寒くなってきているから、身体にずいぶんと負担がかかっているかもしれないし。……あぁ、でもお前に心配してもらっていると知ったら、あの子のことだからすぐに良くなるわ」
 弟の無表情な顔のなかに、ラスタ・リーンを案じているらしい様子を見つけて、エミューラ・リーンが穏やかな笑みをもらした。怪訝そうにこちらを伺う、警戒心いっぱいの弟の態度はついからかってやりたくなる。
「あぁ、それとも。お前の姿絵を枕元に張って眺めているくらいだもの。心配してもらっているなんて知ったら、そのまま嬉しさのあまりに昇天してしまうかしらね?」
「な、なんでラスタ・リーン姉上まで俺の姿絵を持っているんですか!? 冗談じゃない! そんなもの、枕元に張るのは止めさせてください」
 リュ・リーンの悲鳴混じりの抗議にも、エミューラ・リーンは涼しい顔のままだった。むしろ、姉を元気づけているのだから、とすぐ下の妹の肩を持つ始末だ。
「クソッ! カデュ・ルーンだって俺の姿絵なんか持ってないのに、どうして姉や知らない女の慰め者になど……」
「あぁら、失礼な子ね。姉が弟可愛さに姿絵を買い求めたっていいでしょうに。それに、モテない男より、モテる男のほうがいいでしょう? お前の大事な婚約者に聞いてごらん。きっとわたくしと同じことを言うから」
 余裕の表情でエミューラ・リーンは弟を見返した。その態度にリュ・リーンはますます焦れるが、彼の苛立ちは少しも姉には伝わっていないようだった。
「いいじゃないの。減るものでもなし」
「まさか、姉上……。あなたも俺の姿絵を持っているなんてことは……?」
 ニィッと口元を笑み崩す姉の表情に、リュ・リーンは今度こそ鳥肌を立てた。どうやら次姉だけではなく、この目の前の姉も自分の姿絵を持っているようだ。下手をすると他の姉たちも……。
「わたくしの集めたもののなかで、一番男っぷりのいいものをお前の婚約者に送ってあげましょうか? 夫の姿絵も持っていないようじゃ、妻としては哀しいでしょうからねぇ」
 嫣然と微笑みを浮かべる姉に、リュ・リーンは引きつった笑みを浮かべたまま切り返した。
「お心遣いは感謝しましょう。でも、けっこうですよ。彼女はまがい物の俺ではなく、本物の俺の側にいるのに相応しい人ですから」
「あらそう。残念だこと。……でも、なんて虐め甲斐のある子かしらねぇ」
 まとっていた衣装の裾をゆったりと持ち上げると、エミューラ・リーンはバルコニーから宮殿のなかへと歩を進めた。外気にさらされていたお陰で、身体はすっかり冷え切っている。これ以上、外での立ち話は無理だろう。
 悠々と歩み去った姉の姿が消えても、リュ・リーンは複雑な表情を浮かべたまま、引き下ろされている幕を睨んでいた。
 先日の竪琴(リース)の件といい、今回の姿絵のことといい、今まで気にも留めていなかったことが、次から次へと襲いかかってくる。まったく予想もしていない部分からの攻撃に、自分がこれほど脆いとは思ってもみなかった。
「カデュ・ルーン。まさか……あなたは、こんな俺に愛想を尽かさないよな?」
 自分の言葉にどっぷりと落ち込み、リュ・リーンは足の先から力が抜けていく感覚によろめく。バルコニーの手すりにもたれかかると、リュ・リーンはため息とともに銀星を見上げた。

〔 11909文字 〕 編集

後日譚

No. 78 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第08章:封印

 じっと寝椅子に座り込んでいたダイロン・ルーンの耳に、書庫の扉が開かれる密かな音が聞こえた。次いで柔らかな蝋燭の明かりが書庫のなかへと差し込んでくる。書庫の暗闇のなかで感じる蝋燭の灯火は、心に刺さった棘を溶かす暖かさがあった。
 日が落ちたのだろう。空気がシンと冷えてきていた。思考のなかに沈んでいたダイロン・ルーンは、ようやく自分の指先が冷たくなっていることに気づく始末だ。
 恐る恐る書庫内に踏み込んでくる足音は、まるで雪のなかを歩いているように小さな小さな音となって庫内に反響した。
「兄様……」
 遠慮がちな妹の声にダイロン・ルーンがほんの少しだけ振り返ると、視界の隅に映った妹は弱い灯火のなかでもハッキリと浮かび上がるほど、きらきらと銀髪を輝かせて立っている姿が見えた。
「どうした、カデュ・ルーン?」
「お食事にも顔を出されないから心配で……」
 ダイロン・ルーンは驚きに一瞬目を見開いた。そんなに時間が経っていようとは思いもしなかった。元から薄暗い書庫のなかでは時間の感覚が狂いがちだが、それにしても随分と長い間椅子に座り込んでいたことになる。
「ありがとう。すっかり忘れていたよ」
 穏やかな兄の声に安心したのか、カデュ・ルーンは手にしていた蝋燭の炎を書庫の燭台へと移していった。小さな炎が幾つも闇のなかに浮かび、古びた本たちを照らし出す。
「あまり遅くに食事を摂るのは身体によくないわ。まだ食事はできますから、食堂に行きましょう?」
 兄の視界に入るところまで歩み寄ると、カデュ・ルーンはいつもの無意識の癖でそっと首を傾げた。それを椅子に座ったまま見上げていたダイロン・ルーンが、目眩を起こしたように視線を外すと、戸惑い気味に顔を伏せて囁いた。
「あまり空腹を感じない。今日はこのまま眠りたいくらいだ」
 ダイロン・ルーンの言葉に娘が手にしていた手持ち燭台を近くの小卓(ハティー)へと預け、そっと傍らに跪ひざまづいた。兄を見上げる小造りな顔立ちのなかで大きな若葉色の瞳が炎を受けてキラキラと輝いている。
「お加減が悪いの? だから今日は虫の居所が悪かったのかしら?」
 兄の膝に手を乗せてその顔を覗き込む彼女の仕草は、母親が子どもをなだめる優しさがあった。その掌の温もりは遠い日の母の手を思い出させる。
 狂気のなかで死んでいった母は不幸な女性だったのだろうか? 息子としてはそうは思いたくないところだ。しかし、現実は妹が生まれて以降、母は決して幸福そうな微笑みを表情に浮かべはしなかったのだ。
「体調は悪くないよ、カデュ・ルーン。お前が心配することじゃない」
「兄様はいつもそう言って一人で解決しようとするのね。わたしはそんなに頼りないのかしら?」
 困ったように眉根を寄せてさらに首を傾げる妹は、夏の間に森の木々を飛び回っているリスのようだった。しかし、あどけない様子が抜けないにせよ、彼女はもう一人前に扱われる年齢になっていた。
「私は私自身のことを考えていただけだ。お前だって自分自身のことを考えることくらいあるだろう? 心配するな。どこも悪くはないさ」
 妹を安心させようとダイロン・ルーンは娘の白い手の甲を軽く叩き、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて見せる。それでもまだ一抹の不安が拭いきれないのか、カデュ・ルーンは腕を伸ばして兄の頬に指先を滑らせた。
「わたしのことで思い煩っておいでだったのではないの? わたしが……あの力を持っているから……」
「そんなことあるものか。お前は自分の力の御し方を覚えただろう? 誰にも頼らなくてもお前ならちゃんとやっていける。……今日は少々ドジを踏んだんだ。それでついリュ・リーンに当たり散らしてしまった。後から詫びないといけないな」
 不安そうに自分を見上げるカデュ・ルーンを安心させようと、ダイロン・ルーンはなおも微笑みを浮かべる。燭台の炎は薄暗く、書庫のなかにはまだ闇が深く垂れ込めていたが、そのなかでも判るようにハッキリとした微笑みだ。
 兄の笑顔に安心したのか、カデュ・ルーンは兄の頬に沿えていた指先を放すと安心したように微笑みを浮かべた。その笑顔を見ているだけで小春日の日だまりを連想してしまう。
「兄様でも失敗をするのね。少し安心したわ。でも食事を摂らないのは良くないわ。一緒におつき合いするから、食堂へ行きましょう?」
 自分に全幅の信頼を寄せる妹の微笑みにダイロン・ルーンは胸を詰まらせた。この微笑みをうち砕いてしまうことなどできようか。
「あぁ、判った。お前の言うとおりにしよう」
 ダイロン・ルーンは妹の手を取ると静かに立ち上がった。この半年で妹の背も随分と伸びていたが、元が小柄なこともあり、彼女の外見はまだまだ華奢な印象を受ける。
 供に食堂への廊下を歩きながら、二人は他愛ない話をして笑い合った。誰もが仲の良い兄妹だと噂する、穏やかで親しみのある空気がそこにはある。決して後ろ暗さなど感じない、ただ強い絆だけが存在した。
 食堂では無数の燭台に灯火が揺れ、入ってきた兄妹を手招きする。聖地を統括する長の食堂だ。こじんまりとしたなかにも贅を尽くした調度品が並んでいた。
 普通ならば養護院を出てカストゥール候の名を継いだダイロン・ルーンが、聖衆王と食事を摂ることなどあり得ない。だが、聖衆王の養女になったカデュ・ルーンの兄という立場と、聖衆王の甥という地位がそれを許していた。
 本来なら与えられないはずの王宮の個人書庫にしても贅沢なことで、ダイロン・ルーンの同僚からみたら羨望を禁じ得ないに違いない。かつて机を並べて同じ学舎で学んだ友とはいえ、ダイロン・ルーンに嫉妬しない者はいないだろう。
 しかし……、とダイロン・ルーンは内心で嘆息した。どれほどに恵まれた環境にいても心が満たされないことはある。むしろ養護院で他の孤児たちと供に、妹と寄り添って暮らしていた時期のほうが遙かに満たされていたのではないだろうか。
「また難しい顔をなさっているわ。今日はよほどの失敗をなさったの?」
 自分の顔を覗き込んでくる妹の態度に苦笑いを浮かべて、ダイロン・ルーンは小さく肩をすくめた。
「そういうことはあまり詮索するものではないよ、カデュ・ルーン。憶えておきなさい。リュ・リーンが気難しい顔をしていても、あれこれと詮索しないほうがいい。男には考えることが山ほどあるんだ」
「まぁ。女が何も考えていないみたいな言い方ね。でも、兄様……」
 妹の言葉が途切れたことを訝しんで、ダイロン・ルーンは椅子をひいていた手を止めた。どうしたというのだろう。別に言いよどむようなことはないはずだが。
「カデュ……?」
「初めてね。リュ・リーンとわたしのことを話してくれたのは……」
 ダイロン・ルーンは妹の言葉に動揺した。確かに今までは故意にリュ・リーンと妹の関係を無視していたのだ。ところが、今はそれが自然と口にのぼる。胸を突き刺す痛みが消えたわけではないが、二人の関係に苛立ちを覚えなくなっていた。
「そ、そうだったかな?」
「えぇ、そうよ。……兄様の口からリュ・リーンの話を聞くのは、彼が留学してきていたとき以来だわ」
 嬉しそうに微笑む妹の顔にダイロン・ルーンは一瞬見とれた。
 彼女からこれほど優しい微笑みを引き出すリュ・リーンが羨ましい。自分がどれほど望んでも、彼女にこの穏やかさを与えることはできまい。そう思えるから余計に胸が痛む。
 妹に腰掛けるよう促したあと、ダイロン・ルーンは自分の席に腰を落ち着けた。
 すっかり冷えていたが、彩りよく盛りつけられた夕食が彼の前に並べられている。それらを無理に胃へと押し込みながら、ダイロン・ルーンは機嫌のいい妹の顔を時折盗み見ては顔を曇らせた。
 暗闇のなかで封じた想いが溢れだしてくる。自分には禁じられた言葉を妹に囁ける、かつての学友の顔が目の前にちらついて離れない。
 半年の間に大人びた顔つきになった彼が妹の傍らに立つ姿が、あまりにも容易に想像できて、ダイロン・ルーンは胃のなかに詰め込んだ食事を吐き出しそうになった。
 この苦しさから解放される日はくるのだろうか? そんな日は永遠にこないような気がしてならない。これほど強い執念がどうやったら消え去るのか、ダイロン・ルーンには見当もつかなかった。




 翌日の昼頃、本来ならば剣の稽古の時間であったが、空庭(フォルバス)への出入りを差し止められていることもあって、ダイロン・ルーンは久しぶりに清花カリアスネの庭と呼ばれる中庭へとやってきた。何か予感があったのかもしれない。
 前夜から降り始めた雪が朝にはうっすらと地面を雪化粧させていたはずだが、庭師が入ったらしく、雪を取り除いた黒土の痕がそこここに残っていた。曇った空からは時折思い出したように白いものが舞ってくるが、降り積もるほどではなさそうだ。
 その黒と灰色と白の景色のなかに彼はいた。
 午前中の仕事を終え、午後の仕事がぽっかりと空いてしまったらしい。しばしの休息だというのに、所在なげに庭に佇む背中には鬱屈とした雰囲気が漂っていた。
 逃げ隠れするつもりもない。ダイロン・ルーンは足音を消すこともせず、庭へと続く石階段を降りていった。
 すぐにダイロン・ルーンの足音は相手の知るところとなった。振り返った青白い顔が強ばっている。昨日の乱闘のあとだけに、警戒しているようだ。
「正神殿の長との会見が流れたそうだな。今日は神楽の練習のあるカデュ・ルーンにも逢えないだろうから、暇を持て余しているといったところか?」
「あなたこそ何をしているんだ? 神殿での仕事があるはずだろう。神殿長との会見が流れて、俺がこそこそと動き回るとでも思って監視にきたのか?」
 ダイロン・ルーンはその言葉に苦笑いを浮かべた。相手は人間を警戒する森の獣のように距離をおこうとしている。それというのも昨日の自分の行動のせいなのだろうが、こんな険のある顔を見せられたのは久しぶりだった。
「お前の行動をいちいち監視していられるか。私は休憩中だ。夕方前には職場に戻る」
「ずいぶんと長い休憩があったものだな。大神殿はそんなに暇な職場なのか?」
 会話を交わしながらダイロン・ルーンは相手へと歩み寄っていった。昨日感じた通り、相手はこの半年でずいぶんと背が高くなっている。もう自分との身長差は拳一つ分もあるまい。
「暇なわけがないだろう。休憩というのは語弊があるな。本当は剣の稽古の時間なんだ。ちょっとした手違いでしばらくは皆と稽古ができないから、適当に時間を潰しているってわけだ。それに、ここにはお前がいるだろうと思ってな、リュ・リーン」
 名前を呼ぶと相手の黒絹の髪が微かに震えた。今のダイロン・ルーンの言葉にいっそう警戒心を強めたらしい。表情を殺していたが、鋭く輝く暗緑の瞳には挑んでくるような力強さがある。
「あなたのほうから話があるとはな。今度はどんな文句があって、こんな寂しい場所まで御足を運んで頂いたのかな?」
「嫌味はよせ、リュ・リーン。……悪かった。昨日はやりすぎた」
 リュ・リーンの顔がギョッとしたようにひきつり、ダイロン・ルーンの顔を気味悪そうに覗き込んだ。まだ警戒を解いていないようだ。致し方のないこととはいえ、ダイロン・ルーンは不機嫌そうに口を尖らせた。
「なんだそのあからさまな驚きようは。私が謝罪するのはそんなにおかしいか?」
「いや……いや、すまない。昨日のことがあったから……。しばらくは口を利いてもらえないかと思っていたところだ。まさかあなたのほうから声をかけてくるとは考えてもいなかった」
 眉根を寄せ、困ったように視線を外すリュ・リーン顔には、少年時代の素直さのなかに鬱々とした想いを溜め込んでいた彼の顔が重なって見えた。
 それを発見できたことが、ダイロン・ルーンにはむしろ驚きだった。すっかり成長したと思っていたリュ・リーンの大人の顔の下には、まだまだ甘えてくる少年の幼さがあるではないか。
 突然にダイロン・ルーンは妹が彼の側にいたがる理由が判ったような気がした。外見がどれほど大人びて冷淡になろうと、リュ・リーンのなかには少年の日に見た痛々しい姿がかすめて浮かんでくる。
 それは弱い者や寂しい者に対して敏感に反応するカデュ・ルーンの注意を引くだろう。妹の見ているリュ・リーンの横顔が、今このときに彼自身にも見えたのだ。
「お前は……変わらないな、リュ・リーン」
 ぽつりと呟いたダイロン・ルーンの声に、今度はリュ・リーンが口を尖らせた。そんな表情をすると、取り繕っていた冷淡な仮面が消え失せてしまうというのに。
「俺が全然成長していないみたいに言うんだな。もう、俺は子どもじゃないぞ」
「あぁ……。お互いに子どもじゃない。判っている、そんなことは」
 どちらからともなく黙り込むと、二人は同時に地面へと視線を落とす。奇妙な沈黙だった。だがなぜか不快なものではない。どこかしらホッとする、優しい静寂だ。
 ダイロン・ルーンがふいに顔をあげた。その視線に気づいたリュ・リーンが同じように顔をあげ、どうしたのかと首を傾げる。その表情は気安く肩を叩き合い、笑い合った少年時代の顔つきだった。
「リュ・リーン。……私と馴れ合うなよ。お前が王になるというのなら、たとえ妻の兄であっても容易く心を許すな」
「それはどういう意味だ?」
 大きく目を見開いたリュ・リーンの表情に、ダイロン・ルーンは微苦笑を浮かべた。
 彼は単純だ。いや、実際には心のなかに如何に大きな葛藤を抱えていようと、表面に現れる感情は是か否かのどちらかだ。曖昧さがない。戦ではどれほどの狡猾さを見せるのか知らないが、私生活においては脆いほど子どもの部分を露呈する。
 ダイロン・ルーン個人としては、そんな明解なリュ・リーンを好もしく思っている。だが聖地の貴族としての視点ではどうだろう? あまりにも今の彼はつけ入り易いではないか。
「お前が公私をハッキリわけているのは、王になる者としては大切なことだろう。だが私的な場所だとしても、私人として振る舞う相手を間違えるな。私はいずれ聖衆王となる。いや、たとえ選王会の途中で敗れ去っても、神殿の要職についてみせる。……お前はそういう人間を前にして今のままでいるつもりか?」
 返答に窮したリュ・リーンが唇を震わせた。忘れていた……いや、新たな聖衆王を選ぶための評議が行われることは知っていた。しかし、ダイロン・ルーンの名があがる可能性を頭では判っていても、感情は納得していなかったのだ。
「お前は父王のようには振る舞えまい? 彼のように、気楽そうな顔の下に計算高い王の顔を隠せはしないだろう。ならばトゥナ王家やお前と利害を異にする者の前で仮面を外すな。……いいか。私が聖衆王になったら、お前がかつての学友であったとしても容赦はしない。それを肝に銘じておけ」
 リュ・リーンの強ばった顔つきが一瞬哀しげに歪んだ。それをダイロン・ルーンは見逃していない。
「子どもではない、ということはそういう意味合いも含むんだぞ、リュ・リーン。それができないのなら王になどなるな!」
 静かだが厳しいダイロン・ルーンの声音に打たれ、リュ・リーンが俯いた。ダイロン・ルーンはその様子をじっと見守った。答えを待つ必要などないことは判っていた。リュ・リーンはトゥナ国王になるのだ。それは避けようもない。
「大事な妹の嫁ぎ先が足下をすくわれて潰れたのでは目も当てられない。……死ぬなよ、リュ・リーン。お前がカデュ・ルーンよりも先に死ぬんじゃないぞ」
 視線をそらしていたリュ・リーンが困惑した顔をあげた。瞳には期待と動揺が交互に行き交っている。本当に、こういうところは変わっていない、とダイロン・ルーンは頭の隅で子ども時代のリュ・リーンを思い出していた。
「いいのか? 俺と彼女のこと……」
「お前は勝っただろう。それとも他の奴に異議を唱えられたら黙って身を引けるとでも言うのか?」
「誰が引くか! そんなことを言い出す奴がいたら、俺の手で叩きのめしてやる」
 怒りで咄嗟に叫び返したリュ・リーンが、ダイロン・ルーンと視線が合った途端に顔を赤らめた。昨日のことを思い出したのだろう。まさしく、自分の婚儀に異議を唱えるダイロン・ルーンを叩きのめしてしまったのだから。
「あの……怪我はなかったのか? うっかり力を入れすぎたから……痣とか、切り傷をつけてしまったんじゃ……」
 再びおろおろと視線を彷徨わせている相手の様子に、ダイロン・ルーンは小さな笑い声を漏らした。その声にリュ・リーンが本当に困ったように顔を歪ませる。
「本当に……お前は変わらない」
 ダイロン・ルーンが再びぽつりと呟いた。だが今度はあとに続く静寂のなかに、優しさはない。
 昨日に引き続いて様子がおかしい友人に、リュ・リーンは首を傾げた。リュ・リーンの視線の先にあるダイロン・ルーンの横顔には寂寥感がある。それがいったい何からくるのか、彼にはまったく判らないのだ。
「ダイロン・ルーン。何かあったのか?」
「何も……。何もない」
 突然にダイロン・ルーンが背を向けて歩き始めた。なんの断りもない。この庭へとやってきたときと同じように、彼は唐突に去っていこうとしていた。
 背後からリュ・リーンが呼びかけるが、ダイロン・ルーンはチラリと肩越しに振り返ったが、軽く手をあげて応えただけで後戻りしようとはしなかった。
 ゆっくりとした足取りで石階段を登っていく友人の背を見上げながら、リュ・リーンは無意識のうちに腰に帯びていた細身剣の柄を握りしめる。焦燥に身を焼くように眉を寄せ、苦しげに口元を歪めて。
「ダイロン、いや……ミアーハ・ルーン! これから剣の稽古をするのか?」
 石階段を登り終えようとしていたダイロン・ルーンの背に、トゥナ王太子の声が届いた。追いすがってくるその声に再びダイロン・ルーンは振り返って、声の主を見下ろす。
「あぁ、剣の稽古だ。だが二十日間は空庭(フォルバス)への出入りが禁じられてしまったからな。どこか適当な庭を見つけて独りで稽古だ」
 答えを返しながらダイロン・ルーンも無意識のうちに腰の剣を握りしめていた。本来、文官である彼には無用のものであるはずだが、その剣は当たり前のようにして彼の腰に居座っている。
「それじゃあ、俺が相手をしてやるよ。昨日のあの腕前だと、選王会での出来が心配だからな」
 友の銀影を見上げていたリュ・リーンが強ばった笑みを浮かべた。どこか無理をしている笑顔だ。階段の上からそれを見下ろしていたダイロン・ルーンが複雑な表情で応じた。
「お前の仕事はどうするんだ。いつまでも遊んでいられないだろう。それに半日つき合ってもらった程度で、私の剣の腕前があがるものか」
「やってみる前からそんなこと言うな。それから仕事のことならなんとでもなる。なぁ、昨日の庭でどうだ? あそこなら誰も何も言わない」
 しばし考え込むように顎に手をかけていたダイロン・ルーンが視線をあげた。もう表情のなかに迷いはない。
「判った。頼むとしよう」
「それでは……お手合わせ願おうか、カストゥール候」
 リュ・リーンがダイロン・ルーンの顔をじっと見上げたまま、右の掌で左の二の腕を叩き、続いて滑るようにして左胸を二度叩いた。ここ聖地の武官が相手に試合を申し込むときによくやる仕草だ。
 剣の稽古をするようになって、ダイロン・ルーンも武官たちと手合わせするときには、その仕草をするようになっていた。どんな意味があるのかは聞いたことがなかったが。
 自身の胸を叩いて相手の挑戦に応じながら、ダイロン・ルーンは石階段を駆け上がってくる黒髪の友人に静かな笑みをこぼした。
 しかし、並んで歩き始めたとき、彼らの顔にはお互いへの親愛の情は浮かんではいない。二人の顔には、戦場へと旅立つ戦士の表情が浮かんでいたのだ。




 激しい剣戟が続いていた。白刃が弧を描くたびに響く金属音で鼓膜が破れてしまいそうだ。
 銀と黒の影が交錯すると、小さく火花が散る。弱い守護魔法をかけられた練習用の剣と、同じく守護魔法でくるまれている儀礼的に武官が日常帯びている細身剣が、それぞれの結界に触れあって反発し合っているからだ。
 ここ数日、この銀柳の庭は静寂から見放されていた。灰色の空に響きわたる剣戟の騒乱が、毎日数刻ずつ続いている。
「まだ踏み込みが浅い! 剣を突き出すときは、軸足の体重を移動させないと駄目だ」
「突きをかわされたら、すぐに間合いまで下がって脇を固めろ! 相手は待っていてくれないぞ」
「相手の切っ先だけじゃない、身体全体の動きを見るんだ!」
 次々に出される相手からの忠告に、なかなか身体がついていかない。目で動きを追うだけでも精一杯だ。剣で応戦するとなると、手足は枷に繋がれたように思った通りには動いてくれなかった。
「肘が上がりすぎだ! 右脇ががら空きだぞ!」
 相手の姿が一瞬視界から消えた直後、右手の指先は痺れを残したまま凍りついた。はじき飛ばされた剣が、鈍い音を立てて地面の上を転がっていく。
「今日はこれで十数回は死んでるな」
 自嘲気味に相手を振り返ると、ダイロン・ルーンは小さく肩をすくめた。その肩も息が上がっていて、忙しなく上下している。
 ところが相手はほとんど息を乱していない。微かな笑みを浮かべたまま、転がっている剣を拾い上げて刃こぼれを確認する余裕まである。
「少しずつは腕を上げているさ。休憩しよう」
 今まで、ただの一度でも目の前の若者に勝てないでいる。まったく。力の差は歴然としているではないか。
「あぁ。それにしても、お前は強すぎる。本当に手加減してるのか?」
「汗もかかないんだぞ。手加減してるに決まってるだろう。武官が文官にやり込められていたんじゃ、なんのために武官をやっているのか判らないじゃないか」
「信じられない。私はこれ以上早くは動けないぞ。どういう鍛え方をしたら、そう易々と身体が動くんだ」
 緊張感が弛んだのか、ダイロン・ルーンは片隅に寄せられた石椅子へと乱暴に身を沈めた。若者がそのすぐ脇の地面に足を投げ出して座り込む。
「おい、リュ・リーン。地面なんかに座ると身体が冷えるぞ。椅子ならまだ空いてる。こっちに座ったらいいじゃないか」
「椅子も地面も大差はないさ。なぁ……。カデュ・ルーンはいつも神楽を練習しているのか?」
「え? あぁ、庭の手入れに忙しい時期はそれほどでもないがな。冬場はほとんど毎日だ。それが何か?」
 身体の後方に腕をつき、だらしなく足を投げ出していたリュ・リーンが小さなため息をついた。
「……つまらない」
 ボソリとリュ・リーンが呟くのを聞きつけ、ダイロン・ルーンは眉間に皺を寄せる。そして、おもむろに優雅に組んでいる足をほどくと、足下の若者の脇腹を蹴りつけた。
「イテッ! 何するんだ、ダイロン・ルーン」
「悪かったな、私のお守りばかりで! 別に律儀に剣の稽古につき合ってくれなくてもいいんだぞ」
 ダイロン・ルーンはじっとりと冷たい視線を投げ下ろす。その彼の態度にリュ・リーンは慌てたように首を振った。
「ご、誤解だ。そういう意味で言ったんじゃない! 俺はただ……」
「どうだか」
「ダイロン・ルーン!」
 そっぽを向いた友人の横顔を目にして、リュ・リーンは思わず立ち上がった。
 その気配にダイロン・ルーンがチラリとリュ・リーンの顔を見上げ、そこに見捨てられた子どものような表情をして佇む若者を確認すると、大袈裟なくらいのため息をついた。
「リュ・リーン。前にも言ったが、その感情剥き出しの顔はやめろ。お前が今、何を考えているのか、はっきりと読みとれるぞ」
 ダイロン・ルーンの言葉にリュ・リーンは一瞬だけハッとした表情になり、自分の顔に手をもっていく。だが、すぐにその指を引っ込めるとふてくされた表情をして銀髪の友人を見下ろした。
「他の奴ならいざ知らず、どうしてダイロン・ルーンの前でまで取り繕わないといけないんだ。そんなのおかしいじゃないか」
「リュ・リーン。ここ聖地(アジェン)の人間は日常的に騙しあっているんだ。もちろん、私も。将来、その聖地の中核に立つ人物に自分の人となりを暴露してどうするつもりだ。仮面を外すな、いいな」
 ダイロン・ルーンの冷ややかな受け答えにリュ・リーンがカッとしたのか、石造りの机を平手で叩いた。彼の感情に従うように、暗緑の瞳に鋭い光が灯る。
「ダイロン・ルーンは俺のことならなんでも知っているはずだ。俺がここに留学していた時期、四六時中、一緒にいたんじゃないか。今さら取り繕うようなものなんか何もない!」
「リュ・リーン。それは子どもの理屈だ。私たちは利害を異にする者同士なんだぞ。必要以上に馴れ合うんじゃない」
 ダイロン・ルーンの口調も頑なだった。互いの言葉は平行線を辿り、決して交わることがないように思われた。まるで銀と黒の互いの髪の色のように対極にあるような口論だった。
「友人の前でまで王を演じろというのか!? それでは王たちはいったいどこで本当の自分を出せるというんだ!」
「そのためにお前にはカデュ・ルーンがいるのではないか。それとも、カデュ・ルーンの前では格好をつけたいから、いい子の仮面を外せないか?」
「ダイ……! カストゥール候、あなたは俺を侮辱しているのか!?」
 リュ・リーンは拳をきつく握りしめて銀色の若者を睨んだ。自分の伝えたいことがこれほど通じないとは思わなかったらしい。
「気に障ったか? だがな、これが聖衆(アジェス)のやり方だ。感情を剥き出しにする者がこの地で繁栄することはできないんだ。お前たちトゥナ人のように荒ぶる魂だけで生きてはいけん」
 姿勢良く椅子に腰を降ろしたまま、ダイロン・ルーンは静かな口調でリュ・リーンに声をかけた。それまでの突き放すような態度から、子どもに教え諭すような柔らかな口調へと変わっている。
「そんな……。急に言われても……」
「お前の留学期間が半年間だけだったのは痛かったな。ちょうどこの地に馴れた頃に王都(ルメール)に呼び戻されてしまった……。トゥナ王にしては手ぬるいやり方だった。だが今さら愚痴を言っても仕方ない。学ぶことだ、リュ・リーン。……敵と味方を区別するように、王の仮面がいかに重要か、お前にも判るときがくるだろう」
 俯き、押し黙ってしまったリュ・リーンを無視して、ダイロン・ルーンは音もなく立ち上がった。机の上に放り出されていた剣を手にすると、鞘から刀身を抜き放って天へと掲げる。
「選王会へは各国の王や大使が集い、新たに誕生した聖衆王に忠誠を誓うことになる。たぶん……トゥナ王はお前をその席に出席させるだろう。ゼビやミッヅェルの北方同盟の国々だけではない、カヂャも同席する。先の戦で大敗しているだけに、カヂャからの挑発はしつこいぞ」
 鋭い風切り音とともに振り下ろされた白刃が、初冬の大気を切り裂いていった。その音を確認しながら、ダイロン・ルーンはなおも話を続ける。
「カデュ・ルーンとの婚儀のこともある。私とお前の関係は注目を集めるはずだ。私が聖衆王か聖衆(アジェス)一族の要職に就き、妹の婿であるお前と近しくしていたなら、他の国々の者たちの間には強い危惧が生まれるだろう」
 顔を強ばらせたまま佇んでいるリュ・リーンが、唇を噛みしめた。それを知ってか知らずか、ダイロン・ルーンは教えられた剣の型を思い出しながら身体を動かし続けている。
「リーニスの朱の血戦で、お前は勝ちすぎた。強大になりすぎたトゥナの足を引っ張りたくてしようがない連中ばかりだぞ。私との関係が良好だと判断した場合、大半の特使や王たちは諦めるのではなく、お前と聖地アジェンとの結束を崩そうとしてくるはずだ。どの国もトゥナの言いなりになる気はないだろうからな」
 振り返ったダイロン・ルーンの表情には微苦笑が浮かんでいた。彼の氷色の瞳は鋭さを保ったまま、年下の友人の様子を観察している。
 ダイロン・ルーンには日常的なことだ。相手の心のなかを探り続け、自分が常に優位に立つことが彼らの一族には必要不可欠だ。
 この聖衆(アジェス)一族を、神の領域に住まうことを許された民として各国の頂点に君臨させることこそが、自分たち一族の繁栄に繋がっていることなのだから。
「俺を……嫌っているわけじゃないんだな?」
 リュ・リーンがようやく口を開いた。その飛び出してきた言葉にダイロン・ルーンは呆れ果てて肩をすくめる。
「おい、こら。ちゃんと人の話を聞いていたのか、お前は!」
「聞いてたさ。ダイロン・ルーンが俺以上に俺のことを考えていてくれたってことは、よく判ったよ」
 嬉しそうに目を細めるリュ・リーンに近づくと、ダイロン・ルーンは相手の白い額を指先でつついた。
「何を自惚れてるんだ、バカ! お前もそれくらいのことは考えておけ」
「判ってる。ちゃんと考えるよ」
「あぁ、もう! お前の甘えた体質を見ていると、気が気じゃない。こんな奴に大事な妹を任せなきゃならない兄の身にもなってみろ」
 ダイロン・ルーンは両手でリュ・リーンの黒髪を掴むとワシャワシャとそれを掻き回した。乱れたその黒髪の下で、なおもリュ・リーンが笑っている。それに腹を立て、ダイロン・ルーンが今度は両手をリュ・リーンの頬に滑らせてしっかりと掌に包み込んだ。
「リュ・リーン……。本当に、カデュ・ルーンのことを頼むぞ。これからは私が守ってやることができないんだからな」
 ようやく神妙な顔つきに戻ったリュ・リーンが小さく、だがしっかりと頷いてみせた。それを確認したダイロン・ルーンが、安心したように微かな笑みを口元に浮かべる。
 そして、リュ・リーンの頬を包んでいた掌を外すと、何事もなかったように背を向けかけた。
「ダイロン・ルーン……」
「なんだ? まだ文句があるなんて言わないだろうな?」
 振り向いた友人の眉間に浮かんだ皺に、リュ・リーンが苦笑をもらした。その態度にダイロン・ルーンはいよいよ皺を深くする。笑われるようなことを言ったつもりはない。
「そうじゃないよ。俺、魔道(インチャント)を学ぶつもりなんだ。詳しい書物を知っていたら教えて欲しいんだけど」
「どうした? シャッド・リーン王の真似でもするつもりか?」
 突然のことにダイロン・ルーンは怪訝そうに首を傾げる。武の国であるトゥナ王国は、呪術(カシュラ)やら魔道(インチャント)といった超常の力にあまり重きをおかない。知識としてその力の存在を知っていても、自らがそれを使役しようとする者は多くないのだ。
「超常の力を戦に使うのは、その反動の激しさからも褒められたことじゃない。俺も親父もそのことは充分に知っているさ。だからトゥナは戦に魔道士(インチャンダー)たちの助言を入れないんだから」
「だったら……」
「俺が魔道士(インチャンダー)になれば、カデュ・ルーンの例の力に注目する者は少なくなるだろう? 聖衆(アジェス)は学舎で学習して、超常の力を使える者が多いことはよく知られている。宮廷の奴らにしてみれば、聖地の民の持つ特性の一つにすぎないように見えるだろう。本来、彼女に集まるだろう注意を俺にも向けることができる」
 言葉一つ一つをゆっくりと噛み締めるように答えるリュ・リーンの様子に、ダイロン・ルーンは困惑した。
 何もそこまでやれとは言っていない。ただでさえリュ・リーンの武人としての腕は恐れられている。それに加えて魔道士(インチャンダー)としても力を奮うとなれば、より多くの危惧を周囲の者に抱かせるだろうに。
「俺なら年中命を狙われているからな。少々、狙われる機会が増えたところで大した差はない。それに微弱ではあっても、彼女のまわりに俺の守護結界を張ることもできる。力の暴走を恐れて、トゥナの王宮内に彼女を閉じこめておかなくても済むだろう?」
「お前……」
「この夏の間、ずっとどうしようかと迷っていたんだ。俺が魔道士(インチャンダー)になった場合は、親父のように周囲を牽制するのではなく、逆に周囲を恐れさせる王になるだけだろうと。でも、カデュ・ルーンを守るためには超常の力が必要だ。だから、これからの一年、俺はできるだけのことをしようと思う」
 魔神の申し子と恐れられるリュ・リーンが神々の(わざ)にも通じる超常者の力を得るということは、より神に近しい存在となっていくようなものだ。必ず周囲との軋轢を産むだろう。それでも彼はその力を望むと言う。
 ダイロン・ルーンは目眩を起こしたように掌で目元を覆い、しばらくその場に立ちすくんでいた。
「ダイロン・ルーン。頼むよ」
 乱れた呼吸を整えるように何度もため息をつく友人の様子に、リュ・リーンは痺れを切らしたようにその名を呼ぶ。その呼び声に促されたか、ダイロン・ルーンは恐る恐る腕を降ろして顔をあげた。
「リュ・リーン……お前の行こうとする道は茨の道かもしれんぞ? それでも行くのか?」
「何もせずにいるほうが、俺にとっては罪だ。彼女は俺にとって、それだけのことをするに値する人だ。俺の瞳を見て、怖くないと……。綺麗な瞳だと言ってくれたのは、後にも先にも彼女だけだ」
 なんの迷いもなく、むしろ晴れ晴れとした顔つきでそう答えられ、ダイロン・ルーンにはもはや返す言葉がなかった。彼は一つ頷くと、大きく息を吸い込んだ。
「叔父上から借りている書庫のなかに何冊か参考になるものがある。私は全部憶えているから、お前にやろう。どうせ叔父上も全部憶えていて、必要ないだろうからな」
 ダイロン・ルーンの言葉に、リュ・リーンが嬉しそうな笑みを浮かべる。その無心の笑みを見つめながら、彼は自分の敗北を認めていた。
 自分にはここまでできなかった。簡単な魔道(インチャント)呪術(カシュラ)ならば、自分なら今すぐ使いこなすことはできる。それは聖地の民としてはごく当たり前のことだ。
 だが何もないところから……むしろ自分の負荷にしかならない力を身につけてまで、妹を守ろうとしたことがあっただろうか? そう、例えば今、自分の権力掌握の足がかりにしようとしている剣術の稽古のようなことを。
 思い出せる限りのなかで、ダイロン・ルーンの記憶にそんな強い執念はない。
 半年前、自分に向かって「カデュ・ルーンの人生をくれ」と言ってきた若者の力強い眼差しが、今再び目の前にある。あのときも自分は無意識のうちに彼の強さにすがっていた。そして、今もまたすがろうとしている。
 逢うたびに強く、より高いところに向かっていく黒髪の友人に、ダイロン・ルーンはこのとき初めて畏敬の念を抱いたのだった。

〔 14204文字 〕 編集

後日譚

No. 77 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第07章:剣鬼

 掌に張りついてくる剣を引きずるようにしてダイロン・ルーンは長い石廊下を歩いていた。顔は無表情を保っていたが、内心は激しい苛立ちと動揺にさざ波立っている。
 彼は自分でもどうしていいのか判らなくなっていた。原因は剣の稽古場での同僚たちとの会話にある。それだけは判っていた。
 武官たちには到底敵わないが、ダイロン・ルーンは持ち前の器用さで文官のなかでは飛び抜けて剣術の腕をあげている。それを妬んだか、あるいは間近に迫った選王会への布石のためか、最近は文官出の同僚からの風当たりが厳しい。
 いつものように剣の稽古が終わり、指南してくれた武官と歓談していると、背後から聞こえよがしの声が届いた。
「まったく、聖衆王の娘御の趣味は変わっている」
「まぁ、元から変わり者だったからな」
「他の娘だったら話が持ち上がった時点で毒でもあおって自決していよう?」
「それともトゥナの財宝にでも惑わされたか」
 あからさまなその言葉にダイロン・ルーンの眉がピクリとつりあがった。彼とのつき合いが長い者ならば、それが押さえきれない怒りや苛立ちを表しているのだとすぐに気がついただろう。
 だが今日はかすかに眉を蠢かせるだけではすまなかった。不躾な噂話をする者たちからは彼の表情は見えなかったが、ダイロン・ルーンと話し込んでいた武官が青ざめてその顔色をうかがったほどだ。
 人当たりのよい彼からは想像もつかない表情がそこに浮かんでいた。
「それは我がカストゥール家への侮辱と受け取ってもいいのか?」
 声は彼の氷色の瞳そっくりに凍てついている。武官に服の裾を押さえられたが、ダイロン・ルーンはかまうことなく立ち上がると振り返った。
 普段の人当たりのいい彼しか知らない同僚たちが驚きに目を見張った。集まっていた文官たちの多くはばつの悪そうな表情を作って下を向く。
 しかし迫りつつある選王会への高揚感に酔っているのだろう、人垣のなかの一人が小さく鼻を鳴らし、稽古場の地面に唾を吐いた。
 薄い色合いの金髪と生白い顔立ち、それに紫苑色をした瞳の持ち主は、どこか中性的な雰囲気をした青年だった。カストゥール家と同程度の地位にある家柄の若者、名はガルディエ・ダナン。正神殿ではなく、天神殿つまり主神エンダリュンのみを祀る神殿の祭司だ。
 新起神(ニギュルサーガル)が興る前より世界に君臨している光の大神を祀る正神殿とは、何かにつけて対立している派閥の者だった。
「変わり者を変わっていると評しただけで侮辱とはな。呆れたものだ」
 そのガルディエ・ダナンの言葉に勇気を得たか、さらにもう一人バカにしたような視線をダイロン・ルーンへと向けた。こちらの若者も天神殿で働いている者だ。ガルディエ・ダナンの取り巻きの一人といったところか。
「カストゥール家は家名に釣り合うだけの財力欲しさに妹を売ったともっぱらの噂だ。違うのか?」
「あるいは妹を寝盗られて仕方なく嫁に出すとか?」
 ガルディエ・ダナンと同じ天神殿に所属している者たちの集団なのだろう。彼に追従するように、クスクスと忍び笑いが文官たちの間からあがる。
 ダイロン・ルーンの顔色が青ざめ、次いで真っ赤になった。ダイロン・ルーンがむきになればなるほど、彼らはいっそう意地の悪い言葉で翻弄してくるに違いない。背後の武官が相手になるなと背中をつついている。
 剣の鞘を指が白くなるほどきつく握りしめ、ダイロン・ルーンは一歩彼らに近づいた。握った剣の柄が怒りに震えている。
「もう一度言ってみろ……。カデュ・ルーンが誰に寝盗られただと!?」
「おやおや。違うのかい? 聖地(アジェン)中の噂だよ。トゥナの魔神の子に大事な操を奪われた愚かな……女……だ……」
 ダイロン・ルーンは空いていた片手で素早く剣を引き抜くと、問答無用でガルディエ・ダナンへと切りかかった。
 稽古の後で疲れが残ってはいたが、彼の振り下ろした剣は真っ直ぐに無礼者の頭上に落ちていく。相手には避ける間もない。
 突然の恐怖に叫び声をあげることもできずにガルディエ・ダナンは突っ立っていた。周囲の者たちも口を開けたまま茫然と立ち尽くしていることしかできない。落ちてくる切っ先をただ見守るだけ。
 ガキリと金属同士が噛み合う音が響いたのは、ガルディエ・ダナンの目と鼻の先に白刃が迫った次の瞬間のことだった。
 ダイロン・ルーンは自分の剣を受け止める籠手の下から、薄紫色をした瞳に睨みすえられて固まった。その夜明けの空色がダイロン・ルーンの怒りを急速に冷ましていく。
「少々血の気が多すぎますな、カストゥール候。今のあなたの顔を水鏡ででもご覧になるといい」
 低い壮年の男の声にダイロン・ルーンの理性が呼び覚まされ、自身の凶行に蒼白になる。改めて目の前の男へと視線を向けて、凶刃を防いだ籠手が無様に歪んでいることに気づいた。
「ドゥーン・ラウ・レイクナー……。すまぬ、貴卿の籠手が……」
 武官ラウ・レイクナー家の当主だ。くすんだ銀髪と彫りの深い顔立ちのなかで薄紫の瞳だけが、いやに鮮やかな色をして見える。
「武具の一つや二つ壊れたところでお気になさいますな。こんなもの裏から叩き出せばすぐに直ります」
 実際にダイロン・ルーンも籠手を心配していたのではない。その籠手の下にある腕を心配していたのだ。鉄の籠手が歪むほどの衝撃を受ければ、間違いなく痣ができていよう。かなりの痛みも感じたはずだ。
「ひ、人殺し! ミアーハ・ルーン、お前のやったことは聖衆王陛下や天神殿長にご報告申し上げるぞ!」
 足下から聞こえてくるわめき声にダイロン・ルーンはようやくそちらに注意を向けた。ラウ・レイクナー家の当主の背後にヘタり込んで、ガルディエ・ダナンが蝋のように青ざめてキィキィと叫んでいる。
 再びダイロン・ルーンのなかに怒りが広がっていった。なぜこんな輩に妹や自分が侮辱されねばならないのか。
「ではシン・エウリアット家のご当主にも今のいきさつをお話せねばなりませんな。それが公平というものでしょう、ガルディエ・ダナン・シン・エウリアット」
 足下のガルディエ・ダナンに向けてラウ・レイクナー家の当主が声を発した。
 その厳格な声にダイロン・ルーンがハッと我に返る。その通りだ。些細な喧嘩で済ますには事が大きすぎる。つい相手の口車に乗って剣を抜いてしまった自分の浅慮が悔やまれた。
 自分の家名を持ち出され、ガルディエ・ダナンが渋面を作った。ダイロン・ルーンに斬りかかられたいきさつを探られたなら、彼も少なからず不愉快な追求を受けることになるだろう。
「ち、父上に申し上げるだと? ラウ・レイクナー、お前は武官の分際で我ら貴族のことに口出しするか!?」
 腰が抜けたのかガルディエ・ダナンはいっこうに立ち上がろうとしない。上擦った声のまま簡易甲冑を着込んだ男を見上げるばかりだ。
「私が申し上げるのは、お二人が神聖な空庭(フォルバス)で私闘を行おうとしたということだけですが? 稽古以外での殺生沙汰は禁じられております」
「わ、私は剣を抜いてはいない! 抜いたのはそこのカストゥール候のほうではないか!」
 指先をわなわなと震わせて自分を指さす若者をダイロン・ルーンは睨みつけた。ここで悄然としていては相手につけ込まれるだけだ。こんな輩のために家名に傷をつけたかと思うと腹立たしいにもほどがある。
「さよう。剣を抜かれたのはアルル・カストゥール候です。しかしそれをご報告申し上げれば、なぜそのような事態を招いたのか詮議されましょう。私はこの庭を預かる者として、見たままを正確に報告せねばなりません」
「私は……何もしていない!」
「なるほど。では詮議の席でもそのように申し開きなさいませ。私も私の部下たちもありのままをお話します。……それで何も問題はございませんでしょう?」
 表情一つ変えることなく武官がガルディエ・ダナンを見下ろしている。反論された本人はと言えば、助けてくれる者はいないかと自分の同僚を振り返るが、誰もかれもが関わり合いになることを恐れて視線をそらしてしまう。
 実際、剣を抜いたのはダイロン・ルーンだけであった。しかしガルディエ・ダナンもやりすぎていた。彼は相手を嘲弄しただけではなく、選王会のために開放されている稽古場、この空庭(フォルバス)に唾を吐き捨てている。
 相手を侮辱し合っただけならばそれは当人同士の問題だけで済んだだろう。だが相手の見ている目の前で唾を吐くということは、相手に挑戦していると取られても仕方のない行為だ。剣を抜いているか、抜いていないかなど問題ではない。
 片方は稽古以外で抜刀し、片方は王を選ぶための神聖な場所に唾を吐いたという事態は、見過ごすわけにもいくまい。暗黙の了解のなかで私闘は禁じられていた。それを犯せば厳罰は避けられない。
 異様な緊張感が辺りを覆った。かたや現聖衆王の甥カストゥール候、かたや天神殿ではかなりの影響力をもつエウリアット候の子息。選王会にも出場するであろう二人の若者の対立は、この聖地(アジェン)に血生臭い争いを巻き起こすことになる。
「それとも。選王会の迫った大事な時期です。この庭を預かる私の裁きで済ませますか?」
 ダイロン・ルーンとガルディエ・ダナンは同時に息を飲んだ。聖衆王などの高位高官に報告されれば厳罰は免れ得ない。だが武官のラウ・レイクナーが下す裁きならば、処罰にも限界というものがある。
「武官が我ら貴族を罰しようというのか? 思い上がるのも……」
「お厭でしたらお父上や聖衆王の御前で申し開きを。詮議は少々手続きが面倒ですからね。できましたら私も忙しいこの時期に煩雑なことは避けたかったのですが、どうしてもおっしゃるなら……」
「私も忙しい身だ。面倒な手続きなどしていられないぞ」
 うだうだと逡巡しているガルディエ・ダナンを無視すると、ダイロン・ルーンはラウ・レイクナーの背中に呼びかけた。
 無駄に体裁にこだわっているときではない。ラウ・レイクナーの条件を飲めないということは、延々と詮議の場に立たされねばならないということだ。選王会を控えている大事な時期をそんなことで台無しにされたくはなかった。
「カストゥール候は異存ないそうですが? あなたはいかがです、ガルディエ・ダナン卿?」
「……いいさ。聞いてやろうじゃないか、お前の裁きとやらを」
 虚勢を張るガルディエ・ダナンだったが、未だに地べたに座り込んだ姿勢では威厳など出ようはずもない。それを見下ろしたままダイロン・ルーンは不機嫌に眉を寄せた。
 どうして相手の挑発になど乗ったのだろう。口争いだけならばお互いにこんな惨めな目に合うこともなかったのに。
「よろしい。では御両名に申し渡します。これより二十日間、この空庭(フォルバス)への出入りを禁じます!」
 あからさまにホッとした表情を浮かべたのはガルディエ・ダナンのほうだった。だがダイロン・ルーンは不機嫌な表情を崩すことなく、ラウ・レイクナーの背に声をかけた。
「二十日間も剣の稽古をさせてもらえないのか? この空庭(フォルバス)の外ではまともに剣を振るえる場所などないのに」
 その声に甲冑の武官が振り返る。微かだったが彼の口元には好意的な微笑が浮かんでいることにダイロン・ルーンは気づいた。
「ご不満でしたら面倒な手続きをして詮議の場で申し開きをなさってください。しかし詮議となれば、剣の稽古どころか、神殿でのお勤めにも支障をきたしますぞ。それでもよろしいか?」
「じょ、冗談じゃない! 大事な職務に穴を開けられるか! カストゥール候! そんなばかばかしい手続きなどしないだろうな!?」
 ようやく同僚に助け起こされながらガルディエ・ダナンがわめき声をあげる。彼には剣の稽古ができない程度どうでもいいらしい。それよりも詮議のことが噂になり、神殿で自身の悪い風評が立つことだけは避けたいようだ。
 ダイロン・ルーンにしても、職務を放り出して詮議の席に引っ張り出される事態は避けたいところだった。それでなくても剣の稽古をしながらの職務は身体にはきついのだ。これに詮議など加わったら身が保たない。
「判った。その裁きを受けよう……」
 ため息とともにダイロン・ルーンは承諾した。それでも顔には不機嫌な表情が張りついたままだったが。
「けっこう。ではこの場においでの皆様に証人になって頂きましょう。このお二人が二十日間、この稽古場に出入りしないよう、監視をお願いします」
 ラウ・レイクナーのこの言葉で、ようやくこの場に縛りつけられていた人々が開放された。一方の当事者であるガルディエ・ダナンも同僚に支えられながら空庭(フォルバス)を後にする。
 三々五々に庭を出ていく皆の後ろ姿を見送りながら、ダイロン・ルーンは再度ため息をついた。まったくとんだ茶番劇だ。こんなみっともない姿をさらすことになろうとは。
「短慮はなりませんぞ、カストゥール候。御身に何かありましたら、嘆かれる方が多かろう。……もちろんシン・エウリアット候のご子息にしても同様だが」
 最後まで残っていたダイロン・ルーンにラウ・レイクナーが声をかけてきた。彼の薄紫の瞳に呑み込まれそうだった。
「助力、感謝する」
 ダイロン・ルーンは頷くようにして頭を下げた。貴族階級の者が高位とはいえ武官に頭を下げたとあっては外聞が悪い。それが頭の隅をかすめて、なんとも半端な礼の言い方だった。
「なに。私も少々腹が立ちましたのでね。ほんの半年とはいえ、私の預かり子が悪し様に謗られては、見過ごすこともできません」
 ラウ・レイクナーの言葉にダイロン・ルーンは彼が留学中のトゥナ王太子宿泊先当主であることを思い出した。自分も一度だけ彼の家に行ったことがあるはずなのに、そのことをすっかり忘れているとは。
「では私はこれで。そうそう、剣の稽古は王宮の奥にある庭のどこかででも続けてください。一人ではまともに稽古もできないでしょうが、剣の重みを忘れなければ二十日間の空白などすぐに埋まりますよ」
 飄々と歩き去っていく武官の背中をダイロン・ルーンは憮然とした表情で見送った。随分と奇妙な形で救われたものだ。
 それにしてもばかなことをしでかしたものだ。ついカッとなってしまった。だが……だがまた再び妹が貶められるようなことがあったら……。きっとまた自分は同じ過ちを繰り返してしまうのではないだろうか。
 ダイロン・ルーンは辿り着いた思考の果てにゾッとして身震いした。なんという短慮だ。軽率な行動の結果を今し方見せられたばかりだというのに。
 誰もいなくなった空庭(フォルバス)から逃げるようにしてダイロン・ルーンは走り出た。まるで自分の考えから逃げ出すように。
 宮殿の入り口に辿り着くまで行き交う者は誰もいなかった。そのことにダイロン・ルーンは心底ホッとした。
 そして今、宮殿の奥へと続く長い長い石廊下を歩いているというわけだ。なぜ自分はあんなにも怒りを露わにしてしまったのか。言葉の応酬だけならばこんな惨めな想いを抱かずに済んだのに。
 廊下の出口をくぐり抜けるとそこは吹き抜けの空間だった。周りを建物の石壁が囲み、その壁に沿ってアーチ型の屋根が吹き抜けを一周している。ここを最初の起点にして王宮が広がっているのだ。
 濃い灰色の空が高い建物の屋根を覆っている。今夜辺りからまた雪がちらつくだろう。それにしても、今の空は自分の心のなかを写し取ったようにどんよりとした色をしているではないか。
 暗い気持ちを引きずるダイロン・ルーンの視界の隅に黒い影が動いた。
 ハッとしてそちらを見遣ると、人気(ひとけ)のない廊下の一つに入っていくトゥナ王太子の背中が映った。見知っているはずのその人影は随分と背が高い。
 半年の間にリュ・リーンの身体は少年のものから青年のものへと急速に成長している。長身のダイロン・ルーンにも追いつきそうな勢いだ。
 数日前にリーニス地方から戻って以来、彼がこの王城に滞在していることは知っていた。だが半年前の出来事が心に引っかかったままで、ダイロン・ルーンは彼とまともに顔を合わせていなかったのだ。
 気まずさが頭をもたげたが、ふと彼の向かった先が使われていない区画であることを思いだして戸惑いが浮かんだ。いったいどこへ向かっているのか。
 剣の稽古を終えたなら着替えて大神殿の職場へと戻るべきだろう。しかし腐りきった今の気分のまま、選王会のことでギスギスしている職場へ戻る気になどなれるものか。
 ダイロン・ルーンは深く考えることなく、廊下の奥に見える黒い人影に誘われるように歩き出した。




 黒い背中が小さな扉をくぐっていく。それを廊下の角を曲がったところで確認すると、ダイロン・ルーンの表情は険しくなった。なぜ彼がこんな場所を知っているのかと。
 そこはダイロン・ルーンさえ知らないような宮殿内の小庭園だった。扉に近づいてよく見てみると、すり減った扉の錨版に消えかかった文字で「銀柳の庭」と刻まれている。
 何代か前の聖衆王の時代に王の紋章に使われていた銀柳を象徴する庭でも造ったのだろう。迷路状になりつつある聖地(アジェン)の王城のなかには、このような庭が所々に造られていた。
 扉に耳を近づけて庭の様子を伺ってみるが、向こう側からは何も聞こえてこない。ダイロン・ルーンは途方に暮れたように視線を彷徨わせたが、次の瞬間には意を決したように扉へと腕を伸ばした。
 微かな軋みをたてて扉が開いていく。灰色の景色が扉の形に切り取られたように目に入ったが、それをよく観察することもなくダイロン・ルーンは入り口を潜った。
 腰を屈めて入った庭の片隅に石造りの机が見える。その机にもたれかかるようにして黒い人影が佇んでいた。
 こちらの気配に気づいたのか、相手の肩がピクリと震え、弾かれたように振り返る。穏やかな光を讃えていた暗緑の瞳が、自分の姿を捉えた途端に大きく見開かれる様子をダイロン・ルーンは苛立ちを込めて見守っていた。
「ダイロン・ルーン……? どうしてここに?」
 相手の声は半年前と同じだ。だがおよそ六年前の少年のものとは異なる大人の声をしている。そして背丈は半年前からは見違えるほどに高くなっていた。この調子で背が伸びれば、近い将来には追い越されてしまうだろう。
 昔のリュ・リーンと変わらないところと言えば、宵闇よりも深い色をした黒髪と魔の瞳(イヴンアージャ)と呼ばれる暗緑の瞳だけ。かつてリュ・リーンの瞳の奥を支配していた孤独は今の彼の瞳のなかにはなかった。
「私や叔父上に隠れて、こそこそと逢い引きか? “リーニスの朱の血戦”の英雄は随分と姑息な真似をする。……それとも平原の戦場でも相手の寝首を掻いていたのか?」
 ダイロン・ルーンは獣の唸り声のように低い声で囁く。彼の脳裏にはつい先ほど空庭(フォルバス)での出来事が思い浮かんでいた。同僚たちの嘲弄が耳の奥で幾度も繰り返される。今、その張本人が目の前にいるのだ。
「別にやましいことなどしていない!」
 顔を歪めてなじるダイロン・ルーンの態度にリュ・リーンがムッとして叫び返す。だがダイロン・ルーンは態度を硬化させたまま目を細めた。その冷たい瞳の上で彼の形良い眉がつり上がっている。
「……カデュ・ルーンを辱めることは許さん」
「ダイロン・ルーン、誤解だ! 俺はなにも……」
 リュ・リーンが立っていた石造りの机から離れて、ダイロン・ルーンへと足を一歩踏み出した。だがそれよりも早く当のダイロン・ルーンは手にしていた鞘から刀身を抜き放つ。鈍い陽光の下でも、その刃は不気味なほど鋭い輝きを発した。
 抜き身の剣を持つダイロン・ルーンにリュ・リーンは一瞬怯んだ。だがなおも説得しようと足を踏み出す。
 それを押し返すようにしてダイロン・ルーンは剣を振りかぶり、振り上げた勢いに乗って相手めがけて襲いかかった。
「やめろ! ダイロン・ルーン!」
 振り下ろされる白刃を避けざまにリュ・リーンが叫ぶ。だがその声を追うようにしてダイロン・ルーンは剣を薙ぎ払った。
「逃げるな、リュ・リーン! 私と手合え!」
「バカな! あなたと手合う理由などないではないか!」
 驚愕の声をあげるリュ・リーンにダイロン・ルーンが再び襲いかかる。心の臓を正確に狙い、体重のすべてをかけた突きが繰り出された。
「ないだと!? ……本気でそう言っているなら、私の剣の錆になるだけだぞ、リュ・リーン!」
 ダイロン・ルーンのぎらつく瞳が、リュ・リーンの驚きに見開かれた暗緑の瞳を捕らえた。氷色をしたダイロン・ルーンの瞳には憎しみの炎が燃え上がっている。
「正気か、ダイロン・ルーン!」
 信じられないものを見たと言いたげにリュ・リーンの瞳には動揺が浮かんだ。戦う理由が彼にはない。ダイロン・ルーンの誤解さえ解ければ、すべては丸く収まるものだと思っている。
「私に勝ったなら、カデュ・ルーンをトゥナの王都(ルメール)なり、どこへなりと連れていくがいい! さぁ、剣を抜け!」
 怒りに歪んだ顔でダイロン・ルーンが吐き捨てるように叫んだ。普段は雪のように白い彼の顔色が、この時ばかりは怒りのためにどす黒く染まっている。
 リュ・リーンはダイロン・ルーンの振り回す剣先から身をかわし続けた。戦場で渡り合う剣戟に比べれば、本当の実戦を積んだことのない友人の太刀筋を避けることなど造作もないことだった。
「やめてくれ、ダイロン・ルーン!」
 だがリュ・リーンの制止の声も空しく、ダイロン・ルーンの剣の切っ先は更に怒り狂ったようにリュ・リーンへと向けられた。彼の耳にはリュ・リーンの声など聞こえていないのだ。
「剣を抜け! リュ・リーン!」
 友人の瞳に本物の殺意を見出して、リュ・リーンは愕然とした表情を作る。
 心のどこかで、ダイロン・ルーンは妹カデュ・ルーンと自分のことを許してくれているとタカをくくっていたのだ。これほどに殺意を露わにされるとは思ってもみなかったのだろう。
「やめ……」
 とうとうダイロン・ルーンの振るう剣先がリュ・リーンの頬をかすめた。僅かな血臭がリュ・リーンの躰にまとわりつく。ダイロン・ルーンの息はとうに上がっていたが、凶暴な剣戟は収まりを見せはしなかった。
「くそっ……」
 鼻をくすぐる血の匂いに酔ったのか、リュ・リーンの暗緑の瞳が妖しげな光を帯びる。悪態をつくその表情には戦場で垣間見せる彼のもう一つの顔が覗いていた。
「後悔……するぞ。ダイロン・ルーン!」
 腰から下げていた細身の剣を抜き放つと、リュ・リーンは襲ってくる凶刃を巧にはじき返しヒラリと舞った。まるで漆黒の鷲が急旋回して飛び回っているような身軽さだ。
 リュ・リーンが戦で使用している大剣から比べれば、今手にしている細身の剣の重さなどなきに等しい。ダイロン・ルーンの剣戟を軽やかにかわした彼の腕から鋭い白刃が繰り出された。
 防戦一方だったリュ・リーンの反撃を受けて、ダイロン・ルーンの剣が悲鳴をあげる。今までに受けたこともない重たい衝撃に彼の腕全体が痺れた。歪んだダイロン・ルーンの顔が衝撃の強さを物語る。
 取り落としそうになった剣を辛うじて支えると、ダイロン・ルーンは再び剣を突き出した。だが黒い魔鳥のように身を翻すリュ・リーンにはかすりもしない。実戦を経験した者とそうでない者との差は歴然としていた。
 額に汗をにじませて獲物の姿を追うダイロン・ルーンを嘲笑うかのように、剣の重みが彼の動きを鈍らせていく。武官として身体を鍛えているわけではない彼にとって、相手の機敏な動きについていくことは端から無理な話だ。
「こちらだ、ダイロン・ルーン!」
 背後の鋭い声に反応してダイロン・ルーンが振り返ると、目の前に暗緑の瞳を輝かせている友の顔があった。剣を振り上げようとした腕に今度は痺れではなく激痛が走る。あまりの痛みにダイロン・ルーンの頭のなかは一瞬真っ白になった。
 痛みに手から剣がこぼれ落ちる。慌ててその剣を拾い上げようと屈めたダイロン・ルーンの身体が、次の瞬間宙に舞った。
「うあぁ……!」
 ダイロン・ルーンは背中から地面に激突すると、吹き飛ばされたときに感じた胸部の痛みと地面からの衝撃に激しく咳き込んだ。落ちたときに口のなかを切ったのか、彼の舌は血の味を感知し、その生臭い匂いが鼻腔を満たす。
「……俺の勝ちだ」
 冷酷なほどきっぱりとした声が頭上から降ってきた。その声にダイロン・ルーンは弾かれたように顔をあげる。
 鋭い切っ先をピタリと自分に当てて、静かに見下ろしてくるリュ・リーンの青白い顔があった。怒ったように口を歪めているその顔は、ダイロン・ルーンが見知っている人物のものではない。絶対的な強さを誇示する戦士の顔だ。
 悔しさに唇を噛みしめたダイロン・ルーンは睨みつけてくるリュ・リーンの視線を避けるように目をそらした。その視線が庭の入り口へと彷徨い、そこに佇む小さな銀影を捉えて固まる。
「カデュ……」
 ダイロン・ルーンの囁き声にリュ・リーンがビクリと身体を震わせた。焦ったように振り返り、そこに蒼白な顔色をしている婚約者を見つけて真っ青になる。
「カ、カデュ・ルーン! いつからそこに!?」
 ブルブルと身体を震わせている娘の瞳は大きく見開かれ、唇は血がにじむほどきつく噛みしめられていた。柔らかそうな淡紅色の衣装は彼女に強く握りしめられて皺だらけだ。
 ダイロン・ルーンに突きつけていた剣を放り出すと、リュ・リーンは転がるようにしてカデュ・ルーンへと駆け寄った。
 その後ろ姿を暗い瞳で見つめていたダイロン・ルーンはノロノロと立ち上がり、自分の剣を引きずるようにして拾い上げる。いつの間にか放り出していた鞘も一緒に拾うと、気怠い手つきで刀身を収めた。
 足下にはリュ・リーンが手放した細身の剣が転がっている。それは自分の手にしている実用向きな剣よりも華奢な造りだというのに、刃を交えてもびくともしなかった。
 リュ・リーンとの力の差は、剣術を学び始めたダイロン・ルーンにもそれとすぐに察しがつくほどの圧倒的な差だった。いいようにあしらわれていただけだったのだ。
 振り返ったダイロン・ルーンは、そこに恋人に抱きしめられてポロポロと涙をこぼす妹の姿を確認した。苦い想いが胸に広がる。認めたくはない想いが。
 それ以上、寄り添う二人を見ていることに耐えられず、ダイロン・ルーンは二人に声をかけることもせずに庭から出ていこうとした。
「兄様……! 待って!」
 悲鳴のような妹の声にダイロン・ルーンの足は引き留められる。心は早く立ち去りたいと願っているのに、身体はそれを裏切ってこの場に留まってしまう。
「どうして? どうして許してくれないの? わたし……どうしたらいいの? どうやったら兄様は許してくれるの!?」
 涙声で訴えるカデュ・ルーンを支えるようにリュ・リーンがその肩を抱いていた。その光景にダイロン・ルーンの胸はチリチリと痛みの炎を燃やす。このもどかしさが誰に判るというのか。
「お前のせいじゃない、カデュ。これは私の……私だけの問題だ」
「ダイロン・ルーン! それでは答えになってない!」
 それまで静かに二人のやり取りを見守っていたリュ・リーンが声を荒げた。憤りに顔が紅潮している。彼やカデュ・ルーンにはダイロン・ルーンの怒りは理不尽なものだった。
「お前に答える義理などないな、リュ・リーン」
 凍てついた声でリュ・リーンの呼びかけを切り捨てると、ダイロン・ルーンは今度こそ扉をくぐり抜けた。細身のその背中は強ばり、見守る二人どころか世界中を拒絶しているような頑な態度だった。
 言葉を失って立ち尽くしている妹とその婚約者のことが、庭を後にしたダイロン・ルーンの頭のなかを占め続ける。気づかなければ良かったのだろうか? それともこれはやはり気づくべくして気づいたのだろうか?
「カデュ・ルーン……。どうしてお前は……私の……」
 口を突いて出た言葉をダイロン・ルーンは途中で呑み込んだ。目をそらすことができない現実に、彼は押しつぶされそうな気分だった。
 その現実から逃げるようにダイロン・ルーンは奥宮の扉の前へと辿り着く。いつもはしかめっ面をしている衛士たちが、聖衆王の甥の険しい表情にギョッとした表情を作った。だが質問することを恐れるように扉を開けて顔を伏せる。
 普段なら愛想良く声をかけるダイロン・ルーンが、扉の番人たちへの挨拶もせずに駆けるようにして通り抜けていった。その後ろ姿を見守るのは衛士たちが閉じていく巨大な扉だけだった。
 叔父から与えられた書庫へと逃げ込むとダイロン・ルーンは手にした剣を床に投げ出し、部屋の片隅に鎮座する寝椅子へとへたり込む。唸り声をあげて頭を抱える彼を物言わぬ本たちが見下ろしていた。
 剣の稽古が終わったなら、本来は職場に戻らねばならない。だが今のこんな状態で職場に出ていくことなどできない。同僚の前でいったいどんな顔をしていろというのか。それよりも何を口走ってしまうか判らない。
 リュ・リーンの胸に顔を埋めて泣き、自分に向かって「なぜ結婚を許してくれないのか」と問いかけた妹の姿が目に焼きついている。
 その姿を見て確信した。自分は女性を愛せないのではない。妹を愛しているのだ。実の妹を、カデュ・ルーンを……!
 両親を亡くして孤児となり、二人で寄り添うように生きてきた。彼女を守るのは他の誰でもない、自分なのだと言い聞かせて。それは当然のことなのだと……。だが、どうだ。今、彼女を守る者は他にいる。もう自分は必要なくなってしまったのだ。
「神よ! あなたは残酷だ。なぜカデュ・ルーンを私の妹としてこの下天へ遣わしたのだ。私には初めから彼女のそばにいる資格などないではないか。ずっとそばにいたのに……近くにいたのに、私には彼女はもっとも遠い存在だ!」
 うめくように神を呪詛するダイロン・ルーンが激しく(かぶり)を振った。まるで現実を拒絶するかのようだ。
「カデュ・ルーンは父上の血を引いていないかもしれない。魔の森で彷徨っていた母上を見初めた者の子かもしれない。……あぁ! ここがトゥナであったなら……。トゥナであったなら……私にも望みが……」
 口にしたところで現実は変わらない。だがダイロン・ルーンは寝椅子に身を預けると、叶わぬ望みにすがるように肘掛けをきつく握りしめた。指先がその力に白くなるほどだ。
「判っている……。彼女の血の秘密は暗黙の封印のなかにある。誰にも知られてはならないことだ。夫となるリュ・リーンにさえも……。私とカデュ・ルーンは同じ父母を持つ兄妹で……婚姻の対象にはなり得ない……」
 自分の言葉に打ちのめされたダイロン・ルーンが、力尽きたように背もたれに身を埋めた。疲れ果てたその表情には泣き顔はない。いや、泣く気力すら失せているのだ。
「そうだ。カデュ・ルーン……お前のせいではない。これは……私の問題なのだ」
 父と叔父が守り通そうとした秘密を知ってしまった代償だ。知らなければ、自分はカデュ・ルーンを実の妹だと信じて疑いもしなかっただろう。幼子の好奇心がもたらした……あまりにも大きな代償だった。
 まるで仮面のように強ばったダイロン・ルーンの顔には憔悴が浮かんでいた。それが辛うじて彼が人間であると教えていたが、もしも今この場に誰かが入ってきたとしたら、椅子に座るその姿を精巧に作り上げられた神像だと勘違いしただろう。
「私はお前の兄だ。それ以外になり得ない。……私は、私はお前の兄でしか……」
 自分の言葉の剣に刺し貫かれたようにダイロン・ルーンの身体が痙攣した。氷色をした彼の瞳は虚空の一点を睨み、そこから微動だにしない。
 薄暗い書庫のなかでダイロン・ルーンの人影だけが白く浮き上がっていた。その姿は見る者がいたとすれば、胸を打たれたかもしれない。孤高の頂きに立つ神のようだと。
 しかし、彼の姿を見守るのは古びた本たちの山ばかりで、彼の悲痛な声を聴く者は誰もいなかった。

〔 13142文字 〕 編集

後日譚

No. 76 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第06章:凱旋

 緩やかな丘の上に軍馬を進め、その頂から見下ろした景色にリュ・リーンは安堵の吐息を小さく吐いた。
 王国の副都ウレアの鋭い尖塔が晩秋の午後の日差しの下で鈍色に輝いて見える。城塞の北側には黒麦の穂を刈り取った畑がポツポツと広がっていた。もうすぐ冬の寒風に吹かれ、この地方も白き雪精の訪問を受けることだろう。
「やっと到着したな……」
 リーニス砦を奪還し、ついにトゥナの領土に居座っていたカヂャの軍勢を駆逐し終わって帰途についたリュ・リーンはそれまでの疲れが出たのか、愛馬の背に揺られながらボゥッとする状態がしばしばだった。
 供に戦列に加わっていた将校たちも時折ふと気が抜けたように黙り込む。誰も口にはしなかったが、リーニス砦での骨の山のことを考えているに違いない。
 あの場所は大量の血のために大地が赤黒い海のようだった。そこに白い骨が島のようにこんもりと盛り上がっている光景は、哀しみと同時に薄気味悪さを感じさせた。
 勝利に浮かれていた将校たちのあまりの変わり様に、それを直接目にしなかった兵士たちですら、口数少なくその情景を語るその将校たちに同情の視線を送ったほどだ。
 粛々とした態度で背後に従う部下たちを振り返り、リュ・リーンは苦笑を浮かべた。
 自分自身はリーニス砦の戦いで散っていった者たちを王家の人間として弔うためにもあの場所へ出向く必要があった。
 だが部下たちまで引き連れていったのはまずかったかもしれない。ここまで大人しくなってしまうとは、正直思ってもいなかった。
 戦歴の将軍たちですら意気揚々といった気分にはなれないらしい。もっとも、彼らの同僚であるアルマハンタ将軍があの骨の山のどこかで眠っているのだと思えば、彼らが打ちのめされても致し方ないのかもしれないが。
 リュ・リーンの視界に、カヂャとの国境線であるなだらかな山地が映った。あの山地からやや平原寄りの場所にリーニス砦がある。その砦にリュ・リーンは敢えてウラートを残してきていた。あの死者の骨を弔い、片付けるためだ。
「もうしばらくしたら、ここも冬将軍がやってくるか」
 リュ・リーンは小さく呟いた。砦にはリーニスの地理に詳しい将軍アッシャリーが越冬のために残っている。今冬の砦の護りを預かれる将軍位の者は彼しかいまい。
 その壮年の将軍と供に自身の片腕であるウラートを残すことによって、王家が死者を決して軽んじてはいないことを示したわけだ。
 死者の埋葬が終わればウラートは王都に帰還するだろうが、その作業はかなりの時間を要するはずだ。もしかしたら冬の間中、彼は砦の周りを飛び回っていることになるかもしれない。
 十歳の折りに半年だけ離れていた守り役と、六年ぶりにまた別れることになった。思えば自分は本当に長い間、ウラートと供にいたのだ。まるでお互いが一つの人間であるかの如く錯覚するほどに。
 もし自分が王の後継者でない家系、ごくありきたりの庶民の子供として育っていたとして、そこにウラートと兄弟として生活していたとしたら……。
 埒もない空想が一瞬だけ頭をかすめ、リュ・リーンは顔を曇らせた。そんな空想は愚かだ。だが……もしその空想が許されるなら。やはりそこでもウラートは寛大で、厳しくも少々弟に甘い兄として側にいてくれるような気がしする。
 決して人前では許されないことだったが、自分の父母がウラートをもう一人の息子のように扱う姿をリュ・リーンは間近で見てきた。自分のなかに去来した想いは、あながち嘘ではないだろう。
 小さく頭を振ると、リュ・リーンは弛緩していた表情を引き締めて胸を張った。
 この空想は自分には許されないものだった。その空想の気弱さは王になる者には邪魔になる。想像と空想は別次元なのだ。
「さぁ! 皆、凱旋ぞ! 胸を張れ。ウレアに入城するのに、情けない顔など見せるな!」
 リュ・リーンの声に救われたように兵士たちの顔が輝く。脳裏に焼きついた物言わぬ骨たちの姿を消すことは叶わないだろう。だが生きている者は常に前へと進んでいくしかないのだ。
 丘を下り始めると、リュ・リーンはそれまでの想いを押し隠すように、顔から一切の表情を消した。
 副都ウレアへと入城したリュ・リーンたちを待っていたのは、民衆の大歓声とウレアに残っていた駐屯兵たちの吹き鳴らす角笛(ペルタ)の雄叫びだった。
 耳を聾するほどのその音の海のなかをリュ・リーンは軍勢を引き連れてゆっくりと進んでいく。軍属の者にだけほんの時折見せる年相応の表情はどこにもなく、厳しい顔つきの素っ気ない態度だ。
「リュ・リーン王子、万歳!」
「黒衣の王子に栄光を!」
 むず痒くなるような賞賛の嵐の中、それでもリュ・リーンは眉一つ動かすことなくウレアの宮殿に入っていった。




 幾人目かの訪問者を追い返した後、リュ・リーンは忌々しげに舌打ちして寝椅子に転がった。戦場での切った張ったがなくなると、自分の日常はなんと不愉快なことに満ちていることか。
 ウレアの宮殿に入ると、そこはこれが今まで侵略を受けていた土地なのかと目を疑うほどに華やいだ雰囲気であった。
 王国を勝利へと導いたリュ・リーンには贅を尽くした贈り物が山のように届く。さらにリーニスの貴族連中が我先にとリュ・リーンの元へと機嫌を伺いに顔を出し、聖地の長の娘カデュ・ルーンとトゥナの王太子との仲を知りつつも自分の娘や姪を押しつけようと画策している始末である。
 今回の戦で王の跡継ぎとしてのリュ・リーンの地位はほぼ固まったと言ってもいい。この隙に未来の国王に取り入ろうとする下心が丸見えだ。
 いつもならウラートがそれら不愉快な連中を追い返してくれるが、今回は遙かリーニス砦で走り回っている彼にそれは不可能なことである。これまでウラートがいかにそつなく自分の周りから鬱陶しい連中を隔離してくれていたのかを思い知って、リュ・リーンはゲッソリとため息を吐いた。
「ウラート。早く戻ってきてくれ」
 寝椅子のクッションを抱きかかえ、リュ・リーンはうなだれたまま再びため息をつく。この夏の間に彼の背はかなり伸びていたが、ウラートへの甘えはあまり成長していなかったようだ。
 気疲れにウトウトと居眠りを始めたリュ・リーンを叩き起こすように扉が叩かれた。もうこれで何度目の訪問者であろうか。
 苛ついた様子で立ち上がると、リュ・リーンは乱暴な足取りで扉に近づき、そっと薄めに扉を開けた。扉の隙間から金色の色彩が覗いている。
「誰だ?」
 不機嫌な声で呼びかけるが、相手からの返事がない。不審に思いながらリュ・リーンは扉をもう少しだけ開けて相手の顔を確認した。
「イセンリア嬢ではないか! こんな夜更けに何かご用か?」
 扉の向こう側に立っていたのはウレアの城主、トゥナ王国の副王であるガラッド候の娘であった。
 煙るような淡い金髪の巻き毛を左肩から長く垂らし、手入れされた雪の肌が廊下の薄暗がりのなかで発光しているように輝いて見える。春の空色をした瞳を縁取る長い金の睫毛はそっと伏せられ、その上の瞼などは静脈が透けて見え艶めかしいほどの艶があった。
 それほど背が高いわけではないが、円みのあるふくよかな体つきがやや肉感的で子供っぽい印象とは無縁の令嬢である。
 彼女の美貌は隣国にまで知られるほどで、その容姿ゆえに求婚者が後を絶たないという噂はワーザス地方にある王都ルメールにまで届いていた。
「用がないのならお引き取り願いたい。俺は晩餐会に引っ張り回されて疲れているんだ」
 黙ったまま俯いているイセンリアに苛立ってリュ・リーンは扉を閉めかかった。
「いやっ! 待って……」
 城主の娘は閉まりかかった扉を押さえると、倒れ込むようにしてリュ・リーンの胸へと飛び込んでくる。避ける間もなく、リュ・リーンは彼女を抱き留める羽目になった。
「今晩はお側においてくださいませ、リュ・リーン殿下」
 しっかりと自分の胸にすがりついている娘を持て余し、リュ・リーンはただ立ち尽くした。いきなり部屋を訪ねてきたかと思えば、今度は夜伽をすると言っているのだ、この娘は。
 貴族のなかには貞操観念など欠落しているのではないかという者が多いが、この娘もそういった連中のうちの一人らしい。リュ・リーンは半ば呆れながら、娘を引き剥がした。
「イセンリア嬢。俺には婚約者がいるのだがな? 自分が何を言っているのか、判っておいでか?」
 リュ・リーンは不機嫌な表情のままで娘を見下ろす。自分から望んでやってきたわけではあるまい。父親のガラッド候に焚きつけられたのだろう。
聖地(アジェン)の姫君でございましょう。存じておりますわ。でも王子妃が一人だけだという決まりはありませんでしょう?」
 娘は伏し目がちに頬を染めて小さく囁いた。彼女にしても、女としての野心があるのなら、時期国王の王太子の妃となる絶好の機会だと内心では思っているのかもしれない。
 リュ・リーンはうんざりした気分で小柄な女を睨んだ。だが相手はこちらの顔を見ようともしない。まるで恥じらうように視線を伏せたままだ。
「なぜ顔を上げない? 俺の顔が見られないか?」
 苛立ちを含んだリュ・リーンの声にイセンリアが恐る恐る顔をあげる。だがリュ・リーンの暗緑の瞳と視線が絡まると慌ててまた顔を伏せてしまった。
「顔をあげて俺の瞳を見てみろ!」
 怯えた様子で顔を背ける娘の肩を掴むと、リュ・リーンは彼女を引き寄せる。相手の身体が小さく震えていた。そのことが余計にリュ・リーンの嗜虐に火をつけた。
「俺の妃となれば毎日この瞳を見るのだぞ? そうやって一生顔を背けているつもりか?」
 リュ・リーンの嘲りの声に娘は再び恐る恐る顔を向けるが、彼女の空色の瞳は動揺に揺れ動き、リュ・リーンの視線を避けるように自分の視線を定めようとしない。
「そんなに俺の瞳が恐ろしいか。よくぞそれで俺の妃になどと言えるな。夫の顔もまともに見られないような女などいらぬわ!」
 娘の肩を突き放して廊下へと押し出すと、リュ・リーンは乱暴に彼女の目の前で扉を叩き閉めた。
 忌々しさと一緒に胃の腑に降りてきた苦い思いが王太子の胸に広がる。
 いつもそうだ。誰も彼もが自分の瞳を恐れるのだ。この暗緑の魔の瞳(イヴンアージャ)を! 死の王ルヴュール神の申し子だと恐れられ、避けられていることに自分が傷つかないとでも思っているのか!?
 リュ・リーンは小卓(ハティー)へと歩み寄ると、そこに用意されていた上等な蜜酒(ミード)を勢い良くあおった。体中に広がる酒の熱に一瞬だけ苛立ちが削がれたが、すぐに胸くそ悪い想いが沸き上がってくる。
「クソッ! 俺だってこんな容姿で生まれたくなどなかった!」
 再び杯に蜜酒(ミード)を満たすと、リュ・リーンは一気にその強い酒を飲み干した。
 まるで喉の乾きを癒すために飲んでいるかのように、何度も何度もそれを繰り返す。だが酔いはいっこうにやってこず、むしろ頭のなかは冴え渡っていくような気がした。
「俺も両親のどちらかに似たかった。金の巻き毛か柔らかな栗毛で、青い海の色をした瞳でも持って生まれてきたかったのだ。それなのに……。どうして……」
 酒をすっかり飲み干し、寝椅子に倒れ込むと、リュ・リーンはクッションに顔を埋めて呻き声をあげ続ける。
 泣き叫んだら少しは楽になれるのだろうか。だが彼の口から嗚咽が漏れることはなく、ただ苦しげに肩を震わせて途切れがちに呻き声があがるだけだった。
「神よ……。あなたは残酷だ。どうして俺をこんな姿で下天に遣わしたのだ!」
 自身の姿に呪詛を呟くリュ・リーンの声を聞く者は誰もいない。だがその呻き声を遮る来訪者がまたしてもやってきた。
 控えめに叩かれた扉からの音にリュ・リーンは言い様のない苛立ちを感じ、初めはまったく無視を決め込んだ。だが扉を叩く音は執拗に続き、彼に沈黙を許さなかった。
 険悪な表情のままリュ・リーンは扉に歩み寄り、勢い良く扉を開ける。部屋の灯りが廊下の暗がりを照らし、訪問者は突然の光の洪水に目元を覆っていた。
「なんの用だ! 俺は眠らせてもらうこともできないのか!」
 室内からの光の眩さに顔を背けていた者が恐縮した表情でリュ・リーンに視線を向ける。若い男だ。リュ・リーンよりは年上であろうが、二十代半ばほどではないだろうか。
「お休みのところを申し訳ありません。つい先ほど届いた書簡がありましたので」
 リュ・リーンは光のなかに浮き上がった男の顔が、この宮殿で自分の身のまわりの世話をするためにあてがわれた従者のものであることを確認して、剣呑な視線をふと緩めた。だが不機嫌さをすべて拭い去ることはできない。
王都(ルメール)からでも何か言ってきたのか?」
 山脈の向こう側にある故郷の都から戦地のリュ・リーンに手紙が届く場合、それは危急の知らせてあればあるほど、彼にとっては凶報であることが多い。夜も更けた時刻に従者が飛んでくるのは、よほどのことに違いない。
「いえ、あの……。書簡は聖地(アジェン)からのものであります」
「なに? 聖衆王陛下から……」
 こんな時刻に知らせが届くほどのことが聖地に起こったのだろうか? いや。それにしてもあの聖衆王がリュ・リーンに知らせを送ってよこすようなことと言ったら……。
「いえ。違います、違います! 聖なるお方からには違いありませんが、あの、聖衆王のご息女からの……」
 王太子の言葉を遮ってしまったことに気づき、従者は途中から言葉を濁すように俯いてしまった。代わりにおずおずと蝋封が施された書簡を差し出してくる。淡い光沢を放つ蝋封に押された印はもう見慣れてしまったものだった。戦地にいるリュ・リーンに常に救いの手を差し伸べてくれた手紙だ。
 胸に沸き上がった甘いざわめきに息を呑むと、リュ・リーンは従者の手からそっと手紙を取り上げた。
「どうして? 危急の知らせでもない限り、明日の朝にでも届けてくれたら……」
 取り急ぎリュ・リーンに知らせるべき手紙でもあるまい。先ほど届いたというのなら、この従者も就寝していたであろうに。
「あの……わたくしなら恋人からの手紙は一刻も早く読みたいと思いまして。僭越ながら……。すみません。お邪魔をしてしまいました」
 もごもごと小さく言い訳をして俯いてしまった従者が頬を赤く染めていた。そのまま後ずさるように廊下の暗がりへと消えていこうとする。
「待て。お前、名は?」
 リュ・リーンは及び腰な相手を呼び止めるとじっと男の顔に視線を注いだ。
「オ、オージュンと申します、殿下」
 口ごもりながらおろおろと返事をする男の態度にリュ・リーンは小さく口元だけで笑った。もっとも俯いている相手にはその顔は見えないであろうが。
「そうか。オージュン、礼を言う。遅くにすまなかったな。お前も休んでくれ」
 驚いて目を見開く従者の目の前で王太子の部屋の扉がゆっくりと閉じていく。開け放たれたときの荒々しさとはうって変わったその静けさに、従者は安堵と供に満足げな笑みを浮かべたのだった。
 一方、リュ・リーンは蝋封を切るのももどかしげに書簡を開くと、むさぼるように羊皮紙の表面に視線を走らせていた。
 戦の最後の決戦の間、彼女からの手紙は手元に届けられていなかった。数日おきには届けられていた手紙ではあるが、さすがに戦場の最前線にまで運ばせるわけにもいかない。
 彼がようやく婚約者からの手紙をまとめて手にとることができたのは、平原の安全が確保され、リーニス砦で簡単な弔いを済ませてすぐのことだった。それ以来の手紙ということになる。
 あれからすでに十日以上経っている。もう我慢の限界だ。ささくれだつ神経がすり減ってしまいそうだったのだ。
 手紙の内容はいつも通りリュ・リーンの身を案じている言葉が並び、戦いが終わったことに安堵しているというものだった。女性らしい丸みのある優しい文字が婚約者の柔らかな声となってリュ・リーンの耳元に聞こえてくる。
「カデュ・ルーン。カデュ・ルーン……。逢いたい……今すぐ、今すぐ逢いたい」
 自分の凱旋を、勝利の帰還を心底喜んでくれているのは彼女だけのような気がした。王太子だというだけのことで薄っぺらなおべっかを使う他の者たちに、こちらの内心など到底判るまい。
 戦場では血が沸きたつほどの高揚感に酔っていた。だがひとたび戦いが終わると、身体のなかに吹く虚ろな風は心を寒くするばかりだ。それを包み込んでくれる者はやはり彼女、カデュ・ルーンしかいなかった。
「カデュ・ルーン……」
 別れしなに見た哀しげな彼女の微笑みを思い出して、リュ・リーンは婚約者からの手紙にそっと口づけた。これから彼女の元に帰るのだ。あの寂しげな顔が今度は麗しい花のようにほころぶ様を見るために。
 だがリュ・リーンが実際にワーザス地方を目指して出立できたのは、その夜からさらに十日近く経ってからのことだった。
 一時的に戦時下での統治官としてリーニスに君臨したリュ・リーンには今後の施政の引き継ぎやら、リーニスに駐屯させる兵士の配置決めやら、取り組むべきことが多すぎた。疲れを癒す間もなく奔走してそれらを片付けると、リュ・リーンは引き留めようとする貴族たちを振り切って馬上の人となったのだった。
 小隊ほどの小規模な騎士のみを引き連れて、リュ・リーンは修繕されたばかりのイナ洞門を目指して愛馬を駆る。目指すは雪と氷の大地。そして、その雪原に佇む鈍色の尖塔に住まう恋人の待つ街へ。
 帰ろう、君の待つ場所へ。
 帰ろう、この翼を休めるために……。




 イナ洞門を抜けた先、故郷ワーザス地方はすでに雪化粧を帯びていた。薄曇りのなかで見ても目の奥を射すきらきらしい銀雪が北風に空を舞っている。
 目の前に広がる見慣れた懐かしい風景に、リュ・リーンは心を躍らせた。
 ひたすらに疾走させている愛馬は洞門を抜けてから山脈沿いに北上し、遠く地平の向こうに聖地が望める丘の上にさしかかったところだった。
 日が傾く頃にその鈍色の城塞の前に辿り着くと、リュ・リーンは安堵とともにはやる気持ちを押さえ込んだ。一刻も早く芳しい花の香りのする娘の元へと向かいたいところだが、それはまだ許されることではない。
 この聖地(アジェン)の支配者に神降ろし(エンダル)の通行許可を賜った礼を伝えるのが先だ。
 苛つく内心を押し包むように旅用のマントを身体に巻きつけると、リュ・リーンは軋んだ音を立てて降りてくる跳ね橋をじっと見上げた。待っている時間というのはなんと緩慢にすぎていくことだろう。まるで焦らされているようだ。
 降ろされた橋を渡り、トゥナ王家に与えられた王城の棟へと向かいながらリュ・リーンは無意識のうちに庭に視線を走らせる。一刻も早く逢いたい人物がもしかしたら出迎えてくれぬかと。
 そんな人目につきやすい場所に探し求める娘がいるはずがないことは判っていたが、せめて一目だけでもと視線は彷徨い続けた。
 結局、以前に使っていた部屋へと案内され、その窓から眼下の庭園を覗いて見ても、愛しい婚約者の姿を見ることはできなかった。
「カデュ・ルーン……」
 冬支度を終えた庭を見下ろしながらリュ・リーンはポツリと婚約者の名を呟いてみた。
 いったいそれにどんな魔力があるのか、明日までの辛抱だと堪えていた心の水面をザワザワと波立たせる。同じ城のなかにいるというのに、まだ彼女には会えない。聖衆王との謁見を終えるまで、どうやってそれに耐えろというのか。
 聖衆王が謁見に割く時間よりも随分と遅かったが、リュ・リーンは身支度を整えるとあたふたと奥宮へと向かった。
 本来なら伴ってきた数名の部下も供に拝謁できるよう手配したいところだったが、それでは明日の謁見時間まで待たねばならない。リュ・リーンにはとてもではないが、そこまで待っていられる気分の余裕がなかった。
「聖衆王陛下に拝謁を賜りたいのだが。取り次いでもらえないか?」
 リュ・リーンは奥宮へと通じる巨大な扉の前で頑固に無表情を保っている衛士たちに声をかけた。だが彼らはあらぬ方角を見るばかりで、扉を開けてくれようとはしない。
 これが父であるシャッド・リーン王であったなら、臆面もなく扉を押し開けて勝手に入っていってしまうところであろう。しかしリュ・リーンにはそこまでの度胸はない。
 衛士たちが決してこの扉を開けてくれそうもないと判ると、トゥナの王太子は小さなため息をついてきびすを返した。やはり無理だったか。もしかしたらと思ってやってきたが、相手は正式な手続きを踏まねば会ってくれそうもないようだ。
 悄然と肩を落として部屋に戻ってきてみると、部下の一人がバタバタと走り回って自分を捜しているところに出くわした。
「殿下! 良かった。そこにおいでだったのですか」
 右手に丸めた羊皮紙を握りしめている。何事かと彼の差し出す巻物の蝋封を見たリュ・リーンは心臓が一足飛びに跳ね上がり、血が逆流しそうな激しさで流れ出す感覚に襲われた。
 清花(カリアスネ)の紋章が押された蝋封だ。この夏の間、どれだけこの紋章を見たことだろう。
 手早く封印を切ると、リュ・リーンは紙面の上に視線を滑らせた。見慣れた柔らかな文字にさらに心臓が激しく波打つ。
「これを届けてくれた者は?」
「この巻物を置いてすぐに帰ったそうです。返事が必要な内容でしたでしょうか?」
「いや、必要ない。夕食までまだ間があるな。部屋にいることにする」
 懐に手紙を押し込むとリュ・リーンは足早に自室へと戻った。
 後ろ手に扉を閉めながら手紙を懐から引っぱり出すと、もどかしげにそれを広げて紙面を再び指でなぞりながら読み始める。
 羊皮紙の表面には文字の他に簡略化された見取り図が書かれていた。その図を頭に叩き込むと、リュ・リーンは暖炉へと近づいていく。
 一瞬だけ惜しそうに羊皮紙の文字を見つめ、次いでそれを振り切るように赤々と燃える炎へと投げ込んだ。ジリジリと羊皮紙を燃やす炎がすべてを呑み込んでしまうまで、リュ・リーンはまんじりともせずに佇んでいた。
 羊皮紙が跡形もなく燃えてなくなると、自室の扉を薄く開けて廊下の様子を伺った。人影はない。階下からも足音は聞こえてこなかった。
 リュ・リーンは音もなく部屋から滑り出ると足音を忍ばせて階段を下り、王城の回廊へと通じる扉からこっそりと抜け出していった。
 窓から差し込んでくる陽光に照らされて彼の影が回廊に長く伸びていく。その物言わぬ影だけを従えて、リュ・リーンは頭の中にある見取り図通りに進んでいった。
 あまり使われていない区画なのだろう。王城の従者たちともすれ違うことなく、リュ・リーンは一つの小さな扉の前に辿り着いた。何本かの木の幹から削り出された板で組まれた扉だ。
 ここに来るまでの間にも心臓は躍り続けていたが、扉の前に立つといよいよ胸はドキドキと暴れ回る。扉へと伸ばした指先が緊張に微かに震えている。
 触れた扉はひんやりと冷たかった。だが石のような硬質な冷たさとは違う。触っていると表面からは判らない木の内部の温みが伝わってくるようだった。
 その扉をリュ・リーンはそっと押してみた。わずかな力を加えただけでは開かないようだ。さらに力を加えて押すと、滑らかな動きで扉が暗い口を開けた。
 向こう側に枯れた枝が数本転がる地面が見える。その奥には葉を落とした裸木が身体をよじっている姿がある。その白っぽい木肌がぼんやりと光っているように見えた。
 王城のなかの庭の一つに違いない。周りを石壁に囲まれた小さな庭に足を踏み入れると、リュ・リーンは気忙しく辺りを見回して目的の人物を探した。
 数本植えられている白い木と枯れた草ばかりが目に入り、この場所を教えてくれた人物の影が見当たらない。落胆したリュ・リーンは庭の中でも日当たりのいい場所に据えられた庭机へとフラフラと近づいてそれに寄りかかった。
 薄曇りの一日だったとはいえ、そこには微かな日向の香りが残っている。頑丈な石製の机に寄りかかったままリュ・リーンは木の梢を見上げた。剥き出しになった小枝の向こう側に空が見える。
 灰白色の木肌と褪せた空色の織り模様にぼんやりと見とれていたリュ・リーンの耳に扉の軋む音が響いたのは、空を見上げすぎて首が痛くなりかかった頃だった。
 リュ・リーンは緊張に肩を強ばらせて振り返っる。その視線の先に銀に染まった人影が見えた。
 額から頬にかけての髪だけを残し、後ろ髪を柔らかく結い上げた髪型は初めて目にするものだったが、間違いなく探し求めていた人物だ。
「カデュ……ルーン……」
 どれほど緊張していたのだろう。リュ・リーンは情けなくかすれた自分の声を遠くに聞きながら、銀の愛しい影へと駆け寄っていった。
 幾度夢に見ただろう? どれほど彼女の声や姿を思い起こしたことだろう? この半年、触れることの叶わなかった娘の身体を抱きしめると、リュ・リーンはうわ言のように相手の名を繰り返して呼んだ。
「お帰りなさい、リュ・リーン」
 囁く相手の声に鳥肌が立った。こんな甘い高揚感はいつ以来だろう。緩めた腕のなかでカデュ・ルーンが口元をほころばせている。
 ふいにリュ・リーンの鼻腔にむせそうに甘いカリアスネの香りが広がった。カデュ・ルーンの香りではない。彼女の使っている香はもう少し大人しいはずだ。
 これは半年前のあの夜、初めて彼女を抱きしめたときに辺りに立ちこめていた花の香りだ。
 リュ・リーンは夢を見ているような浮游感に襲われた。
「あぁ……夢じゃないんだな? 俺の腕のなかにいるのは、確かにあなたなのか……カデュ・ルーン」
 戦場で荒々しい声をあげて部下に檄を飛ばしてたリュ・リーンからは絶対に想像もつかないか細い声だ。そのかすれた声にカデュ・ルーンが声をあげて笑った。
「えぇ。わたしはここにいるわ。……ねぇ、誰にも見つからなかった? 手紙も燃やした?」
 冬枯れた庭のなかで見るとカデュ・ルーンの瞳はいよいよ若葉の鮮やかさを見せ、半年前の花の季節を思い出させる。あれからもう半年、いやまだ半年しか経っていないというのに、随分と逢っていなかったように感じる。
 若葉の瞳と赤いカリアスネのように色づいた唇が娘の白い顔のなかにくっきりと浮かんでいる様を、リュ・リーンは痺れた頭の隅で熱心に見続けていた。
「リュ・リーン? どうしたの?」
 返事をすることも忘れているリュ・リーンの様子にカデュ・ルーンが首を傾げた。その仕草ですら木の枝で身体を震わせる小鳥を連想させ、リュ・リーンはうっとりとその姿に見惚れてしまう。
 再会したら彼女にかけようと思っていた言葉の数々も何もかも忘れ、リュ・リーンは再びカデュ・ルーンを抱きしめた。半年の間に伸びた背のお陰で今は彼女の全身を包み込んでしまえる。
「カデュ・ルーン……カデュ……」
 呪文を唱えるように幾度も彼女の名を繰り返しながら娘の顔をそっと見下ろすと、リュ・リーンは恐る恐る彼女の頬に指を滑らせた。滑らかで温かみのある肌触りに指先が痺れる。
「カデュ・ルーン、やっと逢えた……。どれだけ逢いたかったことか」
 相変わらずの囁くような声で愛しい名を呼びながら、リュ・リーンはゆっくりと彼女の頬に唇を寄せた。彼女が好んで使っている香がその銀髪から漂ってくる。
 リュ・リーンは繊細な銀細工でも扱うように、そっとカデュ・ルーンの白い頬に口づけを落とした。傷つけることを恐れるような慎重さだ。
 そのカデュ・ルーンの頬に朱が差した。恥じらうように伏せられた若葉の瞳にうっすらと涙が溜まっている。今にも溢れそうな雫たちが彼女の睫毛を濡らす。
「あぁ……駄目。我慢しようと思っていたのに。わたしったらなんて弱虫なのかしら」
 ついに堪えきれなくなりカデュ・ルーンの瞳から涙がこぼれ落ちた。頬に添えられたままのリュ・リーンの指にその熱い雫が伝う。幾つもの小さな水晶が指先で弾けていくたびに、リュ・リーンは訳の判らない高揚感にくらくらと目を回した。
 俯くカデュ・ルーンの顎を引き上げて上向かせると、リュ・リーンは彼女の白い頬を濡らす奔流を指先で拭う。間近で見る娘の唇は涙を堪えようと小さく噛み締められていた。
 そんな我慢などしなくてもいい。リュ・リーンは先ほどから胸に噴き上がっくる高揚感に耐えかねて彼女の唇を奪った。
 カデュ・ルーンが必死に戒めているものを解きほぐすように幾度も赤い花弁の上に口づけを落とし、娘の華奢な身体を壊れそうなほどに強く抱きしめる。カデュ・ルーンが自分の腕のなかで身体を震わせ、しがみついてくる気配が伝わってきた。
 彼女の紅い花唇から離れても、リュ・リーンは白い頬や額、首筋へと口づけを落とす。自分の唇が柔肌に触れるたびに娘が身体を小さく震わせることに気づいたが、それすら案じてやる余裕がなかった。
「カデュ……エーマ。エーマ……」
 気軽に口にしていい名ではない。それは彼女を支配する聖名(ルーンガルド)なのだから。だがリュ・リーンは熱に浮かされたように幾度もその名を呼び、飽きることなく彼女を抱きしめ続けた。
 どれほどの間そうしていただろう。辺りは日が落ちてすっかり暗くなっていた。木立の白い木肌が闇にうっすらと浮かび上がっている。
 一過性の情熱が過ぎ、穏やかな充足感が胸を満たすと、リュ・リーンはようやくカデュ・ルーンを戒めていた腕を緩めてそっと身体を離した。
「ごめん……。腕、痛かっただろう?」
 加減することを忘れていた。痛くないはずがない。それでなくてもカデュ・ルーンは華奢な体格なのだ。だが彼女は口元をほころばせているばかりで、一言も非難を口にしない。
 じっと自分を見上げていた娘が再び「お帰りなさい」と口にするのを聞いて、リュ・リーンはばつが悪そうに俯いて「ただいま」と返事を返した。先ほども彼女は同じように迎えてくれたというのに、自分はなんと間抜けな反応を返していたことか。
「怪我は大丈夫なの?」
 ギョッとしてリュ・リーンは目を見開いた。そして慌てて自分の右頬にできているであろう薄い傷痕を指でなぞる。それほどひどい傷痕はできてはいないのに、彼女はすぐに気づいたようだ。
 目をそらすことなく自分を見上げてくるカデュ・ルーンには嘘や誤魔化しなど通用しないのかもしれない。
 困惑するリュ・リーンの両頬を掌で包むと、カデュ・ルーンは柔らかな微笑みを浮かべた。薄暗いなかでもはっきりと判るほどに明るい笑顔だ。
「その傷痕、痛まないの?」
「あ……あぁ。もう全然平気だ」
 魔の瞳(イヴンアージャ)と恐れられる自分の暗緑色の瞳にもまったく怯えを見せない婚約者の態度に、リュ・リーンは畏怖を感じた。身内である姉たちですら、時に恐怖を浮かべて異端の弟を見るというのに。
「カデュ・ルーン……。あなたは俺が怖くないのか?」
 これまで恐れていて聞けなかった問いがふいにリュ・リーンの口から溢れた。彼女の好意を信じていないわけではない。だが死の王と同じ瞳を覗き込むことは、愛情以前の宗教的な嫌悪の問題であろう。
 カデュ・ルーンが首を傾げて眉を寄せた。
「どうして? リュ・リーンはいつだって優しいわ。どこが怖いの?」
 何を問われたのか判らないと言った様子で、カデュ・ルーンはますますじっと若者の暗緑の瞳を覗き込んだ。
 むず痒いようなざわめきに浸ると、リュ・リーンは嬉しそうに顔を歪める。打算の混じらない純粋な愛情だけで自分を見てくれる者がいるというのは、なんと喜ばしいことか。
「皆、俺の瞳を怖がって避けているのに……」
「あら、それはあなたが気難しい顔をしているからよ。笑ってごらんなさいな。皆、逃げやしないわ」
 クスクスと笑い声をもらしてカデュ・ルーンが抱きついてきた。その無防備な愛情に戸惑いながらリュ・リーンもうっすらと笑みを浮かべる。
 不器用な自分には親しい者たちの前以外で微笑むことはできないかもしれない。でも、きっとこの麗しい花の娘となら、カデュ・ルーンとならずっと笑いあって生きていける。リュ・リーンはそんな予感に胸が暖かくなった。
 辺りには花の香りが立ちこめているような気がする。冬が間近に迫っているこの季節にそんなことはあり得ない。
 だが彼女が、カデュ・ルーンがいる場所でなら、そんな奇跡が起こっても不思議はないのかもしれない。
 紅や白の花弁を揺らして咲き乱れるカリアスネよりも鮮やかな聖なる花が、今は自分の腕のなかで笑い声をあげている。この花を慈しみ、供に生きていける喜びにリュ・リーンはいつまでも胸を震わせていた。

〔 13388文字 〕 編集

後日譚

No. 75 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第05章:血海

 激しい風が枝木を吹き散らしていく。まるで伝説の竜が吠えたてて、大地に貼りつく者どもを嘲笑っているようだ。
 リーニスの南方ではまだ夏の暑さが引かない。北方地区では早いところであればもう麦の刈り入れが始まっているであろうに。
「敵軍主力、平原を見下ろせる丘に陣取っています」
「陣形は紡錘形陣!」
 リュ・リーンの元にもたらされた報告は周囲の将軍たちの内心に動揺の波紋を広げた。
 士気の上がらない軍が攻撃を重視した陣形をとるとは思ってもみなかったのだろう。むしろ相手は手堅く攻守の切り替えができる正攻法な陣形で臨んでくるものとの予測が彼らのなかにはあったのだ。
「よほど切羽詰まっているか、あるいは強硬な指揮官がいたのか……。まぁ、大人しく尻尾を巻いて逃げ出さなかったのだ。形勢の逆転を狙っていることに変わりはない」
 飛ばした斥候の報告にもリュ・リーンは動揺しない。むしろ戦いを楽しんでいるような酷薄は笑みが周囲の将軍たちを震え上がらせる。
「敵軍は一カ所に集中してるわけではないだろう。たぶん、どこかに他の兵を伏せているはずだ。こちらも後続隊を残す。周囲の伏兵どもを狩り出させろ! 地理に詳しい者を各隊につけよ!」
 次々に指示を出すリュ・リーンのまわりには、これまでにカヂャ軍への復讐の機会をうかがっていた士官たちが集い、その指令を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてていた。
 軍馬の神経質ないななきと甲冑の擦れる音、そして木々の間を吹き抜けていく風の音以外は、リュ・リーンの声しか聞こえない。大軍での行軍だというのに、それは不気味なほど整然とした、あるいは無機質な動作だった。
「敵軍大将旗、確認とれました。王弟ルインディ公の旗章です!」
「ほぅ……」
 相手の名前にリュ・リーンの瞳が鋭さを増した。口元には楽しげな笑みがもれる。
「これまでの占領作戦では表舞台に出てきてなかったが……。本国から派兵されてきたか? どうりで攻撃一本槍な陣形を組む」
 相手の指揮官の名は将軍たちにも意外あると同時に、組まれた陣形を納得させるものだった。
 王弟ルインディ。現カヂャ王の末弟はその猛々しい直情型の作戦をとることで知られている。防御することよりも相手をねじ伏せることに主眼を置いた彼の戦術は、カヂャ軍が勢いに乗っているときにはかなりの脅威である。
 しかし、今回のように士気が落ち込んでいるときはどうであろうか?
 彼の出現によってカヂャ軍の士気が回復していた場合、トゥナ軍はかなり厳しい戦いを強いられることになるだろう。だが逆に士気が上がっていなかった場合、それは長年の宿敵に煮え湯を飲ませてやれる格好の機会だ。
「ふふん。奴が軍を掌握しきれているかどうか……。かなりの短期間だったはず、奴を芳しく思っていない将軍たちには煙たいことだろう。大将旗以外の旗章は他に誰のものがある?」
 冷酷な口調を崩さないリュ・リーンの様子に彼の側近くに愛馬を寄せていた将軍アッシャリーは背筋を震わせる。と同時に、戦の高ぶりに身体のなかの血を沸きたたせていた。
「現在確認がとれているだけで、四~五名の将軍がおりますが」
 スラスラと報告をする部下の言葉に頷きながら答え、リュ・リーンはますます口元に笑みを深く刻んだ。
 報告の最後に敵将ファドーの名が上がったとき、黒衣の王子は邪悪なほど危険な笑みを浮かべて笑い声をあげる。
「なんだ、あのうすのろがまだ陣中にいるのか。あのバカ者がいるのなら、楽勝だな」
 なんとも頼もしく、また恐ろしい王子ではないか。これから繰り広げられるであろう血戦に臆することもなく、自分が負けるなどとは微塵も思っていないのだ。
 彼の父親、シャッド・リーン王ですらここまで戦を楽しげにこなしはしないだろう。
 目の前にある小高い山を越えればそこは敵が待ち受ける戦場なのだ。なのに彼は恐怖を感じてはいないのか、愉快げに笑い声をあげて伝令を手招きする。
「後続隊を敵の側面に回せ。それから……」
 声を低めて数人の伝令へと耳打ちした王子の顔は魔神を思わせる凶暴な表情を浮かべていた。
 その横顔を見つめながら、アッシャリーは甲冑の上から自分の胸元を押さえた。
 戦以外でのリュ・リーンは、時には子供のように無邪気な表情を見せることもある。しかしひとたび戦となったら、この変わり様はどうだ。王都での貴族たちの足の引っ張り合いが子供騙しのように思えるほどに残酷な笑みを浮かべて敵軍を翻弄するではないか。
 王都で物憂げに貴族たちの冷笑を浴びている王子は本当の彼ではないのだ。戦場で大剣を掲げて、軍馬を駆る姿こそが彼の真の姿に違いない。
 現にここ三年。王子が成年して軍の指揮をするようになってからは負けなしだ。まさに戦場での王太子には魔神が乗り移っているのだ!
「我々本隊はこのまま直進する。派手に登場してやれ。ルインディが俺たちの掲げるトゥナの軍旗を見誤らないような!」
 後続隊が離れていくと、残された士官たちを前にリュ・リーンが再び笑みを浮かべた。自信に満ちあふれたその態度に若い士官たちの間からはどよめくような歓声があがる。
 どちらの軍の指揮官が兵士一人一人にまで支持を受けているのか、比べるまでもないほどの熱気がトゥナ軍のなかには膨れ上がっていた。
「出立!」
 リュ・リーンの朗々と響く声に呼応して軍馬たちが行軍を再開した。一糸乱れぬその動作がまるで竜の鼓動のように聞こえてくる。
 戦場は目の前だ。この小さな山を越えた先に、血を求めて兵たちが集う。
 獰猛な、嵐を予感させる風のなかで戦いの火蓋は切って落とされたのだった。




 戦いの開始は弓隊からの攻撃によって開始される。互いの力を見せ合う前に、牽制しながらその間合いを詰めていくからだ。
 双方の弓隊が雨のように矢を射かけあい、どちらからともなくそれが止むと、本当の戦闘が始まるのだ。
 紡錘形の陣形をとっていたカヂャ軍は槍隊を前面に押し出し、その背後を重騎兵が斧を振り回して突進してくる。
 対するトゥナ軍は突出するカヂャ軍の先陣を削り取るように取り囲んで両側面からその兵力を削り取っていく戦法をとった。
 カヂャの戦力が優ればトゥナの兵壁は破られ、軍は二分されてカヂャ軍の餌食となるだろう。また逆にトゥナの兵力が優ればカヂャの兵数は減り、ついには取り囲まれて消滅してしまう。
 なだらかな丘や平原が広がるこの一帯は、今まさに血みどろの戦いによって大地を朱く染め上げていた。
 カヂャの軍隊の中央部で指揮をとっているルインディにとって、この戦術は博打のようなものだった。
 わずかな均衡でこちらが優れば、敵軍を食い散らして葬り去ることができる。だが逆の立場になった場合、兵は全滅する可能性すら出てくる。
 すでに幾度も機動力を活かしたこの陣形でトゥナの兵壁へと突進を繰り返していた。その度に敵軍は両側面へとまわりこんで自軍の側面を固める兵士たちに痛烈な攻撃を加えてくる。
 走り抜けた後には、敵兵の骸以上の数の自軍の兵士の骸が転がっていた。
 先頭を走る兵と後続の兵との距離が開くほどこの陣形は脆い。まばらな密集度では相手の兵を自軍の内部へと食い込ませるだけだ。
 左右に軍を分断されてもトゥナ軍はアッという間に集結し終え、再び鉄壁の陣形を形成し直してしまう。まるで泥でも相手にしているようだ。
 突き崩しても、押し切っても、いつの間にか元の形へと戻ってしまうのだ。
「おのれ! トゥナの蝿どもめ! チョロチョロと小賢しい! 我が軍の脚力が今少し強く、早ければ……!」
 苛立ちが呪詛の言葉となって喉から溢れるが、それが自軍の手助けになるはずもない。こちらに不利な消耗戦は士気の差がいずれ勝敗を分けるだろう。
「……! 右方を守っているあの部隊はファドーのものか!?」
 ルインディは鋭い鷲のような瞳を自軍の遅れがちな部隊へと向けた。
 先ほどからあの一帯の兵士だけが異様に遅れているように思える。あそこがついてきさえすれば、陣形を崩すことなく反転して隊列を整え終わる前のトゥナに再度突進できるものを!
「あのグズが! 軍でどれだけ無駄飯を喰えば気が済むのだ!」
 苛立ちを強めたルインディが自軍の将を痛罵する声が聞こえでもしたのか、トゥナ軍から大きな鬨の声があがった。せっかく今の突撃で敵軍を分断したというのに、またしても相手のほうが先に隊列を組み直してしまったのだ。
「クソッ! トゥナの魔神め! あいつが前線に出てくるとろくな目に遭わぬ!」
 敵兵たちの人波の向こうに鈍く輝く黒甲冑の指揮官を思い出してルインディが歯がみした。トゥナの黒い王太子は聞きしに勝る戦上手のようだ。よく兵をまとめて自在に操る。
 同じ指揮官として羨望を禁じ得ないところだが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
「別働隊はまだ到着しないか!?」
 ルインディの荒々しい声に側近の一人が答えを返す。
「間もなくでしょう。トゥナ軍の到着が予想よりやや早うございましたからな」
 消耗戦の最中で側近の落ち着いた声はルインディに平静さを呼び覚まさせた。指揮官が熱くなりすぎては冷静な判断などどできない。
 落ち着け、落ち着けと幾度も自身に呼びかけて、ルインディは自軍の隊列を整え続けた。そのとき、彼のなかに閃くものがあった。
 足手まといになり、なおかつ敵軍の格好の標的にされているお荷物ファドーを上手く利用してやればいいではないか!
「ファドー隊を後方に下げよ!」
 隊列を組み直している兵たちが指揮官の声と伝令たちの声によって移動していく。上手い具合に遅れ気味のファドーたちはカヂャ軍のしんがりにようやく追いついてやっとの思いで陣形に加わったところだった。
「突撃!」
 鋭い叫びとともに軍馬に鞭を当ててがむしゃらに走り始めたカヂャ軍は、ファドーとその部下たちに休息を与えることなく、再びトゥナ軍へと襲いかかっていった。
 トゥナの兵士たちはすでに臨戦態勢に入っている。騎馬を中心にしたカヂャ軍とは違って歩兵も相当数いるのだが、各隊の士官がよほど上手くまとめているのか、脱落者がほとんど出ていない。
 突撃しながらルインディが舌打ちした。戦闘中にこれほど統制のとれる軍隊がいったいどれだけあるだろうか。
 だが機動力においてはこちらが上だ。足手まといを置き去りにして突き進むカヂャ軍は再びトゥナ軍を突き抜け、その部隊を分断することに成功した。
 カヂャの隊列から離されていたファドーの部隊はまだトゥナ軍のなかだ。むさぼり食われるようにその隊列が消滅していく。
 その様を観察する余裕も惜しんで、ルインディはトゥナ軍の手薄になった兵壁へと襲いかかった。
 必死の抵抗を試みるファドー隊とカヂャ本隊に挟まれたトゥナ軍の左側面が隊列を乱したのはそのときだった。遅れたカヂャ軍の部隊に気を取られていたために陣形を建て直す機会がほんの一瞬後手に回ったのだ。
「切り崩せ! 弓隊! 後方より援護!」
 叫び様にルインディは手近なトゥナの歩兵の肩先に戦斧を叩き込んだ。血飛沫を上げて倒れる敵兵に目もくれず、愛馬の馬蹄で敵歩兵を蹴散らしてトゥナ軍の隊列を崩し続ける。
 カヂャの後方では弓隊が自軍の頭上を越えて敵軍の中央部に達する飛距離から死の雨を降らせている。
 挟撃された隊列を救いにこようとしていたトゥナ本隊も矢の雨に足並みを乱しがちだ。
「進め! このままトゥナの中央を突破する!」
 崩れ始めたトゥナの隊列に更に深く浸食すると、カヂャ軍はその騎馬の機動力を活かしてトゥナ軍の中央部へと襲いかかった。
「来たぞ……! 味方だ!」
 折しもカヂャの別働隊が平原へと到着し、喚声をあげてトゥナの反対側面へと襲いかかる。未だ疲弊を知らない別働隊はトゥナ軍が反応する以上の速度でその側面へと迫りっていた。
「カヂャの勝ちだ、黒い魔神め!」
 ルインディの怒りにたぎった叫び声が戦いの空へとこだました。
 突進するルインディの視界に今日、幾度目か目にする黒い甲冑が入ってくる。トゥナの王太子だ。あの首級(くび)さえ捕れたなら!
 猛り狂っている愛馬を駆ると、ルインディは漆黒の騎士へと躍りかかった。
「その首もらったっ!」
 ルインディの血まみれの戦斧が黒い甲冑をかすめる。その戦斧の柄元を黒騎士の大剣が薙ぎ払った。重心を狂わされてルインディがよろけ、その隙に相手はトゥナの騎士たちに守られて離れていく。
「おのれ、黒太子! 逃げるか!?」
 苛立ちに叫び声をあげたルインディが再び黒騎士へと飛びかかっていくが、幾重にもトゥナの騎士が壁となって立ちはだかった。
「ルインディ殿下! 深追いはなりません!」
 目を血走らせた指揮官を押し止めるようにカヂャの士官も間に入る。
 混戦の様相を呈してきた戦場に、また新たな鬨の声があがったのは、ルインディと黒い王太子とが刃を交え終わったそのときだった。
「な……に……!?」
 カヂャの別働隊はすでに到着している。他は兵を伏せていない。
 辺りを見渡せば、別働隊の背後から襲いかかってくる一団があるではないか! 数こそ少ないが、トゥナの軍旗を掲げたその一団がいっそう混戦へと両軍を叩き込んだのだ。
「クソッ! トゥナも兵を分けていたのか!」
 兵を束ね直さねばなるまい。こんな混戦状態で兵を失うわけにはいかない。
 ルインディが兵団を建て直すために号令をあげようとしたその刹那……。
 まったく思いもよらない方角から鬨の声があがった。
「なんだと!? 背後から!?」
 振り返ったルインディの視界に兵団が入ってきた。
 戦闘開始とほぼ同時に止んでいた風が再び舞い始めている。その不吉な竜の()き声を連想させる風音が嘲笑っているかのように聞こえた。
 風に翻る新たな兵団の戦旗はカヂャのものではない。
 あぁ! 紅地に黄金の正三日月紋と左手短剣(ハピラ)紋! トゥナ王家の紋章だ。
 そこにはカヂャの仇敵、トゥナ軍の軍旗が竜の叫びに呼応するように翻っているではないか!




 両側面から敵の攻撃を受けたカヂャ軍は、それでもかなりの時間踏みこたえていた。だが機動力の高い騎馬兵団も、その俊足を封じられてはいかんともし難い。
「隊列を整えよ! 今は深追いするな!」
 トゥナの王太子の叫ぶ声がルインディの鼓膜を叩く。相手は更なる味方の登場にすっかり余裕を取り戻していた。対して、こちらは陣形を整えようにも隊を指揮する士官が次々と屠られ、統制がとれなくなってきている。
「黒太子め! 将ばかりを狙わせておる……!」
 混戦のなかにも関わらず、トゥナ王軍の兵士たちは狙いすませたように各隊の指揮官たちに襲いかかっていた。瞬く間に兵団の隊列を整え、その最中でさえ敵への攻撃を忘れない相手にルインディは舌打ちをした。
「ドゥニアダ!」
 ルインディは自分の近くで戦斧を振り回している部下を呼んだ。
 上官の声にそのドゥニアダがチラリと視線を向けてくる。だが腕は忙しく斧を振り回し続けていた。愛馬の足下から敵の歩兵が槍を突き上げてくるのだ。ちょっとでも気を抜けば串刺しになってしまう。
「兵を引かせろ。リーニス砦まで後退だ! お前が指揮をとれ!」
 驚いて目を見開く部下を残してルインディが軍馬を駆った。彼の愛馬の蹄にかかって幾人ものトゥナ兵士が押し潰される。彼どころか、彼の軍馬まで敵の血を浴びて朱く染まっていた。
 一直線にトゥナの本隊中央に迫る彼の背後ではドゥニアダが主を呼び止めようと叫んでいたが、ルインディにはその声は届いていない。いや、届いていたとしても彼は止まらなかっただろう。
「黒太子……!」
 一直線に迫ってくる紅に染まった騎士に気づいたトゥナの騎士たちが王子を守るように立ちはだかる。その甲冑の壁にルインディが戦斧を叩き込み、甲冑ごと騎士たちの腕や肩の骨を砕いていった。
「邪魔するなぁっ!」
 獰猛な叫び声がルインディの喉から迸り、その勢いのままに振り回された斧は次々とトゥナの騎士たちを戦闘不能な状態にしていく。カヂャ兵の多くは大地に骸となって横たわり、残りの兵は戦線を離脱していたが、ルインディだけは黒い甲冑の持ち主の姿を探して戦場を彷徨っていた。
「どこだ……! 隠れずに出てこい、魔神め!」
 凶暴なルインディの声にトゥナの多くの兵は怖じ気づいている。彼の前には相変わらずトゥナの騎士が立ちはだかり行く手を遮っていたが、その向こうにはチラチラと黒い影が見え隠れしていた。
「待てぇい、トゥナの魔神! お前は逃げることしか出来ぬか!」
 逃げ出したカヂャ兵も多くいたが、踏みとどまって戦い続けている者は王弟ルインディを助けに行こうと足掻いている。だが背後から襲いかかってきたトゥナの新手が巧みにその行く手を遮り、ルインディとの距離を離していく。
「ルインディ殿下ぁっ! お戻りくださいぃっ」
 絶叫する部下たちの声は、もはやルインディのいる場所まで届いてはいない。兵士たちの阿鼻叫喚の喧噪から徐々に引き離されていっているのだ。
 だがルインディは目の前にちらつく黒い人影を追うことに必死で、そのことにまったく気づいていない。立ちふさがる騎士たちを蹴散らし、トゥナ軍の指揮官に一撃を喰らわせてやろうと躍起になっていた。
「待たぬか、この腰抜けがぁっ!」
 幾度目かのルインディの痛罵に黒い甲冑の騎士が馬を止めた。優雅に馬首を巡らし、本来ならば両手持ちのはずの大剣を軽々と片手に掲げる。
 獲物が振り返ったことにルインディはほくそ笑んだ。ようやくまともに相手をしてくれそうだ。血濡れた戦斧を構え直すと、彼は今まで以上の素早さで軍馬を駆って相手へと飛びかかっていった。
 トゥナ軍の騎士たちが主を庇おうと走り寄ってくるが、当の王太子自身がその部下たちを制してルインディへと突進してくる。
 ルインディの戦斧と黒太子の大剣が火花を散らしてぶつかった。
 一撃目は引き分けと言っていいだろう。お互いの力が拮抗しており、勢いに任せて打ち込まれた斧と剣は互いの勢いに弾かれてしまった。
 交差した視線が一つは怒りに、もう一つは冷酷にぎらついている。
 弾かれ、押し戻された勢いから立ち直ると、二騎は再び激突した。ルインディの戦斧が弧を描いて下方から、トゥナの王太子の大剣が一直線に上方から襲いかかる。今度は上方から打ち据えた分だけ黒騎士の勢いが勝った。
 上体を馬上でよろめかせながらルインディが馬首を巡らせてやや後退する。その彼を追うように大剣が甲冑の胸当てをかすめていった。だがルインディに傷を負わせるほどではない。
「まだまだぁっ!」
 三度(みたび)愛用の斧を構えると、ルインディは馬に弾みをつけて相手が突きだした切っ先を薙ぎ払った。今度は王太子が上体を泳がせて馬首を下げる。
 すかさずルインディは馬を寄せると黒騎士の胸部めがけて戦斧を叩き込んだ。
 だが甲冑を着ているとは思えないしなやかな動きで相手が攻撃をかわす。相手の騎士には隙がないのではないかと、ルインディは苛立ちを強めた。
 幾たびも激突を繰り返し、互いの得物の刃もこぼれ落ち、底抜けの体力を誇っていた二騎の軍馬もかなり疲弊し始めた頃。またしても先に動き始めたのはルインディのほうであった。
 今度こそは相手の首を刎ねるつもりで戦斧を振りかぶる。狙いは寸分違わず黒騎士の顎を捕らえるはずだ。器用に手綱を操る相手の動きを読み、その剣技をかわしてルインディは残る力をすべて斧の刃に乗せて相手の頸部へと叩き込む。
 間違いなく彼の斧は相手の兜を捕らえ、その首を刎ね飛ばした。黒光りする兜が血に染まった大地の上を転がっていく。
 やった……! ついに魔神をこの手にかけたのだ。
 ルインディは狂喜して愛用の斧を高く掲げる。この数年、母国の兵に煮え湯を呑ませてきた黒い魔物を討ち果たした。
 だが彼は腕を上げたその姿勢のまま凍りつく。背中に焼けつくような痛みを感じた。いったい自分の身体に何が起こったというのか!?
 獣の唸り声が聞こえる。それが自身が漏らす苦痛の声だと気づく間もなく、ルインディは馬上から転がり落ちて大地に激突した。
 混乱した彼の視界に屠ったはずの黒騎士の愛馬が近づいてくる。霞みがちな視界のなかにその馬上の人影が映った。
 そんな……! 間違いなく兜ごとその首を叩き折ったと思っていたのに!
 彼の頭上には、肩先まで伸びた黒髪を風になびかせ、魔神の暗緑の瞳を輝かせる青白い肌の若者の顔があった。トゥナの王太子リュ・リーンの、冷たくどんな剣よりも鋭利な視線に串刺しされ、ルインディはようやく自分が相手の策略にはまったことを悟った。
 自分が叩き折ったと思った兜は中身などなかったのだ。どれほどの早技か知らないが、この黒髪の騎士はルインディの斧刃の下をかいくぐり、自身の頭部を守っていた兜を脱ぎ捨ててさも必殺の一撃が成功したように見せかけたらしい。
 さらに背中の痛みから察するに、鞍にかけられている投げ槍をすぐさま投擲して背後から襲いかかってきたのだ。
「卑怯な……」
 血泡を噴くルインディの口元から微かな声が漏れる。一騎打ちをしている相手の背中から襲いかかるとは……。
 怒りに顔を赤く染め、ルインディは起き上がろうともがいた。そんな彼を上から見下ろしたまま、トゥナの王太子が冷淡な声を発する。
「卑怯? 砦の井戸に毒を投げ込むような戦い方をするのは卑怯ではないのか?」
 背中の傷は思ったよりもひどいようだ。身体に力が入らない。ルインディは自分を見下ろす青白い顔を睨みつけた。そんな彼に氷の視線を浴びせ、リュ・リーンがさらに続ける。
「戦いをなんだと思っているんだ。正々堂々と一騎打ちをする場所をお前は間違えたのさ。……ここは戦場だ。試合場じゃない。勝った者がすべてを貰い受けるのが常だろうが。勝つための努力をしなかったお前に勝者になる機会などあったと思うのか? 自分に有利になるように駒を配せなかったお前の負けだ!」
 地面に転がされるような事態になってからルインディはやっと理解した。確かにカヂャの指揮官である自分を一人引き離すようにこの王子は誘導していたではないか。それに気づかずに深追いし、堂々と一騎打ちに持ち込んだと思っていた自分が浅慮だったのだ。
 戦には勝者と敗者しかない。その境界線を分けるのは、最後まで立っていた者が勝者であり、地面に倒れた者が敗者だという単純な、だが厳然としたものだ。
 ギリギリのところで知略を巡らせ、相手と駆け引きを繰り返して勝機を探るのが戦ではないか。その根本的なところを失念し、剣の稽古か御前試合のような高揚感に浮かれていたのだ。
 目の前の死神がゆっくりと大剣を振りかぶる姿をルインディは茫然と見上げる。出血が多いのか、身体は痺れたように動かない。もしかしたら投げ槍には毒でも塗ってあったのかもしれない。
「……汝、死の王の翼の下に眠れ」
 人を死へと導く魔王の声だ。その、相手をねじ伏せ平服させる神の声はなんと甘美に自分を死へと誘うのだろうか。誘惑を妨げる者は誰もいない。
 狙い定めて振り下ろされた大剣が視界いっぱいに広がった。次の瞬間、ルインディの魂は死の魔王の元へと旅立っていった。
 最期の旅路を見送るたった一人の者は、なんの感銘も哀悼も表情に浮かべず、感情を殺した瞳で静かに見守っているだけだった。




 王弟ルインディ卿、討ち死。
 その報が戦場を駆け巡るのにそれほどの時間はかからなかった。それまで必死に防戦し、指揮官の元へと向かおうとしていたカヂャの将校たちが雪崩をうって後退し始める。
 すでにカヂャ国軍は軍隊としての形を失い、群からはぐれた草食動物のようなものだったのだ。とどめを刺しに襲いかかるトゥナ軍の前に、ただただ逃げ惑うばかり。
 リーニス砦へと遁走するカヂャ兵が大半だったが、なかには真っ直ぐ東の本国へと向かう脱走兵もいる。血に飢えた獣と化したトゥナ兵たちが逃げるカヂャ兵たちを次々に血祭りにあげ、ついにはリーニス砦まで取り戻すのにさほどの時間はかからなかった。
 リーニス砦に立て籠もろうとしたカヂャ兵はそこでもトゥナ軍の待ち伏せにあったのだ。
 カヂャ軍との戦いの前から、トゥナ軍はいくつもの別働隊を用意していた。その別働隊がもぬけの殻となっていた砦に先回りしてそれを占拠していたのだから、どうしようもあるまい。
 完全に瓦解したカヂャ軍はここで息の根を止められた。
 そうだ。トゥナ王国軍はその手に完全な勝利を掴んだのだ。
 リーニス砦に到着したリュ・リーンを出迎えたのは、彼の幼い頃からの学友だった。
「ウラート。ご苦労だったな」
 門を入ってすぐの前庭で愛馬を降りたリュ・リーンは気難しい顔つきをして出迎えた友にねぎらいの言葉をかける。
「また無茶をしたそうですね、リュ・リーン」
 この半年の間にすっかり眉間の皺が板についてしまったウラートが冷え冷えとした声を出した。その不機嫌な声にリュ・リーンは首をすくめたが、すぐに気を取り直して砦の中へと入っていく。
「ところで……この砦に駐屯していたトゥナ兵たちの遺骸は?」
「さすがにカヂャの者たちも死体と一緒に寝起きする気はなかったのでしょう。砦の南門の外に積み上げられておりました。もちろん、到着してすぐに簡単な弔いを済ませましたが……」
「俺も行く。案内してくれ」
 砦の内部を突っ切って、リュ・リーンは足早に南門へと向かった。彼の背後から主立った将校たちがついてくる。彼らにしてみれば砦に入ってすぐに勝利の勝ち鬨をあげるのだろうと思っていただけに、王子がどこへ向かっているのか見当もつかない様子だ。
 南門に近づくに従って()えた臭いと香木の香りが辺りに漂い始めた。
「ほとんど白骨化していましたが……。血や肉、内臓が腐って出す臭いですからね。この腐臭だけは香木を焚いてもなかなか消えません。辛いですよ、この先はもっと悪臭がします」
「かまわん。……リーニスに根ざす以上、彼らは俺の民だ」
 腐臭に怖じ気づいている将校たちが戸惑いながらついてくる。その動揺のなかをリュ・リーンは顔色一つ変えずに南門へとやってきた。
 辺りのあまりの臭気に、付き従ってきた将校のなかには涙目になっている者もいれば、吐き気を催して壁に寄りかかっている者もいる。戦場で血の匂いを嗅ぎ慣れている戦士たちにもこの腐乱していく死骸の臭いは耐え難いらしい。
 背後の者たちにようやくリュ・リーンが振り返って声をかけた。
「ついてきたい者だけついてこい。お前たちにはこんな酔狂につき合う義務はないからな。体調の優れない者は砦の向こう側に戻れ」
 振り向いたリュ・リーンの顔色も悪い。その彼に寄り添うウラートにしても決して平気なわけではないようだ。将校のなかにはとうとう耐えきれずに胃の内容物を吐いている者が出だした。
「ウラート。お前も残っていいぞ」
「おつき合いしますよ。あなたが途中で気絶したら、運び出さなきゃいけませんからね」
 心配しているのか、嫌味を言っているのか判らないウラートの反応に、リュ・リーンは苦笑いを浮かべる。そして「じゃあ、頼むとするか」と学友の肩を軽く叩いて門の外へと踏み出していった。
 獄界がどんな場所かと問われたら、目の前に広がっている光景を指してここがそうだ、と言ってやりたい気分だった。
 まともな死体などただの一つもない。春先の戦いで死んだ者たちがおよそ半年もの間、こんな場所に放置されていたのだ。蛆が湧き、腐り果て、そして白骨化しているものばかりだ。
 目に浸みる臭気の元は肉や内臓が腐った結果だけではなく、流されたおびただしい血の生臭い匂いでもあるのだろう。足下の大地は大勢の兵士たちが流した血を吸いきれずに今も赤黒く染まっていた。
 黙って立ちすくむリュ・リーンの背後で、なんとか付き従ってきた将校たちも絶句する。
 赤黒い大地の上に積み上げられた白い骨たち。その骨の間に蠢く黄色い蛆。なんと凄まじい光景だ。わずかに骨に残った腐肉に向かって食屍鳥が舞い降り、彼らの足に蹴り転がされた髑髏がカラカラと虚ろな音を立てて骨の山から転がり落ちる。
 耐えきれなくなった将校数人が口を押さえて門のなかへと駆け戻っていく。
 誰が責めようか。この凄惨な光景を見て、誰が耐えよと命じられようか。
 呻き声一つあげることもできずに立ちすくんでいた将校の目の前で、リュ・リーンが鈍い足取りで骨の山へと近づいていく。呼び止めようとするのだが、その声は喉に貼りついて出てこない。
 骨山の麓まで辿り着くと、リュ・リーンは緩慢な動作で足下のがい骨を拾い上げ、山全体を見渡すように首を巡らせた。
 白い骨の山を見上げる王子の背には、黒いマントが下がっている。そこには鈍い金糸の輝きに縫い取られたトゥナ王家の紋章が……まるでこの光景に肩を落としているようにうなだれていた。
 リュ・リーンがその重たげなマントを外す。戦いの間、常に彼の背にあったその布は色褪せ、所々にすり切れができていた。
 外したマントを骨たちの上に投げ置くと、手にした骨を重しの代わりにマントの上に置く。白い骨のなかに埋もれるようにして広げられた王家の紋章が秋の空の下で鈍い光を放っていた。
「お前たちのことは決して忘れない。王家は……、トゥナ王国はいつもお前たちと供にある」
 リュ・リーンの絞りだすようなうめき声が震えている。頭を垂れ、黙祷する王子に倣ってウラートや将校たちも静かに目を伏せた。その彼らの頭上を食屍鳥たちが嘲笑うように鳴きながら飛び回っている。
 トゥナ軍本隊がリーニス砦に入城した日、ついに彼らの間から勝ち鬨は上がらなかった。葬送の香木が砦の至る所で焚きしめられ、男たちの低い祈りの声が途絶えることなく続く。
 死の嘆きを払うように篝火が点された砦は、炎の朱に照らされて血の涙を流しているようだった。

〔 12312文字 〕 編集

後日譚

No. 74 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第04章:下天

 花園の花たちの数が随分と減ってきていた。もうすぐ、カリアスネの花の季節も終わる。剥き出しになっている土の色が秋冬の到来が近いことを知らせていた。
 庭に張り出したテラスから見下ろすと、銀色の輝きが残り少ない花の間を行き来している。夕暮れも迫っているというのに、その輝きは辺りの翳りに気づいていないようだった。
「毎日毎日飽きないことだな……」
 ダイロン・ルーンはせっせと花たちの世話をする妹の小さな背中を眺めながら苦笑した。
「カデュ……」
 妹の名を呼ぼうと上げかけた声をダイロン・ルーンは飲み込んだ。
 次いで、苦々しげに顔を歪める。
「なぜ……」
 洩らした声は怒りに震えているようだった。
「彼女は私の妹じゃないか……。それを……」
 傾いてゆく太陽を見つめる彼の視線が鈍く光った。薄い色合いの瞳に映った太陽が歪んでいる。
 思い出したくもない記憶が、瞬く間にダイロン・ルーンの意識を支配した。
「神よ……。なぜ、こんな忌まわしい記憶を植えつける。こんなものを思い出さなければ……。私は……」




 午後の間中ずっと剣の稽古をして汗を流した彼を待っていた者がいた。
「……? イージェン。どうしたんだ?」
 同僚の横顔がゆっくりとこちらへと向き直る様子を見ながら、ダイロン・ルーンは首を傾げた。確か、彼は今日は剣の稽古の日ではないはずだ。
「少々伺いたいことがあるのだがな、カストゥール候」
 同僚の声は硬かった。
「なんだ? どうかしたのか?」
 顎をしゃくって自分を促すイージェンは無表情なままで、それがダイロン・ルーンには奇妙な胸騒ぎを覚えさせた。
「イージェン。いったい何があったんだ? 貴卿らしくもない」
「……らしくもない、か。そうかもしれん」
 人気のない建物の陰に入ったとき、ダイロン・ルーンがたまりかねて前を行く同僚を呼び止めた。
「お前に気取ってみたところで仕方のないことだ。単刀直入に訊こう。……何故、縁談を断った?」
「な、なぜそれを知っている? ……第一、貴卿には関係のないことだろうに」
 予想もしなかった問いかけにダイロン・ルーンは動揺した。自分の縁談のことをどうしてイージェンが知っているのだろうか? いや、それよりも、イージェンにはダイロン・ルーンが誰と連れ添おうと関係がないではないか。
「関係ない? ……お前、まさか縁談の相手も聞かずに断ったのか!?」
 イージェンの顔つきが強ばり、そして、険しくなった。
「……イージェン!?」
「聞かなかったのだな。……信じられん。妹がここまで虚仮(こけ)にされていようとは……」
 唇を噛みしめたイージェンの顔は血の気が引き、怒りを通り越して、絶望を刻んでいるように見えた。
「まさか……貴卿の妹だったのか? ……いや、そんなはずはない。貴卿に妹がいるなどと聞いたことは……」
「……いるさ。血の繋がらない妹だがな」
 イージェンの言い分に何か思い至ることがあったのか、ダイロン・ルーンはハッと息を飲んだ。
「……継母殿の連れ子の?」
「そうだ……。ようやく思い出したようだな」
 歪んだ笑みを浮かべたイージェンの表情には、自嘲が刻まれている。
「私が断った理由など訊いてどうするつもりだ……」
 少々憮然としてダイロン・ルーンは問い掛けた。
 普通、断られた理由など訊きにくるのは非常識なことだ。その一点においても、イージェンの行動は不可解なものだった。
「……そうだな。すまん。どうかしているようだ、今日は。忘れてくれ」
「イージェン?」
 明らかに落ち込んだ様子の同僚の姿に、ダイロン・ルーンは違和感を感じずにはいられなかった。どう考えても、彼の様子はおかしいのだ。
「……父は、なぜ、継母殿を後添いになど選んだのだろう」
 ぼそりと呟いたイージェンの声の暗さにダイロン・ルーンはハッとした。
「義妹殿が……好きなのだな?」
 青ざめた同僚の横顔がダイロン・ルーンの問いを肯定していた。
「トゥナのように、血の繋がりのない者や片親の血筋が違っている者同士ならば、身内であったとて婚姻の妨げにならないというのだったら、どんなにか良かったのに……」
 泣き笑いの表情がイージェンの横顔に浮かぶのを見たダイロン・ルーンは、思わず視線をそらした。イージェンの言葉がなぜが胸に突き刺さる。
「お前に感謝しなければならないのだろうな、カストゥール候。これでもうしばらくは妹と一緒にいられる……。愚かな望みだが……」
「私は……」
 どんな返事をしても、今は滑稽にしか聞こえそうもなかった。ダイロン・ルーンは微かに首を振っただけで、続く言葉を飲み込んだ。
「カストゥール候……。いや、ミアーハ・ルーン卿。貴卿はこれからもずっと独り身を通すつもりか?」
 イージェンの声は囁くように小さかったが、ダイロン・ルーンの耳には氷原を渡る風よりもはっきりとした音となって聞こえていた。
 ずっと独り身を……? なんのために……?
 イージェンの問いかけに答える言葉が見つからず、ダイロン・ルーンは再び彼から視線をそらせた。……何を迷っているというのか。叔父にはあれほどきつく返答をしたというのに。
「貴卿も……添えぬ相手を想っている、か?」
 同情も憐憫もない、淡々としたイージェンの口調にダイロン・ルーンは目眩を覚えた。
 添えない相手……? 誰も、そんな者はいない。
 言下に否定しようと顔を上げたダイロン・ルーンの瞳が同僚の孤独な眼とぶつかった。喉まで出かかっていた言葉が霧散する。
「すまぬ。……やはり今日はどうかしているようだ。詮無いことを訊いてしまった。それこそ他人には関係のないことだった……」
 自分に背を向けて歩き去る男の背を、ダイロン・ルーンは見守った。大地に足を縫い止められたようにピクリとも動けない。
「どうして……」
 誰に問うでもなく、ダイロン・ルーンは呟いた。
 同僚の言葉を否定したかった。自分は誰も好きになれないだけだと。
 だが、その答えを声に出そうとすると、言葉は萎えたように力を失う。こんなバカなことがあっていいはずがない。
「嘘だ……」
 ダイロン・ルーンは唇を噛みしめた。
 無力な自分を呪う。
 何に対して無力なのかも判ってはいないのに、ただひたすらに無力感に(さいな)まれる自分自身を呪った。




 部屋の外の話し声に子供は首を傾げた。
 どうしたのいうのだろうか? なんかだいつもと様子が違う。
 落ち着かない様子で子供部屋から顔を覗かせた子供の眼に、階下のホールで気忙しく話をしている父親の横顔が飛び込んできた。
 険しいその顔にブルッと身震いすると、子供はそっと扉を閉めようとした。
「アリスン・ルーンが……」
 子供の動きが止まった。なぜ、母の名が出るのだろうか?
 まだ四~五歳の子供には、母親の存在は何よりも重いものだ。
 その名前に反応して、再び扉の陰から階下の父の様子を伺う。よく見れば、父親と話をしている相手は、母の弟、子供から見れば叔父に当たる人物だった。
「意識は戻ったのだろう? ならば心配せずとも……」
「意識は戻った……。だが、不安なのだ。産まれてくる子供は……!」
「落ち着いてくれ、義兄上。大丈夫だ。子供はあなたの子に間違いないのだ! そうだろう? ……おかしなことを考えないでくれ」
「判った……。その通りだ。アリスン・ルーンの産み落とす子供がオレ以外の者の子であるはずがない」
 低くくぐもった父と叔父の会話は子供には理解できない言葉ばかりだった。いったい、何の話をしているのだろうか?
 ささやかな好奇心が頭をもたげ、子供はこっそりと部屋を抜け出すと、階段の物陰から二人の様子を覗き込んだ。
 二人が階段の下から離れた。向かった方向からして、父の書斎に行くらしい。子供は足音を忍ばせて階段を下りると、二人の後に続いた。
 書斎の扉に耳を押し当ててみる。
 だが、中からはボソボソと会話する声が聞こえるだけで、話の内容まで聞き取れない。
 少し考え込んだあと、子供は書斎の隣にある書庫へと向かった。
 父の蔵書や大切にしている品物が収められた小さな部屋に忍び込むと、向かって右側の壁に扉が見える。父の書斎と繋がっている扉だった。
 注意深く扉に寄り、扉の隙間に耳を押しつけてみる。
「誰にも知られてはならない……」
「当たり前だ。そんなことをしたら、産まれてくる子は殺されてしまう!」
 物騒な二人の会話が子供の耳に飛び込んできた。思わず扉から耳を離す。
 だが、好奇心に負けて再び耳を扉に押しつけて中の様子を伺う。盗み聞きをしている子供の表情は無邪気で、自分が悪いことをしているとは思ってもいないようだった。
 大人のやること話すことに、逐一興味がでてくる年頃なのだろう。
「なぜアリスン・ルーンはあの花園になど行ったのだろう? ……本人はまったく覚えていないらしいが、オレには解せない。小さな息子を放っておいて、出掛けていくような女じゃないんだ」
「それは……」
「産まれてくる子が、オレの子であってくれと願うばかりだ……。もし……。もしも、魔性の子であったら……」
 父親のただならぬ呻き声に、子供は困惑した。どうして父はこんなに哀しげな声をあげるのだろうか?
「ミアーハ……」
「マシャノ・ルーン……。お前はこの秘密を墓場まで抱えていってくれるのか?」
「……もちろんだ。誰にも洩らさぬ。そう、例え、実の父であろうとな。ミアーハ・ルーン、誓えというのなら、百万回だとて誓ってもいい。頼む……。姉を守ってやってくれ。姉には貴卿しかおらぬ……」
 居心地悪くなり、子供は扉から離れた。いつもの父と叔父ではない。何かがおかしい。きっと聞いてはいけないことを耳にしてしまったのだ。
 こどもはこっそりと書庫から抜け出すと、一目散に子供部屋へと駆け戻った。
 何が起ころうとしているのだろうか? 母に何かが起ころうとしている。いや、母だけではない。この家に何か災いが起ころうとしてるのだ。
 父の言葉のなかにあった、魔性の子というのは何だろう?
 小さな胸を痛めながら、子供は微睡みのなかに沈んでいった。




「あぁっ! いやよ。放して! ……こんな子を産むつもりはなかったわ!」
 子供は狂乱する母親を茫然と見つめた。
 母の手には銀色に輝く凶刃が握りしめられている。それを父が取りあげようともみ合っているのだ。
「放して、ミアーハ! いやよ! この子はわたしの子じゃないっっ」
 青ざめ、泣き喚く母の形相が恐ろしく、子供はベッドの陰に身を隠した。母はどうしてしまったというのだろうか?
 白いベッドの中で蠢く者があった。
 小さな五指が子供の視界に入ってくる。
「赤ちゃん……?」
 子供はベッドに乗りかかってその小さな生き物をマジマジと見つめた。
 何故か、その赤子からは甘い花の香りがした。甘いような、切ないような……。カリアスネの花の匂い。
 すやすやと眠っている赤子の短い髪は白銀に光り、真っ白な肌が雪のようだった。母と同じ髪の色に肌の色だ。
 好奇心に駆られ、子供はそっと柔らかそうな頬に触れてみた。
「ダイロン! ……その子に触るんじゃありませんッ!」
 母の金切り声に子供は飛び上がった。
「いい加減にしろ、アリスン!」
 荒々しい父の声が母の声を追ってきた。子供はどうすればいいのか判らず、ただおろおろとするばかりだった。
「ダイロン・ルーン。……部屋に行っていなさい」
 動揺に震える息の下から父が子供に呼びかけた。父の顔にはまだ理性が残っているようだ。子供にはそれが最後の光明のような気がした。
 転がるようにして部屋の扉に取りついた子供は、勢いよくそれを開け放ち、室外へと走り出た。
「ダイロン・ルーン……!」
 廊下の向こうから聞き馴れた叔父の声が聞こえてきた。
「叔父上様……」
 泣きそうな顔をしてダイロン・ルーンは叔父に腕を差し出した。
 それに答えるように彼を抱き上げた叔父は、努めて穏やかな表情を浮かべて問い掛けた。
「どうした? 父上に叱られたのか?」
 子供はプルプルと首を振り、父と母が争っている部屋を指さして、声を震わす。
「母上が……。母上がおかしいの。赤ちゃんにひどいことを……!」
 パァッとダイロン・ルーンの瞳に涙が浮かんだ。一度堰を切ってあふれ出た涙は止まらず、ダイロン・ルーンはしゃくりあげ始めた。
「よしよし。良い子だから、泣くんじゃない……」
 叔父に背中を撫でさすられ、ダイロン・ルーンはようよう涙を封じ込めた。
「母上……、病気なの? だから、あんな酷いことするの?」
「そうだな……。きっと病気なのだよ、母上は。だから治さないとな。……ダイロン・ルーン。一人で部屋に戻れるかな? 私はすぐに母上の病気を治しに行きたいのだけれど」
 叔父の真剣な表情を見つめてダイロン・ルーンはこくりと頷いた。
 一刻も早く、母の病気を治して欲しかった。元の優しい母に戻って欲しかった。
「一人で大丈夫だから……!」
 涙を拭い、精一杯強がってみせたあと、ダイロン・ルーンは叔父の見守る中、階段を駆け上がって子供部屋へと飛び込んだ。
 子供部屋の扉を閉める寸前、母の叫び声が響いてきた。
「こんな忌まわしい血を引く者が、あなたとわたしの子供だとでも言うの!? ……嘘よ! そんなの絶対に嘘よ!」
 扉を勢いよく閉め、自分のベッドに飛び込むと子供は耳を覆った。
 何も聞こえなくなれば、恐ろしいことなど起こらないとでも思ったのか、両耳を塞ぎ、身体を丸めて。彼は長い長い静寂のなかで、独り震えていた。




 学舎から帰って来てみると、妹は独りぼっちで遊んでいた。
 妹が産まれて以来母は床に伏せりがちで、神殿の仕事で忙しい父も一日中家にいるわけにも行かず、ダイロン・ルーンと妹は静まり返った家のなかで二人で過ごすことが多かった。
 まだまだ赤子だった頃の妹の面倒を見たのは、父とダイロン・ルーン、それに叔父が探してきた育児係の女性だった。母は妹にまったく関心を示さない。
 妹のカデュ・ルーンが三つになるのを境に、慣例によって育児係の女性も家に来なくなった。
 父が仕事に向かい、ダイロン・ルーンが学舎に行ってしまうとカデュ・ルーンはたった一人で家に籠もっていた。
 気丈なのかそれとも感情が乏しいのか、カデュ・ルーンは大人しい。
 カストゥール家が抱えている召使い女が出す食事を食べ、昼寝をしている。いるのかいないのかわからないくらいに。
 およそ子供らしい笑い声をあげることもほとんどない。
 いや一度、ダイロン・ルーンとはしゃいで階段で遊んでいたとき、その声に苛ついた母が金切り声をあげて彼女を罵ったことがあった。
 それ以後は今まで以上に妹の口数は減った。
「カデュ・ルーン! ただいまっ」
 兄の声に振り返ったカデュ・ルーンの顔がほころんだ。笑い声をあげることはなかったが、笑顔を忘れてしまったわけではない。
 そのことは、父とダイロン・ルーンに安堵感を抱かせた。
「兄ちゃま……」
 目の前に転がっている積み木に興味を失ったカデュ・ルーンがパタパタとダイロン・ルーンに駆け寄り、両手を差し出した。
 その小さな妹を抱きしめるとダイロン・ルーンはニッコリと微笑んで見せた。
「良い子にしてた? カデュ・ルーン」
「うん」
 カデュ・ルーンは聡明な瞳を見開いて兄の顔を凝視すると真剣な面持ちで頷く。その表情がおかしくてダイロン・ルーンは再び微笑んだ。
 母にそっくりな若葉色の瞳が自分をまじまじと見つめている。
 それに少々居心地が悪くなったダイロン・ルーンは、妹の手を取ると廊下を指さした。
「父上の書庫へ行こう。……昨日の続きを読んであげるよ」
 目をキラキラと輝かせて、自分の手を握り返す妹の顔を見つめてダイロン・ルーンは胸を痛める。
 なぜ、母上はこんなにもカデュ・ルーンを避けるのだろう? 妹は何も悪いことなどしてはいないのに……。
 それに対する明確な答えは父親からも得られなかった。
 無論母親になど問えたものではない。妹の名を口にしただけで、母親はヒステリックに喚き出すのだから。
 あの日。妹が産まれた日、母の心は壊れてしまったのだ。きっと、病魔が母の心を粉々に砕いてしまったに違いない。
 妹の手を引きながら、ダイロン・ルーンは廊下の奥に視線を走らせた。
 奥にある部屋に籠もっているであろう母の自室の扉は固く閉ざされ、微塵も開く気配を感じさせなかった。




「魔物の子! お前さえいなければ……!」
 肩を怒らせて妹に詰め寄る母の形相にダイロン・ルーンは凍りついたように立ちつくしていた。
 母も自分も、そして妹も簡素な白い衣装を身につけていた。
 ……喪服だった。聖地アジェンを中心とした国家群は、葬儀や喪中の間はこの色の衣装を身にまとう決まりになっている。
 母の白い衣装には、(すす)が染み込んでいた。それが母の狂気の原因のように思えて、ダイロン・ルーンは恐れおののいた。
 父が亡くなったのは、つい三日前だ。
 死因はハッキリとしていない。突然に職場である大神殿で倒れ、侍医の手当の甲斐もなく、呆気ないほど簡単に父は逝った。
 父の死を告げにきた神職者は、まだ幼いダイロン・ルーンとカデュ・ルーンに事の次第を伝えるのを躊躇い、召使い女に女主人を呼びやらせた。
 その間の居たたまれないといった顔つきをして佇む相手をじっと見つめている妹の様子がいつになく興奮しているように見えて、ダイロン・ルーンは落ち着かなかった。
 あの後、父の死を知らされた母は半狂乱だった。
 駆けつけた叔父とそのお抱えの侍医が母を落ち着かせるのに手こずる様子を物陰から見ていたダイロン・ルーンは、泣きそうな気分でいっぱいだったのだ。
 父が死んだというのに、母は元の母には戻ってくれない。父の死を知ったとき、もしかしたら母が正気づくのでは、と淡い期待を懐いたのだが、結局それは裏切られてしまった。
 父の棺に火がかけられ、その遺体が真っ黒に焦げついてもなお、母は現実を受け入れようとはしてくれない。
 それどころかまるで関係のない妹に詰め寄り、あらん限りの悪口雑言を吐き続けている。
 カデュ・ルーンの顔は真っ青だった。たとえ、可愛がられていなかったにしろ、生みの母にこのように憎まれていようとは思いもしなかっただろう。
 本来、自分を守ってくれるはずの者が、自分に悪意の塊を投げつける。それは、ようやく物心がつき始めた彼女にとって、自分の世界が崩壊するほどの衝撃だ。
「母上! やめてっ!」
 ついにダイロン・ルーンは泣きながら母にすがりついた。母の服に貼りついている(すす)が彼の頬や服の袖口を汚した。
「お放し! ダイロン! あぁっ! この忌まわしい霊繰り(ディー)の小娘さえいなければ! ミアーハを返して! わたしの夫を返しなさい、この悪魔!」
 次々に飛び出してくる言葉にカデュ・ルーンは顔を強ばらせ、泣くことも忘れてブルブルと震えている。このまま母の悪態を聞き続けていたら、彼女は粉々に砕け散ってしまいそうだった。
「お願い! やめて、母上! カデュ・ルーンは悪くない! やめて!」
 首を激しく振りながら、ダイロン・ルーンは母親にしがみついた。目の前を黒い煤が舞う。
 ……父の遺体の一部だ。ふとダイロン・ルーンはその黒い煤の正体を思い出し、涙を流した。
 父の棺が燃え尽きた後、母は焼け残った遺骨をかき集め、抱きしめたまま放そうとはしなかった。
 まわりの人間が無理矢理に引き離して屋敷に連れ帰らなければ、母はずっと焼けた父の遺骨を抱いて動かなかっただろう。
 召使い女が主人の手足についた煤を拭い取ってくれたが、母は服を着替えようとはしなかった。眠ることさえ忘れてしまったようだ。
 ダイロン・ルーンとカデュ・ルーンがおどおどと母を遠巻きに眺めても、その気配にすら気づかない。
 時折ぶつぶつと何事かを呟くだけで、眼の焦点はまったく合っていなかった。
「お放し! 殺してやるっ! こんな悪魔の子なんて……!」
 魔物が乗り移ったような形相をしているのは、母の方だった。
 ダイロン・ルーンを身体ごと引きずって、狂女は小さくなって震える娘に近寄った。ぎらつく瞳が娘の肌を焼く。やせ細った腕が緩慢に上がり、幼い妹の首へとかけられた。
「やだっ! やめて、母上!」
 その細腕にかじりついた彼を押し退ける母の力は凄まじく、ダイロン・ルーンは床に転がり、痛みに呻いた。優しかった母はどこへいってしまったのだろうか?
「死んでしまえばいいのよ、お前なんて!」
 金切り声をあげてカデュ・ルーンの首を締め上げる母の横顔には、かつての穏やかな表情はない。
 ダイロン・ルーンは引き裂かれる思いで、母の腕に取りすがった。
「やめてーっ!」
「ダイ……っ!」
 ようやく九つになろうかという子供に大人を止める力などあるというのだろうか? だがダイロン・ルーンはあらん限りの力で母親に体当たりすると、無我夢中でその腕に噛みついた。
「何をするの、ダイロン・ルーンッ!」
 母の腕から逃れたカデュ・ルーンが床でうずくまって咳き込んでいる。
 不規則に響くその咳が、彼女がまだ生きていることを証明しており、ダイロン・ルーンは安堵の息を、母親は怒りの呻き声を洩らした。
「カデュ・ルーン……」
 這うようにして妹に近づいたダイロン・ルーンは、苦しげに咳き込むカデュ・ルーンの背中をさすり、震える自分の躰を落ち着かせようと、深い吐息を吐いた。
「呪われた子……! 邪な者の器! お前は私の大切な家族をたぶらかしたのね! ……あぁ! ミアーハ!」
 調子外れの絶叫をあげると、母親は転げるようにして部屋の傍らにある飾り棚へと走り寄った。血走った目をした横顔が、ダイロン・ルーンには恐ろしい悪魔の横顔に見えた。
「何もかも、消えておしまいっ! ……すべて。塵芥(ちりあくた)となればいいのよ!」
 ダイロン・ルーンには手の届かないその棚から母が引っ張り出したのは、水晶の小瓶だった。薄紫色の液体が半分ほど入った小さな小瓶は、ダイロン・ルーンの手にもすっぽりと収まりそうなほどの大きさしかないのに、異様な存在感となって彼の視界に貼りついた。
 もどかしげにその瓶の口を引っ張る母の形相は尋常ではなく、恐怖に震えるダイロン・ルーンとカデュ・ルーンのことなど眼中にない。
「ミアーハ……! 連れていって! ……わたしをあなたのいる場所へ連れていって!」
 茫然とその母親の様子を見つめる目の前で、女は小瓶の栓を抜き取ると、中の液体を一気にあおった。喉を鳴らしてその不気味な液体を飲み干した母の顔には、久しぶりの安堵が浮かんでいた。
「は……母上?」
 震える声で呼びかける息子の声が聞こえたのか、女はゆっくりと振り返った。青ざめた顔色に、ほんのわずか、赤みが差したように見える。
「ダイロン・ルーン……」
 何年ぶりかに聞いた母の穏やかな声。正気に返ったのだ。母の心は元に戻ったのだ。ダイロン・ルーンは泣きながら母の差し出す腕へ飛び込んだ。
 だが、母は息子を抱き締めはしなかった。訝しんでその顔を見上げたダイロン・ルーンの表情が凍りつく。
「は……はは……うえ……?」
 グラリと母の身体が前のめりに倒れ込んできた。子供に支えられるはずがない。避ける間もなく、ダイロン・ルーンは母親の身体の下敷きになった。
 重たいその身体を避けようともがくが、ピクリとも動かない母の身体は、ダイロン・ルーンを(いまし)める枷のようにのしかかってくる。
「兄ちゃま……?」
 唖然として床に座り込んでいたカデュ・ルーンが怯えた声をあげた。次々と起こる事態に彼女は対処しきれず、震えたまま動けないのだ。
「カ……カデュ……」
 胸を圧迫されているダイロン・ルーンは、まともに息もできない。苦しそうな兄の声にカデュ・ルーンはしゃくり上げ始めた。何がなんだかわからないのだ。
「泣か……ないで……。カデュ……」
 妹の様子を見ようと首をねじ曲げたダイロン・ルーンの視界に母親の歪んだ顔が映った。目をカッと見開き、口を歪めたそのどす黒い表情は、自分を呪い殺そうとでもするかのように、陰惨な影を浮かべていた。
「ひぃっ……!」
 苦しい息の下から甲高い悲鳴をあげると、ダイロン・ルーンはガタガタと震えた。
 母は……死んでいた。
 母の飲み干したものは毒薬だったに違いない。なぜ、そんなものがこの屋敷にあるのかは知らない。なぜ、母が毒をあおらなければならないのかも、判らない。
 母に取り憑いていた魔物が自分にもその凶暴な牙を剥いてくるような錯覚に、ダイロン・ルーンは怯えて不自由な手足をバタつかせた。逃げなければ。早く、この物言わぬ(むくろ)から離れなければ……!
 訳の判らないわめき声をあげながら、母親から離れようとするダイロン・ルーンの身体がふと軽くなった。ハッと我に返れば、母親の身体が宙に浮いているではないか。
 ダイロン・ルーンは声にならない悲鳴を喉の奥で絞り出した。
 恐怖に目を見開く彼の目の前で、女の屍がゴロリと横に転がった。手も触れていないのに、動き回るその死体にダイロン・ルーンは恐れおののいて後ずさりした。
「兄ちゃま……!」
 飛びつくように自分に抱きついてくる妹を抱えてダイロン・ルーンはガタガタと身体を震わせ続けた。何が起こったというのだろうか? 勝手に動く死骸など、この世にあるはずがない。
 これは……夢だ。きっと夢なのだ……。次に目を開けたとき、自分はベッドの上で天井を見上げるはずだ。そして、優しい母はきっと側にいてくれる……。
 ダイロン・ルーンは母の遺骸から視線をずらし、ふと自分の袖口にこびりついた煤を見つめる。突然に胸に熱い塊が沸き上がった。
「父上……! 助けて……」
 溢れ出してくる涙を拭う気力もないまま、ダイロン・ルーンは妹の震える肩をしっかりと抱きしめた。
 叔父が駆けつけてきたのは、その後間もなくだった。たぶん、召使い女が部屋から聞こえてくる会話を耳にして、知らせに走ったのだろう。
 部屋の惨状を一目見て、叔父は茫然と立ち尽くした。
 それをどこか遠い場所から眺めているように感じながら、ダイロン・ルーンは疲れ果ててぼんやりと叔父と母とを交互に見つめた。
 心は何も感じない。凍ったままだった。
 叔父が自分を呼ぶ声もどこか遠いところから聞こえてくる。涙の乾ききらない瞳で相手を見上げながら、ダイロン・ルーンは自分の心が凍え死のうとしている様子を感じ取っていた。
「叔父上様……。僕を、死なせて……」
 妹と自分を抱きかかえる叔父に囁きながら、ダイロン・ルーンは真っ暗な淵へと落ちていった。




 尖塔の上には誰もいなかった。太陽の残光は無くなり、宵闇の重たい空気が辺りを覆っていた。
 イージェンと別れ、妹が中庭で庭園造りに(いそ)しむ後ろ姿を見守った後、ダイロン・ルーンは何かに引き寄せられるようにこの場所にやってきていた。
 あぁ……。私はいったい誰を愛しているというのだ?
 まさか、実の妹を……? そんなバカな。そんなはずはない。だが、彼女の薄緑色の瞳を見ていると……。
 ……違う。彼女は妹なのだ! 紛れもなく、私の妹ではないか!?
 それとも、違うのか? ……違うのですか、母上!?
 あの日、魔の森で何があったのです。あなたがこの下天に産み落とした者はいったい何者なのですか!
 教えてください、母上。どうか……。教えてください!
 いいや……。もうそれを教えてくれる者は誰もいない……。どこを探しても、いないのだ。叔父である聖衆王だとて、ことの真偽は知りようもない。
 ならば、今まで通りに妹と接するしかないのか……?
 いっそ、あの忌まわしい力を受け継いでいる者が自分であったら良かったのだ。それならば、自分のことだけを考えていられたものを!
「なぜ、私ではないのだろう……? なぜ、カデュ・ルーンでなければならぬ?」
 ダイロン・ルーンは苦々しげに呟き、尖塔の窓から眼下に広がる森を見つめた。
 暗い緑を滴らせた樹木は、何も語ることなく鬱蒼と茂っている。その暗い色彩が彼の胸をチクチクと刺す。
「あの日、母は一人で森の花園へ出掛けた。……母自身の記憶にさえない出来事だ」
 何かを確認するように呟き続ける彼を見咎める者は誰もいない。……ただ、冷たくなってきた風だけが、彼の声に耳を傾ける。
「母は呼ばれたのか……? 神か、あるいは魔神に……。カデュ・ルーンが産まれてきたことは必然だったとでも……?」
 唇を噛みしめるダイロン・ルーンの横顔は青ざめていた。
「なぜ、神は妹をこの下天に遣わしたのだ? ……忌まれた霊繰りの血筋を復活させてまで! 死を……! 彼女の死を見届ける者のことを考えたことがあるのか、神よ!」
 握りしめられた拳が微かに震え、眉間によったシワがさらに深くなった。眼下に広がる森の翠に怒りの視線を向け、歯ぎしりする。
「リュ・リーン……! お前にカデュ・ルーンを渡すわけには、いかない……」
 凄惨な光を湛えたダイロン・ルーンの氷の瞳が、いっそう激しく森の緑を睨みつける。その見覚えのある色が、彼の胸中を掻きむしっていく。
「渡さない……。渡しはしない……!」
 風が()きながら空を渡っていく。
 尖塔に立つ人物の白銀の髪を吹き散らし、弄ぶように。
 苦悶の表情を浮かべたその人物に声をかけるのは、冬の訪れを告げる風のみだった。
 彼の苦悶は嫉妬だったのだろうか? それとも、去っていく者への執着だったのだろうか? 彼の独白を聞く風は、何も答えてはくれない。
 空にぽっかりと浮かんだ白い月の光が、冷酷に彼の肩を洗っていった。

〔 12266文字 〕 編集

後日譚

No. 73 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第03章:慕情

 暗闇のなかで近づいたベッドには小さな子供が丸まって眠っていた。
 そっと息を殺してその寝顔を見つめていたウラートは、意を決したようにその自分よりは年下の子供の頭を抱き上げた。
 幼子は眠りを邪魔されてむずがり始めた。
「ご免ね。泣かないで……」
 幼子に詫びながら、ウラートはぐずる子供を抱きかかえた。だが、いくらウラートのほうが年上とはいえ、子供が子供を抱きかかえるのには無理がある。
 顔から汗が流れる。力を入れて子供を持ち上げるが、足が前には進まない。一歩でも足を出せば、そのまま床に転がってしまいそうだ。
母様(マァムゥ)……。ふぇぇ……」
 ぐずぐずと床に座り込んでしまう子供をどうしたものかとウラートは途方に暮れた。
 相手は精々二歳ほどの子供だ。熟睡しているところを起こされれば、ぐずるのも仕方がない。
 ウラートは困ったように眉を寄せると、子供の目の前に座り込んだ。
「ご免ね、邪魔して。お母さんが呼んでるんだ。一緒に行こうよ」
 まだ寝惚けたままの顔つきで幼子がウラートを見上げた。
 ウラートは身体を硬直させた。
 緑の目だ。
 薄暗い部屋のなかで、猫の目のように光る。暗い、重たい色合いの翡翠のように沈んだ翠。
 母親と一緒に暮らしていた娼館や奴隷商の所に出入りしていた人間でこんな色合いをしている目の持ち主には会ったことがなかった。
 薄暗いなかでその瞳を見ていると、心のなかを読まれているようで恐ろしい。
 ごくりと生唾を飲み込む音が大きく聞こえた。
「お母さんが待ってるよ。一緒に行こう……」
 震える声でもう一度子供に声をかけた。眠い眼をこすりながら、子供が小さな手を差し出した。
 温かいその手を握りしめてウラートは立ち上がった。
 自分の手のなかにあるその小さな手と、幼子の顔が異様に白く見える。薄闇のなかでより黒くみえる黒絹の髪がその白さを際だたせているのかもしれない。
 外で待つ男女にあまり似ているようには見えない子供の手を引いてウラートは囁いた。
「行こう……」
 ウラートの促す声にもぼんやりとした反応しか返さない子供の足取りは遅かった。
 ともすれば床に座り込んで眠ってしまいそうになる幼子を支えるようにしてウラートは扉を目指した。




「リュ・リーン……」
 ウラートと名乗った子供が扉から顔を出すと、ミリア・リーンは思わず息子の名を呼んだ。
 子供に手を引かれて歩いてくる息子は眠そうに目をこする。
 寝惚けたままの瞳で母親の姿を確認すると、幼子はよろよろとした足取りで側にすり寄ってくる。
母様(マァムゥ)……」
 まだ小さな息子を抱き上げながら、ミリア・リーンは首を傾げて自分を見る奴隷の子供をまじまじと見つめた。
 信じられない。
 リュ・リーンは人見知りが激しいのだ。
 寝起きも悪く、無理に起こすと母親の自分でも耳を覆いたくなるほどの大声で泣き喚く。むずがる声は聞こえたが、泣き叫ぶ声はまったく聞こえなかった。
「合格、だな」
 隣で呟く夫の声が酷く緩慢な音となって彼女の耳朶に届いた。
「どうして……?」
 呆気にとられて囁くミリア・リーンの声を無視してシャッド・リーンが寝椅子から立ち上がった。所在なげに佇む子供を手招きして呼ぶ。
「ありがとう、ウラート。……どうだ? ここは気に入りそうか?」
 パタパタと走り寄ってきた子供を膝に抱き上げるとシャッド・リーンは小さな藍色の瞳を覗き込んだ。夜が明ける寸前の空の色を連想させる、静謐で清々しい瞳だ。
 寝椅子に腰を下ろした男の膝で、小さな者は大袈裟なくらい目をパチパチと瞬かせチラリと隣の女を見上げた。
 だがすぐに視線をずらすと、困ったような顔をして男に首を傾げて見せた。
 自分に選択権があるとは思っていない。自分の存在の是非を問う者は他にいるような気がしていた。
「ア~フゥ~」
 ウラートの返答の代わりのようにミリア・リーンの膝に抱かれた子供が欠伸をした。
 全身を反らせて辺りの空気を吸い尽くそうかというほどの大欠伸。母親の腕のなかで安心しきっている。
 眠気がまだ残っている暗緑の瞳がすぐ隣にいる者の夜明け色の瞳を覗き込んだ。闇に光る瞳は今は陰を潜め、暗い双眸が僅かな好奇心を含んで開いていた。
「息子はお前を気に入ったようだ。どうだ、ずっとここにいるか?」
 男の声がウラートの頭上から降ってきた。
 見上げた藍色の瞳が、海の瞳とぶつかる。
 おずおずと頷く子供に満足げな笑みを浮かべ、シャッド・リーンは隣の妻を振り返った。
「ミリア・リーン?」
 ふてくされたような女の顔にシャッド・リーンは苦笑した。
「そうやって、私を無視して話を進めていくのね」
 腹立たしそうに夫を睨みながら、それでもミリア・リーンは納得せざるを得なかった。貴族出の守り役をつけて、息子を貴族たちの権力闘争に巻き込まれるのは厭だったし、母親以外の者に気を許した息子を初めて見た。
 過敏に、自分を忌む者とそうではない者とを見分ける息子が出した判断が、彼女に決断させた。
「リュ・リーンの世話はその子に任せるわ。……でも息子を世話する者の教育は、私がしますからね!」
 これだは譲れない、とミリア・リーンは夫を睨んだ。
「了解だ、ミリア・リーン。好きにするといい」
 鷹揚に頷いてみせるシャッド・リーンの膝の上でウラートは顔を輝かせた。
 母親が死に、奴隷商に仲介されて男娼館に売り払われるところだったのだ。男たちに見下されながらの生活がこれで終わる。清潔で、煌びやかな生活が待っている。子供は単純に自分に与えられた幸運を喜んだ。




 侍女たちに着せ替え人形のように扱われて、ウラートは辟易していた。
 着替えくらい自分でできるのに、彼女たちは面白がって自分を人形のように扱う。くすぐったいし、鬱陶しいので止めて欲しいのだが。
「さぁ、出来たわよ。行ってらっしゃい、おチビさん」
 忌々しい苦行から解放されてホッと安堵の吐息をもらすと、ウラートは主人の待つ部屋へと駆けだした。主が機嫌を損ねないうちに参上しなければならない。
「やっと来た……の」
 息を切らせて部屋に飛び込んできたウラートの姿を認めると女主人が苦笑した。
 またしてもこの子は侍女たちに遊ばれていたようだ。華やかな衣装を着せられ、目も眩むような豪奢な髪留めや帯留めをあちらこちらに下げている。
 侍女たちの退屈しのぎにつき合わされる子供を気の毒に思いながらも、ミリア・リーンは従者たちのお遊びを取りあげようとはしなかった。
「また随分とめかしこんできたわね、ウラート。……どう? やっぱり今日も着替えるの?」
 少年と言うよりは少女と見間違いそうな顔立ちの子供だ。侍女たちが飾り立てて遊んでみたい気も判るが、この格好では笑いがこみ上げてきて話にならない。
 奇妙に引きつっている主人の顔を確認するとウラートは大きく頷いた。
 動きにくい衣装を着せられて、毎朝主人の機嫌を伺いに来る度に笑われるのは、子供でもそれなりに傷つく。
 眉間に不機嫌そうなしわを寄せると、ウラートは髪を留めていた髪飾りを乱暴にむしり取った。
「やめなさい、髪が痛むわ。ここへおいで、取ってあげるから」
 優しく手招きする主人の寝椅子によじ登るとウラートは神妙な面持ちで坐った。ふかふかの椅子に座っているとまるで雲の上の世界にでもいるようだった。
 主人の手が優しくウラートの髪から重たい飾りを取り外しいった。
 死んだ母親に頭をなでてもらっているときのような心地よさだ。ウラートはうっとりと目を閉じて、そのときの感覚を思い出していた。
「さぁ、髪飾りはこれで全部よ。まぁ、なんて数をつけられていたのかしらね。……ウラート? どうしたの?」
 ぼんやりと自分を見上げる子供に気づいてミリア・リーンは戸惑った。
 そのとき、奥の子供部屋から泣き声が聞こえてきた。寝起きの悪い息子がやっと起きたようだ。
 ミリア・リーンが立ち上がるよりも早くウラートが寝椅子から飛び降りると、重たい衣装を引きずって子供部屋へと走り込んでいった。今までのぼんやりした様子が嘘のようだ。
 ウラートの後を追うことをやめて、ミリア・リーンは部屋の隅の小さな衣装箱に歩み寄った。
 中から小さな衣装を一着取り出す。そして、箱の隅に収まっていた、今取り出したものより少し大きめの衣装も一緒に取り出した。
「ご主人様……」
 背後からの苦しげな声にミリア・リーンは振り返り、思わず噴き出しそうになった。
 小さな守り役はまだ寝惚け眼の息子を背負って真っ赤な顔をして立っていた。
 寝起きの悪い幼子をベッドから連れ出すために、必死なってここまで負ぶってきたのだろう。
 その滑稽な、でも懸命な姿の少年に走り寄ると、ミリア・リーンは子供の背中に貼りついている息子を抱き上げた。少年が大きな吐息を吐く。
「ウラート。衣装箱の上にお前とこの子の衣装があるわ。持ってきて」
 少年に休憩する暇も与えずに、女主人は命じた。
 弾かれたように少年が衣装箱へと駆けていく。箱の上に置かれた衣装を掴むと脱兎の勢いで主人の元へと駆け戻り、恭しく差し出した。
「ご苦労様。自分の衣装を着てしまいなさい」
 息子の衣装だけを取りあげるとミリア・リーンはまだ寝惚けている息子を手早く着替えさせ、重たい衣装を苦労して脱いでいるウラートの様子を面白そうに眺めた。
 王宮には侍女や侍従たちが山ほどいる。後宮にいる者だけでもそれなりの人数が揃えられている。
 だが大抵は貴族や地方領主の身内で、見えない派閥争いを繰り返している。幼い頃から王宮で育ったミリア・リーンにはうんざりする、だが馴染みの光景だった。
 奴隷上がりの者が王宮にいないわけではない。しかしそのほとんどは下働きの仕事をしている者たちで、今までミリア・リーンは間近に見ることはなかった。
 初めて間近で目にした奴隷の子は、娼婦の母を持つだけあって端正で、優しげな顔立ちの子供だった。
「ねぇ、ウラート」
 主人の呼びかけにウラートは着替えの手を休めて、その顔を上げた。
「はい、ご主人様」
「……お前の母親はどこの国から来たの?」
 単純な好奇心からミリア・リーンは聞いた。寝椅子の上では、起きたばかりの息子が母親の気を引こうと彼女の長い栗毛を引っ張っていた。
「……」
 子供は答える言葉を思いつかず首を振った。
 母親がどこから来たのかなど、知らなかった。自分の一番最初の記憶は、男に抱かれている母親のあられもない嬌声なのだ。
 暗い顔をして下を向いてしまった子供の様子にミリア・リーンはたじろいだ。
 自分では悪いことを聞いたとは思っていないが、子供の厭な想い出を掘り起こしてしまったことは理解できた。
「教えられていないのね……」
 五歳の子供では仕方のないことだ。
 彼女の言葉の何に反応したのは知らない。だがウラートはビクリと肩を震わせていっそう下を向いた。
「ウラート?」
 怪訝そうな顔で問いかけるミリア・リーンの視界の隅を黒い影が横切った。
「ウアートォ」
 舌っ足らずな、まだ言葉を正確に発音できない息子が、フラフラと子供に歩み寄っていく。
 ぶつかるようにして奴隷の子に抱きついたリュ・リーンは、無邪気にじゃれついて子供を押し倒した。
 その尻餅をついた少年の頬に涙の後を見つけてミリア・リーンは呆気にとられた。
「ウラー……ト!?」
 自分は彼を泣かせるような非道いことを言っただろうか?
 自分にじゃれつく幼子を抱きかかえたまま、少年は小さな涙の粒をポロポロとこぼした。震える唇が何かを呟いている。
 ミリア・リーンはそれが妙に気になって、二人の子供を抱きしめた。
「お母さん……。お母さん……」
 子供の小さな声がミリア・リーンの耳にも届いた。
 母を呼ばわる子供の声が彼女の胸を突き刺した。死んだ母を思って涙を流す子供は、いつもの賢しげな様子とは裏腹に頼りなく、力無いものに見えた。
 見慣れない涙の粒を流す子供を不思議そうに見上げる息子を抱き上げ、ミリア・リーンはウラートの背中をそっと抱きしめた。弱々しく震える肌が熱っぽい。
「ずっと我慢していたのね……」
 自分を守ってくれていた唯一の者が死んでしまったのだ。
 ずっと心細さに震えていたであろう少年の背中をさすってやりながら、ミリア・リーンはやるせない思いにため息をついた。
 自分にも身に覚えのある感覚だった。たぶん、夫である、シャッド・リーンにも覚えがあるだろう。
 王の子供という肩書きがついているだけで、勝手な権力闘争の中心に据えられ、見たこともない相手といがみ合った。
 守られていると言われながら結局はまわりの者の保身に利用され、一人寂しさに泣いた日々はどれほどの齢を重ねようと忘れはしない。
「泣きたいだけ、泣きなさい……。ここには、あなたを責める者などいないから」
 だが、彼女の言葉に反して、ウラートは涙を拭いて立ち上がった。
 涙を耐えるように引き結ばれた唇はまだ震えていたが、もう決して涙を見せようとはしなかった。
「強い子ね……。羨ましいこと……。昔の私にそれほどの強さが欲しかったわ」
 羨望を禁じ得ず、ミリア・リーンは子供の瞳を覗き込んだ。
 後ろを振り返らない強さが瞳の奥に炎となって燃えていた。何者をも侵すことを許さない、頑迷なほどの強い意志。これからの人生を一人の力で切り開いていく決意を秘めた双眸。
「でも、ウラート。あなたはまだ子供なの。……泣きたいときには、泣きなさい。頼る者がいないのなら、私の所へ来ればいい。……判るわね? 私の言っていること」
 曖昧に頷いてみせる子供が、決して自分に頼ったりはしないことは予想できた。だが、ミリア・リーンは敢えてそれを口にはせず、相手には柔らかな微笑みを向けただけだった。
「ウラート。今から私のことをご主人様と呼ぶのはやめなさい。いいわね? ……今後は、人前では“陛下”と呼びなさい」
 戸惑いながらも頷く子供の頭をなでてやりながら、ミリア・リーンはさらに続けた。
「リュ・リーンやシャッド・リーンしか側にいないときは、”母上”と呼びなさい。判ったわね?」
 目をパチクリさせて自分を見上げる少年に悪戯っぽく笑いかけると、ミリア・リーンは抱いていた息子を少年の前に座らせた。小さな子供は目の前にいる年かさの少年に無邪気な笑顔を向けてじゃれついた。
「あの……陛下、あの……」
 動揺しているウラートをよそに、ミリア・リーンは着替えかけていた少年の衣装を着直させ、自分の首から下げていた飾り護符を外して、愛おしそうにそれを指でなでた。
 子供の頃、中庭で見つけた石を加工させて作った物だ。孤独に泣いた日々はこの石に封じてきた。
「ウラート。おまじないの石よ。あなたにあげるわ」
 石に手を伸ばして引っ張ろうとする息子を避けて、ミリア・リーンは少年の首に護符を巻いた。まだ華奢な体つきの子供には大袈裟な印象を与えるデザインだったが、彼女はいっこうに気にしなかった。
「ずっと持っていなさい。今日からあなたの物よ」
 もう自分にはいらない物だ。今度はこの少年の心を癒すために、その胸で輝いているといい。
「陛下……」
「“母上”でしょう、ウラート」
 さり気なく少年の言葉を訂正して、ミリア・リーンは涙に汚れたその顔を拭いてやった。
「“母上”。……ずっと、ずっとお側でお仕えします。あなたの、お側に……」
 黙って少年の言葉を聞いていたミリア・リーンがうっすらと笑みを浮かべた。
「あなたが仕えるのは私じゃないわ。……リュ・リーンに。私の息子に仕えなさい。あなたがこれから命を懸けて護るのは、私じゃなくて、この子……。石はその代償……。判った?」
 決して心から自分のことを母とは呼ばない子供の心情を汲んで、ミリア・リーンは少年に言い聞かせた。
「はい……。お言いつけ通りに」
 恭しく、王命を拝するように自分の命令を受ける小さな騎士から息子を引き離すと、トゥナ王妃は息子に囁いた。
「お前の最初の臣下ですよ、リュ・リーン。挨拶なさい」
 きょとんとして母親の顔を見つめた子供が、目の前に跪く少年の瞳を覗き込んだ。探るような視線がじっと注がれる。
「ウアートォ」
 舌っ足らずな声。だが、敏感にその場の雰囲気を感じ取った、緊張を孕んだ幼い声がウラートの鼓膜を震わせた。
 少年が幼子を見つめ返した。
 子供が小さな騎士に手を伸ばした。
 差し出された小さな手を握り、ウラートは自分の仮の母親を見上げた。この方に一生仕えるのだ。今……たった今、自分自身と約束した。
 彼女の息子に仕えるという約束とは別に、彼女の生がある限り、自分はこの方に仕え続けるのだ。
 そのためだったらなんでもやる。どんなことでも……。首に下げられた護符は、その約束のために存在する。
 真実、自分の居場所を見つけた少年は、強い眼差しを王妃に注いだ。




「怪我を……?」
 険しい顔のままダイロン・ルーンは叔父を見た。
「それで、怪我の程度は?」
「気になるのか、ミアーハ・ルーン?」
 苦笑して自分を見る叔父を軽く睨むと、ダイロン・ルーンは吐き捨てるように言った。
「いけませんか!?」
「悪いとは言ってない。……命に別状はないそうだ。相変わらず、無茶をしているらしな、トゥナの息子は」
 長の低い笑い声にダイロン・ルーンは不愉快そうに口を尖らせた。いつもそうやって、自分や妹、果ては大事な友人まで思い通りに操っている叔父に歯がみしたいほどの悔しさを感じる。
 いや、叔父に感じるのではない。いつまで経っても半人前な自分に腹が立つのだ。
「カデュ・ルーンはどうしている? 相変わらず手紙ばかり書いているのか?」
「えぇ。それが彼女の楽しみですから。送る、送らないは別にして、毎日机に向かっていますよ。……あの勤勉さには呆れてしまいますけどね」
 肩をすくめてみせながら、ダイロン・ルーンはせっせと手紙を書く妹の真剣な横顔を思い出した。
 自分が部屋に入っていっても気づかないほどに、妹はいつも熱中して書いている。それは彼にその手紙を受け取る友人への嫉妬を抱かせた。愚かしい感情だと自分に言い聞かせるが、妹の口から友人の名が出る度に、無性に腹が立ってくるのだ。
「まぁ、悪いことをしているわけでもないからな。……ところで、ミアーハ・ルーン。お前に縁談がきているのだがな。相手の名を知りたくないか?」
 椅子にゆったりと腰掛けていた叔父が居心地悪そうに足を組み替えた。
 ダイロン・ルーンはいっそう不機嫌そうな顔を作ると、叔父を冷ややかに見据える。
「……いつも通りにお断りください。私は誰とも連れ添いません!」
 苛立ちがいっそう募る。
「そうは言ってもなぁ。……カストゥールの血筋を絶やしてしまうつもりか? ま、大貴族の名を継ぎたいという輩はゴロゴロいるだろうが。
 お前ももう十九、いやもうすぐ二十歳だ。浮き名の一つも出てきていいと思うがな。同年代の者のなかにはすでに子供までもうけている者もいよう?」
「大きなお世話です。……カストゥールの跡継ぎは養子でも迎えればいいでしょう? 叔父上だって結婚していらっしゃらないではないですか。
 私のことよりもご自分のことをお考えになったら如何です。それこそ名門レーネドゥアの家名を絶やされるのですか?」
 ずけずけと言葉を投げつけながら、ダイロン・ルーンは複雑な気分でいた。
 ずっと以前に、叔父が結婚しないのは、昔好きな女性がいたからだと誰かから聞いたことがあった。自分はそうではなかった。ただ、異性に気を使いながら生活していく億劫さが疎ましいのだ。前はカデュ・ルーンのことを言い訳にでもしていれば良かったが、妹の結婚が決まった今となると、彼の行動は他人には理解しがたいものだろう。
 愛想良く笑う自分のなかで、冷めた目で相手を見ているもう一人の自分がいることをダイロン・ルーンは自覚していた。
「耳に痛いことを平気で言う奴だな、お前は。……まぁ、いい。お前が厭なものを無理に勧めるつもりもない。だが、ミアーハ・ルーン。その主義を貫くのも、辛いものだぞ? 判っているか?」
「ご忠告は胸に入れておきますよ……。では、今日は失礼します」
 苦笑しながら自分を送り出す叔父の視線を背中に痛いほど感じながら、ダイロン・ルーンは聖地の長の居室から離れた。
 胸には忸怩(じくじ)たる想いがわだかまっている。
 自分の感情を持てあます。
 妹の婚約のとき以上に自分の結婚のことなど、どうやっても考え及ばない。第一妹の婚約のことでさえ、本心から納得しているとは言い難いのだ。
 妹の相手にと選ばれたリュ・リーンは確かに得難い相手だと言えよう。ほかの男では、妹の相手など務まるはずもない。
 それを悟っていながらも、真実納得しようとしない自分の感情に手を焼いてダイロン・ルーンはもどかしげに顔をしかめた。




 うずたかく積み上げられた本を押し退けると、ダイロン・ルーンは寝椅子に身体を横たえた。
 苛立ちが募っていく。
 カストゥール家の当主としての仕事や神殿での仕事があったが、どうしてもそれらをする気にはならなかった。
「こんな所に籠もっていても、何にもならんのだがな……」
 一人ごちてみても、気力が湧いてこない。
「あぁ! 私らしくもない!」
 イライラと指で自分の額を叩いてみるが、ささくれだった心は容易には収まりそうもなかった。何かが、今にも爆発しそうだった。
「やっぱり駄目だ! ……こういうとき、リュ・リーンならどうしていたかな?」
 荒々しい溜息をつきながら、ダイロン・ルーンは頭を振った。
「……。何を考えているんだ、私は」
 どうしてそこで友人の名が出てくるのだろうか? 何の脈絡もないではないか。どうかしている。
 ふとダイロン・ルーンは山のように積まれた本たちを見まわした。
 叔父が読み漁った本たちだと聞いたことがある。自分も仕事の合間を縫って読んではいるが、すべてを読破するにはあまりにも量が多すぎた。
 叔父はどうやってこんなに読んだのだろうか。膨大な量の書物たちが自分を取り囲んでいる様に威圧され、ダイロン・ルーンは居たたまれなくなってきた。
「私の居場所はどこにもないのか?」
 かつて、自分には取り囲まれるほどの友人たちがいた。養護院、学舎、ありとあらゆる場所にいたのだ。
 今だって彼らは自分のことを友人だと言ってくれるだろう。だが、かつてのような分け隔てのない感情で接してくれる者は少なくなった。
 それぞれの家を継ぎ、あるいは思い定めた役職についていては、個人の感情よりはそれら公の思惑のほうが優先される。
 友人たちは狡猾に世情を読み、渡っていっている。自分でもやってきているのだ。それはここ聖地では当たり前のことであった。
 だが独りになると突然襲ってくるこの孤独感を癒してくれる者など、誰もいないのだ。
 宙ぶらりんのままでいるような心許なさが、その孤独にいっそう拍車をかける。
「私は独りぼっちだ……」
 泣き出したいような気分に心塞がれ、ダイロン・ルーンは書庫から逃げ出すように飛び出した。




 ふらふらと歩いている間にダイロン・ルーンは昔通っていた学舎のそばまで来てしまっていた。どこをどう歩いてきたのかなど、まったく覚えがない。
 前方から数人の女神官たちが巻物を抱えて歩いてくる姿が目に入った。
「あら、カストゥール候。学舎にご用でしたの?」
「ラナイヤ女神官……。君こそ、学舎で何を?」
「子供たちの使っていた資料が傷んできたので、新しい物と取り替えに参りましたの。結構あるから重くって」
 正神殿に仕える、昔馴染みの娘の顔は、少し上気して薄桃色に染まっていた。腕一杯に抱えた巻物の重さは、見た以上の重量があるのだろう。
「私も手伝うよ。学舎に用事があったわけじゃないから……」
 手を伸ばしてラナイヤの腕から巻物を取りあげると、ダイロン・ルーンは巻物を落とさないように慎重に抱え直した。
 かなりの重さがある。女性たちだけで運ぶこともできるがさぞ腕が痛いだろう。
「ありがとうございます。助かりますわ」
 仲間の腕から少しずつ荷物を預かり、再び腕一杯に巻物を抱えたラナイヤがダイロン・ルーンを先導するように歩き出した。
 仲間の女神官たちがダイロン・ルーンを囲むようにして後に続いた。
 自分も昔はこうやって友人たちに囲まれて笑っていたのだ。成人しカストゥールの名を継いでからは、こんな風に人に取り囲まれたことはなかったような気がする。
「今日はカストゥール候は剣の稽古をされませんの?」
 肩越しに振り返りながらラナイヤ女神官が問うた。
「え? ……あぁ、今日も行きますよ。午後からになると思うけど」
「そう。随分と腕をお上げになったと聞いてますけど、どうです? 次期聖衆王の可能性はありそうですか?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべるラナイヤにダイロン・ルーンは顔をしかめてみせた。
「誰に聞いたんです? 武官たちに袋叩きにされてますよ。……相手が悪すぎます」
 ラナイヤが鈴を転がすような笑い声をたて、まわりの女神官たちの間からもつられたように声が上がった。
「まぁ、大変。アジェンの大貴族カストゥール候を打ちのめした勇者はどこのどなたですの?」
「そんなこと聞いてどうするんです? もしかして、私が無様に負けた様子でも聞きに行くつもりですか、ラナイヤ女神官?」
「ふふ。どうしましょうか? そんなお話を聞くのも面白そうですわね」
 彼女の冗談を受け流しながら、ダイロン・ルーンは回廊を行き交う人々の様子を眺めていた。
 叔父が聖衆王の地位についてからすでに十五年になる。
 王の任期は最長で二十年と定められているから、もうあと数年もしたら次の聖衆王を決める選王会が開催される。
 主だった貴族や士族たちはそのときに王の候補として名乗りを上げるつもりで、今から古書の暗記やら、剣の腕やらを磨いている。
 おおよそ二十年毎に巡ってくるこの大会は、聖地では最大の関心事だ。
 この大会での結果がその後二十年の聖地の力関係を決定づけると言っても過言ではないのだから。
 カストゥールの名を継ぐ者として、ダイロン・ルーンもその大会に出ないわけにはいかなかった。
 王となってこの聖地の(まつりごと)を統括していく技量が、自分にあるのかどうかなど判りはしない。
 だが勝ち残るにせよ、敗れるにせよ、その闘いに出ない限り、聖衆王の座どころか、その後の出世は困難を極める。
 普段は血を嫌う聖地の民が、血に飢えたようにどう猛な牙をお互いに剥く。互いを凌ごうと飽くなき闘いを繰り広げる日は確実に近づいてきていた。
「あぁ、やっと着いたわ。カストゥール候、ありがとうござました。この部屋までで結構ですから」
 考え事をしている間に目的の場所まで到着してたようだ。古くさい書庫の棚にはびっしりと書物や巻物が詰められているのが見えた。
「ここに置けばいいのか?」
「えぇ、修繕したあとで棚に戻しますから」
 同じような古い巻物が積んである机へと歩み寄り、抱えていた巻物を下ろすと、ダイロン・ルーンはかび臭い書庫を出て伸びをした。
「お疲れになりました?」
 ラナイヤがにこやかな笑顔を向けてきた。
「いや。君たちほども疲れてないと思うよ。女性には少し重いみたいだったね、あの荷物は。出来れば、今度からは台車を使わせてもらったほうがいいんじゃないかな?」
「まぁ、嬉しいこと。上司がそれくらい物わかりのいい人ならわたくしたちも苦労しないのに」
 大袈裟に溜息をついてみせると、ラナイヤは舌を出して戯けてみせた。昔から屈託のないひょうきんな娘だったが、それは今も変わってはいないらしい。
「その上司には上司の考えがあるのでしょう? それじゃ、私はこれで」
 いつも通りの愛想のいい笑顔で答えた後、ダイロン・ルーンは軽く手を挙げて彼女たちに別れを告げた。
 午後から剣闘場へ出掛けるならば、自分の仕事を片付けておかなければならないだろう。
 仕事をやる気になったわけではなかったが、溜めておけばそれだけ後でツケが回ってくる。面倒でも、今片付けておくほうがいいのだ。
 足早に大神殿へと向かう。その道すがらも、ダイロン・ルーンは鬱屈とした自分の気分を押し込めるのに苦労した。




「随分とラナイヤと仲良くしてたじゃないか?」
 からかうような口調がダイロン・ルーンの背後からかけられた。驚いて振り返った彼の視界に、金褐色の色彩が踊った。
「……イージェン。見ていたのか?」
 大神殿で一緒に働いている同僚の若者の顔は、どこか引きつっているように見えた。
「たまたま通りかかったのさ。別に覗き見していたわけじゃない。それよりも、お前がラナイヤと一緒にいるってのはどうしたことだ?」
 金褐色の髪を指で弄びながら、イージェンと呼ばれた若者がダイロン・ルーンの傍らへと歩み寄った。
「別に。回廊で彼女たちが大荷物を抱えているのに出くわした。……手伝ってやっただけだよ。それがどうかしたのか?」
 猫の目のようにうっすらと光って見えるイージェンの瞳に睨まれていると、なんだか落ち着かない気分になってくる。
 皮膚の上を滑っていくその不安定な感覚がダイロン・ルーンには不愉快だった。
「彼女には許嫁がいるんだぜ? あまり親しくしないほうがいいんじゃないのか。良からぬ噂がたってもつまらんだろうが」
 つっけんどんな口調で言い捨てると、イージェンはダイロン・ルーンの先に立って歩き始めた。
「不注意だったな。……忠告は感謝するよ」
 イージェンも背の高いほうだが、ダイロン・ルーンのほうがほんの僅かに高いようだった。
 目の前に揺れる同僚の巻き毛がダイロン・ルーンにはリーニス地方の大地を覆う麦穂を連想させる。
 さらにその輝く大地にいるはずの友人の顔を思い出してダイロン・ルーンはなぜかしら落ち込んだ。
 そしてその落ち込んでいる状態で、ダイロン・ルーンはラナイヤを一人の女として見ていなかった自分に気づいた。恋愛をするには致命的な欠陥のような気がした。
 ラナイヤは決して魅力のない娘ではない。
 だが自分の劣情を煽り起てることはなかった。彼女のせいではない。自分のなかの何かがおかしい。
 その事実は一つの結論を提示しているように思えて、ダイロン・ルーンは顔を強ばらせた。

〔 12535文字 〕 編集

後日譚

No. 72 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第02章:恋文

“リュ・リーン。怪我などしていませんか?”

 リュ・リーンの顔が自然とほころぶ。
 カデュ・ルーンからの手紙はいつもこう始まる。

“あと一ヶ月もしたらカリアスネの季節も終わるでしょう。兄様は相変わらずあなたの話になると不機嫌です。でもわたしたちのことに反対することはなくなりましたから、気持ちの整理がつけば昔のように一緒に笑える日もくることでしょう……”

 柔らかい、丸みのある文字が彼女の優しげな微笑みを連想させてリュ・リーンは胸を熱くした。
 あの“神降ろし(エンダル)”の地で別れてから、四ヶ月以上も会っていない。
 兄に寄り添いながら、哀しそうな瞳で自分を見送る彼女の小さな姿が今でも目の前にちらつく。
 彼女からの手紙が初めて届いたのは、副都ウレアにリュ・リーンが到着して二週間とは経っていない頃だったろうか。以来、時折に届く彼女からの便りは戦でささくれがちになるリュ・リーンの心を和ませた。
 カデュ・ルーン。あなたに会いたい……。
 手紙の続きに視線を走らせながら、リュ・リーンは未だに自分の腕や唇に残る彼女の感触を思い出していた。
 壊れやすい上質の磁器を連想させる肌に赤いカリアスネのように澄んだ色の唇。流れるように紡がれる言葉の数々。花よりも優しい微笑み。
 父王とその友人である聖地の長が選んだ自分の婚約者は、自分が娶るにはもったないくらいに理想的な女性だった。
 自分が王の後継者でなければ、こんな場所で泥まみれになって、神経をすり減らしていたくはない。
 彼女のためなら王都で自分が軟弱者と嘲っていた貴族たちのように詩文や花を毎日でも贈りたいくらいだ。
 だが今のリュ・リーンにはそれらすべて許される状態ではなかった。
 カヂャとの戦況は自軍に有利に傾いてきてはいたが予断を許さない事態が続いていたし、戦で焼け出された農民たちの身の安全も保障してやるよう対策をとらなければならない。
 後から後から出てくる問題にリュ・リーンは指揮官、統治官として休む間もなく判断を下し、それを決済していく。
 胃が痛くなることなど今では日常茶飯事だ。
 もう駄目だ。もう厭だ。
 音を上げそうになる度に、リュ・リーンの元には彼女からの手紙が届いた。
 決して戦を鼓舞するような文が書かれているわけではない。
 日々の聖地での出来事や自分の身を案じる文字ばかりが書き連ねられているごくありふれた文章であったが、彼女からの手紙が届く度にリュ・リーンが救われていることは間違いなかった。

“どうか無事でいてください。そして一日も早く帰ってきてください。あなたが無事に帰る日を毎日大神に祈っています。 カデュ・ルーン・アジェナ・レーネドゥア”

 いつも通りの手紙の終わり方だ。別に目新しいことが書いてあるわけではない。
 それでもリュ・リーンはその手紙を何度も何度も読み返した。その度に耳元に彼女の柔らかな声が聞こえてくる気がした。
 そっと紙面の文字を指でなぞる。
 そんなことがあるはずはないのだが、彼女の温もりが伝わってくるような錯覚にリュ・リーンは心を震わせた。




 羽根ペンの動きを止め、紙面を見入る。
「やっぱり俺には文才はない、か」
 リュ・リーンはそこまでの文章を読み返して、ため息をつく。
 カデュ・ルーンからの手紙に返事を書こうと机に向かい、懸命にペンを走らせてみるが、自分が思ったことの半分も文面には書けていないような気がしてもどかしい。
 一度、初めてカデュ・ルーンからの手紙に返事を書こうとしたとき、その手紙の書き方に困ってウラートに訊ねたことがあった。
 ところがいつもなら大袈裟にため息をつきはするが丁寧に教えてくれる学友は、このときはなんの助言もくれなかった。
 それどころか、ものすごく機嫌の悪そうな顔をすると『そんなこと自分で考えなさい!』と冷淡にあしらわれてしまっていた。
 自分は悪いことを聞いたつもりはなかったが、さすがにあれほど露骨に厭な顔をされると二度と彼に聞く気にもなれず、毎回不出来な手紙を書いては聖地のカデュ・ルーンに送っていた。
「毎回毎回、変わり映えのしない文だなぁ。……でも、ここでは他に何も書くこともないし」
 両手で髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回すとリュ・リーンは唸り声をあげた。
 髪の乱れも忘れてもう一度、手紙を読み返してみる。やっぱり気に入らない。ため息とともに机に突っ伏すと、額を軽く机の表面にぶつける。
「はぁ……。こんな文章じゃ、カデュ・ルーンに笑われていそうだ」
 自分の勝手な思いこみで勝手に落ち込んでリュ・リーンは自分の書いた手紙を投げ出した。
 顔を伏せたまま机に頬を擦りつける。ひんやりとした硬い感触が伝わる。
 そのリュ・リーンの顔に自分の黒髪がハラリと落ち、僅かに視界のなかに収まる。
 リュ・リーンはうるさそうにその髪を払いのけた。
 ここへ来てからは髪を切る暇もなかった。以前はかなりまめに髪を切って短めに整えていたのだ。そうすれば自分の黒髪が目立たなくなるような気がしたからだ。
 だが今は自分の身なりにかまっている余裕などなくなっていた。
 時間の余裕がないと言うよりは、リュ・リーンの気持ちにそんな余裕がないのだ。日々を指揮官、統治官としての任務に忙殺されている状態で、たまに暇ができても何かをしようという気力もなく、ただ身体を休めているだけだ。
「いっそ長く伸ばすかな?」
 誰に言うでもなくリュ・リーンは呟いた。自分の黒髪など誰も褒めてくれはしないだろうが、長めにしておいたほうが今の状況下では楽でいい。
 どうでもいいようなことをぼんやりと考えていたリュ・リーンの耳に、大天幕に近づいてくる足音が聞こえた。
 軽快な足音は入り口へと向かい、一瞬立ち止まったあと、中へ踏み込んできた。
 ウラートが手に湯気の立つ器を乗せた盆を持って立っていた。
 机に突っ伏している主人に気づくが、ベッド脇の間仕切り前に置かれた小テーブルまで盆を運び、慎重にそこに据える。
「なんだ、それ?」
 リュ・リーンは身を起こして器から上がる湯気をみた。だが湯気だけでは中身を想像することはできない。
「薬湯です」
 ウラートがゆっくりとリュ・リーンの側に近寄ってきた。だが視線は主人を通り越して、その先に延びていっている。
「薬湯? 腹痛や頭痛はないし、胃痛は今のところ起こしてないぞ?」
 薬を飲むいわれが判らず、リュ・リーンはウラートを見上げた。
「化膿止めです! 心当たりは充分にあるでしょう?」
 昼間のウラートの剣幕を思い出して、リュ・リーンは首をすくめた。
 カデュ・ルーンからの手紙を読んでいるうちに傷の痛みも引き、顔に巻かれた包帯のことをすっかり忘れていたので、リュ・リーンは自分が怪我人である自覚などまるでなかった。
 きっと吐きそうなほど苦い薬に違いない。リュ・リーンは勝手にその味を想像して顔を歪めた。
「ここでは羊皮紙一枚でも大切な物資ですよ。ぞんざいに扱わないでくださいよね」
 ウラートは身を乗り出して、リュ・リーンの書きかけの手紙をつまみ上げた。
「あ……! こら。見るなよ!」
 ウラートの手から手紙を取り返そうとリュ・リーンは立ち上がった。だが、スルリと学友にかわされる。
「ウラート!」
「……見ませんよ、人の恋文なんか。それより、サッサと薬を飲んでください。飲み終わったら返しますよ」
 勝手に交換条件を出すと、ウラートはリュ・リーンの手紙を懐に隠してしまった。頬を膨らますリュ・リーンを無視してウラートは小テーブルへと向かった。
 器にはなみなみと液体が入っている。それを飲みやすいように半量だけカップへと注ぎ、リュ・リーンに差し出す。
「ほら、リュ・リーン」
 厭そうな顔をしている主人の目の前にカップを突き出すと、ウラートは厳しい表情でそれを飲むよう促した。
「不味そうな色だな」
「薬が美味しいわけないでしょう? 不味いからそれを飲まなくてもいいように、皆早く怪我や病を治そうとするんです」
 無理矢理な感が拭えない理屈をつけるとウラートは再びリュ・リーンに向けてカップを差し出した。抵抗しても無駄なようだ。
 リュ・リーンはしぶしぶカップを受け取ると、その液体の匂いを嗅いでみる。なんとも言えない厭な匂いだ。
「早く飲みなさい。冷めるともっと不味くなりますよ、この薬」
 そんなことを言われたら飲まないわけにはいかないではないか。リュ・リーンは恐る恐るカップに口をつけた。
 一口だけ口に含んで嚥下する。
 渋みと苦みで口内が痺れた。やっぱり不味い。
 だが飲むまでウラートは許さないつもりだ。リュ・リーンは覚悟を決めると、一気に薬湯を飲み干した。
「カップを貸してください」
 口を歪める主人の手元からカップを受け取るとウラートは器に残っていた薬湯を再びカップに注いだ。
「うぅ……。なんて不味い味だ。人間の飲むものとは思えない」
 リュ・リーンは口元を押さえて呻いた。
「何言ってるんです、自業自得でしょう? さぁ、残りも飲みなさい」
 再度、有無を言わせぬ口調でウラートはリュ・リーンの目の前にカップを突きつけた。
「うげ。まだこんなにあるのか。本当にこれだけ全部飲まなければならないのか。なんだか多いぞ」
 最初の一杯でかなりうんざりしているリュ・リーンはできることなら飲まなくて済みはしないかと、ウラートに抗議をしてみる。だがそんなリュ・リーンの希望はあっさりと打ち砕かれた。
「駄目です。飲みなさい。……飲まないと手紙を返しません」
 それは非常に困る。やっとの思いであそこまで書いたのだ。もう一度、手紙を書く気力は今日はない。
 泣きそうな気分でカップを受け取るとリュ・リーンは生唾を飲み込んだ。
 今しがた飲んだ薬の味はできれば二度と経験したくないものすごい味だった。
 確かにこんな薬を飲むくらいなら、早く傷を治して、二度と怪我などしないと誓いたくなる気分も判る気がする。
「さっさと飲みなさい、リュ・リーン」
 ウラートに急かされると、リュ・リーンは目を閉じて一気に薬を飲み干した。嚥下した薬が喉をゆっくりと落ちていく感覚にリュ・リーンは安堵のため息を吐いた。
「はい。口直しの水」
 リュ・リーンが薬を完全に飲み下したのを確認するとウラートは水差しから注いだ冷たい水を差しだした。
 それを慌てたように受け取るとリュ・リーンは注がれた水をすべて飲み干す。
 口のなかは渋いような苦いような味で充満しており、水を少々飲んだくらいでは落ち着きそうもなかった。
「うぇ~。不味かった」
 顔を歪めたままリュ・リーンは薬湯の入っていたカップと今空にしたカップとをウラートに返した。ウラートは涼しい顔のままそれを受け取り、再度水をついでリュ・リーンの前に差し出す。
 勧められるままにさらに水を飲み干すとリュ・リーンは右手を差し出した。
「手紙!」
 当然忘れていなかったであろうが、ウラートはじらすように首を傾げた。
「はい?」
「だから! さっきの手紙、返せよ」
 おちょくられているのにも気づかず、リュ・リーンはむきになった。他人に自分の書いた手紙を預けておくのは抵抗がある。ましてその手紙はリュ・リーンにとってはただの手紙ではない。
「はいはい。判ってますよ。ほら」
 無造作に差し出された羊皮紙をひったくるとリュ・リーンはウラートに見えないようにそれを丸めてしまった。
「続きは書かないんですか?」
 側に人がいては書きづらい内容の手紙であるのに、ウラートは意地悪く訊いてくる。それをリュ・リーンは軽く睨む。
「うるさいな。後で書くよ!」
「……無理だと思いますねぇ。今の薬、即効性の眠り薬も調合されてますから。すぐに眠気が襲ってきますよ」
 相変わらずの涼しげな顔でウラートはカップを片付け始めた。
「眠り薬!? なんでそんなものが入ってるんだ!」
 青ざめるリュ・リーンを無視してウラートは天幕から出ていこうとする。
「ウラート!」
 さすがにムッとしてリュ・リーンは守り役の肩を掴んだ。以前の彼なら見上げていたウラートの顔が今はすぐ目の前にある。
「眠り薬の調合はお前が頼んだんじゃないだろうな!」
「……そうですよ。あなたはいつも無茶ばかりしますからね。今夜くらいは大人しく寝てなさい」
 冷淡な口調だが、やはりリュ・リーンを気遣う気配を見せたウラートが囁きながら、自分の肩に置かれた主人の手をずらした。
 何も言い返せないリュ・リーンの顔をしばらく見ていたウラートは、主人の動揺が収まるのを待たず、天幕の外へと向かった。
 天幕から出かかってふと後ろを振り返る。置いていかれる子供のような顔をして自分を見送る主人と目が合う。
「手紙……書くのなら、早く書いてしまいなさい」
 低い、小さな声でそれだけを伝えると、ウラートはあとは振り返らずに外に出た。




 天幕からもれる弱い灯りに誘われるようにウラートは入り口の幕を引き上げた。
 奥の机に身を任せて眠りこけるリュ・リーンの姿がすぐ目に入る。
「しょうのない人だ。やっぱり手紙を書いている途中で眠ってしまったのか」
 ため息をつきつつ、主のそばに近づく。そして無心に眠りを貪るその寝顔にしばし見入った。
「……」
 眠っている顔まで大人になった。
 ウラートは幼い頃から見慣れたリュ・リーンの顔を思い起こして複雑な顔を作った。
 かつて彼が無防備な寝顔を向けるのは、両親と自分しかいなかった。
 成年後は息子の寝所を父王が訪れることもなくなったから、自分しか彼の寝顔を見る機会はなかったし、人見知りの激しいリュ・リーンが自分以外の者を寝所に入れるはずもなかった。
「リュ・リーン。身体に悪いですよ、ベッドに移りなさい」
 主人の身体を揺すって呼びかけるが、リュ・リーンはもぞもぞと身体を動かすだけで目を覚ましはしなかった。
 ため息をつくと、ウラートはリュ・リーンを脇から抱えた。
 以前なら頭一つ分小さなリュ・リーンを抱えることなど造作もなかった。だが、ここ数ヶ月でめっきり背が伸びた彼を抱えるのは骨が折れる。
「まったく。勝手に大きくなって」
 自分の屁理屈にも気づかずウラートは苦労して主人をベッドに運んだ。かなりの力仕事だ。その間もリュ・リーンはぐっすりと眠り込んでいる。
 ベッドに転がされるとリュ・リーンが手足を縮めて丸くなった。幼い頃からの彼の癖だ。赤ん坊のように手足を縮めている様子だけは昔と変わっていない。
「リュ・リーン」
 彼が聞いていないことが判った上でウラートは呼びかける。
「うぅ……ん」
 リュ・リーンの口から微かに声がもれた。だが、目を覚ましたわけではなかった。その証拠にさらに寝言を呟いている。
「う……ん……カデュ・ルーン……」
 その寝言にウラートの顔が曇る。
「……リュ・リーン」
 そっとベッドの端に腰を下ろした。
 自分が見下ろしている若者は自分の主であるはずだが、幼い頃から一緒に暮らしてきたウラートには実際にはいないのだが、弟のような強烈な存在感があった。
 そっとリュ・リーンの髪に手を伸ばしたウラートの手が途中で止まった。そしてそのまま腕を引っ込める。
「いずれあなたは王になる……。強くなりなさい、リュ・リーン。あなたに仇なす者たちさえもがひれ伏すほどに強く……。聖地の姫があなたの心を護る盾となると言うのなら、私は王たるあなたの誇りを護る騎士となりましょう」
 囁き声は闇に溶け、主の耳には届いていないだろう。
 リュ・リーンを弟のように甘やかす時期は終わりを告げようとしていた。
 王者に相応しい器量を身につけつつある主人にウラートは一瞬寂しげな視線を向けた後、主の眠りを妨げぬよう灯りを消して天幕を後にした。




 夏の太陽が天中近くに昇り、人の肌を焼く時刻がきていた。雪国育ちのリュ・リーンには苦手な時間だ。
 毎年、従軍する度にこの暑さには悩まされる。少しでも暑さをしのごうと、リュ・リーンは窮屈な軍服を脱いで下着同然の格好でベッドに転がっていた。
「リュ・リーン殿下! カヂャが……! カヂャ軍が動きました!」
 そのだらけきっている彼を叱責するようにカヂャの動向が報告される。その声にリュ・リーンは飛び起き、自分の格好に慌てて軍服を羽織る。
「殿下!?」
 大天幕へ飛び込んできた若者が薄暗がりのなか、リュ・リーンの姿を探す。
「ここだ」
 ベッドを隠すように立てられた間仕切りの陰からリュ・リーンは立ち上がった。慌てて着込んだ服は少しだらしなくシワがよっている。
 だが、飛び込んできた若者はそんなことに注意を払うような状態ではなかった。
「カヂャ軍がウレアに向けて進軍を開始したと、たった今早馬が!」
「判った! 詳しい報告は軍議の席で聞く。将軍たちに召集をかけてくれ」
 弾かれたように天幕を飛び出していく男の背中を見送ると、リュ・リーンは軍服の乱れを直し、もはや自分の一部となっている王家のマントを羽織った。
 トゥナ王国を表す左手短剣紋とヒルムガル王家を表す三日月紋。くすんではいたが金糸が薄闇にぎらりと光る。
 天幕の幕布を跳ね上げると、熱い風が頬をなぶっていく。ムッとするような熱気だ。リュ・リーンは僅かに顔をしかめた。
 だが、その顔を一瞬で元の怜悧な表情に戻すと、足早に軍議を開く建物へと歩き出した。
 ここ数週間の膠着状態が崩れようとしていた。
 カヂャの軍事物資は枯渇寸前になっているはずだ。本国におめおめと帰還できないのであれば、このウレアを攻め落とすしか方策はないであろうことは予想していた。
 真綿で首を絞めるように相手を苦しめ屈辱を与えてきたが、ようやくそれも終わる。ここでカヂャを叩き伏せれば、トゥナの勝利は間違いないものになるだろう。
 軍議室の扉を勢いよく開けると、何人かの部隊長がすでに集まっていた。一様に顔には緊張感が漂っていた。
「カヂャがとうとう音を上げたらしいな」
 残酷な笑みを浮かべるとリュ・リーンは集まっていた者たちを見まわした。この時を待っていたのだ。今までの小手先だけの作戦ではない。
 大がかりな戦になるだろう。
 隊長たちの表情にも緊張と殺気が浮かんでいる。
「殺し尽くしてくれる……。今までにリーニスが受けた汚辱は、奴ら自身の命で贖わせてやる」
 リュ・リーンの暗い双眸に炎が浮かんでいる。
 これからその地獄の業火で焼かれるであろう敵軍に同情などするつもりはない。だが人が覗くべきではないその闇を盗み見たような気分にその場に居合わせた者たちは身震いした。




「出立だ!」
「遅れをとるな!」
 荒々しい馬蹄が天幕のまわりの大地を踏みならす。
 その騒然とした様子の兵士たちが、前方に設けられた壇上にあがる人物に気づき、いっそう大声をあげた。
「リュ・リーン殿下!」
「黒衣の王子!」
 空気を震わす、怒濤のような歓声が壇上にいるリュ・リーンの身体を包む。夜の闇色をした王太子の甲冑が太陽の光を吸い込んでいく。
 兜だけをはずし、黒い髪を風になびかせ、リュ・リーンはまわりの兵士たちを見まわした。右頬にはうっすらと白くなった傷痕が残っている。
「皆、随分と待たせたな。ようやく我らの屈辱を(すす)ぐ日が来た! カヂャを追い落とせ! 一人残らず、カヂャの兵を屠るのだ! 今こそ、死んでいった盟友たちの無念を晴らせ!」
 リュ・リーンの声に歴戦の戦士たちの間から鬨の声があがる。
 皆、待っていたのだ。戦友たちの無念を、故郷が踏みにじられた屈辱を晴らす、この日を!
 大歓声のなかで壇上に立つリュ・リーンの横顔を見つめながら、ウラートは安堵したような吐息をついた。
 もう少しだ。今日の戦いに勝利すれば、リュ・リーンの地盤は確実に固まるだろう。そうなれば、王都でのうのうとあぐらをかいて戦いの行方を眺めている貴族たちでも、おいそれとは大事な主人に手出しなど出来なくなる。
 常に勝ち続けることを強要され、敗北など決して許されないリュ・リーンの片腕として戦ってきた自分を少し誇らしく思いながら、ウラートは巨大な生き物のおめき声のように拡がる兵士たちの喊声に耳を傾けた。




 黒々と伸びる軍列を見送りながらウラートは胸中で祈りの印を切った。
『無事でいてくださいよ、リュ・リーン』
 補給部隊を受け持つウラートには先陣をゆくリュ・リーンの後を追うことは許されない。自分の役目の重要性は判っていたが、側にいられないもどかしさを払拭することはできなかった。
「ウラート殿。我らも出立を!」
 配下の者がウラートに声をかけなければ、彼はいつまでもそうやって軍列を見送っていただろう。
「あ、あぁ。判りました。出立しましょう」
 補給部隊は二つに分けられ、それぞれが本隊とは別路を通って補給地へと向かう予定なのだ。あまりゆっくりもしていられない。
「ミシャナス卿、そちらの隊をお願いします!」
 愛馬に跨りながらウラートは別働隊の同僚に声をかけた。
「任せておけ。敵の本隊は王太子殿下が引き受けてくださるのだ。これくらいの隊を指揮できなくてどうするんだ」
 日に焼けた顔がウラートを振り返った。薄い茶色の瞳が不敵な笑みを含んでいた。逞しい体つきから察するに、ウラートよりも歳は上だろうがまだ若い。
 この大戦で壮年の騎士の多くが命を落としている。
 年若い騎士たちにとっては自分が勇躍する場が拡がっただけありがたいかもしれないが、軍を指揮していた熟練の騎士たちの死はトゥナ王国としては痛い損失であった。
「出立!」
 ウラートの号令を今や遅しと待ち構えていた兵士たちが補給物資を守るように行軍を開始した。
 本隊ほど早くは進めない。だが、確実に補給地へ間に合わせなければならない。
 時折に斥候を放ち、万が一の敵軍に備えながら、ウラートは東へと軍を進めた。
『無事でいてください、リュ・リーン殿下』
 同じ東へ向かう軍路でも、より危険な南方を進んでいるであろう年下の主人を思いながら、ウラートはしばし瞑想に耽った。
 彼と初めて会ったのは、いつだったろうか?
 確かまだリュ・リーンが二歳になるかどうかといった頃だった。
 自分はようやく五歳の誕生日を迎えたばかりの小さな子供で、右も左も判らない王城は、ただただ広いばかりで心細い場所だった。
 あの甘えん坊の赤子が、今は大軍を指揮する将軍になっている。
 思えばこの十五年近く、ほんの一時期を除いてずっと一緒に育ってきたのだ。随分と長く一緒にいる。
 わがままな主人に愛想も尽かさず、世話を焼くウラートを貴族のなかには物好きな奴だと笑う者もいる。
 だが幼かったウラートに選択の余地などなかった。
 それに貴族たちが陰で謗っている者が自分の仕える主であることを知っていて、それを笑って許してやれるほどウラートは卑屈でも臆病でもなかった。
 いつかは天の高みに立ち、その貴族たちを睥睨する者を、自分が育てているのだ。その誇りを傷つけるようなことができるはずもない。
 あの日に誓ったのだから。片言の言葉を喋りながら自分にすり寄ってくる幼子を前に、ウラートはあの日に誓っていたのだから。
『忘れてはおりません、陛下。約束は必ず……』
 ウラートは思い出したように胸に手を当てた。
 甲冑の上からではまったく感触など判るはずもないが、自分の首から下がっている護符を意識できた。
 この護符を首に下げてくれたあの手を忘れはしない。




「本気で言っているの、シャッド・リーン!?」
 扉の向こうから聞こえる女性の声に、子供はすくみ上がった。機嫌の良さそうな声だとは間違っても思えない。腹立たしそうな声が続く。
「この子は私の子よ! 私が育てるわ!」
「聞き分けのないことをいうな……ミリア・リーン」
 辛抱強い男の声が女の抗議を遮らなかったら、女の怒りの抗議は止まることなく続いただろう。
「どうして他人に預けるの! 私からこの子を取りあげないで!」
 震える女の声が力無く子供の鼓膜を叩いた。先ほどの怒りの声よりも胸をえぐる哀しげな声。
「預けたりはしない。……預けるわけがない! そうであろう? そなたは誤解している。守り役をつけるとは言った。だがあの子から母親を取りあげるとは言っていない」
「その守り役に育てさせるのでしょう? 同じことよ! 預けるのと同じことじゃないの!」
 細い甲高い声が空気を震わす。
「判った。……ただ、会ってやってくれ。それからでいい。その者を守り役につけるかどうかを決めるのは、それからでいい」
 諦めたように返事を返す男の声が途切れると重たい足音が扉へと近づいてきた。子供は自分の心臓が打つ音が辺りに響いているような錯覚に、その小さな胸を押さえた。
 大きな扉だった。それが音もなく開くと、その扉の奥から海色の瞳が子供を見下ろした。
「待たせたな。入れ」
 天を突くような大きな男。自分をここまで連れてきた男の白い顔が覗いた。その顔を縁取る金色の髪が少し乱れて額に落ちかかっている。
 子供は男の顔を見上げ、教えられたとおりに恭しく律儀に腰を屈めて了解の姿勢をとると、扉の隙間から部屋のなかに滑り込んだ。
 キョロキョロと子供は物珍しげに辺りを見まわした。そして、奥の寝椅子に身を預け、こちらを睨めつけるように見る女と視線がぶつかると、びっくりしたような顔をして目を瞬かせた。
「おいで。こちらだ」
 背後に立った男が子供の小さな身体を抱き上げた。
 あっさりと肩に担ぎ上げられ、子供は突然に高くなった視界が面白くてにっこりと笑った。こんな高いところから辺りを見るのは初めてだ。
 嬉しそうに笑う子供を女は無表情なまま見上げた。内心の動揺を押し殺した表情だ。
「どういうことなの?」
 務めて声も平静を装ったつもりだったが、それが成功したかどうかは怪しい。
「今日の朝、奴隷商から買い受けた。名前は……」
 そのときになって初めて子供の名前を尋ねていなかったことに気づいて男は口ごもった。肩の子供の顔を見上げる。
「奴隷商ですって!? じゃあ、奴隷の子なの!? 守り役だと言うから、てっきり成人した男か女だと思っていたのに! 守り役が、子供の、しかも奴隷ですって!?」
 二人の様子を見ていた子供が足をばたつかせて下へ降りる意志表示をした。男がゆっくりと子供を降ろす。解放された子供が恭しく女の前に跪いた。
「ウラートです、ご主人様」
 奴隷商に仕込まれたのだろう。幼い少年は不釣り合いなほど優雅に腰を屈めて、女を見上げた。
 その真っ直ぐな藍色の瞳に女が虚を突かれたように相手を見た。自分の目の前にいる者がいったい何者か判っているのだろうか?
「そうか。ウラートという名だったか……。そう言えば、奴隷商の主人がそんなような名前で呼んでいた気もする」
 呑気に顎を掻く男を女は鋭い目で睨みつけた。
「いい加減にして! シャッド・リーン! あなたには王としての自覚があるの!? よりによって奴隷に自分の息子を育てさせる気でいるなんて!」
 女が全身をわなわなと震わせている。目の前に跪く子供を完全に無視して、男に食ってかかっていく。
「……じゃあ、貴族にでも頼むのか? それこそ頂けない話だ、ミリア・リーン。そなただってそれくらいのことは判るだろう?」
「だから、私が育てるって言っているでしょう! この子をさっさとさげて頂戴! 話なんて聞く必要もないでしょう!?」
 癇癪を起こして怒鳴る女を驚いて見つめる少年を男はそっと抱き上げると、子供に向かって微笑んだ。
「ウラート。すまんが奥の子供部屋に行って、眠っている息子を連れてきてくれ。……できるか?」
 神妙に男の言葉を聞いていた子供がこくりと頷いた。それを確認すると男は子供を降ろし、奥部屋の方向と指さした。
「あそこだ」
「シャッド・リーン! その子を息子に近づけないで!」
 身を埋めていた寝椅子から飛び起きると女が子供を掴まえようと手を伸ばした。それを男が逆に止める。それほどの力を入れているわけでもないのに、女の身体は拘束されて動かせない。
「放してよ。放して、シャッド・リーン!」
 もがく女の視線が走り去る子供の背中に突き刺さる。子供は子供部屋の扉を難なく開けると薄暗い部屋に躊躇いもなく足を踏み入れた。
「止めて……!」
 女の掠れた叫びがその後を追ったが、男に抱きかかえられた身体はどうよじっても、もがいても自由にはならなかった。
 奥部屋から幼い子供のむずがる声が聞こえた。
「シャッド・リーン!」
 女が首をよじって男の顔を見上げた。男を睨みすえる女の顔には複雑な表情が浮かんでいた。
「貴族たちに大事な子供を任せるわけにはいかない。……成人した者たちでも一緒だ。皆、一様に息子を怖れるだろう。まだ偏見を持たぬほど幼い子供でなければ、息子を任せることなど出来ない」
「……」
「あの子は偏見を持たない。いや、持ちようがない……。母親は遠国から娼館に売られてきた娘だ。この国の伝説や伝承とは無縁の者が産み落とした子供……。あの子なら、息子を忌みはしない」
 いつの間にか女は男の腕のなかで大人しくなっていた。
「ミリア・リーン……?」
 男は女の顔を覗き込み、その瞳に浮かんだ涙を見ると、そっと自分の胸に女の頭を抱き寄せた。
「約束したではないか。……生まれてくる子供たちを不幸にはしない、と。あの時……聖地の尖塔での約束を忘れたわけではあるまい?」
 震えている女の肩を抱きながら、男は子供部屋を見守った。今度、あの扉から出てくるときが、中にいる者の運命の分かれ目だ。
 男は自分の心臓が早鐘のように打つのを遠くに感じていた。まるで、氷原を駆けていく早馬の馬蹄のような音だ。
 女もこの音を聞いているだろう。だったら男がこの瞬間も祈るような思いで子供部屋の扉を見つめていることが判っているはずだ。

〔 12321文字 〕 編集

後日譚

No. 71 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,後日譚 , by otowa NO IMAGE

第01章:戦場

「カヂャの動きに変わりはないか?」
 剛直な声が砦を囲む城壁であがった。
 見張りの兵士が振り返り、砦の主人の姿を認めた。
「ハッ! 依然として、動きはありません」
「ご苦労だな。もうすぐ朝食もできるだろう、順に交替して休んでくれ」
 夜通し見張りに立っていた兵士を(ねぎら)うと、砦の主人アルマハンタ将軍は丘の向こうに張りついて砦を包囲している敵軍を睨んだ。
「なぜ、動かん? いくらこの砦を包囲しても、あと七日もすれば副都から援軍がくる。兵糧攻めをしている時間などないだろうに」
 春の声を聞く前に隣国が領内に攻め入ってきたとはさすがに慌てたが、百戦錬磨のアルマハンタにとっては、目障りな蠅が目の前を飛び回る程度のことであった。
「早馬がもうすぐウレアに到着するはず。……一~二日のずれがあったとしても間違いなく援軍はくる。そんなことが判らぬはずもあるまいに」
 カヂャがここリーニス砦を幾重にも取り囲んだのは二日前だ。
 早急に攻城戦が展開されるものと読んでいたトゥナ軍にしてみれば拍子抜けだ。まったくもって敵の考えていることが判らない。
「閣下!」
 石段を登ってくる足音にアルマハンタは振り返った。
 自分の盾持ちをしている若者が呼びかけている。どうやら朝食ができたらしい。手をあげて答える将軍を確認すると若者は軽い足取りで石段を駆け下りていった。
 もう一度だけ敵軍を見渡すと、アルマハンタはゆっくりとした足取りで城壁を後にした。




「な……んだ……?」
 アルマハンタは急激に身体に拡がる痺れと目眩によろめいた。
 足が鉛のように重たい。全身から冷や汗が噴き出す。
「何が……」
 自分の身体になにが起きたというのだろうか。
 朝食を摂ったあと、昨日と同じように軍議に向かう途中だった。突然の体調の変化に戸惑う。
 助けを求めようと周囲を見まわしたが、辺りに人影は見えない。
 いや、人影どころか、人の話し声や物音すら聞こえてこない。何かがいつもと違っていた。
「どうして……急に……」
 鈍い動きしかできない身体では思うように先に進むこともできない。だが、人のいる場所までいけばなんとかなる。
 額から滴り落ちる汗にもかまわず、アルマハンタは窓辺に寄り、開け放たれた窓から城門前の広場を見下ろした。いつもここには人がいるはずだ。
「……! な……」
 広場の様子は明らかにおかしかった。
 持ち場についているはずの兵士がだらしなく座り込んでいたり、身体を丸めて横たわっていたりしている。耳を澄ますと微かな呻き声が聞こえた。
「ま……さか、砦の……人間すべて……なのか!?」
 苦しい息の下からアルマハンタは声を絞り出した。
 その時、待ち構えていたように城門の外から鬨の声があがった。敵軍が攻めてきたのだ。
「こ、こんな……ときに……。……あ……、ま、まさか……!」
 ようやく将軍は事態を飲み込んだ。
 カヂャの密偵が昨夜までに砦に潜り込んでいたのだろう。その密偵が砦の食料庫か飲み水に毒を盛ったに違いない。
 砦中の人間が朝食を取り終わった頃合いを測って攻め入ってくる敵軍の様子から見ても、その考えに間違いはなさそうだ。
 鉄杭で城門を叩き壊している音が辺りにこだましている。だが、その音に反応する者は城内には一人もいない。
「お、己……カヂャめ……。よくも……。卑怯者め……」
 動くこともままならない兵士たち相手であれば、どれほど腕の悪い軍人でも簡単に砦を落とせよう。
 まんまと敵の罠にはまってしまった。
 だが戦で敵陣に毒を盛るなど卑怯な手段だ。第一、毒の混入に失敗すれば、砦に自軍が入城したときに飲み水などは使いものにならなくなっている場合もあるのだ。
 この後の砦の使い道を無視した敵軍のやり口に、アルマハンタは憤りを覚えた。こんなやり方は軍人のやることではない。
 だが、身体の痺れはどんどん酷くなる。もう立っていることすら難しい。
「くぅ……お、王陛下……。シャッド・リーン様……」
 力尽きて跪く将軍を待っていたかのように城門が悲鳴をあげ、城内に敵兵を吐きだした。
 けたたましい笑い声をあげて駆け込んでくる不格好な甲冑姿の騎士がアルマハンタの目に入る。
「ハハハハッ! 見よ、この虚け者めらの姿を! さぁ、者ども、狩り尽くせ! 一人残らず焼き殺してくれるわっ!」
 耳障りな笑い声がアルマハンタの鼓膜を叩く。
 最後の気力を振り絞って、アルマハンタは立ち上がろうともがいたが、鋼のように鍛え上げられた彼の体躯はついに最後までその主人の思いに答えようとはしなかった。
 掠れていく将軍の視界の隅に、赤い色彩が躍った。
 『(パタゴス)が……』
 古びた石廊下の床に崩れ落ちていく彼の目が最後に捕らえたのは、火をかけられた砦のなかに揺れる真紅の蛇の紋章だった。




「王子! 敵補給部隊の護衛が鶴翼の陣を敷いています」
 斥候役の騎士が馬蹄も荒々しく近寄ってきた。
「数は!?」
「当小隊の倍数近く。およそ百騎ほどかと」
 まわりに詰めていた側近たちが息を飲む。
 多い。まさか、これほどの数の敵兵が展開していようとは。
 待ち伏せは覚悟の作戦であったが、兵力の差を技量で補うのも限界がある。ましてや、こちらには……。
「カヂャめ。さすがに尻に火がついたことに気がついたか。旗印は誰のものか!?」
 この作戦において敵兵の数は重要だ。相手にこちらの動きを封じられては、一巻の終わりなのだから。
「はっ。旗は立てておりません。しかし盾には青銅の“(パタゴス)の紋”が……」
「パタゴス!? ふん……邪なるゼンゲン家の者か」
 考え込む王子を騎士たちが注視する。
 ゼンゲン。この名を聞いたときから騎士たちは顔を曇らせた。勝つためには味方すら見捨てるというカヂャの一族だ。報告によればリーニス砦を陥とした者もゼンゲンの一族の者だったという。
 今回の百騎という数から見ても本気でトゥナの奇襲隊を潰すつもりだ。二倍の兵力差は補いようもない。撤退もやむなし。皆がそう思っていた。
「背負っている紋が一つならば、指揮官は一人。それだけの数の隊となると指揮官の指示が届かぬ場所があるな。我が隊は紡錘形に陣をとる。敵陣の翼部を一度揺さぶって指揮官をいぶり出すぞ。将だけを狙え! 他の騎馬に構うな」
「御意!」
 自らの気弱さを叱責するように騎士たちは指揮官に敬礼をとった。自分たちの前に立っている者は誰か? 今まで自軍を勝利へと導いてきた者、トゥナ軍の指揮官ではないか!
 騎士たちは甲冑を打ち鳴らしながら愛馬に跨ると、自分たちを率いる王子の背を護るように轡を並べた。




「全員、敵陣を抜けました!」
「敵弓隊が下がります!」
「王子! 敵将の位置が判りました。右翼の中央です!」
 混戦のなか、次々ともたらされる報告のなかに、狙う敵の位置が報告されると、王子の瞳はギラリと光った。
「突撃する! 俺に続け!」
 軍馬を駆り、一陣の黒い風のように疾走する王子に遅れまいと、トゥナの騎馬たちは雄叫びをあげて、そのあとに続いた。
 敵騎兵は自軍の右翼にまっしぐらに喰らいついてくる一団の先頭に立つ人物に気づいて青ざめる。
「トゥナの黒太子! 魔神の子だ!」
「なんでこんな場所に!」
 逃げ腰になっている者もいる。
 だが、弱気な彼らを叱責する声が飛ぶ。
「退くな! ……見よ! 我らの勝利が見えるではないか! トゥナの黒い魔神を討ち果たせ! 奴の首級(くび)を挙げた者の恩賞は思いのままぞ!」
 その声に勇気づけられでもしたのか、カヂャの一部の騎兵たちが各々の得物を手にトゥナの王太子に群がる。
 この王子を討ちさえすれば、リーニスの覇権はカヂャの手に落ちたようなものだ。血に飢えた猛禽の叫声に似た喊声が戦場に響き渡る。
 だが、カヂャの騎兵の剣や槍のほとんどは、トゥナの先陣に立つ人物に届く前に、打ち落とされ、叩き折られたあと、その持ち主ごと軍馬の鞍から蹴り落とされる。
「貴様らに我らの盟主が討てるとでも思っているのか!」
「退がれ! 我らの主にその汚い指一本触れるな!」
 銀の甲冑に身を包んだトゥナの騎兵たちは、自軍の指揮を取る王子のまわりに群がるカヂャ軍に痛烈な攻撃を加えていく。
 両軍の軍馬が入り乱れ、血と汗の臭いが鼻を突く。
「ゼンゲン! この臆病者! 俺の前に出てきてみろ!」
 左右を味方の騎士に固められ、自身が大剣を奮う余地がなくなると、トゥナの王子はジワジワと退いていく敵軍の中枢部に向かって叫んだ。
「臆病風に吹かれたか! この腰抜け!」
 痛烈な誹謗を立て続けに叫ぶと、王子はその黒い兜の面当を跳ね上げた。まだ混戦は続いている。それなのに敢えて危険を冒して相手を挑発しているのだろうか。
 兜の下から人のものとは思えない暗い翠の瞳が覗く。
「どうした、腰抜けゼンゲン! 言い返すこともできぬか! お前のような奴は、兵士の後ろに隠れて震えているのがお似合いだ!」
 獣の咆吼に似た唸り声が上がると、カヂャの兵士たちを押し退けて一人の騎士が現れた。
「トゥナの小倅(こせがれ)め! よくも儂を愚弄してくれたな!」
 大きな体躯と言えば聞こえはいいが、太りすぎて甲冑が悲鳴をあげているその身体の持ち主は、嗄れた声で喚いた。華麗な装飾の甲冑がかえって滑稽だ。
「ゼンゲン閣下……! 危のうございます!」
 カヂャの軍中からの制止の声を無視すると、ゼンゲンと呼ばれた男は軍馬の鞍から投げ槍を外した。
 右手に投げ槍を、左手にハピラを握り、馬上で仁王立ちになるその顔だけは鬼神を思わせた。しかし太りすぎた身体で馬上での平衡を保つのは容易なことではない。
「いかん! 閣下をお守りせよ!」
 カヂャ軍からのその声が引き金になった。トゥナの騎士たちは怒濤の勢いで敵将に迫ると、その白刃を次々に相手に叩き込んでいく。
 瞬く間にゼンゲンはトゥナの白刃の下に息絶えるかと思われた。
 だが、カヂャの騎兵が自分たちの主を間一髪のところで引き戻す。トゥナの凶刃の下に悲鳴をあげたのは、ゼンゲンの愛馬だけであった。
「お、おのれぇ~! 儂の馬が! 殺せ! 皆殺しじゃ!」
 部下の馬にしがみついたままゼンゲンは吼え続けた。怒りにこめかみの血管が膨れ上がっている。
「王子のまわりを固めろ!」
 再び混戦は続き、人馬にカヂャ軍もトゥナ軍もない混乱が続く。
 ゼンゲンは馬を失ったことで戦線を離脱しかかっており、彼を護衛するためにカヂャの軍勢はその総数を減らしていた。
 指揮官の戦線離脱で士気を落としたカヂャ軍は、圧倒的に数の上で有利なはずだが、徐々に後退を始める。
「逃がすな! 追え!」
 トゥナ王子の声に呼応するかのように、カヂャ軍の右軍列が崩れた。
 トゥナの騎士たちが弱ったその隊列にさらなる攻撃をくわえる。鈍く輝く白刃の下で血煙が上がった。辺りの血臭がさらに濃くなる。
「こちらの隊列を崩すな! そのまま両側に……ぐぅ!」
 王太子の苦痛の声に両脇を固める騎士たちが振り返った。そしてそのまま凍りつく。
 馬上でのけぞるトゥナの王子は自分の顔を押さえている。その指の間からは鮮血が噴きだしているではないか!
「お、王子ぃー!」
 声を震わせる騎士の目の前で、王太子はもんどり打つようにして後ろへ倒れた。
 この瞬間を敵も味方も息を飲んで見守る。すべての音が消えた死の空間。だが空白の時間はその渦中の人物自身によって終わりを告げた。
 トゥナの王太子は倒れたその勢いで跳ね起きると、顔の右半分を朱に染めたまま、突き立った矢を引き抜いた。空気を奮わす咆吼が王太子の口から迸る。
 そのまま血で濡れた矢を地面に叩きつけると、王子は大剣を引き抜き、雄叫びをあげた。赤黒い血がこびりついた刃……。いったいその剣は、何人の戦士の血と魂を吸い上げてきたのだろう。
 血に濡れた鬼神の形相。黒太子のその顔に敵ばかりか味方も鼻白む。
 混戦のなかで矢を放った者は、その悪魔の顔に悲鳴をあげた。だが魔神の叫びに自身の軍馬が怯えて動かない。
 自分の逃げる方法が徒歩しかないことを悟ると、悲鳴をあげて駆けだした。
 魔神の子は猛獣が獲物を狙う俊敏さで、背を向けて逃げる男を追う。徒歩と乗馬とでは結果は見えている。
 半狂乱の悲鳴をあげて逃げ惑うその兵士の首を大剣が捕らえ、あっさりと胴体から薙ぎ払う。殺された男の悲鳴が胴から離れた首の転がる先へと続く。
 カヂャ軍から悲鳴が上がり、雪崩をうって後退を始めたのはそのときだった。
 だが自分を傷つけた男を屠っても王子の怒りは止まりはしなかった。
 前方を後退していく敵本隊に悪鬼の形相を向けると、再び咆吼をあげて軍馬を駆る。
 トゥナの騎兵がその後を次々に追う。
 その様子を遠目に眺めていたゼンゲンの顔色が変わった。
 予備の軍馬に跨っていた彼は、味方を速やかに退却させることもせず、一人馬に鞭を当てて遁走し出した。
 将が逃げているのに、残って戦おうとする兵士などいない。一度後退した隊列は、もはやその形を完全に崩して、カヂャ軍は我先にと逃げ出した。
 自軍よりも少数の敵に完膚無きまでに叩きのめされたカヂャ軍は、ほんの一握り、死を免れた兵士以外リーニスにその変わり果てた骸を曝した。
 戦いが終わったあとに転がるその骸のなかに豪奢な甲冑をまとった将らしい男の遺体があった。
 その首は切り落とされ、手足はあり得ない方向へねじ曲がっており、太りすぎの特徴のある体躯だけが、カヂャのゼンゲンと呼ばれた男のものであることを証明していた。
 しかし、どうしたらこれほど無惨な死に方ができるのか、彼の骸から想像することは難しかった。




「まったく! どれだけ人を心配させれば気が済むのですか、あなたという人は! いい加減にしてください!」
 ウレアの城郭を背に張られた軍の天幕から、若い男の金切り声が響いた。
 軍医が叫び声をあげる男のほうを振り返って、患者を庇うように声をかける。
「そう怒鳴られるな、ウラート卿。傷は思いの外に軽いものでしたし……」
「傷が軽かろうが、重かろうが、そんなことは関係ない! リュ・リーン! あなたは大軍を率いている将としての自覚に欠けすぎています。あなた自身が騎馬小隊を引き連れてカヂャ軍と交戦するとは何ごとですか! 今回は無事に済みましたが、あなたの首級(くび)を獲られたら、この戦は負けなのですよ!」
 さらに大声をあげるとウラートはリュ・リーンを睨みすえた。
 勝手に兵を引き連れて行き、近郊で略奪を続けているカヂャ軍と直接に剣を交えるなど、大将のやることではない。
「すまん。以後気をつける」
「いいえ! もう聞き飽きました! 何度言っても同じことばっかり。そんなに死にたければ勝手にしなさい!」
 憤然とした様子でウラートは天幕を後にした。
 その後ろ姿を見送るリュ・リーンに軍医が厳かに言い渡す。
「殿下。傷は思いの外軽うございましたが、決して楽観できるものではありません。今しばらくはご静養をしていただきます。それから右の頬の上辺りには一生傷が残りますぞ」
 ため息を吐きながら、その言葉を聞いていたリュ・リーンは困ったように眉を寄せた。
「それは聞けそうもないぞ、侍医。俺が戦列を離れることはできない」
 リュ・リーンの返答を予測していたのか、今度は軍医がため息をつく。
「そうでございましょうとも。あなたという方はいつも無茶ばかりなさる。まったくどなたに似たのやら……。ウラート卿の心労は当分続きそうですな」
 遠慮なく自分を批評する軍医の言葉に苦笑するとリュ・リーンは包帯に包まれた身体を起こして、軍服に袖を通す。
「もう働きにいくつもりで? 今日一日くらいは休んでも誰も文句は言いませんぞ、リュ・リーン様」
 手当に使った道具を片付けながら、軍医は主を見上げた。
「休んだ分だけカヂャを追い落とす時期が遅くなる。親父がグンディの欲惚けじじいの裏工作をしているが、今年中にリーニスからカヂャを追い払わないと、来年以降の作物の収穫に影響がでる」
 気忙しく喋る若い主人の背中が口出しをするなと言っている気がして、軍医はそれ以上は口を挟む気になれなかった。
 身なりを整えたリュ・リーンが王家の紋章が縫い取られたマントを羽織る姿を軍医は眩しそうに見つめた。
「背が随分と高くなられた」
 リーニスに援軍を率いて到着したときのリュ・リーンは同年代の若者よりやや小柄であった。
 父親が体躯の大きな男だけにコンプレックスを感じているらしい彼の手前、側近の者はそれを口にすることはなかったが、王都の貴族のなかで彼をよく思わない輩は陰で随分とそれを謗っていた。
「ウラート卿とたいして変わりませんな。鎧職人が嘆きますぞ、そんなに伸びられては。それこそ一ヶ月に一度新しい甲冑を作らねばなりますまい?」
「……そうか? 喜んでいるかもしれんぞ。俺がこの一年間にやつらに支払った金貨が何枚になることか。財務大臣が知ったら卒倒しそうだ」
 この数ヶ月でリュ・リーンの身長は急速に伸びていた。まるで春に芽を出した若芽が夏の陽射しをいっぱいに浴びて悠々と伸びていくように。
 常に先陣を切って軍の指揮をとる彼にとって甲冑は必需品だが、あっという間に身体に合わなくなっていく甲冑は何度も修繕に出され、その度に代わりの新しい甲冑が作られた。
「いずれはお父上に追いつかれましょうな。……あの方も昔は小柄なほうでしたから」
「……! 親父も!?」
 父親とたいして歳も変わらないこの軍医ならば、昔のトゥナ王のことも知っていよう。だが、父親とそんな話をろくすっぽしたことのないリュ・リーンにとって今の話は非常に興味のあるものだった。
「えぇ。王陛下も昔は小柄でしたよ。……そうですね。やはりあなたぐらいの歳の頃でしたかねぇ、急に伸びられたのは。それまではお母上によくからかわれていらっしゃいました」
「は……母上に、からかわれた!?」
 記憶に薄い母の印象はただ美しいだけで、そんな生臭い人間臭を帯びてはいない。父親のことを“親父”と呼ぶくせに、母のことはどうしても”母上”としか呼ぶことができないのがそのいい証拠だ。他人から聞く母の姿は現実離れした感じが拭えない。
「……俺も背が高くなるのか?」
 酷く心許ない気分でリュ・リーンは問うた。
 物心ついたときから父は見上げるほどに大きく、息子の自分の前に壁のように立ちはだかっていた。父の跡を継ぐとは決めていたが、その父の後継者として相応しい人間になるには、自分の器量が貧相に見えて仕方がなかった。
 少しでも父に近づけるものならば……。どんな些細なことでもよかった。
 血の繋がりを否定しているわけではないが、もっと目に見えるもので確証が欲しかった。それでなくても、淡い金髪に海色をした碧眼の持ち主である父と、黒絹を思わせる髪と暗緑色の瞳を持つ自分とは外観上似ていない部分が多い。
「えぇ、そうやって王家の紋を負う姿はお父上にそっくりです」
 穏やかに微笑む軍医に少し照れた笑いを向けると、リュ・リーンは足取りも軽く天幕を後にした。
「殿下!」
 その大天幕を出るとすぐにリュ・リーンに声をかける者が姿を現した。
「アッシャリーか。カヂャの動きに変化があったのか?」
 アッシャリー将軍。リュ・リーンが援軍を率いてくるまで、独りでリーニスに駐留していたトゥナ軍を統括していた男だ。
 元々この将軍はリーニスの出身だ。この地は勝手知ったる庭のようなものだから、カヂャといえども彼を屈従させることは叶わなかった。
「相変わらずこちらの小出しの小隊に振り回されていますね。同じ手に何度でも引っかかる。バカじゃないですかね、あいつら」
 敵を言下に酷評してみせると、アッシャリーはニヤリと口を歪めた。悪戯っぽい視線をリュ・リーンに送り、伸びた無精髭を無骨な手で扱く。
「先ほどは随分こっぴどく説教をされましたな」
 天幕でウラートががなり立てている声が聞こえたのだろう。
「当分は口を利いてもらえないかもな」
 肩をすくめるとリュ・リーンはつまらなそうに嘆息した。
 自分の天幕から離れ、軍義を開くときに使用している建物へと移動しながらリュ・リーンは辺りの様子を観察した。
 いつも通りに兵士たちは各々の役割を果たしているようだった。
 ここへ来た当時からウラートはリュ・リーンが先陣に立つことを嫌がった。王の後継者らしく後方から的確に指示を出していれば充分だと主張しているのだ。
 だが、リュ・リーンの考えは違っていた。
 リーニスの南東部地域を失って士気が地の底まで落ち込んでいるときに、総大将が後方から叱咤したところで下士官たちが王家に忠誠を誓うはずがない。自分が誰よりも先に危険に立ち向かい、自らが彼ら以上の働きを見せる必要がある。
 論より証拠と言うわけではないが、ここのところリュ・リーンが自らが立てた作戦を、自らが指揮する軍勢で先頭切って行うとき、彼の指揮する隊に志願する騎士の数はうなぎ登りに増えている。
 民のためにその命を投げ出せ。と騎士たちは自分たち独自の精神学で学んでいるが、人間いざ命を投げ出すとなると、どこかに躊躇いがあるものだ。その彼らの気後れを払拭するためには、彼らすべての上に立つリュ・リーンがそれを実証してみせなければならないのだ。王の後継者だから、などと奥に引っ込んではいられない。
「まぁ、そのうちに機嫌も直りますよ。そうそう、武勇伝を部下から聞きましたぞ。あの状況で落馬しなかったばかりか……」
「もういい! アッシャリー。その話をするな。またウラートの機嫌を損ねる」
 先の戦闘で負った傷を手当したばかりのリュ・リーンの顔は半分を包帯に覆われていて痛々しいばかりだが、子供地味た不機嫌さに歪む表情は豊かだった。
 幼い頃から自分と一緒の時を過ごしてきたウラートにリュ・リーンは頭が上がらない部分がある。他人からは、臣下に遠慮しているような姿は覇気がないように映るかもしれないが、リュ・リーンはわざわざウラートとの仲を悪くしてまで、主従の関係を確認したくはなかった。
 アッシャリーがどう思ったかは知らないが、笑みを噛み殺したように歪んだ口元がさりげなく彼の心情を物語っているようだった。
「失礼を。ところで、殿下。今夜もいつものように下士官たちと食事を?」
「あぁ。無様な格好だが、顔を出すつもりだ」
 リュ・リーンがここへ来てから習慣にしていることに夕食は部下の下士官たちとともに摂る、ということがある。夜間の作戦を入れない限り、リュ・リーンは欠かさずその席に顔を出し、余裕があるときは彼らに僅かばかりではあるが酒を振る舞った。
 下士官たちの間でのリュ・リーンの評判は以前からそう悪いものではなかったが、この習慣ができて以来は特に平民出の下士官の間では熱狂的に支持を受けるようになっていた。
「酒は厳禁ですな。傷に響きますから」
 アッシャリーに言い渡されなくても、一緒に顔を出すウラートが許しはすまい。だが、それを敢えて口に出してアッシャリーに笑われることもないだろうから、リュ・リーンは沈黙でそれに答えた。
「しかし、ウラート卿が補給部隊を請け負うようになってから、我が軍の物資は随分と豊富になりましたなぁ。今では食料や武器の確保に奔走していたことが夢のようで……」
 建物の前に到着するとアッシャリーは先に立って扉を開け、恭しくリュ・リーンに先を譲った。
 それに軽く手をあげて答えながら、リュ・リーンは我がことを褒められたように晴れやかに微笑んだ。
「あいつは俺にはもったいないくらいの奴だよ」
 肩で風を切り、部隊長たちが待つ部屋へと入っていくリュ・リーンの後ろ姿を見守るアッシャリーの顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。




「ウラートの奴、遅いなぁ」
「補給物資が先ほど届いたそうですから、分配しておられるのでしょう? ……すぐに見えますよ」
 スープをすくう動作を止めて隣を気にするリュ・リーンに同席している下士官の一人が苦笑しながら答える。
 いつもなら隣の席にはウラートが陣取って、野菜を残すな、酒を飲み過ぎるなと口うるさく世話を焼くのだが、今日は未だに姿を見せていない。
 昼間にかなりウラートを怒らせてしまっている。
 もしかしたら愛想を尽かされたのかもしれない。そんな埒もない考えが頭をよぎり、リュ・リーンは小さく嘆息した。
 夕食を下士官たちと摂るよう進言したのはウラートだった。
 軍属の者の間でも”魔の瞳(イヴンアージャ)”と呼ばれているリュ・リーンの瞳の色はあまり好もしくは思われてはいない。
 だが初陣から連戦連勝の彼の武勲が辛うじて兵士たちの拒否感を和らげ、軍人としての彼の支持を支えていた。
 その危うい立場を確かなものにするために、ウラートは下士官たちの輪のなかに入っていくことをリュ・リーンに勧めた。
 将軍などの地位の高い軍人とはトゥナの王宮にいたときから親交がある。だが戦で直接的に戦闘にかかわる下士官たちとの接点は王太子であるリュ・リーンには少ない。
 下士官たちの支持を得なければ、今回のような大戦で強権を駆使することはできそうもなかった。ウラートの進言は的を得たものだ。
 しかし身内でも彼の瞳に嫌悪感を抱く者がいることを知っているリュ・リーンにはウラートのこの申し出を実行することは最初のうちはかなりの抵抗感を伴った。潜在的に今現在自分と親しくしている者以外を避けてしまう。
「殿下、お身体の具合が良くないのですか?」
 リュ・リーンの食があまり進んでいないのを、今日の戦闘で負った傷が痛むからだと思ったのだろうか。灰色がかった髪の若者が声をかけてきた。
 顔をあげて隣のテーブルに坐る若者を確認するとリュ・リーンは笑顔を向けた。確か、彼はリーニス地方の領主の息子だったはずだ。
「いや、身体の具合は悪くない。今日は少し暑かったからな。あまり食欲がでないだけだ」
 傷が痛まないわけではないが、耐えられないほどのものでもない。
「あまりご無理をなさっては……」
 領主の息子のついているテーブルの向こうから別の下士官が心配そうな顔をしてリュ・リーンを見つめている。
「侍医が大袈裟なだけだ。ここまで包帯を巻くこともないのにな」
 下士官たちの心配を払拭するようにリュ・リーンは苦笑いを浮かべて肩をすくめて見せた。
 ウラートの進言は間違ってはいなかった。
 初めて彼らと食事をしたときは、彼ら以上にリュ・リーンが緊張していてウラートがいなければどうなっていたことかと今でも思う。
 だが徐々に彼らに馴染み、ごく普通に会話できるようになってみると、今まで上からしか物を見ていなかった自分が見えてきた。
 以前のリュ・リーンであれば、下の者に気を使うなどということはなかった。
「大した怪我じゃない。まわりが大袈裟なだけだ」
 誰よりも自分に言い聞かせるようにリュ・リーンは続けた。
「……そうでしょうとも!」
 不機嫌な口調で背後から声がかかった。
 振り返ったリュ・リーンの視界に彼の守り役ウラートの姿が映る。
「ウラート! ……遅かったな」
 そのウラートが機嫌の悪そうな表情のまま自分の席までやってきた。チラリと主人の皿を覗く。
「野菜が残ってますよ、リュ・リーン」
 ウラートは相変わらず野菜嫌いな主に嘆かわしそうな視線を向けると、自分の席に着く。
「……今から食べようと思っていたところだ」
 頬を膨らませて抗議するリュ・リーンなど眼中にないといった風情でウラートはパン籠から大麦パンを取り出した。
 膨れたまま煮込み野菜を口に押し込むリュ・リーンと、それを横目で厳しく見守るウラートとを交互に眺め、下士官たちがやれやれといった顔をして互いに顔を見合わせた。
 食事のときに二人が繰り広げるやりとりにはハラハラさせられることが多いが、今日のウラートの機嫌の悪さは特別に酷い。いつもはこれほど気難しい顔などしない人物なだけに二人の間に何かあったのではないかと気を揉んでしまう。
 煮込み料理をよく噛みもせず飲み込んでいくリュ・リーンの視線は、その料理を平らげるまでとうとう一度もあげられなかった。さらに口のなかの野菜の味を消そうとスープを一気に飲み干す。
「コックがあなたの食べる様子を見たら泣きますよ」
 ようやく人心地ついたリュ・リーンの耳にウラートの毒舌が届く。
 ムッとしたリュ・リーンは、その毒舌を吐いた友人のほうを振り向いた。視線は険しい。
 だが、リュ・リーンの視界にウラートの横顔は映らなかった。視界一杯を占めるその物体に驚いてリュ・リーンは喉まで出かかっていた悪態を飲み込んだ。
 よく見るとそれは丸められた羊皮紙だった。すぐ目の前に鑞封が見えた。
 マジマジとそれを見つめていたリュ・リーンは、その鑞封の上に押された印章を確認して目を見開いた。
 “清花(カリアスネ)の紋”!
「ウ、ウラート……。いつ、これを?」
 顔の表情を変えずに自分を見つめる学友にリュ・リーンは問いかける。
「今朝あなたが勝手に出陣した後すぐに伝使が到着しました」
 淡々と答えるウラートをリュ・リーンは睨んだ。
「だ、だったら昼間のうちに渡してくれても良かったじゃないか!」
「すっかり忘れていました」
 だからどうした、といった顔つきでウラートがリュ・リーンを横目で見る。ふてぶてしいその態度にリュ・リーンのほうが鼻白んだ。
「ウラ……」
「受け取らないのですか? 読まないのなら、捨てますけど?」
 ウラートの冷淡な口調に慌てたリュ・リーンは学友の手に握られた羊皮紙をひったくった。冗談ではない、そんなことをされてたまるか!
 顔を引きつらせて羊皮紙の無事を確認するリュ・リーンの様子をため息混じりに見ていたウラートが投げやりに話しかける。
「食事が終わったのなら、自分の天幕に戻ったらどうです?」
 昼間のしっぺ返しを終えてウラートは満足したのだろうか。リュ・リーンに興味を失ったように自分の食事を再開させた。
 リュ・リーンはウラートの無礼な仕打ちも忘れて立ち上がると、下士官たちへの挨拶もそこそこに建物から飛び出していった。
「ウラート殿。国元からの危急の知らせでも?」
「まさか! 王宮からでしたら、早馬を使います」
「では……?」
「聖地から、ですよ」
「えぇ!?」
「聖衆王のご息女からの手紙です」
 それだけ言うとウラートは沈黙してしまった。
 まわりの下士官たちの間に小さなざわめきが拡がる。エンダル台地での出来事は、皆が噂に聞いて知っていた。
 自分たちの主の慌てように誰とはなく笑い声をあげた。
 その下士官たちの様子を盗み見ながら、ウラートは一人考え込んでいた。
 今日のリュ・リーンへの嫌がらせはちょっと度が過ぎただろうか? だが人の心配をよそに勝手をするリュ・リーンも悪いのだ。
 ……でも。もしかして自分は聖地の姫に嫉妬しているのだろうか?
 愚かしい考えが胸をよぎり、ウラートは顔を歪めた。
 今までリュ・リーンはウラートに頼りきっていた。
 リュ・リーンの癇癪癖などを考えると、彼の人格形成の上でそれは非常に拙い事態であることに気づいて、ウラートは最近はリュ・リーンの世話を焼く手間を徐々に減らしていた。
 しかし、それは寂しいものでもあった。
 自分を頼ってくる主人を邪険に扱い、彼がそれに馴れて自分で自分を律するようになる様を見るのはウラートに寂寥感を伴わせた。
 いつか、いや来年にでもウラートのリュ・リーンの守り役としての役割は、彼の結婚という節目とともに終わるだろう。
 だがリュ・リーンの新しい伴侶に彼を渡したところで、自分がお払い箱になるわけではない。有能な部下としての役割は残っているのだ。
 それでも寂しさは残る。
 自分の矛盾した考えに辟易すると、ウラートはため息を殺すために煮込み野菜を頬ばった。

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