石獣庭園 -Wing on the Wind-

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金芳果酒の記憶

No. 67 〔24年以上前〕 , 銀王宮年代記,金芳果酒の記憶 , by otowa NO IMAGE

 星が降ってきそうな夜だ。月のない初冬の夜はいつもそう。凍りついた星たちはチリチリと鈴のように鳴り響く。
 白く凍る息が鼻先をくすぐり、微かな温みを伝える間もなく空気の塵と消える。
「ミリア……!」
 少々腹を立てたような男の声が背後から響き、女の星空鑑賞は中断した。
「この寒空に何をしてるんだ! 早くこちらへ!」
 振り返って見れば、海色の瞳が自分を睨んでいる。だが口調の響きの厳しさほどに男の表情に怒りは浮かんでいなかった。
 背の高い男だ。豪勢な宝冠(ケティル)を思わせる金髪の巻き毛が白い顔を縁取り肩先から乱れ落ちる様は、男が慌ててここへ駆けつけたであろうことを予想させた。
 ふと視線をずらして男の後ろを伺うと、七~八歳の少年の不安げな表情にぶつかる。
「ウラート……。お前が言いつけたのね?」
 ため息をつきながら男の元へ歩み寄ると、女は首を傾げて少年を軽く睨んだ。少年が顔を強張らせ視線を伏せる。
「ミリア・リーン。ウラートを責めるんじゃない。この寒さの中、外気に当たっているそなたのほうがどうかしてるんだ」
 男の口調にやり切れない怒りを感じて、ミリア・リーンは男の青ざめた顔を凝視した。真冬ならばともかく、初冬の寒さ程度でこれほど狼狽されるとは思いもしなかった。
「ごめんなさい……。星があんまり綺麗だから……」
 大人しく詫びながら、ミリア・リーンは少年に微笑みかけた。頬にかかる自分の栗毛の髪を掻き上げる仕草はどこか気怠げだ。
「どちらに謝っているつもりなのだ、まったく……!」
 忌々しそうに男は舌打ちすると、何の前触れもなく女を抱き上げ、軽々と室内の寝椅子へと運んだ。それを背後から、少年があたふたと追ってくる。
「ウラート、もっと火をおこせ! 部屋の中まで冷え込んでる。まったく、なんてことをしてるんだ、ミリア。少しはまわりの者に心配させないようにしてくれ。そなたは余の寿命を縮めて嬉しいか!?」
 自分の羽織っていた毛皮を女の肩に羽織らせ、男がガミガミと説教を始める。
 それをしおらしく聞いていたミリア・リーンが小さな笑い声をあげた。突然の相手の反応に思わず男の声が途絶え、暖炉に薪をくべて火掻き棒で掻き回していた少年がビックリしたように眼を見開いて振り返った。
「な……何が可笑しいんだ。笑い事ではないぞ!」
 憤慨した表情の男の肩に頬を預けてミリア・リーンはひとしきり小さな笑い声をあげ、それが収まると呆気にとられている少年を差し招いた。仰々しく自分の足下に畏まる少年の態度に苦笑する。
「ウラート。給仕室に金芳果酒(ゴールドベリー)があるはずよ。持ってきてくれる?」
 小走りに走り去る少年を見送ったあと、ミリア・リーンが男の顔を振り仰ぐと、複雑な表情をした男が何か言いたげに口を開きかかっているところだった。それを唇にそっと指を当てて押しとどめる。
「シャッド・リーン……。つき合ってよ。あなたも久しぶりでしょ? 金芳果酒(ゴールドベリー)は」
 楽しげに微笑む女の顔は美しいが、どこか疲れを漂わせていた。しかし決して「疲れた」だとか「気分が悪い」とか、弱音を吐かないその横顔に、強く反対もできず、シャッド・リーンはふてくされたように頬を膨らませた。
「わがままな奴だな……」
「あら、あなたには負けるわ、シャッド。私に結婚を申し込んだときの言葉を忘れたわけじゃないでしょうね?」
 ニヤリと悪戯っぽい笑みを返してきたミリア・リーンの顔に浮かんだ一瞬の生気が、彼女の表情を眩く輝かせる。
 それを眼を細めて見つめ、シャッド・リーンはそっとその肩を抱きしめた。元から華奢な質の身体が最近はいっそう細くなった気がする。
 内心で思っていても、それを口に出しては言えない。しかしそれを見透かしたようにミリア・リーンが問いかけてくる。
「私、しばらく見ないうちに痩せたでしょ? ……夏の間、あまり食欲が出なかったし」
「なんだ、余がいなかったから寂しかったのだろう?」
 ミリア・リーンの囁く声をうち消すように、シャッド・リーンはおどけた声をあげてみせた。
 それに応えるように相手があげる笑い声が自分のよく知る明るいものであることにホッとして、シャッド・リーンは再び妻の肩を抱いた。
 凍てつくこの王国を守るために、冬以外の季節を戦場で過ごすシャッド・リーンには、国元で自分の帰りを待つ妻の様子など知りようもない。
 時折、戦地に届く妻からの手紙と、留守を預かる内務大臣からの報告書だけが彼が妻の様子を知る唯一の手がかりと言っていい。
「シャッド・リーン、疲れたんじゃないの? リーニスから帰ってくるなり、大臣たちに捕まって政務室に押し込められていたんでしょ? 毎年のこととはいえ、この時期のあなたの忙しさは尋常じゃないわ」
「もう十日以上、溜まった書類の決済に追われてるよ。……寝る間もないくらいだ。いい加減に休みをもらうぞ。余の身体が保たないからな」
 深いため息とともに首を振りながら、シャッド・リーンはうんざりしたように妻の問いに答えた。毎年、夏の間に溜まっていた書類が戦地から帰ってくる彼を待ち受けているのには馴れたが、その量は半端ではない。
 緊急を要するような書類は代理人である内務大臣が処理していたり、戦地までわざわざ役人が飛んできて決済を仰いだりしているが、それ以外の煩雑なだけで重要性の薄いものはどんどん後回しにされて、王の帰りを待ちわびている状態なのだ。
 冬の始めの彼は戦地での疲れを癒す間もなく書類たちと格闘している。
 戦地で敵と睨みあっているほうが数百倍ましだ、と愚痴をこぼすシャッド・リーンをミリア・リーンは慰めるように微笑んだ。夫の負担を軽くすることも叶わず、慰めることしかできない自分がもどかしくもある。
「そういえば、食事もまともに摂っていない気がする……」
 シャッド・リーンは部屋のなかを見回し、小卓(ハティー)の上に果物をふんだんに盛った籠と茶器を見つけた。
「ミリア・リーン。あの籠の中の物をもらうぞ?」
 シャッド・リーンは妻が返答する前に立ち上がって、小卓(ハティー)へと近寄る。
 籠の中にはレモンやリンゴ、ライムなどが見栄えよく盛られていた。その果物の中からアロムと呼ばれている薄紫色の握り拳大の実を取り出す。柔らかい産毛に覆われた薄皮を指で摘んで剥いていくと、中からは淡いクリーム色をした果肉が覗く。爽やかな甘い香りがふわりと辺りに漂った。
 つやつやと果汁を浮かべた実にかじりつき、シャッド・リーンは籠を脇に抱えると妻の元へと戻ってきた。あまり行儀のいい姿とは言えまい。
 あっという間にアロムを平らげたシャッド・リーンが指についた果汁を舌で舐め取っている。庶民ならばともかく、王侯貴族にしてはぞんざいな仕草だった。
「相変わらずお行儀の悪いこと。どうしてナイフやフォークを使わないのかしらね、あなたって人は」
 呆れたようにミリア・リーンが呟き、夫の腕から果物籠を取り上げた。
 寝椅子の脇に据えられているワゴンに籠を置くと、なかからリンゴとナイフを取り出し、器用に手の上で四等分する。芯の部分に切り込みをいれ、丁寧にそれを切り離すと皮を剥こうと実をクルリと裏返した。
「待った! 皮つきのほうがいい」
 妻が切り分けたリンゴの切れ端を素早く横からさらって、シャッド・リーンは口に放り込んだ。
「もう!」
 頬を膨らますミリア・リーンに悪戯っぽい笑みを向けると、シャッド・リーンは他の切れ端もねだって手を差し出した。夜も更けてきて、物を食べるには遅い時間だということはまったく考えていないらしい。
 乾いた軽い足音が響き、少年が腕に壺を抱えて入ってきた。二人の様子に躊躇いを見せたが、すぐにワゴンに近づき酒杯の準備を始める。
「ありがとう、ウラート。……どう? お前も飲んでみる?」
 健気に二人分の銀杯を磨き、陶磁器の壺を傾げて酒を注ぎ分けていた少年の手元がパタリと止まった。当惑した様子で二人の顔を交互に見比べ、その不躾さに気づくと顔を赤らめて下を向く。
「あの……陛下。僕はお酒はまだ……」
 恐る恐るといった感じでミリア・リーンを見上げる少年の瞳には確かに好奇心の色があったが、自分から杯を差し出すような度胸もなく、どう答えればいいのか図りかねている様子だ。
 クスクスと喉で笑い、女が少年を自分の側へと差し招いた。おずおずと近づいて跪く少年の前髪をそっと掻き上げ、その夜明け色をした幼い瞳を楽しそうに覗き込む。
「違うわ、ウラート。“陛下”ではないでしょう?」
 耳まで赤く染めて口ごもった少年が、助けを求めるように傍らの男へと視線を向けた。
 そして男が小さく頷くのを確認すると、いっそう顔を赤らめながら女の白い顔を見上げる。栗毛に縁取られた女の白い顔が、夜の薄闇に月のように浮かんで見えた。
「“母上”。僕はまだ……酒杯を頂ける歳ではありません」
 少年の緊張した顔を満足げに眺め、ミリア・リーンは静かに頷いた。
「そうだったわね……。秋にようやく八つになったばかりだったわ。ウラートは大人びて見えるから、つい忘れていたわ。私としたことが、うっかりしていたこと。
 そうね、私もこのお酒を初めて口にしたのは十を少し過ぎた頃だったわ。お前がその年齢になるのでさえ、あと二年待たないと駄目なのね……」
 ウラートが驚いて眼を瞬かせる。
 酒を嗜むことを公式に許されるのは、成人する十三の年齢以降だ。こっそりと盗み飲みするというのであれば、気の早い少年たちがその一~二年ほど前から悪戯心で口にすることはある。
 だが十やそこらの少女がこの“金芳果酒(ゴールドベリー)”を口にするとなると話は別だった。蜜酒(ミード)のなかでもアルコール度数が高めのものに金芳果を漬け込んで香りづけをしたこの酒は、子どもが初めて飲むには少しばかり強い酒だ。
 寒冷なこの地方での飲酒は成人した者には日常的なものだ。
 しかしさすがに幼い子どもたちに強い酒を飲ませるわけにもいかず、寒い時期の就寝前に子どもが飲むものといったら大抵は蜂蜜を湯で割った蜜湯だとか、穀造酒(ソーマ)を作る課程で出る酒粕を利用した粕湯だとかの甘い飲み物が一般的だった。
 ミリア・リーンの隣で二人の様子を見守っていた男が低い笑い声をたて、悪戯っぽく少年にウィンクを送る。
「正式にはあと五年も先だな。まぁ、興味が出てくる年頃ではあるだろうが……。ウラート、小卓(ハティー)の上にある水差しとカップを取ってこい。何倍にも薄めて飲めばいいだろう。今夜は冷え込みそうだ。身体を暖めるには、酒は丁度良い」
 呆気にとられて男の言葉を聞いていた少年が飛び上がるようにして暖炉の傍らに置かれた小さなテーブルへと飛んでいった。だが、いざ水差しとカップを取ると、はたと立ち止まっておっかなびっくり振り返る。本当にこの歳で酒杯など受け取っていいものかと、困惑した表情が自分を見守る二人へと問いかけていた。
「早く水差しを持っていらっしゃい、ウラート」
 楽しそうに震えている女の声に少年が意を決して水差しとカップを抱え戻ってきた。ワゴンの上に置かれた銀杯の横に陶製のカップを並べると、再び問いかけるように男に視線を送った。
 無言のまま男がワゴンの脇へと歩み寄り、酒壺を取り上げ、少年の用意したカップに黄金色の液体を流し入れる。辛うじて底が隠れる程度の少量が注がれると、今度は水差しを持ち上げて七分目まで水を満たす。
「リュ・リーンには内証だぞ、ウラート。あれの年頃だとお前のやることをなんでもやりたがるからな」
 秘密の話を打ち明けるようにシャッド・リーンがひそひそとウラートに耳打ちした。それに頷いて答えながらも、ウラートの視線は目の前のカップの中身に注がれていた。
「ここへおいでなさい、ウラート」
 ミリア・リーンの声に少年が顔を上げた。彼女の指し示したところは、柔らかな寝椅子の上だ。戸惑いながらもそこに腰を落ち着けた少年にシャッド・リーンがカップを手渡す。同じようにミリア・リーンにも銀杯が手渡される。王妃が銀杯を掲げ、少年に分かり易いように酒杯の掲げ方を示して見せた。
 少年が真似をして陶製の酒杯を掲げると、待ちかまえていたように頭上から声があがった。
「我が息子の親友が踏み出す大人への一歩に、乾杯」
 男の低い声に続いて女の柔らかな声が同じように唱和した。
 それぞれが酒杯を干して、お互いに秘密の約束を交わすように小さな笑い声をあげると、三人はふと何かに呼ばれたように暖炉の炎に魅入った。炎が踊る様は、まるで三人の様子を眺めて笑っているようだった。



寝椅子の上で眠りこける少年の背にショールを掛けながら、ミリア・リーンは小さな笑みをこぼした。
「まだお酒は無理だったかしらね……。すっかり酔っぱらって眠ってしまったわ」
 すやすやと寝息をたてている少年の寝顔を見つめ、シャッド・リーンが低い笑い声を漏らした。悪戯っぽい印象を与えるその笑顔が大きな体躯とは反対に子供じみて見えた。
「あれだけ薄めれば大丈夫かと思ったが。まぁ、睡眠薬代わりにはなっただろうがな。子どもが起きているには少々遅い時刻だ、どれ、部屋に連れていこうか」
「いえ、いいわ。今日はリュ・リーンと一緒に寝かせるから。この子の寝起きしている部屋には、他の小姓たちもいるわ。起こしてしまっては可哀想でしょう。……リュ・リーンのベッドなら子どもが二人寝ても十分な広さがあるでしょうしね」
「じゃ、連れていくことにしようか……。ここにずっといたのでは風邪をひくからな」
 寝椅子から立ち上がると、シャッド・リーンは軽々と少年を抱き上げて部屋の奥へと向かった。
 向かった先には美麗な彫刻を施した扉が見える。他の落ち着いた内装とは雰囲気が違う。どこか幼さを感じるその装飾の扉を開けると、シャッド・リーンは背をかがめて向こう側の空間へと消えた。
 戻ってきたシャッド・リーンの眼に暖炉の炎に魅入る妻の横顔が映った。
 以前よりも妻は痩せたようだ。頬が痩けたとか身体が骨張ってきたとか、そういう一目でわかる変化ではなく、全体の作りが一回り小さくなったような感じの痩せ方だった。
「ミリア・リーン。そなたも眠ったほうがいい。今日はもう遅い……から……」
 シャッド・リーンの声にミリア・リーンは振り返った。穏やかだが寂しげな視線にシャッド・リーンは言葉が詰まり、その場に立ち尽くしてしまう。彼女はこんな寂しい瞳をする女だったろうか?
「そう追い立てないでよ。半年ぶりに戦地から帰ってきたと思ったら、お説教? 私はそんなにお荷物かしら?」
 ミリア・リーンの囁き声に胸を突かれ、シャッド・リーンは思わず視線をずらした。
 そんなつもりはなかった。だが妻を病人扱いし過ぎて、傷つけてしまったことだけは確かだ。
 いや実際に病人なのだ。胸を患っているミリア・リーンを本来トゥナの王宮に留めておくのすら、臣下の者たちを(なだ)めすしてようやく了承させている状態なのだから。
「ミリア……」
「……そんな泣きそうな顔をしないで。まるでこちらが虐めているみたいじゃないの。ちっとも治らないのね、あなたの泣き虫なところは」
 ため息とつくとミリア・リーンは寝椅子に深く身を埋めた。どこか遠くを見つめるように空を彷徨っていたミリア・リーンの視線が再びシャッド・リーンへと向けられた。
「わかったわよ。わがままは言わないわ。大人しく寝るから、寝室へ連れていってよ」
 ミリア・リーンの差し出した手を取り、彼女を抱き上げようとしたシャッド・リーンの動きが止まった。
「シャッド……?」
 次の瞬間、ミリア・リーンは息ができないほど強く抱きしめられていた。
 自分よりも遙かに大柄な相手に抱きしめられているというのに、それは小さな子どもがしがみついているような感じがする。
「オレを置いていくな、ミリア……!」
 震える囁き声にミリア・リーンはしばし瞑目した。
 胸の病はいっこうに快方に向かわない。それどころかどんどん自分から命を削り取っている。確実に忍び寄ってくる死の影に怯えているのは、自分のほうだと思っていたのに……。
「ねぇ、シャッド……。初めて金芳果酒(ゴールドベリー)を飲んだときのこと、覚えてる?」
 どこか夢見るようなミリア・リーンの声にシャッド・リーンは彼女を縛めていた腕を弛め、突然に何を話し出したのかと相手をじっと見つめた。
「お互い十歳になって、聖地へ留学していて……。私が散々意地悪してるのに、あなたったら懲りもせずに私に結婚を申し込んだわ。断っても断ってもつきまとって……。
 挙げ句に聖地で作らせた竪琴(リース)と居候先のレーネドゥア家の台所からくすねてきた金芳果酒(ゴールドベリー)を持ち出して、私の寄宿先に押しかけて来たと思ったら『結婚してくれなきゃ、この場で死んでやる!』って……」
 クスクスと笑い声をたてて自分の肩に寄りかかる妻を抱き留めたまま、シャッド・リーンも思い出していた。
 もう二十年近くも前の話だ。日常に埋没して、改めて思い起こさなければ浮かんでこない記憶……。
「あなたが死んだら、私の母は諸手をあげて喜ぶし、あなたの母親は悔しがるだろうに。お互いが王位継承権を巡って争っていることも忘れているんだから……。本当に、あなたったらどうしようもないバカだわ。私が断ったら本気で死ぬつもりだったわけ?」
 何も答えることができず、シャッド・リーンは妻の言葉に耳を傾け続けた。ミリア・リーンのほうも夫の返事を期待していたわけでもなさそうで、再び話を続ける。
「私が根負けして承諾した途端、持ってきた竪琴(リース)を結納の品物だって押しつけて……。誓約の杯を交わすって金芳果酒(ゴールドベリー)を飲ませるんですもの」
「だって……。他の奴に横取りされたくなかったし……」
 自分の声がひどく子どもっぽく聞こえて、シャッド・リーンは狼狽した。
「横取り……? 十歳の子どもだったのよ? 誰がそんなことするのよ」
「だって……! ミリアには従兄弟だっていたし、オレより一ヶ月年上だから先に成年になるし! 口約束だけじゃ、大人たちは取り合おうとはしないだろし! 異母弟のオレじゃ圧倒的に不利だと思ったんだ」
 ムキになって反論しながらも、シャッド・リーンは自分が子どものように駄々をこねているような錯覚に狼狽し続けていた。
「おチビで泣き虫で淋しがりやのシャッド・リーン……。置いていきやしないわよ」
「うるさい。オレはもうチビじゃない……。嘘つきミリア」
 泣きそうな顔を見られまいと、シャッド・リーンは妻の身体を抱きしめた。
「心配で置いていかれやしないわ。あなたもリュ・リーンも、泣き虫で甘えん坊で、淋しがりやで……」
「オレは小さな子どもと一緒か……?」
 苦笑しながら自分を見上げる妻の白い顔がゆらりと歪み、膜が張ったようにぼやけた。慌てて顔を背けたシャッド・リーンの頬をミリア・リーンの両手が包んだ。夜気に少し冷たくなった指先がどこか頼りなく感じる。
「シャッド・リーン。泣かないで。あなた強い王になるって約束したでしょう?これからも私や私の六人の子どもたちを守ってくれるんでしょう?」
 言葉もなく肯き返す夫の涙に歪んだ顔を見つめて、ミリア・リーンは微笑んだ。
「私はいつだって、“ここ”にいるわ」
 そう言うと、ミリア・リーンは夫の胸元を指先で叩いた。まるで竪琴(リース)を奏でるときのように、優雅にリズミカルに。
「ずっとあなたの側にいるって、約束したでしょう?」
 自分の胸に身を委ねる妻の声を耳の奥に刻みつけながら、シャッド・リーンは涙を拭った。
 約束は守られるためにある。自分は妻に強くなることを約束した。妻が生涯自分の側にいることを約束したように。他の誰でもない、自分が生涯ただ一人と誓った女に約束したのだ。
「約束だ……。オレの側にずっといてくれ」
 胸に抱きしめた妻が静かに肯く気配を察して、シャッド・リーンは腕に力を込める。記憶の彼方にある約束を再び繰り返し、王は妻の柔らかな髪に頬ずりした。




 冷たくなってきた夜気の中に立ち尽くし星を見上げる。鋭い光を放つ流れ星が一瞬黒い夜空を照らし、すぐに闇に溶け込んだ。
 星だけが輝く空は黒絹を拡げた布のようで、何もかもを覆い尽くしてしまうようだった。
 扉を叩く密かな音に、ふと我に返った。
「入れ……」
 外気で冷えた喉から出た声は厭にしわがれて虚ろな音となって聞こえた。
 扉から滑り込んできた者を確認して、シャッド・リーンは穏やかな笑みを浮かべる。
「ウラート。……リュ・リーンの様子はどうだ?」
「ご機嫌麗しゅうございますよ。……最近では、すっかり大人しくなってしまって。あのやんちゃだったリュ・リーンが嘘のようです。家具職人が嘆いているかもしれませんよ。今までは月に一度は家具の修理やら何やらをしていたのに、この一年ほどは、リュ・リーンの名前での注文がまったくないのですからね」
 肩をすくめて答えながら、若者は手に捧げ持っていた酒壺と銀杯を暖炉脇のテーブルへと運んだ。茶髪が暖炉の明かりに照らされて一瞬金色に輝く。
 振り向いた青年の面差しに昔日の幼さはなく、聡明な視線が穏やかにシャッド・リーンを見返していた。
「リュ・リーンの奴ももうすぐ十八だ。カデュ・ルーン姫との婚礼も間近い。いい加減に落ち着く年頃だろう」
 青年が手慣れた様子で銀杯を磨き、酒をなみなみと注ぐ様子を見守りながらシャッド・リーンは暖炉の側まで椅子を引きずっていき、どっかりとそれに腰を下ろした。凍え始めていた身体に、暖炉からの温みが心地よい。
「……今日の酒はなんだ? いつもの穀造酒(ソーマ)か?」
 黙々と作業をしていた青年の手が一瞬だけ止まり、酒を注ぐ作業を再開させながら、低い声で返事をする。
「……いえ。今日は金芳果酒(ゴールドベリー)です」
 青年の返答にシャッド・リーンは眼を見開き、問いかけのために口を開きかかった。だが思い直したように口を閉ざし、眼を閉じて物思いに耽る。
「どうぞ、シャッド・リーン陛下」
 優雅だが無造作に酒杯を差し出す青年の態度にシャッド・リーンは苦笑した。
 ふと見れば、すでにウラートの片手には銀杯が握られている。再び目の前の酒杯に視線を落とす。杯のなかに満ちる金色の液体からは金芳果特有の甘ったるい香りが立ちのぼっていた。
 それを受け取り、シャッド・リーンは酒の香りを愉しむように静かに銀杯を揺らした。
 ふと思い出したようにシャッド・リーンは青年を見上げた。藍色の静かな瞳が自分を見下ろしている。
 かつてのウラートなら大袈裟なくらいに畏まっていただろうに、今は太々しいほど堂々と自分の目の前に立つようになった。あの日からどれくらいの時が経ったのだろうか? 過ぎた年月を数える。
 ……十三年だ。まだつい昨日のことのように覚えているというのに。
 十三年という年月を思い、シャッド・リーンは不思議な感慨を覚えた。自分の髪にも白いものが混じるようになった。
 確実に積み重ねられていく齢がどこか信じられないような気もする。
 奴隷商からこの青年を買い取ってからだと十六年の月日が流れている。時の流れの速さを痛感しながら、シャッド・リーンは青年の掲げる銀杯と己の持つ杯とを打ち合わせて、微笑みを交わした。
「麗しき我が王妃陛下に献じて……」
 十六年という年月の間に、甲高い子どもの声から低い大人の声に変わったウラートの声を頼もしげに聞きながら、シャッド・リーンは銀杯を傾ける。
 金芳果酒(ゴールドベリー)は舌に甘みを残して胃の腑へと落ちていった。じわりと身体の中心に熱が拡がる。
 酒特有の感触に浸り、シャッド・リーンは座っていた椅子に深く身を預けた。
「忙しくなるな……、ウラート。お前の守り役としての務めもまだしばらくは続くかもしれん」
 傍らに佇む青年があげる小さな笑い声に耳を傾けながら、シャッド・リーンは炎を見つめた。あの日、妻がじっと魅入っていたように、穏やかに、静かに……。
「御意のままに……。私はそのためにここにいます」
 明朗な若者の声にそっと頷くと、トゥナ王は掌中で揺らし続けていた酒杯をあおった。
 喉を流れ落ちていく酒がいやに熱く感じる。その熱が胸一杯に拡がって王の身体から冷気を追い払う。
「あまり飲み過ぎないでくださいね、陛下。宿酔(ふつかよ)いなんかになったら、それこそリュ・リーンに噛みつかれますよ」
 自分の酒杯を片づけようと小卓(ハティー)に寄ったウラートの背に王の低い声が届いた。
「ウラート。銀杯はそのままにしておけ……。明日の朝にでも片づければいい」
 どこか気怠げな響きのあるその声にウラートはチラリと肩越しに振り返った。だが王の言葉に返事を返すことはない。
 小卓(ハティー)から離れ、暖炉に薪をくべて炎をやや強めると、ウラートは改めて王に向き直る。
 王は先ほどと同じ姿勢で瞳を閉じていた。その横顔には、癒しようのない孤独がにじんでいる。
 どこか遠くに思いを馳せている様子の王の瞑想を邪魔せぬよう、ウラートは軽く一礼すると足音も静かに居室から退出していった。
 室内に響く音は薪のはぜる微かな音だけだ。
 ふと眼を開けたシャッド・リーンが立ち上がると小卓(ハティー)に歩み寄った。
 酒壺を取り上げ、自分の酒杯と空いている銀杯に金芳果酒(ゴールドベリー)を満たす。琥珀色とも黄金色ともとれる液体がゆらゆらとその表面に波紋を広げた。
 二つの銀杯を取り上げたシャッド・リーンは、ゆっくりとした足取りでテラスへと向かった。
 先ほど閉ざした扉を開け、突き刺す夜気のなかに足を踏み込む。さして広くもないテラスの手すりにもたれかかり、再び星を見上げた。
 冴え冴えと光り輝く銀の星たちは、無言のまま王を見下ろしていた。
 手にした銀杯の一つを高々と頭上に掲げる。宵闇に白く銀杯が浮かんだように見える。
「ミリア……。乾杯しよう」
 暗い天空を見上げるシャッド・リーンに応えるように、流れ星が一つ糸を引くように長く流れた。
「偉大な王がもうすぐ誕生するぞ……。そなたの息子を誇るがいい」
 再び星が流れた。今度は連なるように二つ。
「そなたにも息子の嫁を見せたかったよ……。銀の髪に若葉色の瞳の……まるで白いカリアスネの花のような娘だ。お前も気に入ったろう」
 腕が疲れたのか、シャッド・リーンは掲げていた酒杯を下ろしてテラスの手すりに据えた。
 眼下に移した視線が遠くに見える大河の白い姿を捉える。峡谷の岩肌を削って流れゆく河の水音が時折耳に届いた。
 誰に問いかけるともなしに、王はテラスにもたれかかり囁いた。
「そちらは楽しいのか? ここに戻ってくることを忘れるほど……。余は退屈で仕方がないぞ、ミリア・リーン。余の元に戻ってこい。神が怒ろうと余が許す……。だから、戻ってこい……」
 冷たい夜風がざわりと王のまわりで蠢いた。滔々と流れる河はまだ凍てついてはない。もうしばらく季節が進めば、冬の凍気に表面を凍らせ、氷の彫刻芸術を披露するだろう。
 そんな時期だった。妻が亡くなったのは……。
 月も凍るほどの冷たく厳しい冬の夜。幼い息子の誕生日の明くる日だ。突然に喀血し、泣いてすり寄る息子の頭を撫でながら、眠るように逝ってしまった。
 夫になんの断りも無しに、呆気ないほど簡単に旅立って、ついに戻ってはこなかったのだ。
「なぜ置いていくんだ。……余が泣き虫で淋しがりやだと知っているだろう? 戻ってこい。早く……」
 片手に包み込んだままの自分の酒杯を軽く揺らし、シャッド・リーンは酒をあおった。しかし甘いはずの酒の味はいっこうに舌に拡がらず、むしろどこか苦みすら感じる。
 ミリア・リーンが死んでしまったら、自分も生きていないのではないかと思っていた。
 それなのに自分は妻の死に顔を見ても、葬儀の間も、一滴も涙をこぼさなかった。まるでいつも政務を片づけていくように淡々と事を終わらせ、いつもの日常を取り戻していた。自分は冷酷な人間だったのだろうか?
「余がそなたのために涙を流さなかったから怒っているのか……?」
 再び星空を見上げてシャッド・リーンは小さな吐息を吐いた。長い永い夢を見ているような気がした。
 妻の肌の温もりや心地よい声音を近くに感じるのに、届かないもどかしさにシャッド・リーンは苛立ち顔を歪める。行き場のない想いだけがあちらこちらに彷徨って宙ぶらりんのままだ。
「いつか……。いつの日にか、そなたの元へ旅立つときがきたら。そなたが見ることが叶わなかったことを話してやろう。それまでの、しばしの離別だ。そうだろう? ……ずっと側にいると約束したのは、そなたのほうではないか?」
 見上げていた空からふと振り返ると、部屋の奥で炎がゆらゆらとこちらに手を振っていた。子どもに手招きする女のように、母を呼んで手を差し伸ばす幼子のように。
 誘うように揺れ動く金色の炎が手の中にある金芳果酒(ゴールドベリー)の揺らめきに重なり、さらに笑いさざめく少年と少女の姿と重なった。
 その金色の巻き毛を揺らす少年と流れるような栗毛をなびかせる少女の微笑みに、シャッド・リーンは微かに口元を歪めて笑みを返したように見えた。
 王は手すりの上に置かれたままの酒杯を再び天空へと掲げると、儀式めいた仕草で眼下に流れる大河へとその中身を振りまく。
 宵闇に散っていった黄金色の液体はすぐさま霧のように大気に溶けていった。
 自分の手の中に残っていた酒杯のなかの酒を一気に飲み干すと、シャッド・リーンはきびすを返して室内へと歩み入った。
 厳しく引き締められた口元に先ほどの歪んだ笑みはなかった。
 外気を遮断しようと扉を閉じかかったシャッド・リーンの視界に再び流星が見えた。呆気なく消え去るその光の筋に一瞬だけ見とれ、王は思い出したように扉を閉めた。
 暖かな部屋に迎え入れられ、シャッド・リーンは安堵したようにため息をつく。
 空になった二つの銀杯を小卓(ハティー)の上に戻し、暖炉の側の椅子へと再び腰を下ろして、飽くことなく炎を見つめた。
 時折燃え崩れる薪の音に耳を傾ける王の横顔には、穏やかな寂寥感が浮かんでいた。

終わり

〔 12427文字 〕 編集

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