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第08章:愛しき者
「不甲斐ないなぁ~」
残念そうに何度も同じことを繰り返す父親をリュ・リーンは睨みつけた。まだ昨日知った父親たちの仕打ちを許したわけではない。
「どうして無理にでも扉をこじ開けなかったんだぁ~? ミリア・リーンの竪琴だけ置いてくるなんてなぁ」
嘆息する父を無視するとリュ・リーンは略装の軍服の上にマントを羽織った。黒づくめの衣装の色のなかにマントに縫い取られた金糸の王家の紋章だけが鈍く光る。
「リュ・リーン~。次の冬まで彼女が待っていてくれるとでも思っているのかぁ?」
「う、うるさいな! ……親父には関係ない!」
壁に掛けておいた自分の大剣の刃を確認するとリュ・リーンは乱暴にそれを担いだ。多くの敵の血を吸った剣は主の背で所在なげに揺れている。
結局昨日、リュ・リーンはカデュ・ルーンと会うことができなかった。
慌ただしく支度を済ませながら、リュ・リーンは窓の外に視線を走らせた。早朝の靄が花園を覆って、リュ・リーンの視界からその姿を隠していた。
父親にばれないようにため息をつくと、リュ・リーンは自室を出て愛馬の待つ広場へと向かった。
「殿下!」
見送りに出てきた従者たちが緊張の面持ちで、馬に跨る主を見つめる。苦戦が予想される戦いに旅立つ若い主人の無事を祈って従者たちが次々に祈りの印を切る。
「殿下……! お供をさせてください」
リュ・リーンよりも若そうな従者が泣きそうな表情で主を見上げる。
「まだ言っているのか。お前たちはここに残って王を補佐しろと言っておいたはずだ」
「ですが! ウラート殿は殿下と一緒に……」
先に軍に合流しているウラートを呼び返している時間の余裕がないだけだ。リュ・リーンはジロリと従者を睨む。同じ問答を繰り返している暇はない。
「親父!」
建物の入り口でリュ・リーンたちの様子をうかがっていた父親に呼びかける。
「なんだ~?」
いつも通りの間延びした返事が返ってくる。
「俺の侍従たちを虐めるんじゃないぞ! ……こいつらを虐めてもいいのは、俺だけだからな!」
わかった、わかった、と手を振って答える父親をもう一度睨んだ後、リュ・リーンは湖へと通じる城門を振り返った。ここから湖沿いに南下して行けば、ウラートが率いているトゥナ軍に落ち合えるはずだ。
「ハイヤッ!」
リュ・リーンは愛馬に鞭を当てると、別れの言葉も告げずに駈けだした。
「殿下~!」
「ご武運を!リュ・リーン様!」
従者たちの声を背中で聞きながらリュ・リーンは城門を飛び出すと、眩しい光を放つ湖を横目に聖地を後にした。
カデュ・ルーンとの仲は元に戻らず仕舞いだった。
父親の言うとおり次の冬までカデュ・ルーンが待っていてくれる希望は薄い。
自分を傷つけた男のことなど、次の冬がくるまでに忘れてしまったほうが彼女のためなのかもしれない。
自嘲を含んだ嗤いを口の端に浮かべると、リュ・リーンは何かから逃げるように鞭を振るって馬の速度を上げる。
瞬く間に聖地の王城は小さくなり、遠くに霞んで見えていたトゥナの軍旗が大きくなる。
金糸の縁取りに真紅の生地、大きくはためくその生地には三日月紋と左手短剣紋が縁と同じ金糸で縫い取られている。
さらに一段低い戦旗が見えてきた。
「クソ親父ッ! やっぱり最初から俺をリーニスに寄越すつもりだったな」
馬上でリュ・リーンは毒づいた。
下段の旗には黒地に金糸で五弁紋が縫い取られている。蛇苺の紋章。見間違えようもない、トゥナ王太子リュ・リーン・ヒルムガルの紋だ。
徐々に朝靄が晴れてきた。掲げられた槍の林が朝日に鈍色に光る。馬たちの忙しない息づかいと神経質そうに蹄を地面に打ち付ける音も間近に聞こえる。
「リュ・リーン殿下!」
馬の群から一騎抜け出てくる者の姿が見えた。
「ウラート!出立だ! 角笛を吹け!」
リュ・リーンは自分に駆け寄る友の姿を認めると、声高に叫んだ。自身が休む間もなく行軍を開始させるつもりなのだ。
リュ・リーンは軍から僅かに離れた場所で馬を止めると、空気を震わせて鳴く角笛の叫びを待った。
程なく何か巨大な生き物の啼き声を連想させる、地を這う低重音が辺りにこだました。それを合図にトゥナ軍は馬蹄を踏みならして行軍を開始する。
眠りから覚めた竜のようだ。リュ・リーンは一体となって進んでいく軍隊を眺めてふと思った。だが、夢想に浸っているのも一瞬の間だった。
「総員、聖地へ捧剣!」
叫びながら、自らも重い大剣を天高く捧げ持つと、リュ・リーンは愛馬の脇腹を蹴って先頭へと駈けだした。
リュ・リーンの号令に一部の隙も見せずに兵士たちが従う。白銀の剣や槍の穂が朝日に輝く。
漆黒の愛馬を疾走させてその鋼の波の脇を走り抜けながら、リュ・リーンは暗緑の瞳を鈍色に輝く聖地の城郭に向けた。
この想いよ、届け。
聖地へと掲げる剣をいよいよ高く捧げ持つと、リュ・リーンは声無き叫びをあげた。
延々と続く原野を行軍しながら、リュ・リーンは前方に見えだした神降ろしの地を伺った。
切り立った断崖がそびえ、その黒っぽい岩肌を剥き出しにする台地は人を拒絶するようだった。
遙か太古に神が降り立ったと言われる台地は人が足を踏み入れるには畏れ多い場所だ。
今回はこの台地のすぐ脇を通り抜け、チャルカナン大山脈の北端を迂回する軍路を通ることになる。
道程は決して短くはないが、イナ洞門のようにリーニスに入ってすぐに戦闘が始まるような危険性は少ない。カヂャ軍の情報を集めながら進むのには向いている。
「リュ・リーン殿下」
先頭の一団を率いていたウラートが馬を寄せてきた。
「工兵は洞門の修理に回しましたし、王都には早馬を出して、救援物資の補充をするよう伝えてあります。最悪の場合は歩兵を補給隊に使用することになりますが?」
「構わん。歩兵を引き連れていては、身動きがとれなくなるかもしれん。今でも行軍の速度が遅いくらいだから、いっそ歩兵を補給隊に回したほうが楽だろう」
ウラートのやることにそつはない。自分の思った以上のことを先回りしてやってくれるのだから、これほど重宝な人材はいまい。
「あの……」
珍しくウラートが言いよどんだ。それに心当たりは充分ある。
アジェンの城郭が見えなくなるとすぐにリュ・リーンはウラートを呼びつけて、彼が居なかった間のアジェンでの出来事を話していた。もちろんカデュ・ルーンの力のことだけは伏せて。
格好の良い話ではなかったが、黙っていてもいずれは判ることだ。
「なんだ? 他にも何かあったか?」
それでも、自分からその話を蒸し返したくはないリュ・リーンは冷たい返事を返す。
「アジェンの姫は、本当にあなたのことを嫌いになったのですか?」
「……たぶんな」
大袈裟なくらいに大きなため息をついてみせるウラートの様子をわざと無視するとリュ・リーンは前方へと注意を向け直した。
その彼の視線の先に逆走してくる一騎の馬が見えた。
「……ウラート。あれはお前の副官じゃないか?」
リュ・リーンは巧に馬を操って自分たちに近づいてくる騎士を指し示した。ウラートもそれに気づいたようだ。
「そうです。……何かあったのでしょうか?」
瞬く間に馬を寄せる男の息が上がっている。
「殿下!」
砂煙とともにリュ・リーンの脇に馬をつけた騎士は紅潮した顔をリュ・リーンに向けた。目が動揺している。
「何かあったのか!?」
「あ、あの……。それが! ……聖地のお方が!」
しどろもどろな答えを返す男は、それ以上なんと言っていいのか判らない、といった様子で前方を指し示した。
「……? ……誰かいるのか!?」
その時、緩やかな行進を続けていた軍隊が止まった。前方からざわめきが聞こえてくる。
「ウラート! ついてこい!」
叫ぶや否やリュ・リーンは馬に鞭を当てて前方へと愛馬を疾走させていた。
誰かが行軍を止めたらしい。聖地の者だとしたら、この辺りを警備している者にでも鉢合わせたのだろう。
ここの通行許可は出ていたが、まだそれを知らない者がいてもおかしくはない。
「どうし……あぁ!?」
先頭で右往左往している騎士たちに声をかけようとしたリュ・リーンはその先に視線を向けて絶句した。
軍隊の前に立ちはだかっていたのはたった一騎の馬だった。
それくらいならこうも驚きはしない。リュ・リーンが驚いたのはその馬上にいる人物が自分のよく見知っている者だったからだ。
「ダ、ダイロン・ルーン!」
リュ・リーンの声に後から追いついてきたウラートも馬上で身を固くした。
「トゥナ軍の指揮官。前へ出られよ」
拒絶を許さない、厳しい声がダイロン・ルーンからかけられた。ざわめきとともに騎士たちが一斉にリュ・リーンを振り返る。
リュ・リーンはダイロン・ルーンの声に気圧されたように馬を降りると彼の前に歩み寄った。気遣わしげに自分を見ているウラートの視線を感じる。
「“清浄の誓い”を受けられよ」
まわりの騎士たちの動揺など無視してダイロン・ルーン、いやカストゥール候は神降ろしの地の方角を指し示した。かの地の少し手前に小高い丘が見える。
「清浄の誓い!? しかしあれは儀礼的なもので、以前から省略して……」
「今回は特別だ。聖衆王陛下の使者がお待ちだ。“神の小庭”へ上がるといい」
身の潔白を誓う儀式は昔はこの軍路を使う度に行われたものだった。
だが数代前のトゥナ王の時代からその儀式を行うことはなくなり、切り立った台地の脇を通り過ぎるときに軍の指揮官が一団を代表して台地に向かって誓いを立てるだけに止まっていた。
儀式で時間を取られることの煩雑さにリュ・リーンの顔は曇ったが、今のダイロン・ルーンは聖地の長の代理としてここに立っている。彼の言葉に逆らうことは、聖衆王に逆らうことに等しい。断れはしない。
リュ・リーンは愛馬に戻り、その鞍に背負った大剣を収めると固い表情のまま“神の小庭”と呼ばれる丘の上へ上がっていった。
「他の者には私から誓いを与える。隊長以上の騎士だけでよい。前へ出られよ」
背後からカストゥール候の声が響く。
リュ・リーンはそれに一度振り返ったが、困惑しながらも騎士たちがカストゥール候の前に跪く姿を確認すると、小さく嘆息して再び歩き始めた。
丘は人の背丈の三倍近い高さがあったが、小さなものだ。リュ・リーンは身軽にその急斜面に彫り込まれた階段を登っていく。
「なんでまた今回だけ……」
聖衆王のやることはさっぱり判らない。急階段を上りきったところで、リュ・リーンは顔を上げた。
「……!」
そしてそのまま凍りつく。そこにいる者は……。丘の中央に端然と立つ者は……。
「……カデュ・ルーン」
茫然とリュ・リーンは囁いた。一人で軍の前に立ちはだかるダイロン・ルーンを見つけたときの驚きなど比ではない。知らずに足が震える。
「こちらへ。旧き友よ」
王の娘は愛らしい声でリュ・リーンに呼びかけてくる。慈悲に満ちたその顔は、光の大神の妻“リーナ”を彷彿とさせるものだった。
言葉に引きずられてリュ・リーンは娘の傍らへと近づき、崩れるようにその前に跪いた。カデュ・ルーンの手が自分の額に触れる感触をリュ・リーンは痺れたままの身体で感じた。
聞き馴れた神話の一節がカデュ・ルーンの口元から流れる。リュ・リーンはその声にただ聴き入るばかり。
「神聖なる光が汝を照らすよう願う。汝の身が聖なる限り、よき風を送り、清かな水を運び、微睡みの地を約す。汝、ここにその身の潔白を誓い給え。永久に神への恭順を誓うならば、汝、ここにその身の清らかなるを誓い給え」
「……神よ。神よ、我を見届け給え。我が身、清浄なる限り、我の行く末を見届け給え。穢れあらば、光の炎にて我を焼き尽くし給え。神を讃えん。永久に神を讃えん」
いつの間にか目を閉じていたリュ・リーンは、自分の声を遠くに聞き、間近にあるはずの王の娘の顔を脳裏に思い描いた。
リュ・リーンの誓いの言葉が始まるとすぐにカデュ・ルーンは彼の頬を両手で包み、その白い顔を近づいてきた。
彼女の息遣いまではっきりと聞き取れる。顔にかかる娘の息が頬をくすぐる。
リュ・リーンの耳に辛うじて届くほどの細い声が流れる。
「汝を讃えん。汝は清浄なり。誓いは受け入れられた。四大精霊の名にかけて、汝の末を見届けよう……」
詠唱を続けていた娘はそこで口を閉ざした。まだ続きがあるはずだ。忘れてしまったのだろうか? リュ・リーンは痺れた頭の片隅でふとそんなことを考える。
そうこうするうちに、カデュ・ルーンは再び口を開いた。だが、出てきた言葉は詠唱している神話の一節ではなかった。
「……リュ・リーン」
娘が自分の名を呼ぶ声がリュ・リーンの耳朶の奥に稲妻のように走る。驚いてリュ・リーンは目を開けた。
判ってはいたが、間近に迫る娘の視線とぶつかってたじろぐ。両頬を包む彼女の手は熱く、今にも火を噴きそうだ。
「あなたはなんて卑怯なの。私の心を盗んでおいて、サッサと消えてしまうなんて!」
自分を見つめる娘の目から次々と涙の粒が伝い落ちていく。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは慌てて立ち上がろうとしたが、自分の頬を包むカデュ・ルーンの手がそれを邪魔する。
「わたしのことを嘘つきだと言ったり、愛していると言ったり、これ見よがしに竪琴を置いていったり……」
彼女の頬から伝い落ちた涙がリュ・リーンの頬に落ちる。
リュ・リーンは彼女の涙に狼狽えてその場にうずくまるばかりだ。
「わたしにどうしろと言うの……。非道いわ……、自分だけ納得して」
「カデュ・ルーン。泣かないでください……。どうしたら……」
嗚咽をもらす娘の泣き顔にリュ・リーンはただ見とれた。
「いやよ……。死んでは……いや。生きて、帰ってきて……。生きて……」
カデュ・ルーンは自分の体重を支えきれなくなった人形のようにリュ・リーンにもたれかかると、その首にしがみついた。
彼女の柔らかな胸に顔を半分埋めたまま、リュ・リーンはそっと彼女の背を抱いた。華奢な、肉づきの薄い背中は小刻みに震え、脈打っていた。
「カデュ・ルーン。約束します……。必ず帰ってきます。だから……。お願いですから、泣かないでください」
ようやくカデュ・ルーンの身体を引き離すとリュ・リーンは立ち上がった。
涙でぐしゃぐしゃになっている彼女の顔を拭いてやりながら、リュ・リーンはカデュ・ルーンに微笑みかけた。
「帰ってきます。必ず……」
自分の腕のなかで震える娘を愛おしそうに見つめながら、リュ・リーンは彼女の肩に落ちかかる輝く銀髪を梳る。
娘は瞳に涙を浮かべたままだったが、もう泣いてはいなかった。
「きっと帰ってきてください。約束です」
「はい……」
リュ・リーンは娘に判るようにしっかりと頷いた。
「汝の末裔に讃えあれ……」
再び王の娘の唇から神話の一文が溢れだす。カデュ・ルーンの瞳に溜まっていた涙が最後の一滴となってこぼれ落ちた。
「神に感謝を……」
リュ・リーンは王の娘の手を取ると、その甲に口づける。これで清浄の誓いはすべて完結した。
リュ・リーンは名残惜しそうにカデュ・ルーンの手を離し、神の小庭の下で待つ部下たちの元へと歩き出した。
まだ幾人かの騎士たちがカストゥール候の前にかしずいたままでいる。もう少し彼らの誓いはかかりそうだ。
「リュ・リーン殿下……!」
リュ・リーンが階段に足をかけたところで背後から声がかかる。肩越しに振り返って見ると、カデュ・ルーンが小走りにこちらに駆け寄ってくるところだ。
リュ・リーンは彼女に向き直った。
「リュ・リーン!」
走ってきたままの勢いでカデュ・ルーンはリュ・リーンに抱きついた。向き直っていなかったら、危うく下に転がり落ちていたかもしれない。
「カデュ……!」
リュ・リーンの首に抱きついたままカデュ・ルーンは背を伸ばし、彼の頬に自分の唇を押しつけた。見る見るうちにリュ・リーンの頬が赤く染まっていく。
「わたしを……わたしを王都にお連れください」
それだけを言うとカデュ・ルーンはリュ・リーンの胸にしがみついた。彼女の不安が伝わる。
「カデュ・ルーン……。帰ってきます。必ずあなたを迎えにきます。……贈った竪琴の弦が狂わぬうちに、必ず」
リュ・リーンはカデュ・ルーンの頬にそっと触れた。そして、その指を顎まで滑らせる。
「カデュ・ルーン。覚えていてください、この名を。ルーヴェ・リュ・リーン・ヒルムガル……。この名を忘れないでください」
ハッと目を見開いたカデュ・ルーンにリュ・リーンは微笑みかける。
聖名を持つ者は支配されることを怖れるあまりに、自らの真の名をその配偶者にすら教えない者が多いというのに。
自分を支配する禁忌の言葉。彼女の不安が取り除けるのなら、自分の真実の名を教えるくらいなんだというのだ。
「リュ・リーン……」
カデュ・ルーンが信じられないといった様子で首を振る。
「カデュ・ルーン。必ず帰ってきます。我が名に織り込まれた神の名にかけて」
「リュ……。エーマ、です」
一瞬、リュ・リーンは何を言われたか判らなかった。だがその単語の意味を思い出して、それがカデュ・ルーンの聖名だと悟る。
エーマ。“愛しき者”……彼女に相応しいその真実の名。
「エーマ……。あなたを……愛しています」
かすれた声は本当に自分のものだろうか? リュ・リーンはカデュ・ルーンの顎をそっと持ち上げる。
「ルーヴェ……」
囁き声とともに彼女の濡れた瞳がそっと閉じられた。頭がボゥッとしたままだ。心地よい支配が身体に拡がる。
そのまま吸い寄せられるように彼女の唇に自分のそれを重ねる。
彼女の唇は壊れそうに柔らかで、甘かった。
リュ・リーンはカデュ・ルーンを抱きかかえたまま階段を降り始めた。下のほうでざわついていた騎士たちの様子が少し変わっている。
彼らは一様にリュ・リーンとその腕に抱きかかえられた娘に注意を向けては外し、と視線を落ち着かなげに彷徨わせていた。
「リュ・リーン……」
うわずった声がリュ・リーンの耳に届いた。そちらを見るとウラートが顔を引きつらせて立っている。そして横にはダイロン・ルーンの仏頂面がある。
「……上での誓いは終わったのか?」
ダイロン・ルーンが低い声で問うた。感情を押し殺した声だ。
「終わった。こちらは?」
カデュ・ルーンを静かに降ろすとリュ・リーンは改めてカストゥール候に向き直った。そのリュ・リーンの背中にカデュ・ルーンが隠れる。気配でそれを感じたリュ・リーンが後ろを振り向く。
「カデュ・ルーン?」
王の娘が怖々とした様子で兄を見遣っていた。
「兄様……。怒ってるわ」
「え……?」
改めて友人の顔を見ると、彼の片眉はつり上がっている。リュ・リーンは、やっと自分の失態を知った。
「ダ……」
「浮かれているのは結構だが、戦場でその首を掻き落とされないよう、精々気をつけることだ」
丘の上での様子を見られていたのだ。リュ・リーンは顔を赤らめたり青ざめたりさせた後、開き直って告げた。
「案じるな。婚約者をむざむざ寡婦にするつもりはないからな」
そして傍らで頬を染めるカデュ・ルーンの肩を抱く。
リュ・リーンの言葉と態度にダイロン・ルーンの眉はいよいよつり上がり、その脇に立つウラートは目眩を起こしたように右手を額に当てた。
聖地神聖暦九九六年。トゥナ王朝暦にして一九四年。
聖地アジェンの文筆官たちの綴った史書には、トゥナ領リーニスの戦況が克明に記され、その惨状がこう書き残されている。『戦場は血で朱に染まり、カヂャ兵の骸は累々と積み上げられていった』と。
トゥナ軍の勝利は瞬く間に近隣諸国に伝わり、その軍を指揮した黒衣の王太子の名は諸国の間で恐怖をもって語られた。
黒い魔物、魔神の申し子。凶暴なる野獣王。
カヂャ軍を血の海に沈めた、その容赦のない手腕に近隣の国々は慄然とし、いずれ訪れるであろう彼の即位が自国の凋落の日であるような錯覚を起こさせた。
聖地の史書はこの戦について更に詳しい記述をしている。だが、それをここですべて書き記すことは不可能だ。この場では、それが確かに書き記されていることを伝えるに止めよう。
後の世に“リーニスの朱の血戦”と呼ばれるこの戦いは、トゥナの力を近隣に知らしめ、これから訪れるこの王国の隆盛を予感させた。
「カデュ・リーン?」
自分の腕に抱かれて、暖炉の火に見入る妻の白い頬の輪郭を眺めながら、リュ・リーンは呼びかけた。
「なぁに?」
リュ・リーンは振り返った妻の滑らかな額にそっと指を這わせた。柔らかい温かさが指先から拡がる。
強大な神の力を宿した眼は、今はその奥で眠っている。狂った霊繰りの力も……。
だがいつの日か。その超常の力たちは彼女の命を容赦なく奪うだろう。人の躰に収めておくには大きすぎる力だ。
「リュ・リーン? 何を怖れているの?」
妻の穏やかな声がリュ・リーンの胸に突き刺さる。怖れないわけがない。いつか自分の元から最愛の者を奪っていく力を。今からリュ・リーンは己の無力を呪っているのだ。
そのリュ・リーンの身体を包むように彼の妃は王の肩を抱いた。幼子をあやすようにそっと、だが力強く。
「わたしはここにいるわ、リュ・リーン。泣かないで。ずっとここにいるわ」
トゥナ王の目に涙などない。だが彼の心が泣いているのを過敏に感じ取った王妃は呪文のように繰り返す。
泣かないで、泣かないで……。わたしはここにいるから……。
もうすぐ雪が解ける。戦の季節だ。トゥナ王は領土と民を護るために戦場へと向かうだろう。
子供の頃、リュ・リーンは自分の名に織り込まれた死の神が支配する冬が嫌いだった。だが今は雪が解けて自分を戦場へと追い立てる春や夏のほうが疎ましい。
冬になりここへ帰ってきたときに、彼女は温かい笑顔で迎えてくれるだろうか? 次の冬まで生きていてくれるだろうか?
戦の最中でもふと思い出す焦燥感。自分の死など怖くない。だが、彼女の死は……。
「ルーヴェ……。泣かないで」
いつか潰ついえるその呪文を、繰り返し繰り返し囁く妻の腕のなかでリュ・リーンは呟く。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ……”」
ワガコイハオウジャノコイナリ。シシテモナオ、ソノホノオハキエジ……
終わり
第07章:告白
「いやだったら、いやだぁ~!!」
リュ・リーンは傍らの大理石の柱にしがみついて抵抗した。
「わがままを言うんじゃな~い~、リュ・リーン~。ほらほら~。父はマシャノ・ルーンに会いに行くから、お前はついでにカデュ・ルーン姫と仲直りする~」
「いやだ~! どの面下げて会いに行けばいいんだ!!」
奥宮に通じる回廊の端で父親にマントを引っ張られて暴れるリュ・リーンの姿があった。
あのあと支配の言葉に拘束され内宮近くまできたが、すんでのところで我に返ったリュ・リーンは慌てて逃げ出した。
だが結局は父親に捕まってここまで引っ張られてきてしまったのだ。
聖衆王に偉そうに大言を吐いたときの決意も潰れた半泣きのリュ・リーンをトゥナ王は担ぎ上げるようにして歩き出した。左肩にリュ・リーンを、右手になにやら布に包んだ品物を抱えている。
「うわぁっ!! やめろ! ばか! クソ親父ぃ~!! 放しやがれ、畜生ぉ~!」
悪態をつき暴れ回っているが、リュ・リーンの少し小柄な身体など大きな体躯のシャッド・リーン王にはどうということはない。
案内も乞わずに奥宮へと進んでいくトゥナ王たちに、たまたま遭遇したアジェンの民たちは呆気にとられて見守るばかりだ。それを横目に見ながら、リュ・リーンは耳まで真っ赤になりながら、一層激しく暴れる。
「放せぇ~! ばか親父~!」
背中で喚いている息子を無視するとトゥナ王は迷うことなくズンズンと奥へと歩いていき、とうとう内宮への扉の前に立ちはだかった。
騒ぎが聞こえていたのだろう。扉の両脇に控えた衛兵たちは顔を引きつらせて二人を凝視している。
災厄が来た、どうして自分たちが見張り番の時に現れるんだ、とその瞳が訴える。
「おぉ~! 久しぶりだな、お前たち。息災であったかぁ」
「ト、トゥナ王陛下……」
「お、お久しぶりで」
身体をよじって振り返ったリュ・リーンと目が合うと衛兵たちは決まり悪げに目を逸らし、二人顔を見合わせる。
「よっこらしょっと……。のぅ、聖衆王陛下がおいでだろぅ? 通してもらうぞぉ」
「ちょ……。親父! 案内も乞わずに入れると思っているのか!?」
かけ声とともにリュ・リーンを降ろすとトゥナ王は当然の権利のように扉に手をかけた。
相変わらずマントの端を父親に握られたままなので、リュ・リーンも引きずられるようにして扉へと近づく。
「だぁいじょぉぶ~。余は特別~」
なんの憂いもなさそうな笑みを浮かべるとシャッド・リーンは悠々と扉を開けた。両隣の衛兵たちがため息をつくのが判る。
「お、おい! お前たち!! 自分たちの王のいる場所に他人が勝手に入るのだぞ! 少しは警戒を……フガッ……」
「さぁ、行くぞ。息子よ~」
シャッド・リーンの腕に首を掴まえられ、リュ・リーンは内宮へと引っ張り込まれた。見守る衛兵たちが申し訳なさそうにリュ・リーンを見送っている。
「うわぁ!! やめろぉ~、ばか親父!」
「王子……。ご愁傷様です……」
自分を拝むように頭を垂れる衛兵の姿が閉じていく扉の向こうに消える。それでもリュ・リーンはわめき声をあげ続けた。
「わ~! うわ~! やめろぉ~! 放せ……あれ?」
父親が立ち止まったことに気づいて、リュ・リーンは声をあげることを止めると、ようやくその視線の先の人物たちに気づいた。
「せ、聖衆王陛下……。ダイロン・ルーン……」
眉間にシワを寄せて気難しい顔をした聖衆王の姿にリュ・リーンは生唾を飲み込んだ。
ダイロン・ルーンも不機嫌そうな顔をしている。今の騒ぎが居室にまで届いたのだろう。
「やぁ~、マシャノ・ルーン。それにミアーハ・ルーン卿も一緒か~」
二人の顔色など一向にお構いなしにトゥナ王はゆっくりと二人に近寄っていった。
「まったくうるさい親子だな、お前たちは」
忌々しそうにトゥナ王に応えた聖衆王は顎をしゃくってシャッド・リーンを奥へと促した。
それを当然のように受けてトゥナ王も歩き出す。そのまま数歩を歩いてから、シャッド・リーンはふと足を止めた。
「そうだ。リュ・リーン~」
振り返って息子を手招きする。そして、聖衆王に遠慮しておずおずと近寄ってくる息子の肩を抱くと右手に抱えていた包みを押しつけてこう言った。
「リュ・リーン~。お前の荷物だ。持っていろ」
中身も告げずに押しつけられた包みは適度な重みが心地よかった。触った感触はかなり硬い物が入っている様子だ。
「あぁ、それから、ミアーハ・ルーン卿~。リュ・リーンをカデュ・ルーン姫の元まで案内してやってくれ~」
リュ・リーンとダイロン・ルーンの返事も待たずにきびすを返すと、トゥナ王はサッサと聖衆王の後について歩き去ってしまった。
取り残されたダイロン・ルーンは険しい表情を二人の王の背中に向けている。その横顔を盗み見たリュ・リーンはこっそりと入り口へと後ずさった。
いくらなんでも、ダイロン・ルーンが妹の部屋に案内してくれるわけがない。こういう込み入った話は後から出直してきたほうがいい。
もっともリュ・リーンはそれを口実に逃げ出したいばかりなのだが。みっともなくてとてもダイロン・ルーンと顔を会わせてはいられない。
「逃げる気か、リュ・リーン」
不機嫌そうな顔のままダイロン・ルーンが振り返った。リュ・リーンはすくみ上がった。ダイロン・ルーンに気づかれないうちに内宮を抜けてしまおうと思っていたのに。
「いや、あの……」
しどろもどろに答えを返すリュ・リーンの側に滑り寄るとダイロン・ルーンはジットリと年下の友人を見下ろした。
「聖衆王陛下との交渉は上手く運んだようだな?」
淡々とした口調で自分に話しかけるダイロン・ルーンの表情に不機嫌さ以外の感情は浮かんでいなかった。
「カデュ・ルーンに会うのは難しいぞ。今やっと落ち着いたところだ」
当然であろう。判ってはいたが、リュ・リーンは肩を落とした。
「……済まなかった」
「今さら、だな。……リュ・リーン、少しつき合え」
リュ・リーンの言葉に苦々しげに答えた後、ダイロン・ルーンは妹の居室がある方向とは反対の方角に歩き出した。
リュ・リーンがついてきているかなど確認もしない。ついてきて当然だと思っているようだ。
内宮から抜ける機会を失い、リュ・リーンはため息をついた。
「お前、本当に話を聞かされていなかったのか?」
ダイロン・ルーンはリュ・リーンに煎れたての香茶を手渡しながら尋ねた。なんの話かを確認するまでもない。
「……知らない。“今年から春の朝献にはお前が行け”と言われた」
手渡された器を両手で包み込んだままリュ・リーンは友人の問いに答えた。まんまと父親の謀略にはまってしまったのだ。情けなくて涙が出そうだ。
連れられてきた部屋はカデュ・ルーンの居室と対になっているのか、そっくりな間取りだった。
違いと言えば彼女の部屋が女性らしい色合いなのに対して、こちらの部屋は書物のほうが人間よりも大きな顔をして居座っているせいか味気ないほど生活臭がないところか。
人の匂いのするものと言ったら、申し訳程度に置かれた古びた小さな書記机とそれに備え付けられている丸椅子、それから今リュ・リーンが腰掛けているやたらと坐り心地の良い寝椅子くらいのものだ。
ダイロン・ルーンはため息とともに丸椅子に乱暴に腰を下ろした。
「お前もあの腹黒い王たちにはめられたわけか……」
「え? ……も、って。ダイロン・ルーン?」
不愉快そうな表情を隠しもせず、ダイロン・ルーンは吐き捨てるように言った。
「聖衆王とトゥナ王に、してやられたんだよ、私たちは! あぁ、思い出しても腹の立つ! 五年がかりで罠を張りやがって、あのジジィども!」
「え……? え? な、何? 何がどうしたって!?」
リュ・リーンは話がさっぱり見えてこず、頭を混乱させた。
「まだ気づかないのか!? 私たちは最初から試されていたんだよ、あの二人に! 高笑いをあげながら私に種明かしをして見せる叔父上の顔ときたら! 畜生! 人をなんだと思っているのだ」
どうもまだ騙されていることがあるらしい。だが何をどうはめられたのか判らないリュ・リーンは、友の怒りに困惑するばかりだ。
リュ・リーンは落ち着かない気分で身じろぎした。その拍子に父親から渡されていた包みが彼に倒れかかる。どうも安定が悪い品物のようだ。
片手に香茶の入った器を持ったまま、リュ・リーンはそれを立て直した。だが思うようにいかない。
手から滑り落ちた包みの先端が再びリュ・リーンの腕を叩く。
今度は倒れた拍子に包みの結び目が緩んできたようだ。品物の端が僅かに覗く。
どこかで見たことのある装飾に飾られた品……?
「……。げっ!」
「なんだ、おかしな声をあげて」
リュ・リーンは包みから覗いている品物にはっきりと見覚えがあった。なぜ親父がこんなものを持ってきたんだ!?
「な、なんでもない! ……それより、教えてくれ。ダイロン・ルーンは何にそんなに怒っているんだ?」
慌てて誤魔化すとリュ・リーンはダイロン・ルーンに向き直った。
「何にだって!? ……いいか、私たちが知らなかっただけで、お前とカデュ・ルーンはとっくの昔に婚約していたんだ!」
一瞬目の前が真っ白になる。
「な……なんだとぉ~!!」
すぐに我に返ると、リュ・リーンはこの日何度目かの叫び声をあげた。
「うわっち、ちっ!」
叫んだ拍子に茶の入った器を取り落としたリュ・リーンはこぼれた香茶の熱さに飛び上がった。
だが熱さにかまっていられない。
今まで父親が散々持ってきた見合い話すべて、いかさまだったというのか!? リュ・リーンは顔を引きつらせた。
「私は十四で成人して養護院を出たのだが、そのときカデュ・ルーンを引き取るだけの財力がなかった。
やむなく叔父上の養女として手続きをとって、二人してここに住まいを移したのだが……。クソ! そのときから、叔父上は準備を進めていたんだ!」
リュ・リーンは目を見開いてパクパクと口を開閉させるが、驚きのあまりに何も喋ることができない。
「春と秋の朝献の度にトゥナ王がここ内宮を訪れることは知っていたか? 王宮内の人間の間では有名なことらしい。
トゥナ王は来る度にお前の話をカデュ・ルーンに聞かせていた。王宮の外でも男と話をしたことなどほとんどないカデュ・ルーンには、それで充分だろう? 妹はお前以外の男のことなど考えないよう、仕向けられていたのだ!」
「お、親父はカデュ・ルーンと面識があったのか!?」
「あったかだと? あったに決まっているだろう! 叔父上に引き取られてすぐに紹介されている」
先ほどはカデュ・ルーンの名を初めて知ったような口振りだった。よくも嘘っぱちで息子を騙してくれたな! あのクソ親父!
だがそれで判った。なぜカデュ・ルーンが自分に好意的だったのか。
顔を会わせる度にトゥナ王からかつて一度会ったことのあるリュ・リーンのことを聞いていたのだ。警戒心が薄い上に、良いことばかりを聞かされていたのだろうから嫌がられるはずがない。
リュ・リーンはカデュ・ルーンのことを思い出して、急速に怒りが冷えていくことを自覚した。
王たちの思惑通りであったとはいえ、自分が彼女に恋した事実は消えない。結局は自分が選び取った結果なのだ。彼女を傷つけてしまったことも。
リュ・リーンは力尽きたように椅子に座り込んだ。
「……カデュ・ルーンはお前の好みの女だろう? リュ・リーン」
低い唸るようなダイロン・ルーンの声にリュ・リーンは背筋を震わせた。
自分を見つめる友の瞳は怒りに燃えている。返答できないでいるリュ・リーンになどかまわず、ダイロン・ルーンは喋り続けた。
「当然だな。知らないうちにそのように育てられてきたのだ。気づかなかった私も迂闊だった……」
リュ・リーンの胸に友の言葉が炎の槍のように突き刺さる。居たたまれない。どうして父王たちはこんな手の込んだことをしたのだろう。
リュ・リーンは恐る恐るダイロン・ルーンの顔を盗み見る。どうしても確認しておきたいことがあった。
「ダイロン・ルーン。親父は……知っていたのか? カデュ・ルーンの力のことを?」
「……知っている」
リュ・リーンの怯えた声にダイロン・ルーンが眉間のシワを深くする。嫌々に絞り出すような声で答える友の顔が大きく歪んだ。
「お前にだけは、知られたくなかったよ……。だから……」
顔を背けるダイロン・ルーンの顔は蒼白で、見ているこちらの胸が苦しくなってくる。
なぜ……なぜ、俺なんだ?
再び王の居室にいたときの問いが頭をもたげる。カデュ・ルーンの相手に自分が選ばれた理由が判らない。
ダイロン・ルーンが反対していたらしいことは想像できる。それなのに、なぜ王たちは……。
「カデュ・ルーンは……生まれてすぐに母に殺されかかった」
ポツリと呟いたダイロン・ルーンの言葉はリュ・リーンには衝撃的だった。リュ・リーンの反応など見もせずにダイロン・ルーンは続ける。
「妹は覚えてもいないだろうがな……。カデュ・ルーンのあの力は母には享受できることではなかったのだろう。父が止めに入らなければ、母の振り上げたナイフはカデュ・ルーンの額に振り下ろされていたはずだ。
母の狂乱はすぐに叔父上に知れた。実姉が狂っていく様を見た叔父上は、父と二人、カデュ・ルーンの力を封印した。だが母の壊れかかった心は元には戻らなかった。
……その封印も父の死を契機に破られることになった。母は父の死がカデュ・ルーンのせいだと思い込んでいた。まだ四つになるかどうかの妹に、聞くに耐えない悪口雑言を浴びせ、自分で毒をあおって父のあとを追った。
そのときのショックでカデュ・ルーンの枷は外されてしまった。それ以来妹は人に会うことを極端に怖れるようになった。……初めて覗いてしまった人の心が憎悪に満ちた実母の心。狂わなかったことが不思議なくらいだ」
顔を背けたままダイロン・ルーンは話を続けてたが、そこでふと顔をリュ・リーンへと向けた。蒼白な顔がリュ・リーンをひたと捕らえる。
「お前が六年前、アジェンに留学してきたとき、お前の瞳の噂は瞬く間に学舎や養護院の子供たちの間に広まった。それまで外の世界に関心らしい関心を示さなかったカデュ・ルーンが、その噂にだけは興味を示した。
私がお前と仲が良いと知って、カデュ・ルーンがお前に会ってみたいと言い出したときには我が耳を疑ったよ。妹が他人に会いたいと自分から言い出すなんて信じられなかったよ。
カデュ・ルーンが変わったのは、お前に会ってからだ。積極的ではないにしろ、他人と話をしたり、他のことに関心を示すようになり、それまでの臆病な性格が嘘のようだった。だから……。だから、叔父上は、お前を、選んだ……。だから……」
話し声が途切れるとダイロン・ルーンは呻いて頭を抱えた。肩が微かに震えている。
「力のことが知れたら、いくらお前でも妹から離れていくだろう。大事な妹や友人を災厄に巻き込む王たちも、聖衆王の娘だというだけで浮かれているお前も許せない! 私の大切なものをむしり取っていく権利が誰にあると言うのだ!?」
ダイロン・ルーンの吐きだす言葉は逐一リュ・リーンの胸に突き刺さった。
王たちの気まぐれや自分の浮ついた言動に翻弄されて、傷ついている友にかけるどんな言葉があるというのか。
「なぜ、妹に伴侶など与えようとする……? カデュ・ルーンは巫女にでもなったほうが幸せだ」
ダイロン・ルーンの呻き声を聞きながら、リュ・リーンはふと思い出した。
成人前、まだ十二~三のときだったろうか、父王から一つのことを訊ねられた。とても大切なもののうち、どちらか一方を取らねばならなくなったとき、お前はどうするのかと。
あのとき自分は答えられなかった。いや内心では答えを出していた。
だが自分で勝手にそれは不正解だと結論を出してしまっていたのだ。父親を失望させたくないばかりに、リュ・リーンは父の問いに沈黙で答えた。
今その問いかけがもう一度彼の目の前に突きつけられている。今度は答えないわけにはいかない。
逃げることは卑怯でとても許されることではない。
「ダイロン・ルーン」
リュ・リーンは自分の声が意外にしっかりしていることにホッとした。
ダイロン・ルーンが顔を上げる。血の気の引いた顔には怒りとも悲しみともとれる表情が張りついていた。
「俺は……ダイロン・ルーンやカデュ・ルーンに会えて良かった。
カデュ・ルーンが俺に会って変わったと言うけど、二人に会って、いやダイロン・ルーンに会って変わったのは俺のほうだ。俺を孤独の淵から引っ張り上げてくれたのはダイロン・ルーン、あなたのほうが先だった。
もし彼女が変わったというのなら、それは俺のせいじゃない。あなたが俺を変えてくれたからだ。今度は俺があなたやカデュ・ルーンの支えになる番だ。俺はまだ未熟でちっぽけな人間だけど、彼女の盾になる覚悟はできている。
ダイロン・ルーン。カデュ・ルーンの人生を俺にくれ。あなた一人で背負い込むな。俺だって、彼女を護りたい」
ダイロン・ルーンの唇がわなわなと震えていく様を、リュ・リーンは静かに見守った。
「お前……正気か? 災厄に自分から飛び込むなんて、いかれているにもほどがある」
泣いているような表情で自分を見る友人にリュ・リーンは微笑みかけた。心は凪いだように静かだ。
父の問いに出した答えは、これで正しかったのだろうか?
どちらかを選べ、と問われたとき、リュ・リーンはどちらも選べなかった。どちらも選べない代わりにどちらも取る、それがリュ・リーンの出した結論だった。
「大神の名に賭けて、俺は正気だ」
父はこの答えにどう応じるだろうか? 聖衆王は? 弱々しく首を振る友の姿を見守りつつ、リュ・リーンは二人の王の静かな視線を思い出していた。
「ばかか、お前は……。どうかしている。カデュ・ルーンはお前に秘密を知られて、傷ついたままだ。自分の秘密を知っている者を愛せると思っているのか? ……そんなに言うなら、妹に会ってこい! 会って、フラれてくるといい! この愚か者!」
泣いているようなダイロン・ルーンの叫びのなかに怒りはない。
リュ・リーンはゆっくりと立ち上がると、自分に背を向けたままの友を静かな眼差しで見つめた。
「ありがとう……」
遠い日の言葉を、もう一度友に伝える。ダイロン・ルーンの微かな呻き声が届いた。
リュ・リーンは父から手渡された包みを抱えると、静かに友の部屋を後にした。
リュ・リーンは包みを抱きかかえたまま、カデュ・ルーンの部屋の扉の前までやってきていた。
だが足は重く、それ以上の前進を拒んでいるようだった。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐きだした。緊張に心臓が忙しなく鼓動している。
「カデュ・ルーン」
ノックとともに部屋の主に呼びかける。耳を澄ますと、衣擦れの音が小さく聞こえる。カデュ・ルーンに彼の声は届いているはずだ。
「カデュ・ルーン。開けてください」
「……いや!」
今度は拒絶の返事が返ってきた。
「カデュ・ルーン……。顔を見せてください。話がしたいのです」
「いやよ。何も話すことなどありません! わたしのことは放っておいて……」
震える小さな声がリュ・リーンの耳に届く。
「カデュ・ルーン」
「……」
辛抱強く呼びかけるリュ・リーンの声に部屋の主からの答えはなくなった。それでもリュ・リーンは呼び続けた。
「お願いです。カデュ・ルーン、開けてください。あなたに謝りたい……」
「……」
「どうか、一目だけでも……」
だが、閉ざされた扉が開く気配はない。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは扉に取りすがった。その拍子に抱えていた包みが扉の表面をこする。硬い物同士がこすれる微かな音。
「……母上」
リュ・リーンは小さく呟いた。包みの中身は母親が大切にしていた品物だ。今は母の形見となったその品は、かつて父が母に贈った物だと聞いたことがある。
リュ・リーンは結び目をほどいた。
たぶんここ聖地で造られた物だろう。繊細な装飾を施された竪琴がその優美な曲体を現した。
楽の音を愛していた母ならではの贈り物だ。
どんなきっかけで贈られたのかは知らないが、リュ・リーンのうろ覚えな記憶のなかの母は、よくこの竪琴を奏でていた。
リュ・リーンはそっと抱きしめた。
母が亡くなってから父は毎晩のようにこの竪琴を爪弾いていた。
普段はふざけたようなことばかりしている父が、この竪琴を弾いているときだけは真剣な顔をしていたことを思い出す。
「カデュ・ルーン」
リュ・リーンは再度、扉に呼びかけた。相変わらず、返事はない。
「カデュ・ルーン。あなたを傷つけるつもりはなかった……」
彼女の返事を期待しないで、リュ・リーンは続けた。
「……明日俺はリーニスに向けて出発します。カヂャに踏み荒らされているトゥナの領土を救わなければなりません。大きな戦になります。次の冬まで帰ってはこれないでしょう」
部屋からはなんの反応もない。
「あなたに嫌われたまま出立するのは辛い」
彼女が聞いているのかどうかは判らない。だが何も伝えずにこの場を去ることはできなかった。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは祈るように呼びかける。
「カデュ・ルーン……。あなたを……愛しています……」
だがついに彼女から呼びかけに応じる声はあがらなかった。
第06章:真実の名
一言も言葉を交えることもなく、リュ・リーンは聖衆の長の自室へと連れられてきた。
白亜の大理石と磨き抜かれた黒曜石で飾られた部屋は、感情的なものが欠落しているように味気ない。
中央寄りに置かれた最高の材質で作られているであろう紫檀の飾り机の装飾も、華やかさより重厚さを演出している。
「掛けたらどうかね?」
自分は絹張りの椅子に腰を落ち着けながら、聖衆王は向かいの長椅子を指し示した。
リュ・リーンは血の気の引いた顔を一層歪めると、王に向かって何か言わなければと唇を開いた。
しかし痺れた舌は言葉を紡ぐことはなく、震える顎が歯をカタカタと鳴らすばかりだった。
「用向きの見当はついているが、一応聞いておこうか。トゥナ王の息子よ」
リュ・リーンの青ざめた顔色には一切目もくれず、聖衆王は淡々と話を始めた。それがリュ・リーンの神経を逆撫でし、彼に言葉を取り戻させることになった。
「王よ。ご存じだったのでしょう!? 何故、彼女を……!」
奥宮殿へ来た用向きも忘れてリュ・リーンは叫んでいた。聖衆王は知っていたはずだ。先ほどの態度から察するに彼は間違いなく彼女の力を知っている。
聖衆の長として聖地を治める者の娘が禍々しい力を秘めている。
考えようによってはリュ・リーンは支配者の弱みを握ったと言ってもよいはずだ。しかし今のリュ・リーンにはそこまでに思考を働かせる余裕などなかった。
今の彼には何故王が娘の婿に自分を選んだのか、いやそもそも何故カデュ・ルーンを養女にしたのか、その問いで頭が一杯だった。
「そんなことを訊ねにきたわけではあるまい?」
冷酷さを口調に混ぜたままの聖衆王の返答は、嘲笑うようにリュ・リーンの鼓膜を震わせた。
「聖……」
「そんなくだらない問いのために午前中の謁見前に余を訪ねたのか? ならば引き取ってもらいたいな。余が忙しい身なのは知っていよう?」
軽蔑さえ含んだ王の視線の前にリュ・リーンの舌は凍りついた。苛立ちだけが無為に募っていく。だが……。
「失礼を……。今日の面会の件は他でもありません、王陛下もすでにお聞き及びかと存じますが、我がトゥナの領土リーニスが存亡の危機にあります。
一刻を争う事態ゆえに聖領ならびに“神降ろし”の地の通過をお許し願いたく参上しました」
リュ・リーンは自分が何ごともなかったように聖衆王の前に跪き、当初の目的を告げる姿を遠くに感じていた。
頭の中に逆巻く思いは消しようもなかったが、自国の危機を後回しにできるほど時間の余裕はない。それでも聖地の通行許可を求めるリュ・リーンの表情には動揺がありありと浮かんでいた。
「旧き友よ、汝らの苦境に関しては知らせを受けている。我ら聖衆も汝らの立場には同情を禁じ得ない。だが“神降ろし”の地は血を嫌う。あの地を通る者の中に兵士が含まれることは耐え難い」
トゥナを“旧き友”と呼びかける聖衆王は無表情で、彼が言うような同情や憐れみの感情など一欠片も見えない。
「無論、ただでとは申しておりません。キャラ山の……」
「莫大な黄金や銀で対価を払うと? ……汝らはいつもそうだな。金ですべてを解決するか」
聖衆王がリュ・リーンの言葉を遮った。嘲りや軽蔑の感情を含んでいたほうがまだ人間味があったろう。
しかしその口調から感情は読みとれず、聖地の支配者の顔に感情らしい感情は浮かんでいなかった。
「旧き友の子よ。お前は交渉が下手だな。大事な切り札の出し所を見誤るな」
リュ・リーンが反論しかかったとき、またしても聖衆王がそれを遮るように口を開いた。
王の冷たい眼光にリュ・リーンは身震いした。まるで講義中に生徒を諭すような王の口調からは相変わらず何も読みとれない。
「リュ・リーンよ。今その胸の中にある秘密を飲み込むがいい。それを忘れると運命神に誓え!
そして、今後一切、誰に対してもそれを口にするな。それならば、聖地へトゥナ軍が足を踏み入れることを許可しよう」
「な……!」
リュ・リーンは目を見開いて聖衆王を凝視した。
「出来るな? ……もちろん、娘との縁談は断ってもらって結構。もっともお前がトゥナの後継者ならば、娘を娶れはすまいがな」
「お、己の娘を政の道具とされるか!?」
「……。娘とて駒の一つだ。そんなことも判らぬのか」
先日は宴の席で自慢げに娘を指し示していた者がこうも冷淡に娘を扱えるものだろうか。勝手に娘の婚姻相手を決め、そして今度はそれを破棄しようという。
それに振り回される娘の気持ちのことなど考えてもいないのか。
リュ・リーンは自分の中で何かが外れる音を聴いた気がした。
「こ、断る……! そんなことを承伏できるか!?」
それが自分たちを支配する者への暴言であることも忘れて、リュ・リーンは叫んでいた。
「あなたにそこまで彼女の人生を差配する権利があるのか! 養女とはいえ自分の娘のはずなのに、あなたが彼女の幸せを願っているとは思えない!」
「ほう? ではお前はどうなのだ。カデュ・ルーンを愛しているとでも言うつもりか? 滑稽な!」
王の口調は相変わらず冷徹で、その視線はリュ・リーンを射抜くように鋭いままだ。リュ・リーンの拒絶や批判にもまったく動じていない。
「俺は彼女を愛してる!」
だが、噛みつくような口調で返事を返すリュ・リーンに聖衆王は冷笑を向ける。冷たい視線がリュ・リーンの頭からつま先までを舐めるように滑っていく。
「子供よな。いつ狂うともしれない異端者を本気で愛おしんでいると?」
王の言葉にリュ・リーンは激昂した。目の前が怒りで真っ赤に染まっていく。このまま聖衆王の前に居続けたら、憎悪で何をするか判らない。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ”……王よ、失礼する。あなたとは意見が合いそうもない!」
古代神話の最終章を飾る“神への言霊”を引用するとリュ・リーンは聖衆王を睨み、そしてきびすを返した。
引用した言葉は神と英雄との問答の場面に出てくるものだ。最愛の妻を亡くした英雄に光の大神は新しい妻を娶れと促すが、それを拒絶して英雄が言い放った言葉がこれだ。
王朝開闢以来、この言葉はトゥナ王族などの間では密かに使用されている。
大神に逆らうようなこの言葉は、聖地に関わりのある者の前ではおおっぴらに使える類のものではない。
しかしその英雄の末裔と称しているトゥナ王家としては、聖地への反骨精神を表す言葉の一つとして口にするのだ。
今まで逡巡していたリュ・リーンの心は決まった。
誰がなんと言おうと、カデュ・ルーンを、自分の愛している女を侮辱されるのは許せない。
自分が大事に想う者を謗られて、それを享受するほどリュ・リーンは寛大ではなかった。
もしカデュ・ルーンがリュ・リーンの妃となり、もしトゥナの貴族たちに彼女の力が知れたなら、最悪の場合リュ・リーンは王族の地位を追われるばかりか、異端者を一族に加えた者として暗殺されるかもしれない。
父王とてかばい立てできないだろう。
それでも! リュ・リーンは決めた。カデュ・ルーンが拒まないのならば、自分が彼女の秘密ごと最愛の女を護るのだと。
燃えるような怒りを抱えたままリュ・リーンは王の居室から出ていこうとしていた。
そのリュ・リーンを呼び止める声が聞こえた。
「待つといい、リュ・リーン」
厳然とした声音には予想外にも微かな穏やかさが含まれていた。今までの冷酷さはなく、むしろ好意的とも取れそうだ。
驚いてリュ・リーンは王を振り返った。
いつの間にか聖衆王は立ち上がり、こちらへ歩いてきていた。王の表情には侮蔑や非難の色はなく、口元には静かな笑みさえ湛えていた。
リュ・リーンは王が近付くに任せ、その口が開かれるのを待った。
「……トゥナ王家の気位の高さは有名だが、お前のそれは母親のミリア・リーン譲りだな。まったく、シャッド・リーンも手を焼いているだろうて」
「は、母をご存じなのか!?」
リュ・リーンは再び動揺した。時折聖地を訪れる父王はともかく、聖衆王が母ミリア・リーンを知っているとは思いもしなかった。
「知っているとも。あのじゃじゃ馬には昔シャッド・リーンと一緒に振り回されっぱなしだったからな。わがままなことこの上ない女だよ、お前の母親は」
苦虫を噛みつぶしたような顔をしてみせると聖衆王はリュ・リーンの瞳を覗き込んだ。
リュ・リーンはたじろいで一歩後ずさる。彼の瞳をこうもマジマジと覗き込める人間はいない。
「自分が怒り狂っているときの顔を見たことがあるか、リュ・リーン? 若い頃のお前の母親がヒステリーを起こしたときの顔にそっくりだ」
「な……」
聖衆王からあからさまに母親のことを言われようとは思ってもみなかった。今までの怒りも忘れてリュ・リーンは王の顔に見入った。
「ついでに言っておくとな。……余に向かって今の大言を吐いた奴はお前で二人目だ。親子揃って芸のないやつだな」
「えぇ!?」
親子揃ってだと?
「お前の親父は子供の頃に無茶をやらかしては下っ端の神官たちの頭を悩ませていたが、どういう訳か女のことに関してだけは身持ちが堅かったな。
後にも先にも余の父親と余に向かってあの大言を吐く奴はシャッド・リーンだけだと思ったのだがな」
「お、親父が……?」
聖衆王の口から出てくる実父の姿は息子のリュ・リーンからしてみればいつもの姿なのだが、それを聖地でもそのまま実行していたとなると、父親はリュ・リーン以上に無茶な性格をしていることになる。
現聖衆王の父親と言えば、大神神殿の前神官長レーネドゥア公爵だ。
政治の表舞台は聖衆王とその配下が取り仕切っているが、各神殿内はそれぞれの神に仕える神官たちが牛耳っているのだ。
その神殿権力の権化とも言える神官長に向かってあの“我が恋は云々”と言い切ったとしたら、大神神殿の権威に唾を吐きかけたに等しい。
「何を言ってるんだ、あのクソ親父は」
目の前に聖衆王がいることも忘れてリュ・リーンは小さく呟いた。
よくぞ今まで暗殺もされずにトゥナ王としてやってきたものだ。よりによって神官長に向かってあの言霊を吐いて、無事に済んでいることは奇蹟のようなものだ。
「父は子供の戯れ言だと思ったのだよ、リュ・リーン。お前の父がその大言を吐いたのは十を少し過ぎたばかりの子供のときだったからな」
さも呆れたといった顔をして聖衆王は肩をすくめた。
「呆れた親子だよ、お前たちは。一人の女に命をかけるところまでそっくりだ。……あの当時はシャッド・リーンだけが特別なのかと思ったが、息子のお前まで同じだとはな」
「何を仰りたいのです?」
いきなり昔話など始めた聖衆王の態度には先ほどの冷ややかさはなかったが、リュ・リーンは王の意図するところが見えなかった。
用心深く王の表情を探ってみるが、狡猾な王がそれを表情に表すはずもない。
「判らぬか?」
再び口元に穏やかな笑みを浮かべると聖衆王はリュ・リーンの瞳をまっすぐに見つめた。
自分の瞳を覗かれることに馴れていないリュ・リーンは一層に動揺を深くした。なぜこれほど平気な顔をして自分の瞳を見ることができるのか。
怯えたように後ずさるリュ・リーンの姿を哀れんだのか、聖衆王はその視線をずらした後、先ほどまで坐っていた椅子へと戻っていった。
「お前の両親が異母姉弟だと言うことは知っていよう?」
椅子に座りながら、またしても聖衆王は話題を変えた。困惑したままリュ・リーンは肯首してみせた。
前トゥナ王、リュ・リーンの祖父には二人の妃がいた。
有力貴族の息女と侍女上がりの女だ。貴族出身の娘は男女一人ずつの子をなし、もう一人の娘は男の子を一人だけ産んだ。
貴族出身の娘が産んだ男児がまともに成長していれば、力の均衡からいっても、その子供が王位に就いただろう。だが、その子供はまともには育たなかった。
齢五歳を過ぎても言葉を話さず、歩くことも出来ず、ただただ生まれたばかりの赤子と同じように起きては食べ、食べては寝るだけを繰り返す状態が続いていた。
これでは王位につくことなど出来るはずもない。
継承権を剥奪された子供はそれでもいくらかの時をそれから生きて、母や外祖父の願いも空しく死んでいった。
その後、貴族出身の妃を担ぐ者たちは遺された女児に王位継承権を与えようと躍起になった。
残りの男児を亡き者にすれば女児しか残っていない王の子だということで彼女にも継承権が発生するはずだと、幾度となく王宮には暗殺者が送り込まれ遺された王子の命を狙った。
結局、暗殺はことごとく失敗に終わり、王子は無事に成人して父親の跡を継いで王となった。
だが普通は王位に就いたとて暗殺が終わるはずもない。
それが止んだのは、父親から王位を譲られた王子がその場で自分の妃として異母姉を指名したことが宮殿中に伝わったからだった。
よもや自分たちの盟主たる王女を相手にかっさらわれるとは思ってもみなかったのだろう。
貴族たちが混乱している間に諸々の手続きは終わり、反目し合っていた二人の妃は諍い合う意味を失って沈黙せざるを得なくなった。
婚姻に関してトゥナの法律はかなりいい加減な部分がある。片親が違っていれば兄弟姉妹であろうと婚姻の対象になるのが、その例の一つだ。
前トゥナ王妃たちにどれほどの不満があろうと、定められた手続きを踏んで成立してしまった婚礼に異を唱えるのは不可能だった。
それくらいのことはリュ・リーンでも知っていた。
聖衆王は頷くリュ・リーンの姿を目を細めて眺めたあと、年下の者に話して聞かせるというよりは、独り言を呟くように話し始めた。
「シャッド・リーンは幼い頃から自分の身に危険が及ぶことをよく承知していた。物心ついたときから死と隣り合わせに生きてきたのだろう。
自分が生き延びる方法ばかりを考えていた、とシャッド・リーンは言っていた。どうすればより安全に生きていけるのかと、そればかり考えたと。
顔も見たこともない姉と反目し合う愚かしさに一番疲れていたのは、シャッド・リーン自身だったろう」
リュ・リーンは黙って立ちつくしたまま、その話に聴き入った。
「十歳になり、ここアジェンに留学してきたとき、シャッド・リーンは初めてミリア・リーンに会った。十歳だぞ? お互いの子供を護るためにトゥナ王妃たちはそれくらいに人目に我が子を曝すのを怖れていたのだ。
……可笑しいのは、お互い別々の屋敷に宿泊していたから、相手がよもや自分と血を分けた姉弟だとは思いもしなかったということだ。
しかもシャッド・リーンの奴は姉とは知らずにミリア・リーンに惚れていた。ミリア・リーンにからかわれていることにも気づかずに、散々彼女に振り回された挙げ句、自分たちだけで勝手に結婚の約束までして先の大言だ。馬鹿馬鹿しい!」
父親の子供時代をリュ・リーンは初めて聞いた。
五人の実姉以上に自分を猫可愛がりする父が疎ましく、成人してからはつっけんどんな口しか利いていない。そんな話をしたことはなかった。
「シャッド・リーンは自分とミリア・リーンを護るためにあらゆる手段を講じることを、十歳のときに誓った。
……リュ・リーン。お前はどうなのだ? 自分だけではない、カデュ・ルーンのすべてを護るために己の両手を血に染める覚悟をしたと言うのか!?」
聖衆王の口調は厳しさを帯びていたが、なぜかリュ・リーンにはその口調に祈りにも似た色合いが含まれているように感じられた。
親父も通った道か。
ふとリュ・リーンは軍馬とともに大河を遡っているであろう父親の顔を思い出した。
父とそんな話をしたことはなかった。だが自分には間違いなくあの男の血が流れていることが実感できる。
聖衆王に告げる答えは一つだけだ。
「“我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ”……幾度問われても答えは同じです。
たとえあなたが愚かと笑おうと、カデュ・ルーンを諦めるつもりはありません。誰にも譲らない。彼女は……カデュ・ルーンはこのリュ・リーン・ヒルムガルが護る!」
初めから……、彼女に初めて会ったときから、気づいていなかっただけで、とうに答えは出ていたのだ。
たとえ彼女が親友の恋人であったとしても、忌まわしい力をその内に秘めていても、自分が帰っていく先は彼女以外に考えられない。
リュ・リーンの答えに聖衆王は大仰にため息をついた。
「本当に愚かな奴だ、二度も大言を吐くとは……。カデュ・ルーンがそんなに欲しければくれてやるから、どこへなりと連れて行け。余にしてみれば厄介払いができて丁度いい」
投げやりにリュ・リーンの答えに応じたあと、聖衆王はリュ・リーンに興味を失ったのか手を振って退出を促した。
「あぁ、そうだ……。リュ・リーン。さっさとリーニスに行ってカヂャを追い返してこい。トゥナが滅びては、カデュ・ルーンの嫁ぎ先がなくなってしまうからな」
ついでに付け足したような言い方で退出しかかっていたリュ・リーンの背中にそれだけ言うと、王はそっぽを向いて目を閉じた。
リュ・リーンは目を見張った。カデュ・ルーンを取った時点でエンダル経由の軍路を使う手だては諦めていたのだ。
「……あ、ありがとうございます。御意に沿うよう努めます」
聖衆王の心変わりに驚きつつ、リュ・リーンは素直に頭を垂れた。
もしかしたら、聖衆王は自分を試すためだけにこんな手の込んだことをしてみせたのではないか?
リュ・リーンの脳裏にふとそんな思いが浮かんだが、無表情を保つ王の顔色からそれを伺うことは不可能だった。
廊下を歩いていたリュ・リーンの足がふと止まった。
視線の先にここよりも少し狭いだけの廊下の入り口が目に入る。あそこはカデュ・ルーンの居室へとつながるものだ。
リュ・リーンの胸がチクチクと痛んだ。
彼女に会いたい、会いたい、会いたい……。
その廊下に踏み込もうと数歩進んだところで、リュ・リーンは躊躇って足を止めた。どんな顔をして会えばいいのか判らない。
聖衆王には大きなことを言ってはみたが、いざ彼女と会おうとすると気後れした。
「カデュ・ルーン……」
リュ・リーンは声に出して最愛の女の名を小さく呼んでみる。
廊下の突き当たりに半開きの扉が見える。数十歩は先にあるその扉まで彼の声が聞こえるとは思えない。
「カデュ・ルーン」
もう一度、呼びかける。だが返事を返してくる者は誰もいない。
もっともリュ・リーンは返事を期待してるわけでもないだろう。それを期待するには声が小さすぎる。
しばらく無人の廊下に立ちつくしていたリュ・リーンは、肩を落として王の娘の居室に背を向けた。
だが足が前に動かない。
「カデュ・ルーン。あなたを愛している……。愛して……」
自分の想いが果たして届くのだろうか? 彼女は以前のようにあの柔らかな微笑みを自分に向けてくれるだろうか?
幾度となくリュ・リーンは自分の心に反問する。しかしそれに答える者とて、ここには存在しなかった。
胸にこみ上げてくる熱い塊に身を焼かれながら、リュ・リーンは足を引きずるようにしてその場を後にした。
疲れて戻ってきたリュ・リーンの目に初めに飛び込んできたのは慌てふためく従者たちの姿だった。今朝ここを出るときはこんな状態ではなかったはずだ。
「なんだ……? この騒々しさは」
「あ! で、殿下!」
「何があったんだ、騒々しい」
「あ……えっ……と」
不機嫌そうに質問するリュ・リーンの様子に従者たちが一瞬口ごもる。それにリュ・リーンは苛立ったが、今は怒鳴りつける気力もない。
「なんだ。怒ってないから、ちゃんと喋れ!」
眉間にシワを寄せていては口では怒っていないと言っても信じてもらえまいが、リュ・リーンは自分としては最大限の努力を払ったつもりだった。
「それが……」
「殿下、驚かないでお聞きください」
ざわついていた従者たちの間から副侍従長を務めている男が顔を出した。ウラートがいない間は彼が従者たちの責任者なのだ。
「……?」
リーニスがカヂャに攻め込まれて存亡の危機にあると言う以上に驚くことなどあるのだろうか? リュ・リーンは男の次の言葉を辛抱強く待った。
「王が……。トゥナ王陛下がお一人でお越しになっておられます」
「な、なにぃ~!?」
ほとんど絶叫に近い叫び声をあげるとリュ・リーンは、父親の訪れを告げた男に掴みかかった。
「ど、どういうことだ! 共も連れずに一人だと!? 親父は援軍を率いてまだポトゥ大河の下流にいるはずだぞ!」
「そ……それが、こっそり軍を抜けてこられ……ぐぇっ」
皆まで聞かずにリュ・リーンは副侍従長を突き放すと、自室へと駆け上がっていった。
あのバカ親父! こんなところへ来ている暇があるのか!?
ノックもせずに扉を蹴り開けるとリュ・リーンは自室へと転がり込んだ。
「おぉ。息子よ~。達者であったかぁ」
えらく間延びした声は忘れようもない。
「お、親父! こんなところで何している!?」
「何してる~? 父は花を愛でていたんだがなぁ」
剣呑な息子の言葉に答えたつもりなのか、トゥナ王シャッド・リーンは窓を振り返った。リュ・リーンが日課のようにして眺めていた花園がその視線の先にある。
「そんなことを聞いているのではない! 援軍はどうしたんだ! えぇ!? しかも一人で来ただと!? ウラートに途中で会っただろうが! 俺の大事な侍従をどこへやったんだ!」
「何を怒っているのだ~? ウラートなら援軍の指揮を取りに向かわせたぞ。それより、久しぶりに会ったのだ、顔をよく見せよ、息子よ~」
リュ・リーンは暢気にヘラヘラと笑っている自分の父親に素早く近付くと、頭二つ分は高い位置にある父の顔を掴んで自分の顔の前に引き寄せた。彼のこめかみには青筋が浮かんでいる。
「……最後に会ってからまだ十日と経っていないっ。いつまで俺をガキ扱いするつもりだ、クソ親父!」
そう言い様に相手の両頬をつねり、思いっきり引っ張る。
「いだだだ! 痛い、痛い。止めよ、リュ・リーン」
「王としての自覚があるのか、バカ親父! 軍隊は放ってくるわ、息子の侍従は顎でこき使うわ、危機感はないわ! 少しはまわりの迷惑を考えろ!」
自分のことは棚に上げてリュ・リーンは父親の頬を一層強くつねりあげ、アジェンに来てからの鬱憤を晴らすように当たり散らす。
そんなことをしてもなんの解決にもならないのだが。
「痛い~。顔が伸びる。リュ・リーン、放してくれ~。それに余は遊んでばかりいたわけではないぞぉ。ギイが悪戯をしないようにしたし、早馬で副都のアッシャリーに戦の指示は出しておいたし~」
それを聞いてリュ・リーンはようやく父親を拷問から解放した。
「ギイ伯爵に何をしたんだ?」
未だ怒りは収まったわけではないが、リュ・リーンは鋭い視線で父親を見上げた。トゥナ王は赤くなった頬をなでながら、息子の顔を見下ろして悪戯っぽく笑う。
「ふふふ~。当分の間は悪戯ができないよう、食事に下剤を混ぜさせている」
「げ、下剤!?」
毒薬ではなく、下剤を盛るというやり方の子供っぽさがいかにも父王らしく、リュ・リーンは毒気を抜かれた。
しばらく身体の自由を奪うのなら痺れ薬を盛ったほうが効率がいいだろうに。
「下剤なら怪しまれないだろぅ。ここのところ囲った女のところへ毎晩通って行くとエミューラ・リーンがこぼしていたからなぁ。ギイにはいい薬になっただろうなぁ。くふふ」
トゥナ王は娘婿の哀れな姿を想像しているのか、さも楽しげに笑い声をあげると息子の頭をグリグリとなで回した。
「やめんか! 髪が乱れる!」
乱暴に父親の手を払いのけるとリュ・リーンは自分の右手親指の爪を噛んだ。
父親もまんざらバカではないらしい。
聖地にギイ伯爵を呼びつけてできもしない交渉を押しつけようと思っていたが、本人がその様では屋敷どころか部屋からだとて一歩も出られまい。そんな無様な姿を人目に晒せるほど伯爵の気位は低くはないはずだ。
「リュ・リーン~」
間延びした唄うような口調でじゃれついてくる父親を邪険に押しのけると、リュ・リーンは自室から出て、階下で二人のやりとりをハラハラと聞いているであろう従者たちを呼ばわった。
「誰か居ないか! 出立の準備をしておけ!」
応じる声の後にバタバタと駆け去る足音を確認すると、リュ・リーンは室内から自分を見守る父親を振り返った。
窓から差し込む光のなかにいる父親は大きな体躯の割に王らしくは見えず、崩した姿勢で椅子に座り机にもたれかかるその容姿は子供っぽい印象しか受けない。
「親父……」
自室の扉を後ろ手に閉めながら、リュ・リーンは改めて父を呼んだ。今までの騒々しさは消え、静謐な空間が出来上がる。
「なぜ俺に黙ってアジェンの姫とのことを……」
リュ・リーンは苦々しげに父親を見遣った。聖衆王の娘との縁談話を聞かされたとき、リュ・リーンはまず何よりも父親に裏切られたと思ったのだ。
「話していたら、今回のアジェン行きを渋っただろぅ? お前は天の邪鬼でいつも余の言うこととは反対のことをしでかすからなぁ」
「でも、何も聖衆王の娘を!」
胸に拡がる苦い想いを吐き捨てるようにリュ・リーンは言った。
そうなのだ。彼女の肩書きは何も聖衆王の娘でなくても良かったのだ。カストゥール家の娘でもなんら差し支えないはずだ。
彼女がカストゥール家の者であることが最初から判っていれば、ダイロン・ルーンとの関係に気を揉んであれほど悩むこともなかった。
今さらながら己の失態が悔やまれる。
「なんだ? 王の娘は気に入らなかったのか~? おかしいなぁ。マシャノ・ルーンの奴が太鼓判を押した娘だったんだが?」
何を暢気なことを言っているのか。その娘が異形の者であるからこそ、聖衆王はトゥナに彼女を押しつけようとしたのではないか。
「本当に気に入らなかったのか~? ミリア・リーンに似た娘を、と頼んでおいたのに。マシャノ・ルーンの奴、嘘を言ったのか?」
「ちょっと待て! 誰に頼んだだと!? さっきから言っているマシャノ・ルーンってのは誰だ!?」
首を傾げる父親に詰め寄るとリュ・リーンは相手を睨んだ。
「ん~? あぁ、お前は知らんか。聖衆王の名だ、マシャノ・ルーン・アジェナ・レーネドゥア。あいつにお前の気に入りそうな娘を探してもらうよう頼んだのだが……はて? どういう娘だったのだ、その娘は~?」
のんびりと自分を眺める父王にリュ・リーンは目眩を覚えた。
「母上の顔さえうろ覚えな俺にどうやったらその娘が母上に似てると判るんだ! 第一、彼女の髪は銀髪で母上の栗毛とは似ても似つかない……」
「そうではなくてぇ。お前の母親代わりになるほどの包容力を持った娘を探してくれと余はマシャノ・ルーンに頼んだのだ。
お前のきかん気な性格を享受できるのはそれくらいの娘でなければ務まりそうもないからなぁ。そういう娘ではなかったのか~?」
リュ・リーンは何も言えずに黙り込んだ。
さすがに父親だけのことはあった。息子の性質をよく心得ている。
父王は幼い頃に母親を亡くしたリュ・リーンのトラウマをよく判った上で、相手を探していたらしい。
「気に入らなくはない……」
ボソリとそれだけ答えるとリュ・リーンは俯いた。その黙り込んでしまった息子の顔を覗き込んだトゥナ王はニッコリと微笑んだ。さも安心したと言うように。
「そうか! 気に入ったか~。良かった、良かった」
「良くない! 俺が気に入っても、彼女は……!」
不用意に彼女の部屋に踏み入り、秘密を覗いて、自分は彼女の心を傷つけてしまった。きっと彼女は自分の不躾さに嫌気が差したろう。
「そうか~? マシャノ・ルーンからの返事では、娘のほうもお前に気があると言ってきたんだがなぁ? 絶対にお前も気に入ると言っていたし。お前、嫌われるようなことをしたのか~?」
ギクリとリュ・リーンは顔を上げ、腕を組んで首を傾げる父親の顔に一瞬だけ視線を向けると再び俯いた。
その息子の様子にトゥナ王は大袈裟なため息をついた。世話の焼ける奴だ、と内心で言っているのがリュ・リーンにさえ判る。
「何かヘマをやらかしたな、リュ・リーン? 早めに謝ったほうが得策だぞ~。夫婦喧嘩ってやつは、男のほうが先に謝ったほうが円満に解決することが多いからなぁ」
「ま、まだ俺とカデュ・ルーンは夫婦じゃない!」
先走る父親の考えにリュ・リーンは一瞬たじろぎ、顔を赤く染めた。
「ほぉ~、カデュ・ルーンと言うのか~。“聖なる魂”あるいは“聖なる神の器”と言った意味か。良い名だな。ミリア・リーンにもその娘を見せてやりたかったなぁ」
ぼんやりと窓から差し込む光を見つめながらトゥナ王はしばし物思いに耽る。その蒼い瞳は死んでいった者とでも会話しているのだろうか。
光を受けて淡い金色に光る髪に縁取られた父親の横顔を見つめてリュ・リーンはそっとため息をついた。
「……さて、リュ・リーン。グズグズせずに謝りに行ってきたらどうだ~。どうせお前のことだ、自分が援軍を率いて聖領を突っ切るつもりだろう?
だったら、早く仲直りしておかないと、今年はリーニスから動けないだろうから、機会を失って本当に愛想をつかされるぞぉ?」
「な、なんでそれを知ってるんだ!」
ウラートにさえ明かしていなかった戦術をどうして父王が知っているのか!?
「リュ・リーン~。余はトゥナの王だぞぉ? 一番効率よくかつ効果的に動くためにどうすればいいかを考えるのはお前より長~くやっている。お前が今朝王に謁見を申し込んだと聞いてすぐに判ったぞ?
……上手くいったのだろぅ? マシャノ・ルーン、いや聖衆王との話し合いは」
あれを上手くいったと言ってもいいのかどうか。だが結果的にエンダル台地を経由する軍路は確保できた。
以前も使用したことのある軍路なのに恩着せがましく許可を出す聖衆王のやり方は腹立たしいが、トゥナがリーニスを失って国力を落としてはトゥナの軍事力を体よく使っているアジェンとしても都合が悪いはずだ。
聖衆王はそこのところもよく判っていたのだろう。
「お前のここでの任務は父が代わってやる。精々リーニスでは派手に暴れて、“黒い悪魔”の名に相応しい戦果を挙げてこい。
あぁ、そうだ~。今すぐに軍に合流することはないぞ。明日にも我が軍は大タハナ湖の南側に到着するだろう。お前の甲冑も持ってきているから、ちゃんと着込んでいくんだぞぉ~?
先年のように兜もかぶらずに戦場を駆け回るんじゃないぞ、父の寿命はあれで十年は縮んだ」
「まったく何から何まで。言いたい放題言ってくれる……」
リュ・リーンは自分が駆けずり回っていたことが馬鹿馬鹿しくなってきた。
聖衆王はリーニスが蹂躙されていることを自分と変わらない早さで察知していたし、父親は彼の考えなどすべてお見通しだ。
彼らの掌中できりきりまいしている自分が政治家としても半人前だということをこれほど思い知らされたことはない。
「どうした? リュ・リーン~?」
扉へと向かう息子にトゥナ王は間延びした口調のまま問いかけた。
「侍従たちに指示の出し直しだ。今すぐに出立しなくて済んだからな」
忌々しげに父の問いに答えながらリュ・リーンは振り返った。
その視線のすぐ先に自分の顔を覗き込む父の顔を発見してリュ・リーンはぎょっとした。
いつものふやけた締まりのない顔ではない。厳しい王の顔をして真っ直ぐに自分の瞳を見つめる父を、これほど間近で見たことがあっただろうか?
「ルーヴェ……」
低い重々しい声がトゥナ王の口からもれる。 リュ・リーンは己の足が微かに震えていることを自覚した。
ルーヴェ。何年も聞いていなかった自分の“聖名”。
秘された名。真実の名。人は真の名を知り、“支配の言葉”を使う者によって支配される。逃れることは許されない。
リュ・リーンの聖名を知る者はもはやこの世では父王ただ一人。その父は魔道師としての力も使えるのだ。
「……はい」
名を呼ぶ者に抵抗などできない。リュ・リーンの思考は強制的に支配される。
シャッド・リーン王の両手が上がり、息子の顔を包み込む。王はさらに自分の顔を近づけると、息がかかるほど間近から囁く。
「忘れるな、お前の名を。お前に災いをもたらす者、すべてに死を与えてこい。そして、生きて帰り、余の掲げる王杖を奪い取れ……」
「はい……。ちちうえ……」
忘れるはずもない、この忌まわしい名を。
ルーヴェ・リュ・リーン・ヒルムガル。名の意味は“氷原で死の翼を震わす鳥”。終焉神の使徒。
自分を追放した者たちに氷の刃を向けた放逐者の名がリュ・リーンの名には織り込まれている。
自由を奪われたリュ・リーンの思考の断片にその神の密やかな声が聞こえる。
災いをなす者には死を……。限りなく残酷なる死を!
熱に浮かされたように頷く息子に微笑みかけるとトゥナ王は息子の暗緑色の瞳を覗き込んだ。人ならざる者の瞳を。魔の瞳を。
「死の王の御子よ、生きて我が王国にお戻りあれ」
囁き声は小さなものだったが、リュ・リーンの耳には落雷のような激しさでこだました。
第05章:秘密と代償
前を歩く侍従の背をもどかしく見つめながら、リュ・リーンは王城の奥へと向かっていた。
ウラートを送り出してすぐにリュ・リーンは聖衆王に面会を求めた。
早朝からの面会に長が応じるかどうかなど、かまってはいられない。リュ・リーンは自分が今ここアジェンにいることを最大限に利用するつもりであった。
父王には時間的に無理でも、聖地にいる自分にならわずかではあるが、エンダル台地を通過する許可を求める時間の余裕がある。
何もせずにボゥッと聖地にいるわけにはいかない。
「どうぞ。こちらでございます」
長い回廊から回廊へと歩き続け、磨かれた大理石の床と重厚な彫刻が施された扉がそびえる一角へとリュ・リーンは案内された。
巨大な扉の前には衛兵が二人、無表情なまま立っている。リュ・リーンはその巨大な扉が聖衆王を象徴しているような錯覚に捕らわれた。
案内の侍従の合図にその重々しい扉はゆっくりと開けられ、リュ・リーンを奥へと誘うように口を開けた。
「え? 奥の案内は……?」
ここまで案内してきた王宮の侍従はそれ以上奥へ入ってこようとはしない。戸惑うリュ・リーンに無機質な声のまま侍従が答える。
「申し訳ございませんが、わたくしが仰せつかった案内はここまででございます。奥へは廊下に沿ってお進みください。長の居室の前に案内の者がおります」
呆気にとられるリュ・リーンを残して、侍従は下がっていってしまった。扉の両側に立つ兵の横顔を盗み見ても、彼らはまったくリュ・リーンに関心を示さなかった。
長に会いたいとの言伝にあっさりと応じたかと思えば、今度は奥へは勝手に行けと言う。ここの警備はいったいどうなっているのか。
リュ・リーンは心許ない心境で奥へと誘う赤い絨毯の上を歩き出した。その背後から扉の閉まる重たげな音が響く。
壁にかかるタペストリーは荘厳な紋様が縫い取られているが、天上から下がる薄布が、端が解らなくなるほどに広い廊下を華やかに飾り立てていた。
誰もいない廊下を進みながら、リュ・リーンは物珍しそうに辺りを見まわした。聖衆は旧い民の一族だと聞いたことがある。建物も古びたものが多い。だがこの一角の華やかさは今風で新しげに見えた。
聖地には不釣り合いなほどの明るさにリュ・リーンは意外な思いがした。天上から下がる軽やかな薄布は王の娘の舞姿を連想させる。
その彼の視線の先を銀の光がかすめた。リュ・リーンは一瞬身を固くした。
「……ダ、ダイロン・ルーン」
広間ほどの幅がある廊下の端を足早に歩いてくるダイロン・ルーンの姿に心臓が飛び上がる。
まだ相手は気づいていないようだ。俯き加減に廊下を進むその姿はかつての闊達な少年の印象からはほど遠い。
「……!」
ダイロン・ルーンがため息とともに顔を上げた。リュ・リーンに気づいたようだ。露骨に顔を歪めると、何か悪態をついてやろうと口を開きかかった。
しかし何を思ったかリュ・リーンの存在自体を無視すると一段狭い廊下へと足を向ける。
「ダイロン……! 待ってくれ!」
リュ・リーンは当初の目的も忘れてかつての友の後を追った。
自分を無視して歩み去ろうとするダイロン・ルーンの後を追いすがったリュ・リーンには、自分が踏み込んだ場所がどんなところかなど思い巡らす余裕はなかった。
「ダ……。カストゥール候! 話がある!」
リュ・リーンの呼び声に初めてダイロン・ルーンが反応した。険悪な目つきのまま振り返り、リュ・リーンを睨みつける。
「その名で呼ぶと言うことは、カストゥール家当主に用があると言うことか?」
視線の激しさとは反対に声音は冷え冷えと響いてきた。
「そうだ。……同盟者ヒルムガル家当主の息子として、カストゥール家当主に話がある」
リュ・リーンは「同盟者」の部分を強調してみせた。
かつてほどの強権は持たないが、聖地は近隣諸国を統括していることになっていた。そのためトゥナ王家のみならず、近隣国の王家は表面上は聖地に臣下の礼をとる。
聖地からそれぞれの国の預かり統治しているという建前のためだ。よって、聖地の貴族と各国の王家は同列ということになっている。
「こちらには話などない、ヒルムガル家の息子よ」
「カストゥール候、今までの非礼は詫びる。この通りだ」
トゥナの貴族たちが見たら卒倒しそうな光景だった。冷血漢と陰口をたたかれている王子リュ・リーンが他人にひざまずくなど信じられることではない。
カストゥール領主の瞳にも動揺が走る。だが彼の前にぬかずくリュ・リーンにはその表情は見えなかった。
「今回の当家の申し込みが、貴候をなおざりにしたものであると申されるなら、我が当主に成り代わって謝罪の上、申し込みの破棄をお伝えしたい」
父王や聖衆王となんの相談もなしに勝手に話を破棄して良いわけはない。良いわけではないが、今のリュ・リーンに考えつく謝罪法はこれしか思いつかない。
「その上で、改めて……貴候の妹君にお引き合わせ願いたい」
虫のいい願いだと、内心で思いながらリュ・リーンは恐る恐る相手の顔を見上げた。
「どちらも断る、と申し上げたら……?」
カストゥール家の当主は無表情を保ったまま、リュ・リーンを見下ろしていた。同列に扱われるはずの相手に立ち上がるよう促す気配など微塵も感じさせない。
「お許し頂けるまで、参上し続ける」
断固たる口調でリュ・リーンは返答した。
カデュ・ルーンのことを諦めるには、リュ・リーンは彼女に惹かれすぎてる。
「先の縁談が貴卿の預かり知らぬことであったことは、今我が王からお伺いしてきたところだ。その件の誤解に対してはこちらから詫びよう。
だが妹の顔すら覚えていなかった貴卿に、結婚を申し込むどんな資格があると言うのだ。迷惑な話だ……」
「そのことには、いかような責めも甘んじて受ける。だが……それでも……」
リュ・リーンの言葉を遮るように頭上から嘲りを含む声が響く。
「断れば当家へ押しかけてくる、か。愚かしい奴だ。……このまま引き下がったのでは、家名に傷がつくか? ならば、交換条件を出してやろう」
カストゥール候の言葉がリュ・リーンの胸に突き刺さる。
「カストゥール候……」
「聞けば今トゥナは一刻を争う危機に直面しているらしいな。……助力が欲しかろう? 当家から聖衆王陛下にご助力賜るべく具申しよう。それで今回のことはすべて白紙に戻し、今後一切我が妹に関わるな!」
リュ・リーンは愕然としてよろめいた。そして、そのまま躰を支えきれずに両手を床につく。
聖衆王の耳の早さに驚くばかりだ。自分が今朝受けたと同じ報告を聖地の長も受け取っていたのだ。密使を使っている意味がない。
我知らずリュ・リーンは呻き声をもらした。
助力は欲しい。リュ・リーンはここへ聖地の支配者にその助力を乞いにきたのだ。弱みがどうとか言っている場合ではない。
聖衆王の許可さえ下りれば、エンダル台地の通行は可能だ。許可さえ下りれば。
長の甥であり、神殿司祭長であるカストゥール候の具申があれば、王から許可を求めることは格段に楽になる。だが、それでは……。
「それを選べと申されるのか、カストゥール候」
躰を支える両手をリュ・リーンはきつく握りしめた。
「貴卿に選択の余地があるのか?」
「それは……」
言いよどむリュ・リーンの様子など意に介さず、カストゥール候は踵で大理石の床を蹴った。虚ろな音が響くなか、候はさらに続けた。
「貴卿の申し出は不愉快だ。妹を振り回すのはやめてくれ!」
「……! カストゥー……」
その時! リュ・リーンの声やダイロン・ルーンが床を蹴る音を掻き消すように、何かが砕け散る音が辺りにこだました。
「え? なんだ、この音は?」
「何……!」
ダイロン・ルーンの顔に焦りの色が浮かぶ。
「しまった……!」
彼はそのままきびすを返すと目の前に迫っていた廊下奥の扉へと駆け出して行った。
破壊音は断続的に続いている。リュ・リーンはダイロン・ルーンの行動に引きずられるように扉へと向かう。
開け放たれた扉の奥からダイロン・ルーンの焦り声が聞こえてきた。
「目を覚ませ! カデュ・ルーン……! カデュ・ル……うわっ!」
切迫したその声にリュ・リーンは走り出した。飛び込んだ部屋の奥はほの暗く、調度品が黒い影を床の絨毯に落としている。
奥のベッド下の床に銀色の色彩が見えた。
フラフラとそれが揺れてベッドへと近寄っていく。それが床に倒れていたダイロン・ルーンが起き上がっているのだ、と気づくまでにリュ・リーンは二呼吸ほどかかった。
「ダイロン・ルーン!」
思わず叫ぶとリュ・リーンは一歩踏み出した。
「来るな!」
その歩みを押し止めるようにダイロン・ルーンのうわずった声が響く。
「来ないでくれ……、リュ・リーン!」
友のただならぬ声にリュ・リーンは動揺した。こちらに背を向けているダイロン・ルーンの後ろ姿は何かに耐えているように痛々しく見える。
どうしたらよいのか判らない。
目のやり場に困ったリュ・リーンは辺りを見まわして、いっそう動揺した。そこかしこに砕けた水差しやカップの破片が散らばっている。
床に落ちて割れたというには不自然な位置だ。それに砕け方が何かおかしい。
なんだ、これは……?
リュ・リーンは足元から這い上がってくる悪寒に身震いした。
「なんだ? いったい何が……?」
リュ・リーンは全身の肌が粟立つのを感じた。不吉な感覚。こちらに背を向けているダイロン・ルーンの肩がガックリと落ちるのが見えた。
「に、兄様……。助けて……」
苦しげな少女の声が聞こえてきた。間違いない。カデュ・ルーンの声だ。
「ここにいるよ、カデュ・ルーン」
ダイロン・ルーンの声はまだうわずったままだ。まるで何かを怖れるように震えている。だが少女はそれが聞こえていないのか、囁き声で助けを求め続けた。
ダイロン・ルーンがぎこちない動作でベッドの上にかがみ込む。
「カデュ・ルーン……」
兄の呼び声に答えるように少女の悲鳴が小さくあがった。
「い、いや……! 助けて……。助けて……!」
リュ・リーンはそれを茫然と見守るしかなかった。
何がどうなっているのか、さっぱり判らない。夢にうなされているらしいカデュ・ルーンを抱きしめたダイロン・ルーンが肩越しにリュ・リーンへと視線を向けた。怯えたような瞳がリュ・リーンを凝視する。
「リュ・リーン……」
かすれた声がリュ・リーンの耳に届いたが、それがダイロン・ルーンのものだと気づくまでかなりの時間がかかった。
その厭な沈黙を破るように再び破壊音が辺りにこだました。窓を塞いでいる鎧戸が在らぬ方角へと弾け飛んだ。
「カデュ・ルーン! ……しっかりしてくれ!」
悲鳴に近い声で妹に呼びかけると、ダイロン・ルーンは彼女を目覚めさせようとその躰を激しく揺する。
眼前で起きた破壊の様にリュ・リーンの躰の震えが強くなる。
「霊繰り……?」
リュ・リーンは恐怖とともにこの世でもっとも忌まれる種族の名を口にした。そのリュ・リーンの言葉にダイロン・ルーンの躰が激しく身震いする。
窓から差し込む光が部屋の惨状をつぶさに照らし出していた。とても人間がやったものとは思えない。
置かれている調度品の数々には引き裂かれたような傷跡や穴が穿たれ、壁を飾る絵画の木枠は大きく裂け飛んでいる。
陶製の水差しは粉々に粉砕され、所々に金箔が押されていたらしいカップは原型を留めないほどに砕け散っていた。
リュ・リーンは震える足を叱咤して、ようやく一歩を踏み出した。
ダイロン・ルーンの肩が目に見えて震えているのが判る。その彼の腕に抱かれた娘の白銀の髪が陽光に煙るように輝いているのがチラリと覗く。
重い足取りでベッドの傍らへ移動したリュ・リーンの目から妹を庇うように、ダイロン・ルーンが少女の頭を自分の胸に押し当てた。
その動作が引き金になったのか、カデュ・ルーンが身じろぎする。目を覚ましたようだ。
「う……ん。兄様……?」
ぎくしゃくとした動きでカデュ・ルーンが身を起こしかかる。
それを押し止めるようにダイロン・ルーンが妹の躰を抱きしめる。そしてその姿勢のまま隣のリュ・リーンの顔を見上げる。
「出ていってくれ、リュ・リーン。頼むから……」
囁き声だがはっきりと聞き取れるダイロン・ルーンの声にリュ・リーンは一瞬にして全身に鳥肌が立つのを感じた。
「リュ・……リー……ン……?」
たどたどしい口調のまま少女が兄の言葉を反芻した。たったそれだけのことにリュ・リーンは一歩後ずさった。
だが恐怖が躰を強ばらせ、それ以上の後退を鈍らせる。
ゆっくりと、本当にゆっくりとした動きで少女の頭が上がり、その顔がリュ・リーンへと向けられる。
ダイロン・ルーンもリュ・リーンも凍りついたように動きを止め、彼女の顔が上がるのを固唾を飲んで見守った。
娘の白い顔の半分が陽光を受けて鮮やかに浮かび上がる。
「……! そんな……」
リュ・リーンは驚きのために喘ぎ声をもらす。そして躰の支えを求めるようにベッドの天蓋の支柱に取りすがった。
リュ・リーンは娘の顔から目を逸らすこともできずに茫然とその顔を見守った。いや、正確に言えば、その額の部分を。
カデュ・ルーンの額には、在るはずのないものが存在していた。
「そんな……神の眼が……」
娘の滑らかな額には縦に醜悪な裂け目が広がり、そのあり得ない空間にはまばゆいばかりに輝く黄金の色彩が満ちていた。
リュ・リーンの茫然とした呟きにダイロン・ルーンが顔を背けた。泣いているようにその肩が震えている。
娘はぼんやりとした顔つきのまま、リュ・リーンと兄の顔を交互に見比べる。
その顔が徐々にはっきりとした意識の覚醒を思わせる表情を刻んでいくにつれ、娘は恐怖に顔を引きつらせた。
恐る恐るといった動作で娘の右手が自分の額へと伸びる。
そして、そこに人ならざる者の眼を発見すると、怖れに見開かれた娘の瞳がリュ・リーンの顔に向けられた。
娘の躰がガクガクと震えている。
「いや……。いやぁ~!」
リュ・リーンの視線に耐えられないとばかりに娘は兄の胸にすがりついた。病的とも思える痙攣が娘の躰を襲っている。
小柄な少女の躰を覆ってしまうように抱きしめると、ダイロン・ルーンがリュ・リーンを睨んだ。
「出ていってくれ。もうたくさんだ! 出ていってくれ、リュ・リーン!」
猛獣の雄叫びよりも激しい叫び声でダイロン・ルーンが絶叫した。リュ・リーンは躰の震えを押さえることができずにいた。
何故、彼女の額に神の眼が刻まれている? 忌まれたる種族の刻印を刻まれた娘がなぜカデュ・ルーンなのだ?
リュ・リーンは何か言おうと口を開いたが、唇は何の音も発しなかった。
言葉を紡ごうにも、彼の頭のなかはあまりにも空虚で、言うべき言葉などどこにも見あたらなかったのだ。
立ちすくむリュ・リーンの視線から妹を庇うダイロン・ルーンが、戸口の方角を振り返ったのは、次の瞬間のことだった。
「叔父上……!」
ダイロン・ルーンの泣き出しそうな横顔にリュ・リーンは胸を痛めたまま、入り口を振り返った。
いつからそこに立っていたのか。大地を睥睨する神のように聖地の支配者がそこに佇んでいた。冷徹で厳格なその表情からは、どんな感情も読みとれない。
感情の片鱗すら見せずに、聖衆王はベッドへと近づいてきた。その足取りにはなんの躊躇いも、焦りもない。
全身を震わせる自分の娘をチラリと一瞥すると、リュ・リーンの深い色合いの瞳を覗き込む。
「内宮に入ったと報告を受けたのに、一向に姿を現さぬから様子を見にきてみれば……。少々、勝手がすぎるな、トゥナの王子よ」
リュ・リーンに向けられた王の声は冷たく、言いしれぬ不安を彼の胸に広げた。リュ・リーンの背に再び悪寒が走る。
「参ろうか? ここでは話もできぬ」
相手の返事など求めていないのか、聖衆王はきびすを返すとサッサと扉へと向かった。娘や甥には一言もない。
王の背中は他人の声を拒否する冷酷さがあった。逆らうことなど、できるはずもない。
リュ・リーンは奴隷の如き鈍い足取りで聖域の支配者の後に従った。
どうして彼女なのか?
リュ・リーンは乱れがちな呼吸をなだめながら歩き続けていた。
前を歩く聖衆王はリュ・リーンの心情などお構いなしに足早に歩いていく。後ろに従う者のことなど忘れてしまっているかのようだ。
どうして彼女が?混乱した頭ではまともな答えが見つかるはずもない。
だが確かなことは、彼女が“神の眼”を持ち、忌むべき“霊繰り”の力が使えるということだ。
なぜ彼女なのだ。自分の両眼が“魔の瞳”と謗られる以上につらい。彼女の第三の眼は人が持つべきでない代物だ。
遙か昔、まだ神々が人とともに大地に住まいし時代、神と人とが交わり、神人が誕生したという。
弱々しい人間の器に神の力を宿す者。神人たちは神の力に耐えきれず、自ら命を絶つ者、発狂する者、力が暴走して命を落とす者が続出した。
その惨状に心痛めた神々は、遂に地上を離れたと神話は謳っている。
“神の眼”はその神人の名残。滅びたはずの神人族の血脈を示す紋章。
王朝の史書には何人かの神の眼の所有者の伝承が記載されている。
その記述によれば、眼の持ち主の最期は大抵悲惨なものだ。神の眼は人の心を読み、獣たちと会話するという。
知りたくもない他人の心を読み取ってしまう眼の力に人間の心のままでいることは辛い。心の奥底を覗き込む力など、人には不要なものなのだ。
それなのに、彼女の額には神の眼が。あぁ、それに霊繰り。
リュ・リーンはその恐ろしさに目眩がしそうだった。
魔法、と呼ばれる類の力を操る者たちは大きく分けて三種類の種族に分かれる。
一つ目は神殿僧や呪医たちが学ぶ、通称呪術と呼ばれる治癒魔法。
これは薬草や鉱物の知識を持つ者がその修行を積んで身につけたものだ。彼らの祈りの呪文によって発動し、庶民には一番馴染みのある力だろう。
二つ目は魔導師や魔術学者たちが身につけている、通称魔道と呼ばれる魔法。
こちらは古代文書や魔道書の知識を持つ者が研究を重ねて身につけたもの。呪符や力の言葉を使うことで発動される。
彼らの多くは宮廷学者として招聘された者たちで、魔道書などの文献を研究するうちにその力の原理を学んで魔法を使えるようになる。
そして三つ目が霊繰り。
この力だけは解明されていない。
他系統の魔法が、伝承によって学び知識を蓄えてその魔法力を高め、薬草や古文書を媒体に魔法を発動させるのに対して、霊繰りの力は一切の言葉や物質などの媒体を使わず思念によって発動する。
しかも、その力を宿す者に出生の法則なく、突然変異のように生まれてくる。
言葉も呪符も用いない。念じるだけ。不可解な力。まるで魔神の戯れで生み出されたような者たち。神の眼と同じく神の業に通じる力。
それ故に人々はその力を怖れた。そして、その力を持つ者を迫害し続けた。それは有史以来変わることなく繰り返されてきたことだ。
理解の範疇から外れる力を持つ少数民をその力を持たぬ民は怖れるあまりに、汚辱を与え、見捨て、そして惨殺していった。
数百年前、まだワーザス地方の大半が北海に沈んで半島となる前、この地は“海に浮かぶ広野”と呼ばれるアッシレイ大帝国があったという。
帝国時代、霊繰りたちへの迫害は凄惨を極めたと史書には記述されている。
そこは生きたまま皮を剥がれ、焼き殺され、あるいは串刺しにされる霊繰りたちの阿鼻叫喚に満ちていた。
だがその帝国時代に霊繰りたちへの残酷なまでの虐殺劇が開始されたのは、虐げられてきた霊繰りたちの反逆が引き金になったと言われている。そうでなければ、これほど凄惨な殺戮は起こらなかったであろう、とも。
以後の世代でも帝国時代ほどの苛烈さはなくなったが、霊繰りへの処遇は冷淡で陰惨なものがほとんどだ。
人はそれほど霊繰りの力を怖れたのだ。いや、もしかしたら羨望したのかもしれない。
呪術や魔道は資質を問われはするが、何の力もなかった者であっても会得できる可能性があった。しかし、霊繰りの力は違う。
生まれ落ちたそのきにすでにその小さな赤子に力は存在しているのだ。
自分たちには決して持つことの叶わぬ力を、神の如くに操られる力を宿した者たちへの嫉み。
もしかしたら初めはそんな些細な嫉妬心から迫害が始まったのかもしれない。
だが今となっては知りようもないことだ。
その二つの力を彼女は持ち合わせている。リュ・リーンは未だに己の目が見せた幻であって欲しいと願わずにはいられなかった。
なぜ? どうして? 同じ問いかけばかりが脳裏に渦巻き、どうしようもない焦燥感だけがじわじわと募っていく。
いつか彼女は狂ってしまうかもしれない。いやそれよりもその力のことが知れたなら、彼女がどんな仕打ちを受けることか。
史書や伝承のなかで語られる超常力の能力者の末路を思い起こすと、リュ・リーンは震えが止まらなくなった。
いやだ。いやだ。誰か、これは嘘だと言ってくれ!
だがリュ・リーンの心の叫びに答えうる者は現れず、数歩前を歩む聖地の支配者は彼の内心にかまう様子どころか、振り返ることさえしなかった。
第04章:記憶の顔
翌朝。リュ・リーンは目覚めるとすぐに自分の枕元にウラートがうたた寝している姿に気づいた。
外からは小鳥のさえずりが聞こえる。今朝も小鳥の鳴き声に起こされたようだ。
ウラートに起こされる前に目を覚ますという快挙を二日間に渡って成し遂げたわけだ。
昨夜はウラートに髪を撫でられているうちにリュ・リーンは眠りについていた。代わりにウラートほうはリュ・リーンの髪をなでてずっと起きていたのだろう。
リュ・リーンは少し申し訳ない気分になり、ウラートを起こさないようにそっとベッドから下りると、昨日の朝そうしたように今日も中庭に面した窓を開けてみる。
昨夜の言いようのない虚しさが一瞬頭をもたげたが、それ以上に期待感に胸が膨らむ。
肌寒い空気がリュ・リーンの頬をなでていった。中庭は朝靄に包まれている。
だがリュ・リーンが期待した花の精霊の舞姿は今朝は見ることができなかった。
小鳥たちのさえずりだけが響く花園は美しくはあるが、どこか疎外感があり、リュ・リーンは花園にまで嫌われたような錯覚に陥った。
「う……、リュ・リーン?」
背後からの声にリュ・リーンは振り返った。窓からの光でウラートを起こしてしまったようだ。
「すまん、起こしてしまったか?」
「いいですよ、別に。もう起きなければならない時間です。……それより、リュ・リーン……」
皆まで言わせずリュ・リーンは彼の侍従に微笑んだ。
「昨日は半日も公務をサボった。今日は休んでいるわけにもいかないな。枢機卿との会談は今日に繰り越したのか?」
「昨日の今日でしょう? 相手の都合だってありますよ。午前中は何も入れていませんが、午後からは学舎の訪問があります。大丈夫ですか?」
ウラートには主人のこの落ち着きようが、逆に彼の傷の深さを顕わしているようで気がかりだった。
リュ・リーンはウラートの心配をよそにゆっくりと伸びをした。身体のほうは呆れるほどすっきりとしている。重く気怠いのは心のほうだ。
「休みすぎなくらいだ。午前中からでも動けるぞ」
リュ・リーンは身体を動かして、他のことに集中していたいのだ。ウラートはそれを悟ると、素早く頭を回転させて主人の今日の予定を組み替えていく。
「判りました。午前中から予定を入れましょう。すぐに調整します」
「おい、無理に変更しろとは言っていない。午前中に公務が入っていないなら、行っておきたいところがある」
気をまわしすぎる従者にリュ・リーンは苦笑する。
「カストゥール家へ行ってきたい。朝食の間に連絡をとってみてくれ。ダイロン……いや、ミアーハ・ルーン卿の都合がつけば、すぐにでも訪ねたい」
リュ・リーンは口元を歪めた。いずれはケリをつけねばならない相手だが、会うとなると気が重い。それでも会わねばなるまい。
「……はい。すぐに連絡を取りましょう」
ウラートはリュ・リーンの意図するところを理解した。聖衆王やその娘に今回の縁談の件を断る前に、娘の想い人であるカストゥール候に断りをいれるつもりなのだ。
神官職にも名を連ねる聖地の大貴族とトゥナ王の息子。聖地の王の娘の縁談としてどちらがより相応しいか、よく考えればわかることだ。
それにしても、なぜ聖衆王は同族の大貴族の意向を無視するようなことをしたのか?
聖地の民が外様である他国に嫁ぐことはかなり稀なことなのだ。
娘を説き伏せたところで、自分の臣下の不満を残す形での婚姻が後のしこりになることは目に見えている。
リュ・リーンの沈みがちな瞳の色を気にしつつも、ウラートは主の意向に添うべく他の従者に指示を出しに主人の部屋から退出した。
部屋に独り残されたリュ・リーンは再び中庭へと視線を向けた。
相変わらず花園の主の姿は見えない。リュ・リーンは急速に萎んでいく自分の気持ちを吐き出してしまうように荒々しい吐息をはいた。
落ち込んでいる時間は自分には与えられていない。聖地での任務をやり残したまま帰国するわけにはいかないのだ。
決着をつけるべきことは、早くつけたほうがよい。
昨夜から考え続けていたことを、自分に言い聞かせるように確認するとリュ・リーンは窓を閉じようと身を乗り出した。
そのリュ・リーンの動きが止まった。今まで陰になっていて見えなかったが、王城の奥宮殿の回廊に続く扉の近くに人影が見えるではないか。
その人物を確認してリュ・リーンは愕然とした。
「ひ……姫!?いったい、いつから……」
王の娘が木陰に顔を伏せたまま座り込んでいた。疲れたようにうずくまる衣装は昨夜と同じものだ。着替えもせずに部屋を抜け出してきたのだろうか?
「まさか……」
リュ・リーンは動揺したまま部屋を飛び出していた。外の廊下を行き交う従者たちが、主人の形相をみて慌てて飛び退いていく。
どこへ行くのかと呼び止める声が聞こえる。だが呼び声に応える余裕はリュ・リーンにはなかった。
中庭に飛び出したリュ・リーンは、そこで足を止めた。昨夜の気まずい想いが彼の足を進めることを躊躇わせる。
木陰では娘が身じろぎ一つせず、まるで白い彫像のように座していて、今にも消え入りそうなほど弱々しく見えた。それがリュ・リーンの気持ちに鞭を打つ。
恐る恐る木陰へと近づく。娘と目が合ったら逃げ出してしまうかもしれない。
「姫……」
ようやく娘の側までくるとリュ・リーンはひざまずいてそっと声をかけた。
びくりと小動物のように肩を震わせて、娘が顔をあげた。その表情に胸が針で刺されたように痛む。泣きはらして娘の眼まなこは真っ赤になっていた。
「殿下……」
「姫……。まさか……まさか一晩中?」
娘はこくりと肯く。そんな仕草は幼く見えた。
信じられない。春先のこの時期、夜はまだ肌寒い。それを一晩中、外気に当たっていたというのか。
「なんてことを……!」
リュ・リーンは衝動的に娘を抱きしめた。
その身体が夜露に濡れたのだろう、湿っていることに気づくと、慌てて自分の上着を脱いで娘の肩にかける。そのときになって、娘が震えていることにリュ・リーンは気づいた。
当たり前だ。一晩中、夜露に濡れたままこんなところに座っていては、風邪をひくどころではない。
娘の意識は朦朧としているようだ。熱が出始めたのかもしれない。
「着替えを! ……あぁ、でもその前に身体を暖めなくては」
リュ・リーンは娘の小柄な身体を抱き上げた。予想以上に軽い。青ざめた顔色の娘を気遣いながら、リュ・リーンは棟の入り口目指して足早に歩き始めた。
「待て! リュ・リーン! その娘をどこへ連れていくつもりだ!」
恐ろしく冷たく、殺気だった声が背後からかかった。振り返って確認するまでもない。この声に聞き覚えがある。
「ダイロン……ルーン……」
リュ・リーンは苦々しい思いで振り返った。
テラスの上に息を切らしたダイロン・ルーンの姿があった。
今しがた、ここへ来たのだろう。目を爛々と光らせ、自分を睨むダイロン・ルーンにリュ・リーンはどんな言い訳も通用しない頑迷さを見て暗い気持ちになった。
娘は虚ろな意識のままリュ・リーンの腕に抱かれている。
このまま娘を連れ去ってしまいたい衝動がリュ・リーンの身体を駆けめぐるのと、ダイロン・ルーンがテラスからリュ・リーンの前に飛び降りるのと、どちらが先であったろうか?
「お前が連れていっていい娘ではない」
当然の要求をするようにダイロン・ルーンが娘に手を伸ばした。
リュ・リーンは反射的にその腕を避ける。自分でもなぜそんなことをしたのか判らない。
ダイロン・ルーンの片眉がピクリとつり上がる。怒っているときの彼の癖だ。
「さっそく亭主気取りか?」
侮蔑の視線をリュ・リーンに向けたまま、ダイロン・ルーンはリュ・リーンに一歩近づいた。
「昨夜から部屋に戻っていないと聞いて探してみれば……。お前たちはどこまで私を愚弄すれば気が済むのだ」
背の高いダイロン・ルーンを見上げながら、リュ・リーンは青ざめて一歩退いた。足元に花壇の石積みの感触が伝わる。これ以上退がることはできない。
「ダイロン・ルーン……。俺は……」
「くだらない言い訳など聞きたくもない!」
叩きつけるようなダイロン・ルーンの言葉に、リュ・リーンはそれ以上何をどういえばいいのか判らない。
更にダイロン・ルーンが一歩近づいた。かつての彼からは想像もできないような厳しい表情を浮かべている。
リュ・リーンは気圧されたように身体をふらつかせ、バランスを失うと紅いカリアスネが咲き乱れる花園に娘もろとも倒れ込んだ。濃密な花の香りが辺りに散らされる。
「返してもらうぞ」
ダイロン・ルーンが娘の腕に手をかけた。リュ・リーンはどうすることもできずに、ダイロン・ルーンに抱き上げられた娘を見上げた。
「ダイロン・ルーン……」
リュ・リーンの呼びかけを無視するとダイロン・ルーンは背を向けかけた。その友の腕のなかで娘が身じろぎした。緩慢な動きで腕が上がり、うっすらと目を開ける。
「ん……。リュ……リ……ーン殿……下?」
娘が自分の名を呼ぶ。ダイロン・ルーンではなく、自分の名を。
リュ・リーンは花に埋もれた身体を起こすと、無意識のうちに娘へと手を伸ばした。その伸ばした腕が、続く娘の言葉で止まる。
「兄様……?」
え……? 今、彼女はなんと言った?
訳が分からず、リュ・リーンは恋敵と娘の顔を交互に見比べた。心配そうに歪むダイロン・ルーンの顔が、リュ・リーンのなかで娘の優しげな顔と重なる。
「ま……まさか。カ……デュ・ルー……ン……殿か……?」
おぼろな記憶のなかから、リュ・リーンはダイロン・ルーンの妹の姿を必死で思い起こした。
ダイロン・ルーンと同じ聖地では珍しくない白銀の髪。雪のように白い肌。そして、伏し目がちな瞳の色は……?
思い出せない。
リュ・リーンと視線を合わそうとしなかった友の妹の瞳の色はリュ・リーンの記憶から抜け落ちていた。
だが目の前にいる王の娘の顔立ちはダイロン・ルーンとよく似ている。
リュ・リーンは娘の顔立ちを聖地の民特有のものだと思っていた。
聖地の民は皆、よく似通った顔つきをしている。同族婚の多い地域では、必然的に似た顔立ちのものが多くなる。聖地とて例外ではない。
「ダ、ダイロン・ルーン。その娘がカデュ・ルーン殿なのか!?」
リュ・リーンは確認せずにはいられなかった。
「なんだと……?」
ダイロン・ルーンの顔に新たな怒りが刻まれたことにも気づかない。
リュ・リーンの身体が後ろに吹っ飛んだのは次の瞬間のことだった。鳩尾に響く激しい痛みに息が止まる。
「ぐ……」
「カデュ・ルーンか、だと? 貴様……! よくもそんな口を!」
娘を抱きかかえていたダイロン・ルーンの右足が自分の鳩尾を痛打したことが解るまでしばしの間が空いた。肺が空気を求めてもがいている。
「ダ……イ……」
リュ・リーンを見下ろすダイロン・ルーンの顔は怒りにどす黒く染まっていた。
「二度と妹に近づくな!」
氷よりも冷たく、ナイフより鋭い声で吐き捨てるように言い残すと、ダイロン・ルーンは回廊へと続くテラスの階段を上がっていった。
リュ・リーンは苦痛に顔を歪めたまま、その後ろ姿を見送るしかなかった。己の勘違いと優柔不断さが招いた結果だ。
頭のなかでもう一人の自分があざける声が聞こえる。
愚か者、愚か者……、愚か……者。
よろけるように自室のある棟へと戻ったリュ・リーンは彼のために奔走しているであろうウラートを探した。
「ウラート……! ウラートはいないのか!」
従者たちが慌ただしく走り回る使用人部屋の階へ足を踏み入れるとリュ・リーンは侍従長の名を呼ばわった。
「リュ・リーン殿下……!」
階段の手すりにもたれかかったままの主人の姿を見て従者たちが驚きの声を上げた。
それもそのはずだ。リュ・リーンは花壇に倒れ込んだときについた花の残骸や草汁に全身をまだらに染めたままなのだ。なんという姿をしているのか。
「ウラートはどこだ!」
彼らの驚きを無視してリュ・リーンが苛立たしげに声を上げた。従者の一人にリュ・リーンが視線を走らせると、天敵に睨まれた小動物のようにオロオロと従者が答えを返す。
「ウ、ウラート殿でしたら……殿下のお部屋に……」
腹立たしい。主人の質問一つに答えるためにどれほどの時間をかけるのか。
リュ・リーンは忌々しそうに舌打ちすると、自室のある上階へと重い足取りで階段を登っていく。
その自室のある階から慌ただしく足音が響いてくる。ウラートがリュ・リーンを探し回っているに違いない。
何をそんなに慌てているのか。探しているのはリュ・リーンのほうであろうに。
「ウラート!」
リュ・リーンは上にいるウラートに聞こえるように叫ぶと、未だに痛む腹部を押さえて階段の途中で立ち止まった。
遠慮容赦なく鳩尾に打ち込まれた蹴りで、きっと腹部には痣ができているだろう。あの場で胃のなかのものを吐き出さなかったのが不思議なほどだ。
「リュ・リーン……! どうしたのです、その格好は!」
階段の上に姿を見せたウラートが青ざめた顔で叫んだ。
「なんでもない! それよりも、先ほどの……」
「それどころではありません! ……王が! トゥナ王陛下が、リーニスへ向けて軍を動かされました! しかも指揮官は王ご自身だと……!」
一瞬、リュ・リーンは彼の学友の言っている意味が掴めずに目を瞬かせた。
「え……?」
親父が、なんだって?
「軍の規模およそ騎兵五〇〇名、歩兵一五〇〇名、工兵が一〇〇名! 先ほど、王都よりネイ・ヴィー卿の密書が届きました」
「な、何だと!? 何故リーニスに援軍がいるんだ! あそこには冬期の間、国軍の七割近くが配備されているのだぞ!」
「我々が聖地に出立したのと入れ違いでアッシャリー将軍から援軍要請があったようです。“リーニス砦は敵軍の手中にあり、カヂャの軍馬に我が平原は蹂躙されている”と!」
「ばかな!」
リュ・リーンは腹部の痛みも忘れて階段を駆け上がった。
リーニスはトゥナにとって生命線だ。あの地方を取られては自国は成り立たない。
トゥナ王国は巨大なチャルカナン大山脈によって東西に分断されている。
切り立った断崖に囲まれた大地を突きだしたワーザス半島の西端に王都ルメールは位置し、東部のリーニス平原に出るには半島を塞ぐ大山脈を越えなければならない。
およそ二百年前、ワーザス半島に閉じこめられていたトゥナ王国がリーニス王国を併呑してその版図を広げてより、カヂャ公国との戦が収まりを見せるのはトゥナが兵を動かせない冬に限られる。
だがそれですら、他国を利用する謀略を尽くしてのことだ。
リーニスの豊かな農産物やワーザスの金塊といった莫大な富を分配する条件で、エンダル北方同盟に加わるミッヅェル公国、ゼビ王国のカヂャ北方の国々から戦を仕掛けさせてかの国の戦力を削がせている。
その均衡が崩れない限り、冬期にカヂャ公国がトゥナを攻めることなどできるはずがない。
「何故だ! カヂャにこの時期、我が国を攻める余力はないはずだぞ。何があったんだ!」
ウラートの顔色がその一瞬で怒りに赤く染まる。
「東のグンディ帝国がゼビの王都付近に侵攻しています。ゼビはミッヅェルに援軍を依頼せざるを得ない切迫した状況です。
ゼビが滅びては、次はミッヅェルがグンディの餌食。両国ともカヂャを揺さぶるどころではありません!」
リュ・リーンの顔にも怒りが刻まれる。
「グンディの欲惚けじじいめ! カヂャに踊らされたか!」
トゥナは豊穣なるリーニス地方の作物によって国民を養っている。その豊かさが国の力を増強していたが、同時に人口を増加させてもいる。
「リーニスの残存兵数は!?」
リーニスが荒らされ、あろうことか奪取されては、氷原が大半を占める西側ワーザス地方の民が飢えに苦しむのは目に見えている。
「副都ウレアから北部にかけてはまだ五万の兵力が温存されています。ですがカヂャとの最前線のリーニス砦を守っていたアルマハンタ将軍の戦死で士気はがた落ちです。
カヂャの軍勢はリーニスの南部の大半を押さえたと。報告が届いた時点でザナ大河を下りながら北上し、オルナ山へ迫る勢いとか」
「くそ! アルマハンタが……!」
実直さを体現したようなアルマハンタ将軍の顔を思い出してリュ・リーンは顔を歪めた。彼の戦死はトゥナには大変な痛手だ。
リュ・リーンは脳裏にリーニス地方の各砦の配置を思い描く。
現在のリーニス地方にいる人物でましな者といったら南方ルキファ王国国境のユーゼ川上流部に配されているタタイラス将軍か、リーニス側からイナ洞門の修繕にあたらせているアッシャリー将軍くらいのものか。
ルキファに睨みをきかせているタタイラス将軍はともかく、アッシャリー将軍は早馬を王都に出した後は副都の守備に入っているはずだ。
簡単には副都が陥落するとは思えないが、予断は許さない状況であることに代わりはない。
「ダライが生きていれば!」
昨年に戦死したダライ将軍が存命していれば、状況は今少し変わっていただろうに。
リーニスの状況は切迫していた。いくら兵が残っていても指揮する者の絶対数が足りていない。
下士官たちの士気向上のためにも、強力な主導者がいる。だが王自らが出馬しても、一度散らされた指揮系統を再度まとめるのは容易ではない。
「ようやく雪が解け始めたとは言え、標高の高いチカ山を越える軍路はまだ無理です。安全なエンダル台地経由の軍路は聖衆王に許可を取る時間のない今回は選択できません。
王陛下は先月崩れて修繕し始めたばかりのイナ洞門を通る軍路を選ばれたのでしょうが……たとえ一〇〇名の工兵を投入したとしても、洞門の瓦礫を取り去るのに時間を取られ過ぎます」
「残りは航路だが……。狭海に流氷が残っている以上、使いものにならん。確かに親父ならイナ洞門を使うだろう。
だが使者の早馬ならともかく、大量の軍馬と歩兵を通すとなると崩れた洞門では狭すぎる! ……軍は今どこを移動している!?」
焦りの色を隠しもせず、リュ・リーンは自室へと向かった。彼の部屋にはトゥナとその王国内にあるアジェンの地形が記された地図がある。
自室の扉を蹴破るほどの勢いで開けると、リュ・リーンは書棚の端に押し込まれている巻紙を引っぱりだした。
「ウラート! ネイ・ヴィーの報告では、王の出立はいつだ!」
「援軍要請の使者の到着が我々の出立後の翌日。王の出立はその翌日です」
「何!? ……王ともあろう者がなんと急ごしらえな」
「今年は雪解けが遅かったですからね。たとえ軍馬と言えども、親善隊の我々と大差ない速度でしか行軍できないでしょう。ポトゥ大河沿いに行軍しているとして、ざっとこの辺りかと……」
リュ・リーンは無意識のうちに右手親指の爪を噛みながら唸り声を上げた。
「明日にもポトゥ大河とツェル川の合流地点にさしかかる。……ウラート! 親父を止めろ! リーニスには俺が行く!」
驚いてウラートがリュ・リーンの険しい顔を見る。
「リュ・リーン! 聖地での任務はどうするのです。あなたの代わりなどいないのですよ」
「判っている! だが王都を空にして良いわけがないだろうが。王都にはギイ伯爵が残っている。
あの危険極まりない男を監視の目もつけずに野放しにしておけるか!? 親父には、あの忌々しい義兄を押さえておいてもらわねばならん!」
リュ・リーンは一番上の姉と婚姻を結んだ驕慢な男の顔を思い出して歯がみした。
なんと間の悪い! たとえリーニスからカヂャを追い払えたとしても、王都を空けていては父が理不尽に玉座から追われる危険がある。
「……。判りました。ですが、あなたがここでの任務を放棄した、とギイ伯に揚げ足を捕られますよ」
「……今回の聖地訪問の目的はなんだ? ウラート?」
リュ・リーンは頭一つ分上にあるウラートの顔を見上げた。意地の悪い笑みを浮かべている。
「え? 神殿への供物の献上と、ロディタリス大神殿からの親書を枢機卿に手渡して……」
「そうだ。供物献上と枢機卿の取り込み。この二つだ」
ウラートはリュ・リーンの真意が見えずに困惑した。
「義兄上にその栄誉の一つを譲ってやろうではないか」
「リ、リュ・リーン! なんてことを言うのです! 自分から勝ちを譲るのですか!」
とんでもないことを言い出した主にウラートは震え上がった。
王子に与えられた任務の代理を受けたとなれば、当のギイ伯爵は今後それを鼻にかけて、尾ひれをつけて喧伝してまわるだろう。
「勘違いするなよ、ウラート。あのバカ義兄に気難しい枢機卿が会うと思うか?」
「う……。まさか、伯爵に恥をかかせるつもりですか!?」
気位の高い枢機卿が王族に名を連ねるとはいえ、王の後継者以外の者にそう易々と面会を許すとはとても思えない。
ニヤリ、と口を歪めて自分の言葉を肯定してみせる主にウラートは目眩すら覚えた。この王子は災いすら、自分の地位を固めるために利用してみせるつもりなのだ。
「あぁ、リュ・リーン。あなたと言う人は! ……いいですか、その策略は諸刃の剣だということを忘れないでくださいよ」
「あの男に枢機卿相手の交渉などできるか! それに俺が交渉に当たったとしてもトゥナに有利な条件で枢機卿を取り込める可能性は低い。ギイ家の人間もそれを狙っていたんだ。あの男が同じ立場に立たされたときの顔が見てみたいね!」
ギイ伯爵がリュ・リーンの失敗を手ぐすね引いて待ちかまえているように、今度はリュ・リーンが義兄の失態をあざ笑ってやろうというのだ。
しかし危険な賭には違いない。
「伯爵を引っ張り出すのに、親父がいる。俺から言い出しては、義兄に無駄な恩を売るだけではなく、俺自身が負けを認めるようなものだ。王命として聖地にご足労願おうか。なぁ、ウラート?」
義理の兄の吠え面を想像しているのか、リュ・リーンの顔がいっそう意地の悪い表情を刻んだ。
ウラートは不幸な目に会う伯爵にほんの少し同情したあと、ため息とともにその感情を押しやり、眼前に迫っている危機へと頭を切り換えた。
「主命謹んで拝します。小官自らが王陛下の元へ参じ、必ずや吉報をお届けします!」
リュ・リーンの前に恭しく膝をつくと、ウラートは右掌を心臓の上に当て、主に向かって頭こうべを垂れた。
「聖地との境界線辺りで王と会えるだろう。すぐに俺も軍と合流する。後のことはその時に……」
ウラートの言葉に頷いて見せるリュ・リーンの顔は力強く、謀略と戦術を駆使して戦場を駆け巡っているときの表情になっていた。
その後、ウラートは律儀にも自分の身支度を済ませながら、リュ・リーンの世話を焼いてアジェンの王宮を飛び出していった。
二人の従者を引き連れてポトゥ大河沿いに駆け去るウラートの姿を見送った後、リュ・リーンは自室へ戻り開いたままの窓から外を眺める。
一時の忙しなさが過ぎてしまうと、今朝の中庭での顛末が思い起こされた。
リュ・リーンは幼い頃のカデュ・ルーンの容姿をもう一度思い起こしてみる。やはりはっきりとした記憶は残っていない。
何故、思い出せないのか。大事な友の妹だと言うのに。
リュ・リーンは爪を噛んだ。ウラートは子供っぽいと言うがリュ・リーンが考え込んでいるときの無意識の癖だ。
相変わらず、カリアスネの花は吹く風に優しげに揺れている。
古代の勇者の一族に捧げられたと言う、この花の姿はリュ・リーンのなかで聖地の王の娘の姿と重なって見えた。
「カデュ・ルーン。何故あなたなのだ。何故? ……何故ダイロン・ルーンの不興を買ってまでトゥナに嫁ぐことを承諾したのだ?」
自国の危機にも関わらず、己の関心がカデュ・ルーンの上から去らないことにリュ・リーンは苦笑を禁じ得ない。
聖地にきてからの自分はどうかしている。彼女のことになると、どうしてこうも情けない様をさらすのか。
第03章:遠き日の涙
帰ってくるなりリュ・リーンは手近にあったテーブルの足を蹴り折り、椅子を壁に投げつけて叩き壊した。
それでも怒りが収まらないのか、傾いだテーブルを殴りつけてその卓上にヒビを入れる。
「リュ・リーン! なにをしているんです!」
リュ・リーンに付き従っていった従者の一人から王子の様子を聞き、ウラートは従者たちを王子の部屋から遠ざけたあと、一人この部屋へと飛んできたのだ。
「ウラート!! お前は知っていたのか!? ……いや、知っていたんだな! 俺と聖衆王の娘との縁談のことを!!」
恐ろしい形相でリュ・リーンはウラートを怒鳴りつけた。ウラートの肩までしかないリュ・リーンがウラートの胸ぐらを締め上げて眼をつり上げる。
「さぞ俺のことを滑稽に思っただろうよ。お前には俺が親父たちの手の中で踊っている玉にしか見えなかったってわけだ!」
「リュ……・リー……ン……」
苦しそうにもがくウラートを更に締め上げるべくリュ・リーンは腕に力を込めた。
同年の若者よりやや小柄なリュ・リーンだが、戦場で自ら馬を駆り大剣を振るっているその腕力は強い。このまま締め上げればウラートの息の根は止まるだろう。
だがウラートの顔から血の気が引いた頃合いを計ったようにリュ・リーンは腕の力を抜いてウラートを解放した。
床にくずおれ息を吸おうとむせるウラートを冷たく見下ろしたままリュ・リーンは壁にかかった自分の剣を引き抜いた。
「ウラート。親父から何を言われてきた?」
剣の切っ先はウラートの眼前にぴたりと据えられている。
「……なにも……言われては……」
「嘘をつけ! 親父から、この話のお膳立てをするよう言われてきただろうがっ!」
落雷のような怒声がウラートの頭上から降ってきた。眼前の切っ先は相変わらず微動だにせず突きつけられていた。
「出立前のあの時期のオリエルとの話は、俺が断ることを見越してのまやかしだったというわけか。ふざけたことを! ウラート。俺を愚弄してただで済むと思うなよ」
リュ・リーンの怒りはいっこうに収まりをみせなかった。今ここでウラートの首をはねてもおかしくはないほどの憤怒の形相が刻まれている。
このままでは流血沙汰は避けられない。
「……だったら断りなさい」
「なに!?」
今まで大人しくリュ・リーンのされるがままになっていたウラートがリュ・リーンの顔を睨み返した。
リュ・リーンの剣の切っ先を避けながら、ウラートはリュ・リーンの怒りを受け止めるように彼の主人の真正面に立ちはだかった。
「今までのお相手のように、聖地の姫君とのお話もお断りになればいい! ……簡単なことでしょう。あなたにとっては!」
「貴様は!」
リュ・リーンの深緑の瞳が異様な光を湛えた。人の眼とは思えない、とトゥナの宮殿に出入りする貴族たちが陰で囁いているのをリュ・リーンもウラートも知っていた。
リュ・リーンは剣を退くと自分を睨みつける侍従長の腹部めがけて足を蹴り出した。剣を持ったままでは不安定な蹴りだ。ウラートにあっけなく避けられる。
「何を怒っているのです。聖衆王はあなた次第だと仰せですよ。あなたから断っても不都合なことなどありません。断り文句が思いつかないのなら、いつものように相手の姫君に嫌われたらいい!」
ウラートの言葉に衝撃を受けたのか、リュ・リーンは剣を取り落とした。鈍い音を立てて絨毯の上に剣が転がる。
当のリュ・リーンは自分が剣を落としたことにも気づいていない様子だ。
リュ・リーンの動揺ぶりにウラートのほうがたじろいだ。リュ・リーンらしくない。
「俺が……?」
ウラートからしてみれば、簡単な理屈である。
今までリュ・リーンがしてきたようにわざと相手に嫌われて断られてしまえばいいのだ。
相手が聖衆王の娘となれば多少のもめ事は起こるだろう。もしかしたら聖衆アジェスの不興を買うかもしれない。
だが伝え聞く聖衆王の人となりを聞いた限り、それが決定的な破局を招くようには思えなかった。
それを考えるとリュ・リーンの様子は今までの彼の態度からすると異様だった。
彼は破談を望んでいるのではないのか!?
リュ・リーンは自分の動揺に気がついていなかった。傍らのウラートの存在も忘れて茫然とその場に座り込んでいる。
彼が生まれて初めて遭遇したジレンマであったろう。
だがウラートにそれが判るわけもない。
「リュ・リーン! しっかりしてください。リュ・リーン!?」
ウラートの声も聞こえないのか、リュ・リーンは床の一点を見つめたまま動かない。
「どうしたんです、リュ・リーン!」
ウラートがリュ・リーンの身体を激しく揺するが、彼の主人は何の反応も示さなかった。
今までに見たこともないこのリュ・リーンの姿にウラートは全身から血の気が引いていくのを感じた。
アジェンに来てからリュ・リーンはおかしくなっている。さしものウラートもどうしたらいいのか判らず、リュ・リーンを目の前にただ途方にくれた。
『俺が……諦める? それとも……奪い取る、のか?』
リュ・リーンの頭の中をぐるぐると昔の情景が巡っていく。そして昨日からの出来事が……。
親の作った道に乗るのか、自分の意志を優先させるのか。巡っていく思いは終止符を打たず、だた彼の心を千々にかき乱して止むことはなかった。
『ダイロン・ルーン。あなたは俺を恨むだろうか?』
予想外のリュ・リーンの反応にウラートは困惑しつつ、午後からの主人の予定を体調不良との名目で取り消して今日一日分は何とか取り繕った。
だが明日以降の予定も詰まっているのだ。
リュ・リーンが今夜中に元に戻る保証はない。明日以降もあの状態のままだったら、まずいことになる。
「ウラート殿」
自分の補佐として同行させた若者が近づいてきて、耳打ちする。
「何!? 聖衆王陛下のご息女が?」
トゥナ王家の一行があてがわれた棟の入り口に聖衆王の娘が見舞いに来ているとの伝言にウラートは青くなった。
今のリュ・リーンの姿をアジェンの者に知られるのは芳しくない。人の噂に戸はたてられない。
この様子がもし故郷でリュ・リーンを快く思っていない連中にでも知れ渡ったら、トゥナでのリュ・リーンの立場は微妙なものとなるかもしれない。
「私が行く……。他の者を遣わしては礼を失しよう」
不安そうに他の侍従たちが見守る中、ウラートは王の娘と対面すべく棟の入り口へと向かった
控えの間として使っている部屋に足を踏み入れると、ウラートは聖地の支配者の娘と対峙した。
相手に不快感を与えないよう言葉には細心の注意を払い、あくまでも最上の礼節を尽くしつつ、面会を求める相手の要求をかわすのは容易なことではない。
「では、どうあってもお会いすることは叶いませんのね」
「申し訳ございません。本当に王子はつい先ほどお休みになったばかりなのです。ご来訪は目を覚ました折に必ずお伝えしたしますので、今日のところはなにとぞお引き取りを」
共も連れずに訪ねてきた娘をいぶかりながらも、ウラートは深々と頭を下げた。
首から聖衆王の紋をかたどったペンダントを下げている以上、彼女は王の近親者に違いないのだから。
「判りました。今日は諦めることにしますわ。……殿下のご回復をお祈りしています」
あっさりと相手が退いたことに驚きつつも、ウラートは油断なく王の娘を観察した。
歳の頃からいってリュ・リーンとの縁談が持ち上がった娘であろう。柔らかな物腰の端々に彼女が本当にリュ・リーンを案じてやってきたことが伺えた。
「ご無礼の段は平にご容赦を」
リュ・リーンが部屋へ籠もっていることは嘘ではないが、休んでいるかどうかはウラートでも判らない。いや、きっと茫然と座り込んでいるだけだろう。
あながち誇張ではない嘘に王の娘はあっさりと引き下がり帰っていった。
彼女が去った後、ウラートは安堵の吐息を大きく吐くと、ふとあの娘ならリュ・リーンも気に入りそうなものだが、と埒もない考えに一瞬浸り苦笑した。
リュ・リーンは親の言いなりになるのが厭なのだ。相手の容姿や性格など考慮してはいまい。
もう少し自分の将来を考えて欲しいものだと、主人を心配しつつウラートは同僚たちに報告をすべく奥部屋へと引き上げた。
夜半になり従者たちも寝静まった頃リュ・リーンはそっと窓を開けて外を眺めた。
レイクナー家でこうるさい雀よろしくお喋りする貴婦人たちから今回の縁談の話を耳にしてから、リュ・リーンは怒りを抑えるのに一苦労だった。
帰ってきて暴れた後の虚脱状態から少しは立ち直った。
だがやるせない気持ちが消えたわけではない。王の娘やダイロン・ルーンのことを考えると心が掻きむしられるようで、叫びだしたくなってくる。
ダイロン・ルーンの怒りの理由はこれだったのだ。自分の想い人を政治の道具として利用しようとしている聖衆王やトゥナ王家が許せないのだ。
きっと彼はリュ・リーンも承知してここへ来ていると思っているだろう。
自分の知らないところで事が進んでいく苛立ち以上に、友に与えたであろう屈辱を考えるとリュ・リーンは身体の震えが止まらなかった。
と同時に、いかなる運命であれ王の娘に惹かれていく自分も否定できないでいた。
自分の欲する者を手に入れれば友を失い、友を取ればリュ・リーンは自分の魂の半分が砕け散ってしまうのではないかと思うほどの喪失感を感じるであろう事が判っていた。
どちらも取れない、だがどちらも取りたい。
夜になっても花の芳香は立ちのぼってリュ・リーンの鼻腔にその馥郁たる香りを運んできた。
その香りに誘われたのか、リュ・リーンはふらりと窓辺を離れると中庭に下りる廊下を足音を忍ばせて歩いていった。
月明かりのなかを庭に下りてみると花の芳香が身体に絡みついてくるような錯覚に陥る。どうして夜でもこれほど花の香りがするのだろう。
リュ・リーンは胸いっぱいに香りを吸い込み、その後深いため息を吐いた。アジェンにきてから自分はため息ばかりついている。
自嘲に顔を歪める。朝に少女と会った場所に立ち、自分が蹴散らした花の残骸を見下ろしてリュ・リーンは泣きそうな気分になった。
日頃はえらそうに自分の道は自分で決めるなどと言っておきながら、いざその時がきてみればなんと不甲斐ない様だろうか。
大人になるということ、一人前として扱われるということの重みを今リュ・リーンは厭というほど感じていた。どちらかを選択しなければならない。それは彼自身が決めなければならないことだ。どちらかを……。
「リュ・リーン殿下」
すぐ脇からの小さな声にリュ・リーンは飛び上がらんばかりに驚いた。そして、振り返ったその視線の先にいた人物の姿に彼は逃げ出したい衝動に駆られた。
「姫……。いつからそこに?」
今もっとも会いたくて、もっとも会いたくない人。高鳴る胸の動悸を必死になだめながらリュ・リーンは王の娘と向き合った。
娘は寝間着に着替えているようだった。柔らかなガウンをぴったりと身体に巻きつけている。
「ほんの少し前から……。一度呼びかけたのですけど気づかれませんでしたか?」
朝と変わらない穏やかな笑顔で少女はリュ・リーンに語りかけた。娘の声が耳に心地よい。
「すみません。気がつきませんでした。……夜の散歩ですか、姫」
「いいえ」
首を振って否定する娘の髪が肩で揺れている。月光が髪の上を踊っていく。
「夕刻にお見舞いに伺ったときはお休みだと聞きましたけど、ここに来れば殿下にお会いできるような気がして。お加減はどうです? 少しは気分が良くなったのかしら」
きっとウラートが取りなしたのだろう。リュ・リーンは自分が逃げ隠れしていたようで、恥ずかしさに顔を赤らめた。自分は彼女を騙しているのだ。
「見舞っていただいたとは知りませんでした。すみません」
リュ・リーンはまともに彼女の顔を見ることができなかった。
「殿下はさっきから謝ってばかりね。わたしが勝手に押しかけていったの。お付きの方たちはさぞ困ったことでしょうね? でも、回復されたみたいで良かった」
少女はさらにリュ・リーンに近づき、その白い手をリュ・リーンの額に当てた。夜気で少し冷えた娘の手のひらが肌に心地いい。
彼女は本当に自分のことを心配してくれている。リュ・リーンは歓喜の叫びをあげている自分の心をどうすることもできなかった。
「顔色もいいし、熱もありませんわね」
娘が額に置いていた右手をリュ・リーンの頬へと滑らせた。
相手の頬を触るのが彼女の癖なのだろう。柔らかい手のひらの感触を感じ、リュ・リーンは彼女の手を取った。そっと触らなければ壊れてしまいそうだ。
彼女の右手に軽く頬ずりしたあと、リュ・リーンはその手に口づけした。
娘の手がピクリと震えたがそれ以外の抵抗は見せず、彼女はされるがままにリュ・リーンに右手を預けている。新緑の瞳にも動揺は見えない。
彼女は何もかも判っていると言いたげにリュ・リーンに微笑みかけた。
胸苦しいような焦燥感と喉の乾きにも似た期待にリュ・リーンは少女を抱き寄せた。
相変わらず娘は抵抗しない。ガウンの下から感じる肌の温もりは森の小動物たちのそれに似て繊細で無防備だ。
リュ・リーンはそっと腕に力を入れる。
彼女に触れている部分すべてが火に焼かれるように熱い。乱れ気味なリュ・リーンの呼吸の下で娘がホッとため息をつき、ゆっくりと彼を見上げた。
そして、その唇が信じられない言葉を紡ぐ。
「わたしをお連れください。王都へ……」
リュ・リーンの舌は痺れたように動かなかった。心臓は魔王の冷たい手に鷲掴みにされたように凍りつき、目の前はくらくらと揺れながら視点が定まらない。
リュ・リーンは両腕の拘束から娘を解放するとよろよろと後ずさった。
「嘘だ……」
ようやく絞り出すようにうめき声を上げたリュ・リーンを今度は娘が信じられないような顔をして見つめた。
何を言っているの? とその表情は問いかけている。
リュ・リーンの言葉の意味を測りかねているいるようだ。なぜそんなことを言われるのか判らない、と。
「リュ・リーン殿下……?」
「嘘だ! あなたには……! いや、王に言われて俺の元に来たのか? 憐れみで来たのなら、やめてくれ!」
悲鳴に近い叫び声をあげるとリュ・リーンはきびすを返して城内へと駆け込んだ。自分の背中を見つめる少女の視線が痛い。いっそ泣き叫べたらいいのに。
リュ・リーンは自室へ駆け戻るとベッドへと倒れ込んだ。
到底、王の娘の言葉を信じる気にはなれなかった。
ダイロン・ルーンへ向けた親愛の情を表した彼女の微笑みは決して偽りのものではなかった。
あれが彼女にとっての真実なら、今のリュ・リーンに向けて囁いた言葉は政略のための婚姻に服従する誓約にしか聞こえない。
「リュ・リーン!」
馴染みのある学友の声にリュ・リーンはビクリと肩を震わせた。慌てたような足音の後に枕元にかしずくウラートの顔が見えた。酷く心配そうな表情を浮かべている。
「リュ・リーン……」
「なんだ……?」
どうしようもない苛立ちにリュ・リーンは不機嫌な声を出した。誰かに八つ当たりしたい気分だ。
「……」
何も言わずに黙り込んでいるウラートの様子に更にリュ・リーンは苛立ちを強めた。
「なんの用だ! 用がなければ、さっさと出ていってくれ!」
一瞬の躊躇いを見せた後、ウラートは遠慮がちに主人に問いかけた。
「彼女が……好きなのですね?」
リュ・リーンの胸がズキリと痛んだ。改めて指摘されるとなお苦しい。いっそ嫌ってしまえれば、どれほど楽だろう。
「すみません。覗き見するつもりはなかったのです。先ほどあなたが中庭に出ていく足音が聞こえたので、後をつけたら……」
何も言わないリュ・リーンの態度を肯定と受け止めたのか、ウラートはベッドの縁に座り直すと、幼子をあやすときのようにリュ・リーンの髪をなで続けた。
母親が亡くなってから幼いリュ・リーンをいつもウラートはこうやって寝かしつけたものだ。自分も十歳にもならない子供だったが。
リュ・リーンは幼いころから人前では泣かない子だった。ウラートはそのことをよく知っている。
自分の瞳の色が人ならざる者の持つ瞳だと謗られても、可愛げのない子供だと陰口をたたかれても、彼は人前では泣かず、独りで部屋に籠もって声を上げずに泣く子だった。
「ウラート……」
リュ・リーンが伏せていた顔を上げてウラートの顔を見上げた。涙はない。どこか疲れ切った表情だった。
「俺の涙は涸れてしまったのかもしれない。悲しいのに、惨めなのに、あふれるどころか滲んでもこない」
自嘲を含んだ声が震えている。
それは悲しみを感じなくなるほど傷ついているからだ、とはウラートはついに口にすることができなかった。
強くなれ、とウラート自身がいつもリュ・リーンに言っている。そしてトゥナ王も国民も、暗黙のうちにそれを強要する。
強くなければトゥナでは認められない。弱い王など国を滅ぼすだけだ。
「リュ・リーン。父王への意地など捨てなさい。彼女が好きなら、この縁談を受ければいいではないですか?」
リュ・リーンが折れればいい。見栄や意地など捨てて、彼女への気持ちを取ればいいのだ。そうすべきだ。
たとえ政略での婚姻であってもリュ・リーンにとって不利益などないのだから。
「違う。彼女はダイロン・ルーンの恋人なんだ」
血の気の引いた顔色のままリュ・リーンが囁いた。まるで病人のようだ。
「な……! そんなバカな……!」
ウラートは目眩を覚えた。
トゥナ王国から持ち込まれた縁談だとはいえ、聖衆王は想い人のいる娘をリュ・リーンと娶せようとしているのか。
それでは王の娘に想いを寄せているリュ・リーンが傷つくばかりだ。
「今朝早くに中庭でダイロン・ルーンと会っている彼女を見た。あんな綺麗な笑顔を恋人以外の男に見せる女がいるか?」
ウラートは茫然とリュ・リーンの声を聞いていた。どう言ってリュ・リーンを慰めてやればいいというのだ。リュ・リーンはこれ以上はないと言うほど傷ついているのだ。トゥナ王はこんな縁談を持ち込むべきではなかったのだ。
今は弱くてもいい。そう言ってやれない自分が恨めしく、ウラートは彼の主人の傷が少しでも癒えないものかと、彼の髪を優しくなで続けた。
「リュ・リーン。こんなところで何やってるんだ?」
頭上からの声にリュ・リーンは高い塔の窓を見上げた。一人の少年と視線が合った。
「ダイロン・ルーン……」
なんと答えたらよいのやら。リュ・リーンは口ごもったまま相手を見上げ続けた。
「登ってこいよ。見晴らしがいいぞ、ここは」
リュ・リーンの様子など気にした様子もなく、ダイロン・ルーンは友を手招きしている。
黒髪の少年は少し躊躇ったあと、友人に頷き返して塔の入り口をくぐった。
螺旋で急勾配の階段は少年の足には少しきつい。途中からは息が切れてきた。だがダイロン・ルーンも登ったのだ。
自分に登れないはずはない、とよろけそうになる足を踏ん張って上へ上へと歩を進める。
下を見ると入り口が随分と小さく見える。
どれくらい登ってきたのか忘れかけたころ、ようやくダイロン・ルーンの待つ頂上へとたどり着いた。下ばかり見ていた視線をふと横へずらす。
「あれ……?」
塔の頂上を一周するように作られた足場の向こうに扉が見える。
「やっと上がってきたか」
リュ・リーンの右手から声が聞こえ、それに続いて銀髪の少年の顔が覗く。
「なんだ? 何を見てるんだ、リュ・リーン?」
「ダイロン・ルーン。あっちの扉には何があるんだ?」
リュ・リーンは自分の視線の先にある扉を指さした。ダイロン・ルーンはチラリとそちらに視線を向けると、何を言ってるんだという顔つきで友を見た。
「神殿につながってるに決まってるだろ?」
「あれ? ……あそこからも神殿に出入りできるのか?」
驚いて聞き返すリュ・リーンの顔を見て、ダイロン・ルーンは更に怪訝そうな顔をする。
「おい、リュ・リーン。お前、どこからこの塔に入ったんだ?」
「え? 下の入り口から……」
「えぇ!? 下から登ってきたのか!?」
呆れたようにダイロン・ルーンが叫んだ。
「お前……よく登ってきたな」
「え? ダイロン・ルーンは下から登ったんじゃないのか!?」
リュ・リーンはこのときやっと自分が勘違いをしていたことに気づく。息を切らして登ってきた自分が滑稽だ。
「大人だって嫌がる螺旋階段を……。物好きな奴だよ、お前は」
リュ・リーンは改めて階段の下を覗き込んでぞっとした。
よくもまぁ、この細い階段を延々と登ってきたものだ。塔の下に続く螺旋階段は際限なく続く、とぐろ巻く蛇のように伸びている。
「し、知らなかった……。神殿のどこでつながってるんだよ、あの扉」
自分の足を酷使して登ってきた苦労が、とてつもなく無駄なことに思えてリュ・リーンはため息を吐いた。
「なんだ、本当に知らないのか?学舎に向かう途中で二股に別れている道をいつも右に折れるだろ? あそこを左に行くのさ。まっすぐここにつながってるよ」
ダイロン・ルーンは笑いながらリュ・リーンの質問に答えた。リュ・リーンはさらにもう一度ため息を吐くと、疲れた足をさすって座り込む。
「おいおい。せっかく苦労して登ってきたんだ。見てみろよ」
ダイロン・ルーンの呼びかけにリュ・リーンは大儀そうに立ち上がると、彼の学友が眺めている彼方を見遣った。
「わぁ……。きれいだ……」
二人の視線の先には、雪解け水とポトゥ大河からの水流を受けて満々と水を満たす大タハナ湖が広がっていた。
遮るものが何もない。なだらかな平原のなかの巨大な湖の水面は陽光にキラキラと輝いて、もう一つの太陽がそこにあるような目映さだった。
「この時期、ここからの眺めがアジェンのなかで一番綺麗なんだ。どうだ? 苦労して登ってきた甲斐があったろ?」
「広いな……。なんて広いんだろう」
茫然と呟くリュ・リーンの横顔を見て、ダイロン・ルーンが嬉しそうな笑い声をあげた。
「そうだ。水神の住まいたる湖はどこよりも広いのさ」
陽気に、なんの憂いもない笑い声を響かせてダイロン・ルーンはリュ・リーンの肩を軽く叩く。
「行こう!」
「え? どこへ?」
驚いて聞き返すリュ・リーンの額を指で小突きながらダイロン・ルーンが言った。
「忘れたのか。養護院へ連れていってやるって言ったろ?」
「えぇっ!? で、でも妹が人見知りするって……」
塔の扉を開けて、神殿への石橋を渡り始めたダイロン・ルーンの後ろを追いかけながらリュ・リーンは本当に行っていいものかと、首を傾げた。
ダイロン・ルーンには両親がいない。正確に言えば四年ほど前に病気で亡くなったらしいのだが。
聖地の慣例に従って、成人前に両親を亡くした子供たちや経済的貧困層の子供たちは孤児を預かるための施設、養護院へ入れられる。
父親のカストゥール侯爵の名を継ぐには幼すぎたダイロン・ルーンは、妹と二人で養護院で暮らしている。
これはどんな貴族でも例外はない。逆に言えば、どんなに貧しい家の子供でも平等に扱われる施設だ。
リュ・リーンは以前に自分が下宿しているラウ・レイクナー家へダイロン・ルーンを招いたことがある。レイクナー夫人に薦められてのことだったが。
その時にダイロン・ルーンと約束したことがあった。ダイロン・ルーンの暮らす養護院への招待だ。
だがダイロン・ルーンの妹は極端な人見知りだとその後すぐに人づてに聞かされた。
妹を気遣うダイロン・ルーンが気軽にリュ・リーンを呼ぶとは思えなかったので、リュ・リーンは諦めていたところだった。
「なんだ、妹のこと気にしていたのか? 大丈夫だよ。それに……」
途中で言葉を切ると、ダイロン・ルーンは後ろのリュ・リーンを振り返って意味ありげに笑う。
「お前、もうすぐトゥナに帰るんだろ?」
ぎょっとしてリュ・リーンは立ち止まった。
確かに半月ほど前、トゥナの王都ルメールから使者がきて手紙を置いていった。その手紙には父王からの命で来月末には帰郷するよう記してあったのだ。
突然の命にリュ・リーンは困惑すると同時に落胆した。
まだ聖地にきてから半年ほどだ。ようやくここにも馴れてダイロン・ルーンのような友人も出来始めていたところなのに。
暗い顔をするリュ・リーンの頭をくしゃくしゃと掻き回し、ダイロン・ルーンが口を尖らせた。
「水臭いぞ。なんで教えてくれないんだよ」
リュ・リーンは俯いたまま、どう答えていいのか迷った。
「遠慮してたんだろ?」
その通りだった。
リュ・リーンと違ってダイロン・ルーンには友人が多い。
世話好きで、誰とでもうち解けるダイロン・ルーンから見れば、ほんの半年ほどの、しかも人から避けられるような容姿をしたリュ・リーンなどすぐにでも忘れてしまう存在に思えた。
自分の事情など話したところで、それをまともに聞いてもらえるとも思っていなかったリュ・リーンは黙って帰ってしまおうかと考えていたのだ。
俯いたままのリュ・リーンの腕を引いて、ダイロン・ルーンは歩き始める。堂々としたその足取りには、気負いも傲慢さもなかった。
「お前、最近元気なかったろ? 気にしてはいたんだけど……。叔父上や枢機卿に聞かなければ、気づいてやれないところだったよ」
やはりダイロン・ルーンは叔父である聖衆王にリュ・リーンの帰都のことを聞いたのだ。
「帰ってしまうのは、仕方ない。でも……約束を守れないのは、厭だ」
黙ったままのリュ・リーンの反応を見るように、一語一句を噛みしめながらダイロン・ルーンは言葉を紡いだ。そして彼の小さな学友の肩を抱く。
ところが、その抱きしめた肩が小さく震えているに気づいて、ダイロン・ルーンは驚いて立ち止まった。
「リュ・リーン……?」
ダイロン・ルーンはリュ・リーンの顔を覗き込んで慌てた。リュ・リーンは目に涙を一杯に溜めていた。
「お、おい。リュ・リーン……」
ダイロン・ルーンはどうしてよいか判らずに立ちつくす。なぜ泣かれるのか判らない。
「……」
「え? なんだって?」
リュ・リーンがくぐもった声で何か囁いた。ダイロン・ルーンはそれを聞き取ろうと顔を寄せる。
「ありがとう……」
ようやく聞こえた声は涙に震えていた。
自分は感謝されるようなことをしただろうか?
ダイロン・ルーンはリュ・リーンへの返事を思いつかず、口を二~三度パクパクと開閉させたが、言葉として出てきたのは想いとは別のものだった。
「な……涙を拭けよ。王になる男が簡単に泣くな」
ようやくそれだけの言葉を発すると、ダイロン・ルーンは自分のハンカチをリュ・リーンへ差し出した。
第02章:恋情
夜明け頃にリュ・リーンは目を覚ました。気の早い小鳥たちのさえずりが小さく聞こえる。
昨夜は疲れていたのでぐっすり眠ったはずなのだが、身体は未だに怠さを残している。
リュ・リーンは身体をベッドから無理に引き剥がすと、中庭に面した窓をそっと開けてみた。
大陸の北端部に位置するこの地方にしては暖かな空気が流れ込んできた。薄く朝霧が出ているようだ。たぶん夜中に雨でも降ったのだろう。
大きく息を吸い込んだ空気に雨の残り香が含まれていた。
城郭の向こうには青い水を湛えた大タハナ湖が見える。その向こうの黒い稜線の彼方にトゥナの首都ルメールがあるはずだ。
リュ・リーンは感傷的な考えなどとは無縁の精神の持ち主だったが、いずれは自らの手で治める氷原の大都にはやはり他の都市とは違った感慨があった。
小鳥たちのさえずりが大きくなってきた。霧が少し薄らぎ、中庭の花の色が鮮やかさを増してくる。
故郷でも見慣れた花たちを眺めていたリュ・リーンは、花園の中に動く人影を見いだして釘付けになった。
衣装の色こそ違うが、そこには昨夜の舞姫が鳥たちと戯れている姿があった。
「あれは……!」
若草色の緩やかなドレスの裾が彼女の足の動きに応じてヒラヒラと揺らめき、高く天に掲げた右手の指に瑠璃色の小鳥が止まってさえずっている。
リュ・リーンは彼女のまわりだけが光り輝いているような錯覚に陥った。
幻想的でさえあるその空間は、高名な画家による宗教絵画のような気高さに満ちている。
朝靄のなかで彼女の表情をハッキリと捉えることはできないが、彼女の身体の動きが今この時間を楽しんでいると語っていた。
リュ・リーンは動くことさえできずに、ただ彼女の動きに魅入っていた。
ほんの少しの物音で飛び立ってしまう小鳥たちのように、彼が少しでも動いたら娘はその場からかき消えてしまうのではないかと思われた。
「……!」
彼女のまわりに集まっていた小鳥たちが一斉に飛び立った。
鳥たちの飛んでいく軌跡を追う娘の視線がふと背後に注がれた。リュ・リーンもつられてそちらに眼をやる。
「ダイロン・ルーン……」
昨夜リュ・リーンにあからさまな敵意を向けていた若者が中庭に面したテラスの階段に立っていた。
彼の口が動くのが見えた。何ごとかを娘に伝えているようだ。だが高い位置から二人を見ているリュ・リーンには二人の会話はまったく聞き取れない。
ダイロン・ルーンの表情が今朝は穏やかだ。昨夜の険しい表情など想像もできないほどに。
あれが本来のダイロン・ルーンの顔なのだ、とふとリュ・リーンは思い至った。
娘が踊るような足取りで若者に近づいていく。
リュ・リーンは無意識のうちに身体を強ばらせた。聖衆王の娘と聖地アジェンの大貴族、誰が見ても似合いの二人だ。
表情を見ればお互いに気を許した者同士なのだとすぐに判るほど二人の表情は明るかった。
知らぬ間に王の娘に惹かれていく自分自身の心が恐ろしい。リュ・リーンは目の前の光景に嫉妬している己に身震いした。
「俺の入り込む余地など、ない……か」
何を考えている? 昨日一度見ただけの娘ではないか。
リュ・リーンよ、お前は友人の恋人を奪うほどのたいそうな人間なのか? それとも敵意を見せた男など友人ではないか? だから、その男に恋人がいることを嫉んでいるのか?
どこからともなくもう一人の自分が問いかけてくる。苛立ちが募った。
先ほどまで光に満たされていた心が瞬く間に萎んでいくのが判る。……なんと弱い人間なのか、自分という人間は。
沈んだ気持ちのまま、それでも二人の姿を見やるリュ・リーンの背後から声がかかった。
「リュ・リーン。もう起きていたのですか?」
彼の忠実な学友ウラートの声だ。
主人を起こしにくるのは彼の毎朝の日課なのだが、珍しく今日は自分から起き出しているリュ・リーンの姿に驚いたようだ。
普段のリュ・リーンは非常に寝起きが悪い。
声をかけたくらいでは眼を覚ましていても絶対にベッドから降りないし、起こした後でもすぐにベッドに転がり込みそうな顔をしているのだ。
「どういう風の吹きまわしです? あなたが自分からベッドを出るなんて。……まぁ、仕事が一つ減って助かりますけどね。……リュ・リーン?」
皮肉を言っているのにリュ・リーンは窓辺からこちらを振り返りもせず、その背中は不機嫌さを現してもいなかった。
どうも昨夜から様子が変だ。
ウラートはリュ・リーンの立つ窓辺へと近づき、彼の頭越しに外を見まわした。
「……?」
中庭には花が咲き乱れているばかりで、他に変わった様子はなかった。
リュ・リーンはいったい何を見ているのだろうか?
ウラートは明らかに落ち込んだ表情をしている主人の顔を覗き込む。
「リュ・リーン。昨夜から変ですよ。宴でなにがあったのです?」
ウラートは努めて優しげな表情を浮かべてリュ・リーンに声をかけた。彼にとってリュ・リーンと共に聖地を訪問するのは今回が初めてだ。
リュ・リーンの前回の訪問のときは、ウラートたち侍従の同行は許可されなかったため、その時のリュ・リーンの生活を知っている者は今回の同行者のなかにはいない。
昨夜の段階でリュ・リーンの話をまともに聞いておけば良かったのかもしれない、とも思ったが今となっては後悔しかできないことだ。
第一、昨夜の話の様子から今日のこの落ち込みようは予想できるものではなかった。
「ウラート……。俺は六年前と比べて変わったか? 友人から白眼視されるほど厭な奴になったか?」
消え入りそうな囁き声がウラートの耳に届いた。
「……難しいことを聞きますね。どちらとも答えられない質問ですよ。
リュ・リーン、あなたは確かに六年前のあなたではない。でもね、六年前と変わらない部分だって持っているんです。今あなたが自分のどこの部分を比べているのか知りませんが、人間という生き物は自分の意志次第でどうとでも変われるのだと私は思っています。
私は昔のあなたも今のあなたも好きですよ。そして、あなたが自分自身を見失わない限り、これから先のあなたも私は好きでいると思いますよ」
リュ・リーンへの返答にはなっていなかったのかもしれない。しかしウラートの言葉がリュ・リーンの萎んだ心を少しは膨らませることができたようだった。
傍らにたたずむ忠臣にリュ・リーンは少し救われたような笑みを見せた。
「さぁ、着替えてください。残念ながら朝食はまだ出来上がってはいませんのでね。時間がありますから、散歩でもしてきたらどうです?」
ようやく笑みを見せた主にウラートは、いつもと変わらぬ口調で着替えを促した。
「そうだな。庭に下りてみることにする。出来上がったら呼んでくれ」
努めて明るい声を出そうとしているリュ・リーンの様子にウラートはそっと眉をひそめた。
誰もいない庭の中心に紅や白のカリアスネが咲き乱れている。
花から立ちのぼってくる芳香で酔いそうだ。この時期から晩夏にかけて、この花はずっと咲き続けていることだろう。
他の花の香りを消してしまうほどの濃厚な香りが、ふとリュ・リーンに先ほどの王の娘を思い起こさせた。顔ははっきりと見えなかったが、美しいといって差し支えない容姿だった。
彼女のどこにこうまで惹かれているのか、リュ・リーンには判らなかった。美しさだけならトゥナの王宮にだとて、選りすぐりの美女が何人もいたのだ。
自問し続けるうちにリュ・リーンは再び昨夜のダイロン・ルーンの態度を思い出していた。無表情な顔のなかで瞳だけが憤怒に光っていた。
なぜ自分にあれほどの怒りを見せるのか、リュ・リーンには見当がつかなかった。六年前に別れて以来、一度も会っていないのだ。
出口の見えない迷路に迷い込んだ気分になり、リュ・リーンは足元の花を蹴り飛ばした。
花に罪はない。単に八つ当たりするものが欲しかっただけだ。
「やめて! なぜそんなことをするの」
少女の厳しい詰問の声にリュ・リーンは驚いて振り返る。
朝靄のなかに見た少女が庭の端に立っていた。
声の厳しさとは裏腹に娘は哀しそうな視線をリュ・リーンに向けていた。
リュ・リーンはまずいところを見られて、内心動揺していた。だが動揺しつつ、心臓が早鐘を打つ。つい先ほどダイロン・ルーンと共にこの場を去った彼女と、会えるとは思ってもみなかったのだ。
娘が小走りに近寄ってくる。だが視線はリュ・リーンにではなく、彼の足元の花に向けられていた。
少女が脇を通り過ぎたとき、リュ・リーンの嗅覚にカリアスネの芳香よりも甘い香りが届いた。脳の奥が痺れそうな感覚。
無惨に散らされた花をそっと花壇の土へと還してやりながら、少女はつぶやいた。
「……かわいそうに」
茫然としているリュ・リーンに少女は非難の視線を向ける。
「ごめん……」
気の利いた言葉が思いつかず、リュ・リーンは素直に詫びた。最悪の出会いである。彼女の自分への印象はかなり悪いと思っていいだろう。
今度からは物に当たるのはやめよう、と悄然としながらリュ・リーンは心に誓い、ため息をもらした。
「花はどんな酷い仕打ちをされても、文句一つ言えないわ」
独り言のように少女が囁いた。
返す言葉もなくリュ・リーンはうなだれるしかなかった。
「もう……こんなことしないでしょう?」
念を押すような少女の言葉にリュ・リーンは黙って肯いた。
ひどく惨めな気分だ。自分が子供じみて見える。これでは一人前の扱いをされなくても文句は言えまい。
落ち込むリュ・リーンの頬が暖かい手に包まれたのは、その時だった。
驚いて顔を上げたリュ・リーンの視線のすぐ先に少女の顔があった。遠目で見たとき以上に愛らしい顔立ちだ。血が逆流しそうなほど心臓が踊る。
自分の顔が真っ赤になっていることを自覚してリュ・リーンは狼狽えた。
「あ……」
「約束ね。リュ・リーン殿下」
少女に名を呼ばれてリュ・リーンは心臓が口から飛び出るのではないかと思うほど驚いた。
よく考えてみれば紹介されていないだけで、昨夜の宴の席で一度顔を会わせている。この聖地を訪れている異人で客分として聖衆王に招かれる者はトゥナ王の息子である彼だけのはず。
自分の名が知られていてもいっこうに不思議はないのだが、今のリュ・リーンにはそんなことを考える余裕はなかった。
リュ・リーンは更に顔を赤く染めた。
娘が触っている自分の両頬が熱くて溶けてしまいそうだ。彼女の手を払いのけることもできずに、ただただリュ・リーンはその場に立ちつくしていた。
少女はもう怒ってはいないのか、人を魅了する笑顔をリュ・リーンに向けている。
リュ・リーンにとって、この事実は重大だった。
彼の髪の色や瞳の色を見て、平気な人間など数えるほどしかいないのだ。
大抵の人間は嫌悪や恐怖で彼を避ける。そう、表面上は平静を装いながらさりげなく彼から身を逸らすのがすぐに伝わるのだ。それが彼女にはなかった。
少女はリュ・リーンを恐れるどころか、無邪気な笑顔を見せさえした。リュ・リーンには信じられない光景だった。
「約束してね?」
「は……はい……」
鈴の音のように愛らしい笑い声をあげると、娘は踊るように身を翻してリュ・リーンから離れた。そして優雅に会釈してみせる。
「まだ挨拶していなかったわ。昨夜はご挨拶もなしに失礼しました。……ようこそ、我が聖地へ」
少女が屈めた腰を伸ばし、返事を催促するかのように首を傾げるのを見て、初めてリュ・リーンは彼女が昨夜するはずだった挨拶を今してみせてくれたことに気づいた。
自分はまだ嫌われてはいないようだ。それがリュ・リーンには嬉しかった。
「歓待を感謝します、姫」
自分も彼女に合わせて昨夜の続きを演じてみせる。彼の従者たちが見たら、王子の頭がおかしくなったと誤判しそうだ。
気難しく感情の起伏の激しい彼が、座興につき合うなどとはどうしたわけか、と。そして今までに見せたこともない穏やかな笑顔をしていることも。
「きつい言い方をしてごめんさいね」
本来謝るべきはリュ・リーンのみで少女に非はなかったはずなのに、彼女は申し訳なさそうな顔をしてリュ・リーンに許しを請うた。
驚いて首を振るリュ・リーンの様子に娘は笑い声をあげた。たったそれだけのことなのにリュ・リーンは自分の心臓がさらに激しく打つのを感じる。
「あら、大変! わたしったらお父様に呼ばれているのを忘れていたわ」
用事を思い出したのだろう。娘は慌てて城の中へと駆け出した。
テラスの上まで登ったとき、少女は振り返ってリュ・リーンに手を振った。
少女の光り輝く笑顔を見送った後、リュ・リーンは自分が大事なことを忘れていたことに気がついた。彼女の名前を聞き忘れたのだ。
自分の間抜けぶりに落胆し、リュ・リーンは朝から何回目か判らない深い深いため息をはいた。
ウラートと共に朝食を摂りながら一日の予定を確認をするのがリュ・リーンの一日の始まりとなっている。
今日は午前中に六年前に宿泊先として世話になったラウ・レイクナー家に訪問し、昼食を摂った後、午後からは枢機卿の屋敷を訪ね、トゥナ王国のロディタリス大神殿からの親書を手渡し、その親書の内容の交渉を行うことになっていた。
老獪な枢機卿との交渉は難航することが予測されるが仕方がない。
トゥナがこのアジェンを国教の聖地として崇める以上は、聖地の枢機卿に取り入ってでも聖地でのトゥナの地位を少しでもあげておく必要がある。
今回の聖地訪問の表立っての訪問は大聖殿への供物の奉納だが、実際は聖地の有力者たちを探り、将来トゥナ王国がより高みに登るための根回しなのだ。
この交渉が隣国を追い落とすための工作へとなるのだから、年若い王子に託された使命は決してなま易しいことではない。
「かの枢機卿は謎の多い人物です。こちらが考えている以上に、腹の内を見せようとはしないでしょう。カヂャ国との小競り合いとは違いますからね。短気を起こさないでくださいよ」
リュ・リーンに焼きたてのパンを手渡しながらウラートが念押しした。ウラートにはリュ・リーンの短気だけが心配の種だ。
リュ・リーンは今まで軍を率いての戦であれば、天性の才能を発揮して自軍を勝利へと導いてきた。しかし、年若いだけに話し合いでの駆け引きとなると経験が足りなかった。
同年代の若者と比べれば確かに駆け引きのコツは心得ているが、今回の相手はリュ・リーンより狡猾でウラートより知略を巡らすのが巧みな人物なのだ。
相手に隣国よりトゥナに肩入れしたほうが得だと納得させることができれば、この後の国境での駆け引きや小競り合いが格段にやりやすくなる。
それは判っていても、ぬらりくらりと話をはぐらかしていくであろう相手のペースに焦れずに、交渉を続けていく根気をリュ・リーンが無くしてしまうことが危惧される。
トゥナ王のただ一人の後継者であるリュ・リーンであるが、国内に彼の敵がいないわけではない。今回の訪問が失敗に終われば、その敵が喉元に噛みついてくるのは間違いない。
「リュ・リーン……、サラダを残すんじゃありません!」
取り分けたサラダをテーブルの向こうにさりげなく押しやるリュ・リーンの様子をめざとく見つけるとウラートはサラダボールをリュ・リーンの目の前に押し出した。
「ソースが酸っぱいからいらないっ!」
山盛りのサラダをウラートの前に押しやるとリュ・リーンは肉料理が盛ってある皿を自分の前にすえて上目遣いにウラートを睨んだ。
だが、そんなことを許すほど甘いウラートではなかった。
「……料理人があなたのためにわざわざ酸味を押さえた特製ソースを作ったんですよ。彼の努力を無駄にするのですか?」
厳しい顔つきでウラートはリュ・リーンを諭した。ここで許してしまえば、この後リュ・リーンは絶対サラダを口にしなくなるだろう。
主の前に置かれた肉料理の皿にウラートは手を伸ばした。
「野菜は嫌いだ!」
目の前にある肉の皿を取りあげられるのが厭で、リュ・リーンは皿を持ったままウラートから離れようと椅子ごとテーブルの端にずれていく。
「いつまで子供じみたことを言っているんです! 食べなければ、昼も夜も明日の朝も毎食、食事はこのサラダしか出しませんからね!」
それはリュ・リーンにとって拷問よりも辛い。野菜を食べない日はあっても肉を食べない日などリュ・リーンには考えられないのだ。
「う゛~~……」
だがウラートならやりかねない。テーブルいっぱいに並べられたサラダを想像してリュ・リーンは胸が悪くなってきた。
しぶしぶ元の席のあった場所に椅子を戻し、持っていた皿をテーブルの上に置いた。
「きちんと腰掛けて。……そう、その皿をこちらに寄越しなさい」
ウラートは有無を言わせずリュ・リーンの肉料理を取りあげると、サラダをボールに盛ったまま彼の目の前に置いて食べるように促した。
ボールの中にはまだ三分の一ほどサラダが残っている。
当然三分の二はウラートが平らげているのだが、リュ・リーンは恨めしそうにウラートが手に持っている自分の肉料理を見ると、しぶしぶといった感じで不味そうにサラダを口に運んだ。
公の席や戦場での姿とは反対に私生活でのリュ・リーンの子供っぽさにウラートは時々嘆息を禁じ得ない。
一人息子で末っ子だという環境を差し引いても、リュ・リーンはかなりわがままである。
口うるさいとリュ・リーンは言うが、ウラートがいなかったらこのわがままな王子はまともな生活を送っていないのではないかと思うと、小言が多くなろうと言うものだ。
この子供っぽい短気さが交渉のときに出れば、話し合いは上手くはいかないだろう。
ウラートがどれほど気を揉んでいるかなどお構いなしに、リュ・リーンは顔を歪めたままサラダの最後の一口を口の中に押し込むと、よく噛みもせずに残っていたスープで口の中のものを流し込んだ。
ここは以前と変わらない木の香りに満ちていた。
リュ・リーンは六年前と変わらぬ部屋の様子に嬉しそうに微笑んだ。
「あなたが使っていた部屋は今、息子の部屋として使っていますよ」
そう言ってラウ・レイクナー家の主が紹介してくれた息子は、六年前の赤ん坊だった頃の面影など無く、きかん気な性格の少年に成長していた。
その息子が案内してくれた部屋は、リュ・リーンがいた頃の状態そのままに使われていた。
大木を削りだして組まれた壁や床・天井は大きな木箱の中にいるようで、それだけで秘密の小部屋めいて、少年だったリュ・リーンの心をわくわくさせたものだ。
「昔のままだ。懐かしいな……」
今見れば、簡単な木製のベッドが置かれただけの小さな部屋だ。それが当時のリュ・リーンにはたいそうな隠れ家のように見えたものだ。
生まれて初めて親しい者もいない環境に放り出された少年には、一日の終わりにこの部屋で木の香りを嗅ぎながら、これからのことや故郷のことを空想する時間が、大切なものに思えた。
「殿下。王の後継者って、どんな感じ?」
懐かしさに浸っていたリュ・リーンを現実に引き戻すように声がかかった。
振り返ったリュ・リーンの視界に薄いそばかすのある少年の顔があった。彼は、相手の身分になど頓着していないようだ。
「どうって? レイス。君は何を期待して訊ねている?」
「ん~……言葉そのもの、なんだけど。あのさ、殿下も知ってるとおもうけど。アジェンはさ、王様を選王会で選ぶじゃない。現王の要望か、王選議員の要請があったときに」
リュ・リーンは幼い口調で聖地の慣習を説明する少年をベッドの縁に差し招いて座らせると、自分は少し離れた場所に腰掛けた。
「それで選王会が開催されることになると、成人男子で身体の達者の者は全員がその大会に参加することになってるでしょう。すべての者に公平に機会を与えるって名目で」
少年の声には、どこか皮肉めいた口調が含まれている。
「公平では、ない?」
少年の表情から微かな非難の色を見てとったリュ・リーンは、彼の心理を肯定してやるように問いかける。
「そう! そうなの。公平なんてとんでもないって。今までの王が文官出身の貴族ばっかりなの知ってる?」
リュ・リーンが首を横に振ったのを確かめると、少年は畳みかけるように先を続けた。
「選王会はさ、初めに口頭で問答をするんだ。その問答ってのが問題なの。神話語で! 神殿規律と! 古代神話を暗唱するんだよ! 非道いじゃない!? 僕たち武官出身者に、そんなことまで勉強する余裕なんてないよ。最初から武官出を排除するためにやってるとしか、僕には思えない!」
少年はさも憤慨していると言いたげに、口をとがらせた。
「問答の後の選別は? 今度は筆記の問答でもあるのか?」
ふくれっ面の少年の気を逸らすべくリュ・リーンは選王会のその後を訊ねた。
「その後こそ、重視して欲しいよ。問答の後はね。武芸戦なんだよ、勝ち抜きの。武官のいない武芸戦の無様なことったらないよ。普段の模擬戦でさえへっぴり腰で、真剣で闘技したこともない文官たちが、大事な王を選ぶ大会でどんな勇ましい姿を見せられるっていうのさ。頭にきちゃうよ」
年の頃七歳ほどといったところの少年が、もっとも最近でも十年以上前の選王会を見物できたとは思えないが、見てきたように不平を鳴らすその姿は微笑ましい。
「なるほど。それは確かにレイスには損な話だ。神殿規律はともかくとして、古代神話の暗唱は文官たちの得意芸だ」
聞き及んではいたが、聖地の文官びいきは徹底している。これでは、軍事で自国を支えているトゥナ王国が煙たがられるわけだ。
午後からの枢機卿との会談を想像して、リュ・リーンはうんざりしたように嘆息した。
「ほんと。いやになっちゃうよ。古代神話なんて、どうやったら覚えられるのさ。新起神話を覚えるのがやっとだってのに」
リュ・リーンの真似をしてため息をつくと少年は軽く肩をすくめて見せた。
「レイス、諦めるな。……そうだな。トゥナに帰ったら、神官長に頼んで神話語の辞書と古代神話の伝承録の写しを送らせよう。どうだ? 文官たち並の書籍が君の手元にくる。努力次第では、次回の選王会で勝ち抜けるかもしれんぞ」
言葉の途中から少年は目を光らせて、リュ・リーンの顔を覗き込んでいた。幼い顔とは反対の野心的な表情がうっすらと浮かんでいる。
「本気? 僕が本当に王になったら、何を見返りに要求するつもり?」
子供とは思えない狡猾な表情を浮かべたまま、少年は口調では無邪気さを装った。
「王になったら考えよう。なれないかもしれないだろ」
リュ・リーンは少年の突飛な考えに苦笑した。もう自分が王になると決めているかのような口調だ。他にも多くの青少年たちがいるだろうに。
「さぁね? でも王になる可能性も否定できないよ。まぁ、選王会でいいとこまでいければ、その後の地位も上がるだろうけど。
……ところで最初の質問。王の後継者ってどんな感じ?」
アジェンの子供たちが皆こんな野心を持っていたとしたら、と想像してリュ・リーンは背筋に薄ら寒いものを感じた。
聖地の者たちが小狡く立ち回る様を苦々しく思ってきた。
しかし子供のころからこういった考えを植え付けられているとしたら、大した武力もないのに今まで侵略もされずに聖地の地位を保ってきたことも納得できる。
「どんな、か。気が重くなるときもある。……が、王の代理として、すべてをチェスの駒のように差配していくのは、快感だな」
「ふ~ん。快感ね。だからだね、皆が王になりたがるのは。僕もやっぱり王になろうっと」
表面上は寛大な年長者を装いながら、リュ・リーンは自分の半分も生きていない少年が大人と変わらない野心を持つことに驚嘆した。
「殿下。僕、遊びに行ってもいい?」
父親から案内役を仰せつかったものの、まだ七歳になったばかりの少年には、明確な記憶に残っていないかつての同居人より遊び友達のほうが大切なのだ。
自身にも身に覚えがあった。しかめっ面をした教師役の神官たちと向き合っているときよりも、同年代の少年たちといるときのほうが遙かに楽しかった。
少年を退屈な役目から解放すると、リュ・リーンはかつての目線で部屋を見まわした。
「もう六年。……いや、まだ六年しか経っていないと言うのに」
その日その日を泣いたり笑ったりして過ごしていた日々が、遠い過去のような気がする。
自分は変わったとウラートは言った。それがどう変わったのかは、ウラートは答えてはくれなかった。
また彼は変わっていないとも言った。それもまたどう変わっていないのかは教えてくれなかった。
六年ぶりにあったこの屋敷の当主には自分はいったいどのように映っているだろうか。
たった半年あまりの子供部屋。ここから毎日神殿の学舎に通い、色々な人に会い、色々な思いをした。
今でも相変わらずリュ・リーンの瞳の色は他人に忌避されていたが、彼の外見を気にすることもない友にも出会えたと思っていたのだ。
つい昨日までは……。
『ダイロン・ルーン。俺がなにをした……。あなたが憎悪するほどのことを、俺がしたと言うのか!? 教えてくれ』
「リュ・リーン王子。居間にいらっしゃいませんこと?わたしのお友達も見えているのよ」
物思いに耽っているリュ・リーンに子供部屋の戸口から声がかかった。
レイクナー夫人の笑顔が覗いていた。美人とは言えないが、人を安心させる暖かい笑顔をした女性だ。
きっと誰にでもこんな笑顔を向けているのだろう。決してお喋りではない人だが、彼女のまわりには人がよく集まる。
今日でもリュ・リーンが来訪する寸前まで客がいたようだった。
レイクナー家は貴族でも下位のほうの家柄だ。武官の家柄らしく質素だが、堅実で率直な当主とその夫人を慕って訪れる者は軍属以外の者も多い。
「すぐ行きます」
たぶん興味本位でリュ・リーン見たさに押しかけてきた貴婦人たちが居間には待ちかまえているのであろうが、素直に返事をするとリュ・リーンは立ち上がった。
夫人の足音を聞きながら、もう一度リュ・リーンは部屋の中を見まわす。
少年の日は戻らない。ならば、先に進むしかあるまい。ダイロン・ルーンが変わったというのなら、その変わってしまった彼とつき合っていくしかないのだ。
時よ、戻れ! と念じる暇があったら、後悔しない生き方を選択したほうが賢明と言うものだ。
リュ・リーンは小さな子供部屋にかつての自分を再び封印すると、一度も振り返ることなくその部屋を後にした。
第01章:花の娘
「ねぇ、思い出さないこと?」
彼女の声に答えるように、暖炉の薪が大きな音で爆ぜた。灰色虎の毛皮の上を炎の影が躍る。同じように彼女の横顔にも……。
「あぁ……。もう何年になるかな」
花の香りのする彼女の髪を優しく撫でながら、彼は炎の中に昔日の二人の姿を重ねていた。
『我が恋は王者の恋なり。死してもなお、その炎は消えじ』
青臭い。今から思えば随分と大胆な啖呵を切ったものだ。心の中で苦笑すると彼は背後から彼女を抱きすくめた。
後悔する恋などしていない。誰がなにを言おうが、これが自分の唯一、絶対無二の恋……。
彼女の細い指が自分の頬に触れるのを感じた。暖かい日だまりのような感触。
抱きしめているのは自分のほうなのに、なぜか逆に自分が抱きしめられているような錯覚を覚えて、彼はゆっくりと瞳を閉じた。
その心地よさに浸るように……。
「殿下! リュ・リーン殿下!」
背後からの呼び声を煩わしそうに聞きながら、リュ・リーンは窓から吹き込んでくる花の香りに心を奪われていた。
目の前のテーブルには飲みかけの金芳果酒のグラスが置かれたままだ。春の訪れを知らせる香りがここには満ちている。
「殿下……! こちらでしたか」
戸口からの声にリュ・リーンはようやく振り返った。つい今し方のぼんやりとした顔つきは消え失せ、冷徹な表情が刻まれている。
「何事だ、騒々しい」
冷ややかな主人の対応に部屋の入り口で従者が立ちすくんだ。彼とそう歳も違わない従者は気圧されたのか、主人の顔から視線をそらして下を向いてしまった。
そんな従者の態度に忌々しそうにリュ・リーンは舌打ちした。
どいつもこいつも! ちょっときつい言葉を聞けば、怖じ気ずく。まったく不愉快だ。
「何か伝えにきたのだろう、早く言え!」
イライラとした態度を隠しもせず、リュ・リーンは続けた。
端正な顔立ちのリュ・リーンだが、大抵の人はその整った顔立ちよりも彼の激烈な性格のほうに肝を冷やし、恐れおののく。
彼にはそれが腹立たしい。
別に顔を褒めそやして欲しいとは思わないが、彼の視界のなかに立つ者の反応はほとんどの場合、彼を不快にさせることのほうが多い。
「あの……聖衆王陛下よりの伝言でございます。歓待の宴を催したいと存ずる。出席して頂けようか? とのことですが、いかが計らいましょうか」
おずおずと申し出る従者にいっそうの苛立ちを覚えたが、声をあらげても彼の態度が変わるわけでもない。リュ・リーンは努めて無表情を装ったまま従者に指示を与えた。
「出席する旨を伝えろ。……どちらにしろ、断ることはできん」
後の言葉は独り言に近く、従者には聞き取れなかった。
あたふたと退出する従者などすぐに忘れ去ると、リュ・リーンは憤怒の形相も露わに手近にあった水晶のグラスを卓上から叩き落とした。
絨毯がグラスを受け止め、その美しい輝きは割れることなく床に転がっていく。中の琥珀色をした液体がその軌跡上に飛び散った。
「くそっ…! どいつもこいつも喰えぬ奴ばかり!」
「物に当たっても仕方ないでしょう。落ち着きなさい」
従者と入れ違いに入ってきた男がたしなめるように声をかけた。
「ウラートか」
不機嫌そうな顔のままリュ・リーンは窓辺へと歩み寄り、眼下の景色を見下ろした。いくつかある中庭の一つだろう。色とりどりの花が咲き乱れている風景は、彼の心情とは裏腹にのどかだ。
「まだ出発前のことを気にしているのですか? あなたらしくもない」
「うるさい! 気にしている、ではなく腹を立てているのだ!」
眼をつり上げるとウラートと呼んだ従者のほうへ向き直る。
十六歳になるリュ・リーンから見るとウラートはいくらか年上になる。細身だが筋肉質のいかにも武官らしい体格とは反対にウラートは女にもてそうな優しい顔立ちをしていた。
「父王の勧められた縁談を壊したのはあなたのほうですよ。いったい何人のお相手を怒らせれば気が済むのです。少しは大人になってください」
弟をたしなめるような顔でウラートが忠告する。その言葉にリュ・リーンはふてくされたように横を向いた。
「見合いをすっぽかしたぐらいでうるさいのだ、あの親父は! しかも相手はたったの十歳のガキじゃないか。ふざけるにもほどがある!」
誰も自分の言い分など聞いてくれない。
口では成人したのだから、と言いつつ、実のところはまだまだ子供扱いされているのだ。
ウラートは床に転がったままのグラスを拾い上げ、丁寧に磨き上げてテーブルに戻すとリュ・リーンの怒りをスルリとかわして返事をする。
「……オリエル嬢はあなたの従妹でもあるのですよ。少しくらい優しくしてもいいじゃないですか、それこそまだ子供なんですから」
「ウラート! お前は親父の肩を持つのか!? お前まで親父のメンツを潰したとか言うのか!? ふざけるなよ! 俺は王族間の婚姻などまっぴらだ。いくつ縁談が持ち上がろうが知ったことか。片っ端から潰してやる!」
俺の存在意義は何だと言うんだ。子孫を残すことだけが、俺の存在理由だと言うのなら一生涯結婚などしない。
そんなものしなくても子供は残せる。政略結婚だと言うのなら、はっきりとそう言えばいいのだ。俺のためだなどと見え透いた嘘で固めた縁談など誰が受けるか。
相手は俺が決める。誰にも文句は言わせない! それが政略結婚であったとしてもだ。
「非難しているのではありませんよ。あなたの好きにすればいいのです。いずれあなたは王になる。あなたは誰に媚びる必要もない方だ。
……ですが、相手を見極めてください。王になると言うことは、我が王国の民すべての命運を握ると言うことなのですから。あなたの采配一つで、国が揺れる」
判りきっていることを殊更口に出して見せて、ウラートはリュ・リーンの反応を見る。自分の仕える主人は王の器に足る人物であるのか、とその瞳はリュ・リーンに問いかけていた。
「……。判っている、ウラート。俺が生まれ落ちたときからそれは決まっていたのだから。逃げるつもりはない」
いつでも自分は試されている。それは避けようのない現実。
「判っておいでなら、けっこうですよ。
さて、さしあたっては聖衆王の招きを受けたのです。身支度を整えてください。ここはあなたの王国ではない、いわば敵地です。あなたの一挙手一投足が注目されているのですから、心して宴の席に出て頂かねば!」
湯浴みの支度が整っているらしい。
ウラートの指し示した部屋へとリュ・リーンは視線を向けると、不愉快な記憶を消し去るように頭を振り、年上の従者に皮肉っぽい笑みを見せた。
「お前は口うるさい爺さんになりそうだな、ウラート」
「大きなお世話ですよ、リュ・リーン」
自分を呼び捨てにできる数少ない人間の一人である学友の脇をすり抜けると、リュ・リーンは浴室へと向かった。
熱めの湯に浸かった後にむせるほどの香料を体中に吹きつけられ、リュ・リーンはうんざりした顔をした。
王侯貴族のたしなみだとかで、ここ数年流行っている香水が彼は好きではなかった。こんなものを嬉々として振りかける輩の気が知れない。
見目麗しく着飾った女たちならともかく、老若問わず男どもが、この香水はどうだとかあの香料を使うとなんだとか話し合っている姿は興ざめだ。
「もう、それでいい! 下着にまで振りかけるな! 匂いがきつすぎて吐き気がする」
リュ・リーンは自分の服にせっせと香料を振りまく従者たちを叱責する。
なぜ彼らはこんなくだらないことに心をくだくのか。それでリュ・リーンが彼らの評価を高くするわけでもないのに。
二人の従者がリュ・リーンの衣装の形を整えながら近寄ってくる。
謁見のときに着ていた重たい衣装ではなく略装の簡素な衣装だ。リュ・リーンに言わせればこれでもまだ動きにくい。
しかし一人で歩くのにも難儀な正装をさせられるよりはマシだろう。数時間にも及ぶであろう宴の席で、正装のような堅苦しい衣装を着込んでいては、苦痛以外のなにものでもない。
従者たちのされるがままに衣装を着込み、後頭部からこめかみまでを帯状に覆う飾冠をつけながら、リュ・リーンは退屈そうなため息をついた。
これから腹黒い爺さんたちの相手をしなければならないのだ。父王の代理としてこの地に赴いている以上、彼の印象が自身の王国の印象として相手方の記憶に刻まれることになる。
あの手この手でこちらの腹を探ってくるであろう、老獪な為政者たちの顔を思い出して、リュ・リーンは不愉快な気分を避けられなかった。
先触れの声と共に入来したリュ・リーンの姿を室内の人間が一斉に注目する。
黒絹を思わせる髪に奥深い森の緑よりも濃く深い色合いの翠の瞳。これだけで見る者に、違和感を与えるには充分な色彩だった。
一年の半分近くを雪と氷に閉ざされる大地の王国出身者に黒髪は少ない。まして伝説でしか聞き及ばない深い翠の瞳。闇の神の瞳を持つと言うだけで人は彼を恐怖する。
ざわめきの声に恐怖と嫌悪が混じっていることはリュ・リーンには手に取るように解る。いつもの反応だ。いちいち気にしていたら身が保たない。
彼はいつも通りに耳障りな囁き声のする方角を冷たく一瞥する。それだけで囁き声は凍りついた。彼の視線を浴びた者はほとんどが闇に心を覗かれたような嫌悪に身を震わせる。
リュ・リーンを見聞しようと集まってきた者のなかにはここへ来たことを後悔している者もいるだろう。
「お招き頂き感謝いたします、陛下」
文句のつけようのない完璧な立ち振る舞いで王の前に歩み寄ると、リュ・リーンは優雅に会釈してみせた。その彼の動きに合わせて、薄手の羊毛でできたマントがしなやかに揺れる。
リュ・リーンの挨拶に聖衆王が玉座から立ち上がった。
「部屋は気に入って頂けたかな? トゥナ王の息子よ」
儀礼的な呼びかけ。決して心を許してはいない者への些細な牽制。
「はい。六年前と変わらぬ景色に心が和みました。さすがは聖衆王ご自慢の花庭園でございます」
他にどう返事をしろと言うのだ。リュ・リーンは内心で毒づきながら、それでも表面上は笑顔を作ってみせた。見えない腹の探りあいはもう始まっているのだ。
「ハハハッ! 世辞などよいわ。トゥナの王宮にある伽藍造りの大庭園に比べれば、ささやかなものだ。……随分と背が高くなられた、リュ・リーンよ。トゥナ王も鼻が高かろう、そなたのような自慢の息子がいるのだから」
謁見のときから変わらずにいた聖衆王の厳めしい顔がふとほころんだ。
リュ・リーンの顔を眺める王の瞳には六年前のリュ・リーンが見えているだろう。まだ成人前で必死に背伸びして大人に負けまいと懸命な幼い子供の顔が。
「不肖の息子でございます。いたらぬことばかりで父の心労は絶えないでしょう」
礼儀正しく答えながらリュ・リーンも六年前の王の姿を思い浮かべた。
今とさして変わらない。厳格だがユーモアを解するこの王がリュ・リーンは実父以上に好きだったはずだ。いつからだろう。いつから自分はこんな冷徹な人間になったのか。
「ふふ。親はその心労さえ厭わぬものだよ。さぁ、皆! 今日は余の旧い友人のための宴だ。存分に楽しもうぞ」
王の声に凍てついた空気が溶け、それを合図に酒や馳走がふるまわれた。幾人かの宮女たちが舞を舞い始めると、舞の楽に合わせて手拍子があちこちで聞こえだす。
王に誘われて柔らかな長椅子でくつろぎながらも、リュ・リーンは話の相づちを打ちつつ油断なく辺りの人物を観察していた。
多くの者は彼と視線を合わさないように仲間との会話に集中している。だが中には怖いもの見たさでか、チラチラと王とリュ・リーンの姿を盗み見ている者も少数いた。
そんな輩のひそひそ声が研ぎすました彼の耳には聞こえてくる。
「大した切れ者らしいぞ、あの王子は。ここ二~三年、あの王子が指揮をとる戦は負けなしだとか」
「今年で十六か? 王族の男子がこの歳でまだ妃を娶っておらんとは……」
「さもあろう。あの瞳……見ているだけで震えが止まらぬ。あれは魔性の瞳だ。女が怖がって近づくまいて」
「あの王子が王になったときが心配だ。ここ聖地アジェンをないがしろにするのではないか?」
「トゥナ王宮であの王子がなんと呼ばれているか知っているか? 野獣王と言われているらしい」
「聞いたことがあるぞ。容赦のない性格で、怪我をする従者が絶えぬとか」
憶測の域を出ない戯れ言が飛び交うのには馴れている。だが気持ちのいいものではない。
リュ・リーンは聖衆王に気づかれないよう舌打ちすると顔を歪ませた。雑魚には言わせたいだけ言わせておけばいい、と割り切っているつもりでも苦々しい思いが消えるわけではないのだ。
宴も進んでいき人々が気持ちよく酔いに身を任せかけた頃、王の傍らに一人の侍従が滑り寄ってきて耳打ちした。
「そうか。連れて参れ」
王の小声が耳に入る。一通り家臣と引きあわされた後だったのでリュ・リーンは気にも留めなかった。まだ会っていない家臣の者でも連れられてくるのだろう。
相変わらず舞姫たちの踊りは続いている。王が紹介してくる家臣を見ているより、麗しい乙女たちを見ているほうがよほどましだ。
「陛下。遅れまして申し訳ございません」
予想外な若い男の声にリュ・リーンは思わず振り返った。王の臣下のなかでは一番の若年ではないだろうか。年の頃、およそ二十歳前後。淡い銀色の髪にどこか見覚えがある。
「待っておったぞ。さぁ、近くへ参れ」
親しげに声をかける王に男が歩み寄り、傍らのリュ・リーンに軽い会釈をする。だが、その顔が笑っていない。むしろ怒っている、といったほうがいいだろう。
あからさまな敵意にリュ・リーンは少したじろいだ。
「リュ・リーン。覚えておるか?司祭長を務めるカストゥール候ミアーハ……」
リュ・リーンは眉をよせた。カストゥール……ミアーハ……? 六年前の記憶を手繰り寄せている彼を手助けするように若者が王の言葉の後を受けて話し始めた。
「その名では記憶していまい。覚えているとすれば、“ダイロン・ルーン”だ」
記憶のパズルが音を立ててきっちりと合わさった。
ダイロン・ルーン!
リュ・リーンより三つ年上で聖衆王の甥にあたる男だ。リュ・リーンは飛び上がるように立ち上がった。
「ダイロン……。ダイロン・ルーン! あなたなのか」
六年ぶりに見る男の顔に昔の面影を探してリュ・リーンはその顔を凝視した。
氷を思わせる淡いブルーの瞳、ここ聖地では珍しくもない銀の髪。鼻筋の通った涼やかな容貌。確かに昔日の面影が残る男の顔……だが、かつての屈託のない笑顔は今ダイロン・ルーンの表情からは消えていた。
「久しいな、リュ・リーンよ」
ダイロン・ルーンは少年の声から大人の男の声へと変わっていた。リュ・リーンがそうであるように。
しかしかつてのダイロン・ルーンはこんな冷たい声をだす男ではなかった。面倒見のいい彼は多くの友に囲まれ、いつも明るい笑い声の中心にいた。
トゥナ王族としてのたしなみで聖地アジェンに預けられた孤独な少年にも、彼は変わらぬ笑顔で接したのだ。多くの大人たちが少年を避けているというのに。
「あ……あぁ、本当に。いつから名を?」
自分の声が震えているのに気づく。動揺が隠せない。きっと顔がこわばっている。
「もう二年ほどになる。亡くなった父の爵位を継いだのだ。父の名も継いだから今はミアーハ・ルーン・アルル・カストゥール、が私の名だ」
抑揚のない冷めた声が返事をする。リュ・リーンは他の話題を探そうと記憶のなかをひっかきまわした。一人の幼い少女の顔が浮かぶ。
「そう言えば、妹君は? 確か……カデュ・ルーン殿だったな。彼女はお元気か?」
リュ・リーンのその言葉に男の顔がいっそう険しさを増した。その様子に驚いたリュ・リーンがなにか取り繕ろわねばと口を開きかかる。
「二人とも、座ったらどうだ。新しい舞手が出てきたぞ」
正面の舞台のほうを顎でしゃくってみせた聖衆王が、意味ありげにリュ・リーンに笑いかけた。王は二人の剣呑な雰囲気など意に介した様子もなく、グラスの中の果実酒を口に含む。
王を挟んで反対側に腰を下ろした旧友に困惑しつつ、リュ・リーンは舞台へと視線を向けた。
王の言ったとおり淡紅色の衣装をまとった乙女が一人、松明の灯りに照らされて舞台へと進み出るところだった。炎に照らされた娘の白銀の髪が雪の結晶のように輝いている。
娘は花びらのように重ね合わされたドレスのひだをたくし上げると、雪よりも白い両手を天高く突き上げて、両手のすべての指を使って中空に柔らかな曲線を描き始めた。
両手の動きに合わせて全身が旋回していき、それにつれてドレスの裾が大きく膨らむ。まるで朝日を浴びてその花弁を開こうとしている花のようだ。
緩やかで緩慢な動きから徐々に娘の体は早いテンポのリズムを刻み始めた。
松明はそよとも風に揺らいではいないが、娘のまわりにだけ激しい風の動きがあるようにドレスがひるがえる。
時折、見えない風がドレスに隠れた娘の肢体を浮き彫りにし、少女から女へと移ろい始めている娘の微妙な体格が現実離れした妖しさを醸しだしていた。
時々転調を繰り返す楽の音とリズムを早めていく舞だけなのに、リュ・リーンは体中の血がざわめくのを感じた。全身が小刻みに震える。戦場で敵と刃を交えているときにも似た興奮。心臓が早鐘のように鳴り、息は激しく乱れていく。
体の奥底から沸き上がってくる衝動を反射的に押さえ込んで、リュ・リーンは小さく呻いた。
まわりの人間たちが楽に合わせて拍子を打っている姿が見えるが、リュ・リーンにはその音も、楽の音も聞こえてこなくなっていた。ただ正面で無心に舞い続ける娘とその姿を照らし出す松明の灯りばかりが、眼の奥に焼き付いて離れない。
魅入られた、と言うのはこういうことを言うのか。
心のどこかで冷静に自分自身を観察しているもう一人の自分の存在を感じて、リュ・リーンは必死に平静を取り戻そうと荒い息を整える。
大歓声がリュ・リーンのまわりで起こった。
舞台上の乙女が深々と腰を屈めて会釈している姿が目に入る。混乱した頭のままリュ・リーンは舞手の技量に拍手を送った。
見事な舞であった。解放された安堵感にリュ・リーンは深い吐息を吐いた。
「どうだね、今の舞は? 気に入ったかね」
リュ・リーンの吐息に気づいて聖衆王が耳打ちした。まだ痺れている頭のままリュ・リーンは再度息をもらすと、王に返事を返した。
「見事です。トゥナにもあのような舞手はおりませんよ。どなたのご息女なのですか、あの女性は?」
まだ頭はボゥッとしている。体の火照りも残っていた。
「余の娘だ」
淡々と答える王の言葉にリュ・リーンは耳を疑った。
「え? 陛下の……?」
聖衆王の娘? 六年前にここを訪れたときは王に娘などいなかった。あの娘の体格からして十数歳といった年頃のはず。実の娘でないとしたら、どこかの貴族の娘でも養女にとったのだろうか。
突然の王の娘の出現に驚くリュ・リーンを無視してミアーハ・ルーンが立ち上がったのは、そのときだった。
「陛下、私はこれにて……」
王への挨拶の後にリュ・リーンへも慇懃に会釈をして、ミアーハ・ルーンは人だかりを避けながら、舞台の下へと歩き出した。
舞台下に降り立った先ほどの娘の側まで行くと、その肩を抱いて宴の外へと連れ出していく。
娘に王への挨拶もさせずに退出させる不自然さにリュ・リーンは眉をひそめた。
「やれやれ。困った奴だ。せっかくリュ・リーン殿に娘を紹介しようと思うたに、連れて行ってしまったわ」
隣で肩をすくめる王の態度に漠然とした不自然さを感じた。
その後宴が終わるまでの間ずっと、リュ・リーンは娘を連れ去る聖地の大貴族の後ろ姿とこちらにチラリと視線を送った王の娘の横顔を思い描いていた。
彼女の驚きと困惑を含んだ表情がリュ・リーンの記憶に印象的に残っていたのだ。
舞が終わった後に入れ替わり立ち替わり現れる家臣たちと腹の探りあいを繰り返した宴が終わると、リュ・リーンは疲れ果てて自室へと戻ってきた。
待ちかまえていた従者たちに手伝わせて動きにくい衣装を脱ぐと、従者の一人に学友ウラートを呼ぶように伝えて、自分は温めの湯船に体を伸ばす。
ほどなくウラートが浴室に顔を覗かせた。
「なんです? 男の入浴姿は見ても嬉しくないですけど」
憎まれ口を叩くウラートを軽く睨むと、リュ・リーンは彼を差し招いた。
「バカげたことを言ってないでお前も入ってこい。そんなとこに突っ立ってると服が湿って風邪をひく」
普通は王族などはたとえ友と呼ぶ間柄であったとしても、一緒に、と入浴や就寝を誘うことはない。それを誘うのは友と呼ぶ以上の関係でなければならない。その点から言ってもリュ・リーンははみだし者と言っていいだろう。
だがリュ・リーンもウラートもいっこうに気にする様子もなく、一度に十数人は入れそうな浴槽に気持ちよさそうに体を伸ばしてひととき眼を閉じる。
「宴ではなにがありました?」
無表情なままのリュ・リーンの隣に移動するとウラートは囁いた。浴槽はあきれるほど広く、囁き声であってもよく響いた。内緒話をするにはここは不向きなようだ。
「……ダイロン・ルーンに会った」
「はい?」
六年前のここでの生活をかいつまでウラートに話ながら、リュ・リーンは宴でのダイロン・ルーンの態度を思い出していた。
不可解だ。人はあんなに変われるものだろうか? あの人なつっこい笑顔でまわりの大人たちからも可愛がられていた少年が、たったの六年であんなに冷たい眼をするようになるとは。
それからカデュ・ルーン。
リュ・リーンより二つ年下の少女の話になった途端に、ダイロン・ルーンは更に険しい顔つきになった。
彼女になにかあったのだろうか。六年前、内気で兄の後ばかり追っていた少女の容姿を思い浮かべる。細かな容姿までは思い出せないが、華奢な体格の娘であったことが記憶に残っている。
一緒に、と風呂に誘ったウラートの存在などすっかり忘れてリュ・リーンは考え込んでいた。
「リュ・リーン! 浴槽から上がりなさい。のぼせていますよ」
頭から湯をかけられてリュ・リーンは我に返った。考え事にふけっていたので、不意打ちに驚いて湯を少し飲んでしまう。
「ウ……ウラート! お前……主人に向かってなんてことをっ!」
ウラートの後を追おうと勢いよく立ち上がったリュ・リーンの視界が暗転した。派手な音を立てて水中にひっくり返った彼は今度はたらふく湯を飲み込んだ。
浴槽から這い上がって激しく咳き込むリュ・リーンにウラートはあきれたように声をかける。
「だから、のぼせてるって言ったでしょ。そんなに勢いよく立ち上がる人がありますか。……立てますか、リュ・リーン?」
ここで素直に立てないとは言わないのがリュ・リーンの意固地なところだ。ムキになってウラートを睨む。
めまいが収まると不機嫌そうな顔をしてゆっくり立ち上がり、ウラートの差し出す布に全身をくるんだ。
「はい。寝間着には自分で着替えてください」
リュ・リーンに寝間着を押しつけ、自分の衣服をさっさと着込むと、不機嫌な主人を残してウラートは浴室から姿を消してしまった。
与えられた日程を淡々とこなしていくリュ・リーンと違ってウラートはリュ・リーンの公務日程を組んだり、侍従長としてまわりの者に指示を与えたり、故国に報告書を書いたりと忙しい。
リュ・リーンのようにのんきに風呂に浸かっている余裕などないのだ。主の気まぐれにつき合うのは、それがウラートにとっての気分転換になるからに過ぎない。
トゥナ国の王宮でも最近はウラートは王やリュ・リーンの雑事の始末に忙しく働いている。
ウラートは有能で、万事をそつなくこなしていく。それはそれで大変重宝するのだが、リュ・リーンは自分が独り取り残されたようでひどく惨めな気分になった。
「俺はいったい何なんだ」
成人してからずっと繰り返している自問をそっと呟くと、リュ・リーンは緩慢な動きで寝間着に着替えて自室のベッドへともぐり込んだ。
柔らかな寝具がリュ・リーンのまだ成長しきっていない身体を受け止める。
従者が焚いたのだろう、香木の香りが部屋中に満ちている。体に吹きつけられる香水と違って空中を漂うこの香りがリュ・リーンは好きだ。子供の頃からの馴染みの香り。
まだ自分が幼い頃に亡くなった母を思い出す。
死というものがなんなのかさえ判っていなかった頃の母の死は、現実離れしていて実感が伴わないものだった。それだけに夜になると母を恋しがってよく泣いた、と聞かされていた。
この香りを嗅ぐと、顔もおぼろにしか覚えていないはずの母を思い出す。
母親の記憶を辿っていたリュ・リーンの脳裏に先刻の舞姫の姿が甦った。ドレスの淡紅色が目の前をチラチラと往復する。
新雪のように白い肌。雪煙のようにサヤサヤと流れる銀髪。紅色のカリアスネの花に似た鮮やかな唇。そして……春の若芽を思わせる淡緑色の瞳。
思い出しているだけなのに全身の肌が粟立つ、この奇妙な感覚はなんだろう。……どこかで会ったことがある。どこで会ったのだろう?
『あなたはいったい、どこの誰なのだ……?』
いつの間にかリュ・リーンは眠りの淵へと誘われ、ゆっくりとその中へと沈んでいった。
湖上を渡る風の音が遠くに聞こえる。あの風は遙かトゥナ国の首都ルメールにまで渡っていくのだ。そして風に急き立てられるようにして短い春が終わりを告げる日もそう遠くはない。
眠りのなかでリュ・リーンは覚えていないはずの母の声を聞いた気がした。
『早く大人におなり。お前には待っている人がいるのだから……』