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第一章:月と竜
雲海を見下ろしていた黒い影がふと小さな吐息を吐き、背筋をピンと伸ばした。黄昏の鈍い赤色の中、その残光を吸い取ったように禍々しく輝きを放つ巨大な月星が北天にかかっている。
「どこだ? お前はいったいどこにいる? 俺を置いて……どこへ行った?」
まだ年若い男だ。ようやく成長期が終わったといったところだろう。肩から下がったマントがはためくたびに、彼の逞しい腕がチラチラと覗く。
若者は赤い天球へと腕を伸ばし、それを受け取るように掌を翻した。血色の月は、地底に眠っていた秘宝のように濡れて見える。
辺り一面も暮色に血のように染まっていた。
腕の先にあるものを見定めようと、若者は顎を上げて眼をすがめる。翠の闇を湛えた彼の瞳はあまりにも深く、見る者がいたならば底なし沼のように吸い寄せられ、絡め取ってしまうだろう。
「見つけだす、必ず……。あの月に、お前を連れていかせはしない。俺はまだ伝えていない。お前に、何も伝えていないんだ」
暗い翠眼で朱き月を追い、凍て始めた空に光り始めている他の小さな星を見渡すと、若者はギリギリと歯を噛み締めた。それは怒りのためではない。抑えきれない想いを押し込める仕草だ。
「側にいると言った。あの誓いは嘘じゃない……! もうこれ以上、誰も失いはしない」
暗緑の瞳に激しい煌めきが宿った。触れれば火傷しそうなほどの強い輝きを見る者はいない。
銅色の空から顔を背けると、若者は再び眼下の雲海を見下ろした。巨大な竜たちが蠢いているようにゆっくりとのたうつ雲の峰は、彼を差し招いているように見えた。
来い、と。ここまで来てみろ、と言うように……。
雲の波間から竜たちの嘲笑う声が聞こえてきそうだった。彼らは、空飛ぶことも、地に隠れることも、水に潜ることも叶わぬ矮小な者に、どれほどのことができるか試してやろうと言っている。
澱んだ暮色に染まる雲が、若者の目の前で大きな渦を巻いて下界へと誘う。雲の底にあるものを奪い取ってみろと言うように。
「行ってやろう。お前のいる場所が、凍りつく氷原の奥津城であろうと、燃えさかる火の山の腹の底であろうと……!」
若者は荒れ山の地肌を蹴ると、羽織ったマントを翻して雲海を目指して駆け降りていった。彼の足下の石たちは蹴り砕かれ、行く手を遮る枯れ枝は弾き飛ばされる。
山を後にする若者の後ろ姿は、荒れ狂い、天に向かって咆吼を上げる若竜そのものだった。
史書は語る……。
その血塗られた歴史を。
だが、人の心すべてを語るわけではない。
語られない歴史の中にこそ真実はあるのかもしれない。
人の流す血と涙と汗は、決して史書では語られない。
いや、語り尽くすことなどできはしない。
親から子へ、子から孫へ。
血は受け継がれ、語り継がれる。
人はどれほどの想いを託すのだろうか。
見果てぬ夢には、いつ届くのだろうか。
……判らない。
それは永遠に判りはしない。
そう、人々を睥睨する偉大なる神にさえも!
死に往く者たちよ。
その密やかなる声に耳を傾けるといい。
死と生の狭間から見つめる、その暗緑の瞳を見るといい。
すべてを飲み込んで舞う死の王の翼の下に休むなら
お前たちは時代の水面に映る青白き神の横顔を見るだろう。
嗚呼、今こそ夢を見よう……。美しく、そしてときに残酷な夢を。
眠る幼子に語るように優しく、戦場いくさばであがる怒号のように猛々しく。
あるいは、神に捧げられる祈りのように厳かに。
男たちの武勲いさおしと、女たちの懇願に耳を傾けて……。
さぁ、夢を見よう。
今暫くの間、夢うつつの世界を彷徨おう。
嗚呼、人よ。その美しき夢に微睡め──
まわりを流れる雲の動きは、山の上から見たときと同様、竜の息遣いのように密やかだ。
時に若者の腕に絡まり、時に遠巻きにその動きを眺める。それを繰り返し、侵入者の方向感覚を狂わせていく。ゆっくりと、じわじわと、獲物を追い詰めていく肉食獣のように。
雲は大きな森を囲んでいるのか、蠢く雲波の間から、時折黒々とした木々の影が透けて見える。
飛ぶように走っている若者は、腕を伸ばした先すら見えない白い闇の中を猛然と駆け、飛んでくるように現れる大木の幹を器用に避けながら、雲の奥深くへと突き進んでいた。
辺りは何も音がしない。小鳥のさえずりや小動物が木の皮をかじる音、大型動物たちが下生え草を踏む足音、普通なら聞こえるはずの森の音が、この雲の中では聞こえてこなかった。
若者も森の掟に従って一言も声を発しない。ただ、彼が駆け抜けていく足音ばかりが異様に大きくこだましているだけだ。
どこまで続くのか判らない雲間の森を、若者は少しも怖れていないようだ。口元に浮かんだ不敵な笑みが、そのことを何よりも強く物語っている。
ところが、それまで快調に進んでいた若者の足が突如止まった。今まで聞こえてこなかった音がする。
遠くから、あるいは近くから葉擦れの音が聞こえていた。ザザザッ、ザザザッ、と繰り返されるその音は、何かが移動している音に間違いない。
若者は息を殺すと、それまでの荒々しい動きが信じられないくらいの慎重さで、そっと足音を忍ばせて音の主へと近づいていった。
相変わらず森の中を漂う雲が、音の主の姿を隠してしまっている。どれほどの距離にいるのか見当もつかないが、若者は相手を見失うことなく忍び足で歩き続けた。
永遠に追いつけないのではないかと思われる時間が経った。
いや、実際にはそれほどの時間ではなかったのかもしれない。雲によって視界を遮られた状態で、しかも陽も落ちた時刻だ。闇の中で蠢く灰色の雲のまだら模様から過ぎた時間を計ることなど不可能だった。
妖かしにたぶらかされた気分になり、若者は苛立ちとともに立ち止まった。音を追いかけるだけ無駄な気がする。
だが、ここから元来た道を戻ることもできそうにない。何より、明確な目印があって道を歩いていたわけでもないのだ。
山の上でははやっていた気持ちが、この雲の冷気で冷やされたか、急速に縮んでいた。陽が落ちてから急速に冷え込んできている。夜露をしのげる場所を見つけたいところだった。
そんなことをつらつらと考えていた矢先、先を往く音から意識がそれた途端、若者は音の方向を見失った。
どうやら本格的に森の中で迷いそうだった。若者は恐ろしいとは思っていないようだ。むしろ夜の支配する時間帯に何かが出てくることを期待しているように、辺りに首を巡らせ、再び不敵な笑みを口元に刻んだ。
「俺の背後に道はない。俺が進むところが道そのものだ」
彼は観察するようにゆっくりと辺りを見回し、低い呟きとともに移動を始める。背負っていた剣をそっと引き抜き、目の前に現れる枝や薮を切り払って、一直線に進み始めた。
ガサガサと物音を立てながら進んでいくと、突然、目の前の薮がなくなり、大小の岩が連なる一角に出た。心なしか視界を遮る雲の層が薄くなってきたような気がする。
透かし見ると、岩の間から点々と低い灌木が生えているが、それ以外は何もない場所のようだった。
登り勾配になっている岩場を、足場を固めながら進むと、徐々に周囲の雲は微かな靄へと変わっていく。
岩の連なりは終わることなく続いていたが、勾配がなくなった頂に辿り着くと、そこはさらに何もない場所だった。いや、正確にはだだっ広い泉が岩の間に広がっている。
若者は油断なくその泉を見つけていたが、靄に包まれた泉の対岸付近から水音が聞こえてくることに気づくと、点在する岩を伝ってそちらへと近づいていった。
バシャバシャと水面を叩く音は、動物が立てる物音のようだった。若者はゆっくりと音の元へと近づき、岩の陰からそっと首を伸ばした。
白っぽい影が靄の中に浮かんでいるのが見える。それが人型をとっていることに気づくと、若者はさらに岩伝いに泉に近づき、眼をすがめて相手の様子を伺った。
先ほど森の中で先を歩いていた主かもしれなかったが確証のないことだ。それにしても、夜は冷え込むというのに水浴びとは、どういう神経をしているのか。今は真冬ではないが、水浴びに適している時期ではない。
若者は水浴びを続ける相手の体つきを観察した。細く白い身体だ。が、繊弱であるというわけではなさそうだ。
実際、この岩場を歩いてきたのなら、弱い足腰ではここまでやってくることもできまい。動きは機敏だが、全体的に柔らかさを感じさせるものだった。
どれほどの間、相手を見ていただろうか。ゆっくりと晴れてきた靄の間から見える人影の体格と横顔が、さらにハッキリと若者の視界に映った。
雪のように白い肌にかかる髪は、夜空にまたたく星たちのようにキラキラと輝いて見える。清楚な銀色をしているのだろう。天にかかっている月が靄の隙間から差し込むたびに、水を滴らせた髪が光を放つ。
髪に縁取られた顔の中で目立つのは高い鼻梁。彫りの深い顔立ちのせいで、相手の横顔が天を向くと、竜が空に向かって吼え立てているようだった。
やや肉厚の唇や、滑らかだががっしりとした顎が、細い首筋とは対照的な印象を与える。
厳つくはないが筋肉がのった肩と腕がゆったりとした動きで水をすくい、虚空へと煌めきを弾いて水と戯れ遊んでいる様子は、寒さの中でなければいつまでも見ていたいほど無邪気だった。
その白い人が、くるりと若者のほうへ身体を向けた。向こうはまだこちらに気づいていないようで、大きく伸びをする仕草は開放感に浸っているようだ。
が、若者は相手が向き直った瞬間に見えたものに驚き、眼を見開いて息を飲んだ。
相手の胸には柔らかな双丘があった。
女だ! 後ろ姿のときには、てっきり細身の男だろうと思っていたのに。
どうしたことだろう。女の身でこんなガレ場の泉にやってくるとは。よほど曰くのある者なのか、変わり者なのか。
若者が驚きに身を隠すことも忘れていると、ついに相手の女が若者に気づいた。こちらも驚き、口を半開きにして若者を凝視している。
互いにまじまじと相手の顔を見つめていたが、最初に動いたのは若者のほうだった。彼は手にしていた剣を岩場の隙間に突き立てて辺りを見回した。そして、女が脱ぎ捨てていた衣類を見つけると、それを取り上げて相手に示す。
泉から上がるよう促したのが相手にも伝わったらしい。女はバシャバシャと水音を立てながら岸へと近づいてきた。
若者は手近な岩にそれを乗せ、剣を突き立てた場所まで後戻りした。
先ほどから女は前を隠そうともしない。羞恥心というものがないのかもしれないが、若者は自分の中の礼儀で相手に不躾な視線を送るのを控えようとしたのだ。
しかし、眼を背けようとした一瞬の視界に、若者は不可解なものを見つけてしまった。
女の胸には果実を思わせる見事な膨らみがあるというのに、滑らかな腹部の下に、女ならばないはずのものが、しっかりと存在しているではないか!
ギョッとして若者はその場に立ち尽くした。顔を背けることも忘れて、相手の身体に視線を這わせる。女の円みのある体格でも、男のがっしりした体格でもない、微妙な……いや、曖昧な体格の生き物が若者の目の前にはいた。
男と女の特徴を併せ持った存在がいることを聞いたことがある。だが、目の当たりにしてみると、それはまったく別の生き物のように思えた。
互いに一言も発しないまま、若者は相手を凝視し、白い者は暢気に身体を拭いて衣服を着込んでいる。奇妙な沈黙であるはずだが、夜の帳の中では、そんな沈黙の時間もあるかと思わせた。
異質な存在は衣装を着終わると、サバサバした様子で若者に向き直った。まったく相手の視線を気にしていなかったようだ。天にかかる朱き月のような瞳がヒタと若者を捉えるが、それは非難しているようには見えなかった。
「お前は、なんだ……?」
若者はようやく重たい口を開いて問いかけを発した。その声は岩場のあちこちに反響して、何度となくこだまを返してくる。お前はなんだ、という問いかけは、問いかけを発した若者自身にも向けられたように錯覚させられた。
白い者が首をひねる。こちらの言葉が理解できないのかもしれない。若者の間近まで歩み寄ると、戸惑いを浮かべる相手の額に掌をかざし、若者の黒い前髪をサラリとなで上げる。
背格好は若者のほうがやや高い。体格も若者のほうががっしりしている。しかし、警戒心を露わにする若者に対して、白い存在には相手の懐の中にスルリと潜り込んでくる無防備さがあった。
ゾクリと若者の身体が粟立った。恐怖ではない。何か血が沸騰するような奇妙な高揚感に目眩がして、若者は白い手から逃げた。
「オマエノコトバ、ムズカシイ。モウイチド、サワラセロ」
異質な存在が抑揚のない声を発する。男なのか女なのか判らない奇妙な声に、若者は瞠目して立ち尽くした。
それを了承と受け取ったのか、白い存在は若者の首筋に腕を絡ませ、彼の黒髪越しに白い額を押しつけてくる。生き物の温みに、若者の身体から力が抜けていった。
「判った。もうしゃべることもできる。“お前はなんだ?”と言ったのだな。我は……そうだな、我らの言葉では両性体という。お前の言葉だと両性具有という存在のようだ」
「なぜ俺の言葉を?」
「お前は遠くからきた者なのだな。我らの言葉と違う言葉を話した。相手の言葉が判らぬでは話もできんだろう。だから、お前の頭の中にある言葉を教えてもらったのだ。……ほら、こうやって」
再びヒラリと白い掌が舞い、若者の額にかざされた。再び生き物の温もりが若者の額に伝わったが、それ以外は何が起こるでもない。
「それだけで判ると? 見ず知らずの者を随分とあっさり信じるのだな。俺には信じられん」
「悪意ある者を魔霧が生かしておくものか。お前はこの泉に辿り着いた。それだけで充分だ」
「あの雲か? あれに意志があると?」
白い存在が首を傾げ、にっこりと笑みを浮かべた。そんな仕草だけ見れば、女が微笑んでいるような優しげな印象しか受けないが、声や口調は男とも女とも判らない。
「我ら一族の言い伝えでは、魔霧を抜け出る者は幸運をもたらすとされている。遙か天の月より使わされた竜の化身だとも言われている。お前は、竜か?」
相手の無心な瞳に、若者は再び絶句した。自分が竜などと、どこをどう見たらそんなものに見えるというのか。
「違うな。俺は人だ。竜じゃない」
「でも、竜が持つ瞳を持っている。やはりお前は竜なのだろう」
「やめろ。この瞳は俺の一族の間では珍しくない。お前は見慣れないものを見て、勘違いしているだけだ」
不快そうに眉を寄せた若者の様子に、白い者は哀しげに項垂れた。がっかりしたらしく、肩を落とす様子が胸に痛い。
「魔霧を抜けてきた竜は幸いをくれると聞いて、ここまでやってきたのに。本当に竜ではないのか?」
「俺は海を渡ってやってきた。月からきた竜などではない。残念ながら、竜なら他を当たってくれ」
さらに悄然と肩を落とした目の前の者に、さすがに若者も決まりが悪くなってきた。
「もう少し待ってみたらどうだ? 本当の竜がくるかもしれないぞ。俺みたいなまがい物ではなくてな」
若者の言葉に白い者が顔をあげ、力無く微笑みを浮かべてそっと首を振る。
「お前、名は……?」
若者が再び口を開いた。困ったように眉を寄せる顔つきに、白い存在は小さな笑い声をあげる。震える笑い声が岩場に反響して、辺り一面が笑いの渦に巻き込まれた。
「お前、面白いな。どうしてお前は悪くないのに、そんなに困った顔をするのだ?」
若者がムッとした表情で口元を曲げる。その表情を見て、白い者はさらに笑い声をあげて身を翻した。腰の高さほどの岩へ舞い上がると、クルクルと身体を回転させてなおも笑い続ける。
「何が可笑しい!」
若者の苛立った声も岩場に反響し、笑い声とささくれた声が不協和音を辺りに轟かせた。くわんくわんと鳴り響く鐘の音に似た反響に、二人が顔をしかめてしばし黙り込む。
ようやく周囲の音が静まったとき、白い者が天を指さして囁いた。
「我の名はルラン。我らの一族の言葉で“二つの月”という意味だ。白き月と朱き月が交わった日に生まれた」
クルリと身体を回転させると、ルランは岩の上から飛び降り、若者の顔を覗き込んでクスクスと笑い声を漏らす。
「お前のことはドルクと呼ぶことにしよう。一族の言葉で“竜”を意味する言葉だ」
若者が呆れたように渋面を作ったが、ルランは気にした様子もない。むしろ、自分の考えが気に入ったらしく、若者の周囲をヒラヒラと飛び歩いては、楽しそうな笑い声をあげている。
すっかり靄が晴れた天空では、黒々とした夜空に鋭い星が瞬き、北天の朱き月が岩場に立つ二つの影をじっと見下ろしていた。