石獣庭園 -Wing on the Wind-

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タッシール紀

No. 32 〔25年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
放浪者の瞳

 旧暦から恒星暦へと暦が変わってすでに千年以上が経った現在も、惑星タッシールは栄華の極みにあるように見えた。辺境惑星の羨望の視線を浴びて、この星の住人たちは常に取り澄まし、己の権勢を誇ってきたのだ。
 そう。ここトルテリア共和国首都バルヴァに建つ国立トルテリア大学もその羨望の視線を向けられる施設の一つに違いない。彼、アッサジュ・パルダという考古学の権威をそこに飼っているゆえに……。
 窓の外は灰色の雲が垂れ込め、秋の物憂げな愁雨が今にも降り出しそうな気配だった。キャンパス内を学生たちは急ぎ足でせかせかと歩き回っている。その姿は降りだそうとしている雨と競争をしているようだ。
 部屋の窓から眼下のキャンパスを見下ろしていたアッサジュ・パルダは、扉をノックする音にふと我に返って返事を返した。
 灰色がかった蒼紺の視線を扉へと注ぐと、その木製の扉が開いて入ってきた人物をしげしげと観察する。小綺麗に短く刈り込んだ黒髪に褐色の肌の男だった。歳は三十代前半と思われる。顔の造りは悪くない。
 訪問者の褐色の顔のなかに暗い色合いの翠の瞳が鋭く光っていた。深い知性を宿した瞳の色は優しいがどこか孤独を含んでいるように見える。
「やぁ、ワーネスト。久しぶりじゃないか!」
 気さくに声をかけると、アッサジュ・パルダは散らかった応接セットの机の上を片付けて、客が取り敢えず落ち着けるスペースを瞬く間に造り上げた。
「ご無沙汰しております。教授は相変わらずお元気そうですね。そうそう、お嬢さんがもうすぐご出産だと伺いましたよ。とうとうお祖父ちゃんですか」
「なんだね。この老いぼれに孫の世話でもして隠居しろと言うのかね?」
 手早く香茶を淹れると、老教授はどっかりと相手の向かい側に腰を降ろして苦虫を噛み潰したようなしかめっ面を見せた。
 骨格のがっしりした体格のアッサジュ・パルダは年は取っていても隠居するような柄には見えない。白髪のほうが多くなった頭髪を撫でつける指は、学者というよりは労働者といった感じさえ受けるのだ。
 ワーネストと呼ばれた男は苦微笑を浮かべ、受け取った香茶を一口すすった。
 香草をブレンドした香茶の味は独特で、好き嫌いが分かれるところだろうが、この男の口には合っているらしい。苦微笑が消えると、その顔には満足そうな笑みが刻まれた。
「トルテリアの香茶はどれも美味いですね。オレの国だともっと味が薄くて、物足りないんです。この国にいるとずっと香茶を飲み続けていたいような気がしますよ」
「もちろん! このトルテリア共和国の香茶茶葉は宇宙一だからね」
 まるで自分が褒められたように胸を張ると、教授は人なつっこい笑みを浮かべて年下の男を見つめ返す。そしておもむろに自分のカップから香茶をすすって、さも威厳を見せるように重々しく頷いた。
「発掘は順調なのですか?」
 ひとしきり香茶談義を繰り広げていた二人の間にふと沈黙が落ちると、年下の訪問者が何げなく質問をしてきた。
「うむ。まぁ、順調とは言えないが……。発掘にはつきものだからね、現地でのトラブルや費用の問題などは」
「あの海のなかから突きだしている奇山にいったいどれくらいの考古学的価値があるのかしりませんけど……。あそこの島の住人は保守的で排他的な気質をしている者が多いんですよ。気をつけてください」
 心配そうにこちらを伺う男に「大丈夫だ」と手を振って応えると、老教授はポットに残っていた香茶を二つのカップへと注ぎ足す。キザにならない程度にもったいぶった手つきがいかにも洗練されており、彼が充分な教養と学問を身につけられる裕福な市民の出であることを示していた。
「君のほうこそずいぶんと忙しいのではないのかね? 惑星一の発行部数を誇る月刊誌プラネットで署名入りライターを務めているとなれば、忙しさは半端ではあるまい?」
「えぇ。今日も取材準備の途中でして……」
 再びカップに口をつけるとワーネストは誇らしげに目を細める。その瞳の奥には野心的な光が点っていた。
 雑誌プラネットは惑星タッシールの歴史や環境、科学などありとあらゆる分野の最先端を紹介する雑誌である。惑星住民のなかでこの雑誌の名を知らない者はいないと言っても過言ではない。
 その雑誌で記事の最後に文責署名を入れられる記者というのは、かなりの実力者だと言ってもいい。専門分野はあるにしろ、彼ら署名ライターは実に多くの知識をその脳内に収めているのだ。
「私の発掘内容以上に、君の好奇心の触覚に触れるような面白いネタがあるのかね? それは是非聞かせてもらいたいものだな」
 アッサジュ・パルダは子どものように好奇心で光る視線を相手へ注ぎ、相手が話し出すのをワクワクとして待っていた。
「教授、記事になるかどうかも判らないんですよ? ……あぁ、判りましたよ。そんな恨みがましい目で見ないでください。絶対に他言無用ですからね」
 相手の好奇心をいなそうとしたワーネストは、不満げに頬を膨らます老教授の様子に苦笑いを浮かべる。まったくもってこの老人は子どものようだ。面白い玩具を取り上げようとすると、途端にふてくされたように機嫌を悪くするのだ。
「実は今回はガイアへ飛ぼうと思いましてね。今日はそのスターシップの手配をしに行くんです」
 アッサジュ・パルダが自分の言葉に失望どころか、なおいっそうの好奇心を募らせたらしいことを理解すると、ワーネストは香茶を一口すすって微かなため息をもらした。いまさら話をやめるわけにもいかない、といったように。
「あの惑星に大したものがあるとは思えませんけど。大昔に海に飲まれた大陸のことを調べてみようと思っているんです。このタッシールの大沈没時代を彷彿させる話題でしょう?」
「ほう! あの辺境の惑星にも大陸を呑み込んだ海があるのかね。それは興味深い。だがあの惑星は双子星ではなかっただろう? 我がタッシールの双子星が消滅したときのような激しい変動などなかっただろうに、いったいどうやってそんな巨大な海のうねりができたのかね?」
 お伽噺をねだる子どもそっくりに瞳をキラキラと光らせた老人の態度に、ワーネストが苦笑いを深くした。まったく好奇心の塊のような御仁だ。
 手に持ったままのカップの縁を指先でなぞると、ワーネストはやや目を細めてじっと香茶の水色に視線を落とした。指でなぞっている振動で、水面には小さなさざ波が立っていた。
「惑星の地軸が狂ったんですよ。神話の書物にも海に飲まれる大陸の話は出てきますから、かなり大規模なものだっと思います。その辺りと絡めて記事にできたらいいんですけどね」
「なるほど! 遠いガイアとタッシールの意外な共通点か。君ならきっと面白い記事が書けるだろう。しばらくは君の署名入り記事から目を離せないな!」
 老齢の域に達したとは思えない大きな声で相手を称賛すると、アッサジュ・パルダは顔を大きく笑みで崩した。
 この快活な老人に褒められて嬉しくない人間などいないだろう。ワーネストも満点をもらった生徒のように晴れやかな笑みを浮かべ、ついで照れくさそうに鼻の頭をこすった。
「それにしても君はあちこちを旅しているようだね。私がこの国の周辺で地面を掘り返しているのと比べると、まったくタフだと思うよ」
「何を仰っているんです、教授だって充分タフじゃないですか。だいたい発掘の指揮をとりながら自分もシャベルを持って地面を掘り返すなんて……。いい加減にお歳を考えていただきたいものですね」
「この老体から発掘の楽しみを奪おうというのかね? それはないよ。この楽しみを取り上げられるなんて我慢ならん」
 教授の太い指先はどうやら発掘の重労働のために培われたものらしい。優雅に指を振る動きは滑らかだが、妥協を許さない職人のような頑固さがそこにはあった。
「そうそう。ところでスターシップの手配をするということは周期船で行くわけではないのかね?」
 カップの底に残っていた香茶を飲み干すと、老教授は首を傾げた。辺境惑星とはいえ、ガイアにはここタッシールから定期巡航船が出ているのだ。専用のスターシップをチャーターするより遙かに安上がりだろうに。
「えぇ。周期船で行くと思わぬ足止めを喰いそうなんですよ。ここ数ヶ月、あの星団域は宇宙嵐が断続的に続いてましてね。周期船では辿り着けないかもしれません。だからあの地区に詳しい船長を専任で雇うことにしたんです」
 それを聞いたアッサジュ・パルダが「う~む」と低い唸り声をあげた。恒星から噴き出す宇宙風。その風の巻き起こす宇宙嵐は厄介な代物だ。嵐のただ中に突っ込んでしまうと、嵐に吹き飛ばされたり磁場が狂ったりとかなりの危険を孕んでいる。
「あの辺りがそんな危険な状態だったとは。それで……見つかったのかね、その優秀な船長とやらは」
「もちろんです。今日これから逢いに行くんですよ。直接交渉できる手筈を整えましたからね」
 その言葉に老教授の瞳がキラリと光る。好奇心以上の興味を含んだ相手の気配に、ワーネストが一瞬たじろいで身を引いた。
「だ、駄目ですよ。一緒に連れていけませんからね!」
 思わず声を上擦らせてワーネストは叫んでいた。ところが老教授はまったく相手の言葉を聞き流して、いそいそと外出用のコートを取りに立ち上がっているではないか。
「教授!」
「まぁまぁ。ちょっと逢うくらいならいいじゃないか。ガイアのある星団域に詳しい人物となれば、当然ガイアの歴史にも造詣があるとみたがね? こんなチャンスは滅多にないだろう? なぁ、ワーネスト。まさか老い先短い老人の愉しみを取り上げたりしないだろうね」
「これから向かう先は決して治安がいい場所ではないんですよ!」
「そんな場所に君は一人で行くのかね? それならなおさら私が一緒に行かなくては。大事なかつての教え子に何かあったら大変だ」
 抗議の声をあげようと口を開きかかったワーネストは幾度か舌を動かそうと試みた。だがそれらすべてが無駄に終わると、肺のなかの空気を全部絞りだすほどの深いため息をつき、片手で額を覆ってうめき声をあげる。
「船長に逢っても、相手の機嫌を損ねるような真似はしないでくださいよ。今までの苦労が水の泡です」
「なぁに。麗しき神々は善良な市民をいつだってお救いになるものさ。人生なんて、どうとでもなるものなんだよ、ワーネスト」
 気さくに年下の訪問者の背をポンポンと叩くと、老人は悪戯に成功した少年のように愉快そうな笑みを浮かべて相手を圧倒した。
 その灰色がかった蒼紺の瞳の力に逆らえないのか、ワーネストは引きつった顔に無理矢理笑みを浮かべるしかないようだった。


 辿り着いた場末の酒場は降り出した雨のなかで見るとひどくうらぶれた感じがする。剥げかかった看板に刻まれた文字はもうほとんど読むことができない状態だが、目をすがめてじっと見ていると辛うじて「宵星亭」という文字が浮かんで見えた。
「なんとも興味深い建物じゃないかね。この街にまだこんなに古い建物があるとは思いもしなかったよ」
 老教授の、古びているが仕立てのいいコートの肩に小雨が降りかかっていたが、濡れることを気にしない質なのか、彼は目を細めて酒場の外観を観察していた。
「教授。悪いことはいいませんから、ここでお帰りになったほうがいいですよ。ここは教授のような方がくるような場所ではないと思いますから……」
「まだそんなことを言っているのかね。さぁさぁ、そんなことを言わずに偉大な冒険を敢行してくれる船長に逢わせてくれたまえ」
 そう言うと老人はさっさと一人で壊れかかった扉を押し開けて店内へ入っていく。まったく不用心というか、大胆というか。その後を追いかけながらワーネストは諦めたようにため息をついた。
 狂雑なポップスががなり立てている店内には、それに見合った男女が入り浸っていた。
 ドラッグの甘ったるい饐すえた匂いが充満し、シガーの紫煙が店内の最奥を霞ませている。ここには、混沌と頽廃があった。
 ところがカウンターのなかに立つバーテンは、およそこの傾きかかった酒場に相応しくない姿をしてるではないか。目の奥を焼く炎のような赤髪に象牙色の柔らかな色合いをした肌は薄暗い店内では一際目を引く存在だ。歳もまだ若く見える。
 感心した様子でその姿に見惚れている老教授の脇をすり抜けると、ワーネストは臆する様子もなくそのバーテンへと近づいていった。
「やぁ、ヴィーグ。オレの客はもう来ているかい?」
 カウンターで忙しく手を動かしていた若者が心持ち顎をあげてワーネストへと視線を走らせた。愛想のない表情で、相手を不快にさせないギリギリの拒絶を感じる態度だ。
 その見上げる瞳が炎の髪とは正反対の氷色をしていることに気づいて、アッサジュ・パルダは目を見張った。薄い色の瞳をしている者はこの国には少ない。それでなくてもこの赤髪は目立つだろうに、氷海の色をした瞳は見る者を捕らえて放さない。
「奥にいますよ。今、マスターと話をしているはずです」
 炎の情熱も、氷の拒絶も何もない無感動な声が若者の喉を震わせたとき、店の奥から大柄な男が顔を覗かせた。癖の強い鉄色の髪に鮮やかな空色をした瞳がよく映える男だった。
「マスター。ご到着です」
 現れた男に気づいたバーテンが無機質な声をその男にかける。どうやらこの空色の瞳をした男がこの酒場のマスターらしい。手近な客と談笑していたが、ふと顔をあげて値踏みするようにワーネストとその脇に立つ老人を眺め回した。
 平均身長より頭一つ分ほど高い男から見下ろされも、訪問者たちは威圧感は感じなかった。彼が長年の間に客商売で培ってきた特技だろう。客との間に適度な距離を置く店の主の態度はむしろ心地よくさえあった。
「いらっしゃい。お目当ての方は奥ですよ。……到着されましたよ」
 ワーネストを手招きしたマスターが奥の扉を半開きにして中に声をかけていた。
 年下の同伴者と供に他の客の間をすり抜けてその扉へと近づきながら、アッサジュ・パルダはその様子を面白げに眺めている。得難い経験の一つ一つを脳に刻みつけようとでもいうのか。
 喧しい店内を抜けて奥の部屋へと案内されて入っていくと、そこには数人の男たちがのんびりと杯を傾けているだけの静かな空間だった。
「あ~……。お待たせしました」
 今までの店内の様相とはまったく正反対の、むしろ知性を深く宿した瞳を持つ男たちの姿にワーネストのほうは少々面食らっているようだ。その横で老教授がニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべて立っている。
「ワーネスト・トキア氏、ですか? お一人でおいでになると伺っていたが?」
 猛禽類の瞳を思わせる琥珀色の瞳を持つ男が、瞳と同じ鋭い批判を込めた声をあげた。まわりの男たちも口にこそ出さないが、賛同の視線を向けている。約束が違うのではないか、と。
「すまんねぇ。私が無理矢理にくっついて来てしまったのさ。ガイア星域に詳しい人間なんてそういないからね」
 ワーネストが口を開くよりも先に、老教授がコートを脱ぎながら豊かな声で返事をした。外の肌寒さを一掃する温かな声だったが、男たちはさらに胡乱な視線を老人へと向けるばかりだ。
「オレの大学時代の恩師です。口の堅さは保証しま……」
「お喋りな奴は嫌いだ!」
 初めに口を開いた男が厳しい声でワーネストを制した。それに射すくめられたようにワーネストが硬直する。最悪だ。予定外の人間を連れてきたことが彼らを怒らせてしまったようだ。
「おやおや。ワーネスト。君の知り合いは随分と短気な人間のようだね。よほどこの年寄りを寒空の下に放り出したいらしい」
 言い訳に苦慮していたワーネストは教授のこの声に余計に肩を落とした。この老人にはこの緊迫感が判らないのだろうか? このままでは今まで自分が準備してきたことがすべて水の泡だというのに。
「自己紹介がまだだったねぇ。私はアッサジュ・パルダ。国立大学で教鞭を取らせてもらっとる。あ~。専攻は……」
「考古学でしょう? 今はイフォーバ山をあちこち掘り返しているそうじゃないですか。山の精霊に祟られやしませんか?」
 今まで黙っていた一人の男が口元に薄く笑みを浮かべて老教授とワーネストを見上げている。光量を落とした室内にも関わらず、彼の周囲は輝いているように錯覚しそうだった。
 まったく混じりっけのない白い髪はまるで老人のようなのに、白人種らしい肌の艶は決して年寄りに見えない。長く垂らした前髪で顔の左半分を覆っている。彼の年齢はむしろワーネストよりも若そうだ。
 精悍な顔立ちのなかで一つの暗い翠の瞳が微かな好奇心に輝いていた。
「私をご存知かね? それは光栄なことだ。あ~。名前を伺ってもかまわんかね、お若いの?」
 嬉しそうに笑みを浮かべる老人とその若者を交互に見比べてワーネストは戸惑っている。だが下手に口出しをするとこの一瞬の和みが崩れてしまいそうで、彼は手を出しかねていた。
「ここでは俺たちの名前を聞かないことです、教授。あなたの命を保証しかねる。だが呼び方に困るのなら……俺のことはガイスト、と呼べばいい」
 やんわりと拒絶を漂わせながらも相手は老人を受け入れたようだった。周囲の男たちはまだ険悪さを残した視線を立ったままの二人に向けていたが、この白い男の言葉を遮ろうとはしない。
「ガイスト? えぇっと……。確か、私の記憶に間違いがなければガイアのどこかの地区の言葉で亡霊という意味があったと思うがね」
 太い指先で自分の額をトントンと叩きながら知識をひっくり返している老人の態度は至って真剣で、相手を出し抜いてやろうなどという魂胆はまったくないようだった。それが気に入ったのか、若者が幾つかの空席を指さした。
「座ったらどうです? 入り口の側じゃ暖房が行き届いていないでしょう」
 ようやく同じ席につくことを許されて、ワーネストはホッと吐息を漏らした。恩師を席の一つへと誘うと、自分もその隣へと腰を落ち着ける。やっとこれでスタートラインに並べたのだ。
「やれやれ。寒くなると昔痛めた膝が疼いて困るよ。この国は雨期に入ると急に冷え始めるからねぇ。老骨には堪えることだ。……寒さしのぎに一杯引っかけてもいいかね?」
 室内の大テーブルに並んだ人数はアッサジュ・パルダとワーネストを入れて六人になった。自分たち以外の四人の顔を見回すと、老人は無邪気な笑みを浮かべてボーイを呼ぶ仕草をして見せる。
「どうぞ。俺たちも丁度酒を追加したいと思っていたところだ」
 白い男、ガイストが目配せすると琥珀の瞳をした男が手元の呼び鈴を押した。実際に彼らが酒を追加したかったのかどうかは疑わしい。それぞれの手元にはまだ充分な酒が残っているように見えたから。
 ほどなくして先ほどのマスターが顔を出し、次々とあげられる注文を手早く確認すると表へと引っ込んでいく。扉が開いているときだけ、外の喧噪が聞こえてくるが、それ以外は室内はまったく静かなものだ。
「イフォーバ山からは宝物でも出てきましたか?」
「今のとこは何も出てきやせんよ。雨期に入ってしまったのでね。乾期になるまでは発掘作業は中断せざるをえん。まったくもって忌々しい雨だよ」
 同じテーブルについたものの話を切り出せずにいたワーネストは、アッサジュ・パルダと白い男の会話を横で所在なく聞いているしかなかった。
 他の男たちは会話に加わろうとはしない。それが自分たちを拒絶しているように感じて、ワーネストは胃が痛くなってきていた。この場所に恩師を連れてきたことは、やっぱり間違いだったのかもしれない。
 あまり待たされることなく注文した酒が届けられた。トレイを片手に入ってきた炎の麗人は顔色一つ変えることなく、注文主の前に酒を置いて立ち去っていく。取りつくしまもない態度とはこのことだろう。
 注文した蜜酒ミードを口に含むと、老教授は満足そうに顔をほころばせた。
「なかなか美味しい酒だ。寒い陽気のときには酒は心の友だね。この歳になると一緒に酒を飲んで語り合ってくれる友人も少なくなってきてねぇ。寂しいことだ」
 そのアッサジュ・パルダの言葉にガイストが小さな笑い声をあげる。それはバカにしたような高慢な笑いではなく、静かだが親しみのこもった笑い声であった。
 だが残りの男たちはその和やかな雰囲気に同調することなく、黙々と自分たちの酒を飲み干している。その彼らの態度にワーネストは自分のこれまでやってきたことが無駄に終わったのだと、内心ではガックリしていた。
 なんということだろう。ガイアに渡るためにこの数ヶ月、ツテを頼ってあちらこちらを奔走してきてきたというのに、最後の最後で自分の判断ミスから何もかもを潰してしまったのだ。
 隣で歓談する恩師を恨むのはお門違いだが、誰かに八つ当たりできるというのならやはりこの老教授に八つ当たりしたくなるではないか。
 鬱々と落ち込んでいるワーネストの耳に突然彼の名を呼ぶ低い声が届いた。驚いて顔をあげると、自分と同じ瞳の色をした男とまともに視線が絡まった。思わず息を呑み込んでしまった。
「え……?」
 毎朝、鏡のなかで自分の顔のなかにある同じ色の瞳を眺めているが、この白い男の瞳はどこか凄惨な輝きを放っているように感じる。右目だけしか見えないが、彼のもう片方の瞳も一緒に見ることだけは勘弁してもらいたいものだ。まるで死の淵を覗き込んでしまったような気分になる。
「出航は四日後だ。今日と同じ時刻に、この酒場で待っている。そこからシップまで案内しよう」
 相手が何を言っているのか、一瞬理解できずにいたワーネストだったが、それが自分が本来ここへ来た目的だったことを思い出すと、彼は隣の老教授に視線を走らせた。当のアッサジュ・パルダは相変わらずニコニコと笑みを浮かべてかつての教え子の顔を見つめ返しているばかりだ。
「あ、ありがとう。四日後の同じ時刻だね?」
 相手からの確約をもらえるとは思ってもみなかった。相変わらず周りの男たちはムッツリと黙り込んでいるばかりだったが、特に反対する気配はない。針のむしろの上に座らされるような航海になるかもしれないが、ともかく当初の目的を達したのだ。
「遅れるな。時間になっても現れなかったら、置いていくからな」
「その日は仕事を全部キャンセルして、寝坊しないように家中の目覚ましをセットしておくことを勧めるよ、ワーネスト」
 気楽に教え子の肩を叩く老教授が茶目っ気たっぷりのウィンクをしている。その顔にキスの雨でも降らしたくなったが、ワーネストはその馬鹿馬鹿しい行為を思いとどまると、亡霊の名を持つ男へと腕を差し出した。
「よろしく、キャプテン・ガイスト。えぇっと、報酬はあの額でいいということかな?」
「けっこうだ。もちろん、チップを弾んでくれるというのなら、断る理由はないがね」
 自分の掌を握り返してくるガイストの手は、亡霊という名とは反対に温かかった。ひんやりとした手の感触を想像していたワーネストはその意外な温もりに目を丸くして戸惑うばかり。
「清すがしき旅路を送らんことを」
 契約の成立を祝うように老教授が手元の杯を掲げた。
 恩師の言葉が、遙か昔に旅人たちの間で交わされた祝福の挨拶であることを頭の隅でチラリと思い出しながら、ワーネストはガイストに安堵の笑みを向けた。


 四日後、再び酒場へとやってきたワーネストはカウンターにいる見覚えのある人物の背中に釘付けになった。
「教授、ここで何をやっているんですか!」
 そう。大学時代の恩師アッサジュ・パルダ教授がのんびりとバーテンの若者を相手に蜜酒ミードの杯を傾けているではないか。
「やぁ、ワーネスト。時間よりも早いじゃないか。昨日は興奮して眠れなかったんじゃないかね?」
 ピクニックを楽しみにして寝つけなかった子どもと教え子を同列に扱う老人に、ワーネストが呆れた顔をして口をへの字に曲げる。だが当の老教授はまったく意に介していない様子で、酒のお代わりを若いバーテンに頼むと椅子の上でくるりと教え子に向き直った。とても老人らしくはない快活な動作だ。
 ふてくされる教え子の態度すらアッサジュ・パルダにはおかしな曲芸の一種であるらしい。陽気な笑い声をあげてウィンクをして見せる。
「若い人と話をするというのはいいね。刺激があって面白いものだ」
 呆れ顔だったワーネストが怪訝そうにバーテンを盗み見た。教授が今まで話していた若い相手とはこのバーテン以外にいないだろう。無表情で客に相槌を打ちそうもないこの若者相手にいったいどんな話ができたのか。
「どうぞ、教授」
 丁寧な手つきでアッサジュ・パルダの前に置かれたグラスのなかには鮮やかな泡混じりの琥珀色をした液体が入っていた。
「おや? ヴィーグ、注文したものと違うようだが?」
「あまりたくさんお酒を召しても身体に悪いですよ。そろそろ脳をシャッキリとさせないと。オレンジジュースを多めにしたスプラッシュです」
「私は満足に酒も呑ませてもらえないのかい?」
 さも哀しそうに首を振る老教授の肩越しに若いバーテンが薄い笑みをワーネストへと向ける。
 ワーネストはヴィーグの笑顔など一度も見たことがなかった。彼はこれまで幾度も足を運んでいるというのに。それなのにこの老人はたったの二度逢っただけでこの若者の心を掴んでしまったようだ。
「まぁいい。スプラッシュでもアルコールには違いないからね。さぁさぁ。ワーネスト、お迎えが現れるまでここに座って話し相手になってくれんかね?」
 自分の隣の椅子を軽く叩きながらアッサジュ・パルダはいつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「えらく軽装備じゃないか。他の荷物は現地で調達するのかね?」
 バーテンに自分と同じ飲み物を注文すると、老教授は教え子の格好をしげしげと眺めた。ワーネストは荷物を抱えているが、これから辺境惑星へ旅立つにしては随分と少なく見える。
 いったいアッサジュ・パルダの笑顔にどんな魔力があったものか、当のワーネストはそれまでのふてくされた気分を脇に押しやってのっぽの椅子に腰を落ち着けていた。
「着替えなんかはあちらで調達すれば充分ですからね。取材用のレコーダーや撮影機器さえあればなんとでもなります。未開の地へ行くわけじゃないですから」
「なるほど。それはそうだ」
 出てきたカクテルで互いに乾杯すると、二人はその香りと味をひとしきり堪能した。
 アーモンド風味のリキュール・アマレットとオレンジジュースをソーダ水で割っただけのこのカクテルは、優しい口当たりで意外と人気がある。決して酔わないとは言わないが、へべれけに酔うほどの酒でもないだろう。
 周りの喧噪とはかけ離れた、落ち着いた雰囲気が二人の周囲に漂っていた。その穏やかさをうち破る喧噪が彼らのすぐ脇であがった。
「ブルジョアがいったいこんな場末になんの用だよぅ~?」
「この哀れな貧者にお恵みを施してくれる、ってぇかぁ?」
 酔っ払ってすっかり出来上がっている二人の酔漢が老人の仕立てのいい上着の肩にぶつかってくる。アルコールだけではなくドラッグもやっているのか、彼らの白目の部分は黄色く濁っていた。吐く息は腐り始めた生ゴミよりもひどい匂いがする。
 酔漢たちは二人ともかなりがっしりとした体格をしていた。浅黒い肌には蛇や髑髏の入れ墨が覗き、身につけている衣装は善良な市民からはほど遠い、まるで戦闘服のような出で立ちだ。
 ワーネストは無視するように恩師の肘をつついたが、ほろ酔い加減のアッサジュ・パルダは人の良い笑みをその酔っ払いどもに向けて手まで振ってみせた。
「やぁ、兄弟。楽しんでおるかね? 今日は旅立ちにはとてもいい日だよ」
「きょ、教授!」
 絡まれているというのに、まったく暢気な顔をしている老人にワーネストは慌て、助けを求めるようにカウンターの向こうに立っているバーテンを見た。だが若者は涼しい顔をして静観しているだけで、助ける気などない様子だ。
「お~、じいさん。おれたちゃ、楽しみたいのよ」
「ものは相談だがよ~。あんたの懐のなかにある財布を少し軽くするお手伝いをしたいわけだなぁ」
 ゲタゲタと笑いながらカウンターに寄りかかり、アッサジュ・パルダとその連れを値踏みする酔漢の態度は傍若無人だ。ところがそんな無礼な態度さえ気にした様子もなく、老教授は相変わらず口元から笑みを消そうとしない。
「この薄給取りの老いぼれにはあんたがたの満足しそうなものは与えられそうもないがねぇ。あるのは長年貯めに貯めた知識だけだよ」
 にこやかな顔をしたまま拒絶してみせる老人の態度に酔漢たちがムッとした。怯えて素直に財布を寄越すか、怒りだして喧嘩になるかと思っていたのだが、まったく期待はずれもいいところだ。
「おいおい、じいさん。こんないいお召し物を着込んでいる奴が、おれたち貧乏人に施しもできねぇってワケはねぇだろ」
「そうだぞ~。その上着を質屋にでも入れて貧しき者に金を恵んでやろうと思わねぇかよ」
 ヘラヘラと笑みを浮かべているが、目を怒らせて酔漢たちがアッサジュ・パルダを取り囲んだ。こうなったら身ぐるみ剥がしてやろうというわけだ。
 様子を伺っていたワーネストが恩師の腕を引く。この状態になったら逃げるしかあるまい。なんとか相手を出し抜いて、この店からできるだけ離れなければ。
「よしなよ。お前たちの敵う相手じゃないよ」
 そのときになってようやくバーテンが口を開いた。氷色の瞳が冷ややかに二人の酔漢を見つめている。アッサジュ・パルダやワーネストに向けていた笑みを引っ込めた若者の瞳には凍りつきそうな軽蔑の色が浮かんでいた。
「あぁ~ん? ヴィーグ、雇われバーテンのクセして客に説教たれるんかよ」
「おめぇは黙ってろよぉ~」
 酔いにふらつきつつも不敵な笑みを浮かべる酔っ払いが床に唾を吐きかけた。その粗野な態度にますますバーテンの若者が冷たい視線を向ける。
「勝てやしないよ、お前たちは」
 ふてぶてしく酔漢たちを煽るバーテンの口調にワーネストは焦った。何も喧嘩をふっかけるようなことを言って、ますます自分たちを窮地に追い込むことはないだろうに。
「お~。それじゃやってもらおうじゃないか? えぇ? この老いぼれと優男におれたちをぶちのめす腕っ節があるってぇのかよ」
 酔漢たちが筋肉質の腕をかまえて上体をゆらゆらと揺らした。喧嘩慣れしているようだ。酔ってはいてもそう簡単にやられそうもない。
「お前たちの相手はこちらの二人じゃないさ。後ろを見なよ」
 顎をしゃくって店の入り口を示した若者の言葉につられて、酔漢の二人とそれに絡まれていた二人の客が同時に振り返った。
 その人影の周囲だけ、薄暗い店内にも関わらず異様な輝きに満ちているようだった。白い影のなかに一点だけ点った暗緑の輝きが凄惨な光を放つ。
 これまでの茶番を見ていたのだろう。不機嫌以上の怒りを滲ませたガイストの顔色に酔漢たちは口をあんぐりと開けたまま立ち尽くしていた。
「ご機嫌じゃないか。いったい俺の客になんの用だ?」
 低い、まるで獄界から聞こえてくるような暗い声に酔漢たちは縮み上がったようだ。口のなかでもごもごと声にならない言い訳をすると、こそこそと人混みのなかへと逃げ込んでいく。
「いらっしゃい、ガイスト」
 バーテンがサバサバとした口調で新たな客に呼びかけた。その声にようやく我に返ったワーネストは胸をなで下ろす。まったくヒヤヒヤするではないか。
 その原因を作った老人に視線を走らせたワーネストは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。アッサジュ・パルダはあっけらかんとした顔をしてガイストへと手を振っている。なんという気楽さだろう。
「あなたはずいぶんと強運の持ち主なのか、それともよほどの向こう見ずな性格らしいな。俺の到着が遅れていたら、鳩尾に数発喰らっていたかもしれないのに」
 のんびりとした様子の老教授にガイストが苦微笑を見せた。ワーネストと同じように呆れているのだろう。だが当のアッサジュ・パルダはまったく堪えた様子もなく、ニコニコと笑みを浮かべるばかりだ。
「でも君が登場してあっけなく幕切れだよ。元気かね、ガイスト?」
「ほんの数日前に逢った相手に聞くには陳腐な台詞だと思わないのかい、偉大な考古学者さん」
「おや。君に偉大だと認めてもられるとは嬉しいねぇ」
 太い指を優雅に蠢かせ、老教授は灰色がかった蒼紺の瞳を茶目っ気たっぷりに見開いてみせた。そのおどけた態度にガイストの笑みがますます深くなった。
「呆れるくらい楽天的な人だな」
「私の人生だ。私の思った通りに生きるさ。どうだね、君も一杯やっていかんか。急いで出航することもないだろう? 今のお礼に一杯おごらせてもらえるとありがたいんだがね」
 空席を指し示したアッサジュ・パルダに誘われ、ガイストがひょいとカウンターにもたれかかった。その様子を眺めていたワーネストは、彼の姿が薄暗い店内ではひどく絵になるような気がして感嘆の吐息をつく。
「ふ~ん。スプラッシュを呑んでいたのか。俺にも同じものをくれないか、ヴィーグ」
 暗緑の瞳をカウンター上に滑らせ、ガイストが注文を口にした。そのゆったりとした態度に老教授が人懐っこい笑みを浮かべる。たいそうご機嫌な様子だ。
「今日は教え子のお見送りかい?」
「そうとも。教え子の楽しい旅路を祝して!」
「宇宙嵐に遭遇して昇天する可能性ってのは考えてないらしいな」
「まさか! 君たちなら大丈夫さ」
 自信満々なアッサジュ・パルダの口調にガイストが喉を鳴らして笑った。その根拠のない自信はなんなのか、と。反対側の隣で聞いていたワーネストにしても、同じように苦笑を浮かべている。
「大丈夫だとも。君たちは放浪者の瞳を持っているからねぇ。ほら。君もワーネストも翡翠の翠よりも深い翠色の瞳をしているだろう? その瞳はね、昔から生粋の旅人の瞳だと言われているんだよ」
 どこか夢見るように話す老人の話の内容に、ワーネストは思わず恩師の肩越しにガイストを見た。相手もこちらへと視線を向けている。
 互いの顔のなかに暗い緑色を確認すると、その瞳に初めで出逢ったとでもいうように慌てて視線をそらした。
「君たちの前には常に新しい旅路が途を開けている。どんな困難があってもきっとそれらを切り抜けていけるさ。考古学で喰っている人間の間ではよく知られていることだ。この惑星の歴史のなかには常にその瞳を持った者が彷徨っているんだよ。……永遠の放浪者の瞳というんだ、君たちの瞳は」
 そういえばそんな話を昔に聞いたことがあったかもしれない、とワーネストは老教授の横顔を見ながら考えていた。いつもあちこちを彷徨っている自分には相応しいではないか。
「なるほど。一所に留まらない俺には相応しいな」
 アッサジュ・パルダの向こう側で低く呟いたガイストがふと遠くを見るように顎を持ち上げた。彼もまた、あてどもない旅路を行く彷徨い人なのだ。
「君たちは君たちそれぞれの旅路を往きなさい。今回はたまたまその途がちょっと交わっただけだ。だが二人の放浪者の往くところに旅の終焉などないだろう。きっとまた新たな旅路が待っている」
 まるで予言者のように二人の未来を示して見せる老教授にワーネストとガイストが同時に視線を走らせ、年老いた男の顔の向こうに旅人の瞳を持った者を認めてどちらともなく笑みを浮かべた。
「面白い旅になりそうだ」
 微かに笑いを含んだ声で囁いたガイストが、手元のカクテルを一気にあおった。乱暴な手つきであるにも関わらず、その動作は近寄りがたい威厳がある。まるで王のように堂々とした態度だ。
「行こうか、ワーネスト・トキア。出航だ」
 グラスをカウンターの上に戻すと、ガイストが新たな旅路への道連れに声をかける。気負いも何もない、飄々としたその声につられるようにワーネストが立ち上がった。
 その二人の男たちを見送るようにアッサジュ・パルダが椅子ごと振り返る。変わらない笑みを浮かべた老人の顔には、遙かな憧憬が広がっていた。
「汝、清すがしき旅路を送らんことを!」
 遠く昔から言い伝えられる旅立ちの言葉を贈ると、老教授は優雅な指の動きで彼らを送る。その自然な仕草には溢れんばかりの親しみが込められていた。
 店の戸口で振り返ったその教え子が、超然とした笑みを浮かべている恩師を振り返る。そっと手をあげて見送りへの謝意を示すと、あとは振り返ることなく扉から滑り出していった。
「お見送り、お疲れ様でした」
 アッサジュ・パルダの背後から年若いバーテンが声をかける。その若い声のなかにも自分と同じ遙かな憧憬が滲んでいることを認めると、考古学の権威と言われ続けている男は晴れやかに微笑みを返した。
「さぁ、ヴィーグ。残された者同士で語り明かそうじゃないか!」

終わり

〔 15146文字 〕 編集

タッシール紀 カサブランカ

No. 31 〔25年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE

 昔、俺の家の向かいの白い家に、貴族とは到底思えないじゃじゃ馬が住んでいたよ。
 顔は綺麗なほうだったが、性格は最悪だ。あれが俺の女に対する最初のトラウマだな。……あんな酷い女は他にいないと思ったもんだ。
 殴るわ、蹴るわ……。毎日ボコボコにされていたんだぞ。




 午前中の探検を終えて家の前に辿り着いた少年の前に、ほっそりとした影が差した。
「やいっ! へ~みん!」
(げっ! マリーア!)
 顔を見れば喧嘩をふっかけてくる五つ年上の少女だ。
 家柄は貴族だと言っていたが、名前ばかりで金がないのだろう。庶民の住宅が建ち並ぶ一角に屋敷を建てていたし、大して裕福そうにも見えない家だった。
「うるさいっ。なんの用だよ、キツネブタ!」
 あからさまにムッとした表情をした相手が剣呑な目つきで見下ろしてくる。
 そう。見下ろしてくる、と言うのが一番ピッタリだ。なんせこちらは来月ようやく六歳になるが、あちらはとっくに十一歳。
 眉間によせた皺しわがピクピクと痙攣けいれんしている。キツネブタと呼ばれて相当頭にきているらしい。
 少女の顔立ちは決して不細工な造りではない。やや細いつり眼で顎も尖り気味だが、ふっくらとした口唇や贅肉のついていない体格は少女らしい円まるさのあるものだった。まぁ、成熟した女性の円まるみとは明らかに違うが。
「このガキァ……」
 とても貴族とは思えない乱暴な口調で口元をつり上げた少女が小さな少年に向かって腕を伸ばした。
 深窓の令嬢には似つかわしくない日に焼けた肌が彼女の活発な性格を表しているように素早い動きだ。
 だが少年はそれ以上にすばしっこい。伸ばされた腕の下をかいくぐると一目散に家へ入ろうと駆け出していた。
「へんっ! 誰が捕まるか……よ?」
 捨て台詞を残した家に駆け込んでしまえば、自身の身は安全であったはずだが……。生憎と相手は素直に逃がしてはくれなかった。
「このクソガキ! いつもいつも生意気なのよ!」
 襟首を掴まれ引き倒されると馬乗りにのしかかられてボコボコに殴られる。
「ぎゃぁ~っっ!」
「参ったかっ、このチビ! 参ったなら、参ったと言え!」
 ポカポカと殴られながらも、降参するのが悔しいばかりに顔中傷だらけになってもついに謝りはしなかった。
「誰が参ったなんて言うもんかぁ~! ちくしょー! この男女ーっ!」
 子どもなりの最後の意地というものだろう。
 殴り疲れて自宅へと帰っていく少女の後ろ姿を、地面に転がったまま見送る少年の顔は土埃で真っ黒だ。
「うぅ……。ちくしょーっ! 覚えてやがれぇ~!」
 いつか仕返ししてやろう。ギッタギタに伸してやるのだ。
 そう思っている間に、少年は翌年には幼年学校へと編入して生まれ育った家から寮生活へと生活の場を移してしまった。




「あぁ、待っていたぞ。シュバルツァルト大尉。さっそくで悪いが、これから私の代理でアレン子爵の新築祝いパーティに行ってくれ」
 出勤早々に上司から呼び出され、何事かと出向いてみれば……。どこぞの貴族のボンボンが建てた新居の祝いに顔を出せと?
 しがない宮仕えの身分では断ることもできず、フリッツは不機嫌そうな表情で敬礼を返した。
「場所はアフトス地区β-1ブロックK-003番だ。……ご機嫌斜めだな、シュバルツァルト」
 上司が相手先の地図を書き記した紙をヒラヒラと振って意地の悪い笑みを浮かべた。
「いえ……別に」
「お前の貴族嫌いは相変わらずだな。まぁ、そうむくれないで旨い飯でも喰ってこい。どうせ向こうはお前が運んでいく祝い金が目当てなんだ。それに見合うだけのもの喰わせてもらってもバチは当たるまい?」
 退屈なデスクワークよりもマシだろう、と送り出す上司から仏頂面のまま祝儀の目録が入った封書を受け取ると、フリッツは公用の無音車サイレントカーに乗り込んだ。
 貴族は好きになれない。だが軍部が彼らの支持なくしては円滑に機能しないのも事実だ。勇猛で知られる軍とて動かしているのは人なのだから。
 不機嫌なまま乗り込んだ屋敷は豪勢で、真っ白な壁が眼に眩しい。
 案内された会場には貴族やその取り巻きの商人、軍関係者がウジャウジャと群れている。よくぞまぁ、真っ昼間から堂々とタダ酒を飲みにくるではないか。
 だが自分もその同類だと気づくとフリッツは自嘲的に口の端をつり上げて会場の片隅に避難した。もちろん、片手には好物のカクテル『ドッグノーズ』を忘れない。
 馴染めない雰囲気を外からぼんやりと眺め、外面ばかりにこだわる貴族たちの成金趣味な衣装を検分していくと、ふと鮮やかな深紅の布地の上に真っ白なオーガンジーの袖をあしらったドレスに身を包んだ女性と眼があった。
(……ん?)
 どこかで見覚えのある顔だ。どこで会ったのか?
 しっかりとした足取りでこちらに近づいてくる女の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
 不躾なほどに相手の顔を凝視していたフリッツは、相手が自分の目尻を指でつり上げてみせる動作に硬直した。
「マ……マ、マリーア・カサブランカ!」
 実家の向かい側に建つ白い洋館の住人。かつての自分の天敵が目の前に不敵な笑みを浮かべて立っている。
「久しぶりねぇ、フリッツ・ヴィスタス」
「マ、マリーア! なんであんたがここにいる!?」
 思わず後ずさる彼を追いつめるようにマリーアが婉然えんぜんと微笑んだ。子どもの頃にはなかった色気があるが、その顔の下にある強気な気性は相変わらずのようだ。
「あぁら、今日はうちの新築祝いだもの! 女主人がここにいるのは当たり前でしょ。ほほほっ」
「何ぃ!?」
 相手の高笑いに怯んでさらに後ずさるフリッツの側にマリーアがにじり寄ってきた。端から見れば恋の駆け引きでもしているように見えるのだろうが、子どもの頃の記憶を引きずるフリッツには蛇に睨まれた蛙のようなものだ。
「まさか、ア……アレン子爵夫人……?」
「おほほほっっ! そうですとも。おつむの悪いあんたもようやく飲み込めたようね」
 勝ち誇ったように笑う女の身体からは甘い柑橘系の香りが匂い立ってくる。
 子どもの頃もマリーアは決してお洒落をしないわけではなかったが、長い年月がやはり磨きをかけているのだろう。上質な絹で出来ているらしいドレスは彼女の黒絹の髪をいっそう引き立たせていた。
「まぁ、でもあんたが知らなくても仕方ないわね。わたしが結婚したのは十年前くらいになるけど、確かその当時ってあんた士官学校に入ったばかりで実家に顔を見せてないでしょ」
 壁に貼りつくフリッツに更ににじり寄るとマリーアがさも愉しそうに口元をつり上げた。
「それにしてもあのチビのフリッツ・ヴィスタスが随分と大きくなったものだわね。見違えたわよ」
 女の顔は見つけた獲物をどうやって料理してやろうかと思案している猟師のようだ。
「マリーア!」
 その女の向こう側から苛立った声がかかる。
「何をそんなところで油を売っている!」
 つかつかと歩み寄ってくる男の表情は怒りにどす黒く染まっていた。歪んだ怒りが体中から発散されている。
「私に恥をかかせるつもりか!?」
「あら、ステファン。すぐにそちらに参りますわよ」
 余裕の笑みを浮かべた女が振り返り、その視線の呪縛から逃れるとフリッツは大きく吐息を吐いた。
「フンッ! その男をお前のツバメにでもするつもりか?」
 さも軽蔑した視線をマリーアと自分に向ける男の態度にフリッツはあからさまに不快感を示す。
「なんだ、その生意気な眼は。軍人のくせに!」
 驕り高ぶった相手の態度にフリッツのこめかみに青筋が立つ。眉間の皺しわがいっそう深くなった。
「我々に飼われているくせに、人妻に手を出そうとするとは、なんて奴だ」
 上司の代理できていることも忘れて身体が動いたのは、その相手の一言を聞いた後だった。我慢ならない。
「フリッツ・ヴィスタス!」
 女の制止を振り切って、ふんぞり返っていた目の前の男めがけて突進する。
 相手が避ける間も与えずに、握りしめていた拳を相手の顎へと叩き込み、床に転がったところを蹴り上げようとした。
「止めなさい! フリッツ!」
 さらに大きな女の声にフリッツはようやく我に返って動きを止めた。恐る恐る殴りつけた相手を見下ろす。
 足下で転がっている男は殴られた拍子に口の中を切ったのか、口の端から血を滲ませていた。もはや後の祭りである。フリッツが公衆の面前で貴族を殴りつけた事実は消えない。
「フリッツ・ヴィスタス!」
 厳しい女の声に思わずフリッツは振り返った。いつの間にか目の前にマリーアが立っている。目をつり上げ、突き上げるように自分を見上げてくるマリーアの顔には先ほどの笑みは欠片も見えない。
 口唇を噛みしめる女からは憤怒の感情しか読みとれなかった。
 派手な音をたててフリッツの頬が鳴ったのは、彼が女と向かい合った次の瞬間のことだった。
 遠巻きに眺めていた招待客たちの間からどよめきの声があがる。
「マリ……」
 平手で打ち据えられた理由も判らずフリッツが抗議の声をあげかけると、マリーアはいっそう鋭い視線で彼を睨みつけてきた。
「よくもわたしの夫を殴ったわね。……許さなくてよ」
 フリッツの言い訳になど耳を貸す気は毛頭ないらしい。怒りに燃える女はそれでも女主人としての自覚があるのか、フリッツを無視して周りの取り巻きを見渡した。
「どなたか! この方を別室へお連れ願えませんかしら?」
 冷ややかな態度で軍関係者がたむろする方角へ声をかけたマリーアに応えるように、群衆の中から一人の軍人が進み出る。
「アレン夫人。小官がその役目、お引き受けしましょう」
 軍人にしては柔和な物腰と知的な瞳をした男だ。どちらかといえば、貴族的な風貌だろう。長く伸ばした黒髪や薄い灰色をした瞳、長身で細い体格は軍服よりも貴族たちの身にまとう衣装のほうが似合いそうだった。
「お願いしますわ、メルリッツ大尉」
 アレン夫人に恭しく腰を折って敬意を表すると、メルリッツと呼ばれた軍人がフリッツの腕を引いた。
「行こう。……さっさと退散したほうが身のためだぞ、シュバルツァルト大尉」
「どうして俺の名前を……」
 驚いて相手を見返すが、メルリッツは不可思議な笑みを小さく口元に浮かべるばかりでそれ以上取り合おうとはしない。
 そんな二人を後目しりめにアレン夫人は床に座り込んでいる夫の側に寄るとかいがいしく助け起こしていた。
 忌々しそうに舌打ちするアレン子爵が歪んだ表情のままフリッツを見上げる。
 メルリッツに引っ張られ、その二人に背を向けたフリッツに小さな声が届いた。
「……クズが」
 アレン子爵のものだ。再び湧き起こった怒りにフリッツが振り返る。その剣呑な光を湛えた琥珀色の瞳に子爵が思わずたじろいだ様子で後ずさった。
「行こう、シュバルツァルト」
 再びメルリッツに急かされてフリッツは今度こそパーティ会場を後にした。貴族を殴りつけてしまったのだ。その場に留まっていることなどできはしないだろう。




「無茶をする男だな、君は。まぁ、それが取り柄なのだろうが。……そうそう、彼女。アレン子爵夫人に礼を言っておきたまえ」
 フリッツを連れて屋敷の廊下を歩みながらメルリッツは小さくため息を吐いた。どうしようもない奴だとでも思っているのだろうか?
「なんで礼なんか言う必要がある? 平手打ちを喰らって礼を言うなんておかしいじゃないか!」
 不愉快そうに口元を曲げたフリッツの態度に今度は大仰にため息を吐くとメルリッツは立ち止まった。
「まだわからないのかね? まったく……もう」
 困った奴だと苦笑いを浮かべるメルリッツの態度にフリッツはますます不快そうに口元を曲げる。
「まぁ、ちょっと考えてみたまえ。彼女があそこで卿の横っ面を叩かなかったとしよう……。その後、君はどうなっていたと思うね?」
 同年代らしいメルリッツがいかにも生徒に語りかける教師のような態度を取るのでフリッツは面白くない。しかし問われたことには答えようとじっと考え込む。
「あ……」
 貴族とやり合った将校たちの処分は大抵は謹慎処分や降格処分などだ。その取り調べをする場所は……。
「憲兵たちと留置場ブタバコ行き?」
「まぁ、そんな所だ。……そんな散文的な言い方じゃなくて、もう少し言い方があると思うがねぇ」
 肩をすくめるメルリッツが急かすように再び歩き始めた。
「おい……。玄関はあちらだぞ。どこへ行くつもりだよ」
 てっきりこの屋敷から退散するものだと思っていたフリッツは玄関ホールとは別の方角へと向かうメルリッツに戸惑って声をかけた。
「こちらでいいんだよ。さっさとついてきたまえ」
 もうここまで来たら破れかぶれだ。憲兵に連行されるのが早いか遅いかの違いだろう。降格処分か……あるいは左遷か。どっちにしろ明るい未来は待っていない。
「……で。彼女に礼を言う理由だがね」
 一つの扉の前で立ち止まったメルリッツがドアノブに手を掛けて振り返った。
「あの場で君を叩いたことで周りの人間は気勢を削がれ、憲兵を呼びにやることも忘れてしまったわけだが。それ以外にも、あの平手打ちで夫の面子めんつも守ったわけだよ」
 言っていることが判るか? と首を傾げるメルリッツの態度がますます教師じみて見え、フリッツは不機嫌そうな表情になった。
「俺を公衆の面前で叩くことがどうして夫の面子めんつを守ったこ……あ!」
 ふてくされていたフリッツにもようやくマリーアの行為が及ぼした効果を理解したようだ。
 本来なら自分よりも身分の高い貴族を殴りつけたのだ。すぐさまその場で憲兵に引き渡されていただろう。それが未だに自由の身でいられる理由がもう一つある。
 たとえ貴族とはいえ、女のマリーアが大の男を打ち据えたのだ。普通なら公衆の面前で殴られた男のほうは屈辱で怒り狂っているはずだ。
 彼女の幼なじみで相手の気性をよく知っているフリッツならばこそ、打たれても大騒ぎしなかっただけの話で、本当ならもっとややこしいことになっていた。
 彼女は怒ったフリをして、二人の男の面目を保ったわけだ。
 メルリッツはフリッツの様子を確認すると、真新しい扉を押し開いてフリッツを室内へと誘いざなった。
 入った部屋は趣味の良い応接間のような場所だった。
 たぶん出入りの商人などとの商談に使われるものなのだろう。玄関ホールからそれほど離れていないし、屋敷の奥部からはまだまだ遠い位置にあるようだ。
「大した女傑だと思うがね。たったあれだけのことであの場を納めてしまったのだから」
「あぁ……確かにそうだ」
 かつてのマリーアは自分の感情に任せて相手を振り回すだけの少女だった。それがいつの間にか計算高い女になっている。
 落ち着かない様子で窓際に佇んでいるフリッツとは対照的にメルリッツは優雅に足を組んで応接セットのソファに腰を降ろしていた。
 これからどんな目ににあうのか判らないフリッツには、彼の悠々とした態度は忌々しいばかりだろう。
 サラサラと柔らかな衣擦れの音が廊下の方角から聞こえてきた。
 扉を振り返り、無意識のうちに身構えていたフリッツの視界に深紅の色彩が踊る。屋敷の女主人の登場だ。
「ありがとう、メルリッツ大尉。助かりましたわ」
 いつの間にかソファから立ち上がっていたメルリッツが優雅に腰をかがめる。
 そつなくなんでもこなしそうな、この器用な男にフリッツは不機嫌な視線を向けたが、自分に近づいてくるマリーアに気づいて彼女へと向き直った。
「どうやら少しは落ち着いたみたいね」
 目の前に立った彼女はよく見れば自分の肩ほどの身長しかない。昔見上げるようにして睨み合っていたときにはなんという大女かと思ったものだったが……。
「マリーア……」
「短気なところはチビの頃と変わらないわね。本部へ帰ったら、上司から大目玉でしょうに」
 サバサバとした態度は昔と変わっていない。しかし強したたかに振る舞う彼女の行動はやはり年齢を重ねた重みがあった。
「あんたは随分と変わったよ、マリーア」
 ムスッとした表情で受け答えるフリッツにマリーアが目を瞬しばたたかせる。そして心外だと言わんばかりに目を見開いた。
「変わった? どこが?」
 あまりにもあっけらかんとしている彼女にフリッツは脱力しかかる。まるで自分の変わり身には頓着していないようだ。
「ねぇ、フリッツ。私の平手打ち、まだ痛いでしょ?」
 ニッコリと悪戯っぽく微笑むマリーアの瞳には悪意や雑念がまったくなかった。
 その二人のやり取りを見守っていたメルリッツが小さな笑い声をあげる。そのメルリッツとフリッツの視線が絡み合った。戸惑った表情のフリッツにメルリッツはさらに笑い続ける。
「それとも……もう全然痛くないの?」
 首を傾げ、二人の男たちを見比べていたマリーアがジロリと長身のフリッツを見上げた。
 その女の態度にフリッツはようやく笑みを漏らす。そうだ。昔の彼女の平手打ちはたいそう痛かった。今でもその勢いは衰えてはいない。
「あぁ……。あぁ、まだズキズキするよ」
 それ見たことかと胸をそらすマリーアの態度に男たちは再び笑い声をあげた。
 いじけたり怒っているのもバカらしくなってくる。彼女の根っこは変わってはいない。マリーア・カサブランカはそれ以外の何者でもないのだ。
「さぁ、その頬の腫れが引くように冷やしタオルを持ってこさせるから、頃合いを見て、堂々と正面から帰りなさいよ。……いいわね?」
 当然だという口調で命令するとマリーアが扉へと歩きかかった。その歩調がふと止まる。
「メルリッツ大尉。申し訳ないけど、もう少しだけこの不肖の弟分につき合って頂けるかしら?」
 再び恭しく腰をかがめて了承の意を伝えるメルリッツに頷き返し、マリーアがフリッツを振り返った。
「ステファンとのことはお互いに痛み分けよ。判っているでしょうね、フリッツ。……ホントに男って世話が焼けるんだから!」
 ブツブツと不平をこぼしながら部屋から出ていく彼女を見送り、フリッツは苦笑いを浮かべた。ふと叩かれた頬を撫でてみる。小さな痛みはあるが、それは不愉快なものではなくなっていた。




 え……? それは初恋だったのかって?
 ……いや。ちょっと違うぞ、それは。あれは初恋じゃない、と思う。
 たぶん久しぶりにあった姉が、やっぱり昔と変わってなかった……と確認したような。……そう、そんな感じだ。今でもマリーアは苦手なんだから。
 あぁ、判った判った。今度会わせてやるから。
 しかし……未だに『白き聖母マリーア・カサブランカ』と聞くとゾッとするんだよ。あれは悪魔の呪文だ。
 俺が女が苦手なのは、絶対にあのマリーアのせいだと思うぞ。
 何を拗ねてるんだ。俺が言いたかったのはだな……。
 あぁ、めんどくさい。だからこんなことを聞かせるつもりはなかったんだ。まったく、これだから女ってやつは……。
 判った。判ったから機嫌を治せって。悪かった。別にお前を嫌いだなんて言ってないだろう。俺の昔の話を聞きたがったのはお前の方じゃないか。
 ……頼むよ。機嫌治してくれよ。
(あぁ、だから女はよく判らなくて苦手なんだよ。どうしてプロポーズなんかしたのか、未だに大いなる謎だ!)

終わり

〔 7963文字 〕 編集

タッシール紀

No. 30 〔25年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
キャプテンガイスト [02]

 スペースシップ内部のドックはひどく閑散としていた。
「少しはこちらの身にもなって欲しいですよ。もう少し味方を集めてから乗り込んだほうが有利でしょうに……」
 刺々しい口調で不満を漏らす者はまるで影のようないでたちをしている。腰まで伸ばした長い黒髪に冷たい星空のような瞳、そして真っ黒なタートルネックのスペースノーツ用のスーツ。
 平均以上の身長の割に身体はひょろりとして見える。黄色人種系特有の顔立ちであったが、決して童顔というわけではない。たぶん幾つもの民族の血が流れているのだろう。
 その黒い男に対峙しているのはまだ十代であろう娘一人だった。
 苦笑いを浮かべて相手を見上げる瞳は蒼と紅のオッドアイ。褐色の肌に光り輝くブロンドの髪は見る者の瞳を焼くほどの眩さを放っている。
「時間がないのよ、時間が! それくらい判るでしょ、ケルタリオン」
 歳不相応な大人びた表情の娘が、相手を諭すように答えた。目の前の相手はどう見ても三十歳前後であろうに。
「しかしですね、サリアルナ……」
「いい加減におしよ、リオン! サリアルナが時間がないって言っているじゃないか。あたしたちにできることをやるしかないんだよ」
 二人の会話に割り込んできた声は苛立ちを含んだものだ。
 ドックの出入り口を振り返ると、一人の女が立っているのが見えた。しかし……その容姿は……。
 ケルタリオンの目の前に立つ娘とほとんど同じ姿形をしているではないか。
 激しい輝きを放つ金髪に褐色の肌、大人びた表情に仕草……唯一違うのは、片方は蒼と紅のオッドアイなのに対して、片割れは夜明け前の空の色に似た紫紺の両瞳を持っている。
「まったく男のくせにグダグダと……。その肝っ玉の小さなところをなんとかおしよ! みっともないったらありゃしない」
「アルタミラン……。お前こそ、そのはすっぱなしゃべり方をなんとかしろ! それじゃあサリアルナの影になっている意味がない」
 不機嫌な顔をさらに不機嫌そうに歪めて、ケルタリオンと呼ばれた青年がうなった。
「ハンッ! 男も女も見境なくがっついてる奴がよく言うよ! あたしは口が悪いだけで済むけど、あんたの手癖の悪さは頂けないね“アスモデウス”」
「それは仕事だ!」
「どうだか。プルトンの裏通りで男のケツをなで回すような奴の言うことを信用できるもんかぃ」
「お前どこからそれを……」
「フンッ! やっぱり身に憶えがあるんじゃないか」
 鼻を鳴らしながら二人に近づいてきたアルタミランと呼ばれた女は冷めた視線を男に向けたあと、娘に恭しく腰をかがめて微笑んだ。
 まったく対極にあるその態度にサリアルナが苦笑する。
「相変わらずね、あなたたちは。ところで見送りにきてくれるとは思っても見なかったわよ“ベルゼブブ”」
「おや、失礼ね。あたしが見送りにきちゃいけないのかい? まぁ、純然たる見送りじゃないから、文句も言えた義理じゃないか。……ほら、これを“アスタロト”から預かってきたのよ。“女王クィーン”のタワーに入る前に見ておいてちょうだい」
 聞き比べれば違いが判るが、別々に聞いたら女たちの声は同じものに聞こえたことだろう。それくらいに二人はよく似ていた。
「“アスタロト”だと? あいつがいったい何を寄越したんだ」
 黒目がちな鋭い視線をアルタミランへと注いだケルタリオンは、目の前にある預かりものだという包みに手を伸ばそうとした。
 その手をアルタミランがはたき落とす。
「気安く触るんじゃないわよ。これはあたしが個人的に預かってきたものなんだから。ガイストから直接サリアルナに手渡すよう言づかってんだよ!」
「怪しげなものを直接サリアルナに渡すほうがどうかしているだろうが! それともお前が検分したのか、アルタミラン!」
「必要ないね。ガイストはサリアルナに心酔してる。彼が直接渡せと言ったからには、それなりの必然性があるんじゃないのかい? あいつはそういう男だよ」
「大元が連邦の保安官だったような奴だ。私たちとは一線を画すべきだろう!」
 堂々巡りを繰り返しそうな二人の言い争いをため息混じりに見守っていたサリアルナが、ふと表情を引き締めた。薄く細められた両目に鋭さが増す。
「……来たわ。二人とも下がってちょうだい」
 娘の低い声にハッと我に返った二人が辺りを見渡した。なんの変化も感じられないのだが……。
「向こうにあなたたちの姿を見られたくないわ。下がって! 見送りはここまでけっこう!」
 サリアルナの声に残りの二人が慌てた様子で物陰へと飛び込んでいった。ガランとしたドック内にサリアルナ一人の影が佇む。
 小型艇ばかりで、大型船が一つも並んでいない構内はまったく寂しい限りだった。こんな廃れた宇宙艇のドックにいったい誰が来るというのか。
 無の空間であるはずの場所から、一瞬煌めきが放たれる。それを確認しようと目を凝らすと、今度は渦巻く光の輪が出現した。
「供も連れずにきたのか、ゴゥトの娘」
 光輪のなかに人影が見える。若い男のようだった。血色の髪が淡い光のなかでもクッキリと浮かび上がっている。
「朱あかの近衛殿ですわね? まさか“女王クィーン”の側近であるあなたが直々にここに姿を現すとは……」
「誰もお前を迎えに来たがらなかっただけの話だ。……どうする? 本当に来るのなら、陛下の周りの人間はお前を目の敵にするだろう」
 抑揚の少ない声には人間味のある感情はまったく読みとれず、淡々と話をする男の態度には好意も敵意もなかった。
「行きますわ。私の血にはゴゥトと同じだけカーヴァンクルの血も混じっているんですからね。陛下の治めるニケイヤの門扉をくぐるまでは帰る気はありません」
「良かろう。ならば陛下の元まで先導しよう。……座標はβ*-00。10分だけ待つ。それ以後はこの座標も消滅させるぞ。我々についてこれない者を陛下の領域に入れるわけにはいかんからな」
「了解!」
 娘の応答を確認すると光の輪と朱い人影は一緒に消え失せた。
「サリアルナ……!」
 背後の闇からの声に一瞬だけ振り返った娘が、小さく口元に笑みを浮かべる。しかしすぐに走り出すと、そのまま目の前に鎮座している小型艇へとよじ登っていった。
 上部のハッチを開け、船内に滑り込もうとしたその瞬間、船体の下で見送る二つの影に小さく手を挙げて別れの挨拶をする。
 それがお互いの間でもっとも相応しい別れ方だとでも言うように。
「“乙女ドウター”! 出航するわよ! エンジン出力最大! 座標位置はβ*-00!」
 彼女の声に反応して小型艇が振動を始めた。どうやら人工知能を組み込まれた船のようだ。程度の差はあれど、多くの船体に組み込まれ始めた技術はこの小型艇でも充分に機能しているらしい。
 滑らかな動きで小型艇“ドウター”は上昇を開始した。そしてドックの天井いっぱいまでその高度をあげると不意に消失し、地上からその様子を伺っていた二人の視界から完全に見えなくなってしまった。
「時空間移動に移ったな。この短時間で船体のエネルギーを最大にできるとは……相変わらずサリアルナの腕は大したものだ」
「当然さね。それでこそあたしたちの主だろう。……さて。“神ゴッド”と“女王クィーン”の戦いにどうケリがつくのか見物だねぇ」
「見物だと!? 何を悠長なことを! 勝ち馬に乗らなきゃ損だろうが。サリアルナが“女王クィーン”の元へ行ってしまった以上は、“神ゴッド”側への工作は私たちだけでやらなきゃならないんだぞ!」
「まったく、ぎゃあぎゃあとうるさいねぇ。“女王クィーン”側の工作を一人で受け持とうってサリアルナに比べたら可愛いモンじゃないかい。……さぁ、行くよ! サリアルナがいないときを想定して、あたしは自分自身をこの姿に作り替えたんだからね。あんたもちったぁ協力しな!」
 胸をそびやかしドックを後にするアルタミランの後に続きながら、ケルタリオンはいつも通りの不機嫌そうな顔を引き締めていた。


 コンソールパネルで正確な座標を確認すると、サリアルナはホッと安堵の息を漏らした。相手が指定した時間内には充分に間に合う計算式が弾き出されたのだ。
「第一関門はクリアってところね。……そうそう。忘れるところだったわ。ガイスト、いったい何を寄越したのかしら?」
 先ほどアルタミランから手渡された包みを素早く剥ぎ取ると、なかの箱の蓋を開けてみる。
「……ピアス?」
 真綿にくるまれるように納められていたものは、虹色の淡い輝きを放つオパールのアクセサリーであった。
「どういうことかしら? ガイストがわたしにピアスをくれるなんて? しかも天然石じゃないわね、これ。人工オパールを寄越すなんて全然らしくないわ」
 サリアルナはしげしげと見つめていたが、思いきって手にとってみた。
 直径が八ミリ近くあるオパールの粒はウォーターオパールと呼ばれるタイプのもので、半透明の石のなかではありとあらゆる光が閉じこめられているように、光の粒子が踊っている。
 じっと見つめているサリアルナの手のなかで、そのオパールが一瞬だけ赤光を放った。
「……!?」
『サリアルナ……? 出発したんですね?』
 微かな囁き声にサリアルナは目を見張った。宝石が喋っているではないか!
「その声……ガイスト? いったいどうやって?」
『昨日お見せしたパラライトの筒と同じ原理です。人体の表皮温度とあなたの声の波長によって通信スイッチが入るように……』
「そんなこと聞いてないわ! いったいどうやって通信させているの!?」
 サリアルナの動揺した声にオパール石の向こう側から小さな笑い声が漏れ聞こえた。ガイストが笑っているのだ。
「ガイスト!」
『すみません。でもオレが昔何をやっていたのか、ご存知でしょう?』
「保安官時代のこと? ……あ。囮専門の捜査をしていたわね、確か」
 眉間に皺を寄せてじっと考え込んでいた娘が納得したようにため息を吐いた。どうやら思い当たる節があったらしい。
「あなたタッシールの衛星軌道上にあるスティルスシーカーにハッキングしたわね!? そんなこと“女王クィーン”に知れたら、タダじゃ済まないわよ!?」
『承知しています。でも“ノイエス”にいるあなたと連絡を取るには、この方法しか思いつきませんでした。他の通信方法では邪魔が入る……』
「だからってこんな無茶なことしないで!」
 悲鳴混じりのサリアルナの声に再びガイストが小さな笑い声を漏らした。
『今回ばかりは聞きませんよ。母親と親友に裏切られて、ボロボロになって死にかけていたところを助けてもらった恩……これで返せるとは思いませんが、孤立無援の場所にあなたを独りにしておくことはできないでしょう?』
「……バカね。わたし、そんなに頼りないかしら? 皆ちっとも信用してくれないわ」
 乱れた髪を掻き上げながらサリアルナは苦笑した。いつもは強気に光る瞳が、ふと一瞬だけ翳る。
『信用していますとも。でも相手は“女王クィーン”です。“神ゴッド”の娘でありながら、反旗を翻した者がいったいどういった振る舞いをするか……。それを心配しているんですよ』
 宝石から漏れ聞こえる囁き声にサリアルナがそっと瞼を閉じて口元を歪めた。
「わたしも無事では済まない、と? それでも行かなければならないわ。わたしの下についている者たちのためにも……兄さんのためにも……。皆を守るために権力ちからがいるわ。それを手に入れるまでは……」
 言葉の最後は空気に溶け、ガイストには届かなかっただろう。だがすべてを察しているのか、通信機の向こう側から再び囁き声が漏れてきた。
『それも承知しています。だから手伝わせてください。オレではあなたの兄代わりには不足でしょうけど……』
「……ありがとう」
 ふとメインパネルに映し出されている暗闇の空間に銀色に輝く惑星を見上げ、サリアルナは小さく微笑みを浮かべた。
 あの惑星ほしの上にこそ自分の帰るべき場所がある。いつか、必ず帰って行くのだ。
 電子音がコントロールルームの空間を満たしたのは、彼女が僅かばかりの感傷に浸っているときだった。
「……! 目的の空間に入るわ。ガイスト! 通信を切るわ」
 彼女の顔が今し方の穏やかな表情から険しい顔つきへと変貌した。
『了解。“ノイエス”に入ったら、自室が与えられるはずです。そこのルーチンコンピュータにこの通信機をチップとして埋め込んでください。“ノイエス”の周波数を分析してその水面下で通信ができるようになりますから……』
「まったく……。さすがは一流の闇バイヤーだわ。そのハッカーの腕、保安官として使われなくて良かったわよ」
 呆れてため息をついたサリアルナを残して通信は切られた。
 その一瞬の静寂を無視して、新たな通信音が彼女の耳朶を打つ。
『ようこそ、ゴゥトの娘。これより我らの王が治める領域に入る。ここから先は我々の指示に従え。でなければ、この領域を航行することは不可能だ』
「了解。指示をどうぞ」
 無機質な声に応じるとサリアルナはいっそう表情を引き締めた。
 未知の空間へと足を踏み入れていくにも関わらず、この顔つきは好奇心と野心に輝いて見えた。


「キャプテン! 出航準備オーケーです!」
 背後からの呼び声に振り返れば、古株の船員クルーが緊張した表情で立っていた。
「了解。積み荷は大人しくしているか?」
「はい。筋弛緩剤を調節して打ってありますからね。……目的地まで自由に動くこともできないでしょう」
「判った。だが見張りは怠るなよ」
 部下が頷いて出ていったあと、彼は大儀そうに椅子から立ち上がった。ふと机の上に転がっていたカードを手に取ると、そっとその表面を撫でる。
「サリアルナ……」
 低い呟きを聞く者は誰もいない。それでもその声を聴かれることを恐れるように、ガイストは口をつぐんだ。
 荒々しい通信音が部屋に響いたのは、その一瞬の沈黙の後だった。
 慌ててカードを胸ポケットにねじ込むと、パネルを操作して通信を繋ぐ。
「Yes?」
『ガイストか? 私だ……』
「アスモデウス……。何の用だ? オレはこれから“ガイア”に向けて出航するところなんだけどな」
 卓上の通信ボードに浮かんだ人影にガイストは薄く笑みを浮かべて見せた。そろそろ何か言ってくる頃だとは思っていたが……。
 珍しく苛立っている様子の相手に、日頃の溜飲を下げた感がする。
『サリアルナに渡したものはいったい何だ! 私の目を盗んで何を企んでいる、貴様!?』
「別に何も企んじゃいないさ。心配ならサリアルナにでも訊いてみな。それよりも早く出航させてもらえないかな? “神ゴッド”からの依頼の品物を早いところ届けないといけないんだ」
 あえて答えをはぐらかし、相手の苛立ちをいっそう煽ってみる。多少の意地悪くらいは許されるだろう。
『“神ゴッド”だと!? いったい何を持っていくつもりだ!』
 苛立った相手の声に再び笑みが漏れた。だがそうそう相手をはぐらかすこともできまい。相手は充分に自分に不信感を持っている。これ以上はお互いの益にならないだろう。
「実験体だ。いつもの“神ゴッド”の気まぐれだろ?」
『実験体……? そんなものここ最近仕入れてないはずじゃ……』
 思い巡らせている相手の様子に、ガイストは冷たい微笑みを向けた。冷酷この上ない表情には、サリアルナと対していたときの穏やかさは抜け落ちている。
「いたさ。“プルトンサイドウェイ”で一人仕入れたじゃないか。お前が玩具にしていただろう?」
『ゴロツキどもに追われていた女か?』
 通信ボードの人影が片眉をつり上げた。その眉の下の黒い眼まなこが忌々しそうにこちらを睨んでいる。
「そうだ。その女だ。まさか……気に入っていたなんて言わないよなぁ、ケルタリオン?」
『……ふん。行きづりの女じゃないか』
「それを聞いて安心したよ」
 冷たい言葉の応酬にふとガイストが視線を在らぬ方角へと向けた。暗緑の瞳が鋭く時計の文字上を滑っていく。
「時間が迫ってきた。悪いがここまでだ。“ベルゼブブ”によろしく伝えてくれ」
『なんで私がアルタミランへの言づてを頼まれなければならないんだ! お前が自分で伝えてこい!』
 未だに相手は苛立ちが収まっていないようだ。いつもは冷酷な横顔しか見せないというのに、今回のことでは随分と脆い一面を見せたものだ。
「ケチ臭い奴だな。昔のパトロンのよしみじゃないか。それにアルタミランとは従姉妹なんだろう。
 ……まぁ、いいさ。航行中にでも連絡をとってみるから。掴まえるのは骨が折れるだろうけど」
 あからさまにムッとした表情になった相手にチラリと視線を走らせるが、出航時間が気になるのか、ガイストはそれ以上の言葉の応酬を避けるようにすぐに視線を外した。
「じゃ、オレは行くからな」
 慌ただしく上着を羽織り、幾つかの通信機器とIDカードを机の上から掴み上げる。いつも通りの慣れた仕草だ。
『……私たちを裏切ったら、殺してやるぞ。判っているんだろうな“アスタロト”』
 背を向けかけていたガイストは、その絶対零度の声に肩越しに振り返った。
 だが相手の声に答えを返すことはなく、小さく鼻で笑うと何事もなかったように部屋を後にしたのだった。


 彼女はいつか必ず自分を光のもとへと帰してやると言った。
 だがそんなことは不可能だろう。
 すでに自分の両手は真っ赤な血に染まってしまっている。今更どうやって過去の栄光の日々へと帰っていけというのか。
 どだい一度闇へと堕ちた自分には無理なことなのだ。
 実母と親友に裏切られたあのとき……。妹を助けてやれなかったあのとき……。自分の心は光のもとでは死んでしまったのだ。
 再び息を吹き返したというのなら、それは闇に染まることを覚悟して目を覚ましたからなのだ。
 もう戻れない。妹は輝かしい栄光に包まれて立つ自分の姿だけを信じていたはずだ。彼女はこんな自分を望みはしなかっただろうが……。
 そのたった一人の妹を……母は見捨て、親友は汚していった。
 自分たち兄妹を見捨てていくのなら、そのまま捨て置いてくれれば良かったのだ。何も妹をめちゃめちゃにしていくことなどなかった。
 自分たちだけで生きていく算段くらいつけていけたのだ。
 それなのに……。
 物思いから覚め、船橋ブリッジを見渡すと、船員クルーたちはそれぞれ配置につき終わっているのが確認できた。
 そっとため息を漏らした後、ガイストは暗緑の瞳をメインスクリーンへと向けた。赤外線で照らし出された港内には、大小取り混ぜたスターシップたちが所狭しと並んでいる様子が見える。
 いくつかの船はこちらの船と同じように間もなく出航するのだろう。こちらも管制塔から許可が下り次第出航できるようになっている。
「遅いな、タワーの連中は……」
「つい今し方、外周航路にいた輸送タンカーとどこかのイカれた個人艇が衝突したとかで、その撤去作業の間は出航するなと連絡が入ったらしいですよ。すぐに終わるでしょうけど……」
「どこのバカだ、タンカーに突っ込んでいくなんて」
「さぁ? どうせろくなもんじゃないでしょ」
 通信官との会話にガイストは口元を歪ませた。
 ろくなもんじゃない、と言っている自分たちはいったいどれほどの者だと言うのだろうか?
 両手を血に染めて生きている自分たちの末路など、タンカーに突っ込んでいくよりも酔狂なものだろうに……。
 闇のなかに降り立って復讐を誓った日から、いったい何年経っただろうか?
 自分を蹴落として出世していった親友の心臓に憎悪の刃を突き立てからは……?
 実母とその情夫がベッドでよがっているところにマシンガンをぶち込んでやってからは……?
 どれもこれも昨日のことのように覚えている。もちろん、冷えたコンクリートの上で冷たい骸となっていた妹の死に顔も……。
 自身の死の恐怖と妹の死による狂乱から、この髪は色が抜け落ちてしまった。
 自分の髪でもないのに、妹はいつも兄の漆黒の髪を自慢していたというのに、まるで妹の死の道行きへの供をしたかのようだ。
「そうだ。外宇宙に出たらJumpの前に“ベルゼブブ”の旗艦を探してみてくれ。見つかる確立は低いと思うが……」
「了解」
 淡々と答えを返してくる部下たちの様子には、自分が今抱いていた一瞬の感傷など伺うことはできない。
 自分自身でさえ、ヴェールの奥に感情を押し殺しているのだ。彼らだとて他人に見せない闇をその身体のなかに抱えているだろう。
 すべての復讐が終わり、血みどろになっている自分の姿を許した者は、サリアルナだけだった。
 復讐のために講じたあらゆる手段を、彼女だけが黙って受け止め、飲み込んでくれたのだ。同じように闇に墜ちた者たちでも、自分を許しはしなかったというのに……。
 死んでしまおうとさえ思っていた自分の手を取った少女の温かい掌を今でも感じることができる。
 同情の笑みも侮蔑の視線もなしに自分を見つめるオッドアイに助けられなければ、自分はいったい今頃どうなっていただろうか?
『We made have waited.』
「お、来た来た!」
 管制塔からの通信音声に船員クルーの間から安堵の声があがった。
 いつまでもジリジリと待たされるのは嬉しいものではない。出港時の緊張はベテランでも新米でも変わりはないのだ。
『All green!』
「O.K! All green! Please,Open the gate!」
 管制官の声にガイストは、いつも通りの答えを返した。そして相手からも同じように答えが返ってくるはずだ。
『O.K. Gate Opens! Good luck your travel.』
「thanks. ……Engine maximum!!」
「Aye,captain!」
「Aye-aye,sir!」
 変わらない言葉の応酬に船員クルーたちも同じように応じてくる。何百回と繰り返してきた出港時の光景だ。
 安全を約束された航海などない。この航行がもしかしたら最後になるかもしれない。いつもそう思い、部下たちの働きを見守ってきた。
 今回もそうだ。ましてや“神ゴッド”の領域である“ガイア”へと向かうのだ。“女王クィーン”の統べる“ノイエス”と大差のない荒れた航海になることは間違いない。
 赤外線が描き出した建物や船たちの影がジリジリと後方へと流れ去っていく。
 再びこの惑星に帰ってくることを願いながら、ガイストは胸ポケットに納められた通信カードをそっと押さえた。
 再び失うことの恐怖に比べたら、地獄への航海だとて可愛いものだ。
 この航海の果てにある“神ゴッド”の領域へと入ったら、ガイストはあらゆる場所にハッキングを仕掛けるつもりでいた。
 暗黒を支配する両陣営が滅びようが繁栄しようが、自分にはどうでもいいことだ。
 しかし片方の陣営にはサリアルナがいる。彼女の氏族長であるゴゥト公の命によって、人質同然の待遇で派遣されたのだ。
 彼女がいる場所が安全であるはずがない。
 そんな彼女を救う力など今の自分にはないのだ。
 その現状を少しでも打破するためなら、あらゆる情報を集めてやろう。それが神聖不可侵と恐れられる“神ゴッド”だろうと、恐怖の女神と呼ばれる“女王クィーン”だろうと知ったことか。
 他の誰のためでもない。自分自身のためだ。
 自分のなかに残る最後の希望の火を消さないために、さらなる血の道をいくのだ。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 小さく口ずさむガイストの歌声に、いつのまにか船員クルーも一緒になって歌い始めていた。
 どの顔からもその歌にかける想いなど見えてきはしない。だが彼らの小さな歌声はいつまでも止むことがなかった。
 惑星の周回軌道から徐々に高度をあげ、母星は靄に包まれたような淡い輝きを放つだけの存在となっていた。
 だがそのヴェールの下には残酷なほどの狂気が潜んでいるのだ。惑星ほしに棲む者ならば、誰もが知っている荒れ狂う堕落と頽廃とともに……。
 惑星タッシールは眠らない。
 不夜城の人工光を宇宙にまで放ち、あざとく輝き続けるこの惑星ほしが眠りにつくとしたら、それはきっと滅び去るときだろう。

終わり

〔 10169文字 〕 編集

タッシール紀

No. 29 〔25年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
キャプテンガイスト [1]

 惑星タッシール。宇宙空間世界の生命生存地帯でこの名は富と権力の象徴である。だがそれは腐敗と堕落、そして混沌の巣窟でもあった。
 光が深いほどに闇が濃いように、闇に蠢く者どもがあざとく咲き狂う星は、このタッシールをおいて他にない。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 物騒な歌を口ずさみながら長身の男がネオン街を歩いていく。
 飄然という言葉がさり気なく似合男だ。ざわめきが路地裏から湧き、まとわりつくように男のまわりに拡がった。
「助けて……!」
 夜のネオン街には不釣り合いな女が男の腕にしがみついてきた。その女を追ってきた男たちが威嚇するように二人を取り囲む。
「これはまた。随分とやさぐれたお兄さん方とお友達になったもんだな、お嬢さん」
 男……正確に伝えるなら、青年といったほうが適当だろう。
 胡散臭げな男たちに囲まれた青年は、煩わしそうに右眉をつりあげると、その物騒な人間たちがにじり寄ってくる様を鼻で笑った。
 青年が女の腕をそっとずらす。まわりを取り囲んでいる男たちは、沈黙を守ったまま、ジリジリと輪を縮めていた。
 どれほど甘く見積もっても、こちらと仲良くしようという柄ではないようだ。
 囲んだ二人が囲みから逃げられない位置まで輪を縮めると、リーダー格の男が半歩前に進み出た。
「女をよこせ……」
 ドスを効かせた低い声は、青年の耳にも届いたはずだ。
 雑多な人混みのなかで、これほど間抜けな取引はあるまい。
 だがこのネオン街“プルトンサイドウェイ”では、当たり前の光景なのだろう。通り過ぎる酔っ払いどもや流しの娼婦たちは、このやりとりに見向きもせずに歩き去っていく。
 ボスの隣で卑屈な態度で立っていた小男が黄色い歯を剥き出して叫んだ。
 辺境星域語らしく、何を言っているのか解らないが、片手にナイフをちらつかせているところを見ると脅しているようだ。
「人にものを頼むときの態度じゃないなぁ、お兄さん。オレは今日機嫌がとぉっても良いんだよ。爆発しちまう前にとっとと失せな!」
 嘲りを含んだ声が男たちの鼓膜に届くと、小男はナイフを握り直して顔を歪めた。相手の言葉は理解できなくても、自分の脅しが失敗したことだけは解るらしい。鋭利なその刃物を振り上げ、青年に襲いかかる。
 しかし青年の胸ぐらに手が届こうとしたその瞬間、掴みかかってきた小男の指は簡単にひねり上げられていた。
 長身の若者の顔に危険な笑みが浮かんだ。
 そのニヒルな笑いを浮かべた秀麗な顔の半分は長く伸ばした前髪に隠されていたが、顔半面だけでも女子供なら怖じ気づきそうな形相だった。
「野郎……!」
 気の短そうな大男が、青年に躍りかかっていった。
 重量戦車のような圧迫感を辺りに振り撒き、豪快に繰りだされる拳は常人なら確実に骨を叩き割られそうな素早さだった。
 だが青年は常人ではなかったようだ。女の細い腰を抱き上げると、身軽に反転して、捕らえていた小男の躰を巨漢の繰りだす剛拳の前へと突き飛ばした。
 短い叫びと骨の砕ける鈍い音が辺りに響き、すぐさま生臭い血の臭いが辺り一面に拡がった。
「ひぃぃっ……」
 女が喉を絞るような声をもらして失神した。頭蓋骨を砕かれた男の仲間たちでさえ、その生臭い臭いに顔を背けた。
「畜生めっ」
 さすがにこのような惨事が起これば、通行人のなかから野次馬が出始めた。
 しかし誰も決して警官や保安職員を呼びに行こうとはしない。明らかにこの状況を面白がって見物しているのだ。
 人垣を散らそうと躍起になる男たちを軽蔑の眼で見下すと、青年はその場を立ち去ろうと人混みに分け入った。
「ま、待ちやがれ! その女、置いてけっ」
 無謀にも追いすがってきたサングラスをかけた二人の男は青年の肩に触れる前に、一人はアスファルトと懇ろな仲になっていた。
 もう一人はさらに悲惨だったろう。
 両膝にローキックを喰らい、大地と接吻した男は、その後頭部を力任せに踏みにじられた。
 割れたサングラスの破片と顔面が非友好的な結合を遂げると、音域をまるで無視した声が男の喉から迸る。
 絶叫をあげて転げる男を見て、観客は歓声をあげて囃したてた。青年はさらに冷めた視線を男たちに送り、女を担ぎ上げたままきびすを返した。
「兄ちゃん、つえぇじゃねぇの」
「まだ四人残ってるぜ。全員、ぶっ倒してってくれよ!」
「なんだ、なんだぁ。もう終わりなのかよ。つまンねぇぜ! これからだろう。もっとやれよ。コラァ!」
 どの声もこれ以上の流血を期待して浮かれている。
 馴れ馴れしく青年の腕を掴んで引き戻そうとする輩までいる始末だ。観客の声は青年にまとわりつき、放そうとはしなかった。
 うるさそうに人混みを掻き分けようとした青年の眼前に影が差した。先ほど仲間を自分の鉄拳で挽肉にしてしまった大男が顔を真っ赤にして立ちはだかっている。
「貴様……殺してやるッ!」
 丸太のような腕が振り回され、若者めがけて飛んでいく。まわりの野次馬が慌てて飛び退く。それをしり目に青年は軽々と巨漢の攻撃をかわした。
「うっとうしいんだよ、でくの坊がっ」
 初めて青年の声に怒気が含まれた。
 でくの坊呼ばわりされたほうも赤い顔をいっそう赤く染めて罵声を叩きつける。
 人語の域を外れた咆吼をあげて大男が青年に襲いかかった。
 若者が蝶のように舞い飛び、その攻撃をかわす。さらに、もう一度かわそうと後ろに飛び下がった。
 とその時、青年の足元に空き瓶が当たる。
 若蝶が均衡を崩したその瞬間を、大男は見逃さなかった。
 筋肉の塊のような太い腕がすかさず長身を捕らえた。肉食獣の笑みが満面に浮かべ、若者の背後から空き瓶を転がしたボスに頷く。
 大男は遠慮躊躇もなく、相手の胴体を締めつけた。若者の骨が軋む音が聞こえ、その全身が弓なりに反り返る。
 ところがこの状況にあってさえ青年は女を抱えあげたままだった。
 満身の力を込めて青年を締め上げていた大男にボスが声をかけた。
「ゴルベリ。殺すなよ」
 温情の声音では、当然、ない。自分たちが優位に立ったと確信した者が発する凶暴な笑いが、暴漢たちの間からあがった。
「へへへ、大人しく言うことを聞いてりゃ、痛い目に遭わずに済んだものをよぉ。バカな奴だぜ」
「どうしやスか? ……一緒に連れていくんで?」
 固唾を飲んで見守っていた野次馬たちを一瞥すると、ボスは凶悪な笑みを浮かべた。
 歓楽街にたむろするチンピラなどはこの顔を見ただけで逃げ出してしまいそうだ。辺りを囲んでいた野次馬連中も潮が引くように消えていく。見世物は終わったのだ。
「あちら方面の好色で美形好みのお偉い様にでも調達してやるさ。それまでは薬ヤクでも射っておねンねしていてもらおうか」
 ゴルベリと呼ばれた大男が腕の力を緩め、若い男女をアスファルトの上に放り出した。若者は気を失ってしまったのか、ピクリとも動かない。
 大男のレバーのようにテラテラと光った舌が、肉厚の唇の上をねっとりと這いまわる。
「兄貴よぉ。商売モンにするンなら、らしく仕立てあげなきゃなんねぇんだろ? だったら、俺にその役目やらせてくれよ」
 男たちは気を失ってしまった青年の身体に遠慮もなく視線を這わせ値踏みをする。大男は許可さえ下りれば、今この場でも気絶している青年を八つ裂きにしてしまいそうな目をしていた。
 ボスの右隣に立っていたカーキ色のジャケットを羽織った鷲鼻の男が、若者が未だに抱えている女のそばに歩み寄った。それに続いて、丸顔のちんくしゃデブが若者へと近寄る。
 二人の暴漢の手が男女の腕を掴もうとしたその瞬間、何かが光速の早さで二人の喉笛を掻き切った。
 悲鳴さえあげる間もなく男たちが倒れていく。
 一瞬の出来事にボスも大男もなす術もなしに立ちすくむ。二人の血走り見開かれた眼が、気絶しているはずの青年と女の顔面を捕らえた。
「……!」
 より驚いたのはボスと大男のどちらだったろうか?
 いつの間に拾い上げたのか、先ほど頭をかち割られた小男のナイフを片手に、残りの腕に女を抱えた青年が、倒れた二人を踏みつけて立ち上がった。
「やぁ。随分と手荒な歓迎をしてくれた。挙げ句に再就職の世話までしてくれるとなりゃあ……お礼をしなけりゃ、バチが当たろうってもンだよ。なぁ? お兄さん方、そうだろ?」
 背後に巨漢を、正面に性悪なボスを見据えて、若者はのんびりとした口調で喋りながら、血塗られたナイフを弄ぶ。
「この野郎……! よくもやりやがったな」
 大男が背後から若者に掴みかかる。ボスの方はといえば、惚けたように青年を、いや、青年の乱れた前髪を凝視していた。見てはならないものを見てしまったかのように、恐れおののき、ジリジリと後退していく。
「や……やめ……。ゴルベ……リ……」
 もつれて滑らかにまわらない舌を必死に動かして、ボスはたった一人残った仲間を止めようとするが、当のゴルベリの耳にはそんな制止の声など届いていない。
「ゴ、ゴルベリ……!」
 掠れきった声を張り上げて相棒の名を呼ぶのと、ゴルベリの眉間に深々とナイフが突き立つのと、どちらが先だったかわからない。
 砂煙を立てて倒れる巨漢には一瞥もくれず、青年は正面で座り込んだ男を睨み続けていた。
 なんという腕前であろうか。人一人を抱えたままの状態で、後方から襲ってくる敵の急所を振り返りもせずに仕留めるとは!
 腰を抜かし、失禁しながらも這いずって逃げようとするボスに、悪魔の微笑みを浮かべた若者が一歩また一歩と近づいていく。
 側の消火栓にぶつかり、そのまま動かなくなったボスの目の前までくると、青年は狂気にも似た微笑を浮かべたまま、ゆっくりと前髪を掻き上げた。
「これに見覚えがあるのかい? ……それとも、聞き覚えがあるのか? この顔の特徴に……」
 今まで前髪に隠れていた若者の顔左半分が露わになる。麗しいまでの美貌が刻まれた顔が、残りの半面が現れた途端に醜怪な魔物の表情へと変貌した。
 美神の嫉妬に触れたか、あるいは魔神の悪戯か、青年の顔左半分には見るも無惨な裂傷がひきつれを作っていた。
 レーザー銃などの火器類の凶器ではない。強いて言えば陶器や鉄片などの切れ味の悪い破片で無理矢理に押し潰された感じのする傷痕だ。
 男は逃げる気力も尽き果てたのか、青年の手が自分の首に回されても抵抗しなかった。静かに締め上げられていく喉の奥から弱々しい息がもれる。
「あ……あ、あんた……は、ガイ……スト……。ダー……クガ……イス……ト」
 この惑星タッシールのダークサイドの住人ならその名を知らない者はいない。
 悪名高き闇バイヤーの名を口にした途端、鈍い厭な音を立てて男の首は真後ろへとへし折られた。
 すべてが終わったかと思われたそのとき、雑踏のなかから忽然と黒い男が現れた。死んだ男を見下ろす白髪の若者よりもさらに背が高い。腰まで届く長い黒髪を結いもせずに、肩で風を切って近づいてくると、当然のように気を失ったままの女を貰い受け、青年を促して歩き出した。
 まだ宵の口に入ったばかりの歓楽街は人通りも多い。もっとも、このプルトンサイドウェイにいる者自体がまっとうな人間であるはずもない。
 だがネオン街の一角で起こったこの惨劇を目撃した者の数は少なく、たまたま見届ける羽目になった者も口を堅く閉ざして、この日の悪夢を語ろうとはしなかった。


「随分と手間取っていたな、ガイスト」
 絡みつく長髪を払いのけながら黒い男が言った。重厚なアルトの音程が耳に心地よく響く。
 筋肉質のガイストと比べると、この男の方は身長の高さばかりが目立つ。しかし見る者が見れば、幅広の肩やしなやかに伸びる肢体が鍛え抜かれた強者の持ち物であることがわかるだろう。
「お前に見られていたとは思わなかったよ」
「女の所へいった帰り、だろう? この時間帯にあの通りをブラついていると必ずお前に出くわすんだ。もっとも、お前が他の女に鞍替えしちまえば別だがな」
 男が喉の奥で含み笑いをする。三十代前半と思われるその顔つきからは想像もできないような殷々たる声音が、彼のそれまでの人生を表しているようだった。
 男は黄色人種系の肌や髪質だが、決して童顔ではない。多くの民族の血が混じり合った結果を体現したような顔立ちだ。
「チッ! 嫌味な奴だな、お前は。……やめろよ、この人混みのなかで何しやがんだよ」
 肩に女を担ぎ上げたまま男の手がガイストの腰へと伸びてきた。黒目がちだが切れ長の瞳がからかうように光る。
「いやに照れるじゃないか。……初めてでもあるまい、この街でなんの遠慮がいるんだ?」
 険悪な視線を男の横顔にスパークさせたが、ガイストは口を噤んで喋ろうとはしなかった。
「なんだ怒ったのか? 謝らんぞ。事実を言っただけだからな、私は」
 ガイストの腰に腕をまわすと男は耳元で囁いた。身じろぎしてその腕から逃れようとするガイストを放すまいと、男の腕にさらに力が込められる。
 ガイストが苛立たしげに首にまとわりつく髪を払いのけ、唸るように低く言葉を吐きだす。
「……やめろ、アスモデウス」
 その声に、当のアスモデウスは嘲りを含んだ冷笑で報いた。
「そう、私はアスモデウス……。“淫乱”の魔天使の名を持つ者だ。そう“神ゴッド”が名付けた。そして、お前の相方なんだ……アスタロト」
「……! その名で呼ぶなっ! ……オレは、ガイストだ」
 全身を小刻みに震わせ、アスモデウスの腕を無理矢理に引き離すと、ガイストは低く叫んだ。
 しかしアスモデウスが忍び笑いをもらしながら、再び無遠慮に若者の身体をまぐさる。
 アスモデウスの視線がガイストの青ざめた横顔を舐めるように這っていく。医者か研究者のような観察眼が冷たい。
「そうだな。確かにお前はガイスト……亡霊だ。光の当たる場所には二度と戻ることは出来ない、葬り去られた人間だからな」
 そうだ。もう戻れない。光の天使が住まう場所へは……。もう二度と。
 ガイストの横顔に苦渋が拡がり、両肩が目に見えて落ちる。
「そうそう。“神ゴッド”と“女王クィーン”、双方への定例報告を忘れるな。
 私たちには選択の余地などないのだからな。今はどちらかにつくわけにはいかないんだ。この世界では中立を保つ立場だということを忘れるなよ、ガイスト」
 突然に事務的な口調でアスモデウスがガイストに声をかけた。それは今までの言葉が嘘のような無機質な声だった。
 相手の傷心を知っていて、わざとそれを無視して見せる、残忍な彼の横顔に憐憫という単語は一番似合わないようだ。
 傷ついたガイストと見知らぬ女を伴って、アスモデウスは暗黒街の奥深くへと進んでいった。
 闇の顎あぎとへと吸い込まれていく彼らを見咎める者は誰もいない……。


 夜が明けようとしていた。薄汚れた窓から覗く空は筆で軽く掃いたように薄い紫雲を浮かべている。
 まだ街のこの近辺は眠っている時刻だ。ツーブロック向こうの大通りならば、すでに運搬専用の地上車ランドカーが凶暴な排気風を吐き出しながら走り回っているだろうが。
 眠れない夜を過ごした夜明けの色は、安堵と虚脱感に満ちているようだった。
 窓からの弱い光に照らされた室内の家具たちは、澱んだ黒い影を床や壁へと伸ばし、部屋の主の気分をいっそう滅入らせているばかりだ。
 大仰に溜め息を吐いた彼は窓辺の分厚い壁にもたれかかったまま、金属製のドアを睨みつけた。
 すぐにそこから視線をずらす。しかし彷徨っていた瞳は再び吸いつけられるようにドアの表面へと向けられる。
 何かを待っているような素振りだ。
 何度目かに瞳が往復したあと変化はやってきた。
 ドアの電子ロックからセキュリティアラームが聞こえる。来客を知らせるその音はボリュームを絞ってあるらしく、ひどく小さな音だった。
 口唇が渇くのか何度もそれを舐める。緊張感に身体が強ばっているようだ。
 だが来訪者をそのまま無視することもできないらしく、重い足取りでドアへと近づく。まるでそのドアを開けたときが自分の運命が決まるときだとでもいうかのような決死の表情だ。
 緊張した顔つきのままドア横の電子ロックを外す動作は、緊張はしていてもよどみない。
 外の人物を確認しようとしないところをみると、待ち人であることを確信しているのだろう。「チキッ」と金属が擦れる小さな音の後、ドアはゆっくりと横にスライドしていった。
 部屋の外は廊下だ。彼の瞳が目に見えて細くなる。照明がついている加減で、室内よりも明るいくらいだ。光に目が慣れていないと言えばそれまでだが、彼が目を細めた理由は、それだけではないだろう。
「……どうぞ」
 低い声で訪問者を室内へと誘う。その声は少し掠れて聞こえた。
 悠然と室内へと足を踏み入れた人物を見れば、彼が視線を外している理由が頷ける。それは眩すぎる輝きに満ちていたのだから。
 訪問者は彼の白人種特有の白い肌と雲のように真っ白な髪、暗く光る翠眼とはまったく対照的な外見を持っていた。
 まず、真っ先に目を惹くのは髪だ。
 どんな群衆に混じっていても、遠目にすぐに判るほどの豪奢な金髪。それ自体が太陽のような輝きを発している様は、壁画から抜け出してきた神か聖人のような壮麗さを感じさせた。
 そしてこめかみから落ちかかる金髪に縁取られる顔は滑らかな褐色肌。どこにもくすみや染みのないその皮膚は何よりも健康的な印象をまわりに与える。
 訪問者は、美しく、華やかな外見の娘だった。
 顔立ちもたぶん雰囲気を裏切らない造りなのだろうが、横長の偏光グラスをかけた顔はその細部を伺うことはできなかった。
「殺風景なところで暮らしているわね。……もっとましなところに住めるでしょうに」
 呆れたように呟いた声は、魅惑的な震えを帯びて空気に溶ける。それを怯えたように聞きながら、彼は簡素なサイドボードの上からマグカップを取り上げた。
 相手を見ないようにするには、他の作業に没頭するしかない。
「あ……。わたしは濃いめのブラックにしてよ」
 黙々とコーヒーを淹れ始めた彼の背中に遠慮のない声がかかる。
 外見の神々しさからは想像できない平易な態度に驚きでもしたのだろうか、男はチラリと振り返った。
 だが娘が断りも無しに古いソファへと腰を降ろし、のんびりと室内を見回している様子を確認して、再びコーヒーを淹れる作業へと戻る。
「ねぇ、ガイスト……」
 背後からの声に彼は怪訝そうに振り返った。相手の神経質な色を帯びた声に驚いたのだ。こんなざらついた口調は滅多に耳にすることなどない。
「何か……?」
 即席で淹れたコーヒーを手に、慎重な足取りで娘の側までくると、未だに偏光グラスを外していないその顔を覗き込むようにしてそれを手渡す。
「ガイスト。相変わらず他人行儀ね、あなたは……」
 苦笑しながらカップを受け取った娘が、指に伝わるコーヒーの熱を愉しむようにして両手でその器を包む。
 昇ってくる太陽の光が窓ガラスに反射して娘の頭上へと降り注ぎ、彼女の髪は燃え立つように輝いた。
「日が昇ったのね……」
 ぼんやりとした口調で娘が窓から空を仰ぎ、我に返ったように手の中のコーヒーを一口すする。
「今回は急な注文でしたが? 何か上層部であったのですか、サリアルナ?」
「いいえ。上では何もないわ」
 硬い声のままに答えた娘は、気怠げな手つきでカップをテーブルへと置き、目の部分を覆っていた偏光グラスを外した。
 その様子を見守っていたガイストの視線が、無意識のうちに娘の瞳へと注がれた。そう。娘の瞳は少々変わっていたから……。
 燃えるような金髪のなかに極上のサファイアとルビーが一粒ずつ。いや彼女の瞳は右目が蒼、左目が紅というオッドアイだった。
 対極をなすその色彩が、娘の表情を判らなくする。
 これでは偏光グラスをかけていたときと同じだ。
 冷たい蒼の瞳は彼女の感情を押し包み、燃え上がる紅の瞳は彼女の気性の激しさを雄弁に物語っているように見えるのだ。どちらが本来の彼女なのであろうか。
「頼んだ品物を見せてもらえる?」
 自分を見つめる者と視線を合わせないようにカップに視線を落としたまま、娘は早口に言葉を紡ぐ。
 その神経質な声に眉をひそめたが、ガイストは何も問わずに席を立ち、壁に穿たれた窪み棚アルコープの前まで歩いていった。
 幾つかの置物のうち、左端下隅に置かれた絵付き皿を持ち上げる。そして、その皿を支えていた支柱と取り上げると、棚の中央に剥きだしで置かれた時計の軸芯へと突き立てた。
 ゴキリと何かが噛み合う音がしたあと、棚の奥の壁に一本の亀裂が走る。奥にさらに空間があるようだ。
 ガイストは開いた隙間に指を差し入れ、そっと左右にスライドさせた。
 乾いた紙が擦れるように微かな音とともにぽっかりと穴が開く。奥には大小さまざまな包みが所狭しと並んでいた。
 その中から細長い筒状の包みを取り出すとガイストは傍らに置いてあった絵付き皿を元の位置に戻した。
 再び微かな音をたてて隠し扉が閉まり、棚奥の壁がピタリと合わさる。壁の模様と同化して亀裂の跡はまったく区別できなかった。
 脇に抱えた包みを持って娘の前に戻ってきたガイストが恭しい手つきでそれを差し出す。
 それを一瞬手に取ることをためらった娘だったが、意を決したように両手で包みを受け取り、乱暴な動作で包み紙を引き裂いていった。
 中から硬化プラスチックの筒箱が姿を現す。
 大きさは娘の片腕の長さとほぼ同じくらいではないだろうか?
 筒の上部は透明プラスチックになっており、見慣れない鳥の頭を持つ怪物が筒のなかで眼を光らせている。
 その頭が入っている部分が蓋になっているらしい。頭を覆う透明プラスチックを鷲掴みにした娘が強引にそれを引っ張る。だが簡単には開かないようだ。
 不機嫌そうな表情で娘が筒を見下ろす。
「壊れますよ。貸して下さい。開け方を教えますから」
 娘の乱雑な手つきをハラハラして見守っていた男がそっと手を差し出した。それに素直に従って、娘は手の中の筒を相手に渡す。鈍い光沢を放つ筒が朝日に反射して、一瞬だけギラリと鋭く光った。
「一見プラスチックに見えますけど、新種の金属“パラライト”でできているんです。御存じでしょう? 温度や振動を記憶する金属です」
 こくりと頷く娘によく見えるように男は筒の頭を握り込んだ。大きな掌に包まれて頭の部分が隠れてしまう。
 そのままゆっくりと左回りに筒をひねり、何かに引っかかって止まると、掌を離し、今度は指先で頭をコツコツと叩く。
 じっと見守る娘の目の前で、怪物の彫り物がグラグラと揺れ、キラリと紅い光をその両目に宿した。不気味な赤色灯が小さく瞬く。
「カーヴァンクルの瞳が光ったら、後は簡単に開きます。……どうぞ」
 受け取った娘の手の中で、筒はアッサリと口を開けた。筒の口を下に向けて振り回すと、ストンと縄の束のようなものが落ちた。筒を放り出した娘はそれを掴み取ってジッと眼を凝らした。
 細かくしなやかな金属の鎖が幾重にも巻きつけられた品物は見ただけではどんなものなのかさっぱり判らない。
「ご依頼のローズウィップ……。見ただけでは普通の鞭ですが、操るときの手首のひねり一つで多種の鞭に変化します。使用方法は……」
「いいわ。それは判っているから……。ありがとう。いい出来の品だわ。さすがはジェミニ恒星系一のバイヤーが見立てただけはあるわね」
 ニッコリと微笑んだ娘の表情は玩具を手に入れた子どものようだった。
 だが彼女の手の中にあるものは、決して玩具ではない。使い方によっては恐るべき破壊力を持つ武具である。
「これで心おきなく“ノイエス”へ行けるわ」
「ノ……イエス……!?」
 ガイストの瞳が動揺に震えた。
 それを横目で確認した娘が皮肉っぽい笑みを浮かべる。彼女には相手の驚きのほうが意外なようだ。
「何を驚いているの。わたしが護身用にこの鞭を頼んだとでも思ったの?」
 小さな笑い声がもれたがそれは少しヒステリックにも聞こえる。その声を止めようとでもいうのだろうか。ガイストは娘の両肩を掴んで、彼女の体を自分へと向けた。
「サリアルナ! いつ“女王クィーン”の元へ行くんですか!?」
「痛いわ、放してよ」
「答えてください!」
 語気を強めるガイストから視線をそらし、娘は自分の膝の上にある金属の鞭を見つめた。
 冷たい視線だった。視界に入ったものすべてを凍りつかせるように残酷な視線が娘の美貌から放たれている。
「明日よ。兄さんから命じられたわ。……たぶん兄さんは公から指令を受けていると思うけど」
「サリ……」
「止めないでよね。わたしは“ニケイアの門”をくぐって、その先に行くんだから」
 ガイストへと向けられた視線は今度は炎のような激しさを含んでいた。自分の決めた道を邪魔する者は、その業火で焼き尽くすつもりなのだろうか?
 諦めたようにガイストが視線を落とした。止めて聞くような娘ではないと判っているのだろう。小さく首を振り、深い溜息を吐くと、再びガイストは顔をあげて娘の顔に見入った。
「次に遭うときは……敵同士かもね。“神ゴッド”が勝つか、あるいは“女王クィーン”が勝つか。あなたは勝つほうにつきなさいよね。闇に堕とされたのなら、そこで生き抜く算段をしなきゃ」
「どうして公はいつもあなたをそんな過酷な場所に……」
 ガイストの沈んだ声にサリアルナは口元を歪めて笑った。
 それはいったい誰を嘲笑っているのだろう。自分の運命? それとも自分を憐れんだ瞳で見る目の前の男? あるいは冷酷に命を下す者たちだろうか?
「わたしの知り得る範疇じゃないわね。心配してくれてありがとう、ガイスト。でもわたしは死にに行くわけじゃないわ」
 堂々と胸を張る娘の表情は、ちょうど朝日を逆光に浴びてハッキリとは読みとれない。
「生き延びてくださいよ。あなたには、あなたの力を必要としている人がたくさんいるハズです。オレを救ったように、あなたにはその力を使うべき人がたくさん……」
「えぇ。帰ってくるわ、必ず……。だって、このタッシールはわたしの故郷なんですもの」
 額にかかった髪を掻き上げながら娘は穏やかな微笑みを浮かべた。今までの強気な表情がふとほぐれる。大人びたなかに少しだけ幼さを残したその顔立ちが、そのときは優しく見えた。
「もう行くわ。品物の代金はいつも通り……に……ガイスト?」
 突然、男に抱きしめられて娘は眼を見張った。
「帰ってきてください、サリアルナ。オレはまだあなたに恩を返していない」
 自分を抱きしめる男の真綿のような髪をなでながら、娘は再び微笑んだ。それはまるで慈母の穏やかさを漂わせた温かな笑み。
「あなたがわたしに返す恩などないわよ。わたしがあなたを救ったのはほんの偶然だったんだから」
「それでも……。それでも闇に堕ちた者にはどんな小さな光でも眩しく見えるものです。あなたがオレの妹代わりでいてくれたからこそ、オレは今生きている。サリアルナ。生き延びてください。あなたが死んでしまったら……」
 強ばった表情を自分へと向けるガイストをなだめるように娘は小さく笑い、彼の前髪を掻き上げて、隠された左半分の顔をじっと凝視する。潰され醜くひきつれたガイストの半面に恐怖や嫌悪の視線を向けることはない。
「わたしは権力ちからを手に入れたいの。わたしを待っている人たちを救うにはもうそれしか方法がないから。
 わたしの両手も血に染まっているわ。今更きれいごとを言うつもりもない。だから……ガイストも待っていて。わたしは必ず戻ってくるから。必ず、あなたを光の中へ帰してあげる」
 残酷な刻印を刻まれたガイストの半面を再び髪で覆い隠すと、娘は静かに立ち上がった。
 どれほどの想いで待っていろと言っているのか、ガイストには理解できたのだろうか? 細められた彼の暗緑の瞳には未だ不安がくすぶっていた。
「また会えるわ」
 娘の囁き声を茫然と聞きながら、ガイストは立ち上がることができずに独り座り込んだ。
 その背中を娘が一度だけ振り返り、何も声をかけることなく静かに部屋を出ていった。
 窓の外を見上げれば、昇りきった朝日が街並みを白く染めている。
「オレは……また何もできないまま見ているしかないのか?」
 震える声で呟くと、彼は娘の座っていた椅子に寄りかかった。身体が気怠い。昨夜眠れなかった疲れがドッと押し寄せてきたかのようだ。
 娘が乱暴に引きちぎった包み紙をつまみ上げ、ぼんやりと見つめているうちにいつもの唄を口ずさんでいた。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 ハラリと手から紙がこぼれ落ちた。
 その様子を見守るガイストの口元は苦しげに歪んでいる。
 何か言いたいことがあるのに、どうしてもその言葉が見つからないときのように、心許なく、寂しげに……。
「神よ……。心あるならば、彼女を守りたまえ……。どうか彼女を……」
 顔を覆い呻くように神に祈りを捧げる男の姿を窓の外から蒼い空だけが見下ろしていた。

〔 12323文字 〕 編集

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