石獣庭園 -Wing on the Wind-

オリジナルのファンタジー小説をメインに掲載中

Last Modified: 2025/01/22(Wed) 19:55:31〔53日前〕 RSS Feed

カテゴリ「ノンジャンル」に属する投稿5件]

移ろい花

No. 37 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 雅屋(みやびや)の若旦那は顔は綺麗で気性は穏やか。芸も達者で風流人。
 いつの頃からか、呉服商人どころか町往く人の間でも評判になっているけれど、そんなことはこの花街の女たちなら誰もが当の昔に知っていること。
「あぁ、若旦那。おいでなさいませ。あいすみませんねぇ、ご足労かけちまって」
 赤い塗りの柱に手をかけてぷらぷらと入ってきた若い美男に女将(おかみ)が艶めかしい足取りで近づいてくる。四十路を超えているであろうに、十は確実に若く見える化粧をして、流し目を送る姿はさすがに商売女。
「どうしましたね、お(えい)さん。……店までわたしを呼びにくるなんざぁ、今までなかったことだけど?」
 年若い男が気に入りの扇子で自分のすんなりとした顎を撫でながら、黒目がちな瞳をひたと艶女(たおやめ)に向ける。
「いえね。新しくきた子どもの見立てをして頂きたくて……」
「そいつはお前さんの仕事じゃないかね? 客に見立てをさせたとあっちゃ、女将の名折れじゃないかねぇ」
「そんな冷たいこと言わないでくださいな。あちきの手に余るからお願いに上がったんじゃございませんの」
 恨みがましい視線を投げかけ、生白い顔を近づけてくる女将の仕草に苦笑を浮かべると若旦那は手持ちの扇子をはらりと広げて口元を覆い隠した。
「いいのかねぇ、わたしなんぞに頼んで。見立てをする振りをして喰っちまうかもしれないよ?」
 青年の穏やかな黒目が悪戯っぽく光っている。覆い隠した口元もきっと同じように笑みを浮かべていることだろう。
「よござんすとも。若旦那の趣味に合うならどうぞお好きに。……でもねぇ、ずぶの素人でございますよ?」
「たまには玄人女じゃなくてもいい、とわたしが言ったらどうするつもりだい」
 自分のからかいに女将がしゃあしゃあと答えを返すことに青年は気をよくしたか、その綺麗な顔をほころばせて満開の笑みの花を咲かせた。
 まったく男にしておくには惜しいほどの美貌に、女将のほうが一瞬見惚れて赤くなる。
「それじゃ、いつもの紫陽花(あじさい)の間で待っていてくださいな。その娘に茶を運ばせますから」
 自分の滑稽さに狼狽えた女将は早口に言葉を紡ぐといそいそと奥へと引っ込んでいった。さすがに置屋の女主人が客の顔に見惚れたとあっては格好がつかないらしい。
 残された若旦那は女将と入れ替わりに現れた下男に下駄を預けて、悠然と階段を上がっていく。優雅な足取りは変わりなく、舞でも舞っているような後ろ姿だった。
 さて、いつものように案内もつけずに紫陽花(あじさい)の間へとやってきた若旦那は、襖を開けたところではたと立ち尽くした。先客がいるではないか。
「おや?」
 先客といっても男ではない。ようやく十になったくらいの少女である。
 子どもは無心に床の間の掛け軸を眺めていた。部屋の名前の由来になっている紫陽花(あじさい)の花とそれを見返る艶めかしい女の白い横顔が、その子どもの視線を受け止めている。
 部屋に入ってきた者がいることにも気づいていない様子で、一心不乱に絵に見入る姿はどこか張りつめていた。
 バタバタと忙しない足音が響いて女将が姿を現した。険しい顔つきをして一直線に若旦那の側にやってくると、部屋のなかを覗いていっそう目をつり上げる。
「お(はつ)! 探してもいないと思ったら、またこんなところに勝手に!」
 若旦那を押しのけて部屋に踏み込んでいった女将は有無を言わせずに子どもに詰め寄ると、容赦なくその幼い頬を打ち据えた。
「あれほど勝手に部屋に入り込むなと言ってもまだ大人しくしてないのかい! あちきの言うことが聞けないなら、今すぐ(くるわ)の通りに放り出してやるよ!」
 娘の前に仁王立ちになった女将の形相(ぎょうそう)は凄まじく、鬼が人を食い殺すような悪相だ。
「およしよ、お(えい)さん。物珍しいんだろうよ」
「いいえ! いつもいつもこの部屋に入り浸って、言っても聞きやしない。今日もお客がくるからと勝手に入らないよう言いつけておいたってのに!」
 いらいらと声を荒げる女将をそっと諫めると、青年は畳の上で身体を小さくしている娘の前に跪いた。
「そうカリカリしなさんな。小皺が増えるよ。……この娘だね、わたしに見立てをさせたいと言っていたのは。お(はつ)というのかい?」
 後の言葉は娘に向かって発したのだが、その本人は頑固に口を引き結んでいっこうに返事を返してくる様子がない。
「何をだんまりしてるんだい! ちゃんと答えなきゃ駄目だと前にも言っておいたろう!」
 再び女将が荒れ狂った声をあげた。
「およしよ、女将。まだ子どもじゃないか。……ここはわたしに任せておくれ」
 若旦那の言葉に渋々と矛ほこを収めた女将が下がっていくと、娘と二人残された若旦那はほっとため息をついた。
「やれやれ。おっと……」
 娘に向き直ると若旦那は小さな笑みを浮かべた。
紫陽花(あじさい)が好きなのかい?」
 こくりと頷く幼い頭をそっと撫でてやり、若旦那は浮かべた笑みを深くした。
「わたしも好きさ。日が経つにつれてどんどん色を変えていく姿なんざ、お前さんがたのように綺麗じゃないかね」
 娘と同じようにじっと掛け軸を見上げると二人してしばし絵に魅入る。
「お初はどうしてこの花が好きなんだい?」
「……」
 押し黙ったまま答えようとしない子どもの様子に若旦那は首を傾げた。どうしたものだろうか。
「名前……知らない人と話をしちゃ駄目なの」
 もそもそと呟いた子どもの横顔に困惑を見て、若旦那は破顔した。生まれ育った家庭で躾けられたのだろう。見知らぬ人についていくな、話をするな、と。
「そうだった。わたしとしたことが名前を名乗っていなかったなぁ。……わたしの名前は真左右衛門(しんざえもん)さ。近しい者は皆“しんざ”と呼ぶねぇ」
 じっと聞き耳をたて、こちらの顔を真剣な面もちで見上げていた子どもが丁寧に座り直すと行儀良く頭を下げた。
鮒皆村(ふなかいむら)権六(ごんろく)の娘“(はつ)”です」
「ほぅ。これはこれは……。立派な挨拶ができるじゃないかね」
 頭を上げたお初がじっと若旦那の顔に見入っている。
「どうしたね? わたしの顔に何かついているのかい?」
 優しげな笑みを子どもに向けると、若旦那は両手で自分の頬をなで回した。その仕草はまるで子どもが口元を拭っているように無邪気なものだ。
「……真左右衛門さんは男の人?」
「おや! おやおやおや! わたしが女に見えたのかい?」
 いたく驚いたという顔をして若旦那は目を丸くしてみせた。しかし本当のところはいつものことだった。よくよく見れば男だと判るだろうが、一見しただけでは女に間違われることはしょっちゅうだ。
「声は男の人なのに、顔はあんまり優しい顔をしているから……」
 子どもなりに申し訳ないと思っているのだろう。お初が困ったように俯いて指をもじもじと絡ませている。
 その子どもの身体をひょいと抱き上げると、若旦那は再び掛け軸に向き直った。意外と腕力があるらしく、子どもの身体を持ち上げる様子にまったく気負いがない。
 膝の上で娘が体を固くして俯いている。よく知らない男の膝に抱きかかえられ怯えているのだろう。
「お初は幾つになるんだい?」
 おどおどとした様子の娘の桃割れ頭を撫でてやりながら、若旦那はじっと掛け軸に視線を注いでいた。その掛け軸のなかでは紫陽花(あじさい)を見返る美人が艶っぽい視線を花の群に向けている。
「と、十です……」
「そうか。十になるのか。それじゃあ女将が焦るのも無理はないなぁ……」
 男の言っている意味を図りかねた娘が首をねじって振り返った。自分の歳と女将がどうやったら繋がるのか判らないのだ。
「お前さん。ここがどういう場所か知っているかい?」
 首まで真っ赤になりながらお初が頷いたのを見て、若旦那は苦笑した。どうやらこの年格好の割には物をよく知っている子どものようだ。
 自分を抱き上げた相手が男である以上、どういう目で自分が見られているのか想像できてしまうのだろう。怯えていたのはそのためか。
「そうか。お初は賢いね。置屋(おきや)は春を売るところだからねぇ。……でも今すぐにってことじゃないさ。お前さんはまだ十だからね」
 それに……、と続けようとした男の声を遮って子どもがその後を継いで話し始める。
「お父ちゃんの労咳(ろうがい)の薬がいるんです。早くお金を稼がなきゃいけないし……」
「うん……。そうか。お初はお父ちゃんを助けにきたんだな。でもお初の歳じゃ、すぐにはお金は稼げないねぇ。お初が稼げるようになるまでは女将がお父ちゃんの薬の金を出してくれているんだろう?」
 淡々と言葉を続けながら、若旦那は顔を曇らせた。
 置屋は芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋や料亭などに差し向けることを生業なりわいとしている場所だ。揚屋(あげや)にあがるにはお初の年齢ではまだ無理な話だった。
 突然に娘は男の膝から飛び出すと畳に額を擦りつけて頭を下げた。
「お願いです! あたしを買ってください! 薬代が……いるんです」
 父親の病で出来た借財のかたにこの置屋に売られてきたのだろう。父親を助けるためには、高い薬を買うための金がいる。それを自分が作ろうというのだ。
 お初は幼い肩を震わせて畳にひれ伏していた。
「その時期がきて、お前さんの気が変わっていなかったら、そのときは揚屋にお前さんを呼び寄せようか。でも今日はお前さんを買うために来たわけじゃないんだよ」
 強ばった顔のまま娘が顔を上げた。自分を買うためでなかったら、いったい何をしようというのか。彼女には皆目見当がつかない様子だ。
「お初。お前さん、三味(しゃみ)を弾くことも、小唄を唄うこともできないだろう? ここは女郎屋(じょろうや)じゃないからねぇ。芸を覚えてなんぼなんだよ。それができなきゃ、お前さんの身の置き所は廓屋(くるわや)辺りに落ち着いちまうからねぇ」
 ほっと嘆息すると男は哀しそうに微笑んだ。
 娘が置かれている立場を説明してやるのは、少々心が痛んだ。この花街にやってくる女たちはいつだって哀しい過去を背負っている。生きてここから出ることが叶う女はほんの一握りだけなのだ。
「女将はお前さんが何に向いているのか図りかねているんだろう。わたしなんぞにお前を見立ててやってくれと頼みにくるくらいだからねぇ」
「なんでも習います! 教えてください!」
 娘には選ぶ権利などなかっただろう。それを確認させている自分に嫌気が差して、男は口元を歪めた。
 この置屋の女主人はなんと厭な役回りを押しつけてくれたことか。
「お初……。ちょっとここへおいで」
 娘を自分の目の前に差し招き、その手を取ると若旦那はじっと幼い手を見つめた。細く長い指はまだ子どもの幼さを残していたが、すでに働いている者の指だった。
「百姓をやっていた割には荒れていないね。でも指先にはマメができた痕がある。お前さんは家で何をやっていたね?」
「機織りを……」
 娘の言葉に得心したのか、若旦那は優しげな笑みを浮かべて相手を見つめた。
「そうか。鮒皆村には機織りの上手い者がいると聞いていたが……。お前さんの実家がその家なんだな」
 呉服屋仲間のなかでも有名な話だ。三つ向こうの鮒皆村には、腕のいい機織り女がいると。この娘の母親辺りがその機織りなのだろう。その母親についてこれまでずっと機織りを習っていたに違いない。
「お母ちゃん、先月に死んだんです……」
 ぽつりと呟いた娘の暗い声に男は胸を突かれた。
 父は病の床につき、頼みの母が亡くなったとあっては、彼女を助けてくれる者はいないに等しい。
「婆ちゃんがお父ちゃんの看病しなくてはいけないから、あたしがお金を稼ぐの」
 この花街ではよく聞く話だと言ってしまえばそれまでだ。だがそう割り切ってしまうには娘はまだまだ幼い。何も言えない男にかまわず、娘はとつとつと話を続けた。
「六つと三つになる弟たちもいるから……。お父ちゃんの病気、治さないと……」
 娘の瞳に涙はなかった。涙を流し尽くしたのだろう。世の中にはどうしようもないことがあるものなのだと、この歳で悟ってしまったのだ。
「だから……三味線でも小唄でもなんでも……なんでも教えてください。あたし全部覚えます」
「そうか……。うん。そうだな。芸事をどんどん覚えなければならないねぇ」
 自分が見立てるまでもない。この娘は自分のやるべきこと、やらなければならないことをすでに知っているではないか。
「それにしても女将はいったいどういうつもりでわたしを呼んだりしたのかねぇ。……お前さんの見立てなぞ必要もないことだろうに」
 首を傾げて自分を見つめる娘の顔はきょとんとしている。
「真左右衛門さんは三味線の先生じゃないの?」
「まさか! 自分で三味線を弾くことはできるが、人に教えるなんざ……」
 ふと途中で言葉が止まった。人に教えるなんざ……?
『花は愛でるばかりじゃつまらんよ。育ててなんぼ……そう手塩にかけて育てたほうが何倍も綺麗さぁね』
 突然に頭に浮かんだ自分の三味線の師匠の言葉に若旦那は呆気にとられた。
 なんだろう。言われた当時は「そんな面倒なことを」と思ったものだが、今突然に合点がいった。その通り。育ててなんぼ……。
 幼い娘が紫陽花(あじさい)の色のようにいかように変わっていくのか。それを間近で見続けるというのはなんと心楽しげなことだろうか。
 やおら立ち上がると男は口元を引き結んで掛け軸へと目を走らせた。居ても立ってもいられないといった様子で、驚いて自分を見上げる娘のことも忘れているのではないだろうか。
「そうか。そうだそうだ。その手があったじゃないか」
 譫言(たわごと)のように呟く若旦那の様子に娘は呆気取られて見守るしかない。いったい何を言っているのだろうか?
「あの……」
「あぁ、そうだ。お前さん。わたしが三味線の師匠に見えるかい?」
 今の今まで春を買いにきた客か芸事の師匠だと思っていたのだ。見えるも何も、そのものだと思い込んでいた人間にそれはないだろうに。
「あたしはてっきり芸事のお師匠様だと……」
「そうか。それじゃ、そのままわたしがお前さんの師匠をしよう。そうしよう」
 口の中でぶつぶつと呟いている男はすっかり自分の考えが気に入った様子で、ふらふらと部屋の襖に歩み寄っていく。
 自分の考えに気取られてすっかりお初の存在を忘れてしまっているようだ。
「わたしが育てればいいんじゃないか。なんだ簡単なことだ……」
 襖を開けてふらりと歩き出した男を追ってお初も廊下へ飛び出した。いったいどうしてしまったというのだろうか?
「あれ? 若旦那、どうなさったんです? まさかもうお帰りですか?」
 茶を入れて上がってきた女将が驚いて、階段の上で立ち止まる。
「あぁ、お(えい)さん! 丁度良いところへ」
 まだどこか夢見心地で歩み寄ると若旦那は楽しそうに笑みを浮かべて女将の耳元で何事かを囁いた。
「えぇ!? 若旦那がですか? でも、でも……御店(おたな)のほうは……」
 いいから、いいから、と女将の肩を叩いて、ようやく若旦那は後ろについてきていたお初を振り返った。
「お初。近いうちに稽古を始めよう。お前さんはもう十になっているからねぇ。早く始めないと他の者に追いつけないよ」
「え……?」
「取り敢えずわたしはこれから三味(しゃみ)の師匠に頼んで免状を取ってもらうから、今日はこれで失礼するよ」
 何が何やらさっぱり判らない娘を残して、若旦那は浮かれた足取りで置屋を飛び出していってしまった。
「お初。いったい若旦那と何を話していたんだい?」
 夢見心地の青年の様子に目を丸くした女将が少女を振り返った。だが当の本人にも何が起こったのか判っていない。
「はぁ……。若旦那好みの娘だろうと思って、初めから贔屓にしてもらえるように引き合わせたってのに……。なんでまた芸事の師匠なんかを買って出たんだか」
 ぶつぶつとこぼす女将の様子を困った顔で見上げていた娘が、その言葉に顔を輝かせた。
「真左右衛門さんがあたしに三味線を教えてくれるんですか!?」
 娘の様子にたじろいだ女将が顔をしかめる。
「若旦那を名前で呼ぶなんて。まぁ、なんてことを……」
 だがすぐに顔を引き締めると、厳かな口調で娘に言い渡す。
「いいかい、お初。近日中に若旦那が三味線の稽古をつけに通っていらっしゃるようになるからね。……間違っても師匠を名前で呼ぶような失礼をしちゃいけないからね。きちんとお師匠様と呼ぶんだよ!」
 その言葉を聞いているのかいないのか、嬉しそうに頷いた少女は踊るような足取りで女将の回りを飛び跳ねた。
「これ! ばたばたと暴れるんじゃないよ! さっさと階下(した)へいって、今度こそ大人しくしているんだよ」
 生返事をして階段を駆け下りていく娘の後ろ姿にため息をつくと、女将は軽く首を振った。
 世の中思い通りにはならないものだ。雅屋(みやびや)の若旦那は確かに風流人だが、どういう酔狂であんな少女に肩入れするのか。
「あぁ、あちきだって二十年若けりゃあねぇ……」
 無駄になった茶盆の上の茶を恨みがましい目で見つめると、女将は気が抜けたといった様子で肩を落とした。
 雅屋の若旦那は顔は綺麗で気性は穏やか。芸も達者で風流人。
 いつの頃からか、呉服商人どころか町往く人の間でも評判になっているけれど、そんなことはこの花街の女たちなら誰もが当の昔に知っていること。
 そして、それにまた一つ小粋な噂が尾ひれをつける。
 雅屋(みやびや)の若旦那が育てた芸妓は、花街一の三味(しゃみ)を奏でる……。
 今となってはもう昔々のお話。粋で洒脱な色街の片隅のほんの儚い物語。

終わり

〔 7281文字 〕 編集

魔法使いのスコーン

No. 36 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 あたしはトボトボと煉瓦石通りを歩いていた。
 お洒落な街角のショーウィンドゥは深い秋色に染まっていて、まわりを行き交う人たちの横顔は、どれもこれも明るく見える。肩を落として歩いているあたしは、一人浮いているように見えることだろう。
 今日、あたしは一世一代の勇気を振り絞って告白した。生まれてこのかた、これ以上に勇気を出そうとしたことなんてない、くらいにあたしとしては精一杯だった。
 相手の反応はこう。
「お前さぁ~。鏡見たことあるのかよ?」
 呆れたように見返してくる彼の視線に耐えられず、あたしは視線を落とした。胸がチリチリと痛む。もしかしたら、と淡い期待を込めて告白した結果に、あたしは泣き出しそうだった。
 確かにあたしは美人じゃない。癖の強い赤毛に、ぷっくりと丸い顔。それから、濃い灰色をした奥二重の眼。身体も少々丸っこい。……でも決して太っているわけじゃない、と自分では思っているけれど。
 繁華街を通り過ぎてすぐのところがあたしの家。
 普通の家よりちょっとだけ大きい。まぁ、家族の人数が多いからね。七人家族が住むとなれば、並の大きさの家じゃ、無理ってものだし。
 なんにも考えられないまま、玄関のドアを開けた。
「あ……! ナギ~! 遅かったじゃない、待ってたのよぅ」
「……お母さん? 何、その格好」
 めかし込んで大きな荷物を提げた母親の姿に、あたしはちょっと戸惑った。よく見れば、弟と妹が母のそばに張り付いている。二人とも母と同様に綺麗な格好をしている。
「あっらぁ。これから旅行よ、旅行! キャンセル待ちしてたホテルの空きがあるっていうから。しかも四人分もよぉ」
 聞いてないよ、そんなこと。あたしはムッとした顔をしたに違いない。
「あらあら~。お土産買ってくるから、そんなに拗ねないの」
 お母さんはすっかり舞い上がっている。いつだってこんな調子だ。たぶん、この連休を利用して楽しんでくるつもりなんだろうな……。って四人分? お土産!?
「ちょっと! じゃあ、私一人で留守番なの!?」
 うちは七人家族だ。父と母。それに上から女男女男女と五人の兄弟姉妹。私は上からも下からも三番目の真ん中。でも、上の二人は就職していたり、学校の寄宿舎に入っていたりするから、今は五人家族。それなのに四人ってことは……。
「だってぇ~。本当は二人分だったんだけど、子どもが小さいからって言ったら、子ども二人分追加してくれるって言うんだも~ん。これは行かない手はないでしょう? あんたもうジュニアハイスクールに入っているから一人でも大丈夫でしょ? だからお留守番お願い、ね」
 こ、この親は……。
「あたしはどうだっていいわけ?」
「何言ってるのよぅ~。この広い家、一人で使いたい放題よ? 贅沢な休暇じゃないの。あら、大変! 時間がないわ。パパを待たせてるのに。じゃ、ナギ。お留守番、お願いねぇ」
「ちょっと~!?」
 バタバタと足音もけたたましく、母と弟と妹たちは外へ飛び出していった。独り取り残されたあたしは呆然とそれを見送るしかなかった。
 なんでこうツイてないのよ……。落ち込んでいるときに、この仕打ちはないんじゃないの? ベソをかく気力も失せて、あたしは鞄を引きずって二階の自室へと上がっていった。


 やっぱり来ちゃった……。
 あたしは軽い自己嫌悪に陥りながら、ふかふかのソファに転がって小綺麗な部屋のなかを見回した。ここは、お父さんの弟サヤッシュ叔父さんの家。自宅から歩いて二十分くらいかかる。
  白い壁にアールヌーボー調のポスターやドライフラワーのリースなんかがかかっていて、落ち着いた雰囲気がある部屋。これ、叔父さんの趣味じゃなくって、叔父さんの奥さんカーシャ叔母さんの趣味だってことがまるわかり。叔父さんは独身時代は貰い物の絵画の額とかを無秩序に並べていたくらい大雑把でこだわりのない人だったから、部屋の中をここまで統一できた試しはないんだから。
「あら……。もう泣き虫は終わり?」
 キッチンのほうからかかった声に振り返ると、カーシャ叔母さんがトレイにティーセットを乗せて運んでくるところだった。丸い眼鏡の奥で薄い灰色の瞳がクリクリと動いている。私と違って大きな眼にくっきりとした二重まぶた。眼鏡をかけているから余計に目立つ。
「ほら、ナギちゃんの好きなフォションブレンドのミルクティー。それからスコーン」
 広い自宅に独りでいることに耐えられなくて、トボトボと歩いて叔父さんの家に着いた途端にあたしは泣き出していた。玄関先で迎えてくれた叔母さんは、何も聞かずにリビングまで連れてきてくれて、あたしが泣きながら語った出来事に辛抱強く耳を傾けてくれた。
 兄弟姉妹が多いあたしには、親に相談するにも言い出しにくいことが山ほどあった。友だちに相談したりして解決できることならいい。でも、今回みたいに、今すぐ、どうしても、話を聞いて欲しいときは、叔父さんの家に駆け込んでいく。両親はいつだって忙しくしていて、肝心なときにちっともそばにはいてくれなかったから。
 第一、兄弟姉妹の真ん中って非常に不公平なのだ。上の姉や兄たちは、初めての女の子男の子ってことで何かと親は珍しがって手をかける。下の弟妹たち双子は遅くに生まれたこともあって、両親はめちゃくちゃに甘い。間のあたしは独りぽつんとしていることが多かった。
 もっとも昔から親の干渉が少なかったから、それに馴れてしまって、あれこれ聞かれるのも鬱陶しいと思うようになっていたのも事実だけど、今回みたいにあまりにも突然に独りで放り出されるのはあんまりだ。
「今日は叔父さんは残業で遅くなるけど、久しぶりに一緒に夕飯食べられるわね。……何か食べたいものある?」
 まるでそれが当然のように叔母さんはニッコリと笑った。
「叔母さんの作ったものならなんでもいい……」
 あたしは暖かいミルクティーをゆっくりとすすりながら、笑い返したつもり、だった。
「そう。それじゃ、クリームソースフォンデュなんてどうかしらね。ちょっと寒くなってきたしね」
 どう? と問いかけるように叔母さんの首が傾げられると、その短めに切りそろえたブロンドの髪が窓から入ってくる夕日に照らされて淡いオレンジ色に輝いた。叔母さんの色の薄い唇は相変わらず笑みを浮かべている。
「うん……。あたしも作るの手伝うよ」
「あら、助かるわ。じゃ、お茶を飲んだら、下ごしらえだけしちゃいましょうか」
 まるで何事もなかったようにニコニコと微笑みながら叔母さんは、自分のティーカップを持ち上げた。叔母さんの頬にもあたしと同じようにそばかすがある。美人じゃないし、どっちかといえば、痩せぎすで少年のような雰囲気がある人。口調はいつも穏やかで、ほとんど怒ることがない。叔父さんはいい人を奥さんにしたと思う。
 叔父さんとお父さんとは十五歳も歳が離れている。だから、叔父さんにしてみれば、あたしたちのほうが兄弟姉妹のような錯覚を覚えるらしい。確かに今年二十八歳になる叔父さんと十四歳になるあたしとだったら、叔父さんとお父さんとの年齢より近いわけだし……。
「ねぇ、叔母さん。……叔父さんと結婚して良かった? 結婚しなきゃ良かったって思うことない?」
 あたしの突然の問いかけに、カーシャ叔母さんは眼をパチパチと瞬かせた。そりゃ、ビックリするよね。何を突然に訊いてくるのかと思っただろうな。さっきまで好きな子に振られたってワンワン泣いていたのに。
「そうねぇ~。80%くらいは良かったと思えるかな」
「へ……? 80%? じゃ、じゃあ、残りの20%は!?」
「もちろん。しなきゃ良かった、ってほうよ」
 相変わらず笑みを絶やさない叔母さんの顔からは、どんな真意があってその数字をはじき出したのかさっぱり判らない。でも、微笑んだ顔は優しくて、あたしの問いかけをはぐらかしたわけではないことだけは理解できた。
「魔法使いに魔法をかけられちゃったのよ。魔法のスコーンを食べてしまったの」
 クスクスと喉の奥で笑い声をあげる叔母さんの顔は、いつもより断然綺麗で、両頬は夕日が染めた朱よりも強い赤みが差していてあたしと大して歳も変わらない少女のようだった。


「サヤッシュと私は職場結婚なの。知ってるわよね?」
 あたしはジャガ芋の皮を剥きながら肯いた。叔父さんと叔母さんの結婚式には、叔父さんの勤めている印刷会社の人が大勢詰めかけていたから、よく知っている。
 カーシャ叔母さんは火にかけた鍋のなかの水に塩を放り込むと、ブロッコリーとカリフラワーを小房に分け始めた。叔母さんの持っているナイフが動くたびにブロッコリーの緑やカリフラワーのクリーム色の固まりがコロリコロリとボールのなかに転がり、綺麗なモザイク模様になっていった。
「私はまだ入社したての新人で、その頃学生時代につき合っていた彼とはちょっと微妙な……そうね、倦怠期に入っていたのよね。……倦怠期って判る?」
 あたしはチラリと叔母さんの横顔を盗み見ながら「うん」と返事をした。学校ではみんな大人ぶりたいから、そういう大人の恋愛に出てくる単語をやたらと使いたがる。十四歳のあたしたちが使うよりももっと重みのあるはずの叔母さんのいう倦怠期がどんなものか知らない。好きな人との間の馴れ合いのような鬱陶しさとか寂しさとかは、失恋したばかりのあたしには想像の遙か彼方の出来事だったし。
 あたしがジャガ芋を剥き終わり、一口大に乱切りにすると、叔母さんは「じゃ、次はこれね」とニンジンを手渡しきた。再びピーラーでニンジンの皮を剥きながら、叔母さんの話に耳を傾ける。
「つき合っていた彼は、ちょっと……その……わがままなところがあってね。自分の思い通りにいかないことがあると、癇癪を起こしたりするの」
 ビックリしてあたしは叔母さんの顔をまじまじと見てしまった。叔母さんの穏やかな顔からは、そんな癇癪持ちの人とつき合っていたとは想像もつかない。あたしの視線に気づいたのか、叔母さんがあたしを振り向き悪戯っぽく眼を細めて笑った。
「その日も彼は、駅前通りにある美味しいって評判の店のスコーンを食べたがったの。……ほら。いつも長蛇の列ができているでしょ?あそこよ。並んでスコーンを買うだけなのに、一時間はかかっちゃうのよね。女の子がたくさん並んでいるところに混じるのが厭だって言う彼を近くの喫茶店で待たせて、私一人で行列にならんだの。寒い日でね……。長時間並んでいるうちに手がかじかんでしまったわ。ようやく買えたときには、一時間半も経っていて。慌てて彼の待っている喫茶店へ向かおうと店を飛び出したの。……彼、待たされるのも大っ嫌いだったから」
「なんで一緒に並んでくれないの? ……一緒だったら、待ってるのだって辛くないのに」
 あたしの声は知らず大きなものになっていた。叔母さんは魚介類の皮を剥いたり、殻を外したりしていた手を休めて、あたしのほうにチラリと視線を向けた。でも、すぐに手元に視線を戻すと、小さくため息を吐いた。
「……そうね。きっと、照れ屋だったんでしょうね」
 殻からポロリと外れたホタテの身が一瞬だけプリプリと震えて、ボールの底で大人しくなる。
「店から慌てて飛び出した私はね、ろくすっぽ周りも確認せずに道路に飛び出したの。……危うく車に轢かれそうになっちゃったのよ、そのとき。サヤッシュが助けてくれなかったら、大怪我していたでしょうね」
「え……!? サヤッシュ叔父さんが助けてくれたの?」
 叔母さんは「そうよ」とニッコリと口元をほころばせた。そんな話初めて聞いた。確か叔父さんは結婚するまでは、あたしたちと一緒に暮らしていたけど、女の子を助けたなんて話聞いたことなかったよ。
「でもね……。せっかく買ったスコーンを道路に全部ぶちまけちゃったの。私は助かったことよりも、その転がっていくスコーンを見て泣き出したい気分だったわ。助けてもらったお礼を言う前に、思わず“スコーンが……”って口走っちゃっていたもの。随分と失礼なことしたと思うでしょ?」
 同意を求められても、なんと答えていいのか判らなくて、あたしは眉をよせて眉間に皺を作った。皮の剥き終わったニンジンをジャガ芋と同じように乱切りにしていく作業に集中しているかのように、叔母さんから視線を外したまま。話のなかの叔母さんはあたしの知らないカーシャという名の一人の女性だった。
 叔母さんはあたしのそんな仕草もいっこうに気にした風もなく、再び淡々と話し始めた。
「サヤッシュはね、自分が悪くないのに“ゴメン”って謝ったのよ。何度も何度も。同じものを買ってくるって言い出したときには、私のほうが焦っちゃったわ。道路に飛び出したのは私のほうだったのにね。たぶん、私が泣きそうな顔をしていたから、サヤッシュなりに慰めようとしてくれたんでしょうけど」
 人の良いサヤッシュ叔父さんらしいと思った。あたしたち兄弟姉妹の遊び相手になっているときでも、叔父さんは泣き出した子どもを笑わせようと悪戦苦闘していた。叔父さんは誰に対しても優しい。
 鍋のなかで湯がクラクラと沸騰し始めていた。叔母さんはカリフラワーとブロッコリーを手早く湯通しして冷水に放り込むと、あたしが切ったジャガ芋とニンジン、それから白小蕪を茹で始めた。
 手持ち無沙汰なあたしに叔母さんからウィンナーと生ハムを切るように声がかかった。あたしは調理台に並べられている食材のなかからそれらを掴み出すと、ウィンナーに切り目を入れ、ハムを一口大に切り分けていった。
「それから、どうなったの?」
 あたしは好奇心に負けて、叔母さんの話の先をせがんだ。
「それから? そう、サヤッシュへのお礼もそこそこに私は彼の待っている喫茶店に飛んでいったの。スコーンは駄目になったから、近くのパン屋で甘パンとサツマイモのシナモンスティックを買い込んでね。……でも、喫茶店に行ってみたら、彼はもうそこには居なかったの。ウィエイターに聞いてみたら、ほんの十分くらい前に出ていったって」
「待っててくれなかったの!?」
 あたしは思わず手を止めて叫んだ。随分とひどいことをする人だと思う。
「待っていてくれたのよ、ずっと。……買ったパンを持って彼のアパートまで飛んでいったわ。どうして私を置いていったのか知りたかったし、スコーンではなくなったけど、一緒にパンを食べようと思ったしね。でも、彼は家にも帰っていなかったの。途方にくれちゃったわ」
 堅めに茹で上がった野菜をザルにあげ、叔母さんは鍋の茹で汁に調理用の白ワインとレモン汁を少々振り入れた。今度は魚介類を湯通しするのだ。手際よく湯がかれ、鍋からザルへと移される貝やエビたちは、ほんのりと白や赤に色づいている。あたしは切り終わったウィンナーとハムを叔母さんの手の届くところまで運んでいった。
「元の駅前まで戻って彼を捜したわ。どうして駅前だと思ったのか、今でも判らないけど。……結局、その日は彼を見つけることはできなかったのよ。代わりに、またサヤッシュと会ったの。彼ね、本当に代わりのスコーンを買いに行っていたの。あの寒空の下、周りは女の子ばかりだっていうのに、自分のものでもないスコーンのために一時間以上もずっと列に並んだのよ」
 茹で終わった野菜と魚介類のザルを押し退けて、叔母さんはウィンナーとハムを次々に鍋のなかに放り込んだ。
「私を見つけるなり飛んできて、スコーンの入った袋を押しつけると、またゴメンって謝り始めたわ。せっかく買ったスコーンを駄目にしてゴメンって。サヤッシュのせいじゃないのにね。……翌日、会社は休みだったから、朝一番に彼のアパートへ行ったの。サヤッシュの買ってくれたスコーンを持って。私の買ったパンは家族にあげちゃったから」
 茹であがったウィンナーやハムをザルに移し終わった叔母さんは、フォンデュ用に使っている浅いホーロー鍋にニンニクをこすりつけ始めた。あたしは茹であがった野菜たちを大皿に見栄えよく盛りつけていく。
「アパートについて彼の部屋のドアチャイムを鳴らしたの。すぐに足音が聞こえて、ドアが開いたわ」
 叔母さんは鍋を火にかけ、バターを小さく切り分けると、その鍋のなかに転がした。
「……出てきたのはね。見ず知らずの女の人だったの」
 あたしは盛りつけていた手を止めて、叔母さんの横顔を凝視した。カーシャ叔母さんの瞳はどこか遠くを見ているようだった。あたしは叔母さんが受けたショックを考えて、一人胸を痛めていた。
「彼女と何を話したのか、忘れてしまったわ。私は逃げ出そうとしたの。でも、足が動かなかったわ。それにすぐに彼が出てきたから……」
 それは聞いているあたしにも息苦しい瞬間に思えた。どんな想いで叔母さんは、彼の顔を見たのだろうか。
「彼はね……、ちょっとだけ気まずそうな顔をした後に開き直ってこういったの。“お前だって昨日は別の男とよろしくやっていただろ”って。何を言われているのか、さっぱり判らなかったわ。頭のなかは真っ白だった。でもね、知らないその女性が彼に寄りかかっているのを見たら、ふいに怒りがこみ上げてきて、手に持っていたスコーンを彼に向かって投げつけて叫んでいたの。“もう私たち終わりよ!”ってね」
 バターが滑らかに溶けると、叔母さんは小麦粉をバターのなかに振り入れて馴染ませていった。
「後は振り返りもせずに駆け出したわ。彼がその後どうしたのかは知らない。駅前近くの公園まで駆け戻ってきて、ベンチに腰を落ち着けてようやくゆっくりと考えることができるようになったの。……たぶん、彼は前日に私がサヤッシュに助けられたところを見たのね。それで誤解したんだと思うわ。だから腹を立てたんでしょうね」
 バターと小麦粉が馴染んでペースト状になると、叔母さんはミルクをゆっくりと回し入れてペーストをのばしてクリーム状にしていった。木杓子でゆったりと鍋の中身を掻き回す叔母さんの動作にはよどみがなく、一連の作業は滞りなく続けられていく。
「彼の部屋にいた女性と彼がどういう関係か判らないわ。もしかしたら、私のほうの誤解だったかも知れない。でも、彼にスコーンの袋を叩きつけたとき、私は本気で彼とのことを終わらせようとしていたことも事実だと気づいたの。私たちお互いにお互いが重荷になっていたのね。それから、彼とは連絡を取らなかったわ。……それで彼とは終わり」
 野菜たちを茹でた茹で汁をホーローの鍋に移しながらも、叔母さんは木杓子を動かす手を休めることはなかった。鍋の半分の深さまで汁を注ぐと塩こしょうを振り、鍋の火を弱め、中火でコトコトとシチュー状になったクリームソースを煮込んでいく。
 叔母さんは木杓子を動かしながら振り返ると、あたしにバゲットを切るように言った。命じられるままに、あたしはパン籠からバゲットを取り出し、パン切りナイフで一口大にパンを切り、パン皿へと積み上げていった。
「公園のベンチで私がボゥッとしているとね、またサヤッシュに会ったの。ジョギングから帰ってきたところみたいだったわね。私を見つけるとビックリしたように眼を見開いて立ち止まったわ」
 木杓子が時々ホーロー鍋の縁に当たってコツコツと音を立てる以外は、叔母さんの声しか聞こえなかった。
「“どうしたの? なんで泣いてるの?”って訊かれるまで、私は自分が泣いていることにも気づかなかったわ。なんと答えていいのか判らなくて、でも何か言わなきゃって思っているうちに、彼に投げつけたスコーンがサヤッシュに買ってもらったものだと思い出してね。泣いていることとは全然関係ないのに、思わず“スコーンまた駄目にしちゃった”ってサヤッシュに言っていたの」
 バゲットを切り終わったあたしは、パン切りナイフを持ったまま、半ば口を開けた状態で叔母さんの話に聞き入っていた。
「サヤッシュはそれを聞いて誤解したんだと思うわ。公園のなかで営業しているスコーンのワゴンストアまで走っていって、スコーンを山盛り買い込んで戻ってきたの」
 クスクスと小さな笑い声をあげるカーシャ叔母さんの横顔は、あたしと同じ十代のように若々しく見えて、すごく可愛らしかった。ボーイッシュな普段の雰囲気とはまったく正反対。
「ベンチまで戻ってきて、私の隣に腰掛けてね。“ここで食べちゃいなよ。お気に入りのスコーンの味には落ちるだろうけど、ここのスコーンもけっこう美味しいんだよ”って」
 あたしは思わず噴きだした。叔父さんの鈍さは昔からだけど、女性が公園のベンチで座って泣いている理由がスコーンが食べられなかったからなんて、おかしいとは思わなかったのだろうか。それとも、叔父さんなりに考えて慰めているのかしら。
 叔母さんは火を止めると、ゲラゲラと笑い声をあげるあたしの額をコツンと小突いた。
「ナギちゃん、笑いすぎ。……さ、あとはチーズを入れるだけだから、あっちで休憩しましょうか」
 その叔母さんの行く手を塞ぐようにあたしは両手を拡げて立つと、ニッコリと笑顔を叔母さんに向けた。
「ね、スコーンを焼こうよ!」


 あたしと叔母さんは他愛のないお喋りをしながら、スコーン作りを楽しんでいた。
「やっぱり訊いてくるんだ、“赤ちゃんはまだ?”って」
「そうね。結婚して四年になるから、近所の人たちも、もうそろそろって思うんでしょうね」
 薄力粉とベーキングパウダーをふるいにかけ、バターを粉とこすりあわせるようにして混ぜていく。砂糖をさらに加えて馴染ませたあと、冷蔵庫で三十分くらい冷やす。
 その三十分の間は、のんびりと紅茶を楽しむ。フォション社のブレンド。あたしはこの紅茶にミルクを入れて飲むミルクティーが大好き。フォションと言えばアップルティーと言う人が多いけど、あたしはミルクティー好みにセイロンやアッサムをブレンドしたこのフォションのオリジナルブレンドの香りが小さく頃から好きだった。
「あたし、ここのうちの子どもになろっかなぁ。うちは兄弟多いから、一人くらい叔父さんのうちの子どもになってもいいと思うな」
 半ば本気であたしが呟いた言葉に叔母さんはちょっと困ったように眉を寄せた。
「そんなことできないわよ。お義兄さんやお義姉さんに恨まれちゃうわ」
「え~? お父さんもお母さんも、あたしのことほったらかしだよ。現に今日だってあたし一人置いて旅行に行っちゃうし」
 口を尖らせて反論するあたしの髪をクシャクシャと撫でながら、叔母さんがニッコリと微笑んだ。あたしのお母さんが最後にこんな風に笑いかけてくれたのなんて、いったい何年前だったろう。
「ナギちゃんのお父さんもお母さんも、ナギちゃんのこと大切に思っているわよ」
「嘘だぁ~。だったら、どうしてあたしを置いていったりするのよ」
 あたしの不満げな抗議に叔母さんはもう一度笑みを返してくると、ちょっとの間だけ瞳を閉じて、何か意を決したように両目を見開いた。薄い灰色の瞳が部屋の照明にキラキラと光っている。
「ナギちゃん、どうして自分の名前がナギだか知ってる?」
 あたしは頭かぶりを振った。変な名前だと思っていたけど、どんな意味があるのかなんて訊いたことはなかった。
 確かに兄弟のなかであたしだけ妙な名前だった。上の姉がアン、兄がアシュレイ。下の双子は弟がフレイ、妹がフラミー。あたしだけ妙に浮いた名前だと思っていたけど、いったいどんな意味があるというのだろう。
「ナギと言うのはね、日本語で風が凪いだ状態を示す言葉なの。だから、日本語ではこう書くのよ」
 叔母さんは立ち上がってサイドボードの上に置いてあったメモ帳と万年筆を取ってくると、たどたどしい手つきで何やら変わった形の図形を書いた。どうやらこれが日本語の文字らしいということは判ったけど、あたしにはまるで見知らぬ文字だった。
「ナギちゃんはね。お母さんのお腹のなかで死にかかったの。生まれてくるときに臍の緒が首に巻きついて窒息してしまってね。自然分娩じゃなくて、帝王切開で生まれたのよ。とりあげられてからすぐに新生児専用の集中治療室に運ばれてね。一ヶ月くらいそのなかで育ったの」
「嘘……」
 そんな話、今まで一度も聞いたことなかった。大雑把な両親は普段からあたしのことはほったらかしで、ジュニアスクールにあがったばかりの双子の弟と妹をかまってばかりいる。落ち着いて自分の赤ん坊の頃の話なんてしたことはなかった。
 カーシャ叔母さんは立ち上がると冷蔵庫から先ほど入れたスコーンの生地を取り出してきた。溶きほぐした卵を全体に混ぜ込み、ミルクを少しずつ加えて生地をまとめていく。
「ナギちゃんのお父さんとお母さんは、その小さな赤ん坊がこれからの人生を平穏に過ごせるように“ナギ”と名付けたの。ちょうどその頃、近所に日本から来ていた大学教授が住んでいたそうだから、その方から教えてもらったのかもしれないわね。
 これは全部サヤッシュ叔父さんから聞いたことだけど、間違いないと思うわよ」
 叔母さんはまとめた生地を板の上に据えてめん棒で器用にのばしていく。あたしはノロノロと立ち上がると、型抜きを手に取り、叔母さんが生地をのばし終わるのを待ちかまえた。
 叔母さんは生地をのばし終わると、その場所をあたしに譲り、自分はオーブンに余熱をかけにキッチンへと向かった。あたしは黙々と生地を型抜きしていく。
 戻ってきた叔母さんはその手に油を塗った天板を持っていた。あたしは型抜きした生地を天板に丁寧に並べていった。
「ナギちゃんはほったらかしにされているわけじゃないのよ。二人ともナギちゃんのこと随分と心配しているの。……たぶん、今回の旅行だって、ナギちゃんを連れていって疲れさせちゃ駄目だと思ったんじゃないかしらね」
「だ……だって、あたしそんなひ弱じゃないよ? 赤ちゃんの頃ならともかく、今は健康で……」
 叔母さんは「そうね」と肯きながら、並べられた生地のうえに溶き卵にミルクを加えたつや出しソースを塗っていく。
「今のナギちゃんは健康そのものよね。でも、お父さんとお母さんのなかではいつまでも、集中治療室のなかでチューブに繋がれていたナギちゃんがいるのよ。何かあったらって、心配で心配でたまらないのよ」
 ふいにあたしは自分の眼の涙腺が弛んだことを自覚した。頬をなま暖かい涙が伝っていく。告白して振られたとき感じたチリチリと焼けるような胸の痛みがぶり返す。
 うぅん、もしかしたら、それ以上に胸が痛かったかもしれない。
「カーシャ叔母さん……」
 あたしの言いたいことが判っているかのように、叔母さんはあたしの頭を撫でて自分の肩を貸してくれた。あたしは叔母さんの肩に頬を預けて、今日二度目の涙を思いっきり流した。
「泣きたいだけ泣きなさいね。……誰もあなたを独りぼっちになんかしないからね」
 叔母さんの言葉が胸に浸みた。それ以上にお父さんやお母さんが今まであたしに伝えてこなかった想いが胸に浸みた。
 あたしは独りぼっちじゃなかった。


 フォンデュの鍋を再び暖め直し、チーズをちぎりながら入れていたカーシャ叔母さんが振り返った。
「天板が熱いから気をつけてね」
 あの後、余熱が終わったオーブンでスコーンを焼き上げたところだった。取り出した天板からスコーンを剥がし、バスケットのなかに並べていく。馴れた作業だけど、ボゥッとしていると指先を天板でやけどする。
 バスケットのなかで丸い身体を寄せ合っているスコーンたちのうえに埃よけのナプキンをかけ、あたしはダイニングのテーブルにクロスをかけにいった。叔母さんの趣味でこのうちのクロスはアイボリー地に草色の刺繍が縁に施してあるだけの簡素なものと決まっていた。
 クロスの皺を伸ばし、叔母さん自慢の保温プレートをテーブルの中央に置く。
 この保温プレートは今流行りの組立キットを工夫して叔母さんが手作りにしたものだ。普通は組み立てるだけのものだけど、叔母さんはタイルや端材でお洒落なトレイみたいな仕上がりにしている。上手くコード収納の部分も処理してあるから、プラグを使わないときはプレートの下側にコードが隠れて、使おうと思えばテーブルの飾りとしても充分に活用できる。
 フォンデュ用の長い串を用意して、それぞれの取り皿を並べる。あたしは自分用にティーカップを、叔父さんと叔母さん用にはワイングラスを用意した。茹でた野菜や魚介類、肉類を盛った皿をテーブルにセットすると、あとはフォンデュの鍋を待つばかりだった。
「ご苦労様。もうすぐサヤッシュ叔父さんも帰ってくるから、そうしたら食事にしましょうか」
 叔母さんはキッチンから顔を覗かせて、あたしのテーブルのセッティングをチェックすると満足そうに微笑んだ。
 クリームソースのほうもチーズが加わって、かなりフォンデュらしくなってきた。そのフォンデュを入念に仕上げている叔母さんをキッチンに残し、あたしは先ほどできたばかりのスコーンの入ったバスケットと貯蔵棚にしまわれていた蜂蜜の瓶を持ってダイニングへと戻ってきた。
 ナプキンを持ち上げてなかを覗くと、美味しそうな焼きめのついたスコーンたちが眠っている。そのスコーンたちをテーブルの上にセットし、バスケットの脇に蜂蜜瓶も置く。
「蜂蜜をすくうスプーンを忘れているわよ、ナギちゃん。それからアプリコットジャムも出しておいてね」
 めざとく足りないものを見つけた叔母さんがキッチンから声をかけてきた。あたしは座りかかっていた体勢から飛び上がると、スプーンとジャムを取りにキッチンに駆け込んだ。
「ねぇ、カーシャ叔母さん。公園でサヤッシュ叔父さんと食べたスコーンは美味しかったの?」
 あたしは途中で途切れていた話をふと思い出して訊ねてみた。
「あぁ、ワゴンストアのスコーンね? もちろん、美味しかったわよ。だって魔法使いが持ってきてくれたスコーンだもの」
 フォンデュの鍋を丁寧に掻き混ぜながら叔母さんは悪戯っぽい笑みをあたしに向けた。そういう顔をすると、叔母さんの顔は少年のように見えるのが不思議だ。
「魔法使い? 叔父さんが?」
「そうよ。サヤッシュは魔法使い。……あのとき一緒に食べたスコーンにはきっと魔法がかかっていたのよ。だって、彼と別れて悲しかったのに、あの後少しも泣かなくて済んだもの」
 クリームソースフォンデュが出来上がったらしく、叔母さんは火を止めると鍋を保温プレートまで運んでいった。あたしが事前に暖めておいたプレートがこれからはフォンデュの暖かさを保つように仕事をするだろう。
 あたしは叔母さんの後を追ってダイニングテーブルまで来ると、スプーンとジャム瓶をバスケット脇に置いた。
「でも、叔父さんと結婚しなきゃ良かったって思うことが20%くらいあるんでしょ? それなのに、叔父さんは魔法使い?」
「そうね。魔法使いでも喧嘩をするときはあるもの。本当にちょっとしたことなんだけどね。……ナギちゃんもお兄ちゃんやお姉ちゃん、それから下の二人と喧嘩したとき、“大っ嫌い”って思うときあるでしょ?」
 あたしはコクンと肯いた。小さい頃は上の二人とよく喧嘩した。普段は小さなあたしの遊び相手をしてくれる二人だけど、時々癇癪を起こして、お互いが意地を張って喧嘩になる。そんなときは、本当に大っ嫌いって思っていた。
 今になって思えば、ほんの些細なことでの喧嘩で、どうしてそんなことで言い合いになったのか不思議なくらい。
「サヤッシュと私も同じ。いつも仲がいいわけじゃないのよ。ときには喧嘩するし、意地も張るの。どれも後から思えばつまらないことなんだけどね。そんなときは“どうして結婚しちゃったんだろう”って思うのよ。
 ……でもね。大抵の場合、腹を立てて口を利かないでいると、どちらかが耐えられなくなって口を開くの。そうなると、喧嘩は終わり。いつの間にか仲直りしているわ」
 叔母さんはキッチンへと戻っていき、再び姿を現したときには、手にワインクーラーとワインの瓶を持っていた。淡いピンク色のラベルがとっても綺麗なワインだ。きっとロゼワイン。
「そんなときも思うの。これはきっとサヤッシュが魔法をかけたんだって。どんなに腹を立てていても、どちらかが話を始めると、機嫌が直っちゃう魔法よ。……ねぇ、ナギちゃん。あなたの叔父さんはとても凄腕の魔法使いだと思わない?」
 テーブルにワインクーラーをセットして、サイドボードに置いてあったティーセットを取り出すと、叔母さんはまた悪戯っぽく笑った。楽しそうに喉の奥からもれる笑い声は、本当に少年があげる笑い声のように屈託がない。
 あたしは椅子に腰を降ろして叔母さんの笑い声を聞きながら、二人のうち、どちらが魔法使いなのか考えていた。叔母さんの痛みを取り除いてしまった叔父さん。叔父さんは魔法使いだと笑う叔母さん。あたしには二人とも魔法使いのような気がした。だって、叔父さんが叔母さんの痛みを癒したように、叔母さんはあたしの痛みを消してしまったもの。
「さぁ。そろそろ魔法使いのお帰りよ」
 叔母さんはニッコリとあたしに笑いかけると、最後までキッチンに残っていたパン皿のパンたちを取りにキッチンへと向かった。
 あたしはその背中を見送りながら、家の外の音を聞き流していた。汽車の警笛が遠くにかすれて聞こえる。近所の猫がナゥナゥと甘い声をあげている。
 シャラシャラと軽快な車輪の音が聞こえてきた。チリリンとこの家の前で鈴がなり、ガチャガチャとペダルが鳴った。
 サヤッシュ叔父さんだ。叔母さんの予感は的中した。……やっぱり魔法使いは叔母さんのほうかもしれない。でも、あたしの口を突いて出たのは別の言葉だった。
「来た……! 魔法使いが帰ってきたよ」
 あたしは飛び上がるようにして玄関へと駆け出した。外の芝生を踏みしめて玄関へと近づく足音に負けまいと、ドアのノブに手をかけて勢いよく開く。
「お帰り!」
 目の前には、あたしと同じ癖の強い赤毛に丸顔で、黒炭のように真っ黒な瞳をクリクリと動かしてサヤッシュ叔父さんが立っていた。
「やぁ、ナギ。そろそろ来る頃だと思ってたよ。ほら!」
 そういうと、サヤッシュ叔父さんはあたしが前から欲しがっていた、叔父さんの会社で印刷している童話を一冊、あたしに手渡してニッコリと微笑んだ。

終わり


【作中のレシピ】

スコーンの作り方(10個分)
●薄力粉200g ●ベーキングパウダー小さじ2 ●バター50g
●砂糖25g ●卵1個 ●牛乳約60cc
●そのほかに、好みのジャム、蜂蜜、生クリームなど
1.薄力粉とベーキングパウダーをあわせてふるう。
2.バターを加え、指先でこすりあわせるようにしてボロボロになるまで混ぜる。
3.砂糖を加えて混ぜ合わせ、冷蔵庫で30分ほど冷やす。
4.溶き卵を加えて全体に馴染ませ、粉がまとまる程度まで牛乳を加減しながら加える。
5.まとめた生地をまな板などの上で1.5cmほどの厚みにめん棒などでのばし型を抜く。
6.薄く油を塗った天板に型抜きした生地を並べる。
7.溶き卵に牛乳を加えたもの(分量外)を刷毛などで生地の表面に塗る。
8.220度に熱したオーブンで10分間焼く。
9.出来立ての温かいスコーンに好みでジャム、蜂蜜、生クリームなどをつけて食べましょう。

クリームソースフォンデュ(四人分)
●エビ4尾 ●ホタテ貝(ボイルが便利)4個
●ブロッコリー1株 ●カリフラワー1/2株 ●蕪2個
●ニンジン1/2本 ●ジャガ芋2個 ●フランスパン(バゲット)1/2本
●クリームシチューの素50g ●牛乳1カップ ●ピザ用チーズ50~100g
●ニンニク1かけ ●レモン汁大さじ1.5
1.ブロッコリー、カリフラワーは小房に分け、蕪は四つ割り、ニンジン、ジャガ芋は乱切りにする。
2.塩を入れた熱湯で以上を堅めに茹でる。
3.茹で汁に酒大さじ1、レモン汁を加え、エビ、ホタテ貝をさっと茹でて、エビは殻を剥く。
4.フランスパンは角切りにする。
5.ニンニクを二つに切り、切り口を鍋にこすりつけ、砕いたクリームシチューの素、水(茹で汁)1/2カップを加えて煮溶かす。
6.牛乳、酒とこしょう少々、チーズの順に滑らかに煮溶かす。
7.1、3、4を串に刺し、鍋のクリームをからめて食べましょう。

※腕に自信のある方は、クリームシチューの素の代わりにホワイトソースを自分で作ってみるのもいいでしょう。
こちらのレシピはトッピングや具を変えることによって、バリエーションが楽しめます。

〔 15001文字 〕 編集

昔語り おりょうさま

No. 35 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 昔むかしのことじゃ。
 このお話は、婆の爺がまだうまれる前のお話じゃよ。




 あるとき、村人が落人(おちうど)をかくまったそうじゃ。戦で負け、落ちのびてきたその若武者は、それはもうひどい怪我で、これでは助からぬと誰もが思う有り様じゃったそうじゃ。
 ところが、村長(むらおさ)の末娘がたいそう気の毒がり、毎日毎日、若武者をかくまっておったお宮のお(やしろ)へ通っては介抱したのだと。
 しかしな、娘の手厚い介抱で、ようようと命をつなげた若武者じゃったがのぅ、娘を嫁にもらいたいと村長に言うてしもうたがために大変なことになってしもうたのじゃ。
 村長はたいそう腹を立てたそうじゃ。
 官位もない、ただの落ちぶれた武士(もののふ)に大事な娘をやるわけにはいかんとおもったのじゃろうなぁ。
 恐ろしいことに、村長は村の若者の何人かに命じてお宮に火をかけさせ、その若武者を焼き殺してしまったのじゃよ。
 燃え上がった炎の向こうからは、村人を呪う武士の叫び声が聞こえていたそうじゃ。あぁ、恐ろしや、恐ろしや……。
 末娘は父の悪行を悲しがり、焼け落ちた社のなかから見つけた若武者の太刀をこっそりと持ち出して、供養のつもりでお宮の裏手にあった大きな大きな池に沈めたのだと。
 それからしばらくして、村長の末娘は村でも裕福な家へと嫁いでいったそうじゃ。それはきれいな花嫁さんだったそうじゃよ。




 娘が嫁いでちょっとした頃からじゃった。村に夜な夜な、それは恐ろしいうめき声が響くようになったそうじゃ。
 誰とはなしに、あの落人が無念がってうめいているのだと噂が広がり、村長も恐ろしくなったのだろう。焼け落ちたお宮を立派な物に建て直し、若武者を弔ってやったそうじゃ。
 それでも、夜な夜な響くうめき声はいっこうに静まることはなかったそうじゃよ。
 身の毛もよだつ不気味な声が村の家々の壁といわず屋根といわず、辺り一帯を覆い尽くして、なんとも凄まじい声じゃったそうじゃ。
 たまりかねた村長が遠くの街から祈祷師(きとうし)を高い銭を払って呼び寄せて、若武者の魂を慰めようとしたが、まったく効き目があがらなんだと。
 村長の末娘の嫁ぎ先では、新たに迎えた嫁が原因だと気味悪がり、離縁してしまおうかとまで考えていたというから、その声の凄まじさたるや……。南無南無……。
 娘は自分が原因で起こっている村の騒動に心を痛め、ふさぎ込んで、とうとう病の床についてしまったらしい。
 来る日も来る日も、夜になると恐ろしいおめき声が風に運ばれて村中を覆い尽くし、村人は夜も眠れぬ有り様に疲れ切ってしまったそうじゃ。
 それからしばらくして、田んぼの稲をようようと刈り終えた頃合いじゃった。村長の末娘の姿が、ぷっつりと嫁ぎ先から消えてしもうたそうじゃ。
 探せども探せども、娘は見つからず、辺りはとっぷり日も暮れてきたし、またぞろ村中を覆うおめきが聞こえ始める時刻になろとしておった。
 村長は娘を探せと村人に命じたが、誰も恐ろしがって家の外へ出ようとはせなんだと。
 結局、村長は一人で松明《たいまつ》をかかげて、村のあちらこちらを一人あてどもなく彷徨うたが、いつもの声が聞こえ始めると、這々の体で逃げ帰ったそうじゃよ。
 いつものように始まった恐ろしいうめき声じゃったが、しばらくすると、その声に混じってなにやらおかしな音が聞こえてきたそうじゃ。
 バシャバシャと大きな大きな魚でも跳ねておるような水音が、お宮様の方角から村の方角へとこだましてきよった。もう、皆恐ろしゅうて、蒲団を頭から被ってガタガタと震えて夜明けを待っておったんだと。
 じゃが、声も水音もいっこうに静かにはならず、それどころか水音が段々と大きくなり、魚どころか、竜が暴れておるような轟音(ごうおん)と共に、村中の家の屋根に滝のような水が降ってきたそうじゃ。
 ザバザバと降り注ぐ水に村人は肝を冷やし、生きた心地がせなんだというぞな。
 長い長い夜が明けて、村人が恐る恐る外に出てみれば、昨夜水しぶきが降ってきたはずの地面はチラリともぬれておらず、きれいなまンまだったんじゃ。
 不思議なこともあるものだと、村の若者が何人かで連れ立ってお宮様へと様子を伺いに出かけてみたそうじゃ。
 お宮はいつも通りに静かで、昨日の騒ぎは(うそ)のようじゃった。
 若者たちは怖々とお宮のまわりを調べたあと、ふと気になって裏手の大きな池へとやってきたのじゃ。
 ところが、あれだけ大きかった池が、どういうわけか一晩ですっかり縮んで小さく干上がってしまっておったそうじゃ。
 どうやら、夜の間に村に降った水はここの池のものだったらしいが、水たまりのように小さくなった池の水がいったい全体、どこへ行ってしまったのか皆目わからぬことじゃった。




 そうそう。池にはな……。娘が沈めた落ち武者の太刀に、娘の身につけていた帯が絡みついて沈んでおったんじゃと。
 それ以来、夜な夜な続いた恐ろしい声は聞こえんようになったんじゃ。
 その後、池から引き上げられた太刀と帯はお宮様の社に封じられ、その太刀と娘の帯を納めたお社様を武者ヶ社(むしゃがしろ)と呼ぶようになり、その社のあるお宮様をさして、村人は「おりょうさま」と呼ぶようになったそうじゃ。
 落ち武者に魅入られた娘を悼んでか、あるいは、村の災厄を取り除いてくれた感謝からなのか。娘の名の『おりょう』から付けられたことには変わりはないわな。
 村長の娘が若武者を好いておったのかどうかは、ついに解らずじまいだったらしい。大人しい娘じゃったそうだで、何も言えずに思い(わずら)っておったのかもしれんのぅ。
 じゃから、お前たち。
 おりょうさまの境内に遊びに行ったら、必ず武者が社に手を合わせるのじゃよ。今も、あのお社の奥には、この世で連れ添えなんだ二人の想いがしまってあるからな。
 この婆も一度、子供の頃に、お社の奥に祀られておる古い太刀と色褪せた帯を見たことがる。……どちらも、なんともいえん、哀しい色をしておったのぅ。




 さぁ、昔語りは終わりじゃ。
 じゃがこれは、婆の母様(かかさま)父様(ととさま)から教えられた大切な話じゃ。
 お前たち。……夢、忘れるでないぞえ?

終わり

〔 2585文字 〕 編集

折れた翼-Requiem-

No. 34 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

この折れた翼を如何にしよう?
もう一度あの大空に羽ばたける緊張の瞬間があるだろうか?
緑滴るパレンバンよ
あの島は今も鬱蒼たるジャングルに覆われているであろうに──

 昭和十六年十二月八日。
 大日本帝国はアメリカ合衆国に宣戦布告した。
 双方に数多の血が流れたこの戦争で翻弄されたのは弱い立場の人民のみで、実質その指揮に当たっていた高官のなかで処罰された者は少ないと言う。


「大熊軍曹殿!」
 背後からの明るい声に栄三郎は振り返った。
 頭に包帯を巻かれ、右腕を肩から吊られた姿で自分に笑みを向ける青年の姿を確認したが、それよりもその青年が看護婦と話している光景が不思議な気がした。
「芝?」
 陸軍飛行学校時代の後輩があっけらかんとした笑みを浮かべている。痛む左足を庇いながら、栄三郎はゆっくりと相手に近づいた。
「お前、背が伸びたなぁ~」
 身体検査ギリギリで飛行学校に合格した青年の背は栄三郎より握り拳二つ分高くなっていた。
「そうでしょう? 背高のっぽたちをことごとく追い越しましたから、もう誰もチビとは呼ばないですよ」
 ニッカリと笑みを見せる表情は背の高さとは反対に随分と幼い印象を受ける。
「なんだお前、女を口説いてるのか?」
 栄三郎のからかう口調に、芝と相手の看護婦が顔を見合わせて吹きだした。
「あはは。違いますよ。この人、斉藤信江さん。同郷なんですよ。まぁ、姉貴みたいなものですよ」
 芝の説明をニコニコと笑顔で聞いていた看護婦が、大熊にペコリと頭を下げた。
「幼なじみか。そりゃ失礼」
 別段、美人でもない看護婦だが丸い身体や笑うと糸のように細くなる眼が人なつっこそうな感じを受ける。
「じゃね。達夫ちゃん、大人しくしてるのよ!」
「ちょっと、その達夫ちゃんはやめてよ!」
 ふくれる芝を残して看護婦は早足で持ち場へと帰っていった。
 広島、呉軍港のこの病院には外地での戦傷者が収容されている。栄三郎もつい昨日、軍港から直送されたところだ。
「飛行学校卒業以来ですよねぇ」
 芝が目を細めて外の景色に魅入る。初夏の若葉が色鮮やかに木々を彩り、空気は生命に溢れている。
 栄三郎も窓の外の明るい陽射しに視線を向けた。
 自分はこんなところで何をやっているのだろうか? 帰りたいと願ったはずの内地なのに、心はひどく空しい。


「この作戦において重要なことは、飛行場内の残存航空勢力を一機残らずおびき出し殲滅することにある」
 隣の小谷中尉のため息を聞きながら、栄三郎は微動だにせず前の部隊長を注視した。
 出撃の時間は迫っている。説明は前日までにじっくり聞かされているのだから、早く解放して欲しいものだ。
 隣の中尉もそう思っているのだろう。ばれないようにそっとため息をつく。これで五回目のため息だ。
「まず爆撃機四機にてパレンバン飛行場上空を旋回し敵機をおびき出し、時間差で到着した我が戦闘機群がその敵機を撃墜する! 囮り機の乗員は戦闘機部隊と密に連絡を取り、敵機を引き渡すよう心がけよ!」
 部隊長の説明が終わったようだ。栄三郎は素早く敬礼すると、上官の後に従って愛機へと歩き出した。四機の爆撃機が銀翼を陽光に鈍く光らせている。
 小谷中尉、河内曹長二人が次々に操縦席に滑り込んで行く後ろ姿を眺める。
 ふと、栄三郎は基地を振り返った。マレー半島の端に位置するこの基地は、冬の季節にも関わらず頬をなでる風が暖かい。
 米国と開戦してからまだほんの二ヶ月。戦局は我が軍に有利に展開していた。シンガポールの陥落も時間の問題だろう。憂うべきことはなにもない。
 だが胸のなかにわだかまる、この重い空気はなんだろう?
「大熊軍曹、何をしている!編隊長機の我が機が配置につかなければ、他の機が離陸できんのだぞ!」
 河内曹長の落雷のような声に栄三郎は飛び上がると、通信室へと潜り込んだ。
「小谷機、配置よぉ~し!」
 機外からの誘導員の声を合図にしたように、機体が滑走路上を滑り出した。地鳴りのような轟音が鼓膜を震わせる。
 胃が浮遊しそうな違和感とともに空に舞い上がった機体の窓越しに、栄三郎はマレー半島とその端に張りつくように建てられた基地に向かって敬礼した。
 ふとその姿勢のまま、故郷の家族の顔を思い浮かべる。今頃、故郷の岐阜は伊吹おろしに吹かれて寒かろう。
 かなりの飛行距離を飛んだあと、栄三郎はゆっくりとした足取りで操縦室へと向かった。
「中尉殿、敵は上手く罠にかかるでしょうか?」
 二度目の通信を報告すべく顔を出した栄三郎は小谷の背中に語りかけた。
「成功させるしかない。一機でも多くの戦闘機を引きずり出すんだ。たとえ我が機が墜ちようとも、な」
 聞くだけ無駄なことは全員が解っていることだ。それを一番年若い栄三郎が口に出しただけのことなのだ。
 囮り機に志願したときから、覚悟していることだ。墜落の二文字は飛行機乗りなら常に意識する。
「チッ! 積乱雲が出始めました。視界が利かなくなる前に高度を上げて雲上に出ないと……」
 河内が滑らかな動きで計器類の確認を始めると、小谷は操縦棹をしっかりと握りしめて機体をゆっくりと上昇させていった。防風窓から他の機も後に続いている姿が確認できる。
 行く手を阻むように拡がる雲海を眼下に眺め、栄三郎は上官たちの横顔を見比べた。
 二人とも日に焼けた浅黒い顔をシッカと前方に向け、鋭い眼光を時折計器類の上に注ぐくらいで、他にいつもと変わった様子はない。
 再び通信室へと滑り込みながら、栄三郎は自分のなかにわだかまる不安を払拭するように頭を振った。


 貧しい家の三男坊に生まれ、喰うに困らないからという簡単な理由で軍隊に入った若者は当然のことながら生活時間の多くを戦いに費やした。
 楽しかったわけではない。むしろ苦痛であったと言ったほうがいい。
 満州で砂まみれの行軍に飽き飽きして、内地に戻るために飛行兵に志願したのだって愛国心からではなかった。
 内地に帰れるのなら嫌われ役の憲兵に志願したって良かったのだ。
 もっとも憲兵は馬に乗れなければならない。どちらかと言えば足の短い栄三郎に「乗馬などは無理だ」と上官から不名誉な返答をもらっていたのだから、志願したところで聞き入れられるとは思えないが。
 内地に帰ってからはその嬉しさから、陸軍の飛行学校へ編入してからも教官の目を盗んでは悪さばかりしていた。飛行学校内でも六期の遠藤、大熊、中村の名はつとに有名で、皆が三人を指して“三羽がらす”と呼んだほどだった。
 遠藤と中村は達者でいるだろうか?
 栄三郎は内地で収容されたこの病院で見つけたお気に入りの場所から、遠くに飛ぶ鳥を眺めてぼんやりと考え込んでいた。


「こちら小谷機。パレンバン島を確認。上空は雲一つない上天気」
 友軍との連絡で電鍵でんけんを叩いていた栄三郎は、ふと手を休めて今はまだ小さな島影をじっくり眺めた。
 あんな小さな島に米国は基地を作っていたのか。日本ならまだ冬のこの時期にもかかわらず、パレンバン島もマレー半島と同じく緑が溢れ返っていた。
 あの小さな島に巣くっている米兵たちを追い払うのだ。
「叩き落としてやる」
 栄三郎は小さく呟いた。
 島影を視界に収めたときから、体中の血が沸き返ってきていた。大東亜戦争が始まる以前から従軍している兵士の血が、栄三郎のなかで目を覚ましている。
 栄三郎の呟きが聞こえたわけでもあるまいが、島から飛び立つ八つの機影が目に入った。
 まっすぐこちらへ向かってくるかと思われた敵機は、正反対の方向へと飛んでいく。まるで、恐れをなして遁走してくようだ。
「大熊! 機銃の準備はできているか!?」
 通信管から河内の声が響いた。
「はい! いつでも発射できます」
「よし! 来たぞッ!」
 栄三郎の答えを待っていたかのように敵戦闘機が反転すると、日本軍爆撃機に襲いかかってきた。
「右上方に二機行ったぞ!」
 小谷の声に河内が応じる声が響いてきた。栄三郎も右側機銃に飛びつく。
「どこだ……?」
「いたぞ! スピットファイヤー、ハリケーンの二機だ! 大熊、よく狙え!」
 河内の声に栄三郎は一層目を凝らす。こちらを威嚇するように飛行する二機が視界の隅をかすめる。
「この……! 当たれ!」
 爆撃機より素早い戦闘機を射撃するのは、骨が折れる。だが経験を積んできた栄三郎たちに出来ない芸当ではなかった。
 一度目の射撃を外したあと、栄三郎は慎重に敵機との間合いを計る。
 機長の小谷が地上からの高射砲を避けつつ、敵戦闘機からの機銃射撃範囲ギリギリの位置を巧みに飛び回る。
「もうちょい……。そうだ、こっちへ来い!」
 花の香りに惹かれて飛んでくるミツバチのように群がる敵戦闘機の鼻先スレスレをあざ笑うようにかすめ飛ぶ。
 そのすれ違い様に栄三郎はありったけの早さで相手に機銃を撃ち込んでいった。
 一機、燃料タンクにでも引火したのか、業火を噴いて失速していく。
「やった!」
 仲間の機が連携して敵戦闘機の背後を襲う勇姿が栄三郎の視界に入ってきた。
「やったぞ、これで二機を撃墜した。あとは……六機か?」
 再び栄三郎は首を巡らせて、残りの敵戦闘機の配置を確認した。味方四機に対して敵は残り六機。まだ決して有利とは言えない状況だ。二機を撃墜したとは言え、油断はできない。
「二、三、四番機! 編隊を組み直し始めました!」
 河内の声が通信管から流れてきた。見れば、今まで個別に戦っていた味方が当初の予定通りの編隊を組み始めている。
「よし! 我が機も合流する。敵に罠と感づかれないよう適度な距離に詰めるぞ」
 小谷が挑発するように敵戦闘機群の間を縫って飛び始めた。
 味方の戦闘機群の機影はまだ見えない。彼らにこの小うるさい蠅どもを引き渡すまでは、決して自分たちが囮りであることを悟られてはならないのだ。
「爆撃を再開する。他の機の様子はどうか?」
「編成に乱れなし! 各機、準備整っている模様です」
 小谷と河内の声に緊迫感が強まる。
「敵戦闘機の様子は?」
「我が編隊を囲むつもりのようです! 四散していた各機が徐々に包囲網を作り上げています」
 河内の声が一層の緊張をみせる。
「駄目か。仕方ない。編隊を解くぞ」
「しかし!」
 抗弁する河内の声を遮るように機長の声が響いた。
「忘れるな。友軍が到着するまでは、敵機を誘い出したままにしておかねばならんのだ!」
 他の爆撃機も編隊を解くと散り散りになる。
 敵戦闘機群を壊滅させなければ、明日以降に予定されている落下傘部隊の投入が遅れていく。
 パレンバン飛行場を占拠するには、敵戦闘機の殲滅は必須だ。
「左上方より敵機襲来!」
「急上昇する!何かに捕まれ!」
 言うが早いか小谷は操縦棹をあらん限りの力で引いた。
 胃の腑を押しつぶされそうな重圧のなか、敵戦闘機の射程範囲から逃れたことを確認すると、栄三郎は敵機の位置を確認しようと窓に顔を押しつけた。
 敵の機影はかなり離れた位置に見えた。
「中尉! 後方の敵機はかなり離れた位置に見えます」
「再度、編隊を組むぞ」
 栄三郎の呼びかけに小谷がすぐさま反応する。
 三々五々に散っていた日本軍爆撃機が瞬く間に集結して編隊を組み直したとき、敵戦闘機群はまだ包囲網を完成させてはいなかった。
「爆弾投下用意!」
 もしかしたら敵戦闘機八機すべてが残っていたとしたら、こうはいかなかったかもしれない。
 本当にほんの僅かの瞬間だった。だがその僅かの時間で爆撃機群たちには充分だ。猛烈な勢いで迫ってくる敵戦闘機の乗員たちにもその光景は見えたはずだった。
「爆弾投下!」
「了解。爆弾投下!」
 基地上空に差し掛かっていた日本軍の爆撃機部隊は、編隊長機の爆弾投下を合図に次々とその腹から禍々しい凶弾を吐きだしていった。
「全機解散!」
 味方基地の噴き上げる炎に気を奪われたのか、敵戦闘機群の包囲網にほころびが生じていた。
 日本軍爆撃機全機は、思い思いの方角へと回避していく。高射砲も届かない上空からの爆撃に基地は南面から火を噴き、ジャングルは赤く染まっていく。
「基地の様子は?」
「敵基地、南側が炎上している模様」
 栄三郎は小窓から眼下を覗く。基地は一部を炎に舐められながらもまだ機能しているかに見えた。だが更なる投下を試みるだけの爆薬はもはやない。
「大熊軍曹! 友軍に通信を入れろ。“我、爆撃に成功せり”」
 小谷の声が誇らしげに通信管から響く。
「了解!」
 栄三郎は嬉々として電鍵を叩き出した。


「おぉ~い。熊! 山賊の熊!」
 栄三郎は頭上からの呼びかけに首を巡らせた。
 学舎の二階から手を振る同期生の姿に栄三郎も手を挙げて答える。エラの張った顔が特徴の中村は、その顔に屈託のない笑顔を刻んでいた。
「田舎からミカンが届いたんだ!喰いに来いよ」
「おぅ、すまんな! もらいに行くよ」
 栄三郎は軽快な足取りで二階に駆け上がると、頑丈な扉枠に頭をぶつけないよう気を使いながら講義室の扉をくぐった。
「おう、来た来た! おせぇぞ!」
「ホラよ! 熊用の餌だ」
 目の前に飛んできたミカンを片手で受け取ると、栄三郎はちょっとその匂いを嗅いでみた。その栄三郎の様子に中村が茶々を入れる。
「あ! なんだ、毒でも入ってると思ってるのか!? 失礼な奴だな。遠藤を見てみろ! 毒が入ってるように見えるか? それにしても、遠藤! お前は猿以下か! 猿だってもう少し行儀良く食べるだろうに」
 遠藤は口のなかのミカンを飲み込みながら、すでに次のミカンに手を伸ばしていた。
「ふはぁいぞ。なひゃむは~」
「きったねぇなぁ。口のなかを空にしてからしゃべれよ!」
 ぎゃあぎゃあと喚く中村と意地汚くミカンを頬ばる遠藤を見比べながら、栄三郎は笑い声をあげた。
「お前ら、どこのガキだ! 少しは落ち着いて喰えよ」
 栄三郎の笑い声が勘に障ったのか、中村が顔を歪める。
「大熊! お前に言われたくないね! この前、寮長の隠してた酒を失敬してきて、一人だけで飲んじまっただろが! お前はあだ名の通り、本当の山賊だ!」
「何を言うか! あれは、みみっちく隠しておくほうが悪いんだ! 酒なんてものは呑んだ者の物だ!」
「かぁ~! 人の物は自分のものかい! いやだねぇ~。俺はそうはなりたくないね」
 二人の舌戦を横目に遠藤は一人で黙々とミカンを胃に収めている。
「こら、遠藤! 一人で全部喰う気か!?」
 さすがに遠藤の食欲に中村が鼻白んだ。こいつは放っておいたら、絶対に一人で食べ尽くす気だ。
「熊! 早く喰えよ。遠藤の奴、俺たちの分を残しておこうなんて了見は持ち合わせていないらしいぞ!」
 木箱一杯に詰められていたミカンがすでに三分の一は無くなり、遠藤の傍らにはミカンの皮がうずたかく積まれている。
 この皮の数だけ遠藤の腹に収まったのだとしたら、胃袋のなかはミカンで一杯に埋まっているはずなのに、遠藤の食欲は一向に止まることがなかった。
「おい! 遠藤。俺の分も残しとけ!」
 慌てて栄三郎が木箱に近寄ると、自分の分だと言わんばかりに両手を木箱に突っ込んで山盛りのミカンを掴みだした。
「お、お前ら! 遠慮ってモンがないのか!?」
「ぬぁい!」「ないね!」
 遠藤と栄三郎に即座に返答されると、中村は天上を一度見上げてため息をついた。聞いた自分がバカだった。
「畜生! 俺も喰わなきゃ損だ!」
 本来のミカンの所有者も参戦してミカン争奪戦は再開された。
 このあと、ミカンを食べ過ぎた三人が三々五々に医務室やらトイレやらに世話になったことは瞬く間に学校中に知れ渡ったのだった。


 誇らしげに爆撃の報告を電鍵に打ち込んでいた栄三郎の身体に異様な衝撃が伝わったのは、その報告を打ち終えようかというときだった。
 栄三郎は電鍵盤がまだ震えていることに気がついた。かなりの衝撃が機体に走ったのだ。軽快なエンジン音を響かせていたはずの愛機が、今は苦しげに呻いている。
「なんだ!?」
 栄三郎は操縦室へと駆け込み、その室内の有り様に息を飲んだ。
「小谷中尉殿!」
 小谷は敵弾の破片を頭部に受けて、全身を朱に染めていた。ガックリと倒れ伏している小谷を支えながら操縦棹を掴んでいる河内の半身も小谷の血がベットリと貼りついている。
 なんということであろうか。敵戦闘機との空中戦で巧みに相手の攻撃をかわし続けていたはずなのに。小谷ほどの熟練飛行士がこんなに簡単にやられて良いわけがない。
 栄三郎は膝の力が抜けていくような気分に、すぐ近くの壁に両手で取りすがった。気づけば、燃料がが白い煙のように機内に噴出していた。
「大熊! 手を貸せ!」
 河内の必死の形相に栄三郎はようやく我に返ると、河内の反対側から小谷を抱えた。
「俺は整備一辺倒で操縦は不慣れだ! 大熊、操縦棹を!」
 蒼白な顔色の河内の手から栄三郎は操縦棹を託されると、機体を安定させようと躍起になる。だが棹は栄三郎をあざ笑うようにジリジリとしか動かない。
 雲間に突っ込んだ愛機は、見る見るうちにジャングルに近づいていく。“自爆”の二文字が栄三郎の脳裏を駆け巡った。
「大熊! 敵基地に機首を向けられるか? どうせ墜落するなら、あの基地を道連れにしてやる!」
 血走った視線をウロウロと辺りに泳がしていた河内が、空いた手で辺りのスイッチを引っかき回しながら叫んだ。
「く……む、無理です、曹長。操縦棹が……」
 渾身の力を込めて棹を引き戻そうとあがく栄三郎の努力に反して、機体は横転、錐もみを続けていた。機体内で身体を踏ん張っているだけで精一杯だ。
「ゆ、友軍だ! 戦闘機部隊が到着したぞ!」
 揺れる機体の制御に気を奪われていた栄三郎の耳に河内の歓声が届いた。思わず栄三郎もその方角に視線を向ける。
 風のように飛来した味方戦闘機群が爆撃機に群がる敵戦闘機を一機、また一機と血祭りに上げていく様子が見えた。
 敵戦闘機からの執拗な攻撃から解放された仲間の爆撃機が、こちらへと飛んでくる姿が栄三郎の目に入った。
「二番水沼機と四番村山機が来ます」
 河内にもその姿は見えていると思えたが栄三郎は口にせずにはいられなかった。僚機は失墜していく編隊長機を気遣うように両側に寄り添い、その翼を振って励まし続けていた。
「作戦は成功したな」
 今までのうわずった声が嘘のような静かな声で河内が呟いた。
 栄三郎がハッとして河内を振り返る。泣きそうな笑顔で河内が僚機に手を挙げるところだった。
 決別の合図。
 これ以上、一緒に飛行していては残りの二機も一緒に墜落する危険性がある。この高度がギリギリのラインと言っていい。栄三郎は我知らずに唾を飲み込んだ。
 死にたくはない。……軍人にあるまじき考え。だが栄三郎はそのとき痛切にそう願った。
 生きたい、生きたい、生きて内地に帰りたい!
 その栄三郎の腕の下で小谷が身じろぎしたのは、河内が僚機との決別を済ませ、二機の爆撃機がゆっくりと高度を上昇させていったときだった。
「小谷中尉殿!」
 栄三郎の声に河内が素早く反応した。
「中尉!」
「……を」
 小谷の囁き声が二人の鼓膜を叩く。
「スイッチを……」
 朦朧とした意識のなかでも小谷は愛機を操縦している。栄三郎は小谷の身体を支えたまま、再び操縦棹を握った。
「引くんだ……。スイッチも……一緒に」
 小谷の声に答えるように栄三郎は操縦棹を引き、河内はスイッチを操作する。だが機体は一向に上昇する気配を見せず、地上はグングンと目の前に迫ってきていた。
 栄三郎の視界一杯にジャングルの緑色が拡がる。
 駄目だ。
 栄三郎たち三人を乗せたまま、戦爆連合編隊長機は南洋の密林へと一直線に吸い込まれていった。


 全身の骨が砕けるかと思うほどの衝撃が身体を襲ったあと、間髪をおかず三人の身体は機体の壁に激突し、その反動で機外へと放り出された。
 愛機は銃弾の痛々しい傷跡をさらし、どうにか爆発もせずに三人を地上へと送り返したのだ。
 栄三郎は身体を動かそうとしたが、断念せざるを得なかった。激痛に息が止まる。どこからか小谷と河内が苦痛に呻き声を発しているのが聞こえてくる。
「中尉殿……! 曹長殿……!」
 喘ぎに近い声で呼びかける。だが栄三郎自身の声が小さすぎるのか、二人から返答はない。
 痛みに混濁している意識が薄れていく。身体が重い。痛い。苦しい。栄三郎は機外へ放り出された姿勢のまま、ピクリとも動けずに気を失った。
 どれほどの時間気を失っていたのか定かではない。全身に叩きつける雨粒で栄三郎は意識を取り戻した。
 空中戦が開始されたのは、正午前後だったはずだ。熱帯地方特有のスコールが降り始めていることを考えると、かなりの時間眠っていたらしい。
 ギシギシと痛む身体を地面から無理矢理引き剥がすと、栄三郎はふらつく頭を抱えた。地面に叩きつけられたときに頭を打ったのかもしれない。
 体中が痛みに悲鳴をあげている。ややもすると混濁しそうになる意識が戻ったのは、この痛みのお陰かもしれない。
 生きている!
 意識がハッキリとして初めて頭に浮かんだのはそれだった。
 生きている。俺は生きている!
 他の何も浮かばない。ただその言葉だけが頭に響く。
「そ、そう言えば……中尉と曹長は!」
 ようやく残りの二人のことを思い出した栄三郎は、痛みでぎこちない動きではあったが辺りを見まわした。
 まだ夕方ではないと思うのだが緑の天蓋のように空を覆う密林とスコールが光を栄三郎の視界から遮っていた。
 薄暗がりのなかに眼を懲らすと、ねじくれた熱帯の樹木の影からゲートルを巻いた足が覗いていた。
「あ……!」
 よろけながらその足の持ち主の元へと歩み寄った栄三郎は、俯せになっているその人物の顔を覗き込んだ。
 小谷中尉だ。
「中尉……! 小谷中尉殿!」
 頭の傷からは血は止まっていたが肩や腕は血に染まったままだ。スコールに全身を打たれてもすべての血を洗い流すことは不可能だったようだ。
 上官の名を呼びながらその肩を揺する栄三郎の後ろから、今度は別の人物の呻き声が聞こえてきた。
「うぅ……。こ……こは……?」
 かすれた声の持ち主は河内だった。栄三郎は小谷の肩に手を置いたまま振り返って、もう一人の上官の姿を探した。
 シダ類の茂みに上半身を突っ込むように倒れている河内が見えた。緩慢な動きで身を起こすその背に栄三郎は声をかける。
「河内曹長殿!」
 その栄三郎の声に河内の意識の覚醒が早まった。
「大熊?」
 先ほどのかすれ声とは反対に意外と元気そうな声が返ってくる。
「大熊、無事だったか。……中尉殿!」
 栄三郎の足元に倒れている小谷に気づくと、河内は這うようにして近づいてきた。小谷の顔を覗き込んだ河内が気遣わしげに上官の名を呼ぶ。
「中尉! 小谷中尉! しっかりしてください、中尉!」
「曹長。中尉の怪我の程度はよく判りませんが手当をしないと……」
 微かに動いている小谷の喉仏が彼の生存を示している。河内もそれを確認すると安堵のため息を小さくつく。
「機内から備品を取ってきます」
 機敏とはとても言い難い動作で栄三郎は立ち上がると、河内の返事も聞かずに愛機へと歩き出した。
 自分たちをここまで運んでくれた愛機は、翼を折られ、窓を砕かれ、機体の各所は大きく歪み、原型を大きく崩していた。
 吹っ飛んで大きく口を開いている入り口からヨタヨタとなかへ這い上がると、栄三郎は応急備品があったと思われる場所へ向かった。
 備品を探し当てて元の場所に戻ってみると、河内が小谷の帽子を苦労して脱がせているところだった。
 血で頭に貼りついた帽子は脱がせにくい。だが力任せに引き剥がせば傷口が開く心配があって思うようにはいかない。
「曹長!」
 栄三郎は上官に呼びかけると、小谷の身体をそっと支えた。小谷の頭を持ち上げたことで作業は格段にやりやすくなったようだ。
 慎重に帽子を脱がせて応急手当を済ませると、栄三郎は再び上官を地面に横たえた。
 手当の間にスコールは止んでおり、辺りからは獣や鳥の鳴き声が間遠に聞こえる。
「大熊、偽装して機を隠さねば」
 ジャングルのなかとはいえここは敵地である。基地には未だ無傷の兵が残っていよう。爆撃機が墜落しただけで爆発などしていないことを敵が知っていれば、捜索隊が出ているかもしれない。
 栄三郎もその可能性に思い至ると痛む身体に鞭打って立ち上がった。
 愛機は無惨なその影を密林の暗がりのなかに溶かし込んでいた。よくぞ自爆もせずにここまで飛んできてくれた。
 一瞬の感傷に胸が詰まる。
 だがすぐにその感傷を振り切るように栄三郎は辺りに生えているシダや地面に落ちている木々の枝を集め始める。
 急がねば、完全に日が落ちる前に作業を完了させなければならない。
 大事な我が機を敵の手中に落としてたまるか。それに、墜落機の発見が遅れるということは、それだけ自分たちの発見も遅れるということだ。
 一言も口をきかないまま栄三郎と河内は黙々と偽装作業を続けた。
 大破したこの機が再び大空に舞い上がる日はこないかもしれない。だがともに空を駈け、敵を追った戦友に違いはない。
 ともすれば、その哀れな姿に涙しそうになりながら、栄三郎たちは夕闇が迫ってきている密林で作業を急いだ。


「あら、大熊さん。こんなところでひなたぼっこ?」
 頭のすぐ上から柔らかな声が聞こえた。見上げれば、芝の幼なじみ斉藤信江の笑顔があった。
「あぁ。ここは風の吹き溜まりみたいで、気持ちいいんですよ」
「へぇ~? 飛行機乗りってみんなそうなの? 風がどうのって?達夫ちゃんもそんなようなこと言ってたし」
 栄三郎が座っている場所は病棟と病棟をつなぐ渡り廊下の外側だ。廊下の両端に立っている腰板に背中を預けている栄三郎の姿は廊下側からはわざわざ覗かない限り見つけることはできない。
 人に会う煩わしさから逃れたいときは栄三郎はだいたいここにいる。
 廊下を行き交う人の足音を背中に聞きつつ建物と廊下に囲まれたこの窪んだ空間にいると現実から切り離されたような感覚になる。さわさわと頬をなでる風も大人しい。
 栄三郎はこの空間が結構気に入っていた。
「飛行機乗りが皆そうかは知りませんよ。でも空を飛ぶ奴は大抵は風を意識していると思います」
 一人の時間を邪魔された煩わしさはあったが、後輩の知り合いを邪険に扱うわけにもいかず、栄三郎は丁寧に答えた。
「そうなの? 大熊さんも飛ぶのが好きなのね?」
 どういう解釈をしたらそんな答えが見つかるのだろう? 栄三郎は彼女の突飛な答えに内心は首を傾げたが、実際には肩をすくめて見せるだけだった。
「ここは大熊さんのお気に入りみたいね? ごめんなさいね、邪魔しちゃったわ。他の人には内緒、ね?」
 悪戯っぽく笑った看護婦の笑顔がえらく眩しく見える。栄三郎は陽射しを遮るように額に手をかざすと、同じように悪戯っぽく笑って答えた。
「えぇ内緒です。もちろん芝にも」
「じゃ、約束」
 そう言うと看護婦は腰板越しに丸みを帯びた小指を栄三郎に突き出した。面食らった栄三郎がその指をしげしげと見つめると、看護婦はプッと頬を膨らませた。
「ほら。指切り! お姉さんの言うことは聞きなさい」
「え?」
 別にそんなことしなくてもいい。いや、それよりお姉さんって言うのはどういうことだろう?
 栄三郎が躊躇いを見せる。それに有無を言わせぬ態度で看護婦が、再び小指を突き出した。
「年上の言うことは聞くものよ? ほら!」
 看護婦の強気な態度に困惑したまま、栄三郎はその柔らかい指に自分の無骨な小指を絡めた。
「はい。指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~ます。指きった!」
 赤ん坊をあやすように優しげな表情で指切りすると、看護婦はふわりとした笑顔を栄三郎に向けた。


 機の発電装置が破壊されているので、友軍との連絡はまったく取れない状態だった。この密林を自力で抜け出さなければならない。
 偽装が終わった頃にようやく意識を取り戻した小谷に肩を貸しながら、栄三郎は夕暮れの鳥の交響楽を聴いた。
 囮り作戦は成功したはずだ。ならば、明日にも落下傘部隊がこの島に投入される。密林から抜け出し、友軍と合流すれば助かるのだ。
「我々の位置は解っているのか?」
 苦しそうな息の下から小谷は囁いた。
「敵飛行場の北側に墜落したことぐらいしか判りません」
 河内が栄三郎の反対側から小谷を支えて返事を返す。
「そうか。落下傘部隊が投入されるのは島の西側平野部だ。西へ進路を取ろう」
 微かな光源から西の方角の見当をつけ、三人は互いを庇い合うように密林を進んだ。足を捻挫していたり、体中を打撲していたりと、満足に動ける者がいないのだから致し方ないが、歩行は困難を極めた。
 三人だけの行軍は遅々として進まない。ところどころで見かける果実や木の実を食べて、苦しい飢えからは解放されたが、ややもすると方向を見失いがちになる。
 日がとっぷりと暮れてからは一層方角が知れなくなり、木の根につまづき、夜行性の獣の唸り声に怯える。
 敵がどこに潜んでいるか知れなかった。それ故に火を焚いたり、ランタンなどに灯りを灯すわけにもいかない。躰は疲労を訴えてくるが、ゆっくりと休憩するだけの気持ちの余裕が三人にはまったく無かった。
 極限の緊張と際限なく続く鈍い痛み。もつれがちな足取りを前へと進めるのは、それぞれの気力だけだった。
「河内、どうした? 足が痛むのか」
 始めに河内の異変に気づいたのは小谷だった。自分を支えながら歩く部下の息がかなり激しく荒い。
「だ、大丈夫であります」
 苦しそうな息の下から聞こえてくる声は決して大丈夫な様子ではない。
「大熊、少し休もう。疲れたよ、俺も」
 小谷が河内の様子を察してつかの間の休憩を申し出る。だがその休憩中でも辺りに気を配ることを忘れない。
「偵察に行ってきましょうか」
「バカ。月も見えないほどの暗闇だぞ。ここへ帰ってこれなくなる」
 栄三郎の申し出は小谷にあっさりと却下された。お互いの表情も判別できないほどの闇が拡がっているのだ。偵察どころではない。
「……はい。河内曹長殿。具合はどうですか? 少し水を飲まれますか?」
 自分も左半身が痺れたままだったが、栄三郎は三人のなかでは一番体力が残っているようだ。
 余力のある者が限界に近い者を気遣わなければ、限界を超えた者は脱落してしまうだろう。この密林のなかで気力体力ともに失ったら、それは死を意味する。
「す、すまん。少しくれ」
 栄三郎は河内の声のする方角へ手探りで移動すると、その手に水筒を握らせた。
 河内の手は酷く熱っぽい感じがする。もしかしたら、躰のどこかの骨を折っているのかもしれない。
 喉を鳴らして水を飲む河内の動作には疲れの色が濃く、間断なく襲ってくる痛みがその疲労を増長させていることが手に取るよう判る。
 しかし栄三郎にはそれをどうしてやることもできない。
 栄三郎は胃に冷たいものが下りてくる厭な感覚を振り払うように努めて明るい声を出した。
「夜が明ければきっと友軍がきます。それまでの辛抱ですよ」
 水を飲み終わった河内が喉の奥で笑う。その笑みに力はなかった。
「俺は生きて帰るぞ」
 唸り声に似た小谷の太い声に栄三郎は振り返った。その視線の先に小谷がいるはずだが暗闇に覆われた小谷の姿はしかと判別できなかい。
「はい。全員で内地に帰りましょう」
 栄三郎は小谷の声に救われたような気分になった。お国のために死ね、と言われても、人はそう簡単に死ねるものではない。まして死への諦観の境地に達するには栄三郎たちはまだ若い。
「子供がな、生まれたんだ」
「……! お、おめでとうございます。いつです? どちらだったのですか?」
 小谷が小さく笑う声が耳に入る。
「先月の九日だそうだ。男だとさ」
 まだ見ぬ息子の姿を思い描いているのか、小谷はそれだけ言うと押し黙った。
「生きて帰りましょう、中尉殿。自分も家族の顔が見たい」
 河内が苦しげな息の下から囁いた。小さな声なのに驚くほどよく響く。
 辺りには温みのある沈黙が流れた。どこから敵が襲ってくるか解らない緊張感のなかでの一瞬の穏やかな安らぎ。それぞれが、それぞれの想いを噛みしめる。
「……そろそろ行くか」
 小谷の呼びかけに全員が身を起こした。
 行こう、日本へ。懐かしきふる里へ。


「あ。そう言えば、大熊さんを探している人がいたわ。どこだかの新聞社の人みたいだったけど? お知り合いの方?」
 栄三郎と指切りしたあと、看護婦の斉藤信江は今思い出したといった様子で栄三郎に問いかけた。
 栄三郎はちょっと考え込んで、今日の昼過ぎに新聞社の人間と会う約束をしていたことを思い出した。
「あ! しまった。約束してたんだ」
 病院にいると日にちや時間の感覚が狂ってしまう。ぼんやりしているときが多いせいか、今日が何月の何日かなんてどうでもよくなってしまうのだ。
「まぁ。それじゃ、急いだほうがいいわよ。お相手の方、随分と探し回ってると思うわ」
 他人事のため、のんびりと答える看護婦を後に残して、栄三郎はあたふたと廊下の腰板を乗り越えて病室へと急いだ。
 栄三郎を取材したいと申し出を受けたのはつい二~三日前のことだ。
 気乗りはしなかったが断る理由も思いつかず、相手の「慣例ですから」との言葉に渋々承諾しただけだった。
 郷里の母親は喜ぶかもしれない。
 栄三郎の胸中にお国のためなどという感情はこのときも芽生えてはこなかった。
 自分は薄情なのか、それともひがんでいるのか。連日の戦勝に酔いしれる世間に取り残され、栄三郎の胸中は侘びしさに満たされるばかりだった。


 暁の鳥たちの交響楽を聴きながら栄三郎たちはジャングルでの朝を迎えていた。
 一睡もせずに行軍を続けていたため、身体の疲れは限界に近かった。一番体力が残っていた栄三郎も全身の倦怠感に悩まされている。
 ただ冬場でも暖かい南洋の密林にいるお陰で、まばらではあるが諸処に果実らしきものが実っていて、ひもじい思いはせずに済んでいる。
 密林のなかは朝になっても薄暗いところが多く、気をつけないとすぐに木の根や下草に足を取られて転倒してしまう。
「どれくらい来たでしょうね?」
「さて?かなり歩いたつもりだがな。河内、お前に合わせて進むから無理をするな!」
 朝日が昇ってからは小谷は栄三郎に寄りかかって歩いていた。
 河内の負担は幾分減っていたが、足を痛めている彼は杖にすがらなければ歩くのは困難な状態だった。道程で見つけた手頃な木の枝を杖代わりに歩いているが、河内の歩みは痛みに遅れがちだ。
「じ、自分なら大丈夫であります」
 平静を装うとするが、青ざめた顔色がそれを裏切る。
 後ろを歩く河内を気遣う小谷を支えながら栄三郎は頭上を覆う緑の天蓋を見上げた。
 ねじくれた枝や蔦があざ笑うように栄三郎の視界から空を切り取っている。もう少し空が見えたら、この閉塞感から解放されるだろうに。
 小さくため息をついた栄三郎の耳に聞き馴れた音が届く。
「……!? ち、中尉! あの音!」
 小谷の耳にも聞こえたのだろう。二人は肩を組んだままの姿勢で小さく切り取られた空を伺った。
「機銃弾の爆撃音……。友軍だ!」
 栄三郎の口から歓喜の叫びが漏れた。落下傘部隊を投入すべく、日本軍が再度の攻撃を開始しているのだ。爆音は遠くに近くにと繰り返し辺りに響き渡った。
「もうすぐだ! もうすぐ合流できるぞ」
 三人は疲れた身体を奮い立たせて、動かぬ体を前へ前へと進めていく。
 もうすぐだ。もうすぐ仲間の元へ行くことができる。もうすぐこの苦しい行軍ともおさらばだ!
 敵基地からも高射砲で応戦しているようだ。間断なく聞こえる懐かしい音に三人の心は舞い上がっていた。
 友軍だ。友軍が来た。
 今までの重い足取りが嘘のように三人は勇んで密林を進んでいく。だがどれほどの距離に友軍が来ているのかはまったく見当がつかない。
 闇雲に進むうちに爆撃音は間遠になり、そして途絶えた。


「聞きましたよ、軍曹殿。新聞に載るんですって?」
 芝が軽快な足取りで近づいてくるのを栄三郎は黙って見守った。
 芝の怪我の具合は随分と良くなっているようで、頭に巻いていた包帯は取れていたし傷はほとんど目立たなくなっていた。元々頑強で怪我の治りが早い質なのかもしれない。
「以前に一度載ってるよ。別に珍しいことでもないだろう?」
 見知らぬ相手からの過剰な賞賛にうんざりしていた栄三郎は、芝の遠慮ない口調にさえ神経がささくれてしまう。
 栄三郎の気難しい顔つきに芝が目を丸くし、驚きの表情を見せた。
「どうしたんですか? あの特派員、なにか失礼なことを言ったのですか!?」
 芝は勝手に勘違いな解釈をしたらしい。
 建物の外に止められている軍用車に乗り込もうとする新聞社の特派員の背中を鋭い視線で睨んでいる。人の良い芝の性格ならそんな解釈もできるのかもしれない。
「何も失礼なことなんか言ってないさ、あの人は。俺が疲れてるんだよ。たぶん、な……」
 栄三郎は疲れた身体をベッドに横たえると軽く目を閉じた。
 芝の困惑する気配が伝わってきた。栄三郎は片目を開けて芝の表情を確認すると、やれやれといった感じで身体をねじる。
 自分の疲れの原因など芝に解るはずもない。芝に当たったところで、気が晴れるわけではない。だがダラダラと話をするには気分が乗らなかった。
「あ! のぶ姉ぇから差し入れもらったんです。喰いますか?」
 大儀そうに身体を起こした栄三郎の脇に屈み込むと芝は抱えていた袋を差し出した。ほんわりと爽やかな香りがもれている。
「なんだお前、姉さんが面会に来たのか?」
 差し出された袋を反射的に受け取ると栄三郎は中身を覗き込んだ。
 夏みかんだ。ちょっと季節的には早いような気もするが、芝の郷里では珍しくないのかもしれない。
「面会なんか来てませんよ。のぶ姉ぇってのは、ほら。前に紹介したでしょう? 看護婦の斉藤信江。のぶえだからのぶ姉ぇ。たぶん誰かからもらったんだと思いますけど、遠慮なく食べてください」
 栄三郎は丸い体型の看護婦の顔を思い出して顔をほころばせた。もらった夏みかんを弟分たちにも分けてくれたわけだ。
 夏みかんの明るい色が彼女のふんわりとした笑顔と重なって、栄三郎はなんだか面はゆい気分になった。
「遠慮なく頂くよ」
 口腔一杯にじわりと拡がるその甘酸っぱい味をゆっくりと楽しむ。丁度、小腹が空いてきたところだったので、夏みかんの酸味が胃に染みわたった。
 栄三郎は胸のなかに溜まっているもどかしい寂寥感がほんの少し薄まった気がした。
「芝。斉藤さん、幾つなんだ?」
「? ……のぶ姉ぇの歳ですか? 俺より二つ上だったと思うけど?」
 栄三郎の突然の問いかけに芝は首を傾げながらも、先輩の機嫌が直ったことに安堵したようだった。
「のぶ姉ぇの歳がどうかしたんですか?」
「別に。ちょっと気になっただけだ」
 歯切れの悪い栄三郎の答えに芝の顔が怪訝そうに歪んだ。
「なんですか? ……ま、まさか!」
 どう言ったらいいものか、と顔を引きつらせる芝の視線から逃れるように栄三郎は立ち上がった。そして、そのまま窓際まで足を引きずって歩く。
 自分より一つ年上の看護婦の顔を脳裏に思い浮かべながら、栄三郎はぼんやりと考え込んだ。
 骨髄を損傷し左半身の自由が利かなくなった自分が空に舞う日はもう二度とこないだろう。どうせ長くない人生だがこれからは愉快でもないことをやって生きていくよりは、心穏やかに過ごして生きたいものだ。
 戦いのなかで敵に銃口を向けておきながら、自分だけ平穏に暮らそうというのは贅沢なことだ。
 だが栄三郎の飛行機乗りとしての生命は終わっている。それならば、少しくらい他の夢を見てもいいではないか。
 燦々と降り注ぐ太陽の光を窓越しに振り仰ぐと、栄三郎は抜けるような青空に憧憬の視線を送った。


 駄目か。このまま友軍と合流できないのか。
 爆音が聞こえなくなると、三人の足取りは途端に重く鈍いものになった。互いに顔を見合わせて、その顔に浮かぶ焦りと失望に一層孤独を深めていく。
 密林の木々が徐々に少なくなってきていた。もうすぐこのジャングルも途切れるはずだ。だがその先に彼らが求める友軍の姿はないかもしれない。鈍った足取りは止まりそうになる。
 そんな彼らの耳に再び聞き馴れた爆音が聞こえてきた。この音は……。
「手榴弾の爆発音だ!」
「落下傘部隊だぞ」
 期せずして三人の口から歓喜の絶叫があがった。
 相変わらず爆音は近づいたり、遠退いたりして友軍との距離は定かではない。だが確実に近づいてくる戦友たちの姿を思い描いて、三人は再びジャングルの端を目指して歩き出した。
 そして、とうとう密林を抜けると弾音は一層間近に聞こえ、その激しさを増した。すぐそこに友軍の突撃の喊声すら聞こえ出す。
 密林を彷徨っているうちに日は落ちかかっていた。爆撃音を聞いてから何も食べずに歩きづめていたが空腹感を感じる余裕もない。
 平野部をよろけるように進んでいくと、やがて遙か前方に民家らしきものが見え始めた。
 地面の各所に塹壕が数カ所掘られている。建物と自分たちの今の位置から見て、ほぼ中間地点の塹壕に敵軍旗が見えた。手榴弾と機銃で応戦しているのだ。
 その建物からこちらに向かって駈けだしてくる一団の姿が目に入った。三人ももつれる足にかまわず駈けだす。
 ウォンと空気を震わせる鬨の声がその一団からあがる。
 塹壕に張りついていた敵軍が背後の自分たちに気づく。彼らは前方の敵と挟撃されたと勘違いして、泡を喰って散り散りに逃げていく。
「日本軍だぞぉ~!」
 三人は絶叫しつつ駈けだしていたが、足をもつれさせてもんどり打って倒れると、そのままへたへたと座り込んでしまった。
「お~い! おぉ~い!」
 自分たちに呼びかける仲間たちの声に胸が震える。勇んで駆けつけた戦友たちの腕に抱えられると、三人は堪えきれなくなって泣き始めた。


 友軍に救出され軍艦でマレー半島へ運ばれる間に、栄三郎たち三人は自分たちが勝手に英雄に祭り上げられていることを知った。
 少年兵だった頃には憧れていた英雄というものに自分がなっている、この不可解さが栄三郎に言いようのない苛立ちを募らせた。
 そんなものになりたくはない!
 だがどう反論しようと上司がお抱えの新聞社特派員に連絡を入れ、彼らを記事にするよう手はずを整えていた。
 勝手に作られていく偶像に栄三郎たち三人は途方に暮れるしかない。
 人々の勝手な賞賛に栄三郎は疲れ切っていた。
 自分の翼は今もあのジャングルで眠る愛機とともに折れ飛んだのだ。こんな身体では二度と空に舞う日はこない。あの緑の天蓋を見上げることももうないだろう。
 鬱蒼と茂る密林は自分のなかの何かさえ覆い隠してしまった。今の自分にいったい何が残っているというのか。
 生きて帰ってきた。
 ただそれだけが今の自分に残っている。これから先がどうなるかなど神でもない自分に解るわけもない。
 だけど……いや、それでもいい。
 生きて、生きて、生き抜いて……。
 そして静かに土に還ろう。
 自分のなかでだけ結論を出すと、栄三郎は自分でも気づかないうちにうっすらと笑みを浮かべていた。
 入院してから、いやもしかしたら飛行学校を卒業してから初めて浮かべる、穏やかで自然な笑みだったかもしれない。


 西暦一九九六年(平成八年)五月十七日。
 大熊栄三郎永眠。
 これでまた戦争の記憶を残す者が一人減った。
 彼はあまり多くを語ろうとはしなかったので、医者に「この戦傷では、四十歳まで生きられない」と宣告を受けながら、彼がその倍以上の人生を歩んだことを知る者は少ない。

終わり

この物語は亡くなった祖父に捧げる鎮魂歌である。君よ、心安らかに眠れ……。

〔 18168文字 〕 編集

脱出 【ある生物】

No. 33 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 その生物はいつも考えていた。
『外の世界で生きたい』
 それの棲んでいる世界は穏やかであった。暖かであった。静かな微睡みの中にあった。
生物は考え思う。
『どうしてここは、こんなに変化がないのだろう。あぁ、外の世界へ行きたい。外のあの荒野へ行って己を強くしたい』
 温暖な世界に馴れきった仲間たちはうららかな日差しに目を向けて、ボゥッとしている。
 時間の境界線がない、昼だけの世界。寒暖の差などない、ぬるま湯のような世界。他人と競って生きる必要もなく、ほどほどに生きて死んでいく。
 毎日……この概念が昼だけの世界に当てはまるのなら……一定の時間に自称『管理人』がやってくる。
 彼はやってくると生物やその仲間たちに食べ物をくれる。それも人工的に加工したものばかりだ。そして、一人一人に声をかけていく。
 生物はそんな言葉など無視しようと外の吹き荒れる荒野をジッと眺めた。
「おい! お前はまだ陽の光を見ないのか。どうしてそんなほうばかり見ているんだ」
 管理人が怒りと悲しみを生物にぶつける。しかし生物は管理人から顔を背けて外の世界のことを思う。
 諦めてこの世界から出ていく管理人がその世界の境界線の扉を開けたとき、外の世界の空気が少しだけ流れ込んできた。
 生物は喜びに全身を震わせた。仲間たちは恐怖に震えおののいている。
『あぁ、外の世界よ。なんて清楚な風の流れだろう。行きたい。行ってみたい。あの吹きすさぶ風の中の大地に降り立ちたい』




 なんの変化もない世界。まだるっこしいこの世界にある日、突然の闖入者たちがあった。
 あの『管理人』の奴がしきりと頭を下げて、その闖入者たちに話しかけている。そいつらは仲間を一人一人見ては、管理人に何事かを告げていた。
 最後に生物のところへきて言った。
「なんだね、この出来損ないは!!」
 生物はこの闖入者の言った言葉を理解できなかった。頭を下げて謝っている管理人が今日は随分と小さく見えた。
 ナンダネ、コノデキソコナイハ……?
「捨ててしまいなさい、こんなもの!!」
 闖入者は怒って去っていく。生物は訳も解らずに立ちつくした。
『なんだあいつらは。変な奴』
 後に残った管理人はため息をついて生物を見上げた。つまらないものを無くしたときにつくため息のようにどこかなげやりな感じのするため息だ。
「やっぱり駄目だったか」
 管理人のことなど意に介さず、外を見続ける生物の体を管理人は無造作に掴み持ち上げた。そのまま扉へと向かって歩き出す。
 仲間たちが悲鳴を上げている。外への恐怖と仲間の運命に身をよじり震わせる。
 しかし生物は外の世界へと連れ出される喜びに全身を揺らした。
『外だ! 外へ行くんだ!』
 寒風が体に吹きつけたかと思うと、生物は投げ出されていた。
 抵抗することもなく身を横たえ、徐々に冷えていく体とは裏腹に生物は歓喜の叫びを上げ続けた。




 一週間もした頃、生物は自分の死を感じた。だが、同時に新たな命の産声も聞いていた。
 ある晴れた暖かな初春の日、巨大な温室農園の敷地に隣接した荒野の片隅に、縮れ枯れ果てた一本の向日葵の下から小さな芽がその荒れた大地から萌え出していた。

終わり

〔 1350文字 〕 編集

■全文検索:

複合検索窓に切り替える

■複合検索:

  • 投稿者名:
  • 投稿年月:
  • #タグ:
  • カテゴリ:
  • 出力順序:

■メール


編集

■カレンダー:

■最近の投稿:

■日付一覧:

■日付検索:

■ハッシュタグ:

  • ハッシュタグは見つかりませんでした。(または、まだ集計されていません。)

■新着画像リスト:

全0個 (総容量 0Bytes)

▼現在の表示条件での投稿総数:

5件