石獣庭園 -Wing on the Wind-

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ナジェール譚

No. 28 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
金と紅 Part:2

「やかましいぃっ! 出て行けーっ!」
 次々に飛んでくる小物類を避けながら、アダーリオスは更なる説得を試みる。結局は無駄に終わるであろうことを予測しつつ……。
「いい加減に落ち着けよ、ミノス。怒ったって仕方ないだろ!」
「黙れ! 誰のせいだと思ってるんだよ!」
 よりいっそうの怒りを込めてナイフが飛来した。アダーリオスは慌てて身をよじって後退する。
 目にでも突き立ったら、失明してしまうではないか。
「危ないな! 元はといえばお前が悪いんだろ! 余計な食い意地なんか張るからだ。自業自得だっていうの!」
 一歩間違えたら、殺し合いにでも発展しそうな雰囲気だ。
 食事が終わるや否や、ものすごい勢いで金蠍蛇宮へと帰ってきたミノスは、当たり散らせる物という物すべてを叩き壊してまわった。
 従者たちが恐れをなして、牙獣王宮へ帰り着いたばかりのアダーリオスに助けを求めに走ったのも頷ける暴風雨だ。
 いつも一緒に行動していることが多いアダーリオス以外で、ミノスのヒステリーを抑えることができる人物はいまい。
 しかしそのアダーリオスにしても今回のヒステリーには手を焼いている。ミノスが疲れて座り込むか、怒りを吐き出すことに飽きるまで収まりそうもない。
「出てけっ! 出て行けったら!馬鹿野郎ーっ!」
 もはや絶叫と変わらない怒鳴り声を響かせてミノスは荒れ狂い、辺りの小物類をアダーリオスへと投げつける。
 そのアダーリオスは飛び交う凶器を叩き落とし、蹴り飛ばしてミノスが鎮まるのを待ち続けているだけの状態だ。
 金蠍蛇宮殿の外ではミノスの数年ぶりの凶行に従者たちがオロオロと狼狽し、手を取り合って座り込んでいる。主人の身に起こった出来事を知る由もない従者たちはただただ心を痛めて、主人の怒りが収まる時を祈るように待ち続けていた。
 普段のミノスは悪態はつくし喧嘩はしょっちゅうという傍若無人ぶりだが、従者たちに粗暴な振る舞いをすることはなかった。その彼がこれほど見境もなく暴れ狂っているのだ。よほど腹立たしいことが起こったに違いない。
 初めて彼がその美貌からは想像もつかない凶悪な形相を人前でさらしたのは、彼が正闘士に選ばれる直前のことだった。
 正闘士を決める闘技戦を数日後に控えたその日、対戦相手の取り巻きの一人が発した言葉がミノスの逆鱗に触れたらしい。
 ……らしい、という憶測の域を出ないのは、この半死半生の目に遭った男が、今はミノスの従者としてこの宮殿に仕えているために主人の不利益になりそうなことを語らないからだ。
 よもや殺しはすまい、と傍観していた兵士たちが、ミノスの容赦のない拳に数多の負傷者を出しつつも止めに入らなければならなかったことを考えれば、その怒りの鉄拳がどのようなものであったか推し量れよう。
 そのとき以来、ミノスはこのヒステリーの発作を起こしていない。吹き荒れるヒステリーの嵐が過ぎ去るまで従者たちはじっと堪え忍ぶしかないようだ。
 かなりの時が経ち、所在なく宮殿のまわりを彷徨いていた従者たちが疲れて一所へ固まり始めた頃、背後からの声が彼らの心臓を鷲掴みにした。
「ここで何をしているのだ、お前たち」
「……!!」
 目を白黒させて振り返った彼らは声の主を確認するや、魂の抜けたように表情で相手を見上げた。
 銀月の光に照らされてなお紅い髪が夜風に流され、それに縁取られて雪よりも白い肌が夜目にもはっきりと浮き上がる。さらに見つめる瞳は氷色。なのにその奥には地獄の業火もかくやという底光りする輝きを湛えていた。
 魔人が地上に現れたなら、こんな瞳をしているに違いない。
「お前たち、ここの宮殿の侍従ではないのか?」
 再び宵闇を切り裂く声が従者たちにかけられた。
 その間、従者たちは人形のように突っ立ったまま動かなかったのだ。現れた紅の麗人に魅入られていた、と言ったほうがいいだろうか。
 一人が我に返ったように頭を振り、鄭重に跪くと、麗しい来訪者に応対する。
「ご来訪に気づかず失礼を……。海聖宮殿の御方とお見受けいたしましたが……?」
 相手が軽く頷くのを確認して、従者は再び口を開いた。
「我らはこの金蠍蛇宮殿と牙獣王宮殿に従事しておる者でございます。実は……」
 その従者の答えを遮る破壊音がわき起こった。猛々しい音とともに崩れた壁から吐き出された人物を見て、従者たちは蒼白になる。
牙獣王(レンブラン)様!」
 何名かの従者が吹き飛ばされたアダーリオスの元へと走り寄った。
 幸い怪我らしい怪我をしている様子はない。壁に叩きつけられ、ぶち破った衝撃のために一時的に体が動かせないだけらしい。
 従者に助け起こされ、ブツブツと不平を鳴らすアダーリオスに見守る従者たちの間から安堵の吐息が漏れる。石片を払いのけながら、アダーリオスは心配ないと従者たちに笑顔を向けた。
 その表情が従者たちの脇に立つ人物を捉えた途端に固まった。
「カイゼル!こんな所で何をしてるんだ!?」
 闇に浮かぶ白い顔が無感動にこちらを見つめている。その表情からは心中の動きなど微塵も伺えない。
「大蛇が暴れ回っているようだな……」
 鉄仮面が口を開いた。カイゼルの口調からは人間臭さなど片鱗も見えない。何を考えてこの辺りを彷徨いていたのだろう。
「責任に一端は君にもあるんだぞ。食堂で君がミノスを無視し続けていれば良かったんだ」
 上目遣いで恨みがましい口調のアダーリオスの態度から、ミノスのヒステリーの原因が目の前の紅の麗人であることを悟った従者たちが彼から後ずさる。
 とんでもない人物が現れたものだ。非難するアダーリオスはと言えば、ミノスをなだめすかすことに疲れたのか、ゴロリと瓦礫の上に転がって溜め息をついていた。
 アダーリオスの言葉にも痛痒すら感じていない態度でカイゼルは宮殿の奥部に視線を走らせた。その二人の様子を従者たちは遠巻きにして見守るしかない。
 その従者たちの視線の先でカイゼルの表情がゆっくりと動いた。初めは目の錯覚かとも思ったが、それがまごうことなく微笑を刻んだのを確認して、従者たちは戦慄にも似た驚きに茫然となった。
 その空気を敏感に感じ取ったアダーリオスが、従者たちを見回し、その空気の原因らしいカイゼルへと視線を向けた。
 だがアダーリオスがカイゼルを振り返って見たときには、すでにカイゼルの美貌に浮かんだ表情は跡形もなく消えていた。それでも従者たちの様子から彼の顔に浮かんだ感情の見当がつく。
 食事のときの不機嫌さを思い出して、アダーリオスはムスッと頬を膨らませた。
 またミノスだ。この紅の鉄仮面は普段は他人に無関心で、必要最小限の感情しか出さないくせに、なぜかミノスのこととなると鮮やかな表情を浮かべてみせる。
 嫉妬にも似た腹立ちにアダーリオスは自分自身、少々戸惑った。しかし、年頃の娘のようにヒステリーを起こすだけで、この麗人の美貌に微笑を浮かばせることができるのなら、自分もヒステリーを起こしてみたくなるではないか。
「彼はまだ奥にいるのか?」
 鬱々と思考を巡らせていたアダーリオスに冷めた声がかかった。
 ギョッとして顔を上げたアダーリオスのすぐそばに暗い(ほむら)を燃やす瞳がある。黄昏の正殿で見た神々しいまでの闘士の姿はそこにはなく、北の氷原に立ち尽くす魔人の出で立ちそのもののようだ。
「あ……あぁ。いる、と思う」
 そうか、と呟きを残してカイゼルは金蠍蛇宮殿へと歩を向けた。驚いて止めようとする従者の脇をすり抜けてカイゼルは宮殿の入り口に手をかけた。
「どうする気だよ? 今のミノスは手負いの獣そのものだぞ。君に会ったらいっそうひどくなると思うけどね」
 アダーリオスの言葉にカイゼルが立ち止まり、肩越しに振り返った。相変わらずの淡々とした口調で返事が返ってくる。
「責任の一端は私にある、と言ったな? 金蠍蛇(ムシューフ)をこれ以上放っておくとまわりの人間が迷惑だ。私なりに責任を取らせてもらおう」
 だから口出しをするな、ということか。それほど大柄でもないのに、アダーリオスたちの前に立つカイゼルの体がこのときばかりは異様に大きく見える。
 アダーリオスは呆れたとばかりに肩をすくめ、やけになったように再び口を開いた。投げやりな口調が彼がこの一見に飽き飽きしていることを物語っている。
「もしミノスの奴が奥にいなければ、南の高楼にでも登っているだろうよ。いつもあそこで頭を冷やしているからな」
 カイゼルが怪訝そうに片眉をつり上げた。たった今、奥にいるか? との問いに、いるはずだと答えたばかりではないか。そんなカイゼルの態度にアダーリオスは問われもしないのに話し出す。
「どこの宮殿でもあるはずだけど、この金蠍蛇宮殿にも抜け道があるんだ。いなけりゃ、それを使って外へ出ているはずさ。
 そうなると、この神域であいつが行くとしたら南の高楼くらいだよ。ミノスは独りになりたいときは、たいていあの場所にいるんだ」
 感心した様子もなく、カイゼルはくるりと背を向けて入り口をくぐっていった。聞きたいことは全部聞いた、ということだろう。
 優雅な足取りだけを見ればそれは美しい光景なのだが、彼の態度はあまりにも冷徹に見えた。
「よろしいのでしょうか? あの方にお任せしても……」
 猜疑心を捨てきれない従者の一人がアダーリオスにおずおずと尋ねる。あの冷淡な表情でミノスのヒステリーを鎮めることができるようには見えなかった。
 現に行動をともにしているアダーリオスにさえ、止められなかったのだ。
「大丈夫だろうさ。もうオレの手には負えないんだし……」
 カイゼルの姿が宮殿のなかに消えてからしばらくして、アダーリオスは従者に付き添われて自分の宮殿へと向かった。
「金と紅……。互いが互いを凌ごうと争っているようだな……」
 ぼそりと呟いたアダーリオスの声は彼を支えている従者の耳にも聞こえないくらい小さなものだった。


 無人の塔は朽ちかけた痛々しい姿の半分を闇色に染め上げていた。
 神域の拡張とともに新築された物見櫓は、ここから東西に幾分離れた二地点にある。もはや使用されない以上、この高楼が取り壊されるのも時間の問題であろう。
 息の詰まるような静寂を破ったのは、砂利を踏みしめる微かな足音だった。すべてを拒絶するような、あるいはすべてを肯定するような、厳粛な足取り……。
 毛織物特有の衣擦れの乾いた音。衣装に縫い込まれた刺繍が微かな月の光に煌めく密やかな輝き。闇のなかで浮き上がる白い顔。……そして、水晶よりも艶やかに光る双眸と燃え立つ炎よりも紅く長い髪。
「なるほど……。確かにここにいるらしいな」
 殷々と響く声が夜風に運ばれて消えた。
 何を根拠に、この塔にいると断じたのか伺い知ることはできない。石壁を叩いたり、絡まる蔦をむしり取ったり、カイゼルは熱心に、そして物珍しそうに使い古された物見櫓のまわりを彷徨いた。
「見事な造りだ。北にもこれだけの建造物があれば……」
 感嘆の吐息が漏れ、それも風に運ばれていった。
「……何しにきた!」
 殺気立った声がカイゼルの頭上から降ってきた。ついと見上げれば、櫓の頂上付近から黄金の煌めきが覗いている。
 ミノスだ。声を聞いてすでに判っているであろうに、カイゼルは首を傾げて改めて確認する。
金蠍蛇(ムシューフ)か?」
 無言の返答が返ってきた。それだけで充分だ。カイゼルは躊躇うことなく高楼の入り口を潜った。恐れる素振りは微塵もない。
 誰も使っていない割には、塔のなかは以外にきれいなままだ。もう少し朽ちた木材や崩れた石材やらが散乱しているかと思ったのだが。無人だというだけで、まだ使っているのではないだろうか? とてもうち捨てられたとは思えない。
 外でかかった声の主の元へと急ぎながらもカイゼルは興味深げでにまわりの壁や手すり、足下の石床を観察し続けた。
 見れば見るほどに北の備えとして欲しい建造物だった。これだけの材料を氷原で手に入れるには並大抵のことではない。この資材が運べるものならば……。
 考え事をしながらの速度であったが、ついに塔の頂上へと到着した。
 開け放された扉の向こうに澄んだ星の光が見える。月が少し翳っているのか、星たちはチリチリと啼いているように瞬いていた。
 穏やかな空だ。氷原の空がこんなに優しい表情を見せるときなどほとんどない。いつも吹き荒れる風に目を覆って足早に家路へと急ぐばかりだった。
 わずかな感傷に胸を焼いた後、我に返ってカイゼルは頂上の石畳へと踏み出した。
 目的の人物はすぐに目に入った。逃げも隠れもせず、じっと自分が到着するまで待っていたらしい。蒼い星のように輝く瞳が自分へ向けられている。
 奇妙な快感だった。カイゼルにとって人に見られるということは、好奇の視線の前に立つということを意味していた。それなのに、この相手は興味本位な視線を向けはしない。
 敵愾心も露わに、自分をねじ伏せようと殺気立っている。神に選ばれた同じ正闘士の地位にありながら、その蒼い瞳は自分を倒すべき仇敵としてしか認識していないようだ。
牙獣王(レンブラン)は怪我もないようだ。後から詫びを入れに行ってきたらどうだ?あれはどうみてもやりすぎだからな」
 自分がいつも以上に饒舌になっている。
 なぜか新鮮な気分だ。普段はあまり人と話をする機会などないせいだろうか? いや、違う。黙ったままで睨み合っていたら、きっと彼の瞳に呑み込まれてしまうからだ。沈黙に耐えられないのだ。
「大きなお世話だ。……お前の言うことなんか、誰が聞くかよ!」
「少なくとも、私の弟子は私の言いつけを守るがね。君とはウマが合わないな……」
 弟子、と聞いてミノスの眉がピクリと震えた。
 正闘士と言っても、ピンからキリまで色々だ。力のある正闘士ほど弟子を育て、新たな闘士見習いを神域へと送ってくる。それが腕の良い正闘士の目安でもあった。
 まだ成年に達していないミノスには、弟子をとるほどの技量はまだない。今のところは自分の力を高め、より強くなることが彼の最大の関心事だ。
「フン。子育てしてる暇があったら、北の警護を強化したらどうだよ。氷原は設備が貧しいらしいじゃないか。神域から派兵される兵士たちが一番行きたがらない地区だぜ?」
「……やれるものなら、とっくにやっているさ」
 忌々しげに口元を歪めたカイゼルの表情にミノスが一瞬たじろいだ。言葉のあやでつい相手の足下を見るようなことを言ってしまったと後悔しているようだ。
 カイゼルのほうもそんな相手の動揺を見透かしているのか、冷酷な仮面をかぶり、じろりとミノスを睨ねめつける。
「神域でぬくぬくと育ったお坊ちゃんにとやかく言われるのは不愉快だな。自分の未熟さを友人に当たり散らして発散する程度の者がよくも正闘士に選ばれた。神域の威厳も堕ちたものよ」
 カイゼルの冷笑にミノスの瞳がカッと見開かれた。眦まなじりが避けるほどに開かれた瞳から蒼い炎が噴きだしている。
 対するカイゼルの氷の瞳にも、冷たい炎が揺れていた。触れれば火傷しそうなほどの緊張感が二人の間に張りつめる。
「言わせておけば……!」
 怒りに震える拳をさらにきつく握りしめ、ミノスが大きく一歩を踏み出した。それに応えるようにカイゼルも一歩踏み込む。
 ギラギラと輝く蒼い視線と氷の視線が空中で火花を散らした一瞬後、一人は黄金色の風となって、一人は逆巻く炎ほむらとなって、互いを凌ごうと拳を繰り出した。


「なめるな……! お前なんかに……」
 カイゼルへと走り寄ったミノスが電光石火の勢いで右手を突き出す。それをヒラリと舞ってかわしたカイゼルが踊るように蹴りを出す。
 横っ飛びにミノスはそれを避けた後、相手の懐へ飛び込んでいく。目の前に迫った相手との間合いを取るためにカイゼルが華麗なステップを踏んで後退した。
 直情的な動きをするミノスの攻撃は円舞を舞うようなカイゼルの防御に阻まれ、針のように鋭いカイゼルの攻撃は曲芸師たちの軽業のようなミノスの防御に阻まれた。
 一進一退の攻防には終わりがないような気がする。
 だが、戦いが長引けば長引くほどミノスには不利だった。彼の年齢は十四。対するカイゼルは十九だ。この年代での体力差は持久戦となったときに確実に現れる。
 互いに的確な蹴りと拳で渡り合っているが身長差を補うためにミノスはカイゼル以上に激しく動き回って相手を牽制しなければならない。素早い動きは体力があってのことだ。スタミナが切れたら、ミノスはカイゼルの蹴りの餌食になるだけだろう。
「そろそろ降参したらどうだ?」
 相手の体力がジワジワと落ちてきているのを見計らって、カイゼルがミノスに冷笑を向けた。瞬く間にミノスの顔が怒りに染まる。
 それを計算していたのか、カイゼルは不敵な笑みを浮かべてわざと懐に隙を作る。
 まんまとその誘いにミノスが乗った。狙い違わず相手の鳩尾めがけて突き出された蹴りが、寸前で弾かれた。
 それもただの弾き方ではない。ミノスが全体重をかけて出した蹴りは、カイゼルの下からの膝蹴りで方向を歪められ、空振りした。だが勢いに乗っていたミノスは体を支えきれずにあらぬ方角へと体をよろめかせる。
 一瞬の虚が致命的な隙をミノスの背後に作ってしまったのだ。
「は……ぐぅっ」
 背後から首をガッチリと締めつけられ、ミノスはもがいた。両肘まで使って押さえ込まれた首はびくともせず、為す術もなくミノスは腕や足を振り回した。
 しかし体同士が密着しており、拳や蹴りでの攻撃はまったく意味を成さなかった。わずかでも体がずれたなら、拳を奮う余地も生まれようが、油断なく首を締め上げるカイゼルの動きに無駄はない。
「私の勝ちだ。……諦めろ」
 吐息のような囁き声がミノスの耳元で聞こえた。
 カイゼルの息はまったく乱れていない。空気を求めて暴れるミノスの呼吸が荒くなっていくのとは対照的に、水中に潜っているかのように潜められた呼吸は、いや増しにミノスを焦らせた。
 相手の余裕が癪だった。だが持久戦になった時点で自分の勝ち目はほとんどなくなっていた。最初の打ち合いで相手を牽制しきれなかった自分の落ち度が敗因なのだ。
 それでも素直に敗北を認めるには相手の余裕の表情が憎らしい。
 返答をしないミノスに焦れたのか、カイゼルが再び耳元に口を寄せた。生暖かい息がミノスの耳朶をくすぐる。
「……死ぬぞ?」
 だがミノスはいっそう暴れて相手への抵抗を試みた。どうにかして体を少しでもずらせないものかと全身をくねらせる。その動きを読むようにカイゼルが呪縛をきつくした。
 いや……それどころか自分よりも小柄なミノスの体を引きずって塔の端へと歩み寄る。
「頭は少しも冷えていないようだな。荒療治が必要だ」
 苦しい息の下でミノスがカイゼルの顔をチラリと見遣る。何をされるのか判らない。
 塔の下から吹き上げてくる風が顔をなぶっていった。それは何かとてつもなく不吉な予感がする。逃げ出さなければ……。そう思いながらも、体は自由にならない。
「正闘士になったほどだから、修行は出来ているだろう。……夜風で頭を冷やせ」
 ミノスの首を締め上げていたカイゼルの腕が弛んだ。その一瞬の間に逃げだそうとミノスは体をよじったが、カイゼルの動きのほうが素早かった。
 あっさりとミノスの体が宙を舞う。
「うわわっっ!」
 足首を掴まれ、塔の外へと投げ飛ばされたのだ。支えるものもない空中でミノスの体が一瞬制止し、その後、真っ逆様に地面へと落下していった。
「うぎゃ~っ!」
 素っ頓狂な叫び声を上げて落ちていくミノスを櫓の上から見下ろしていたカイゼルが、腕組みして眉を寄せた。不本意そうに口が尖っている。
「まさか……受け身を取れないのか、あいつは?」
 信じたくないものを見てしまったといった様子で、カイゼルは肩をすくめ、ヒラリと塔の石組みから身を躍らせて遙か眼下に見える地面へと飛び降りていった。
 まるで紅い鳥が舞い降りていくように優雅に、ゆったりと……。


 体がギシギシと痛んだ。霞む視界のなかに最初に飛び込んできたのは、灯心草に点された小さな炎だった。
 その紅い揺らめきをぼんやりと見つめていると、痛みが少し薄らいでいく。
「来るのが遅いと思っていたら、こんな落とし物を拾ってくるとは……。珍しいことですね、あなたにしては。この坊やのどこが気に入ったんです?」
 呆れたような口調にどこか聞き覚えがあった。
「さぁね、どこが気に入ったのだか。……治療費は後から送りますよ」
「おや、仰々しいことで。キスの一つでもしてくれたら、帳消しですよ。打ち身程度の治療なんですから……」
「それを安いと受け取るべきか、法外だと言うべきか……」
「……失礼ですね。女性には優しくするものですよ」
「いいや。あなたは女じゃない。……と言って男でもない、か」
 忍び笑いが聞こえる方向へと首を巡らす。白い人影と紅い人影が重なって見えた。輪郭がハッキリとしない。
 誰だったろうか? ゆらゆらと蠢く影たちの声を思い出そうと頭の中を引っかき回す。もつれた記憶の糸のほころびを探すのは面倒だった。
「おや、気づきましたか。……具合はどうです、ミノス」
「はへ……?」
 よく状況が飲み込めない。霞んでいた視界のなかの人影が徐々にハッキリと見えだしたが、それは違和感のある光景だった。
「打ち所が悪くて、おバカさんになったんじゃないでしょうね。おチビのミノス?」
「誰がチビだよ。……数年後にはてめぇの背なんざ追い越してるぜ、男女のムーラン」
 含み笑いを浮かべたまま自分を見つめている朱の瞳の持ち主に悪態をつく。覚醒するに従ってミノスはいつもの不遜な態度を取り戻していた。
 目の前には海聖アクームのカイゼルが長椅子にゆったりと腰を下ろし、その肩にしなだれかかるようにして白廉(アリア)のムーランが寄り添っている。カイゼルの白い肌とムーランの純白の肌と髪が、カイゼルの燃えるような髪の色をいっそう激しいものに見せていた。
「どうやら頭も無事みたいですね。少しは可愛げのある性格になっていたら良かったのに。……どうします、カイゼル。私がしばらく預かりましょうか?」
「虎の穴に仔山羊を放り込むようなものですね。連れて帰りますよ」
「……とことん失礼な人ですね、あなたって人は」
 絡みついてくるムーランの白い腕を慎重に外すとカイゼルは音もなく立ち上がった。残念そうな溜め息が後に残されたムーランの口元から漏れる。
 その様子を大人しく見守りながらミノスは背筋に走った悪寒に耐えた。
 どうやら自分は今、白廉宮殿にいるようだ。海聖宮殿共々、普段は人気のない宮殿なので、近寄ったことがなかった。
 以前にムーランと会ったときは正殿で顔を会わせていたし、長話をした記憶もない。適当にあしらわれ、からかわれた想い出しかないので突っかかってみたが、ムーランの噂はいつもどこか妖しげなものが多い。
 こんな宮殿に置いていかれたら、どんな目に遭わされるか知れたものではない。
「まだ動くな」
 起きあがろうともがいたところにカイゼルの冷たい制止の声がかかった。高楼での仕打ちを思い出し、彼の忠告を無視することに決める。
「うるせぇな。指図は受けな……いぃっっ!」
 体に走った激痛に顔が歪む。あの高さから突き落とされたのだ、並の人間なら死んでいたかもしれない。
 減らず口を叩けるだけ大したものなのだが、痛みにのたうち回るミノスをカイゼルは冷たく見下ろした。
「受け身もとれんとは……。未熟者め。もう一度、双頭獣パービル殿に鍛え直してもらえ!」
「お……お師匠は関係ない!」
 呻き声が混じるが、強気で言い返してくるミノスの様子にカイゼルがわずかに口をつり上げて笑った。獲物を追いつめている肉食獣のような笑みだ。
「どうしようもない愚か者だな」
「珍しい。あなたが私以外の者の前でも、そんなに饒舌に振る舞えるとは知りませんでしたよ、カイゼル」
 背後からの声にカイゼルが顔をしかめた。不機嫌さを表しているのだ。
 膨れっ面こそ見せないが、彼の顔がふてくされたものだと気づいてミノスは目を丸くした。自分がカイゼルにいいようにあしらわれているように、カイゼルもムーランとのやりとりでは未だに主導権を握れないでいるようだ。
 少しだけ胸のすくような気がした。だが、その自分は二人にまったく歯が立たないのだから、みそっかすもいいところだが。
「薬草も頂いたことですし……。そろそろお暇いとましますよ、ムーラン」
 肩越しにムーランを振り返ったカイゼルが無表情に声をかける。それに悠然と笑みを浮かべて頷くムーランはやはり一枚上手ということか。
 外見は二十代半ばといった年齢だが、実際の所はもっと年かさなのかも知れない。平坦な顔立ちのムーランからは、顔に浮かんだ表情以上のものが内心に隠されているようなあいまいで得体の知れない雰囲気が漂っている。
 ムーランの曖昧模糊とした表情を観察していたミノスの体がふわりと宙に浮いた。
 驚いて自分の体を見下ろしてギョッとする。カイゼルが軽々と自分を抱きかかえているではないか。こんなみじめったらしい格好は他にはあるまい。
 ミノスはジタバタと暴れてみる。が、不安定な体勢からではカイゼルの戒めを解くのは容易なことではなかった。
「大人しくしてらっしゃい、坊や。自力で歩いて帰れないのですから、カイゼルに抱いていってもらうしかないでしょうに」
「う……うるせぇ! 一人で歩いて帰れる!」
「……黙ってろ。耳元で喚くな」
 抵抗するミノスの動きを封じると、カイゼルが戸口へと向かった。それを送り出すようにムーランがゆらゆらとした足取りで続く。
 ミノスはと言えば、動く度に激痛が体を貫き、さすがに大人しくしているしかないようだ。情けないことだが、カイゼルの肩にしがみついて体を固定していないと、痛みに意識が遠のきそうだった。
 この男の腕の中で気を失うなど、屈辱以外の何物でもない。
「それじゃ、見送りはここまでにさせてもらいますからね」
「えぇ。……では、またいずれ」
 囁くような小声で別れの挨拶を済ませる二人を不機嫌そうに睨み、ミノスは頬を膨らませた。結局自分は厄介なお荷物でしかないわけだ。
 彼らの万分の一でもいい、相手を寄せつけない強さが欲しかった。正闘士になって二年……。自分はまだまだ一人前の正闘士とは言えないようだ。
 歩き始めたカイゼルの肩越しに見送る白い影を見ると、白い指先をコケティッシュに蠢かせて自分に手を振るムーランと眼があった。ぷいと顔を背けるが、それすら相手にはお見通しなのか、忍び笑いが耳に届く。
 いっそう頬を膨らませたミノスの頬を冷えた夜風がなぶっていった。
「お前のところには打撲に効く薬草は用意してあるのか?」
 突然に話しかけられてミノスの体が硬直した。忘れていたわけではなかったが、自分の目の前にある白い麗貌はどこかしら幽玄世界の住人を見ているような印象を与える。
「し……知らない。従者たちに聞けば判るだろうけど」
 そうか、と小さく呟いたカイゼルの横顔は無表情なままで何を考えているのか見当もつかない。
「なんでムーランのところへなんか連れていったんだ」
 不機嫌なままにミノスがカイゼルに問いかけた。同じ正闘士仲間のなかでも、ムーランほど得体の知れない者はいないだろうに。
 カイゼルの瞳がチラリとミノスへと向けられ、また前方へと戻った。表情は少しも動かない。
「薬草をもらいに行く約束があったからな。お前の治療はついでだ」
「治療って……。でも、ムーランじゃなくても治療くらいできるだろうが」
「ムーランの腕は一流だ」
「男か女かもはっきりしないような奴じゃないか!」
 ギロリとカイゼルの瞳が光った。殺気が宿ったといったほうが正確かもしれない。
「人の身体的特徴をあげつらって愉しいか?」
 底冷えのする声がミノスの背筋を這い登ってくる。思わず身震いしてミノスはカイゼルから眼をそらした。
「ムーランは確かに男でもなければ女でもない。……無性生体なのだから、判別のしようがない。それはムーランが望んでそうなったわけではあるまいに」
「……」
「相手に敵わないからと言って、貶おとしめて良いことはない。お前も正闘士の端くれなら、心得ておけ。体がどうであれ、ムーランの医師としての腕は認めても良いはずだぞ」
 冷え切ったカイゼルの声に打ちのめされてミノスは下を向いた。
 子どものように駄々をこねている自分が愚かに見える。カイゼルの言い分に反論する余地は自分にはない。
 ムーランを煙たがっているばかりの自分には正々堂々と彼の言葉を受け止めることすらできない有様だ。
「宮殿に戻ったら、二~三日は安静にしていろ。打撲は翌日と翌々日が一番辛いからな」
 悄然と肩を落としたミノスの様子にかまうことなくカイゼルは立ち並ぶ宮殿群の間を進んでいく。
 飄々とした彼の態度にいっそう惨めな気分になったのか、ミノスは金蠍蛇宮殿に到着するまで一度も彼の顔を見上げることなく俯き続けていた。


 薄紫色の東の空に鋭い星光が瞬き始めた。風が一瞬凪いだあと、再び吹き始めた。今度は夜の風だ。人の肌をなだめるような優しい風が吹き抜けていく。
「ミノス。そろそろ行こう」
 いつまでも動こうとしない若者にアダーリオスが声をかけた。
 それにようやくミノスが振り返る。口元を少しだけ歪めて笑うが、顔は笑顔を刻もうとしているのに、瞳は泣きそうだ。
「アダーリオス。今回はヒースも来ているんだろ?」
「あぁ……」
「行こうか。皆、待ちくたびれているだろうしな」
 肩を並べて丘を下り始めた二人の姿は麓からは見えないだろう。
 見習いの若者が呼びにきてから随分と時間を費やしている。痺れを切らして待っている正闘士仲間たちの強面を想像したのか、ミノスがクスリと笑みをもらした。
「浮遊大陸の者たちは相変わらず我が物顔で空を席巻しているってのに……。俺ときたら、いつまでも独りで暮れなずんでいる。愚か者のところは少しも治っていないな」
「……ミノス。お前だけじゃない。ヒースの前ではそんな顔をするなよ。あいつが一番傷つく」
「判っているさ」
 銀色の月光が頭上から降り注いだ。その澄み渡った光に体を洗われ、二人の足が同時に立ち止まった。
 丘の麓に人影が見える。白い影と淡い銀色に輝く、二つの影……。
「……お迎えだ。年寄りどもが苛立っているらしいな」
 口の端をつりあげてミノスが喉を鳴らした。笑おうとして失敗したのだ。見覚えのある人影に、歩を進める勇気がくじけそうだった。
「……ムーランとヒースか。爺たちをなだめすかしているのはシエラ辺りかな?」
 苦笑を漏らしながらアダーリオスがミノスを促した。
 それに勇気を得たのか、再びミノスの足が動き出す。そんな二人を見守りながら、眼下の影がそっと寄り添った。消え入りそうなその影たちにミノスは手を挙げて応える。
「待たせたな、白廉(アリア)。出迎えご苦労さん、海聖(アクーム)
金蠍蛇(ムシューフ)牙獣王(レンブラン)星導主(アグールー)がカンカンですよ。急いでください」
 気遣わしげにミノスとアダーリオスを見比べていた銀髪の少年が早口にまくし立てる。濡れたように光る藍色の瞳が憤然と燃えているところを見ると、随分と麓で待っていたのかもしれない。
「爺のヨタ話なんか聞いてられるかよ、ったく」
「ヨタじゃないです。浮遊大陸とのいざこざなんですから! 上空を彷徨うろついている竜種をどうするか話し合おうっていうときに……」
「およしなさい、ヒース。ミノスに突っかかっていっても、バカらしいだけですよ。ホントにお気楽なんですから、この人は」
 純白の髪をしどけなく掻き上げながら、ムーランが少年を流し見る。朱色の瞳が呆れたというように光り、少年のささやかな反論を封じてしまった。
 膨れっ面のヒースの顔に昔日の自分が映る。その奇妙な感覚に苦笑すると、ミノスはわざとらしく伸びをして銀月を見上げた。
「お月様も顔を出したことだし……そろそろ爺たちの顔を見に行ってやるか。俺がいなくちゃ何も始まらないようだしな」
「だから急いでって言ってるでしょ!」
 いっそう頬を膨らませたヒースの肩をムーランがなだめるように叩き、アダーリオスが小さな笑い声をあげた。ミノスの傍若無人な外面に騙されているうちは、ヒースもかつてのミノス同様にまだ半人前だということだろう。
「さぁて、行くか。……ところで、飯くらい喰わせてくれるんだろうな、爺どもは」
 闇の中でさえ太陽のように輝くミノスの髪に見とれていたヒースがムッとした顔をして反論しようとしたが、それを遮ってムーランがしれっと返事をする。
「私がここへ来るときには用意してありましたけどねぇ。……もう下げられかもしれませんよね」
「あぁ~ん? 腹ぺこで爺の眠たいお説教なんぞ聞きたくもねぇぞ。急ぐぞ、アダーリオス。俺の飯がなくなっちまう」
「俺の、じゃなくてオレたちの、に訂正してくれ」
 歩調を早めたミノスを追いかけてアダーリオスたちも駆け出した。それぞれが羽織る純白のマントが優雅にはためき、闇夜に白い翼を広げる。
 背後に遠ざかる黒い丘を振り返る者は誰もいない。
 死者を抱いた丘は沈黙を守ったまま、駆け去る四つの影をいつまでも見つめているようだった。

終わり

〔 13772文字 〕 編集

ナジェール譚

No. 27 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
金と紅 Part:1

 暮れなずむ丘の頂に黄金色の影が佇んでいた。小高い丘の下に、ゆったりとたゆたう海原が見えた。遮るものがない丘の上で、人影はじっと動かない。眩しいほどの輝きを放つ髪だけが純白のマントの上に波打って流れ落ちる。
「馬鹿野郎……。自分独りで歩くことを止めちまいやがって。俺じゃ面倒みきれねぇぞ」
 感情を押し殺すために噛みしめられた唇は微かに震え、血が滲むほどに拳を握りしめている。
 それでも逆巻く激情を隠しきれず、彼の蒼い瞳はカッと見開かれ、巌も砕けよ、と地面の一点を睨み続けていた。腰まで届く巻き毛も、彼の激情につられたように風に逆立つ。
「馬鹿野郎……」
 何度口走っただろう。無益なことと知りつつ、彼は悪態をつき、長い間そうやって立ち尽くしていた。他に何もできなかったから……。
 背後に人影が差した。それに気づいているのかいないのか、黄金の人影は微動だにしない。くすんだ短めの金髪に縁取られて日に焼けた顔が目の前の若者に向けられている。二人は同年代だろう。二十代も半ばといったところか。
 お互いに何も言葉を発しはしない。丘の上にひっそりと立ち尽くす二人の姿はまるで彫像のようだ。潮騒の規則的な音だけが時を刻む。
 人の気配がした。二人の背後に控えたその影が跪く。
金蠍蛇(ムシューフ)牙獣王(レンブラン)天聖秤(ラディーム)から召集がかかっております。正殿までお越しを……」
 若年の闘士見習いが、遠慮がちに声をかけた。その呼びかけに「わかった」とだけ返事を返すが、金蠍蛇(ムシューフ)と呼ばれた闘士はいっこうに動く気配を見せない。
 だが見習いの若者は、用事は済ませたとばかりに足早にその場を立ち去っていく。
 勇名な闘士の聖なる眠りを妨げることへの畏れではない。夕暮れが迫った空を背景に、その半身を赤く染めて背を向け続ける黄金の闘士に、激しい拒絶の気を感じたからだった。
「丸三年が経つ……。お前が逝ってから。俺たちが初めて会ったあの日からなど、いったい何年経ったのかな。……なぁ、カイゼル」
 まとわりつく髪を払いのけて、金蠍蛇(ムシューフ)の闘士は夕焼けに燃える海を見下ろした。寂々とした空気に耐えられぬのか、闘士は海から視線を外し、再び丘の一点……かつての盟友の白い墓標に食い入るような視線を投げかける。
 それを見守る牙獣王(レンブラン)の静かな視線だけが、人影と墓標を包んでいた。


 真夏の日暮れ時、ここ神域では昼間の熱気は去り、一日のうちでもっとも開放感に満ちた雰囲気が辺りを包む時刻だ。
 もうしばらくすれば、星が薄紫色の空にダイヤモンドのように輝き散らばり、麗しい姿を地上の生き物の前に見せるだろう。
 ほとんどの者は一日の訓練を終えて、一息ついたところだった。
「ミノ~ス!」
 くすんだ金髪の精悍な顔立ちの少年が高台へと駆け上がっていく。彼が足を向ける高台には、黄金の影がじっと相手が近づいてくる姿を見下ろしていた。
 少年は駆けどおしでここまで来たのだろう。夕焼けに染まっていない側の頬がうっすらと赤みが差している。
「何を慌ててるんだよ、アダーリオス」
「あいつ……。海聖(アクーム)が来たんだよ! 今頃は法王様に謁見しているぞ」
 息を切らせている少年、アダーリオスを見つめてるミノスの眉がピクリとつり上がった。こちらもアダーリオスと大して年齢差はなさそうなミノスの顔が少年の顔立ちから闘士のものへと変貌していく。
 不敵に口元を歪め、嘲弄的な光を湛えた瞳を細める。元々鋭い眼光がいっそう鋭利な刃物の輝きを浮かべた。獲物を追いつめ、一撃で屠る狩人の容貌がよく似合う少年だった。
「ふん、珍しいこともあるもんだな。あいつが北方の氷原から出てくるのは二年ぶり……か?」
「あぁ、そうだな。たぶん二年くらいになる。オレは一度後ろ姿を見たことがあるけど……氷の闘士と呼ばれているのに、炎よりも紅い髪をしてたっけ。ミノスはまだ面識がなかったろう?今回は会っておくか?」
 もうすぐ陽が没していく遠くの山々の彼方を眺めながら、二人は高台を降りて広場へと向かった。
 いつも日没近くになると、大広場は夕涼みも兼ねて談笑のたまり場となる。この日は北の氷原から海聖(アクーム)のカイゼルが、東の山谷から白廉(アリア)のムーランが到着しているとの噂で、賑わっていた。
 神域を流れる川から引かせた水道橋の各所から溢れる水飲み場も同様で、珍しい客人の到来の噂は瞬く間に神域のあちらこちらに広まっているようだ。
「姦しい奴らだ。いつの世にも人の噂話で狂喜乱舞するバカはいるが、今のこの様と言ったら人のあら探しをして楽しんでいる下賤な下界の輩と同じじゃないか。神域の者にあるまじき浅ましさだ」
 ミノスの顔が嫌悪に激しくゆがみ、その体からは闘気が噴きだした。あからさまな侮蔑の言葉を吐き出す彼に、アダーリオスは苦笑をもらし、ささやかながら弁明を試みた。
「仕方ないよ。滅多に神域に顔を見せない三人の闘士のうち、二人も同時に見る機会が訪れたとなれば、誰だって好奇心をくすぐられるさ。オレだって、噂話をしている奴らと大差ない心境だよ」
「俺たち闘士はいったいいつから曲芸団の見世物馬や道化師になり果てたんだ? 第一、神域を守る闘士はその二人ばかりじゃないぞ。空席になっている雅天矢(サージャ)双生樹(ジャクラ)以外の十席は埋まっている。俺やお前だってその闘士の席を預かっているんだぞ! まったく気分が悪いったら……何が可笑しい、アダーリオス!」
 自分の横で笑い始めたアダーリオスを睨みつけて、ミノスは口を尖らせた。先ほどの冷徹な眼光はなりを潜め、自分の話を体よくはぐらかされた子供のようにむくれて頬を膨らませている。
「あぁ、悪い、悪い。でも、ミノスだって興味がないわけじゃないだろう? 特に海聖(アクーム)のカイゼルには……」
「なっ……」
 図星を指されて顔を紅潮させたミノスを見て、アダーリオスは再び笑い出した。そっぽを向いたミノスが足早に金蠍蛇宮殿へと歩き始めた。それをアダーリオスが追いかけてくる。口元はまだ笑みを貼りつかせたままだ。
「ついてくるなよ!」
「だぁ~め、駄目! 顔にしっかり書いてあるぜ、ミノス。“気になって仕方ない!”って。お前はムーランとは面識があるけど、カイゼルには一度も顔を合わせたことがないだろ? 好奇心が旺盛なミノスが無関心でいられるもんか。それに氷の闘士との呼び名も高いカイゼルが氷の名に相応しくない髪の色をしていると聞いて……痛っ!」
「……バカッ!」
 アダーリオスの頬に強烈な平手打ちを食らわせると、さっきよりも顔を紅くしてミノスが怒鳴った。どう贔屓目に見ても、やりすぎな感がある。しかし、ミノスの性格をよく知るアダーリオスは素直に詫びた。
「謝ったって許してやらん!」
 言葉荒く喚くミノスを見て、アダーリオスはまた笑い出しそうになった。だが、辛うじて笑みを納めると、今度こそ真顔でミノスに語りかける。
「まぁ、でも実際のところ、カイゼルには会っておいたほうがいいよ。北方の守りを一手に引き受けている強者だ。今後接触することも多くなるだろうし……」
 アダーリオスとしてはこの機会に是非とも海聖アクームと面識を得たいと思っている。しかし自尊心の高いミノスが自分のほうからノコノコと会いに行くとも思えない。
 アダーリオス独りで会いに行こうものなら、後からどれほど八つ当たりされることか。素直に自分の提案に乗ってはこないミノスをどうやって会見の場まで連れて行こうか……。
 当のミノスにしても重要性は判っているつもりなのだ。
 闘士のなかでも、自分たち正闘士はきっちり十二人。正闘士の座を狙う従闘士や下働きの衛士などのような雑兵とは扱いが違う。力量の差があるのだから当然のことだが、それに見合った責務もこなす。
 北方の大地を守る海聖(アクーム)はその正闘士のなかでもかなりの強者との噂が高い。同じ正闘士同士、面識があるほうが何かと都合がいい。
 判ってはいるが、自分のほうから出向くということが許せないのだ。
 暮れ残っている太陽光が二人を照らしている。それを凝視しながら考え込んでしまったミノスに、アダーリオスは小さく苦笑すると一つの提案をした。
「法王の謁見は海聖(アクーム)が先らしい。とすると、だ。そろそろカイゼルの奴は自分の宮殿へと戻る頃だと思うんだけどな」
「……! アダーリオス……」
 にんまりとした笑顔をアダーリオスがミノスに向ける。つられるようにミノスも笑みを返し、正殿へと向けて二人は走り出した。
 後になり先になりしながら、ミノスが相棒に向かって叫ぶ。
「アダーリオス! ……許してやるよッ」
 真夏の太陽が、今まさに地平線の彼方に沈もうとしていた。


 黄金の額飾りが眩く輝き、深紅の髪がいっそう赤みを増して見える。色素の薄い瞳は氷色。松明の炎が映っているせいなのか、激しいほどの眼光を放っていた。
「……では、また私の元に弟子入りを希望するものが?」
「左様。大陸の東の果てに住む少数民の子どもだがな。名は……確か、ヒースと言ったか。
 卿の元には二年前にアイザーが弟子入りしたばかりだが、他の者も弟子を抱えておったり、まだ師となるには未熟であったり……。指導できる者もおらぬ上に、当のヒース本人からのたっての願いだそうだ」
 御簾の向こう側から響く法王の声はいかめしく、御簾越しに見える錫杖が鈍色に重々しく光っていた。その錫杖の持ち主に射抜くような視線を走らせた後、紅い麗人は深々と腰をかがめた。
「御意のままに……」
 法王が確認の意味で静かに頷いた。それを退出の合図と心得ているのか、かがめた腰を浮かせる。
 鳥が舞うごとく軽やかにマントをさばいて立ち上がると、後は後ろを振り返ることなく謁見の間を後にした。
 彼の表情は少しも崩れない。凍りついたように無表情を保ったまま。
 謁見の間の大扉が軋んだ音を辺りに響かせて彼の背後で閉ざされる。
 両側に立つ衛士たちに目礼で挨拶を済ませた。それで終わりだ。必要以上のことを喋ろうともせず、紅の人は長い回廊へと歩を進めた。
 ふとその廊下の先に視線を送れば、人影と視線が合った。
 純白の髪に蝋のような白い肌。ほの暗い朱色の瞳がそのなかで唯一の色彩だ。艶然と微笑むその顔立ちは中性的で、全身を覆うケープと相まって男とも女とも判断がつかない。
「お互いに神域へくるのは久しぶりですね。……変わりないですか、カイゼル」
 声はややハスキー。これも男のようでもあり、また女のようでもあった。どこかのっぺりとした顔は仮面を思わせる平坦な作りだった。美人、というよりは得体のしれない顔といったほうがいいか。
「えぇ。あなたも変わりない様子ですね、白廉(アリア)のムーラン」
 端正な顔立ちに儀礼的な笑みを浮かべ、カイゼルが必要最小限の返事を返す。
「この後は暇ですか? 私のところに切り傷や火傷に効く薬草がありますけど、取りに来たらどうです? ……今年は生育がよくてね。採りすぎてしまって、困っているのですよ」
「お伺いしますよ。北の氷原では薬草は貴重品です。……しかし、食事がまだでしてね。夕食後にお伺いすることになるが、よろしいか?」
 二人の会話を打ち切るように、廊下の奥から衛士が声をかけてきた。
白廉(アリア)。法王様がお待ちです、お早く……」
 ムーランは衛士の方に了承の身振りを見せ、再びカイゼルへと向き直った。物足りなさげな様子が伺えたが、顔には年長者の余裕の笑みが浮かんでいる。
「では、また後ほど、私の宮殿で……」
 飄然と歩き去るムーランを氷の瞳の端で見送り、カイゼルはマントを翻してその場を離れた。冷酷な横顔からは感情らしいものは何一つ見当たらない。
 正殿を出て眼下へと延びる長い石畳の階段を見下ろすと、二人の少年が踊り場付近に所在なげに佇んでいる姿が目に入った。雑兵たちが身につけている皮の鎧が夕暮れのなかに鈍い光沢を放っている。
 二人ともカイゼルよりやや年下、およそ十三~四歳であろうか。一人はくすんだ金髪。もう一人は……。
 いま一人の少年の容姿を確認したカイゼルの顔に驚きが広がった。しかしその感情もすぐに冷たい瞳のなかに封じられる。
 それでも無表情ながら、視線を二人から外さぬままにカイゼルは階段を下り始めた。
 何という金髪だろうか。カイゼルは不躾な自分の視線に気づいて慌てて瞳を二人からそらしたが、押し隠したはずの一瞬の驚きに自分が動揺していることを自覚していた。
 こんな経験は初めてだ。それほどに少年の容姿は人目を惹いた。
 正殿は小高い場所に建てられているため、陽が沈んでも空を焦がす太陽の赤い光が見える。その残光のなかにあってさえ、少年の髪は燦然と黄金色に輝き、それ自体が中天の太陽のような眩さで夕風に揺れている。
 片側に寄り添うように立つくすんだ金髪の少年も決して平凡な容姿ではないのだが、この黄金の塊のような少年と並んで立つとどうしても見劣りがした。
 これほどに黄金の激しい煌めきが似合う者を見たのは初めてだ。いったい誰に師事している闘士見習いであろうか?
 新しく弟子入りしてきた者たちの噂を記憶の底から掘り起こしながら、カイゼルはホッと小さな吐息を吐き、盗み見るように彼らの顔を観察した。
 見れば見るほどその黄金の髪に目を奪われる。
 しかし陶然とその髪を眺めていた瞳が少年の深海を思わせる蒼い瞳とぶつかったとき、カイゼルの表情が凍りついた。
 いや、表面上はまったく判らないだろう。だが氷色の彼の瞳がほんのわずかに細められたことを説明するならば、それは凍りついた、と表現するしかない。
 思わず歩んでいた足を止めて立ち止まる。
 滅多に神域へこない自分が好奇の視線にさらされることはいつものことだ。カイゼルには別段気に病むようなことではない。だが少年の瞳に好奇心以外の別の感情を見出した。
 体からあふれ出している闘気……。鋭い視線。雑兵とはとても思えない、胸をそびやかすその姿勢。
「なるほど。噂には聞こえてきていたが……。そういうことか」
 カイゼルの表情に薄く笑みが浮かび、それもまた消えていった。
 無表情というヴェールの奥に湧いてきた感情を包み込んで、カイゼルは石造りの階段を踏みしめてゆっくりと歩き始めた。
 カイゼルが近づくにしたがって、二人の少年の顔が目に見えて引きつっていく。あふれ出している二人の闘気がカイゼルの白い肌の上に突き刺さる。
 まだ幼さを残した彼らの表情には、はっきりとした闘志が浮かび、自分を値踏みしている様子が見て取れた。
 太陽の輝きを持つ少年のほうは特に激しい闘志をむき出しにしている。だが懸命にこらえているのか、カイゼルの通り道を塞いだりはしない。
 蒼い瞳の奥で炎が揺らめいていた。少年たちは二人とも正闘士への礼節をわきまえていないようだ。普通、見習いならば地位の高い闘士に対して、跪くか頭を垂れるかなどの行為で敬意を表す。
 だが彼らにはその様子が皆無だった。
 カイゼルが二人のいる踊り場まで到着した。そのまま彼らの眼前をゆっくりと通り抜け、さらに続く階段へと歩を進める。まるで二人のことなど眼中にない態度だ。
 そのゆったりと歩んでいたカイゼルの足が止まり、糸に引かれるように、ふっと背後の二人を振り返る。
「……!?」
 氷の瞳が二人を流し見、初めて感情らしい感情をその白い相貌に浮かべた。それはまるで悪戯が成功したときの悪童が浮かべる、誇らしげな笑顔のように鮮やかな表情だった。
「全然似合わないな、どこでそんな服を調達してきたんだ。……特に金蠍蛇(ムシューフ)。君の変装はまったくいただけない。これほどその格好が似合わない者を初めて見たぞ」
 氷原を吹き抜ける風はきっとこんな感じなのだろう。そう思わせる笑い声が薄闇の空に消え、悠然と歩み去る紅の闘士を見送る少年たちは唖然としたまま立ち尽くしていた。
「ばれていたのか……」
 溜め息とともに呟くアダーリオスの脇で、ミノスが激しい視線をカイゼルの背中に送っていた。
 地平線の向こうに沈んだ太陽が最後の光芒を放ち、その残光も神々の居ます空に抱かれて消えていく。星の輝きが増し、その銀の天糸を二人の少年の頭上へと落としていた。


 淡い月光に照らされた影法師が二つ、タンゴでも踊るように幾つもの宮殿の間を進んでいく。
「ミノス、どこ行くんだよ。食堂は反対側だぞ! おいったら! ……聞いてるのか、お前はっ」
 アダーリオスがミノスの背中に呼びかける。それに答えてミノスがくるりと振り返った。不機嫌な顔のなかで蒼い瞳がギラギラと光っている。
「うるせぇぞ。俺は考えごとをしてるんだ。ちょっと黙ってろよ」
 自分がどこへ向かおうと勝手だろう、とミノスの表情が主張していた。
 だがアダーリオスも負けてはいない。自分に出来うる最高に怖い顔を作り、睨みつけてくる相手と真正面から対峙する。
「フンッ。どうせカイゼルに正体がバレちまって、悔しいんだろ。あれじゃ、物陰から盗み見をしていたのを見つかったガキと同じだからな!」
 ミノスの顔に見る見るうちに血が上っていく。表情も激変して、今にも襲いかかってきそうな凶暴な視線がアダーリオスの瞳を捕らえる。
 それを内心では冷や汗をかきながら観察し、相手の怒りが頂点を越えそうになった一瞬を計って言葉を続ける。
「オレは腹減っちまったよ。さっさと飯喰いに行こうぜ。早く行かないと、他の奴らに盗られちまうからな!」
 怒りとは対局にある呑気な笑顔を浮かべたアダーリオスに、ミノスが一瞬虚を突かれ、自分だけが怒り狂っていることがバカらしくなったのか、荒々しい吐息を吐いて空を見上げた。
「早く来いよ!」
 一足早く駆け出したアダーリオスを追いかけながら、ミノスが苦笑する。
 来た道を瞬く間に逆走し、広場に隣接した公会堂脇の食堂へと二人は駆け込んでいった。
 本来ならば、正闘士となったミノスとアダーリオスは自分の宮殿で食事を摂ることができる身分だ。
 しかし成年まで今少しの猶予がある二人には、宮殿での静かすぎる食事よりも、賑やかな大衆食堂での食事のほうが何倍も魅力を感じるのだ。
 ところが、食堂の名前“居眠り天使”という安穏としたイメージとはほど遠い喧噪にいつも包まれている食堂が、今日に限って奇妙な沈黙に満たされていた。
 異様なほどの熱気と羞恥の欠片もない好奇の視線。その怪しい雰囲気に半ば呑まれながら、二人はその原因らしい方角へと首を巡らせた。
「カ……イゼル……?」
 法王との謁見のときにまとっていた正装を脱ぎ、北方民が好んで身につける毛織物の上下という軽装に着替えている。
 四人掛けのテーブルにたった独りで腰を下ろしているが、彼が目立っているのは、そのせいではない。
 炎よりも紅い髪に氷色の瞳。北方民特有の静脈まで透けて見える雪のように白い肌。
 神域に住まう者の日に焼けた肌や濃い色素の瞳を見慣れている者には、髪以外のカイゼルの色素の薄さは現実離れした印象があった。
 この場に居合わせた全員が見惚れている、と言っても過言ではない。それほどに目立つ容姿だった。
「ハッ! 掃き溜めに鶴だぜ。お貴族様のあいつがこんな下々のところにくるとは思わなかったな。きっと自分の宮殿でふんぞり返って食事をしてるだろうと思ったのに」
 容姿だけならカイゼル同様に貴族的なミノスが口元を歪めて、吐き捨てるように呟いた。それをアダーリオスがたしなめる。
 だがミノスの表情からは素直に反省してるようには見えなかった。
 もっとも、カイゼルは貴族階級の出身ではない。多少裕福な家柄の者ではあったが。さらに余談ながら、ミノスやアダーリオスも平民出だ。いや貧民層に近い貧しい家柄の出身である。
 地方を見回る巡検闘士に見出されてこの神域へこなければ、今でも痩せた土地を耕している農民か、うらぶれた下町で職を求めて彷徨く乞食になっていただろう。
 むくれるミノスを引きずってアダーリオスがカイゼルへと近づいていった。まわりの兵士たちの間から驚愕とも羨望ともつかぬざわめきがあがる。
「やぁ。ここ空いてるかな?」
 どうぞ、と答えるカイゼルに礼を言い、アダーリオスはふてくされているミノスを小突いてカイゼルの正面に設えられた空席へ座らせた。
 自分も二人の間、右手にミノスを、左手にカイゼルを見る形の席に腰を落ち着けて、ミノスと二人分の料理を注文する。
 凄まじいほどの熱気が三人を押し包んだ。
 この視線の集中砲火を浴びて、たじろぎもせずに端座している彼らのほうがはっきり言えば驚異的だが、それに気づいている者は一人もいないようだ。
「その衣装だとこの神域では暑いだろ、カイゼル」
 異様に高まっている緊迫感を拭うようにアダーリオスがカイゼルへと声をかけた。その一言でまわりの兵士たちからも緊張感が一瞬引いた。
「……そうでもない」
 短い返事を返したカイゼルにさらに話しかけようとアダーリオスが口を開きかかったとき、険悪な口調でミノスがぼそりと呟いた。
「ケッ!暑くないわけねぇだろ。……勿体つけやがって」
 ミノスの毒舌に収まっていた辺りの緊張が一気に高まる。
 先ほどの好奇心とは別の緊迫感が、空気を重くして三人のまわりに凝固したようだった。
 ハラハラとミノスの傍若無人な態度を見守る見物人以外に、三人を餌にして賭事を始める輩まで出る始末だ。
 ヒソヒソと囁き交わす声が、アダーリオスの耳に届いた。
「赤毛に180出すぜ」
「なに、ミノスも負けてねぇって。おいらは200だ」
 その声につられるようにまわりのテーブルからも、囁き声があがる。
「オレもその賭に乗るぞ!」
「こっちもだ!」
 収まる様子などない。むしろエスカレートしていきそうだ。アダーリオスは不快感に抗議しようと彼らのほうへと振り返った。
 だが、その目の前に人影が差す。
「ピュ~♪」
 この不愉快な緊迫感の原因を作った張本人が呑気に口笛を吹く。
「へぇ。今日は珍客のお出でとあって豪勢だぜ。こんなことなら、いつでもお出で頂きたいモンだね。これでアステアの蜜酒(ミード)でもあれば言うことなしなんだけどな」
 平然と料理の品評をしているミノスに呆れ果てて、アダーリオスは嘆息した。そして視線を反対側のカイゼルへと向け、そのまま凍りついた。
「シ、シエラ」
 視線の先には黒づくめの男が立っていた。ちょうどカイゼルに料理のトレイを手渡し終わったところだった。切れ長の鋭い瞳が、ジロリと自分の名を呼んだ少年へと向けられ、口の端をつり上げて笑みを見せる。
「三人、仲の良いことだな」
 その刃物のような視線をまわりのテーブルへと順繰りに送る。鋭い切っ先を連想する瞳に恐れをなして、兵士たちが慌てて背を向けた。
 彼の冷たい一瞥に震え上がらない者はいない。自分に対峙する者がいないことを確認すると、男は残っていた最後の椅子に遠慮なく腰を下ろした。
「こ……ここで食べるの? いつもは自分の宮殿で食べるのに、どうしたのさ」
 情けない声音でアダーリオスが男、剣角(カント)のシエラに問いかけた。それに答える相手の口調はこれ以上はない、というほど高飛車なものだ。
「どこで食べようが勝手だろう。お前たちの食料を運んできてやった人物を追い払おうってのか?」
 反論の糸口を見つけられず、口をパクパクと開閉させるアダーリオスを後目に、シエラは自分のパンを頬ばって知らん顔を決め込んだ。相手の動揺などどこ吹く風といった様子だ。
 時折にまわりのテーブルへと威嚇の視線を向けているが、彼と渡り合おうとする者など兵士のなかにはただの一人もいはしない。
 その様子に、ようやくシエラが自分たちを賭事の対象から救ってくれたのだと、アダーリオスは気づいた。苦手な相手に山のような恩を作ってしまったようだ。複雑な表情のまま、アダーリオスは他の二人へと視線を向けた。
 ところが彼の左側に腰掛けている鉄仮面は「我関せず」と黙々と料理を口に運んでいたし、反対側の金髪の相棒は大恩人の皿の上に乗った羊肉のステーキの切れ端を虎視眈々と狙っているところだった。
 シエラに恩を感じているのは、アダーリオス一人だけのようだ。
 アダーリオスはがっくりと肩を落とした。
「オレっていったいなんなわけ……?」
 小さく呟いたアダーリオスの声は、ミノスの声によってかき消されてしまった。
「アダーリオス、お前喰わねぇのか? んじゃ、これ、俺がもらってやるよ!」
 返事をする暇もあらばこそ。シエラにステーキ強奪作戦を阻止されたミノスがアダーリオスの皿から鶏肉料理をさらっていく。
 呆気にとられてそれを見守ってしまったアダーリオスは、それが自分の好物の料理であることを思い出して目をつり上げた。
「ミノスッ! そ、それはオレのだろ!」
 慌てたところでもう遅い。ミノスはすでに咀嚼を終え、肉を嚥下していた。ニッカリと笑う小悪魔の微笑にアダーリオスは猛然と反撃を開始した。
「この野郎~ッ! オレの好物に手を出してただで済むと思うなよ!」
「へへぇ~んだ。俺様の好物はもう胃袋のなかだぜ。どうしようってのさ、アダーリオス」
 余裕の笑みを浮かべる相手に負けじとアダーリオスは不敵な笑みを浮かべて見せた。
「奪うばかりが能じゃないぜ」
 ギクリと顔を強ばらせたミノスの小皿に、アダーリオスは恭しく大皿から茄子とピーマンのソテーのうち茄子だけを移し替えた。あっという間にこんもりと茄子が山を成した。ミノスが蒼白になる。
「うぐ……」
 片手で口元を押さえたミノスが呻き声をあげた。
 ここ神域では、出てきた料理のうち自分の皿に取り分けたものは必ず食べ尽くすのが暗黙の了解になっている。それが膨大な人数の料理を賄う調理人たちへの礼儀でもあるし、無駄な残飯を減らす方法でもある。
「ア……アダーリオス。卑怯だぞ……!」
 茄子のぶよぶよと震える果肉から視線をそらすことができず、ミノスは蒼白な顔そのままの声で抗議した。
「他人の食料をくすねるのは卑怯じゃないってワケか? 都合のいいことだなぁ。……全部喰えよな、ミノス!」
 同情の余地はない、とばかりにアダーリオスが冷たく睨み返してくる。奪うばかりが能ではない、とはよく言ったものだ。ミノスは茄子が大の苦手らしい。
「勘弁してくれよ~……」
 半泣きで助けを求めるミノスを無視してアダーリオスは食事を続けている。
「程々にしておいてやれ、アダーリオス」
 二人のやりとりを黙って見守っていたシエラが、ようやく食事の手を休めて忠告してきた。しかし、真面目な顔をして注意しているわけではない。声が笑いにうわずっているし、口元が心なしか歪んで見える。
 シエラの忠告にアダーリオスが不承不承といった顔つきでミノスを見た。
 ミノスは相変わらず茄子と睨めっこを続けている。本当に茄子が駄目なのだろう。よほど過去に酷い目に遭っているに違いない。
「チェッ……」
 もう少し懲らしめてやろうと思ったのだが……。
 諦めてミノスの取り皿へと手を伸ばしかけたアダーリオスの目の前を白い繊手が横切り、続いて紅い色彩が踊った。
 ギョッとしてアダーリオスが身をすくめる。
「貰うぞ」
 面白みに欠ける声がさらに続いた。ミノスの前に山盛りになっていた茄子が姿を消し、跡には空っぽになった皿が放り出される。
 茄子の呪縛から逃れ、自分の置かれた現状を理解するや、ミノスが憤然とした顔つきでカイゼルに鋭い眼光を送った。
「ミノス、礼を言え」
 歯軋りさえ聞こえてきそうなほどの形相をしているミノスの右手から追い討ちをかけるように声があがった。
 相手を射殺す視線が声の持ち主へと移ったが、当の本人は何喰わぬ顔をして、眼前の料理を消滅させることに腐心している。
 ミノスは再び不機嫌な視線を、救世主へと向けた。感謝とはほど遠い表情である。しかし片頬を引きつらせながらボソリと囁く。
「……礼を言う」
 とてもではないが、感謝しているようには見えない……どころかその正反対である。
 しかし成り行きを静観していたアダーリオスは目をひんむいてミノスの顔をマジマジと見た。この傲慢な少年が大人しく礼を口にするとは!
 衝撃に手に持っていたスプーンを落としそうになる。
「……。大したことじゃない。私は茄子が好きなんだ」
 淡々と茄子を胃袋へと収めていたカイゼルの手が止まり、穏やかな微笑みさえ浮かべてミノスへと返事をする。そんな光景は想像だにしていなかった。
 今度こそ、アダーリオスはスプーンをスープ皿のなかに落下させた。
 自分の問いかけにも無愛想なら、まわりの兵士たちの嬌声にも無関心だったカイゼルが、ミノスのいい加減な礼の言葉程度で微笑むとは!
 場を取り繕うとしていた自分が滑稽に思えて、アダーリオスは嘆息した。
 なぜこんなところで自分が道化を演じていなければならないのだろう。
 用心深くスープの池からスプーンを取り出し、こっそりとアダーリオスはまわりの人間や同席者の様子を盗み見た。
 剣角(カント)のシエラが現れてからは、兵士たちは四人への関心よりも自らの食欲への忠誠を優先させており、今のやりとりを見ていた者は誰もいないようだ。
 自分の右側に座るミノスは屈辱感に頬を染めたまま乱暴に食事を続けているし、左側のカイゼルは他人のことなど眼中にないといった顔つきで黙々と料理を減らしている。
 さらに正面に座っているシエラは無関心を装いつつ、面白がって成り行きを傍観している気配が伺えた。
 こんなことで気を使っているのは、自分一人だけだ。
 うんざりした気分になり、アダーリオスは自分の食事へと没頭する決心をした。
 まわりの人間にかまっていて自分の食事をし損なうなんて、今のこの状況から考えるに、これほど馬鹿らしいことはないと思えたのだ。
 珍妙な空気が流れる食堂で、夕食は静かに続いた。

〔 12323文字 〕 編集

アマゾネスシリーズ

No. 26 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
永遠の娘【三話】

 自分の名を呼ぶ聞き馴れない声がすぐ耳元で聞こえる。
“らさ! 起キロッ”
 聞いたこともない子供の声。
「だ……れ……?」
 倒れたままの姿勢からラサは頭だけ動かして声の主を見上げた。
「ネモ……?」
 大きな光る目で自分を見下ろす竜の子と目が合う。自分にはちっとも懐かない可愛げのない生き物だ。
 ラサはお師匠に可愛がられているこの幼獣が内心では嫌いだった。
「あんたなの? 今、わたしに話しかけたのは?」
 異形の者が鼻を鳴らす音が小さく響く。
“他ニ誰ガイル? ……相変ワラズノ半人前カ、オ前ハ? えいらノ跡ヲ取ルニ相応シクナイ奴ダ!”
 小ばかにしたように竜が目を細める。口はまったく動かされていない。幼獣はラサの頭に直接話しかけてきているようだ。
「う、うるさいわね!あんた、こんなとこで何してるのよ!?」
 竜の子の不愉快な言葉にラサは飛び起きた。その拍子に自分の身にまとう白い衣装が目に入る。
「あ……!?」
“魔力グラマヲ受ケ継グコトダケハ出来タヨウダナ。ト、ナルト我ガえいらノ刻ときノ砂ハ止マッタカ……”
 ラサは今まで身にまとっていた衣装がまったく別のものにすり替わっていることに愕然とした。見習いの衣装の代わりに自分がまとっているものは、師匠が正装するときに身にまとう純白の羽織だった。
 袖下には月長石ムーンストーンが下がり、肩先を除く全身すべてを覆い尽くすその衣装は、ラサの身体の寸法を測って作られたように身体に馴染んでいた。
 慌てて額に手をやる。
 馴れない感触。金属の冷たさと真珠特有の滑らかな手触りが指先から伝わる。額飾りサークレットがここにあるという現実がラサの身体から血の気を引かせた。
「お、お師匠様……」
“マタソウヤッテ泣クツモリカ? 誰モ助ケテナドクレハシナイゾ。古書ヲ読ンダトイウノニ情ケナイ!”
 頭のなかで破鐘のように響く痛烈な批判はラサの胸に突き刺さった。
「カームになど……。こんなことになると知っていたら、カームになどなりたいなどとは思わなかったわ! なぜなの!? なぜお師匠様が死ななければならないのよ!?」
 泣き喚くラサを竜の子は冷めた目で眺めた。さも軽蔑したように鼻を鳴らす。
“……子供ヨナ。ソンナ覚悟デハ、えいらガ嘆コウニ……”
「あの書には……。あれには歴代のカームの生死が書かれていたわ! どこで生まれ、どこでどうやって死ぬか!」
 古書の秘密を他の者に漏らさぬはずだ。一族の癒し手の生死を書き記した書物など、他の者が知ってはいけないことだ。親しい者の死を知ってしまったら、時を数えて恐怖するだろう。
“ダカラ、癒シ手ニハナリタクナイ、ト? ……ソウヤッテ甘エテ、オ前ハ森ノ民ヲ見殺シニスルノダナ”
「……死にたくないわ。わたしには自分の死を直視する勇気なんてないもの! お師匠様の死だって信じない!」
 ましてや書物に自分の死に様が書かれていたとしたら……。歴代のカームたちは、こんな残酷なことが書かれた書物を読んだというのか!?
“愚カ者メガ! 血ニ飢エタ殺戮者タチカラ、オ前タチ幼子を護ルタメニ自ラノ命ヲ身代ワリトシタ師匠ノ想イヲ踏ニジルカ!? えいらノ代ワリニオ前ガ死ンデシマエバ良カッタノダ!”
 まだ貧弱な羽根を精一杯大きく開くと竜の子は凶暴な叫び声をあげた。
 竜の揺り動かす羽根の間から虹色の波紋が広がった。巨大な虹の壁が一面に展開し、めまぐるしくその色を変えていく。
「こ、これは……!」
“見ルガイイ! オ前ノ救ウベキハズノ者タチノ姿ヲ!”
 輝く壁のなかに暗闇で怯える子供たちと気を失って倒れているキーマの姿が見えた。
「キーマ!? 子供たちまで! ど、どこにいるの!?」
“守護者ニシカ開ケラレヌ闇ノ部屋ニ隠サレタ者タチダ!放ッテオケバ飢エテ死ヌ”
 壁が暗くなったかと思うと、今度は川上で繰り広げられる凄惨な戦場を映し出した。
「あぁ、そんな……。みんな、疲れ切って……。それに傷だらけだわ……」
“奴ラガタトエ勝利シテ戻ッテ来タトシテモ、癒シ手ガイナケレバ、永遠ニ戦ノ疲レハ癒サレマイ”
 再び壁が暗くなる。そして、今度は見慣れた館の前庭を映す。人が見える。ここでも誰かが戦っている。
「族長クーン! だ、駄目! 早く逃げてッ!」
“友ヲ救ウタメニ戦ウ者。ダガ、疲レ切ッタアノ躰デハイツマデ保ツコトカ……”
 壁が虹色に輝き始めた。そしてその輝きが収まると一人の白い女の顔が浮かぶ。
「お師匠様! お師匠……」
 額に汗を浮かべて詠唱を続けるカームの横顔は疲れ切ってきた。気丈さを装おう姿はいつも通り美しく、幻想的でさえあったが、張りつめた緊張の糸は今にも切れそうだ。
 聞いたこともない呪歌ガルーナの韻の間から懐かしい師匠の声が響く。
「さぁ、ラサ。受け取りなさい。あなたが今から受け継ぐのです。魂の守護者カームのすべてを!」
 優しい声音が空気を震わす。
「駄目です……。わたしは怖い。自分の死を見たくない! 耐えられません、お師匠様。自分の死を指折り数えて生きていくなど……!」
 ガタガタを震えながらラサは白い癒し手を見上げた。虚空に浮かぶ水晶球を凝視する師匠の横顔は青ざめている。
 水晶球が詠唱を続ける者の魔力グラマを奪っていく様子が手に取るように分かる。もうカームには幾らも魔力グラマは残ってはいまい。
「往きなさい。幼き者よ……。すべてがあなたのものです。……そう! 私の記憶でさえも!」
 ラサは金切り声をあげた。壁から猛烈な力が押し寄せてくる。押しつぶされそうなほどの強大な力。
“白キ娘ヨ。目ヲ逸ラスナ!”
 頭を抱えて転げ回るラサの脳裏に竜の幼い声が鳴り響く。その竜の声を追うように頭のなかに怒濤の勢いで流れ込んでくるものがある。
 怒り、憎しみ、呪い、嘲り、哀しみ、嘆き、恐怖、嫌悪……。
 闇から迸り、流れ込む感情の波にラサは翻弄されてもがきまわった。
「く、苦しい……。助けて……」
“巫女ノスベテヲ受ケ止メルガイイ! 娘ヨ!”
 際限なく続くかと思われた負の感情の流入が突然止まった。
 咳き込みながらラサは恐る恐る顔を上げた。光の壁に映し出された師匠の顔に滝のような汗が流れている。魔力の限界だ。これ以上力を使ったら、師匠は廃人になってしまう。
「お師匠様……。駄目です。あなたが死んでしまったら、わたしは癒し手に……」
 ラサは青ざめた顔を竜に向ける。
「お願い、ネモ! お師匠様を止めて!」
 だが竜の子がそれに返事を返すよりも早く、白い女は両手を高く突き上げて叫んでいた。
「受け取るのです、ラサ! ……これであなたラサは私カームになる!」
 水晶球を掴み取った師匠の指の間から閃光が迸った。
「お師匠様……! やめてッ!」
 掠れた叫び声をあげたラサの脳裏に閃光が突き刺さり、見覚えのない景色を焼き付ける。
 自分が生まれ落ちるより遙か以前の記憶。白い癒し手たちの幼い記憶がラサの脳髄の奥まで浸食する。

  そして また
  脈々と続く記憶を受け継いで
  再生の巫女が生まれよう

 あふれ出てくる記憶の数々にラサは目眩を起こして床に倒れる。これを一人で負えというのか!? 何十人という白い女たちの記憶。
 ラサの小さな身体では収まりきらないほどの記憶が彼女の内部を食い荒らす。激しい痙攣を起こしながら、ラサは悲鳴をあげることもできない苦痛に身を焼いた。
“見届ケヨ。白イ娘ヨ! コノ世ノ末マデ、スベテヲ見届ケルガイイ。”
 流れ込んでくる記憶の奔流を遡り、ラサは一族の者たちがあげる声無き苦悶を聞いた。身体は引きちぎられそうな苦痛が支配を続けている。
 しかし、心の方はより純粋に、天の高みに昇っていくように高次元の世界へと引き込まれる。
「あ……れが……カー……ムの……本……質……?」
 見開いたままの目から涙が溢れる。
“美シイ世界デアロウ?オ前ガ到達スベキ場所ダ”
 竜の子にもラサの見ているものが見えているのだろうか? 痙攣を繰り返す娘の身体を未発達な前足でなでさする。
「あ……ぁ、な……んて……綺……麗な……」
 ラサはなにを見ているのだろうか?
 彼女が流している涙は決して哀しみや苦しみのためのものではなかった。痙攣が続く唇がため息をもらす。安堵と、諦観を含んだ優しい吐息。
「竜よ。……古き者よ。私の子たちを助けて……」
 涙で潤んだ眼まなこが異形の瞳とぶつかる。
“待ッテイタゾ、ソノ言葉ヲ!”
 竜の子が口をいびつに歪めて笑い、すぐに喉を震わせて咆吼した。




「な、なんだい!? この声!?」
 ハルペラの剣が止まった。
 どんな肉食獣でも出しようのない凶暴で残酷な吠き声が間断なく夜空を、森を、谷間を震わせる。轟々と響きわたる声に身体がすくむ。
「あれは……!」
 アティーナのあげる声の方角を振り向いたハルペラは息を飲んだ。
 癒し手の館の上に巨大な黒い影が浮かんでいる。細い月を背にするその影の輪郭は禍々しい。
「古代竜! そんなバカな……あれは伝説の……」
 茫然と呟くハルペラの声を聞きながらアティーナも身体を震わせた。
 カームが飼っている竜の幼獣など足元にも及ばない。知恵の王“古代竜”が天空から自分たちを睥睨している。嘲笑うような赤い瞳。大きく開かれた口から覗く巨大な牙。巨躯の数倍に達するであろう大きな翼。
“血に飢えた戦士にも、この姿は恐ろしいか”
 二人の族長の脳髄を焼く声が響いた。禍々しいほどの圧倒的な力を持った声だ。逆らい難さに、身体から力が抜けていく。
「竜の長おさ……」
 喘ぎ声をもらしてアティーナは地面に座り込んだ。すぐ隣に立つハルペラの膝が目に見えて震えているのが目に入った。その右手に下げた剣の先が力無く地面を叩く。
「嘘だ……。古代竜など、いるものか! 嘘だぁっ!!」
“一族の誇りを失った者の戯れ言など聞きたくない”
 ハルペラの叫びを嘲る声が響いた。谷の族長の身体がビクリと痙攣する。顔は血の気が引いて真っ青だ。
“男たちを一族に加えてどうするつもりだ、ハルペラよ”
 巨大な竜の詰問にハルペラは答えなかった。
 その竜が浮かぶ館から数人の女たちが駆けだしてきた。谷の一族を示す蒼い布が肩から下がっている。
 彼女たちは自分たちの族長と森の族長に気づくと、一斉に駆け寄ってきた。だが、凍りついたように立つ二人の顔に気づきすぐに立ち止まった。
「族長クーン!? なぜとどめを刺さないのです!」
 敵の長を目の前にしながら茫然と空を見上げる族長の様子を怪訝そうに伺い、主人の見上げる空を振り返った。
「ひぃっっ!」
 一様に女戦士たちは凍りついた。悲鳴を上げることも忘れて震え上がっている者もいる。
“愚か者どもめ。くだらぬ勲いさおしなど見るも穢れる”
 戦士たちの身体についた返り血を憎々しげに睨むと、巨大な羽根を持つ者は不快そうな咆吼をあげる。さらにその巨大な顎あぎとを開いて牙を剥きだした。
 竜の唸り声が遠くの山々まで届き、空気を波打たせる。
“消えるがいい! 女族アマゾネスの名に相応しくない者ども!”
 地面に縫いつけられたように立ちつくす女たちめがけて竜は前足を振った。いくら巨大な体とはいえ、そこまで届くはずもないのに。ところが、見えない風圧に吹き飛ばされるように女たちは次々とはじき飛ばされ空へと舞いあげられた。
 アティーナは木の葉のように空に舞う女たちを見上げるしかなかった。アッという間に夜の闇に消えた谷の者たちの行く先など解るはずもない。
“己の撒いた災い。己の命で贖あがなうがいい”
 冷徹な竜の声が闇に消えた女たちの後を追う。
「竜の長……」
 館を護るように空に浮かんだままの古代竜を見上げて、アティーナは自身の死を覚悟した。次は自分の番だ。
 無様な戦いぶりだった。族長としての自身の器の小ささを見せつけられた今夜の戦闘は、非難されても反論はできない。
“お前は我が名を忘れてしまったのか? アティーナ”
 森の族長は首を振った。忘れるはずもない。生まれたときから聞かされる女族アマゾネスの真の守護者。古代竜の名を。
「誇り高きアレオパゴスよ……」
 一度も会ったことはない、今日が初めてだ。だが見間違えようもない伝承通りの巨躯と声の持ち主。圧倒的な力の差の前に、アティーナはただ平伏することしかできなかった。
 アティーナの返答に満足したのか、巨大な黒い竜は目を細め、口を歪めて笑い声をあげる。
“上出来だ、アティーナ。エイラの子供たちに栄光を……!”
 次の瞬間、古代竜の姿は掻き消すようになくなった。その存在を示すものは何も残されていない。
 暗い夜空には細く痩せた月がかかっているだけだった。




 痺れた頭を振りながら起き上がると、キーマは目の前の娘の姿に息を飲んだ。
「ラサ・モーリン!」
 小さな白い影が振り返る。利発そうな顔に微笑みが刻まれる。どこかで見たことのある顔つき。
「気がついたのね。子供たちも落ち着いたから、そろそろ戻りましょうか」
 見れば、ラサのまわりには年端もいかない子供たちがまとわりついて離れない。どうして幼い者たちがラサと一緒にいるのだろう。屋敷で眠っているはずなのに。
「ラサ・モーリン、ここはどこなのです!?」
 辺りを見まわしてキーマは動揺した。何も見えない。ラサや子供たちはあんなにハッキリとみえるのに、まわりは真っ暗な闇が拡がっていた。こんな空間は知らない。
 カームの居室で気絶したらしいことは覚えているが、その後がどうなったか覚えがない。
「秘された間。……そう呼ぶのが相応しいかしら。わたしにしか開け閉めできないらしいわ」
 自嘲を含んだ笑みを顔に浮かべるとラサはキーマに手を差し伸べた。
「ラサ・モーリン……。その額飾りサークレットは……」
 ようやくラサの姿がいつもの見習いの格好ではなく、カームの正装だと気づいてキーマは怯えた。
「……これから、忙しくなるわ。戦が終われば鎮魂の儀式リポーズランセムが行われるだろうし、館や屋敷の修理もしなきゃ。手伝ってね、キーマ」
 一瞬、ラサの顔に寂しげな笑みが浮かんで消えた。
「白き母上……。ここは怖いよ。早く帰ろうよ」
 怯えた声で訴える幼子たちを振り返るとラサは穏やかな微笑みを向けた。
「大丈夫よ。わたしがついているわ」
 キーマは子供たちが自分以上に素早くラサの変わり身を受け入れたことに驚愕した。つい昼間まではラサはカーム見習いだったのだ。それなのに……。
「さぁ、急ぎましょう。キーマ。みんなが待っているわ」
 首を微かに傾げて自分に微笑みかける娘の仕草にキーマは震えた。白き母エイラの癖だ。なぜ彼女がそんな仕草をするのか。
 だが差し出された小さな手を振り払うこともできず、キーマはその手を取った。温かい生き物の温もりが伝わる。
「“光、満ちよ。月の見る夢は醒めた”」
 滑らかに呪歌を唱う小さな娘の横顔を見つめながら、キーマはラサがカームの力を受け継いだことを悟った。
 新たな癒し手が誕生した。ならば、旧き者は……。
 自分の予想が外れることを祈りながら、キーマは空間を満たす光の渦のなかに身を投じた。




「ラサ・モーリン! いったいどうやってここまで来たの!?」
 黒い鎧を血で染めた女が叫んだ。その声につられてまわりの者が一斉に振り返った。全員の視線の先に白い小さな娘が立っていた。軽く首を傾げ、静かな笑みを浮かべている。
「こんな前線まで来るなんて!槍一本持ったことのないお前がくる場所じゃないよ。早く館……へ……」
「ラ、ラサ……。その姿は……」
 ざわめきが拡がっていく。小さな娘は純白の衣装を見にまとっていた。そして額には真珠の額飾りサークレットが……!
「みんな、帰りましょう」
 唱うように喋る白い娘の顔には優しい微笑みが浮かんでいた。
「何を言っているの!? お前、あの剣戟が聞こえないのかい!?」
 戦いの場からは荒れ狂う水音のような叫声が響いていた。そして、さらに剣と盾が擦り合わされる甲高い音。
「いいえ。すぐに収まるわ。ホラ! あれを見て」
 娘が細い月のかかる夜空を指さした。つられるように女たちが空を見上げる。何かが降ってくる。
「なんだ……? 何か落ちてくるぞ」
 月の細い光に照らされて木の葉のように舞うものが落ちてくる。
「……! お、おい! 人だ! 人が落ちてくる!?」
 呆気にとられて見守るなか、空から降ってくる人型がどんどん大きくなってくる。きりもみ状態で間近まで迫った人間たちの腕に蒼い布地が見えた。
「た、谷の者だ! どうなっているんだ!?」
「うわっ。落ちるぞ……!」
 ざわめきが急速に辺りに拡がっていく。剣を撃ち合わせる音が小さくなり、そして、止んだ。
 水を打ったような静けさのなか、上空の女たちのわめき声だけが異様に大きくこだまする。
「谷の族長だ! あぁ!?」
 吸い込まれるように地面に近づく女の顔には正気はない。瞳は恐怖に見開かれ、唇は意味不明の言葉を発し続けていた。
 戦いのまっただ中だった場所に女たちが次々と落下していく。
 叩きつけられる鈍い音と、断末魔の絶叫が空気を振動させた。時間が凍りついたように止まった。
「いったい何が起こったんだ!?」
 人の業わざとは思えぬ出来事に戦っていた者たちは戸惑い、怖じ気づいた。こんな死に方はご免だ。誰もがそう思う凄惨な死。
 谷の族長の身体は落ちた衝撃でぐちゃぐちゃだった。手足は幾重にも折れ曲がり、頭は跡形もなく潰れている。
 他の降ってきた女たちも同様な死に様だ。
 嗅ぎなれた血臭のはずなのに、吐き気が胃からこみ上げてくる。その場に居合わせた者たちは一様に顔を歪ませた。
 もはや戦うどころではなかった。毒気を抜かれた軍勢は誰が言うともなしに後退を始めていた。
「ラ、ラサ!?」
 その時になってやっと、自分たちの目の前にいた娘の姿が見えなくなっていることに気づいた森の一族は、お互いの顔を見合わせ困惑した。
 月が見せた幻か?混乱した頭のまま女たちは退いていく敵たちを見送った。




 よろけるようにアティーナは館へと踏み込んだ。
 扉は破壊され、家具類は引き倒されていた。こんな有り様になった館内など見たこともない。いや、これからだって見たくはない。
 震える身体に鞭打って、アティーナは一番奥にある一族の母の居室へと向かった。
 居室の扉は跡形もなく吹き飛んでいた。アティーナの身体の震えが増す。
 恐る恐る戸口に手を掛け、アティーナは強ばる足を叱責した。入り口からそっと中を覗き込む。
「……! カー……エイラ!」
 奥に倒れている白い人影にアティーナは飛びついた。
「エイラ……! エイラ! しっかりして!」
 土気色をしたカームの顔はピクリとも動かない。胸は血で真っ赤に染まっている。体温は触れている間にも、どんどん下がっていく。心臓は、……もう脈打ってはいなかった。
 自分は間に合わなかったのだ。
 アティーナの瞳から涙が伝った。
「ごめんなさい……。エイラ、ごめんなさい。私が……私がもっと早く来ていたら……」
 かつて一緒に草原に遊んだ友の骸が急速に冷えていく。自分の体温を分け与えるように友を掻き抱いてアティーナは泣き続けた。
 どれほど悔いても、悔いきれない。自分がもっと早くに敵の罠を察していれば、こんなことにはならなかった。
 死の神が命を奪っていくというのなら、自分の命を奪っていってくれればいいのに。なぜ、一族の母を、自分の幼い日の友の命を奪っていくのか!?
「あぁ、月神アルテミスよ、戦神アレスよ。お願いです。エイラの命を戻してください、お願いです……」
 肩を震わせて泣くアティーナの背後に人の気配がした。
 涙を拭きもせず振り返り、アティーナはそのまま茫然とその人物を見つめた。
 月光色の髪が波打ち、純白の衣装の縁を彩る。青白い肌のなかで若葉色の瞳と淡い紅色の唇だけがハッキリとした色彩を放っていた。
「ラサ……?」
 目の前に立っているのは、確かにラサ・モーリンと呼ばれる娘であるはずなのに、そこにいる者は自分の知っているカーム見習いの小さな娘ではなかった。
 慈悲深く自分を見つめる瞳に見覚えがある。すべてのものを飲み込んでしまう深淵を思わせる眼差しがひどく懐かしい。
「子供たちは無事です。キーマ・ラスティも。間もなく一族の者たちも戦場いくさばから帰ってくるでしょう。……立ちなさい、族長クーン。あなたに立ち止まる時間など与えられてはいない。わたしと同じように、ね」
 謎めいた微笑みを湛えて白い娘は一族の長を見つめた。
「お前は誰? 私の知っているラサ・モーリンはそんな娘ではなかった!」
 不意に胸にこみ上げてきた苛立ちをぶつけるようにアティーナは叫んだ。理不尽な怒りが沸々と煮える。
 だが白い娘は答えを返すでもなく、ただニッコリと微笑むと、死出の旅に出た女の傍らに佇んだ。
「“そして また、脈々と続く記憶を受け継いで、再生の巫女が生まれよう……”あなたに、安らかなる眠りを。美しきエイラ……」
 ひっそりと囁く娘の声は唱うように空気を震わせ、アティーナの耳に届いた。驚くほど死んだ友に似たイントネーション。
 哀しげに友を見下ろす白い娘の顔を見たアティーナは自分のなかの今まで悔恨や苛立ちが急速に退いていくのを自覚した。
 胸に染み込む若草色の寂しげな瞳。それが懐かしい友の顔と重なる。
 その信頼はどこからくるのかと訊ねたときに見せた、友の揺るぎない自信を示す空色の瞳にそっくりな光を宿す小さな娘の瞳は、彼女が間違いなく一族の魂の守護者カームとなったことを表していた。




 白い娘は背後からの気配に振り返った。若草色の瞳が光の向こうを透かし見るように微かに細くなる。
“すべては元通り……”
 掠れた声が光のなかに響いた。
「戦いの丘アレオパゴス? そこにいるの?」
 彼女の呼びかけに答えるように咆吼が響き、黒い影がゆらりと浮かんだ。
“永遠の娘リジェナレートよ。ようやく目を覚ましたか”
 安堵した声が娘の脳に拡がる。思慮深く、だが残酷な声。
「記憶の引き継ぎは終わったわ。あなたとの契約はまだ生きていたようね?」
 穏やかに小さな娘が巨大竜に語りかける。
“契約を破棄するのはいつも人間のほうだ。我が守護を望むのなら、戦い続けるがいい。……闘う心こそが我が安息の地。それを提供する限り、我が守護は続く”
「ありがとう、知恵の竜。母なる月と父なる戦がある限り、あなたとの契約は履行されるわ。そうそう、今回はあなたの子供を随分とこき使ってしまったわ。あなたにもお詫びをしなければ」
 白い小さな手が屈み込んだ竜の鼻先をなでた。
“森の番人ネモレンスか? あの悪戯者のことだ、あっちこっちでお前の子たちの鼻面を引っ張り回していることだろう。……ふむ。今もお前の姿を借りて一族の者を驚かせているようだ。詫びにも及ぶまい”
 喉の奥で笑うような声が響いた。竜の赤い目がすぅっと細くなる。大きく裂けた口がいびつに歪んだ。
「引き続き、私があなたの子を預かってもいいのね?」
 白き者の口元がほころんだ。白い歯がチラリと覗く。
“あれは森の番人だ。お前たち森の一族に委ねるのが一番相応しかろう?”
 天を覆うような巨大な羽根がふわりと舞った。音もなく古代竜の黒い巨躯が浮き上がる。
“絶えることなく記憶を引き継ぐがいい、再生の巫女よ”
 強烈な光が辺りを覆う。目を焼く白光がすべての色彩を飲み込んでいった。
「再びあなたに会うときは、わたしを迎えにくるときね。お師匠様の待つ光の野へ。わたしも後継者を見つけるわ、アレオパゴス。あなたとの契約のためではなく、わたしが守護する森の女たちのために……。これから生まれてくる子供たちのために……」
 低く呟く白き娘の声は、消え去った黒い影には届いてはいなかった。




 緑の輝きが蒼い空に放たれていた。森は朝日を受けて生き生きとしている。
 自分の瞳と同じ輝きを放つ森を見上げてラサは深く息を吸い込んだ。鮮烈な空気が肺をいっぱいに満たす。
 ふと東の彼方を見る。赤茶けた低い丘が見えた。戦い続ける者を招く、沈黙を守る丘、戦いの丘アレオパゴスだ。
 どれほどの者の血を吸ったかしれない丘は、朝日のなかでも相変わらずの沈黙を守っていた。
「賢者ラサラサ・デュ・カーム」
 おずおずと傍らに跪く娘を見下ろして白い娘は微笑んだ。
「あら、キーマ。どうしたの?」
「申し訳ありません。私はあなたを欺きました」
 青ざめたキーマの顔は酷く頼りない表情を浮かべていた。
「いいのよ、もう……。それより、擦り傷を作っているじゃないの。手当をしないと」
 自分と同い年の娘の腕を取ると、ラサは口のなかで小さく呪文を唱える。今まで一度でも成功させたことのない治癒魔法。
 見る間にキーマの擦り傷はふさがり、傷跡さえ残さずに魔法は成功した。
「見事ですね」
「ク、クーン! どうしてここへ?」
 背後の声にキーマは慌てて振り返った。
「戦が終われば負傷者のためにカームが必要だ。ここに来るのは当然だ」
 無表情に答えを返すと族長クーンは恭しく白い娘の前に跪いた。
「カーム。鎮魂の儀式リポーズランセムの用意が整いました。どうぞ、お出ましを」
「解りました。すぐに参りましょう」
 自分に向かって頭こうべを垂れる年かさの族長に鷹揚に返事をするラサの態度にキーマは驚きの視線を向けた。だが口に出した言葉は驚きを表すことはなく、平静を保とうとしていた。
「私も仲間の元に戻ります」
 足早に草原へと去っていくキーマを見送ると、族長はラサを振り返った。その表情はどこか年以上の厳めしさを見せている。
「カーム。お訊きしてもよろしいか?」
「どうぞ。わたしで判ることでしたら」
 涼しげな笑みを浮かべて白い娘が答える。
「古書には、なにが記されていたのですか?」
 禁忌を訊ねる族長の顔は険しかった。友を死へと追いやったものを素直に受け入れるには、まだ時間がかかるかもしれない。
 少しだけ驚いた顔をした娘が首を傾げた。
「さぁ? なんだと思います?」
 逆に問いを返して白い娘は悪戯っぽく微笑んだ。
 その仕草に見覚えがある。既視感に族長は目眩を覚えた。そんなはずはない。この娘が友に似ているなどと……。
「……見当がつけば、訊ねたりしません」
 族長が憮然とした顔で答えた。
「その通り。だから、答えなど聞かないほうが良いのですよ」
 穏やかに微笑む小さな癒し手の顔に旧知の友の顔が重なる。人の心を覗き込む、あの空色の瞳が。何を考えているのかさっぱり解らない微笑みが。
 若葉色の双眸が族長の瞳をヒタと捕らえた。
「行きましょう。皆が待っています」
 小さな白い母が笑う。燦然と額に輝く額飾りサークレットの白真珠が朝の光に鈍く瞬いた。
 足元には喉を鳴らしてじゃれつく竜の幼獣が未熟なその羽根を空に震わしている。ぎゃあぎゃあと鳴き声をあげる竜の子を白い娘がそっと抱き上げた。
 何も変わってはいない。これまでも、これからも……。
「参りましょう、白き母上……」
「えぇ。皆が待っていますね」
 赤髪の女を従えて、魂の守護者は草原へと歩き出す。朝の陽炎がそのまわりに揺らめき、優しく包み込んでいった。
 幼い子供たちの歓声が二人と一匹を追う。傷ついた戦士たちの戸惑いと憧憬の眼まなこがそれを迎える。
 森の一族は、今は癒しの刻とき。その白い守護者が鎮魂の儀式へと向かう。変わらない朝日の下に、変わらない日常が戻る──。

終わり

〔 11377文字 〕 編集

アマゾネスシリーズ

No. 25 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
永遠の娘【二話】

「族長クーン! ここにおいでか!?」
 怒りと焦りに彩られた声とともに一人の女が姿を現した。
「エル・ブラン! 何ごとだ!?」
 族長は自分とカームの間に割って入ってきた乱入者に怪訝な表情を向けた。カームと話をしている間は誰も邪魔しないように伝えてあった。
「谷の一族が! 境界線を越えて、谷の一族がわが領地に進入しています。今、川上で黒戦士ネロナイツが応戦していますが手が足りません。このままではここもすぐに攻め込まれます!」
 黒っぽい衣装を身にまとい、三日月型の盾と鋭い穂先の槍を掲げて立つ女はまだ若い。だがその声音には戦士の厳しさが滲んでいる。
「谷の者が!? あの女狐め……! 私も出るぞ!カームの護りに入る者をこちらに寄越せ」
 クーンは同じ女族でありながら、長い間諍いを続けていた一族の族長の顔を思い出して地団駄を踏んだ。
 あの一族はいつもそうだ。何かと言えば争いを仕掛けてくる。他国から受けた依頼を横からかすめ取っていくことも一度や二度ではない。
 今度もこちらの寝込みを襲って何かを企んでいるに違いない。
「キーマ・ラスティを呼んであります。ですが白戦士ブランナイツたちすべてを護りに就かせるわけには……」
 エル・ブランと呼ばれた黒戦士は、カームの護衛専門に配備されている戦士たちを前線に投入したいようだ。それほど前線の苦戦は酷いのだろう。
「何人をこちらに寄越せそうだ!?」
「クーン。私の護りはキーマ一人で結構よ」
 素早くエルに問い返すクーンの声に続いて、カームはきっぱりと言い切った。穏やかな視線を向けてはいるが、クーンの抗議をはねつける強い光が眼光の奥に宿っている。
「すみません! 遅くなりました」
 そのとき、一人の娘がバタバタと足音も荒く部屋に駆け込んできた。昼間、カーム見習いのラサ・モーリンに護衛で就いていたキーマだった。
「キーマ。……よし。ここはキーマ一人残す。残りの者はすべて谷の一族のほうへまわせ!」
「え!? な……どうして!?」
 驚いて目を瞬かせるキーマを残してエルが駆け去っていく。
「クーン!? どういうことですか!?」
「キーマ。お前はここに残ってカームを守れ!」
 自身の戦支度をするために族長は扉へと向かった。
「そ、そんな! カームの護衛がたった一人だなどと……」
 一族の長の後を追おうとするキーマの肩に手を置く者があった。
 族長の内心の葛藤を一番理解しているのはこの白い母であったかもしれない。何も言うなと首を振り、忍耐強い顔をしてキーマを見つめるカームの瞳には子供を諭すときの強さが宿っていた。
 困惑を隠せないまま、それでもキーマは頷いた。
「良い子ね……。そうそう、ラサにはちゃんと伝えてくれたのね。ありがとう」
 今までの力強い表情が嘘のように穏やかに白い女は微笑んだ。
「え? あ、はい。……あの、確かにお言いつけどおりに……。でも……」
「ラサを騙したようで心苦しいの? 大丈夫よ。あなたは嘘をついたわけではないから」
 柔らかな笑みを浮かべたまま、カームは娘の肩を抱いた。ラサよりも背の高い少女だ。それでもラサとたいして歳は変わらない。
 どうやらラサにカームの書き記した書物があることを伝えさせたのはカーム自身であったようだ。
 族長も認知している計画らしいが、いったいラサに何をしようというのか?
 それにしても他人を介して伝えることだろうか? 一族の守護者の命じることに従うしかない白戦士の娘にとって、いずれは自分の主人となる者を欺く行為はどんな裏切りを犯すよりも辛いことであったろうに。
「ラサ・モーリンは怒るかもしれません。彼女に禁忌を犯させたのは私です」
 キーマが喘ぐように囁いた。その囁きに微笑みを返しながらカームは娘から離れた。
「何も心配はいらないわ。さぁ、ラサが安全な場所にいる間に襲名儀式ケティルランセムを済ませましょう。手伝って頂戴ね、キーマ」
「え……えぇ!? だ、だって! 後継者もいないのに!」
 一族の族長位、あるいはそれぞれの戦士たちの主導者を任じるときはいつだって、元の地位の者から次の後継者に額飾りサークレットが引き渡されるのをキーマは今までみてきていた。
 サークレットを引き渡す娘もいないままに行われる襲名儀式などあり得ない。
「着替えを手伝って、キーマ」
 柔らかな微笑みを浮かべたままカームは羽織っていた衣装を肩から落とし、腰帯をほどいた。豊満な胸と腰が覗く。
「カ、カーム! 何故、今……」
 動揺するキーマにお構いなく、一族の母は着ている物を脱ぎ捨てていく。その度に白い肢体が露わになる。
「急いで、キーマ。私の魔力グラマが使えるうちに、終わらせるわ」
「カーム!? まさか……!」
 そのときになって初めてキーマは白い女主人の顔に浮かんだ焦燥感に気づいた。普段は決して見せることのない表情。張りつめた緊張感。
 キーマは慄然とした。いずれ、自分の刻ときがくれば癒し手は自らその姿を消す、と言われている。どう消すのか、キーマはよく知らなかった。
 だが今になってようやく判った。消すという意味は身体そのものを一族の者の目の前から隠してしまうのではない。
 カームの癒しの力、治癒の魔力を消し、そしてただの女に戻るということなのだ。なんの力もない、ただの女に。
 だが戦士として育てられていない女にこの一族のなかで居場所はない。それは何よりもカーム自身が一番良く知っていることだ。
 青ざめたままのキーマに白い母は静かな眼差しを向けた。
 迫っている刻ときに焦りはしても、自らの終焉を怖れてはいない空色の瞳。
 どんな戦士よりも死を超越した者の双眸は、死の深淵を思わせる強い輝きを放っているようにキーマには思えた。




「戦況はどうなっている!?」
 駆けつけた族長の声に黒衣の戦士たちの間から小さな歓声があがった。
「ようやくここまで押し返しました」
「兵士たちも交替で戦っていますから、これ以上敵に侵入されることは防げるかと思います」
 口々に報告をする黒戦士たちの口調にはゆとりが感じられた。敵の侵入を知らされたときの切迫した様子はない。
「族長クーン!」
 その空間に割り込んできた声にその場にいた者は一斉に注目した。
「別働隊がいます! 敵の分隊が川幅の狭い岩場付近からこちら岸に渡っています。このままだと挟み撃ちです!」
「チッ。やはり……。ジーナ! シシリィ! お前たちの小隊を岩場に向かわせろ!岩場の上からなら容易く討ち果たせよう」
 別働隊の報告に素早く対応するとクーンは前方に展開している戦闘の様子をうかがった。絶え間なく剣や槍を撃ち合わす音と鬨の声が上がっている。
「何を考えている……谷の女狐め!」
 同じ女族アマゾネス同士、争い合っていたところでなんの得もないのだ。そんなことも解らない相手にクーンは苛立ちが隠せなかった。




 純白の正装に着替えたカームの立ち姿は見るからに神々しい。
 キーマはその姿に見惚れた。いつ見ても美しい、汚れなき尊い姿。それなのに、この美しいカームの刻ときの砂は終焉を迎えようとしているというのか。理不尽な怒りが沸き上がる。
「カーム。お願いですから、この館から逃げてください!それが無理だと仰るなら、ラサのいる地下部屋へ! いつ谷の者がくるか知れないのです」
 だがキーマの注進はカームの穏やかな微笑みで無視された。
 刻ときの終わりは自身の死を暗示するものだ。その闇が目前まで迫っているというのに、カームは穏やかな微笑みを絶やしてはいなかった。
「水晶球をここへ……」
 柔らかな声はまったく震えてもおらず、微笑みのなかの双眸は力強いままだった。
 言われるままに水晶球を差しだしながら、キーマはもどかしげに白い母の横顔を見つめた。
 カームの手に触れられると水晶球は淡い光を放ちだした。
「いい子ね。さぁ、手伝って頂戴ね」
 白い繊手が半透明の表面をなでる度に、水晶は様々な色を浮かび上がらせ、虹色に輝いていった。
 幼子に話しかけるように水晶球と会話するカームの顔には、なんの憂いも見られない。
 カームがそっと水晶を頭上に掲げる。それを待ちかまえていたかのように輝く珠は銀光を発し、部屋の中を月光で染めあげた。

  小暗き途みちを往ゆけ
  汝の途みちがそれなり
  柔らかき草はなし
  されど、そは天道の途みち

 静かに、だが力強くカームが呪歌ガルーナの詠唱を始めた。キーマが初めて聞く歌だ。
 高く、低く響く声に反応するように水晶球が自身の輝きを強く弱く発する。珠までがカームの歌声に合わせて唱っているようだった。
 銀の光のなかに立つ白い母の姿は半ば光に溶け込み、袖下に下がる月長石ムーンストーンと額の白真珠がその白い輝きを増す。

  歩むごとに荊いばらに傷つき
  求めるものは遙か彼方
  助け手は何処いずこにか在らん

 引き込まれるようにカームを見つめるキーマの耳に守護者の声とは別の声が重なり聞こえる。聞いたことのない、しかし懐かしい声音。
 聴き入るキーマにはどちらが目の前に立つ女の声で、どちらが虚空から響く声なのか判然としない。
 鼓膜を震わす柔らかな音の波に飲み込まれて、キーマはガックリとその場に倒れ伏した。

  見よ 汝らの前に立つ乙女を
  その小さき者がアルテミスの娘であることを知れ
  それこそが汝らの命脈を救う術なり……

 カームが振り返る。そして、そこに倒れ込む娘の姿を見つけると首を傾げた。それが合図にでもなったのだろうか。今まで部屋の隅で大人しくしていた竜の幼獣がヒョコヒョコと娘に近寄っていった。
 戯れに遊んでくれと言っているような足取りが、室内の緊張感とは対極の印象を与える。

  沈黙は破られた
  今こそ目覚めの刻ときぞ……

「ネモ。キーマと子供たちをお願いね」
 カームの詠唱は、虚空からの声とともに続いていた。だが、唱い続ける声とは別に明らかに彼女の声と思しき音の波が部屋の空気を震わせた。
 それをジッと聴き入っていた竜の子は、解ったと言うように一度頷くと気を失っている娘の傍らに座り込み、その長い鼻面を眠る娘の顔に近づけた。
“浮ケ!”
 詠唱が続く音の洪水のなかに子供の声が響いた。
 幼子の声の後に続くようにキーマの身体が空へと持ち上げられた。重力に逆らって浮かび上がった娘の身体は不安定に空中を漂っている。
“月ノ青白キ横顔ト猛々シイ動乱ノ神ガ命ジル。幼キ者ヨ。秘サレタ部屋ニ往クガイイ”
 幼い声が朗々と響く。部屋に水晶球の輝き以外の光が混じった。
 金色の閃光が一瞬だけ部屋を満たし、すぐに元の銀の輝きが部屋に拡がった。何ごともなかったかのように、カームと虚空の声の詠唱は続く。
 しかし、倒れ込んでいたキーマの姿は跡形もなく消え失せ、彼女の傍らにうずくまっていた小竜の姿も同じように消えていた。

  癒し手カームの席は二つなく
  その記憶も二つなし
  継ぐべき者に名を与わば
  清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……

「さぁ、ラサ。受け取りなさい。あなたが今から受け継ぐのです。魂の守護者カームのすべてを!」
 詠唱の声と重なって、カームの肉声が部屋に漂う。血の通った人間の声。だが、どこか寂しげな。
 聞く者のない声音がなおも朗々と続いた。

  廻れ、廻れ 輪廻の歯車
  和児わこを護りて 疾とく廻れ
  刻ときの波間に身を任せ
  永遠の娘リジェナレートが生まれ来る……

 水晶球を見つめるカームの瞳が笑っている。すべてを見透かすような空色の瞳が、死への諦観を含んで笑っている。
 運命が回る。人の目には見えない、神々の戯れに誘われて……。




 敵の不可解な動きに気づいたのは族長だった。
「おかしい。いつもの攻め方ではないぞ、谷の者は!」
 谷の一族が攻めたててくると、いつも狂ったように苛烈な槍の攻撃が続くのだ。それが今回に限って自分たちを誘うようにジワリジワリと後退していく。そして、一定の距離を下がるといつも通りの剣戟が再開される。
 それを何度も繰り返している。まるで時間を稼いでいるような……。
「まさか……」
 族長は自分の不吉な予感に身震いした。まさか、我々をおびき出すためだけにこの作戦が行われているのではないか?
 思い至った考えが行き着く先は、領内の館に残してきた一族の癒し手だった。
「まずい! 谷の族長め! 我らの守護者を殺めるつもりだ……!」
 だが、敵軍との攻防は続いている。このまま敵に背を向けるわけにはいかない。
「族長クーン! 行ってください! ここはあたしたちで充分です! ……カームを! 我らの母をお願いします!」
 今しがた前線から交替してきたばかりの黒戦士ネロナイツの女が族長の独白を聞いて叫んだ。
 もしクーンの推察が正しかったとしたら、今頃カームのいる館や幼い子供たちのいる屋敷は谷の軍勢に包囲されている。
 護る者のいないカームや幼子などあっけなく殺されてしまうだろう。
「白戦士ブランナイツだけでいい! 黒とその配下の者はここを離れるな!」
 迷う間もなく指示を出す族長の声を掻き消すように新たな鬨の声が上がった。だが、その声はあり得ない声だった。
「クーン! 谷の奴ら! 男たちを、男たちを軍に加えています!」
「なんだと!?」
 女族アマゾネスにあるまじき行為だった。
 自分たちが傭兵として雇われはしても、女族が他族の、しかも男を軍列に加えるなど、これほど恥さらしな行為はない。谷の族長は誇りまで売り渡してしまっているのか。
 男たちのあげる喊声が空気を震わす。
 こちらは今までかなりの時間を戦ってきている。交替しながらの戦闘とはいえ、味方の疲労は徐々に溜まってきていた。
 持久戦になれば男たちには勝てない。体力差を補うには、こちらの軍勢の数は少ないはずだ。
 谷の者もそれをよく知っている。こちらの陣営が破られたら、一気に領内に敵は侵入するだろう。
「あの女狐。よくも、こんな卑怯な策を!」
 族長は前方から聞こえる剣戟の音を聞きながら吼えた。だが今さらどうにもならない。
 初めに気づいていれば、罠にはまることもなかったのだろうが、味方の体力が落ち始めている今となっては、進むことも退くことも困難を極めることだった。
 それでも一族の癒し手や未来のある子供たちを捨てておくわけにはいかなかった。
「エル・ブラン!」
 族長は自分の片腕となって働く女の名を呼んだ。
「エル・ブラン、ここに!」
 すぐに返事が返され、返り血を浴びた女が顔を覗かせた。
「私は館に向かう! 他の者はすべてお前の下に入れるから、お前がこの場を取り仕切れ!」
 貴重な人員を連れて館へ向かうことはできない。自分が一人で行くしかあるまい。相手も隠密に行動しているのであれば、かなりの少数で館に向かっているはずだ。
「判りました、族長。ご武運をお祈りします!」
 黒衣の女は強い眼差しを女主人に向けたまま頷いた。一刻の猶予もない事態だった。躊躇いがすべての生死を分けるだろう。
「ご武運を!」
「白き母上をお願いします!」
 口々に兵士たちが族長に呼びかける。それに答えを返している暇はなかった。族長は配下の戦士たちが見守るなか、赤い烈風となって夜の闇へと駆けだしていった。




 光の珠のなかから取り出した巻物を拡げて読み始めたラサは、読み進むうちに身体の震えを押さえられなくなっていた。
「これは……! この古書は……」
 古書は確かにカームが書き記したものに違いはない。だが書き記された文字の古さと筆跡から見て、一人の人間によって書かれたものだ。決して歴代のカームたちが書きためたものではない。
 それに、この内容は……。
「なぜ……。どうして、こんなことが……!」
 見なければ良かった。
 ラサはこの古書を読んだことも、この場所へ来たことさえも後悔し始めていた。こんなこと知らなければ良かった。
「お師匠様……。あなたもこれを読まれたはず……。なぜ? どうして、平気なのですか!?」
 とうとう耐えきれず、ラサは紙面から目を背けた。
 目をきつく閉じる。だが、今まで読み進んだ内容は記憶にしっかりと刻まれており、忘れることなどできるはずもない。
「いやよ……! お師匠様が死んでしまうなんて……。それに! それに、これには……わたしの……」
 床にひれ伏し、頭を抱えてラサはもがいた。髪を振り乱し、全身を痙攣させる。狂ったように頭かぶりを振って声を震わせる様は狂女の様相。

  沈黙は破られた
  今こそ目覚めの刻ときぞ……

 再び、さきほどの声が響きだした。今度はすぐ頭上から聞こえてくる。
 ラサは飛び上がって頭上を見上げた。そこには柔らかい輝きを発する光体がふわふわと浮かんでいるだけで、何も居はしない。
「誰なの!? ……姿を見せなさいよ!」
 ラサはわめき声をあげた。

  癒し手カームの席は二つなく
  その記憶も二つなし
  継ぐべき者に名を与わば
  清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……

 静かな声の詠唱が続く。そして、巻物を取り出した光体がゆっくりとラサめがけて降下してきた。ふわりふわりと漂いながら、だが確実に避ける隙も与えずに。
「ひっ……」
 ラサは後ずさった。しかし、くじいた足では思うように動けない。物言わぬ光はラサの行く手を遮るように目の前まで降りてくると、そこでピタリと止まった。
 そして眩い輝きを一度だけ発すると、徐々にその光を納め、淡い鈍い輝きだけを残して小さく縮んでいった。
「な……に?」
 小さくなっていく光をラサは固唾を飲んで見守った。恐ろしさに逃げ出してしまいたかったが、身体はいっこうに言うことをきかなかい。
 とうとう指で摘めるほどの大きさまで光は縮んでしまった。
 淡い白く輝く珠。どこかで見たことのある形。
「……! こ、これ……お師匠様の、額飾りサークレットについている……!」
 ラサは目の前に浮かぶ白い真珠を凝視した。
 見たことがあるはずだ。いつもお師匠様の額を飾っている額飾りサークレットの中央にはめ込まれた真珠が目の前に浮かんでいる。
 自身が意志を持つようにふわふわと浮かぶ珠はラサに手に取るよう促すようにクルクルと目の前で回りだした。
「いや……。側にこないで……」
 ラサは首を振って真珠から目を逸らそうとした。しかし彼女が顔を背ける方向へ真珠は移動し、嘲笑うように目の前を行き来する。
「いやだったら! こっちに来ないで!」
 身体の震えは止まらない。振り乱した髪は彼女の肩や背中でくしゃくしゃにもつれ、体中にまとわりついている。
 いつまで経っても手に取ろうとしないラサに痺れを切らしたのか、真珠がググッと近寄ってきた。
 ラサは声にならない悲鳴を発した。真珠はお構いなしに彼女にすり寄り、その額に飛び込んでいった。
「い……いやぁ~!」
 ラサの口から絶叫が迸る。半狂乱になって自分の額を掻きむしる。その彼女を嘲笑うように再び闇の声が響いた。

  廻れ、廻れ 輪廻の歯車
  和児わこを護りて 疾とく廻れ
  刻ときの波間に身を任せ
  永遠の娘リジェナレートが生まれ来る……

 わなわなと身体を震わせ、額に手をあてたまま白い娘は滝のような涙を流し始めた。
「お願い、やめて……! わたしがカームになったら……。お師匠様が……。お師匠様がぁ~! あぁ~……」
 彼女の精神をなぶるように声が容赦なく辺りに響く。粛々と続く詠唱を、ラサが止める手だてはなかった。

  残りし者が、すべてを継がん
  逆巻きながれる河のごとく
  初めからのすべてを継ぐがいい……

 闇の声がさらに大きく反響してくる。耳を聾するほどの大音声にラサの意識は遠退き、支えるもののないその躰は崩れるように床へと倒れていった。
 薄闇のなかに白い娘の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。
 泣き濡れたその頬は血の気が引き、乱れた髪の間から覗く白い額には真珠の額飾りサークレットが輝いていた。




 背後から荒々しい足音が聞こえてくる。白い女はそれを背に聞きながら、詠唱を続けていた。主なき声もともに唱う。
 銀の光に満たされた空間は時に温かく、時に冷たく空気を染めあげられ、詠唱に翻弄されている。
「往きなさい。幼き者よ……。すべてがあなたのものです。……そう! 私の記憶でさえも!」
 額に玉の汗を浮かべてカームは水晶球を見つめ続けた。
 口は詠唱を続けているのに、別の肉声がどこからともなく響いてくる。

  残りし者が、すべてを継がん
  逆巻きながれる河のごとく
  初めからのすべてを継ぐがいい……

 呪歌ガルーナに合わせてくねらせていたカームの両腕が、そのとき天高く突き上げられた。瞬く間に白き母の全身が白光に包まれる。
 ともに詠唱を続けていた声が音とも声とも取れる奇妙な発音を繰り返しだした。うねるように空間に拡がる主なき声は、白い女の躰のまわりを旋回しているようだった。
「受け取るのです、ラサ! ……これであなたラサは私カームになる!」
 一際高音の声が辺りを包んだ。
 バタバタと扉に近づく足音がする。人間のわめき声も! 背にした扉を押し開けようと、体当たりしているらしい音もはっきりと聞こえる。
 カームは突き上げた両手を水晶球へと伸ばした。珠はまだ銀の輝きを発し続けている。
 珠を掴んだ癒し手の両手の間から目を焼く閃光が迸る。まともに目を開けてはいられない。カームは思わず目を閉じた。

そして また
脈々と続く記憶を受け継いで
再生の巫女が生まれよう

 白い母のまわりにまとわりついていた声が最後とばかりに呪歌を唱いあげる。空気さえ焼き尽くしそうな閃光がゆっくりと退いていった。
 癒し手が力尽きたように床に座り込んだ。恐る恐る目を開ける。辺りは今までの光の海が嘘のように薄暗くなっていた。水晶球ももう光を放ってはいない。
 滝のように流れ出した額の汗を拭おうとカームは腕を上げた。
 そのとき、背後から硬い物が弾ける音がこだました。
「いたぞ! カームだ!」
 驚いて白い女は振り返った。その目の前に女戦士が立ちはだかっている。血走った目がカームの全身を舐めるように往復する。
「森の癒し手だね!?」
 女の返答も待たずに侵入者は槍を振り上げた。
 遠くに剣戟の音がする。目の前の殺戮者のことも忘れて、カームは剣戟に耳を澄ませた。聞き覚えのある剣を撃ち合わせる音のリズム。
「あぁ、アティーナ。戻ってきてしまったのね?」
 白い母は静かな微笑みを浮かべた。
「死ね! すぐにお前の一族も後を追わせてやる! この性悪な魔女め!」
 金切り声とともに槍が突き出され、白き母エイラの胸に吸い込まれていった。




 全身を返り血で真っ赤に染めた女が睨みすえた。
「見つけたぞ! 谷のハルペラ!」
「遅いかったじゃないか……」
 残酷な笑みを浮かべてハルペラと呼ばれた女は振り返った。
 闇を溶かし込んだような黒髪がヌラヌラと光っている。笑みを浮かべる唇は血を吸ったように紅い。
「館にはもう部下が入り込んでいるよ。どうするね、森のアティーナ?」
 可笑しくてたまらないといった風情で、ハルペラはケラケラと笑い声をあげた。腰から下げた剣がカチャカチャと音を立てる。
「貴様という奴は!」
 森の一族を統べる族長クーンは朱に染まった剣を振り上げた。
「アッハハ! 可笑しいねぇ、アティーナ! 癒し手一人のために血相を変えて一人で駆け戻ってきたのかい!?そんなに心配なら、隠した子供たちと一緒にあの白い性悪魔女もしまっておけば良かったじゃないか」
 ゲラゲラと笑いながら、ハルペラは腰の剣を抜きはなった。月光に反射する白刃がギラリと輝いた。
「隠しただと……?」
 苛烈な攻撃を続けながらアティーナは相手の顔色を伺った。
 子供たちはいつも通り屋敷の部屋で眠っているはずだ。戸締まりの厳重なカームの館より容易に入れるはずの屋敷に、この悪辣な女が踏み込んでいないはずがない。
 屋敷に子供たちの姿がなかったというのなら、カームは子供たちを連れて逃げ出した後なのか?
「なに考えごとをしてるんだい!? 戦いの最中に他ごとを考えるんじゃないよ! 面白くないじゃないか!」
 悪鬼の形相で大きく剣を振りかぶったハルペラがアティーナの胴を薙ぎ払った。だが、紙一重の差でアティーナが避ける。
「お前こそ、ベラベラ喋るんじゃないよ! こうるさいカラスめ!」
 お返しとばかりにアティーナの剣がハルペラの足元を狙う。
 背後に飛んでその剣撃を避けたハルペラがすばしっこくアティーナの右側に回り込む。今まで戦闘で体力を使っていない分、相手より早く動けるのだ。
 剣を持つ利き腕を狙うハルペラの動きにアティーナが気づき、すんでの所でその剣撃を避ける。
「この……! チョロチョロとうるさい蠅が!」
「喧しいね! サッサとくたばっちまいな、アティーナ! どうせすぐにあんたの大事なカームも後を追うんだよ!」
 鋭い舌鋒がアティーナの胸をえぐる。カームの安全を確認したわけではない。館に残っているのなら、早く助けに行かなければ。
「ほらほら! どうした! もう動けないなったのかい!?」
 ハルペラの嘲り声が鼓膜を震わす。
 気を散らされたアティーナの脇腹をハルペラの繰り出した剣先がかすめた。思いの外鋭い剣撃にアティーナがよろける。
「下手くそ! さっさと死んじまいな!」
 かわされた剣先をすぐさま引き戻し、ハルペラが先ほどよりも早い剣撃を繰り出す。鋭い切っ先が、未だに体勢を立て直せないアティーナの左胸に向けて突き出された。
「なめるなよ! 畜生……!」
 アティーナが辛うじて盾でその攻撃を防ぐ。だが息が上がりかかっていた。
「ハッハァ~! 全然なってないよ。なんだい、その戦いぶりは!」
 嘲弄がアティーナの鼓膜を打つ。歯がみしたところで、どうにもならない。
「ほ~ら! サッサと眠っちまったほうが楽でいいんじゃないかい!?」
 ふらつきかかったアティーナの足元をすくうようにハルペラの剣が横薙ぎにする。
 アティーナはやっとの思いで白刃を避けたが、続けざまに繰り出される切っ先は盾の間をくぐって、とうとう身にまとった鎧に達した。
 鈍い音とともに鎧の肩部が弾けた。
「くそ……!」
 アティーナの左肩から鮮血が噴き出す。
「あはは! あんたの髪の色とお揃いさね。血にまみれて死ぬがいいよ、アティーナ!」
 肉食獣を思わせる八重歯がハルペラの口から覗く。
 アティーナの動きは鈍かった。振り下ろされてくる剣が見えているのに、躰は緩慢な動きしかできず、その輝く刃を避けることは困難だった。
 こんな所で死ぬわけには……!
 地面に張りついたままの重い両足を動かそうと焦る。だが動かない。諦めと怒りがアティーナの体内を満たす。
「エイラ……!」
 その時、友の懐かしい名を叫んだ彼女の声を掻き消すほどの大音声が森の樹という樹の梢を震えあがらせた。

〔 11173文字 〕 編集

アマゾネスシリーズ

No. 24 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
永遠の娘【一話】

 開け放たれた窓から燦々と陽光が降り注いでいる。
 窓辺に寄った赤髪の女が、眩しい光に耐えられずに視線を室内へと向けた。目が暗さに慣れるまでに少しかかる。顔がその苦痛に歪んでいるが、そればかりが彼女の顔に翳りを与えているわけではなさそうだ。
 外は雨上がりの草いきれで息苦しいほどだが、ほの暗い室内は微かな湿気を感じるだけで、古びた石造りの壁に静かに光を受け止めている。
 部屋の中央の大きなテーブルの上には、飲みかけの薬湯が入ったカップが無造作に置かれ、その前には膝に竜の幼獣を片手であやす女の姿が陽光に浮かぶ。
「魂の守護者カーム……。本当なのですか?」
 窓辺の女の声に呼応するようにその赤髪が震えた。燃え立つ炎のようなその色合いが女の日に焼けた力強い顔立ちを一層に際だたせていた。
 白い繊手で幼獣の背を撫でつけていたもう一人の女が顔を上げた。
 窓辺の女とは対照的に静脈が透けて見えそうなほどの色白で優しげな顔立ち。淡い金色がかった茶髪や身にまとった白い衣装が時折、陽光に鈍く光る。
「えぇ。もうすぐ、私の役目は終わりです。跡はあの子に任せますよ」
 カームは天空を思わす瞳を窓の外に向けると唄うように答えた。
「なぜ!? あなたはまだ若い!」
「……族長クーン。歳など関係ないのです。私に定められた刻ときがきています」
 白い女は膝の小竜を降ろすと静かに立ち上がり、ゆったりとした足取りで窓辺に近づいた。
 長く垂らした広口の袖下では、月光を固めたような月長石ムーンストーンがカームの歩みにつられてコクリコクリと揺れている。その揺れる石に興味を惹かれたのか、竜の幼獣が小さな前足で月の石を軽く小突く。
「でも……」
「ラ~サァ~!! いい加減にしとくれ!」
 クーンの声を遮るように甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。その声に二人の間にあった重たい空気が一瞬だけ霧散する。
「ご、ごめんなさぁ~い」
 半べそをかいた声が怒鳴り声の後から続いて聞こえる。窓から眺めると林のすぐ側でがっしりした体格の女が小柄な白い娘にがなり立てている姿が見えた。
「あの子はまだ未熟です。それでもあなたの刻ときは終わると言われるのですか?癒し手を失えば、一族は滅びてしまいます。どうか……」
「大丈夫ですよ。あの子にもちゃんと務まります。呪歌ガルーナを詠唱できさえすれば」
 柔らかい視線を白い娘に向けたまま、カームがクーンの言葉を再び遮った。静かな口調なのに、鋼のような強い意志を感じる。
 もう決まっているのだ、口を出すな、と。
「それでも、白い母よ。私はあなたに見捨てられたような気がします」
 クーンが唇を噛む様子を横目に見ながら、カームは口元をほころばせた。
「心配しないで。月の乙女アルテミスの名に賭けて、守護者があなたたちを見捨てることなどあり得ない」
 カームの言葉に頷くように、彼女の額に巻かれた真珠の額飾りサークレットがキラリと輝いた。それは、あなたの流す涙はすべて飲み込んでいくから、と囁いているような輝きだった。

  廻レ、廻レ 輪廻ノ歯車
  和児ワコヲ護リテ 疾トク廻レ
  刻トキノ波間ニ身ヲ任セ
  永遠ノ娘りじぇなれーとガ生マレ来ル……




「あ~ぁ。いやになっちゃう。また最初っからだわ。どうして上手くできないのかしら」
 ため息とともに乱暴に籠を草の上に投げ出すと、娘は草の上に寝そべって空を見上げた。
 年の頃は十三~四歳ほどであろうか。利発そうな顔立ちだ。
 娘が草に寝転んだまま大きく伸びをした。背中は生乾きの草で少し冷たい。
「お師匠様の眼の色みたい……」
 誰に向かって言うわけでもなしに娘はポツリと呟いた。
 雨に洗われた木々の緑が目に眩しい。新緑の季節も終わりを告げようとしていた。これからは雨がまばらな時期に入るから、薬草も摘みやすくなるだろう。
 空の青から逃れるように娘はゴロリと寝返りを打った。
 先ほどはちょっと目を離した隙に、薬草を煮詰めていた壺を真っ黒焦げにしてしまった。あの薬草は焦げつきやすいからとお師匠様にも言われていたのに。
 でも本当にちょっと目を離しただけなのだ。
「あ~ぁ」
 再びため息をもらすと娘は気怠げに身を起こして、伸びをした。
「薬草を摘まなきゃ……ね」
 もらした言葉にはうんざりした気配が漂っていた。だが、薬が無くなりかかっているのだから、作らない訳にはいかない。
「ラサ・モーリン! ここにいらっしゃったのですか」
 近くの低灌木の辺りから聞き馴れた声がかけられた。
 振り返った視線の先には、同年代の娘が立っていた。背丈よりも長い槍を片手にして立つ姿は優美さとは無縁だが、日焼けした肌が闊達そうな印象を与える。
 娘は着ている着物の丈を短く腰で結わえていた。伸びやかな四肢が猫科の動物を思わせる。
「キーマ。わたし、ついてきてって頼んだ覚えないけど?」
 ラサは片眉だけをつり上げ、若草色の瞳で相手を睨んだ。
「私はあなたの護衛ですよ。警護につくのは当然です。厭な顔をされても側にいなければなりません」
 律儀に恭しく頭を垂れるとキーマは畏かしこまったまま答えた。
「もう! 同い年なのに敬語なんて使わないでよ! イライラするわ!」
 こんなことでキーマに八つ当たりしてみても仕方ない。でも内心の焦りは埋火のように消えることなくジリジリと胸を焼く。
 そんなふうに頬を膨らませて文句を言うラサの容姿はキーマと同い年にしては少し幼めに見えた。
「なにを怒っているのですか? あなたは次の魂の守護者カームを約束された人。敬語を使ってどこがおかしいのです?」
 ラサの態度が心外だとばかりに、キーマは眉間にシワを寄せた。
「嘘よ! いつまで経っても半人前の見習いだって、みんな言っているわ」
 うずくまって膝を抱える小さな娘の姿にキーマは苦笑した。そんなことを気にしているのか、とその顔がいっている。
 今まで溜まっていた不満を吐きだすようにラサはさらに続けた。
「呪歌ガルーナを唱うどころか、カームの雑事さえこなせないって!」
 そんなラサをなだめるようにキーマが顔を覗き込んだ。
「あなたは生まれ落ちたそのときからカームの才覚を認められています。心配する必要はないと思いますが?」
 だが、そんな言葉もラサには慰めにならないのか、沈んだ顔つきは一向に直らない。
「戦士として戦の庭に散ったほうがわたしには分相応だわ。……なのに、戦うことも許されないなんて」
 暗い表情のままラサは立ち上がり、キーマに背を向けた。
 その小さな背中を悲しげにキーマが見つめる。
「そんな哀しいことを言わないでください。カームの滅びは一族の滅びです。癒し手がいるからこそ、我々は戦えるのですから……」
「呪歌が唱えなければ、結局同じだわ。カームになれないもの」
 月光のように金色に輝く自分の髪をクルクルと指で弄びながらラサはキーマのほうにチラリと視線を向けた。
「呪歌を唱えたら、カームになって頂けるのですね?」
 何か思い詰めたような緊張を顔に浮かべてキーマが訊ねた。
「そうね……。それが私の定めだというのなら」
 しかしラサはそんなキーマの様子にも気づかず空の青さに見とれた。引き込まれそうな青。お師匠様の瞳の色にそっくりな。
 ふと我に返ったラサは足元に転がった採取籠を拾い上げた。薬草摘みがまだ途中だった。今日中に作りにかからないと、薬が切れてしまう。サボっている場合ではなかった。
 薬草を探そうと辺りをキョロキョロと見まわすラサの傍らに立ったまま、キーマは黙り込んでいた。顔には何か迷いの色が濃い。
「キーマ。悪いけど薬草を見つけるのを手伝ってよ」
 振り返ったラサの視線は真っ直ぐに自分を見つめるキーマのそれと絡み合った。
「……代々カームは呪歌に関する書物を書き記しているそうです」
 声を潜めるキーマの顔は密談をしているというよりは、秘密を告白するとき特有の緊迫感に満ちていた。ラサはキーマの話に引き込まれる。
「それを読むことが叶えば、呪歌を唱うことなど、造作もないことだとか」
「!? そんな話……初耳だわ」
 今までに一度だって聞いたことはなかった。にわかには信じられない。だが、キーマがそんな重要なことで嘘をつくとも思えない。
「……でしょうね。族長クーンと我々近衛ナイツにしか伝えられていませんし、口外は禁じられています。もちろんカーム以外の者が読むことなどできるはずもありませんから」
 その禁じられている秘密をキーマはラサに打ち明けてしまっている。このことが他のナイツやクーンに知れたら、キーマ自身無事には済むまい。
「それに……。カーム以外の者が読むと気が触れる、と」
 付け加えられたキーマの最後の言葉はラサには耳に入っていなかったかもしれない。
 カームの書物を読むことが叶えば、呪歌が唱える。自分が今までどうしても唱うたえなかった呪歌が、思いのままに使えるようになるかもしれない。
 その可能性にラサの心は浮き足立ち、禁忌のことなど思いもしない。
「その書物、どこにあるの?」
 夢中でラサは訊ねていた。薬草摘みのことなど、すっかり忘れている。
 たじろいだようにキーマが半歩さがった。
「書庫の奥、だと聞いています。でも正確な場所は……」
「書庫に!? 全然気づかなかったわ」
 カームが読めるというのなら、たとえ見習いでもわたしにだって……。本当にカームの才覚があるというのなら!
 キラキラと目を輝かせるラサの表情を見つめながらキーマは自問を繰り返す。
(これで、良かったのだろうか? ……本当に良かったのだろうか?)




「お師匠様。これで薬は全部です」
 おずおずと差し出した壺に注がれる師匠の視線を痛いほどに感じてラサの躰は縮み上がっていた。
 ジャムのように粘りけのある薬は壺の深さの半分ほどしか入ってはいない。本来なら、壺一杯に出来上がるはずの薬がこれほどの量になってしまったことには色々な理由があった。
 まず、初めに作った薬を焦がして無駄にしてしまったこと。そして、その後に採れた薬草が少なかったこと。さらに、この薬壺に移すときに手を滑らせて薬をこぼして土に還してしまったこと。すべて、自分の不注意が招いた結果だった。
 悄然と俯くラサの手から薬壺が取りあげられた。
「ご苦労様。今年は薬草の生育が遅いから、草を摘み取るのも大変だったでしょう。今夜はゆっくり休みなさいね」
 ラサは弾かれたように顔をあげて、微笑みを浮かべる師匠の顔を見た。
 確かに今年の薬草の生育は少し遅い。でも、決して少なすぎるというわけではなかった。自分が失敗さえしなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
 部屋の隅に備えつけられた棚に壺を納める師匠の後ろ姿を目で追いながら、ラサは情けない気分を押さえきれず一人落ち込んだ。
 薬壺をしまい終わった師匠がゆったりとこちらに戻ってくる。その足元には竜の幼獣がじゃれついている。
 師匠は泣きそうな顔をしているラサの手を取るとその白い両手で娘の小さな手を包み込んだ。
「薬草を摘むときにつけたのね、この傷。痛かったでしょう?」
 師匠の優しい手が優雅に舞い、ラサの擦り傷だらけの手の上をなでていった。魔力グラマの温かい波動がじわりと伝わる。
「さぁ、治ったわ。……ラサ?」
 ボロボロと涙をこぼす娘に少し驚きの表情を向けた後、カームはその月光の輝きを放つ髪を優しくなでた。なにも心配するな、というようにゆっくりと、ゆったりと。
「お、お師匠様……。ごめんなさい。ごめんな……さ……」
 なおも涙を流す娘にいっそう優しい微笑みを向けると、カームはその肩を抱き寄せて背中をさすった。そんなことをしたら、泣きやむどころではないであろうに。
 案の定、ラサは師匠の胸に顔を埋めると全身を震わせて泣き続けた。
「ラサ。草はまた育つわ。今度はもっと上手くできる自信があるでしょう?」
 ひとしきり泣き続けた娘の涙がようやく涸れ始めた頃、カームがそっと娘の顔を覗き込みながら囁いた。
 コクリと頷くラサの様子に満足したのか、師匠は娘の身体を引き離すともう一度だけ髪をなでた。
「お休みなさい、ラサ。……月があなたの夢を見守り続けますように」
「はい、お休みなさい。お師匠様」
 なんとか笑顔を作るとラサは強ばったその顔を師匠に向けた。そして、ふと師匠の足元にまとわりついている小竜に目をとめる。
「ネモ。お休み」
 娘の呼びかけに竜の幼獣がその声の主を見上げた。大きなドングリ眼がキョロキョロと動き、娘の顔を凝視する。
「ネモ?」
 カームが呼びかけながらその不格好な生き物を抱き上げた。
「ラサがお前に挨拶をしてるのよ?」
 だが幼獣は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。小さな娘を小ばかにしたその様子にカームは困ったように顔を曇らせ、獣に無視された娘はしょんぼりとうなだれた。
「しようのない子ね、ネモは。ラサ。ゆっくりとお休みなさい」
 小竜の額をトントンと突っついた後、カームはラサに微笑みを向ける。
 目に見えて落ち込んでいる娘を促すようにカームは娘の肩に手を置いた。片腕では幼獣が退屈そうに鼻を鳴らしている。
「お休みなさい、お師匠様」
 硬い表情を崩さず、ラサは一人と一匹に背を向けた。そして、逃げ出すように扉から滑り出ていったのだった。
 その後ろ姿を見送った後、白い女はため息混じりに小竜に話しかける。
「ダメよ、ネモ。ラサ・モーリンを虐めては」
 だが竜の幼獣はそんなことにはまったく頓着した様子も見せず、女の腕のなかで甘えた鳴き声をあげていた。
 その竜の様子にヤレヤレと首を振り、カームは奥の扉へと歩き出した。
 扉の奥には人の気配がしている。ラサがここを訪れる前から居座っている来訪者が今のやりとりを聞いていたであろうことはすぐに予想がつく。
 カームは一瞬だけ苦笑いをその表情に浮かべたが、すぐにいつもの柔和な顔を作り、そっと奥の扉を開けた。
 来訪者は渋い表情を作っていた。
 予想通りのその顔にカームは再び苦笑いを浮かべそうになった。これは彼女のいつもの癖だ。気にしていては、きりがない。
 竜の幼獣を抱き上げたまま白い女はテーブルの側まで歩み寄った。
「カーム。あれでよろしかったのか? ……あの様子だと、間違いなく書庫へ向かってるぞ」
 納得がいかない、といった顔つきのままクーンは目の前に置かれた果蜜水のカップを取りあげた。しかし、手に持っただけで一向にそれに口をつけようとはしない。
「良いも悪いもありません。あの子が成人していようと、幼かろうと、定められた刻ときは間違いなく近づいているのです。私の刻ときが終わる前に、ラサにすべてを引き継がせます」
 頑迷な、あるいは冷酷なほどにきっぱりと白い女は言い切った。腕のなかで小竜が居心地悪げに身じろぎした。
「それに、ラサは必ず呪歌を自分のものとするでしょう。あなたの心配することではありません」
 小竜を床に放つとカームはまとった衣装を優雅に揺らしながら椅子に腰掛けた。文句のつけようのない優美な動きに竜の子が女をうっとりと見つめる。
「あの娘にカームの重圧に耐えられる精神力があると?」
 苛立たしげに髪を掻き上げるとクーンはもどかしそうな表情で相手を見遣った。どうして、そんなに落ち着いていられるのか?
「……私にはそうは見えない」
 そのクーンに癒し手が穏やかに笑みを向ける。子を見守る母のように。あるいは慈悲深く人間を眺める神のように。
「賭ですよ。これは、ね」
 カームはまるで遊びの続きを話して聞かせるように、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 ことはそんな簡単なことではないのに。
 女だけのこの一族で、癒し手の不在は緩慢な滅びを意味している。いや人としての血脈を保つだけならば、一族に男を加えてしまえば済むことだ。
 だが誇り高い女族アマゾネスの血がそれを素直に享受するはずもない。
 女だけの種族では限界がある。そのことには一族の者すべてが感じていることだ。それでも他の種族に取り込まれることなく一族が命脈を保ってきたのは、彼女たちが傭兵として他国の王たちに重宝がられていたからだ。
 だがそれも、魂の守護者カームが居ればこそだ。
 子を産む女にとって、戦で人の命を奪うことは自分で自分の子の命を否定しているようなものなのだ。その矛盾する感覚をなだめるためにカームは一族の者が背負う負の感情をすべて独りで引き受ける。
 戦ですり切れてしまった者の心を呪歌の調べでもう一度紡ぎ直し、安眠させるのがカームの役目だ。癒し手がいるからこそ、戦へ向かう者たちは他国が怖れる力を出し尽くせる。
 その、自分の魂そのものを救ってくれる癒し手が居なくなったら? 考えただけでも悪寒が走る。
 族長はたまらず立ち上がった。
 見えない恐怖と戦いながらクーンは癒し手の空色の瞳を睨んだ。なぜ、そんなに平然としていられるのか!? 判らない。この人の心は判らない。
「あなたの……。いや……エイラ! その信頼は、いったいどこからくるのだ!?」
「たぶん……あなたの思い及ばぬ所からよ、アティーナ」
 返ってきた返事に一族の長はいっそうに困惑した。
 自分とたいして歳の変わらない一族の白い母は、涼しげな顔をして微笑んでいる。自分の刻ときが終わるとあっさりと口にしたり、見習いの娘にすべてを託すと言ったり、何を考えているのかさっぱり判らない。
 底が知れない。
 幼い頃は一緒に野山を駆けたはずの友なのに、いつの間にこんなに理解しがたい存在になったのか。
 族長クーンは一瞬その心の深淵を覗いた気分になり、取り憑かれた闇を払うために天にあれし女神の名を口腔で転がした。




『なんて出来の悪い癒し手だろう』
 そんなことない。わたしには才覚があるわ。お師匠様がそう言ってくださったもの!
『あぁ、厭だねぇ。いつまで半人前の見習いでいるつもりかねぇ』
 わたしだっていつまでも見習いなんかでいたくないわ! だから……だから!
『このままじゃ、死に絶えるのを待つばかり。いっそ、他の後継者を捜したほうが、良くはないか?』
 いや! 止めて! わたしを見捨てないで!
 小さな悲鳴とともに飛び起きるとラサは肩で息をした。
 厭な夢。
 額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。その汗を拭おうとしてあげた手がふと止まった。
「ここは……?」
 見慣れない景色だった。薄暗い空間にぼんやりと目が慣れてくると、白亜の柱が立ち並び、棺のような石の群が鎮座している様子が見えてきた。
「わたし、確か、書庫に忍び込んで……」
 今まで自分の行動を思い出し、辺りを見まわそうと身体を起こす。
 途端に足首に鈍い痛みが走った。
「い、痛い。足を捻挫したかしら。あぁ、そうだわ。書庫の奥で隠し階段を見つけて、降り始めてすぐ足を滑らせた……」
 すぐ側に暗い階段が上へと伸びていっている。一番上がどの辺りか見当もつかない。
 師匠の部屋を後にしてすぐ、ラサは書庫に忍び込んでいた。昼間にキーマから聞いた話が心から離れなかったこともあるが、何よりも追いつめられた心理が書庫へと向かわせた。
 ラサはそろりそろりと身体を動かし、うっすらと明るい方へと這っていく。時折に足から伝わる痛みは、そこが熱を持ってきていることを教えていた。
「窓がどこかにあるのかしら? ぼんやりと月明かりが見えるような気がする……」
 この地下部屋のどこかに地上からの明かりが射してくる可能性は充分にありそうだった。柱に取りすがってゆっくりと立ち上がると、ラサは光らしきものが見える奥を透かし見た。
「あ……! あれは!?」
 思わず柱から手を離して、ラサはよろけた。
 奥の光のなかにぼんやりと浮かんだものは、自分たちの信仰する女神像だった。それもかなり古びた感じのする等身大像だ。
 随分と前から安置されていたのだろう。掃除されていたが、神像は所々に欠けや汚れが見えた。
 その像に引き寄せられるように近づくとラサは自然とその前に跪いた。いつもの習慣で腕を胸の前で交差させ、軽く頭こうべを垂れる。
 一通りの祈りを捧げ終わると、ラサはその神像の顔を見上げた。
「お師匠様に少し似てるかしら?」
 神の表情は柔らかさより力強さを印象づけるものだった。柔和な師匠の顔立ちに比べれば遙かに凛々しい顔立ちだと言っていいだろう。だが、厳しさの残るその表情の下に慈悲深い微笑みが見えるような気がする。
 神の表情を見ているうちにラサは先ほどの師匠の態度を思い出していた。
 優しい、滅多に怒らない師匠。それでも今日の薬の出来は叱られても仕方のないものだった。無惨な出来映えであるにも関わらず、師匠は叱りもせず、笑って次は上手くできると言ってくれた。
 叱られなかったことにホッとする反面、見捨てられてしまったような心許なさが心の奥底には積もっていた。きっと師匠は呆れて怒る気にもならなかったのだ。なんと情けない弟子であろうか。
 哀しげに俯いたラサは神像を安置してある台座に寄りかかると、疲れ切ったように長い長いため息をはいた。
 茫然と台座に寄りかかっていたラサの目に、それが目に入ったのは本当に偶然だった。
「あら……? 何かしら?」
 台座の端に切り込みが入っている。いや、切り込みくらいなら、装飾の一種だと割り切れる。だが、その切り込み部分は明らかに歪んでおり、暗がりのなかで見ても違和感があった。
 ラサは好奇心に駆られてその切り込み部分に触れてみる。切り込みは握り拳ほどの範囲で大理石に刻まれていた。その部分がカタカタと揺れる。
「もしかして、隠し箱か何かかしら?」
 ラサは苦労して大理石を引っぱりだした。手首が入りそうな穴がぽかりと開く。そっとその穴に手を差し込んで、中を探ってみた。
 ……が、中身は空っぽだった。
「何も入ってないわ」
 穴に手を入れたまま、がっかりした様子でラサはうなだれた。
 昼間に聞いていたカームの書物があるかもしれないと密かに期待していたが、当てが外れてしまった。やはりそんなに都合良く見つかるはずがない。
 それにしても不可解な穴だった。神像を安置するための台座にこんな穴など必要ないはずだ。故意に刻みつけられたことは明らかで、何かを隠すために作られたとしか思えないものだった。
 それともこれは書物を盗み見しようとやってきた者の目を欺くための仕掛けなのだろうか?
「女神よ……。わたしには書物を見る資格などないということなのですか?」
 そのときだった。
 力無く呟くラサの声が聞こえたかのように、密やかな声が響いてきた。

  見よ…… 汝らの前に立つ乙女を
  その小さき者がアルテミスの娘であることを知れ
  それこそが汝らの命脈を救う術なり……

 突然の囁き声にラサの心臓は飛び上がった。
 慌てて辺りを見まわすが、何処からともなくもれてくる光と、闇に半分溶け込んだ石たちが沈黙を守るばかりで生き物の気配はまったくなかった。
「だ、誰!?」
 ラサは怯えながらも気丈に声を出した。黙ったままでいては、沈黙の恐怖に心が押し潰されてしまいそうだ。

  沈黙は破られた
  今こそ目覚めの刻ときぞ……

「誰!? 誰なの! いったいどこから話しかけているの!?」
 問いに答えようとしない何者かに言いようのない恐怖を抱いてラサは身体を縮めた。まわりの闇に飲み込まれてしまいそうだ。
「誰なの!? 出てきなさいよ!」
 ラサは金切り声をあげた。このままここにいてはおかしくなってしまう。だがくじいた足では逃げることも叶わなかった。
 彼女のそんな様子を面白がるように闇の声が続く。

  癒し手カームの席は二つなく
  その記憶も二つなし
  継ぐべき者に名を与わば
  清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……

 ラサは足の痛みも忘れて立ち上がった。知らず全身が恐怖に震える。このままでは自分の心が壊れてしまう。
「出てきなさいよ! この卑怯者! 姿を見せたらどうなの!?」
 震えが止まらない。膝の力が抜けてくずおれそうだ。叫び声をあげる唇も震えて、声がうわずる。
 ラサはくじけそうになる自分の気持ちを奮い立たせるように闇を睨んだ。その薄暗い闇の中にほのかな輝きが見えたのは、彼女が闇と対峙したその時だった。
 輝きがどんどん強くなる。
「な、何!? 何かが近づいてきている!?」
 闇のなかにいたとき以上に怯えてラサは背後の神像に身を預けた。足が震えてまったく動かせない。

  廻れ、廻れ 輪廻の歯車
  和児わこを護りて 疾とく廻れ
  刻ときの波間に身を任せ
  永遠の娘リジェナレートが生まれ来る……

 目を開けていられないほどの強い輝きが辺りを一瞬覆った。
「お、お師匠様……助けて」
 とうとうラサは他人に、ここにはいない者に助けを求めた。だが、助け手がくるはずもない。
 眩い輝きが一瞬で去り、その後には穏やかな月の光に似た輝きが宙に浮かぶ。恐怖も忘れて、ラサは茫然とその発光体を見つめた。楕円の形をしたその光はふわふわとたゆたうように揺れていた。
「な、なんなの……?」
 一時の恐慌が落ち着いてくるとラサは光の中を透かし見た。何かが浮かんでいた。
「? ……何かあるわ」
 闇から聞こえていた声はもう聞こえなかった。
 ラサは恐る恐る神像から身体を起こすと痛む足を庇いながら光の源に近づいていった。
 女神像からさして離れていない位置に浮かぶその光体に近づいたラサは、その中に浮かぶ物を確認して息を飲んだ。
「ま、巻物が……。これがカームの書き記している書物なの?」
 歴代のカームが書き残している書物にしては、随分と少量な気がする。そして、古びた羊皮紙は光の中に浮かんで彼女が手にすることを望んでいるようにさえ見えた。
「神よ……。感謝します」
 震える声と身体を押さえてラサは光に手を伸ばした。
 一瞬、見えない壁が自分を遮るのではないかと頭の隅に疑問が浮かんだ。だが光の壁は彼女を拒絶することなく、その内側へと彼女の両手を導き入れた。

〔 10759文字 〕 編集

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