石獣庭園 -Wing on the Wind-

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移ろい花

No. 37 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 雅屋(みやびや)の若旦那は顔は綺麗で気性は穏やか。芸も達者で風流人。
 いつの頃からか、呉服商人どころか町往く人の間でも評判になっているけれど、そんなことはこの花街の女たちなら誰もが当の昔に知っていること。
「あぁ、若旦那。おいでなさいませ。あいすみませんねぇ、ご足労かけちまって」
 赤い塗りの柱に手をかけてぷらぷらと入ってきた若い美男に女将(おかみ)が艶めかしい足取りで近づいてくる。四十路を超えているであろうに、十は確実に若く見える化粧をして、流し目を送る姿はさすがに商売女。
「どうしましたね、お(えい)さん。……店までわたしを呼びにくるなんざぁ、今までなかったことだけど?」
 年若い男が気に入りの扇子で自分のすんなりとした顎を撫でながら、黒目がちな瞳をひたと艶女(たおやめ)に向ける。
「いえね。新しくきた子どもの見立てをして頂きたくて……」
「そいつはお前さんの仕事じゃないかね? 客に見立てをさせたとあっちゃ、女将の名折れじゃないかねぇ」
「そんな冷たいこと言わないでくださいな。あちきの手に余るからお願いに上がったんじゃございませんの」
 恨みがましい視線を投げかけ、生白い顔を近づけてくる女将の仕草に苦笑を浮かべると若旦那は手持ちの扇子をはらりと広げて口元を覆い隠した。
「いいのかねぇ、わたしなんぞに頼んで。見立てをする振りをして喰っちまうかもしれないよ?」
 青年の穏やかな黒目が悪戯っぽく光っている。覆い隠した口元もきっと同じように笑みを浮かべていることだろう。
「よござんすとも。若旦那の趣味に合うならどうぞお好きに。……でもねぇ、ずぶの素人でございますよ?」
「たまには玄人女じゃなくてもいい、とわたしが言ったらどうするつもりだい」
 自分のからかいに女将がしゃあしゃあと答えを返すことに青年は気をよくしたか、その綺麗な顔をほころばせて満開の笑みの花を咲かせた。
 まったく男にしておくには惜しいほどの美貌に、女将のほうが一瞬見惚れて赤くなる。
「それじゃ、いつもの紫陽花(あじさい)の間で待っていてくださいな。その娘に茶を運ばせますから」
 自分の滑稽さに狼狽えた女将は早口に言葉を紡ぐといそいそと奥へと引っ込んでいった。さすがに置屋の女主人が客の顔に見惚れたとあっては格好がつかないらしい。
 残された若旦那は女将と入れ替わりに現れた下男に下駄を預けて、悠然と階段を上がっていく。優雅な足取りは変わりなく、舞でも舞っているような後ろ姿だった。
 さて、いつものように案内もつけずに紫陽花(あじさい)の間へとやってきた若旦那は、襖を開けたところではたと立ち尽くした。先客がいるではないか。
「おや?」
 先客といっても男ではない。ようやく十になったくらいの少女である。
 子どもは無心に床の間の掛け軸を眺めていた。部屋の名前の由来になっている紫陽花(あじさい)の花とそれを見返る艶めかしい女の白い横顔が、その子どもの視線を受け止めている。
 部屋に入ってきた者がいることにも気づいていない様子で、一心不乱に絵に見入る姿はどこか張りつめていた。
 バタバタと忙しない足音が響いて女将が姿を現した。険しい顔つきをして一直線に若旦那の側にやってくると、部屋のなかを覗いていっそう目をつり上げる。
「お(はつ)! 探してもいないと思ったら、またこんなところに勝手に!」
 若旦那を押しのけて部屋に踏み込んでいった女将は有無を言わせずに子どもに詰め寄ると、容赦なくその幼い頬を打ち据えた。
「あれほど勝手に部屋に入り込むなと言ってもまだ大人しくしてないのかい! あちきの言うことが聞けないなら、今すぐ(くるわ)の通りに放り出してやるよ!」
 娘の前に仁王立ちになった女将の形相(ぎょうそう)は凄まじく、鬼が人を食い殺すような悪相だ。
「およしよ、お(えい)さん。物珍しいんだろうよ」
「いいえ! いつもいつもこの部屋に入り浸って、言っても聞きやしない。今日もお客がくるからと勝手に入らないよう言いつけておいたってのに!」
 いらいらと声を荒げる女将をそっと諫めると、青年は畳の上で身体を小さくしている娘の前に跪いた。
「そうカリカリしなさんな。小皺が増えるよ。……この娘だね、わたしに見立てをさせたいと言っていたのは。お(はつ)というのかい?」
 後の言葉は娘に向かって発したのだが、その本人は頑固に口を引き結んでいっこうに返事を返してくる様子がない。
「何をだんまりしてるんだい! ちゃんと答えなきゃ駄目だと前にも言っておいたろう!」
 再び女将が荒れ狂った声をあげた。
「およしよ、女将。まだ子どもじゃないか。……ここはわたしに任せておくれ」
 若旦那の言葉に渋々と矛ほこを収めた女将が下がっていくと、娘と二人残された若旦那はほっとため息をついた。
「やれやれ。おっと……」
 娘に向き直ると若旦那は小さな笑みを浮かべた。
紫陽花(あじさい)が好きなのかい?」
 こくりと頷く幼い頭をそっと撫でてやり、若旦那は浮かべた笑みを深くした。
「わたしも好きさ。日が経つにつれてどんどん色を変えていく姿なんざ、お前さんがたのように綺麗じゃないかね」
 娘と同じようにじっと掛け軸を見上げると二人してしばし絵に魅入る。
「お初はどうしてこの花が好きなんだい?」
「……」
 押し黙ったまま答えようとしない子どもの様子に若旦那は首を傾げた。どうしたものだろうか。
「名前……知らない人と話をしちゃ駄目なの」
 もそもそと呟いた子どもの横顔に困惑を見て、若旦那は破顔した。生まれ育った家庭で躾けられたのだろう。見知らぬ人についていくな、話をするな、と。
「そうだった。わたしとしたことが名前を名乗っていなかったなぁ。……わたしの名前は真左右衛門(しんざえもん)さ。近しい者は皆“しんざ”と呼ぶねぇ」
 じっと聞き耳をたて、こちらの顔を真剣な面もちで見上げていた子どもが丁寧に座り直すと行儀良く頭を下げた。
鮒皆村(ふなかいむら)権六(ごんろく)の娘“(はつ)”です」
「ほぅ。これはこれは……。立派な挨拶ができるじゃないかね」
 頭を上げたお初がじっと若旦那の顔に見入っている。
「どうしたね? わたしの顔に何かついているのかい?」
 優しげな笑みを子どもに向けると、若旦那は両手で自分の頬をなで回した。その仕草はまるで子どもが口元を拭っているように無邪気なものだ。
「……真左右衛門さんは男の人?」
「おや! おやおやおや! わたしが女に見えたのかい?」
 いたく驚いたという顔をして若旦那は目を丸くしてみせた。しかし本当のところはいつものことだった。よくよく見れば男だと判るだろうが、一見しただけでは女に間違われることはしょっちゅうだ。
「声は男の人なのに、顔はあんまり優しい顔をしているから……」
 子どもなりに申し訳ないと思っているのだろう。お初が困ったように俯いて指をもじもじと絡ませている。
 その子どもの身体をひょいと抱き上げると、若旦那は再び掛け軸に向き直った。意外と腕力があるらしく、子どもの身体を持ち上げる様子にまったく気負いがない。
 膝の上で娘が体を固くして俯いている。よく知らない男の膝に抱きかかえられ怯えているのだろう。
「お初は幾つになるんだい?」
 おどおどとした様子の娘の桃割れ頭を撫でてやりながら、若旦那はじっと掛け軸に視線を注いでいた。その掛け軸のなかでは紫陽花(あじさい)を見返る美人が艶っぽい視線を花の群に向けている。
「と、十です……」
「そうか。十になるのか。それじゃあ女将が焦るのも無理はないなぁ……」
 男の言っている意味を図りかねた娘が首をねじって振り返った。自分の歳と女将がどうやったら繋がるのか判らないのだ。
「お前さん。ここがどういう場所か知っているかい?」
 首まで真っ赤になりながらお初が頷いたのを見て、若旦那は苦笑した。どうやらこの年格好の割には物をよく知っている子どものようだ。
 自分を抱き上げた相手が男である以上、どういう目で自分が見られているのか想像できてしまうのだろう。怯えていたのはそのためか。
「そうか。お初は賢いね。置屋(おきや)は春を売るところだからねぇ。……でも今すぐにってことじゃないさ。お前さんはまだ十だからね」
 それに……、と続けようとした男の声を遮って子どもがその後を継いで話し始める。
「お父ちゃんの労咳(ろうがい)の薬がいるんです。早くお金を稼がなきゃいけないし……」
「うん……。そうか。お初はお父ちゃんを助けにきたんだな。でもお初の歳じゃ、すぐにはお金は稼げないねぇ。お初が稼げるようになるまでは女将がお父ちゃんの薬の金を出してくれているんだろう?」
 淡々と言葉を続けながら、若旦那は顔を曇らせた。
 置屋は芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋や料亭などに差し向けることを生業なりわいとしている場所だ。揚屋(あげや)にあがるにはお初の年齢ではまだ無理な話だった。
 突然に娘は男の膝から飛び出すと畳に額を擦りつけて頭を下げた。
「お願いです! あたしを買ってください! 薬代が……いるんです」
 父親の病で出来た借財のかたにこの置屋に売られてきたのだろう。父親を助けるためには、高い薬を買うための金がいる。それを自分が作ろうというのだ。
 お初は幼い肩を震わせて畳にひれ伏していた。
「その時期がきて、お前さんの気が変わっていなかったら、そのときは揚屋にお前さんを呼び寄せようか。でも今日はお前さんを買うために来たわけじゃないんだよ」
 強ばった顔のまま娘が顔を上げた。自分を買うためでなかったら、いったい何をしようというのか。彼女には皆目見当がつかない様子だ。
「お初。お前さん、三味(しゃみ)を弾くことも、小唄を唄うこともできないだろう? ここは女郎屋(じょろうや)じゃないからねぇ。芸を覚えてなんぼなんだよ。それができなきゃ、お前さんの身の置き所は廓屋(くるわや)辺りに落ち着いちまうからねぇ」
 ほっと嘆息すると男は哀しそうに微笑んだ。
 娘が置かれている立場を説明してやるのは、少々心が痛んだ。この花街にやってくる女たちはいつだって哀しい過去を背負っている。生きてここから出ることが叶う女はほんの一握りだけなのだ。
「女将はお前さんが何に向いているのか図りかねているんだろう。わたしなんぞにお前を見立ててやってくれと頼みにくるくらいだからねぇ」
「なんでも習います! 教えてください!」
 娘には選ぶ権利などなかっただろう。それを確認させている自分に嫌気が差して、男は口元を歪めた。
 この置屋の女主人はなんと厭な役回りを押しつけてくれたことか。
「お初……。ちょっとここへおいで」
 娘を自分の目の前に差し招き、その手を取ると若旦那はじっと幼い手を見つめた。細く長い指はまだ子どもの幼さを残していたが、すでに働いている者の指だった。
「百姓をやっていた割には荒れていないね。でも指先にはマメができた痕がある。お前さんは家で何をやっていたね?」
「機織りを……」
 娘の言葉に得心したのか、若旦那は優しげな笑みを浮かべて相手を見つめた。
「そうか。鮒皆村には機織りの上手い者がいると聞いていたが……。お前さんの実家がその家なんだな」
 呉服屋仲間のなかでも有名な話だ。三つ向こうの鮒皆村には、腕のいい機織り女がいると。この娘の母親辺りがその機織りなのだろう。その母親についてこれまでずっと機織りを習っていたに違いない。
「お母ちゃん、先月に死んだんです……」
 ぽつりと呟いた娘の暗い声に男は胸を突かれた。
 父は病の床につき、頼みの母が亡くなったとあっては、彼女を助けてくれる者はいないに等しい。
「婆ちゃんがお父ちゃんの看病しなくてはいけないから、あたしがお金を稼ぐの」
 この花街ではよく聞く話だと言ってしまえばそれまでだ。だがそう割り切ってしまうには娘はまだまだ幼い。何も言えない男にかまわず、娘はとつとつと話を続けた。
「六つと三つになる弟たちもいるから……。お父ちゃんの病気、治さないと……」
 娘の瞳に涙はなかった。涙を流し尽くしたのだろう。世の中にはどうしようもないことがあるものなのだと、この歳で悟ってしまったのだ。
「だから……三味線でも小唄でもなんでも……なんでも教えてください。あたし全部覚えます」
「そうか……。うん。そうだな。芸事をどんどん覚えなければならないねぇ」
 自分が見立てるまでもない。この娘は自分のやるべきこと、やらなければならないことをすでに知っているではないか。
「それにしても女将はいったいどういうつもりでわたしを呼んだりしたのかねぇ。……お前さんの見立てなぞ必要もないことだろうに」
 首を傾げて自分を見つめる娘の顔はきょとんとしている。
「真左右衛門さんは三味線の先生じゃないの?」
「まさか! 自分で三味線を弾くことはできるが、人に教えるなんざ……」
 ふと途中で言葉が止まった。人に教えるなんざ……?
『花は愛でるばかりじゃつまらんよ。育ててなんぼ……そう手塩にかけて育てたほうが何倍も綺麗さぁね』
 突然に頭に浮かんだ自分の三味線の師匠の言葉に若旦那は呆気にとられた。
 なんだろう。言われた当時は「そんな面倒なことを」と思ったものだが、今突然に合点がいった。その通り。育ててなんぼ……。
 幼い娘が紫陽花(あじさい)の色のようにいかように変わっていくのか。それを間近で見続けるというのはなんと心楽しげなことだろうか。
 やおら立ち上がると男は口元を引き結んで掛け軸へと目を走らせた。居ても立ってもいられないといった様子で、驚いて自分を見上げる娘のことも忘れているのではないだろうか。
「そうか。そうだそうだ。その手があったじゃないか」
 譫言(たわごと)のように呟く若旦那の様子に娘は呆気取られて見守るしかない。いったい何を言っているのだろうか?
「あの……」
「あぁ、そうだ。お前さん。わたしが三味線の師匠に見えるかい?」
 今の今まで春を買いにきた客か芸事の師匠だと思っていたのだ。見えるも何も、そのものだと思い込んでいた人間にそれはないだろうに。
「あたしはてっきり芸事のお師匠様だと……」
「そうか。それじゃ、そのままわたしがお前さんの師匠をしよう。そうしよう」
 口の中でぶつぶつと呟いている男はすっかり自分の考えが気に入った様子で、ふらふらと部屋の襖に歩み寄っていく。
 自分の考えに気取られてすっかりお初の存在を忘れてしまっているようだ。
「わたしが育てればいいんじゃないか。なんだ簡単なことだ……」
 襖を開けてふらりと歩き出した男を追ってお初も廊下へ飛び出した。いったいどうしてしまったというのだろうか?
「あれ? 若旦那、どうなさったんです? まさかもうお帰りですか?」
 茶を入れて上がってきた女将が驚いて、階段の上で立ち止まる。
「あぁ、お(えい)さん! 丁度良いところへ」
 まだどこか夢見心地で歩み寄ると若旦那は楽しそうに笑みを浮かべて女将の耳元で何事かを囁いた。
「えぇ!? 若旦那がですか? でも、でも……御店(おたな)のほうは……」
 いいから、いいから、と女将の肩を叩いて、ようやく若旦那は後ろについてきていたお初を振り返った。
「お初。近いうちに稽古を始めよう。お前さんはもう十になっているからねぇ。早く始めないと他の者に追いつけないよ」
「え……?」
「取り敢えずわたしはこれから三味(しゃみ)の師匠に頼んで免状を取ってもらうから、今日はこれで失礼するよ」
 何が何やらさっぱり判らない娘を残して、若旦那は浮かれた足取りで置屋を飛び出していってしまった。
「お初。いったい若旦那と何を話していたんだい?」
 夢見心地の青年の様子に目を丸くした女将が少女を振り返った。だが当の本人にも何が起こったのか判っていない。
「はぁ……。若旦那好みの娘だろうと思って、初めから贔屓にしてもらえるように引き合わせたってのに……。なんでまた芸事の師匠なんかを買って出たんだか」
 ぶつぶつとこぼす女将の様子を困った顔で見上げていた娘が、その言葉に顔を輝かせた。
「真左右衛門さんがあたしに三味線を教えてくれるんですか!?」
 娘の様子にたじろいだ女将が顔をしかめる。
「若旦那を名前で呼ぶなんて。まぁ、なんてことを……」
 だがすぐに顔を引き締めると、厳かな口調で娘に言い渡す。
「いいかい、お初。近日中に若旦那が三味線の稽古をつけに通っていらっしゃるようになるからね。……間違っても師匠を名前で呼ぶような失礼をしちゃいけないからね。きちんとお師匠様と呼ぶんだよ!」
 その言葉を聞いているのかいないのか、嬉しそうに頷いた少女は踊るような足取りで女将の回りを飛び跳ねた。
「これ! ばたばたと暴れるんじゃないよ! さっさと階下(した)へいって、今度こそ大人しくしているんだよ」
 生返事をして階段を駆け下りていく娘の後ろ姿にため息をつくと、女将は軽く首を振った。
 世の中思い通りにはならないものだ。雅屋(みやびや)の若旦那は確かに風流人だが、どういう酔狂であんな少女に肩入れするのか。
「あぁ、あちきだって二十年若けりゃあねぇ……」
 無駄になった茶盆の上の茶を恨みがましい目で見つめると、女将は気が抜けたといった様子で肩を落とした。
 雅屋の若旦那は顔は綺麗で気性は穏やか。芸も達者で風流人。
 いつの頃からか、呉服商人どころか町往く人の間でも評判になっているけれど、そんなことはこの花街の女たちなら誰もが当の昔に知っていること。
 そして、それにまた一つ小粋な噂が尾ひれをつける。
 雅屋(みやびや)の若旦那が育てた芸妓は、花街一の三味(しゃみ)を奏でる……。
 今となってはもう昔々のお話。粋で洒脱な色街の片隅のほんの儚い物語。

終わり

〔 7281文字 〕 編集

魔法使いのスコーン

No. 36 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 あたしはトボトボと煉瓦石通りを歩いていた。
 お洒落な街角のショーウィンドゥは深い秋色に染まっていて、まわりを行き交う人たちの横顔は、どれもこれも明るく見える。肩を落として歩いているあたしは、一人浮いているように見えることだろう。
 今日、あたしは一世一代の勇気を振り絞って告白した。生まれてこのかた、これ以上に勇気を出そうとしたことなんてない、くらいにあたしとしては精一杯だった。
 相手の反応はこう。
「お前さぁ~。鏡見たことあるのかよ?」
 呆れたように見返してくる彼の視線に耐えられず、あたしは視線を落とした。胸がチリチリと痛む。もしかしたら、と淡い期待を込めて告白した結果に、あたしは泣き出しそうだった。
 確かにあたしは美人じゃない。癖の強い赤毛に、ぷっくりと丸い顔。それから、濃い灰色をした奥二重の眼。身体も少々丸っこい。……でも決して太っているわけじゃない、と自分では思っているけれど。
 繁華街を通り過ぎてすぐのところがあたしの家。
 普通の家よりちょっとだけ大きい。まぁ、家族の人数が多いからね。七人家族が住むとなれば、並の大きさの家じゃ、無理ってものだし。
 なんにも考えられないまま、玄関のドアを開けた。
「あ……! ナギ~! 遅かったじゃない、待ってたのよぅ」
「……お母さん? 何、その格好」
 めかし込んで大きな荷物を提げた母親の姿に、あたしはちょっと戸惑った。よく見れば、弟と妹が母のそばに張り付いている。二人とも母と同様に綺麗な格好をしている。
「あっらぁ。これから旅行よ、旅行! キャンセル待ちしてたホテルの空きがあるっていうから。しかも四人分もよぉ」
 聞いてないよ、そんなこと。あたしはムッとした顔をしたに違いない。
「あらあら~。お土産買ってくるから、そんなに拗ねないの」
 お母さんはすっかり舞い上がっている。いつだってこんな調子だ。たぶん、この連休を利用して楽しんでくるつもりなんだろうな……。って四人分? お土産!?
「ちょっと! じゃあ、私一人で留守番なの!?」
 うちは七人家族だ。父と母。それに上から女男女男女と五人の兄弟姉妹。私は上からも下からも三番目の真ん中。でも、上の二人は就職していたり、学校の寄宿舎に入っていたりするから、今は五人家族。それなのに四人ってことは……。
「だってぇ~。本当は二人分だったんだけど、子どもが小さいからって言ったら、子ども二人分追加してくれるって言うんだも~ん。これは行かない手はないでしょう? あんたもうジュニアハイスクールに入っているから一人でも大丈夫でしょ? だからお留守番お願い、ね」
 こ、この親は……。
「あたしはどうだっていいわけ?」
「何言ってるのよぅ~。この広い家、一人で使いたい放題よ? 贅沢な休暇じゃないの。あら、大変! 時間がないわ。パパを待たせてるのに。じゃ、ナギ。お留守番、お願いねぇ」
「ちょっと~!?」
 バタバタと足音もけたたましく、母と弟と妹たちは外へ飛び出していった。独り取り残されたあたしは呆然とそれを見送るしかなかった。
 なんでこうツイてないのよ……。落ち込んでいるときに、この仕打ちはないんじゃないの? ベソをかく気力も失せて、あたしは鞄を引きずって二階の自室へと上がっていった。


 やっぱり来ちゃった……。
 あたしは軽い自己嫌悪に陥りながら、ふかふかのソファに転がって小綺麗な部屋のなかを見回した。ここは、お父さんの弟サヤッシュ叔父さんの家。自宅から歩いて二十分くらいかかる。
  白い壁にアールヌーボー調のポスターやドライフラワーのリースなんかがかかっていて、落ち着いた雰囲気がある部屋。これ、叔父さんの趣味じゃなくって、叔父さんの奥さんカーシャ叔母さんの趣味だってことがまるわかり。叔父さんは独身時代は貰い物の絵画の額とかを無秩序に並べていたくらい大雑把でこだわりのない人だったから、部屋の中をここまで統一できた試しはないんだから。
「あら……。もう泣き虫は終わり?」
 キッチンのほうからかかった声に振り返ると、カーシャ叔母さんがトレイにティーセットを乗せて運んでくるところだった。丸い眼鏡の奥で薄い灰色の瞳がクリクリと動いている。私と違って大きな眼にくっきりとした二重まぶた。眼鏡をかけているから余計に目立つ。
「ほら、ナギちゃんの好きなフォションブレンドのミルクティー。それからスコーン」
 広い自宅に独りでいることに耐えられなくて、トボトボと歩いて叔父さんの家に着いた途端にあたしは泣き出していた。玄関先で迎えてくれた叔母さんは、何も聞かずにリビングまで連れてきてくれて、あたしが泣きながら語った出来事に辛抱強く耳を傾けてくれた。
 兄弟姉妹が多いあたしには、親に相談するにも言い出しにくいことが山ほどあった。友だちに相談したりして解決できることならいい。でも、今回みたいに、今すぐ、どうしても、話を聞いて欲しいときは、叔父さんの家に駆け込んでいく。両親はいつだって忙しくしていて、肝心なときにちっともそばにはいてくれなかったから。
 第一、兄弟姉妹の真ん中って非常に不公平なのだ。上の姉や兄たちは、初めての女の子男の子ってことで何かと親は珍しがって手をかける。下の弟妹たち双子は遅くに生まれたこともあって、両親はめちゃくちゃに甘い。間のあたしは独りぽつんとしていることが多かった。
 もっとも昔から親の干渉が少なかったから、それに馴れてしまって、あれこれ聞かれるのも鬱陶しいと思うようになっていたのも事実だけど、今回みたいにあまりにも突然に独りで放り出されるのはあんまりだ。
「今日は叔父さんは残業で遅くなるけど、久しぶりに一緒に夕飯食べられるわね。……何か食べたいものある?」
 まるでそれが当然のように叔母さんはニッコリと笑った。
「叔母さんの作ったものならなんでもいい……」
 あたしは暖かいミルクティーをゆっくりとすすりながら、笑い返したつもり、だった。
「そう。それじゃ、クリームソースフォンデュなんてどうかしらね。ちょっと寒くなってきたしね」
 どう? と問いかけるように叔母さんの首が傾げられると、その短めに切りそろえたブロンドの髪が窓から入ってくる夕日に照らされて淡いオレンジ色に輝いた。叔母さんの色の薄い唇は相変わらず笑みを浮かべている。
「うん……。あたしも作るの手伝うよ」
「あら、助かるわ。じゃ、お茶を飲んだら、下ごしらえだけしちゃいましょうか」
 まるで何事もなかったようにニコニコと微笑みながら叔母さんは、自分のティーカップを持ち上げた。叔母さんの頬にもあたしと同じようにそばかすがある。美人じゃないし、どっちかといえば、痩せぎすで少年のような雰囲気がある人。口調はいつも穏やかで、ほとんど怒ることがない。叔父さんはいい人を奥さんにしたと思う。
 叔父さんとお父さんとは十五歳も歳が離れている。だから、叔父さんにしてみれば、あたしたちのほうが兄弟姉妹のような錯覚を覚えるらしい。確かに今年二十八歳になる叔父さんと十四歳になるあたしとだったら、叔父さんとお父さんとの年齢より近いわけだし……。
「ねぇ、叔母さん。……叔父さんと結婚して良かった? 結婚しなきゃ良かったって思うことない?」
 あたしの突然の問いかけに、カーシャ叔母さんは眼をパチパチと瞬かせた。そりゃ、ビックリするよね。何を突然に訊いてくるのかと思っただろうな。さっきまで好きな子に振られたってワンワン泣いていたのに。
「そうねぇ~。80%くらいは良かったと思えるかな」
「へ……? 80%? じゃ、じゃあ、残りの20%は!?」
「もちろん。しなきゃ良かった、ってほうよ」
 相変わらず笑みを絶やさない叔母さんの顔からは、どんな真意があってその数字をはじき出したのかさっぱり判らない。でも、微笑んだ顔は優しくて、あたしの問いかけをはぐらかしたわけではないことだけは理解できた。
「魔法使いに魔法をかけられちゃったのよ。魔法のスコーンを食べてしまったの」
 クスクスと喉の奥で笑い声をあげる叔母さんの顔は、いつもより断然綺麗で、両頬は夕日が染めた朱よりも強い赤みが差していてあたしと大して歳も変わらない少女のようだった。


「サヤッシュと私は職場結婚なの。知ってるわよね?」
 あたしはジャガ芋の皮を剥きながら肯いた。叔父さんと叔母さんの結婚式には、叔父さんの勤めている印刷会社の人が大勢詰めかけていたから、よく知っている。
 カーシャ叔母さんは火にかけた鍋のなかの水に塩を放り込むと、ブロッコリーとカリフラワーを小房に分け始めた。叔母さんの持っているナイフが動くたびにブロッコリーの緑やカリフラワーのクリーム色の固まりがコロリコロリとボールのなかに転がり、綺麗なモザイク模様になっていった。
「私はまだ入社したての新人で、その頃学生時代につき合っていた彼とはちょっと微妙な……そうね、倦怠期に入っていたのよね。……倦怠期って判る?」
 あたしはチラリと叔母さんの横顔を盗み見ながら「うん」と返事をした。学校ではみんな大人ぶりたいから、そういう大人の恋愛に出てくる単語をやたらと使いたがる。十四歳のあたしたちが使うよりももっと重みのあるはずの叔母さんのいう倦怠期がどんなものか知らない。好きな人との間の馴れ合いのような鬱陶しさとか寂しさとかは、失恋したばかりのあたしには想像の遙か彼方の出来事だったし。
 あたしがジャガ芋を剥き終わり、一口大に乱切りにすると、叔母さんは「じゃ、次はこれね」とニンジンを手渡しきた。再びピーラーでニンジンの皮を剥きながら、叔母さんの話に耳を傾ける。
「つき合っていた彼は、ちょっと……その……わがままなところがあってね。自分の思い通りにいかないことがあると、癇癪を起こしたりするの」
 ビックリしてあたしは叔母さんの顔をまじまじと見てしまった。叔母さんの穏やかな顔からは、そんな癇癪持ちの人とつき合っていたとは想像もつかない。あたしの視線に気づいたのか、叔母さんがあたしを振り向き悪戯っぽく眼を細めて笑った。
「その日も彼は、駅前通りにある美味しいって評判の店のスコーンを食べたがったの。……ほら。いつも長蛇の列ができているでしょ?あそこよ。並んでスコーンを買うだけなのに、一時間はかかっちゃうのよね。女の子がたくさん並んでいるところに混じるのが厭だって言う彼を近くの喫茶店で待たせて、私一人で行列にならんだの。寒い日でね……。長時間並んでいるうちに手がかじかんでしまったわ。ようやく買えたときには、一時間半も経っていて。慌てて彼の待っている喫茶店へ向かおうと店を飛び出したの。……彼、待たされるのも大っ嫌いだったから」
「なんで一緒に並んでくれないの? ……一緒だったら、待ってるのだって辛くないのに」
 あたしの声は知らず大きなものになっていた。叔母さんは魚介類の皮を剥いたり、殻を外したりしていた手を休めて、あたしのほうにチラリと視線を向けた。でも、すぐに手元に視線を戻すと、小さくため息を吐いた。
「……そうね。きっと、照れ屋だったんでしょうね」
 殻からポロリと外れたホタテの身が一瞬だけプリプリと震えて、ボールの底で大人しくなる。
「店から慌てて飛び出した私はね、ろくすっぽ周りも確認せずに道路に飛び出したの。……危うく車に轢かれそうになっちゃったのよ、そのとき。サヤッシュが助けてくれなかったら、大怪我していたでしょうね」
「え……!? サヤッシュ叔父さんが助けてくれたの?」
 叔母さんは「そうよ」とニッコリと口元をほころばせた。そんな話初めて聞いた。確か叔父さんは結婚するまでは、あたしたちと一緒に暮らしていたけど、女の子を助けたなんて話聞いたことなかったよ。
「でもね……。せっかく買ったスコーンを道路に全部ぶちまけちゃったの。私は助かったことよりも、その転がっていくスコーンを見て泣き出したい気分だったわ。助けてもらったお礼を言う前に、思わず“スコーンが……”って口走っちゃっていたもの。随分と失礼なことしたと思うでしょ?」
 同意を求められても、なんと答えていいのか判らなくて、あたしは眉をよせて眉間に皺を作った。皮の剥き終わったニンジンをジャガ芋と同じように乱切りにしていく作業に集中しているかのように、叔母さんから視線を外したまま。話のなかの叔母さんはあたしの知らないカーシャという名の一人の女性だった。
 叔母さんはあたしのそんな仕草もいっこうに気にした風もなく、再び淡々と話し始めた。
「サヤッシュはね、自分が悪くないのに“ゴメン”って謝ったのよ。何度も何度も。同じものを買ってくるって言い出したときには、私のほうが焦っちゃったわ。道路に飛び出したのは私のほうだったのにね。たぶん、私が泣きそうな顔をしていたから、サヤッシュなりに慰めようとしてくれたんでしょうけど」
 人の良いサヤッシュ叔父さんらしいと思った。あたしたち兄弟姉妹の遊び相手になっているときでも、叔父さんは泣き出した子どもを笑わせようと悪戦苦闘していた。叔父さんは誰に対しても優しい。
 鍋のなかで湯がクラクラと沸騰し始めていた。叔母さんはカリフラワーとブロッコリーを手早く湯通しして冷水に放り込むと、あたしが切ったジャガ芋とニンジン、それから白小蕪を茹で始めた。
 手持ち無沙汰なあたしに叔母さんからウィンナーと生ハムを切るように声がかかった。あたしは調理台に並べられている食材のなかからそれらを掴み出すと、ウィンナーに切り目を入れ、ハムを一口大に切り分けていった。
「それから、どうなったの?」
 あたしは好奇心に負けて、叔母さんの話の先をせがんだ。
「それから? そう、サヤッシュへのお礼もそこそこに私は彼の待っている喫茶店に飛んでいったの。スコーンは駄目になったから、近くのパン屋で甘パンとサツマイモのシナモンスティックを買い込んでね。……でも、喫茶店に行ってみたら、彼はもうそこには居なかったの。ウィエイターに聞いてみたら、ほんの十分くらい前に出ていったって」
「待っててくれなかったの!?」
 あたしは思わず手を止めて叫んだ。随分とひどいことをする人だと思う。
「待っていてくれたのよ、ずっと。……買ったパンを持って彼のアパートまで飛んでいったわ。どうして私を置いていったのか知りたかったし、スコーンではなくなったけど、一緒にパンを食べようと思ったしね。でも、彼は家にも帰っていなかったの。途方にくれちゃったわ」
 堅めに茹で上がった野菜をザルにあげ、叔母さんは鍋の茹で汁に調理用の白ワインとレモン汁を少々振り入れた。今度は魚介類を湯通しするのだ。手際よく湯がかれ、鍋からザルへと移される貝やエビたちは、ほんのりと白や赤に色づいている。あたしは切り終わったウィンナーとハムを叔母さんの手の届くところまで運んでいった。
「元の駅前まで戻って彼を捜したわ。どうして駅前だと思ったのか、今でも判らないけど。……結局、その日は彼を見つけることはできなかったのよ。代わりに、またサヤッシュと会ったの。彼ね、本当に代わりのスコーンを買いに行っていたの。あの寒空の下、周りは女の子ばかりだっていうのに、自分のものでもないスコーンのために一時間以上もずっと列に並んだのよ」
 茹で終わった野菜と魚介類のザルを押し退けて、叔母さんはウィンナーとハムを次々に鍋のなかに放り込んだ。
「私を見つけるなり飛んできて、スコーンの入った袋を押しつけると、またゴメンって謝り始めたわ。せっかく買ったスコーンを駄目にしてゴメンって。サヤッシュのせいじゃないのにね。……翌日、会社は休みだったから、朝一番に彼のアパートへ行ったの。サヤッシュの買ってくれたスコーンを持って。私の買ったパンは家族にあげちゃったから」
 茹であがったウィンナーやハムをザルに移し終わった叔母さんは、フォンデュ用に使っている浅いホーロー鍋にニンニクをこすりつけ始めた。あたしは茹であがった野菜たちを大皿に見栄えよく盛りつけていく。
「アパートについて彼の部屋のドアチャイムを鳴らしたの。すぐに足音が聞こえて、ドアが開いたわ」
 叔母さんは鍋を火にかけ、バターを小さく切り分けると、その鍋のなかに転がした。
「……出てきたのはね。見ず知らずの女の人だったの」
 あたしは盛りつけていた手を止めて、叔母さんの横顔を凝視した。カーシャ叔母さんの瞳はどこか遠くを見ているようだった。あたしは叔母さんが受けたショックを考えて、一人胸を痛めていた。
「彼女と何を話したのか、忘れてしまったわ。私は逃げ出そうとしたの。でも、足が動かなかったわ。それにすぐに彼が出てきたから……」
 それは聞いているあたしにも息苦しい瞬間に思えた。どんな想いで叔母さんは、彼の顔を見たのだろうか。
「彼はね……、ちょっとだけ気まずそうな顔をした後に開き直ってこういったの。“お前だって昨日は別の男とよろしくやっていただろ”って。何を言われているのか、さっぱり判らなかったわ。頭のなかは真っ白だった。でもね、知らないその女性が彼に寄りかかっているのを見たら、ふいに怒りがこみ上げてきて、手に持っていたスコーンを彼に向かって投げつけて叫んでいたの。“もう私たち終わりよ!”ってね」
 バターが滑らかに溶けると、叔母さんは小麦粉をバターのなかに振り入れて馴染ませていった。
「後は振り返りもせずに駆け出したわ。彼がその後どうしたのかは知らない。駅前近くの公園まで駆け戻ってきて、ベンチに腰を落ち着けてようやくゆっくりと考えることができるようになったの。……たぶん、彼は前日に私がサヤッシュに助けられたところを見たのね。それで誤解したんだと思うわ。だから腹を立てたんでしょうね」
 バターと小麦粉が馴染んでペースト状になると、叔母さんはミルクをゆっくりと回し入れてペーストをのばしてクリーム状にしていった。木杓子でゆったりと鍋の中身を掻き回す叔母さんの動作にはよどみがなく、一連の作業は滞りなく続けられていく。
「彼の部屋にいた女性と彼がどういう関係か判らないわ。もしかしたら、私のほうの誤解だったかも知れない。でも、彼にスコーンの袋を叩きつけたとき、私は本気で彼とのことを終わらせようとしていたことも事実だと気づいたの。私たちお互いにお互いが重荷になっていたのね。それから、彼とは連絡を取らなかったわ。……それで彼とは終わり」
 野菜たちを茹でた茹で汁をホーローの鍋に移しながらも、叔母さんは木杓子を動かす手を休めることはなかった。鍋の半分の深さまで汁を注ぐと塩こしょうを振り、鍋の火を弱め、中火でコトコトとシチュー状になったクリームソースを煮込んでいく。
 叔母さんは木杓子を動かしながら振り返ると、あたしにバゲットを切るように言った。命じられるままに、あたしはパン籠からバゲットを取り出し、パン切りナイフで一口大にパンを切り、パン皿へと積み上げていった。
「公園のベンチで私がボゥッとしているとね、またサヤッシュに会ったの。ジョギングから帰ってきたところみたいだったわね。私を見つけるとビックリしたように眼を見開いて立ち止まったわ」
 木杓子が時々ホーロー鍋の縁に当たってコツコツと音を立てる以外は、叔母さんの声しか聞こえなかった。
「“どうしたの? なんで泣いてるの?”って訊かれるまで、私は自分が泣いていることにも気づかなかったわ。なんと答えていいのか判らなくて、でも何か言わなきゃって思っているうちに、彼に投げつけたスコーンがサヤッシュに買ってもらったものだと思い出してね。泣いていることとは全然関係ないのに、思わず“スコーンまた駄目にしちゃった”ってサヤッシュに言っていたの」
 バゲットを切り終わったあたしは、パン切りナイフを持ったまま、半ば口を開けた状態で叔母さんの話に聞き入っていた。
「サヤッシュはそれを聞いて誤解したんだと思うわ。公園のなかで営業しているスコーンのワゴンストアまで走っていって、スコーンを山盛り買い込んで戻ってきたの」
 クスクスと小さな笑い声をあげるカーシャ叔母さんの横顔は、あたしと同じ十代のように若々しく見えて、すごく可愛らしかった。ボーイッシュな普段の雰囲気とはまったく正反対。
「ベンチまで戻ってきて、私の隣に腰掛けてね。“ここで食べちゃいなよ。お気に入りのスコーンの味には落ちるだろうけど、ここのスコーンもけっこう美味しいんだよ”って」
 あたしは思わず噴きだした。叔父さんの鈍さは昔からだけど、女性が公園のベンチで座って泣いている理由がスコーンが食べられなかったからなんて、おかしいとは思わなかったのだろうか。それとも、叔父さんなりに考えて慰めているのかしら。
 叔母さんは火を止めると、ゲラゲラと笑い声をあげるあたしの額をコツンと小突いた。
「ナギちゃん、笑いすぎ。……さ、あとはチーズを入れるだけだから、あっちで休憩しましょうか」
 その叔母さんの行く手を塞ぐようにあたしは両手を拡げて立つと、ニッコリと笑顔を叔母さんに向けた。
「ね、スコーンを焼こうよ!」


 あたしと叔母さんは他愛のないお喋りをしながら、スコーン作りを楽しんでいた。
「やっぱり訊いてくるんだ、“赤ちゃんはまだ?”って」
「そうね。結婚して四年になるから、近所の人たちも、もうそろそろって思うんでしょうね」
 薄力粉とベーキングパウダーをふるいにかけ、バターを粉とこすりあわせるようにして混ぜていく。砂糖をさらに加えて馴染ませたあと、冷蔵庫で三十分くらい冷やす。
 その三十分の間は、のんびりと紅茶を楽しむ。フォション社のブレンド。あたしはこの紅茶にミルクを入れて飲むミルクティーが大好き。フォションと言えばアップルティーと言う人が多いけど、あたしはミルクティー好みにセイロンやアッサムをブレンドしたこのフォションのオリジナルブレンドの香りが小さく頃から好きだった。
「あたし、ここのうちの子どもになろっかなぁ。うちは兄弟多いから、一人くらい叔父さんのうちの子どもになってもいいと思うな」
 半ば本気であたしが呟いた言葉に叔母さんはちょっと困ったように眉を寄せた。
「そんなことできないわよ。お義兄さんやお義姉さんに恨まれちゃうわ」
「え~? お父さんもお母さんも、あたしのことほったらかしだよ。現に今日だってあたし一人置いて旅行に行っちゃうし」
 口を尖らせて反論するあたしの髪をクシャクシャと撫でながら、叔母さんがニッコリと微笑んだ。あたしのお母さんが最後にこんな風に笑いかけてくれたのなんて、いったい何年前だったろう。
「ナギちゃんのお父さんもお母さんも、ナギちゃんのこと大切に思っているわよ」
「嘘だぁ~。だったら、どうしてあたしを置いていったりするのよ」
 あたしの不満げな抗議に叔母さんはもう一度笑みを返してくると、ちょっとの間だけ瞳を閉じて、何か意を決したように両目を見開いた。薄い灰色の瞳が部屋の照明にキラキラと光っている。
「ナギちゃん、どうして自分の名前がナギだか知ってる?」
 あたしは頭かぶりを振った。変な名前だと思っていたけど、どんな意味があるのかなんて訊いたことはなかった。
 確かに兄弟のなかであたしだけ妙な名前だった。上の姉がアン、兄がアシュレイ。下の双子は弟がフレイ、妹がフラミー。あたしだけ妙に浮いた名前だと思っていたけど、いったいどんな意味があるというのだろう。
「ナギと言うのはね、日本語で風が凪いだ状態を示す言葉なの。だから、日本語ではこう書くのよ」
 叔母さんは立ち上がってサイドボードの上に置いてあったメモ帳と万年筆を取ってくると、たどたどしい手つきで何やら変わった形の図形を書いた。どうやらこれが日本語の文字らしいということは判ったけど、あたしにはまるで見知らぬ文字だった。
「ナギちゃんはね。お母さんのお腹のなかで死にかかったの。生まれてくるときに臍の緒が首に巻きついて窒息してしまってね。自然分娩じゃなくて、帝王切開で生まれたのよ。とりあげられてからすぐに新生児専用の集中治療室に運ばれてね。一ヶ月くらいそのなかで育ったの」
「嘘……」
 そんな話、今まで一度も聞いたことなかった。大雑把な両親は普段からあたしのことはほったらかしで、ジュニアスクールにあがったばかりの双子の弟と妹をかまってばかりいる。落ち着いて自分の赤ん坊の頃の話なんてしたことはなかった。
 カーシャ叔母さんは立ち上がると冷蔵庫から先ほど入れたスコーンの生地を取り出してきた。溶きほぐした卵を全体に混ぜ込み、ミルクを少しずつ加えて生地をまとめていく。
「ナギちゃんのお父さんとお母さんは、その小さな赤ん坊がこれからの人生を平穏に過ごせるように“ナギ”と名付けたの。ちょうどその頃、近所に日本から来ていた大学教授が住んでいたそうだから、その方から教えてもらったのかもしれないわね。
 これは全部サヤッシュ叔父さんから聞いたことだけど、間違いないと思うわよ」
 叔母さんはまとめた生地を板の上に据えてめん棒で器用にのばしていく。あたしはノロノロと立ち上がると、型抜きを手に取り、叔母さんが生地をのばし終わるのを待ちかまえた。
 叔母さんは生地をのばし終わると、その場所をあたしに譲り、自分はオーブンに余熱をかけにキッチンへと向かった。あたしは黙々と生地を型抜きしていく。
 戻ってきた叔母さんはその手に油を塗った天板を持っていた。あたしは型抜きした生地を天板に丁寧に並べていった。
「ナギちゃんはほったらかしにされているわけじゃないのよ。二人ともナギちゃんのこと随分と心配しているの。……たぶん、今回の旅行だって、ナギちゃんを連れていって疲れさせちゃ駄目だと思ったんじゃないかしらね」
「だ……だって、あたしそんなひ弱じゃないよ? 赤ちゃんの頃ならともかく、今は健康で……」
 叔母さんは「そうね」と肯きながら、並べられた生地のうえに溶き卵にミルクを加えたつや出しソースを塗っていく。
「今のナギちゃんは健康そのものよね。でも、お父さんとお母さんのなかではいつまでも、集中治療室のなかでチューブに繋がれていたナギちゃんがいるのよ。何かあったらって、心配で心配でたまらないのよ」
 ふいにあたしは自分の眼の涙腺が弛んだことを自覚した。頬をなま暖かい涙が伝っていく。告白して振られたとき感じたチリチリと焼けるような胸の痛みがぶり返す。
 うぅん、もしかしたら、それ以上に胸が痛かったかもしれない。
「カーシャ叔母さん……」
 あたしの言いたいことが判っているかのように、叔母さんはあたしの頭を撫でて自分の肩を貸してくれた。あたしは叔母さんの肩に頬を預けて、今日二度目の涙を思いっきり流した。
「泣きたいだけ泣きなさいね。……誰もあなたを独りぼっちになんかしないからね」
 叔母さんの言葉が胸に浸みた。それ以上にお父さんやお母さんが今まであたしに伝えてこなかった想いが胸に浸みた。
 あたしは独りぼっちじゃなかった。


 フォンデュの鍋を再び暖め直し、チーズをちぎりながら入れていたカーシャ叔母さんが振り返った。
「天板が熱いから気をつけてね」
 あの後、余熱が終わったオーブンでスコーンを焼き上げたところだった。取り出した天板からスコーンを剥がし、バスケットのなかに並べていく。馴れた作業だけど、ボゥッとしていると指先を天板でやけどする。
 バスケットのなかで丸い身体を寄せ合っているスコーンたちのうえに埃よけのナプキンをかけ、あたしはダイニングのテーブルにクロスをかけにいった。叔母さんの趣味でこのうちのクロスはアイボリー地に草色の刺繍が縁に施してあるだけの簡素なものと決まっていた。
 クロスの皺を伸ばし、叔母さん自慢の保温プレートをテーブルの中央に置く。
 この保温プレートは今流行りの組立キットを工夫して叔母さんが手作りにしたものだ。普通は組み立てるだけのものだけど、叔母さんはタイルや端材でお洒落なトレイみたいな仕上がりにしている。上手くコード収納の部分も処理してあるから、プラグを使わないときはプレートの下側にコードが隠れて、使おうと思えばテーブルの飾りとしても充分に活用できる。
 フォンデュ用の長い串を用意して、それぞれの取り皿を並べる。あたしは自分用にティーカップを、叔父さんと叔母さん用にはワイングラスを用意した。茹でた野菜や魚介類、肉類を盛った皿をテーブルにセットすると、あとはフォンデュの鍋を待つばかりだった。
「ご苦労様。もうすぐサヤッシュ叔父さんも帰ってくるから、そうしたら食事にしましょうか」
 叔母さんはキッチンから顔を覗かせて、あたしのテーブルのセッティングをチェックすると満足そうに微笑んだ。
 クリームソースのほうもチーズが加わって、かなりフォンデュらしくなってきた。そのフォンデュを入念に仕上げている叔母さんをキッチンに残し、あたしは先ほどできたばかりのスコーンの入ったバスケットと貯蔵棚にしまわれていた蜂蜜の瓶を持ってダイニングへと戻ってきた。
 ナプキンを持ち上げてなかを覗くと、美味しそうな焼きめのついたスコーンたちが眠っている。そのスコーンたちをテーブルの上にセットし、バスケットの脇に蜂蜜瓶も置く。
「蜂蜜をすくうスプーンを忘れているわよ、ナギちゃん。それからアプリコットジャムも出しておいてね」
 めざとく足りないものを見つけた叔母さんがキッチンから声をかけてきた。あたしは座りかかっていた体勢から飛び上がると、スプーンとジャムを取りにキッチンに駆け込んだ。
「ねぇ、カーシャ叔母さん。公園でサヤッシュ叔父さんと食べたスコーンは美味しかったの?」
 あたしは途中で途切れていた話をふと思い出して訊ねてみた。
「あぁ、ワゴンストアのスコーンね? もちろん、美味しかったわよ。だって魔法使いが持ってきてくれたスコーンだもの」
 フォンデュの鍋を丁寧に掻き混ぜながら叔母さんは悪戯っぽい笑みをあたしに向けた。そういう顔をすると、叔母さんの顔は少年のように見えるのが不思議だ。
「魔法使い? 叔父さんが?」
「そうよ。サヤッシュは魔法使い。……あのとき一緒に食べたスコーンにはきっと魔法がかかっていたのよ。だって、彼と別れて悲しかったのに、あの後少しも泣かなくて済んだもの」
 クリームソースフォンデュが出来上がったらしく、叔母さんは火を止めると鍋を保温プレートまで運んでいった。あたしが事前に暖めておいたプレートがこれからはフォンデュの暖かさを保つように仕事をするだろう。
 あたしは叔母さんの後を追ってダイニングテーブルまで来ると、スプーンとジャム瓶をバスケット脇に置いた。
「でも、叔父さんと結婚しなきゃ良かったって思うことが20%くらいあるんでしょ? それなのに、叔父さんは魔法使い?」
「そうね。魔法使いでも喧嘩をするときはあるもの。本当にちょっとしたことなんだけどね。……ナギちゃんもお兄ちゃんやお姉ちゃん、それから下の二人と喧嘩したとき、“大っ嫌い”って思うときあるでしょ?」
 あたしはコクンと肯いた。小さい頃は上の二人とよく喧嘩した。普段は小さなあたしの遊び相手をしてくれる二人だけど、時々癇癪を起こして、お互いが意地を張って喧嘩になる。そんなときは、本当に大っ嫌いって思っていた。
 今になって思えば、ほんの些細なことでの喧嘩で、どうしてそんなことで言い合いになったのか不思議なくらい。
「サヤッシュと私も同じ。いつも仲がいいわけじゃないのよ。ときには喧嘩するし、意地も張るの。どれも後から思えばつまらないことなんだけどね。そんなときは“どうして結婚しちゃったんだろう”って思うのよ。
 ……でもね。大抵の場合、腹を立てて口を利かないでいると、どちらかが耐えられなくなって口を開くの。そうなると、喧嘩は終わり。いつの間にか仲直りしているわ」
 叔母さんはキッチンへと戻っていき、再び姿を現したときには、手にワインクーラーとワインの瓶を持っていた。淡いピンク色のラベルがとっても綺麗なワインだ。きっとロゼワイン。
「そんなときも思うの。これはきっとサヤッシュが魔法をかけたんだって。どんなに腹を立てていても、どちらかが話を始めると、機嫌が直っちゃう魔法よ。……ねぇ、ナギちゃん。あなたの叔父さんはとても凄腕の魔法使いだと思わない?」
 テーブルにワインクーラーをセットして、サイドボードに置いてあったティーセットを取り出すと、叔母さんはまた悪戯っぽく笑った。楽しそうに喉の奥からもれる笑い声は、本当に少年があげる笑い声のように屈託がない。
 あたしは椅子に腰を降ろして叔母さんの笑い声を聞きながら、二人のうち、どちらが魔法使いなのか考えていた。叔母さんの痛みを取り除いてしまった叔父さん。叔父さんは魔法使いだと笑う叔母さん。あたしには二人とも魔法使いのような気がした。だって、叔父さんが叔母さんの痛みを癒したように、叔母さんはあたしの痛みを消してしまったもの。
「さぁ。そろそろ魔法使いのお帰りよ」
 叔母さんはニッコリとあたしに笑いかけると、最後までキッチンに残っていたパン皿のパンたちを取りにキッチンへと向かった。
 あたしはその背中を見送りながら、家の外の音を聞き流していた。汽車の警笛が遠くにかすれて聞こえる。近所の猫がナゥナゥと甘い声をあげている。
 シャラシャラと軽快な車輪の音が聞こえてきた。チリリンとこの家の前で鈴がなり、ガチャガチャとペダルが鳴った。
 サヤッシュ叔父さんだ。叔母さんの予感は的中した。……やっぱり魔法使いは叔母さんのほうかもしれない。でも、あたしの口を突いて出たのは別の言葉だった。
「来た……! 魔法使いが帰ってきたよ」
 あたしは飛び上がるようにして玄関へと駆け出した。外の芝生を踏みしめて玄関へと近づく足音に負けまいと、ドアのノブに手をかけて勢いよく開く。
「お帰り!」
 目の前には、あたしと同じ癖の強い赤毛に丸顔で、黒炭のように真っ黒な瞳をクリクリと動かしてサヤッシュ叔父さんが立っていた。
「やぁ、ナギ。そろそろ来る頃だと思ってたよ。ほら!」
 そういうと、サヤッシュ叔父さんはあたしが前から欲しがっていた、叔父さんの会社で印刷している童話を一冊、あたしに手渡してニッコリと微笑んだ。

終わり


【作中のレシピ】

スコーンの作り方(10個分)
●薄力粉200g ●ベーキングパウダー小さじ2 ●バター50g
●砂糖25g ●卵1個 ●牛乳約60cc
●そのほかに、好みのジャム、蜂蜜、生クリームなど
1.薄力粉とベーキングパウダーをあわせてふるう。
2.バターを加え、指先でこすりあわせるようにしてボロボロになるまで混ぜる。
3.砂糖を加えて混ぜ合わせ、冷蔵庫で30分ほど冷やす。
4.溶き卵を加えて全体に馴染ませ、粉がまとまる程度まで牛乳を加減しながら加える。
5.まとめた生地をまな板などの上で1.5cmほどの厚みにめん棒などでのばし型を抜く。
6.薄く油を塗った天板に型抜きした生地を並べる。
7.溶き卵に牛乳を加えたもの(分量外)を刷毛などで生地の表面に塗る。
8.220度に熱したオーブンで10分間焼く。
9.出来立ての温かいスコーンに好みでジャム、蜂蜜、生クリームなどをつけて食べましょう。

クリームソースフォンデュ(四人分)
●エビ4尾 ●ホタテ貝(ボイルが便利)4個
●ブロッコリー1株 ●カリフラワー1/2株 ●蕪2個
●ニンジン1/2本 ●ジャガ芋2個 ●フランスパン(バゲット)1/2本
●クリームシチューの素50g ●牛乳1カップ ●ピザ用チーズ50~100g
●ニンニク1かけ ●レモン汁大さじ1.5
1.ブロッコリー、カリフラワーは小房に分け、蕪は四つ割り、ニンジン、ジャガ芋は乱切りにする。
2.塩を入れた熱湯で以上を堅めに茹でる。
3.茹で汁に酒大さじ1、レモン汁を加え、エビ、ホタテ貝をさっと茹でて、エビは殻を剥く。
4.フランスパンは角切りにする。
5.ニンニクを二つに切り、切り口を鍋にこすりつけ、砕いたクリームシチューの素、水(茹で汁)1/2カップを加えて煮溶かす。
6.牛乳、酒とこしょう少々、チーズの順に滑らかに煮溶かす。
7.1、3、4を串に刺し、鍋のクリームをからめて食べましょう。

※腕に自信のある方は、クリームシチューの素の代わりにホワイトソースを自分で作ってみるのもいいでしょう。
こちらのレシピはトッピングや具を変えることによって、バリエーションが楽しめます。

〔 15001文字 〕 編集

昔語り おりょうさま

No. 35 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 昔むかしのことじゃ。
 このお話は、婆の爺がまだうまれる前のお話じゃよ。




 あるとき、村人が落人(おちうど)をかくまったそうじゃ。戦で負け、落ちのびてきたその若武者は、それはもうひどい怪我で、これでは助からぬと誰もが思う有り様じゃったそうじゃ。
 ところが、村長(むらおさ)の末娘がたいそう気の毒がり、毎日毎日、若武者をかくまっておったお宮のお(やしろ)へ通っては介抱したのだと。
 しかしな、娘の手厚い介抱で、ようようと命をつなげた若武者じゃったがのぅ、娘を嫁にもらいたいと村長に言うてしもうたがために大変なことになってしもうたのじゃ。
 村長はたいそう腹を立てたそうじゃ。
 官位もない、ただの落ちぶれた武士(もののふ)に大事な娘をやるわけにはいかんとおもったのじゃろうなぁ。
 恐ろしいことに、村長は村の若者の何人かに命じてお宮に火をかけさせ、その若武者を焼き殺してしまったのじゃよ。
 燃え上がった炎の向こうからは、村人を呪う武士の叫び声が聞こえていたそうじゃ。あぁ、恐ろしや、恐ろしや……。
 末娘は父の悪行を悲しがり、焼け落ちた社のなかから見つけた若武者の太刀をこっそりと持ち出して、供養のつもりでお宮の裏手にあった大きな大きな池に沈めたのだと。
 それからしばらくして、村長の末娘は村でも裕福な家へと嫁いでいったそうじゃ。それはきれいな花嫁さんだったそうじゃよ。




 娘が嫁いでちょっとした頃からじゃった。村に夜な夜な、それは恐ろしいうめき声が響くようになったそうじゃ。
 誰とはなしに、あの落人が無念がってうめいているのだと噂が広がり、村長も恐ろしくなったのだろう。焼け落ちたお宮を立派な物に建て直し、若武者を弔ってやったそうじゃ。
 それでも、夜な夜な響くうめき声はいっこうに静まることはなかったそうじゃよ。
 身の毛もよだつ不気味な声が村の家々の壁といわず屋根といわず、辺り一帯を覆い尽くして、なんとも凄まじい声じゃったそうじゃ。
 たまりかねた村長が遠くの街から祈祷師(きとうし)を高い銭を払って呼び寄せて、若武者の魂を慰めようとしたが、まったく効き目があがらなんだと。
 村長の末娘の嫁ぎ先では、新たに迎えた嫁が原因だと気味悪がり、離縁してしまおうかとまで考えていたというから、その声の凄まじさたるや……。南無南無……。
 娘は自分が原因で起こっている村の騒動に心を痛め、ふさぎ込んで、とうとう病の床についてしまったらしい。
 来る日も来る日も、夜になると恐ろしいおめき声が風に運ばれて村中を覆い尽くし、村人は夜も眠れぬ有り様に疲れ切ってしまったそうじゃ。
 それからしばらくして、田んぼの稲をようようと刈り終えた頃合いじゃった。村長の末娘の姿が、ぷっつりと嫁ぎ先から消えてしもうたそうじゃ。
 探せども探せども、娘は見つからず、辺りはとっぷり日も暮れてきたし、またぞろ村中を覆うおめきが聞こえ始める時刻になろとしておった。
 村長は娘を探せと村人に命じたが、誰も恐ろしがって家の外へ出ようとはせなんだと。
 結局、村長は一人で松明《たいまつ》をかかげて、村のあちらこちらを一人あてどもなく彷徨うたが、いつもの声が聞こえ始めると、這々の体で逃げ帰ったそうじゃよ。
 いつものように始まった恐ろしいうめき声じゃったが、しばらくすると、その声に混じってなにやらおかしな音が聞こえてきたそうじゃ。
 バシャバシャと大きな大きな魚でも跳ねておるような水音が、お宮様の方角から村の方角へとこだましてきよった。もう、皆恐ろしゅうて、蒲団を頭から被ってガタガタと震えて夜明けを待っておったんだと。
 じゃが、声も水音もいっこうに静かにはならず、それどころか水音が段々と大きくなり、魚どころか、竜が暴れておるような轟音(ごうおん)と共に、村中の家の屋根に滝のような水が降ってきたそうじゃ。
 ザバザバと降り注ぐ水に村人は肝を冷やし、生きた心地がせなんだというぞな。
 長い長い夜が明けて、村人が恐る恐る外に出てみれば、昨夜水しぶきが降ってきたはずの地面はチラリともぬれておらず、きれいなまンまだったんじゃ。
 不思議なこともあるものだと、村の若者が何人かで連れ立ってお宮様へと様子を伺いに出かけてみたそうじゃ。
 お宮はいつも通りに静かで、昨日の騒ぎは(うそ)のようじゃった。
 若者たちは怖々とお宮のまわりを調べたあと、ふと気になって裏手の大きな池へとやってきたのじゃ。
 ところが、あれだけ大きかった池が、どういうわけか一晩ですっかり縮んで小さく干上がってしまっておったそうじゃ。
 どうやら、夜の間に村に降った水はここの池のものだったらしいが、水たまりのように小さくなった池の水がいったい全体、どこへ行ってしまったのか皆目わからぬことじゃった。




 そうそう。池にはな……。娘が沈めた落ち武者の太刀に、娘の身につけていた帯が絡みついて沈んでおったんじゃと。
 それ以来、夜な夜な続いた恐ろしい声は聞こえんようになったんじゃ。
 その後、池から引き上げられた太刀と帯はお宮様の社に封じられ、その太刀と娘の帯を納めたお社様を武者ヶ社(むしゃがしろ)と呼ぶようになり、その社のあるお宮様をさして、村人は「おりょうさま」と呼ぶようになったそうじゃ。
 落ち武者に魅入られた娘を悼んでか、あるいは、村の災厄を取り除いてくれた感謝からなのか。娘の名の『おりょう』から付けられたことには変わりはないわな。
 村長の娘が若武者を好いておったのかどうかは、ついに解らずじまいだったらしい。大人しい娘じゃったそうだで、何も言えずに思い(わずら)っておったのかもしれんのぅ。
 じゃから、お前たち。
 おりょうさまの境内に遊びに行ったら、必ず武者が社に手を合わせるのじゃよ。今も、あのお社の奥には、この世で連れ添えなんだ二人の想いがしまってあるからな。
 この婆も一度、子供の頃に、お社の奥に祀られておる古い太刀と色褪せた帯を見たことがる。……どちらも、なんともいえん、哀しい色をしておったのぅ。




 さぁ、昔語りは終わりじゃ。
 じゃがこれは、婆の母様(かかさま)父様(ととさま)から教えられた大切な話じゃ。
 お前たち。……夢、忘れるでないぞえ?

終わり

〔 2585文字 〕 編集

折れた翼-Requiem-

No. 34 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

この折れた翼を如何にしよう?
もう一度あの大空に羽ばたける緊張の瞬間があるだろうか?
緑滴るパレンバンよ
あの島は今も鬱蒼たるジャングルに覆われているであろうに──

 昭和十六年十二月八日。
 大日本帝国はアメリカ合衆国に宣戦布告した。
 双方に数多の血が流れたこの戦争で翻弄されたのは弱い立場の人民のみで、実質その指揮に当たっていた高官のなかで処罰された者は少ないと言う。


「大熊軍曹殿!」
 背後からの明るい声に栄三郎は振り返った。
 頭に包帯を巻かれ、右腕を肩から吊られた姿で自分に笑みを向ける青年の姿を確認したが、それよりもその青年が看護婦と話している光景が不思議な気がした。
「芝?」
 陸軍飛行学校時代の後輩があっけらかんとした笑みを浮かべている。痛む左足を庇いながら、栄三郎はゆっくりと相手に近づいた。
「お前、背が伸びたなぁ~」
 身体検査ギリギリで飛行学校に合格した青年の背は栄三郎より握り拳二つ分高くなっていた。
「そうでしょう? 背高のっぽたちをことごとく追い越しましたから、もう誰もチビとは呼ばないですよ」
 ニッカリと笑みを見せる表情は背の高さとは反対に随分と幼い印象を受ける。
「なんだお前、女を口説いてるのか?」
 栄三郎のからかう口調に、芝と相手の看護婦が顔を見合わせて吹きだした。
「あはは。違いますよ。この人、斉藤信江さん。同郷なんですよ。まぁ、姉貴みたいなものですよ」
 芝の説明をニコニコと笑顔で聞いていた看護婦が、大熊にペコリと頭を下げた。
「幼なじみか。そりゃ失礼」
 別段、美人でもない看護婦だが丸い身体や笑うと糸のように細くなる眼が人なつっこそうな感じを受ける。
「じゃね。達夫ちゃん、大人しくしてるのよ!」
「ちょっと、その達夫ちゃんはやめてよ!」
 ふくれる芝を残して看護婦は早足で持ち場へと帰っていった。
 広島、呉軍港のこの病院には外地での戦傷者が収容されている。栄三郎もつい昨日、軍港から直送されたところだ。
「飛行学校卒業以来ですよねぇ」
 芝が目を細めて外の景色に魅入る。初夏の若葉が色鮮やかに木々を彩り、空気は生命に溢れている。
 栄三郎も窓の外の明るい陽射しに視線を向けた。
 自分はこんなところで何をやっているのだろうか? 帰りたいと願ったはずの内地なのに、心はひどく空しい。


「この作戦において重要なことは、飛行場内の残存航空勢力を一機残らずおびき出し殲滅することにある」
 隣の小谷中尉のため息を聞きながら、栄三郎は微動だにせず前の部隊長を注視した。
 出撃の時間は迫っている。説明は前日までにじっくり聞かされているのだから、早く解放して欲しいものだ。
 隣の中尉もそう思っているのだろう。ばれないようにそっとため息をつく。これで五回目のため息だ。
「まず爆撃機四機にてパレンバン飛行場上空を旋回し敵機をおびき出し、時間差で到着した我が戦闘機群がその敵機を撃墜する! 囮り機の乗員は戦闘機部隊と密に連絡を取り、敵機を引き渡すよう心がけよ!」
 部隊長の説明が終わったようだ。栄三郎は素早く敬礼すると、上官の後に従って愛機へと歩き出した。四機の爆撃機が銀翼を陽光に鈍く光らせている。
 小谷中尉、河内曹長二人が次々に操縦席に滑り込んで行く後ろ姿を眺める。
 ふと、栄三郎は基地を振り返った。マレー半島の端に位置するこの基地は、冬の季節にも関わらず頬をなでる風が暖かい。
 米国と開戦してからまだほんの二ヶ月。戦局は我が軍に有利に展開していた。シンガポールの陥落も時間の問題だろう。憂うべきことはなにもない。
 だが胸のなかにわだかまる、この重い空気はなんだろう?
「大熊軍曹、何をしている!編隊長機の我が機が配置につかなければ、他の機が離陸できんのだぞ!」
 河内曹長の落雷のような声に栄三郎は飛び上がると、通信室へと潜り込んだ。
「小谷機、配置よぉ~し!」
 機外からの誘導員の声を合図にしたように、機体が滑走路上を滑り出した。地鳴りのような轟音が鼓膜を震わせる。
 胃が浮遊しそうな違和感とともに空に舞い上がった機体の窓越しに、栄三郎はマレー半島とその端に張りつくように建てられた基地に向かって敬礼した。
 ふとその姿勢のまま、故郷の家族の顔を思い浮かべる。今頃、故郷の岐阜は伊吹おろしに吹かれて寒かろう。
 かなりの飛行距離を飛んだあと、栄三郎はゆっくりとした足取りで操縦室へと向かった。
「中尉殿、敵は上手く罠にかかるでしょうか?」
 二度目の通信を報告すべく顔を出した栄三郎は小谷の背中に語りかけた。
「成功させるしかない。一機でも多くの戦闘機を引きずり出すんだ。たとえ我が機が墜ちようとも、な」
 聞くだけ無駄なことは全員が解っていることだ。それを一番年若い栄三郎が口に出しただけのことなのだ。
 囮り機に志願したときから、覚悟していることだ。墜落の二文字は飛行機乗りなら常に意識する。
「チッ! 積乱雲が出始めました。視界が利かなくなる前に高度を上げて雲上に出ないと……」
 河内が滑らかな動きで計器類の確認を始めると、小谷は操縦棹をしっかりと握りしめて機体をゆっくりと上昇させていった。防風窓から他の機も後に続いている姿が確認できる。
 行く手を阻むように拡がる雲海を眼下に眺め、栄三郎は上官たちの横顔を見比べた。
 二人とも日に焼けた浅黒い顔をシッカと前方に向け、鋭い眼光を時折計器類の上に注ぐくらいで、他にいつもと変わった様子はない。
 再び通信室へと滑り込みながら、栄三郎は自分のなかにわだかまる不安を払拭するように頭を振った。


 貧しい家の三男坊に生まれ、喰うに困らないからという簡単な理由で軍隊に入った若者は当然のことながら生活時間の多くを戦いに費やした。
 楽しかったわけではない。むしろ苦痛であったと言ったほうがいい。
 満州で砂まみれの行軍に飽き飽きして、内地に戻るために飛行兵に志願したのだって愛国心からではなかった。
 内地に帰れるのなら嫌われ役の憲兵に志願したって良かったのだ。
 もっとも憲兵は馬に乗れなければならない。どちらかと言えば足の短い栄三郎に「乗馬などは無理だ」と上官から不名誉な返答をもらっていたのだから、志願したところで聞き入れられるとは思えないが。
 内地に帰ってからはその嬉しさから、陸軍の飛行学校へ編入してからも教官の目を盗んでは悪さばかりしていた。飛行学校内でも六期の遠藤、大熊、中村の名はつとに有名で、皆が三人を指して“三羽がらす”と呼んだほどだった。
 遠藤と中村は達者でいるだろうか?
 栄三郎は内地で収容されたこの病院で見つけたお気に入りの場所から、遠くに飛ぶ鳥を眺めてぼんやりと考え込んでいた。


「こちら小谷機。パレンバン島を確認。上空は雲一つない上天気」
 友軍との連絡で電鍵でんけんを叩いていた栄三郎は、ふと手を休めて今はまだ小さな島影をじっくり眺めた。
 あんな小さな島に米国は基地を作っていたのか。日本ならまだ冬のこの時期にもかかわらず、パレンバン島もマレー半島と同じく緑が溢れ返っていた。
 あの小さな島に巣くっている米兵たちを追い払うのだ。
「叩き落としてやる」
 栄三郎は小さく呟いた。
 島影を視界に収めたときから、体中の血が沸き返ってきていた。大東亜戦争が始まる以前から従軍している兵士の血が、栄三郎のなかで目を覚ましている。
 栄三郎の呟きが聞こえたわけでもあるまいが、島から飛び立つ八つの機影が目に入った。
 まっすぐこちらへ向かってくるかと思われた敵機は、正反対の方向へと飛んでいく。まるで、恐れをなして遁走してくようだ。
「大熊! 機銃の準備はできているか!?」
 通信管から河内の声が響いた。
「はい! いつでも発射できます」
「よし! 来たぞッ!」
 栄三郎の答えを待っていたかのように敵戦闘機が反転すると、日本軍爆撃機に襲いかかってきた。
「右上方に二機行ったぞ!」
 小谷の声に河内が応じる声が響いてきた。栄三郎も右側機銃に飛びつく。
「どこだ……?」
「いたぞ! スピットファイヤー、ハリケーンの二機だ! 大熊、よく狙え!」
 河内の声に栄三郎は一層目を凝らす。こちらを威嚇するように飛行する二機が視界の隅をかすめる。
「この……! 当たれ!」
 爆撃機より素早い戦闘機を射撃するのは、骨が折れる。だが経験を積んできた栄三郎たちに出来ない芸当ではなかった。
 一度目の射撃を外したあと、栄三郎は慎重に敵機との間合いを計る。
 機長の小谷が地上からの高射砲を避けつつ、敵戦闘機からの機銃射撃範囲ギリギリの位置を巧みに飛び回る。
「もうちょい……。そうだ、こっちへ来い!」
 花の香りに惹かれて飛んでくるミツバチのように群がる敵戦闘機の鼻先スレスレをあざ笑うようにかすめ飛ぶ。
 そのすれ違い様に栄三郎はありったけの早さで相手に機銃を撃ち込んでいった。
 一機、燃料タンクにでも引火したのか、業火を噴いて失速していく。
「やった!」
 仲間の機が連携して敵戦闘機の背後を襲う勇姿が栄三郎の視界に入ってきた。
「やったぞ、これで二機を撃墜した。あとは……六機か?」
 再び栄三郎は首を巡らせて、残りの敵戦闘機の配置を確認した。味方四機に対して敵は残り六機。まだ決して有利とは言えない状況だ。二機を撃墜したとは言え、油断はできない。
「二、三、四番機! 編隊を組み直し始めました!」
 河内の声が通信管から流れてきた。見れば、今まで個別に戦っていた味方が当初の予定通りの編隊を組み始めている。
「よし! 我が機も合流する。敵に罠と感づかれないよう適度な距離に詰めるぞ」
 小谷が挑発するように敵戦闘機群の間を縫って飛び始めた。
 味方の戦闘機群の機影はまだ見えない。彼らにこの小うるさい蠅どもを引き渡すまでは、決して自分たちが囮りであることを悟られてはならないのだ。
「爆撃を再開する。他の機の様子はどうか?」
「編成に乱れなし! 各機、準備整っている模様です」
 小谷と河内の声に緊迫感が強まる。
「敵戦闘機の様子は?」
「我が編隊を囲むつもりのようです! 四散していた各機が徐々に包囲網を作り上げています」
 河内の声が一層の緊張をみせる。
「駄目か。仕方ない。編隊を解くぞ」
「しかし!」
 抗弁する河内の声を遮るように機長の声が響いた。
「忘れるな。友軍が到着するまでは、敵機を誘い出したままにしておかねばならんのだ!」
 他の爆撃機も編隊を解くと散り散りになる。
 敵戦闘機群を壊滅させなければ、明日以降に予定されている落下傘部隊の投入が遅れていく。
 パレンバン飛行場を占拠するには、敵戦闘機の殲滅は必須だ。
「左上方より敵機襲来!」
「急上昇する!何かに捕まれ!」
 言うが早いか小谷は操縦棹をあらん限りの力で引いた。
 胃の腑を押しつぶされそうな重圧のなか、敵戦闘機の射程範囲から逃れたことを確認すると、栄三郎は敵機の位置を確認しようと窓に顔を押しつけた。
 敵の機影はかなり離れた位置に見えた。
「中尉! 後方の敵機はかなり離れた位置に見えます」
「再度、編隊を組むぞ」
 栄三郎の呼びかけに小谷がすぐさま反応する。
 三々五々に散っていた日本軍爆撃機が瞬く間に集結して編隊を組み直したとき、敵戦闘機群はまだ包囲網を完成させてはいなかった。
「爆弾投下用意!」
 もしかしたら敵戦闘機八機すべてが残っていたとしたら、こうはいかなかったかもしれない。
 本当にほんの僅かの瞬間だった。だがその僅かの時間で爆撃機群たちには充分だ。猛烈な勢いで迫ってくる敵戦闘機の乗員たちにもその光景は見えたはずだった。
「爆弾投下!」
「了解。爆弾投下!」
 基地上空に差し掛かっていた日本軍の爆撃機部隊は、編隊長機の爆弾投下を合図に次々とその腹から禍々しい凶弾を吐きだしていった。
「全機解散!」
 味方基地の噴き上げる炎に気を奪われたのか、敵戦闘機群の包囲網にほころびが生じていた。
 日本軍爆撃機全機は、思い思いの方角へと回避していく。高射砲も届かない上空からの爆撃に基地は南面から火を噴き、ジャングルは赤く染まっていく。
「基地の様子は?」
「敵基地、南側が炎上している模様」
 栄三郎は小窓から眼下を覗く。基地は一部を炎に舐められながらもまだ機能しているかに見えた。だが更なる投下を試みるだけの爆薬はもはやない。
「大熊軍曹! 友軍に通信を入れろ。“我、爆撃に成功せり”」
 小谷の声が誇らしげに通信管から響く。
「了解!」
 栄三郎は嬉々として電鍵を叩き出した。


「おぉ~い。熊! 山賊の熊!」
 栄三郎は頭上からの呼びかけに首を巡らせた。
 学舎の二階から手を振る同期生の姿に栄三郎も手を挙げて答える。エラの張った顔が特徴の中村は、その顔に屈託のない笑顔を刻んでいた。
「田舎からミカンが届いたんだ!喰いに来いよ」
「おぅ、すまんな! もらいに行くよ」
 栄三郎は軽快な足取りで二階に駆け上がると、頑丈な扉枠に頭をぶつけないよう気を使いながら講義室の扉をくぐった。
「おう、来た来た! おせぇぞ!」
「ホラよ! 熊用の餌だ」
 目の前に飛んできたミカンを片手で受け取ると、栄三郎はちょっとその匂いを嗅いでみた。その栄三郎の様子に中村が茶々を入れる。
「あ! なんだ、毒でも入ってると思ってるのか!? 失礼な奴だな。遠藤を見てみろ! 毒が入ってるように見えるか? それにしても、遠藤! お前は猿以下か! 猿だってもう少し行儀良く食べるだろうに」
 遠藤は口のなかのミカンを飲み込みながら、すでに次のミカンに手を伸ばしていた。
「ふはぁいぞ。なひゃむは~」
「きったねぇなぁ。口のなかを空にしてからしゃべれよ!」
 ぎゃあぎゃあと喚く中村と意地汚くミカンを頬ばる遠藤を見比べながら、栄三郎は笑い声をあげた。
「お前ら、どこのガキだ! 少しは落ち着いて喰えよ」
 栄三郎の笑い声が勘に障ったのか、中村が顔を歪める。
「大熊! お前に言われたくないね! この前、寮長の隠してた酒を失敬してきて、一人だけで飲んじまっただろが! お前はあだ名の通り、本当の山賊だ!」
「何を言うか! あれは、みみっちく隠しておくほうが悪いんだ! 酒なんてものは呑んだ者の物だ!」
「かぁ~! 人の物は自分のものかい! いやだねぇ~。俺はそうはなりたくないね」
 二人の舌戦を横目に遠藤は一人で黙々とミカンを胃に収めている。
「こら、遠藤! 一人で全部喰う気か!?」
 さすがに遠藤の食欲に中村が鼻白んだ。こいつは放っておいたら、絶対に一人で食べ尽くす気だ。
「熊! 早く喰えよ。遠藤の奴、俺たちの分を残しておこうなんて了見は持ち合わせていないらしいぞ!」
 木箱一杯に詰められていたミカンがすでに三分の一は無くなり、遠藤の傍らにはミカンの皮がうずたかく積まれている。
 この皮の数だけ遠藤の腹に収まったのだとしたら、胃袋のなかはミカンで一杯に埋まっているはずなのに、遠藤の食欲は一向に止まることがなかった。
「おい! 遠藤。俺の分も残しとけ!」
 慌てて栄三郎が木箱に近寄ると、自分の分だと言わんばかりに両手を木箱に突っ込んで山盛りのミカンを掴みだした。
「お、お前ら! 遠慮ってモンがないのか!?」
「ぬぁい!」「ないね!」
 遠藤と栄三郎に即座に返答されると、中村は天上を一度見上げてため息をついた。聞いた自分がバカだった。
「畜生! 俺も喰わなきゃ損だ!」
 本来のミカンの所有者も参戦してミカン争奪戦は再開された。
 このあと、ミカンを食べ過ぎた三人が三々五々に医務室やらトイレやらに世話になったことは瞬く間に学校中に知れ渡ったのだった。


 誇らしげに爆撃の報告を電鍵に打ち込んでいた栄三郎の身体に異様な衝撃が伝わったのは、その報告を打ち終えようかというときだった。
 栄三郎は電鍵盤がまだ震えていることに気がついた。かなりの衝撃が機体に走ったのだ。軽快なエンジン音を響かせていたはずの愛機が、今は苦しげに呻いている。
「なんだ!?」
 栄三郎は操縦室へと駆け込み、その室内の有り様に息を飲んだ。
「小谷中尉殿!」
 小谷は敵弾の破片を頭部に受けて、全身を朱に染めていた。ガックリと倒れ伏している小谷を支えながら操縦棹を掴んでいる河内の半身も小谷の血がベットリと貼りついている。
 なんということであろうか。敵戦闘機との空中戦で巧みに相手の攻撃をかわし続けていたはずなのに。小谷ほどの熟練飛行士がこんなに簡単にやられて良いわけがない。
 栄三郎は膝の力が抜けていくような気分に、すぐ近くの壁に両手で取りすがった。気づけば、燃料がが白い煙のように機内に噴出していた。
「大熊! 手を貸せ!」
 河内の必死の形相に栄三郎はようやく我に返ると、河内の反対側から小谷を抱えた。
「俺は整備一辺倒で操縦は不慣れだ! 大熊、操縦棹を!」
 蒼白な顔色の河内の手から栄三郎は操縦棹を託されると、機体を安定させようと躍起になる。だが棹は栄三郎をあざ笑うようにジリジリとしか動かない。
 雲間に突っ込んだ愛機は、見る見るうちにジャングルに近づいていく。“自爆”の二文字が栄三郎の脳裏を駆け巡った。
「大熊! 敵基地に機首を向けられるか? どうせ墜落するなら、あの基地を道連れにしてやる!」
 血走った視線をウロウロと辺りに泳がしていた河内が、空いた手で辺りのスイッチを引っかき回しながら叫んだ。
「く……む、無理です、曹長。操縦棹が……」
 渾身の力を込めて棹を引き戻そうとあがく栄三郎の努力に反して、機体は横転、錐もみを続けていた。機体内で身体を踏ん張っているだけで精一杯だ。
「ゆ、友軍だ! 戦闘機部隊が到着したぞ!」
 揺れる機体の制御に気を奪われていた栄三郎の耳に河内の歓声が届いた。思わず栄三郎もその方角に視線を向ける。
 風のように飛来した味方戦闘機群が爆撃機に群がる敵戦闘機を一機、また一機と血祭りに上げていく様子が見えた。
 敵戦闘機からの執拗な攻撃から解放された仲間の爆撃機が、こちらへと飛んでくる姿が栄三郎の目に入った。
「二番水沼機と四番村山機が来ます」
 河内にもその姿は見えていると思えたが栄三郎は口にせずにはいられなかった。僚機は失墜していく編隊長機を気遣うように両側に寄り添い、その翼を振って励まし続けていた。
「作戦は成功したな」
 今までのうわずった声が嘘のような静かな声で河内が呟いた。
 栄三郎がハッとして河内を振り返る。泣きそうな笑顔で河内が僚機に手を挙げるところだった。
 決別の合図。
 これ以上、一緒に飛行していては残りの二機も一緒に墜落する危険性がある。この高度がギリギリのラインと言っていい。栄三郎は我知らずに唾を飲み込んだ。
 死にたくはない。……軍人にあるまじき考え。だが栄三郎はそのとき痛切にそう願った。
 生きたい、生きたい、生きて内地に帰りたい!
 その栄三郎の腕の下で小谷が身じろぎしたのは、河内が僚機との決別を済ませ、二機の爆撃機がゆっくりと高度を上昇させていったときだった。
「小谷中尉殿!」
 栄三郎の声に河内が素早く反応した。
「中尉!」
「……を」
 小谷の囁き声が二人の鼓膜を叩く。
「スイッチを……」
 朦朧とした意識のなかでも小谷は愛機を操縦している。栄三郎は小谷の身体を支えたまま、再び操縦棹を握った。
「引くんだ……。スイッチも……一緒に」
 小谷の声に答えるように栄三郎は操縦棹を引き、河内はスイッチを操作する。だが機体は一向に上昇する気配を見せず、地上はグングンと目の前に迫ってきていた。
 栄三郎の視界一杯にジャングルの緑色が拡がる。
 駄目だ。
 栄三郎たち三人を乗せたまま、戦爆連合編隊長機は南洋の密林へと一直線に吸い込まれていった。


 全身の骨が砕けるかと思うほどの衝撃が身体を襲ったあと、間髪をおかず三人の身体は機体の壁に激突し、その反動で機外へと放り出された。
 愛機は銃弾の痛々しい傷跡をさらし、どうにか爆発もせずに三人を地上へと送り返したのだ。
 栄三郎は身体を動かそうとしたが、断念せざるを得なかった。激痛に息が止まる。どこからか小谷と河内が苦痛に呻き声を発しているのが聞こえてくる。
「中尉殿……! 曹長殿……!」
 喘ぎに近い声で呼びかける。だが栄三郎自身の声が小さすぎるのか、二人から返答はない。
 痛みに混濁している意識が薄れていく。身体が重い。痛い。苦しい。栄三郎は機外へ放り出された姿勢のまま、ピクリとも動けずに気を失った。
 どれほどの時間気を失っていたのか定かではない。全身に叩きつける雨粒で栄三郎は意識を取り戻した。
 空中戦が開始されたのは、正午前後だったはずだ。熱帯地方特有のスコールが降り始めていることを考えると、かなりの時間眠っていたらしい。
 ギシギシと痛む身体を地面から無理矢理引き剥がすと、栄三郎はふらつく頭を抱えた。地面に叩きつけられたときに頭を打ったのかもしれない。
 体中が痛みに悲鳴をあげている。ややもすると混濁しそうになる意識が戻ったのは、この痛みのお陰かもしれない。
 生きている!
 意識がハッキリとして初めて頭に浮かんだのはそれだった。
 生きている。俺は生きている!
 他の何も浮かばない。ただその言葉だけが頭に響く。
「そ、そう言えば……中尉と曹長は!」
 ようやく残りの二人のことを思い出した栄三郎は、痛みでぎこちない動きではあったが辺りを見まわした。
 まだ夕方ではないと思うのだが緑の天蓋のように空を覆う密林とスコールが光を栄三郎の視界から遮っていた。
 薄暗がりのなかに眼を懲らすと、ねじくれた熱帯の樹木の影からゲートルを巻いた足が覗いていた。
「あ……!」
 よろけながらその足の持ち主の元へと歩み寄った栄三郎は、俯せになっているその人物の顔を覗き込んだ。
 小谷中尉だ。
「中尉……! 小谷中尉殿!」
 頭の傷からは血は止まっていたが肩や腕は血に染まったままだ。スコールに全身を打たれてもすべての血を洗い流すことは不可能だったようだ。
 上官の名を呼びながらその肩を揺する栄三郎の後ろから、今度は別の人物の呻き声が聞こえてきた。
「うぅ……。こ……こは……?」
 かすれた声の持ち主は河内だった。栄三郎は小谷の肩に手を置いたまま振り返って、もう一人の上官の姿を探した。
 シダ類の茂みに上半身を突っ込むように倒れている河内が見えた。緩慢な動きで身を起こすその背に栄三郎は声をかける。
「河内曹長殿!」
 その栄三郎の声に河内の意識の覚醒が早まった。
「大熊?」
 先ほどのかすれ声とは反対に意外と元気そうな声が返ってくる。
「大熊、無事だったか。……中尉殿!」
 栄三郎の足元に倒れている小谷に気づくと、河内は這うようにして近づいてきた。小谷の顔を覗き込んだ河内が気遣わしげに上官の名を呼ぶ。
「中尉! 小谷中尉! しっかりしてください、中尉!」
「曹長。中尉の怪我の程度はよく判りませんが手当をしないと……」
 微かに動いている小谷の喉仏が彼の生存を示している。河内もそれを確認すると安堵のため息を小さくつく。
「機内から備品を取ってきます」
 機敏とはとても言い難い動作で栄三郎は立ち上がると、河内の返事も聞かずに愛機へと歩き出した。
 自分たちをここまで運んでくれた愛機は、翼を折られ、窓を砕かれ、機体の各所は大きく歪み、原型を大きく崩していた。
 吹っ飛んで大きく口を開いている入り口からヨタヨタとなかへ這い上がると、栄三郎は応急備品があったと思われる場所へ向かった。
 備品を探し当てて元の場所に戻ってみると、河内が小谷の帽子を苦労して脱がせているところだった。
 血で頭に貼りついた帽子は脱がせにくい。だが力任せに引き剥がせば傷口が開く心配があって思うようにはいかない。
「曹長!」
 栄三郎は上官に呼びかけると、小谷の身体をそっと支えた。小谷の頭を持ち上げたことで作業は格段にやりやすくなったようだ。
 慎重に帽子を脱がせて応急手当を済ませると、栄三郎は再び上官を地面に横たえた。
 手当の間にスコールは止んでおり、辺りからは獣や鳥の鳴き声が間遠に聞こえる。
「大熊、偽装して機を隠さねば」
 ジャングルのなかとはいえここは敵地である。基地には未だ無傷の兵が残っていよう。爆撃機が墜落しただけで爆発などしていないことを敵が知っていれば、捜索隊が出ているかもしれない。
 栄三郎もその可能性に思い至ると痛む身体に鞭打って立ち上がった。
 愛機は無惨なその影を密林の暗がりのなかに溶かし込んでいた。よくぞ自爆もせずにここまで飛んできてくれた。
 一瞬の感傷に胸が詰まる。
 だがすぐにその感傷を振り切るように栄三郎は辺りに生えているシダや地面に落ちている木々の枝を集め始める。
 急がねば、完全に日が落ちる前に作業を完了させなければならない。
 大事な我が機を敵の手中に落としてたまるか。それに、墜落機の発見が遅れるということは、それだけ自分たちの発見も遅れるということだ。
 一言も口をきかないまま栄三郎と河内は黙々と偽装作業を続けた。
 大破したこの機が再び大空に舞い上がる日はこないかもしれない。だがともに空を駈け、敵を追った戦友に違いはない。
 ともすれば、その哀れな姿に涙しそうになりながら、栄三郎たちは夕闇が迫ってきている密林で作業を急いだ。


「あら、大熊さん。こんなところでひなたぼっこ?」
 頭のすぐ上から柔らかな声が聞こえた。見上げれば、芝の幼なじみ斉藤信江の笑顔があった。
「あぁ。ここは風の吹き溜まりみたいで、気持ちいいんですよ」
「へぇ~? 飛行機乗りってみんなそうなの? 風がどうのって?達夫ちゃんもそんなようなこと言ってたし」
 栄三郎が座っている場所は病棟と病棟をつなぐ渡り廊下の外側だ。廊下の両端に立っている腰板に背中を預けている栄三郎の姿は廊下側からはわざわざ覗かない限り見つけることはできない。
 人に会う煩わしさから逃れたいときは栄三郎はだいたいここにいる。
 廊下を行き交う人の足音を背中に聞きつつ建物と廊下に囲まれたこの窪んだ空間にいると現実から切り離されたような感覚になる。さわさわと頬をなでる風も大人しい。
 栄三郎はこの空間が結構気に入っていた。
「飛行機乗りが皆そうかは知りませんよ。でも空を飛ぶ奴は大抵は風を意識していると思います」
 一人の時間を邪魔された煩わしさはあったが、後輩の知り合いを邪険に扱うわけにもいかず、栄三郎は丁寧に答えた。
「そうなの? 大熊さんも飛ぶのが好きなのね?」
 どういう解釈をしたらそんな答えが見つかるのだろう? 栄三郎は彼女の突飛な答えに内心は首を傾げたが、実際には肩をすくめて見せるだけだった。
「ここは大熊さんのお気に入りみたいね? ごめんなさいね、邪魔しちゃったわ。他の人には内緒、ね?」
 悪戯っぽく笑った看護婦の笑顔がえらく眩しく見える。栄三郎は陽射しを遮るように額に手をかざすと、同じように悪戯っぽく笑って答えた。
「えぇ内緒です。もちろん芝にも」
「じゃ、約束」
 そう言うと看護婦は腰板越しに丸みを帯びた小指を栄三郎に突き出した。面食らった栄三郎がその指をしげしげと見つめると、看護婦はプッと頬を膨らませた。
「ほら。指切り! お姉さんの言うことは聞きなさい」
「え?」
 別にそんなことしなくてもいい。いや、それよりお姉さんって言うのはどういうことだろう?
 栄三郎が躊躇いを見せる。それに有無を言わせぬ態度で看護婦が、再び小指を突き出した。
「年上の言うことは聞くものよ? ほら!」
 看護婦の強気な態度に困惑したまま、栄三郎はその柔らかい指に自分の無骨な小指を絡めた。
「はい。指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~ます。指きった!」
 赤ん坊をあやすように優しげな表情で指切りすると、看護婦はふわりとした笑顔を栄三郎に向けた。


 機の発電装置が破壊されているので、友軍との連絡はまったく取れない状態だった。この密林を自力で抜け出さなければならない。
 偽装が終わった頃にようやく意識を取り戻した小谷に肩を貸しながら、栄三郎は夕暮れの鳥の交響楽を聴いた。
 囮り作戦は成功したはずだ。ならば、明日にも落下傘部隊がこの島に投入される。密林から抜け出し、友軍と合流すれば助かるのだ。
「我々の位置は解っているのか?」
 苦しそうな息の下から小谷は囁いた。
「敵飛行場の北側に墜落したことぐらいしか判りません」
 河内が栄三郎の反対側から小谷を支えて返事を返す。
「そうか。落下傘部隊が投入されるのは島の西側平野部だ。西へ進路を取ろう」
 微かな光源から西の方角の見当をつけ、三人は互いを庇い合うように密林を進んだ。足を捻挫していたり、体中を打撲していたりと、満足に動ける者がいないのだから致し方ないが、歩行は困難を極めた。
 三人だけの行軍は遅々として進まない。ところどころで見かける果実や木の実を食べて、苦しい飢えからは解放されたが、ややもすると方向を見失いがちになる。
 日がとっぷりと暮れてからは一層方角が知れなくなり、木の根につまづき、夜行性の獣の唸り声に怯える。
 敵がどこに潜んでいるか知れなかった。それ故に火を焚いたり、ランタンなどに灯りを灯すわけにもいかない。躰は疲労を訴えてくるが、ゆっくりと休憩するだけの気持ちの余裕が三人にはまったく無かった。
 極限の緊張と際限なく続く鈍い痛み。もつれがちな足取りを前へと進めるのは、それぞれの気力だけだった。
「河内、どうした? 足が痛むのか」
 始めに河内の異変に気づいたのは小谷だった。自分を支えながら歩く部下の息がかなり激しく荒い。
「だ、大丈夫であります」
 苦しそうな息の下から聞こえてくる声は決して大丈夫な様子ではない。
「大熊、少し休もう。疲れたよ、俺も」
 小谷が河内の様子を察してつかの間の休憩を申し出る。だがその休憩中でも辺りに気を配ることを忘れない。
「偵察に行ってきましょうか」
「バカ。月も見えないほどの暗闇だぞ。ここへ帰ってこれなくなる」
 栄三郎の申し出は小谷にあっさりと却下された。お互いの表情も判別できないほどの闇が拡がっているのだ。偵察どころではない。
「……はい。河内曹長殿。具合はどうですか? 少し水を飲まれますか?」
 自分も左半身が痺れたままだったが、栄三郎は三人のなかでは一番体力が残っているようだ。
 余力のある者が限界に近い者を気遣わなければ、限界を超えた者は脱落してしまうだろう。この密林のなかで気力体力ともに失ったら、それは死を意味する。
「す、すまん。少しくれ」
 栄三郎は河内の声のする方角へ手探りで移動すると、その手に水筒を握らせた。
 河内の手は酷く熱っぽい感じがする。もしかしたら、躰のどこかの骨を折っているのかもしれない。
 喉を鳴らして水を飲む河内の動作には疲れの色が濃く、間断なく襲ってくる痛みがその疲労を増長させていることが手に取るよう判る。
 しかし栄三郎にはそれをどうしてやることもできない。
 栄三郎は胃に冷たいものが下りてくる厭な感覚を振り払うように努めて明るい声を出した。
「夜が明ければきっと友軍がきます。それまでの辛抱ですよ」
 水を飲み終わった河内が喉の奥で笑う。その笑みに力はなかった。
「俺は生きて帰るぞ」
 唸り声に似た小谷の太い声に栄三郎は振り返った。その視線の先に小谷がいるはずだが暗闇に覆われた小谷の姿はしかと判別できなかい。
「はい。全員で内地に帰りましょう」
 栄三郎は小谷の声に救われたような気分になった。お国のために死ね、と言われても、人はそう簡単に死ねるものではない。まして死への諦観の境地に達するには栄三郎たちはまだ若い。
「子供がな、生まれたんだ」
「……! お、おめでとうございます。いつです? どちらだったのですか?」
 小谷が小さく笑う声が耳に入る。
「先月の九日だそうだ。男だとさ」
 まだ見ぬ息子の姿を思い描いているのか、小谷はそれだけ言うと押し黙った。
「生きて帰りましょう、中尉殿。自分も家族の顔が見たい」
 河内が苦しげな息の下から囁いた。小さな声なのに驚くほどよく響く。
 辺りには温みのある沈黙が流れた。どこから敵が襲ってくるか解らない緊張感のなかでの一瞬の穏やかな安らぎ。それぞれが、それぞれの想いを噛みしめる。
「……そろそろ行くか」
 小谷の呼びかけに全員が身を起こした。
 行こう、日本へ。懐かしきふる里へ。


「あ。そう言えば、大熊さんを探している人がいたわ。どこだかの新聞社の人みたいだったけど? お知り合いの方?」
 栄三郎と指切りしたあと、看護婦の斉藤信江は今思い出したといった様子で栄三郎に問いかけた。
 栄三郎はちょっと考え込んで、今日の昼過ぎに新聞社の人間と会う約束をしていたことを思い出した。
「あ! しまった。約束してたんだ」
 病院にいると日にちや時間の感覚が狂ってしまう。ぼんやりしているときが多いせいか、今日が何月の何日かなんてどうでもよくなってしまうのだ。
「まぁ。それじゃ、急いだほうがいいわよ。お相手の方、随分と探し回ってると思うわ」
 他人事のため、のんびりと答える看護婦を後に残して、栄三郎はあたふたと廊下の腰板を乗り越えて病室へと急いだ。
 栄三郎を取材したいと申し出を受けたのはつい二~三日前のことだ。
 気乗りはしなかったが断る理由も思いつかず、相手の「慣例ですから」との言葉に渋々承諾しただけだった。
 郷里の母親は喜ぶかもしれない。
 栄三郎の胸中にお国のためなどという感情はこのときも芽生えてはこなかった。
 自分は薄情なのか、それともひがんでいるのか。連日の戦勝に酔いしれる世間に取り残され、栄三郎の胸中は侘びしさに満たされるばかりだった。


 暁の鳥たちの交響楽を聴きながら栄三郎たちはジャングルでの朝を迎えていた。
 一睡もせずに行軍を続けていたため、身体の疲れは限界に近かった。一番体力が残っていた栄三郎も全身の倦怠感に悩まされている。
 ただ冬場でも暖かい南洋の密林にいるお陰で、まばらではあるが諸処に果実らしきものが実っていて、ひもじい思いはせずに済んでいる。
 密林のなかは朝になっても薄暗いところが多く、気をつけないとすぐに木の根や下草に足を取られて転倒してしまう。
「どれくらい来たでしょうね?」
「さて?かなり歩いたつもりだがな。河内、お前に合わせて進むから無理をするな!」
 朝日が昇ってからは小谷は栄三郎に寄りかかって歩いていた。
 河内の負担は幾分減っていたが、足を痛めている彼は杖にすがらなければ歩くのは困難な状態だった。道程で見つけた手頃な木の枝を杖代わりに歩いているが、河内の歩みは痛みに遅れがちだ。
「じ、自分なら大丈夫であります」
 平静を装うとするが、青ざめた顔色がそれを裏切る。
 後ろを歩く河内を気遣う小谷を支えながら栄三郎は頭上を覆う緑の天蓋を見上げた。
 ねじくれた枝や蔦があざ笑うように栄三郎の視界から空を切り取っている。もう少し空が見えたら、この閉塞感から解放されるだろうに。
 小さくため息をついた栄三郎の耳に聞き馴れた音が届く。
「……!? ち、中尉! あの音!」
 小谷の耳にも聞こえたのだろう。二人は肩を組んだままの姿勢で小さく切り取られた空を伺った。
「機銃弾の爆撃音……。友軍だ!」
 栄三郎の口から歓喜の叫びが漏れた。落下傘部隊を投入すべく、日本軍が再度の攻撃を開始しているのだ。爆音は遠くに近くにと繰り返し辺りに響き渡った。
「もうすぐだ! もうすぐ合流できるぞ」
 三人は疲れた身体を奮い立たせて、動かぬ体を前へ前へと進めていく。
 もうすぐだ。もうすぐ仲間の元へ行くことができる。もうすぐこの苦しい行軍ともおさらばだ!
 敵基地からも高射砲で応戦しているようだ。間断なく聞こえる懐かしい音に三人の心は舞い上がっていた。
 友軍だ。友軍が来た。
 今までの重い足取りが嘘のように三人は勇んで密林を進んでいく。だがどれほどの距離に友軍が来ているのかはまったく見当がつかない。
 闇雲に進むうちに爆撃音は間遠になり、そして途絶えた。


「聞きましたよ、軍曹殿。新聞に載るんですって?」
 芝が軽快な足取りで近づいてくるのを栄三郎は黙って見守った。
 芝の怪我の具合は随分と良くなっているようで、頭に巻いていた包帯は取れていたし傷はほとんど目立たなくなっていた。元々頑強で怪我の治りが早い質なのかもしれない。
「以前に一度載ってるよ。別に珍しいことでもないだろう?」
 見知らぬ相手からの過剰な賞賛にうんざりしていた栄三郎は、芝の遠慮ない口調にさえ神経がささくれてしまう。
 栄三郎の気難しい顔つきに芝が目を丸くし、驚きの表情を見せた。
「どうしたんですか? あの特派員、なにか失礼なことを言ったのですか!?」
 芝は勝手に勘違いな解釈をしたらしい。
 建物の外に止められている軍用車に乗り込もうとする新聞社の特派員の背中を鋭い視線で睨んでいる。人の良い芝の性格ならそんな解釈もできるのかもしれない。
「何も失礼なことなんか言ってないさ、あの人は。俺が疲れてるんだよ。たぶん、な……」
 栄三郎は疲れた身体をベッドに横たえると軽く目を閉じた。
 芝の困惑する気配が伝わってきた。栄三郎は片目を開けて芝の表情を確認すると、やれやれといった感じで身体をねじる。
 自分の疲れの原因など芝に解るはずもない。芝に当たったところで、気が晴れるわけではない。だがダラダラと話をするには気分が乗らなかった。
「あ! のぶ姉ぇから差し入れもらったんです。喰いますか?」
 大儀そうに身体を起こした栄三郎の脇に屈み込むと芝は抱えていた袋を差し出した。ほんわりと爽やかな香りがもれている。
「なんだお前、姉さんが面会に来たのか?」
 差し出された袋を反射的に受け取ると栄三郎は中身を覗き込んだ。
 夏みかんだ。ちょっと季節的には早いような気もするが、芝の郷里では珍しくないのかもしれない。
「面会なんか来てませんよ。のぶ姉ぇってのは、ほら。前に紹介したでしょう? 看護婦の斉藤信江。のぶえだからのぶ姉ぇ。たぶん誰かからもらったんだと思いますけど、遠慮なく食べてください」
 栄三郎は丸い体型の看護婦の顔を思い出して顔をほころばせた。もらった夏みかんを弟分たちにも分けてくれたわけだ。
 夏みかんの明るい色が彼女のふんわりとした笑顔と重なって、栄三郎はなんだか面はゆい気分になった。
「遠慮なく頂くよ」
 口腔一杯にじわりと拡がるその甘酸っぱい味をゆっくりと楽しむ。丁度、小腹が空いてきたところだったので、夏みかんの酸味が胃に染みわたった。
 栄三郎は胸のなかに溜まっているもどかしい寂寥感がほんの少し薄まった気がした。
「芝。斉藤さん、幾つなんだ?」
「? ……のぶ姉ぇの歳ですか? 俺より二つ上だったと思うけど?」
 栄三郎の突然の問いかけに芝は首を傾げながらも、先輩の機嫌が直ったことに安堵したようだった。
「のぶ姉ぇの歳がどうかしたんですか?」
「別に。ちょっと気になっただけだ」
 歯切れの悪い栄三郎の答えに芝の顔が怪訝そうに歪んだ。
「なんですか? ……ま、まさか!」
 どう言ったらいいものか、と顔を引きつらせる芝の視線から逃れるように栄三郎は立ち上がった。そして、そのまま窓際まで足を引きずって歩く。
 自分より一つ年上の看護婦の顔を脳裏に思い浮かべながら、栄三郎はぼんやりと考え込んだ。
 骨髄を損傷し左半身の自由が利かなくなった自分が空に舞う日はもう二度とこないだろう。どうせ長くない人生だがこれからは愉快でもないことをやって生きていくよりは、心穏やかに過ごして生きたいものだ。
 戦いのなかで敵に銃口を向けておきながら、自分だけ平穏に暮らそうというのは贅沢なことだ。
 だが栄三郎の飛行機乗りとしての生命は終わっている。それならば、少しくらい他の夢を見てもいいではないか。
 燦々と降り注ぐ太陽の光を窓越しに振り仰ぐと、栄三郎は抜けるような青空に憧憬の視線を送った。


 駄目か。このまま友軍と合流できないのか。
 爆音が聞こえなくなると、三人の足取りは途端に重く鈍いものになった。互いに顔を見合わせて、その顔に浮かぶ焦りと失望に一層孤独を深めていく。
 密林の木々が徐々に少なくなってきていた。もうすぐこのジャングルも途切れるはずだ。だがその先に彼らが求める友軍の姿はないかもしれない。鈍った足取りは止まりそうになる。
 そんな彼らの耳に再び聞き馴れた爆音が聞こえてきた。この音は……。
「手榴弾の爆発音だ!」
「落下傘部隊だぞ」
 期せずして三人の口から歓喜の絶叫があがった。
 相変わらず爆音は近づいたり、遠退いたりして友軍との距離は定かではない。だが確実に近づいてくる戦友たちの姿を思い描いて、三人は再びジャングルの端を目指して歩き出した。
 そして、とうとう密林を抜けると弾音は一層間近に聞こえ、その激しさを増した。すぐそこに友軍の突撃の喊声すら聞こえ出す。
 密林を彷徨っているうちに日は落ちかかっていた。爆撃音を聞いてから何も食べずに歩きづめていたが空腹感を感じる余裕もない。
 平野部をよろけるように進んでいくと、やがて遙か前方に民家らしきものが見え始めた。
 地面の各所に塹壕が数カ所掘られている。建物と自分たちの今の位置から見て、ほぼ中間地点の塹壕に敵軍旗が見えた。手榴弾と機銃で応戦しているのだ。
 その建物からこちらに向かって駈けだしてくる一団の姿が目に入った。三人ももつれる足にかまわず駈けだす。
 ウォンと空気を震わせる鬨の声がその一団からあがる。
 塹壕に張りついていた敵軍が背後の自分たちに気づく。彼らは前方の敵と挟撃されたと勘違いして、泡を喰って散り散りに逃げていく。
「日本軍だぞぉ~!」
 三人は絶叫しつつ駈けだしていたが、足をもつれさせてもんどり打って倒れると、そのままへたへたと座り込んでしまった。
「お~い! おぉ~い!」
 自分たちに呼びかける仲間たちの声に胸が震える。勇んで駆けつけた戦友たちの腕に抱えられると、三人は堪えきれなくなって泣き始めた。


 友軍に救出され軍艦でマレー半島へ運ばれる間に、栄三郎たち三人は自分たちが勝手に英雄に祭り上げられていることを知った。
 少年兵だった頃には憧れていた英雄というものに自分がなっている、この不可解さが栄三郎に言いようのない苛立ちを募らせた。
 そんなものになりたくはない!
 だがどう反論しようと上司がお抱えの新聞社特派員に連絡を入れ、彼らを記事にするよう手はずを整えていた。
 勝手に作られていく偶像に栄三郎たち三人は途方に暮れるしかない。
 人々の勝手な賞賛に栄三郎は疲れ切っていた。
 自分の翼は今もあのジャングルで眠る愛機とともに折れ飛んだのだ。こんな身体では二度と空に舞う日はこない。あの緑の天蓋を見上げることももうないだろう。
 鬱蒼と茂る密林は自分のなかの何かさえ覆い隠してしまった。今の自分にいったい何が残っているというのか。
 生きて帰ってきた。
 ただそれだけが今の自分に残っている。これから先がどうなるかなど神でもない自分に解るわけもない。
 だけど……いや、それでもいい。
 生きて、生きて、生き抜いて……。
 そして静かに土に還ろう。
 自分のなかでだけ結論を出すと、栄三郎は自分でも気づかないうちにうっすらと笑みを浮かべていた。
 入院してから、いやもしかしたら飛行学校を卒業してから初めて浮かべる、穏やかで自然な笑みだったかもしれない。


 西暦一九九六年(平成八年)五月十七日。
 大熊栄三郎永眠。
 これでまた戦争の記憶を残す者が一人減った。
 彼はあまり多くを語ろうとはしなかったので、医者に「この戦傷では、四十歳まで生きられない」と宣告を受けながら、彼がその倍以上の人生を歩んだことを知る者は少ない。

終わり

この物語は亡くなった祖父に捧げる鎮魂歌である。君よ、心安らかに眠れ……。

〔 18168文字 〕 編集

脱出 【ある生物】

No. 33 〔24年以上前〕 , 短編,ノンジャンル , by otowa NO IMAGE

 その生物はいつも考えていた。
『外の世界で生きたい』
 それの棲んでいる世界は穏やかであった。暖かであった。静かな微睡みの中にあった。
生物は考え思う。
『どうしてここは、こんなに変化がないのだろう。あぁ、外の世界へ行きたい。外のあの荒野へ行って己を強くしたい』
 温暖な世界に馴れきった仲間たちはうららかな日差しに目を向けて、ボゥッとしている。
 時間の境界線がない、昼だけの世界。寒暖の差などない、ぬるま湯のような世界。他人と競って生きる必要もなく、ほどほどに生きて死んでいく。
 毎日……この概念が昼だけの世界に当てはまるのなら……一定の時間に自称『管理人』がやってくる。
 彼はやってくると生物やその仲間たちに食べ物をくれる。それも人工的に加工したものばかりだ。そして、一人一人に声をかけていく。
 生物はそんな言葉など無視しようと外の吹き荒れる荒野をジッと眺めた。
「おい! お前はまだ陽の光を見ないのか。どうしてそんなほうばかり見ているんだ」
 管理人が怒りと悲しみを生物にぶつける。しかし生物は管理人から顔を背けて外の世界のことを思う。
 諦めてこの世界から出ていく管理人がその世界の境界線の扉を開けたとき、外の世界の空気が少しだけ流れ込んできた。
 生物は喜びに全身を震わせた。仲間たちは恐怖に震えおののいている。
『あぁ、外の世界よ。なんて清楚な風の流れだろう。行きたい。行ってみたい。あの吹きすさぶ風の中の大地に降り立ちたい』




 なんの変化もない世界。まだるっこしいこの世界にある日、突然の闖入者たちがあった。
 あの『管理人』の奴がしきりと頭を下げて、その闖入者たちに話しかけている。そいつらは仲間を一人一人見ては、管理人に何事かを告げていた。
 最後に生物のところへきて言った。
「なんだね、この出来損ないは!!」
 生物はこの闖入者の言った言葉を理解できなかった。頭を下げて謝っている管理人が今日は随分と小さく見えた。
 ナンダネ、コノデキソコナイハ……?
「捨ててしまいなさい、こんなもの!!」
 闖入者は怒って去っていく。生物は訳も解らずに立ちつくした。
『なんだあいつらは。変な奴』
 後に残った管理人はため息をついて生物を見上げた。つまらないものを無くしたときにつくため息のようにどこかなげやりな感じのするため息だ。
「やっぱり駄目だったか」
 管理人のことなど意に介さず、外を見続ける生物の体を管理人は無造作に掴み持ち上げた。そのまま扉へと向かって歩き出す。
 仲間たちが悲鳴を上げている。外への恐怖と仲間の運命に身をよじり震わせる。
 しかし生物は外の世界へと連れ出される喜びに全身を揺らした。
『外だ! 外へ行くんだ!』
 寒風が体に吹きつけたかと思うと、生物は投げ出されていた。
 抵抗することもなく身を横たえ、徐々に冷えていく体とは裏腹に生物は歓喜の叫びを上げ続けた。




 一週間もした頃、生物は自分の死を感じた。だが、同時に新たな命の産声も聞いていた。
 ある晴れた暖かな初春の日、巨大な温室農園の敷地に隣接した荒野の片隅に、縮れ枯れ果てた一本の向日葵の下から小さな芽がその荒れた大地から萌え出していた。

終わり

〔 1350文字 〕 編集

タッシール紀

No. 32 〔24年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
放浪者の瞳

 旧暦から恒星暦へと暦が変わってすでに千年以上が経った現在も、惑星タッシールは栄華の極みにあるように見えた。辺境惑星の羨望の視線を浴びて、この星の住人たちは常に取り澄まし、己の権勢を誇ってきたのだ。
 そう。ここトルテリア共和国首都バルヴァに建つ国立トルテリア大学もその羨望の視線を向けられる施設の一つに違いない。彼、アッサジュ・パルダという考古学の権威をそこに飼っているゆえに……。
 窓の外は灰色の雲が垂れ込め、秋の物憂げな愁雨が今にも降り出しそうな気配だった。キャンパス内を学生たちは急ぎ足でせかせかと歩き回っている。その姿は降りだそうとしている雨と競争をしているようだ。
 部屋の窓から眼下のキャンパスを見下ろしていたアッサジュ・パルダは、扉をノックする音にふと我に返って返事を返した。
 灰色がかった蒼紺の視線を扉へと注ぐと、その木製の扉が開いて入ってきた人物をしげしげと観察する。小綺麗に短く刈り込んだ黒髪に褐色の肌の男だった。歳は三十代前半と思われる。顔の造りは悪くない。
 訪問者の褐色の顔のなかに暗い色合いの翠の瞳が鋭く光っていた。深い知性を宿した瞳の色は優しいがどこか孤独を含んでいるように見える。
「やぁ、ワーネスト。久しぶりじゃないか!」
 気さくに声をかけると、アッサジュ・パルダは散らかった応接セットの机の上を片付けて、客が取り敢えず落ち着けるスペースを瞬く間に造り上げた。
「ご無沙汰しております。教授は相変わらずお元気そうですね。そうそう、お嬢さんがもうすぐご出産だと伺いましたよ。とうとうお祖父ちゃんですか」
「なんだね。この老いぼれに孫の世話でもして隠居しろと言うのかね?」
 手早く香茶を淹れると、老教授はどっかりと相手の向かい側に腰を降ろして苦虫を噛み潰したようなしかめっ面を見せた。
 骨格のがっしりした体格のアッサジュ・パルダは年は取っていても隠居するような柄には見えない。白髪のほうが多くなった頭髪を撫でつける指は、学者というよりは労働者といった感じさえ受けるのだ。
 ワーネストと呼ばれた男は苦微笑を浮かべ、受け取った香茶を一口すすった。
 香草をブレンドした香茶の味は独特で、好き嫌いが分かれるところだろうが、この男の口には合っているらしい。苦微笑が消えると、その顔には満足そうな笑みが刻まれた。
「トルテリアの香茶はどれも美味いですね。オレの国だともっと味が薄くて、物足りないんです。この国にいるとずっと香茶を飲み続けていたいような気がしますよ」
「もちろん! このトルテリア共和国の香茶茶葉は宇宙一だからね」
 まるで自分が褒められたように胸を張ると、教授は人なつっこい笑みを浮かべて年下の男を見つめ返す。そしておもむろに自分のカップから香茶をすすって、さも威厳を見せるように重々しく頷いた。
「発掘は順調なのですか?」
 ひとしきり香茶談義を繰り広げていた二人の間にふと沈黙が落ちると、年下の訪問者が何げなく質問をしてきた。
「うむ。まぁ、順調とは言えないが……。発掘にはつきものだからね、現地でのトラブルや費用の問題などは」
「あの海のなかから突きだしている奇山にいったいどれくらいの考古学的価値があるのかしりませんけど……。あそこの島の住人は保守的で排他的な気質をしている者が多いんですよ。気をつけてください」
 心配そうにこちらを伺う男に「大丈夫だ」と手を振って応えると、老教授はポットに残っていた香茶を二つのカップへと注ぎ足す。キザにならない程度にもったいぶった手つきがいかにも洗練されており、彼が充分な教養と学問を身につけられる裕福な市民の出であることを示していた。
「君のほうこそずいぶんと忙しいのではないのかね? 惑星一の発行部数を誇る月刊誌プラネットで署名入りライターを務めているとなれば、忙しさは半端ではあるまい?」
「えぇ。今日も取材準備の途中でして……」
 再びカップに口をつけるとワーネストは誇らしげに目を細める。その瞳の奥には野心的な光が点っていた。
 雑誌プラネットは惑星タッシールの歴史や環境、科学などありとあらゆる分野の最先端を紹介する雑誌である。惑星住民のなかでこの雑誌の名を知らない者はいないと言っても過言ではない。
 その雑誌で記事の最後に文責署名を入れられる記者というのは、かなりの実力者だと言ってもいい。専門分野はあるにしろ、彼ら署名ライターは実に多くの知識をその脳内に収めているのだ。
「私の発掘内容以上に、君の好奇心の触覚に触れるような面白いネタがあるのかね? それは是非聞かせてもらいたいものだな」
 アッサジュ・パルダは子どものように好奇心で光る視線を相手へ注ぎ、相手が話し出すのをワクワクとして待っていた。
「教授、記事になるかどうかも判らないんですよ? ……あぁ、判りましたよ。そんな恨みがましい目で見ないでください。絶対に他言無用ですからね」
 相手の好奇心をいなそうとしたワーネストは、不満げに頬を膨らます老教授の様子に苦笑いを浮かべる。まったくもってこの老人は子どものようだ。面白い玩具を取り上げようとすると、途端にふてくされたように機嫌を悪くするのだ。
「実は今回はガイアへ飛ぼうと思いましてね。今日はそのスターシップの手配をしに行くんです」
 アッサジュ・パルダが自分の言葉に失望どころか、なおいっそうの好奇心を募らせたらしいことを理解すると、ワーネストは香茶を一口すすって微かなため息をもらした。いまさら話をやめるわけにもいかない、といったように。
「あの惑星に大したものがあるとは思えませんけど。大昔に海に飲まれた大陸のことを調べてみようと思っているんです。このタッシールの大沈没時代を彷彿させる話題でしょう?」
「ほう! あの辺境の惑星にも大陸を呑み込んだ海があるのかね。それは興味深い。だがあの惑星は双子星ではなかっただろう? 我がタッシールの双子星が消滅したときのような激しい変動などなかっただろうに、いったいどうやってそんな巨大な海のうねりができたのかね?」
 お伽噺をねだる子どもそっくりに瞳をキラキラと光らせた老人の態度に、ワーネストが苦笑いを深くした。まったく好奇心の塊のような御仁だ。
 手に持ったままのカップの縁を指先でなぞると、ワーネストはやや目を細めてじっと香茶の水色に視線を落とした。指でなぞっている振動で、水面には小さなさざ波が立っていた。
「惑星の地軸が狂ったんですよ。神話の書物にも海に飲まれる大陸の話は出てきますから、かなり大規模なものだっと思います。その辺りと絡めて記事にできたらいいんですけどね」
「なるほど! 遠いガイアとタッシールの意外な共通点か。君ならきっと面白い記事が書けるだろう。しばらくは君の署名入り記事から目を離せないな!」
 老齢の域に達したとは思えない大きな声で相手を称賛すると、アッサジュ・パルダは顔を大きく笑みで崩した。
 この快活な老人に褒められて嬉しくない人間などいないだろう。ワーネストも満点をもらった生徒のように晴れやかな笑みを浮かべ、ついで照れくさそうに鼻の頭をこすった。
「それにしても君はあちこちを旅しているようだね。私がこの国の周辺で地面を掘り返しているのと比べると、まったくタフだと思うよ」
「何を仰っているんです、教授だって充分タフじゃないですか。だいたい発掘の指揮をとりながら自分もシャベルを持って地面を掘り返すなんて……。いい加減にお歳を考えていただきたいものですね」
「この老体から発掘の楽しみを奪おうというのかね? それはないよ。この楽しみを取り上げられるなんて我慢ならん」
 教授の太い指先はどうやら発掘の重労働のために培われたものらしい。優雅に指を振る動きは滑らかだが、妥協を許さない職人のような頑固さがそこにはあった。
「そうそう。ところでスターシップの手配をするということは周期船で行くわけではないのかね?」
 カップの底に残っていた香茶を飲み干すと、老教授は首を傾げた。辺境惑星とはいえ、ガイアにはここタッシールから定期巡航船が出ているのだ。専用のスターシップをチャーターするより遙かに安上がりだろうに。
「えぇ。周期船で行くと思わぬ足止めを喰いそうなんですよ。ここ数ヶ月、あの星団域は宇宙嵐が断続的に続いてましてね。周期船では辿り着けないかもしれません。だからあの地区に詳しい船長を専任で雇うことにしたんです」
 それを聞いたアッサジュ・パルダが「う~む」と低い唸り声をあげた。恒星から噴き出す宇宙風。その風の巻き起こす宇宙嵐は厄介な代物だ。嵐のただ中に突っ込んでしまうと、嵐に吹き飛ばされたり磁場が狂ったりとかなりの危険を孕んでいる。
「あの辺りがそんな危険な状態だったとは。それで……見つかったのかね、その優秀な船長とやらは」
「もちろんです。今日これから逢いに行くんですよ。直接交渉できる手筈を整えましたからね」
 その言葉に老教授の瞳がキラリと光る。好奇心以上の興味を含んだ相手の気配に、ワーネストが一瞬たじろいで身を引いた。
「だ、駄目ですよ。一緒に連れていけませんからね!」
 思わず声を上擦らせてワーネストは叫んでいた。ところが老教授はまったく相手の言葉を聞き流して、いそいそと外出用のコートを取りに立ち上がっているではないか。
「教授!」
「まぁまぁ。ちょっと逢うくらいならいいじゃないか。ガイアのある星団域に詳しい人物となれば、当然ガイアの歴史にも造詣があるとみたがね? こんなチャンスは滅多にないだろう? なぁ、ワーネスト。まさか老い先短い老人の愉しみを取り上げたりしないだろうね」
「これから向かう先は決して治安がいい場所ではないんですよ!」
「そんな場所に君は一人で行くのかね? それならなおさら私が一緒に行かなくては。大事なかつての教え子に何かあったら大変だ」
 抗議の声をあげようと口を開きかかったワーネストは幾度か舌を動かそうと試みた。だがそれらすべてが無駄に終わると、肺のなかの空気を全部絞りだすほどの深いため息をつき、片手で額を覆ってうめき声をあげる。
「船長に逢っても、相手の機嫌を損ねるような真似はしないでくださいよ。今までの苦労が水の泡です」
「なぁに。麗しき神々は善良な市民をいつだってお救いになるものさ。人生なんて、どうとでもなるものなんだよ、ワーネスト」
 気さくに年下の訪問者の背をポンポンと叩くと、老人は悪戯に成功した少年のように愉快そうな笑みを浮かべて相手を圧倒した。
 その灰色がかった蒼紺の瞳の力に逆らえないのか、ワーネストは引きつった顔に無理矢理笑みを浮かべるしかないようだった。


 辿り着いた場末の酒場は降り出した雨のなかで見るとひどくうらぶれた感じがする。剥げかかった看板に刻まれた文字はもうほとんど読むことができない状態だが、目をすがめてじっと見ていると辛うじて「宵星亭」という文字が浮かんで見えた。
「なんとも興味深い建物じゃないかね。この街にまだこんなに古い建物があるとは思いもしなかったよ」
 老教授の、古びているが仕立てのいいコートの肩に小雨が降りかかっていたが、濡れることを気にしない質なのか、彼は目を細めて酒場の外観を観察していた。
「教授。悪いことはいいませんから、ここでお帰りになったほうがいいですよ。ここは教授のような方がくるような場所ではないと思いますから……」
「まだそんなことを言っているのかね。さぁさぁ、そんなことを言わずに偉大な冒険を敢行してくれる船長に逢わせてくれたまえ」
 そう言うと老人はさっさと一人で壊れかかった扉を押し開けて店内へ入っていく。まったく不用心というか、大胆というか。その後を追いかけながらワーネストは諦めたようにため息をついた。
 狂雑なポップスががなり立てている店内には、それに見合った男女が入り浸っていた。
 ドラッグの甘ったるい饐すえた匂いが充満し、シガーの紫煙が店内の最奥を霞ませている。ここには、混沌と頽廃があった。
 ところがカウンターのなかに立つバーテンは、およそこの傾きかかった酒場に相応しくない姿をしてるではないか。目の奥を焼く炎のような赤髪に象牙色の柔らかな色合いをした肌は薄暗い店内では一際目を引く存在だ。歳もまだ若く見える。
 感心した様子でその姿に見惚れている老教授の脇をすり抜けると、ワーネストは臆する様子もなくそのバーテンへと近づいていった。
「やぁ、ヴィーグ。オレの客はもう来ているかい?」
 カウンターで忙しく手を動かしていた若者が心持ち顎をあげてワーネストへと視線を走らせた。愛想のない表情で、相手を不快にさせないギリギリの拒絶を感じる態度だ。
 その見上げる瞳が炎の髪とは正反対の氷色をしていることに気づいて、アッサジュ・パルダは目を見張った。薄い色の瞳をしている者はこの国には少ない。それでなくてもこの赤髪は目立つだろうに、氷海の色をした瞳は見る者を捕らえて放さない。
「奥にいますよ。今、マスターと話をしているはずです」
 炎の情熱も、氷の拒絶も何もない無感動な声が若者の喉を震わせたとき、店の奥から大柄な男が顔を覗かせた。癖の強い鉄色の髪に鮮やかな空色をした瞳がよく映える男だった。
「マスター。ご到着です」
 現れた男に気づいたバーテンが無機質な声をその男にかける。どうやらこの空色の瞳をした男がこの酒場のマスターらしい。手近な客と談笑していたが、ふと顔をあげて値踏みするようにワーネストとその脇に立つ老人を眺め回した。
 平均身長より頭一つ分ほど高い男から見下ろされも、訪問者たちは威圧感は感じなかった。彼が長年の間に客商売で培ってきた特技だろう。客との間に適度な距離を置く店の主の態度はむしろ心地よくさえあった。
「いらっしゃい。お目当ての方は奥ですよ。……到着されましたよ」
 ワーネストを手招きしたマスターが奥の扉を半開きにして中に声をかけていた。
 年下の同伴者と供に他の客の間をすり抜けてその扉へと近づきながら、アッサジュ・パルダはその様子を面白げに眺めている。得難い経験の一つ一つを脳に刻みつけようとでもいうのか。
 喧しい店内を抜けて奥の部屋へと案内されて入っていくと、そこには数人の男たちがのんびりと杯を傾けているだけの静かな空間だった。
「あ~……。お待たせしました」
 今までの店内の様相とはまったく正反対の、むしろ知性を深く宿した瞳を持つ男たちの姿にワーネストのほうは少々面食らっているようだ。その横で老教授がニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべて立っている。
「ワーネスト・トキア氏、ですか? お一人でおいでになると伺っていたが?」
 猛禽類の瞳を思わせる琥珀色の瞳を持つ男が、瞳と同じ鋭い批判を込めた声をあげた。まわりの男たちも口にこそ出さないが、賛同の視線を向けている。約束が違うのではないか、と。
「すまんねぇ。私が無理矢理にくっついて来てしまったのさ。ガイア星域に詳しい人間なんてそういないからね」
 ワーネストが口を開くよりも先に、老教授がコートを脱ぎながら豊かな声で返事をした。外の肌寒さを一掃する温かな声だったが、男たちはさらに胡乱な視線を老人へと向けるばかりだ。
「オレの大学時代の恩師です。口の堅さは保証しま……」
「お喋りな奴は嫌いだ!」
 初めに口を開いた男が厳しい声でワーネストを制した。それに射すくめられたようにワーネストが硬直する。最悪だ。予定外の人間を連れてきたことが彼らを怒らせてしまったようだ。
「おやおや。ワーネスト。君の知り合いは随分と短気な人間のようだね。よほどこの年寄りを寒空の下に放り出したいらしい」
 言い訳に苦慮していたワーネストは教授のこの声に余計に肩を落とした。この老人にはこの緊迫感が判らないのだろうか? このままでは今まで自分が準備してきたことがすべて水の泡だというのに。
「自己紹介がまだだったねぇ。私はアッサジュ・パルダ。国立大学で教鞭を取らせてもらっとる。あ~。専攻は……」
「考古学でしょう? 今はイフォーバ山をあちこち掘り返しているそうじゃないですか。山の精霊に祟られやしませんか?」
 今まで黙っていた一人の男が口元に薄く笑みを浮かべて老教授とワーネストを見上げている。光量を落とした室内にも関わらず、彼の周囲は輝いているように錯覚しそうだった。
 まったく混じりっけのない白い髪はまるで老人のようなのに、白人種らしい肌の艶は決して年寄りに見えない。長く垂らした前髪で顔の左半分を覆っている。彼の年齢はむしろワーネストよりも若そうだ。
 精悍な顔立ちのなかで一つの暗い翠の瞳が微かな好奇心に輝いていた。
「私をご存知かね? それは光栄なことだ。あ~。名前を伺ってもかまわんかね、お若いの?」
 嬉しそうに笑みを浮かべる老人とその若者を交互に見比べてワーネストは戸惑っている。だが下手に口出しをするとこの一瞬の和みが崩れてしまいそうで、彼は手を出しかねていた。
「ここでは俺たちの名前を聞かないことです、教授。あなたの命を保証しかねる。だが呼び方に困るのなら……俺のことはガイスト、と呼べばいい」
 やんわりと拒絶を漂わせながらも相手は老人を受け入れたようだった。周囲の男たちはまだ険悪さを残した視線を立ったままの二人に向けていたが、この白い男の言葉を遮ろうとはしない。
「ガイスト? えぇっと……。確か、私の記憶に間違いがなければガイアのどこかの地区の言葉で亡霊という意味があったと思うがね」
 太い指先で自分の額をトントンと叩きながら知識をひっくり返している老人の態度は至って真剣で、相手を出し抜いてやろうなどという魂胆はまったくないようだった。それが気に入ったのか、若者が幾つかの空席を指さした。
「座ったらどうです? 入り口の側じゃ暖房が行き届いていないでしょう」
 ようやく同じ席につくことを許されて、ワーネストはホッと吐息を漏らした。恩師を席の一つへと誘うと、自分もその隣へと腰を落ち着ける。やっとこれでスタートラインに並べたのだ。
「やれやれ。寒くなると昔痛めた膝が疼いて困るよ。この国は雨期に入ると急に冷え始めるからねぇ。老骨には堪えることだ。……寒さしのぎに一杯引っかけてもいいかね?」
 室内の大テーブルに並んだ人数はアッサジュ・パルダとワーネストを入れて六人になった。自分たち以外の四人の顔を見回すと、老人は無邪気な笑みを浮かべてボーイを呼ぶ仕草をして見せる。
「どうぞ。俺たちも丁度酒を追加したいと思っていたところだ」
 白い男、ガイストが目配せすると琥珀の瞳をした男が手元の呼び鈴を押した。実際に彼らが酒を追加したかったのかどうかは疑わしい。それぞれの手元にはまだ充分な酒が残っているように見えたから。
 ほどなくして先ほどのマスターが顔を出し、次々とあげられる注文を手早く確認すると表へと引っ込んでいく。扉が開いているときだけ、外の喧噪が聞こえてくるが、それ以外は室内はまったく静かなものだ。
「イフォーバ山からは宝物でも出てきましたか?」
「今のとこは何も出てきやせんよ。雨期に入ってしまったのでね。乾期になるまでは発掘作業は中断せざるをえん。まったくもって忌々しい雨だよ」
 同じテーブルについたものの話を切り出せずにいたワーネストは、アッサジュ・パルダと白い男の会話を横で所在なく聞いているしかなかった。
 他の男たちは会話に加わろうとはしない。それが自分たちを拒絶しているように感じて、ワーネストは胃が痛くなってきていた。この場所に恩師を連れてきたことは、やっぱり間違いだったのかもしれない。
 あまり待たされることなく注文した酒が届けられた。トレイを片手に入ってきた炎の麗人は顔色一つ変えることなく、注文主の前に酒を置いて立ち去っていく。取りつくしまもない態度とはこのことだろう。
 注文した蜜酒ミードを口に含むと、老教授は満足そうに顔をほころばせた。
「なかなか美味しい酒だ。寒い陽気のときには酒は心の友だね。この歳になると一緒に酒を飲んで語り合ってくれる友人も少なくなってきてねぇ。寂しいことだ」
 そのアッサジュ・パルダの言葉にガイストが小さな笑い声をあげる。それはバカにしたような高慢な笑いではなく、静かだが親しみのこもった笑い声であった。
 だが残りの男たちはその和やかな雰囲気に同調することなく、黙々と自分たちの酒を飲み干している。その彼らの態度にワーネストは自分のこれまでやってきたことが無駄に終わったのだと、内心ではガックリしていた。
 なんということだろう。ガイアに渡るためにこの数ヶ月、ツテを頼ってあちらこちらを奔走してきてきたというのに、最後の最後で自分の判断ミスから何もかもを潰してしまったのだ。
 隣で歓談する恩師を恨むのはお門違いだが、誰かに八つ当たりできるというのならやはりこの老教授に八つ当たりしたくなるではないか。
 鬱々と落ち込んでいるワーネストの耳に突然彼の名を呼ぶ低い声が届いた。驚いて顔をあげると、自分と同じ瞳の色をした男とまともに視線が絡まった。思わず息を呑み込んでしまった。
「え……?」
 毎朝、鏡のなかで自分の顔のなかにある同じ色の瞳を眺めているが、この白い男の瞳はどこか凄惨な輝きを放っているように感じる。右目だけしか見えないが、彼のもう片方の瞳も一緒に見ることだけは勘弁してもらいたいものだ。まるで死の淵を覗き込んでしまったような気分になる。
「出航は四日後だ。今日と同じ時刻に、この酒場で待っている。そこからシップまで案内しよう」
 相手が何を言っているのか、一瞬理解できずにいたワーネストだったが、それが自分が本来ここへ来た目的だったことを思い出すと、彼は隣の老教授に視線を走らせた。当のアッサジュ・パルダは相変わらずニコニコと笑みを浮かべてかつての教え子の顔を見つめ返しているばかりだ。
「あ、ありがとう。四日後の同じ時刻だね?」
 相手からの確約をもらえるとは思ってもみなかった。相変わらず周りの男たちはムッツリと黙り込んでいるばかりだったが、特に反対する気配はない。針のむしろの上に座らされるような航海になるかもしれないが、ともかく当初の目的を達したのだ。
「遅れるな。時間になっても現れなかったら、置いていくからな」
「その日は仕事を全部キャンセルして、寝坊しないように家中の目覚ましをセットしておくことを勧めるよ、ワーネスト」
 気楽に教え子の肩を叩く老教授が茶目っ気たっぷりのウィンクをしている。その顔にキスの雨でも降らしたくなったが、ワーネストはその馬鹿馬鹿しい行為を思いとどまると、亡霊の名を持つ男へと腕を差し出した。
「よろしく、キャプテン・ガイスト。えぇっと、報酬はあの額でいいということかな?」
「けっこうだ。もちろん、チップを弾んでくれるというのなら、断る理由はないがね」
 自分の掌を握り返してくるガイストの手は、亡霊という名とは反対に温かかった。ひんやりとした手の感触を想像していたワーネストはその意外な温もりに目を丸くして戸惑うばかり。
「清すがしき旅路を送らんことを」
 契約の成立を祝うように老教授が手元の杯を掲げた。
 恩師の言葉が、遙か昔に旅人たちの間で交わされた祝福の挨拶であることを頭の隅でチラリと思い出しながら、ワーネストはガイストに安堵の笑みを向けた。


 四日後、再び酒場へとやってきたワーネストはカウンターにいる見覚えのある人物の背中に釘付けになった。
「教授、ここで何をやっているんですか!」
 そう。大学時代の恩師アッサジュ・パルダ教授がのんびりとバーテンの若者を相手に蜜酒ミードの杯を傾けているではないか。
「やぁ、ワーネスト。時間よりも早いじゃないか。昨日は興奮して眠れなかったんじゃないかね?」
 ピクニックを楽しみにして寝つけなかった子どもと教え子を同列に扱う老人に、ワーネストが呆れた顔をして口をへの字に曲げる。だが当の老教授はまったく意に介していない様子で、酒のお代わりを若いバーテンに頼むと椅子の上でくるりと教え子に向き直った。とても老人らしくはない快活な動作だ。
 ふてくされる教え子の態度すらアッサジュ・パルダにはおかしな曲芸の一種であるらしい。陽気な笑い声をあげてウィンクをして見せる。
「若い人と話をするというのはいいね。刺激があって面白いものだ」
 呆れ顔だったワーネストが怪訝そうにバーテンを盗み見た。教授が今まで話していた若い相手とはこのバーテン以外にいないだろう。無表情で客に相槌を打ちそうもないこの若者相手にいったいどんな話ができたのか。
「どうぞ、教授」
 丁寧な手つきでアッサジュ・パルダの前に置かれたグラスのなかには鮮やかな泡混じりの琥珀色をした液体が入っていた。
「おや? ヴィーグ、注文したものと違うようだが?」
「あまりたくさんお酒を召しても身体に悪いですよ。そろそろ脳をシャッキリとさせないと。オレンジジュースを多めにしたスプラッシュです」
「私は満足に酒も呑ませてもらえないのかい?」
 さも哀しそうに首を振る老教授の肩越しに若いバーテンが薄い笑みをワーネストへと向ける。
 ワーネストはヴィーグの笑顔など一度も見たことがなかった。彼はこれまで幾度も足を運んでいるというのに。それなのにこの老人はたったの二度逢っただけでこの若者の心を掴んでしまったようだ。
「まぁいい。スプラッシュでもアルコールには違いないからね。さぁさぁ。ワーネスト、お迎えが現れるまでここに座って話し相手になってくれんかね?」
 自分の隣の椅子を軽く叩きながらアッサジュ・パルダはいつもの人懐っこい笑みを浮かべた。
「えらく軽装備じゃないか。他の荷物は現地で調達するのかね?」
 バーテンに自分と同じ飲み物を注文すると、老教授は教え子の格好をしげしげと眺めた。ワーネストは荷物を抱えているが、これから辺境惑星へ旅立つにしては随分と少なく見える。
 いったいアッサジュ・パルダの笑顔にどんな魔力があったものか、当のワーネストはそれまでのふてくされた気分を脇に押しやってのっぽの椅子に腰を落ち着けていた。
「着替えなんかはあちらで調達すれば充分ですからね。取材用のレコーダーや撮影機器さえあればなんとでもなります。未開の地へ行くわけじゃないですから」
「なるほど。それはそうだ」
 出てきたカクテルで互いに乾杯すると、二人はその香りと味をひとしきり堪能した。
 アーモンド風味のリキュール・アマレットとオレンジジュースをソーダ水で割っただけのこのカクテルは、優しい口当たりで意外と人気がある。決して酔わないとは言わないが、へべれけに酔うほどの酒でもないだろう。
 周りの喧噪とはかけ離れた、落ち着いた雰囲気が二人の周囲に漂っていた。その穏やかさをうち破る喧噪が彼らのすぐ脇であがった。
「ブルジョアがいったいこんな場末になんの用だよぅ~?」
「この哀れな貧者にお恵みを施してくれる、ってぇかぁ?」
 酔っ払ってすっかり出来上がっている二人の酔漢が老人の仕立てのいい上着の肩にぶつかってくる。アルコールだけではなくドラッグもやっているのか、彼らの白目の部分は黄色く濁っていた。吐く息は腐り始めた生ゴミよりもひどい匂いがする。
 酔漢たちは二人ともかなりがっしりとした体格をしていた。浅黒い肌には蛇や髑髏の入れ墨が覗き、身につけている衣装は善良な市民からはほど遠い、まるで戦闘服のような出で立ちだ。
 ワーネストは無視するように恩師の肘をつついたが、ほろ酔い加減のアッサジュ・パルダは人の良い笑みをその酔っ払いどもに向けて手まで振ってみせた。
「やぁ、兄弟。楽しんでおるかね? 今日は旅立ちにはとてもいい日だよ」
「きょ、教授!」
 絡まれているというのに、まったく暢気な顔をしている老人にワーネストは慌て、助けを求めるようにカウンターの向こうに立っているバーテンを見た。だが若者は涼しい顔をして静観しているだけで、助ける気などない様子だ。
「お~、じいさん。おれたちゃ、楽しみたいのよ」
「ものは相談だがよ~。あんたの懐のなかにある財布を少し軽くするお手伝いをしたいわけだなぁ」
 ゲタゲタと笑いながらカウンターに寄りかかり、アッサジュ・パルダとその連れを値踏みする酔漢の態度は傍若無人だ。ところがそんな無礼な態度さえ気にした様子もなく、老教授は相変わらず口元から笑みを消そうとしない。
「この薄給取りの老いぼれにはあんたがたの満足しそうなものは与えられそうもないがねぇ。あるのは長年貯めに貯めた知識だけだよ」
 にこやかな顔をしたまま拒絶してみせる老人の態度に酔漢たちがムッとした。怯えて素直に財布を寄越すか、怒りだして喧嘩になるかと思っていたのだが、まったく期待はずれもいいところだ。
「おいおい、じいさん。こんないいお召し物を着込んでいる奴が、おれたち貧乏人に施しもできねぇってワケはねぇだろ」
「そうだぞ~。その上着を質屋にでも入れて貧しき者に金を恵んでやろうと思わねぇかよ」
 ヘラヘラと笑みを浮かべているが、目を怒らせて酔漢たちがアッサジュ・パルダを取り囲んだ。こうなったら身ぐるみ剥がしてやろうというわけだ。
 様子を伺っていたワーネストが恩師の腕を引く。この状態になったら逃げるしかあるまい。なんとか相手を出し抜いて、この店からできるだけ離れなければ。
「よしなよ。お前たちの敵う相手じゃないよ」
 そのときになってようやくバーテンが口を開いた。氷色の瞳が冷ややかに二人の酔漢を見つめている。アッサジュ・パルダやワーネストに向けていた笑みを引っ込めた若者の瞳には凍りつきそうな軽蔑の色が浮かんでいた。
「あぁ~ん? ヴィーグ、雇われバーテンのクセして客に説教たれるんかよ」
「おめぇは黙ってろよぉ~」
 酔いにふらつきつつも不敵な笑みを浮かべる酔っ払いが床に唾を吐きかけた。その粗野な態度にますますバーテンの若者が冷たい視線を向ける。
「勝てやしないよ、お前たちは」
 ふてぶてしく酔漢たちを煽るバーテンの口調にワーネストは焦った。何も喧嘩をふっかけるようなことを言って、ますます自分たちを窮地に追い込むことはないだろうに。
「お~。それじゃやってもらおうじゃないか? えぇ? この老いぼれと優男におれたちをぶちのめす腕っ節があるってぇのかよ」
 酔漢たちが筋肉質の腕をかまえて上体をゆらゆらと揺らした。喧嘩慣れしているようだ。酔ってはいてもそう簡単にやられそうもない。
「お前たちの相手はこちらの二人じゃないさ。後ろを見なよ」
 顎をしゃくって店の入り口を示した若者の言葉につられて、酔漢の二人とそれに絡まれていた二人の客が同時に振り返った。
 その人影の周囲だけ、薄暗い店内にも関わらず異様な輝きに満ちているようだった。白い影のなかに一点だけ点った暗緑の輝きが凄惨な光を放つ。
 これまでの茶番を見ていたのだろう。不機嫌以上の怒りを滲ませたガイストの顔色に酔漢たちは口をあんぐりと開けたまま立ち尽くしていた。
「ご機嫌じゃないか。いったい俺の客になんの用だ?」
 低い、まるで獄界から聞こえてくるような暗い声に酔漢たちは縮み上がったようだ。口のなかでもごもごと声にならない言い訳をすると、こそこそと人混みのなかへと逃げ込んでいく。
「いらっしゃい、ガイスト」
 バーテンがサバサバとした口調で新たな客に呼びかけた。その声にようやく我に返ったワーネストは胸をなで下ろす。まったくヒヤヒヤするではないか。
 その原因を作った老人に視線を走らせたワーネストは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。アッサジュ・パルダはあっけらかんとした顔をしてガイストへと手を振っている。なんという気楽さだろう。
「あなたはずいぶんと強運の持ち主なのか、それともよほどの向こう見ずな性格らしいな。俺の到着が遅れていたら、鳩尾に数発喰らっていたかもしれないのに」
 のんびりとした様子の老教授にガイストが苦微笑を見せた。ワーネストと同じように呆れているのだろう。だが当のアッサジュ・パルダはまったく堪えた様子もなく、ニコニコと笑みを浮かべるばかりだ。
「でも君が登場してあっけなく幕切れだよ。元気かね、ガイスト?」
「ほんの数日前に逢った相手に聞くには陳腐な台詞だと思わないのかい、偉大な考古学者さん」
「おや。君に偉大だと認めてもられるとは嬉しいねぇ」
 太い指を優雅に蠢かせ、老教授は灰色がかった蒼紺の瞳を茶目っ気たっぷりに見開いてみせた。そのおどけた態度にガイストの笑みがますます深くなった。
「呆れるくらい楽天的な人だな」
「私の人生だ。私の思った通りに生きるさ。どうだね、君も一杯やっていかんか。急いで出航することもないだろう? 今のお礼に一杯おごらせてもらえるとありがたいんだがね」
 空席を指し示したアッサジュ・パルダに誘われ、ガイストがひょいとカウンターにもたれかかった。その様子を眺めていたワーネストは、彼の姿が薄暗い店内ではひどく絵になるような気がして感嘆の吐息をつく。
「ふ~ん。スプラッシュを呑んでいたのか。俺にも同じものをくれないか、ヴィーグ」
 暗緑の瞳をカウンター上に滑らせ、ガイストが注文を口にした。そのゆったりとした態度に老教授が人懐っこい笑みを浮かべる。たいそうご機嫌な様子だ。
「今日は教え子のお見送りかい?」
「そうとも。教え子の楽しい旅路を祝して!」
「宇宙嵐に遭遇して昇天する可能性ってのは考えてないらしいな」
「まさか! 君たちなら大丈夫さ」
 自信満々なアッサジュ・パルダの口調にガイストが喉を鳴らして笑った。その根拠のない自信はなんなのか、と。反対側の隣で聞いていたワーネストにしても、同じように苦笑を浮かべている。
「大丈夫だとも。君たちは放浪者の瞳を持っているからねぇ。ほら。君もワーネストも翡翠の翠よりも深い翠色の瞳をしているだろう? その瞳はね、昔から生粋の旅人の瞳だと言われているんだよ」
 どこか夢見るように話す老人の話の内容に、ワーネストは思わず恩師の肩越しにガイストを見た。相手もこちらへと視線を向けている。
 互いの顔のなかに暗い緑色を確認すると、その瞳に初めで出逢ったとでもいうように慌てて視線をそらした。
「君たちの前には常に新しい旅路が途を開けている。どんな困難があってもきっとそれらを切り抜けていけるさ。考古学で喰っている人間の間ではよく知られていることだ。この惑星の歴史のなかには常にその瞳を持った者が彷徨っているんだよ。……永遠の放浪者の瞳というんだ、君たちの瞳は」
 そういえばそんな話を昔に聞いたことがあったかもしれない、とワーネストは老教授の横顔を見ながら考えていた。いつもあちこちを彷徨っている自分には相応しいではないか。
「なるほど。一所に留まらない俺には相応しいな」
 アッサジュ・パルダの向こう側で低く呟いたガイストがふと遠くを見るように顎を持ち上げた。彼もまた、あてどもない旅路を行く彷徨い人なのだ。
「君たちは君たちそれぞれの旅路を往きなさい。今回はたまたまその途がちょっと交わっただけだ。だが二人の放浪者の往くところに旅の終焉などないだろう。きっとまた新たな旅路が待っている」
 まるで予言者のように二人の未来を示して見せる老教授にワーネストとガイストが同時に視線を走らせ、年老いた男の顔の向こうに旅人の瞳を持った者を認めてどちらともなく笑みを浮かべた。
「面白い旅になりそうだ」
 微かに笑いを含んだ声で囁いたガイストが、手元のカクテルを一気にあおった。乱暴な手つきであるにも関わらず、その動作は近寄りがたい威厳がある。まるで王のように堂々とした態度だ。
「行こうか、ワーネスト・トキア。出航だ」
 グラスをカウンターの上に戻すと、ガイストが新たな旅路への道連れに声をかける。気負いも何もない、飄々としたその声につられるようにワーネストが立ち上がった。
 その二人の男たちを見送るようにアッサジュ・パルダが椅子ごと振り返る。変わらない笑みを浮かべた老人の顔には、遙かな憧憬が広がっていた。
「汝、清すがしき旅路を送らんことを!」
 遠く昔から言い伝えられる旅立ちの言葉を贈ると、老教授は優雅な指の動きで彼らを送る。その自然な仕草には溢れんばかりの親しみが込められていた。
 店の戸口で振り返ったその教え子が、超然とした笑みを浮かべている恩師を振り返る。そっと手をあげて見送りへの謝意を示すと、あとは振り返ることなく扉から滑り出していった。
「お見送り、お疲れ様でした」
 アッサジュ・パルダの背後から年若いバーテンが声をかける。その若い声のなかにも自分と同じ遙かな憧憬が滲んでいることを認めると、考古学の権威と言われ続けている男は晴れやかに微笑みを返した。
「さぁ、ヴィーグ。残された者同士で語り明かそうじゃないか!」

終わり

〔 15146文字 〕 編集

タッシール紀 カサブランカ

No. 31 〔24年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE

 昔、俺の家の向かいの白い家に、貴族とは到底思えないじゃじゃ馬が住んでいたよ。
 顔は綺麗なほうだったが、性格は最悪だ。あれが俺の女に対する最初のトラウマだな。……あんな酷い女は他にいないと思ったもんだ。
 殴るわ、蹴るわ……。毎日ボコボコにされていたんだぞ。




 午前中の探検を終えて家の前に辿り着いた少年の前に、ほっそりとした影が差した。
「やいっ! へ~みん!」
(げっ! マリーア!)
 顔を見れば喧嘩をふっかけてくる五つ年上の少女だ。
 家柄は貴族だと言っていたが、名前ばかりで金がないのだろう。庶民の住宅が建ち並ぶ一角に屋敷を建てていたし、大して裕福そうにも見えない家だった。
「うるさいっ。なんの用だよ、キツネブタ!」
 あからさまにムッとした表情をした相手が剣呑な目つきで見下ろしてくる。
 そう。見下ろしてくる、と言うのが一番ピッタリだ。なんせこちらは来月ようやく六歳になるが、あちらはとっくに十一歳。
 眉間によせた皺しわがピクピクと痙攣けいれんしている。キツネブタと呼ばれて相当頭にきているらしい。
 少女の顔立ちは決して不細工な造りではない。やや細いつり眼で顎も尖り気味だが、ふっくらとした口唇や贅肉のついていない体格は少女らしい円まるさのあるものだった。まぁ、成熟した女性の円まるみとは明らかに違うが。
「このガキァ……」
 とても貴族とは思えない乱暴な口調で口元をつり上げた少女が小さな少年に向かって腕を伸ばした。
 深窓の令嬢には似つかわしくない日に焼けた肌が彼女の活発な性格を表しているように素早い動きだ。
 だが少年はそれ以上にすばしっこい。伸ばされた腕の下をかいくぐると一目散に家へ入ろうと駆け出していた。
「へんっ! 誰が捕まるか……よ?」
 捨て台詞を残した家に駆け込んでしまえば、自身の身は安全であったはずだが……。生憎と相手は素直に逃がしてはくれなかった。
「このクソガキ! いつもいつも生意気なのよ!」
 襟首を掴まれ引き倒されると馬乗りにのしかかられてボコボコに殴られる。
「ぎゃぁ~っっ!」
「参ったかっ、このチビ! 参ったなら、参ったと言え!」
 ポカポカと殴られながらも、降参するのが悔しいばかりに顔中傷だらけになってもついに謝りはしなかった。
「誰が参ったなんて言うもんかぁ~! ちくしょー! この男女ーっ!」
 子どもなりの最後の意地というものだろう。
 殴り疲れて自宅へと帰っていく少女の後ろ姿を、地面に転がったまま見送る少年の顔は土埃で真っ黒だ。
「うぅ……。ちくしょーっ! 覚えてやがれぇ~!」
 いつか仕返ししてやろう。ギッタギタに伸してやるのだ。
 そう思っている間に、少年は翌年には幼年学校へと編入して生まれ育った家から寮生活へと生活の場を移してしまった。




「あぁ、待っていたぞ。シュバルツァルト大尉。さっそくで悪いが、これから私の代理でアレン子爵の新築祝いパーティに行ってくれ」
 出勤早々に上司から呼び出され、何事かと出向いてみれば……。どこぞの貴族のボンボンが建てた新居の祝いに顔を出せと?
 しがない宮仕えの身分では断ることもできず、フリッツは不機嫌そうな表情で敬礼を返した。
「場所はアフトス地区β-1ブロックK-003番だ。……ご機嫌斜めだな、シュバルツァルト」
 上司が相手先の地図を書き記した紙をヒラヒラと振って意地の悪い笑みを浮かべた。
「いえ……別に」
「お前の貴族嫌いは相変わらずだな。まぁ、そうむくれないで旨い飯でも喰ってこい。どうせ向こうはお前が運んでいく祝い金が目当てなんだ。それに見合うだけのもの喰わせてもらってもバチは当たるまい?」
 退屈なデスクワークよりもマシだろう、と送り出す上司から仏頂面のまま祝儀の目録が入った封書を受け取ると、フリッツは公用の無音車サイレントカーに乗り込んだ。
 貴族は好きになれない。だが軍部が彼らの支持なくしては円滑に機能しないのも事実だ。勇猛で知られる軍とて動かしているのは人なのだから。
 不機嫌なまま乗り込んだ屋敷は豪勢で、真っ白な壁が眼に眩しい。
 案内された会場には貴族やその取り巻きの商人、軍関係者がウジャウジャと群れている。よくぞまぁ、真っ昼間から堂々とタダ酒を飲みにくるではないか。
 だが自分もその同類だと気づくとフリッツは自嘲的に口の端をつり上げて会場の片隅に避難した。もちろん、片手には好物のカクテル『ドッグノーズ』を忘れない。
 馴染めない雰囲気を外からぼんやりと眺め、外面ばかりにこだわる貴族たちの成金趣味な衣装を検分していくと、ふと鮮やかな深紅の布地の上に真っ白なオーガンジーの袖をあしらったドレスに身を包んだ女性と眼があった。
(……ん?)
 どこかで見覚えのある顔だ。どこで会ったのか?
 しっかりとした足取りでこちらに近づいてくる女の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
 不躾なほどに相手の顔を凝視していたフリッツは、相手が自分の目尻を指でつり上げてみせる動作に硬直した。
「マ……マ、マリーア・カサブランカ!」
 実家の向かい側に建つ白い洋館の住人。かつての自分の天敵が目の前に不敵な笑みを浮かべて立っている。
「久しぶりねぇ、フリッツ・ヴィスタス」
「マ、マリーア! なんであんたがここにいる!?」
 思わず後ずさる彼を追いつめるようにマリーアが婉然えんぜんと微笑んだ。子どもの頃にはなかった色気があるが、その顔の下にある強気な気性は相変わらずのようだ。
「あぁら、今日はうちの新築祝いだもの! 女主人がここにいるのは当たり前でしょ。ほほほっ」
「何ぃ!?」
 相手の高笑いに怯んでさらに後ずさるフリッツの側にマリーアがにじり寄ってきた。端から見れば恋の駆け引きでもしているように見えるのだろうが、子どもの頃の記憶を引きずるフリッツには蛇に睨まれた蛙のようなものだ。
「まさか、ア……アレン子爵夫人……?」
「おほほほっっ! そうですとも。おつむの悪いあんたもようやく飲み込めたようね」
 勝ち誇ったように笑う女の身体からは甘い柑橘系の香りが匂い立ってくる。
 子どもの頃もマリーアは決してお洒落をしないわけではなかったが、長い年月がやはり磨きをかけているのだろう。上質な絹で出来ているらしいドレスは彼女の黒絹の髪をいっそう引き立たせていた。
「まぁ、でもあんたが知らなくても仕方ないわね。わたしが結婚したのは十年前くらいになるけど、確かその当時ってあんた士官学校に入ったばかりで実家に顔を見せてないでしょ」
 壁に貼りつくフリッツに更ににじり寄るとマリーアがさも愉しそうに口元をつり上げた。
「それにしてもあのチビのフリッツ・ヴィスタスが随分と大きくなったものだわね。見違えたわよ」
 女の顔は見つけた獲物をどうやって料理してやろうかと思案している猟師のようだ。
「マリーア!」
 その女の向こう側から苛立った声がかかる。
「何をそんなところで油を売っている!」
 つかつかと歩み寄ってくる男の表情は怒りにどす黒く染まっていた。歪んだ怒りが体中から発散されている。
「私に恥をかかせるつもりか!?」
「あら、ステファン。すぐにそちらに参りますわよ」
 余裕の笑みを浮かべた女が振り返り、その視線の呪縛から逃れるとフリッツは大きく吐息を吐いた。
「フンッ! その男をお前のツバメにでもするつもりか?」
 さも軽蔑した視線をマリーアと自分に向ける男の態度にフリッツはあからさまに不快感を示す。
「なんだ、その生意気な眼は。軍人のくせに!」
 驕り高ぶった相手の態度にフリッツのこめかみに青筋が立つ。眉間の皺しわがいっそう深くなった。
「我々に飼われているくせに、人妻に手を出そうとするとは、なんて奴だ」
 上司の代理できていることも忘れて身体が動いたのは、その相手の一言を聞いた後だった。我慢ならない。
「フリッツ・ヴィスタス!」
 女の制止を振り切って、ふんぞり返っていた目の前の男めがけて突進する。
 相手が避ける間も与えずに、握りしめていた拳を相手の顎へと叩き込み、床に転がったところを蹴り上げようとした。
「止めなさい! フリッツ!」
 さらに大きな女の声にフリッツはようやく我に返って動きを止めた。恐る恐る殴りつけた相手を見下ろす。
 足下で転がっている男は殴られた拍子に口の中を切ったのか、口の端から血を滲ませていた。もはや後の祭りである。フリッツが公衆の面前で貴族を殴りつけた事実は消えない。
「フリッツ・ヴィスタス!」
 厳しい女の声に思わずフリッツは振り返った。いつの間にか目の前にマリーアが立っている。目をつり上げ、突き上げるように自分を見上げてくるマリーアの顔には先ほどの笑みは欠片も見えない。
 口唇を噛みしめる女からは憤怒の感情しか読みとれなかった。
 派手な音をたててフリッツの頬が鳴ったのは、彼が女と向かい合った次の瞬間のことだった。
 遠巻きに眺めていた招待客たちの間からどよめきの声があがる。
「マリ……」
 平手で打ち据えられた理由も判らずフリッツが抗議の声をあげかけると、マリーアはいっそう鋭い視線で彼を睨みつけてきた。
「よくもわたしの夫を殴ったわね。……許さなくてよ」
 フリッツの言い訳になど耳を貸す気は毛頭ないらしい。怒りに燃える女はそれでも女主人としての自覚があるのか、フリッツを無視して周りの取り巻きを見渡した。
「どなたか! この方を別室へお連れ願えませんかしら?」
 冷ややかな態度で軍関係者がたむろする方角へ声をかけたマリーアに応えるように、群衆の中から一人の軍人が進み出る。
「アレン夫人。小官がその役目、お引き受けしましょう」
 軍人にしては柔和な物腰と知的な瞳をした男だ。どちらかといえば、貴族的な風貌だろう。長く伸ばした黒髪や薄い灰色をした瞳、長身で細い体格は軍服よりも貴族たちの身にまとう衣装のほうが似合いそうだった。
「お願いしますわ、メルリッツ大尉」
 アレン夫人に恭しく腰を折って敬意を表すると、メルリッツと呼ばれた軍人がフリッツの腕を引いた。
「行こう。……さっさと退散したほうが身のためだぞ、シュバルツァルト大尉」
「どうして俺の名前を……」
 驚いて相手を見返すが、メルリッツは不可思議な笑みを小さく口元に浮かべるばかりでそれ以上取り合おうとはしない。
 そんな二人を後目しりめにアレン夫人は床に座り込んでいる夫の側に寄るとかいがいしく助け起こしていた。
 忌々しそうに舌打ちするアレン子爵が歪んだ表情のままフリッツを見上げる。
 メルリッツに引っ張られ、その二人に背を向けたフリッツに小さな声が届いた。
「……クズが」
 アレン子爵のものだ。再び湧き起こった怒りにフリッツが振り返る。その剣呑な光を湛えた琥珀色の瞳に子爵が思わずたじろいだ様子で後ずさった。
「行こう、シュバルツァルト」
 再びメルリッツに急かされてフリッツは今度こそパーティ会場を後にした。貴族を殴りつけてしまったのだ。その場に留まっていることなどできはしないだろう。




「無茶をする男だな、君は。まぁ、それが取り柄なのだろうが。……そうそう、彼女。アレン子爵夫人に礼を言っておきたまえ」
 フリッツを連れて屋敷の廊下を歩みながらメルリッツは小さくため息を吐いた。どうしようもない奴だとでも思っているのだろうか?
「なんで礼なんか言う必要がある? 平手打ちを喰らって礼を言うなんておかしいじゃないか!」
 不愉快そうに口元を曲げたフリッツの態度に今度は大仰にため息を吐くとメルリッツは立ち止まった。
「まだわからないのかね? まったく……もう」
 困った奴だと苦笑いを浮かべるメルリッツの態度にフリッツはますます不快そうに口元を曲げる。
「まぁ、ちょっと考えてみたまえ。彼女があそこで卿の横っ面を叩かなかったとしよう……。その後、君はどうなっていたと思うね?」
 同年代らしいメルリッツがいかにも生徒に語りかける教師のような態度を取るのでフリッツは面白くない。しかし問われたことには答えようとじっと考え込む。
「あ……」
 貴族とやり合った将校たちの処分は大抵は謹慎処分や降格処分などだ。その取り調べをする場所は……。
「憲兵たちと留置場ブタバコ行き?」
「まぁ、そんな所だ。……そんな散文的な言い方じゃなくて、もう少し言い方があると思うがねぇ」
 肩をすくめるメルリッツが急かすように再び歩き始めた。
「おい……。玄関はあちらだぞ。どこへ行くつもりだよ」
 てっきりこの屋敷から退散するものだと思っていたフリッツは玄関ホールとは別の方角へと向かうメルリッツに戸惑って声をかけた。
「こちらでいいんだよ。さっさとついてきたまえ」
 もうここまで来たら破れかぶれだ。憲兵に連行されるのが早いか遅いかの違いだろう。降格処分か……あるいは左遷か。どっちにしろ明るい未来は待っていない。
「……で。彼女に礼を言う理由だがね」
 一つの扉の前で立ち止まったメルリッツがドアノブに手を掛けて振り返った。
「あの場で君を叩いたことで周りの人間は気勢を削がれ、憲兵を呼びにやることも忘れてしまったわけだが。それ以外にも、あの平手打ちで夫の面子めんつも守ったわけだよ」
 言っていることが判るか? と首を傾げるメルリッツの態度がますます教師じみて見え、フリッツは不機嫌そうな表情になった。
「俺を公衆の面前で叩くことがどうして夫の面子めんつを守ったこ……あ!」
 ふてくされていたフリッツにもようやくマリーアの行為が及ぼした効果を理解したようだ。
 本来なら自分よりも身分の高い貴族を殴りつけたのだ。すぐさまその場で憲兵に引き渡されていただろう。それが未だに自由の身でいられる理由がもう一つある。
 たとえ貴族とはいえ、女のマリーアが大の男を打ち据えたのだ。普通なら公衆の面前で殴られた男のほうは屈辱で怒り狂っているはずだ。
 彼女の幼なじみで相手の気性をよく知っているフリッツならばこそ、打たれても大騒ぎしなかっただけの話で、本当ならもっとややこしいことになっていた。
 彼女は怒ったフリをして、二人の男の面目を保ったわけだ。
 メルリッツはフリッツの様子を確認すると、真新しい扉を押し開いてフリッツを室内へと誘いざなった。
 入った部屋は趣味の良い応接間のような場所だった。
 たぶん出入りの商人などとの商談に使われるものなのだろう。玄関ホールからそれほど離れていないし、屋敷の奥部からはまだまだ遠い位置にあるようだ。
「大した女傑だと思うがね。たったあれだけのことであの場を納めてしまったのだから」
「あぁ……確かにそうだ」
 かつてのマリーアは自分の感情に任せて相手を振り回すだけの少女だった。それがいつの間にか計算高い女になっている。
 落ち着かない様子で窓際に佇んでいるフリッツとは対照的にメルリッツは優雅に足を組んで応接セットのソファに腰を降ろしていた。
 これからどんな目ににあうのか判らないフリッツには、彼の悠々とした態度は忌々しいばかりだろう。
 サラサラと柔らかな衣擦れの音が廊下の方角から聞こえてきた。
 扉を振り返り、無意識のうちに身構えていたフリッツの視界に深紅の色彩が踊る。屋敷の女主人の登場だ。
「ありがとう、メルリッツ大尉。助かりましたわ」
 いつの間にかソファから立ち上がっていたメルリッツが優雅に腰をかがめる。
 そつなくなんでもこなしそうな、この器用な男にフリッツは不機嫌な視線を向けたが、自分に近づいてくるマリーアに気づいて彼女へと向き直った。
「どうやら少しは落ち着いたみたいね」
 目の前に立った彼女はよく見れば自分の肩ほどの身長しかない。昔見上げるようにして睨み合っていたときにはなんという大女かと思ったものだったが……。
「マリーア……」
「短気なところはチビの頃と変わらないわね。本部へ帰ったら、上司から大目玉でしょうに」
 サバサバとした態度は昔と変わっていない。しかし強したたかに振る舞う彼女の行動はやはり年齢を重ねた重みがあった。
「あんたは随分と変わったよ、マリーア」
 ムスッとした表情で受け答えるフリッツにマリーアが目を瞬しばたたかせる。そして心外だと言わんばかりに目を見開いた。
「変わった? どこが?」
 あまりにもあっけらかんとしている彼女にフリッツは脱力しかかる。まるで自分の変わり身には頓着していないようだ。
「ねぇ、フリッツ。私の平手打ち、まだ痛いでしょ?」
 ニッコリと悪戯っぽく微笑むマリーアの瞳には悪意や雑念がまったくなかった。
 その二人のやり取りを見守っていたメルリッツが小さな笑い声をあげる。そのメルリッツとフリッツの視線が絡み合った。戸惑った表情のフリッツにメルリッツはさらに笑い続ける。
「それとも……もう全然痛くないの?」
 首を傾げ、二人の男たちを見比べていたマリーアがジロリと長身のフリッツを見上げた。
 その女の態度にフリッツはようやく笑みを漏らす。そうだ。昔の彼女の平手打ちはたいそう痛かった。今でもその勢いは衰えてはいない。
「あぁ……。あぁ、まだズキズキするよ」
 それ見たことかと胸をそらすマリーアの態度に男たちは再び笑い声をあげた。
 いじけたり怒っているのもバカらしくなってくる。彼女の根っこは変わってはいない。マリーア・カサブランカはそれ以外の何者でもないのだ。
「さぁ、その頬の腫れが引くように冷やしタオルを持ってこさせるから、頃合いを見て、堂々と正面から帰りなさいよ。……いいわね?」
 当然だという口調で命令するとマリーアが扉へと歩きかかった。その歩調がふと止まる。
「メルリッツ大尉。申し訳ないけど、もう少しだけこの不肖の弟分につき合って頂けるかしら?」
 再び恭しく腰をかがめて了承の意を伝えるメルリッツに頷き返し、マリーアがフリッツを振り返った。
「ステファンとのことはお互いに痛み分けよ。判っているでしょうね、フリッツ。……ホントに男って世話が焼けるんだから!」
 ブツブツと不平をこぼしながら部屋から出ていく彼女を見送り、フリッツは苦笑いを浮かべた。ふと叩かれた頬を撫でてみる。小さな痛みはあるが、それは不愉快なものではなくなっていた。




 え……? それは初恋だったのかって?
 ……いや。ちょっと違うぞ、それは。あれは初恋じゃない、と思う。
 たぶん久しぶりにあった姉が、やっぱり昔と変わってなかった……と確認したような。……そう、そんな感じだ。今でもマリーアは苦手なんだから。
 あぁ、判った判った。今度会わせてやるから。
 しかし……未だに『白き聖母マリーア・カサブランカ』と聞くとゾッとするんだよ。あれは悪魔の呪文だ。
 俺が女が苦手なのは、絶対にあのマリーアのせいだと思うぞ。
 何を拗ねてるんだ。俺が言いたかったのはだな……。
 あぁ、めんどくさい。だからこんなことを聞かせるつもりはなかったんだ。まったく、これだから女ってやつは……。
 判った。判ったから機嫌を治せって。悪かった。別にお前を嫌いだなんて言ってないだろう。俺の昔の話を聞きたがったのはお前の方じゃないか。
 ……頼むよ。機嫌治してくれよ。
(あぁ、だから女はよく判らなくて苦手なんだよ。どうしてプロポーズなんかしたのか、未だに大いなる謎だ!)

終わり

〔 7963文字 〕 編集

タッシール紀

No. 30 〔24年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
キャプテンガイスト [02]

 スペースシップ内部のドックはひどく閑散としていた。
「少しはこちらの身にもなって欲しいですよ。もう少し味方を集めてから乗り込んだほうが有利でしょうに……」
 刺々しい口調で不満を漏らす者はまるで影のようないでたちをしている。腰まで伸ばした長い黒髪に冷たい星空のような瞳、そして真っ黒なタートルネックのスペースノーツ用のスーツ。
 平均以上の身長の割に身体はひょろりとして見える。黄色人種系特有の顔立ちであったが、決して童顔というわけではない。たぶん幾つもの民族の血が流れているのだろう。
 その黒い男に対峙しているのはまだ十代であろう娘一人だった。
 苦笑いを浮かべて相手を見上げる瞳は蒼と紅のオッドアイ。褐色の肌に光り輝くブロンドの髪は見る者の瞳を焼くほどの眩さを放っている。
「時間がないのよ、時間が! それくらい判るでしょ、ケルタリオン」
 歳不相応な大人びた表情の娘が、相手を諭すように答えた。目の前の相手はどう見ても三十歳前後であろうに。
「しかしですね、サリアルナ……」
「いい加減におしよ、リオン! サリアルナが時間がないって言っているじゃないか。あたしたちにできることをやるしかないんだよ」
 二人の会話に割り込んできた声は苛立ちを含んだものだ。
 ドックの出入り口を振り返ると、一人の女が立っているのが見えた。しかし……その容姿は……。
 ケルタリオンの目の前に立つ娘とほとんど同じ姿形をしているではないか。
 激しい輝きを放つ金髪に褐色の肌、大人びた表情に仕草……唯一違うのは、片方は蒼と紅のオッドアイなのに対して、片割れは夜明け前の空の色に似た紫紺の両瞳を持っている。
「まったく男のくせにグダグダと……。その肝っ玉の小さなところをなんとかおしよ! みっともないったらありゃしない」
「アルタミラン……。お前こそ、そのはすっぱなしゃべり方をなんとかしろ! それじゃあサリアルナの影になっている意味がない」
 不機嫌な顔をさらに不機嫌そうに歪めて、ケルタリオンと呼ばれた青年がうなった。
「ハンッ! 男も女も見境なくがっついてる奴がよく言うよ! あたしは口が悪いだけで済むけど、あんたの手癖の悪さは頂けないね“アスモデウス”」
「それは仕事だ!」
「どうだか。プルトンの裏通りで男のケツをなで回すような奴の言うことを信用できるもんかぃ」
「お前どこからそれを……」
「フンッ! やっぱり身に憶えがあるんじゃないか」
 鼻を鳴らしながら二人に近づいてきたアルタミランと呼ばれた女は冷めた視線を男に向けたあと、娘に恭しく腰をかがめて微笑んだ。
 まったく対極にあるその態度にサリアルナが苦笑する。
「相変わらずね、あなたたちは。ところで見送りにきてくれるとは思っても見なかったわよ“ベルゼブブ”」
「おや、失礼ね。あたしが見送りにきちゃいけないのかい? まぁ、純然たる見送りじゃないから、文句も言えた義理じゃないか。……ほら、これを“アスタロト”から預かってきたのよ。“女王クィーン”のタワーに入る前に見ておいてちょうだい」
 聞き比べれば違いが判るが、別々に聞いたら女たちの声は同じものに聞こえたことだろう。それくらいに二人はよく似ていた。
「“アスタロト”だと? あいつがいったい何を寄越したんだ」
 黒目がちな鋭い視線をアルタミランへと注いだケルタリオンは、目の前にある預かりものだという包みに手を伸ばそうとした。
 その手をアルタミランがはたき落とす。
「気安く触るんじゃないわよ。これはあたしが個人的に預かってきたものなんだから。ガイストから直接サリアルナに手渡すよう言づかってんだよ!」
「怪しげなものを直接サリアルナに渡すほうがどうかしているだろうが! それともお前が検分したのか、アルタミラン!」
「必要ないね。ガイストはサリアルナに心酔してる。彼が直接渡せと言ったからには、それなりの必然性があるんじゃないのかい? あいつはそういう男だよ」
「大元が連邦の保安官だったような奴だ。私たちとは一線を画すべきだろう!」
 堂々巡りを繰り返しそうな二人の言い争いをため息混じりに見守っていたサリアルナが、ふと表情を引き締めた。薄く細められた両目に鋭さが増す。
「……来たわ。二人とも下がってちょうだい」
 娘の低い声にハッと我に返った二人が辺りを見渡した。なんの変化も感じられないのだが……。
「向こうにあなたたちの姿を見られたくないわ。下がって! 見送りはここまでけっこう!」
 サリアルナの声に残りの二人が慌てた様子で物陰へと飛び込んでいった。ガランとしたドック内にサリアルナ一人の影が佇む。
 小型艇ばかりで、大型船が一つも並んでいない構内はまったく寂しい限りだった。こんな廃れた宇宙艇のドックにいったい誰が来るというのか。
 無の空間であるはずの場所から、一瞬煌めきが放たれる。それを確認しようと目を凝らすと、今度は渦巻く光の輪が出現した。
「供も連れずにきたのか、ゴゥトの娘」
 光輪のなかに人影が見える。若い男のようだった。血色の髪が淡い光のなかでもクッキリと浮かび上がっている。
「朱あかの近衛殿ですわね? まさか“女王クィーン”の側近であるあなたが直々にここに姿を現すとは……」
「誰もお前を迎えに来たがらなかっただけの話だ。……どうする? 本当に来るのなら、陛下の周りの人間はお前を目の敵にするだろう」
 抑揚の少ない声には人間味のある感情はまったく読みとれず、淡々と話をする男の態度には好意も敵意もなかった。
「行きますわ。私の血にはゴゥトと同じだけカーヴァンクルの血も混じっているんですからね。陛下の治めるニケイヤの門扉をくぐるまでは帰る気はありません」
「良かろう。ならば陛下の元まで先導しよう。……座標はβ*-00。10分だけ待つ。それ以後はこの座標も消滅させるぞ。我々についてこれない者を陛下の領域に入れるわけにはいかんからな」
「了解!」
 娘の応答を確認すると光の輪と朱い人影は一緒に消え失せた。
「サリアルナ……!」
 背後の闇からの声に一瞬だけ振り返った娘が、小さく口元に笑みを浮かべる。しかしすぐに走り出すと、そのまま目の前に鎮座している小型艇へとよじ登っていった。
 上部のハッチを開け、船内に滑り込もうとしたその瞬間、船体の下で見送る二つの影に小さく手を挙げて別れの挨拶をする。
 それがお互いの間でもっとも相応しい別れ方だとでも言うように。
「“乙女ドウター”! 出航するわよ! エンジン出力最大! 座標位置はβ*-00!」
 彼女の声に反応して小型艇が振動を始めた。どうやら人工知能を組み込まれた船のようだ。程度の差はあれど、多くの船体に組み込まれ始めた技術はこの小型艇でも充分に機能しているらしい。
 滑らかな動きで小型艇“ドウター”は上昇を開始した。そしてドックの天井いっぱいまでその高度をあげると不意に消失し、地上からその様子を伺っていた二人の視界から完全に見えなくなってしまった。
「時空間移動に移ったな。この短時間で船体のエネルギーを最大にできるとは……相変わらずサリアルナの腕は大したものだ」
「当然さね。それでこそあたしたちの主だろう。……さて。“神ゴッド”と“女王クィーン”の戦いにどうケリがつくのか見物だねぇ」
「見物だと!? 何を悠長なことを! 勝ち馬に乗らなきゃ損だろうが。サリアルナが“女王クィーン”の元へ行ってしまった以上は、“神ゴッド”側への工作は私たちだけでやらなきゃならないんだぞ!」
「まったく、ぎゃあぎゃあとうるさいねぇ。“女王クィーン”側の工作を一人で受け持とうってサリアルナに比べたら可愛いモンじゃないかい。……さぁ、行くよ! サリアルナがいないときを想定して、あたしは自分自身をこの姿に作り替えたんだからね。あんたもちったぁ協力しな!」
 胸をそびやかしドックを後にするアルタミランの後に続きながら、ケルタリオンはいつも通りの不機嫌そうな顔を引き締めていた。


 コンソールパネルで正確な座標を確認すると、サリアルナはホッと安堵の息を漏らした。相手が指定した時間内には充分に間に合う計算式が弾き出されたのだ。
「第一関門はクリアってところね。……そうそう。忘れるところだったわ。ガイスト、いったい何を寄越したのかしら?」
 先ほどアルタミランから手渡された包みを素早く剥ぎ取ると、なかの箱の蓋を開けてみる。
「……ピアス?」
 真綿にくるまれるように納められていたものは、虹色の淡い輝きを放つオパールのアクセサリーであった。
「どういうことかしら? ガイストがわたしにピアスをくれるなんて? しかも天然石じゃないわね、これ。人工オパールを寄越すなんて全然らしくないわ」
 サリアルナはしげしげと見つめていたが、思いきって手にとってみた。
 直径が八ミリ近くあるオパールの粒はウォーターオパールと呼ばれるタイプのもので、半透明の石のなかではありとあらゆる光が閉じこめられているように、光の粒子が踊っている。
 じっと見つめているサリアルナの手のなかで、そのオパールが一瞬だけ赤光を放った。
「……!?」
『サリアルナ……? 出発したんですね?』
 微かな囁き声にサリアルナは目を見張った。宝石が喋っているではないか!
「その声……ガイスト? いったいどうやって?」
『昨日お見せしたパラライトの筒と同じ原理です。人体の表皮温度とあなたの声の波長によって通信スイッチが入るように……』
「そんなこと聞いてないわ! いったいどうやって通信させているの!?」
 サリアルナの動揺した声にオパール石の向こう側から小さな笑い声が漏れ聞こえた。ガイストが笑っているのだ。
「ガイスト!」
『すみません。でもオレが昔何をやっていたのか、ご存知でしょう?』
「保安官時代のこと? ……あ。囮専門の捜査をしていたわね、確か」
 眉間に皺を寄せてじっと考え込んでいた娘が納得したようにため息を吐いた。どうやら思い当たる節があったらしい。
「あなたタッシールの衛星軌道上にあるスティルスシーカーにハッキングしたわね!? そんなこと“女王クィーン”に知れたら、タダじゃ済まないわよ!?」
『承知しています。でも“ノイエス”にいるあなたと連絡を取るには、この方法しか思いつきませんでした。他の通信方法では邪魔が入る……』
「だからってこんな無茶なことしないで!」
 悲鳴混じりのサリアルナの声に再びガイストが小さな笑い声を漏らした。
『今回ばかりは聞きませんよ。母親と親友に裏切られて、ボロボロになって死にかけていたところを助けてもらった恩……これで返せるとは思いませんが、孤立無援の場所にあなたを独りにしておくことはできないでしょう?』
「……バカね。わたし、そんなに頼りないかしら? 皆ちっとも信用してくれないわ」
 乱れた髪を掻き上げながらサリアルナは苦笑した。いつもは強気に光る瞳が、ふと一瞬だけ翳る。
『信用していますとも。でも相手は“女王クィーン”です。“神ゴッド”の娘でありながら、反旗を翻した者がいったいどういった振る舞いをするか……。それを心配しているんですよ』
 宝石から漏れ聞こえる囁き声にサリアルナがそっと瞼を閉じて口元を歪めた。
「わたしも無事では済まない、と? それでも行かなければならないわ。わたしの下についている者たちのためにも……兄さんのためにも……。皆を守るために権力ちからがいるわ。それを手に入れるまでは……」
 言葉の最後は空気に溶け、ガイストには届かなかっただろう。だがすべてを察しているのか、通信機の向こう側から再び囁き声が漏れてきた。
『それも承知しています。だから手伝わせてください。オレではあなたの兄代わりには不足でしょうけど……』
「……ありがとう」
 ふとメインパネルに映し出されている暗闇の空間に銀色に輝く惑星を見上げ、サリアルナは小さく微笑みを浮かべた。
 あの惑星ほしの上にこそ自分の帰るべき場所がある。いつか、必ず帰って行くのだ。
 電子音がコントロールルームの空間を満たしたのは、彼女が僅かばかりの感傷に浸っているときだった。
「……! 目的の空間に入るわ。ガイスト! 通信を切るわ」
 彼女の顔が今し方の穏やかな表情から険しい顔つきへと変貌した。
『了解。“ノイエス”に入ったら、自室が与えられるはずです。そこのルーチンコンピュータにこの通信機をチップとして埋め込んでください。“ノイエス”の周波数を分析してその水面下で通信ができるようになりますから……』
「まったく……。さすがは一流の闇バイヤーだわ。そのハッカーの腕、保安官として使われなくて良かったわよ」
 呆れてため息をついたサリアルナを残して通信は切られた。
 その一瞬の静寂を無視して、新たな通信音が彼女の耳朶を打つ。
『ようこそ、ゴゥトの娘。これより我らの王が治める領域に入る。ここから先は我々の指示に従え。でなければ、この領域を航行することは不可能だ』
「了解。指示をどうぞ」
 無機質な声に応じるとサリアルナはいっそう表情を引き締めた。
 未知の空間へと足を踏み入れていくにも関わらず、この顔つきは好奇心と野心に輝いて見えた。


「キャプテン! 出航準備オーケーです!」
 背後からの呼び声に振り返れば、古株の船員クルーが緊張した表情で立っていた。
「了解。積み荷は大人しくしているか?」
「はい。筋弛緩剤を調節して打ってありますからね。……目的地まで自由に動くこともできないでしょう」
「判った。だが見張りは怠るなよ」
 部下が頷いて出ていったあと、彼は大儀そうに椅子から立ち上がった。ふと机の上に転がっていたカードを手に取ると、そっとその表面を撫でる。
「サリアルナ……」
 低い呟きを聞く者は誰もいない。それでもその声を聴かれることを恐れるように、ガイストは口をつぐんだ。
 荒々しい通信音が部屋に響いたのは、その一瞬の沈黙の後だった。
 慌ててカードを胸ポケットにねじ込むと、パネルを操作して通信を繋ぐ。
「Yes?」
『ガイストか? 私だ……』
「アスモデウス……。何の用だ? オレはこれから“ガイア”に向けて出航するところなんだけどな」
 卓上の通信ボードに浮かんだ人影にガイストは薄く笑みを浮かべて見せた。そろそろ何か言ってくる頃だとは思っていたが……。
 珍しく苛立っている様子の相手に、日頃の溜飲を下げた感がする。
『サリアルナに渡したものはいったい何だ! 私の目を盗んで何を企んでいる、貴様!?』
「別に何も企んじゃいないさ。心配ならサリアルナにでも訊いてみな。それよりも早く出航させてもらえないかな? “神ゴッド”からの依頼の品物を早いところ届けないといけないんだ」
 あえて答えをはぐらかし、相手の苛立ちをいっそう煽ってみる。多少の意地悪くらいは許されるだろう。
『“神ゴッド”だと!? いったい何を持っていくつもりだ!』
 苛立った相手の声に再び笑みが漏れた。だがそうそう相手をはぐらかすこともできまい。相手は充分に自分に不信感を持っている。これ以上はお互いの益にならないだろう。
「実験体だ。いつもの“神ゴッド”の気まぐれだろ?」
『実験体……? そんなものここ最近仕入れてないはずじゃ……』
 思い巡らせている相手の様子に、ガイストは冷たい微笑みを向けた。冷酷この上ない表情には、サリアルナと対していたときの穏やかさは抜け落ちている。
「いたさ。“プルトンサイドウェイ”で一人仕入れたじゃないか。お前が玩具にしていただろう?」
『ゴロツキどもに追われていた女か?』
 通信ボードの人影が片眉をつり上げた。その眉の下の黒い眼まなこが忌々しそうにこちらを睨んでいる。
「そうだ。その女だ。まさか……気に入っていたなんて言わないよなぁ、ケルタリオン?」
『……ふん。行きづりの女じゃないか』
「それを聞いて安心したよ」
 冷たい言葉の応酬にふとガイストが視線を在らぬ方角へと向けた。暗緑の瞳が鋭く時計の文字上を滑っていく。
「時間が迫ってきた。悪いがここまでだ。“ベルゼブブ”によろしく伝えてくれ」
『なんで私がアルタミランへの言づてを頼まれなければならないんだ! お前が自分で伝えてこい!』
 未だに相手は苛立ちが収まっていないようだ。いつもは冷酷な横顔しか見せないというのに、今回のことでは随分と脆い一面を見せたものだ。
「ケチ臭い奴だな。昔のパトロンのよしみじゃないか。それにアルタミランとは従姉妹なんだろう。
 ……まぁ、いいさ。航行中にでも連絡をとってみるから。掴まえるのは骨が折れるだろうけど」
 あからさまにムッとした表情になった相手にチラリと視線を走らせるが、出航時間が気になるのか、ガイストはそれ以上の言葉の応酬を避けるようにすぐに視線を外した。
「じゃ、オレは行くからな」
 慌ただしく上着を羽織り、幾つかの通信機器とIDカードを机の上から掴み上げる。いつも通りの慣れた仕草だ。
『……私たちを裏切ったら、殺してやるぞ。判っているんだろうな“アスタロト”』
 背を向けかけていたガイストは、その絶対零度の声に肩越しに振り返った。
 だが相手の声に答えを返すことはなく、小さく鼻で笑うと何事もなかったように部屋を後にしたのだった。


 彼女はいつか必ず自分を光のもとへと帰してやると言った。
 だがそんなことは不可能だろう。
 すでに自分の両手は真っ赤な血に染まってしまっている。今更どうやって過去の栄光の日々へと帰っていけというのか。
 どだい一度闇へと堕ちた自分には無理なことなのだ。
 実母と親友に裏切られたあのとき……。妹を助けてやれなかったあのとき……。自分の心は光のもとでは死んでしまったのだ。
 再び息を吹き返したというのなら、それは闇に染まることを覚悟して目を覚ましたからなのだ。
 もう戻れない。妹は輝かしい栄光に包まれて立つ自分の姿だけを信じていたはずだ。彼女はこんな自分を望みはしなかっただろうが……。
 そのたった一人の妹を……母は見捨て、親友は汚していった。
 自分たち兄妹を見捨てていくのなら、そのまま捨て置いてくれれば良かったのだ。何も妹をめちゃめちゃにしていくことなどなかった。
 自分たちだけで生きていく算段くらいつけていけたのだ。
 それなのに……。
 物思いから覚め、船橋ブリッジを見渡すと、船員クルーたちはそれぞれ配置につき終わっているのが確認できた。
 そっとため息を漏らした後、ガイストは暗緑の瞳をメインスクリーンへと向けた。赤外線で照らし出された港内には、大小取り混ぜたスターシップたちが所狭しと並んでいる様子が見える。
 いくつかの船はこちらの船と同じように間もなく出航するのだろう。こちらも管制塔から許可が下り次第出航できるようになっている。
「遅いな、タワーの連中は……」
「つい今し方、外周航路にいた輸送タンカーとどこかのイカれた個人艇が衝突したとかで、その撤去作業の間は出航するなと連絡が入ったらしいですよ。すぐに終わるでしょうけど……」
「どこのバカだ、タンカーに突っ込んでいくなんて」
「さぁ? どうせろくなもんじゃないでしょ」
 通信官との会話にガイストは口元を歪ませた。
 ろくなもんじゃない、と言っている自分たちはいったいどれほどの者だと言うのだろうか?
 両手を血に染めて生きている自分たちの末路など、タンカーに突っ込んでいくよりも酔狂なものだろうに……。
 闇のなかに降り立って復讐を誓った日から、いったい何年経っただろうか?
 自分を蹴落として出世していった親友の心臓に憎悪の刃を突き立てからは……?
 実母とその情夫がベッドでよがっているところにマシンガンをぶち込んでやってからは……?
 どれもこれも昨日のことのように覚えている。もちろん、冷えたコンクリートの上で冷たい骸となっていた妹の死に顔も……。
 自身の死の恐怖と妹の死による狂乱から、この髪は色が抜け落ちてしまった。
 自分の髪でもないのに、妹はいつも兄の漆黒の髪を自慢していたというのに、まるで妹の死の道行きへの供をしたかのようだ。
「そうだ。外宇宙に出たらJumpの前に“ベルゼブブ”の旗艦を探してみてくれ。見つかる確立は低いと思うが……」
「了解」
 淡々と答えを返してくる部下たちの様子には、自分が今抱いていた一瞬の感傷など伺うことはできない。
 自分自身でさえ、ヴェールの奥に感情を押し殺しているのだ。彼らだとて他人に見せない闇をその身体のなかに抱えているだろう。
 すべての復讐が終わり、血みどろになっている自分の姿を許した者は、サリアルナだけだった。
 復讐のために講じたあらゆる手段を、彼女だけが黙って受け止め、飲み込んでくれたのだ。同じように闇に墜ちた者たちでも、自分を許しはしなかったというのに……。
 死んでしまおうとさえ思っていた自分の手を取った少女の温かい掌を今でも感じることができる。
 同情の笑みも侮蔑の視線もなしに自分を見つめるオッドアイに助けられなければ、自分はいったい今頃どうなっていただろうか?
『We made have waited.』
「お、来た来た!」
 管制塔からの通信音声に船員クルーの間から安堵の声があがった。
 いつまでもジリジリと待たされるのは嬉しいものではない。出港時の緊張はベテランでも新米でも変わりはないのだ。
『All green!』
「O.K! All green! Please,Open the gate!」
 管制官の声にガイストは、いつも通りの答えを返した。そして相手からも同じように答えが返ってくるはずだ。
『O.K. Gate Opens! Good luck your travel.』
「thanks. ……Engine maximum!!」
「Aye,captain!」
「Aye-aye,sir!」
 変わらない言葉の応酬に船員クルーたちも同じように応じてくる。何百回と繰り返してきた出港時の光景だ。
 安全を約束された航海などない。この航行がもしかしたら最後になるかもしれない。いつもそう思い、部下たちの働きを見守ってきた。
 今回もそうだ。ましてや“神ゴッド”の領域である“ガイア”へと向かうのだ。“女王クィーン”の統べる“ノイエス”と大差のない荒れた航海になることは間違いない。
 赤外線が描き出した建物や船たちの影がジリジリと後方へと流れ去っていく。
 再びこの惑星に帰ってくることを願いながら、ガイストは胸ポケットに納められた通信カードをそっと押さえた。
 再び失うことの恐怖に比べたら、地獄への航海だとて可愛いものだ。
 この航海の果てにある“神ゴッド”の領域へと入ったら、ガイストはあらゆる場所にハッキングを仕掛けるつもりでいた。
 暗黒を支配する両陣営が滅びようが繁栄しようが、自分にはどうでもいいことだ。
 しかし片方の陣営にはサリアルナがいる。彼女の氏族長であるゴゥト公の命によって、人質同然の待遇で派遣されたのだ。
 彼女がいる場所が安全であるはずがない。
 そんな彼女を救う力など今の自分にはないのだ。
 その現状を少しでも打破するためなら、あらゆる情報を集めてやろう。それが神聖不可侵と恐れられる“神ゴッド”だろうと、恐怖の女神と呼ばれる“女王クィーン”だろうと知ったことか。
 他の誰のためでもない。自分自身のためだ。
 自分のなかに残る最後の希望の火を消さないために、さらなる血の道をいくのだ。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 小さく口ずさむガイストの歌声に、いつのまにか船員クルーも一緒になって歌い始めていた。
 どの顔からもその歌にかける想いなど見えてきはしない。だが彼らの小さな歌声はいつまでも止むことがなかった。
 惑星の周回軌道から徐々に高度をあげ、母星は靄に包まれたような淡い輝きを放つだけの存在となっていた。
 だがそのヴェールの下には残酷なほどの狂気が潜んでいるのだ。惑星ほしに棲む者ならば、誰もが知っている荒れ狂う堕落と頽廃とともに……。
 惑星タッシールは眠らない。
 不夜城の人工光を宇宙にまで放ち、あざとく輝き続けるこの惑星ほしが眠りにつくとしたら、それはきっと滅び去るときだろう。

終わり

〔 10169文字 〕 編集

タッシール紀

No. 29 〔24年以上前〕 , 短編,SF , by otowa NO IMAGE
キャプテンガイスト [1]

 惑星タッシール。宇宙空間世界の生命生存地帯でこの名は富と権力の象徴である。だがそれは腐敗と堕落、そして混沌の巣窟でもあった。
 光が深いほどに闇が濃いように、闇に蠢く者どもがあざとく咲き狂う星は、このタッシールをおいて他にない。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 物騒な歌を口ずさみながら長身の男がネオン街を歩いていく。
 飄然という言葉がさり気なく似合男だ。ざわめきが路地裏から湧き、まとわりつくように男のまわりに拡がった。
「助けて……!」
 夜のネオン街には不釣り合いな女が男の腕にしがみついてきた。その女を追ってきた男たちが威嚇するように二人を取り囲む。
「これはまた。随分とやさぐれたお兄さん方とお友達になったもんだな、お嬢さん」
 男……正確に伝えるなら、青年といったほうが適当だろう。
 胡散臭げな男たちに囲まれた青年は、煩わしそうに右眉をつりあげると、その物騒な人間たちがにじり寄ってくる様を鼻で笑った。
 青年が女の腕をそっとずらす。まわりを取り囲んでいる男たちは、沈黙を守ったまま、ジリジリと輪を縮めていた。
 どれほど甘く見積もっても、こちらと仲良くしようという柄ではないようだ。
 囲んだ二人が囲みから逃げられない位置まで輪を縮めると、リーダー格の男が半歩前に進み出た。
「女をよこせ……」
 ドスを効かせた低い声は、青年の耳にも届いたはずだ。
 雑多な人混みのなかで、これほど間抜けな取引はあるまい。
 だがこのネオン街“プルトンサイドウェイ”では、当たり前の光景なのだろう。通り過ぎる酔っ払いどもや流しの娼婦たちは、このやりとりに見向きもせずに歩き去っていく。
 ボスの隣で卑屈な態度で立っていた小男が黄色い歯を剥き出して叫んだ。
 辺境星域語らしく、何を言っているのか解らないが、片手にナイフをちらつかせているところを見ると脅しているようだ。
「人にものを頼むときの態度じゃないなぁ、お兄さん。オレは今日機嫌がとぉっても良いんだよ。爆発しちまう前にとっとと失せな!」
 嘲りを含んだ声が男たちの鼓膜に届くと、小男はナイフを握り直して顔を歪めた。相手の言葉は理解できなくても、自分の脅しが失敗したことだけは解るらしい。鋭利なその刃物を振り上げ、青年に襲いかかる。
 しかし青年の胸ぐらに手が届こうとしたその瞬間、掴みかかってきた小男の指は簡単にひねり上げられていた。
 長身の若者の顔に危険な笑みが浮かんだ。
 そのニヒルな笑いを浮かべた秀麗な顔の半分は長く伸ばした前髪に隠されていたが、顔半面だけでも女子供なら怖じ気づきそうな形相だった。
「野郎……!」
 気の短そうな大男が、青年に躍りかかっていった。
 重量戦車のような圧迫感を辺りに振り撒き、豪快に繰りだされる拳は常人なら確実に骨を叩き割られそうな素早さだった。
 だが青年は常人ではなかったようだ。女の細い腰を抱き上げると、身軽に反転して、捕らえていた小男の躰を巨漢の繰りだす剛拳の前へと突き飛ばした。
 短い叫びと骨の砕ける鈍い音が辺りに響き、すぐさま生臭い血の臭いが辺り一面に拡がった。
「ひぃぃっ……」
 女が喉を絞るような声をもらして失神した。頭蓋骨を砕かれた男の仲間たちでさえ、その生臭い臭いに顔を背けた。
「畜生めっ」
 さすがにこのような惨事が起これば、通行人のなかから野次馬が出始めた。
 しかし誰も決して警官や保安職員を呼びに行こうとはしない。明らかにこの状況を面白がって見物しているのだ。
 人垣を散らそうと躍起になる男たちを軽蔑の眼で見下すと、青年はその場を立ち去ろうと人混みに分け入った。
「ま、待ちやがれ! その女、置いてけっ」
 無謀にも追いすがってきたサングラスをかけた二人の男は青年の肩に触れる前に、一人はアスファルトと懇ろな仲になっていた。
 もう一人はさらに悲惨だったろう。
 両膝にローキックを喰らい、大地と接吻した男は、その後頭部を力任せに踏みにじられた。
 割れたサングラスの破片と顔面が非友好的な結合を遂げると、音域をまるで無視した声が男の喉から迸る。
 絶叫をあげて転げる男を見て、観客は歓声をあげて囃したてた。青年はさらに冷めた視線を男たちに送り、女を担ぎ上げたままきびすを返した。
「兄ちゃん、つえぇじゃねぇの」
「まだ四人残ってるぜ。全員、ぶっ倒してってくれよ!」
「なんだ、なんだぁ。もう終わりなのかよ。つまンねぇぜ! これからだろう。もっとやれよ。コラァ!」
 どの声もこれ以上の流血を期待して浮かれている。
 馴れ馴れしく青年の腕を掴んで引き戻そうとする輩までいる始末だ。観客の声は青年にまとわりつき、放そうとはしなかった。
 うるさそうに人混みを掻き分けようとした青年の眼前に影が差した。先ほど仲間を自分の鉄拳で挽肉にしてしまった大男が顔を真っ赤にして立ちはだかっている。
「貴様……殺してやるッ!」
 丸太のような腕が振り回され、若者めがけて飛んでいく。まわりの野次馬が慌てて飛び退く。それをしり目に青年は軽々と巨漢の攻撃をかわした。
「うっとうしいんだよ、でくの坊がっ」
 初めて青年の声に怒気が含まれた。
 でくの坊呼ばわりされたほうも赤い顔をいっそう赤く染めて罵声を叩きつける。
 人語の域を外れた咆吼をあげて大男が青年に襲いかかった。
 若者が蝶のように舞い飛び、その攻撃をかわす。さらに、もう一度かわそうと後ろに飛び下がった。
 とその時、青年の足元に空き瓶が当たる。
 若蝶が均衡を崩したその瞬間を、大男は見逃さなかった。
 筋肉の塊のような太い腕がすかさず長身を捕らえた。肉食獣の笑みが満面に浮かべ、若者の背後から空き瓶を転がしたボスに頷く。
 大男は遠慮躊躇もなく、相手の胴体を締めつけた。若者の骨が軋む音が聞こえ、その全身が弓なりに反り返る。
 ところがこの状況にあってさえ青年は女を抱えあげたままだった。
 満身の力を込めて青年を締め上げていた大男にボスが声をかけた。
「ゴルベリ。殺すなよ」
 温情の声音では、当然、ない。自分たちが優位に立ったと確信した者が発する凶暴な笑いが、暴漢たちの間からあがった。
「へへへ、大人しく言うことを聞いてりゃ、痛い目に遭わずに済んだものをよぉ。バカな奴だぜ」
「どうしやスか? ……一緒に連れていくんで?」
 固唾を飲んで見守っていた野次馬たちを一瞥すると、ボスは凶悪な笑みを浮かべた。
 歓楽街にたむろするチンピラなどはこの顔を見ただけで逃げ出してしまいそうだ。辺りを囲んでいた野次馬連中も潮が引くように消えていく。見世物は終わったのだ。
「あちら方面の好色で美形好みのお偉い様にでも調達してやるさ。それまでは薬ヤクでも射っておねンねしていてもらおうか」
 ゴルベリと呼ばれた大男が腕の力を緩め、若い男女をアスファルトの上に放り出した。若者は気を失ってしまったのか、ピクリとも動かない。
 大男のレバーのようにテラテラと光った舌が、肉厚の唇の上をねっとりと這いまわる。
「兄貴よぉ。商売モンにするンなら、らしく仕立てあげなきゃなんねぇんだろ? だったら、俺にその役目やらせてくれよ」
 男たちは気を失ってしまった青年の身体に遠慮もなく視線を這わせ値踏みをする。大男は許可さえ下りれば、今この場でも気絶している青年を八つ裂きにしてしまいそうな目をしていた。
 ボスの右隣に立っていたカーキ色のジャケットを羽織った鷲鼻の男が、若者が未だに抱えている女のそばに歩み寄った。それに続いて、丸顔のちんくしゃデブが若者へと近寄る。
 二人の暴漢の手が男女の腕を掴もうとしたその瞬間、何かが光速の早さで二人の喉笛を掻き切った。
 悲鳴さえあげる間もなく男たちが倒れていく。
 一瞬の出来事にボスも大男もなす術もなしに立ちすくむ。二人の血走り見開かれた眼が、気絶しているはずの青年と女の顔面を捕らえた。
「……!」
 より驚いたのはボスと大男のどちらだったろうか?
 いつの間に拾い上げたのか、先ほど頭をかち割られた小男のナイフを片手に、残りの腕に女を抱えた青年が、倒れた二人を踏みつけて立ち上がった。
「やぁ。随分と手荒な歓迎をしてくれた。挙げ句に再就職の世話までしてくれるとなりゃあ……お礼をしなけりゃ、バチが当たろうってもンだよ。なぁ? お兄さん方、そうだろ?」
 背後に巨漢を、正面に性悪なボスを見据えて、若者はのんびりとした口調で喋りながら、血塗られたナイフを弄ぶ。
「この野郎……! よくもやりやがったな」
 大男が背後から若者に掴みかかる。ボスの方はといえば、惚けたように青年を、いや、青年の乱れた前髪を凝視していた。見てはならないものを見てしまったかのように、恐れおののき、ジリジリと後退していく。
「や……やめ……。ゴルベ……リ……」
 もつれて滑らかにまわらない舌を必死に動かして、ボスはたった一人残った仲間を止めようとするが、当のゴルベリの耳にはそんな制止の声など届いていない。
「ゴ、ゴルベリ……!」
 掠れきった声を張り上げて相棒の名を呼ぶのと、ゴルベリの眉間に深々とナイフが突き立つのと、どちらが先だったかわからない。
 砂煙を立てて倒れる巨漢には一瞥もくれず、青年は正面で座り込んだ男を睨み続けていた。
 なんという腕前であろうか。人一人を抱えたままの状態で、後方から襲ってくる敵の急所を振り返りもせずに仕留めるとは!
 腰を抜かし、失禁しながらも這いずって逃げようとするボスに、悪魔の微笑みを浮かべた若者が一歩また一歩と近づいていく。
 側の消火栓にぶつかり、そのまま動かなくなったボスの目の前までくると、青年は狂気にも似た微笑を浮かべたまま、ゆっくりと前髪を掻き上げた。
「これに見覚えがあるのかい? ……それとも、聞き覚えがあるのか? この顔の特徴に……」
 今まで前髪に隠れていた若者の顔左半分が露わになる。麗しいまでの美貌が刻まれた顔が、残りの半面が現れた途端に醜怪な魔物の表情へと変貌した。
 美神の嫉妬に触れたか、あるいは魔神の悪戯か、青年の顔左半分には見るも無惨な裂傷がひきつれを作っていた。
 レーザー銃などの火器類の凶器ではない。強いて言えば陶器や鉄片などの切れ味の悪い破片で無理矢理に押し潰された感じのする傷痕だ。
 男は逃げる気力も尽き果てたのか、青年の手が自分の首に回されても抵抗しなかった。静かに締め上げられていく喉の奥から弱々しい息がもれる。
「あ……あ、あんた……は、ガイ……スト……。ダー……クガ……イス……ト」
 この惑星タッシールのダークサイドの住人ならその名を知らない者はいない。
 悪名高き闇バイヤーの名を口にした途端、鈍い厭な音を立てて男の首は真後ろへとへし折られた。
 すべてが終わったかと思われたそのとき、雑踏のなかから忽然と黒い男が現れた。死んだ男を見下ろす白髪の若者よりもさらに背が高い。腰まで届く長い黒髪を結いもせずに、肩で風を切って近づいてくると、当然のように気を失ったままの女を貰い受け、青年を促して歩き出した。
 まだ宵の口に入ったばかりの歓楽街は人通りも多い。もっとも、このプルトンサイドウェイにいる者自体がまっとうな人間であるはずもない。
 だがネオン街の一角で起こったこの惨劇を目撃した者の数は少なく、たまたま見届ける羽目になった者も口を堅く閉ざして、この日の悪夢を語ろうとはしなかった。


「随分と手間取っていたな、ガイスト」
 絡みつく長髪を払いのけながら黒い男が言った。重厚なアルトの音程が耳に心地よく響く。
 筋肉質のガイストと比べると、この男の方は身長の高さばかりが目立つ。しかし見る者が見れば、幅広の肩やしなやかに伸びる肢体が鍛え抜かれた強者の持ち物であることがわかるだろう。
「お前に見られていたとは思わなかったよ」
「女の所へいった帰り、だろう? この時間帯にあの通りをブラついていると必ずお前に出くわすんだ。もっとも、お前が他の女に鞍替えしちまえば別だがな」
 男が喉の奥で含み笑いをする。三十代前半と思われるその顔つきからは想像もできないような殷々たる声音が、彼のそれまでの人生を表しているようだった。
 男は黄色人種系の肌や髪質だが、決して童顔ではない。多くの民族の血が混じり合った結果を体現したような顔立ちだ。
「チッ! 嫌味な奴だな、お前は。……やめろよ、この人混みのなかで何しやがんだよ」
 肩に女を担ぎ上げたまま男の手がガイストの腰へと伸びてきた。黒目がちだが切れ長の瞳がからかうように光る。
「いやに照れるじゃないか。……初めてでもあるまい、この街でなんの遠慮がいるんだ?」
 険悪な視線を男の横顔にスパークさせたが、ガイストは口を噤んで喋ろうとはしなかった。
「なんだ怒ったのか? 謝らんぞ。事実を言っただけだからな、私は」
 ガイストの腰に腕をまわすと男は耳元で囁いた。身じろぎしてその腕から逃れようとするガイストを放すまいと、男の腕にさらに力が込められる。
 ガイストが苛立たしげに首にまとわりつく髪を払いのけ、唸るように低く言葉を吐きだす。
「……やめろ、アスモデウス」
 その声に、当のアスモデウスは嘲りを含んだ冷笑で報いた。
「そう、私はアスモデウス……。“淫乱”の魔天使の名を持つ者だ。そう“神ゴッド”が名付けた。そして、お前の相方なんだ……アスタロト」
「……! その名で呼ぶなっ! ……オレは、ガイストだ」
 全身を小刻みに震わせ、アスモデウスの腕を無理矢理に引き離すと、ガイストは低く叫んだ。
 しかしアスモデウスが忍び笑いをもらしながら、再び無遠慮に若者の身体をまぐさる。
 アスモデウスの視線がガイストの青ざめた横顔を舐めるように這っていく。医者か研究者のような観察眼が冷たい。
「そうだな。確かにお前はガイスト……亡霊だ。光の当たる場所には二度と戻ることは出来ない、葬り去られた人間だからな」
 そうだ。もう戻れない。光の天使が住まう場所へは……。もう二度と。
 ガイストの横顔に苦渋が拡がり、両肩が目に見えて落ちる。
「そうそう。“神ゴッド”と“女王クィーン”、双方への定例報告を忘れるな。
 私たちには選択の余地などないのだからな。今はどちらかにつくわけにはいかないんだ。この世界では中立を保つ立場だということを忘れるなよ、ガイスト」
 突然に事務的な口調でアスモデウスがガイストに声をかけた。それは今までの言葉が嘘のような無機質な声だった。
 相手の傷心を知っていて、わざとそれを無視して見せる、残忍な彼の横顔に憐憫という単語は一番似合わないようだ。
 傷ついたガイストと見知らぬ女を伴って、アスモデウスは暗黒街の奥深くへと進んでいった。
 闇の顎あぎとへと吸い込まれていく彼らを見咎める者は誰もいない……。


 夜が明けようとしていた。薄汚れた窓から覗く空は筆で軽く掃いたように薄い紫雲を浮かべている。
 まだ街のこの近辺は眠っている時刻だ。ツーブロック向こうの大通りならば、すでに運搬専用の地上車ランドカーが凶暴な排気風を吐き出しながら走り回っているだろうが。
 眠れない夜を過ごした夜明けの色は、安堵と虚脱感に満ちているようだった。
 窓からの弱い光に照らされた室内の家具たちは、澱んだ黒い影を床や壁へと伸ばし、部屋の主の気分をいっそう滅入らせているばかりだ。
 大仰に溜め息を吐いた彼は窓辺の分厚い壁にもたれかかったまま、金属製のドアを睨みつけた。
 すぐにそこから視線をずらす。しかし彷徨っていた瞳は再び吸いつけられるようにドアの表面へと向けられる。
 何かを待っているような素振りだ。
 何度目かに瞳が往復したあと変化はやってきた。
 ドアの電子ロックからセキュリティアラームが聞こえる。来客を知らせるその音はボリュームを絞ってあるらしく、ひどく小さな音だった。
 口唇が渇くのか何度もそれを舐める。緊張感に身体が強ばっているようだ。
 だが来訪者をそのまま無視することもできないらしく、重い足取りでドアへと近づく。まるでそのドアを開けたときが自分の運命が決まるときだとでもいうかのような決死の表情だ。
 緊張した顔つきのままドア横の電子ロックを外す動作は、緊張はしていてもよどみない。
 外の人物を確認しようとしないところをみると、待ち人であることを確信しているのだろう。「チキッ」と金属が擦れる小さな音の後、ドアはゆっくりと横にスライドしていった。
 部屋の外は廊下だ。彼の瞳が目に見えて細くなる。照明がついている加減で、室内よりも明るいくらいだ。光に目が慣れていないと言えばそれまでだが、彼が目を細めた理由は、それだけではないだろう。
「……どうぞ」
 低い声で訪問者を室内へと誘う。その声は少し掠れて聞こえた。
 悠然と室内へと足を踏み入れた人物を見れば、彼が視線を外している理由が頷ける。それは眩すぎる輝きに満ちていたのだから。
 訪問者は彼の白人種特有の白い肌と雲のように真っ白な髪、暗く光る翠眼とはまったく対照的な外見を持っていた。
 まず、真っ先に目を惹くのは髪だ。
 どんな群衆に混じっていても、遠目にすぐに判るほどの豪奢な金髪。それ自体が太陽のような輝きを発している様は、壁画から抜け出してきた神か聖人のような壮麗さを感じさせた。
 そしてこめかみから落ちかかる金髪に縁取られる顔は滑らかな褐色肌。どこにもくすみや染みのないその皮膚は何よりも健康的な印象をまわりに与える。
 訪問者は、美しく、華やかな外見の娘だった。
 顔立ちもたぶん雰囲気を裏切らない造りなのだろうが、横長の偏光グラスをかけた顔はその細部を伺うことはできなかった。
「殺風景なところで暮らしているわね。……もっとましなところに住めるでしょうに」
 呆れたように呟いた声は、魅惑的な震えを帯びて空気に溶ける。それを怯えたように聞きながら、彼は簡素なサイドボードの上からマグカップを取り上げた。
 相手を見ないようにするには、他の作業に没頭するしかない。
「あ……。わたしは濃いめのブラックにしてよ」
 黙々とコーヒーを淹れ始めた彼の背中に遠慮のない声がかかる。
 外見の神々しさからは想像できない平易な態度に驚きでもしたのだろうか、男はチラリと振り返った。
 だが娘が断りも無しに古いソファへと腰を降ろし、のんびりと室内を見回している様子を確認して、再びコーヒーを淹れる作業へと戻る。
「ねぇ、ガイスト……」
 背後からの声に彼は怪訝そうに振り返った。相手の神経質な色を帯びた声に驚いたのだ。こんなざらついた口調は滅多に耳にすることなどない。
「何か……?」
 即席で淹れたコーヒーを手に、慎重な足取りで娘の側までくると、未だに偏光グラスを外していないその顔を覗き込むようにしてそれを手渡す。
「ガイスト。相変わらず他人行儀ね、あなたは……」
 苦笑しながらカップを受け取った娘が、指に伝わるコーヒーの熱を愉しむようにして両手でその器を包む。
 昇ってくる太陽の光が窓ガラスに反射して娘の頭上へと降り注ぎ、彼女の髪は燃え立つように輝いた。
「日が昇ったのね……」
 ぼんやりとした口調で娘が窓から空を仰ぎ、我に返ったように手の中のコーヒーを一口すする。
「今回は急な注文でしたが? 何か上層部であったのですか、サリアルナ?」
「いいえ。上では何もないわ」
 硬い声のままに答えた娘は、気怠げな手つきでカップをテーブルへと置き、目の部分を覆っていた偏光グラスを外した。
 その様子を見守っていたガイストの視線が、無意識のうちに娘の瞳へと注がれた。そう。娘の瞳は少々変わっていたから……。
 燃えるような金髪のなかに極上のサファイアとルビーが一粒ずつ。いや彼女の瞳は右目が蒼、左目が紅というオッドアイだった。
 対極をなすその色彩が、娘の表情を判らなくする。
 これでは偏光グラスをかけていたときと同じだ。
 冷たい蒼の瞳は彼女の感情を押し包み、燃え上がる紅の瞳は彼女の気性の激しさを雄弁に物語っているように見えるのだ。どちらが本来の彼女なのであろうか。
「頼んだ品物を見せてもらえる?」
 自分を見つめる者と視線を合わせないようにカップに視線を落としたまま、娘は早口に言葉を紡ぐ。
 その神経質な声に眉をひそめたが、ガイストは何も問わずに席を立ち、壁に穿たれた窪み棚アルコープの前まで歩いていった。
 幾つかの置物のうち、左端下隅に置かれた絵付き皿を持ち上げる。そして、その皿を支えていた支柱と取り上げると、棚の中央に剥きだしで置かれた時計の軸芯へと突き立てた。
 ゴキリと何かが噛み合う音がしたあと、棚の奥の壁に一本の亀裂が走る。奥にさらに空間があるようだ。
 ガイストは開いた隙間に指を差し入れ、そっと左右にスライドさせた。
 乾いた紙が擦れるように微かな音とともにぽっかりと穴が開く。奥には大小さまざまな包みが所狭しと並んでいた。
 その中から細長い筒状の包みを取り出すとガイストは傍らに置いてあった絵付き皿を元の位置に戻した。
 再び微かな音をたてて隠し扉が閉まり、棚奥の壁がピタリと合わさる。壁の模様と同化して亀裂の跡はまったく区別できなかった。
 脇に抱えた包みを持って娘の前に戻ってきたガイストが恭しい手つきでそれを差し出す。
 それを一瞬手に取ることをためらった娘だったが、意を決したように両手で包みを受け取り、乱暴な動作で包み紙を引き裂いていった。
 中から硬化プラスチックの筒箱が姿を現す。
 大きさは娘の片腕の長さとほぼ同じくらいではないだろうか?
 筒の上部は透明プラスチックになっており、見慣れない鳥の頭を持つ怪物が筒のなかで眼を光らせている。
 その頭が入っている部分が蓋になっているらしい。頭を覆う透明プラスチックを鷲掴みにした娘が強引にそれを引っ張る。だが簡単には開かないようだ。
 不機嫌そうな表情で娘が筒を見下ろす。
「壊れますよ。貸して下さい。開け方を教えますから」
 娘の乱雑な手つきをハラハラして見守っていた男がそっと手を差し出した。それに素直に従って、娘は手の中の筒を相手に渡す。鈍い光沢を放つ筒が朝日に反射して、一瞬だけギラリと鋭く光った。
「一見プラスチックに見えますけど、新種の金属“パラライト”でできているんです。御存じでしょう? 温度や振動を記憶する金属です」
 こくりと頷く娘によく見えるように男は筒の頭を握り込んだ。大きな掌に包まれて頭の部分が隠れてしまう。
 そのままゆっくりと左回りに筒をひねり、何かに引っかかって止まると、掌を離し、今度は指先で頭をコツコツと叩く。
 じっと見守る娘の目の前で、怪物の彫り物がグラグラと揺れ、キラリと紅い光をその両目に宿した。不気味な赤色灯が小さく瞬く。
「カーヴァンクルの瞳が光ったら、後は簡単に開きます。……どうぞ」
 受け取った娘の手の中で、筒はアッサリと口を開けた。筒の口を下に向けて振り回すと、ストンと縄の束のようなものが落ちた。筒を放り出した娘はそれを掴み取ってジッと眼を凝らした。
 細かくしなやかな金属の鎖が幾重にも巻きつけられた品物は見ただけではどんなものなのかさっぱり判らない。
「ご依頼のローズウィップ……。見ただけでは普通の鞭ですが、操るときの手首のひねり一つで多種の鞭に変化します。使用方法は……」
「いいわ。それは判っているから……。ありがとう。いい出来の品だわ。さすがはジェミニ恒星系一のバイヤーが見立てただけはあるわね」
 ニッコリと微笑んだ娘の表情は玩具を手に入れた子どものようだった。
 だが彼女の手の中にあるものは、決して玩具ではない。使い方によっては恐るべき破壊力を持つ武具である。
「これで心おきなく“ノイエス”へ行けるわ」
「ノ……イエス……!?」
 ガイストの瞳が動揺に震えた。
 それを横目で確認した娘が皮肉っぽい笑みを浮かべる。彼女には相手の驚きのほうが意外なようだ。
「何を驚いているの。わたしが護身用にこの鞭を頼んだとでも思ったの?」
 小さな笑い声がもれたがそれは少しヒステリックにも聞こえる。その声を止めようとでもいうのだろうか。ガイストは娘の両肩を掴んで、彼女の体を自分へと向けた。
「サリアルナ! いつ“女王クィーン”の元へ行くんですか!?」
「痛いわ、放してよ」
「答えてください!」
 語気を強めるガイストから視線をそらし、娘は自分の膝の上にある金属の鞭を見つめた。
 冷たい視線だった。視界に入ったものすべてを凍りつかせるように残酷な視線が娘の美貌から放たれている。
「明日よ。兄さんから命じられたわ。……たぶん兄さんは公から指令を受けていると思うけど」
「サリ……」
「止めないでよね。わたしは“ニケイアの門”をくぐって、その先に行くんだから」
 ガイストへと向けられた視線は今度は炎のような激しさを含んでいた。自分の決めた道を邪魔する者は、その業火で焼き尽くすつもりなのだろうか?
 諦めたようにガイストが視線を落とした。止めて聞くような娘ではないと判っているのだろう。小さく首を振り、深い溜息を吐くと、再びガイストは顔をあげて娘の顔に見入った。
「次に遭うときは……敵同士かもね。“神ゴッド”が勝つか、あるいは“女王クィーン”が勝つか。あなたは勝つほうにつきなさいよね。闇に堕とされたのなら、そこで生き抜く算段をしなきゃ」
「どうして公はいつもあなたをそんな過酷な場所に……」
 ガイストの沈んだ声にサリアルナは口元を歪めて笑った。
 それはいったい誰を嘲笑っているのだろう。自分の運命? それとも自分を憐れんだ瞳で見る目の前の男? あるいは冷酷に命を下す者たちだろうか?
「わたしの知り得る範疇じゃないわね。心配してくれてありがとう、ガイスト。でもわたしは死にに行くわけじゃないわ」
 堂々と胸を張る娘の表情は、ちょうど朝日を逆光に浴びてハッキリとは読みとれない。
「生き延びてくださいよ。あなたには、あなたの力を必要としている人がたくさんいるハズです。オレを救ったように、あなたにはその力を使うべき人がたくさん……」
「えぇ。帰ってくるわ、必ず……。だって、このタッシールはわたしの故郷なんですもの」
 額にかかった髪を掻き上げながら娘は穏やかな微笑みを浮かべた。今までの強気な表情がふとほぐれる。大人びたなかに少しだけ幼さを残したその顔立ちが、そのときは優しく見えた。
「もう行くわ。品物の代金はいつも通り……に……ガイスト?」
 突然、男に抱きしめられて娘は眼を見張った。
「帰ってきてください、サリアルナ。オレはまだあなたに恩を返していない」
 自分を抱きしめる男の真綿のような髪をなでながら、娘は再び微笑んだ。それはまるで慈母の穏やかさを漂わせた温かな笑み。
「あなたがわたしに返す恩などないわよ。わたしがあなたを救ったのはほんの偶然だったんだから」
「それでも……。それでも闇に堕ちた者にはどんな小さな光でも眩しく見えるものです。あなたがオレの妹代わりでいてくれたからこそ、オレは今生きている。サリアルナ。生き延びてください。あなたが死んでしまったら……」
 強ばった表情を自分へと向けるガイストをなだめるように娘は小さく笑い、彼の前髪を掻き上げて、隠された左半分の顔をじっと凝視する。潰され醜くひきつれたガイストの半面に恐怖や嫌悪の視線を向けることはない。
「わたしは権力ちからを手に入れたいの。わたしを待っている人たちを救うにはもうそれしか方法がないから。
 わたしの両手も血に染まっているわ。今更きれいごとを言うつもりもない。だから……ガイストも待っていて。わたしは必ず戻ってくるから。必ず、あなたを光の中へ帰してあげる」
 残酷な刻印を刻まれたガイストの半面を再び髪で覆い隠すと、娘は静かに立ち上がった。
 どれほどの想いで待っていろと言っているのか、ガイストには理解できたのだろうか? 細められた彼の暗緑の瞳には未だ不安がくすぶっていた。
「また会えるわ」
 娘の囁き声を茫然と聞きながら、ガイストは立ち上がることができずに独り座り込んだ。
 その背中を娘が一度だけ振り返り、何も声をかけることなく静かに部屋を出ていった。
 窓の外を見上げれば、昇りきった朝日が街並みを白く染めている。
「オレは……また何もできないまま見ているしかないのか?」
 震える声で呟くと、彼は娘の座っていた椅子に寄りかかった。身体が気怠い。昨夜眠れなかった疲れがドッと押し寄せてきたかのようだ。
 娘が乱暴に引きちぎった包み紙をつまみ上げ、ぼんやりと見つめているうちにいつもの唄を口ずさんでいた。

俺たちゃ悪人 お尋ね者よ
背負った前科は無限大
詐欺に密輸に放火に窃盗
挙げ句の果てには人身売買
それでも やっちゃいないのが、ただ一つ
たとえ乞食になり果てようと
保安官には媚びられぬ

俺たちゃ悪人 懸賞首よ
義理や主義などありはせぬ
掏摸に誘拐 強請に強姦
ボロい儲けの麻薬の密売
だけど やりたかないのが、ただ一つ
可愛いあの娘を泣かせる模倣は
殺されたとてご免だね


 ハラリと手から紙がこぼれ落ちた。
 その様子を見守るガイストの口元は苦しげに歪んでいる。
 何か言いたいことがあるのに、どうしてもその言葉が見つからないときのように、心許なく、寂しげに……。
「神よ……。心あるならば、彼女を守りたまえ……。どうか彼女を……」
 顔を覆い呻くように神に祈りを捧げる男の姿を窓の外から蒼い空だけが見下ろしていた。

〔 12323文字 〕 編集

ナジェール譚

No. 28 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
金と紅 Part:2

「やかましいぃっ! 出て行けーっ!」
 次々に飛んでくる小物類を避けながら、アダーリオスは更なる説得を試みる。結局は無駄に終わるであろうことを予測しつつ……。
「いい加減に落ち着けよ、ミノス。怒ったって仕方ないだろ!」
「黙れ! 誰のせいだと思ってるんだよ!」
 よりいっそうの怒りを込めてナイフが飛来した。アダーリオスは慌てて身をよじって後退する。
 目にでも突き立ったら、失明してしまうではないか。
「危ないな! 元はといえばお前が悪いんだろ! 余計な食い意地なんか張るからだ。自業自得だっていうの!」
 一歩間違えたら、殺し合いにでも発展しそうな雰囲気だ。
 食事が終わるや否や、ものすごい勢いで金蠍蛇宮へと帰ってきたミノスは、当たり散らせる物という物すべてを叩き壊してまわった。
 従者たちが恐れをなして、牙獣王宮へ帰り着いたばかりのアダーリオスに助けを求めに走ったのも頷ける暴風雨だ。
 いつも一緒に行動していることが多いアダーリオス以外で、ミノスのヒステリーを抑えることができる人物はいまい。
 しかしそのアダーリオスにしても今回のヒステリーには手を焼いている。ミノスが疲れて座り込むか、怒りを吐き出すことに飽きるまで収まりそうもない。
「出てけっ! 出て行けったら!馬鹿野郎ーっ!」
 もはや絶叫と変わらない怒鳴り声を響かせてミノスは荒れ狂い、辺りの小物類をアダーリオスへと投げつける。
 そのアダーリオスは飛び交う凶器を叩き落とし、蹴り飛ばしてミノスが鎮まるのを待ち続けているだけの状態だ。
 金蠍蛇宮殿の外ではミノスの数年ぶりの凶行に従者たちがオロオロと狼狽し、手を取り合って座り込んでいる。主人の身に起こった出来事を知る由もない従者たちはただただ心を痛めて、主人の怒りが収まる時を祈るように待ち続けていた。
 普段のミノスは悪態はつくし喧嘩はしょっちゅうという傍若無人ぶりだが、従者たちに粗暴な振る舞いをすることはなかった。その彼がこれほど見境もなく暴れ狂っているのだ。よほど腹立たしいことが起こったに違いない。
 初めて彼がその美貌からは想像もつかない凶悪な形相を人前でさらしたのは、彼が正闘士に選ばれる直前のことだった。
 正闘士を決める闘技戦を数日後に控えたその日、対戦相手の取り巻きの一人が発した言葉がミノスの逆鱗に触れたらしい。
 ……らしい、という憶測の域を出ないのは、この半死半生の目に遭った男が、今はミノスの従者としてこの宮殿に仕えているために主人の不利益になりそうなことを語らないからだ。
 よもや殺しはすまい、と傍観していた兵士たちが、ミノスの容赦のない拳に数多の負傷者を出しつつも止めに入らなければならなかったことを考えれば、その怒りの鉄拳がどのようなものであったか推し量れよう。
 そのとき以来、ミノスはこのヒステリーの発作を起こしていない。吹き荒れるヒステリーの嵐が過ぎ去るまで従者たちはじっと堪え忍ぶしかないようだ。
 かなりの時が経ち、所在なく宮殿のまわりを彷徨いていた従者たちが疲れて一所へ固まり始めた頃、背後からの声が彼らの心臓を鷲掴みにした。
「ここで何をしているのだ、お前たち」
「……!!」
 目を白黒させて振り返った彼らは声の主を確認するや、魂の抜けたように表情で相手を見上げた。
 銀月の光に照らされてなお紅い髪が夜風に流され、それに縁取られて雪よりも白い肌が夜目にもはっきりと浮き上がる。さらに見つめる瞳は氷色。なのにその奥には地獄の業火もかくやという底光りする輝きを湛えていた。
 魔人が地上に現れたなら、こんな瞳をしているに違いない。
「お前たち、ここの宮殿の侍従ではないのか?」
 再び宵闇を切り裂く声が従者たちにかけられた。
 その間、従者たちは人形のように突っ立ったまま動かなかったのだ。現れた紅の麗人に魅入られていた、と言ったほうがいいだろうか。
 一人が我に返ったように頭を振り、鄭重に跪くと、麗しい来訪者に応対する。
「ご来訪に気づかず失礼を……。海聖宮殿の御方とお見受けいたしましたが……?」
 相手が軽く頷くのを確認して、従者は再び口を開いた。
「我らはこの金蠍蛇宮殿と牙獣王宮殿に従事しておる者でございます。実は……」
 その従者の答えを遮る破壊音がわき起こった。猛々しい音とともに崩れた壁から吐き出された人物を見て、従者たちは蒼白になる。
牙獣王(レンブラン)様!」
 何名かの従者が吹き飛ばされたアダーリオスの元へと走り寄った。
 幸い怪我らしい怪我をしている様子はない。壁に叩きつけられ、ぶち破った衝撃のために一時的に体が動かせないだけらしい。
 従者に助け起こされ、ブツブツと不平を鳴らすアダーリオスに見守る従者たちの間から安堵の吐息が漏れる。石片を払いのけながら、アダーリオスは心配ないと従者たちに笑顔を向けた。
 その表情が従者たちの脇に立つ人物を捉えた途端に固まった。
「カイゼル!こんな所で何をしてるんだ!?」
 闇に浮かぶ白い顔が無感動にこちらを見つめている。その表情からは心中の動きなど微塵も伺えない。
「大蛇が暴れ回っているようだな……」
 鉄仮面が口を開いた。カイゼルの口調からは人間臭さなど片鱗も見えない。何を考えてこの辺りを彷徨いていたのだろう。
「責任に一端は君にもあるんだぞ。食堂で君がミノスを無視し続けていれば良かったんだ」
 上目遣いで恨みがましい口調のアダーリオスの態度から、ミノスのヒステリーの原因が目の前の紅の麗人であることを悟った従者たちが彼から後ずさる。
 とんでもない人物が現れたものだ。非難するアダーリオスはと言えば、ミノスをなだめすかすことに疲れたのか、ゴロリと瓦礫の上に転がって溜め息をついていた。
 アダーリオスの言葉にも痛痒すら感じていない態度でカイゼルは宮殿の奥部に視線を走らせた。その二人の様子を従者たちは遠巻きにして見守るしかない。
 その従者たちの視線の先でカイゼルの表情がゆっくりと動いた。初めは目の錯覚かとも思ったが、それがまごうことなく微笑を刻んだのを確認して、従者たちは戦慄にも似た驚きに茫然となった。
 その空気を敏感に感じ取ったアダーリオスが、従者たちを見回し、その空気の原因らしいカイゼルへと視線を向けた。
 だがアダーリオスがカイゼルを振り返って見たときには、すでにカイゼルの美貌に浮かんだ表情は跡形もなく消えていた。それでも従者たちの様子から彼の顔に浮かんだ感情の見当がつく。
 食事のときの不機嫌さを思い出して、アダーリオスはムスッと頬を膨らませた。
 またミノスだ。この紅の鉄仮面は普段は他人に無関心で、必要最小限の感情しか出さないくせに、なぜかミノスのこととなると鮮やかな表情を浮かべてみせる。
 嫉妬にも似た腹立ちにアダーリオスは自分自身、少々戸惑った。しかし、年頃の娘のようにヒステリーを起こすだけで、この麗人の美貌に微笑を浮かばせることができるのなら、自分もヒステリーを起こしてみたくなるではないか。
「彼はまだ奥にいるのか?」
 鬱々と思考を巡らせていたアダーリオスに冷めた声がかかった。
 ギョッとして顔を上げたアダーリオスのすぐそばに暗い(ほむら)を燃やす瞳がある。黄昏の正殿で見た神々しいまでの闘士の姿はそこにはなく、北の氷原に立ち尽くす魔人の出で立ちそのもののようだ。
「あ……あぁ。いる、と思う」
 そうか、と呟きを残してカイゼルは金蠍蛇宮殿へと歩を向けた。驚いて止めようとする従者の脇をすり抜けてカイゼルは宮殿の入り口に手をかけた。
「どうする気だよ? 今のミノスは手負いの獣そのものだぞ。君に会ったらいっそうひどくなると思うけどね」
 アダーリオスの言葉にカイゼルが立ち止まり、肩越しに振り返った。相変わらずの淡々とした口調で返事が返ってくる。
「責任の一端は私にある、と言ったな? 金蠍蛇(ムシューフ)をこれ以上放っておくとまわりの人間が迷惑だ。私なりに責任を取らせてもらおう」
 だから口出しをするな、ということか。それほど大柄でもないのに、アダーリオスたちの前に立つカイゼルの体がこのときばかりは異様に大きく見える。
 アダーリオスは呆れたとばかりに肩をすくめ、やけになったように再び口を開いた。投げやりな口調が彼がこの一見に飽き飽きしていることを物語っている。
「もしミノスの奴が奥にいなければ、南の高楼にでも登っているだろうよ。いつもあそこで頭を冷やしているからな」
 カイゼルが怪訝そうに片眉をつり上げた。たった今、奥にいるか? との問いに、いるはずだと答えたばかりではないか。そんなカイゼルの態度にアダーリオスは問われもしないのに話し出す。
「どこの宮殿でもあるはずだけど、この金蠍蛇宮殿にも抜け道があるんだ。いなけりゃ、それを使って外へ出ているはずさ。
 そうなると、この神域であいつが行くとしたら南の高楼くらいだよ。ミノスは独りになりたいときは、たいていあの場所にいるんだ」
 感心した様子もなく、カイゼルはくるりと背を向けて入り口をくぐっていった。聞きたいことは全部聞いた、ということだろう。
 優雅な足取りだけを見ればそれは美しい光景なのだが、彼の態度はあまりにも冷徹に見えた。
「よろしいのでしょうか? あの方にお任せしても……」
 猜疑心を捨てきれない従者の一人がアダーリオスにおずおずと尋ねる。あの冷淡な表情でミノスのヒステリーを鎮めることができるようには見えなかった。
 現に行動をともにしているアダーリオスにさえ、止められなかったのだ。
「大丈夫だろうさ。もうオレの手には負えないんだし……」
 カイゼルの姿が宮殿のなかに消えてからしばらくして、アダーリオスは従者に付き添われて自分の宮殿へと向かった。
「金と紅……。互いが互いを凌ごうと争っているようだな……」
 ぼそりと呟いたアダーリオスの声は彼を支えている従者の耳にも聞こえないくらい小さなものだった。


 無人の塔は朽ちかけた痛々しい姿の半分を闇色に染め上げていた。
 神域の拡張とともに新築された物見櫓は、ここから東西に幾分離れた二地点にある。もはや使用されない以上、この高楼が取り壊されるのも時間の問題であろう。
 息の詰まるような静寂を破ったのは、砂利を踏みしめる微かな足音だった。すべてを拒絶するような、あるいはすべてを肯定するような、厳粛な足取り……。
 毛織物特有の衣擦れの乾いた音。衣装に縫い込まれた刺繍が微かな月の光に煌めく密やかな輝き。闇のなかで浮き上がる白い顔。……そして、水晶よりも艶やかに光る双眸と燃え立つ炎よりも紅く長い髪。
「なるほど……。確かにここにいるらしいな」
 殷々と響く声が夜風に運ばれて消えた。
 何を根拠に、この塔にいると断じたのか伺い知ることはできない。石壁を叩いたり、絡まる蔦をむしり取ったり、カイゼルは熱心に、そして物珍しそうに使い古された物見櫓のまわりを彷徨いた。
「見事な造りだ。北にもこれだけの建造物があれば……」
 感嘆の吐息が漏れ、それも風に運ばれていった。
「……何しにきた!」
 殺気立った声がカイゼルの頭上から降ってきた。ついと見上げれば、櫓の頂上付近から黄金の煌めきが覗いている。
 ミノスだ。声を聞いてすでに判っているであろうに、カイゼルは首を傾げて改めて確認する。
金蠍蛇(ムシューフ)か?」
 無言の返答が返ってきた。それだけで充分だ。カイゼルは躊躇うことなく高楼の入り口を潜った。恐れる素振りは微塵もない。
 誰も使っていない割には、塔のなかは以外にきれいなままだ。もう少し朽ちた木材や崩れた石材やらが散乱しているかと思ったのだが。無人だというだけで、まだ使っているのではないだろうか? とてもうち捨てられたとは思えない。
 外でかかった声の主の元へと急ぎながらもカイゼルは興味深げでにまわりの壁や手すり、足下の石床を観察し続けた。
 見れば見るほどに北の備えとして欲しい建造物だった。これだけの材料を氷原で手に入れるには並大抵のことではない。この資材が運べるものならば……。
 考え事をしながらの速度であったが、ついに塔の頂上へと到着した。
 開け放された扉の向こうに澄んだ星の光が見える。月が少し翳っているのか、星たちはチリチリと啼いているように瞬いていた。
 穏やかな空だ。氷原の空がこんなに優しい表情を見せるときなどほとんどない。いつも吹き荒れる風に目を覆って足早に家路へと急ぐばかりだった。
 わずかな感傷に胸を焼いた後、我に返ってカイゼルは頂上の石畳へと踏み出した。
 目的の人物はすぐに目に入った。逃げも隠れもせず、じっと自分が到着するまで待っていたらしい。蒼い星のように輝く瞳が自分へ向けられている。
 奇妙な快感だった。カイゼルにとって人に見られるということは、好奇の視線の前に立つということを意味していた。それなのに、この相手は興味本位な視線を向けはしない。
 敵愾心も露わに、自分をねじ伏せようと殺気立っている。神に選ばれた同じ正闘士の地位にありながら、その蒼い瞳は自分を倒すべき仇敵としてしか認識していないようだ。
牙獣王(レンブラン)は怪我もないようだ。後から詫びを入れに行ってきたらどうだ?あれはどうみてもやりすぎだからな」
 自分がいつも以上に饒舌になっている。
 なぜか新鮮な気分だ。普段はあまり人と話をする機会などないせいだろうか? いや、違う。黙ったままで睨み合っていたら、きっと彼の瞳に呑み込まれてしまうからだ。沈黙に耐えられないのだ。
「大きなお世話だ。……お前の言うことなんか、誰が聞くかよ!」
「少なくとも、私の弟子は私の言いつけを守るがね。君とはウマが合わないな……」
 弟子、と聞いてミノスの眉がピクリと震えた。
 正闘士と言っても、ピンからキリまで色々だ。力のある正闘士ほど弟子を育て、新たな闘士見習いを神域へと送ってくる。それが腕の良い正闘士の目安でもあった。
 まだ成年に達していないミノスには、弟子をとるほどの技量はまだない。今のところは自分の力を高め、より強くなることが彼の最大の関心事だ。
「フン。子育てしてる暇があったら、北の警護を強化したらどうだよ。氷原は設備が貧しいらしいじゃないか。神域から派兵される兵士たちが一番行きたがらない地区だぜ?」
「……やれるものなら、とっくにやっているさ」
 忌々しげに口元を歪めたカイゼルの表情にミノスが一瞬たじろいだ。言葉のあやでつい相手の足下を見るようなことを言ってしまったと後悔しているようだ。
 カイゼルのほうもそんな相手の動揺を見透かしているのか、冷酷な仮面をかぶり、じろりとミノスを睨ねめつける。
「神域でぬくぬくと育ったお坊ちゃんにとやかく言われるのは不愉快だな。自分の未熟さを友人に当たり散らして発散する程度の者がよくも正闘士に選ばれた。神域の威厳も堕ちたものよ」
 カイゼルの冷笑にミノスの瞳がカッと見開かれた。眦まなじりが避けるほどに開かれた瞳から蒼い炎が噴きだしている。
 対するカイゼルの氷の瞳にも、冷たい炎が揺れていた。触れれば火傷しそうなほどの緊張感が二人の間に張りつめる。
「言わせておけば……!」
 怒りに震える拳をさらにきつく握りしめ、ミノスが大きく一歩を踏み出した。それに応えるようにカイゼルも一歩踏み込む。
 ギラギラと輝く蒼い視線と氷の視線が空中で火花を散らした一瞬後、一人は黄金色の風となって、一人は逆巻く炎ほむらとなって、互いを凌ごうと拳を繰り出した。


「なめるな……! お前なんかに……」
 カイゼルへと走り寄ったミノスが電光石火の勢いで右手を突き出す。それをヒラリと舞ってかわしたカイゼルが踊るように蹴りを出す。
 横っ飛びにミノスはそれを避けた後、相手の懐へ飛び込んでいく。目の前に迫った相手との間合いを取るためにカイゼルが華麗なステップを踏んで後退した。
 直情的な動きをするミノスの攻撃は円舞を舞うようなカイゼルの防御に阻まれ、針のように鋭いカイゼルの攻撃は曲芸師たちの軽業のようなミノスの防御に阻まれた。
 一進一退の攻防には終わりがないような気がする。
 だが、戦いが長引けば長引くほどミノスには不利だった。彼の年齢は十四。対するカイゼルは十九だ。この年代での体力差は持久戦となったときに確実に現れる。
 互いに的確な蹴りと拳で渡り合っているが身長差を補うためにミノスはカイゼル以上に激しく動き回って相手を牽制しなければならない。素早い動きは体力があってのことだ。スタミナが切れたら、ミノスはカイゼルの蹴りの餌食になるだけだろう。
「そろそろ降参したらどうだ?」
 相手の体力がジワジワと落ちてきているのを見計らって、カイゼルがミノスに冷笑を向けた。瞬く間にミノスの顔が怒りに染まる。
 それを計算していたのか、カイゼルは不敵な笑みを浮かべてわざと懐に隙を作る。
 まんまとその誘いにミノスが乗った。狙い違わず相手の鳩尾めがけて突き出された蹴りが、寸前で弾かれた。
 それもただの弾き方ではない。ミノスが全体重をかけて出した蹴りは、カイゼルの下からの膝蹴りで方向を歪められ、空振りした。だが勢いに乗っていたミノスは体を支えきれずにあらぬ方角へと体をよろめかせる。
 一瞬の虚が致命的な隙をミノスの背後に作ってしまったのだ。
「は……ぐぅっ」
 背後から首をガッチリと締めつけられ、ミノスはもがいた。両肘まで使って押さえ込まれた首はびくともせず、為す術もなくミノスは腕や足を振り回した。
 しかし体同士が密着しており、拳や蹴りでの攻撃はまったく意味を成さなかった。わずかでも体がずれたなら、拳を奮う余地も生まれようが、油断なく首を締め上げるカイゼルの動きに無駄はない。
「私の勝ちだ。……諦めろ」
 吐息のような囁き声がミノスの耳元で聞こえた。
 カイゼルの息はまったく乱れていない。空気を求めて暴れるミノスの呼吸が荒くなっていくのとは対照的に、水中に潜っているかのように潜められた呼吸は、いや増しにミノスを焦らせた。
 相手の余裕が癪だった。だが持久戦になった時点で自分の勝ち目はほとんどなくなっていた。最初の打ち合いで相手を牽制しきれなかった自分の落ち度が敗因なのだ。
 それでも素直に敗北を認めるには相手の余裕の表情が憎らしい。
 返答をしないミノスに焦れたのか、カイゼルが再び耳元に口を寄せた。生暖かい息がミノスの耳朶をくすぐる。
「……死ぬぞ?」
 だがミノスはいっそう暴れて相手への抵抗を試みた。どうにかして体を少しでもずらせないものかと全身をくねらせる。その動きを読むようにカイゼルが呪縛をきつくした。
 いや……それどころか自分よりも小柄なミノスの体を引きずって塔の端へと歩み寄る。
「頭は少しも冷えていないようだな。荒療治が必要だ」
 苦しい息の下でミノスがカイゼルの顔をチラリと見遣る。何をされるのか判らない。
 塔の下から吹き上げてくる風が顔をなぶっていった。それは何かとてつもなく不吉な予感がする。逃げ出さなければ……。そう思いながらも、体は自由にならない。
「正闘士になったほどだから、修行は出来ているだろう。……夜風で頭を冷やせ」
 ミノスの首を締め上げていたカイゼルの腕が弛んだ。その一瞬の間に逃げだそうとミノスは体をよじったが、カイゼルの動きのほうが素早かった。
 あっさりとミノスの体が宙を舞う。
「うわわっっ!」
 足首を掴まれ、塔の外へと投げ飛ばされたのだ。支えるものもない空中でミノスの体が一瞬制止し、その後、真っ逆様に地面へと落下していった。
「うぎゃ~っ!」
 素っ頓狂な叫び声を上げて落ちていくミノスを櫓の上から見下ろしていたカイゼルが、腕組みして眉を寄せた。不本意そうに口が尖っている。
「まさか……受け身を取れないのか、あいつは?」
 信じたくないものを見てしまったといった様子で、カイゼルは肩をすくめ、ヒラリと塔の石組みから身を躍らせて遙か眼下に見える地面へと飛び降りていった。
 まるで紅い鳥が舞い降りていくように優雅に、ゆったりと……。


 体がギシギシと痛んだ。霞む視界のなかに最初に飛び込んできたのは、灯心草に点された小さな炎だった。
 その紅い揺らめきをぼんやりと見つめていると、痛みが少し薄らいでいく。
「来るのが遅いと思っていたら、こんな落とし物を拾ってくるとは……。珍しいことですね、あなたにしては。この坊やのどこが気に入ったんです?」
 呆れたような口調にどこか聞き覚えがあった。
「さぁね、どこが気に入ったのだか。……治療費は後から送りますよ」
「おや、仰々しいことで。キスの一つでもしてくれたら、帳消しですよ。打ち身程度の治療なんですから……」
「それを安いと受け取るべきか、法外だと言うべきか……」
「……失礼ですね。女性には優しくするものですよ」
「いいや。あなたは女じゃない。……と言って男でもない、か」
 忍び笑いが聞こえる方向へと首を巡らす。白い人影と紅い人影が重なって見えた。輪郭がハッキリとしない。
 誰だったろうか? ゆらゆらと蠢く影たちの声を思い出そうと頭の中を引っかき回す。もつれた記憶の糸のほころびを探すのは面倒だった。
「おや、気づきましたか。……具合はどうです、ミノス」
「はへ……?」
 よく状況が飲み込めない。霞んでいた視界のなかの人影が徐々にハッキリと見えだしたが、それは違和感のある光景だった。
「打ち所が悪くて、おバカさんになったんじゃないでしょうね。おチビのミノス?」
「誰がチビだよ。……数年後にはてめぇの背なんざ追い越してるぜ、男女のムーラン」
 含み笑いを浮かべたまま自分を見つめている朱の瞳の持ち主に悪態をつく。覚醒するに従ってミノスはいつもの不遜な態度を取り戻していた。
 目の前には海聖アクームのカイゼルが長椅子にゆったりと腰を下ろし、その肩にしなだれかかるようにして白廉(アリア)のムーランが寄り添っている。カイゼルの白い肌とムーランの純白の肌と髪が、カイゼルの燃えるような髪の色をいっそう激しいものに見せていた。
「どうやら頭も無事みたいですね。少しは可愛げのある性格になっていたら良かったのに。……どうします、カイゼル。私がしばらく預かりましょうか?」
「虎の穴に仔山羊を放り込むようなものですね。連れて帰りますよ」
「……とことん失礼な人ですね、あなたって人は」
 絡みついてくるムーランの白い腕を慎重に外すとカイゼルは音もなく立ち上がった。残念そうな溜め息が後に残されたムーランの口元から漏れる。
 その様子を大人しく見守りながらミノスは背筋に走った悪寒に耐えた。
 どうやら自分は今、白廉宮殿にいるようだ。海聖宮殿共々、普段は人気のない宮殿なので、近寄ったことがなかった。
 以前にムーランと会ったときは正殿で顔を会わせていたし、長話をした記憶もない。適当にあしらわれ、からかわれた想い出しかないので突っかかってみたが、ムーランの噂はいつもどこか妖しげなものが多い。
 こんな宮殿に置いていかれたら、どんな目に遭わされるか知れたものではない。
「まだ動くな」
 起きあがろうともがいたところにカイゼルの冷たい制止の声がかかった。高楼での仕打ちを思い出し、彼の忠告を無視することに決める。
「うるせぇな。指図は受けな……いぃっっ!」
 体に走った激痛に顔が歪む。あの高さから突き落とされたのだ、並の人間なら死んでいたかもしれない。
 減らず口を叩けるだけ大したものなのだが、痛みにのたうち回るミノスをカイゼルは冷たく見下ろした。
「受け身もとれんとは……。未熟者め。もう一度、双頭獣パービル殿に鍛え直してもらえ!」
「お……お師匠は関係ない!」
 呻き声が混じるが、強気で言い返してくるミノスの様子にカイゼルがわずかに口をつり上げて笑った。獲物を追いつめている肉食獣のような笑みだ。
「どうしようもない愚か者だな」
「珍しい。あなたが私以外の者の前でも、そんなに饒舌に振る舞えるとは知りませんでしたよ、カイゼル」
 背後からの声にカイゼルが顔をしかめた。不機嫌さを表しているのだ。
 膨れっ面こそ見せないが、彼の顔がふてくされたものだと気づいてミノスは目を丸くした。自分がカイゼルにいいようにあしらわれているように、カイゼルもムーランとのやりとりでは未だに主導権を握れないでいるようだ。
 少しだけ胸のすくような気がした。だが、その自分は二人にまったく歯が立たないのだから、みそっかすもいいところだが。
「薬草も頂いたことですし……。そろそろお暇いとましますよ、ムーラン」
 肩越しにムーランを振り返ったカイゼルが無表情に声をかける。それに悠然と笑みを浮かべて頷くムーランはやはり一枚上手ということか。
 外見は二十代半ばといった年齢だが、実際の所はもっと年かさなのかも知れない。平坦な顔立ちのムーランからは、顔に浮かんだ表情以上のものが内心に隠されているようなあいまいで得体の知れない雰囲気が漂っている。
 ムーランの曖昧模糊とした表情を観察していたミノスの体がふわりと宙に浮いた。
 驚いて自分の体を見下ろしてギョッとする。カイゼルが軽々と自分を抱きかかえているではないか。こんなみじめったらしい格好は他にはあるまい。
 ミノスはジタバタと暴れてみる。が、不安定な体勢からではカイゼルの戒めを解くのは容易なことではなかった。
「大人しくしてらっしゃい、坊や。自力で歩いて帰れないのですから、カイゼルに抱いていってもらうしかないでしょうに」
「う……うるせぇ! 一人で歩いて帰れる!」
「……黙ってろ。耳元で喚くな」
 抵抗するミノスの動きを封じると、カイゼルが戸口へと向かった。それを送り出すようにムーランがゆらゆらとした足取りで続く。
 ミノスはと言えば、動く度に激痛が体を貫き、さすがに大人しくしているしかないようだ。情けないことだが、カイゼルの肩にしがみついて体を固定していないと、痛みに意識が遠のきそうだった。
 この男の腕の中で気を失うなど、屈辱以外の何物でもない。
「それじゃ、見送りはここまでにさせてもらいますからね」
「えぇ。……では、またいずれ」
 囁くような小声で別れの挨拶を済ませる二人を不機嫌そうに睨み、ミノスは頬を膨らませた。結局自分は厄介なお荷物でしかないわけだ。
 彼らの万分の一でもいい、相手を寄せつけない強さが欲しかった。正闘士になって二年……。自分はまだまだ一人前の正闘士とは言えないようだ。
 歩き始めたカイゼルの肩越しに見送る白い影を見ると、白い指先をコケティッシュに蠢かせて自分に手を振るムーランと眼があった。ぷいと顔を背けるが、それすら相手にはお見通しなのか、忍び笑いが耳に届く。
 いっそう頬を膨らませたミノスの頬を冷えた夜風がなぶっていった。
「お前のところには打撲に効く薬草は用意してあるのか?」
 突然に話しかけられてミノスの体が硬直した。忘れていたわけではなかったが、自分の目の前にある白い麗貌はどこかしら幽玄世界の住人を見ているような印象を与える。
「し……知らない。従者たちに聞けば判るだろうけど」
 そうか、と小さく呟いたカイゼルの横顔は無表情なままで何を考えているのか見当もつかない。
「なんでムーランのところへなんか連れていったんだ」
 不機嫌なままにミノスがカイゼルに問いかけた。同じ正闘士仲間のなかでも、ムーランほど得体の知れない者はいないだろうに。
 カイゼルの瞳がチラリとミノスへと向けられ、また前方へと戻った。表情は少しも動かない。
「薬草をもらいに行く約束があったからな。お前の治療はついでだ」
「治療って……。でも、ムーランじゃなくても治療くらいできるだろうが」
「ムーランの腕は一流だ」
「男か女かもはっきりしないような奴じゃないか!」
 ギロリとカイゼルの瞳が光った。殺気が宿ったといったほうが正確かもしれない。
「人の身体的特徴をあげつらって愉しいか?」
 底冷えのする声がミノスの背筋を這い登ってくる。思わず身震いしてミノスはカイゼルから眼をそらした。
「ムーランは確かに男でもなければ女でもない。……無性生体なのだから、判別のしようがない。それはムーランが望んでそうなったわけではあるまいに」
「……」
「相手に敵わないからと言って、貶おとしめて良いことはない。お前も正闘士の端くれなら、心得ておけ。体がどうであれ、ムーランの医師としての腕は認めても良いはずだぞ」
 冷え切ったカイゼルの声に打ちのめされてミノスは下を向いた。
 子どものように駄々をこねている自分が愚かに見える。カイゼルの言い分に反論する余地は自分にはない。
 ムーランを煙たがっているばかりの自分には正々堂々と彼の言葉を受け止めることすらできない有様だ。
「宮殿に戻ったら、二~三日は安静にしていろ。打撲は翌日と翌々日が一番辛いからな」
 悄然と肩を落としたミノスの様子にかまうことなくカイゼルは立ち並ぶ宮殿群の間を進んでいく。
 飄々とした彼の態度にいっそう惨めな気分になったのか、ミノスは金蠍蛇宮殿に到着するまで一度も彼の顔を見上げることなく俯き続けていた。


 薄紫色の東の空に鋭い星光が瞬き始めた。風が一瞬凪いだあと、再び吹き始めた。今度は夜の風だ。人の肌をなだめるような優しい風が吹き抜けていく。
「ミノス。そろそろ行こう」
 いつまでも動こうとしない若者にアダーリオスが声をかけた。
 それにようやくミノスが振り返る。口元を少しだけ歪めて笑うが、顔は笑顔を刻もうとしているのに、瞳は泣きそうだ。
「アダーリオス。今回はヒースも来ているんだろ?」
「あぁ……」
「行こうか。皆、待ちくたびれているだろうしな」
 肩を並べて丘を下り始めた二人の姿は麓からは見えないだろう。
 見習いの若者が呼びにきてから随分と時間を費やしている。痺れを切らして待っている正闘士仲間たちの強面を想像したのか、ミノスがクスリと笑みをもらした。
「浮遊大陸の者たちは相変わらず我が物顔で空を席巻しているってのに……。俺ときたら、いつまでも独りで暮れなずんでいる。愚か者のところは少しも治っていないな」
「……ミノス。お前だけじゃない。ヒースの前ではそんな顔をするなよ。あいつが一番傷つく」
「判っているさ」
 銀色の月光が頭上から降り注いだ。その澄み渡った光に体を洗われ、二人の足が同時に立ち止まった。
 丘の麓に人影が見える。白い影と淡い銀色に輝く、二つの影……。
「……お迎えだ。年寄りどもが苛立っているらしいな」
 口の端をつりあげてミノスが喉を鳴らした。笑おうとして失敗したのだ。見覚えのある人影に、歩を進める勇気がくじけそうだった。
「……ムーランとヒースか。爺たちをなだめすかしているのはシエラ辺りかな?」
 苦笑を漏らしながらアダーリオスがミノスを促した。
 それに勇気を得たのか、再びミノスの足が動き出す。そんな二人を見守りながら、眼下の影がそっと寄り添った。消え入りそうなその影たちにミノスは手を挙げて応える。
「待たせたな、白廉(アリア)。出迎えご苦労さん、海聖(アクーム)
金蠍蛇(ムシューフ)牙獣王(レンブラン)星導主(アグールー)がカンカンですよ。急いでください」
 気遣わしげにミノスとアダーリオスを見比べていた銀髪の少年が早口にまくし立てる。濡れたように光る藍色の瞳が憤然と燃えているところを見ると、随分と麓で待っていたのかもしれない。
「爺のヨタ話なんか聞いてられるかよ、ったく」
「ヨタじゃないです。浮遊大陸とのいざこざなんですから! 上空を彷徨うろついている竜種をどうするか話し合おうっていうときに……」
「およしなさい、ヒース。ミノスに突っかかっていっても、バカらしいだけですよ。ホントにお気楽なんですから、この人は」
 純白の髪をしどけなく掻き上げながら、ムーランが少年を流し見る。朱色の瞳が呆れたというように光り、少年のささやかな反論を封じてしまった。
 膨れっ面のヒースの顔に昔日の自分が映る。その奇妙な感覚に苦笑すると、ミノスはわざとらしく伸びをして銀月を見上げた。
「お月様も顔を出したことだし……そろそろ爺たちの顔を見に行ってやるか。俺がいなくちゃ何も始まらないようだしな」
「だから急いでって言ってるでしょ!」
 いっそう頬を膨らませたヒースの肩をムーランがなだめるように叩き、アダーリオスが小さな笑い声をあげた。ミノスの傍若無人な外面に騙されているうちは、ヒースもかつてのミノス同様にまだ半人前だということだろう。
「さぁて、行くか。……ところで、飯くらい喰わせてくれるんだろうな、爺どもは」
 闇の中でさえ太陽のように輝くミノスの髪に見とれていたヒースがムッとした顔をして反論しようとしたが、それを遮ってムーランがしれっと返事をする。
「私がここへ来るときには用意してありましたけどねぇ。……もう下げられかもしれませんよね」
「あぁ~ん? 腹ぺこで爺の眠たいお説教なんぞ聞きたくもねぇぞ。急ぐぞ、アダーリオス。俺の飯がなくなっちまう」
「俺の、じゃなくてオレたちの、に訂正してくれ」
 歩調を早めたミノスを追いかけてアダーリオスたちも駆け出した。それぞれが羽織る純白のマントが優雅にはためき、闇夜に白い翼を広げる。
 背後に遠ざかる黒い丘を振り返る者は誰もいない。
 死者を抱いた丘は沈黙を守ったまま、駆け去る四つの影をいつまでも見つめているようだった。

終わり

〔 13772文字 〕 編集

ナジェール譚

No. 27 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
金と紅 Part:1

 暮れなずむ丘の頂に黄金色の影が佇んでいた。小高い丘の下に、ゆったりとたゆたう海原が見えた。遮るものがない丘の上で、人影はじっと動かない。眩しいほどの輝きを放つ髪だけが純白のマントの上に波打って流れ落ちる。
「馬鹿野郎……。自分独りで歩くことを止めちまいやがって。俺じゃ面倒みきれねぇぞ」
 感情を押し殺すために噛みしめられた唇は微かに震え、血が滲むほどに拳を握りしめている。
 それでも逆巻く激情を隠しきれず、彼の蒼い瞳はカッと見開かれ、巌も砕けよ、と地面の一点を睨み続けていた。腰まで届く巻き毛も、彼の激情につられたように風に逆立つ。
「馬鹿野郎……」
 何度口走っただろう。無益なことと知りつつ、彼は悪態をつき、長い間そうやって立ち尽くしていた。他に何もできなかったから……。
 背後に人影が差した。それに気づいているのかいないのか、黄金の人影は微動だにしない。くすんだ短めの金髪に縁取られて日に焼けた顔が目の前の若者に向けられている。二人は同年代だろう。二十代も半ばといったところか。
 お互いに何も言葉を発しはしない。丘の上にひっそりと立ち尽くす二人の姿はまるで彫像のようだ。潮騒の規則的な音だけが時を刻む。
 人の気配がした。二人の背後に控えたその影が跪く。
金蠍蛇(ムシューフ)牙獣王(レンブラン)天聖秤(ラディーム)から召集がかかっております。正殿までお越しを……」
 若年の闘士見習いが、遠慮がちに声をかけた。その呼びかけに「わかった」とだけ返事を返すが、金蠍蛇(ムシューフ)と呼ばれた闘士はいっこうに動く気配を見せない。
 だが見習いの若者は、用事は済ませたとばかりに足早にその場を立ち去っていく。
 勇名な闘士の聖なる眠りを妨げることへの畏れではない。夕暮れが迫った空を背景に、その半身を赤く染めて背を向け続ける黄金の闘士に、激しい拒絶の気を感じたからだった。
「丸三年が経つ……。お前が逝ってから。俺たちが初めて会ったあの日からなど、いったい何年経ったのかな。……なぁ、カイゼル」
 まとわりつく髪を払いのけて、金蠍蛇(ムシューフ)の闘士は夕焼けに燃える海を見下ろした。寂々とした空気に耐えられぬのか、闘士は海から視線を外し、再び丘の一点……かつての盟友の白い墓標に食い入るような視線を投げかける。
 それを見守る牙獣王(レンブラン)の静かな視線だけが、人影と墓標を包んでいた。


 真夏の日暮れ時、ここ神域では昼間の熱気は去り、一日のうちでもっとも開放感に満ちた雰囲気が辺りを包む時刻だ。
 もうしばらくすれば、星が薄紫色の空にダイヤモンドのように輝き散らばり、麗しい姿を地上の生き物の前に見せるだろう。
 ほとんどの者は一日の訓練を終えて、一息ついたところだった。
「ミノ~ス!」
 くすんだ金髪の精悍な顔立ちの少年が高台へと駆け上がっていく。彼が足を向ける高台には、黄金の影がじっと相手が近づいてくる姿を見下ろしていた。
 少年は駆けどおしでここまで来たのだろう。夕焼けに染まっていない側の頬がうっすらと赤みが差している。
「何を慌ててるんだよ、アダーリオス」
「あいつ……。海聖(アクーム)が来たんだよ! 今頃は法王様に謁見しているぞ」
 息を切らせている少年、アダーリオスを見つめてるミノスの眉がピクリとつり上がった。こちらもアダーリオスと大して年齢差はなさそうなミノスの顔が少年の顔立ちから闘士のものへと変貌していく。
 不敵に口元を歪め、嘲弄的な光を湛えた瞳を細める。元々鋭い眼光がいっそう鋭利な刃物の輝きを浮かべた。獲物を追いつめ、一撃で屠る狩人の容貌がよく似合う少年だった。
「ふん、珍しいこともあるもんだな。あいつが北方の氷原から出てくるのは二年ぶり……か?」
「あぁ、そうだな。たぶん二年くらいになる。オレは一度後ろ姿を見たことがあるけど……氷の闘士と呼ばれているのに、炎よりも紅い髪をしてたっけ。ミノスはまだ面識がなかったろう?今回は会っておくか?」
 もうすぐ陽が没していく遠くの山々の彼方を眺めながら、二人は高台を降りて広場へと向かった。
 いつも日没近くになると、大広場は夕涼みも兼ねて談笑のたまり場となる。この日は北の氷原から海聖(アクーム)のカイゼルが、東の山谷から白廉(アリア)のムーランが到着しているとの噂で、賑わっていた。
 神域を流れる川から引かせた水道橋の各所から溢れる水飲み場も同様で、珍しい客人の到来の噂は瞬く間に神域のあちらこちらに広まっているようだ。
「姦しい奴らだ。いつの世にも人の噂話で狂喜乱舞するバカはいるが、今のこの様と言ったら人のあら探しをして楽しんでいる下賤な下界の輩と同じじゃないか。神域の者にあるまじき浅ましさだ」
 ミノスの顔が嫌悪に激しくゆがみ、その体からは闘気が噴きだした。あからさまな侮蔑の言葉を吐き出す彼に、アダーリオスは苦笑をもらし、ささやかながら弁明を試みた。
「仕方ないよ。滅多に神域に顔を見せない三人の闘士のうち、二人も同時に見る機会が訪れたとなれば、誰だって好奇心をくすぐられるさ。オレだって、噂話をしている奴らと大差ない心境だよ」
「俺たち闘士はいったいいつから曲芸団の見世物馬や道化師になり果てたんだ? 第一、神域を守る闘士はその二人ばかりじゃないぞ。空席になっている雅天矢(サージャ)双生樹(ジャクラ)以外の十席は埋まっている。俺やお前だってその闘士の席を預かっているんだぞ! まったく気分が悪いったら……何が可笑しい、アダーリオス!」
 自分の横で笑い始めたアダーリオスを睨みつけて、ミノスは口を尖らせた。先ほどの冷徹な眼光はなりを潜め、自分の話を体よくはぐらかされた子供のようにむくれて頬を膨らませている。
「あぁ、悪い、悪い。でも、ミノスだって興味がないわけじゃないだろう? 特に海聖(アクーム)のカイゼルには……」
「なっ……」
 図星を指されて顔を紅潮させたミノスを見て、アダーリオスは再び笑い出した。そっぽを向いたミノスが足早に金蠍蛇宮殿へと歩き始めた。それをアダーリオスが追いかけてくる。口元はまだ笑みを貼りつかせたままだ。
「ついてくるなよ!」
「だぁ~め、駄目! 顔にしっかり書いてあるぜ、ミノス。“気になって仕方ない!”って。お前はムーランとは面識があるけど、カイゼルには一度も顔を合わせたことがないだろ? 好奇心が旺盛なミノスが無関心でいられるもんか。それに氷の闘士との呼び名も高いカイゼルが氷の名に相応しくない髪の色をしていると聞いて……痛っ!」
「……バカッ!」
 アダーリオスの頬に強烈な平手打ちを食らわせると、さっきよりも顔を紅くしてミノスが怒鳴った。どう贔屓目に見ても、やりすぎな感がある。しかし、ミノスの性格をよく知るアダーリオスは素直に詫びた。
「謝ったって許してやらん!」
 言葉荒く喚くミノスを見て、アダーリオスはまた笑い出しそうになった。だが、辛うじて笑みを納めると、今度こそ真顔でミノスに語りかける。
「まぁ、でも実際のところ、カイゼルには会っておいたほうがいいよ。北方の守りを一手に引き受けている強者だ。今後接触することも多くなるだろうし……」
 アダーリオスとしてはこの機会に是非とも海聖アクームと面識を得たいと思っている。しかし自尊心の高いミノスが自分のほうからノコノコと会いに行くとも思えない。
 アダーリオス独りで会いに行こうものなら、後からどれほど八つ当たりされることか。素直に自分の提案に乗ってはこないミノスをどうやって会見の場まで連れて行こうか……。
 当のミノスにしても重要性は判っているつもりなのだ。
 闘士のなかでも、自分たち正闘士はきっちり十二人。正闘士の座を狙う従闘士や下働きの衛士などのような雑兵とは扱いが違う。力量の差があるのだから当然のことだが、それに見合った責務もこなす。
 北方の大地を守る海聖(アクーム)はその正闘士のなかでもかなりの強者との噂が高い。同じ正闘士同士、面識があるほうが何かと都合がいい。
 判ってはいるが、自分のほうから出向くということが許せないのだ。
 暮れ残っている太陽光が二人を照らしている。それを凝視しながら考え込んでしまったミノスに、アダーリオスは小さく苦笑すると一つの提案をした。
「法王の謁見は海聖(アクーム)が先らしい。とすると、だ。そろそろカイゼルの奴は自分の宮殿へと戻る頃だと思うんだけどな」
「……! アダーリオス……」
 にんまりとした笑顔をアダーリオスがミノスに向ける。つられるようにミノスも笑みを返し、正殿へと向けて二人は走り出した。
 後になり先になりしながら、ミノスが相棒に向かって叫ぶ。
「アダーリオス! ……許してやるよッ」
 真夏の太陽が、今まさに地平線の彼方に沈もうとしていた。


 黄金の額飾りが眩く輝き、深紅の髪がいっそう赤みを増して見える。色素の薄い瞳は氷色。松明の炎が映っているせいなのか、激しいほどの眼光を放っていた。
「……では、また私の元に弟子入りを希望するものが?」
「左様。大陸の東の果てに住む少数民の子どもだがな。名は……確か、ヒースと言ったか。
 卿の元には二年前にアイザーが弟子入りしたばかりだが、他の者も弟子を抱えておったり、まだ師となるには未熟であったり……。指導できる者もおらぬ上に、当のヒース本人からのたっての願いだそうだ」
 御簾の向こう側から響く法王の声はいかめしく、御簾越しに見える錫杖が鈍色に重々しく光っていた。その錫杖の持ち主に射抜くような視線を走らせた後、紅い麗人は深々と腰をかがめた。
「御意のままに……」
 法王が確認の意味で静かに頷いた。それを退出の合図と心得ているのか、かがめた腰を浮かせる。
 鳥が舞うごとく軽やかにマントをさばいて立ち上がると、後は後ろを振り返ることなく謁見の間を後にした。
 彼の表情は少しも崩れない。凍りついたように無表情を保ったまま。
 謁見の間の大扉が軋んだ音を辺りに響かせて彼の背後で閉ざされる。
 両側に立つ衛士たちに目礼で挨拶を済ませた。それで終わりだ。必要以上のことを喋ろうともせず、紅の人は長い回廊へと歩を進めた。
 ふとその廊下の先に視線を送れば、人影と視線が合った。
 純白の髪に蝋のような白い肌。ほの暗い朱色の瞳がそのなかで唯一の色彩だ。艶然と微笑むその顔立ちは中性的で、全身を覆うケープと相まって男とも女とも判断がつかない。
「お互いに神域へくるのは久しぶりですね。……変わりないですか、カイゼル」
 声はややハスキー。これも男のようでもあり、また女のようでもあった。どこかのっぺりとした顔は仮面を思わせる平坦な作りだった。美人、というよりは得体のしれない顔といったほうがいいか。
「えぇ。あなたも変わりない様子ですね、白廉(アリア)のムーラン」
 端正な顔立ちに儀礼的な笑みを浮かべ、カイゼルが必要最小限の返事を返す。
「この後は暇ですか? 私のところに切り傷や火傷に効く薬草がありますけど、取りに来たらどうです? ……今年は生育がよくてね。採りすぎてしまって、困っているのですよ」
「お伺いしますよ。北の氷原では薬草は貴重品です。……しかし、食事がまだでしてね。夕食後にお伺いすることになるが、よろしいか?」
 二人の会話を打ち切るように、廊下の奥から衛士が声をかけてきた。
白廉(アリア)。法王様がお待ちです、お早く……」
 ムーランは衛士の方に了承の身振りを見せ、再びカイゼルへと向き直った。物足りなさげな様子が伺えたが、顔には年長者の余裕の笑みが浮かんでいる。
「では、また後ほど、私の宮殿で……」
 飄然と歩き去るムーランを氷の瞳の端で見送り、カイゼルはマントを翻してその場を離れた。冷酷な横顔からは感情らしいものは何一つ見当たらない。
 正殿を出て眼下へと延びる長い石畳の階段を見下ろすと、二人の少年が踊り場付近に所在なげに佇んでいる姿が目に入った。雑兵たちが身につけている皮の鎧が夕暮れのなかに鈍い光沢を放っている。
 二人ともカイゼルよりやや年下、およそ十三~四歳であろうか。一人はくすんだ金髪。もう一人は……。
 いま一人の少年の容姿を確認したカイゼルの顔に驚きが広がった。しかしその感情もすぐに冷たい瞳のなかに封じられる。
 それでも無表情ながら、視線を二人から外さぬままにカイゼルは階段を下り始めた。
 何という金髪だろうか。カイゼルは不躾な自分の視線に気づいて慌てて瞳を二人からそらしたが、押し隠したはずの一瞬の驚きに自分が動揺していることを自覚していた。
 こんな経験は初めてだ。それほどに少年の容姿は人目を惹いた。
 正殿は小高い場所に建てられているため、陽が沈んでも空を焦がす太陽の赤い光が見える。その残光のなかにあってさえ、少年の髪は燦然と黄金色に輝き、それ自体が中天の太陽のような眩さで夕風に揺れている。
 片側に寄り添うように立つくすんだ金髪の少年も決して平凡な容姿ではないのだが、この黄金の塊のような少年と並んで立つとどうしても見劣りがした。
 これほどに黄金の激しい煌めきが似合う者を見たのは初めてだ。いったい誰に師事している闘士見習いであろうか?
 新しく弟子入りしてきた者たちの噂を記憶の底から掘り起こしながら、カイゼルはホッと小さな吐息を吐き、盗み見るように彼らの顔を観察した。
 見れば見るほどその黄金の髪に目を奪われる。
 しかし陶然とその髪を眺めていた瞳が少年の深海を思わせる蒼い瞳とぶつかったとき、カイゼルの表情が凍りついた。
 いや、表面上はまったく判らないだろう。だが氷色の彼の瞳がほんのわずかに細められたことを説明するならば、それは凍りついた、と表現するしかない。
 思わず歩んでいた足を止めて立ち止まる。
 滅多に神域へこない自分が好奇の視線にさらされることはいつものことだ。カイゼルには別段気に病むようなことではない。だが少年の瞳に好奇心以外の別の感情を見出した。
 体からあふれ出している闘気……。鋭い視線。雑兵とはとても思えない、胸をそびやかすその姿勢。
「なるほど。噂には聞こえてきていたが……。そういうことか」
 カイゼルの表情に薄く笑みが浮かび、それもまた消えていった。
 無表情というヴェールの奥に湧いてきた感情を包み込んで、カイゼルは石造りの階段を踏みしめてゆっくりと歩き始めた。
 カイゼルが近づくにしたがって、二人の少年の顔が目に見えて引きつっていく。あふれ出している二人の闘気がカイゼルの白い肌の上に突き刺さる。
 まだ幼さを残した彼らの表情には、はっきりとした闘志が浮かび、自分を値踏みしている様子が見て取れた。
 太陽の輝きを持つ少年のほうは特に激しい闘志をむき出しにしている。だが懸命にこらえているのか、カイゼルの通り道を塞いだりはしない。
 蒼い瞳の奥で炎が揺らめいていた。少年たちは二人とも正闘士への礼節をわきまえていないようだ。普通、見習いならば地位の高い闘士に対して、跪くか頭を垂れるかなどの行為で敬意を表す。
 だが彼らにはその様子が皆無だった。
 カイゼルが二人のいる踊り場まで到着した。そのまま彼らの眼前をゆっくりと通り抜け、さらに続く階段へと歩を進める。まるで二人のことなど眼中にない態度だ。
 そのゆったりと歩んでいたカイゼルの足が止まり、糸に引かれるように、ふっと背後の二人を振り返る。
「……!?」
 氷の瞳が二人を流し見、初めて感情らしい感情をその白い相貌に浮かべた。それはまるで悪戯が成功したときの悪童が浮かべる、誇らしげな笑顔のように鮮やかな表情だった。
「全然似合わないな、どこでそんな服を調達してきたんだ。……特に金蠍蛇(ムシューフ)。君の変装はまったくいただけない。これほどその格好が似合わない者を初めて見たぞ」
 氷原を吹き抜ける風はきっとこんな感じなのだろう。そう思わせる笑い声が薄闇の空に消え、悠然と歩み去る紅の闘士を見送る少年たちは唖然としたまま立ち尽くしていた。
「ばれていたのか……」
 溜め息とともに呟くアダーリオスの脇で、ミノスが激しい視線をカイゼルの背中に送っていた。
 地平線の向こうに沈んだ太陽が最後の光芒を放ち、その残光も神々の居ます空に抱かれて消えていく。星の輝きが増し、その銀の天糸を二人の少年の頭上へと落としていた。


 淡い月光に照らされた影法師が二つ、タンゴでも踊るように幾つもの宮殿の間を進んでいく。
「ミノス、どこ行くんだよ。食堂は反対側だぞ! おいったら! ……聞いてるのか、お前はっ」
 アダーリオスがミノスの背中に呼びかける。それに答えてミノスがくるりと振り返った。不機嫌な顔のなかで蒼い瞳がギラギラと光っている。
「うるせぇぞ。俺は考えごとをしてるんだ。ちょっと黙ってろよ」
 自分がどこへ向かおうと勝手だろう、とミノスの表情が主張していた。
 だがアダーリオスも負けてはいない。自分に出来うる最高に怖い顔を作り、睨みつけてくる相手と真正面から対峙する。
「フンッ。どうせカイゼルに正体がバレちまって、悔しいんだろ。あれじゃ、物陰から盗み見をしていたのを見つかったガキと同じだからな!」
 ミノスの顔に見る見るうちに血が上っていく。表情も激変して、今にも襲いかかってきそうな凶暴な視線がアダーリオスの瞳を捕らえる。
 それを内心では冷や汗をかきながら観察し、相手の怒りが頂点を越えそうになった一瞬を計って言葉を続ける。
「オレは腹減っちまったよ。さっさと飯喰いに行こうぜ。早く行かないと、他の奴らに盗られちまうからな!」
 怒りとは対局にある呑気な笑顔を浮かべたアダーリオスに、ミノスが一瞬虚を突かれ、自分だけが怒り狂っていることがバカらしくなったのか、荒々しい吐息を吐いて空を見上げた。
「早く来いよ!」
 一足早く駆け出したアダーリオスを追いかけながら、ミノスが苦笑する。
 来た道を瞬く間に逆走し、広場に隣接した公会堂脇の食堂へと二人は駆け込んでいった。
 本来ならば、正闘士となったミノスとアダーリオスは自分の宮殿で食事を摂ることができる身分だ。
 しかし成年まで今少しの猶予がある二人には、宮殿での静かすぎる食事よりも、賑やかな大衆食堂での食事のほうが何倍も魅力を感じるのだ。
 ところが、食堂の名前“居眠り天使”という安穏としたイメージとはほど遠い喧噪にいつも包まれている食堂が、今日に限って奇妙な沈黙に満たされていた。
 異様なほどの熱気と羞恥の欠片もない好奇の視線。その怪しい雰囲気に半ば呑まれながら、二人はその原因らしい方角へと首を巡らせた。
「カ……イゼル……?」
 法王との謁見のときにまとっていた正装を脱ぎ、北方民が好んで身につける毛織物の上下という軽装に着替えている。
 四人掛けのテーブルにたった独りで腰を下ろしているが、彼が目立っているのは、そのせいではない。
 炎よりも紅い髪に氷色の瞳。北方民特有の静脈まで透けて見える雪のように白い肌。
 神域に住まう者の日に焼けた肌や濃い色素の瞳を見慣れている者には、髪以外のカイゼルの色素の薄さは現実離れした印象があった。
 この場に居合わせた全員が見惚れている、と言っても過言ではない。それほどに目立つ容姿だった。
「ハッ! 掃き溜めに鶴だぜ。お貴族様のあいつがこんな下々のところにくるとは思わなかったな。きっと自分の宮殿でふんぞり返って食事をしてるだろうと思ったのに」
 容姿だけならカイゼル同様に貴族的なミノスが口元を歪めて、吐き捨てるように呟いた。それをアダーリオスがたしなめる。
 だがミノスの表情からは素直に反省してるようには見えなかった。
 もっとも、カイゼルは貴族階級の出身ではない。多少裕福な家柄の者ではあったが。さらに余談ながら、ミノスやアダーリオスも平民出だ。いや貧民層に近い貧しい家柄の出身である。
 地方を見回る巡検闘士に見出されてこの神域へこなければ、今でも痩せた土地を耕している農民か、うらぶれた下町で職を求めて彷徨く乞食になっていただろう。
 むくれるミノスを引きずってアダーリオスがカイゼルへと近づいていった。まわりの兵士たちの間から驚愕とも羨望ともつかぬざわめきがあがる。
「やぁ。ここ空いてるかな?」
 どうぞ、と答えるカイゼルに礼を言い、アダーリオスはふてくされているミノスを小突いてカイゼルの正面に設えられた空席へ座らせた。
 自分も二人の間、右手にミノスを、左手にカイゼルを見る形の席に腰を落ち着けて、ミノスと二人分の料理を注文する。
 凄まじいほどの熱気が三人を押し包んだ。
 この視線の集中砲火を浴びて、たじろぎもせずに端座している彼らのほうがはっきり言えば驚異的だが、それに気づいている者は一人もいないようだ。
「その衣装だとこの神域では暑いだろ、カイゼル」
 異様に高まっている緊迫感を拭うようにアダーリオスがカイゼルへと声をかけた。その一言でまわりの兵士たちからも緊張感が一瞬引いた。
「……そうでもない」
 短い返事を返したカイゼルにさらに話しかけようとアダーリオスが口を開きかかったとき、険悪な口調でミノスがぼそりと呟いた。
「ケッ!暑くないわけねぇだろ。……勿体つけやがって」
 ミノスの毒舌に収まっていた辺りの緊張が一気に高まる。
 先ほどの好奇心とは別の緊迫感が、空気を重くして三人のまわりに凝固したようだった。
 ハラハラとミノスの傍若無人な態度を見守る見物人以外に、三人を餌にして賭事を始める輩まで出る始末だ。
 ヒソヒソと囁き交わす声が、アダーリオスの耳に届いた。
「赤毛に180出すぜ」
「なに、ミノスも負けてねぇって。おいらは200だ」
 その声につられるようにまわりのテーブルからも、囁き声があがる。
「オレもその賭に乗るぞ!」
「こっちもだ!」
 収まる様子などない。むしろエスカレートしていきそうだ。アダーリオスは不快感に抗議しようと彼らのほうへと振り返った。
 だが、その目の前に人影が差す。
「ピュ~♪」
 この不愉快な緊迫感の原因を作った張本人が呑気に口笛を吹く。
「へぇ。今日は珍客のお出でとあって豪勢だぜ。こんなことなら、いつでもお出で頂きたいモンだね。これでアステアの蜜酒(ミード)でもあれば言うことなしなんだけどな」
 平然と料理の品評をしているミノスに呆れ果てて、アダーリオスは嘆息した。そして視線を反対側のカイゼルへと向け、そのまま凍りついた。
「シ、シエラ」
 視線の先には黒づくめの男が立っていた。ちょうどカイゼルに料理のトレイを手渡し終わったところだった。切れ長の鋭い瞳が、ジロリと自分の名を呼んだ少年へと向けられ、口の端をつり上げて笑みを見せる。
「三人、仲の良いことだな」
 その刃物のような視線をまわりのテーブルへと順繰りに送る。鋭い切っ先を連想する瞳に恐れをなして、兵士たちが慌てて背を向けた。
 彼の冷たい一瞥に震え上がらない者はいない。自分に対峙する者がいないことを確認すると、男は残っていた最後の椅子に遠慮なく腰を下ろした。
「こ……ここで食べるの? いつもは自分の宮殿で食べるのに、どうしたのさ」
 情けない声音でアダーリオスが男、剣角(カント)のシエラに問いかけた。それに答える相手の口調はこれ以上はない、というほど高飛車なものだ。
「どこで食べようが勝手だろう。お前たちの食料を運んできてやった人物を追い払おうってのか?」
 反論の糸口を見つけられず、口をパクパクと開閉させるアダーリオスを後目に、シエラは自分のパンを頬ばって知らん顔を決め込んだ。相手の動揺などどこ吹く風といった様子だ。
 時折にまわりのテーブルへと威嚇の視線を向けているが、彼と渡り合おうとする者など兵士のなかにはただの一人もいはしない。
 その様子に、ようやくシエラが自分たちを賭事の対象から救ってくれたのだと、アダーリオスは気づいた。苦手な相手に山のような恩を作ってしまったようだ。複雑な表情のまま、アダーリオスは他の二人へと視線を向けた。
 ところが彼の左側に腰掛けている鉄仮面は「我関せず」と黙々と料理を口に運んでいたし、反対側の金髪の相棒は大恩人の皿の上に乗った羊肉のステーキの切れ端を虎視眈々と狙っているところだった。
 シエラに恩を感じているのは、アダーリオス一人だけのようだ。
 アダーリオスはがっくりと肩を落とした。
「オレっていったいなんなわけ……?」
 小さく呟いたアダーリオスの声は、ミノスの声によってかき消されてしまった。
「アダーリオス、お前喰わねぇのか? んじゃ、これ、俺がもらってやるよ!」
 返事をする暇もあらばこそ。シエラにステーキ強奪作戦を阻止されたミノスがアダーリオスの皿から鶏肉料理をさらっていく。
 呆気にとられてそれを見守ってしまったアダーリオスは、それが自分の好物の料理であることを思い出して目をつり上げた。
「ミノスッ! そ、それはオレのだろ!」
 慌てたところでもう遅い。ミノスはすでに咀嚼を終え、肉を嚥下していた。ニッカリと笑う小悪魔の微笑にアダーリオスは猛然と反撃を開始した。
「この野郎~ッ! オレの好物に手を出してただで済むと思うなよ!」
「へへぇ~んだ。俺様の好物はもう胃袋のなかだぜ。どうしようってのさ、アダーリオス」
 余裕の笑みを浮かべる相手に負けじとアダーリオスは不敵な笑みを浮かべて見せた。
「奪うばかりが能じゃないぜ」
 ギクリと顔を強ばらせたミノスの小皿に、アダーリオスは恭しく大皿から茄子とピーマンのソテーのうち茄子だけを移し替えた。あっという間にこんもりと茄子が山を成した。ミノスが蒼白になる。
「うぐ……」
 片手で口元を押さえたミノスが呻き声をあげた。
 ここ神域では、出てきた料理のうち自分の皿に取り分けたものは必ず食べ尽くすのが暗黙の了解になっている。それが膨大な人数の料理を賄う調理人たちへの礼儀でもあるし、無駄な残飯を減らす方法でもある。
「ア……アダーリオス。卑怯だぞ……!」
 茄子のぶよぶよと震える果肉から視線をそらすことができず、ミノスは蒼白な顔そのままの声で抗議した。
「他人の食料をくすねるのは卑怯じゃないってワケか? 都合のいいことだなぁ。……全部喰えよな、ミノス!」
 同情の余地はない、とばかりにアダーリオスが冷たく睨み返してくる。奪うばかりが能ではない、とはよく言ったものだ。ミノスは茄子が大の苦手らしい。
「勘弁してくれよ~……」
 半泣きで助けを求めるミノスを無視してアダーリオスは食事を続けている。
「程々にしておいてやれ、アダーリオス」
 二人のやりとりを黙って見守っていたシエラが、ようやく食事の手を休めて忠告してきた。しかし、真面目な顔をして注意しているわけではない。声が笑いにうわずっているし、口元が心なしか歪んで見える。
 シエラの忠告にアダーリオスが不承不承といった顔つきでミノスを見た。
 ミノスは相変わらず茄子と睨めっこを続けている。本当に茄子が駄目なのだろう。よほど過去に酷い目に遭っているに違いない。
「チェッ……」
 もう少し懲らしめてやろうと思ったのだが……。
 諦めてミノスの取り皿へと手を伸ばしかけたアダーリオスの目の前を白い繊手が横切り、続いて紅い色彩が踊った。
 ギョッとしてアダーリオスが身をすくめる。
「貰うぞ」
 面白みに欠ける声がさらに続いた。ミノスの前に山盛りになっていた茄子が姿を消し、跡には空っぽになった皿が放り出される。
 茄子の呪縛から逃れ、自分の置かれた現状を理解するや、ミノスが憤然とした顔つきでカイゼルに鋭い眼光を送った。
「ミノス、礼を言え」
 歯軋りさえ聞こえてきそうなほどの形相をしているミノスの右手から追い討ちをかけるように声があがった。
 相手を射殺す視線が声の持ち主へと移ったが、当の本人は何喰わぬ顔をして、眼前の料理を消滅させることに腐心している。
 ミノスは再び不機嫌な視線を、救世主へと向けた。感謝とはほど遠い表情である。しかし片頬を引きつらせながらボソリと囁く。
「……礼を言う」
 とてもではないが、感謝しているようには見えない……どころかその正反対である。
 しかし成り行きを静観していたアダーリオスは目をひんむいてミノスの顔をマジマジと見た。この傲慢な少年が大人しく礼を口にするとは!
 衝撃に手に持っていたスプーンを落としそうになる。
「……。大したことじゃない。私は茄子が好きなんだ」
 淡々と茄子を胃袋へと収めていたカイゼルの手が止まり、穏やかな微笑みさえ浮かべてミノスへと返事をする。そんな光景は想像だにしていなかった。
 今度こそ、アダーリオスはスプーンをスープ皿のなかに落下させた。
 自分の問いかけにも無愛想なら、まわりの兵士たちの嬌声にも無関心だったカイゼルが、ミノスのいい加減な礼の言葉程度で微笑むとは!
 場を取り繕うとしていた自分が滑稽に思えて、アダーリオスは嘆息した。
 なぜこんなところで自分が道化を演じていなければならないのだろう。
 用心深くスープの池からスプーンを取り出し、こっそりとアダーリオスはまわりの人間や同席者の様子を盗み見た。
 剣角(カント)のシエラが現れてからは、兵士たちは四人への関心よりも自らの食欲への忠誠を優先させており、今のやりとりを見ていた者は誰もいないようだ。
 自分の右側に座るミノスは屈辱感に頬を染めたまま乱暴に食事を続けているし、左側のカイゼルは他人のことなど眼中にないといった顔つきで黙々と料理を減らしている。
 さらに正面に座っているシエラは無関心を装いつつ、面白がって成り行きを傍観している気配が伺えた。
 こんなことで気を使っているのは、自分一人だけだ。
 うんざりした気分になり、アダーリオスは自分の食事へと没頭する決心をした。
 まわりの人間にかまっていて自分の食事をし損なうなんて、今のこの状況から考えるに、これほど馬鹿らしいことはないと思えたのだ。
 珍妙な空気が流れる食堂で、夕食は静かに続いた。

〔 12323文字 〕 編集

アマゾネスシリーズ

No. 26 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
永遠の娘【三話】

 自分の名を呼ぶ聞き馴れない声がすぐ耳元で聞こえる。
“らさ! 起キロッ”
 聞いたこともない子供の声。
「だ……れ……?」
 倒れたままの姿勢からラサは頭だけ動かして声の主を見上げた。
「ネモ……?」
 大きな光る目で自分を見下ろす竜の子と目が合う。自分にはちっとも懐かない可愛げのない生き物だ。
 ラサはお師匠に可愛がられているこの幼獣が内心では嫌いだった。
「あんたなの? 今、わたしに話しかけたのは?」
 異形の者が鼻を鳴らす音が小さく響く。
“他ニ誰ガイル? ……相変ワラズノ半人前カ、オ前ハ? えいらノ跡ヲ取ルニ相応シクナイ奴ダ!”
 小ばかにしたように竜が目を細める。口はまったく動かされていない。幼獣はラサの頭に直接話しかけてきているようだ。
「う、うるさいわね!あんた、こんなとこで何してるのよ!?」
 竜の子の不愉快な言葉にラサは飛び起きた。その拍子に自分の身にまとう白い衣装が目に入る。
「あ……!?」
“魔力グラマヲ受ケ継グコトダケハ出来タヨウダナ。ト、ナルト我ガえいらノ刻ときノ砂ハ止マッタカ……”
 ラサは今まで身にまとっていた衣装がまったく別のものにすり替わっていることに愕然とした。見習いの衣装の代わりに自分がまとっているものは、師匠が正装するときに身にまとう純白の羽織だった。
 袖下には月長石ムーンストーンが下がり、肩先を除く全身すべてを覆い尽くすその衣装は、ラサの身体の寸法を測って作られたように身体に馴染んでいた。
 慌てて額に手をやる。
 馴れない感触。金属の冷たさと真珠特有の滑らかな手触りが指先から伝わる。額飾りサークレットがここにあるという現実がラサの身体から血の気を引かせた。
「お、お師匠様……」
“マタソウヤッテ泣クツモリカ? 誰モ助ケテナドクレハシナイゾ。古書ヲ読ンダトイウノニ情ケナイ!”
 頭のなかで破鐘のように響く痛烈な批判はラサの胸に突き刺さった。
「カームになど……。こんなことになると知っていたら、カームになどなりたいなどとは思わなかったわ! なぜなの!? なぜお師匠様が死ななければならないのよ!?」
 泣き喚くラサを竜の子は冷めた目で眺めた。さも軽蔑したように鼻を鳴らす。
“……子供ヨナ。ソンナ覚悟デハ、えいらガ嘆コウニ……”
「あの書には……。あれには歴代のカームの生死が書かれていたわ! どこで生まれ、どこでどうやって死ぬか!」
 古書の秘密を他の者に漏らさぬはずだ。一族の癒し手の生死を書き記した書物など、他の者が知ってはいけないことだ。親しい者の死を知ってしまったら、時を数えて恐怖するだろう。
“ダカラ、癒シ手ニハナリタクナイ、ト? ……ソウヤッテ甘エテ、オ前ハ森ノ民ヲ見殺シニスルノダナ”
「……死にたくないわ。わたしには自分の死を直視する勇気なんてないもの! お師匠様の死だって信じない!」
 ましてや書物に自分の死に様が書かれていたとしたら……。歴代のカームたちは、こんな残酷なことが書かれた書物を読んだというのか!?
“愚カ者メガ! 血ニ飢エタ殺戮者タチカラ、オ前タチ幼子を護ルタメニ自ラノ命ヲ身代ワリトシタ師匠ノ想イヲ踏ニジルカ!? えいらノ代ワリニオ前ガ死ンデシマエバ良カッタノダ!”
 まだ貧弱な羽根を精一杯大きく開くと竜の子は凶暴な叫び声をあげた。
 竜の揺り動かす羽根の間から虹色の波紋が広がった。巨大な虹の壁が一面に展開し、めまぐるしくその色を変えていく。
「こ、これは……!」
“見ルガイイ! オ前ノ救ウベキハズノ者タチノ姿ヲ!”
 輝く壁のなかに暗闇で怯える子供たちと気を失って倒れているキーマの姿が見えた。
「キーマ!? 子供たちまで! ど、どこにいるの!?」
“守護者ニシカ開ケラレヌ闇ノ部屋ニ隠サレタ者タチダ!放ッテオケバ飢エテ死ヌ”
 壁が暗くなったかと思うと、今度は川上で繰り広げられる凄惨な戦場を映し出した。
「あぁ、そんな……。みんな、疲れ切って……。それに傷だらけだわ……」
“奴ラガタトエ勝利シテ戻ッテ来タトシテモ、癒シ手ガイナケレバ、永遠ニ戦ノ疲レハ癒サレマイ”
 再び壁が暗くなる。そして、今度は見慣れた館の前庭を映す。人が見える。ここでも誰かが戦っている。
「族長クーン! だ、駄目! 早く逃げてッ!」
“友ヲ救ウタメニ戦ウ者。ダガ、疲レ切ッタアノ躰デハイツマデ保ツコトカ……”
 壁が虹色に輝き始めた。そしてその輝きが収まると一人の白い女の顔が浮かぶ。
「お師匠様! お師匠……」
 額に汗を浮かべて詠唱を続けるカームの横顔は疲れ切ってきた。気丈さを装おう姿はいつも通り美しく、幻想的でさえあったが、張りつめた緊張の糸は今にも切れそうだ。
 聞いたこともない呪歌ガルーナの韻の間から懐かしい師匠の声が響く。
「さぁ、ラサ。受け取りなさい。あなたが今から受け継ぐのです。魂の守護者カームのすべてを!」
 優しい声音が空気を震わす。
「駄目です……。わたしは怖い。自分の死を見たくない! 耐えられません、お師匠様。自分の死を指折り数えて生きていくなど……!」
 ガタガタを震えながらラサは白い癒し手を見上げた。虚空に浮かぶ水晶球を凝視する師匠の横顔は青ざめている。
 水晶球が詠唱を続ける者の魔力グラマを奪っていく様子が手に取るように分かる。もうカームには幾らも魔力グラマは残ってはいまい。
「往きなさい。幼き者よ……。すべてがあなたのものです。……そう! 私の記憶でさえも!」
 ラサは金切り声をあげた。壁から猛烈な力が押し寄せてくる。押しつぶされそうなほどの強大な力。
“白キ娘ヨ。目ヲ逸ラスナ!”
 頭を抱えて転げ回るラサの脳裏に竜の幼い声が鳴り響く。その竜の声を追うように頭のなかに怒濤の勢いで流れ込んでくるものがある。
 怒り、憎しみ、呪い、嘲り、哀しみ、嘆き、恐怖、嫌悪……。
 闇から迸り、流れ込む感情の波にラサは翻弄されてもがきまわった。
「く、苦しい……。助けて……」
“巫女ノスベテヲ受ケ止メルガイイ! 娘ヨ!”
 際限なく続くかと思われた負の感情の流入が突然止まった。
 咳き込みながらラサは恐る恐る顔を上げた。光の壁に映し出された師匠の顔に滝のような汗が流れている。魔力の限界だ。これ以上力を使ったら、師匠は廃人になってしまう。
「お師匠様……。駄目です。あなたが死んでしまったら、わたしは癒し手に……」
 ラサは青ざめた顔を竜に向ける。
「お願い、ネモ! お師匠様を止めて!」
 だが竜の子がそれに返事を返すよりも早く、白い女は両手を高く突き上げて叫んでいた。
「受け取るのです、ラサ! ……これであなたラサは私カームになる!」
 水晶球を掴み取った師匠の指の間から閃光が迸った。
「お師匠様……! やめてッ!」
 掠れた叫び声をあげたラサの脳裏に閃光が突き刺さり、見覚えのない景色を焼き付ける。
 自分が生まれ落ちるより遙か以前の記憶。白い癒し手たちの幼い記憶がラサの脳髄の奥まで浸食する。

  そして また
  脈々と続く記憶を受け継いで
  再生の巫女が生まれよう

 あふれ出てくる記憶の数々にラサは目眩を起こして床に倒れる。これを一人で負えというのか!? 何十人という白い女たちの記憶。
 ラサの小さな身体では収まりきらないほどの記憶が彼女の内部を食い荒らす。激しい痙攣を起こしながら、ラサは悲鳴をあげることもできない苦痛に身を焼いた。
“見届ケヨ。白イ娘ヨ! コノ世ノ末マデ、スベテヲ見届ケルガイイ。”
 流れ込んでくる記憶の奔流を遡り、ラサは一族の者たちがあげる声無き苦悶を聞いた。身体は引きちぎられそうな苦痛が支配を続けている。
 しかし、心の方はより純粋に、天の高みに昇っていくように高次元の世界へと引き込まれる。
「あ……れが……カー……ムの……本……質……?」
 見開いたままの目から涙が溢れる。
“美シイ世界デアロウ?オ前ガ到達スベキ場所ダ”
 竜の子にもラサの見ているものが見えているのだろうか? 痙攣を繰り返す娘の身体を未発達な前足でなでさする。
「あ……ぁ、な……んて……綺……麗な……」
 ラサはなにを見ているのだろうか?
 彼女が流している涙は決して哀しみや苦しみのためのものではなかった。痙攣が続く唇がため息をもらす。安堵と、諦観を含んだ優しい吐息。
「竜よ。……古き者よ。私の子たちを助けて……」
 涙で潤んだ眼まなこが異形の瞳とぶつかる。
“待ッテイタゾ、ソノ言葉ヲ!”
 竜の子が口をいびつに歪めて笑い、すぐに喉を震わせて咆吼した。




「な、なんだい!? この声!?」
 ハルペラの剣が止まった。
 どんな肉食獣でも出しようのない凶暴で残酷な吠き声が間断なく夜空を、森を、谷間を震わせる。轟々と響きわたる声に身体がすくむ。
「あれは……!」
 アティーナのあげる声の方角を振り向いたハルペラは息を飲んだ。
 癒し手の館の上に巨大な黒い影が浮かんでいる。細い月を背にするその影の輪郭は禍々しい。
「古代竜! そんなバカな……あれは伝説の……」
 茫然と呟くハルペラの声を聞きながらアティーナも身体を震わせた。
 カームが飼っている竜の幼獣など足元にも及ばない。知恵の王“古代竜”が天空から自分たちを睥睨している。嘲笑うような赤い瞳。大きく開かれた口から覗く巨大な牙。巨躯の数倍に達するであろう大きな翼。
“血に飢えた戦士にも、この姿は恐ろしいか”
 二人の族長の脳髄を焼く声が響いた。禍々しいほどの圧倒的な力を持った声だ。逆らい難さに、身体から力が抜けていく。
「竜の長おさ……」
 喘ぎ声をもらしてアティーナは地面に座り込んだ。すぐ隣に立つハルペラの膝が目に見えて震えているのが目に入った。その右手に下げた剣の先が力無く地面を叩く。
「嘘だ……。古代竜など、いるものか! 嘘だぁっ!!」
“一族の誇りを失った者の戯れ言など聞きたくない”
 ハルペラの叫びを嘲る声が響いた。谷の族長の身体がビクリと痙攣する。顔は血の気が引いて真っ青だ。
“男たちを一族に加えてどうするつもりだ、ハルペラよ”
 巨大な竜の詰問にハルペラは答えなかった。
 その竜が浮かぶ館から数人の女たちが駆けだしてきた。谷の一族を示す蒼い布が肩から下がっている。
 彼女たちは自分たちの族長と森の族長に気づくと、一斉に駆け寄ってきた。だが、凍りついたように立つ二人の顔に気づきすぐに立ち止まった。
「族長クーン!? なぜとどめを刺さないのです!」
 敵の長を目の前にしながら茫然と空を見上げる族長の様子を怪訝そうに伺い、主人の見上げる空を振り返った。
「ひぃっっ!」
 一様に女戦士たちは凍りついた。悲鳴を上げることも忘れて震え上がっている者もいる。
“愚か者どもめ。くだらぬ勲いさおしなど見るも穢れる”
 戦士たちの身体についた返り血を憎々しげに睨むと、巨大な羽根を持つ者は不快そうな咆吼をあげる。さらにその巨大な顎あぎとを開いて牙を剥きだした。
 竜の唸り声が遠くの山々まで届き、空気を波打たせる。
“消えるがいい! 女族アマゾネスの名に相応しくない者ども!”
 地面に縫いつけられたように立ちつくす女たちめがけて竜は前足を振った。いくら巨大な体とはいえ、そこまで届くはずもないのに。ところが、見えない風圧に吹き飛ばされるように女たちは次々とはじき飛ばされ空へと舞いあげられた。
 アティーナは木の葉のように空に舞う女たちを見上げるしかなかった。アッという間に夜の闇に消えた谷の者たちの行く先など解るはずもない。
“己の撒いた災い。己の命で贖あがなうがいい”
 冷徹な竜の声が闇に消えた女たちの後を追う。
「竜の長……」
 館を護るように空に浮かんだままの古代竜を見上げて、アティーナは自身の死を覚悟した。次は自分の番だ。
 無様な戦いぶりだった。族長としての自身の器の小ささを見せつけられた今夜の戦闘は、非難されても反論はできない。
“お前は我が名を忘れてしまったのか? アティーナ”
 森の族長は首を振った。忘れるはずもない。生まれたときから聞かされる女族アマゾネスの真の守護者。古代竜の名を。
「誇り高きアレオパゴスよ……」
 一度も会ったことはない、今日が初めてだ。だが見間違えようもない伝承通りの巨躯と声の持ち主。圧倒的な力の差の前に、アティーナはただ平伏することしかできなかった。
 アティーナの返答に満足したのか、巨大な黒い竜は目を細め、口を歪めて笑い声をあげる。
“上出来だ、アティーナ。エイラの子供たちに栄光を……!”
 次の瞬間、古代竜の姿は掻き消すようになくなった。その存在を示すものは何も残されていない。
 暗い夜空には細く痩せた月がかかっているだけだった。




 痺れた頭を振りながら起き上がると、キーマは目の前の娘の姿に息を飲んだ。
「ラサ・モーリン!」
 小さな白い影が振り返る。利発そうな顔に微笑みが刻まれる。どこかで見たことのある顔つき。
「気がついたのね。子供たちも落ち着いたから、そろそろ戻りましょうか」
 見れば、ラサのまわりには年端もいかない子供たちがまとわりついて離れない。どうして幼い者たちがラサと一緒にいるのだろう。屋敷で眠っているはずなのに。
「ラサ・モーリン、ここはどこなのです!?」
 辺りを見まわしてキーマは動揺した。何も見えない。ラサや子供たちはあんなにハッキリとみえるのに、まわりは真っ暗な闇が拡がっていた。こんな空間は知らない。
 カームの居室で気絶したらしいことは覚えているが、その後がどうなったか覚えがない。
「秘された間。……そう呼ぶのが相応しいかしら。わたしにしか開け閉めできないらしいわ」
 自嘲を含んだ笑みを顔に浮かべるとラサはキーマに手を差し伸べた。
「ラサ・モーリン……。その額飾りサークレットは……」
 ようやくラサの姿がいつもの見習いの格好ではなく、カームの正装だと気づいてキーマは怯えた。
「……これから、忙しくなるわ。戦が終われば鎮魂の儀式リポーズランセムが行われるだろうし、館や屋敷の修理もしなきゃ。手伝ってね、キーマ」
 一瞬、ラサの顔に寂しげな笑みが浮かんで消えた。
「白き母上……。ここは怖いよ。早く帰ろうよ」
 怯えた声で訴える幼子たちを振り返るとラサは穏やかな微笑みを向けた。
「大丈夫よ。わたしがついているわ」
 キーマは子供たちが自分以上に素早くラサの変わり身を受け入れたことに驚愕した。つい昼間まではラサはカーム見習いだったのだ。それなのに……。
「さぁ、急ぎましょう。キーマ。みんなが待っているわ」
 首を微かに傾げて自分に微笑みかける娘の仕草にキーマは震えた。白き母エイラの癖だ。なぜ彼女がそんな仕草をするのか。
 だが差し出された小さな手を振り払うこともできず、キーマはその手を取った。温かい生き物の温もりが伝わる。
「“光、満ちよ。月の見る夢は醒めた”」
 滑らかに呪歌を唱う小さな娘の横顔を見つめながら、キーマはラサがカームの力を受け継いだことを悟った。
 新たな癒し手が誕生した。ならば、旧き者は……。
 自分の予想が外れることを祈りながら、キーマは空間を満たす光の渦のなかに身を投じた。




「ラサ・モーリン! いったいどうやってここまで来たの!?」
 黒い鎧を血で染めた女が叫んだ。その声につられてまわりの者が一斉に振り返った。全員の視線の先に白い小さな娘が立っていた。軽く首を傾げ、静かな笑みを浮かべている。
「こんな前線まで来るなんて!槍一本持ったことのないお前がくる場所じゃないよ。早く館……へ……」
「ラ、ラサ……。その姿は……」
 ざわめきが拡がっていく。小さな娘は純白の衣装を見にまとっていた。そして額には真珠の額飾りサークレットが……!
「みんな、帰りましょう」
 唱うように喋る白い娘の顔には優しい微笑みが浮かんでいた。
「何を言っているの!? お前、あの剣戟が聞こえないのかい!?」
 戦いの場からは荒れ狂う水音のような叫声が響いていた。そして、さらに剣と盾が擦り合わされる甲高い音。
「いいえ。すぐに収まるわ。ホラ! あれを見て」
 娘が細い月のかかる夜空を指さした。つられるように女たちが空を見上げる。何かが降ってくる。
「なんだ……? 何か落ちてくるぞ」
 月の細い光に照らされて木の葉のように舞うものが落ちてくる。
「……! お、おい! 人だ! 人が落ちてくる!?」
 呆気にとられて見守るなか、空から降ってくる人型がどんどん大きくなってくる。きりもみ状態で間近まで迫った人間たちの腕に蒼い布地が見えた。
「た、谷の者だ! どうなっているんだ!?」
「うわっ。落ちるぞ……!」
 ざわめきが急速に辺りに拡がっていく。剣を撃ち合わせる音が小さくなり、そして、止んだ。
 水を打ったような静けさのなか、上空の女たちのわめき声だけが異様に大きくこだまする。
「谷の族長だ! あぁ!?」
 吸い込まれるように地面に近づく女の顔には正気はない。瞳は恐怖に見開かれ、唇は意味不明の言葉を発し続けていた。
 戦いのまっただ中だった場所に女たちが次々と落下していく。
 叩きつけられる鈍い音と、断末魔の絶叫が空気を振動させた。時間が凍りついたように止まった。
「いったい何が起こったんだ!?」
 人の業わざとは思えぬ出来事に戦っていた者たちは戸惑い、怖じ気づいた。こんな死に方はご免だ。誰もがそう思う凄惨な死。
 谷の族長の身体は落ちた衝撃でぐちゃぐちゃだった。手足は幾重にも折れ曲がり、頭は跡形もなく潰れている。
 他の降ってきた女たちも同様な死に様だ。
 嗅ぎなれた血臭のはずなのに、吐き気が胃からこみ上げてくる。その場に居合わせた者たちは一様に顔を歪ませた。
 もはや戦うどころではなかった。毒気を抜かれた軍勢は誰が言うともなしに後退を始めていた。
「ラ、ラサ!?」
 その時になってやっと、自分たちの目の前にいた娘の姿が見えなくなっていることに気づいた森の一族は、お互いの顔を見合わせ困惑した。
 月が見せた幻か?混乱した頭のまま女たちは退いていく敵たちを見送った。




 よろけるようにアティーナは館へと踏み込んだ。
 扉は破壊され、家具類は引き倒されていた。こんな有り様になった館内など見たこともない。いや、これからだって見たくはない。
 震える身体に鞭打って、アティーナは一番奥にある一族の母の居室へと向かった。
 居室の扉は跡形もなく吹き飛んでいた。アティーナの身体の震えが増す。
 恐る恐る戸口に手を掛け、アティーナは強ばる足を叱責した。入り口からそっと中を覗き込む。
「……! カー……エイラ!」
 奥に倒れている白い人影にアティーナは飛びついた。
「エイラ……! エイラ! しっかりして!」
 土気色をしたカームの顔はピクリとも動かない。胸は血で真っ赤に染まっている。体温は触れている間にも、どんどん下がっていく。心臓は、……もう脈打ってはいなかった。
 自分は間に合わなかったのだ。
 アティーナの瞳から涙が伝った。
「ごめんなさい……。エイラ、ごめんなさい。私が……私がもっと早く来ていたら……」
 かつて一緒に草原に遊んだ友の骸が急速に冷えていく。自分の体温を分け与えるように友を掻き抱いてアティーナは泣き続けた。
 どれほど悔いても、悔いきれない。自分がもっと早くに敵の罠を察していれば、こんなことにはならなかった。
 死の神が命を奪っていくというのなら、自分の命を奪っていってくれればいいのに。なぜ、一族の母を、自分の幼い日の友の命を奪っていくのか!?
「あぁ、月神アルテミスよ、戦神アレスよ。お願いです。エイラの命を戻してください、お願いです……」
 肩を震わせて泣くアティーナの背後に人の気配がした。
 涙を拭きもせず振り返り、アティーナはそのまま茫然とその人物を見つめた。
 月光色の髪が波打ち、純白の衣装の縁を彩る。青白い肌のなかで若葉色の瞳と淡い紅色の唇だけがハッキリとした色彩を放っていた。
「ラサ……?」
 目の前に立っているのは、確かにラサ・モーリンと呼ばれる娘であるはずなのに、そこにいる者は自分の知っているカーム見習いの小さな娘ではなかった。
 慈悲深く自分を見つめる瞳に見覚えがある。すべてのものを飲み込んでしまう深淵を思わせる眼差しがひどく懐かしい。
「子供たちは無事です。キーマ・ラスティも。間もなく一族の者たちも戦場いくさばから帰ってくるでしょう。……立ちなさい、族長クーン。あなたに立ち止まる時間など与えられてはいない。わたしと同じように、ね」
 謎めいた微笑みを湛えて白い娘は一族の長を見つめた。
「お前は誰? 私の知っているラサ・モーリンはそんな娘ではなかった!」
 不意に胸にこみ上げてきた苛立ちをぶつけるようにアティーナは叫んだ。理不尽な怒りが沸々と煮える。
 だが白い娘は答えを返すでもなく、ただニッコリと微笑むと、死出の旅に出た女の傍らに佇んだ。
「“そして また、脈々と続く記憶を受け継いで、再生の巫女が生まれよう……”あなたに、安らかなる眠りを。美しきエイラ……」
 ひっそりと囁く娘の声は唱うように空気を震わせ、アティーナの耳に届いた。驚くほど死んだ友に似たイントネーション。
 哀しげに友を見下ろす白い娘の顔を見たアティーナは自分のなかの今まで悔恨や苛立ちが急速に退いていくのを自覚した。
 胸に染み込む若草色の寂しげな瞳。それが懐かしい友の顔と重なる。
 その信頼はどこからくるのかと訊ねたときに見せた、友の揺るぎない自信を示す空色の瞳にそっくりな光を宿す小さな娘の瞳は、彼女が間違いなく一族の魂の守護者カームとなったことを表していた。




 白い娘は背後からの気配に振り返った。若草色の瞳が光の向こうを透かし見るように微かに細くなる。
“すべては元通り……”
 掠れた声が光のなかに響いた。
「戦いの丘アレオパゴス? そこにいるの?」
 彼女の呼びかけに答えるように咆吼が響き、黒い影がゆらりと浮かんだ。
“永遠の娘リジェナレートよ。ようやく目を覚ましたか”
 安堵した声が娘の脳に拡がる。思慮深く、だが残酷な声。
「記憶の引き継ぎは終わったわ。あなたとの契約はまだ生きていたようね?」
 穏やかに小さな娘が巨大竜に語りかける。
“契約を破棄するのはいつも人間のほうだ。我が守護を望むのなら、戦い続けるがいい。……闘う心こそが我が安息の地。それを提供する限り、我が守護は続く”
「ありがとう、知恵の竜。母なる月と父なる戦がある限り、あなたとの契約は履行されるわ。そうそう、今回はあなたの子供を随分とこき使ってしまったわ。あなたにもお詫びをしなければ」
 白い小さな手が屈み込んだ竜の鼻先をなでた。
“森の番人ネモレンスか? あの悪戯者のことだ、あっちこっちでお前の子たちの鼻面を引っ張り回していることだろう。……ふむ。今もお前の姿を借りて一族の者を驚かせているようだ。詫びにも及ぶまい”
 喉の奥で笑うような声が響いた。竜の赤い目がすぅっと細くなる。大きく裂けた口がいびつに歪んだ。
「引き続き、私があなたの子を預かってもいいのね?」
 白き者の口元がほころんだ。白い歯がチラリと覗く。
“あれは森の番人だ。お前たち森の一族に委ねるのが一番相応しかろう?”
 天を覆うような巨大な羽根がふわりと舞った。音もなく古代竜の黒い巨躯が浮き上がる。
“絶えることなく記憶を引き継ぐがいい、再生の巫女よ”
 強烈な光が辺りを覆う。目を焼く白光がすべての色彩を飲み込んでいった。
「再びあなたに会うときは、わたしを迎えにくるときね。お師匠様の待つ光の野へ。わたしも後継者を見つけるわ、アレオパゴス。あなたとの契約のためではなく、わたしが守護する森の女たちのために……。これから生まれてくる子供たちのために……」
 低く呟く白き娘の声は、消え去った黒い影には届いてはいなかった。




 緑の輝きが蒼い空に放たれていた。森は朝日を受けて生き生きとしている。
 自分の瞳と同じ輝きを放つ森を見上げてラサは深く息を吸い込んだ。鮮烈な空気が肺をいっぱいに満たす。
 ふと東の彼方を見る。赤茶けた低い丘が見えた。戦い続ける者を招く、沈黙を守る丘、戦いの丘アレオパゴスだ。
 どれほどの者の血を吸ったかしれない丘は、朝日のなかでも相変わらずの沈黙を守っていた。
「賢者ラサラサ・デュ・カーム」
 おずおずと傍らに跪く娘を見下ろして白い娘は微笑んだ。
「あら、キーマ。どうしたの?」
「申し訳ありません。私はあなたを欺きました」
 青ざめたキーマの顔は酷く頼りない表情を浮かべていた。
「いいのよ、もう……。それより、擦り傷を作っているじゃないの。手当をしないと」
 自分と同い年の娘の腕を取ると、ラサは口のなかで小さく呪文を唱える。今まで一度でも成功させたことのない治癒魔法。
 見る間にキーマの擦り傷はふさがり、傷跡さえ残さずに魔法は成功した。
「見事ですね」
「ク、クーン! どうしてここへ?」
 背後の声にキーマは慌てて振り返った。
「戦が終われば負傷者のためにカームが必要だ。ここに来るのは当然だ」
 無表情に答えを返すと族長クーンは恭しく白い娘の前に跪いた。
「カーム。鎮魂の儀式リポーズランセムの用意が整いました。どうぞ、お出ましを」
「解りました。すぐに参りましょう」
 自分に向かって頭こうべを垂れる年かさの族長に鷹揚に返事をするラサの態度にキーマは驚きの視線を向けた。だが口に出した言葉は驚きを表すことはなく、平静を保とうとしていた。
「私も仲間の元に戻ります」
 足早に草原へと去っていくキーマを見送ると、族長はラサを振り返った。その表情はどこか年以上の厳めしさを見せている。
「カーム。お訊きしてもよろしいか?」
「どうぞ。わたしで判ることでしたら」
 涼しげな笑みを浮かべて白い娘が答える。
「古書には、なにが記されていたのですか?」
 禁忌を訊ねる族長の顔は険しかった。友を死へと追いやったものを素直に受け入れるには、まだ時間がかかるかもしれない。
 少しだけ驚いた顔をした娘が首を傾げた。
「さぁ? なんだと思います?」
 逆に問いを返して白い娘は悪戯っぽく微笑んだ。
 その仕草に見覚えがある。既視感に族長は目眩を覚えた。そんなはずはない。この娘が友に似ているなどと……。
「……見当がつけば、訊ねたりしません」
 族長が憮然とした顔で答えた。
「その通り。だから、答えなど聞かないほうが良いのですよ」
 穏やかに微笑む小さな癒し手の顔に旧知の友の顔が重なる。人の心を覗き込む、あの空色の瞳が。何を考えているのかさっぱり解らない微笑みが。
 若葉色の双眸が族長の瞳をヒタと捕らえた。
「行きましょう。皆が待っています」
 小さな白い母が笑う。燦然と額に輝く額飾りサークレットの白真珠が朝の光に鈍く瞬いた。
 足元には喉を鳴らしてじゃれつく竜の幼獣が未熟なその羽根を空に震わしている。ぎゃあぎゃあと鳴き声をあげる竜の子を白い娘がそっと抱き上げた。
 何も変わってはいない。これまでも、これからも……。
「参りましょう、白き母上……」
「えぇ。皆が待っていますね」
 赤髪の女を従えて、魂の守護者は草原へと歩き出す。朝の陽炎がそのまわりに揺らめき、優しく包み込んでいった。
 幼い子供たちの歓声が二人と一匹を追う。傷ついた戦士たちの戸惑いと憧憬の眼まなこがそれを迎える。
 森の一族は、今は癒しの刻とき。その白い守護者が鎮魂の儀式へと向かう。変わらない朝日の下に、変わらない日常が戻る──。

終わり

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アマゾネスシリーズ

No. 25 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
永遠の娘【二話】

「族長クーン! ここにおいでか!?」
 怒りと焦りに彩られた声とともに一人の女が姿を現した。
「エル・ブラン! 何ごとだ!?」
 族長は自分とカームの間に割って入ってきた乱入者に怪訝な表情を向けた。カームと話をしている間は誰も邪魔しないように伝えてあった。
「谷の一族が! 境界線を越えて、谷の一族がわが領地に進入しています。今、川上で黒戦士ネロナイツが応戦していますが手が足りません。このままではここもすぐに攻め込まれます!」
 黒っぽい衣装を身にまとい、三日月型の盾と鋭い穂先の槍を掲げて立つ女はまだ若い。だがその声音には戦士の厳しさが滲んでいる。
「谷の者が!? あの女狐め……! 私も出るぞ!カームの護りに入る者をこちらに寄越せ」
 クーンは同じ女族でありながら、長い間諍いを続けていた一族の族長の顔を思い出して地団駄を踏んだ。
 あの一族はいつもそうだ。何かと言えば争いを仕掛けてくる。他国から受けた依頼を横からかすめ取っていくことも一度や二度ではない。
 今度もこちらの寝込みを襲って何かを企んでいるに違いない。
「キーマ・ラスティを呼んであります。ですが白戦士ブランナイツたちすべてを護りに就かせるわけには……」
 エル・ブランと呼ばれた黒戦士は、カームの護衛専門に配備されている戦士たちを前線に投入したいようだ。それほど前線の苦戦は酷いのだろう。
「何人をこちらに寄越せそうだ!?」
「クーン。私の護りはキーマ一人で結構よ」
 素早くエルに問い返すクーンの声に続いて、カームはきっぱりと言い切った。穏やかな視線を向けてはいるが、クーンの抗議をはねつける強い光が眼光の奥に宿っている。
「すみません! 遅くなりました」
 そのとき、一人の娘がバタバタと足音も荒く部屋に駆け込んできた。昼間、カーム見習いのラサ・モーリンに護衛で就いていたキーマだった。
「キーマ。……よし。ここはキーマ一人残す。残りの者はすべて谷の一族のほうへまわせ!」
「え!? な……どうして!?」
 驚いて目を瞬かせるキーマを残してエルが駆け去っていく。
「クーン!? どういうことですか!?」
「キーマ。お前はここに残ってカームを守れ!」
 自身の戦支度をするために族長は扉へと向かった。
「そ、そんな! カームの護衛がたった一人だなどと……」
 一族の長の後を追おうとするキーマの肩に手を置く者があった。
 族長の内心の葛藤を一番理解しているのはこの白い母であったかもしれない。何も言うなと首を振り、忍耐強い顔をしてキーマを見つめるカームの瞳には子供を諭すときの強さが宿っていた。
 困惑を隠せないまま、それでもキーマは頷いた。
「良い子ね……。そうそう、ラサにはちゃんと伝えてくれたのね。ありがとう」
 今までの力強い表情が嘘のように穏やかに白い女は微笑んだ。
「え? あ、はい。……あの、確かにお言いつけどおりに……。でも……」
「ラサを騙したようで心苦しいの? 大丈夫よ。あなたは嘘をついたわけではないから」
 柔らかな笑みを浮かべたまま、カームは娘の肩を抱いた。ラサよりも背の高い少女だ。それでもラサとたいして歳は変わらない。
 どうやらラサにカームの書き記した書物があることを伝えさせたのはカーム自身であったようだ。
 族長も認知している計画らしいが、いったいラサに何をしようというのか?
 それにしても他人を介して伝えることだろうか? 一族の守護者の命じることに従うしかない白戦士の娘にとって、いずれは自分の主人となる者を欺く行為はどんな裏切りを犯すよりも辛いことであったろうに。
「ラサ・モーリンは怒るかもしれません。彼女に禁忌を犯させたのは私です」
 キーマが喘ぐように囁いた。その囁きに微笑みを返しながらカームは娘から離れた。
「何も心配はいらないわ。さぁ、ラサが安全な場所にいる間に襲名儀式ケティルランセムを済ませましょう。手伝って頂戴ね、キーマ」
「え……えぇ!? だ、だって! 後継者もいないのに!」
 一族の族長位、あるいはそれぞれの戦士たちの主導者を任じるときはいつだって、元の地位の者から次の後継者に額飾りサークレットが引き渡されるのをキーマは今までみてきていた。
 サークレットを引き渡す娘もいないままに行われる襲名儀式などあり得ない。
「着替えを手伝って、キーマ」
 柔らかな微笑みを浮かべたままカームは羽織っていた衣装を肩から落とし、腰帯をほどいた。豊満な胸と腰が覗く。
「カ、カーム! 何故、今……」
 動揺するキーマにお構いなく、一族の母は着ている物を脱ぎ捨てていく。その度に白い肢体が露わになる。
「急いで、キーマ。私の魔力グラマが使えるうちに、終わらせるわ」
「カーム!? まさか……!」
 そのときになって初めてキーマは白い女主人の顔に浮かんだ焦燥感に気づいた。普段は決して見せることのない表情。張りつめた緊張感。
 キーマは慄然とした。いずれ、自分の刻ときがくれば癒し手は自らその姿を消す、と言われている。どう消すのか、キーマはよく知らなかった。
 だが今になってようやく判った。消すという意味は身体そのものを一族の者の目の前から隠してしまうのではない。
 カームの癒しの力、治癒の魔力を消し、そしてただの女に戻るということなのだ。なんの力もない、ただの女に。
 だが戦士として育てられていない女にこの一族のなかで居場所はない。それは何よりもカーム自身が一番良く知っていることだ。
 青ざめたままのキーマに白い母は静かな眼差しを向けた。
 迫っている刻ときに焦りはしても、自らの終焉を怖れてはいない空色の瞳。
 どんな戦士よりも死を超越した者の双眸は、死の深淵を思わせる強い輝きを放っているようにキーマには思えた。




「戦況はどうなっている!?」
 駆けつけた族長の声に黒衣の戦士たちの間から小さな歓声があがった。
「ようやくここまで押し返しました」
「兵士たちも交替で戦っていますから、これ以上敵に侵入されることは防げるかと思います」
 口々に報告をする黒戦士たちの口調にはゆとりが感じられた。敵の侵入を知らされたときの切迫した様子はない。
「族長クーン!」
 その空間に割り込んできた声にその場にいた者は一斉に注目した。
「別働隊がいます! 敵の分隊が川幅の狭い岩場付近からこちら岸に渡っています。このままだと挟み撃ちです!」
「チッ。やはり……。ジーナ! シシリィ! お前たちの小隊を岩場に向かわせろ!岩場の上からなら容易く討ち果たせよう」
 別働隊の報告に素早く対応するとクーンは前方に展開している戦闘の様子をうかがった。絶え間なく剣や槍を撃ち合わす音と鬨の声が上がっている。
「何を考えている……谷の女狐め!」
 同じ女族アマゾネス同士、争い合っていたところでなんの得もないのだ。そんなことも解らない相手にクーンは苛立ちが隠せなかった。




 純白の正装に着替えたカームの立ち姿は見るからに神々しい。
 キーマはその姿に見惚れた。いつ見ても美しい、汚れなき尊い姿。それなのに、この美しいカームの刻ときの砂は終焉を迎えようとしているというのか。理不尽な怒りが沸き上がる。
「カーム。お願いですから、この館から逃げてください!それが無理だと仰るなら、ラサのいる地下部屋へ! いつ谷の者がくるか知れないのです」
 だがキーマの注進はカームの穏やかな微笑みで無視された。
 刻ときの終わりは自身の死を暗示するものだ。その闇が目前まで迫っているというのに、カームは穏やかな微笑みを絶やしてはいなかった。
「水晶球をここへ……」
 柔らかな声はまったく震えてもおらず、微笑みのなかの双眸は力強いままだった。
 言われるままに水晶球を差しだしながら、キーマはもどかしげに白い母の横顔を見つめた。
 カームの手に触れられると水晶球は淡い光を放ちだした。
「いい子ね。さぁ、手伝って頂戴ね」
 白い繊手が半透明の表面をなでる度に、水晶は様々な色を浮かび上がらせ、虹色に輝いていった。
 幼子に話しかけるように水晶球と会話するカームの顔には、なんの憂いも見られない。
 カームがそっと水晶を頭上に掲げる。それを待ちかまえていたかのように輝く珠は銀光を発し、部屋の中を月光で染めあげた。

  小暗き途みちを往ゆけ
  汝の途みちがそれなり
  柔らかき草はなし
  されど、そは天道の途みち

 静かに、だが力強くカームが呪歌ガルーナの詠唱を始めた。キーマが初めて聞く歌だ。
 高く、低く響く声に反応するように水晶球が自身の輝きを強く弱く発する。珠までがカームの歌声に合わせて唱っているようだった。
 銀の光のなかに立つ白い母の姿は半ば光に溶け込み、袖下に下がる月長石ムーンストーンと額の白真珠がその白い輝きを増す。

  歩むごとに荊いばらに傷つき
  求めるものは遙か彼方
  助け手は何処いずこにか在らん

 引き込まれるようにカームを見つめるキーマの耳に守護者の声とは別の声が重なり聞こえる。聞いたことのない、しかし懐かしい声音。
 聴き入るキーマにはどちらが目の前に立つ女の声で、どちらが虚空から響く声なのか判然としない。
 鼓膜を震わす柔らかな音の波に飲み込まれて、キーマはガックリとその場に倒れ伏した。

  見よ 汝らの前に立つ乙女を
  その小さき者がアルテミスの娘であることを知れ
  それこそが汝らの命脈を救う術なり……

 カームが振り返る。そして、そこに倒れ込む娘の姿を見つけると首を傾げた。それが合図にでもなったのだろうか。今まで部屋の隅で大人しくしていた竜の幼獣がヒョコヒョコと娘に近寄っていった。
 戯れに遊んでくれと言っているような足取りが、室内の緊張感とは対極の印象を与える。

  沈黙は破られた
  今こそ目覚めの刻ときぞ……

「ネモ。キーマと子供たちをお願いね」
 カームの詠唱は、虚空からの声とともに続いていた。だが、唱い続ける声とは別に明らかに彼女の声と思しき音の波が部屋の空気を震わせた。
 それをジッと聴き入っていた竜の子は、解ったと言うように一度頷くと気を失っている娘の傍らに座り込み、その長い鼻面を眠る娘の顔に近づけた。
“浮ケ!”
 詠唱が続く音の洪水のなかに子供の声が響いた。
 幼子の声の後に続くようにキーマの身体が空へと持ち上げられた。重力に逆らって浮かび上がった娘の身体は不安定に空中を漂っている。
“月ノ青白キ横顔ト猛々シイ動乱ノ神ガ命ジル。幼キ者ヨ。秘サレタ部屋ニ往クガイイ”
 幼い声が朗々と響く。部屋に水晶球の輝き以外の光が混じった。
 金色の閃光が一瞬だけ部屋を満たし、すぐに元の銀の輝きが部屋に拡がった。何ごともなかったかのように、カームと虚空の声の詠唱は続く。
 しかし、倒れ込んでいたキーマの姿は跡形もなく消え失せ、彼女の傍らにうずくまっていた小竜の姿も同じように消えていた。

  癒し手カームの席は二つなく
  その記憶も二つなし
  継ぐべき者に名を与わば
  清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……

「さぁ、ラサ。受け取りなさい。あなたが今から受け継ぐのです。魂の守護者カームのすべてを!」
 詠唱の声と重なって、カームの肉声が部屋に漂う。血の通った人間の声。だが、どこか寂しげな。
 聞く者のない声音がなおも朗々と続いた。

  廻れ、廻れ 輪廻の歯車
  和児わこを護りて 疾とく廻れ
  刻ときの波間に身を任せ
  永遠の娘リジェナレートが生まれ来る……

 水晶球を見つめるカームの瞳が笑っている。すべてを見透かすような空色の瞳が、死への諦観を含んで笑っている。
 運命が回る。人の目には見えない、神々の戯れに誘われて……。




 敵の不可解な動きに気づいたのは族長だった。
「おかしい。いつもの攻め方ではないぞ、谷の者は!」
 谷の一族が攻めたててくると、いつも狂ったように苛烈な槍の攻撃が続くのだ。それが今回に限って自分たちを誘うようにジワリジワリと後退していく。そして、一定の距離を下がるといつも通りの剣戟が再開される。
 それを何度も繰り返している。まるで時間を稼いでいるような……。
「まさか……」
 族長は自分の不吉な予感に身震いした。まさか、我々をおびき出すためだけにこの作戦が行われているのではないか?
 思い至った考えが行き着く先は、領内の館に残してきた一族の癒し手だった。
「まずい! 谷の族長め! 我らの守護者を殺めるつもりだ……!」
 だが、敵軍との攻防は続いている。このまま敵に背を向けるわけにはいかない。
「族長クーン! 行ってください! ここはあたしたちで充分です! ……カームを! 我らの母をお願いします!」
 今しがた前線から交替してきたばかりの黒戦士ネロナイツの女が族長の独白を聞いて叫んだ。
 もしクーンの推察が正しかったとしたら、今頃カームのいる館や幼い子供たちのいる屋敷は谷の軍勢に包囲されている。
 護る者のいないカームや幼子などあっけなく殺されてしまうだろう。
「白戦士ブランナイツだけでいい! 黒とその配下の者はここを離れるな!」
 迷う間もなく指示を出す族長の声を掻き消すように新たな鬨の声が上がった。だが、その声はあり得ない声だった。
「クーン! 谷の奴ら! 男たちを、男たちを軍に加えています!」
「なんだと!?」
 女族アマゾネスにあるまじき行為だった。
 自分たちが傭兵として雇われはしても、女族が他族の、しかも男を軍列に加えるなど、これほど恥さらしな行為はない。谷の族長は誇りまで売り渡してしまっているのか。
 男たちのあげる喊声が空気を震わす。
 こちらは今までかなりの時間を戦ってきている。交替しながらの戦闘とはいえ、味方の疲労は徐々に溜まってきていた。
 持久戦になれば男たちには勝てない。体力差を補うには、こちらの軍勢の数は少ないはずだ。
 谷の者もそれをよく知っている。こちらの陣営が破られたら、一気に領内に敵は侵入するだろう。
「あの女狐。よくも、こんな卑怯な策を!」
 族長は前方から聞こえる剣戟の音を聞きながら吼えた。だが今さらどうにもならない。
 初めに気づいていれば、罠にはまることもなかったのだろうが、味方の体力が落ち始めている今となっては、進むことも退くことも困難を極めることだった。
 それでも一族の癒し手や未来のある子供たちを捨てておくわけにはいかなかった。
「エル・ブラン!」
 族長は自分の片腕となって働く女の名を呼んだ。
「エル・ブラン、ここに!」
 すぐに返事が返され、返り血を浴びた女が顔を覗かせた。
「私は館に向かう! 他の者はすべてお前の下に入れるから、お前がこの場を取り仕切れ!」
 貴重な人員を連れて館へ向かうことはできない。自分が一人で行くしかあるまい。相手も隠密に行動しているのであれば、かなりの少数で館に向かっているはずだ。
「判りました、族長。ご武運をお祈りします!」
 黒衣の女は強い眼差しを女主人に向けたまま頷いた。一刻の猶予もない事態だった。躊躇いがすべての生死を分けるだろう。
「ご武運を!」
「白き母上をお願いします!」
 口々に兵士たちが族長に呼びかける。それに答えを返している暇はなかった。族長は配下の戦士たちが見守るなか、赤い烈風となって夜の闇へと駆けだしていった。




 光の珠のなかから取り出した巻物を拡げて読み始めたラサは、読み進むうちに身体の震えを押さえられなくなっていた。
「これは……! この古書は……」
 古書は確かにカームが書き記したものに違いはない。だが書き記された文字の古さと筆跡から見て、一人の人間によって書かれたものだ。決して歴代のカームたちが書きためたものではない。
 それに、この内容は……。
「なぜ……。どうして、こんなことが……!」
 見なければ良かった。
 ラサはこの古書を読んだことも、この場所へ来たことさえも後悔し始めていた。こんなこと知らなければ良かった。
「お師匠様……。あなたもこれを読まれたはず……。なぜ? どうして、平気なのですか!?」
 とうとう耐えきれず、ラサは紙面から目を背けた。
 目をきつく閉じる。だが、今まで読み進んだ内容は記憶にしっかりと刻まれており、忘れることなどできるはずもない。
「いやよ……! お師匠様が死んでしまうなんて……。それに! それに、これには……わたしの……」
 床にひれ伏し、頭を抱えてラサはもがいた。髪を振り乱し、全身を痙攣させる。狂ったように頭かぶりを振って声を震わせる様は狂女の様相。

  沈黙は破られた
  今こそ目覚めの刻ときぞ……

 再び、さきほどの声が響きだした。今度はすぐ頭上から聞こえてくる。
 ラサは飛び上がって頭上を見上げた。そこには柔らかい輝きを発する光体がふわふわと浮かんでいるだけで、何も居はしない。
「誰なの!? ……姿を見せなさいよ!」
 ラサはわめき声をあげた。

  癒し手カームの席は二つなく
  その記憶も二つなし
  継ぐべき者に名を与わば
  清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……

 静かな声の詠唱が続く。そして、巻物を取り出した光体がゆっくりとラサめがけて降下してきた。ふわりふわりと漂いながら、だが確実に避ける隙も与えずに。
「ひっ……」
 ラサは後ずさった。しかし、くじいた足では思うように動けない。物言わぬ光はラサの行く手を遮るように目の前まで降りてくると、そこでピタリと止まった。
 そして眩い輝きを一度だけ発すると、徐々にその光を納め、淡い鈍い輝きだけを残して小さく縮んでいった。
「な……に?」
 小さくなっていく光をラサは固唾を飲んで見守った。恐ろしさに逃げ出してしまいたかったが、身体はいっこうに言うことをきかなかい。
 とうとう指で摘めるほどの大きさまで光は縮んでしまった。
 淡い白く輝く珠。どこかで見たことのある形。
「……! こ、これ……お師匠様の、額飾りサークレットについている……!」
 ラサは目の前に浮かぶ白い真珠を凝視した。
 見たことがあるはずだ。いつもお師匠様の額を飾っている額飾りサークレットの中央にはめ込まれた真珠が目の前に浮かんでいる。
 自身が意志を持つようにふわふわと浮かぶ珠はラサに手に取るよう促すようにクルクルと目の前で回りだした。
「いや……。側にこないで……」
 ラサは首を振って真珠から目を逸らそうとした。しかし彼女が顔を背ける方向へ真珠は移動し、嘲笑うように目の前を行き来する。
「いやだったら! こっちに来ないで!」
 身体の震えは止まらない。振り乱した髪は彼女の肩や背中でくしゃくしゃにもつれ、体中にまとわりついている。
 いつまで経っても手に取ろうとしないラサに痺れを切らしたのか、真珠がググッと近寄ってきた。
 ラサは声にならない悲鳴を発した。真珠はお構いなしに彼女にすり寄り、その額に飛び込んでいった。
「い……いやぁ~!」
 ラサの口から絶叫が迸る。半狂乱になって自分の額を掻きむしる。その彼女を嘲笑うように再び闇の声が響いた。

  廻れ、廻れ 輪廻の歯車
  和児わこを護りて 疾とく廻れ
  刻ときの波間に身を任せ
  永遠の娘リジェナレートが生まれ来る……

 わなわなと身体を震わせ、額に手をあてたまま白い娘は滝のような涙を流し始めた。
「お願い、やめて……! わたしがカームになったら……。お師匠様が……。お師匠様がぁ~! あぁ~……」
 彼女の精神をなぶるように声が容赦なく辺りに響く。粛々と続く詠唱を、ラサが止める手だてはなかった。

  残りし者が、すべてを継がん
  逆巻きながれる河のごとく
  初めからのすべてを継ぐがいい……

 闇の声がさらに大きく反響してくる。耳を聾するほどの大音声にラサの意識は遠退き、支えるもののないその躰は崩れるように床へと倒れていった。
 薄闇のなかに白い娘の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。
 泣き濡れたその頬は血の気が引き、乱れた髪の間から覗く白い額には真珠の額飾りサークレットが輝いていた。




 背後から荒々しい足音が聞こえてくる。白い女はそれを背に聞きながら、詠唱を続けていた。主なき声もともに唱う。
 銀の光に満たされた空間は時に温かく、時に冷たく空気を染めあげられ、詠唱に翻弄されている。
「往きなさい。幼き者よ……。すべてがあなたのものです。……そう! 私の記憶でさえも!」
 額に玉の汗を浮かべてカームは水晶球を見つめ続けた。
 口は詠唱を続けているのに、別の肉声がどこからともなく響いてくる。

  残りし者が、すべてを継がん
  逆巻きながれる河のごとく
  初めからのすべてを継ぐがいい……

 呪歌ガルーナに合わせてくねらせていたカームの両腕が、そのとき天高く突き上げられた。瞬く間に白き母の全身が白光に包まれる。
 ともに詠唱を続けていた声が音とも声とも取れる奇妙な発音を繰り返しだした。うねるように空間に拡がる主なき声は、白い女の躰のまわりを旋回しているようだった。
「受け取るのです、ラサ! ……これであなたラサは私カームになる!」
 一際高音の声が辺りを包んだ。
 バタバタと扉に近づく足音がする。人間のわめき声も! 背にした扉を押し開けようと、体当たりしているらしい音もはっきりと聞こえる。
 カームは突き上げた両手を水晶球へと伸ばした。珠はまだ銀の輝きを発し続けている。
 珠を掴んだ癒し手の両手の間から目を焼く閃光が迸る。まともに目を開けてはいられない。カームは思わず目を閉じた。

そして また
脈々と続く記憶を受け継いで
再生の巫女が生まれよう

 白い母のまわりにまとわりついていた声が最後とばかりに呪歌を唱いあげる。空気さえ焼き尽くしそうな閃光がゆっくりと退いていった。
 癒し手が力尽きたように床に座り込んだ。恐る恐る目を開ける。辺りは今までの光の海が嘘のように薄暗くなっていた。水晶球ももう光を放ってはいない。
 滝のように流れ出した額の汗を拭おうとカームは腕を上げた。
 そのとき、背後から硬い物が弾ける音がこだました。
「いたぞ! カームだ!」
 驚いて白い女は振り返った。その目の前に女戦士が立ちはだかっている。血走った目がカームの全身を舐めるように往復する。
「森の癒し手だね!?」
 女の返答も待たずに侵入者は槍を振り上げた。
 遠くに剣戟の音がする。目の前の殺戮者のことも忘れて、カームは剣戟に耳を澄ませた。聞き覚えのある剣を撃ち合わせる音のリズム。
「あぁ、アティーナ。戻ってきてしまったのね?」
 白い母は静かな微笑みを浮かべた。
「死ね! すぐにお前の一族も後を追わせてやる! この性悪な魔女め!」
 金切り声とともに槍が突き出され、白き母エイラの胸に吸い込まれていった。




 全身を返り血で真っ赤に染めた女が睨みすえた。
「見つけたぞ! 谷のハルペラ!」
「遅いかったじゃないか……」
 残酷な笑みを浮かべてハルペラと呼ばれた女は振り返った。
 闇を溶かし込んだような黒髪がヌラヌラと光っている。笑みを浮かべる唇は血を吸ったように紅い。
「館にはもう部下が入り込んでいるよ。どうするね、森のアティーナ?」
 可笑しくてたまらないといった風情で、ハルペラはケラケラと笑い声をあげた。腰から下げた剣がカチャカチャと音を立てる。
「貴様という奴は!」
 森の一族を統べる族長クーンは朱に染まった剣を振り上げた。
「アッハハ! 可笑しいねぇ、アティーナ! 癒し手一人のために血相を変えて一人で駆け戻ってきたのかい!?そんなに心配なら、隠した子供たちと一緒にあの白い性悪魔女もしまっておけば良かったじゃないか」
 ゲラゲラと笑いながら、ハルペラは腰の剣を抜きはなった。月光に反射する白刃がギラリと輝いた。
「隠しただと……?」
 苛烈な攻撃を続けながらアティーナは相手の顔色を伺った。
 子供たちはいつも通り屋敷の部屋で眠っているはずだ。戸締まりの厳重なカームの館より容易に入れるはずの屋敷に、この悪辣な女が踏み込んでいないはずがない。
 屋敷に子供たちの姿がなかったというのなら、カームは子供たちを連れて逃げ出した後なのか?
「なに考えごとをしてるんだい!? 戦いの最中に他ごとを考えるんじゃないよ! 面白くないじゃないか!」
 悪鬼の形相で大きく剣を振りかぶったハルペラがアティーナの胴を薙ぎ払った。だが、紙一重の差でアティーナが避ける。
「お前こそ、ベラベラ喋るんじゃないよ! こうるさいカラスめ!」
 お返しとばかりにアティーナの剣がハルペラの足元を狙う。
 背後に飛んでその剣撃を避けたハルペラがすばしっこくアティーナの右側に回り込む。今まで戦闘で体力を使っていない分、相手より早く動けるのだ。
 剣を持つ利き腕を狙うハルペラの動きにアティーナが気づき、すんでの所でその剣撃を避ける。
「この……! チョロチョロとうるさい蠅が!」
「喧しいね! サッサとくたばっちまいな、アティーナ! どうせすぐにあんたの大事なカームも後を追うんだよ!」
 鋭い舌鋒がアティーナの胸をえぐる。カームの安全を確認したわけではない。館に残っているのなら、早く助けに行かなければ。
「ほらほら! どうした! もう動けないなったのかい!?」
 ハルペラの嘲り声が鼓膜を震わす。
 気を散らされたアティーナの脇腹をハルペラの繰り出した剣先がかすめた。思いの外鋭い剣撃にアティーナがよろける。
「下手くそ! さっさと死んじまいな!」
 かわされた剣先をすぐさま引き戻し、ハルペラが先ほどよりも早い剣撃を繰り出す。鋭い切っ先が、未だに体勢を立て直せないアティーナの左胸に向けて突き出された。
「なめるなよ! 畜生……!」
 アティーナが辛うじて盾でその攻撃を防ぐ。だが息が上がりかかっていた。
「ハッハァ~! 全然なってないよ。なんだい、その戦いぶりは!」
 嘲弄がアティーナの鼓膜を打つ。歯がみしたところで、どうにもならない。
「ほ~ら! サッサと眠っちまったほうが楽でいいんじゃないかい!?」
 ふらつきかかったアティーナの足元をすくうようにハルペラの剣が横薙ぎにする。
 アティーナはやっとの思いで白刃を避けたが、続けざまに繰り出される切っ先は盾の間をくぐって、とうとう身にまとった鎧に達した。
 鈍い音とともに鎧の肩部が弾けた。
「くそ……!」
 アティーナの左肩から鮮血が噴き出す。
「あはは! あんたの髪の色とお揃いさね。血にまみれて死ぬがいいよ、アティーナ!」
 肉食獣を思わせる八重歯がハルペラの口から覗く。
 アティーナの動きは鈍かった。振り下ろされてくる剣が見えているのに、躰は緩慢な動きしかできず、その輝く刃を避けることは困難だった。
 こんな所で死ぬわけには……!
 地面に張りついたままの重い両足を動かそうと焦る。だが動かない。諦めと怒りがアティーナの体内を満たす。
「エイラ……!」
 その時、友の懐かしい名を叫んだ彼女の声を掻き消すほどの大音声が森の樹という樹の梢を震えあがらせた。

〔 11173文字 〕 編集

アマゾネスシリーズ

No. 24 〔24年以上前〕 , 短編,短編ファンタジー , by otowa NO IMAGE
永遠の娘【一話】

 開け放たれた窓から燦々と陽光が降り注いでいる。
 窓辺に寄った赤髪の女が、眩しい光に耐えられずに視線を室内へと向けた。目が暗さに慣れるまでに少しかかる。顔がその苦痛に歪んでいるが、そればかりが彼女の顔に翳りを与えているわけではなさそうだ。
 外は雨上がりの草いきれで息苦しいほどだが、ほの暗い室内は微かな湿気を感じるだけで、古びた石造りの壁に静かに光を受け止めている。
 部屋の中央の大きなテーブルの上には、飲みかけの薬湯が入ったカップが無造作に置かれ、その前には膝に竜の幼獣を片手であやす女の姿が陽光に浮かぶ。
「魂の守護者カーム……。本当なのですか?」
 窓辺の女の声に呼応するようにその赤髪が震えた。燃え立つ炎のようなその色合いが女の日に焼けた力強い顔立ちを一層に際だたせていた。
 白い繊手で幼獣の背を撫でつけていたもう一人の女が顔を上げた。
 窓辺の女とは対照的に静脈が透けて見えそうなほどの色白で優しげな顔立ち。淡い金色がかった茶髪や身にまとった白い衣装が時折、陽光に鈍く光る。
「えぇ。もうすぐ、私の役目は終わりです。跡はあの子に任せますよ」
 カームは天空を思わす瞳を窓の外に向けると唄うように答えた。
「なぜ!? あなたはまだ若い!」
「……族長クーン。歳など関係ないのです。私に定められた刻ときがきています」
 白い女は膝の小竜を降ろすと静かに立ち上がり、ゆったりとした足取りで窓辺に近づいた。
 長く垂らした広口の袖下では、月光を固めたような月長石ムーンストーンがカームの歩みにつられてコクリコクリと揺れている。その揺れる石に興味を惹かれたのか、竜の幼獣が小さな前足で月の石を軽く小突く。
「でも……」
「ラ~サァ~!! いい加減にしとくれ!」
 クーンの声を遮るように甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。その声に二人の間にあった重たい空気が一瞬だけ霧散する。
「ご、ごめんなさぁ~い」
 半べそをかいた声が怒鳴り声の後から続いて聞こえる。窓から眺めると林のすぐ側でがっしりした体格の女が小柄な白い娘にがなり立てている姿が見えた。
「あの子はまだ未熟です。それでもあなたの刻ときは終わると言われるのですか?癒し手を失えば、一族は滅びてしまいます。どうか……」
「大丈夫ですよ。あの子にもちゃんと務まります。呪歌ガルーナを詠唱できさえすれば」
 柔らかい視線を白い娘に向けたまま、カームがクーンの言葉を再び遮った。静かな口調なのに、鋼のような強い意志を感じる。
 もう決まっているのだ、口を出すな、と。
「それでも、白い母よ。私はあなたに見捨てられたような気がします」
 クーンが唇を噛む様子を横目に見ながら、カームは口元をほころばせた。
「心配しないで。月の乙女アルテミスの名に賭けて、守護者があなたたちを見捨てることなどあり得ない」
 カームの言葉に頷くように、彼女の額に巻かれた真珠の額飾りサークレットがキラリと輝いた。それは、あなたの流す涙はすべて飲み込んでいくから、と囁いているような輝きだった。

  廻レ、廻レ 輪廻ノ歯車
  和児ワコヲ護リテ 疾トク廻レ
  刻トキノ波間ニ身ヲ任セ
  永遠ノ娘りじぇなれーとガ生マレ来ル……




「あ~ぁ。いやになっちゃう。また最初っからだわ。どうして上手くできないのかしら」
 ため息とともに乱暴に籠を草の上に投げ出すと、娘は草の上に寝そべって空を見上げた。
 年の頃は十三~四歳ほどであろうか。利発そうな顔立ちだ。
 娘が草に寝転んだまま大きく伸びをした。背中は生乾きの草で少し冷たい。
「お師匠様の眼の色みたい……」
 誰に向かって言うわけでもなしに娘はポツリと呟いた。
 雨に洗われた木々の緑が目に眩しい。新緑の季節も終わりを告げようとしていた。これからは雨がまばらな時期に入るから、薬草も摘みやすくなるだろう。
 空の青から逃れるように娘はゴロリと寝返りを打った。
 先ほどはちょっと目を離した隙に、薬草を煮詰めていた壺を真っ黒焦げにしてしまった。あの薬草は焦げつきやすいからとお師匠様にも言われていたのに。
 でも本当にちょっと目を離しただけなのだ。
「あ~ぁ」
 再びため息をもらすと娘は気怠げに身を起こして、伸びをした。
「薬草を摘まなきゃ……ね」
 もらした言葉にはうんざりした気配が漂っていた。だが、薬が無くなりかかっているのだから、作らない訳にはいかない。
「ラサ・モーリン! ここにいらっしゃったのですか」
 近くの低灌木の辺りから聞き馴れた声がかけられた。
 振り返った視線の先には、同年代の娘が立っていた。背丈よりも長い槍を片手にして立つ姿は優美さとは無縁だが、日焼けした肌が闊達そうな印象を与える。
 娘は着ている着物の丈を短く腰で結わえていた。伸びやかな四肢が猫科の動物を思わせる。
「キーマ。わたし、ついてきてって頼んだ覚えないけど?」
 ラサは片眉だけをつり上げ、若草色の瞳で相手を睨んだ。
「私はあなたの護衛ですよ。警護につくのは当然です。厭な顔をされても側にいなければなりません」
 律儀に恭しく頭を垂れるとキーマは畏かしこまったまま答えた。
「もう! 同い年なのに敬語なんて使わないでよ! イライラするわ!」
 こんなことでキーマに八つ当たりしてみても仕方ない。でも内心の焦りは埋火のように消えることなくジリジリと胸を焼く。
 そんなふうに頬を膨らませて文句を言うラサの容姿はキーマと同い年にしては少し幼めに見えた。
「なにを怒っているのですか? あなたは次の魂の守護者カームを約束された人。敬語を使ってどこがおかしいのです?」
 ラサの態度が心外だとばかりに、キーマは眉間にシワを寄せた。
「嘘よ! いつまで経っても半人前の見習いだって、みんな言っているわ」
 うずくまって膝を抱える小さな娘の姿にキーマは苦笑した。そんなことを気にしているのか、とその顔がいっている。
 今まで溜まっていた不満を吐きだすようにラサはさらに続けた。
「呪歌ガルーナを唱うどころか、カームの雑事さえこなせないって!」
 そんなラサをなだめるようにキーマが顔を覗き込んだ。
「あなたは生まれ落ちたそのときからカームの才覚を認められています。心配する必要はないと思いますが?」
 だが、そんな言葉もラサには慰めにならないのか、沈んだ顔つきは一向に直らない。
「戦士として戦の庭に散ったほうがわたしには分相応だわ。……なのに、戦うことも許されないなんて」
 暗い表情のままラサは立ち上がり、キーマに背を向けた。
 その小さな背中を悲しげにキーマが見つめる。
「そんな哀しいことを言わないでください。カームの滅びは一族の滅びです。癒し手がいるからこそ、我々は戦えるのですから……」
「呪歌が唱えなければ、結局同じだわ。カームになれないもの」
 月光のように金色に輝く自分の髪をクルクルと指で弄びながらラサはキーマのほうにチラリと視線を向けた。
「呪歌を唱えたら、カームになって頂けるのですね?」
 何か思い詰めたような緊張を顔に浮かべてキーマが訊ねた。
「そうね……。それが私の定めだというのなら」
 しかしラサはそんなキーマの様子にも気づかず空の青さに見とれた。引き込まれそうな青。お師匠様の瞳の色にそっくりな。
 ふと我に返ったラサは足元に転がった採取籠を拾い上げた。薬草摘みがまだ途中だった。今日中に作りにかからないと、薬が切れてしまう。サボっている場合ではなかった。
 薬草を探そうと辺りをキョロキョロと見まわすラサの傍らに立ったまま、キーマは黙り込んでいた。顔には何か迷いの色が濃い。
「キーマ。悪いけど薬草を見つけるのを手伝ってよ」
 振り返ったラサの視線は真っ直ぐに自分を見つめるキーマのそれと絡み合った。
「……代々カームは呪歌に関する書物を書き記しているそうです」
 声を潜めるキーマの顔は密談をしているというよりは、秘密を告白するとき特有の緊迫感に満ちていた。ラサはキーマの話に引き込まれる。
「それを読むことが叶えば、呪歌を唱うことなど、造作もないことだとか」
「!? そんな話……初耳だわ」
 今までに一度だって聞いたことはなかった。にわかには信じられない。だが、キーマがそんな重要なことで嘘をつくとも思えない。
「……でしょうね。族長クーンと我々近衛ナイツにしか伝えられていませんし、口外は禁じられています。もちろんカーム以外の者が読むことなどできるはずもありませんから」
 その禁じられている秘密をキーマはラサに打ち明けてしまっている。このことが他のナイツやクーンに知れたら、キーマ自身無事には済むまい。
「それに……。カーム以外の者が読むと気が触れる、と」
 付け加えられたキーマの最後の言葉はラサには耳に入っていなかったかもしれない。
 カームの書物を読むことが叶えば、呪歌が唱える。自分が今までどうしても唱うたえなかった呪歌が、思いのままに使えるようになるかもしれない。
 その可能性にラサの心は浮き足立ち、禁忌のことなど思いもしない。
「その書物、どこにあるの?」
 夢中でラサは訊ねていた。薬草摘みのことなど、すっかり忘れている。
 たじろいだようにキーマが半歩さがった。
「書庫の奥、だと聞いています。でも正確な場所は……」
「書庫に!? 全然気づかなかったわ」
 カームが読めるというのなら、たとえ見習いでもわたしにだって……。本当にカームの才覚があるというのなら!
 キラキラと目を輝かせるラサの表情を見つめながらキーマは自問を繰り返す。
(これで、良かったのだろうか? ……本当に良かったのだろうか?)




「お師匠様。これで薬は全部です」
 おずおずと差し出した壺に注がれる師匠の視線を痛いほどに感じてラサの躰は縮み上がっていた。
 ジャムのように粘りけのある薬は壺の深さの半分ほどしか入ってはいない。本来なら、壺一杯に出来上がるはずの薬がこれほどの量になってしまったことには色々な理由があった。
 まず、初めに作った薬を焦がして無駄にしてしまったこと。そして、その後に採れた薬草が少なかったこと。さらに、この薬壺に移すときに手を滑らせて薬をこぼして土に還してしまったこと。すべて、自分の不注意が招いた結果だった。
 悄然と俯くラサの手から薬壺が取りあげられた。
「ご苦労様。今年は薬草の生育が遅いから、草を摘み取るのも大変だったでしょう。今夜はゆっくり休みなさいね」
 ラサは弾かれたように顔をあげて、微笑みを浮かべる師匠の顔を見た。
 確かに今年の薬草の生育は少し遅い。でも、決して少なすぎるというわけではなかった。自分が失敗さえしなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
 部屋の隅に備えつけられた棚に壺を納める師匠の後ろ姿を目で追いながら、ラサは情けない気分を押さえきれず一人落ち込んだ。
 薬壺をしまい終わった師匠がゆったりとこちらに戻ってくる。その足元には竜の幼獣がじゃれついている。
 師匠は泣きそうな顔をしているラサの手を取るとその白い両手で娘の小さな手を包み込んだ。
「薬草を摘むときにつけたのね、この傷。痛かったでしょう?」
 師匠の優しい手が優雅に舞い、ラサの擦り傷だらけの手の上をなでていった。魔力グラマの温かい波動がじわりと伝わる。
「さぁ、治ったわ。……ラサ?」
 ボロボロと涙をこぼす娘に少し驚きの表情を向けた後、カームはその月光の輝きを放つ髪を優しくなでた。なにも心配するな、というようにゆっくりと、ゆったりと。
「お、お師匠様……。ごめんなさい。ごめんな……さ……」
 なおも涙を流す娘にいっそう優しい微笑みを向けると、カームはその肩を抱き寄せて背中をさすった。そんなことをしたら、泣きやむどころではないであろうに。
 案の定、ラサは師匠の胸に顔を埋めると全身を震わせて泣き続けた。
「ラサ。草はまた育つわ。今度はもっと上手くできる自信があるでしょう?」
 ひとしきり泣き続けた娘の涙がようやく涸れ始めた頃、カームがそっと娘の顔を覗き込みながら囁いた。
 コクリと頷くラサの様子に満足したのか、師匠は娘の身体を引き離すともう一度だけ髪をなでた。
「お休みなさい、ラサ。……月があなたの夢を見守り続けますように」
「はい、お休みなさい。お師匠様」
 なんとか笑顔を作るとラサは強ばったその顔を師匠に向けた。そして、ふと師匠の足元にまとわりついている小竜に目をとめる。
「ネモ。お休み」
 娘の呼びかけに竜の幼獣がその声の主を見上げた。大きなドングリ眼がキョロキョロと動き、娘の顔を凝視する。
「ネモ?」
 カームが呼びかけながらその不格好な生き物を抱き上げた。
「ラサがお前に挨拶をしてるのよ?」
 だが幼獣は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。小さな娘を小ばかにしたその様子にカームは困ったように顔を曇らせ、獣に無視された娘はしょんぼりとうなだれた。
「しようのない子ね、ネモは。ラサ。ゆっくりとお休みなさい」
 小竜の額をトントンと突っついた後、カームはラサに微笑みを向ける。
 目に見えて落ち込んでいる娘を促すようにカームは娘の肩に手を置いた。片腕では幼獣が退屈そうに鼻を鳴らしている。
「お休みなさい、お師匠様」
 硬い表情を崩さず、ラサは一人と一匹に背を向けた。そして、逃げ出すように扉から滑り出ていったのだった。
 その後ろ姿を見送った後、白い女はため息混じりに小竜に話しかける。
「ダメよ、ネモ。ラサ・モーリンを虐めては」
 だが竜の幼獣はそんなことにはまったく頓着した様子も見せず、女の腕のなかで甘えた鳴き声をあげていた。
 その竜の様子にヤレヤレと首を振り、カームは奥の扉へと歩き出した。
 扉の奥には人の気配がしている。ラサがここを訪れる前から居座っている来訪者が今のやりとりを聞いていたであろうことはすぐに予想がつく。
 カームは一瞬だけ苦笑いをその表情に浮かべたが、すぐにいつもの柔和な顔を作り、そっと奥の扉を開けた。
 来訪者は渋い表情を作っていた。
 予想通りのその顔にカームは再び苦笑いを浮かべそうになった。これは彼女のいつもの癖だ。気にしていては、きりがない。
 竜の幼獣を抱き上げたまま白い女はテーブルの側まで歩み寄った。
「カーム。あれでよろしかったのか? ……あの様子だと、間違いなく書庫へ向かってるぞ」
 納得がいかない、といった顔つきのままクーンは目の前に置かれた果蜜水のカップを取りあげた。しかし、手に持っただけで一向にそれに口をつけようとはしない。
「良いも悪いもありません。あの子が成人していようと、幼かろうと、定められた刻ときは間違いなく近づいているのです。私の刻ときが終わる前に、ラサにすべてを引き継がせます」
 頑迷な、あるいは冷酷なほどにきっぱりと白い女は言い切った。腕のなかで小竜が居心地悪げに身じろぎした。
「それに、ラサは必ず呪歌を自分のものとするでしょう。あなたの心配することではありません」
 小竜を床に放つとカームはまとった衣装を優雅に揺らしながら椅子に腰掛けた。文句のつけようのない優美な動きに竜の子が女をうっとりと見つめる。
「あの娘にカームの重圧に耐えられる精神力があると?」
 苛立たしげに髪を掻き上げるとクーンはもどかしそうな表情で相手を見遣った。どうして、そんなに落ち着いていられるのか?
「……私にはそうは見えない」
 そのクーンに癒し手が穏やかに笑みを向ける。子を見守る母のように。あるいは慈悲深く人間を眺める神のように。
「賭ですよ。これは、ね」
 カームはまるで遊びの続きを話して聞かせるように、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 ことはそんな簡単なことではないのに。
 女だけのこの一族で、癒し手の不在は緩慢な滅びを意味している。いや人としての血脈を保つだけならば、一族に男を加えてしまえば済むことだ。
 だが誇り高い女族アマゾネスの血がそれを素直に享受するはずもない。
 女だけの種族では限界がある。そのことには一族の者すべてが感じていることだ。それでも他の種族に取り込まれることなく一族が命脈を保ってきたのは、彼女たちが傭兵として他国の王たちに重宝がられていたからだ。
 だがそれも、魂の守護者カームが居ればこそだ。
 子を産む女にとって、戦で人の命を奪うことは自分で自分の子の命を否定しているようなものなのだ。その矛盾する感覚をなだめるためにカームは一族の者が背負う負の感情をすべて独りで引き受ける。
 戦ですり切れてしまった者の心を呪歌の調べでもう一度紡ぎ直し、安眠させるのがカームの役目だ。癒し手がいるからこそ、戦へ向かう者たちは他国が怖れる力を出し尽くせる。
 その、自分の魂そのものを救ってくれる癒し手が居なくなったら? 考えただけでも悪寒が走る。
 族長はたまらず立ち上がった。
 見えない恐怖と戦いながらクーンは癒し手の空色の瞳を睨んだ。なぜ、そんなに平然としていられるのか!? 判らない。この人の心は判らない。
「あなたの……。いや……エイラ! その信頼は、いったいどこからくるのだ!?」
「たぶん……あなたの思い及ばぬ所からよ、アティーナ」
 返ってきた返事に一族の長はいっそうに困惑した。
 自分とたいして歳の変わらない一族の白い母は、涼しげな顔をして微笑んでいる。自分の刻ときが終わるとあっさりと口にしたり、見習いの娘にすべてを託すと言ったり、何を考えているのかさっぱり判らない。
 底が知れない。
 幼い頃は一緒に野山を駆けたはずの友なのに、いつの間にこんなに理解しがたい存在になったのか。
 族長クーンは一瞬その心の深淵を覗いた気分になり、取り憑かれた闇を払うために天にあれし女神の名を口腔で転がした。




『なんて出来の悪い癒し手だろう』
 そんなことない。わたしには才覚があるわ。お師匠様がそう言ってくださったもの!
『あぁ、厭だねぇ。いつまで半人前の見習いでいるつもりかねぇ』
 わたしだっていつまでも見習いなんかでいたくないわ! だから……だから!
『このままじゃ、死に絶えるのを待つばかり。いっそ、他の後継者を捜したほうが、良くはないか?』
 いや! 止めて! わたしを見捨てないで!
 小さな悲鳴とともに飛び起きるとラサは肩で息をした。
 厭な夢。
 額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。その汗を拭おうとしてあげた手がふと止まった。
「ここは……?」
 見慣れない景色だった。薄暗い空間にぼんやりと目が慣れてくると、白亜の柱が立ち並び、棺のような石の群が鎮座している様子が見えてきた。
「わたし、確か、書庫に忍び込んで……」
 今まで自分の行動を思い出し、辺りを見まわそうと身体を起こす。
 途端に足首に鈍い痛みが走った。
「い、痛い。足を捻挫したかしら。あぁ、そうだわ。書庫の奥で隠し階段を見つけて、降り始めてすぐ足を滑らせた……」
 すぐ側に暗い階段が上へと伸びていっている。一番上がどの辺りか見当もつかない。
 師匠の部屋を後にしてすぐ、ラサは書庫に忍び込んでいた。昼間にキーマから聞いた話が心から離れなかったこともあるが、何よりも追いつめられた心理が書庫へと向かわせた。
 ラサはそろりそろりと身体を動かし、うっすらと明るい方へと這っていく。時折に足から伝わる痛みは、そこが熱を持ってきていることを教えていた。
「窓がどこかにあるのかしら? ぼんやりと月明かりが見えるような気がする……」
 この地下部屋のどこかに地上からの明かりが射してくる可能性は充分にありそうだった。柱に取りすがってゆっくりと立ち上がると、ラサは光らしきものが見える奥を透かし見た。
「あ……! あれは!?」
 思わず柱から手を離して、ラサはよろけた。
 奥の光のなかにぼんやりと浮かんだものは、自分たちの信仰する女神像だった。それもかなり古びた感じのする等身大像だ。
 随分と前から安置されていたのだろう。掃除されていたが、神像は所々に欠けや汚れが見えた。
 その像に引き寄せられるように近づくとラサは自然とその前に跪いた。いつもの習慣で腕を胸の前で交差させ、軽く頭こうべを垂れる。
 一通りの祈りを捧げ終わると、ラサはその神像の顔を見上げた。
「お師匠様に少し似てるかしら?」
 神の表情は柔らかさより力強さを印象づけるものだった。柔和な師匠の顔立ちに比べれば遙かに凛々しい顔立ちだと言っていいだろう。だが、厳しさの残るその表情の下に慈悲深い微笑みが見えるような気がする。
 神の表情を見ているうちにラサは先ほどの師匠の態度を思い出していた。
 優しい、滅多に怒らない師匠。それでも今日の薬の出来は叱られても仕方のないものだった。無惨な出来映えであるにも関わらず、師匠は叱りもせず、笑って次は上手くできると言ってくれた。
 叱られなかったことにホッとする反面、見捨てられてしまったような心許なさが心の奥底には積もっていた。きっと師匠は呆れて怒る気にもならなかったのだ。なんと情けない弟子であろうか。
 哀しげに俯いたラサは神像を安置してある台座に寄りかかると、疲れ切ったように長い長いため息をはいた。
 茫然と台座に寄りかかっていたラサの目に、それが目に入ったのは本当に偶然だった。
「あら……? 何かしら?」
 台座の端に切り込みが入っている。いや、切り込みくらいなら、装飾の一種だと割り切れる。だが、その切り込み部分は明らかに歪んでおり、暗がりのなかで見ても違和感があった。
 ラサは好奇心に駆られてその切り込み部分に触れてみる。切り込みは握り拳ほどの範囲で大理石に刻まれていた。その部分がカタカタと揺れる。
「もしかして、隠し箱か何かかしら?」
 ラサは苦労して大理石を引っぱりだした。手首が入りそうな穴がぽかりと開く。そっとその穴に手を差し込んで、中を探ってみた。
 ……が、中身は空っぽだった。
「何も入ってないわ」
 穴に手を入れたまま、がっかりした様子でラサはうなだれた。
 昼間に聞いていたカームの書物があるかもしれないと密かに期待していたが、当てが外れてしまった。やはりそんなに都合良く見つかるはずがない。
 それにしても不可解な穴だった。神像を安置するための台座にこんな穴など必要ないはずだ。故意に刻みつけられたことは明らかで、何かを隠すために作られたとしか思えないものだった。
 それともこれは書物を盗み見しようとやってきた者の目を欺くための仕掛けなのだろうか?
「女神よ……。わたしには書物を見る資格などないということなのですか?」
 そのときだった。
 力無く呟くラサの声が聞こえたかのように、密やかな声が響いてきた。

  見よ…… 汝らの前に立つ乙女を
  その小さき者がアルテミスの娘であることを知れ
  それこそが汝らの命脈を救う術なり……

 突然の囁き声にラサの心臓は飛び上がった。
 慌てて辺りを見まわすが、何処からともなくもれてくる光と、闇に半分溶け込んだ石たちが沈黙を守るばかりで生き物の気配はまったくなかった。
「だ、誰!?」
 ラサは怯えながらも気丈に声を出した。黙ったままでいては、沈黙の恐怖に心が押し潰されてしまいそうだ。

  沈黙は破られた
  今こそ目覚めの刻ときぞ……

「誰!? 誰なの! いったいどこから話しかけているの!?」
 問いに答えようとしない何者かに言いようのない恐怖を抱いてラサは身体を縮めた。まわりの闇に飲み込まれてしまいそうだ。
「誰なの!? 出てきなさいよ!」
 ラサは金切り声をあげた。このままここにいてはおかしくなってしまう。だがくじいた足では逃げることも叶わなかった。
 彼女のそんな様子を面白がるように闇の声が続く。

  癒し手カームの席は二つなく
  その記憶も二つなし
  継ぐべき者に名を与わば
  清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……

 ラサは足の痛みも忘れて立ち上がった。知らず全身が恐怖に震える。このままでは自分の心が壊れてしまう。
「出てきなさいよ! この卑怯者! 姿を見せたらどうなの!?」
 震えが止まらない。膝の力が抜けてくずおれそうだ。叫び声をあげる唇も震えて、声がうわずる。
 ラサはくじけそうになる自分の気持ちを奮い立たせるように闇を睨んだ。その薄暗い闇の中にほのかな輝きが見えたのは、彼女が闇と対峙したその時だった。
 輝きがどんどん強くなる。
「な、何!? 何かが近づいてきている!?」
 闇のなかにいたとき以上に怯えてラサは背後の神像に身を預けた。足が震えてまったく動かせない。

  廻れ、廻れ 輪廻の歯車
  和児わこを護りて 疾とく廻れ
  刻ときの波間に身を任せ
  永遠の娘リジェナレートが生まれ来る……

 目を開けていられないほどの強い輝きが辺りを一瞬覆った。
「お、お師匠様……助けて」
 とうとうラサは他人に、ここにはいない者に助けを求めた。だが、助け手がくるはずもない。
 眩い輝きが一瞬で去り、その後には穏やかな月の光に似た輝きが宙に浮かぶ。恐怖も忘れて、ラサは茫然とその発光体を見つめた。楕円の形をしたその光はふわふわとたゆたうように揺れていた。
「な、なんなの……?」
 一時の恐慌が落ち着いてくるとラサは光の中を透かし見た。何かが浮かんでいた。
「? ……何かあるわ」
 闇から聞こえていた声はもう聞こえなかった。
 ラサは恐る恐る神像から身体を起こすと痛む足を庇いながら光の源に近づいていった。
 女神像からさして離れていない位置に浮かぶその光体に近づいたラサは、その中に浮かぶ物を確認して息を飲んだ。
「ま、巻物が……。これがカームの書き記している書物なの?」
 歴代のカームが書き残している書物にしては、随分と少量な気がする。そして、古びた羊皮紙は光の中に浮かんで彼女が手にすることを望んでいるようにさえ見えた。
「神よ……。感謝します」
 震える声と身体を押さえてラサは光に手を伸ばした。
 一瞬、見えない壁が自分を遮るのではないかと頭の隅に疑問が浮かんだ。だが光の壁は彼女を拒絶することなく、その内側へと彼女の両手を導き入れた。

〔 10759文字 〕 編集

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