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あなたは今、その不思議な世界の入り口に立っています。
摩訶不思議な世界、黒竜街道。
ここは混沌が支配する場所。
箱庭の世界、異次元の狭間。
誰もがおかしいと思いながら、抜けられない異空間。
みょうちくりんで滑稽な、でもどこか懐かしくも哀しい、ちょっぴりおかしな幻想の物語をお楽しみください。
言ってはいけない。
何度も寝物語に聴いた伝説を、もう一度口の中で繰り返す。
辻守に出逢ったら気をつけろ。決して口にしてはいけない言葉がある。それを破った者は生きて還ってはこないのだ、と。
それでも怖れず、辻守に逢いたくば、√たちが示す道筋に向かうが良い。
寝物語の昔話は、いつもそう繰り返す。
けたたましい音を立て、空のエールジョッキが卓の上に叩きつけられる。青銅のジョッキはクワンクワンと抗議の声を上げたが、仮の主人はその声をアッサリと無視した。
「……なぁんてな。誰が信じるかよ、そんな迷信! おぉい! こっちにエールの追加だ。樽ごと持ってこいや!」
野太い腕がそのジョッキを持ち上げ、給仕女を催促する。ちょっと待って、と叫ぶ女は額に汗を浮かべて忙しそうに動き回っていた。
だみ声と嬌声が入り混じる店内には酔客が溢れ返っている。今夜の酒場は大盛況の様子で、酒の匂いが充満したその場は、たとえ酒を呑んでいなくても酔っ払えそうだ。
店の亭主はほくほく顔をして給仕たちに指示を与え、踊り子はタガがはずれている客から金をせびろうと太股や胸元も露わにしなだれかかる。
そんな喧噪の中で、男は同じ卓を囲む相手の肩を威勢良く叩いた。
「おい、坊主。お前も飲んでみるか? なりは小せぇがいける口だろ」
「オレはいい。酒は飲まないんだ。……それで、辻守に出逢ったときに口にしてはいけない言葉ってのはなんだ?」
「あぁ? 待て待て。そうせかすなよ。まずはエールを飲んでからだ」
新しいジョッキに注がれたエールを受け取り、男はだらしなく口元を弛める。そして、男は一気にジョッキの半分量を飲み干した。その赤ら顔が陶然とするさまを、同席している若者は忍耐強く見守っていた。
「あ~……うめぇ。五臓六腑に染み渡るぜ。他人様のおごりとなりゃ、それだけでうめぇってモンだぜ」
「それは良かった。……で、話の続きは?」
「なんでぇ。せっかちな奴だなぁ。……あぁ、言ってはいけない言葉ね。えぇっと、なんだったかなぁ。うーん」
「忘れたとは言わせないぞ」
「るせぇっ。忘れるかよ。えーっと。えー……あれ? なんだっけ?」
若者が小さくため息をつく。眉間に寄せられた皺が大いに失望を刻んでいるのだが、思い出すのに必死な酔漢はまるで気づいていなかった。
「忘れたんだな。……もういい。憶えていない者に用はないんだ。これまでのエール代は払うが、この後の代金は自分で払えよ」
若者は音もなく席を立つと、卓の上に金が入っているらしい小さな麻袋を放り出す。嬉しげに顔をほころばせる酔っ払いが「ありがとよー」と笑っているが、彼はそれには目もくれずに酒場を後にした。
店を出た若者は足早に路地裏を抜けていく。そして、宿場の建物が入り組む一画から離れた。酒場のやり取りに落胆したか、夜の道を行く彼の横顔は険しい。
家々がまばらになり、街道からはずれた森の近くまでくると、若者は苛立った様子で周囲を見回した。
「どこにいる。姿を見せないか!」
声は小さいが、若者の鋭い叱責に森の下生え草を揺らす音が応える。夜行性の動物を連想させる物音にも、彼はいっこうに動じる様子はなかった。
「その様子だと駄目だったようだな。だから最初に言っただろう。無駄なことはやめておけと」
「黙れよ。お前の言うことなど誰が信じるか。辻守の呪いがかかっていない奴がどこかにいるはずだ。絶対に禁句を教えてもらう。だからオレは次の宿場に行くぞ。お前らとはここまでだ」
若者の目の前に現れたのは、全身の肌も髪も真っ白だが瞳だけが夜よりも黒い少年だった。そのすぐ隣には闇色の髪に摺墨色の衣装を着込んだ子どもが立っている。外見だけは異様に目立つ二人連れだ。
「辻守を探すほうが早かろうに。口にしてはいけない言葉を探し回っていたのでは、いつまで経っても辻守には行き着かないぞ」
「オレは辻守の薬を手に入れて、故郷の村に帰らなければならないんだ。不用意に禁句を口にして死にたくはない!」
「辻守の姿すら知らないのに禁句も何もあったものではないと思うが?」
「うるさい。オレに指図するな!」
ドスドスと足音も荒々しく歩き始めた若者の後ろを、真白き少年と闇色の髪の子どもがついていく。
「ついてくるなよ。鬱陶しいだろ! 早く辻守に逢わなければならないのに、お前たちの面倒を見るのなんかごめんだ」
「別に面倒を見てくれとは言ってない。勝手にしろと言うから勝手に歩いている。それがたまたま同じ方向なだけだ」
「屁理屈をこねるな! もう、お前たち二人と関わるのはイヤだって言っるんだ。その外見のせいでオレまで変な目で見られるじゃないか。みんな避けて通るだろ。人に話を聞くのだって大変になるだけだ!」
摺墨色の衣装を着込んだ子どもが頬を膨らませて隣の少年の袖を引っ張った。
雪のように白い少年の肌に重ねられた子どもの手は青白い。全身が白い少年の姿も異様だが、黒々とした髪と青白い肌が対比する子どもの姿も人の目を引かずにはいられない。
独特の雰囲気を持つ二人連れが一緒では、厭でも目立つ旅路になろう。目立てば盗賊にも狙われる。人買いにさらわれることもある。不用意に危険が増えることは、誰にでも判る理屈だった。
「どうして村に辻守の薬を持ち帰りたいんだ? 村に薬師はいるだろうに」
「前にも話したろ。薬師の作る薬では生まれたての子どもがかかる病気を治せないんだよ。子どもの病気を治せる薬を手に入れれば、親たちは大喜びだ。そして、村の奴らはオレに頭が上がらないんだぜ。気分がいいじゃないか」
「村の連中を見返してやりたいってことか」
「そうだよ。悪いかよ。村で土地を持ってないオレのことをボロカスに言う奴らを見返してやるんだ。両親は土地を持ってる奴らの土地を借りてつましい暮らしをしていた。オレはそんなの厭だね。今度はオレが奴らの上に立つ!」
若者の後ろを歩いていた二人連れの足が止まった。
「クソッ! 昔語りの謎も解けないってのに、ミョウチクリンな奴らの相手なんかしてられるかよ」
若者は苛立ちに悪態をつきながら先へと歩いていく。後ろの二人が徐々に離れていくことには気づいていない。いや、気づいていたとしても厄介払いが出来たとしか思わなかったに違いない。
遠ざかっていく若者の背を見送り、白い少年は隣の子どもを見下ろした。
「行かせていいのか?」
「かまわん。あの者は辻守に逢うに相応しくない」
「まるで辻守を知っているような口調だな」
黙り込んだ子どもの様子に少年は肩をすくめた。
「俺には、あいつが永遠に村に帰れない気がするんだがな」
「今のまま薬を手に入れようと考えている限り、村には帰れまいよ。辻守の薬は己が成り上がるためにあるわけではない。昔語りの意味を知らぬ者の前に辻守は現れないからな」
小さくなっていく若者の背を、子どもはじっと見つめている。尊大な口調とは反対に、前髪の隙間から覗く血色の瞳は暗く哀しげに揺れていた。
「さて、あいつの後を追って黒竜街道を進む必要がなくなったのなら、宿場に引き返して宿を見つけるか? あいつに気兼ねしなくていいなら、宿場はずれの森で野宿する必要もないだろう」
「そうだな。己の根源が示すものを知ろうとしない者に道はない。街道を行ったとて、あの者は目的を果たせないのだから、我々まで同じ轍を踏むことはないだろう。今夜は温かい寝床で眠れる」
「またガキのくせに小難しいことをゴチャゴチャと」
「ガキではないと、いつも言っているだろうが。いい加減に子ども扱いを止めないと……」
「判った、判った。今日は疲れたから口論は終わりだ。続きは明日にしてくれ」
食ってかかってくる子どもをいなし、少年は夜道に伸びる黒い街道を後戻りし始める。少年の横顔に表情はないが、飛びついてきた子どもを背負う姿は幼い弟をあやす兄のように優しげだった。
「なぁ、昔語りの謎に出てくる文字、あれの意味はなんだ?」
「文字というと……あの“√”のことか?」
「そうだ。まったく見たことがない文字だからな」
「今は誰も知るまい。あれは異界の記号だ。特殊な文章を綴るときに使うらしい。真実の意味は、木の根、根源、源流。あるいは──祖先」
少年は背負った子どもを揺すり上げ、なるほど、と呟いた。その返答に満足したのか、子どもはふっくらとした頬を少年の肩に擦り寄せて吐息を漏らす。
「眠かったら眠ってもいいぞ。宿についたら起こしてやる。あいつへの“道筋”は示してやれなかったが、自分たちの“道筋”くらいはガキに頼らなくても判るからな」
「ガキではないわい。まったく、どいつもこいつも腹立たしい。今に天罰が下るぞ。判っておるのか!」
「自分の√は判っているからな。辻守に逢う気はないが、道筋に迷うことはないだろうさ。だから、天罰なんぞ知ったことか」
「……罰当たりな奴め」
呆れたように呟いた後、子どもは静かに眼を閉じて背中の揺れに身を任せた。
宿場の端にある茶屋が見える。夜の間中明かりが灯る酒場はともかく、街道に面した宿屋も今は窓から小さな灯火を漏らすだけだ。
少年の背に身を預け、子どもは背後の闇を振り返った。もはや若者の姿は見えず、そこには闇の中に溶ける黒い街道が真っ直ぐに伸びているばかりだ。
「どうした? あいつのことが気になるのか?」
「いや。気になるのは……黒竜街道の果てだけだ」
囁いた子どもの声は少年に辛うじて聞こえたのだろう。再び、なるほど、と少年は呟き、無理な体勢の子どものために立ち止まって背後に向き直った。
「見えるか?」
「あぁ、見えるぞ。我が道が」
「ガキのくせにキザな奴だ」
「つくづく無礼な奴。いつか天罰を喰らわせてくれるわ」
ムッとした子どもの口調に少年がクスクスと笑う。人間離れした外見が、このときばかりは人懐っこい動物のような雰囲気に満ちた。
「お前が辻守だったら、俺は禁句ばかりを口にするいけ好かない奴だな」
「判っていて口にするか。まったくもって躾がなっておらん」
「ガキに躾がどうこう言われてもなぁ」
背中の子どもが腕を振り上げ、目の前にある少年の頭を叩き出す。痛いと不満を漏らしながら、少年は再び宿場に向かって歩き出した。
「いい加減に大人しくしないと、この場に捨てていくぞ」
「そんなことをしてみろ。末代まで祟ってやる!」
「ばかばかしい。やれるものならやってみろ」
「きぃっ! バカとはなんだ、バカとは!」
夜はなおも続く。そして、足下で輝く石の街道は、彼らが巻き起こす小さな喧噪などものともせず、悠然と大地の上に横たわっていた。
「この出来損ないはなんだっ!? 貴様、主様からいただいた品で何をやったんだ!」
長い回廊の端から漏れる青白い光の奥で、凄まじい絶叫があがった。
彼らはここで私が騒ぎを聞きつけているなどとは思いもしないのだろう。磨き抜いた黒曜石の表面に、私と月子の驚いた顔が映っていた。
「おおかた、居眠りでもしていたのだろう! こんな不始末をしでかして、ただで済むと思うなよ!」
私は狂ったような騒ぎに小さくため息をつく。腕の中の温かな気配がビクビクと震えていた。月子がクルアンの怒りように怯えている。彼女の柔らかな肩を抱き寄せると、胸元から花に似た甘い香りが立ちのぼってきた。
「ねぇ、クルアンは何を怒っているの?」
「あの様子だと、カント・ガントが失敗をやらかしたのだろう」
「可哀想に。あんなに怒らなくてもいいじゃないの」
クルアンが怒り狂っているということは、カント・ガントはよほどのヘマをしたのだろう。だが、それを月子に説明しても彼女は納得しそうもなかった。
「おいで、月子。一緒に様子を見に行こう」
私の腕にしがみついた月子が喉を鳴らしながら笑う。機嫌がいいときの彼女は判りやすい。空いている片手で薔薇色をした頬を撫でると、彼女はさらに嬉しそうにクスクスと笑い声をあげた。
「行きましょう。きっとカント・ガントがいじけているわ」
私は踊るような足取りの月子に引っ張られて騒ぎの元凶へと向かった。
月子にしがみつくカント・ガントにチラリと視線を向け、私は渋面を作った。
今回の彼の失敗はかなり厄介なものだった。どこをどう間違えたのか知らないが、この失敗作を消し去ることは出来そうもない。
「主様、もはや赦す赦さないの範疇ではありません。即刻、カント・ガントから下賜品を取りあげて追放すべきです!」
「そんなぁっ! おいら、ここを追い出されたらどこ行けばいいんだよ! 主様、おいらを追い出したりしないよね!?」
「追い出したりしちゃ駄目よ! ねぇ、魔法でパパッとなんとかなるのでしょう?」
三者三様に訴えられても、すぐには決断できない。これはいったいどうしたものだろう。こんなものは見たことがないのだが。
「面倒なことをしてくれたな、カント・ガント……」
我々の目の前にあるものは──ありていに言えば、獣と植物の混合体だった。
猿に似た獣の身体に、甲殻類のように節くれ立った奇妙な植物が生えている。これだけでも妙だというのに、この猿は双子だったのだ。しかも、腰の後ろで結合している奇形種だった。
「おいら、月子様が部屋に飾る森の絵が欲しいって言っていたの思い出して、東の忘れ森で採ってきた樹木と猿を描いただけだい! こんなことになるなんて……」
「クレヨンたちをしっかりと監督していれば、こんなヘマをするはずがないでしょう! 見苦しい言い訳はやめなさい!」
「怒鳴っちゃ駄目よ。カント・ガントが可哀想じゃないの。大丈夫よ、主様がちゃんと元通りにしてくださるわ。わたくしのいた世界でもシャム双生児の分離手術が出来たのですもの。この世界で出来ないはずがないでしょう!」
私から見れば、背後でやいのやいのと騒ぐ三人は暢気なものだ。どうにかするのは私であって、三人とも結局は傍観者なのだから。
新たな命を与えられた猿モドキたちはキィキィと鳴き騒ぎ、それぞれがテンデバラバラの方向に歩き出そうと躍起になっていた。お互いの身体から生えている妙な植物に怯えているらしい。
哀れといえば哀れだが、端から見ている分には滑稽芝居の役者のようだった。
「さて、困ったことだ。どうやったら元通りにできるものか……」
ブツブツ呟く私の背中に、柔らかな感触が押しつけられた。
ぐるりと身体をよじって見下ろすと、恨みがましい目でこちらを見上げると月子と視線が合ってしまった。そして、彼女の背後にはカント・ガントの媚びるような上目遣いの瞳があった。
「主様! カント・ガントなどにこれ以上の情けをかける必要はございませんよ! 今度という今度は、看過することは出来ません!」
「クルアンの意地悪っ! カント・ガントはまだ子どもじゃないの。どうしてそんなひどいことが言えるの!?」
私はそっと片手を挙げ、何か言いたそうに口を開いたクルアンを制した。
ヘタに今の月子を刺激すると、自分の世界に帰ってしまう。呼び戻すのに一苦労だ。以前のように界を渡って迎えに行くのは、いくら辻守の私でも命が幾つあっても足りないくらい危険な行為だった。
「月子。これは少々厄介だ。戻そうとして、さらに面倒なことになるかもしれない」
「でも、元通りにできるのでしょう?」
「……まぁ、かなりの手間暇をかけることになるが」
「じゃ、治して。お願い! あのままでは、猿たちも植物も可哀想よ」
口を尖らせ、手足を必死にばたつかせている月子が妙に可愛らしく見え、私は彼女の顔をマジマジと見下ろした。
あぁ、だが。彼女に見取れて、あの奇妙なシャム双生児から視線をそらしたのが間違いだった。けたたましい鳴き声が耳を聾し、私が慌てて振り返ったときには、猿モドキたちは目の前まで転がってきていたのだから。
私を黒曜石の床に突き倒し、猿モドキたちは月子に体当たりするように抱きついていった。しがみつかれて、月子が派手に尻餅をつき、彼女の背後に隠れていたカント・ガントは下敷きにされた勢いで気を失ってしまった。
「ぬ、主様! 月子様!」
私にしても、クルアンの焦った声が聞こえなかったら、不覚にも意識を失っていたかもしれない。
クラクラする頭を振って身体を起こすと、猿にしがみつかれて怯えきっている月子の姿が見えた。
「月子!? この……猿どもが!」
気安く彼女に触れるとは、なんという無礼な猿どもだ。
私は両手で素早く印を結ぶと、高速真言を唱えた。人間の可聴領域を超えた言語は、唱えている私にしか聞き取ることはできまい。
増幅された魔力が一本の槍のように解き放された。それはまっすぐに猿モドキに向かっていき、ギシギシと軋んでいる樹木枝を吹き飛ばし、猿たちの毛皮を引き裂いていった。
月子の目の前で獣の肉が柘榴のように弾ける。彼女は飛び散る血のなま暖かさにギョッとし、次いで音階を無視した絶叫を放った。
尾を引く叫びが延々と続いた。が、それが突然途切れると、月子は糸が切れた操り人形のようにグッタリと倒れ込んでしまった。
「月子! 月子、しっかりしろ! 月子!?」
駆け寄った私が揺すっても、彼女は意識を取り戻さなかった。傍らに跪いていたクルアンが、慌ててどこかへと駆け出していく。
血まみれの月子を抱きかかえたまま、私はどうして良いか判らずに途方に暮れるばかりだった。
あれ以来、月子は双子を見ると怯えるようになってしまった。
後悔ばかりが頭をもたげる。どうして彼女をあの部屋から連れ出しておかなかったのだろうかと。もはや後の祭りだ。
「カント・ガントを処分しなくてよろしかったのですか?」
「かまわぬ。今さらであろう。あれは今、どこにいる?」
「すっかりしょげ返っております。たまに宵星亭に顔を出しているようですが、それ以外は自分の庵に籠もったままです」
私はその報告に小さくため息をつくしかなかった。元はと言えば、カント・ガントが術に失敗したのが原因ではあったが、最終的な対処を誤ったのは私だった。
「クルアン、頃合いを見て、カント・ガントを連れ戻してやれ。月子が話し相手がいなくて寂しがっている」
「お言葉ですが、月子様は主様のお話相手にお連れした方です。月子様のお話相手は主様かと思いますが?」
「私がおらぬときの話し相手だ」
クルアンは白い月光に似た瞳に不穏な気配を漂わせたが、すぐにいつもの平然とした表情に戻ると、深々と頭を下げて恭順の意志を示した。
ゆったりとした足取りで歩み去る彼の背を見送りながら、私は自嘲の笑みを浮かべる。
判っている。私は月子に甘すぎる。彼女の頼みを断ったことがない。クルアンにはそんな私が歯がゆいのだろう。
退屈を紛らわせる相手として連れてきた月子が、今では私の生活の大半を占領し始めている。私の魔力で命の時間を引き延ばしているとはいえ、いずれ彼女は私より先に逝く。
月子がいなくなったら、私はどうするのだろう。暗闇の中で輝くシャボン玉のような笑みに毒された私には、彼女を失うことは恐怖以外の何物でもなかった。
血まみれの彼女を抱きしめたときに悟ってしまった。気づかなければ良かったものを。
私の視界の隅に、ヒラヒラと白く揺れる光が踊った。お気に入りの白い衣装を着込んだ月子がこちらに向かって駆けてくる。
私はその跳ねるような足取りを見守りながら、小さな吐息を漏らした。
あとどれくらい一緒にいられるのだろうか。いつまで彼女が駆け寄る姿を愛でることができるだろうか。
「主様、こんなところにいらしたのね。あちこち探し回ってしまったわ!」
飛びつくように胸元に抱きついた月子の背に腕を回し、私は顎の下にある彼女の髪に頬ずりした。
「私を探す必要などないだろう? お前に渡した鏡を使えば、私はいつだってお前を招くのだから」
「まぁ、そんなの面白くないわ。探して見つけるから楽しいのよ!」
はしゃぐ彼女の腕を取り、私は蒼い闇の回廊を歩き始めた。
月子と離れ離れになるくらいなら、いっそのこと私が殺した猿モドキたちのように一つになる術をかけてしまおうか。決して離れることのできないシャム双生児のように。
淡い夜の闇に漂うように月子が私の周囲で踊る。その姿を追いながら、私は私と身体の一部を繋げた彼女の姿を夢想して、ひどく落ち着かない気分に浸っていた。
あぁ、腹立たしいったらありゃしない!
アーシェリアはブツブツと不平を鳴らしながら地上車の後部座席に埋もれていた。
十六の頃に出逢った男のことが二年経った今でも頭の隅にこびりついている。あんな不愉快な男は忘れてしまおうと頑なになればなるほど、出逢ったときの白い横顔が鮮明に浮かび上がってくるのだから腹立たしい。
彼女の若くて性能のいいニューロンとシナプスはどういうわけか忘却という神の恩寵を拒絶しているらしく、非日常的な空想を始めるといつもその男のところに縫い止められてしまうのだった。
「今日こそキッチリとけじめつけてやるんだから」
十八になった今日、アーシェリアはその腹立たしい幻影に別れを告げるため、二年前のあの場所へと向かっていた。
ハイヤーがうらぶれた路地の入り口で止まると、彼女は豹のように素早く優雅に路面に降り立ち、興味津々な様子で客を伺う運転手に適当なチップを払って追い払った。
「さてと、この黒い路地の奥だったわよね」
貧民層の居住区にほど近い場所の一人歩きは危険だったが、使命に燃えているアーシェリアはその重要性を失念していた。足取りも荒々しく路地を進むにつれて辺りは薄暗くなっていったが、彼女はかまうことなく先を急ぐ。
しかし、年若い娘が通り抜ける場所には相応しくないことは、さすがの彼女も一応は自覚しているようだ。目指す場所が見えるまで脇目もふらずにズンズンと進んでいく。
第三者が声をかける隙を与えない態度は見事だった。もっとも、この近辺の住人に言わせれば、それでも考えが甘いと言うことだろうが。
この日、彼女は人生最大の幸運に恵まれていたのかもしれない。
「酒場に入れる年齢まで待ってやったんだから、絶対に見つけるまで通い詰めてやる!」
目の前に建つ薄汚れた建物を見上げ、彼女は優秀なニューロンを忙しく働かせていた。以前と変わらぬ雰囲気の佇まいだとの記憶の声に、彼女は自分が目的地に到着したことを知った。
戦闘開始とばかりに店の扉を開けて店内へと滑り込んだアーシェリアは、薄暗い酒場の照明にギクリと立ち止まるしかなかった。目が暗さになれておらず、店内の客たちがただの黒い影にしか見えない。
何度か目を瞬かせ、ようやく周囲の状況が判ってくると、彼女の耳に店内の喧噪が飛び込んできた。と同時に、カウンターでシェーカーを動かす紅髪の男の姿が目に入る。
「ヴィーグ……。まだここにいたんだ」
炎のように燃える髪を見るまで、アーシェリアは若いバーテンのことを忘れていた。入れ替わりの激しい雇われバーテンが二年経った今でもこの場所にいるとは思ってもみなかった。
だが、そんな感嘆に浸る間もなく、彼女は探し人を見つけようと店内を見回す。しかし、その肝心の探し人は、薄暗い隅に紛れ込んでいるのか、今日は来ていないのか、彼女の瞳では見つけだすことはできなかった。
すぐに見つかるとは思っていなかったが、アーシェリアの胸に失望が広がった。だが、それを表情には表さず、彼女は滑るような足取りでカウンターへと向かう。
「久しぶり、ヴィーグ。カクテルを作ってくれる?」
チラリと彼女の表情を覗いたバーテンが薄い笑みを口元に浮かべた。
「いらっしゃい。二年ぶりですね。ようやくこの国でお酒が許される年齢になったというわけですか」
「そうよ、偉いでしょ。ちゃ~んとおじいさまの言いつけを守ったんだから」
「アッサジュ・パルダ教授がお聞きになったら泣いて喜ばれるでしょうね」
さりげない口調に嫌味を感じ、アーシェリアはムッと眉を寄せる。が、すぐに取り澄ました表情を作ると、二年の間に学んだ忍耐力を駆使して宛然と微笑んで見せた。
「こんな治安の悪い場所へくるとはって? おじいさまだって出入りしているんだから、わたしだって来てもいいはずよ」
「若い女性が出入りする場所に相応しいところではないのですがね」
「わたしは客よ。どの店に入るかはわたしが決めるわ!」
「面倒はご免ですよ、アーシェリア」
バーテンが彼独特の氷色の瞳を細める。元から表情の少ない彼だったが、目を細めるとさらに冷たい印象を与えた。その態度が気に入らず、アーシェリアは胸を張って相手を睨み返した。
「あら、わたしだって護身術くらい身につけているわ。心配ご無用よ」
「マシンガンやレーザー銃を持っている相手に、お嬢様の護身術が通用するとでも思ってるのか? 呆れ果てた向こう見ずだな」
アーシェリアはハッと身を固くした。目の前の若者とのやり取りに気取られていて、背後から近づいてくる男の気配に気づかなかった。なんという不覚。
「女と見ればひん剥いて弄びたがっている輩がウヨウヨいる場所で偉そうに講釈を垂れるとは、二年前と変わらず無知な奴だ」
「な、なんですってぇ~!?」
勢いよく振り返ったアーシェリアの目の前に暗緑の光を湛えた闇があった。
「あ、あなた……! いつの間に……」
彼女の脳内でニューロンが暴走し始める。見つけた、見つけた、見つけた。
あまりにアッサリとした再会に、彼女の内心は混乱の一途を辿る。何日も通い詰めなければ逢えないだろうと思っていたのに、店内に入ってから十分に経たないうちに逢えるとは予想もしていなかった。
心の準備ってものを考えなさいよ!
アーシェリアは内心で毒づいたが、相手の男はまったく意に介した様子もなく彼女の左隣に腰を落ち着けた。
「ヴィーグ、蜂蜜酒はあるか? 今夜はやけに飲みたい気分だ」
承知しました、と店の奥へ引っ込むバーテンを見送った後、アーシェリアは信じられない思いで隣の男を見つめた。
二年前と同じように白い横顔を彼女にさらす男は落ち着き払っている。真っ白な髪も、その左前髪だけ長いところも、白人種特有の乳色の肌も、何一つ変わっていない。もちろん、鋭い闇を湛えた暗緑の瞳も。
静かにカウンターに戻ってきたバーテンが、男の前に音もなくグラスを置いても、彼女は隣の男から視線をそらせないでいた。
白く長い指先がグラスを持ち上げ、皮肉げなカーブを描いた唇で中身の液体を飲み干しいくと、彼女の視線はその唇と上下する喉仏に注がれた。
薄暗い店内に浮き上がる男の姿はどこかで見た映画のワンシーンのように無駄がない。今にも監督の「カット!」の声が聞こえるのではないかと、アーシェリアは息を潜めて相手の動きに魅入られていた。
その間にも、彼女の脳を支配するニューロンたちは忙しく働き続け、目の前に繰り広げられる映像を正確無比に記録していく。
あぁ、きっとこの横顔は一生忘れられないに違いないわ。
いつの間にかバーテンが目の前に置いていったカクテルグラスの中では、グラスポッパーが照明の照り返しに光り、冷たい雫をカウンターに落としていたが、アーシェリアはまったく気づいていなかった。
「お嬢ちゃん、俺の横顔はそんなに面白いか?」
意地の悪い笑みが男の唇に浮かんだ。そして、嘲笑うような暗緑の視線がチラリとこちらに向けられる。
心の奥底まで暴き立てられたような気分になり、アーシェリアはビクリと肩を震わせたが、呆然としていた脳が復活するや否や、彼女はいつも通りの毅然とした態度で肩をいからせた。
「別に。今どき蜂蜜酒を飲みたいなんて変わってると思っただけよ」
「黒竜街道から帰ってきたときはいつもこの酒だ。この店にはどんな酒でもおいてあるしな」
男はグラスを軽く持ち上げ、バーテンに二杯目の酒を要求する。その仕草でさえ絵になっていて、アーシェリアは再びクラクラと目を回した。
もう彼女の脳内ニューロンたちは過度の労働にてんやわんやだった。
「こ、黒竜街道って……お伽噺の?」
「お伽噺? あぁ、その街道もあるな。だが、俺が言う黒竜街道は幻じゃない。この惑星のどこかにある道だ」
「どこに……?」
「そう簡単に教えるとでも? 俺たちの世界は俺たちのものだ。お嬢ちゃんみたいなガキにそうそう教えるわけにはいかんな」
「ガキじゃないわよ。もう十八だもの!」
アーシェリアの小さな叫びに男はクックッと喉で笑う。彼女はムッとし、目の前に置かれたカクテルを勢いよく煽った。酒が飲めるようになったのだと、この男に見せつけてやりたかった。
だがしかし、相手の男はチラリと横目でその様子を見つけ、先ほど以上に意地の悪い笑みを浮かべた。
「出された最初の一杯目を意味もなくがぶ飲みする奴に本当の酒の味は判らん。ガキが粋がって飲んでるだけだな」
喉を焼くアルコールをなんとか呑み込んだアーシェリアだったが、男が二杯目のグラスを勢いよく干し、静かに立ち上がった気配に身を固くした。たった二杯のアルコールで出ていってしまうのだろうか。
「あの……もう行くの?」
「俺がどこへ行こうと関係ないだろう。帰りはヴィーグにハイヤーを頼んでもらえ。お嬢ちゃんに何かあったら教授が困る」
「おじいさまは関係ないでしょ!」
「俺にはある。教授は俺の大事な客人だからな。今度来るときには、チップを倍にして店の前にハイヤーをつけることだ。それができないのなら、お前みたいなガキがこの店に入るんじゃない」
「何よ、偉そうに! あなた何様のつもり!? わたしは来たいときにここに来て、好きなようにお酒を飲むのよ!」
目をつり上げるアーシェリアの目の前に、再び暗緑の瞳が降りてきた。その暗緑の闇が彼女の視界いっぱいに広がる。
「うるさいガキは嫌われる。少しは学習しろ、お嬢ちゃん」
頬と唇の上に温もりが宿った。次いで、鼻腔を刺激する酒の匂い。
「反応なしか? やっぱりガキだな」
ぐるぐると蠢くニューロンたちが今の感触を脳内に放り込み、彼女の混乱に拍車をかける。
一瞬の出来事に唖然とするアーシェリアを残し、男は背を向けて去っていった。彼女は為す術もなくその背中を見送るしかなかった。
人づてに聞いた噂話だけでここまでやってきてしまった。ただの好奇心、面白半分の話のネタにしようと。
「──宵星亭。間違いない」
雨上がりのせいでアスファルトの路面はてらてらと光り、あちこちに散らばるゴミが波打ち際にうち寄せられる漂泊物のように転がる。この近代的な都市のスラム街にあるうらぶれた酒場は、古ぼけた看板と扉で俺を出迎えた。
今どき珍しい木製の扉を押し開けて店内に入ると、そこは意外と重厚な造りが広がっていた。明るすぎず暗すぎず、適度な明かりの下で酒を酌み交わす男たちはそれぞれの世界に没入しており、他人には無関心そうだ。
ぐるりと店内を見回し、カウンターへと目を向けた俺にバーテンの「いらっしゃいませ」という静かな声がかかった。カウンター奥に佇むバーテンはまだ年若く、燃えるような赤い髪に白い肌をしている。これも噂通りだ。
俺はなにげない足取りでカウンターの一番端の椅子へと向かい、ブルームーンを頼んだ。
その注文を受けるバーテンと一瞬だけ視線が交わり、俺は彼の瞳が薄青い氷のように澄んだ色をしていることを知った。炎の髪に氷の瞳、対極にあるはずの色彩が、目の前の若いバーテンにはよく似合った。
俺は注文したカクテルが出てくるまで、ぼんやりとした表情を装って辺りを見渡した。どんな木材が使われているのか判らないが、この宵星亭内部は外見のボロさとは反対の堅牢な造りだった。
紫煙が立ちこめ、ビールやウィスキーの匂いが充満する店内は大都市の各所にある他の酒場となんら変わらない。聞いた噂通りの外観にバーテンの容姿だが、今ひとつ納得できなかった。場末の酒場とは思えない。
俺はふと視線を横に滑らせた。カウンターの中ほどに一人の老紳士が座り、カクテルを作るバーテンに話しかけている。店の客層は荒くれ者が多いが、この紳士だけは場違いなほどの上客だった。もしかしたら、この酒場は知る人ぞ知る穴場なのだろうか。
ほどなくして、バーテンが注文したブルームーンを目の前に置いていった。慇懃な態度の彼に頷き返し、俺はカクテルを一口だけ口に含む。レモンの香りが鼻腔に広がり、舌の上に酸味が満ちた。
鮮烈な果実の香りに脳の芯がふわりと解きほぐされ、力が入っていた肩から緊張が抜ける。ここは落ち着く空間だった。
ゆっくりとカクテルを飲み干すと、俺はバーテンに向かってそっと手を挙げた。
「美味かったよ。……このお代はいくらだい?」
バーテンの言う金額を支払い、僅かばかりのチップを置いたときだった。
「店を出て西へ行けば元の世界。東へ行けば黒竜街道です。ビデオショップの裏庭で、絵描きがお待ちしています」
解れていた緊張が一気に戻ってきた。聞いてきた噂などどうでもよくなってきていた矢先の言葉に、俺はバーテンの顔をマジマジと見つめる。が、彼は何ごともなかったような態度で老紳士の側に戻っていってしまった。
俺はバーテンの囁き声を頭の中で何度も繰り返し、店から一歩を踏み出した。
西へ行けば元の世界、東へ行けば黒竜街道……? ビデオショップとはどのビデオショップのことだろうか? それに、この大都市で裏庭を抱えているような店舗などあるだろうか?
渦巻く疑問を呑み込み、俺は左手の道路へと足を踏み出した。そう、それこそスラム街の東側、ブラックホースタウンへと伸びる道だった。
貧民がごろついているはずの場所に、ビデオショップなどあるはずがなかろう。そんな場所で開店していても、来るのは強盗だけである。
俺はどんどん寂れていく周囲の様子に、少なからず怯えていた。ブラックホースタウンに足を踏み入れて、無事に戻ってくることができるだろうか。いや、命を落とすことだってあり得そうだった。
宵星亭から道なりに進んできたアスファルト道路は、ときに曲がり、ときに高架下をくぐり、ときに廃ビルを螺旋に駆け上がった。夜はさらに更け、西に傾いた月が俺の背中を照らし続ける。
永遠に目的地になど辿り着けないような気がした。いや、目的地があるのかどうかも怪しい。
雨に濡れた路面を見つめながら歩き続ける俺の横顔を、突然、鮮やかな照明が照らした。今まで月明かりだけの薄暗さだったせいで、強烈なサーチライトでも浴びせられたような気分になる。
何度も瞼を上下させ、俺は光の正体を確認しようとした。
「……ビデオショップ・ドラクーン?」
光に馴染んだ眼で浮き上がっている文字を読みとり、俺は唖然とした。
通りの向こうから歩いてきたときには、前方に明かりなどなかった。俺が真横を通り過ぎることを見計らったように店舗の照明が入ったのだ。あるいは通り過ぎてしまう俺を呼び止めでもするかのように。
俺は恐る恐る店の前へと歩み寄った。一面、頑丈なコンクリート壁で囲まれているビデオショップの店舗前面に丸い曇ったガラス窓がある。そこだけ切り取ったかのような不自然な窓だった。店内へと導き入れるドアすらないとは、いったいどういうビデオショップだろうか。
店の名前が入ったネオン照明が、薄汚れ、落書きだらけの壁に穿たれた嵌め殺しのガラスをどんよりと輝かせている。まるで春先の沼のように澱んだ色をしたガラス窓だった。
しかし、そこから漏れてくる店内の明かりはなかった。暗くネオンの光を反射する窓は不気味な沈黙を守ったままだ。俺は店内が見えないものかと窓から中を覗き込んだ。
ネオンの動きに従い、窓ガラスは鈍い光を放ち続けるが、そこは真っ暗な闇を映し出すばかりで、他には何も見つけることができなかった。
ここがバーテンの言っていたビデオショップだとしたら、この裏庭に絵描きがいるらしいのだが、店舗の両側は廃ビルが隙間なく建てられており、背後に回る裏道がどこにあるのかさっぱり判らない。店が開いていれば店員に聞くこともできるだろうが、この状態では他の者に聞くこともできなかった。
場所は見つけたのだ。改めて出直してこようと、俺は窓から一歩離れた。
と、そのとき。丸い嵌め殺しの縁に小さな白い手がかけられた。子どもの手が窓枠にしがみつき、その手を支点にするようにして、クシャクシャに縮れた焦げ茶の髪が現れた。
俺はその窓から眼を反らすことができず、髪の毛の次に現れた黒い瞳と視線を絡めるしかなかった。ネオン照明に照らされたその姿は、十にもならないような子どものものだった。
「黒竜街道のお客さんだね?」
悪戯げな声が窓の向こうから聞こえてきた。ガラス越しであるにも関わらず、その声は俺の耳にしっかりと届く。
俺は返事のための声を出すこともできずに、ただコクコクと頷き返した。喉の奥が貼りついたようで、息さえできない気がしていた。
「ここのこと、どこで聞いてきたの?」
更なる問いかけで、俺の喉はようやく本来の役割を思い出したようだった。
乾いた喉を潤すように、俺は大きく唾を呑み込んだあと、歓楽街の酒場で知り合った男から聞いた噂話によって、まず宵星亭を見つけ、そこでこの場所を聞いたことを話した。
そして、裏庭へはどう行けばいいのかと、目の前の子どもに訊ねたのだが、幼い少年はそばかすの浮いた顔でニタリと笑うだけで、俺に答えを返すことはなかった。
「つまり、あんたは最高の夢を買いに来たわけだね?」
「……そうだ。宵星亭で案内された場所はこの世で最高の夢を売っていると聞いた。ここに絵描きはいるか? いるんだったら逢わせてくれ」
「おいらがその絵描きさ。いいよ、あんたに夢を売ってやろう」
俺は頭に血が昇るのを感じた。子どもの絵描きだと!? しかも、その子どもが夢を売っているだと!? ふざけているのか!
俺は喉元までこみ上げてきた罵声で身体が破裂しそうだった。が、絵描きだと名乗る子どもが一枚のディスクテープを取り出したのを見て、なんとか怒りの言葉を呑み込んだ。
片手にディスクを持った少年は、残った片手に数本のクレヨンを握りしめ、指先の動きだけで器用に絵を描いていたのだ。確かに、この子どもが絵描きなのだろう。売っているという夢がどういうものかは判らないが。
「夢とか言って、ろくでもないディスクを法外な値段で売りつける気か?」
「この夢の支払いは金じゃないよ」
「それじゃ、俺の身体だとか命ってわけかよ。お前みたいな子どもを使った商売なんて怪しいもんだな」
「このディスクの価値は使った本人が決めるんだ。おいらはそれを渡すだけ」
価値を決めるのが受け取った本人だというのなら、ただでもいいわけだ。俺は無駄金を使わずにすむことに気をよくし、くれるというのならもらってやろうと思い直した。
半ば面白半分でやってきたのだ。懐が痛まないのならいいじゃないか。
クレヨンを蠢かせていた少年の指が止まり、描いたものを確認するようにじっとディスクを見下ろす。その黒い瞳だけ見れば、彼は確かに絵描きの顔をしていた。自分の作品に評価を下す眼だ。
「出来たよ。持っていきな」
描いた作品の出来に満足したのか、少年は俺を手招きした。窓から手渡そうというのだろう。
俺は開かないはずの窓に近づいていった。防犯用に一見すると嵌め殺しになっているように見えるだけで、この窓は開くに違いない。
ところが俺の目の前で少年の指がディスクを窓に押しつけた。
「おい、ちょっと待てよ。そんなことしたらディスクが壊れ……」
俺は愕然とガラス窓を見つめた。固いガラスからディスクが突き出している。どこにも隙間などないはずなのに!
ネオン照明に照らされるガラスには隙間やひび割れなどどこにもない。まるで水面からディスクが顔を出しているように、ガラスの表面にディスクテープのケースが浮き上がっていた。
「なんだよ、これ……」
「あんたにしか使えない夢だよ。ちゃんと受け取りな」
少年の悪戯げな声が響くと、今まで澱んだ光を放っていたネオンが突如として消えた。光に馴れた眼が暗闇になれるまで、俺はじっとその場に佇んでいた。
闇に眼が馴れ、俺は手に硬い感触を憶えて手許を見下ろした。
そこには先ほどのディスクが握られており、淡い月明かりの下でもハッキリと判る色彩で、ディスクの表面に俺の顔が描かれていた。まるで写真でも貼りつけたかのような精巧な絵の中の俺は、無表情なままこちらを見つめている。
薄気味悪さにディスクを捨てようかとも思ったが、描かれた絵に睨みつけられ、俺はそれを懐にしまい込んだ。このまま捨てたらとんでもないことが起こりそうな気がする。
俺は元来た道を戻ろうときびすを返し、アスファルト道路を歩き始めた。が、すぐに足を止めて、ビデオショップを振り返った。もしかしたら嵌め殺しの窓から、例の絵描きの少年がこちらを見ていはしないかと思いながら。
しかし、月明かりに照らされた俺の背後には、幾つもの廃ビルが起立し、ビデオショップがあったと思しき場所には、今にもコンクリートが崩れ落ちそうなボロボロの店舗があるだけだった。
暗闇の中でテレビがうるさくがなり立てている。
私は興味もないのにテレビの電源を切れずにいた。静けさに耐えられないから。一人は寂しいから。
ボゥッと見つめているだけ。深夜のバラエティ番組はちっとも頭に入ってこない。つまらない。……でも、電源を落とせない。
明日も大学の講義があるのに眠りたくない。心の奥底がざわざわしていて、ちっとも眠気が訪れない。
私には、そんな夜がたまにあった。
特に月がきれいな晩などは、眠るのが惜しくなってしまう。黒猫が月夜の晩に踊りだしたくなるのと同じように、狂ったように月光を浴びていたくなる。
しかし、今夜少しも私に眠りが訪れないのは月のせいばかりではない。もどかしいほどの焦燥感、いや、喪失感が胸の中をいっぱいに満たしていた。ジリジリと胸を焼くこの感覚が収まる気配はない。
ふと、首筋に視線の熱を感じ、キョロキョロと辺りを見回した。けど、そんなのは気のせいに決まっている。この部屋に私以外の人間などいないのだから。
テレビ画面から逸らされた視線が、床に伸びる光の帯を見つけた。
カーテンを閉めていない窓から月明かりが入り込んでいた。青白い月の光は、部屋の中を深海のような色に染め上げている。私はさしずめ水底でうずくまる貝のような存在だろうか。
夜も随分と更けてきて、月も西の空に傾いでいるのだろう。長く伸びた月光の帯は、私が今まで眺めていたテレビの画面に届きそうなほど長く横たわっていた。
「寂しい……。私、独りぼっち」
大学に入学すると同時に始めた一人暮らしは、初めこそ大変だったけど四年目ともなれば馴れたもので、今はとても充実していた。
割合に裕福な実家から充分な援助をもらっていることもあり、無理なバイトを入れる必要もなく、講義とバイトとの兼ね合いであくせくしている同級生から羨ましがられるほどだった。
就職先も内定して、将来に不安などどこにもない……はずだ。
独りぼっちだと感じるのなら、友人の家に転がり込むなり、実家でまったりするなり、それなりの過ごし方があるはずなのに。
私は一人が寂しいと感じながら、賑やかな他人とのお喋りを疎んじていた。今夜は自分の中に友人や両親と過ごす余裕はなさそうだ。寂しくても一人でいたい気分だった。
相変わらずテレビの画面の向こう側では売り出し中のコメディアンたちがドタバタと暴れ、雄叫びをあげている。泥水の中にダイビングしてゲラゲラと笑うその姿はあまりにも滑稽で、私は余計に侘びしい気分になった。
月の光帯はどんどんと長くなっていく。深夜番組はバラエティが終わり、何回目か判らないくらい繰り返された昔懐かしいドラマが放映され始めていた。子どもの頃に両親と一緒に夕食時に見ていたものだった憶えがある。
『戻っておいで。君の場所は僕の隣り……』
画面の中の人物の動きをぼんやりと目で追い、遠い記憶の底にあった登場人物たちの台詞をダラダラと聞き続けた。
『帰ろう。僕たちの場所へ』
当時は人気急上昇中だったアイドルが、目の前の画面の中で甘い微笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。
その蕩ける笑顔に吐き気を憶え、私は勢いよく立ち上がってキッチンへと向かった。無性に苦いコーヒーが飲みたくなった。こんな夜中に大量のカフェインを摂取したら余計に眠れなくなるだろうに。
インスタントドリップでコーヒーを淹れて、その熱い液体をすすりながらテレビの前に戻った私は、そのままソファベッドの前で足を止めた。
「消えてますわ」
あえて口にして確認するまでもない。クライマックス近かったはずの深夜番組のドラマは画面から消え、砂嵐のような白黒画面が耳障りなノイズを小さく吐き出していた。
「まぁ、壊れてしまいましたの? 困りましたわね」
私はブツブツと不平をもらしてみるが、実際にはそれほどがっかりしていなかった。テレビが壊れたことを言い訳に、これでようやくベッドに入ることができる。淹れたばかりのコーヒーなどもう飲む気も失せていた。
月光がテレビの画面を照らし、その反射光が、ただでさえ暗い室内の壁を薄気味悪い光で満たす。壁を照らす光の粒子は目に浸みた。
テレビに近寄り、電源を落とそうとしたときだった。砂嵐の画面に妙な影が浮かび、ノイズの中から声が聞こえてきた。
『──ツキコ』
私は電源ボタンに伸ばした指先を固め、じっと画面に見入ってしまった。私の名を呼ぶ声は、ふとした折に思い出す懐かしい人の声だった。
じんわりと画面に浮かび上がる影が輪郭を明瞭なものへと変化させた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、驚くほど豊かな黒髪。私も黒髪は自慢だが、この人の髪は闇を凝り固めたように黒々としていて、光という光をすべて呑み込んでしまいそうなのだ。
そして、その黒い蓬髪の間から覗く赤光の瞳。最上級の紅玉石でも、これほど赤くはあるまい。血色をした瞳はこちらの心を射すくめるほど鋭い。
最後に逢ったときと少しも変わらない姿。摺墨色の衣装を着崩した格好が懐かしい。
私はじっと相手の顔を見つめ、詰めていた息を吐き出した。
『月子、一人は寂しい?』
なぜこの人は少しも変わらないのだろう。私の身体はあれから大人になっていったというのに。私の上に時間は容赦なく流れ、この人の上には流れていないというのだろうか。
「知りませんわ。今さらどんなご用?」
自分の声が震えていないかが気になった。この人の鋭い視線から逃れるように、私はあらぬ方角へと視線を逃がした。
ずるい。私は大学四年生にまでなっているのに、この人は昔の、十代半ばの幼い姿のまま。ただ、昔から瞳の力強さだけが外見とは反対に老成していたことを思い出し、苦々しい想いがこみ上げてきた。
『月子……』
再び名を呼ばれ、私は逆らいがたい力に引きずられて視線を正面へと戻した。なぜ今さら私を呼ぶの。かつて、些細な喧嘩で姿を消した私のことなど、とうに忘れていると思っていたのに。
『戻っておいで。待っているから』
先ほどまでのドラマのヒーローと同じ台詞を、この人の口から聞くことになろうとは、今の今まで思いもしなかった。
「何を仰っているのかしら。私がどうしてあなたの元に戻らなければならないの?」
『一人は、寂しい?』
「寂しくなどありませんわ! あなただってそうでしょう。ずっと一人で生きていらっしゃったのですもの。今さら私など必要ありませんでしょう!」
強い赤光を放っていた瞳がふと翳りを帯びた。十三~四歳の少年の顔に、なぜか仕事に疲れた男性の顔が重なって見える。
『月子、戻っておいで。皆、待っているよ?』
また名前を呼ばれた。どうしてこの声を無視できないのだろう。腹立たしく思う反面、どうしようもなく惹かれて、強い熱のこもった赤光を見つめ返してしまう。
「私などいなくても平気なくせに……。そんなに私が隣で年を取っていく姿を見たいのね!」
目の前に浮かぶ顔が困惑に歪んだ。狼狽する姿など滅多に見られないことを思い出し、私はなんとなく愉快な気分になってきた。
喧嘩だっていつも私一人で怒って終わりだった。この人は涼しい顔をして私が怒る顔をじっと見つめているだけだった。こうやって困らせてみたかったのだと、今さらながら自分のひねくれ具合に呆れてしまう。
『月子、私のこの姿に飽きたのか?』
「飽きるとか飽きないとかの問題ではありませんわ。人間は同じように年を取っていくことを確認したいものですのよ。あなたは、私よりゆっくりと年を取るのでしょう!? あなたは若いままなのに、私はアッという間に老婆ですわ!」
困惑顔だった相手の顔が私の苛立った言葉にふわりと笑いを刻む。まるで難解な問題が解けたときの受験生のような清々しい表情だった。
『月子と同じならいいのか?』
「何をおっしゃっているの? あなたは私とは違──」
私は言葉の途中で息を飲む。目の前で摺墨の袖がゆったりと上がり、白い指先が私へと伸ばされた。
『月子、手を取りなさい』
声は優しいのに、その口調には拒否を許さない強さが宿っていた。私はまた抗うことができず、夢遊病者のようにフラフラと腕を伸ばした。
窓から差し込む月光に私の腕と長い摺墨の袖がぼんやりと浮かび上がる様子は、私の目には現実離れした光景に映る。先ほどの深夜番組の続きでも見ているような気分だった。
赤光の持ち主と私の手が交わった刹那、ひんやりとした感触に続いて指先に電流が走った。
かすかな痛みに思わず手を引っ込めかかった私の身体がグィと引かれる。視界いっぱいに摺墨色が広がっていた。
「……月子と同じならいいのか?」
耳元で囁かれた低い声に驚き、私は反射的に顔を上げる。青白い月光が満ちる空間に、その人はいた。
間近に見える赤い光。闇に溶け込む黒絹の髪。ぼんやりと浮かび上がる白い顔。なぜこの人がここに現れるのだろうか。
「月子、戻っておいで」
囁かれた声に混じる熱い吐息に、私は無意識のうちに後ずさった。
「ど、どうして? あなたはあの場所から動けないはずでは……?」
視界いっぱいに広がっていた赤光が引くと、目の前の人物の全身を見て取ることができた。
目の前には、私と同じくらいの年齢の男性が片膝立ちで座り込んでいる。驚きに半ば腰を抜かしかかっている私の身体を支える腕も、つい今し方までの少年のものではなくなっていた。
ほんの一瞬の間に、この人は十年近い時間を跳び越えてしまっている。
私はかつてこの人に初めて逢ったときのことをハッキリと思い出した。彼は私の祖父よりも年上に見えた外見から、アッという間に少年の外見へと変化して見せたのだった。
この人にとって、年齢などというものはあってないようなものなのだろう。変えて見せてくれと頼めば、赤ん坊や中年男性にだって変われるはずだ。
「月子は私が同じでないのが厭だったのか?」
するりと伸ばされた腕が再び私の躰を引き寄せ、厚い胸板へと押しつけた。掌に伝わる摺墨の衣装の手触りも心地よい。ほのかに香る白檀の香りが懐かしく、鼻の奥がツンと痛んだ。
衣装の胸元にしがみつき、私はにじみ出てくる涙を堪えて歯を食いしばった。
この人には私のこだわりなど通じないのだろう。好きなように生き、好きなように外見を変えられるということがどういうことか、私にはまったく判らないのだから。
「辻守は街道から離れられないと仰っていたのに……どうして?」
私が閉じこめられた腕の中で囁くと、彼はさらに腕の力を強め、私の黒髪に頬ずりしてきた。
「月子が帰ってこないから、迎えにきた」
彼の声や言葉には魔力が宿っているに違いない。間近で囁かれた声に、私はどうしても逆らうことができなかった。喧嘩をしたと思っていたのも、きっと私一人だったのだ。この人は私の怒りなど取るに足りない事柄なのだろう。
「月子……。戻って、おいで」
私一人で腹を立て、私一人でふてくされていたのだ。そして、一人で仲直りのきっかけが掴めないと、焦れていた……。
小さく頷いた私の髪を摺墨の袖が何度も撫でつけ、頭上の彼の唇からは安堵のため息が漏れる。
「帰ろう。私たちの黒竜街道へ……」
彼の背後で砂嵐の音が聞こえた。ザラザラとしたその音の先に、私は小さな歓声を聞いた気がしたが、今となってはどうでもいいことだった。
青い光の洪水の中、私は白檀の香りに包まれたまま空を飛んだ。耳元で轟々と鳴る風音に混じり、彼の囁き声が聞こえる。
「もう……寂しくは、ない」
月子がここにやってこなくなってからすでに十日が経っていた。以前は三日と空けずにきていたというのに。
こんなことは以前なら想像もしていなかった。いや、今の状態は彼女が現れる以前の暮らしに戻っただけのことだが、月子という光を見た今となっては、ここは暗くジメジメとしたゴミ溜めのような場所にしか思えない。
梨花蜜水をチビチビと飲みながら、私は墨を流したような空に浮かぶ真白の月を見上げた。星が月光に駆逐された夜は長い。刻々と動いているはずの月の位置をおぼろにでも測る物差しがないからだ。
そういえば「私」などと自らを呼ぶようになったのも、月子に逢ってからだった。それまでは自分をどう呼んでいたのか忘れてしまった。
気まぐれに姿を現す同族たちとの会話では、己らを指すときには「我」と称するのが普通であったから、普段の私もそう名乗っていたのだろう。あるいは他の呼び方をしていたのかもしれないが、今となってはどうでもいいことだった。
月子が「わたし」と名乗るから、真似をして「私」と言っているうちに、それが当たり前になってしまった。
器に残った僅かばかりの蜜水を一息に飲み干す。いつもなら最後に残った液体はことのほか甘いはずだが、今夜は喉にいがらっぽく絡まり、なぜか苦みを感じた。
最近では梨花蜜の味がまったく判らない。それだけではない。食べるものもすべてが砂のようだった。
「……クルアン、そこにおるか?」
苦い蜜が絡まる喉を震わせ、私はなんとか囁きを漏らした。まるで荒野の茨を震わす風のようにか細い声だ。
「お側に、主様」
足下にわだかまる闇の中から声が響くが、そこに生き物の輪郭はない。虚ろな影がこだまを返したか。
「ご気分が優れないようですが……。辻の見回りは今夜も取りやめますか?」
「月が眩しすぎる。気怠くて動く気にもならぬわ」
黒い風が勢いよく私の腹の上に飛んだ。底光りする水晶の瞳が一対、じっとりとこちらの視線の奥底を覗き込んでくる。
「このままでは主様のお身体に障りましょう。いっそのこと、その気怠さの原因を消しましょうか?」
闇の中で光る瞳はぐいぐいとこちらに近づき、その下に開いた赤い口からは細く鋭い牙が覗いていた。
「私を消すか? それならいっそ楽でいい。辻守なら他の者でもできよう」
「何をおっしゃいますか。気怠さの原因は別にありましょう? ご自分で処置できぬとあらば、このクルアンめがやらねばなりません。……月子様はこちらにおいでにならない。ならば、月輪鏡をお返しいただこうと、そう申しておるのでございます」
私は腹の上で尻尾を振り立てる黒猫をじっと見つめた。ピカピカと光る瞳には小狡い色が浮かび、口元から覗く牙を舐める舌先は貪欲な飢えにひっきりなしに蠢いている。
もしここで私が「是」と答えたなら、この獣は新たな獲物を得たことに狂乱して喜ぶのだろうか。
「月輪鏡は月子にやったものだ。取り返すには及ばぬ」
「あれは長らく主家に伝わる大事な秘宝でございます。いかに月子様とはいえ、簡単にお譲りできません」
「私がいいと言っているのだ。出すぎたことを申すな」
キラリと黒猫の瞳が鋭い光を反射した。そこに月が宿ったような強さだった。
「カント・ガントが月子様に変化の術をかけてから、かの方はかなりご立腹でした。不始末の決着はあの愚か者につけさせましょう」
何をする気かと呼び止める暇もなく、闇の獣はとぐろ巻く暗闇の底へと飛び込み、アッサリとその気配を消した。そして、瞬きするほどの時間で舞い戻ってきたかと思えば、その口には自分よりも図体のでかい生き物をくわえていた。
「痛いな、クルアン。おいらを荷物のように扱うのはよしとくれ。首の骨でも折ったらどうすんだ」
子どものキンキン声が響き、闇の中でこだまが何度もその声を反芻する。
「主様の御前ですよ、カント・ガント。不作法者でも最低限の礼儀くらいは心得ていると思いましたが?」
潜めたクルアンの声は地にわだかまって動かないのに、カント・ガントの声だけは空気の上を上っ滑りして辺りを駆け巡っていく。
くわんくわんとあちこちにぶつかる金切り声が落ち着いた頃、私の前に黒い猫とうずくまる少年の姿が浮き上がってきた。
「主様、まだこの前のこと怒ってんの?」
「……月子をマシュマロの抱き枕にした件のことなら、私は別に腹を立ててはおらぬ。怒っているとしたら月子のほうだろうがな」
「チェッ。月子様も洒落が通じないんだから。ちょっとした遊びじゃぁないか」
私は用心深く一人と一匹の様子を伺った。カント・ガントの悪びれない態度に、クルアンは神経質そうに尻尾を振り立てている。抱き枕事件で狂奔するハメになったのは、私ではなくクルアンのほうだった。
「抱き枕のまま眼を醒ました月子様をなだめすかすのに大変でした。元の姿に戻すのに火炎樹百本と月光石一万個が必要で、三日三晩飲まず食わずで奔走させていただきましたがね」
「そんなの。おいらなら一発で元通りにしたのに」
「あなたの持っている魔導具は主様直伝の品。それを何でもかんでも気安く使うんじゃありません!」
「そんなこと言ったって、大泣きしてたらしい月子様を静かに宵星亭から連れ出すのには、あれがうってつけの方法だと思ったんだよぅ」
「だからと言って──」
私が止めなければ、彼らは延々と言い争いを続けていたかもしれない。私より、月子より、うなじを逆立てているクルアンが今回の事件のことで一番腹を立てているのだ。
「もうよい。カント・ガント、月子の身体が無事に元通りになっておるかどうか確認したい。月輪鏡との照準を合わせてくれ」
お安いご用、と下げていた鞄から木箱を取り出し、子どもは闇が横たわる床の上に中身をぶちまけた。彼は口の中でもごもごと呟き、一心不乱に辺りを歩き回る。端から見ていると、その姿は巣を整えようと必死なリスのようだ。
そうこうするうち、床の一画がぼんやりと白い光で覆われ始めた。
私は退いたカント・ガントと入れ替わって輝く泉の傍らに佇んだ。光の柱の底には、知らない場所の夜が映っていた。
藍色の空気に満ちた世界に点々と灯る炎は、多くがピクリとも動かない静かな光だ。ときおり、ゴゥゴゥと凄まじい轟音と共に光の礫が飛び交い、地を走るが、薪が爆ぜる音も炎が身をくねらせて踊ることもない。
月子の世界の夜は蛍苔の輝きのようだ。
「あれが電灯でございます」
足下で囁くクルアンの説明に頷きながら、私は泉の上に手をかざした。立ち上がっている光の柱を少しずつ揺すってやれば目的のものが見えてくる仕掛けだ。目的に正確な照準を合わせるには多少の修練がいるが便利な道具だった。
感じ取れる月輪鏡の魔力を追って照準を合わせていくと、黒々とした道が網の目状に広がり、その道の所々に白い柵が寄り添っている景色が見え始めた。その道の上を、先ほどの電灯を灯した影が轟音と共に転がっていく。照らし出される白く低い柵はなんとも不格好だった。
だがしかし、月子の世界にも黒い街道があることに私は少なからず驚いた。彼女の口からは聞いたことがなかったのだ。この街道を守っている守護者は誰だろうか。
「アスファルト舗装された道路……月子様はそうおっしゃっておりました。油臭い石を固めて出来ておりまして、我らの街道のように番人はおらぬとか」
「では、いったいどうやって街道を守っておるのだ。辻守もなく街道世界は維持できまいが」
「月子様のおいでの場所では、こちらのように次元歪曲がないそうです。道路の修繕をする者はおりますが、歪みがなくば辻の番人は不要でしょう」
私はどんな顔をして足下の存在を見下ろしていたのだろう。首を伸ばしてこちらを見上げる黒猫の瞳は三日月のように細まり、昏い翳りを宿していた。
「ご気分が優れないのでしたら、今夜はお休みになりますか?」
「いや……。大丈夫だ」
再び光の泉の底を見下ろした私の視界に、真っ白な柵を指先で弾きながら歩く少女の姿が飛び込んできた。
月子だ。夜の風にふわりと黒髪が揺れ、彼女は微睡む闇に溶けていきそうだ。一瞥する限り、真っ白で甘く柔らかなマシュマロにされていたときの後遺症は出ていないようだった。
彼女でも飛び越えられそうな低い柵が光を反射し、藍闇の中に彼女の横顔をうっすらと照らし出す。
真っ直ぐに顔を上げて歩く姿に、私はほっと胸を撫で下ろした。もしかしたら、ここにこないのは後遺症で動けなくなっているのかもしれないと、微かに危惧していたのだ。
と同時に、ピンピンしているというのに、こちらにこようともしない彼女の冷たい仕打ちに胸の奥が軋んだ。
見守る先で、彼女の爪がパチパチと柵を弾く。一定の調子を刻む爪は白い柵の照り返しを映していっそう輝き、彼女はまるで指先だけで踊っているようだった。
しばらくの間、私は月子の指先の動きに見惚れた。彼女が刻んでいる律動は私が教えて唄の拍子だ。音色を口ずさんでこそいないが、今の彼女の身体はその唄の音で満たされている。
「声をかけないのですか? 今なら月子様お一人ですよ?」
「月子が弾いている柵、あれはなんというのだ?」
私はクルアンの問いかけを無視し、彼女が指を踊らせる細長く白い舞台の名を問うた。
「は……。確か、あれはガードレールという名だったと……」
「がぁどれぇる?」
声に出してみると、なんとも不思議な音の名前だった。耳の奥に響くその名は郷愁を誘うもの悲しさを漂わせる。月子の世界にある物の名前は、ときどき信じられないほど私の心を掴む。
月子はなおも指先を踊らせ、白く浮き立つ柵に私の教えた唄を奏でさせた。私の前で小鳥のようにさえずったときと同じように、彼女の指はがぁどれぇるという名の夜の小鳥に唄を教える。
私は唇を動かすことなく、そっと彼女の名を呼んだ。音として漏れることはなかったが、月子は突然立ち止まり、キョロキョロと辺りを見回した。
私はもう一度彼女の名を呼んだ。今度も口の中、舌の先だけで転がすように。
ゆっくりと月子の白い顎が上がり、眩しげに細めた黒い瞳がヒタとこちらを見上げる。いや、彼女の世界の輝く銀盆を見つめているのだ。月子の世界を見下ろす私の瞳は、今は彼女の世界の月となっている。
もう一度、私は梨花蜜水を味わうときのように、彼女の名を舌で転がした。蜜水でも感じたことのない甘露を舌先に感じたのは気のせいだろうか。
私の視線の先では、月子がはんなりとした微笑みを浮かべる。白く細く輝く帯に身を寄せ、世界を見下ろす月をじっと見つめる彼女の姿は、蜜を滴らせる梨花のように甘く私の胸に刻まれた。
その日、カント・ガントは黒竜街道の裏通りを歩いていた。
間もなく暑い季節がやってくるとあって、裏通りの店々は商品の入れ替えにばたばたしている。季節に関係なく商売している店ばかりがのんびりと昼下がりの気怠さを満喫していた。
「そろそろ新しい素材を見つけたいところだけどねぇ」
カント・ガントは頭の後ろで腕を組むと、ブラブラと幾つかの店先をひやかしていく。買う気のなさげな彼の態度に、多くの店主は無視を決め込んでいたが、実際のところは横目でこの物見高い少年の動きをしっかりと観察していた。
「雪の季節には若葉をかき集めてみたけど、今度は反対のことをしてみるかなぁ。それとも暑さを満喫したほうがいいのかな。……まったく、主様の気まぐれにも困ったモンだ。おいらを悩ませるためにやってるに違いないね」
ひょろひょろと店を渡り歩き、カント・ガントはとうとう黒竜街道まで出てしまった。
旅人相手の商売をしている街道の店舗は裏通りよりも物価が高い。それだけ治安も保証されてはいるが、この街道筋に住み着いている少年には治安の善し悪しなんぞは関係のないことだった。
「う~ん。ちっともいい考えが浮かばないや。こういうときは宵星亭にでもいって、柘榴と花蜜水でももらうに限るかな」
少年は薄汚れた肩掛け鞄を揺すり上げると、黒々とした石が敷き詰められた街道端を歩いていった。遠く南の空には薄雲がかかっているが、少年の頭上の空はからりと晴れ渡っていい天気だ。
小綺麗な店が並ぶ中、一軒だけ古びた建物がちんまりと街道に向かって戸口を開けていた。木製の看板は剥げかけていたが、辛うじて“宵星亭”という文字を見ることができる。
「久しぶり~。おいらの椅子はまだ健在かい?」
戸口から声をかけ、カント・ガントは遠慮なく店内に足を踏み入れた。
その足がピタリと縫いつけられたように止まった。カウンターの奥で何ともいえない表情を向けてくる亭主と視線が合い、彼の目の前にある困惑の原因を視界に収めた途端、少年の顔が奇妙に引きつる。
「──月子様?」
目をすがめ、顎が外れそうなほどあんぐりと口を開き、カント・ガントは眉間の皺を深く深く刻んだ。
最初の驚きからなんとか立ち直ると、少年は鼻のソバカスをゴシゴシと擦りながらカウンターへと近づいていく。こちらに背を向けている少女はピクリとも動かなかった。
月子が座っている隣りの高椅子によじ登り、カント・ガントはカウンターに突っ伏している少女を覗き込む。
「なんでこんなところで寝てンの、この人? 今頃は主様と良いことしてたんじゃないのかよ?」
「そりゃぁ、こっちが聞きたいね。いきなり訪ねてきてワンワン泣きだして、今さっき泣き疲れて眠っちまったんだよ。昼間の客に全部逃げられちまった。商売上がったりだ」
亭主のボヤキに少年は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「主様と喧嘩したな、こりゃ。まったく、何をやってるんだか」
「なんでもいいから、トットと連れ出してくれよ。また目を醒ましたら泣き始めるかと思うとゾッとするぜ」
「そんなこと言ってもねぇ。おいらは女の子の相手は得意じゃないよ。そういうことはクルアンが得手だったと思うけどね」
「勘弁してくれよぅ。夜の商売まで邪魔されたら、こっちはオマンマの食い上げだぜ。早いところクルアンを呼んでくれ」
「あいつ、主様のお使いで出掛けてんの。ここ最近は姿見てないねぇ」
カウンターの向こうで亭主が頭を抱えて呻き始めた。よほど少女の泣き姿に懲りたらしい。
「なんでもいい。早くこのお嬢ちゃんをどこかにやってくれ。またあの大泣きが始まったら、こっちの気が狂っちまう」
カント・ガントは大きなため息をついて、天井を見上げた。ランプから立ちのぼる煙で煤けた天井は黒光りして、まるで表の黒竜街道の敷石のように光っている。見上げた人の顔が映らないのが不思議なほどだ。
「この店もけっこう汚れてきたよねぇ」
「あぁ、もうかなり長い間ここにあるからなぁ。って、今はそんなことどうでもいいんだよ。主様に言って、このお嬢ちゃんを迎えに……」
「来ると思う? あの主様が?」
「──来ないか。やっぱり」
二人して大きなため息をつき、カウンターの上で昏々と眠っている少女の寝顔を見下ろす。幸せそうに眠っているが、目を醒ましたらどうなることやら。
「いっそのこと、このまま主様の元へ運べないモンかね。どうせ喧嘩するのも早いけど、仲直りも早いんだろ?」
「どうだろう。おいらはよく知らないけど」
カント・ガントは下げていた鞄から丸めた画用紙を取り出し、丁寧に皺を伸ばしてカウンターの上に広げると、再び鞄の中をあさって古ぼけた木箱を掴みだした。
「おいおい、何をしようってんだよ。こんなときに悠長にお絵描きか?」
少年が木箱から取り出したのは使い込まれたクレヨンだった。ゴロゴロと転がり出たクレヨンどもは、画用紙を見るとワッと歓声を上げて群がっていく。
「おい、お前たち。おいらの許しもなく何をする気だ」
カント・ガントが精一杯の脅し声を上げると、クレヨンたちは押しあいへし合いしながら綺麗に整列した。聞き分けの良い飼い犬のような動きに、少年はニタリと笑みを浮かべる。
「よしよし。それじゃ、お前たち。ここにいる月子様を写し取りな。いいか、妙な気を起こすんじゃないぞ。寸分違わず描くんだぞ」
クレヨンたちを脅しつけると、少年はカウンターの向こうでムッツリと顔をしかめている亭主に向かってニヤリと笑いかける。
「ちょっとばかり悪戯を思いついた」
「カント・ガント~。また悪さをする気だな? とばっちりはご免だぜ」
「まぁまぁ。どうせ迷惑をかけられついでだろ」
亭主を適当にいなすと、カント・ガントはキャワキャワと騒ぎながら働くクレヨンどもにあぁしろ、こうしろと注文をつけるのだった。
「ほらほら、橘。お前はもっと下だ。薄墨、もっとシャキシャキしないか。そんなことだと、いつまで経っても終わらないぞ」
そのうちに画用紙の上には眠る少女がクッキリと浮かび上がた。平和な顔をして眠りについている姿は、カウンターに俯して眠りこける月子にそっくり。
クレヨンたちの仕事ぶりに満足そうに頷き、カント・ガントはパンパンと掌を打ち合わせた。
「よし、そこまで。お前たち、箱に戻っていいぞ。おっと、雪と象牙だけはここにこい」
ザワザワと木箱の中に転がり込んでいくクレヨンの隊列から、真っ白なものとやや黄色みかかった白いものとが抜けだしてくる。一本はカント・ガントの前で恭しく腰を折り、もう一本はそっぽを向いて棒立ちのまま。
「お前たち、この絵を全部塗りつぶしな」
ニタリと少年が二本のクレヨンに向かって笑いかけた。その少年の声に木箱の中からはブーイングの嵐。せっかく仕事をしたのに、なかったことにされては腹立たしい。
しかし、カント・ガントがジロリと箱の中を睨みつけると、不満の喧噪はピタリと止んだ。
「さぁ、かかれ。大急ぎで終わらせるんだぞ」
ピョンピョンと飛び跳ねて、二本のクレヨンたちは画用紙の上を踊り歩く。その仕事を横目に見ながら、カント・ガントは不審げな表情の亭主に向かってヒラヒラと手を振った。
「主様から寝具の注文をもらったんだ。丁度良いから、これを素材にもらっていくよ」
「何があっても関わり合いにして欲しくないね。お前さんの悪戯に巻き込まれるのはご免被りたい」
ジリジリと後ずさりする亭主に人の悪い笑みを向け、カント・ガントは嬉しげに両手を揉みあわせて肩を揺する。楽しくて楽しくて仕方がない、といった態度の彼には、亭主の懇願などどこ吹く風といったところだろうか。
ニタニタと笑みを浮かべているカント・ガントの前に仕事を終えたクレヨンたちが並び立ったのは、戸口から差し込む日差しに夕日の気配が混じり始めた頃だった。宿や食事を求める旅人が、そろそろ店を物色し始める頃合いだ。
「ご苦労。よしよし、ちゃんと仕事をしたな。もう戻っていいぞ」
カント・ガントは二本のクレヨンを鷲津掴むと、無造作な手つきで木箱の中に放り込んで蓋を閉めてしまう。蓋が閉じる寸前、猛然と抗議する声が小さく聞こえた気がしたが、少年は何喰わぬ顔で亭主に花蜜水を注文するのだった。
「今日もいい具合に仕事がはかどったよ」
出された水を勢いよく飲み干すと、カント・ガントはニタニタと笑いながら鼻をすすり上げた。
「じゃ、おいらは行くよ。ごちそうさん。注文の品を届けなくっちゃ!」
少年は椅子から滑り降りると、パチリと指を鳴らし、優雅な手つきで高椅子の上から大きな塊を取りあげた。
「そりゃ、いったい何だよ?」
「あれ? 知らないかい? こいつはマシュマロさ」
悠然と巨大な白い塊を担ぎ、カント・ガントは戸口へと歩き出す。
「……なぁ、カント・ガント。主様の注文の内容はいったいなんだったんだ?」
店の外へ出ようとしていた少年の背に、亭主がおっかなびっくり声をかけた。その口調に抑えきれない好奇心が溢れていたのは、気のせいではあるまい。
店の敷居をヒョイと跨いだカント・ガントが振り返った。
「柔らかい殻で出来たベッドと抱き枕が欲しいとさ」
黒竜街道を歩いていく少年の肩には、人の形をした白い奇妙な塊が甘い芳香を放ちながら揺れていた。
彼はドラッグの匂いが満ちた場所へと入り込んだ。彼の職業を知る者ならば、こんな場所にくる人物だとは思いもしないだろう。
甘ったるい薬の香りに顔をしかめ、煙に燻され壁際を伝うようにして奥へと進んだ。ほどなく、ほの赤い色彩がゆらゆらと蠢きながら彼を迎える。
「いらっしゃいませ、教授。今日はお一人ですか?」
「今日も、だろう? そうそう。先日は孫が世話になったそうだね。後をつけられて以来、あの子が入り浸るようになっていたとは知らなかったよ。悪いことをしたかな?」
年相応に白く変わった髪を撫でつけながら、教授……アッサジュ・パルダは高椅子に腰を降ろした。
「将来のお客様候補ですからね。そう邪険に扱ってはおりませんよ。……それより教授、あちらを」
赤髪の若者がカウンターから身を乗り出すようにして耳元で囁く。ほとんど視線を動かすことなくカウンター端を示され、教授はチラリとそちらに視線を向けた。
「誰だね? この店ではあまり見かけない顔だが。君の手にも余る御仁なのかね」
アッサジュ・パルダは微かに首を傾げると、目の前に迫っている若者の白い顔を見つめる。相手の眉間に寄った小さな皺が、若いバーテンの困惑ぶりを伝えていた。
「ここにきてから三時間になりますが、その間に二回ほど絡まれているのです」
「それはここでは珍しいことでもないのだろう? 私は幸いにしてガイストのお陰で手出しされないが」
老教授はバーテンが出した琥珀色の液体で喉を湿らせ、再びチラリと新顔に視線を向ける。
東洋系だろうか、白いどこか温かみのある肌色をしており、濡れたような黒い髪がその肌をより際だたせていた。横顔を見る限り、きれいな顔立ちでもある。
「今夜はマスターが留守。それにガイストも今夜は来ないようですしね。この調子ですとまた一悶着ありそうでして……」
「一悶着ということは、あの新顔さんは絡んでくる輩を返り討ちにしているということかな? 適当にいなしもせずに?」
苦笑いを浮かべてバーテンがそっと頷いた。
酔客同士のトラブルならば地区の元締めでも呼べば解決しよう。だが半端な喧嘩腰で始まり、妙な雰囲気で立ち消えになることがたまにある。そういうのがもっとも厄介なのだ。最後の最後に暴発することが多いから。
「虫避けに私があのお客人と一緒にいたらいいのかね?」
バーテンの言わんとしていることを察し、老教授は小さな笑い声を転がす。どうにも期待されると弱い。しかも頼み込んでくる相手がこの赤髪の青年だ。普段は取りつくしまもない素っ気ない態度の彼が困惑するほどだからよほどのことなのだろう。
「申し訳ありません。こんなことはガイストのお墨付きをいただいた教授にしか頼めませんので……」
「まぁ、いいさ。この老体が役に立つのなら。ここは私の精神安定剤だからね。つまらないことで潰れたりして欲しくない」
恐縮するバーテンから新たなグラスを受け取ると、アッサジュ・パルダはゆったりとした足取りで高椅子の列を抜け出した。
「よぅ、教授! 来てたのかい。今夜はドラッグをキメたくなったのか?」
太い両腕を剥き出しにした男が肉厚の唇を歪めて嗤いかけてくる。それに静かに手を振り、老教授は持ち前の人懐っこい笑みを浮かべた。
「いや、私はドラッグはやらないよ。この老体だと効き目が強すぎるからね。今夜は美味い酒が呑みたくなってきたのさ。どうだね、お前さんも呑んでるかね?」
「言われなくたって呑んでるぜぇ。オレぁ、赤ん坊の頃からミルク代わりにビールを飲んでいたんだからな」
豪快に男が笑い、周囲の連れたちと乾杯を繰り返している。すっかり上機嫌なようだ。
「そりゃぁ、いい。私からも贈らせてもらおう。おぉ~い、ヴィーグ。こちらにビールを樽ごと運んでくれないか?」
カウンター向こうでグラスを磨いていたバーテンがチラリと振り向き、ゆらりと赤髪を揺らす。了解の印に頷いたのだ。そんな些細な仕草で相手のことが判るのが嬉しく、教授は浮かべていた笑い皺をさらに深くした。
男たちの元に酒樽が運ばれると、周囲の客たちも混じってその場は大変な盛り上がりようだった。
頃合いを見てその喧噪から抜け出すと、アッサジュ・パルダはのんびりとした足取りでカウンターに残っている客に歩み寄る。隣りに立っても気にしない相手の態度に、老教授は苦笑いを浮かべた。
これは確かに取っつきが悪い客だ。前のトラブルのときも、他の客から声をかけられて無視でもしたのだろう。だが、相手を完全に怒らせる前にトラブルを収めるとなると、よほどの人物に違いない。
「失礼。ご一緒してもよろしいか?」
アッサジュ・パルダはまわりくどいことは苦手だった。昔から人間と話をするよりも骨董品の類と向き合うことが遙かに多かった。巧みな話術などを期待されてもどうしようもないのだが……。
案の定、新顔の客は無視したままだったが、教授は気にすることなく隣りに腰を降ろした。相手は沈黙で拒否したつもりかもしれないのだが。
「ヴィーグ、こちらと同じものをもらえるかい?」
素っ気なく頷くバーテンの瞳にホッと安堵の色が浮かんだ。それが何か可笑しくて、老教授はクスクスと笑い声をあげる。
人間も存外面白いものだ。つき合っていくうちに色んな顔が見えてくる。考古学にのめり込んでいて人付き合いを疎かにしていたが、この年になってからこんな楽しい思いをさせてもらえることになるとは。
「今夜はいい月夜だろう? ついフラフラと誘われるようにここにきてしまったのだよ。月を見ているとワクワクしてきて眠れなくなるのでね、この店で呑む酒は精神安定剤代わりさ」
訊かれてもいないことを話ながら、教授は出てきたグラスをつまみ上げた。フルート型のグラスの中で、炭酸が星のようにヒラヒラと揺れている。それを少し口に含み、老人は満足そうにバーテンに微笑みかけた。
「相変わらずいい腕だよ、ヴィーグ。このカクテルの名は?」
「名前は決まっておりません。今日、初めて作りましたので……」
バーテンは棚の一画から真四角の酒瓶を引っぱり出し、それを教授の目の前に差し出してきた。
「惑星カロルの酒かね。初めて呑んだよ」
「合法の天然ドラッグが混じっているのです。医者では精神安定剤として処方されるものですけどね」
手渡された瓶の中で透明な液体が揺れている。多少は白っぽい色がついているようだが、店の暗い照明の下ではハッキリとは確認できなかった。
ふと視線を感じて隣を見ると、今まで無視を決め込んでいた客が手許の酒瓶を覗き込んでいるところだった。
「どうぞ、手に取ってご覧なさい」
酒瓶のラベルを見つめていた新顔の視線が上がり、教授の灰色がかった蒼紺の瞳にぶつかる。アッサジュ・パルダは相手の瞳に思わず酒瓶を取り落としそうになった。
今、カウンターの上に置かれたグラスの中で揺れるカクテルそっくりの瞳の色だった。白水晶の煌めきに似た、薄い色彩の瞳は不気味なほどだが、澄んだ色合いが知性を感じさせる。
絡んできた連中はこの瞳を見て気勢を削がれてしまったに違いない。こんな珍しい瞳の色は初めて見た。
素直に受け取った相手の顔を間近に見、老教授はバーテンがどうしてこのカクテルを作ったのか判った気がした。赤髪の青年もまたこの瞳の印象深さに囚われているのだろう。
「不思議な味がするのは、薬のせい?」
唄うような声が漏れて再び瞳が持ち上がると、アッサジュ・パルダは魅入られていた呪縛から逃れるように赤髪のバーテンを振り返った。
「ドラッグが酒の味を決めているのかね?」
カウンター側で作業をしていた青年がチラリと教授と視線をあわせ、そっと首を振る。
「いいえ。このドラッグには味がありません。カクテルの味は別物ですよ」
面白くもない答えだったが、教授の隣りに座る人物は納得したように頷いた。その勢いのままにカウンターに酒瓶を返すと、静かに立ち上がる。
「美味しかったよ。また呑みにくるかもね。……そうだ、カクテルの名前はトランキライザーが相応しいよ。他の名前なんて陳腐なだけだ」
スゥッと色の薄い瞳が細められる様子を見守り、老教授はそれが猫眼のようだとぼんやりと考えていた。まるで黒猫が三日月を見上げて嗤っているようだ、と。
客が立ち去った後、アッサジュ・パルダは大きな吐息をついていた。
「申し訳ありません、教授。お疲れになりましたか?」
囁きかけてくるバーテンの氷色の瞳を見つめ、これ以上に薄い色の瞳を再び思い出すと、老教授はブルルと背筋を震わせる。
「いやはや、すごいお客だったね。私には男か女かも判らなかったよ。それにあの瞳、あれは魂を抜き取られそうな色をしているね」
曖昧な微笑みを浮かべるバーテンが小さな声で「そうですね」と同意したが、すでに老教授は周囲の物音など耳に入らない状態だった。
「カクテルの名はトランキライザーか。う~む。カクテル以上に不思議な人物だったな」
ぶつぶつと呟き、物思いに耽る老教授を見守るバーテンは、その様子に微かな苦笑を浮かべていた。
遠く西の空が鋭い紫に輝いた。
遠雷だ。鮮やかな色に染まる雨雲は海に浮かぶ藻屑のように蠢いている。
雲足は遅い。まだここまでは届かない。稲妻もここまでは落ちてこない。
ヒラリと舞い上がると視界にたなびいた自分の黒髪が映し出された。闇を凝り固めたような漆黒が今日はいつもに増して輝いて見える。
「クルアン……。いるか?」
「おそばに、主様」
呼びかけに応じて遙か眼下の草むらで黒い影が踊った。暗い緑が広がる草原は遙か眼下に横たわり、草むらの影は小さく拳大の大きさにしか見えない。
「あれが大幹を抜けたようだ。黒竜街道をまっしぐらに北上しているぞ」
囁くような声であったが、影にはその声がしっかりと届けられていた。落ち着き払った声で返事が返ってくる。
「そろそろ“宵星亭”にお入れになりますか?」
「苛ついておろうな。……あれは気が短いようだ」
そっと肩で息をした。ため息混じりの声を自覚して、虚空に浮かぶ者は眼下の草むらから遠い雷雲へと視線を逃す。
「カント・ガントといい勝負でしょう。あるいはそれ以上かと。しかし、若主様も少しずつ学んでおられるようですよ。旅の連れがなかなか強情な質の者のようですからね」
「様子を見てきてくれ。あれが怪我でもしようものなら月子がうるさい」
草むらの奥からクスリと微かな笑い声が漏れ、短く「御意」と囁く乾いた声が届けられた。楽しげな気配がゆらゆらと蠢き、現れたときと同じように影を踊らせて消えていった。
消え去った気配の行方を手繰るように耳を澄ませる。ヒタヒタと足音を忍ばせる様子が手に取るように伝わってきた。
「ま、クルアンに任せておけば大事ないか」
ユラと一歩を踏み出し、両手を広げて西風を全身に受ける。雨風の荒々しさが嵐を予感させる。それを嬉しげに見上げる瞳は血色をしていた。
「こい、嵐よ。我の元へ……。神の声を届けよ。神鳴りの轟きと共に……」
摺墨の衣装が風に膨らむ。黒い帆のように広がった裾が強風にバタバタと鳴いた。草原から見上げたなら、虚空に浮かんだ奇妙な帆そのものだろう。
ゆっくりと進んでいた雨雲が呼び声に呼応するように往き足を早めた。鞭打たれる山羊の群のようだ。その雲に向かって足を進めた。走り寄る幼子を抱き留めるような穏やかな歩みだった。
虚空を一歩一歩静かに進んでいた者は稲光に頬を蒼く染める。瞬く間に雨雲が迫り、見上げるほど間近に迫った黒い雲の間から紫の閃光が走った。
──黒竜街道の主よ。未だお前は狭間の守番のままか?
紫電の轟きに混じって野太い声が空気を震わせる。揺らめく風が声の強弱にあわせてキリキリと草原の草たちをなぶった。
──神にもならず、人にもならずとはご苦労なことだ。
重ねて言葉が空気を振動させる。鼓膜どころか肺腑まで震撼させる響きにも虚空の黒い影は平然とした顔で佇んでいた。
「来るべきときに来、去るべきときに去るのが我の流儀よ。神などとご大層な名をつけられるのはご免被る」
──だが化け物との誹りは受けまいに。
「神は神でも邪神と呼ばれでもしたらどうしてくれる。安穏な日々が終わってしまうわい」
黒き主の冗談とも本気とも知れない口調に雷電が笑う。グラグラと空気を引き裂いて大地に電撃が突き刺さった。草むらの一部が黒く焼け焦げ、煤けた匂いを辺りに放つ。
──小さな器に心を押し込めて窮屈であろうにな。
振りまかれた稲妻の煌めきが雲を不気味な色に染めた。魔神が嗤っているような雲の動きに、虚空に浮かぶ者の眼が細くなる。
「ご大層な器を持つ必要もあるまい? 貴卿こそ真面目に器を探したらどうだ。いつまでも不定形というのは好ましくないと聞くぞ」
それは問いかけか説教か。発した言葉に相手は黙りこくった。痛いところを突かれたからなのか、あるいはばかばかしさに二の句が継げないでいるのか。沈黙から推し量ることはできない。
「いずれはこの器にも寿命がくる。その前にまともな後継者を作り出さねばならぬぞ。そちらとて雷に身を潜めるのも限界があろうが」
──どちらをとるにも一長一短か。お互いに苦労する。
摺墨の袖がふわりと空に舞った。優雅な動きに風さえ見惚れたか、轟々と吹きつけていた風嵐がピタリと止んだ。
「聞いているか? 南のほうでは使い手とその眷属が結界繭の中に籠もっているそうだ。我々もいつかは朽ち果てる身であろうか?」
──さて? 共生できねばそうなろう。神鳴りを届けられぬようになったら終わりよ。
飄々と返ってくる野太い声に黒髪の主はかすれた笑い声を漏らす。淡々としたものだ。風の止んだ世界に雷鳴の轟きだけが大きく小さく響き続ける。
「寂しいものだな。伝説の中でしか生きられぬ身というのは」
ゴゥンと頭上で雷電が呻いた。繰り返される稲光の閃光が草原を青黒く染める。世界を引き裂くような雲の蠢きがまるで命の鼓動のようだった。
再び摺墨の袖が揺らめいた。
風が吐息をつくように流れ始める。翻弄される衣装が逆巻く渦潮のように虚空を跳ねた。一緒になって黒髪も逆立つ。それが慟哭する獣のたてがみか翼のように見えるのは気のせいだろうか。
──楽園は滅び、罪人だけが残った。それでも我らは生きている。伝説となって。
「永い……。我らが眠りにつく日はいつ来るだろうか」
呟きに紫の光が走った。焦げ臭い匂いが漂い、草原を焼き払っていく。
──この世界は滅びなかった。なれば、我々も在らねばなるまいよ。そうであろう、街道辻の番人よ。
然り、と黒髪の下で囁きながら、守番は血色の瞳を雷雲へと向けた。
──神鳴りが消えるまで。
「伝説が埋もれ消え去るまで」
同時に放った言霊に苦笑を漏らし、異形なる者たちは思い馳せるように沈黙した。
町の佇まいが黄昏の中に溶け込もうとしていた。
大通りを行き交う人々は足早に家路を辿り、待ちわびていた夕餉へと向かう。宿屋の中にある酒場には仕事を終えた男たちや旅人が集い、流れの吟遊詩人の即興詩に耳を傾けていた。
二人連れの旅人が大通りを横切り、その宿屋の扉を押し開けて入ってきた。
奇妙な風体の者たちだ。一人は十代半ばの少年で、真っ白な肌と髪が酒場のランプの光で黄金色に輝いて見える。もう一人は十にも満たない幼子だ。青白い肌に宵闇色の髪を持ち、血色の大きな瞳が好奇心にくりくりと蠢いていた。
「食事と寝床を……」
少年は宿屋の亭主に銀貨を放り、酔客たちの間を縫って一つの食卓を占領する。後から続く子どもも当たり前のように向かい側の席についた。
初めはジロジロと眺めていた他の客たちだったが、無口な二人連れにすぐに興味をなくし、自分たちの噂話に花を咲かせ始めた。
「だから森の猟師が見たって言ってるんだよ」
「まさか。そいつが酔っ払って見間違えたんだろう?」
「あいつは真面目な奴なんだ。猟の途中に酔っ払うもんか。絶対にあの森には天女様がいるのさ」
「天女なんかいるものか。もしもいるとすれば人を魅了して魂を吸い取っちまう恐ろしい化け物さ」
酔っ払って大声で噂話をする男たちの周囲に人垣ができた。ここ最近になって広まった森の泉に現れる不思議な少女の噂で持ちきりだ。ある者はその少女を天女だと言い、ある者は魔物だと言う。
喧噪は大きくなり、宿屋の亭主の呼び声も掻き消すほどの大論争が沸き起こっていた。妖かしの少女の正体に皆、持論を主張しあって譲らない。
酒場の中でこの論争に加わっていないのは先ほどの奇妙な二人連れだけだ。他の客たちは声を張り上げて激論を戦わせている。もっとも、酔っ払いどもの論争に決着がつくことなどありえないのだが。
旅の二人連れは食事を終えるとサッサと宿の二階に上がっていった。他の客たちのように議論に加わる気はないらしい。
部屋に案内され、亭主が階下に降りていってしまうと、二人連れはおもむろに窓を開け、黒々と伸びる黒竜街道の遙か向こうに見える森を見渡した。
「噂通りならあの森の奥にいるということなるな。どうする? 行くのか?」
少年の口調は平坦で、尊大だった。冷たくはないが温みもない声音に、窓枠によじ登っていた子どもがジロリと振り返る。
「当たり前だ。やっと掴んだ手がかりを逃してなるものか。儂一人でも行くからな」
少年の口調以上に尊大な態度で子どもが赤い眼をすがめた。ふっくらとした頬や幼い仕草と子どもの口調や態度の落差は、見る者が他にいたとすればきっと呆気にとられたであろう。
「誰も行かないとは言っていない。ただ相手がいつ出てくるのか判らないし、町の連中に気づかれないように出掛けないと後から質問攻めに遭う。うるさくされるのはご免だ」
「判っておる。そのための準備も万端だ」
窓枠から滑り降り、子どもはベッドに放り出してあった荷物袋に近寄った。しっかりとしばられた口紐を小さな指先で解き、ズルズルと中身を引っぱり出して床の上に並べていく。
「なんだ、それは?」
「パチンコだ」
「……は? ぱちんこ?」
訳が判らないといった表情の少年を無視して、子どもは並べた材料を器用に組み立てていった。てらてらと光る金属の杭を天井近くまで組み上げ、広帯のように太い皮を金属棒の間に結びつける。
「ま、こんなものだろう。準備はいいか?」
「準備もなにも。何をすればいいのか判らない」
「自分の得物だけは持っていけ。帰りはここの外壁をよじ登ってもらわなければならんのだからな」
「パチンコってのは行きの道しか確保してくれんのか?」
少年が自分のこめかみをグリグリと押しながら顔をしかめた。眉間に寄った皺の原因は、指先でこめかみを押している痛みではないだろう。
「パチンコは出たら出っぱなしだ。帰りは自力と決まっている」
「使えない道具だな、まったく」
「行きは使える。つべこべ言わずにサッサとこっちにこい」
少年は不満顔のまま不遜な態度の子どもの隣りに立った。彼には他に選択肢がなかったのだ。
「儂の肩に掴まっておれ。飛び出すときの勢いが強いから手を放すと地面まで真っ逆さまだぞ」
「なんでもいいからサッサとしろ。どうせお前の使う道具はろくな出来じゃないんだから」
子どもがムッとした表情で少年を振り返ったが、気忙しいときの口論は無意味だと知っているのか、すぐに元通りの顔に戻って自分の身体に太い革ひもを巻き始めた。
隣の少年も真似をして革ひもを腰に当てるが、身長差があってどうも上手くいかない。
「儂よりお前を基準にしたほうが飛びやすそうだな」
少年の様子に子どもは口をへの字にした。身長差のことを考えていなかったようだ。自分の身体に巻き付いていた革ひもを外すと、今度は少年にあわせて革ひもを巻き始める。
一通り終わると、子どもは少年の肩の上に器用に這い上がってしがみついた。
「いいか、三、二、一で飛び出すからな。腹に力を入れておけよ」
「判ったから早くやれ。背中に革ひもが食い込んで痛い」
ブツブツと不平を漏らす少年の首にしがみつくと、子どもは最後まで手に持っていた棒を足下に向かって放り出した。
棒がカラランと乾いた音を立てる。奇妙な機械がグラグラと揺れ動き、放り出した金属棒が周囲の革ひもに当たると、ギリギリと軋みを立てて縮んでいった。
「三……、二……、一!」
子どもの囁きに少年は歯を食いしばる。次に襲ってくるであろう衝撃に耐えるためだ。
「出るぞ!」
背や腰を叩きのめされているような勢いで革ひもが収縮した。逆らうなど到底無理だ。窓枠ギリギリをかすめて外に放り出され、少年と子どもは空高く吹っ飛んでいった。
辛うじて悲鳴を呑み込んでいた少年だったが、ぐんぐん近づいてくる街道の黒光りに眼を見開いて青ざめた。このままだと街道の石畳にぶつかってしまう。
悠々と空の散歩を楽しむような余裕もなく、少年は肩にしがみついている子どもを抱えた。と、次の瞬間には街道の石畳を上を勢いよく転がっていく。
石の割れ目に降り積もった砂埃がもうもうと噴き上がり、夜の闇の中で白い土煙を上げた。
「畜生! なんて乱暴な道具だ。当たり所が悪かったら、間違いなく首の骨を折っているぞ」
「いででで……。飛距離は申し分ないが、照準に難が残っているようだな」
「……ちょっと待て。あれは完成品じゃないのか!?」
「前の街の骨董屋で手に入れた試作品だ。……え~っと。なんとかいう発明家が作った品だと言っていたな」
「それは試作品じゃなくって、失敗作というガラクタだろうが!」
「そう細かいことを言うな。ほれ、森はもうすぐだ。サッサと行くぞ」
こめかみに青筋を浮かべる少年を無視して、子どもはスタスタと先に立って歩いていく。その後ろを慌てて追いかけ、少年は口の中で何度も悪態をつき続けた。
「奥の泉までどれくらいかかるかのう?」
「知るか。森に入ったらフクロウにも聞いてみろ!」
「……フクロウでは背に乗れないな。狼でも出てくれたら案内させるのだが」
薮の中を進む子どもの黒い頭と少年の白い背中が昇ったばかりの月に照らされてぼんやりと輝いている。奇妙な二人連れの声が木々の幹に反響して森の中はクワンクワンと騒音が鳴り響いていた。
「今度こそ手がかりを捕まえて、あいつのところへ帰るぞ~!」
「そう言い続けて何回しくじったんだ? もういい加減に数えるのにも飽きてきた」
「うるさい。儂の故郷に帰れたら、お前も少しは楽ができるではないか。最初の約束通り、故郷まで連れていけ!」
さすがに子どもの尊大な口調にムッとしたのか、少年の黒い瞳がスゥッと細められる。表情のなくなった顔の中で、眉間の皺だけが異様にクッキリと浮かんでいるように見えた。
「だったら確実な手がかりを見つけないか、このクソガキ!」
「キィッ! 儂は子どもではないといつも言っているだろうがぁ!」
「ガキをガキと言って何が悪い!」
前を歩く子どもの首筋を掴み上げると、少年は子どもの小さな身体をヒョイと自分の肩に押し上げる。
「ガキじゃないのなら、せめて肩車できないくらいまででかくなれ」
「うるさい、うるさい、うるさーい。もう二度と助けてやらんぞ!」
「けっこうなことだ。あのパチンコみたいな妙な道具を試されるくらいなら、獣との乱闘のほうがよっぽどマシだな」
今度は子どものこめかみに青筋が立っていた。頬を引きつらせる子どもの指が少年の結い上げた白髪を引っ張った。
「髪の毛をむしってやるっ!」
「お仕置きに尻をひっぱたかれたいか?」
止めどなく続く言い合いがいつしか森の奥へと消えていった。往きすぎていく喧噪に応える者は互い以外どこにもいない。
「こ、この! この、この……! 無礼者がぁっ!」
「子どもに向かってどんな口をきけと? おや。あちらから水の匂いがするな。この話は終わりだ」
「勝手に話を打ち切るな。儂の言うことを少しは聞かんかぁ!」
二人のたてる騒音が去るまでのわずかな間、木々の枝は突然の喧噪に身体を震わせ続けた。
「まったく、うるさい奴だなぁ」
「故郷に帰ったら百倍にして仕返ししてやるからな。憶えておけ!」
その後、二人が目的の場所にたどり着いたのか、自分たちの探す手がかりを掴んだのかは誰も知らない。ただ、この闖入者のお陰で、夜を餌場にする獣たちの狩りは散々だったに違いない。
黒竜街道から離れたある森に、一人の狩人が住んでいました。
大変な弓の名手で、ひとたび彼が弓を引けば、射ることができぬ獲物はないという腕前です。
森で狩りをして獲物が捕れると、黒竜街道沿いの大きな街の毛皮屋や細工屋の下請けに売りに行くのが彼の日課なのです。
ある日、狩人は獲物を求めて森の奥深くまでやってきました。その日は珍しく朝から獲物に行き当たることがなく、彼は手ぶらのままでした。
今日は何も捕まえることができないかもしれないと、狩人は諦めかけたそのとき、森の奥にある泉の方角から水音が聞こえてきたのです。
動物が水を飲みにやってきたに違いないと、彼は足音を忍ばせて泉へと近づいていきました。
泉に近づくと、確かに水音がします。動物が水浴びをしているような音で、これは簡単に狩ることができそうだと、狩人は嬉しくなりました。
狩人はこっそりと動物に近づき、薮の中から立ち上がると同時に得意の弓を射かけたのです。
ところが、なんということでしょう。
水浴びをしていたのは動物ではなく、一人の少女だったのです。黒髪を揺らしながら、足先を水に浸けてパシャパシャと水面を波立たせています。
狩人がしまったと思ったときには弓からは矢が放たれた後でした。矢は一直線に少女に向かって飛んでいきます。狩人は「危ない!」と叫びましたが、泉で足を泳がせている少女は気づきません。
狩人は少女に矢が突き刺さるところなど見たくはありませんでした。少女がもらすであろう叫び声を聞くまいと、目を伏せ耳を塞ぎます。手にしていた弓がガタガタと足下に転がりました。
しかし、いつまで経っても少女の叫びは聞こえてきません。
狩人は恐る恐る目を開けて泉のほうを見ました。
少女はまだそこにいました。しかもこちらを不思議そうな顔をして見ています。黒い瞳をくりくりと動かし、狩人の様子を眺めているのです。
少女に向かって飛んでいった矢はどこにも見当たりませんでした。
狩人は辺りをキョロキョロと見渡しましたが、矢が反れた気配はありません。まるで幻のように消えてしまっていたのです。
「お嬢さん、怪我はないかね?」
狩人はやっとの思いで口を開くと、少女に無事を訊ねました。
「怪我? どこにもないわよ」
「森の奥までどうやってきたんだい。こんな寂しい場所に一人でいては危ないよ」
狩人が再び訊ねると、少女はニッコリと笑って天を指さします。
「お月様が出ているから寂しくないわ」
狩人が樹木の間から見える空を見上げると、そこには昼間の白い三日月がうっすらと見えました。月は今にも空の中に消えそうです。
狩人が再び泉に目を向けると、少女がゆっくりと立ち上がるところでした。彼女の着ている服は不思議な形をしていて、この辺りでは見たこともない意匠です。
「お嬢さん、いったいどこから来たんだい。あまり見ない格好だね」
「遠くからよ。でも、そろそろ帰らないとね」
少女が胸に下げていた首飾りをそっと手に取りました。飾りに鏡がついているのか、首飾りはピカピカと光っています。
「街道までの道は判るかい? 送っていこうか?」
狩人が訊ねると、少女は首を傾げてニッコリと微笑みました。
「ありがとう。大丈夫よ。一人で帰れるから」
少女は首飾りを握りしめてしないほうの手をヒラヒラと振り、狩人が見ている目の前で泉の中に飛び込みました。止める間もありません。
ところが、水の中に沈むはずの少女は水面の上にふわりと足を滑らせ、泉の中央までくるとふわふわと空に向かって昇っていったのです。
狩人は茫然とその後ろ姿を見送りました。
銀色の粉が少女の昇っていった後に舞い散り、泉の中に落ちると砕けていきます。
「さようなら。またね」
天高く昇っていった少女の声が聞こえてきたのは、月が木の陰に入って見えなくなってからのことでした。
狩人は泉のほとり、少女のいた場所まで歩いていきましたが、そこは静まり返り、後には何も残っていません。
日が落ちるほど長い間、狩人はそこに佇んでいましたが、ようやく重たい足を引きずって弓を探しにいきました。
薮の中に転がっていた弓は石に当たって砕けてしまっています。治すのにとても時間がかかりそうです。
その弓をそっと拾い上げ、狩人は森の自分の家へと帰っていきました。
森の小道には月のか弱い光が落ちています。その光を辿って木々の枝の隙間から見える月は、狩人が手にしている弓のように歪み、ぼんやりと光り輝いていました。
月子の自慢は一昨日買ってもらったばかりのカメラだ。それも発売前の。まだ同級生の誰も手に入れていない。月子は父親のコネを利用して手に入れたのだから。
今日は一日良い天気だったので、庭のあちこちを歩き回って買ったばかりのカメラを試してまわっていた。
足はすっかりくたびれてしまったが、月子はカメラの映り具合にたいそう満足した。
そう、これは現像しなくてもいいカメラなのだ。パシャリとシャッターを押した途端に写真が吐き出され、初めは白くモヤモヤしていた画像が徐々にはっきりとした色を浮かべる様子は魔法のようだった。
「さすがですわ。明日、学校で皆さんに見せて差し上げましょう」
もう就寝時間であったが、月子は興奮していてなかなか寝つけない。ベッドから起き出し、昼間撮影した写真を引っぱり出して月明かりの下でじっくりと眺めていると、なんともいい気分になってくる。
ふと夜空を見上げると、まん丸い月が金色の粉を撒き散らしていた。
「せっかくの満月ですもの。これも撮しておきましょう」
月子は大きめのカメラをしっかりと構え、丸々と肥え太った月に向かってシャッターを押した。
ジジィ~と鈍い音が響き、昼間と同じように写真が吐き出されてくる。月子はドキドキしながら写真を眺めた。
写真の中の輪郭がふんわりと浮き上がってくる。窓の外にはバルコニーの白い手すり。その上にはまん丸の金色月。
じっと写真の中の月を見つめていた月子は、ふとバルコニーの手すりの上に座り込む一匹の黒猫に気づいた。猫の輪郭はうっすらと銀色に光っている。小首を傾げてこちらを見つめる瞳は珍しい水晶色をしていた。
「まぁ、綺麗な猫!」
月子は顔を上げて窓の外を見回した。が、そこには猫どころか、風さえ吹いてはいなかった。
「写真を撮るときには全然気づきませんでしたわ」
がっかりして再び写真に目を落とした月子は、そこで目をまん丸に広げて息を飲んだ。
猫が……動いている!
写真の中で猫が優雅に毛繕いをしていた。ゆうらりと揺れ動く尻尾にピクピクと動く髭、前脚を舐める舌が時折チラチラと覗く。
「本物の魔法だわ!」
月子は恐る恐る指先を伸ばして写真の中に猫に触れてみた。途端、猫が動きを止めてじっとこちらを見つめてくる。
「やぁ、お嬢さん。こんばんは。今日は良い月の晩だね」
「猫が喋ってる!」
「おや。魔法を信じたあなたが、猫が喋ったくらいで驚くとは。それより、どうですか? ここに来て一緒に月見でもしませんか?」
のんびりとした仕草でお辞儀をする猫の様子に、月子はなんだかワクワクしてきた。月夜の晩にだけ見ることのできる魔法に違いない。
「どうやってそちらに行けば良いのかしら?」
「何、簡単なことでして」
猫はもったいぶった態度で髭を撫で上げると、ピカリと瞳を光らせた。
「“黒竜街道よ、我を招け”と唱えればよいだけですよ」
「コクリュウカイドウヨ、ワレヲマネケ?」
オウム返しに猫の言葉を繰り返した月子は、その言葉を言い終わるや否や、ぐぅんと身体が引っ張られる感覚に目を回した。渦を巻きながら写真に吸い寄せられ、アッという間に身体が縮んでいく。
悲鳴を上げる間もなく、月子の身体は写真に呑み込まれていった。
ゆらゆらと揺れる感覚に、月子はふと目を開けた。目の前に黒い髪の綺麗な若者の顔がある。一重瞼の眼は先ほど出逢った猫の瞳と同じ色をしていた。
月子が「猫さん?」と呼びかけると若者の顔がこちらを向いた。猫が笑ったときのように細められた瞳がキラリと光る。
「私のことはクルアンと呼んでもらえますか、月子様」
はて、自分は名乗った憶えはないのだが? 月子は少しの間考え込んだが、クルアンに「上をご覧なさい」と呼ばれて空を見上げた。
そこには真白き銀に輝く満月がぽっかりと浮かび上がっているではないか。寝室の窓から見えた金色の月は温かな光を放っていたが、今見上げている月は凍りついたように冴えた光で世界を満たしていた。
「南天の白月ですよ。綺麗でしょう? 今宵の満月は特に美しい。そうそう。忘れるところでした。あなたにこれをお渡ししておきましょう」
若者は月子をふんわりと地面に降ろし、懐から何やら光るものを取り出した。
手渡されたものは鏡だった。手の中にすっぽりと収まる小さな手鏡で、銀色に光る丸い鏡の周囲を金箔の鱗模様が取り囲んでいる。
「由緒ある品物ですよ。なくさないように鎖をつけて差し上げましょう」
若者は再び鏡を取りあげて柄の先に開けられた飾り穴に金色の鎖を通した。ゆらゆら、クルクルと動く鏡は、天空の月が目の前で踊っているようだ。
「月が出ているときだけ魔法が使える鏡です。こちらとあちらの行き来のときに使いなさい」
「ありがとう、クルアンさん。大事に使わせてもらいますわ」
鏡のペンダントを首から下げると、月子は嬉しそうに縁飾りを撫でた。
「いいえ。では主様のところへ行きましょうか」
歩いていく先を見透かせば、黒々と輝く石がギッシリと敷き詰められた道が延々と延びている様子が見える。
「主様ってどこにいるの? ここから遠いの?」
自分の手を引くクルアンの掌は猫を抱いているときのように暖かい。その手が離され、若者は考え込むように指先で顎を撫でた。
クルアンは「せっかくですから鏡の力を使ってみましょう」と言いながら、月子の胸元に下がった鏡の表面を指先でつつく。と、すぐに鏡の表面が淡い銀色に光り始めた。
「主様のところへ向かう場合はこう言うのです。“辻の神。彷徨い人。星落人。我を呼ぶは誰ぞ”」
クルアンの声が響きわたり、鏡の放つ光に吸い寄せられるように月光が集まってくる。月子の周囲には月の鋭い銀光に満たされ、目を開けていられないほどだった。
月子は再び目眩に襲われたが、今度はクルアンが背中を支えてくれたお陰でなんとか気を失わずに済んだ。眩い光が消えると、月子はホッと安堵の吐息をつく。
月明かりは元通りになり、辺りを見回した月子は感嘆の声を上げた。
黒々と光る石が積み上げられ、人の背丈の何十倍もある高い高い壁が周囲を取り囲んでいる。所々に穿たれた大窓から月明かりが差し込んでいるお陰で視界には不自由しないが、光がなければ真っ暗闇になってしまうだろう。
「そこにいるのは誰だね? おや、クルアンか?」
あちこちをキョロキョロと見回していた月子は、突然の声に飛び上がった。
「主様、月子様をお連れしました」
恭しく腰を折るクルアンを見て、月子も真似をしてお辞儀をする。ヒタヒタと乾いた足音が響き、月子たちの目の前で止まった。
そっと顔を上げてみると、古びた着物を着込んでいる老人がじっと月子の顔を覗き込んでいた。
「よう参られたの。こちらへおいで」
老人の枯れ枝のように細い腕が月子の背中を押す。月子はどうしたら良いのかとクルアンを振り返った。が、そこに見目麗しい若者の姿はない。
どこへ行ったのかと周囲を見回せば、すぐそばの大窓の桟に黒い美しい毛並みの猫がちょこんと腰を降ろしている姿に気づいた。
声をかけようとしたが、黒猫はヒラリと窓から飛び降りるとどこかへ行ってしまった。
「あの、お爺さん。本当にお爺さんが主様なの?」
老人に促されて黒い部屋の一画にある椅子に腰を降ろすと、月子は首を傾げながら訊ねた。いつの間にか月子の前には美しい漆器が置かれ、白くトロッとした液体が甘い湯気を立てている。
「そうじゃな。儂が主と呼ばれるようになってから随分になる。お嬢さんはこの姿が嫌いかな?」
老人は自分の目の前に置かれた器をそっと取りあげると、湯気をフゥフゥと吹きながら中の液体を一口すすった。
「別に嫌いではありませんわ。でもわたしのお祖父さまよりもうんとお年を召しているからビックリしましたの。もう少し若い人かと思っていたの。クルアンさんが若かったんだもの」
「ふむ。そうさな、この姿になってから何百年か過ぎておる。少々飽きてきたところでもあるし、ここらで変えても良かろう」
老人は持ち上げたときと同じように静かに器を卓に戻すと、皺の寄った手で自分の顔をつるりと撫で上げる。腕が降りると、そこに老人の姿はなかった。
月子はパチパチと瞬きを繰り返し、目の前に現れた少年の顔をまじまじと見つめた。
月光よりも青白い顔に黒い滝のように波打つ髪とルビーを思わせる紅い瞳。先ほどの老人と同じ着物を着込んでいなければ、老人が一瞬のうちに姿を変えたのだとは思わなかっただろう。
「はて、気に入らぬかの? お前さんと同じくらいの年格好にしたつもりだが」
「いいえ、気に入らないなんてことないわ。学校のお友だちに自慢したいくらいよ。あぁ、残念。カメラを持ってくれば良かったわ」
目の前の不思議に感嘆のため息を漏らす月子の様子が可笑しいのか、少年はクスクスと笑い声をあげ、月子の前に置かれた漆塗りの器を指さした。
「お飲み、身体が温まる。この辺りは夜は少し冷えるからの。それを飲み終わったら話をしよう。退屈して死にそうでな。クルアンに話し相手を捜してもらっておった」
月子は甘い液体をゆっくりと飲み干す。甘酒に似た味がする液体は、胃の中に落ちていくと身体中をほこほこと温めてくれた。
「お話ってどんなことを話すの?」
「そうさな。例えば……先ほどの“かめら”のこととか?」
「ポラロイドカメラのこと?」
首を傾げて月子が訊ねると、少年は人懐っこい笑みを浮かべて頷いた。
「カメラっていうのはね、魔法のオモチャみたいなのよ」
逐一頷き返しながら、少年は熱心に月子の話に耳を傾ける。紅い瞳が暖炉の炎のように揺れ、好奇心を満面に湛えた少年の顔が楽しげに輝く。
黒く濡れ光る石の塔の中、月光に見守られながら月子と少年は長い永い話を始めた。
その小柄な老人の背後には長い長い行列が続いていた。
列の最後がどこで果てるのか判らないほどで、一人か二人ずつ老人に話しかけては、頭を下げてどこかに消えていく。
早朝に彼がこの土手に腰を降ろしてから今の昼下がりまでずっと、行列は短くなるどころか長くなる一方のようだった。
編み笠に薄墨色の袍をまとった姿はどこかの楽隠居といった感じだが、深く刻まれた皺の具合から老人の年齢を推し量ることは難しそうだ。
とある恰幅の良い初老の男が老人の傍らに平伏すると、頭を地面にこすりつけて泣き始めた。
「ご老人、お助けくださいまし。孫が五日も熱にうなされております。医者も匙を投げてしまってどうしたらよいのか……。お知恵をどうぞお貸し願います。どうか……」
老人はさめざめと涙を流す男をチラリと一瞥した後、眼下に見える川面の波紋をジッと見つめた。
「さてはて……。今日は魚どもの機嫌が悪いようじゃて」
老人の手の中には細く伸び上がる竹竿がある。その先端には、蜘蛛の糸のようにか細い釣り糸が、時折吹いてくる微風にふわりふわりと揺れ動いていた。
釣りをしている老人に、男はなおも平身低頭して懇願する。
「お代はいかほどでもご用意いたします。ですから、どうか孫を……」
「お前さん、儂が何を釣っておるように見えるかね?」
必死の懇願を続ける男の声を遮ると、老人はのんびりと枯れ枝の指先を伸ばして水面を指さした。
男は「はぁ?」と曖昧な声を上げ、水面と老人の顔を見比べる。戸惑った表情の中には、どうやって答えたものかと懸命に思案しているらしい色が伺えた。
しかし、上手い言い回しが思い浮かばなかったのか、おずおずとした口調で見たままのことを口にする。
「あの……釣り糸が宙を舞っておりますので、それでは魚は釣れぬかと」
男の返事に、老人が呵々と笑って頷いた。
「左様。水の中におる魚は釣れぬな。お前さんの頭はまだまともなようだ」
男は再び「はぁ……」と曖昧な声をあげて老人の皺深い横顔を見つめる。何が言いたいのかと押し黙っていると、老人の口元がニタリと歪んだ。
「病のことを訊ねるに、昼間っから釣れぬ魚を釣ろうとしている老いぼれを問いただしたところで役には立たぬ。街中の薬屋を訪ねたらどうじゃな」
「それはもう! 足を棒にしてあちこちを歩き回り、もうここより他に頼る術がありません。どうぞお慈悲を……」
ガバリと平伏した男の禿げ上がった頭部を眩しそうに見た後、老人は自分の顎に生えた長い髭を細い指でゆったりと撫でた。
「今朝からずぅっとこの列に並んでおいでじゃな。ならば今日この街に着いたばかりの旅人のことは知らぬじゃろう?」
「旅の薬の行商人ならあちこち当たりました。しかし彼らの誰に聞いても孫の熱を下げる薬はどこにも……」
言い募る男をまぁまぁと老人が掌を振ってなだめる。
「もう街の外れ茶屋に着いておる頃じゃろう。珍しい銀石を持っておる子どもとその子どもの連れに逢いに行きなされ。売ってはくれぬが、鄭重に頼めば薬の作り方を教えてくれるぞ」
初老の男は独楽《こま》のように飛び上がり、大声で「あぁ、ありがたい! これで孫が助かる!」と叫んだ。
そのまま駆け出そうとした男の足を老人が細腕で押さえる。枯れ枝のような腕なのに万力のごとき怪力だ。男はピクリとも足を動かせない。
「ほれ、教え賃は?」
「あの……いかほどお包みすれば良いので?」
老人は「金などいらんわ」とにべもなく答えて、ヒョイヒョイと手首を振り、男を差し招いた。
老人が顔を近づけた男の耳元でボソボソと何ごとかを囁くと、男は一瞬戸惑ったように眉を寄せたが、すぐに頷くと老人の耳に囁き返す。
「ふむ。それはよいことを聞いた。では、駄賃はそれでけっこうじゃ」
ヒラヒラと手を振る老人に頭を下げると、男は土手の坂道を転がるようにして降りていった。そのまま一目散に街外れへと走っていく。
男の姿が見えなくなるとすぐ、行列の先頭にいた中年女がしずしずと歩み寄ってきた。どこかの金持ちの奥方らしく、彼女の肩掛けは沙羅《しゃら》織りの素晴らしい柄模様である。
老人は婦人には目もくれず、竹竿をヒラリと振って釣り糸をたぐり寄せた。糸の下の方には歪な形の浮がしがみつき、先には点々と小さな小さな針が取りついている。
糸と針の具合を確かめると、老人は飄々と腕を揺すって竹竿を振った。ふんわりと風に乗り、糸がハラハラと土手の草上を滑り落ちていく。
その様子を眺めていた見目麗しい奥方が思いきって「あの……」と声をかけてすぐ、土手の下から雷のような大声が上がった。
「こら、そこの爺ぃ! 人助けのフリをして金を巻き上げているのはお前か!」
轟々と吼える虎のような顔をした大男がノシノシと土手の坂道を歩いてくる。中年女はビックリして人垣の中に逃げ込んでいった。
「はて、儂は金など貰っておらんがの。それにお前さんに迷惑をかけたという憶えもないが?」
「何を言うか。今、ここを通り過ぎていった男に教え賃を寄越せといっただろう。こんなところで日がな一日座っているだけで喰っていけるとは、よほど実入りがいいに違いない。さぁ、俺にもそのやり口を教えやがれ!」
横柄な男の態度に老人は片眉を隆々と上げる。が、成り行きを見守る人だかりにチラリと視線を走らせて「ふむ」と唸った。
「おい、爺ぃ! ボサッとしてないで俺にもてめぇの食い扶持を教えやがれ! サッサと教えないと、こうしてやるぞ!」
胸ぐらを掴まれ、ガクガクと揺すられながら、老人は口元をニタリと歪める。
「ちょっと、お前さん。ご老人にそんな無体なことをしちゃぁ……」
人垣の間からオロオロと声があがったが、狼藉者はカァッと獰猛な鼻息を吐いて人だかりに向かって拳を振り回した。
人々は乱暴者の恐ろしさに震え上がり、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。蟻の行列のごとく長く伸びていた人の列がアッという間になくなった。
「ほれみろ。てめぇが早く教えないから今日の食い扶持はあがったりだぜ」
ゲラゲラと下品な笑い声をあげた男の顔を、老人は白い眉の下から炯々と光る瞳で見上げた。
「お前さん。そんなに毎日の禄が欲しいかい?」
「おぉ、欲しいとも。遊んで暮らせるなんざぁ、けっこうなことだ。腹が減るってなぁ、惨めなもんだぜぇ」
ふむふむと小さく頷いた老人の瞳が底光りを繰り返す。が、大男は鼻息も荒くふんぞり返るばかりだ。
「で、教えてやったら何を駄賃にくれるのかね?」
ジトリと上目遣いに老人が男を見上げれば、男は歪に口元をつり上げて自分の腕を叩いた。
「爺ぃ、痛い目に遭いたいのかよ。つまんねぇこと言ってねぇで、トットと教えな」
男の様子に老人が静かに目を細めて笑う。
「人を殴れば自分の拳も痛かろう。ほれ、見てみぃ。今日の魚はでかそうじゃ」
老人が顎でヒョイと川縁を示した。投げ出された竿の先にくくられている釣り糸がピンと引っ張られ、川面の上を渡って対岸の土手の向こうへと伸びている。
「それがどうしたよ、爺ぃ。俺が知りたいのは……」
「あの先じゃ」
老人が腰を屈めて足下に転がっている魚篭を拾った。矍鑠とした足取りで土手を降り、老人は川の中にざぶざぶと入っていく。
「おい、爺ぃ! どこへいく!」
「なに、今日の食い扶持を取りにいくのじゃよ」
アッという間に腰まで浸かり、さらに胸まで浸かっても老人の歩みは止まらない。とうとうトップリと頭の上まで浸かって水の中に沈んでしまった。
唖然と見守る乱暴者が慌てて川縁に駆け寄って老人が沈んだ辺りを見渡していると、遙か先で老人の被っていた編み笠がプカリと水面に浮き上がってきた。そしてすぐに薄墨色の袍が水面から覗く。
見る間に胸が、腰が、太股が見えて、ヒョイヒョイと老人は対岸の土手を上がっていった。
「こ、こら! 爺ぃ、逃げるのか!」
大男は対岸まで届く怒声を発して、バシャバシャと膝まで川水に浸かる。と、遠くから老人の声が響いてきた。
「教えろと言うたろう。サッサと来んと置いていくぞぉ」
男は慌ててさらに川の中ほどまで進んだが、思った以上に流れが速くてなかなか先に進めない。老人の「早うせんか」と急かす声につられて、せいやせいやと懸命に足を運ぶが、亀の歩み寄りも鈍い動きしかできなかった。
「ま、ままま、待て待て待て! そこを動くな! いや、それより爺ぃ。俺が渡れるように手伝ったらどうだ!」
ヒィヒィ言いながら首まで水に浸かった男が叫べば、ひゅぅんと鋭くしなる音がする。その風切り音が男の耳元をかすめると、その巨体がヒョイと空中に浮き上がった。
「ひゃぁ! なにしやがる。やい、降ろしやがれ!」
ジタバタと足掻く男に老人が「降りたいのか?」と声をかける。降ろせ、降ろせと喚く男の態度に、老人はやれやれと首を振り、軽くトトンと右足の先でと地面を蹴った。
途端に、プツリと糸が切れたように、宙づりになっていた男が真っ逆さまに川中に落ちていく。
ザンブリと華々しい水音が響き、男は悲鳴とともにアッという間に下流へと流されていった。水の果て、飛沫の狭間に大男の身体が消える。瞬く間の出来事だった。
老人は首を左右に揺らして大儀そうに背伸びをする。そして「ありゃぁ、ここに辿り着くまでに何年かかるかのぅ?」と退屈そうにあくびをして土手の草むらの上に腰を降ろした。
手許にたぐり寄せた釣り糸をヒラヒラと揺らし、対岸から竹竿を引っ張り寄せると、老人は手中に収まった竿を器用に振り上げて釣りを始めた。
どこからともなく水鳥が水面の上を滑空して小魚をかすめ取っていき、風は昼下がりの物静かな時間にゆったりと流れる。
空中で釣り糸を踊らせながら老人は立て続けに大あくびを二つすると、空を見上げて「今日も良い天気じゃ」と呟いた。
「このお店の名前って、お伽噺にも出てくるわよね」
紫煙が煙る中に小柄な後ろ姿があった。カウンターに寄りかかる少女の髪は柔らかくカールしてあちこちに跳ね、ラメ入りのマスカラで丁寧に塗り固められた睫毛が煙越しの鈍い電灯にキラキラと光っていた。
「あちらこちらに点在している伝説……。いつも黒い石の街道の近くを舞台にしたお話で、お店のマスターは話によって違ったりするの」
華奢な肩や滑らかな頬にかかったブルネイの髪を揺らし、少女は背の高いバーテンを見上げた。
「ヴィーグ。ねぇ、聞いてるの?」
「聞いてません」
にべもない返答に眉をつり上げ、口を尖らせると、少女は面白くないといった表情で目の前のグラスを爪で弾いた。
「この宵星亭は子どもの来るところではありませんのでね。いないはずの子どもの声が聞こえるわけないでしょう」
冷たいバーテンの声に少女は腹立たしそうに言い返す。
「わたし、もう子どもじゃないもの!」
「教授からお伺いしたところですと、まだ十五歳だったはずですがねぇ」
「おじいさま、耄碌しちゃったんだわ! わたし、もう十五じゃないの!」
「じゃ、十六ですか」
返答に詰まった少女の顔つきにバーテンは小さく口元を歪めた。
どうやら図星のようだ。確かに少女の外見は大人びていたが、この国での成人年齢にはいささか足りない。大人か子どもかと問われれば、子どもだと言うしかないだろう。
「ヴィーグの意地悪っ。あなたのファンに少しくらい愛想を振りまいてくれたっていいじゃない」
「おませなお嬢さんですね。バーテンの仕事は忙しいんですから邪魔しないでください。本当のファンなら邪魔はしないものですよ。……いらっしゃい」
後の言葉は店の入り口に現れた客に発した者だった。その声が微かな笑いを含んでいたように感じたのは気のせいか?
少女は紅髪のバーテンの声につられて背後を振り返り、そこに見知った顔を見つけて渋面を作った。逢いたくない人間とよりによってこんなところで顔を合わせることになろうとは。
「アーシェリア、なんでこんなことにいるんです?」
苛立った相手の声を無視すると、アーシェリアは手許のグラスからピンク色の液体を喉に流し込む。甘い苺の香りが口いっぱいに広がっていった。
「アーシェリア、教授はここに出入りしていることをご存知なんですか? この辺りが女の子の一人歩きにどれだけ危険か判っているんですか!」
「危ないってことくらい知ってるわよ。でも最初にここに連れてきてくれたのはおじいさまだもの!」
「おおかた勝手にくっついてきたのでしょう! 送りますから帰りましょう。ご家族の皆さんも心配してますよ」
肩にかけられた手を乱暴に振り払うと、アーシェリアはいよいよ相手から顔を背ける。
「ほっといてよ。あなたには関係ないでしょ!」
「関係ないですって!? えぇ、確かに関係はないですけどね。でも恩師のお孫さんを保護するくらいのことはできますよ」
「保護! あなた、何様のつもり!? だいだい危ない地区に出入りしているのは、あなただって同じことでしょう!」
キンキンと甲高い声で叫んだ少女を睨む男の表情は苦々しかった。
「うるさいガキだな。ワーネスト、商談は今日は止めるか? 俺はいつでもかまわないが」
ワーネストの背後から豊かな声が響く。振り返った彼は困ったように首を振った。
「急ぎの話なんだ。できたら今夜中に話を詰めたい」
「じゃ、そのガキをトットとベッドに放り込んでくるんだな。お子様はもう寝る時間だぜ」
ワーネストの脇から現れた男は白い豊かな前髪をうるさそうに払う。が、左前髪は顔の半分を隠したままだ。アーシェリアはそちら側の髪こそ払いのけたらいいのにと一瞬考え込む。
男の白人種特有の肌色の中で、暗い翡翠色の瞳がカウンターにかじりついているアーシェリアを睨《ね》めつけた。彼が口にくわえた煙草から薄く煙が立ちのぼっている。
アーシェリアの少ない経験から照らし合わせても、こんな目つきをする男がまっとうな仕事についているとは思えなかった。
「わたしは帰らないわよ!」
「……だそうだ。お前、今夜は仕事にならないぞ?」
白い髪の男は隣のワーネストの顔を覗き込んで薄く笑う。くわえていた煙草を指でつまみ、ゆっくりと紫煙を噴き出す横顔が不思議と絵になった。
「まったく! 頭が痛くなってきたよ。それ、俺にも一本もらえるか?」
ワーネストが顔をしかめて首を振っている。その目の前にシガーボックスが突き出された。箱に刻まれた文字は異惑星の文字で“MARLBORO”とある。それを確認すると、少女は記憶箱の中を引っかき回した。
「その煙草、マルボロね? ガイアから輸入が規制されているものでしょ!」
ビシッと指を男に向かって指し示すと、アーシェリアは形の良い眉をつり上げる。星間取引条約で規制品リストの何番目かに上げられている品物の名前を正確に思いだしたのだ。
少女の指摘に驚いてワーネストがむせ返る。が、彼が咎めるように視線を向けた先は、違法品を所持している男ではなく、アーシェリアのほうだ。
「発音が悪いな。マールボロのほうがより生粋の発音に近いんだぜ。それに、ここに充満している煙の大半はお嬢ちゃんの大っ嫌いな銘柄だ。いやだっていうのなら店を変えるんだな」
男は平然とした顔つきでバーテンに酒を注文している。法律違反をなんとも思っていないようだ。もっともこの店に足を踏み入れているというだけで法律を遵守しているとは言い難い。
「仕事を終わらせようか、ワーネスト? お前の用件は?」
隣で膨れている少女を気にしながら、ワーネストが早口に何ごとかを囁いた。アーシェリアには理解できない異国の言葉だったが、白い髪の男はその言葉が判るらしく、何度か頷いた後に手の中の琥珀色のグラスを持ち上げた。
「承知。ご要望通りに」
「助かるよ」
最後の言葉だけアーシェリアにも理解できたが、それが仕事の完了を意味するのだと気づいたときには、ワーネストにガッチリと腕を掴まれていた。もっとも初めから手首を握られていて逃げ出せなかったのだが。
「何すんのよ! 放してってば!」
「いいえ、放しません。ここでの仕事は終わりましたからね。帰りますよ!」
「いやよ。あなた一人で帰りなさいよ!」
キッと睨み返すワーネストの瞳が、カウンターでニヤついている男の瞳と同じ色だと気づくと、アーシェリアは余計に腹が立ってきた。何か言い返してやろうと口を開きかかったところで、カウンターの向こうからバーテンが声をかけた。
「今、ハイヤーを呼びました。すぐに来ますよ」
「ありがとう、ヴィーグ。助かったよ。あ、今日の代金は……」
「つけときますよ。次の会計のときに頂きます」
片手を挙げて挨拶を済ませるワーネストから逃げようと、アーシェリアは何度も身体をくねらせる。しかし、意外と逞しい彼の腕はビクともしなかった。
「いや! 帰らないったら、帰らない! わたし、ヴィーグの仕事が終わるまで待ってるんだから!」
アーシェリアの必死の抵抗にも、白い髪の男は薄く笑い、バーテンはサッサと無視を決め込んでいた。ワーネストも彼女の訴えに耳を傾けることはなく、カウンターの端を掴んで抵抗を続ける彼女を店の入り口へと引っ張っていく。
「なぁ、ワーネスト。今度の取材はなんのネタなんだ?」
少女を必死に引っ張っているワーネストに笑いを含んだ声がかかった。彼は声の主に視線を向け、微かな笑い声を上げながら返事を返した。
「あぁ、ゴッシア大陸全土に点在する黒竜街道伝説の中に彷徨える街の伝説があるだろう。それとガイアの大陸にあるっていう彷徨える湖とを絡めて記事にしようと思ってね」
「ふぅん。それじゃ、今度の船には砂風に強い機材を用意しておこう。お前もホバーリングのし易い道具を用意しとけよ」
「判った。詳しい日時はまた……」
自分のことなど些末なことだと言わんばかりに頭上で交わされる言葉に、少女はさらに頬を膨らませる。せっかく夜の酒場を楽しんでいたというのに、知り合いに見つかってしまうなんてついていない。
「放してっ! ワーネストなんて大っ嫌い!」
「はいはい。嫌いでもなんでもいいですから、サッサと帰りますよ!」
苦労してドアを押し開くと、ワーネストはもがき続ける少女を店の外へと引っぱり出した。
「バカァ! おじいさまに言いつけて、あなたの今度の仕事の邪魔してやるからぁ!」
「アッサジュ・パルダ教授なら、今度の話を聞けば大喜びして協力してくださいますよ。言いたければ好きなだけどうぞ」
路地の向こうで地上車のブースターが唸っている。バーテンが言っていたようにもうハイヤーがやってきたのだ。
「放してーっ! バカバカバカ~!」
ありったけの力を振り絞って、アーシェリアは目の前の男の褐色の頬を引っ掻く。しかし彼は小さく眉をしかめただけで、目の前で停車したハイヤーのドアの奥へとアーシェリアの華奢な背中を押し込んだ。
容赦なく発車したハイヤーの中で、アーシェリアは膨れっ面になって失礼な男が煙を吐き出す横顔を思い出すと、そういえばあの男の名前を知らないままだったと、腹立ち紛れに運転席の背中を蹴りつけながら考えていた。
黒竜街道は不思議な場所だ。あちこちに伸びた街道の全容を知っている者は誰もいない。黒々とした黒曜石が敷き詰められた広幅の街道を、誰もが竜の鱗のように美しいと褒め称えるが、それの尽きる果てを見た者はいないのだ。
輝かしい夜空の下、黒竜街道を天と地の狭間に見ながら、荒野の中を小さな影が二つ彷徨っていた。
一人は年の頃は五~六歳と思われる子ども。黒曜石もかくやという黒髪は月光に濡れ光り、青白い肌は月の真白き輝きそのもののように冷たかった。血色の瞳が地面のあちこちを睨み、一心に何かを探している。
今一人は年の頃十四~五歳、白滝の髪と真珠の肌、夜の闇を駆ける白い狼のような少年だった。闇夜を切り取ったような黒い瞳が遠くの空に浮かぶ夜の雲を凝視する。
「本当にここだったのか? なんにもないじゃないか。お前の思い違いだろ」
白い少年がうんざりした顔で辺りを見渡した。
「いいや! 確かにここにあった。……が、どうも移動してしまったらしい」
「移動だと? ふざけるな。動物じゃあるまいし、街が丸ごと移動するはずがないだろう! いい加減なことを言うな」
イライラと怒鳴る少年を子どもは紅い眼で睨み上げる。
「本当にここに儂の故郷の街があったのだ。この儂がそんなことで嘘を言うとでも思っておるのか!」
「嘘は言わないが、真実も言わない」
グッと言葉に詰まった子どもが頬を膨らました。大いに不満がある様子だが、あえてそれ以上の口答えはしないつもりらしい。あるいはできないのか。
子どもは再び地面を睨んで失せ物を探し始めた。
少年はその様子を近くでじっと見守るだけで、手伝おうとはしない。いや、手伝おうにもできないのか、手持ち無沙汰な様子でいかにも退屈そうだった。
「俺にも探せるものなら手伝うと言っているじゃないか。こんな何にもない荒野での探し物なら、すぐに見つかるだろ?」
「そう簡単に見つかるものか。だいたいだな、お前に手伝わせて見つけられるものならとうの昔にそうしておるわ!」
ブツブツと口の中で文句を呟き、子どもは地面のあちこちを見回しては「ここにもない。あそこにもない」と繰り返している。
「まったく。勝手にしろ! 俺は眠いから寝るぞ」
地面から手頃な大きさの石を拾い上げると、少年は荒野のただ中でゴロリと横になった。身体を隠すこともままならない場所でこの態度は剛胆なのか、向こう見ずなのか。
寝息を立て始めた少年の背中をギヌロと睨み、子どもが小さく舌打ちした。
「おのれぇっ。こんなに手の込んだことをしてくれるのは、絶対にクルアンの奴だ。戻ったらただではおかんぞぉっ」
小さな拳を固く握りしめると、子どもは遠くに滲む黒竜街道を振り返る。次いで傍らで眠りこける少年の顔を覗き込むと、こそこそと足音を忍ばせてその場を離れていった。
「うむ……。これくらい離れれば良いか」
周囲に生き物の気配がないことを確認し、子どもが背中の麻袋を地面に落とす。そして着込んでいた長衣の腰帯を解いた。ふんわりと広がった衣装の裾をピラリと持ち上げれば、青白い膝頭までが露わになる。
「やっぱり脱ぐと寒いか……。いやいや、そんなことは言うておれんわ。サッサと済ませてしまおう」
ブツクサと呟きながら、子どもは手早く黒い長衣を脱ぎ捨てた。貧弱な身体が夜風に吹かれ、寒そうにプルプルと震える。下着代わりの短衣と下衣だけになったが、それもサッサと脱ぎ捨てて真っ裸になった。
「か、風邪をひいたら……恨むだけでは済まさぬ!」
ガチガチと歯を鳴らし、子どもは自分の腕をさする。血色の瞳は吹き荒ぶ風の先を見上げ、鴉の濡れ羽色の髪はうねり狂う空気の奔流に逆立った。
「擬態解除!」
子どもは風に向かって唸り声をあげる。両手を大きく広げ、大地に踏ん張る。風に逆らって立ちはだかる姿は子どもとは思えぬ威厳があった。
青白い子どもの肌の輪郭がぼやける。と、次の瞬間には掻き消すようにその姿が消え去り、突如として巨大な生物が姿を現した。見る者がいたならば、その伝説の姿に恐れおののいたかもしれない。
黒き鱗を月光に鈍く輝かせ、紅玉色の瞳で大地を睥睨するその姿。
遠くに霞む街道の名の由来となった闇の竜がいた。
荒れ果てた地にぬっそりと立つ姿は遠き街道の上からでも見ることができただろう。が、真夜中の街道には人っ子一人いなかった。
草木も眠る時刻だ。よほどの物好きでもない限り、こんな時刻に旅をする者はいまい。
竜は首を巡らせ、辺りをじっと見回した。覇者の背中には薄い膜のような翼が広がり、呼吸をするたびに軽く上下に揺れ動く。
紅く濡れ光る竜の瞳が荒野の一点を見つめた。安らかな寝息を立てている少年の寝顔を確認すると、低く轟くような鼻息を吐く。ホッと安堵のため息をついたように見えた。
「相変わらず不器用だねぇ」
すぐ足下から聞こえた声に、竜が首を傾げるようにして自分の股ぐらを覗き込む。そこには小さな生き物がいた。天鵞絨のように滑らかな毛皮をした黒猫がゆったりとした仕草で毛繕いをしている。
竜が優雅な猫に向かって荒々しい鼻息を吹きかけた。
「よくも儂の目の前に顔を出したな、この恩知らずめ」
地の底から響く囁き声に黒猫が顔を上げる。ぴかぴかと光る水晶色の瞳が三日月型に細められた。
「ふふっ。君の要領が悪いだけだろう? 親父殿の器にはまだまだ遠く及ばないようだね。印を見つけることもできないなんて半人前の証拠だろ」
カァッと竜が口を開く。大きく裂けた口元から槍の穂先のごとき牙が剥き出された。つり上がった紅玉眼と相まって、その形相は凄まじい限りだ。
「儂を愚弄するか!」
「僕に当たり散らすのはやめたまえ。悔しかったら石獣の印を見つけて街に戻ってくることだね」
猫が前脚で頬髭を撫でつける。もったいぶったその仕草に黒い竜は眼をギラギラさせた。
「戻ったら憶えておけ。絶対にただでは済まさぬ!」
「まぁ、そうね。やれるものならやってみな」
黒猫は優雅に立ち上がると、ゆったりと大きくあくびをする。まるでこれから寝床に潜り込んで一寝入りするのだと言わんばかりの暢気な態度だった。
竜の見守る中、黒猫は尻尾をゆうらりゆうらりと揺らめかせ、黒竜街道の方角へと歩いていく。ときどき挑発するように尻尾がピンと跳ねるが、それ以外は散歩をしているようにしか見えなかった。
「憶えておけよっ! 絶対に見つけだしてやるぞ!」
轟々と吹き荒れる嵐のような声が周囲の空気を震わせる。それに合わせて、竜の背にある皮膜の翼が月光に乱反射した。
「お頑張りなさいませ、主様よぉ~っ」
瞬く間に闇の中に溶け込んだ猫の声がからかうように重なる。
荒野を蕭々と流れていく風音に混じって、竜の咆吼と猫の鳴き声は聞き惚れるほどの交響楽を奏でていた。
ふと月が夜の雲に隠される。静まった咆吼と鳴き声がないと、暗くなった荒野に生き物の気配はまるでなかった。風音さえ闇に呑まれそうだ。いや、風が止んだものか、シンと静まり返った大地は不気味なほどだった。
ふと寝ころんでいた少年が伸びをして起き上がる。ポリポリと頭を掻きながら辺りを見回し、眠そうな眼を擦った。
「どこへ行ったんだ、あいつは」
あくびを一つつくと、少年は大儀そうに起き上がる。夜風で強ばった身体を揉みほぐしながら少年は周囲の闇に呼びかけた。
「おぉ~い。どこにいるんだぁ~?」
呼び声が聞こえたのか、聞こえないのか、雲に覆われていた月が顔を覗かせて周囲を照らす。サァッと視界が開けた一帯には茫漠たる荒野が変わらず広がっていた。蒼い青い闇が戻ってきた。
どれほども離れていない場所で、小さな影がこちらへと歩み寄ってくる姿が見える。着古した黒い長衣に身を包み、憮然とした表情で地面を見ながら歩く子どもの姿に、少年は苦笑いを浮かべた。
「まだ見つからないのか? だから俺も一緒に探してやると言っているのに」
歩み寄ろうと一歩を踏み出した彼の足裏に固い感触が当たる。
何ごとかと見下ろしてみれば、淡い銀色の光を放つ石が地面から顔を覗かせていた。変わった石があるものだ。こんな不思議な光沢の石は見たことがなかった。
「なんだこれ?」
少年は地面を掘り返すと、掌にすっぽりと収まってしまうほどの小さな石を目の前にかざす。
「あぁっ! それっ、傍観者の石!」
少年の手許をふと見上げた子どもが絶叫を放った。血色の瞳が愕然と見開かれ、小さな銀石と少年の顔とを見比べる。
「どうしてお前が見つけられるんだ!」
「そんなこと俺に聞くな。いいじゃないか、見つかったんだから。ほら、手を出せ」
子どもが信じられないといった表情で青白い手を差し出すと、少年は小さな掌に石を放り出し、眠そうにあくびをした。
天にかかった月は、眼を細めた猫眼のように細く鋭かった。
天井からつり下がっている物を見上げ、学者は首を傾げた。そして指を持ち上げると、その物体の輪郭をなぞるように数を数える。
「一段、二段、三段……うむむ。ざっと十段くらいか?」
「そんなとこで何やってんの、先生?」
背後からかかった幼い声に学者は首をねじ曲げた。視線の向こう側にそばかすを頬に散らした貧弱な少年の姿ある。
「おぉ、カント・ガント。ちょうどいいところへ。これはいったいなんだろうかね?」
学者は片手で天井を指さし、もう片方の手で口髭を弄びながら、指し示した物体と子どもとを交互に見つめた。
「ん~? あぁ、階段だね」
「そう、階段だ。しかしどうやって使うんだろう? 階段の両端のどちらも空中にあるんだよ。宙づりの階段など役立たずではないかねぇ」
「さあね。おいらはどうやって使うのか知らないよ」
カント・ガントはヒョイと肩をすくめた後、勢いで肩から滑り落ちそうになった布鞄の紐をたぐり上げる。
二人の頭上には上と下が切れた階段が綱と金具で固定されて宙づりになっていた。その姿は半端な形で取り残されたブランコに似ている。
「どうも判らんね。こんな妙な階段は今まで見たことがない。理屈に合わないじゃないかね」
「ここに置いた奴には意味があるんだろ。学者先生は暇人だねぇ。おいらがそんなこと考えていたらアッという間に爺になっちまうよ」
「うぅ~む。判らん。なぜ階段をこんなふうに……」
ウンウン唸る学者を残して、カント・ガントはサッサとその場から居なくなってしまった。
それから学者は毎日のように宙づり階段を眺めにやってきた。口髭を指先で弄び、う~むと一言唸っては首を傾げ、また口髭を弄ぶの繰り返し。何をするでもなく階段を見上げていた。
表の黒竜街道から路地裏に一本入った細い通りの上でボヤッとして佇んでいる学者を、その通り界隈の者たちが何人も見かけている。
初めこそくる日もくる日もやってくる学者の姿を物珍しそうに眺めていた近所の連中も、いいかげんに飽きてしまいすっかり気にも留めなくなっていた。女たちは新しい話題に飛びついていたし、男たちは博打に忙しいのだ。
そんなある日、いつものように学者がやってきた。宙づり階段の下に立つと、う~むう~むと唸り続ける。
「もし、そこの人。いったいどうなさいました?」
学者が振り返ってみれば、魅惑的な水晶色の瞳をした若者がスラリと佇んでいた。陶磁器の滑らかな肌を持ち、瞳に負けぬ艶やかな黒髪を肩先で切り揃えた容姿は社交界の花たちの間を蜂のごとく飛び交う貴公子のようだ。
しかし、学者はそんなことにはまったく頓着しない質らしく、何日も前にカント・ガントに話したように階段を指さして「こんな階段は見たことがない」と繰り返す。
「ふむ。なるほどなるほど。おっしゃるように何の役にも立っていないように見えますね。しかし、あなたは毎日これを観察していると仰るが、それなら夜の間もご覧になったことがおありで?」
若者の問いかけに学者がハタと動きを止めた。
彼は毎日毎日やってきていたが、いつも決まった時間に来て決まった時間に帰っていく。夜に階段を観察するなんて思いつきもしなかった。
「そうか! 時間をずらしてみたら何か判るかもしれない! いや、ありがとう、ありがとう。君のお陰で謎が解けるかもしれないよ!」
クルアンと名乗った若者と強引に握手を交わすと、学者は踊るような足取りで通りの向こうに走っていく。夜の観察に備えて支度をしようというのだろう。
学者の背中を見送るクルアンがクスリと喉の奥で笑った。笑う彼の瞳が猫眼のように細められたのを見た者は誰もいない。
夜になると黒光りする黒竜街道沿いに、学者がいそいそとした足取りでやってきた。
彼は骨董屋で見つけた古いランプに灯をともして頭上にかざす。階段は昼間と同じように変わらぬ姿で宙づりになっていた。これといって変わった様子はどこにもない。
秋風が吹き抜ける夜の通りは人っ子一人いなかった。周りの家々にはほんわりとした明かりが灯っているが、階段のある場所は壁が落ちた屋根だけのあばら屋で、いかにも物寂しい風情が漂っていた。
学者も昼間と同じように唸り続けながら階段を見上げる。時間が変わっただけでやっていることは同じだ。
夜もとっぷりと更けて今夜の月も天中を過ぎた頃、学者の足下に一匹の黒い猫がすり寄ってきた。透明な水晶玉のような眼の猫で、素晴らしく美しい毛並みをしている。
「やぁ、猫くん。こんばんは。君もこの階段を見物にきたのかね?」
学者は相変わらず口髭を弄びながら猫に語りかけた。
神妙な様子で学者の声に耳を傾けていた猫が、優雅に尻尾を振りながら立ち上がる。ゆらゆらと揺れる尻尾で地面をピタリと叩くと、黒猫は後ろ脚で立ち上がってニッカリと人間のように笑った。
人と同じように二本脚で立ち上がった猫が、ピョコピョコと階段のすぐそばまで歩み寄る。破れた屋根から月明かりが差し込み、その光の輪の中に入ると、猫は月に向かって一声鳴いた。
学者が見守る前で月の光がひゅるりと地面を離れ、階段の上の端へと光の手を伸ばす。
その手がピッタリと階段に繋がれると、猫は今度は前脚を使って地面を引っ掻き始めた。途端に掘り起こした地面からサラサラと風が吹き起こり、猫の髭を撫でながら階段の下の端に辿り着く。
初めて目にした不思議な光景に学者はワクワクして階段に駆け寄り、風と月光で編み上げられた階段の上下をしげしげと観察した。
「猫くん、すごいぞ。こんな素敵な階段は初めてだ。おぉ! 上へも下へもいけるのかね。うむ、これは是非とも体験してみなければなるまい」
学者は喜々として階段に足をかけると、古ぼけた階段の上に立って上へ伸びる光の階段と下へ伸びる風の階段を交互に見比べる。そしてしばしの間、口髭を弄びながら首を傾げて考え込んだ後、意気揚々と上の光の階段を昇り始めた。
「ほっほぅ! これは見事だ! 下の黒竜街道が天と地の間に消えていくぞ!」
楽しげに叫ぶ学者の声に、不思議な階段の下で猫が耳を傾ける。得意げに髭を震わせる猫の眼は、天に輝く月のようにピカピカ光っていた。
「このまま月まで行けそうだよ、猫くん。私はちょっと月面見物に行くことにしよう。さようなら。また月夜の晩に逢おうじゃないか」
光の階段の上のほうから学者の声が響いてくる。
「いやはや。いい月夜だ! 本当にいい月だよ」
家々の屋根に降り注ぐ声につられて、猫も天空の月を見上げた。水晶の瞳に映った月がさも楽しげに瞬く。
その様子を見上げる猫の眼が三日月そっくりに細められた。
翌日、カント・ガントが久しぶりに黒竜街道から一本裏路地に入った通りを通りかかると、宙づり階段の綱を切って階段を降ろしている若者に出逢った。
「おや、クルアン。その階段どうするんだい?」
「やぁ、カント・ガント。いらなくなったから捨てるのさ。今までは吊っていたけど、今度ここに洒落たガレージを建てようと思ってね」
「なんだ。じゃ、階段は別に使ってなかったのか」
カント・ガントの言葉にクルアンは謎めいた微笑みを口元に浮かべる。一重瞼の若者の瞳が猫眼のようにキラリと光った。
「学者先生が聞いたらガッカリするだろうなぁ。その階段のこと、ずぅっと気にしていたって噂だよ」
ふぅん、と鼻を鳴らすクルアンの口元がいっそうニヤニヤと歪む。
「なんだい思い出し笑いなんかして。気味が悪いよ」
「案外、学者先生は先生なりの答えを見つけたかもしれないよ?」
降ろした階段を担ぐクルアンがカント・ガントにウィンクする。雌猫を挑発する雄猫のような態度に少年がもったいぶった様子で胸を反らし、意味深に片眉を持ち上げた。
「真理はいつだって背中側についているものさ」
クルアンが頬にかかった黒髪をサラリと払いのける。彼の魅惑的な水晶の瞳が細められると、カント・ガントはどうでもよさそうに肩をすくめた。
酒場“宵星亭”のドアは古ぼけている。体当たりをしたら木っ端微塵に吹っ飛びそうなちゃちなドアだ。
ところが店内でろくでなしどもが暴れても、このドアが粉みじんに壊れたという話を聞いたことがない。誰も彼もが明日にはこのドアは綺麗さっぱりなくなっているだろうと囁くが、只の一度も壊れたことがなかった。
カラランとベルが鳴った。
店のドアに申し訳程度についているベルが、なぜか楽しげに揺れることに気づく客はいない。
ベルの音を聞きつけて、店の奥で煙草をふかしていた亭主は億劫そうに顔を上げた。カウンターの向こうに人影はない。それもそうだろう。今日はまだ店を開けていないのだ。
風が訪ねてきたか、と亭主は退屈そうに煙草の煙で盛大に潮を噴く。
「マスター。おいらのいつもの席は空いてるかい?」
カウンターの下から聞こえた声に、亭主は飛び上がった。
「カント・ガント。今日は遅かったじゃないか」
亭主は濁声を高くし、ニマニマと顔を崩す。
カウンターの向こう側を見下ろせば、小さな影がちんまりと立っていた。この古ぼけた酒場に似合いの貧相な格好をした子どもだ。
「ちょっとヤボ用があったのさ。で? おいらの椅子は?」
「おぉ、それね。なんだな。ちょっとばかりその……まぁ、あまり気にしないことだ」
亭主の歯切れの悪い対応に、子どもカント・ガントはピクリと眉をつり上げる。肩から袈裟懸けに下げた布鞄を神経質そうに撫でさすり、狡賢い目で亭主の鳶色の瞳を見上げると、少年はニタリと口元を歪めた。
「さては、やったね?」とチシャ猫のように子どもが笑えば、亭主が「お察しの通りで、お客様」と慇懃な仕草で腰を折り苦笑いを浮かべる。少年は亭主の様子にそばかすだらけの顔を厭そうに歪めた。
「しょうがねぇなぁ。まぁ、今回は勘弁しておいてやるよ。でも弁償してもらわなきゃあね」
亭主が肩をすくめると、少年はなんでもないといった態度で店の奥まった机へと近づいていく。そこには古いぐらつくテーブルが鎮座し、脚がベッキリと折れた背高の椅子が転がっていた。
カント・ガントは無惨に折られた椅子をまじまじと観察し、小さくため息をついた。そしておもむろに鞄から小さな平ぺったい小箱と染みだらけの画用紙を取り出すと、床に広げた紙の上で小箱の蓋を開けた。
箱の中には色とりどりのクレヨンが並んでいた。血色の赤、夏空の青、若芽の緑、夕日のオレンジ、たんぽぽの黄色。小さな箱いっぱいに詰まているチビけたクレヨンの中から、少年は雪の白色をしたクレヨンを汚い指でつまみだした。
「おまえ、ちょっとどいていてくれよ」と白いクレヨンに声をかけると、カント・ガントは小箱の中のクレヨンを画用紙の上にぶちまける。
「さぁ、働け。仕事の時間だ。怠けるなよ、お前たち。おいらはちゃんと見ているぞ」
少年が甲高い声で命じると、てんでばらばらに転がっていたクレヨンたちがピョンと跳ね上がって一斉に立ち上がった。わいわいがやがや、やれ身体が痛いだの息苦しかっただの、思い思いに不満をもらしながら押し合いへし合い。
「働けぇっ!」キィキィと少年が怒鳴ると、クレヨンたちはピョンピョンと跳ねまわって画用紙の上を駆けずり回った。
やい、オレの場所を取るんじゃない。
いやいや、ここはわたしの分担だ。
何を文句があるなら表へ出ろ。
おうさ、望むところだ。その胴をへし折ってやる。
葡萄茶と黄土色がケンケンガクガクと罵り合いを始め、その周囲を石竹とオリーブが踊り狂って笑い転げる。
「おぉい、カント・ガント。今日はシェリー酒が足りないんだがな」
カウンターの奥で宵星亭の亭主が腰を叩きながら大儀そうに立ち上がった。
「誰だい、酒樽ごと飲み干したオオバカは。おいらを当てにするのはよしとくれ」
「まぁまぁ、そう言わずに」と揉み手をする亭主の現金な態度に、少年は「お代は高いぜ?」と鼻をすすり上げながら口を尖らす。亭主がニッカリと口元を歪めて右手の親指と人差し指で円を作った。
「あ~……琥珀と雪、お前たちちょっと行って来い」
カント・ガントの呼びかけに、先ほどつまみ出された雪色のクレヨンが優雅に頭を下げ、画用紙の縁でノロノロしている淡い黄色のクレヨンをペシリと叩いて引きずっていく。
カウンターの向こうに姿を消したクレヨンを見送り終わると、少年は足下で転げ回るクレヨンたちをジットリと見下ろした。
「お前たち、そんなにお払い箱になりたいのか?」
パタパタと足先を上下させるカント・ガントの様子に、クレヨンたちが畏まった様子で整列する。が、並んだ先から、やれ誰それが押しただの叩いただの、ピィピィギャアギャアと大騒ぎの大混乱。
「えぇい、整列ったら整列だ! 一分一秒だって待てないぞ!」
怒鳴り散らしたカント・ガントの真っ赤な顔にもクレヨンたちはゲラゲラと笑い転げてバラバラバラ……。
ようやく全員が整列し終わり、オモチャの兵隊よろしく敬礼したときには、画用紙の上にはクレヨンたちの足跡がベタベタと残されていた。
カント・ガントが各自で点呼だと叫ぶと、またまた大騒乱の中でクレヨンたちは一本ずつ飛び上がっては自分の色を叫ぶ。しかも長々と演説をぶっているものまでいる始末。
え~。わたくし、生まれは某山脈の奥にあります水銀鉱脈でございまして、オーク鬼どもの炉釜に燻されること千年、真っ赤っかに焼けた身体を取り出され、砕かれ、冷やされて精錬工場に移されまして……。
丹色が押し倒した紫苑の上に飛び上がって声も高々に叫べば、周囲のクレヨンたちは大ブーイング。
「えい、うるさい。黙れ黙れ。おいらの声が聞こえないか」
小箱を手にしたカント・ガントが声を枯らして怒鳴り散らし、やっとの思いでクレヨンたちを鎮める頃、少年の足下におずおずと琥珀が戻ってきた。息も絶え絶えの雪を背負っているところを見ると、亭主のほうの仕事は終わったらしい。
むぅっとカント・ガントは頬を膨らまし、カウンターの奥を睨んだ。が、亭主は素知らぬ顔で店のドアから身体を乗り出している。
カコカコと木切れが漆喰壁に当たる音が聞こえた後、煙草のやりすぎで潰れた亭主の声が店前の通りに響きわたった。
「へい、おまちどおさま。宵星亭、ただいま開店! 街道をお越しのお客様、どなた様もおいでくださいませ。本日のおすすめはシェリー酒。遠い海を渡ってきた甘露の琥珀はいかがです? 今宵の喉ごしは格別でございますよ」
カント・ガントは眉間に寄せた皺をいっそう深く刻むと、よろけている雪色を乱暴に小箱に放り込み、続いて琥珀色をした薄黄色のクレヨンも一緒に突っ込む。
それを見ていた他のクレヨンたちが我も我もと小箱の中に走り込み、大喧噪が収まってみれば、何ごともなかったようにクレヨンの箱は少年の手の中に収まっていた。
「やぁれやれ。今日の仕事も一段と面倒だったぞ」
カント・ガントは首を振って画用紙を取りあげた。
店のドアがカラランと鳴る。亭主の濁声が客を迎え入れ、よぅよぅと声を掛け合う酔客たちが店の中を歩き回る。
少年は古ぼけたテーブルの上に画用紙を放り出すと、傍らに転がっていた椅子を起こして、背高のっぽの椅子によじ登った。
「へい、いらっしゃい。今日のおすすめはシェリー酒ですよ」
彼の前に広がる紙の上、クレヨンの足跡。そこにあるは、どこかで見た椅子のらくがき。
亭主の声を聞きながら、カント・ガントは満足そうにらくがきを見つめ、肩から下げた鞄にくるくると丸めて突っ込んだ。
酒場“宵星亭”のドアは古ぼけている。体当たりをしたら木っ端微塵に吹っ飛びそうなちゃちなドアだ。
そのドアをよくよく観察すると片隅にこんな落書きを見つけることができる。
──制作者カント・ガント。壊した者は必ず弁済すること。例外はなし。