Suction of the eye

第02場 薫風にたなびく視線
 嬉しくも気が重い時間がやってきた。
 和紀は自宅の門をくぐると、隣家の門の前に佇む少女にチラリと視線を走らせた。門を挟んだ少女の隣りには、彼女の母親がニコニコと朝に相応しい晴れやかな微笑みを湛えてこちらを伺っている。
 中学に入学してから一ヶ月近く、変わらず繰り返されてきた朝の光景がそこにあった。
「おはよう、和紀くん。いつも時間に正確ね」
 聞き惚れるほどの美声も健在で、身体が宙に舞いそうなほどの心地よい声音に和紀の心臓は早鐘を打ち始める。
 なぜ、この人はこんなにきれいな声が出せるのだろう。もしもこの女性が歌でも歌おうものなら、そこらの三流ポップス歌手顔負けの迫力のある歌声が出せるのではないだろうか。
 和紀は緊張に肩をいからせながら、おはようございますと挨拶を返したが、まともに相手を見ることができず、オロオロと視線を彷徨わせた。そして無表情なまま佇んでいる娘の薫と視線が交わり、さらにうろたえる。
 初日からずっとこの繰り返しだ。見送りに立つ薫の母親に逢い、その声を聞けるのは密かな楽しみになっているが、学校までの遠い道のりをこの少女と一緒に歩いていくのは、少々……いや、かなりの苦痛を強いられる行為だった。
「和紀くん、今日もよろしくね。……薫ちゃん、気をつけて」
 自分の娘に「ちゃん」付けはどうかとも思っていたが、この女性がやると嫌味を感じない。いってきます、と平坦な返事を返す娘のほうが不作法であるような気さえしてくる。
 薫と連れだって歩き始めてすぐ、和紀はふと後ろを振り返った。
 敷地の中に立ったまま、娘の背中を見送る女性の姿が目に入り、彼は慌てて視線を逸らす。薫の母親がひどく切なそうな表情で娘の後ろ姿を見つめていた。彼女の顔に浮かんだ感情が、和紀にはどうにも理解できなかった。
 娘は背後の母親の視線などまったく感じていないのか、スタスタと一人で先に歩いていってしまう。可愛げがないといってしまえばそれまでだが、そのドライな態度が彼女の瞳の奥にある暗さを押し隠していた。
 初めて目にしたときの暗い雰囲気は、とりあえず朝の登校時には見ずに済む。朝っぱらからあの瞳を見せられたのでは気が滅入ってしまう。それだけがせめてもの救いだろうか。
 自宅が見えなくなってしばらく後、薫の歩調が緩んだ。これもいつものことだった。この付近にくるまで、彼女は一刻も早く自宅から離れたいとばかりに、後ろを振り返ることなく早足で歩くのだ。
 母娘の仲が悪いようにも見えないが、薫が母親の何かを重荷に感じていることだけは確かなようだった。
 和紀は出かかったため息を飲み込むと、少女より半歩先を歩き続けた。
 初夏間近の日差しは朝の空気を輝かせる。風に乗って草の青い匂いが届くと、差し迫った連休のことや空手道場の練習試合のことやらがふと頭を過ぎっていった。
 あと一週間足らずで登校時の苦痛から一時的に解放される。気詰まりな相手と何十分も一緒にいるのは道場の特訓よりも辛かったが、そんな苦悩も束の間とはいえ忘れることができそうだ。
 本来なら薫が学校までの道順を憶えた時点で別々に登校すれば良かったのだ。しかし、門まで毎朝見送りにくる薫の母親からさりげない懇願を感じ、今日までズルズルと一緒に登校するハメになったのだった。
 初日から学校ではこの外見だけは美少女な薫と和紀がつき合っていると噂が広まったのだが、彼女の冷徹そのものの視線と無言の迫力に気圧され、そんな噂も二週間も過ぎた頃には立ち消えている。
 気の強そうな女とつき合うなどごめんだと同級生の男子に触れまわっているせいか、トチ狂った上級生の男子から薫への橋渡しを頼まれることさえあった。
 相手からの言伝を薫に伝える程度の手助けしかやらないが、一撃で玉砕していることは、隣を歩く少女の冷淡な態度を日々見続けていれば明らかだった。和紀にはとても彼女にしたいとは思えない。
 いったい全体、彼女は何を考えているのだろう。一緒に登校していたところで会話があるわけではない。気詰まりなだけの相手といても楽しくなかろうに。
 和紀が眉間に皺を寄せて考え込んでいると、彼の目の前に薄いピンク色をした封筒が差し出された。
「なんだよ、これ?」
「昨日の放課後、隣の女子に頼まれたの。中身読んだら返事してよ。渡してないのかって恨まれるのは厭だから」
「なんでその女が直接渡しに来ないんだよ」
「そういうあんただって、バカ男の使いっ走りで私に伝言しに来るじゃない」
 自分に告白しにくる上級生をバカ男呼ばわりするとは、なんという奴だろう。普通は自分に好意を示した相手を悪く言う者はいない。いるとしたら、よほど性格がねじ曲がっているのが相場だ。
 和紀は隣の少女を呆れ顔で見つめた。
 見た目が美形で他の女子と群れることがない薫は、周囲の男子生徒からは高嶺の花だと思われている。そのため呼び出してくる男子生徒の大多数は、軟派ながらかなり顔立ちが整った「美男子」だと言ってもいい。
 その先輩たちをバカ呼ばわりしたことが他の女子に知れようものなら、薫は良くて無視、悪ければいびられることになるだろう。女子生徒の陰湿なイジメは凄まじいと聞くが……。
「お前、バカ男なんて他の女子に聞かれるなよ。逆恨みされるだけだぞ」
「バカ男にまとわりついているバカ女にも興味はないわ」
 この少女には他人とのコミュニケーション能力が欠如しているのではなかろうか。立てなくていい波風まで立てようとしているとしか思えない。自分を追い込むようなことをして楽しいだろうか。
 和紀は押しつけられた手紙のことも忘れ、隣を歩き続ける少女の整った横顔を注視した。
 ハッとするほどの美少女であるにも関わらず、そこには硬質ガラスの冷たさと人形のような生気の無さしか感じ取れない。彼女には投げやりというか、刹那的なところがあった。
「手紙、読まないの?」
 チラリと横目で睨まれ、和紀は慌てて視線を手許に落とした。
 可愛いと言われている隣クラスの女子の名が封書に書かれている。散り果てた桜の花で染めたような封筒の色は甘ったるく、手紙の送り主の性格をよく表しているような気がした。
「これ、手渡されたときって他にも誰かいた?」
「いた、ウジャウジャと。手渡した子と同じクラスの女子がきゃあきゃあ冷やかしてたね」
 どうやら女子の仲良しグループぐるみで画策した手紙らしい。それだけで内容が知れようというものだ。読む気にならないが、無視しようものなら陰口を叩かれることは目に見えていた。
 容姿に自信があって友人に応援されながらの手紙や告白は、相手の男は振りにくい場合が多い。下手に振ると当の本人よりも外野が大騒ぎして男をなじるからだ。はた迷惑極まりない女の友情というやつだった。
 渋々と封を切った和紀は、手紙の書き出し数行を読んだだけでため息をついた。案の定、ピンクの紙の上にはつき合って欲しいことと今日の放課後に返事を聞かせてくれなどと書かれている。
 ここでつき合うことにしようものなら、今度の連休は絶対に初デートで潰される。空手道場の練習試合など、女子には地味すぎてつき合う気にもならないに違いなかった。
 いや、今後の展開を冷静に予想している時点で、自分にはこの手紙の主のことをどう思っているのか判ってしまうではないか。
 こんな手紙をもらえば、可愛い彼女が出来ると舞い上がる者もいるだろう。がしかし、生憎と和紀は今は空手のほうが面白かった。道場の熱気に身を置いていると、自分がどんどん強くなっていく気がしてならないのだ。
 そんな想いをこの手紙の主に話したところで理解はされまい。可愛い服を着て、テーマパークや映画でデートをするのが恋人同士の有りようだと思い込んでいるような人種なのだから。
 読み終わった手紙を封筒に戻しながら、和紀は一も二もなくこの申し出を断ることに決めた。取り巻きの女たちが人でなしだとか冷血漢だとか騒ぎ立てるだろうが、その罵りを甘受してでも自分の自由を明け渡す気にはならなかった。
 ふと隣を見れば、淡々とした足取りで薫が隣を歩いている。
 実は和紀は初めて一緒に登校した日から、女子では少し早いくらいのペースで歩いていた。歩調を合わせる気遣いを見せなければ、翌日からは薫のほうから別々に登校しようと言い出すかもしれないと思ったからだ。
 ところが、彼女は平然とした顔でついてきたのだ。
 身長が指一本分ほど彼女のほうが高いのだから歩幅も同じようなものだとは思っていたが、毎朝のロードワークを欠かさない自分についてこれないだろうと予想していたのが大きく外れてしまった。
 まったくもって予想を裏切り続ける女だと思う。
 こんな理解不能な奴と家が隣同士だというだけで、同級生からは幼なじみだと誤解を受けているのだ。知り合って一ヶ月ほどだと言ってもほとんど誰も信じてはくれないのだから、人間というのはいい加減なものだ。
 チラチラと横目で盗み見しているうちに、周囲に同じ制服を着た人影が目立つようになってきた。もうあと五分も歩けば学校の門が見えてくるだろう。今日の苦行からもやっと解放される。
「薫ぅ〜。英語の宿題やってきた〜!?」
 遠くにバタバタと両手を振り回しながら駆け寄ってくる少女の姿が見え隠れしていた。人付き合いの悪い薫の態度にもめげずに入学当初から張りついている少女だ。
 他の女子とも上手くつき合っているようで、彼女のお陰で薫はクラスから浮かずに済んでいた。
 薫は近づいてくる少女をジロリと睨み、宿題を丸写しする気ならノートは見せないと冷淡にあしらう。
「違うって! 辞書引いても全然判らない文法があるんだよぅ。薫なら訳せたでしょ〜。教えてよぉ」
「その判らない文法って訳文全部なんて言わないでしょうね?」
「いやだ、いくらなんでも全部なんて……五ページくらい、かな?」
「それ、宿題の九割じゃない。本当に判らなかったの? 単に途中で面倒になって宿題するの止めただけでしょ」
「まぁ、そうとも言います。……って、薫ぅ。無視しないでよ〜!」
 少女たちのやり取りを盗み聞きしながら、和紀は二人よりも数歩先を歩き始めた。
 この状況なら薫を置いて先に行っても問題はないだろう。が、あからさまに駆け出していくのも体裁が悪い気がして、ついつい近くを一緒に歩いて校門をくぐることになるのだった。
 どうして自分はこの結城薫という少女ばかり気にしているだろう。他の女子なら適当に合わせるか、サラリと受け流すかして適度な距離を保つのに、彼女のことになるとそのバランスを失ってしまう。
 和紀は薫の鋭い声を背中で聞きながら、答えの出せない自問自答を繰り返すのだった。


 待ちに待った連休が来ると、和紀は道場に入り浸って試合や練習に明け暮れた。身体を動かせば動かすほど成果が出るのが体感できるというのは、モチベーションを高めてくれる良い要素だった。
 しかも休みの後半数日は兄の正紀も道場に顔を出していた。大学に入ってからは空手道場に通うのを止めていた兄だが、たまに地元に帰ってくるとフラリと稽古場に顔を出すことがある。
 師範に次いで兄に褒められるのが嬉しくて、練習にも力が入ろうというものだった。
「よぅ、和紀。今日は練習は午前中で終わりだろ?」
「え? うん、俺は飯喰ったら自主トレしようかと思ってるけど……」
「母さんが昼飯は家の庭でバーベキューだとか言ってたぜ」
「げぇっ。肉喰えるのは嬉しいけど、後かたづけは俺の仕事じゃねぇかよ。コンロの始末とかしてたら午後からは練習出来ないぜ」
「俺の仕事じゃなくて俺たちの仕事だろ。面倒な思いをするのは俺も同じだっての。いいじゃねぇか、腹一杯好きな肉喰えるんだから」
 稽古が終わって三々五々に散っていく仲間たちと別れ、和紀はブツブツと不平を漏らしながら家路についた。
 隣を大股で歩く兄の様子は平然としたもので、この後に待っている天国と地獄のことなど気にも留めていないらしい。あるいはすでに諦めの境地に立っているのだろうか。
 家の近所の公園を突っ切り、玄関前のアプローチに差し掛かると、兄が言った通り香ばしい肉の匂いが漂ってきた。庭の植え込みの向こうで人が動く気配もしており、すぐにでも食事が出来るようだ。
 どうせ後で力仕事が待っているのなら、その前の食事を楽しまなければ損というものだ。
 和紀は兄に習って開き直ると、稽古の胴着を部屋に放り込み、アタフタと庭に降りていった。
「腹減ったよ。俺の肉、ちゃんと残ってる〜?」
 今日は単身赴任中の父も一人暮らし中の兄も帰宅しており、久しぶりに家族が揃う日だった。母親が開放感からバーベキューをやろうと言い出すのも、思えば不思議はないのだろう。
 だが、庭に駆け込んだ和紀はその光景に眼を丸くした。
 のんびりとした足取りで後からやってきた兄に背中を叩かれなければ、唖然としたまま棒立ちになっていたことだろう。
 なぜ、隣の結城家の人たちがいるのだろうか。いや、正確には薫とその母親だけが我が家のバーベキューに参加しているのだが。未だに和紀は隣家の主人の姿を見たことがなかった。
「あら、二人とも遅かったわね。空手の稽古、長引いたの?」
「少しだけね。腹減ったよ。俺と和紀の分の肉、ちゃんと残してあるだろうな。野菜ばっかり喰わされたんじゃたまらないぜ」
「残してますよ、失礼な子たちね! ほら、正紀。あんたは初めてでしょう。挨拶なさい。三月の末にお隣に引っ越していらっしゃった結城さんよ。薫ちゃんは和紀と同い年だし、せっかくのバーベキューだから誘ったの。静ちゃん、うちの上の息子の正紀よ。前に話しだけはしたことあったわよね?」
「えぇ、お聞きしたわ。よろしく、正紀くん。お逢いできて嬉しいわ。工学部にいらっしゃるんですってね。それに和紀くんと同じくスポーツマンだって。……和紀くん、こんにちは。いつもありがとうね」
 薫の母親の歌うような美声は健在だった。
 兄の正紀が面食らって言葉を失うのを、和紀は隣で面白くなさそうな顔で見上げていた。
「初めまして、薫です。……よろしく」
 母親に続いて頭を下げる薫の声が聞こえなかったら、兄はボゥッと正体を失ったままだったのではないだろうか。
 ふと気になって父親を振り返ると、目尻を下げた父の顔が目に入ることになり、和紀は小さくため息をついた。どうやら薫の母親の美声は綿摘家の男に絶大な効果があるらしい。平然としている母が羨ましくもある。
「さぁ、食べて食べて。お肉が焼けすぎて不味くなっちゃうわよ。ほら、静ちゃんも薫ちゃんも遠慮しないで!」
 母親はこの母娘がすっかり気に入ったらしく、自分よりも十歳は若い薫の母親を馴れ馴れしく名前で呼んでいた。その影響で、和紀も逢った当初から薫のことを名前で呼ばされる。姓の結城で呼んだのでは母か娘か判らないからと。
 そんなのは屁理屈だと思うのだが、母が一度言い出したことは滅多なことでは曲げない頑固者であることを知っている和紀は、抗議の言葉をグッと飲み込むしかなかったのだ。
 兄と肉の取り合いをしながら、和紀はコッソリと薫の様子を盗み見ていた。
 どうして今日の誘いに乗ったりしたのだろう。やはり母親と一緒だからつき合ったのだろうか。そうでなければ、彼女がこの家に足を踏み入れるとは思えなかった。
 本当に何を考えているのか判らない少女だ。母親たちに話しかけられると、義理で微笑みを浮かべることはあるが、そうでなければ顔の表情一つ動かさないのではないだろうか。
 いや、今日は珍しくふと表情が和むときがある。和紀はその僅かな瞬間を何度か目撃し、彼女が向ける視線の先を確認した。
 ──兄貴を見てる。
 兄の正紀は弟の自分から見ても格好いい。同級生たちはそういうのをブラコンと言うんだと囃し立てるが、兄の切れ長で鋭い瞳と筆で描いたような形のいい眉だけでも人を惹きつけるものがあると和紀は思っている。
 まして空手やサーフィンといったスポーツで身体を鍛えており、Tシャツの袖口から覗く腕は適度に日焼けし、筋肉質で逞しい。
 自分もいつか兄のようになるのだと密かに思っているだけに、和紀は薫が兄に向ける視線に気づいてしまった。なんだか面白くない。兄に賞賛の視線を向ける少女の態度が気に入らなかった。
 今まで兄に熱視線を送った女がいなかったわけではないのに、今回はどうしてこう気に入らないだろう。理由が思い浮かばないのに、ひどく苛立ちを感じるのはなぜだろうか。
 もやもやとした内心を抱えたまま、和紀は焼き上がった肉を頬張り続けた。
 兄に憧憬の視線を向ける薫も、そんな彼女の内心を知ってか知らずか平然と話しかける兄の態度も、見ているとムシャクシャしてくる。視界に収めないようにしようとすればするほど、そちらのほうが気になって仕方がない。
 どうかしている。今までだって兄は同年代の女性や年下の少女たちと普通に会話していたではないか。それなのに、なぜいつもは無愛想な薫がぎこちなくも微笑みを浮かべている様子に苛立つのか判らなかった。
「あらぁ、お肉がもうないわ。和紀、冷蔵庫から新しいお肉を取ってきてちょうだいよ」
 母親の言いつけに生返事を返し、和紀は家の中に駆け込んでいった。
 兄と薫から視線を背けることができるのなら、こんな簡単な手伝いどころか、なんでもやったに違いない。
 台所のひんやりとした空気の中、和紀は気難しげに眉間に皺を寄せて立ちすくんでいた。不条理な苛立ちが少しでも落ち着きはしないかと思いながら。
 だが彼の期待も虚しく、ささくれだった内心はそう簡単には平静さを取り戻しそうもなかった。

つづく......

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