紫煙の向こう側

 頭の上を通り抜けていく足音。コンクリートと窓ガラス越しのその音は、わずか数メートル先の人の存在を、あまりにも遠いものに感じさせる。
 俺の中に残っているものは、今は胸を塞ぐ苦々しさと喉の渇きにも似たある渇望だけだった。
 半地下のこの店は、今の俺の気分を代弁しているように薄暗い。夜はパブに代わるが昼間はカフェとして営業しているこの店は、客の年齢層が高く、しかも男のほうが多いらしい。
 女性客もチラホラと見えるが、大抵が一人で店にやってきて待ち合わせの相手がくるとすぐに席を立ってしまう。ゆっくりとした時間が流れる場所だが、人々はぬるま湯のような空間に浸っていくことは少ないようだ。
 フゥッと口を尖らせて息を吐くと、細い紫煙が勢いよく噴きだし、すぐにユラユラと空気の中に溶け込んでいく。何度も繰り返してみるが、同じ輪郭を描くものは一つもできなかった。
 生まれて初めて煙草を吸ったのは、ほんの一ヶ月ほど前。それまでは見向きもしなかったというのに、一度吸い始めると日に日に本数は増えていき、今では一日一箱なんてざらだった。
 俺は残り少なくなった煙草を灰皿に押しつけると、新しい一本に火をつけた。
 この国で煙草を吸っていると冷たい目を向けられる。故郷でも嫌煙権を振りかざす人間によく行き当たるが、この国ではもっと徹底している。愛煙家が店に入るときは喫煙席の有無の確認は怠れなかった。
「Hey, boy! You must not smoke.」
 お節介な金髪男が俺に話しかけてくる。
 これで何人目だ? 俺はいい加減うんざりしていたが、ポケットからパスポートを引っぱり出すと、相手の目の前に大きく開いて生年月日の欄を指さした。
 男が俺の年齢を確認して青い目を大きく見開く。やはり五〜六歳は年齢を間違えられていたようだ。
 この都市では十八歳から大人の扱いを受ける。喫煙も必然的にその年齢からは咎められない。自己の責任で管理しろというわけだ。
 俺は十九歳になっている。故郷ではまだ喫煙が認められていない年だが、ここでは大手を振って紫煙をくゆらせることができるはずだ。が、実際のところは故郷よりうるさい。ここは見て見ぬフリをするということをしない都市なのだ。
 この国では東洋人は外見年齢で得をすることもあれば、損をすることもある。俺の喫煙は大いに損をしている部類に入った。逐一、パスポートを引っぱり出してきて自分の年齢を教えなければならないからだ。ポリスになるとパスポートが本物かどうかまで疑う奴もいた。
 この店の中では、俺は客層の中では若い年代で、かなり浮いている。さらに煙草の煙を吐き散らして目立っているのだから、他の客に鬱陶しがられていても仕方ないのかもしれないが。
 大人しく自分の席へと戻っていった男が、同僚らしい男に首を振っている姿が目の端に入った。東洋人の年齢を当てるのは難しいとでも言っているのかもしれない。
 煙草は旨いから吸っているわけではない。気を紛らわせるために吸い始めただけだ。手持ち無沙汰になると余計なことを考えてしまうから。
 この夏、俺は最低最悪の失敗をやらかした。今までに築き上げてきた信頼を根底から突き崩す失敗だ。本当ならブタ箱に放り込まれたって文句もいえないはずだが、幸か不幸か、俺はここにこうして座っていられる。
 頭に血が昇ったまま彼女に会いに来たのがそもそもの間違いだったと、今ではちゃんと判っていた。のぼせた頭で考えることなど、ろくなものではない。それでも、焼けつく焦燥感に煽られ、勢いのままにこの国まで彼女を追ってきた。
 バカなことをした。他の奴らとの間には築けない信頼が二人の間にはあったはずなのに、その信頼をアッサリと裏切ってしまった。
 最初はちょっとした事件が発端でこじれた関係だった。しかし、時間が解決してくれるはずの事柄だったのだ。お互いがお互いを庇い合ったためにできた軋みが、最悪の不協和音を奏でる結果になった。
 夏の昼下がり、暑い部屋の中のあの悪夢。彼女がふいに流した涙が、俺の理性を焼き切ってしまった。
 俺のために流された涙だと思った途端、押さえていたタガは外され、凶暴な嗜虐癖が顔を覗かせた。シーツの上に押さえつけた彼女の喉から漏れる嗚咽が、今でもクッキリと思い出せる。
 何もかもが終わった加虐の痕に、俺はゾッとした。何をやったんだ。どうしてこんな真似を、と。
 情交の痕を洗い流して彼女の部屋を飛び出した俺は、一晩中夜の街を彷徨いた。しかし、結局はヘトヘトに疲れた足を引きずって、再び彼女の部屋の扉を叩いていた。
 夏の早朝、本来ならもっと清々しいものだろうに、俺たちの間にあったのはドロドロと歪んだ想いだけだった。
 彼女もほとんど眠っていないのだと、すぐに判った。目の下にうっすらと浮いた隈で、せっかくの美人が台無し寸前だった。俺を見る彼女の瞳は、いつもの力強さが欠片もなかった。
「どこに行っていたのよ。夜は治安が悪いってのに。下手なところに入り込んだら、命が幾つあっても足りやしないわよ」
 罵倒されることを覚悟して会いに行ったのに、彼女は開口一番こう言った。俺がホテルに泊まったとは考えなかったらしい。
 彼女は玄関先で茫然としている俺を部屋に招き入れると、気怠げな様子でキッチンに立ち、熱い珈琲を入れてくれた。そして、そのまま俺の左隣に腰を下ろすと、ホゥッと深いため息をつく。
 非難めいたことは一言も口にしないまま俺の頬をそっと撫でる指先の熱さが、彼女がいかに疲れているのかを教えていた。寝不足で身体がむくむほど俺を待っていてくれたのだと思い上がってしまう。
 しかし、まるで何年もそうしてきたような馴れた仕草が、かえって俺のしでかしたことを激しく非難していた。彼女の中に残っている傷跡に胸を痛めながら、同時にその傷が消えなければいいと心底思った。
「私、ずぅっと一人っ子だったし、小さな子どもの頃も近所の子と遊んだことなかったから、喧嘩したときの仲直りの仕方を知らないのよね。あんた、夜中になっても戻ってこないし、警察に捜索願を出した方がほうがいいのかどうか、散々迷ったわ」
 俺の頬を何度も撫でて満足したのか、彼女は机に向き直ると、ゆっくりと肘をつき、そこにそっと顎を乗せた。伏せられた瞼に浮かぶ静脈が、いつも以上に薄青くハッキリと浮かんで見える。
 あれが喧嘩なものか。俺が一方的に彼女を踏みにじっただけだ。目の前のオモチャを好き勝手にする幼子と同じ。相手のことなど考えなしだった。
 どうしてそんなに静かにしていられるのだろう。俺は彼女をめちゃくちゃにしたのに。当たり前のような顔をして隣りに腰を下ろさないで欲しかった。
 俺を警察に突き出すなり、罵倒して平手打ちにするなり、怒りをぶつけられたほうがいっそスッキリするだろう。彼女の傷が治らなければいいなどと、歪んだ想いを抱かずに済むのに。
 それなのに、彼女はホッと安堵のため息をついた後、珈琲を飲んだらシャワーを浴びて疲れを癒せとまで言うのだ。
 席を立った彼女がキッチンで朝食を作り始めのを見て、俺は矢も楯もたまらず彼女を抱きしめた。他に俺に言う言葉があるはずだ。日常の延長線上ではない言葉が。
 だけど、彼女は俺の頭をそっと抱きしめて力無く微笑みを浮かべるのだ。
「一晩中、泣いていたんでしょう? あんた、意外と泣き虫だもんね。……ごめん。ごめんね。私のせいだよね、あんたがそんなに傷ついているのは」
 彼女は一言も俺を責めなかった。謝るべきは俺のはずなのに、彼女が謝罪しなければならないことなどないはずなのに。
 俺は身体中から力が抜け、その場にズルズルと膝をついた。目の前にある彼女のくびれた腰を抱きしめ、何度も赦しを乞い、好きだと囁き続けた。
 卑怯な奴だ、俺は。好きだから赦してくれと懇願したのだ。俺の気持ちなど関係ない。俺のしでかしたことは、謝罪だけで赦されることではないのに。
 ただ彼女からは赦すという言葉も出なかった。曖昧に微笑みを浮かべたまま、俺の頭をそっとなで続けただけだった。
 消えそうな微笑みを浮かべる彼女を、俺は初めて目にした。キッパリとした拒絶以上に、その微笑みは俺の胸を刺し貫く。俺のことを好きだとも嫌いだとも言わない。
 沈黙が怖いと、このときほど思ったことはなかった。
 俺は彼女の身体を揺さぶって、俺のことが好きなのか嫌いなのかと問いただした。好きになれないのなら、嫌ってくれと、憎んでくれと。どちらか白黒つけたかったのだ。
 でも、彼女は跪く俺を見下ろしたまま、小さく首を振っただけだった。
 残酷な罰だ。彼女が俺に下した罰は、俺にとってはもっとも辛い罰だった。彼女のそばにいることを許してもらった代わりに、彼女の心は俺が手に入れることが叶わないほど遠くへ行ってしまった。
 もしも時間が巻き戻せるのなら、俺は昨日一日をやり直したいと痛切に思った。こんな結末を得るなんて、今の俺には耐えられないと。
 ところがどうだ。あれからほぼ一ヶ月半、いや、二ヶ月近くになるのか、暑い夏が終わり秋風を感じるようになった現在、俺は未だに彼女のそばにいる。平然とした顔をして。しかし、彼女の心を失ったまま。
 あの後、俺は機械的に彼女の入れてくれた珈琲を飲み、言われるままにシャワーを浴びた。その後に二人で彼女の作った朝食を摂り、ろくな話をしないまま彼女を残して帰国した。
 機内で死んだように眠りながら、俺は夢の中で彼女の曖昧な微笑みを何度も見つめ、狂った時間の中で聞いた彼女の嗚咽をなぞった。
 失意のまっただ中だというのに、俺は何も考えられない頭のままで仕事をし、学校に通った。本当に機械のような生活だった。何も考えないようにしていたのだろう。
 それから数週間後、今どき珍しいエアメールが届いた。ヴィジフォンや電子メールが当たり前のご時世に、ポストに突っ込まれていた白い封筒はあまりにも眩しかった。
 彼女からのエアメール。見慣れているはずの彼女の文字が、そのときばかりは見ず知らずの他人が書いたもののように映った。なんて他人行儀なことのするのだろうか、と。
 丸一日、俺はその手紙の封を開けることができなかった。もう失うものなど何もないだろうに、それでも決定的な拒絶をされなかった期待が心のどこかにくすぶっていたのだ。
 この手紙が俺を拒絶するものだったら、俺は今度こそ頭がおかしくなってしまう。今さら突き放すくらいなら、あのときに拒んでいて欲しかったのだ。
 それでも翌日、俺は手紙の封を開いた。宛先を読んだときに封書から薫った香りは彼女がいつもつけていたコロンの香りだった。彼女の触れた封書に書かれている内容がどんなものか、ひどく気になっていたのも事実だ。
 恐る恐る開けた封書の中からこぼれ落ちたのは、一枚のチケットと折り畳まれたパンフレット。そして、掌に乗るほどの小さなカードだけだった。
 チケットとパンフレットは彼女の住む都市で開かれる写真展のものだった。秋に開かれる写真展は、各地でも有名なカメラマンが毎年主宰するもので、なかなかチケットが手に入らないことで知られている。
 職場の先輩や上司がこれを見たら、きっと本来のチケット代の数倍の値段を払ってもいいから売ってくれと言い出しかねない貴重なものだ。
 俺は足下に落ちたアイボリーカラーのカードを拾い上げ、そこに書かれた彼女直筆の文字を信じられない思いで読んだ。
 落ち葉色の蔦模様で囲まれた文章は、その写真展へ一緒に行こうと誘う言葉だった。ツテがなければ入手することができないチケットを、彼女はいったいどうやって手に入れたのだろう。
 いや、それ以上に、俺と一緒にと誘ってくれたことが信じられない。
 俺がカメラマンを目指していることを知った上で誘っているのだ。写真展に赴くなど、自分の趣味でもなんでもないのに。
 俺は時差のことも考えずに彼女にヴィジフォンをいれた。
 それまでは何度もナンバーを押しながら結局繋ぐことができなかった、すっかり暗記してしまった彼女のナンバーがディスプレイで点滅している様子を、俺は混乱した頭でじっと見つめていた。
 真っ暗な画面の向こう側から彼女の声が聞こえても、俺は一瞬言葉を忘れて立ち尽くしていた。すぐに画面が切り替わり、起き抜けらしい彼女の格好を見て、俺はようやく現実へと引き戻されたのだ。
「チケット、届いた?」
 頷いた俺に彼女はそっと微笑みかけ、知り合いが手に入れたが都合がつかなくなったものを格安で手に入れたから使ってくれ、というのだ。
 格安なんて嘘だ。写真に興味ある人間なら喉から手が出るほど欲しい代物だ。誰が行けなくなったからといって格安で手放すものか。
 意外なところで、彼女は嘘をつくのが下手だ。いっそ、賭けで勝負に勝って相手から巻き上げたのだとでも言うほうが、よほど真実味があるだろうに。
「行きたくないなら別にいいよ。チケットは誰か他の人にあげて。私は一人で見に行くし」
 これも嘘だ。俺が行かないと言ったら、彼女も行かないに決まっている。わざわざ出掛けていくほど、彼女は写真が好きなわけじゃない。気晴らしに出掛けるなら、彼女はいつも小さな雑貨が売っている店に足を向けるのだ。
 俺は仕事や学校を休む手筈を一瞬のうちに頭の中で組み立てると、彼女に礼を言いがてら写真展に行く約束を取りつけた。
 途中からは天にも昇るような気分でいた。憧れの写真展に行けるというだけではない、その空間には彼女が一緒にいるのだ。手紙の封を開けるまでの鬱屈した気分などあさっての方角に消し飛んでいた。
 だが、ヴィジフォンを切って興奮状態が落ち着いた頃、俺の心はまたしても暗い気分に覆われていった。
 彼女にこれだけのことをさせながら、俺はいったい何をしてやれるというのか。歪んだまま修正された友情はあまりにも脆い。俺は恋人になりたいと思っていても、彼女はそれを良しとしない。
 俺たちの心は今もすれ違ったままだ。見えない亀裂に目を背け、結果を後回しにしているだけなのだ。
 何度も俺は自分の過ちを呪い、自分の馬鹿さ加減を嘲った。
 あの愚かしい行為がなければ、いつか彼女は俺自身を見てくれたのではないのか。俺を愛してくれたのではないのか。一生を互いの傍らで過ごすことができたのではないのか。
 後悔すればするほど、俺は自分で掛け違えた運命を呪った。呪って、呪って、自分の存在そのものに嫌悪を抱くほど呪って……。
 それでも、どうにもならない想いを抱いたまま、俺は再び彼女の元にやってきた。焦がれ続けた想いを消すことができず、惨めったらしく彼女の姿を追い求めて。
 通りの方角からクラクションの音が響いてきた。けたたましいその音に、俺は考え事を中断する。テーブルの上に置かれた珈琲はまだ半分量ほど残っていた。
 先ほどから指に挟んだままだった二本目の煙草も短くなってきた。約束の時間を五分ほど過ぎている。彼女が遅刻するとは珍しい。
 自分の周囲に漂う紫煙が、ゆったりと俺の肩を撫で頬を滑っていった。まるであの日の彼女の指先の柔らかさそのものだ。
 俺は未練がましく煙草を一吸いした後にその火をもみ消し、肺から最後の紫煙を噴き出すと、目の前に置かれた冷えた珈琲を口に含んだ。
 腕のいいマスターがいれた本格的な味だったが、俺にはあの日彼女のが俺のためだけにいれてくれた珈琲のほうが、俺の性に合っているような気がしていた。紅茶党の彼女が、料理に使うために買い置きをしていたであろうインスタントの珈琲のほうが、俺の今の苦い胸のうちにはしっくりとくる。
 俺はそっと腕に巻きつけた時計を見た。クラシカルなデザインが気に入って買ったものだ。ごつくてやや重たいのだが、俺の腕にはよく馴染んでいると自惚れている品だった。
 時間はいっこうに進まない。冷めきった珈琲が俺の待ち時間の長さをイヤでも認識させる。
 俺がそっとため息をついたときだった。階段を駆け下りてくる足音がし、背後の店の入り口で小さくベルの音がした。
 振り返った俺はそこに目的の人物の姿を認め、店の奥まった席から手をあげて自分の存在を知らせた。
 俺の座っている席を見咎めて彼女は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、足早に近づいてくるとすぐに、煙草の匂いに顔をしかめた。彼女には煙草を吸い始めたことを教えていなかった。
 俺の目の前に立った彼女は、エアメールの中に入っていたカードと同じアイボリーのスーツを着込み、胸元は秋を連想させるくすんだオレンジとダークイエローが入り混じったスカーフで飾っている。肩から下げたやや大きめのショルダーバッグと靴の色は揃いの茶色がかった灰色だ。
 そして、前に逢ったときと同じコロンの香り。小さなパールのピアス。右手の小指を飾るリングはシンプルな金色だ。
「髪に匂いがつくじゃない。なんでそんな不味そうなものを吸い始めたのよ」
 俺の周囲に漂う匂いを追い払うように手を振ると、彼女は俺の向かいの席に腰を落ち着け、彼女の好み通りにミルクティーを注文した。
 走ってきて上気した頬の赤さが可愛らしく見えたが、それを口にすることはやめた。きっと彼女は照れも手伝って、余計に不機嫌になるだろうから。
「待たせたよね。ごめん」
 紅茶が運ばれてくるまでの間、彼女は遅刻を謝りはしたが、遅刻の理由に関しては何も言わなかった。言い訳をしないところがいかにも彼女らしい。
 運ばれてきたミルクティーをゆっくりと飲み干し、彼女が人心地ついてから、俺たちは店を後にした。
 会計を済ませたあとに俺はさりげなく彼女の肩に手を回そうとしたが、彼女は容赦なくそれを振り払い、サッサと先に店を出ていってしまう。俺の目には彼女の行動が俺を意識しての動作だと映るのは自惚れか?
 彼女を追う俺の視線が先ほど俺に注意をしにきた金髪男と絡まった。同僚との会話の合間に、彼はキザにウィンクをしながらこう言った。
「Good rack, boy!」
 俺の年齢が判っていても、彼には俺が子どもに見えるのだろうか。ダークグレーのビジネススーツを着こなし、Good rack.と余裕でウィンクをする男の態度が、俺には羨ましかった。
 軽く手を挙げて男のウィンクに応えると、俺は先に店を出ていった彼女を追いかける。階段を駆け上がると、そこは秋色の風が吹く街角だ。煉瓦で囲われた街路樹の下に佇む彼女が、首をすくめてこちらを見ている。
 日差しは暖かだったが、吹いている風は冷たい。寒がりの彼女には少し辛い季節が近づいてきていた。
「写真展、もう始まっているわよ」
 時間通りに到着しなくてもいいことは彼女も判っているはずなのに、遅れて店から出てきた俺を急かすように、彼女は俺の腕を引いた。
 彼女の指先から感じる温もりに、俺は幸福感に浸り、そして、同時に胸を掻き乱すやるせない想いにひどく傷ついていた。

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