後日譚
第15章:誘拐
「ちょっと見ただけだと微笑ましい図だけどな。あぁいうのから夫婦の亀裂は入るんだぜ?」
 回廊を並んで歩きながら、シーディが楽しげに声をあげた。隣りを歩くウラートは僅かに目をすがめただけで、相手の話を無視している。
「あのガキ、九歳だよな? ってことは、お偉い王子様の奥方様と五つか六つしか違わないわけだ。十年後には、ドロドロの愛憎劇に発展しそうだなぁ」
 ケタケタと笑いながら洒落にならない話題を話すシーディに、ウラートは険悪な視線を向けた。射抜くような視線だったが、当のシーディはまったくこたえていないようだ。
「シーディ。それ以上、不埒なことをしゃべり続けるのなら、私があなたの舌を引っこ抜いて差し上げますよ」
 言っていい冗談と悪い冗談がある。今、シーディが語る未来の可能性は、不愉快なことこの上ない話題だった。
「おやおや。王子様の忠臣は随分と奥方を信用していらっしゃる。……それとも何か? あの美人の奥方を狙ってるのは、ガキじゃなくってお前のほうか?」
「いい加減にしろ! リュ・リーン殿下を侮辱するつもりか!?」
 姿形はリュ・リーンとよく似ているが、シーディの言葉には毒が含まれていることが多い。態度は我が侭ではあるが、根は素直なリュ・リーンとは対照的だった。
「未来を一つご提案申し上げただけだろ。オレの言い種が腹立たしいなら、オレが言っている未来が起こらないと証明してみろよ」
「未来の可能性の問題を言っているのではありません。殿下が決めたことにいちいち口を出すなと言っているのです!」
「ケッ! 良い子ぶるんじゃねぇや。浮き名の一つも流さないで、年下の野郎の尻ばっかり追っかけているくせしやがって」
 ウラートは一瞬、怒りで目の前が赤く染まった気がした。
 なぜ彼はこんなにも人を傷つけるようなことばかり言うのだろう。こんな男はサッサと追い出したほうがいいのに、肝心のリュ・リーンはこの傍若無人な男を好き勝手にさせている。納得がいかないとはこのことだ。
 相手に殴りかかりそうなのをなんとか踏みとどまり、ウラートはシーディに背を向けて歩き始めた。今は彼と一緒の空気を吸っていることにすら耐えられそうもない。
 ところが、そんなウラートの内心を無視して、シーディは口笛を吹きながら後ろに従ってきた。今度は何もしゃべらないが、ウラートが行くところすべて貼りついてくる。
「どうしてついてくるんですか! 自分の仕事に戻りなさい」
「オレの今日の仕事は終わったぜ。残りはどこにいようが勝手だろ」
「他の人の手伝いでもしてきたらどうです! 暇を持て余すよりマシでしょうに!」
 尊大な態度で肩をすくめるシーディを、ウラートは怒鳴りつけた。苛立ちを抑えるのも限界に近い。
「手伝うと皆、厭〜な顔をするんだよな。オレがいないほうが平穏らしいぜ」
「私だってあなたがいないほうが平穏ですよ。鬱陶しいから、ついてこないでください」
 ウラートは腹を立て、サッサと歩き始めるが、またしてもシーディは彼の背後に付き従っていた。嫌味のためにやっているとしか思えない。
 完全に無視を決め込むと、ウラートはシーディを視界の中に入れないように仕事をこなした。話しかけてこなければ、相手の態度は気になりはしない。
 無心に仕事を片付けていくうちに、いつの間にかシーディの姿が見えなくなった。彼がいないと異様に静かに感じるのは気のせいだろうか。
 ようやく相手が諦めてくれたことで、ウラートは胸を撫で下ろした。これで自分の持ち場は平穏だ。
 しかし、ウラートの願う平穏は長くは続かなかった。同僚の一人がバタバタと慌ただしく駆け寄ってくると、引きつった表情で耳打ちしてくる。
「なに!? 王子への面会の許可も求めずに、ギイ伯がここに来ているだと? なんという非常識な!」
 ウラートは同僚と共に侵入者がいるという現場へ向かった。無表情を取り繕ってみるものの、どうしても苦々しい想いがこみ上げてくる。
 ギイ伯シロンはリュ・リーンの義兄の中でも、もっとも油断のならない相手だった。そんな御仁が王子の使う棟に無断で入り込んでいるなど言語道断だ。即刻、お引き取り願わねばならない。
 どれほども歩かないうちに、ウラートの前に痩せぎすで陰湿な眼をした男とその取り巻きが現れた。ギイ伯シロン。リュ・リーンの長姉の夫で、氷のように冷たい態度の男だ。
「退け。お前に用などない」
 命じるのが当たり前といった口調で、シロンがウラートをジロリと睨む。それに負けじと、ウラートも冷たい視線を相手に突きつけた。
「面会の許可をお取りください、シロン卿。殿下のお住まいに勝手に入るとは、無礼ではありませんか」
「許可だと? 兄が弟に逢いにいくのに許可などいるまい。……それから、私のことを卿付けで呼ぶのではない。お前のような下賤な輩が私を呼ぶときはな、様付けで呼ぶものなのだよ」
 ギイ伯の取り巻きが成り行きにクスクスと笑い声をあげた。粘質な笑いが、ウラートの背筋に悪寒を走らせる。
 ギイ伯たちの様子にもウラートは努めて無表情を保っていた。が、一緒についてきた同僚たちの顔色は青ざめている。
 ウラートが奴隷商から買い上げられ、王子に仕えるようになったことは有名だ。それをわざわざ、あからさまに揶揄すると、リュ・リーンは怒り狂って手がつけられなくなる。
 ギイ伯はそれを充分に承知した上でウラートを貶めているのだ。リュ・リーンの兄である自分が罰せられるはずがない、と。
「では言い直しましょう。シロン様、リュ・リーン殿下への面会の許可をお求めください。許可が下りるまでは、ここをお通しするわけには参りません」
 顔色一つ変えずに、ウラートはギイ伯の瞳を凝視した。ここで少しでも怯んでしまえば、相手はそこにどんどんつけ込んでくる。
 何をしにきたのか知らないが、この人物を聖地の姫とドワティスの二人と共にくつろいでいるリュ・リーンの元へ向かわせるわけにはいかなかった。
「お前が私を留めだてる権利などないと言っている。サッサと退け。性奴スィーヴごときが私に意見するなど目障りだ」
「そうそう。お前は夜伽でもして、主人に媚びでも売ってればいいのさ」
 ギイ伯の後ろから嘲りの声が上がった。それに同調するように他の男の口からも嗤い声が漏れる。
「生憎とリュ・リーン殿下はお忙しい身です。面会の許可をお求めになっていらっしゃらないのでしたら、どうぞお引き取りください」
「黙れ! 私に指図するな!」
 眉をつり上げ、ギイ伯がウラートを怒鳴りつけた。それでもウラートは無表情なまま、目の前の男の瞳を睨みつけている。どれほど嘲弄しようと頑としてその場に立ちはだかるウラートに、ギイ伯は苛立ち始めていた。
「これは指図ではありません。お願い申し上げているのです。面会の許可をお取りください、ギイ伯爵」
「虫けらの分際で……よくも!」
 ギイ伯が拳を振り上げ、それをウラートの左頬に容赦なく振り下ろした。鈍い音がして、ウラートの頬が赤く染まる。
 力任せに奮われた暴力に、ウラートの上体は僅かに傾いだ。が、倒れ込むことはなく、自分を殴りつけた男に冷たい視線を向ける。
「生意気な! なんだその目は!」
「お前、シロン様に逆らって無事で済むと思ってるのか?」
「お引き取りください。許可のない方を、これ以上奥にお通しするわけには参りません」
「黙れ! よくも私にそのような口を利いたな!」
 同じ言葉を繰り返すウラートの態度にギイ伯が逆上した。彼のこれまでの人生、思い通りにならなかったことなどほとんどない。奴隷上がりの侍従ごときに、自分の行動が規制されたことが気に入らないらしい。
 再びウラートを殴りつけようとギイ伯の腕が伸ばされた。ウラートはそれを避けることなく、じっと佇んだままだ。周囲の者たちは、ある者は息を飲み、ある者は嘲りながらその様子を見守っている。
「うるせぇっ! 静かにしろ!」
 高まっていた緊張感を突き破る怒鳴り声が廊下に響き渡った。その声にギョッとして、ギイ伯とその取り巻きたちが声がした方角を振り返る。
 そこに立っていた者を見つけ、さらに狼狽えたように互いに顔を見合わせた。が、ギイ伯はすぐに何かに思い至ったのか、再び尊大な態度で声の主を睨みつける。
「お前だな、オフィディアで飼い殺しになっているランカーンから贈られたという傭兵崩れは」
「それがなんだって言うんだ。この棟の中でギャーギャー騒ぐんじゃねぇよ」
 ギイ伯に向かって投げつけられたシーディの言葉に、ウラートは渋面を作った。この男はどんな相手であっても、まったく態度を改めようとしない。リュ・リーンの立場を考えれば、目の前にいる男にそんな口を利くことはできないのに。
 案の定、ギイ伯はシーディの突っ張った口調にあからさまな不快感を示した。
「王子の側仕えの者はどいつもこいつも教養のない者ばかりだな。お可哀想なことだ。……まぁ、仕方がないか。あの容色では、誰も仕えたがらないだろうしな」
「……ギイ伯爵。今の言葉を訂正してください」
 ウラートの声が殺気立った。夜明け寸前の空色をした彼の瞳が、憎悪をたぎらせてギイ伯を射抜いている。
「なぜ訂正せねばならん? 本当のことではないか」
 ギリリとウラートが歯を噛み締めた。握りしめた両手が怒りに震える。
「あぁ、訂正することはねぇな。好きなだけ言えばいい」
 飄々とした足取りでシーディが近づいてきた。周囲にいる侍従たちが困惑した顔つきでシーディとギイ伯とを見比べる。
「ほぅ。王子の容姿のことを言うということは、お前のことを言われているようなものだが?」
「どうってことねぇな。自分の面なんざ、どうでもいい。……で? 王子様の悪口は終わりかよ、トウヘンボク」
「なっ! お前、私を誰だと……」
「知らねぇよ、てめぇなんか。オレが判っていることは、てめぇが気に入らねぇってことだけだ」
 ウラートのすぐ脇まで辿り着くと、シーディは目の前のギイ伯の青白い顔を睨んだ。シーディは多くの人に怖れられているリュ・リーンに似ているのだ。睨みつける瞳の迫力に差こそあれ、ギイ伯たちはゾッとしたように後ずさった。
「わ、私は王子の義兄だぞ! お前のような下司な輩が……」
「目障りだ。消えろ! 今すぐに、だ」
「シ……シーディ! やめなさい!」
 二人の会話にウラートが割り込んだが、シーディはそんなウラートを背後に押しやり、冷笑を口元に浮かべてギイ伯を嘲る。
「てめぇが誰かなんてこたぁ、オレには関係ない。気に入らない奴は叩きのめすだけだ。……さぁ、誰からがいい?」
「お前、そんな口を利いて後でどうなるか判っているのだろうな!?」
「どうなるか、だと? どうもしないさ。オレが相手にしているのは、王子の許可もなく館に入り込んでいる不法侵入者だ。てめぇが誰かなんてことは関係ねぇんだよ。最近、血を見てねぇんでな。オレの愛剣が血を吸いたがってんだよ」
 スラリと腰に挟んでいた剣を抜き放つと、シーディはギイ伯の首筋に白刃をあてがった。楽しげに、しかし冷たく笑う若者に、ギイ伯は恐怖に青ざめた表情を向ける。
 ギイ伯の取り巻きたちもどうしていいのか判らず二人を見守るばかりだ。
「さぁ、どこを刻んで欲しい? 耳か? それとも鼻か?」
 怯えて後ずさるギイ伯にシーディがにじり寄っていった。獲物を追い詰める狩人のようだ。いや、あるいは捕らえた獲物を弄ぶ肉食獣か。
 いや増しに増す緊張感に、ウラートは唾を飲んだ。このままではまずい。しかし、下手な声のかけ方をすると、シーディの剣はギイ伯の喉笛をアッサリと切り裂きそうだ。
「おや? 物騒なところに行き会ってしまいましたね」
 緊迫した空気を突き破ったのはギイ伯たちがやってきた廊下の奥からだった。その場に居合わせた者全員が暢気な声を上げる人物へと視線を向ける。
 オフィディア伯サイモスがゆったりとした足取りで近づいてくるところだった。脇には何かの包みを抱えている。
「剣の稽古ですか? シロン卿、稽古をされるなら中庭をお借りしてやってもらいたいですね。狭い廊下でやられては、他の方に迷惑ですから。……あぁ、ウラート。リュ・リーン殿下に取り次いでもらえるかな。入り口で声をかけたのだけどね、誰もいなかったから勝手に入ってきてしまったよ」
 口調はのんびりとしていたが、オフィディア伯がギイ伯を見る目つきは氷のように冷たかった。
「サイモス……! 貴様、私を差し置いて……」
「おやおや。あなた、通せんぼされていたんですか? それはそれは。ここの館のご主人は気難しい方なのは、ご存知でしょう? 勝手に踏み込んできて、手痛いしっぺ返しを喰らったからって、怒るのはお門違いではありませんか? 私はちゃんと用があって出向いているんですよ、あなたと違ってね」
 鼻先で嗤うと、オフィディア伯はチラリとシーディに視線を向けた。取り立てて彼に何かを言うわけではなかったが、シーディの扱う剣を見ると小気味良さそうに口角を持ち上げる。
「聖地に到着してすぐに王子にご挨拶申し上げなかったのは、あなたの落ち度ではありませんか、シロン卿。自国の王子への挨拶よりも、どこかの神殿のハゲ親父に挨拶しに行くとは……。王子がご立腹なさるのも当然でしょう。あなた、この聖地に物乞いにでもしにいらっしゃったのでしょうか?」
「サイモス! 義兄に向かってよくもそのような無礼な口を! 私はトゥナ王国のためを思って聖神殿の神官長殿と面会してきたのだぞ!」
 オフィディア伯の辛辣な言葉に、ギイ伯は顔を真っ赤にした。
「おや、そうでしたか。しかし、それにしたって王子へのご挨拶を蔑ろにして良い理由にはなりませんね。お父上がお嘆きになりますよ。後を継いだ末っ子が、礼儀のなんたるかもわきまえていなかったとお知りになったら。いっそのこと、お父上に躾直していただいたらいかがです?」
「貴様……!」
「どちらにしろ、リュ・リーン殿下のお怒りが収まらない限り、あなたがここを通り抜けることは不可能ですよ。サッサと帰ったほうが身のためです。これ以上長居をすると、さらに殿下の不興を買いますよ。せいぜい気をつけることです、名誉あるギイ伯爵家が取り潰されることがないようにね」
 オフィディア伯はそれだけ言い切ると、後はギイ伯のほうも見ることもなく、目の前のウラートに再び面会の許可を取り次ぐよう迫っていた。
 いつの間にかシーディがギイ伯に向けていた切っ先は収められ、彼もギイ伯からオフィディア伯へと興味を移している。
 完全に無視される形になり、ギイ伯は怒りに顔色をどす黒く染めた。何か反論してやろうと思っているのだろうが、怒りが頂点を極め、言葉がすぐに出てこないようだった。
「まだいるんですか、シロン卿? 早く退散したほうがよろしいですよ。……そうそう、先ほどから気になっていたのですけど。そちらの取り巻きの方々、シャッド・リーン陛下に申請された人数よりも多いように見受けられますが、気のせいでしょうか?」
「そんなことはない。人数通りだ!」
「そうですか。いつもいつも誰かに取り囲まれていらっしゃるし、それがお好きなのでしょうけど。殿下と面会されるときには、お一人でいらっしゃったほうがよろしいですよ。……徒党を組むことしかできない輩だと誤解されますから」
「うるさい! 貴様の指図など受けん!」
 怒りに血走った瞳で義弟を睨むと、ギイ伯は足音も荒々しく廊下を引き返していった。彼の背後には取り巻き連中がバタバタと付き従う。
「やれやれ。相変わらず浅慮な人だ。あんな脳味噌で名門ギイ家を継げるとは、トゥナ王国の大貴族の地位も地に墜ちたね」
 自身も大貴族の端くれでありながら、オフィディア伯は貴族の地位を憂えて深いため息をついた。嘆かわしそうに首を振る伯爵の様子に、ウラートも一緒にため息をつく。こちらはギイ伯のことでため息をついているわけではなかったが。
「サイモス卿、あれではシロン卿を敵に回しただけなのでは?」
「彼とはリュ・リーン殿下が生まれる前からずぅっと敵同士だよ。それより、殿下に取り次いでもらえないかな。ドワティスのオモチャと殿下が使えそうな短刀を持ってきたのだけど」
「判りました。こちらの客室でお待ちください。殿下にお伺いして参ります」
 ギイ伯が去るとすぐに、侍従たちは持ち場へと戻っていった。残ったのはウラートとシーディくらいなものだ。
 ウラートがリュ・リーンの元へオフィディア伯の来訪を告げにいくと、伯爵はシーディを手招きして客室へと入っていった。ほぼ毎日リュ・リーンの元に顔を見せている彼にとっては、勝手知ったる他人の家といったところか。
「シーディ。私としては気味が良かったけど、剣を持ち出すのは最終手段にしたほうがいいよ。短気を起こすだけ損だ」
「オレの物に手を出そうとしたからだ」
「君の物? ……もしかしてウラートのことか?」
 オフィディア伯は胡乱げにシーディを見遣った。腰を降ろした位置からだと、立ったままのシーディの態度はいかにも尊大に見える。
「あいつはオレがもらうんだ。他の奴が傷つけることは許さない」
「彼は王子の大事な右腕のはずだけど……殿下に許可はもらったのか? いや、それより何より、ウラート自身が許したのかな?」
「口説き落としている最中だ」
 シーディの言葉にオフィディア伯は軽いため息をつき、小さく肩をすくめた。
「王子の一番の忠臣に懸想するとはね。君はなかなか、大した男だよ」
 異母弟ランカーンが寄越した男は、どうやら騒動を起こすことが好きなようだ。しかし、この若者にまとわりつかれているウラートを気の毒に思いながら、オフィディア伯はちょっとした好奇心からそれを止めようとは思わないらしい。
「あれくらい綺麗で、しかも減らず口を叩ける奴はそういないだろ」
 ニヤリとシーディの口元に浮かんだ笑みに同調して、オフィディア伯も不敵な笑みを浮かべた。
「私も綺麗な子は好きだよ。ウラートの容色ならどこへ出しても申し分ない。シーディ、君もね。殿下に似た容姿というだけで、希少価値は高いよ」
「……お褒めにあずかり恐悦至極に存じます、オフィディア伯爵」
 わざとバカ丁寧な口調で返事をすると、シーディはぷいとそっぽを向いた。自分の容姿を褒められてもあまり嬉しくないらしい。傭兵稼業が長かったせいか、彼は自分の姿形などどうでもいいようだ。
「そう怒ることもないだろう。男に容姿を褒められて嬉しくないのは、ウラートも同じだろうよ。ま、頑張りたまえ。この聖地では娼婦も買えないからね。容色が良いのなら、男でもいいというのは致し方あるまい」
「ついでに性格もよくなきゃな。女遊びができないなら男とでも遊べと言ったのは、あいつのほうだ。せいぜい、あいつで遊ばせてもらうさ」
 シーディの様子を楽しげに見つめた後、オフィディア伯は膝に抱えていた包みをそっと撫でた。先ほどのギイ伯とのやり取りを思い出したのか、瞳の中に鋭い輝きが灯っている。
「引っかかれないように気をつけることだよ。ウラートだけじゃない、シロンの奴にも。あいつは性悪な男だからねぇ」
 華やかな外見とは反対に、オフィディア伯の気配の中には微かな怒りが漂っていた。




 激しい砂煙。耳を覆いたくなる、けたたましい金属音。それらに続いて、ドウと倒れこむ音が辺りに反響した。
 もうもうと上がっていた砂煙が落ち着いてくると、かすれた煙の中にてんと佇む人影が見え始めた。
 スラリと伸ばした腕と、それの延長のような剣が地面を指している。いや、地面に横たわる者の胸元をヒタと抑え込んでいた。
「そこまで! 勝者、アルル・カストゥール候ミアーハ・ルーン!」
 勝敗を宣言する声に続いて、人々のどよめきが沸き起こった。いや、これをどよめきと呼んでいいのだろうか。大地や空気を鳴動させる人々の声やため息は、遙か彼方から迫りくる遠雷を思わせた。
「四回戦も勝ち抜いたか」
 満足げに呟くと、リュ・リーンは他の観戦席で地団駄を踏んでいる他国の大使たちを観察した。
 カストゥール候が勝ち上がっていくということは、トゥナ王家を……いや、時期国王であるリュ・リーンを有利にするばかり。飛ぶ鳥を落とす勢いのトゥナ王国がこれ以上強くなっては困ると言ったところだろう。
 次いで、リュ・リーンは聖衆王が座す主賓席をチラリと振り返った。王の隣りには、ひっそりと隠れるようにしてカデュ・ルーンが座っている姿が見える。
 兄の勝利に安堵しているのかと思いきや、彼女の表情は遠目に見ても凍りついており、今にも倒れそうなひどいありさまだった。
 聖衆王のまわりには聖地の重鎮たちが列席しており、外様であるトゥナ以下周辺諸国の者たちの席はあまりに遠い。彼女に声をかけたくとも、届く距離ではなかった。
 なんともどかしいことか。姿が見えているのに、その肩を抱いて慰めることもできないとは。
「……殿下、ギイ伯爵の動きが妙です」
 滑り寄ってきたウラートがリュ・リーンの耳元で囁いた。
 王子の周囲に人影は少ない。ウラートの小声は、リュ・リーンの脇腹に貼りつくようにして座っている幼いドワティスに、話の内容が聞かれないようにという配慮に違いない。
 聖地に来たときから妙な動きをしている義兄が、こんなときまでコソコソと何かを企んでいるらしい。腹立たしい限りだ。
 ギイ伯爵のことは、天神殿の司祭辺りと密談を繰り返しているという報告を受けていた。
 どうやら、彼の密談相手は正神殿の派閥に属するダイロン・ルーンを蹴落として、自分たちの門閥を拡大したいらしい。対してギイ伯爵は、近いうちにリュ・リーンの義兄になるダイロン・ルーンが、これ以上リュ・リーンと絆を深めて欲しくはないようだ。
 何をやろうとしているのか、確かめさせなければなるまい。暢気に選王会の武芸戦を見てばかりいられないようだ。
「ドワティス、喉が渇いただろう?」
 リュ・リーンの呼びかけに少年が顔を上げ、はにかんだ笑みと共に頷いた。ここ聖地に来てから、目が覚めているときの大半を、この少年は王子の傍らで過ごしている。親鳥に懐く雛のようだった。
 今まで、リュ・リーンにはこれほど無心に他人から懐かれた記憶がない。くすぐったいことであったが、弟ができたようで嬉しくもあり、ついつい少年を甘やかしがちだ。ドワティスの兄サイモスが弟を甘やかす様子に呆れていたが、いつの間にか人のことを言えなくなってきていた。
 少年の豪奢な金髪をくしゃくしゃと掻き回し、リュ・リーンは子どもの耳元に唇を寄せた。
「お前用の花蜜水を取ってくるから、ここで大人しくしているんだぞ」
 少年の前に置かれた杯は空っぽになっている。
 生憎と大人ばかりが列席している貴賓席では、子どもが好む甘めの花蜜水はすぐに用意できない。蜜酒などの大人用の飲み物ではドワティスには強すぎた。
 人を疑うということを知らないのか、少年は素直に頷くとリュ・リーンに手を振った。大人しく待っているから早く戻ってきてくれ、というのだ。
 表情をクルクルと変えるドワティスの様子に、リュ・リーンは眼を細めて微笑んだ。よほど気を許した者の前以外では笑わない彼にしては、無防備すぎる表情だった。
 ドワティスを少年の兄オフィディア伯爵に預けると、リュ・リーンはウラートを伴って観戦席から降りた。
 すり鉢状の会場の一番下の階が参戦している者たちの控え室になっている。その途中でシーディと行き会った。
「シーディ、ギイはここまで来ているか?」
「いや、ここでは姿は見えないぜ。でもここからなら、あちら側にいるご列席のお偉いさんの動きは丸見えだからな。あんたたちの後ろでゴソゴソ動き回っているあのボンボンがどこかへ消えたのはすぐに判ったぜ」
 顎をしゃくって会場を指すシーディにつられて、リュ・リーンも日が射し込んでくる窓の外を見た。彼の言うとおり、確かに貴賓席は丸見えだった。
 リュ・リーンたちが見守る中、今度はギイ伯爵がコソコソと自分の席に戻ってくる姿が見えた。何喰わぬ顔で座席につき、武芸戦の続きを眺めている様子が小憎らしい。
「相変わらず自分では手を汚さずに、他の者を使って邪魔立てする気だな。忌々しいバカ狐め。余計な仕事ばかり増やしくれる。……ウラート!」
「……ハッ! 直ちにギイ伯爵を拘束しますか?」
 侍従頭の過激な意見に、リュ・リーンは思わずウラートの顔を覗き込んだ。
「どうした、ウラート。お前にしては随分と荒っぽいな。何を焦っているんだ。今のままでギイ伯を拘束できると思っているのか?」
「彼を捕らえて、白状させるのが一番確実ですよ。……証拠もないのに彼を捕らえるのは難しいですが」
「これまでも奴は証拠を残すようなことをしていない。今回も同様だろう。無理に奴を拘束するな。つけいる隙を相手に与えるようなものだ。それより、奴が会談を重ねていた司祭は誰なのか割れたのか?」
 ウラートは一つ頷くと、辺りをはばかるように声をひそめた。
「天神殿の司祭長……天神殿長のエウリアット候の息の掛かった者です。間違いなく、カストゥール候の邪魔をするつもりでしょう」
「だが選王会の武芸戦は聖地神殿の関係者しか控え室に出入りできない以上、カストゥール候には手出しできないぞ。彼の剣の腕前はお前たちのお陰で聖地では誰にも負けない」
 リュ・リーンの言葉にシーディが不敵な笑みを浮かべる。彼なりに嬉しさを表現しているのかもしれない。カストゥール候の剣の稽古は、実質的にシーディが一人でこなしたようなものだ。
「彼らの予想以上にカストゥール候が強かったということでしょう。このままですと、天神殿長の子息ガルディエ・ダナン卿と対戦することになります。選王会で叩きのめされては、ぐうの音も出ませんからね。対戦する前に潰してしまおうということでしょう」
「だとしたら、あれだな。あんたの未来の奥方に注意するこった、王子様。彼女はカストゥール候の妹なんだろう? 人質にするにはもってこいだぜ」
「何を言っている。彼女は聖衆王陛下とご一緒だ。どうやってあの場から連れ出して人質にすると言うんだ」
 ムッとした様子でリュ・リーンはシーディを睨む。彼女が人質にされるなどと、軽々しく口にして欲しくはない。
「あの様子じゃ、もうどれほども保たないんじゃねぇのか? 気を失いそうな顔してるぜ。彼女が倒れたときに担ぎ込まれるのはどこだよ」
 窓から見える主賓席では、カデュ・ルーンが青ざめた顔色で眼下の武芸戦を見守っていた。争いごとを好まない彼女には、この会場の熱気や武芸戦の荒々しさは恐ろしいらしい。
「……リュ・リーン殿下! 会場の救護班に当たっているのは、天神殿関係者ですよ!」
 ウラートがハッと思い出して叫んだ。カデュ・ルーンの様子を見守るリュ・リーンが、侍従の言葉に眼を見開いた。
「なんだと!? どうして一つの神殿の者が救護班にかたまって配置されているんだ!」
「参戦者たちの救護には正神殿関係者が当たっているんです。その関係で会場の救護班の数が足りず、天神殿の者たちが駆りだされたものと……」
 リュ・リーンが舌打ちして苛立ちを示す。それを嘲笑うようにシーディが追い討ちをかけた。
「当たりだ。倒れた彼女を天神殿の者が運び出し、それをあのいけ好かない狐野郎の手下どもが隠しちまうって算段だろう。下手したら、未来の王子妃を手込めにしかねんと思うがな。要領よくやれば、あんたの結婚話もぶち壊せるぜ?」
 シーディの不埒な言葉に、リュ・リーンは針のような視線を向けた。が、頭に昇りかかった血を鎮めると、貴賓席で悠々と武芸戦の見物を決め込んでいる義兄の姿を見上げた。
「……救護班の者たちを止めるのは難しい。となると、ギイ伯たちがカデュ・ルーンを隠しておく部屋を見つけだして助けるしかないか」
「そうなると、聖地の方々の中にも協力者が欲しいところですが……」
 ウラートが考え込むように顎に手をかける。伏せられた彼の顔は、それだけで一枚の絵画になりそうなほど、さまになっていた。
「会場の警備責任者はドゥーン・ラウ・レイクナー卿だ。彼なら俺の味方になってくれるかもしれん。話をつけてこよう」
 警備の騎士たちの詰め所へと向かうリュ・リーンの後ろを、シーディとウラートがついていく。
「あぁ、王子様の下宿先の親父ね。一度、空庭フォルバスを覗いたときに遠目に見たけど、なかなか男前の顔をしてる奴だよな」
「シーディ……。あなたという人は、人の顔を批評するしか能がないんですか!?」
「なんだよ。あんたは綺麗だって褒めてやっても喜ばないだろ。他の奴を褒めたからって、やっかむんじゃねぇよ」
「誰が私を引き合いに出せと言いましたか!」
 背後で罵り合いを始めた二人の声を聞きながら、リュ・リーンは半ば呆れ、半ば面白がりながら回廊を進んでいった。




 リュ・リーンが花蜜水をドワティスに手渡したとき、微かなざわめきが広がってきた。
 厭な予感がヒシヒシとする。騒ぎの元である主賓席を振り返ると、カデュ・ルーンが何人かの女神官に抱えられて退席するところだった。
「カデュ・ルーン……」
 リュ・リーンの小さな呻き声にドワティスも主賓席を振り返る。リュ・リーンと一緒に自分と遊んでくれる娘の後ろ姿に、少年の顔色も青ざめた。隣の王子の衣装の裾を握りしめ、ドワティスは唇を固く噛みしめている。
「大丈夫だ、ドワティス。心配しなくてもいい」
 少年の肩をそっと叩くと、リュ・リーンは自分自身に言い聞かせるように囁いた。
 王子の視界の隅に、隣の貴賓席の区画で薄笑いを浮かべてこちらの様子を伺っているギイ伯爵が映った。何もかも知ったげな男の顔に唾を吐きかけてやりたくなる。
 奥歯を食いしばって怒りをやりすごそうとするが、リュ・リーンの胸の奥に噴き上げてくる怒りは収まりそうもなかった。どうしてあの男は邪魔ばかりするのだろう。
 ぐいぐいと腕を引かれて、リュ・リーンは我に返った。
「なんだ、ドワティス?」
 リュ・リーンがドワティスの顔を覗き込むと、少年は必死に王子の腕を引っ張って席から立たせようとしている。少年自身はとうに立ち上がり、貴賓席の出入り口を振り返りながら、なおも王子の起立を促していた。
「カデュ・ルーンのところへ行きたいのか?」
 リュ・リーンが困惑混じりに問いかけると、ドワティスは首を大きく縦に振り立てる。
「ドワティス。いけませんよ、殿下を困らせては。聖衆王のお嬢様はあちらで介抱されていますから、心配することはありません」
 ドワティスの兄オフィディア伯が近くの席から諭すように声をかけたが、少年は納得することはなかった。必死の面もちでリュ・リーンの腕を引き、一緒に行こうと全身で訴えている。
「判った、ドワティス。彼女の様子を見に行こう」
 本当は少年に急かされるまでもなく、自分自身がそうしたい。しかし訪ねていったところで、追い返されるだけだろう。出向く前からそれが判っているだけに歯がゆいのだ。
「でもな、ドワティス。彼女のところへ、お前を連れていくことはできない。彼女が休んでいる場所は混雑しているところを通り抜けないと行けないし、彼女は眠っているかもしれないだろう? 俺が様子を見てきて、お前に知らせてやるから、待っていてくれないか?」
 ドワティスを連れて逢いに行けば、救護に当たっている神官のにべもない対応に少年が傷つくだけだ。不愉快な思いをするのは、自分だけでたくさんだ。
 第一、彼女を救い出すためにウラートたちが奔走しているはずだ。危険がないとは言い切れない。そんな場所に、この少年を連れ出すことはできなかった。
 リュ・リーンの言葉に、ドワティスが哀しそうに俯く。
「ドワティス。王子の言いつけを守ると約束しましたよね? 我が侭を言ってはいけませんよ」
 オフィディア伯は、今度は弟の側まで歩み寄ってきた。少年の肩に手を置くと、彼は王子に向かって静かに頷く。
「ドワティス。お前が心配していたことは、ちゃんと彼女に伝えるから、待っていてくれ」
 リュ・リーンは立ち上がりながら、項垂れる少年に声をかけた。他に上手い言葉が思いつかない。自分の不器用さが悔やまれた。
 おずおずと顔を上げた少年が、自分の胸元を飾る金細工をつまみ上げる。淡い光を放つ宝玉を黄金の蔦草が、宝を守るように囲んでいる可愛らしい意匠の細工物だ。先日、カデュ・ルーンが少年に贈った品物だった。
 それを丁寧に外すと、ドワティスはリュ・リーンに向かって、恭しい手つきで差し出した。
「彼女に見せればいいのか?」
 少年がプルプルと首を振り、細工物を胸に飾る仕草をして見せる。
「彼女に渡せばいいんだな?」
 少年が今度は何度も頷いて微笑みを浮かべた。もらった金細工は護石らしい。彼女が早く元気になるよう、この石を持っていけということだろう。
「判った。必ず彼女に手渡そう」
 リュ・リーンはしっかりと頷くと、ドワティスたちに見送られて貴賓席を後にした。
 ウラートたちからの報告を待ち、本当ならここでダイロン・ルーンの勇姿を見守っているつもりでいた。だが、実際に彼女が連れ出される後ろ姿を見てからは、大人しく座っている自信などなかったのだ。
 ドワティスに促されたからだけではなく、リュ・リーンは自らの意志で彼女に逢いたいと思っていた。
「何ごともなければ、それでいい。だが……もしも、彼女に何かあったら……」
 出ていくとき、視界の端にまたしてもギイ伯爵の薄ら笑いが映り、リュ・リーンは燃え上がってくる怒りに、拳をきつく握りしめた。
 カデュ・ルーンに何かあったら、この男だけは絶対に赦さない。どんな手段を使ってでも、必ず報復してやる。
 胸に渦巻くどす黒い怒りに焼かれ、リュ・リーンは魔の瞳イヴンアージャと呼ばれる暗緑の瞳をギラつかせた。瞳の奥には、触れれば火傷しそうな炎が浮かんでいる。この炎を鎮めることができるのは、カデュ・ルーンの無事な姿だけだ。
 すれ違う従者たちが、リュ・リーンの顔つきにギョッとして飛び退いていく。無表情な中で、瞳ばかりがギラギラと輝くトゥナ王太子の顔は、まさに魔神そのものだった。

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