後日譚
第13章:両腕
 蕾をつけ始めた花たちの間を行き来する娘の姿が見える。ダイロン・ルーンはその姿を眩しげに眺めていたが、思いきったように口を開いた。
「カデュ・ルーン。そちらへ行ってもいいか?」
 弾かれたように娘の白い顔が上がり、兄の姿を認めると、嬉しそうに手を振って応えてくる。相手の了承を得ると、ダイロン・ルーンはゆっくりと花畑へと足を踏み入れた。
 ここ聖地アジェンで春の訪れを教えるものといえば、カリアスネの花の香りと、背後にそびえる山脈から流れくるポトゥ大河の荒々しいせせらぎの音だろう。
 カリアスネは祭壇で焚かれる香油にかかせない。この花の香りを抽出して油に匂いつけをするからだ。聖地はカリアスネの最大最高の生産地でもあった。
 王宮の外にあるカリアスネの花畑であれば、今頃は下働きの者たちが整然と畝に沿って繁るカリアスネたちの新芽の選り分けをしているだろう。しかし、王宮内のこの花園にはカデュ・ルーンと彼女の手伝いをしている宮女数人の姿しか見えなかった。
「兄様、今日は帰りが早いのね。もうお仕事は終わり?」
「いいや、これから空庭フォルバスで剣の稽古だよ。選王会の開催が早まったお陰で稽古場は大混雑だが」
「王宮でも誰も彼もが浮き足だっているわ。……怖いくらい」
 美しい眉をひそめてカデュ・ルーンが俯く。長い睫毛に縁取られた新緑の瞳には不安が浮かんでいた。
「私は負けないよ、カデュ・ルーン」
「兄様が負けるなんて思ってないわ。でも、男の人たちがひそひそと物陰で内緒話をしている姿を見ると、良くないことが起こる前触れのような気がして落ち着かないの」
 小さく首を振る妹の様子はあどけない子どものようだ。足下のカリアスネが咲き誇る頃には、彼女も十五歳になるが、まだまだ顔には幼さがくっきりと浮かんでいた。
「選王会は聖地の貴族にとっては一生どころか、一族の命運を左右するものだからね。いかに勝ち上がっていくか、あるいは時期聖衆王の記憶に強い印象を残すかで、皆が躍起になっている。殺気立っている者もなかにはいるから、お前も出歩くときには気をつけなさい」
「はい……」
 選王会は表だっては王を決めるものだ。だが、実のところは聖地の貴族たちの間での足の引っ張り合いが半ば公然化するものでもある。どちらがより優位に立つか、それがこの時期の貴族たちの最大の関心事だ。
 選王会に参加する本人の技量だけで勝ち上がっていくのならいい。が、そんなきれい事が通用するものではないのだ。選王会の裏側では、周辺諸国からの賄賂まいないやら策謀が渦巻き、それを見越して立ち回る聖地の貴族たちが蠢いている。
 対立する者のみならず、その親族にも害意は向けられることになる。女子どもなどは格好の標的だ。
 元から表を出歩く質ではないカデュ・ルーンに、こんな脅すようなことを言ったのでは、余計に彼女は外へ出なくなってしまうだろう。しかし、自分だけならまだしも、彼女が狙われるようなことになれば、ダイロン・ルーンは身動きがとれなくなってしまうのだ。
「リュ・リーンから手紙は来ているかい?」
「えぇ。昨日、一番新しい手紙が届いたばかりよ。選王会……トゥナからは彼と、何人かの貴族の方が出席するようよ。お父さまへのご挨拶もあるから、彼だけは早めにこちらへ来るみたい」
「そうか。……貴族たちも来る、か」
 ダイロン・ルーンの表情が一瞬だけ歪み、すぐに元の端正でやや冷たい印象を与える美貌へと戻った。氷色の彼の瞳は感情らしい感情を浮かべてはいない。
「兄様。リュ・リーンと一緒にくるトゥナの貴族の方々は、彼にとっては良い方ではないのかしら?」
「そうだな。リュ・リーンの立場は夏の戦でかなり固まったように見える。が、それを快く思っていない者もまだいるだろう。それにトゥナ貴族の連中の力が弱体化したわけではないからね。まだまだ軋轢が残っているはずだ。カデュ・ルーン。お前もリュ・リーン以外のトゥナの連中とつき合うときは用心したほうがいい」
 素直に頷きながら、カデュ・ルーンが兄の顔を見上げる。信頼を浮かべた視線を向けると同時に、不安そうに寄せられた眉が彼女の内心の動揺を表しているようだった。
「大丈夫だ。リュ・リーンも私もそう簡単に負けたりしない。カデュ・ルーンは笑顔を絶やさないことだ。お前の笑顔がリュ・リーンには何よりの慰めになるだろうからな」
 兄の言葉に励まされたように、カデュ・ルーンがふんわりとした柔らかな微笑みを浮かべる。この場だけ先に春がきたような優しい温もりのある表情に、ダイロン・ルーンは今さらながら心癒されている自分がいることを感じていた。




 足早に大理石を蹴りつけ、廊下を進むウラートの表情はいつもより険しく見えた。しかし、彼の微妙な変化が判る者は少ない。すれ違う従者たちや貴族は、彼に特別な注意を払っているわけではないのだ。
 ウラートの格好は宮廷で生活しているときの衣装ではない。馬に乗りやすい簡素な服装は、彼が遠くリーニス地方から帰還したばかりだということを教えていた。
「まぁ! ウラート卿、お帰りになったのですね」
 脇廊下から上がった声にウラートはハタと立ち止まって振り返った。年のいった女官が見習いらしい女官を数人引きつれて、こちらへと歩み寄ってくるところだった。
「ただいま帰参しました。こちらは変わりなかったですか?」
「えぇ。リュ・リーン殿下がすっかり大人になられたことを除けば、他はつつがなく」
「私が王子を冬の間見なかっただけで、また背が伸びているなんてことはないでしょうね? 夏の勢いで背が伸びたのでは、とんでもない巨人になっているでしょうけど」
 見習いの女官たちはウラートが初めて見る顔ぶれだった。まだ王宮に入ったばかりの者たちなのだろう。気恥ずかしそうにチラチラと上目遣いでウラートを見ては、隣の者たちと目配せをしている。
 地方の領主の娘たちなのだろうか、彼女たちの立ち振る舞いは、柔らかではあるがどことなく田舎臭さが抜けていない。
「冬の間にもほんの少し背が高くなられましたわ。ウラート卿を追い抜いたのではないかしら。今度からお説教をするのが大変ですわよ?」
「見上げるような背になっていたって、誰が負けるものですか。王子の我が侭を注意できる人間が私の他にいるとでも? ほぼ半年ぶりですからね。私がいない間は好き勝手していたのでしょう? 気を引き締め直していただきますよ」
「まぁ、怖いこと。殿下にしてみれば、あなたのお帰りは嬉しさ半分、怖さ半分といったところでしょうね。でも去年に比べて、本当に丸くなられましたわ。それでも、この娘たちには怖い存在のようですけど。そうそう。あなたは初めてでしたわね。ご紹介いたしますわ」
 ようやく自分たちに話題が振られ、若い女官たちは一様に頬を染める。目の前に立つ美貌の従者に舞い上がっているようだ。
 ウラートはいつもの反応に内心で苦笑しつつ、年かさの女官から一人一人女官たちを紹介されるたび、優雅に腰を折って彼女たちに微笑みかけた。
「よろしく、お嬢さん方。王子付きのウラートと申します。皆さんの働きに期待していますよ。殿下は気難しい方ですから、気を使うことも多いでしょう。今のうちに私からお詫びしておきますよ」
 ゆったりとした仕草で頭を下げる王子付きの従者の態度に、緊張のあまり涙目になっている娘もいる。
 ウラートはいつも通りに柔和な笑みを向けるだけで、若い女官たちとそれ以上話をしようとはしない。見習いたちは彼の笑顔に顔を真っ赤に染めている。
 ウラートは馴染みの女官に向き直ると王子の所在を訊ね、女官たちを残してさっさと立ち去ってしまった。
「じょ、女官長様。あの方はいつもあんなにお優しいんですの?」
「男の方なのにあんな綺麗な方、初めて見ましたわ」
「王子様は怖そうな方なのに、あの方はなんて物腰が柔らかいんでしょう」
 口々に騒ぎ始めた見習いたちに向かって、中年の女官が顔をしかめる。眉間に浮かんだ皺が彼女の苛立ちを如実に表していた。
「皆さん、おしゃべりが過ぎますわよ! さぁ、しゃんとなさい。街娘でもあるまいに、そんなに浮かれていてどうしますか!」
「でも……!」
「あぁ、もっとお話したいわ」
「女官長様。あの方のこと、なんでもいいから教えてくださいな」
 ウラートが立ち去った後には、見習いの女官たちが年上の女官を質問攻めにしている光景があった。




 一年ぶりの王宮は、やはり聖地アジェンでの選王会の話題で浮ついている様子だった。ほぼ二十年ごとに巡ってくる水面下の騒乱は、貴族たちの最大の関心事だと言ってもいいだろう。
 ウラートは女官長から聞いた場所へと急ぎながら、廊下の柱の陰で囁き合う貴族や宮廷従者たちの様子に舌打ちした。
 胸がむかついてくる。ここはトゥナ王国の王宮だ。遠い聖地の長に忠誠を誓うのと同じだけ、この王国の王家にも忠誠を誓ったらどうなのだ。
 彼ら貴族を養っているのは、聖地でお高くとまっている神殿貴族どもではなく、王家ヒルムガルであるというのに。
 王の執務室に続く廊下の手前で、ウラートは先触れをする従者に声をかけた。案の定、王子リュ・リーンは父王の元で話をしているとのことだ。
 王子付き従者の特権だ。遠慮なく廊下を進み、執務室の扉を叩くと、室内からのいらえも待たずに扉を開けた。
「ウラート! 帰ってきたのか!」
 目を細めて不敵に口元を歪める王とは対照的に、リュ・リーンは暗緑の瞳を大きく見開いて驚きを露わにする。が、それもすぐに満面の笑顔へと変わった。
「ウラート・タウラニエスク、リーニスより帰参いたしました」
 腰を折り、上目遣いに挑むように王に頭を下げると、シャッド・リーン王が喉の奥で笑い声を上げる様子が見える。
 この国王はいつでも臣下を煙に巻くが、決して凡庸な王ではない。そのことをウラートは厭と言うほど見せつけられてきた。
 ウラートが腰を伸ばし、リーニスの現状を報告しようと口を開くより早く、王は顔をフニャリと崩して隣りに立つ息子に声をかける。
「リュ・リーン〜。ウラートも戻ったことだしぃ〜。お前は少し休めぇ〜」
「そう言って俺の従者をこき使うつもりか? 冗談じゃないぞ。リーニスから戻ったばかりのウラートを親父の手足のごとく使われたら、俺が聖地に行くときの侍従頭がいなくなるじゃないか! リーニスの報告なら書面で届いていただろう。俺の侍従は連れて帰らせてもらうぞ」
 リュ・リーンの瞳が剣呑な光を湛え、父親の言葉に反抗した。スタスタとウラートの傍らに歩み寄ると、リュ・リーンは遠慮なく従者の腕を取り、執務室から引っぱり出そうとする。
「リュ……。殿下、王陛下への報告が終わっておりません!」
「お前がこまめに送ってくる報告書のお陰で、口頭での報告は必要ないはずだ。長旅で疲れているんだから、お前は今日くらい休め! でないと、親父にいいように使われるだけだぞ」
「報告書は報告書です。詳しいことはやはり私の口からでないと……」
「お前の主人は俺だ。親父じゃない!」
 ギラリとリュ・リーンの瞳が光った。トゥナの人間ならその瞳を見ただけで怖じ気づいてしまいそうだが、ウラートには通じないようだった。
 腕を鷲掴みにしている王子の手をそっとはずすと、ウラートは相手の瞳を覗き込んで言い含めるような口調で相手をなだめた。
「陛下へのご報告はすぐに終わります。信用していただけないのなら、廊下でお待ちください。終わったらすぐに王子宮へお供しますので」
「……判った、廊下で待つ。おい、親父! 俺の従者をサッサと返せよ!」
 父親をチラリと一瞥すると、リュ・リーンは足音も荒々しく部屋を出ていった。もちろん、そのまま廊下を歩いていったりはせず、扉のすぐ目の前でウラートを待っているのは間違いない。
「やぁれやれ。ウラートが帰ってきた途端に我が侭の虫が騒ぎ出したようだな。まったく、我が侭を言う顔つきはミリアにそっくりだ。……で、ウラート。報告書の内容以上に重要なことでも起こったのか?」
「いえ、砦でちょっとした話を聞きまして。……リュ・リーンがオフィディア伯サイモス卿の異母弟ランカーンとつき合いがあると」
 ウラートの潜めた声にシャッド・リーンが片方の眉をつり上げた。苛立っているという表情ではない。この国王は明らかに面白がっていた。
「ほほぅ。あいつもいっぱしにランカーンを顎で使うようになったか」
「笑い事ではありません。リュ・リーンがオフィディア家の当主をすげ替えようとしていると噂にでもなったらどうなさるのです。ギイ伯との均衡を取るためにオフィディア伯を重用しているというのに、跡継ぎの王子が現当主を軽視しているなどと誤解されては、最悪の場合サイモス卿がギイ家と手を組みますよ」
 潜めてはいるが、ウラートの声は鋭かった。扉の向こう側にいるであろうリュ・リーンを気遣って大声を出さないが、自分の主人を守るためなら、その主人の父親であろうと容赦しないつもりのようだ。
「おぉ、怖い! ウラートの綺麗な顔で凄まれると、リュ・リーンの癇癪など子供だましだな」
「陛下! 遊んでいる場合ではありません!」
「判った、判った。そう怒るな。……まぁ、大丈夫だよ。サイモスは小心者だ。そしてオフィディア家の人間にしては、欲が少ないときている。もしも異母弟のランカーンが本気で当主の座が欲しいと言えば、あいつはアッサリと譲るだろうよ。妻の地位を守ってやる必要もなくなったことだしな」
 頬杖をつき、睨みつけてくるウラートの藍色の瞳を見上げると、シャッド・リーンはいたずらっ子のような笑い声をあげた。相手の毒気を抜く、いかにも無邪気な笑いだ。
「ウラート。リュ・リーンもバカじゃない。ランカーンの奴を振り回し、引っかき回している最中だ。あれの目に適うような人材かどうか、お前も見極めておけ。……先ほどリュ・リーンが王子付き近衛に増員を要求してきた。どうも、ランカーンが絡んでいるようだからな」
「何もかもご存知、という訳ですか……」
 ウラートがため息とともに肩の力を抜く。気負ってここまでやってきたのがバカらしい。
「なに、かしましい女官連中の噂話がこういうときは役に立つってことだ。お前だってそれはよく知っているだろう、ウラート」
「そのようですね。だからこそ、噂を侮ることはできませんよ。リュ・リーンと話をしてきます。彼が何を考えているのか聞かないことには……」
「あぁ、そうしてくれ。……頼むぞ、ウラート」
 小さく頷き、ウラートは王に背を向けた。その背に王が再び声をかける。
「選王会で貴族連中が浮き足立っている。聖地にはギイ伯シロンとオフィディア伯サイモスも行くことになる。……サイモスはともかく、シロンの動きを封じる必要があるぞ。あれは、リュ・リーンには目障りな存在だからな」
 ウラートは振り返ると、王の真似をして不敵な笑みを口元に湛えた。昔の彼ならこんな顔はしなかっただろう。ただオドオドと相手の顔色を伺うばかりで。
「もちろん、承知しておりますよ、陛下。全力で、王子殿下の行く手を遮る者を排除いたしますとも!」
 大仰なほど深々と腰を折り、ウラートが一礼する姿を、シャッド・リーンが頼もしげに見守っていた。王の口元には至極満足げな微笑みが浮かんでいる。
 無言のままの王を残し、ウラートが執務室を退出すると、すぐ目の前にしかめっ面のリュ・リーンが立っていた。それほど待たせたわけではないが、彼の眉間に刻まれた皺の深さが、端的に彼の不機嫌の度合いを示している。
「お待たせしました、殿下」
「遅い。待ちくたびれた!」
 口を尖らせるリュ・リーンに柔らかな微笑みを向け、ウラートは廊下の先を指さして王子を促した。
「参りましょう。私がいない間の色々をお聞きしたいですしね」
「お小言が言いたくてうずうずしてるだろ。そうはいかないからな。お前がいなくても、俺一人でやってきたんだぞ」
 ふてくされた口調でウラートに返事を返しながら、リュ・リーンは先に立って歩き始めた。心なしか、彼の足取りが弾むように見える。
「お一人でこなせたかどうかは、お話を伺ってから判断させてもらいましょう。……たぶん食事に関する限り、あなたは見張りがいないとメチャクチャですからね」
 背後のウラートの嫌味に、リュ・リーンが渋面を作って舌を出した。
 後ろにいるウラートにその様子が判るはずもない。が、彼は微かな笑みを口元に浮かべ、まだリュ・リーンより精神的に優位にいる自分を確認して満足しているようだった。




 フードを目深に被った男を振り返り、ウラートは眉間の皺を深くする。聖地へと向かう王子の行列のなかに紛れるこの男のことが、ウラートにはよく判らなかった。
 名をシーディ。オフィディア伯サイモスの異母弟ランカーンがゼビ王国より連れ帰った流浪の剣士だと言う。
 瞳の色以外、外見的な特徴はリュ・リーンに瓜二つの男を初めて目にしたときは、さすがのウラートも眼を丸くしたが、見馴れてみると、当たり前のことではあるが雰囲気はまったく別人のものである。
「それにしても……」
 ウラートは知らず知らずの間に小さな呟きを漏らし、それに気づくと慌てて前方の山脈を見上げ、それからすぐ前を往く年下の主人の背を睨みつけた。
 王都ルメールに戻ってすぐにリュ・リーンから聞かされたランカーンとのやり取りに、ウラートは少なからず腹を立てたのだが、それ以上に目の前の男を召し抱えたリュ・リーンの酔狂に呆れ返っていた。
 自身の影武者にするでもなく、ただ単に近衛兵にするだけのために召し抱えたと聞いたときには、リュ・リーンの頭がおかしくなったのではないかと思ったほどだ。
 それでもガミガミと説教をするでもなく、リュ・リーンの思うがままにやらせているのは、私生活以外のことでは、リュ・リーンは正しいと思ったことを絶対に撤回したりしないからだ。
 だからと言って、周囲の者の言葉に耳を貸さないわけではなく、間違いがあればそれを訂正する器量も持っている。いつも態度が素っ気ないために、彼が間違いを訂正しているのだと周囲の者が気づかないだけで。
 結局のところウラート自身がやることと言えば、リュ・リーンがより動きやすいように、周囲の者たちとの橋渡しをすることに終始していると言ってもいいだろう。円滑に人を動かせるというのは、組織の頂点に立つ者にとっては何よりも重要なことであるのだが。
「仕方ありませんね。彼の人となりを探っておきましょうか……」
 気乗りしないことであったが、ウラートは自分の役割を思い出したように馬の歩みを緩め、後ろに従っている男の馬と愛馬を並ばせた。
「何か用か?」
 シーディという男は人嫌いというわけではないようだった。その証拠に、こちらから話しかける前に彼のほうから声をかけてくる。もっとも、言葉少なではあるが。
聖地アジェンでのしきたりを憶えましたか?」
 これから向かう先は、トゥナの王宮以上に陰険な連中が集まっている場所だ。隣りを歩む男は王子と似ているだけに、何かと注目されるだろう。些細なことで揚げ足を取られるのはごめんだった。
「付け焼き刃ながら、一応は。だが、実際の場面で役に立つかどうかは判らんな。あの王子様と違って、オレは育ちの良くない人間なんでな」
「それでけっこうですよ。完璧など、王子も求めてはいないでしょう」
「どうだか。あんたが王都に戻ってくるまでの間のリュ・リーン王子の態度を知ってるか? オレをボロカスにこき下ろして、使えない奴だと嘲りやがったんだぞ」
 フードの下から覗いているシーディの口元が、腹立たしそうに噛み締められた。自嘲を僅かも含まない憤りに、ウラートは口元をほころばせる。彼の負けん気の強さはリュ・リーンにひけを取らないようだ。
「本当に使えないと思ったのなら、当の昔にお払い箱にしていますよ。王子はそりの合わない人間を手元に置くお方ではありません」
「王子とのつき合いの長さの最長記録を更新しているあんたに言われると、むかついてくるな。捨てられるほうが悪いような言い方だ」
「私は嘘を言っているわけではありませんからね。腹が立つのはそちらの勝手です」
「あんただってオレと大差ないくせに」
 苛立ったシーディの言葉の意味するところを理解して、ウラートは目を細めた。女性的ともいえる彼の柔和な顔立ちが、一瞬にして仮面のように固まる。
性奴スィーヴ上がりが王子の養育係をやってるんだ。あの王子様の変わり者ぶりはあんたのせいだろ? どんな手管を使ってたらし込んだんだか、是非ともご教示願いたいね」
「……それを本気で望んでいるのなら、お教えしますよ」
 ウラートの静かすぎる声に、シーディが言葉を詰まらせた。フードの下から覗く彼の灰色の瞳が、気味悪そうにウラートの横顔を見つめる。
「なんで怒らない?」
「ばかばかしすぎて怒る気にもなりません。その程度の挑発に乗っていては、王子の近衛などできませんよ? あのお方は人使いが荒いですからね。覚悟しておきなさい」
 冷たくそれだけを言い渡すと、ウラートは愛馬の脇腹を蹴ってシーディから離れた。
 内心の煮えくり返るような怒りを抑え込むのに苦労する。貴族連中にいつも言われていることだと自身に言い聞かせても、沸騰する怒りに馴れるわけではないのだ。
 なぜリュ・リーンはこんな不愉快な輩を手元に置こうとするのだろうか。別にシーディなどいなくても、彼は充分に王太子としてやっていけるはずなのに。居なくても良い人材など無益なだけではないか。
 表面上は無表情であったが、ウラートは前方の王子の背を射抜くほど鋭い視線で睨んだ。胸の奥に沸き上がってくる苦みが、ひどく息苦しい。
 この想いは、自分がいない間に見知らぬ男を側に置いたリュ・リーンと、似ているというだけで王子の側にいるシーディに対しての嫉妬だろうか? それとも自分の居場所がほんの少し狭くなったことに対する不安なのか?
 ウラートの視線の先では、王子の羽織る新調されたばかりのマントが、縫い取られた金糸を鈍く輝かせて揺れていた。複雑に絡み合う蔓草紋様と鎖紋様のなかに、トゥナ王家の紋章が浮き上がっている。
 見慣れた意匠だった。国王シャッド・リーンも同じ紋章の、さらに派手なマントを羽織っている。王家の直系にのみ使用が許される紋章を、ウラートは複雑な想いで見つめていた。
「ウラート。ちょっとこい」
 ふいにリュ・リーンに呼びかけられ、ウラートは動揺した。一瞬だけ目を伏せたが、すぐに気を取り直すと、巧みに馬を操って前方へと駆けていく。
「御前に、殿下」
 心のなかの動揺を表面に表すことなく、ウラートは主人と馬首を並べた。彼の夜明け寸前の空の色をした瞳が、王子の青白い横顔に浮かんでいる苦笑を見つけて尖った。
「何を面白がっているんですか、リュ・リーン」
「お前、俺を睨み殺すつもりなのか? 先ほどから背中が痛くて仕方がないぞ」
「おや。自覚があったのですか? それは残念ですね。判っていらっしゃったのなら、もっとおおっぴらにやればよかった」
 ウラートの嫌味にリュ・リーンがさらに苦笑を浮かべ、チラと肩越しに背後の隊列を見遣った。蟻のように長く続く列のなかにシーディの姿を見つけると、彼の口元が不機嫌そうに歪んでいることをしっかりと確認する。
「シーディとやり合ったか? お前にしては珍しく、本気で怒っているようだな。何を言われたか知らないが、聖地では機嫌を治してくれよ。お前の調子が悪いと、俺の仕事が一つも片づかないからな」
「あんな俗っぽい男など召し抱える必要があったんですか? 不愉快です。傭兵上がりのくせに、身の程を知らないとは」
「ウラート。お前らしくない言い方だぞ。俺が愚痴を聞かされて喜ぶとでも思っているのか?」
 冷徹な声音のリュ・リーンをウラートは剣呑な視線で睨んだが、すぐに瞳を伏せてため息をついた。
「すみません。頭に血が昇っているようです。自分の隊列に戻ってもよろしいでしょうか?」
「あぁ。聖地に到着したら忙しくなる。……頼むぞ」
 ウラートは王子に小さく頷き、馬首をめぐらせて自分の隊列へと戻っていった。胸中に渦巻いていた苛立ちが、リュ・リーンと話をしたことで少し落ち着いてきたようだ。
「他愛のない話をしただけで機嫌が治るとは……。まるで女のようですね」
 誰にも聞き取れない呟きを舌の上で転がすと、ウラートは自嘲に口元を歪めて嗤った。




 気分は最悪だった。ウラートは努めて顔には出さないようにしていたが、たぶんリュ・リーンには気づかれているだろう。
 聖地アジェンに入城してすぐ、リュ・リーンはシーディにフードを取るよう命じていた。それでなくても今回のリュ・リーンは周囲から注目を集めるだろうに、そこに余計な話の尾ひれがつくような話題を提供することもあるまいに。
 王宮の棟を繋ぐ回廊を足早に歩きながら、ウラートは忌々しげに舌打ちを繰り返した。今回のリュ・リーンの酔狂が理解できない。王都ルメールで詮索したときもはぐらかされたが、ここへ来る道中でも彼の真意を図ることができないままだった。
 ふと回廊の途中で足を止めると、ウラートは視界の隅に映った人影を透かし見る。この不愉快の原因である傭兵上がりの男が、ムスッとした顔つきで回廊の端から階下の様子を眺めている姿があった。
 何をしているのだろうかと微かな好奇心が頭をもたげたが、関わり合いになるのも腹立たしく、ウラートはそのまま行き過ぎようと背を向けかける。が、それよりも早く、相手のシーディが仏頂面のままこちらに向かって歩いてきた。
 前方に立っているウラートに気づいたようだが、ウラートに負けず劣らず不機嫌になっているらしい彼は、ウラートを無視するという選択肢も思いつかない様子で近づいてくる。
「おい! 何か仕事はないか? このままじゃ、オレの気が狂う」
「来てすぐだというのに、もう聖地の障気に当てられたんですか? そんな柔なことじゃ、近衛侍従としてやっていけませんよ」
「侍従? 近衛兵にはなったが、侍従になった憶えはないぞ! 冗談じゃない。オレにあの王子の夜伽でもしろと言うつもりじゃないだろうな」
「あなたの顔では絶対に無理です。安心しなさい。少しは落ち着いたらどうですか。キャンキャンと周囲に当たり散らされるのは迷惑ですよ」
「だったら、何も考えずにできる仕事をよこせ! 何もせずにボゥッとしていると、身体が腐っていきそうだ」
 苛立ちを隠さないシーディの態度は、数年前までのリュ・リーンによく似ていた。ピリピリと張りつめ、少しのことですぐに噛みついてくる。懐かしい感覚にウラートは渋面を作った。
「馬の世話でもしてきたらどうです? どうせ殿下の身のまわりの世話などやる気にならないでしょうし」
「とっくに追い出されたよ。この面でウロウロされると心臓に悪いんだとさ!」
「あぁ、そうですか。では厨房で酒でももらって飲んでいたら?」
「お前、オレが他に何もできないと思っているだろう?」
 こめかみに青筋を立てたシーディを、ウラートは冷たく一瞥したが、すぐに顔を背けて歩き始めた。彼につき合っている暇などない。仕事は自分から探せばいくらでもあるのだ。それくらい自力でなんとかしてもらわなくては。
「ちょっと待て! オレを無視するな!」
 噛みついてくる相手にまともに対応していたのでは、時間はいくらあっても足りない。さっさと無視して自分の持ち場に戻ったほうが賢明というものだ。
 しかし、ウラートの後ろにはシーディがぴったりと張りついている。がなり立てるシーディと素っ気ない態度のウラートの二人連れが廊下を行き過ぎると、行き会った他の従者たちは呆気にとられて彼らの背中を見送ることになった。
 さしものウラートも、いっこうに離れようとしないシーディに業を煮やし、険悪な顔つきで振り返って相手の灰色の瞳を覗き込んだ。
「少しは自分で考えたらどうなんですか? あなたは誰かから命じられないと、何もできないんですか!?」
「お前だってやろうとすること全部、そんなことしてもらわなくてもいいと言われてみろ。少しはオレの気持ちが判るだろうよ!」
「そこで大人しく引き下がらなければいいでしょうに!」
「オレが近寄るたびに怯えられてみろ。気が滅入って仕方がない!」
 吼え立てるシーディの遙か後方に、二人の成り行きを見守っている同僚たちの姿が見える。たぶん、自分の背後にも同じように人垣ができているだろう。この階どころか、他の階の人間まで覗きに来ているに違いない。
「だったら、あなたと同じ顔をした人に文句を言いに行きなさい! 私に八つ当たりされるのは迷惑です!」
「あいつは今、女といちゃついてるところだよ!」
「誰があいつですか! ちゃんと殿下と敬称で呼びなさい!」
「自分と同じ顔をした奴に敬語なんか使えるか! 気色悪いだけだろうが!」
 周囲の人間たちはハラハラとした顔つきで見守っているばかりで、止めに入る勇気を持っている人物は一人もいない。殴り合いになりそうな二人の剣幕に恐れをなして、遠巻きに見守っているで精一杯のようだ。
 彼らの間に落雷の声が響いたのは、喧噪が頂点に達しようかというところだった。
「やかましいぃっ! 静まれっ! これ以上騒ぐつもりなら、聖地の外へ出てやってこい!」
 二人同時に声の方角に振り返って見れば、黒と銀の影が寄り添うように佇んでいる。目を怒らせているリュ・リーンと、彼の側に付き従う聖地の姫の存在に、他の従者たちは潮が引くように姿を消した。
「お二人とも元気が有り余っていらっしゃるようね。これなら、兄様のお相手に充分ですわ」
 隣りに立つリュ・リーンの顔を下から覗き込み、聖地の姫カデュ・ルーンがニッコリと微笑みを湛えた。
 それに応えて笑みを浮かべるリュ・リーンの顔つきが、今までに見たこともないくらいに甘ったるく見えるのは、ウラートの気のせいではあるまい。ウラートのすぐ脇では、シーディが胸焼けを起こしたように口元を歪めて舌を出している。
「リュ・リーン。あなたの両腕のうち片腕をお借りすることになるわ。あなたのほうは大丈夫なのかしら?」
「心配しなくていい。シーディの剣の腕前は俺には劣るが、ダイロン・ルーンの稽古相手にはちょうどいいはずだ。彼にも手加減しなくていいと伝えておいてくれないか」
「ありがとう。兄様に伝えておくわ」
「見間違えようもないが、シーディの面通しも終わったし、今日はこれで帰ったほうがいいだろう。俺が奥宮まで送っていくよ」
 カデュ・ルーンの手を取って二人から背を向けたリュ・リーンだったが、ふと振り返ると、固まっている二人に鋭い一瞥を与えた。
「ウラート。明日からカストゥール候がこちらの中庭に通われる。シーディを剣の稽古相手にさせるから、その間は他の者を庭に近づけるな。それから、シーディ。稽古の最中、候に怪我を負わせることは許さん。宿酔ふつかよいなんぞで顔を出したりしたら、ただで済むとは思うなよ」
 有無を言わせぬ主人の声に、ウラートは反射的に腰を折ると了解の態度を示す。が、シーディはなんとも言いようのない複雑な表情を作って、サッサと歩み去る雇い主とその恋人の後ろ姿を見送った。
「なんなんだ、あいつは。オレを貴族の遊び相手に指名しやがったのか!?」
「本当に、なんて人でしょうね。私が王子の右腕なのは判りますが、こんな暴れん坊と一緒にされて両腕呼ばわりされるとは。甚だ不愉快です」
「おい、お前。今、さりげなくオレのことをこきおろしたな!?」
「人間、真実を告げられると腹が立つものですね」
 サラリと相手の言葉をかわすと、ウラートはサッサと持ち場に向かって歩き始めた。シーディの仕事は明日からということが判ったのだ。もう自分にまとわりつかれる理由はない。
「オレをバカにするのもたいがいにしろ!」
「暇人につき合っている時間の余裕なんかありません。遊びたければお一人でどうぞ」
「女遊びもできない辛気臭い街で何をしろと言うんだ!」
「だったら、男遊びでもしたらどうです」
 ウラートの背後からシーディの怒声が響いてきたが、彼は無視を決め込むと、自室に割り当てられた部屋に滑り込んで扉を手早く閉めてしまった。
 廊下では、まだシーディが口汚くウラートを罵っている声が響いているが、耳から入ってくる鬱陶しい音を遮断して、ウラートは自分の仕事へと戻った。
 忙しい。王子はまったくもって自分を忙しくしてくれる。
 トゥナのことだけでも慌ただしいのに、それに加えて明日からはカストゥール候ミアーハ・ルーン卿の世話まである。氷の美貌を持つ貴公子に難癖をつけられないよう、明日は完璧に出迎えねばなるまい。
 不機嫌そうに眉間に皺を寄せたまま、ウラートは明日の準備のための部下の仕事分配を決め始めた。

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