移ろい花
花街の紫陽花
 雅屋の若旦那は顔は綺麗で気性は穏やか。芸も達者で風流人。
 いつの頃からか、呉服商人どころか町往く人の間でも評判になっているけれど、そんなことはこの花街の女たちなら誰もが当の昔に知っていること。
「あぁ、若旦那。おいでなさいませ。あいすみませんねぇ、ご足労かけちまって」
 赤い塗りの柱に手をかけてぷらぷらと入ってきた若い美男に女将が艶めかしい足取りで近づいてくる。四十路を超えているであろうに、十は確実に若く見える化粧をして、流し目を送る姿はさすがに商売女。
「どうしましたね、おえいさん。……店までわたしを呼びにくるなんざぁ、今までなかったことだけど?」
 年若い男が気に入りの扇子で自分のすんなりとした顎を撫でながら、黒目がちな瞳をひたと艶女に向ける。
「いえね。新しくきた子どもの見立てをして頂きたくて……」
「そいつはお前さんの仕事じゃないかね? 客に見立てをさせたとあっちゃ、女将の名折れじゃないかねぇ」
「そんな冷たいこと言わないでくださいな。あちきの手に余るからお願いに上がったんじゃございませんの」
 恨みがましい視線を投げかけ、生白い顔を近づけてくる女将の仕草に苦笑を浮かべると若旦那は手持ちの扇子をはらりと広げて口元を覆い隠した。
「いいのかねぇ、わたしなんぞに頼んで。見立てをする振りをして喰っちまうかもしれないよ?」
 青年の穏やかな黒目が悪戯っぽく光っている。覆い隠した口元もきっと同じように笑みを浮かべていることだろう。
「よござんすとも。若旦那の趣味に合うならどうぞお好きに。……でもねぇ、ずぶの素人でございますよ?」
「たまには玄人女じゃなくてもいい、とわたしが言ったらどうするつもりだい」
 自分のからかいに女将がしゃあしゃあと答えを返すことに青年は気をよくしたか、その綺麗な顔をほころばせて満開の笑みの花を咲かせた。
 まったく男にしておくには惜しいほどの美貌に、女将のほうが一瞬見惚れて赤くなる。
「それじゃ、いつもの紫陽花あじさいの間で待っていてくださいな。その娘に茶を運ばせますから」
 自分の滑稽さに狼狽えた女将は早口に言葉を紡ぐといそいそと奥へと引っ込んでいった。さすがに置屋の女主人が客の顔に見惚れたとあっては格好がつかないらしい。
 残された若旦那は女将と入れ替わりに現れた下男に下駄を預けて、悠然と階段を上がっていく。優雅な足取りは変わりなく、舞でも舞っているような後ろ姿だった。
 さて、いつものように案内もつけずに紫陽花あじさいの間へとやってきた若旦那は、襖を開けたところではたと立ち尽くした。先客がいるではないか。
「おや?」
 先客といっても男ではない。ようやく十になったくらいの少女である。
 子どもは無心に床の間の掛け軸を眺めていた。部屋の名前の由来になっている紫陽花あじさいの花とそれを見返る艶めかしい女の白い横顔が、その子どもの視線を受け止めている。
 部屋に入ってきた者がいることにも気づいていない様子で、一心不乱に絵に見入る姿はどこか張りつめていた。
 バタバタと忙しない足音が響いて女将が姿を現した。険しい顔つきをして一直線に若旦那の側にやってくると、部屋のなかを覗いていっそう目をつり上げる。
「おはつ! 探してもいないと思ったら、またこんなところに勝手に!」
 若旦那を押しのけて部屋に踏み込んでいった女将は有無を言わせずに子どもに詰め寄ると、容赦なくその幼い頬を打ち据えた。
「あれほど勝手に部屋に入り込むなと言ってもまだ大人しくしてないのかい! あちきの言うことが聞けないなら、今すぐくるわの通りに放り出してやるよ!」
 娘の前に仁王立ちになった女将の形相は凄まじく、鬼が人を食い殺すような悪相だ。
「およしよ、おえいさん。物珍しいんだろうよ」
「いいえ! いつもいつもこの部屋に入り浸って、言っても聞きやしない。今日もお客がくるからと勝手に入らないよう言いつけておいたってのに!」
 いらいらと声を荒げる女将をそっと諫めると、青年は畳の上で身体を小さくしている娘の前に跪いた。
「そうカリカリしなさんな。小皺が増えるよ。……この娘だね、わたしに見立てをさせたいと言っていたのは。おはつというのかい?」
 後の言葉は娘に向かって発したのだが、その本人は頑固に口を引き結んでいっこうに返事を返してくる様子がない。
「何をだんまりしてるんだい! ちゃんと答えなきゃ駄目だと前にも言っておいたろう!」
 再び女将が荒れ狂った声をあげた。
「およしよ、女将。まだ子どもじゃないか。……ここはわたしに任せておくれ」
 若旦那の言葉に渋々とほこを収めた女将が下がっていくと、娘と二人残された若旦那はほっとため息をついた。
「やれやれ。おっと……」
 娘に向き直ると若旦那は小さな笑みを浮かべた。
紫陽花あじさいが好きなのかい?」
 こくりと頷く幼い頭をそっと撫でてやり、若旦那は浮かべた笑みを深くした。
「わたしも好きさ。日が経つにつれてどんどん色を変えていく姿なんざ、お前さんがたのように綺麗じゃないかね」
 娘と同じようにじっと掛け軸を見上げると二人してしばし絵に魅入る。
「お初はどうしてこの花が好きなんだい?」
「……」
 押し黙ったまま答えようとしない子どもの様子に若旦那は首を傾げた。どうしたものだろうか。
「名前……知らない人と話をしちゃ駄目なの」
 もそもそと呟いた子どもの横顔に困惑を見て、若旦那は破顔した。生まれ育った家庭で躾けられたのだろう。見知らぬ人についていくな、話をするな、と。
「そうだった。わたしとしたことが名前を名乗っていなかったなぁ。……わたしの名前は真左右衛門しんざえもんさ。近しい者は皆“しんざ”と呼ぶねぇ」
 じっと聞き耳をたて、こちらの顔を真剣な面もちで見上げていた子どもが丁寧に座り直すと行儀良く頭を下げた。
鮒皆村ふなかいむら権六ごんろくの娘“はつ”です」
「ほぅ。これはこれは……。立派な挨拶ができるじゃないかね」
 頭を上げたお初がじっと若旦那の顔に見入っている。
「どうしたね? わたしの顔に何かついているのかい?」
 優しげな笑みを子どもに向けると、若旦那は両手で自分の頬をなで回した。その仕草はまるで子どもが口元を拭っているように無邪気なものだ。
「……真左右衛門さんは男の人?」
「おや! おやおやおや! わたしが女に見えたのかい?」
 いたく驚いたという顔をして若旦那は目を丸くしてみせた。しかし本当のところはいつものことだった。よくよく見れば男だと判るだろうが、一見しただけでは女に間違われることはしょっちゅうだ。
「声は男の人なのに、顔はあんまり優しい顔をしているから……」
 子どもなりに申し訳ないと思っているのだろう。お初が困ったように俯いて指をもじもじと絡ませている。
 その子どもの身体をひょいと抱き上げると、若旦那は再び掛け軸に向き直った。意外と腕力があるらしく、子どもの身体を持ち上げる様子にまったく気負いがない。
 膝の上で娘が体を固くして俯いている。よく知らない男の膝に抱きかかえられ怯えているのだろう。
「お初は幾つになるんだい?」
 おどおどとした様子の娘の桃割れ頭を撫でてやりながら、若旦那はじっと掛け軸に視線を注いでいた。その掛け軸のなかでは紫陽花あじさいを見返る美人が艶っぽい視線を花の群に向けている。
「と、十です……」
「そうか。十になるのか。それじゃあ女将が焦るのも無理はないなぁ……」
 男の言っている意味を図りかねた娘が首をねじって振り返った。自分の歳と女将がどうやったら繋がるのか判らないのだ。
「お前さん。ここがどういう場所か知っているかい?」
 首まで真っ赤になりながらお初が頷いたのを見て、若旦那は苦笑した。どうやらこの年格好の割には物をよく知っている子どものようだ。
 自分を抱き上げた相手が男である以上、どういう目で自分が見られているのか想像できてしまうのだろう。怯えていたのはそのためか。
「そうか。お初は賢いね。置屋おきやは春を売るところだからねぇ。……でも今すぐにってことじゃないさ。お前さんはまだ十だからね」
 それに……、と続けようとした男の声を遮って子どもがその後を継いで話し始める。
「お父ちゃんの労咳の薬がいるんです。早くお金を稼がなきゃいけないし……」
「うん……。そうか。お初はお父ちゃんを助けにきたんだな。でもお初の歳じゃ、すぐにはお金は稼げないねぇ。お初が稼げるようになるまでは女将がお父ちゃんの薬の金を出してくれているんだろう?」
 淡々と言葉を続けながら、若旦那は顔を曇らせた。
 置屋は芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋や料亭などに差し向けることを生業なりわいとしている場所だ。揚屋あげやにあがるにはお初の年齢ではまだ無理な話だった。
 突然に娘は男の膝から飛び出すと畳に額を擦りつけて頭を下げた。
「お願いです! あたしを買ってください! 薬代が……いるんです」
 父親の病で出来た借財のかたにこの置屋に売られてきたのだろう。父親を助けるためには、高い薬を買うための金がいる。それを自分が作ろうというのだ。
 お初は幼い肩を震わせて畳にひれ伏していた。
「その時期がきて、お前さんの気が変わっていなかったら、そのときは揚屋にお前さんを呼び寄せようか。でも今日はお前さんを買うために来たわけじゃないんだよ」
 強ばった顔のまま娘が顔を上げた。自分を買うためでなかったら、いったい何をしようというのか。彼女には皆目見当がつかない様子だ。
「お初。お前さん、三味しゃみを弾くことも、小唄を唄うこともできないだろう? ここは女郎屋じょろうやじゃないからねぇ。芸を覚えてなんぼなんだよ。それができなきゃ、お前さんの身の置き所は廓屋くるわや辺りに落ち着いちまうからねぇ」
 ほっと嘆息すると男は哀しそうに微笑んだ。
 娘が置かれている立場を説明してやるのは、少々心が痛んだ。この花街にやってくる女たちはいつだって哀しい過去を背負っている。生きてここから出ることが叶う女はほんの一握りだけなのだ。
「女将はお前さんが何に向いているのか図りかねているんだろう。わたしなんぞにお前を見立ててやってくれと頼みにくるくらいだからねぇ」
「なんでも習います! 教えてください!」
 娘には選ぶ権利などなかっただろう。それを確認させている自分に嫌気が差して、男は口元を歪めた。
 この置屋の女主人はなんと厭な役回りを押しつけてくれたことか。
「お初……。ちょっとここへおいで」
 娘を自分の目の前に差し招き、その手を取ると若旦那はじっと幼い手を見つめた。細く長い指はまだ子どもの幼さを残していたが、すでに働いている者の指だった。
「百姓をやっていた割には荒れていないね。でも指先にはマメができた痕がある。お前さんは家で何をやっていたね?」
「機織りを……」
 娘の言葉に得心したのか、若旦那は優しげな笑みを浮かべて相手を見つめた。
「そうか。鮒皆村には機織りの上手い者がいると聞いていたが……。お前さんの実家がその家なんだな」
 呉服屋仲間のなかでも有名な話だ。三つ向こうの鮒皆村には、腕のいい機織り女がいると。この娘の母親辺りがその機織りなのだろう。その母親についてこれまでずっと機織りを習っていたに違いない。
「お母ちゃん、先月に死んだんです……」
 ぽつりと呟いた娘の暗い声に男は胸を突かれた。
 父は病の床につき、頼みの母が亡くなったとあっては、彼女を助けてくれる者はいないに等しい。
「婆ちゃんがお父ちゃんの看病しなくてはいけないから、あたしがお金を稼ぐの」
 この花街ではよく聞く話だと言ってしまえばそれまでだ。だがそう割り切ってしまうには娘はまだまだ幼い。何も言えない男にかまわず、娘はとつとつと話を続けた。
「六つと三つになる弟たちもいるから……。お父ちゃんの病気、治さないと……」
 娘の瞳に涙はなかった。涙を流し尽くしたのだろう。世の中にはどうしようもないことがあるものなのだと、この歳で悟ってしまったのだ。
「だから……三味線でも小唄でもなんでも……なんでも教えてください。あたし全部覚えます」
「そうか……。うん。そうだな。芸事をどんどん覚えなければならないねぇ」
 自分が見立てるまでもない。この娘は自分のやるべきこと、やらなければならないことをすでに知っているではないか。
「それにしても女将はいったいどういうつもりでわたしを呼んだりしたのかねぇ。……お前さんの見立てなぞ必要もないことだろうに」
 首を傾げて自分を見つめる娘の顔はきょとんとしている。
「真左右衛門さんは三味線の先生じゃないの?」
「まさか! 自分で三味線を弾くことはできるが、人に教えるなんざ……」
 ふと途中で言葉が止まった。人に教えるなんざ……?
『花は愛でるばかりじゃつまらんよ。育ててなんぼ……そう手塩にかけて育てたほうが何倍も綺麗さぁね』
 突然に頭に浮かんだ自分の三味線の師匠の言葉に若旦那は呆気にとられた。
 なんだろう。言われた当時は「そんな面倒なことを」と思ったものだが、今突然に合点がいった。その通り。育ててなんぼ……。
 幼い娘が紫陽花あじさいの色のようにいかように変わっていくのか。それを間近で見続けるというのはなんと心楽しげなことだろうか。
 やおら立ち上がると男は口元を引き結んで掛け軸へと目を走らせた。居ても立ってもいられないといった様子で、驚いて自分を見上げる娘のことも忘れているのではないだろうか。
「そうか。そうだそうだ。その手があったじゃないか」
 譫言のように呟く若旦那の様子に娘は呆気取られて見守るしかない。いったい何を言っているのだろうか?
「あの……」
「あぁ、そうだ。お前さん。わたしが三味線の師匠に見えるかい?」
 今の今まで春を買いにきた客か芸事の師匠だと思っていたのだ。見えるも何も、そのものだと思い込んでいた人間にそれはないだろうに。
「あたしはてっきり芸事のお師匠様だと……」
「そうか。それじゃ、そのままわたしがお前さんの師匠をしよう。そうしよう」
 口の中でぶつぶつと呟いている男はすっかり自分の考えが気に入った様子で、ふらふらと部屋の襖に歩み寄っていく。
 自分の考えに気取られてすっかりお初の存在を忘れてしまっているようだ。
「わたしが育てればいいんじゃないか。なんだ簡単なことだ……」
 襖を開けてふらりと歩き出した男を追ってお初も廊下へ飛び出した。いったいどうしてしまったというのだろうか?
「あれ? 若旦那、どうなさったんです? まさかもうお帰りですか?」
 茶を入れて上がってきた女将が驚いて、階段の上で立ち止まる。
「あぁ、おえいさん! 丁度良いところへ」
 まだどこか夢見心地で歩み寄ると若旦那は楽しそうに笑みを浮かべて女将の耳元で何事かを囁いた。
「えぇ!? 若旦那がですか? でも、でも……御店おたなのほうは……」
 いいから、いいから、と女将の肩を叩いて、ようやく若旦那は後ろについてきていたお初を振り返った。
「お初。近いうちに稽古を始めよう。お前さんはもう十になっているからねぇ。早く始めないと他の者に追いつけないよ」
「え……?」
「取り敢えずわたしはこれから三味しゃみの師匠に頼んで免状を取ってもらうから、今日はこれで失礼するよ」
 何が何やらさっぱり判らない娘を残して、若旦那は浮かれた足取りで置屋を飛び出していってしまった。
「お初。いったい若旦那と何を話していたんだい?」
 夢見心地の青年の様子に目を丸くした女将が少女を振り返った。だが当の本人にも何が起こったのか判っていない。
「はぁ……。若旦那好みの娘だろうと思って、初めから贔屓にしてもらえるように引き合わせたってのに……。なんでまた芸事の師匠なんかを買って出たんだか」
 ぶつぶつとこぼす女将の様子を困った顔で見上げていた娘が、その言葉に顔を輝かせた。
「真左右衛門さんがあたしに三味線を教えてくれるんですか!?」
 娘の様子にたじろいだ女将が顔をしかめる。
「若旦那を名前で呼ぶなんて。まぁ、なんてことを……」
 だがすぐに顔を引き締めると、厳かな口調で娘に言い渡す。
「いいかい、お初。近日中に若旦那が三味線の稽古をつけに通っていらっしゃるようになるからね。……間違っても師匠を名前で呼ぶような失礼をしちゃいけないからね。きちんとお師匠様と呼ぶんだよ!」
 その言葉を聞いているのかいないのか、嬉しそうに頷いた少女は踊るような足取りで女将の回りを飛び跳ねた。
「これ! ばたばたと暴れるんじゃないよ! さっさと階下したへいって、今度こそ大人しくしているんだよ」
 生返事をして階段を駆け下りていく娘の後ろ姿にため息をつくと、女将は軽く首を振った。
 世の中思い通りにはならないものだ。雅屋の若旦那は確かに風流人だが、どういう酔狂であんな少女に肩入れするのか。
「あぁ、あちきだって二十年若けりゃあねぇ……」
 無駄になった茶盆の上の茶を恨みがましい目で見つめると、女将は気が抜けたといった様子で肩を落とした。
 雅屋の若旦那は顔は綺麗で気性は穏やか。芸も達者で風流人。
 いつの頃からか、呉服商人どころか町往く人の間でも評判になっているけれど、そんなことはこの花街の女たちなら誰もが当の昔に知っていること。
 そして、それにまた一つ小粋な噂が尾ひれをつける。
 雅屋の若旦那が育てた芸妓は、花街一の三味しゃみを奏でる……。
 今となってはもう昔々のお話。粋で洒脱な色街の片隅のほんの儚い物語。

INDEX *

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石獣庭園