金と紅
Part:2
「やかましいぃっ! 出て行けーっ!」
次々に飛んでくる小物類を避けながら、アダーリオスは更なる説得を試みる。結局は無駄に終わるであろうことを予測しつつ……。
「いい加減に落ち着けよ、ミノス。怒ったって仕方ないだろ!」
「黙れ! 誰のせいだと思ってるんだよ!」
よりいっそうの怒りを込めてナイフが飛来した。アダーリオスは慌てて身をよじって後退する。
目にでも突き立ったら、失明してしまうではないか。
「危ないな! 元はといえばお前が悪いんだろ! 余計な食い意地なんか張るからだ。自業自得だっていうの!」
一歩間違えたら、殺し合いにでも発展しそうな雰囲気だ。
食事が終わるや否や、ものすごい勢いで金蠍蛇宮へと帰ってきたミノスは、当たり散らせる物という物すべてを叩き壊してまわった。
従者たちが恐れをなして、牙獣王宮へ帰り着いたばかりのアダーリオスに助けを求めに走ったのも頷ける暴風雨だ。
いつも一緒に行動していることが多いアダーリオス以外で、ミノスのヒステリーを抑えることができる人物はいまい。
しかしそのアダーリオスにしても今回のヒステリーには手を焼いている。ミノスが疲れて座り込むか、怒りを吐き出すことに飽きるまで収まりそうもない。
「出てけっ! 出て行けったら!馬鹿野郎ーっ!」
もはや絶叫と変わらない怒鳴り声を響かせてミノスは荒れ狂い、辺りの小物類をアダーリオスへと投げつける。
そのアダーリオスは飛び交う凶器を叩き落とし、蹴り飛ばしてミノスが鎮まるのを待ち続けているだけの状態だ。
金蠍蛇宮殿の外ではミノスの数年ぶりの凶行に従者たちがオロオロと狼狽し、手を取り合って座り込んでいる。主人の身に起こった出来事を知る由もない従者たちはただただ心を痛めて、主人の怒りが収まる時を祈るように待ち続けていた。
普段のミノスは悪態はつくし喧嘩はしょっちゅうという傍若無人ぶりだが、従者たちに粗暴な振る舞いをすることはなかった。その彼がこれほど見境もなく暴れ狂っているのだ。よほど腹立たしいことが起こったに違いない。
初めて彼がその美貌からは想像もつかない凶悪な形相を人前でさらしたのは、彼が正闘士に選ばれる直前のことだった。
正闘士を決める闘技戦を数日後に控えたその日、対戦相手の取り巻きの一人が発した言葉がミノスの逆鱗に触れたらしい。
……らしい、という憶測の域を出ないのは、この半死半生の目に遭った男が、今はミノスの従者としてこの宮殿に仕えているために主人の不利益になりそうなことを語らないからだ。
よもや殺しはすまい、と傍観していた兵士たちが、ミノスの容赦のない拳に数多の負傷者を出しつつも止めに入らなければならなかったことを考えれば、その怒りの鉄拳がどのようなものであったか推し量れよう。
そのとき以来、ミノスはこのヒステリーの発作を起こしていない。吹き荒れるヒステリーの嵐が過ぎ去るまで従者たちはじっと堪え忍ぶしかないようだ。
かなりの時が経ち、所在なく宮殿のまわりを彷徨いていた従者たちが疲れて一所へ固まり始めた頃、背後からの声が彼らの心臓を鷲掴みにした。
「ここで何をしているのだ、お前たち」
「……!!」
目を白黒させて振り返った彼らは声の主を確認するや、魂の抜けたように表情で相手を見上げた。
銀月の光に照らされてなお紅い髪が夜風に流され、それに縁取られて雪よりも白い肌が夜目にもはっきりと浮き上がる。さらに見つめる瞳は氷色。なのにその奥には地獄の業火もかくやという底光りする輝きを湛えていた。
魔人が地上に現れたなら、こんな瞳をしているに違いない。
「お前たち、ここの宮殿の侍従ではないのか?」
再び宵闇を切り裂く声が従者たちにかけられた。
その間、従者たちは人形のように突っ立ったまま動かなかったのだ。現れた紅の麗人に魅入られていた、と言ったほうがいいだろうか。
一人が我に返ったように頭を振り、鄭重に跪くと、麗しい来訪者に応対する。
「ご来訪に気づかず失礼を……。海聖宮殿の御方とお見受けいたしましたが……?」
相手が軽く頷くのを確認して、従者は再び口を開いた。
「我らはこの金蠍蛇宮殿と牙獣王宮殿に従事しておる者でございます。実は……」
その従者の答えを遮る破壊音がわき起こった。猛々しい音とともに崩れた壁から吐き出された人物を見て、従者たちは蒼白になる。
「牙獣王様!」
何名かの従者が吹き飛ばされたアダーリオスの元へと走り寄った。
幸い怪我らしい怪我をしている様子はない。壁に叩きつけられ、ぶち破った衝撃のために一時的に体が動かせないだけらしい。
従者に助け起こされ、ブツブツと不平を鳴らすアダーリオスに見守る従者たちの間から安堵の吐息が漏れる。石片を払いのけながら、アダーリオスは心配ないと従者たちに笑顔を向けた。
その表情が従者たちの脇に立つ人物を捉えた途端に固まった。
「カイゼル!こんな所で何をしてるんだ!?」
闇に浮かぶ白い顔が無感動にこちらを見つめている。その表情からは心中の動きなど微塵も伺えない。
「大蛇が暴れ回っているようだな……」
鉄仮面が口を開いた。カイゼルの口調からは人間臭さなど片鱗も見えない。何を考えてこの辺りを彷徨いていたのだろう。
「責任に一端は君にもあるんだぞ。食堂で君がミノスを無視し続けていれば良かったんだ」
上目遣いで恨みがましい口調のアダーリオスの態度から、ミノスのヒステリーの原因が目の前の紅の麗人であることを悟った従者たちが彼から後ずさる。
とんでもない人物が現れたものだ。非難するアダーリオスはと言えば、ミノスをなだめすかすことに疲れたのか、ゴロリと瓦礫の上に転がって溜め息をついていた。
アダーリオスの言葉にも痛痒すら感じていない態度でカイゼルは宮殿の奥部に視線を走らせた。その二人の様子を従者たちは遠巻きにして見守るしかない。
その従者たちの視線の先でカイゼルの表情がゆっくりと動いた。初めは目の錯覚かとも思ったが、それがまごうことなく微笑を刻んだのを確認して、従者たちは戦慄にも似た驚きに茫然となった。
その空気を敏感に感じ取ったアダーリオスが、従者たちを見回し、その空気の原因らしいカイゼルへと視線を向けた。
だがアダーリオスがカイゼルを振り返って見たときには、すでにカイゼルの美貌に浮かんだ表情は跡形もなく消えていた。それでも従者たちの様子から彼の顔に浮かんだ感情の見当がつく。
食事のときの不機嫌さを思い出して、アダーリオスはムスッと頬を膨らませた。
またミノスだ。この紅の鉄仮面は普段は他人に無関心で、必要最小限の感情しか出さないくせに、なぜかミノスのこととなると鮮やかな表情を浮かべてみせる。
嫉妬にも似た腹立ちにアダーリオスは自分自身、少々戸惑った。しかし、年頃の娘のようにヒステリーを起こすだけで、この麗人の美貌に微笑を浮かばせることができるのなら、自分もヒステリーを起こしてみたくなるではないか。
「彼はまだ奥にいるのか?」
鬱々と思考を巡らせていたアダーリオスに冷めた声がかかった。
ギョッとして顔を上げたアダーリオスのすぐそばに暗い焔(ほむら)を燃やす瞳がある。黄昏の正殿で見た神々しいまでの闘士の姿はそこにはなく、北の氷原に立ち尽くす魔人の出で立ちそのもののようだ。
「あ……あぁ。いる、と思う」
そうか、と呟きを残してカイゼルは金蠍蛇宮殿へと歩を向けた。驚いて止めようとする従者の脇をすり抜けてカイゼルは宮殿の入り口に手をかけた。
「どうする気だよ? 今のミノスは手負いの獣そのものだぞ。君に会ったらいっそうひどくなると思うけどね」
アダーリオスの言葉にカイゼルが立ち止まり、肩越しに振り返った。相変わらずの淡々とした口調で返事が返ってくる。
「責任の一端は私にある、と言ったな? 金蠍蛇をこれ以上放っておくとまわりの人間が迷惑だ。私なりに責任を取らせてもらおう」
だから口出しをするな、ということか。それほど大柄でもないのに、アダーリオスたちの前に立つカイゼルの体がこのときばかりは異様に大きく見える。
アダーリオスは呆れたとばかりに肩をすくめ、やけになったように再び口を開いた。投げやりな口調が彼がこの一見に飽き飽きしていることを物語っている。
「もしミノスの奴が奥にいなければ、南の高楼にでも登っているだろうよ。いつもあそこで頭を冷やしているからな」
カイゼルが怪訝そうに片眉をつり上げた。たった今、奥にいるか? との問いに、いるはずだと答えたばかりではないか。そんなカイゼルの態度にアダーリオスは問われもしないのに話し出す。
「どこの宮殿でもあるはずだけど、この金蠍蛇宮殿にも抜け道があるんだ。いなけりゃ、それを使って外へ出ているはずさ。
そうなると、この神域であいつが行くとしたら南の高楼くらいだよ。ミノスは独りになりたいときは、たいていあの場所にいるんだ」
感心した様子もなく、カイゼルはくるりと背を向けて入り口をくぐっていった。聞きたいことは全部聞いた、ということだろう。
優雅な足取りだけを見ればそれは美しい光景なのだが、彼の態度はあまりにも冷徹に見えた。
「よろしいのでしょうか? あの方にお任せしても……」
猜疑心を捨てきれない従者の一人がアダーリオスにおずおずと尋ねる。あの冷淡な表情でミノスのヒステリーを鎮めることができるようには見えなかった。
現に行動をともにしているアダーリオスにさえ、止められなかったのだ。
「大丈夫だろうさ。もうオレの手には負えないんだし……」
カイゼルの姿が宮殿のなかに消えてからしばらくして、アダーリオスは従者に付き添われて自分の宮殿へと向かった。
「金と紅……。互いが互いを凌ごうと争っているようだな……」
ぼそりと呟いたアダーリオスの声は彼を支えている従者の耳にも聞こえないくらい小さなものだった。
無人の塔は朽ちかけた痛々しい姿の半分を闇色に染め上げていた。
神域の拡張とともに新築された物見櫓は、ここから東西に幾分離れた二地点にある。もはや使用されない以上、この高楼が取り壊されるのも時間の問題であろう。
息の詰まるような静寂を破ったのは、砂利を踏みしめる微かな足音だった。すべてを拒絶するような、あるいはすべてを肯定するような、厳粛な足取り……。
毛織物特有の衣擦れの乾いた音。衣装に縫い込まれた刺繍が微かな月の光に煌めく密やかな輝き。闇のなかで浮き上がる白い顔。……そして、水晶よりも艶やかに光る双眸と燃え立つ炎よりも紅く長い髪。
「なるほど……。確かにここにいるらしいな」
殷々と響く声が夜風に運ばれて消えた。
何を根拠に、この塔にいると断じたのか伺い知ることはできない。石壁を叩いたり、絡まる蔦をむしり取ったり、カイゼルは熱心に、そして物珍しそうに使い古された物見櫓のまわりを彷徨いた。
「見事な造りだ。北にもこれだけの建造物があれば……」
感嘆の吐息が漏れ、それも風に運ばれていった。
「……何しにきた!」
殺気立った声がカイゼルの頭上から降ってきた。ついと見上げれば、櫓の頂上付近から黄金の煌めきが覗いている。
ミノスだ。声を聞いてすでに判っているであろうに、カイゼルは首を傾げて改めて確認する。
「金蠍蛇か?」
無言の返答が返ってきた。それだけで充分だ。カイゼルは躊躇うことなく高楼の入り口を潜った。恐れる素振りは微塵もない。
誰も使っていない割には、塔のなかは以外にきれいなままだ。もう少し朽ちた木材や崩れた石材やらが散乱しているかと思ったのだが。無人だというだけで、まだ使っているのではないだろうか? とてもうち捨てられたとは思えない。
外でかかった声の主の元へと急ぎながらもカイゼルは興味深げでにまわりの壁や手すり、足下の石床を観察し続けた。
見れば見るほどに北の備えとして欲しい建造物だった。これだけの材料を氷原で手に入れるには並大抵のことではない。この資材が運べるものならば……。
考え事をしながらの速度であったが、ついに塔の頂上へと到着した。
開け放された扉の向こうに澄んだ星の光が見える。月が少し翳っているのか、星たちはチリチリと啼いているように瞬いていた。
穏やかな空だ。氷原の空がこんなに優しい表情を見せるときなどほとんどない。いつも吹き荒れる風に目を覆って足早に家路へと急ぐばかりだった。
わずかな感傷に胸を焼いた後、我に返ってカイゼルは頂上の石畳へと踏み出した。
目的の人物はすぐに目に入った。逃げも隠れもせず、じっと自分が到着するまで待っていたらしい。蒼い星のように輝く瞳が自分へ向けられている。
奇妙な快感だった。カイゼルにとって人に見られるということは、好奇の視線の前に立つということを意味していた。それなのに、この相手は興味本位な視線を向けはしない。
敵愾心も露わに、自分をねじ伏せようと殺気立っている。神に選ばれた同じ正闘士の地位にありながら、その蒼い瞳は自分を倒すべき仇敵としてしか認識していないようだ。
「牙獣王は怪我もないようだ。後から詫びを入れに行ってきたらどうだ?あれはどうみてもやりすぎだからな」
自分がいつも以上に饒舌になっている。
なぜか新鮮な気分だ。普段はあまり人と話をする機会などないせいだろうか? いや、違う。黙ったままで睨み合っていたら、きっと彼の瞳に呑み込まれてしまうからだ。沈黙に耐えられないのだ。
「大きなお世話だ。……お前の言うことなんか、誰が聞くかよ!」
「少なくとも、私の弟子は私の言いつけを守るがね。君とはウマが合わないな……」
弟子、と聞いてミノスの眉がピクリと震えた。
正闘士と言っても、ピンからキリまで色々だ。力のある正闘士ほど弟子を育て、新たな闘士見習いを神域へと送ってくる。それが腕の良い正闘士の目安でもあった。
まだ成年に達していないミノスには、弟子をとるほどの技量はまだない。今のところは自分の力を高め、より強くなることが彼の最大の関心事だ。
「フン。子育てしてる暇があったら、北の警護を強化したらどうだよ。氷原は設備が貧しいらしいじゃないか。神域から派兵される兵士たちが一番行きたがらない地区だぜ?」
「……やれるものなら、とっくにやっているさ」
忌々しげに口元を歪めたカイゼルの表情にミノスが一瞬たじろいだ。言葉のあやでつい相手の足下を見るようなことを言ってしまったと後悔しているようだ。
カイゼルのほうもそんな相手の動揺を見透かしているのか、冷酷な仮面をかぶり、じろりとミノスを睨めつける。
「神域でぬくぬくと育ったお坊ちゃんにとやかく言われるのは不愉快だな。自分の未熟さを友人に当たり散らして発散する程度の者がよくも正闘士に選ばれた。神域の威厳も堕ちたものよ」
カイゼルの冷笑にミノスの瞳がカッと見開かれた。眦が避けるほどに開かれた瞳から蒼い炎が噴きだしている。
対するカイゼルの氷の瞳にも、冷たい炎が揺れていた。触れれば火傷しそうなほどの緊張感が二人の間に張りつめる。
「言わせておけば……!」
怒りに震える拳をさらにきつく握りしめ、ミノスが大きく一歩を踏み出した。それに応えるようにカイゼルも一歩踏み込む。
ギラギラと輝く蒼い視線と氷の視線が空中で火花を散らした一瞬後、一人は黄金色の風となって、一人は逆巻く炎となって、互いを凌ごうと拳を繰り出した。
「なめるな……! お前なんかに……」
カイゼルへと走り寄ったミノスが電光石火の勢いで右手を突き出す。それをヒラリと舞ってかわしたカイゼルが踊るように蹴りを出す。
横っ飛びにミノスはそれを避けた後、相手の懐へ飛び込んでいく。目の前に迫った相手との間合いを取るためにカイゼルが華麗なステップを踏んで後退した。
直情的な動きをするミノスの攻撃は円舞を舞うようなカイゼルの防御に阻まれ、針のように鋭いカイゼルの攻撃は曲芸師たちの軽業のようなミノスの防御に阻まれた。
一進一退の攻防には終わりがないような気がする。
だが、戦いが長引けば長引くほどミノスには不利だった。彼の年齢は十四。対するカイゼルは十九だ。この年代での体力差は持久戦となったときに確実に現れる。
互いに的確な蹴りと拳で渡り合っているが身長差を補うためにミノスはカイゼル以上に激しく動き回って相手を牽制しなければならない。素早い動きは体力があってのことだ。スタミナが切れたら、ミノスはカイゼルの蹴りの餌食になるだけだろう。
「そろそろ降参したらどうだ?」
相手の体力がジワジワと落ちてきているのを見計らって、カイゼルがミノスに冷笑を向けた。瞬く間にミノスの顔が怒りに染まる。
それを計算していたのか、カイゼルは不敵な笑みを浮かべてわざと懐に隙を作る。
まんまとその誘いにミノスが乗った。狙い違わず相手の鳩尾めがけて突き出された蹴りが、寸前で弾かれた。
それもただの弾き方ではない。ミノスが全体重をかけて出した蹴りは、カイゼルの下からの膝蹴りで方向を歪められ、空振りした。だが勢いに乗っていたミノスは体を支えきれずにあらぬ方角へと体をよろめかせる。
一瞬の虚が致命的な隙をミノスの背後に作ってしまったのだ。
「は……ぐぅっ」
背後から首をガッチリと締めつけられ、ミノスはもがいた。両肘まで使って押さえ込まれた首はびくともせず、為す術もなくミノスは腕や足を振り回した。
しかし体同士が密着しており、拳や蹴りでの攻撃はまったく意味を成さなかった。わずかでも体がずれたなら、拳を奮う余地も生まれようが、油断なく首を締め上げるカイゼルの動きに無駄はない。
「私の勝ちだ。……諦めろ」
吐息のような囁き声がミノスの耳元で聞こえた。
カイゼルの息はまったく乱れていない。空気を求めて暴れるミノスの呼吸が荒くなっていくのとは対照的に、水中に潜っているかのように潜められた呼吸は、いや増しにミノスを焦らせた。
相手の余裕が癪だった。だが持久戦になった時点で自分の勝ち目はほとんどなくなっていた。最初の打ち合いで相手を牽制しきれなかった自分の落ち度が敗因なのだ。
それでも素直に敗北を認めるには相手の余裕の表情が憎らしい。
返答をしないミノスに焦れたのか、カイゼルが再び耳元に口を寄せた。生暖かい息がミノスの耳朶をくすぐる。
「……死ぬぞ?」
だがミノスはいっそう暴れて相手への抵抗を試みた。どうにかして体を少しでもずらせないものかと全身をくねらせる。その動きを読むようにカイゼルが呪縛をきつくした。
いや……それどころか自分よりも小柄なミノスの体を引きずって塔の端へと歩み寄る。
「頭は少しも冷えていないようだな。荒療治が必要だ」
苦しい息の下でミノスがカイゼルの顔をチラリと見遣る。何をされるのか判らない。
塔の下から吹き上げてくる風が顔をなぶっていった。それは何かとてつもなく不吉な予感がする。逃げ出さなければ……。そう思いながらも、体は自由にならない。
「正闘士になったほどだから、修行は出来ているだろう。……夜風で頭を冷やせ」
ミノスの首を締め上げていたカイゼルの腕が弛んだ。その一瞬の間に逃げだそうとミノスは体をよじったが、カイゼルの動きのほうが素早かった。
あっさりとミノスの体が宙を舞う。
「うわわっっ!」
足首を掴まれ、塔の外へと投げ飛ばされたのだ。支えるものもない空中でミノスの体が一瞬制止し、その後、真っ逆様に地面へと落下していった。
「うぎゃ〜っ!」
素っ頓狂な叫び声を上げて落ちていくミノスを櫓の上から見下ろしていたカイゼルが、腕組みして眉を寄せた。不本意そうに口が尖っている。
「まさか……受け身を取れないのか、あいつは?」
信じたくないものを見てしまったといった様子で、カイゼルは肩をすくめ、ヒラリと塔の石組みから身を躍らせて遙か眼下に見える地面へと飛び降りていった。
まるで紅い鳥が舞い降りていくように優雅に、ゆったりと……。
体がギシギシと痛んだ。霞む視界のなかに最初に飛び込んできたのは、灯心草に点された小さな炎だった。
その紅い揺らめきをぼんやりと見つめていると、痛みが少し薄らいでいく。
「来るのが遅いと思っていたら、こんな落とし物を拾ってくるとは……。珍しいことですね、あなたにしては。この坊やのどこが気に入ったんです?」
呆れたような口調にどこか聞き覚えがあった。
「さぁね、どこが気に入ったのだか。……治療費は後から送りますよ」
「おや、仰々しいことで。キスの一つでもしてくれたら、帳消しですよ。打ち身程度の治療なんですから……」
「それを安いと受け取るべきか、法外だと言うべきか……」
「……失礼ですね。女性には優しくするものですよ」
「いいや。あなたは女じゃない。……と言って男でもない、か」
忍び笑いが聞こえる方向へと首を巡らす。白い人影と紅い人影が重なって見えた。輪郭がハッキリとしない。
誰だったろうか? ゆらゆらと蠢く影たちの声を思い出そうと頭の中を引っかき回す。もつれた記憶の糸のほころびを探すのは面倒だった。
「おや、気づきましたか。……具合はどうです、ミノス」
「はへ……?」
よく状況が飲み込めない。霞んでいた視界のなかの人影が徐々にハッキリと見えだしたが、それは違和感のある光景だった。
「打ち所が悪くて、おバカさんになったんじゃないでしょうね。おチビのミノス?」
「誰がチビだよ。……数年後にはてめぇの背なんざ追い越してるぜ、男女のムーラン」
含み笑いを浮かべたまま自分を見つめている朱の瞳の持ち主に悪態をつく。覚醒するに従ってミノスはいつもの不遜な態度を取り戻していた。
目の前には海聖のカイゼルが長椅子にゆったりと腰を下ろし、その肩にしなだれかかるようにして白廉のムーランが寄り添っている。カイゼルの白い肌とムーランの純白の肌と髪が、カイゼルの燃えるような髪の色をいっそう激しいものに見せていた。
「どうやら頭も無事みたいですね。少しは可愛げのある性格になっていたら良かったのに。……どうします、カイゼル。私がしばらく預かりましょうか?」
「虎の穴に仔山羊を放り込むようなものですね。連れて帰りますよ」
「……とことん失礼な人ですね、あなたって人は」
絡みついてくるムーランの白い腕を慎重に外すとカイゼルは音もなく立ち上がった。残念そうな溜め息が後に残されたムーランの口元から漏れる。
その様子を大人しく見守りながらミノスは背筋に走った悪寒に耐えた。
どうやら自分は今、白廉宮殿にいるようだ。海聖宮殿共々、普段は人気のない宮殿なので、近寄ったことがなかった。
以前にムーランと会ったときは正殿で顔を会わせていたし、長話をした記憶もない。適当にあしらわれ、からかわれた想い出しかないので突っかかってみたが、ムーランの噂はいつもどこか妖しげなものが多い。
こんな宮殿に置いていかれたら、どんな目に遭わされるか知れたものではない。
「まだ動くな」
起きあがろうともがいたところにカイゼルの冷たい制止の声がかかった。高楼での仕打ちを思い出し、彼の忠告を無視することに決める。
「うるせぇな。指図は受けな……いぃっっ!」
体に走った激痛に顔が歪む。あの高さから突き落とされたのだ、並の人間なら死んでいたかもしれない。
減らず口を叩けるだけ大したものなのだが、痛みにのたうち回るミノスをカイゼルは冷たく見下ろした。
「受け身もとれんとは……。未熟者め。もう一度、双頭獣殿に鍛え直してもらえ!」
「お……お師匠は関係ない!」
呻き声が混じるが、強気で言い返してくるミノスの様子にカイゼルがわずかに口をつり上げて笑った。獲物を追いつめている肉食獣のような笑みだ。
「どうしようもない愚か者だな」
「珍しい。あなたが私以外の者の前でも、そんなに饒舌に振る舞えるとは知りませんでしたよ、カイゼル」
背後からの声にカイゼルが顔をしかめた。不機嫌さを表しているのだ。
膨れっ面こそ見せないが、彼の顔がふてくされたものだと気づいてミノスは目を丸くした。自分がカイゼルにいいようにあしらわれているように、カイゼルもムーランとのやりとりでは未だに主導権を握れないでいるようだ。
少しだけ胸のすくような気がした。だが、その自分は二人にまったく歯が立たないのだから、みそっかすもいいところだが。
「薬草も頂いたことですし……。そろそろお暇しますよ、ムーラン」
肩越しにムーランを振り返ったカイゼルが無表情に声をかける。それに悠然と笑みを浮かべて頷くムーランはやはり一枚上手ということか。
外見は二十代半ばといった年齢だが、実際の所はもっと年かさなのかも知れない。平坦な顔立ちのムーランからは、顔に浮かんだ表情以上のものが内心に隠されているようなあいまいで得体の知れない雰囲気が漂っている。
ムーランの曖昧模糊とした表情を観察していたミノスの体がふわりと宙に浮いた。
驚いて自分の体を見下ろしてギョッとする。カイゼルが軽々と自分を抱きかかえているではないか。こんなみじめったらしい格好は他にはあるまい。
ミノスはジタバタと暴れてみる。が、不安定な体勢からではカイゼルの戒めを解くのは容易なことではなかった。
「大人しくしてらっしゃい、坊や。自力で歩いて帰れないのですから、カイゼルに抱いていってもらうしかないでしょうに」
「う……うるせぇ! 一人で歩いて帰れる!」
「……黙ってろ。耳元で喚くな」
抵抗するミノスの動きを封じると、カイゼルが戸口へと向かった。それを送り出すようにムーランがゆらゆらとした足取りで続く。
ミノスはと言えば、動く度に激痛が体を貫き、さすがに大人しくしているしかないようだ。情けないことだが、カイゼルの肩にしがみついて体を固定していないと、痛みに意識が遠のきそうだった。
この男の腕の中で気を失うなど、屈辱以外の何物でもない。
「それじゃ、見送りはここまでにさせてもらいますからね」
「えぇ。……では、またいずれ」
囁くような小声で別れの挨拶を済ませる二人を不機嫌そうに睨み、ミノスは頬を膨らませた。結局自分は厄介なお荷物でしかないわけだ。
彼らの万分の一でもいい、相手を寄せつけない強さが欲しかった。正闘士になって二年……。自分はまだまだ一人前の正闘士とは言えないようだ。
歩き始めたカイゼルの肩越しに見送る白い影を見ると、白い指先をコケティッシュに蠢かせて自分に手を振るムーランと眼があった。ぷいと顔を背けるが、それすら相手にはお見通しなのか、忍び笑いが耳に届く。
いっそう頬を膨らませたミノスの頬を冷えた夜風がなぶっていった。
「お前のところには打撲に効く薬草は用意してあるのか?」
突然に話しかけられてミノスの体が硬直した。忘れていたわけではなかったが、自分の目の前にある白い麗貌はどこかしら幽玄世界の住人を見ているような印象を与える。
「し……知らない。従者たちに聞けば判るだろうけど」
そうか、と小さく呟いたカイゼルの横顔は無表情なままで何を考えているのか見当もつかない。
「なんでムーランのところへなんか連れていったんだ」
不機嫌なままにミノスがカイゼルに問いかけた。同じ正闘士仲間のなかでも、ムーランほど得体の知れない者はいないだろうに。
カイゼルの瞳がチラリとミノスへと向けられ、また前方へと戻った。表情は少しも動かない。
「薬草をもらいに行く約束があったからな。お前の治療はついでだ」
「治療って……。でも、ムーランじゃなくても治療くらいできるだろうが」
「ムーランの腕は一流だ」
「男か女かもはっきりしないような奴じゃないか!」
ギロリとカイゼルの瞳が光った。殺気が宿ったといったほうが正確かもしれない。
「人の身体的特徴をあげつらって愉しいか?」
底冷えのする声がミノスの背筋を這い登ってくる。思わず身震いしてミノスはカイゼルから眼をそらした。
「ムーランは確かに男でもなければ女でもない。……無性生体なのだから、判別のしようがない。それはムーランが望んでそうなったわけではあるまいに」
「……」
「相手に敵わないからと言って、貶めて良いことはない。お前も正闘士の端くれなら、心得ておけ。体がどうであれ、ムーランの医師としての腕は認めても良いはずだぞ」
冷え切ったカイゼルの声に打ちのめされてミノスは下を向いた。
子どものように駄々をこねている自分が愚かに見える。カイゼルの言い分に反論する余地は自分にはない。
ムーランを煙たがっているばかりの自分には正々堂々と彼の言葉を受け止めることすらできない有様だ。
「宮殿に戻ったら、二〜三日は安静にしていろ。打撲は翌日と翌々日が一番辛いからな」
悄然と肩を落としたミノスの様子にかまうことなくカイゼルは立ち並ぶ宮殿群の間を進んでいく。
飄々とした彼の態度にいっそう惨めな気分になったのか、ミノスは金蠍蛇宮殿に到着するまで一度も彼の顔を見上げることなく俯き続けていた。
薄紫色の東の空に鋭い星光が瞬き始めた。風が一瞬凪いだあと、再び吹き始めた。今度は夜の風だ。人の肌をなだめるような優しい風が吹き抜けていく。
「ミノス。そろそろ行こう」
いつまでも動こうとしない若者にアダーリオスが声をかけた。
それにようやくミノスが振り返る。口元を少しだけ歪めて笑うが、顔は笑顔を刻もうとしているのに、瞳は泣きそうだ。
「アダーリオス。今回はヒースも来ているんだろ?」
「あぁ……」
「行こうか。皆、待ちくたびれているだろうしな」
肩を並べて丘を下り始めた二人の姿は麓からは見えないだろう。
見習いの若者が呼びにきてから随分と時間を費やしている。痺れを切らして待っている正闘士仲間たちの強面を想像したのか、ミノスがクスリと笑みをもらした。
「浮遊大陸の者たちは相変わらず我が物顔で空を席巻しているってのに……。俺ときたら、いつまでも独りで暮れなずんでいる。愚か者のところは少しも治っていないな」
「……ミノス。お前だけじゃない。ヒースの前ではそんな顔をするなよ。あいつが一番傷つく」
「判っているさ」
銀色の月光が頭上から降り注いだ。その澄み渡った光に体を洗われ、二人の足が同時に立ち止まった。
丘の麓に人影が見える。白い影と淡い銀色に輝く、二つの影……。
「……お迎えだ。年寄りどもが苛立っているらしいな」
口の端をつりあげてミノスが喉を鳴らした。笑おうとして失敗したのだ。見覚えのある人影に、歩を進める勇気がくじけそうだった。
「……ムーランとヒースか。爺たちをなだめすかしているのはシエラ辺りかな?」
苦笑を漏らしながらアダーリオスがミノスを促した。
それに勇気を得たのか、再びミノスの足が動き出す。そんな二人を見守りながら、眼下の影がそっと寄り添った。消え入りそうなその影たちにミノスは手を挙げて応える。
「待たせたな、白廉。出迎えご苦労さん、海聖」
「金蠍蛇、牙獣王。星導主がカンカンですよ。急いでください」
気遣わしげにミノスとアダーリオスを見比べていた銀髪の少年が早口にまくし立てる。濡れたように光る藍色の瞳が憤然と燃えているところを見ると、随分と麓で待っていたのかもしれない。
「爺のヨタ話なんか聞いてられるかよ、ったく」
「ヨタじゃないです。浮遊大陸とのいざこざなんですから! 上空を彷徨いている竜種をどうするか話し合おうっていうときに……」
「およしなさい、ヒース。ミノスに突っかかっていっても、バカらしいだけですよ。ホントにお気楽なんですから、この人は」
純白の髪をしどけなく掻き上げながら、ムーランが少年を流し見る。朱色の瞳が呆れたというように光り、少年のささやかな反論を封じてしまった。
膨れっ面のヒースの顔に昔日の自分が映る。その奇妙な感覚に苦笑すると、ミノスはわざとらしく伸びをして銀月を見上げた。
「お月様も顔を出したことだし……そろそろ爺たちの顔を見に行ってやるか。俺がいなくちゃ何も始まらないようだしな」
「だから急いでって言ってるでしょ!」
いっそう頬を膨らませたヒースの肩をムーランがなだめるように叩き、アダーリオスが小さな笑い声をあげた。ミノスの傍若無人な外面に騙されているうちは、ヒースもかつてのミノス同様にまだ半人前だということだろう。
「さぁて、行くか。……ところで、飯くらい喰わせてくれるんだろうな、爺どもは」
闇の中でさえ太陽のように輝くミノスの髪に見とれていたヒースがムッとした顔をして反論しようとしたが、それを遮ってムーランがしれっと返事をする。
「私がここへ来るときには用意してありましたけどねぇ。……もう下げられかもしれませんよね」
「あぁ〜ん? 腹ぺこで爺の眠たいお説教なんぞ聞きたくもねぇぞ。急ぐぞ、アダーリオス。俺の飯がなくなっちまう」
「俺の、じゃなくてオレたちの、に訂正してくれ」
歩調を早めたミノスを追いかけてアダーリオスたちも駆け出した。それぞれが羽織る純白のマントが優雅にはためき、闇夜に白い翼を広げる。
背後に遠ざかる黒い丘を振り返る者は誰もいない。
死者を抱いた丘は沈黙を守ったまま、駆け去る四つの影をいつまでも見つめているようだった。
次々に飛んでくる小物類を避けながら、アダーリオスは更なる説得を試みる。結局は無駄に終わるであろうことを予測しつつ……。
「いい加減に落ち着けよ、ミノス。怒ったって仕方ないだろ!」
「黙れ! 誰のせいだと思ってるんだよ!」
よりいっそうの怒りを込めてナイフが飛来した。アダーリオスは慌てて身をよじって後退する。
目にでも突き立ったら、失明してしまうではないか。
「危ないな! 元はといえばお前が悪いんだろ! 余計な食い意地なんか張るからだ。自業自得だっていうの!」
一歩間違えたら、殺し合いにでも発展しそうな雰囲気だ。
食事が終わるや否や、ものすごい勢いで金蠍蛇宮へと帰ってきたミノスは、当たり散らせる物という物すべてを叩き壊してまわった。
従者たちが恐れをなして、牙獣王宮へ帰り着いたばかりのアダーリオスに助けを求めに走ったのも頷ける暴風雨だ。
いつも一緒に行動していることが多いアダーリオス以外で、ミノスのヒステリーを抑えることができる人物はいまい。
しかしそのアダーリオスにしても今回のヒステリーには手を焼いている。ミノスが疲れて座り込むか、怒りを吐き出すことに飽きるまで収まりそうもない。
「出てけっ! 出て行けったら!馬鹿野郎ーっ!」
もはや絶叫と変わらない怒鳴り声を響かせてミノスは荒れ狂い、辺りの小物類をアダーリオスへと投げつける。
そのアダーリオスは飛び交う凶器を叩き落とし、蹴り飛ばしてミノスが鎮まるのを待ち続けているだけの状態だ。
金蠍蛇宮殿の外ではミノスの数年ぶりの凶行に従者たちがオロオロと狼狽し、手を取り合って座り込んでいる。主人の身に起こった出来事を知る由もない従者たちはただただ心を痛めて、主人の怒りが収まる時を祈るように待ち続けていた。
普段のミノスは悪態はつくし喧嘩はしょっちゅうという傍若無人ぶりだが、従者たちに粗暴な振る舞いをすることはなかった。その彼がこれほど見境もなく暴れ狂っているのだ。よほど腹立たしいことが起こったに違いない。
初めて彼がその美貌からは想像もつかない凶悪な形相を人前でさらしたのは、彼が正闘士に選ばれる直前のことだった。
正闘士を決める闘技戦を数日後に控えたその日、対戦相手の取り巻きの一人が発した言葉がミノスの逆鱗に触れたらしい。
……らしい、という憶測の域を出ないのは、この半死半生の目に遭った男が、今はミノスの従者としてこの宮殿に仕えているために主人の不利益になりそうなことを語らないからだ。
よもや殺しはすまい、と傍観していた兵士たちが、ミノスの容赦のない拳に数多の負傷者を出しつつも止めに入らなければならなかったことを考えれば、その怒りの鉄拳がどのようなものであったか推し量れよう。
そのとき以来、ミノスはこのヒステリーの発作を起こしていない。吹き荒れるヒステリーの嵐が過ぎ去るまで従者たちはじっと堪え忍ぶしかないようだ。
かなりの時が経ち、所在なく宮殿のまわりを彷徨いていた従者たちが疲れて一所へ固まり始めた頃、背後からの声が彼らの心臓を鷲掴みにした。
「ここで何をしているのだ、お前たち」
「……!!」
目を白黒させて振り返った彼らは声の主を確認するや、魂の抜けたように表情で相手を見上げた。
銀月の光に照らされてなお紅い髪が夜風に流され、それに縁取られて雪よりも白い肌が夜目にもはっきりと浮き上がる。さらに見つめる瞳は氷色。なのにその奥には地獄の業火もかくやという底光りする輝きを湛えていた。
魔人が地上に現れたなら、こんな瞳をしているに違いない。
「お前たち、ここの宮殿の侍従ではないのか?」
再び宵闇を切り裂く声が従者たちにかけられた。
その間、従者たちは人形のように突っ立ったまま動かなかったのだ。現れた紅の麗人に魅入られていた、と言ったほうがいいだろうか。
一人が我に返ったように頭を振り、鄭重に跪くと、麗しい来訪者に応対する。
「ご来訪に気づかず失礼を……。海聖宮殿の御方とお見受けいたしましたが……?」
相手が軽く頷くのを確認して、従者は再び口を開いた。
「我らはこの金蠍蛇宮殿と牙獣王宮殿に従事しておる者でございます。実は……」
その従者の答えを遮る破壊音がわき起こった。猛々しい音とともに崩れた壁から吐き出された人物を見て、従者たちは蒼白になる。
「牙獣王様!」
何名かの従者が吹き飛ばされたアダーリオスの元へと走り寄った。
幸い怪我らしい怪我をしている様子はない。壁に叩きつけられ、ぶち破った衝撃のために一時的に体が動かせないだけらしい。
従者に助け起こされ、ブツブツと不平を鳴らすアダーリオスに見守る従者たちの間から安堵の吐息が漏れる。石片を払いのけながら、アダーリオスは心配ないと従者たちに笑顔を向けた。
その表情が従者たちの脇に立つ人物を捉えた途端に固まった。
「カイゼル!こんな所で何をしてるんだ!?」
闇に浮かぶ白い顔が無感動にこちらを見つめている。その表情からは心中の動きなど微塵も伺えない。
「大蛇が暴れ回っているようだな……」
鉄仮面が口を開いた。カイゼルの口調からは人間臭さなど片鱗も見えない。何を考えてこの辺りを彷徨いていたのだろう。
「責任に一端は君にもあるんだぞ。食堂で君がミノスを無視し続けていれば良かったんだ」
上目遣いで恨みがましい口調のアダーリオスの態度から、ミノスのヒステリーの原因が目の前の紅の麗人であることを悟った従者たちが彼から後ずさる。
とんでもない人物が現れたものだ。非難するアダーリオスはと言えば、ミノスをなだめすかすことに疲れたのか、ゴロリと瓦礫の上に転がって溜め息をついていた。
アダーリオスの言葉にも痛痒すら感じていない態度でカイゼルは宮殿の奥部に視線を走らせた。その二人の様子を従者たちは遠巻きにして見守るしかない。
その従者たちの視線の先でカイゼルの表情がゆっくりと動いた。初めは目の錯覚かとも思ったが、それがまごうことなく微笑を刻んだのを確認して、従者たちは戦慄にも似た驚きに茫然となった。
その空気を敏感に感じ取ったアダーリオスが、従者たちを見回し、その空気の原因らしいカイゼルへと視線を向けた。
だがアダーリオスがカイゼルを振り返って見たときには、すでにカイゼルの美貌に浮かんだ表情は跡形もなく消えていた。それでも従者たちの様子から彼の顔に浮かんだ感情の見当がつく。
食事のときの不機嫌さを思い出して、アダーリオスはムスッと頬を膨らませた。
またミノスだ。この紅の鉄仮面は普段は他人に無関心で、必要最小限の感情しか出さないくせに、なぜかミノスのこととなると鮮やかな表情を浮かべてみせる。
嫉妬にも似た腹立ちにアダーリオスは自分自身、少々戸惑った。しかし、年頃の娘のようにヒステリーを起こすだけで、この麗人の美貌に微笑を浮かばせることができるのなら、自分もヒステリーを起こしてみたくなるではないか。
「彼はまだ奥にいるのか?」
鬱々と思考を巡らせていたアダーリオスに冷めた声がかかった。
ギョッとして顔を上げたアダーリオスのすぐそばに暗い焔(ほむら)を燃やす瞳がある。黄昏の正殿で見た神々しいまでの闘士の姿はそこにはなく、北の氷原に立ち尽くす魔人の出で立ちそのもののようだ。
「あ……あぁ。いる、と思う」
そうか、と呟きを残してカイゼルは金蠍蛇宮殿へと歩を向けた。驚いて止めようとする従者の脇をすり抜けてカイゼルは宮殿の入り口に手をかけた。
「どうする気だよ? 今のミノスは手負いの獣そのものだぞ。君に会ったらいっそうひどくなると思うけどね」
アダーリオスの言葉にカイゼルが立ち止まり、肩越しに振り返った。相変わらずの淡々とした口調で返事が返ってくる。
「責任の一端は私にある、と言ったな? 金蠍蛇をこれ以上放っておくとまわりの人間が迷惑だ。私なりに責任を取らせてもらおう」
だから口出しをするな、ということか。それほど大柄でもないのに、アダーリオスたちの前に立つカイゼルの体がこのときばかりは異様に大きく見える。
アダーリオスは呆れたとばかりに肩をすくめ、やけになったように再び口を開いた。投げやりな口調が彼がこの一見に飽き飽きしていることを物語っている。
「もしミノスの奴が奥にいなければ、南の高楼にでも登っているだろうよ。いつもあそこで頭を冷やしているからな」
カイゼルが怪訝そうに片眉をつり上げた。たった今、奥にいるか? との問いに、いるはずだと答えたばかりではないか。そんなカイゼルの態度にアダーリオスは問われもしないのに話し出す。
「どこの宮殿でもあるはずだけど、この金蠍蛇宮殿にも抜け道があるんだ。いなけりゃ、それを使って外へ出ているはずさ。
そうなると、この神域であいつが行くとしたら南の高楼くらいだよ。ミノスは独りになりたいときは、たいていあの場所にいるんだ」
感心した様子もなく、カイゼルはくるりと背を向けて入り口をくぐっていった。聞きたいことは全部聞いた、ということだろう。
優雅な足取りだけを見ればそれは美しい光景なのだが、彼の態度はあまりにも冷徹に見えた。
「よろしいのでしょうか? あの方にお任せしても……」
猜疑心を捨てきれない従者の一人がアダーリオスにおずおずと尋ねる。あの冷淡な表情でミノスのヒステリーを鎮めることができるようには見えなかった。
現に行動をともにしているアダーリオスにさえ、止められなかったのだ。
「大丈夫だろうさ。もうオレの手には負えないんだし……」
カイゼルの姿が宮殿のなかに消えてからしばらくして、アダーリオスは従者に付き添われて自分の宮殿へと向かった。
「金と紅……。互いが互いを凌ごうと争っているようだな……」
ぼそりと呟いたアダーリオスの声は彼を支えている従者の耳にも聞こえないくらい小さなものだった。
無人の塔は朽ちかけた痛々しい姿の半分を闇色に染め上げていた。
神域の拡張とともに新築された物見櫓は、ここから東西に幾分離れた二地点にある。もはや使用されない以上、この高楼が取り壊されるのも時間の問題であろう。
息の詰まるような静寂を破ったのは、砂利を踏みしめる微かな足音だった。すべてを拒絶するような、あるいはすべてを肯定するような、厳粛な足取り……。
毛織物特有の衣擦れの乾いた音。衣装に縫い込まれた刺繍が微かな月の光に煌めく密やかな輝き。闇のなかで浮き上がる白い顔。……そして、水晶よりも艶やかに光る双眸と燃え立つ炎よりも紅く長い髪。
「なるほど……。確かにここにいるらしいな」
殷々と響く声が夜風に運ばれて消えた。
何を根拠に、この塔にいると断じたのか伺い知ることはできない。石壁を叩いたり、絡まる蔦をむしり取ったり、カイゼルは熱心に、そして物珍しそうに使い古された物見櫓のまわりを彷徨いた。
「見事な造りだ。北にもこれだけの建造物があれば……」
感嘆の吐息が漏れ、それも風に運ばれていった。
「……何しにきた!」
殺気立った声がカイゼルの頭上から降ってきた。ついと見上げれば、櫓の頂上付近から黄金の煌めきが覗いている。
ミノスだ。声を聞いてすでに判っているであろうに、カイゼルは首を傾げて改めて確認する。
「金蠍蛇か?」
無言の返答が返ってきた。それだけで充分だ。カイゼルは躊躇うことなく高楼の入り口を潜った。恐れる素振りは微塵もない。
誰も使っていない割には、塔のなかは以外にきれいなままだ。もう少し朽ちた木材や崩れた石材やらが散乱しているかと思ったのだが。無人だというだけで、まだ使っているのではないだろうか? とてもうち捨てられたとは思えない。
外でかかった声の主の元へと急ぎながらもカイゼルは興味深げでにまわりの壁や手すり、足下の石床を観察し続けた。
見れば見るほどに北の備えとして欲しい建造物だった。これだけの材料を氷原で手に入れるには並大抵のことではない。この資材が運べるものならば……。
考え事をしながらの速度であったが、ついに塔の頂上へと到着した。
開け放された扉の向こうに澄んだ星の光が見える。月が少し翳っているのか、星たちはチリチリと啼いているように瞬いていた。
穏やかな空だ。氷原の空がこんなに優しい表情を見せるときなどほとんどない。いつも吹き荒れる風に目を覆って足早に家路へと急ぐばかりだった。
わずかな感傷に胸を焼いた後、我に返ってカイゼルは頂上の石畳へと踏み出した。
目的の人物はすぐに目に入った。逃げも隠れもせず、じっと自分が到着するまで待っていたらしい。蒼い星のように輝く瞳が自分へ向けられている。
奇妙な快感だった。カイゼルにとって人に見られるということは、好奇の視線の前に立つということを意味していた。それなのに、この相手は興味本位な視線を向けはしない。
敵愾心も露わに、自分をねじ伏せようと殺気立っている。神に選ばれた同じ正闘士の地位にありながら、その蒼い瞳は自分を倒すべき仇敵としてしか認識していないようだ。
「牙獣王は怪我もないようだ。後から詫びを入れに行ってきたらどうだ?あれはどうみてもやりすぎだからな」
自分がいつも以上に饒舌になっている。
なぜか新鮮な気分だ。普段はあまり人と話をする機会などないせいだろうか? いや、違う。黙ったままで睨み合っていたら、きっと彼の瞳に呑み込まれてしまうからだ。沈黙に耐えられないのだ。
「大きなお世話だ。……お前の言うことなんか、誰が聞くかよ!」
「少なくとも、私の弟子は私の言いつけを守るがね。君とはウマが合わないな……」
弟子、と聞いてミノスの眉がピクリと震えた。
正闘士と言っても、ピンからキリまで色々だ。力のある正闘士ほど弟子を育て、新たな闘士見習いを神域へと送ってくる。それが腕の良い正闘士の目安でもあった。
まだ成年に達していないミノスには、弟子をとるほどの技量はまだない。今のところは自分の力を高め、より強くなることが彼の最大の関心事だ。
「フン。子育てしてる暇があったら、北の警護を強化したらどうだよ。氷原は設備が貧しいらしいじゃないか。神域から派兵される兵士たちが一番行きたがらない地区だぜ?」
「……やれるものなら、とっくにやっているさ」
忌々しげに口元を歪めたカイゼルの表情にミノスが一瞬たじろいだ。言葉のあやでつい相手の足下を見るようなことを言ってしまったと後悔しているようだ。
カイゼルのほうもそんな相手の動揺を見透かしているのか、冷酷な仮面をかぶり、じろりとミノスを睨めつける。
「神域でぬくぬくと育ったお坊ちゃんにとやかく言われるのは不愉快だな。自分の未熟さを友人に当たり散らして発散する程度の者がよくも正闘士に選ばれた。神域の威厳も堕ちたものよ」
カイゼルの冷笑にミノスの瞳がカッと見開かれた。眦が避けるほどに開かれた瞳から蒼い炎が噴きだしている。
対するカイゼルの氷の瞳にも、冷たい炎が揺れていた。触れれば火傷しそうなほどの緊張感が二人の間に張りつめる。
「言わせておけば……!」
怒りに震える拳をさらにきつく握りしめ、ミノスが大きく一歩を踏み出した。それに応えるようにカイゼルも一歩踏み込む。
ギラギラと輝く蒼い視線と氷の視線が空中で火花を散らした一瞬後、一人は黄金色の風となって、一人は逆巻く炎となって、互いを凌ごうと拳を繰り出した。
「なめるな……! お前なんかに……」
カイゼルへと走り寄ったミノスが電光石火の勢いで右手を突き出す。それをヒラリと舞ってかわしたカイゼルが踊るように蹴りを出す。
横っ飛びにミノスはそれを避けた後、相手の懐へ飛び込んでいく。目の前に迫った相手との間合いを取るためにカイゼルが華麗なステップを踏んで後退した。
直情的な動きをするミノスの攻撃は円舞を舞うようなカイゼルの防御に阻まれ、針のように鋭いカイゼルの攻撃は曲芸師たちの軽業のようなミノスの防御に阻まれた。
一進一退の攻防には終わりがないような気がする。
だが、戦いが長引けば長引くほどミノスには不利だった。彼の年齢は十四。対するカイゼルは十九だ。この年代での体力差は持久戦となったときに確実に現れる。
互いに的確な蹴りと拳で渡り合っているが身長差を補うためにミノスはカイゼル以上に激しく動き回って相手を牽制しなければならない。素早い動きは体力があってのことだ。スタミナが切れたら、ミノスはカイゼルの蹴りの餌食になるだけだろう。
「そろそろ降参したらどうだ?」
相手の体力がジワジワと落ちてきているのを見計らって、カイゼルがミノスに冷笑を向けた。瞬く間にミノスの顔が怒りに染まる。
それを計算していたのか、カイゼルは不敵な笑みを浮かべてわざと懐に隙を作る。
まんまとその誘いにミノスが乗った。狙い違わず相手の鳩尾めがけて突き出された蹴りが、寸前で弾かれた。
それもただの弾き方ではない。ミノスが全体重をかけて出した蹴りは、カイゼルの下からの膝蹴りで方向を歪められ、空振りした。だが勢いに乗っていたミノスは体を支えきれずにあらぬ方角へと体をよろめかせる。
一瞬の虚が致命的な隙をミノスの背後に作ってしまったのだ。
「は……ぐぅっ」
背後から首をガッチリと締めつけられ、ミノスはもがいた。両肘まで使って押さえ込まれた首はびくともせず、為す術もなくミノスは腕や足を振り回した。
しかし体同士が密着しており、拳や蹴りでの攻撃はまったく意味を成さなかった。わずかでも体がずれたなら、拳を奮う余地も生まれようが、油断なく首を締め上げるカイゼルの動きに無駄はない。
「私の勝ちだ。……諦めろ」
吐息のような囁き声がミノスの耳元で聞こえた。
カイゼルの息はまったく乱れていない。空気を求めて暴れるミノスの呼吸が荒くなっていくのとは対照的に、水中に潜っているかのように潜められた呼吸は、いや増しにミノスを焦らせた。
相手の余裕が癪だった。だが持久戦になった時点で自分の勝ち目はほとんどなくなっていた。最初の打ち合いで相手を牽制しきれなかった自分の落ち度が敗因なのだ。
それでも素直に敗北を認めるには相手の余裕の表情が憎らしい。
返答をしないミノスに焦れたのか、カイゼルが再び耳元に口を寄せた。生暖かい息がミノスの耳朶をくすぐる。
「……死ぬぞ?」
だがミノスはいっそう暴れて相手への抵抗を試みた。どうにかして体を少しでもずらせないものかと全身をくねらせる。その動きを読むようにカイゼルが呪縛をきつくした。
いや……それどころか自分よりも小柄なミノスの体を引きずって塔の端へと歩み寄る。
「頭は少しも冷えていないようだな。荒療治が必要だ」
苦しい息の下でミノスがカイゼルの顔をチラリと見遣る。何をされるのか判らない。
塔の下から吹き上げてくる風が顔をなぶっていった。それは何かとてつもなく不吉な予感がする。逃げ出さなければ……。そう思いながらも、体は自由にならない。
「正闘士になったほどだから、修行は出来ているだろう。……夜風で頭を冷やせ」
ミノスの首を締め上げていたカイゼルの腕が弛んだ。その一瞬の間に逃げだそうとミノスは体をよじったが、カイゼルの動きのほうが素早かった。
あっさりとミノスの体が宙を舞う。
「うわわっっ!」
足首を掴まれ、塔の外へと投げ飛ばされたのだ。支えるものもない空中でミノスの体が一瞬制止し、その後、真っ逆様に地面へと落下していった。
「うぎゃ〜っ!」
素っ頓狂な叫び声を上げて落ちていくミノスを櫓の上から見下ろしていたカイゼルが、腕組みして眉を寄せた。不本意そうに口が尖っている。
「まさか……受け身を取れないのか、あいつは?」
信じたくないものを見てしまったといった様子で、カイゼルは肩をすくめ、ヒラリと塔の石組みから身を躍らせて遙か眼下に見える地面へと飛び降りていった。
まるで紅い鳥が舞い降りていくように優雅に、ゆったりと……。
体がギシギシと痛んだ。霞む視界のなかに最初に飛び込んできたのは、灯心草に点された小さな炎だった。
その紅い揺らめきをぼんやりと見つめていると、痛みが少し薄らいでいく。
「来るのが遅いと思っていたら、こんな落とし物を拾ってくるとは……。珍しいことですね、あなたにしては。この坊やのどこが気に入ったんです?」
呆れたような口調にどこか聞き覚えがあった。
「さぁね、どこが気に入ったのだか。……治療費は後から送りますよ」
「おや、仰々しいことで。キスの一つでもしてくれたら、帳消しですよ。打ち身程度の治療なんですから……」
「それを安いと受け取るべきか、法外だと言うべきか……」
「……失礼ですね。女性には優しくするものですよ」
「いいや。あなたは女じゃない。……と言って男でもない、か」
忍び笑いが聞こえる方向へと首を巡らす。白い人影と紅い人影が重なって見えた。輪郭がハッキリとしない。
誰だったろうか? ゆらゆらと蠢く影たちの声を思い出そうと頭の中を引っかき回す。もつれた記憶の糸のほころびを探すのは面倒だった。
「おや、気づきましたか。……具合はどうです、ミノス」
「はへ……?」
よく状況が飲み込めない。霞んでいた視界のなかの人影が徐々にハッキリと見えだしたが、それは違和感のある光景だった。
「打ち所が悪くて、おバカさんになったんじゃないでしょうね。おチビのミノス?」
「誰がチビだよ。……数年後にはてめぇの背なんざ追い越してるぜ、男女のムーラン」
含み笑いを浮かべたまま自分を見つめている朱の瞳の持ち主に悪態をつく。覚醒するに従ってミノスはいつもの不遜な態度を取り戻していた。
目の前には海聖のカイゼルが長椅子にゆったりと腰を下ろし、その肩にしなだれかかるようにして白廉のムーランが寄り添っている。カイゼルの白い肌とムーランの純白の肌と髪が、カイゼルの燃えるような髪の色をいっそう激しいものに見せていた。
「どうやら頭も無事みたいですね。少しは可愛げのある性格になっていたら良かったのに。……どうします、カイゼル。私がしばらく預かりましょうか?」
「虎の穴に仔山羊を放り込むようなものですね。連れて帰りますよ」
「……とことん失礼な人ですね、あなたって人は」
絡みついてくるムーランの白い腕を慎重に外すとカイゼルは音もなく立ち上がった。残念そうな溜め息が後に残されたムーランの口元から漏れる。
その様子を大人しく見守りながらミノスは背筋に走った悪寒に耐えた。
どうやら自分は今、白廉宮殿にいるようだ。海聖宮殿共々、普段は人気のない宮殿なので、近寄ったことがなかった。
以前にムーランと会ったときは正殿で顔を会わせていたし、長話をした記憶もない。適当にあしらわれ、からかわれた想い出しかないので突っかかってみたが、ムーランの噂はいつもどこか妖しげなものが多い。
こんな宮殿に置いていかれたら、どんな目に遭わされるか知れたものではない。
「まだ動くな」
起きあがろうともがいたところにカイゼルの冷たい制止の声がかかった。高楼での仕打ちを思い出し、彼の忠告を無視することに決める。
「うるせぇな。指図は受けな……いぃっっ!」
体に走った激痛に顔が歪む。あの高さから突き落とされたのだ、並の人間なら死んでいたかもしれない。
減らず口を叩けるだけ大したものなのだが、痛みにのたうち回るミノスをカイゼルは冷たく見下ろした。
「受け身もとれんとは……。未熟者め。もう一度、双頭獣殿に鍛え直してもらえ!」
「お……お師匠は関係ない!」
呻き声が混じるが、強気で言い返してくるミノスの様子にカイゼルがわずかに口をつり上げて笑った。獲物を追いつめている肉食獣のような笑みだ。
「どうしようもない愚か者だな」
「珍しい。あなたが私以外の者の前でも、そんなに饒舌に振る舞えるとは知りませんでしたよ、カイゼル」
背後からの声にカイゼルが顔をしかめた。不機嫌さを表しているのだ。
膨れっ面こそ見せないが、彼の顔がふてくされたものだと気づいてミノスは目を丸くした。自分がカイゼルにいいようにあしらわれているように、カイゼルもムーランとのやりとりでは未だに主導権を握れないでいるようだ。
少しだけ胸のすくような気がした。だが、その自分は二人にまったく歯が立たないのだから、みそっかすもいいところだが。
「薬草も頂いたことですし……。そろそろお暇しますよ、ムーラン」
肩越しにムーランを振り返ったカイゼルが無表情に声をかける。それに悠然と笑みを浮かべて頷くムーランはやはり一枚上手ということか。
外見は二十代半ばといった年齢だが、実際の所はもっと年かさなのかも知れない。平坦な顔立ちのムーランからは、顔に浮かんだ表情以上のものが内心に隠されているようなあいまいで得体の知れない雰囲気が漂っている。
ムーランの曖昧模糊とした表情を観察していたミノスの体がふわりと宙に浮いた。
驚いて自分の体を見下ろしてギョッとする。カイゼルが軽々と自分を抱きかかえているではないか。こんなみじめったらしい格好は他にはあるまい。
ミノスはジタバタと暴れてみる。が、不安定な体勢からではカイゼルの戒めを解くのは容易なことではなかった。
「大人しくしてらっしゃい、坊や。自力で歩いて帰れないのですから、カイゼルに抱いていってもらうしかないでしょうに」
「う……うるせぇ! 一人で歩いて帰れる!」
「……黙ってろ。耳元で喚くな」
抵抗するミノスの動きを封じると、カイゼルが戸口へと向かった。それを送り出すようにムーランがゆらゆらとした足取りで続く。
ミノスはと言えば、動く度に激痛が体を貫き、さすがに大人しくしているしかないようだ。情けないことだが、カイゼルの肩にしがみついて体を固定していないと、痛みに意識が遠のきそうだった。
この男の腕の中で気を失うなど、屈辱以外の何物でもない。
「それじゃ、見送りはここまでにさせてもらいますからね」
「えぇ。……では、またいずれ」
囁くような小声で別れの挨拶を済ませる二人を不機嫌そうに睨み、ミノスは頬を膨らませた。結局自分は厄介なお荷物でしかないわけだ。
彼らの万分の一でもいい、相手を寄せつけない強さが欲しかった。正闘士になって二年……。自分はまだまだ一人前の正闘士とは言えないようだ。
歩き始めたカイゼルの肩越しに見送る白い影を見ると、白い指先をコケティッシュに蠢かせて自分に手を振るムーランと眼があった。ぷいと顔を背けるが、それすら相手にはお見通しなのか、忍び笑いが耳に届く。
いっそう頬を膨らませたミノスの頬を冷えた夜風がなぶっていった。
「お前のところには打撲に効く薬草は用意してあるのか?」
突然に話しかけられてミノスの体が硬直した。忘れていたわけではなかったが、自分の目の前にある白い麗貌はどこかしら幽玄世界の住人を見ているような印象を与える。
「し……知らない。従者たちに聞けば判るだろうけど」
そうか、と小さく呟いたカイゼルの横顔は無表情なままで何を考えているのか見当もつかない。
「なんでムーランのところへなんか連れていったんだ」
不機嫌なままにミノスがカイゼルに問いかけた。同じ正闘士仲間のなかでも、ムーランほど得体の知れない者はいないだろうに。
カイゼルの瞳がチラリとミノスへと向けられ、また前方へと戻った。表情は少しも動かない。
「薬草をもらいに行く約束があったからな。お前の治療はついでだ」
「治療って……。でも、ムーランじゃなくても治療くらいできるだろうが」
「ムーランの腕は一流だ」
「男か女かもはっきりしないような奴じゃないか!」
ギロリとカイゼルの瞳が光った。殺気が宿ったといったほうが正確かもしれない。
「人の身体的特徴をあげつらって愉しいか?」
底冷えのする声がミノスの背筋を這い登ってくる。思わず身震いしてミノスはカイゼルから眼をそらした。
「ムーランは確かに男でもなければ女でもない。……無性生体なのだから、判別のしようがない。それはムーランが望んでそうなったわけではあるまいに」
「……」
「相手に敵わないからと言って、貶めて良いことはない。お前も正闘士の端くれなら、心得ておけ。体がどうであれ、ムーランの医師としての腕は認めても良いはずだぞ」
冷え切ったカイゼルの声に打ちのめされてミノスは下を向いた。
子どものように駄々をこねている自分が愚かに見える。カイゼルの言い分に反論する余地は自分にはない。
ムーランを煙たがっているばかりの自分には正々堂々と彼の言葉を受け止めることすらできない有様だ。
「宮殿に戻ったら、二〜三日は安静にしていろ。打撲は翌日と翌々日が一番辛いからな」
悄然と肩を落としたミノスの様子にかまうことなくカイゼルは立ち並ぶ宮殿群の間を進んでいく。
飄々とした彼の態度にいっそう惨めな気分になったのか、ミノスは金蠍蛇宮殿に到着するまで一度も彼の顔を見上げることなく俯き続けていた。
薄紫色の東の空に鋭い星光が瞬き始めた。風が一瞬凪いだあと、再び吹き始めた。今度は夜の風だ。人の肌をなだめるような優しい風が吹き抜けていく。
「ミノス。そろそろ行こう」
いつまでも動こうとしない若者にアダーリオスが声をかけた。
それにようやくミノスが振り返る。口元を少しだけ歪めて笑うが、顔は笑顔を刻もうとしているのに、瞳は泣きそうだ。
「アダーリオス。今回はヒースも来ているんだろ?」
「あぁ……」
「行こうか。皆、待ちくたびれているだろうしな」
肩を並べて丘を下り始めた二人の姿は麓からは見えないだろう。
見習いの若者が呼びにきてから随分と時間を費やしている。痺れを切らして待っている正闘士仲間たちの強面を想像したのか、ミノスがクスリと笑みをもらした。
「浮遊大陸の者たちは相変わらず我が物顔で空を席巻しているってのに……。俺ときたら、いつまでも独りで暮れなずんでいる。愚か者のところは少しも治っていないな」
「……ミノス。お前だけじゃない。ヒースの前ではそんな顔をするなよ。あいつが一番傷つく」
「判っているさ」
銀色の月光が頭上から降り注いだ。その澄み渡った光に体を洗われ、二人の足が同時に立ち止まった。
丘の麓に人影が見える。白い影と淡い銀色に輝く、二つの影……。
「……お迎えだ。年寄りどもが苛立っているらしいな」
口の端をつりあげてミノスが喉を鳴らした。笑おうとして失敗したのだ。見覚えのある人影に、歩を進める勇気がくじけそうだった。
「……ムーランとヒースか。爺たちをなだめすかしているのはシエラ辺りかな?」
苦笑を漏らしながらアダーリオスがミノスを促した。
それに勇気を得たのか、再びミノスの足が動き出す。そんな二人を見守りながら、眼下の影がそっと寄り添った。消え入りそうなその影たちにミノスは手を挙げて応える。
「待たせたな、白廉。出迎えご苦労さん、海聖」
「金蠍蛇、牙獣王。星導主がカンカンですよ。急いでください」
気遣わしげにミノスとアダーリオスを見比べていた銀髪の少年が早口にまくし立てる。濡れたように光る藍色の瞳が憤然と燃えているところを見ると、随分と麓で待っていたのかもしれない。
「爺のヨタ話なんか聞いてられるかよ、ったく」
「ヨタじゃないです。浮遊大陸とのいざこざなんですから! 上空を彷徨いている竜種をどうするか話し合おうっていうときに……」
「およしなさい、ヒース。ミノスに突っかかっていっても、バカらしいだけですよ。ホントにお気楽なんですから、この人は」
純白の髪をしどけなく掻き上げながら、ムーランが少年を流し見る。朱色の瞳が呆れたというように光り、少年のささやかな反論を封じてしまった。
膨れっ面のヒースの顔に昔日の自分が映る。その奇妙な感覚に苦笑すると、ミノスはわざとらしく伸びをして銀月を見上げた。
「お月様も顔を出したことだし……そろそろ爺たちの顔を見に行ってやるか。俺がいなくちゃ何も始まらないようだしな」
「だから急いでって言ってるでしょ!」
いっそう頬を膨らませたヒースの肩をムーランがなだめるように叩き、アダーリオスが小さな笑い声をあげた。ミノスの傍若無人な外面に騙されているうちは、ヒースもかつてのミノス同様にまだ半人前だということだろう。
「さぁて、行くか。……ところで、飯くらい喰わせてくれるんだろうな、爺どもは」
闇の中でさえ太陽のように輝くミノスの髪に見とれていたヒースがムッとした顔をして反論しようとしたが、それを遮ってムーランがしれっと返事をする。
「私がここへ来るときには用意してありましたけどねぇ。……もう下げられかもしれませんよね」
「あぁ〜ん? 腹ぺこで爺の眠たいお説教なんぞ聞きたくもねぇぞ。急ぐぞ、アダーリオス。俺の飯がなくなっちまう」
「俺の、じゃなくてオレたちの、に訂正してくれ」
歩調を早めたミノスを追いかけてアダーリオスたちも駆け出した。それぞれが羽織る純白のマントが優雅にはためき、闇夜に白い翼を広げる。
背後に遠ざかる黒い丘を振り返る者は誰もいない。
死者を抱いた丘は沈黙を守ったまま、駆け去る四つの影をいつまでも見つめているようだった。
終