金と紅
Part:1
 暮れなずむ丘の頂に黄金色の影が佇んでいた。小高い丘の下に、ゆったりとたゆたう海原が見えた。遮るものがない丘の上で、人影はじっと動かない。眩しいほどの輝きを放つ髪だけが純白のマントの上に波打って流れ落ちる。
「馬鹿野郎……。自分独りで歩くことを止めちまいやがって。俺じゃ面倒みきれねぇぞ」
 感情を押し殺すために噛みしめられた唇は微かに震え、血が滲むほどに拳を握りしめている。
 それでも逆巻く激情を隠しきれず、彼の蒼い瞳はカッと見開かれ、巌も砕けよ、と地面の一点を睨み続けていた。腰まで届く巻き毛も、彼の激情につられたように風に逆立つ。
「馬鹿野郎……」
 何度口走っただろう。無益なことと知りつつ、彼は悪態をつき、長い間そうやって立ち尽くしていた。他に何もできなかったから……。
 背後に人影が差した。それに気づいているのかいないのか、黄金の人影は微動だにしない。くすんだ短めの金髪に縁取られて日に焼けた顔が目の前の若者に向けられている。二人は同年代だろう。二十代も半ばといったところか。
 お互いに何も言葉を発しはしない。丘の上にひっそりと立ち尽くす二人の姿はまるで彫像のようだ。潮騒の規則的な音だけが時を刻む。
 人の気配がした。二人の背後に控えたその影が跪く。
金蠍蛇ムシューフ牙獣王レンブラン天聖秤ラディームから召集がかかっております。正殿までお越しを……」
 若年の闘士見習いが、遠慮がちに声をかけた。その呼びかけに「わかった」とだけ返事を返すが、金蠍蛇ムシューフと呼ばれた闘士はいっこうに動く気配を見せない。
 だが見習いの若者は、用事は済ませたとばかりに足早にその場を立ち去っていく。
 勇名な闘士の聖なる眠りを妨げることへの畏れではない。夕暮れが迫った空を背景に、その半身を赤く染めて背を向け続ける黄金の闘士に、激しい拒絶の気を感じたからだった。
「丸三年が経つ……。お前が逝ってから。俺たちが初めて会ったあの日からなど、いったい何年経ったのかな。……なぁ、カイゼル」
 まとわりつく髪を払いのけて、金蠍蛇ムシューフの闘士は夕焼けに燃える海を見下ろした。寂々とした空気に耐えられぬのか、闘士は海から視線を外し、再び丘の一点……かつての盟友の白い墓標に食い入るような視線を投げかける。
 それを見守る牙獣王レンブランの静かな視線だけが、人影と墓標を包んでいた。


 真夏の日暮れ時、ここ神域では昼間の熱気は去り、一日のうちでもっとも開放感に満ちた雰囲気が辺りを包む時刻だ。
 もうしばらくすれば、星が薄紫色の空にダイヤモンドのように輝き散らばり、麗しい姿を地上の生き物の前に見せるだろう。
 ほとんどの者は一日の訓練を終えて、一息ついたところだった。
「ミノ〜ス!」
 くすんだ金髪の精悍な顔立ちの少年が高台へと駆け上がっていく。彼が足を向ける高台には、黄金の影がじっと相手が近づいてくる姿を見下ろしていた。
 少年は駆けどおしでここまで来たのだろう。夕焼けに染まっていない側の頬がうっすらと赤みが差している。
「何を慌ててるんだよ、アダーリオス」
「あいつ……。海聖アクームが来たんだよ! 今頃は法王様に謁見しているぞ」
 息を切らせている少年、アダーリオスを見つめてるミノスの眉がピクリとつり上がった。こちらもアダーリオスと大して年齢差はなさそうなミノスの顔が少年の顔立ちから闘士のものへと変貌していく。
 不敵に口元を歪め、嘲弄的な光を湛えた瞳を細める。元々鋭い眼光がいっそう鋭利な刃物の輝きを浮かべた。獲物を追いつめ、一撃で屠る狩人の容貌がよく似合う少年だった。
「ふん、珍しいこともあるもんだな。あいつが北方の氷原から出てくるのは二年ぶり……か?」
「あぁ、そうだな。たぶん二年くらいになる。オレは一度後ろ姿を見たことがあるけど……氷の闘士と呼ばれているのに、炎よりも紅い髪をしてたっけ。ミノスはまだ面識がなかったろう?今回は会っておくか?」
 もうすぐ陽が没していく遠くの山々の彼方を眺めながら、二人は高台を降りて広場へと向かった。
 いつも日没近くになると、大広場は夕涼みも兼ねて談笑のたまり場となる。この日は北の氷原から海聖アクームのカイゼルが、東の山谷から白廉アリアのムーランが到着しているとの噂で、賑わっていた。
 神域を流れる川から引かせた水道橋の各所から溢れる水飲み場も同様で、珍しい客人の到来の噂は瞬く間に神域のあちらこちらに広まっているようだ。
「姦しい奴らだ。いつの世にも人の噂話で狂喜乱舞するバカはいるが、今のこの様と言ったら人のあら探しをして楽しんでいる下賤な下界の輩と同じじゃないか。神域の者にあるまじき浅ましさだ」
 ミノスの顔が嫌悪に激しくゆがみ、その体からは闘気が噴きだした。あからさまな侮蔑の言葉を吐き出す彼に、アダーリオスは苦笑をもらし、ささやかながら弁明を試みた。
「仕方ないよ。滅多に神域に顔を見せない三人の闘士のうち、二人も同時に見る機会が訪れたとなれば、誰だって好奇心をくすぐられるさ。オレだって、噂話をしている奴らと大差ない心境だよ」
「俺たち闘士はいったいいつから曲芸団の見世物馬や道化師になり果てたんだ? 第一、神域を守る闘士はその二人ばかりじゃないぞ。空席になっている雅天矢サージャ双生樹ジャクラ以外の十席は埋まっている。俺やお前だってその闘士の席を預かっているんだぞ! まったく気分が悪いったら……何が可笑しい、アダーリオス!」
 自分の横で笑い始めたアダーリオスを睨みつけて、ミノスは口を尖らせた。先ほどの冷徹な眼光はなりを潜め、自分の話を体よくはぐらかされた子供のようにむくれて頬を膨らませている。
「あぁ、悪い、悪い。でも、ミノスだって興味がないわけじゃないだろう? 特に海聖アクームのカイゼルには……」
「なっ……」
 図星を指されて顔を紅潮させたミノスを見て、アダーリオスは再び笑い出した。そっぽを向いたミノスが足早に金蠍蛇宮殿へと歩き始めた。それをアダーリオスが追いかけてくる。口元はまだ笑みを貼りつかせたままだ。
「ついてくるなよ!」
「だぁ〜め、駄目! 顔にしっかり書いてあるぜ、ミノス。“気になって仕方ない!”って。お前はムーランとは面識があるけど、カイゼルには一度も顔を合わせたことがないだろ? 好奇心が旺盛なミノスが無関心でいられるもんか。それに氷の闘士との呼び名も高いカイゼルが氷の名に相応しくない髪の色をしていると聞いて……痛っ!」
「……バカッ!」
 アダーリオスの頬に強烈な平手打ちを食らわせると、さっきよりも顔を紅くしてミノスが怒鳴った。どう贔屓目に見ても、やりすぎな感がある。しかし、ミノスの性格をよく知るアダーリオスは素直に詫びた。
「謝ったって許してやらん!」
 言葉荒く喚くミノスを見て、アダーリオスはまた笑い出しそうになった。だが、辛うじて笑みを納めると、今度こそ真顔でミノスに語りかける。
「まぁ、でも実際のところ、カイゼルには会っておいたほうがいいよ。北方の守りを一手に引き受けている強者だ。今後接触することも多くなるだろうし……」
 アダーリオスとしてはこの機会に是非とも海聖アクームと面識を得たいと思っている。しかし自尊心の高いミノスが自分のほうからノコノコと会いに行くとも思えない。
 アダーリオス独りで会いに行こうものなら、後からどれほど八つ当たりされることか。素直に自分の提案に乗ってはこないミノスをどうやって会見の場まで連れて行こうか……。
 当のミノスにしても重要性は判っているつもりなのだ。
 闘士のなかでも、自分たち正闘士はきっちり十二人。正闘士の座を狙う従闘士や下働きの衛士などのような雑兵とは扱いが違う。力量の差があるのだから当然のことだが、それに見合った責務もこなす。
 北方の大地を守る海聖アクームはその正闘士のなかでもかなりの強者との噂が高い。同じ正闘士同士、面識があるほうが何かと都合がいい。
 判ってはいるが、自分のほうから出向くということが許せないのだ。
 暮れ残っている太陽光が二人を照らしている。それを凝視しながら考え込んでしまったミノスに、アダーリオスは小さく苦笑すると一つの提案をした。
「法王の謁見は海聖アクームが先らしい。とすると、だ。そろそろカイゼルの奴は自分の宮殿へと戻る頃だと思うんだけどな」
「……! アダーリオス……」
 にんまりとした笑顔をアダーリオスがミノスに向ける。つられるようにミノスも笑みを返し、正殿へと向けて二人は走り出した。
 後になり先になりしながら、ミノスが相棒に向かって叫ぶ。
「アダーリオス! ……許してやるよッ」
 真夏の太陽が、今まさに地平線の彼方に沈もうとしていた。


 黄金の額飾りが眩く輝き、深紅の髪がいっそう赤みを増して見える。色素の薄い瞳は氷色。松明の炎が映っているせいなのか、激しいほどの眼光を放っていた。
「……では、また私の元に弟子入りを希望するものが?」
「左様。大陸の東の果てに住む少数民の子どもだがな。名は……確か、ヒースと言ったか。
 卿の元には二年前にアイザーが弟子入りしたばかりだが、他の者も弟子を抱えておったり、まだ師となるには未熟であったり……。指導できる者もおらぬ上に、当のヒース本人からのたっての願いだそうだ」
 御簾の向こう側から響く法王の声はいかめしく、御簾越しに見える錫杖が鈍色に重々しく光っていた。その錫杖の持ち主に射抜くような視線を走らせた後、紅い麗人は深々と腰をかがめた。
「御意のままに……」
 法王が確認の意味で静かに頷いた。それを退出の合図と心得ているのか、かがめた腰を浮かせる。
 鳥が舞うごとく軽やかにマントをさばいて立ち上がると、後は後ろを振り返ることなく謁見の間を後にした。
 彼の表情は少しも崩れない。凍りついたように無表情を保ったまま。
 謁見の間の大扉が軋んだ音を辺りに響かせて彼の背後で閉ざされる。
 両側に立つ衛士たちに目礼で挨拶を済ませた。それで終わりだ。必要以上のことを喋ろうともせず、紅の人は長い回廊へと歩を進めた。
 ふとその廊下の先に視線を送れば、人影と視線が合った。
 純白の髪に蝋のような白い肌。ほの暗い朱色の瞳がそのなかで唯一の色彩だ。艶然と微笑むその顔立ちは中性的で、全身を覆うケープと相まって男とも女とも判断がつかない。
「お互いに神域へくるのは久しぶりですね。……変わりないですか、カイゼル」
 声はややハスキー。これも男のようでもあり、また女のようでもあった。どこかのっぺりとした顔は仮面を思わせる平坦な作りだった。美人、というよりは得体のしれない顔といったほうがいいか。
「えぇ。あなたも変わりない様子ですね、白廉アリアのムーラン」
 端正な顔立ちに儀礼的な笑みを浮かべ、カイゼルが必要最小限の返事を返す。
「この後は暇ですか? 私のところに切り傷や火傷に効く薬草がありますけど、取りに来たらどうです? ……今年は生育がよくてね。採りすぎてしまって、困っているのですよ」
「お伺いしますよ。北の氷原では薬草は貴重品です。……しかし、食事がまだでしてね。夕食後にお伺いすることになるが、よろしいか?」
 二人の会話を打ち切るように、廊下の奥から衛士が声をかけてきた。
白廉アリア。法王様がお待ちです、お早く……」
 ムーランは衛士の方に了承の身振りを見せ、再びカイゼルへと向き直った。物足りなさげな様子が伺えたが、顔には年長者の余裕の笑みが浮かんでいる。
「では、また後ほど、私の宮殿で……」
 飄然と歩き去るムーランを氷の瞳の端で見送り、カイゼルはマントを翻してその場を離れた。冷酷な横顔からは感情らしいものは何一つ見当たらない。
 正殿を出て眼下へと延びる長い石畳の階段を見下ろすと、二人の少年が踊り場付近に所在なげに佇んでいる姿が目に入った。雑兵たちが身につけている皮の鎧が夕暮れのなかに鈍い光沢を放っている。
 二人ともカイゼルよりやや年下、およそ十三〜四歳であろうか。一人はくすんだ金髪。もう一人は……。
 いま一人の少年の容姿を確認したカイゼルの顔に驚きが広がった。しかしその感情もすぐに冷たい瞳のなかに封じられる。
 それでも無表情ながら、視線を二人から外さぬままにカイゼルは階段を下り始めた。
 何という金髪だろうか。カイゼルは不躾な自分の視線に気づいて慌てて瞳を二人からそらしたが、押し隠したはずの一瞬の驚きに自分が動揺していることを自覚していた。
 こんな経験は初めてだ。それほどに少年の容姿は人目を惹いた。
 正殿は小高い場所に建てられているため、陽が沈んでも空を焦がす太陽の赤い光が見える。その残光のなかにあってさえ、少年の髪は燦然と黄金色に輝き、それ自体が中天の太陽のような眩さで夕風に揺れている。
 片側に寄り添うように立つくすんだ金髪の少年も決して平凡な容姿ではないのだが、この黄金の塊のような少年と並んで立つとどうしても見劣りがした。
 これほどに黄金の激しい煌めきが似合う者を見たのは初めてだ。いったい誰に師事している闘士見習いであろうか?
 新しく弟子入りしてきた者たちの噂を記憶の底から掘り起こしながら、カイゼルはホッと小さな吐息を吐き、盗み見るように彼らの顔を観察した。
 見れば見るほどその黄金の髪に目を奪われる。
 しかし陶然とその髪を眺めていた瞳が少年の深海を思わせる蒼い瞳とぶつかったとき、カイゼルの表情が凍りついた。
 いや、表面上はまったく判らないだろう。だが氷色の彼の瞳がほんのわずかに細められたことを説明するならば、それは凍りついた、と表現するしかない。
 思わず歩んでいた足を止めて立ち止まる。
 滅多に神域へこない自分が好奇の視線にさらされることはいつものことだ。カイゼルには別段気に病むようなことではない。だが少年の瞳に好奇心以外の別の感情を見出した。
 体からあふれ出している闘気……。鋭い視線。雑兵とはとても思えない、胸をそびやかすその姿勢。
「なるほど。噂には聞こえてきていたが……。そういうことか」
 カイゼルの表情に薄く笑みが浮かび、それもまた消えていった。
 無表情というヴェールの奥に湧いてきた感情を包み込んで、カイゼルは石造りの階段を踏みしめてゆっくりと歩き始めた。
 カイゼルが近づくにしたがって、二人の少年の顔が目に見えて引きつっていく。あふれ出している二人の闘気がカイゼルの白い肌の上に突き刺さる。
 まだ幼さを残した彼らの表情には、はっきりとした闘志が浮かび、自分を値踏みしている様子が見て取れた。
 太陽の輝きを持つ少年のほうは特に激しい闘志をむき出しにしている。だが懸命にこらえているのか、カイゼルの通り道を塞いだりはしない。
 蒼い瞳の奥で炎が揺らめいていた。少年たちは二人とも正闘士への礼節をわきまえていないようだ。普通、見習いならば地位の高い闘士に対して、跪くか頭を垂れるかなどの行為で敬意を表す。
 だが彼らにはその様子が皆無だった。
 カイゼルが二人のいる踊り場まで到着した。そのまま彼らの眼前をゆっくりと通り抜け、さらに続く階段へと歩を進める。まるで二人のことなど眼中にない態度だ。
 そのゆったりと歩んでいたカイゼルの足が止まり、糸に引かれるように、ふっと背後の二人を振り返る。
「……!?」
 氷の瞳が二人を流し見、初めて感情らしい感情をその白い相貌に浮かべた。それはまるで悪戯が成功したときの悪童が浮かべる、誇らしげな笑顔のように鮮やかな表情だった。
「全然似合わないな、どこでそんな服を調達してきたんだ。……特に金蠍蛇ムシューフ。君の変装はまったくいただけない。これほどその格好が似合わない者を初めて見たぞ」
 氷原を吹き抜ける風はきっとこんな感じなのだろう。そう思わせる笑い声が薄闇の空に消え、悠然と歩み去る紅の闘士を見送る少年たちは唖然としたまま立ち尽くしていた。
「ばれていたのか……」
 溜め息とともに呟くアダーリオスの脇で、ミノスが激しい視線をカイゼルの背中に送っていた。
 地平線の向こうに沈んだ太陽が最後の光芒を放ち、その残光も神々の居ます空に抱かれて消えていく。星の輝きが増し、その銀の天糸を二人の少年の頭上へと落としていた。


 淡い月光に照らされた影法師が二つ、タンゴでも踊るように幾つもの宮殿の間を進んでいく。
「ミノス、どこ行くんだよ。食堂は反対側だぞ! おいったら! ……聞いてるのか、お前はっ」
 アダーリオスがミノスの背中に呼びかける。それに答えてミノスがくるりと振り返った。不機嫌な顔のなかで蒼い瞳がギラギラと光っている。
「うるせぇぞ。俺は考えごとをしてるんだ。ちょっと黙ってろよ」
 自分がどこへ向かおうと勝手だろう、とミノスの表情が主張していた。
 だがアダーリオスも負けてはいない。自分に出来うる最高に怖い顔を作り、睨みつけてくる相手と真正面から対峙する。
「フンッ。どうせカイゼルに正体がバレちまって、悔しいんだろ。あれじゃ、物陰から盗み見をしていたのを見つかったガキと同じだからな!」
 ミノスの顔に見る見るうちに血が上っていく。表情も激変して、今にも襲いかかってきそうな凶暴な視線がアダーリオスの瞳を捕らえる。
 それを内心では冷や汗をかきながら観察し、相手の怒りが頂点を越えそうになった一瞬を計って言葉を続ける。
「オレは腹減っちまったよ。さっさと飯喰いに行こうぜ。早く行かないと、他の奴らに盗られちまうからな!」
 怒りとは対局にある呑気な笑顔を浮かべたアダーリオスに、ミノスが一瞬虚を突かれ、自分だけが怒り狂っていることがバカらしくなったのか、荒々しい吐息を吐いて空を見上げた。
「早く来いよ!」
 一足早く駆け出したアダーリオスを追いかけながら、ミノスが苦笑する。
 来た道を瞬く間に逆走し、広場に隣接した公会堂脇の食堂へと二人は駆け込んでいった。
 本来ならば、正闘士となったミノスとアダーリオスは自分の宮殿で食事を摂ることができる身分だ。
 しかし成年まで今少しの猶予がある二人には、宮殿での静かすぎる食事よりも、賑やかな大衆食堂での食事のほうが何倍も魅力を感じるのだ。
 ところが、食堂の名前“居眠り天使”という安穏としたイメージとはほど遠い喧噪にいつも包まれている食堂が、今日に限って奇妙な沈黙に満たされていた。
 異様なほどの熱気と羞恥の欠片もない好奇の視線。その怪しい雰囲気に半ば呑まれながら、二人はその原因らしい方角へと首を巡らせた。
「カ……イゼル……?」
 法王との謁見のときにまとっていた正装を脱ぎ、北方民が好んで身につける毛織物の上下という軽装に着替えている。
 四人掛けのテーブルにたった独りで腰を下ろしているが、彼が目立っているのは、そのせいではない。
 炎よりも紅い髪に氷色の瞳。北方民特有の静脈まで透けて見える雪のように白い肌。
 神域に住まう者の日に焼けた肌や濃い色素の瞳を見慣れている者には、髪以外のカイゼルの色素の薄さは現実離れした印象があった。
 この場に居合わせた全員が見惚れている、と言っても過言ではない。それほどに目立つ容姿だった。
「ハッ! 掃き溜めに鶴だぜ。お貴族様のあいつがこんな下々のところにくるとは思わなかったな。きっと自分の宮殿でふんぞり返って食事をしてるだろうと思ったのに」
 容姿だけならカイゼル同様に貴族的なミノスが口元を歪めて、吐き捨てるように呟いた。それをアダーリオスがたしなめる。
 だがミノスの表情からは素直に反省してるようには見えなかった。
 もっとも、カイゼルは貴族階級の出身ではない。多少裕福な家柄の者ではあったが。さらに余談ながら、ミノスやアダーリオスも平民出だ。いや貧民層に近い貧しい家柄の出身である。
 地方を見回る巡検闘士に見出されてこの神域へこなければ、今でも痩せた土地を耕している農民か、うらぶれた下町で職を求めて彷徨く乞食になっていただろう。
 むくれるミノスを引きずってアダーリオスがカイゼルへと近づいていった。まわりの兵士たちの間から驚愕とも羨望ともつかぬざわめきがあがる。
「やぁ。ここ空いてるかな?」
 どうぞ、と答えるカイゼルに礼を言い、アダーリオスはふてくされているミノスを小突いてカイゼルの正面に設えられた空席へ座らせた。
 自分も二人の間、右手にミノスを、左手にカイゼルを見る形の席に腰を落ち着けて、ミノスと二人分の料理を注文する。
 凄まじいほどの熱気が三人を押し包んだ。
 この視線の集中砲火を浴びて、たじろぎもせずに端座している彼らのほうがはっきり言えば驚異的だが、それに気づいている者は一人もいないようだ。
「その衣装だとこの神域では暑いだろ、カイゼル」
 異様に高まっている緊迫感を拭うようにアダーリオスがカイゼルへと声をかけた。その一言でまわりの兵士たちからも緊張感が一瞬引いた。
「……そうでもない」
 短い返事を返したカイゼルにさらに話しかけようとアダーリオスが口を開きかかったとき、険悪な口調でミノスがぼそりと呟いた。
「ケッ!暑くないわけねぇだろ。……勿体つけやがって」
 ミノスの毒舌に収まっていた辺りの緊張が一気に高まる。
 先ほどの好奇心とは別の緊迫感が、空気を重くして三人のまわりに凝固したようだった。
 ハラハラとミノスの傍若無人な態度を見守る見物人以外に、三人を餌にして賭事を始める輩まで出る始末だ。
 ヒソヒソと囁き交わす声が、アダーリオスの耳に届いた。
「赤毛に180出すぜ」
「なに、ミノスも負けてねぇって。おいらは200だ」
 その声につられるようにまわりのテーブルからも、囁き声があがる。
「オレもその賭に乗るぞ!」
「こっちもだ!」
 収まる様子などない。むしろエスカレートしていきそうだ。アダーリオスは不快感に抗議しようと彼らのほうへと振り返った。
 だが、その目の前に人影が差す。
「ピュ〜♪」
 この不愉快な緊迫感の原因を作った張本人が呑気に口笛を吹く。
「へぇ。今日は珍客のお出でとあって豪勢だぜ。こんなことなら、いつでもお出で頂きたいモンだね。これでアステアの蜜酒(ミード)でもあれば言うことなしなんだけどな」
 平然と料理の品評をしているミノスに呆れ果てて、アダーリオスは嘆息した。そして視線を反対側のカイゼルへと向け、そのまま凍りついた。
「シ……シエラ」
 視線の先には黒づくめの男が立っていた。ちょうどカイゼルに料理のトレイを手渡し終わったところだった。切れ長の鋭い瞳が、ジロリと自分の名を呼んだ少年へと向けられ、口の端をつり上げて笑みを見せる。
「三人、仲の良いことだな」
 その刃物のような視線をまわりのテーブルへと順繰りに送る。鋭い切っ先を連想する瞳に恐れをなして、兵士たちが慌てて背を向けた。
 彼の冷たい一瞥に震え上がらない者はいない。自分に対峙する者がいないことを確認すると、男は残っていた最後の椅子に遠慮なく腰を下ろした。
「こ……ここで食べるの? いつもは自分の宮殿で食べるのに、どうしたのさ」
 情けない声音でアダーリオスが男、剣角カントのシエラに問いかけた。それに答える相手の口調はこれ以上はない、というほど高飛車なものだ。
「どこで食べようが勝手だろう。お前たちの食料を運んできてやった人物を追い払おうってのか?」
 反論の糸口を見つけられず、口をパクパクと開閉させるアダーリオスを後目に、シエラは自分のパンを頬ばって知らん顔を決め込んだ。相手の動揺などどこ吹く風といった様子だ。
 時折にまわりのテーブルへと威嚇の視線を向けているが、彼と渡り合おうとする者など兵士のなかにはただの一人もいはしない。
 その様子に、ようやくシエラが自分たちを賭事の対象から救ってくれたのだと、アダーリオスは気づいた。苦手な相手に山のような恩を作ってしまったようだ。複雑な表情のまま、アダーリオスは他の二人へと視線を向けた。
 ところが彼の左側に腰掛けている鉄仮面は「我関せず」と黙々と料理を口に運んでいたし、反対側の金髪の相棒は大恩人の皿の上に乗った羊肉のステーキの切れ端を虎視眈々と狙っているところだった。
 シエラに恩を感じているのは、アダーリオス一人だけのようだ。
 アダーリオスはがっくりと肩を落とした。
「オレっていったいなんなわけ……?」
 小さく呟いたアダーリオスの声は、ミノスの声によってかき消されてしまった。
「アダーリオス、お前喰わねぇのか? んじゃ、これ、俺がもらってやるよ!」
 返事をする暇もあらばこそ。シエラにステーキ強奪作戦を阻止されたミノスがアダーリオスの皿から鶏肉料理をさらっていく。
 呆気にとられてそれを見守ってしまったアダーリオスは、それが自分の好物の料理であることを思い出して目をつり上げた。
「ミノスッ! そ、それはオレのだろ!」
 慌てたところでもう遅い。ミノスはすでに咀嚼を終え、肉を嚥下していた。ニッカリと笑う小悪魔の微笑にアダーリオスは猛然と反撃を開始した。
「この野郎〜ッ! オレの好物に手を出してただで済むと思うなよ!」
「へへぇ〜んだ。俺様の好物はもう胃袋のなかだぜ。どうしようってのさ、アダーリオス」
 余裕の笑みを浮かべる相手に負けじとアダーリオスは不敵な笑みを浮かべて見せた。
「奪うばかりが能じゃないぜ」
 ギクリと顔を強ばらせたミノスの小皿に、アダーリオスは恭しく大皿から茄子とピーマンのソテーのうち茄子だけを移し替えた。あっという間にこんもりと茄子が山を成した。ミノスが蒼白になる。
「うぐ……」
 片手で口元を押さえたミノスが呻き声をあげた。
 ここ神域では、出てきた料理のうち自分の皿に取り分けたものは必ず食べ尽くすのが暗黙の了解になっている。それが膨大な人数の料理を賄う調理人たちへの礼儀でもあるし、無駄な残飯を減らす方法でもある。
「ア……アダーリオス。卑怯だぞ……!」
 茄子のぶよぶよと震える果肉から視線をそらすことができず、ミノスは蒼白な顔そのままの声で抗議した。
「他人の食料をくすねるのは卑怯じゃないってワケか? 都合のいいことだなぁ。……全部喰えよな、ミノス!」
 同情の余地はない、とばかりにアダーリオスが冷たく睨み返してくる。奪うばかりが能ではない、とはよく言ったものだ。ミノスは茄子が大の苦手らしい。
「勘弁してくれよ〜……」
 半泣きで助けを求めるミノスを無視してアダーリオスは食事を続けている。
「程々にしておいてやれ、アダーリオス」
 二人のやりとりを黙って見守っていたシエラが、ようやく食事の手を休めて忠告してきた。しかし、真面目な顔をして注意しているわけではない。声が笑いにうわずっているし、口元が心なしか歪んで見える。
 シエラの忠告にアダーリオスが不承不承といった顔つきでミノスを見た。
 ミノスは相変わらず茄子と睨めっこを続けている。本当に茄子が駄目なのだろう。よほど過去に酷い目に遭っているに違いない。
「チェッ……」
 もう少し懲らしめてやろうと思ったのだが……。
 諦めてミノスの取り皿へと手を伸ばしかけたアダーリオスの目の前を白い繊手が横切り、続いて紅い色彩が踊った。
 ギョッとしてアダーリオスが身をすくめる。
「貰うぞ」
 面白みに欠ける声がさらに続いた。ミノスの前に山盛りになっていた茄子が姿を消し、跡には空っぽになった皿が放り出される。
 茄子の呪縛から逃れ、自分の置かれた現状を理解するや、ミノスが憤然とした顔つきでカイゼルに鋭い眼光を送った。
「ミノス、礼を言え」
 歯軋りさえ聞こえてきそうなほどの形相をしているミノスの右手から追い討ちをかけるように声があがった。
 相手を射殺す視線が声の持ち主へと移ったが、当の本人は何喰わぬ顔をして、眼前の料理を消滅させることに腐心している。
 ミノスは再び不機嫌な視線を、救世主へと向けた。感謝とはほど遠い表情である。しかし片頬を引きつらせながらボソリと囁く。
「……礼を言う」
 とてもではないが、感謝しているようには見えない……どころかその正反対である。
 しかし成り行きを静観していたアダーリオスは目をひんむいてミノスの顔をマジマジと見た。この傲慢な少年が大人しく礼を口にするとは!
 衝撃に手に持っていたスプーンを落としそうになる。
「……。大したことじゃない。私は茄子が好きなんだ」
 淡々と茄子を胃袋へと収めていたカイゼルの手が止まり、穏やかな微笑みさえ浮かべてミノスへと返事をする。そんな光景は想像だにしていなかった。
 今度こそ、アダーリオスはスプーンをスープ皿のなかに落下させた。
 自分の問いかけにも無愛想なら、まわりの兵士たちの嬌声にも無関心だったカイゼルが、ミノスのいい加減な礼の言葉程度で微笑むとは!
 場を取り繕うとしていた自分が滑稽に思えて、アダーリオスは嘆息した。
 なぜこんなところで自分が道化を演じていなければならないのだろう。
 用心深くスープの池からスプーンを取り出し、こっそりとアダーリオスはまわりの人間や同席者の様子を盗み見た。
 剣角カントのシエラが現れてからは、兵士たちは四人への関心よりも自らの食欲への忠誠を優先させており、今のやりとりを見ていた者は誰もいないようだ。
 自分の右側に座るミノスは屈辱感に頬を染めたまま乱暴に食事を続けているし、左側のカイゼルは他人のことなど眼中にないといった顔つきで黙々と料理を減らしている。
 さらに正面に座っているシエラは無関心を装いつつ、面白がって成り行きを傍観している気配が伺えた。
 こんなことで気を使っているのは、自分一人だけだ。
 うんざりした気分になり、アダーリオスは自分の食事へと没頭する決心をした。
 まわりの人間にかまっていて自分の食事をし損なうなんて、今のこの状況から考えるに、これほど馬鹿らしいことはないと思えたのだ。
 珍妙な空気が流れる食堂で、夕食は静かに続いた。

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