永遠の娘
【二話】
「族長! ここにおいでか!?」
怒りと焦りに彩られた声とともに一人の女が姿を現した。
「エル・ブラン! 何ごとだ!?」
族長は自分とカームの間に割って入ってきた乱入者に怪訝な表情を向けた。カームと話をしている間は誰も邪魔しないように伝えてあった。
「谷の一族が! 境界線を越えて、谷の一族がわが領地に進入しています。今、川上で黒戦士が応戦していますが手が足りません。このままではここもすぐに攻め込まれます!」
黒っぽい衣装を身にまとい、三日月型の盾と鋭い穂先の槍を掲げて立つ女はまだ若い。だがその声音には戦士の厳しさが滲んでいる。
「谷の者が!? あの女狐め……! 私も出るぞ!カームの護りに入る者をこちらに寄越せ」
クーンは同じ女族でありながら、長い間諍いを続けていた一族の族長の顔を思い出して地団駄を踏んだ。
あの一族はいつもそうだ。何かと言えば争いを仕掛けてくる。他国から受けた依頼を横からかすめ取っていくことも一度や二度ではない。
今度もこちらの寝込みを襲って何かを企んでいるに違いない。
「キーマ・ラスティを呼んであります。ですが白戦士たちすべてを護りに就かせるわけには……」
エル・ブランと呼ばれた黒戦士は、カームの護衛専門に配備されている戦士たちを前線に投入したいようだ。それほど前線の苦戦は酷いのだろう。
「何人をこちらに寄越せそうだ!?」
「クーン。私の護りはキーマ一人で結構よ」
素早くエルに問い返すクーンの声に続いて、カームはきっぱりと言い切った。穏やかな視線を向けてはいるが、クーンの抗議をはねつける強い光が眼光の奥に宿っている。
「すみません! 遅くなりました」
そのとき、一人の娘がバタバタと足音も荒く部屋に駆け込んできた。昼間、カーム見習いのラサ・モーリンに護衛で就いていたキーマだった。
「キーマ。……よし。ここはキーマ一人残す。残りの者はすべて谷の一族のほうへまわせ!」
「え!? な……どうして!?」
驚いて目を瞬かせるキーマを残してエルが駆け去っていく。
「クーン!? どういうことですか!?」
「キーマ。お前はここに残ってカームを守れ!」
自身の戦支度をするために族長は扉へと向かった。
「そ、そんな! カームの護衛がたった一人だなどと……」
一族の長の後を追おうとするキーマの肩に手を置く者があった。
族長の内心の葛藤を一番理解しているのはこの白い母であったかもしれない。何も言うなと首を振り、忍耐強い顔をしてキーマを見つめるカームの瞳には子供を諭すときの強さが宿っていた。
困惑を隠せないまま、それでもキーマは頷いた。
「良い子ね……。そうそう、ラサにはちゃんと伝えてくれたのね。ありがとう」
今までの力強い表情が嘘のように穏やかに白い女は微笑んだ。
「え? あ、はい。……あの、確かにお言いつけどおりに……。でも……」
「ラサを騙したようで心苦しいの? 大丈夫よ。あなたは嘘をついたわけではないから」
柔らかな笑みを浮かべたまま、カームは娘の肩を抱いた。ラサよりも背の高い少女だ。それでもラサとたいして歳は変わらない。
どうやらラサにカームの書き記した書物があることを伝えさせたのはカーム自身であったようだ。
族長も認知している計画らしいが、いったいラサに何をしようというのか?
それにしても他人を介して伝えることだろうか? 一族の守護者の命じることに従うしかない白戦士の娘にとって、いずれは自分の主人となる者を欺く行為はどんな裏切りを犯すよりも辛いことであったろうに。
「ラサ・モーリンは怒るかもしれません。彼女に禁忌を犯させたのは私です」
キーマが喘ぐように囁いた。その囁きに微笑みを返しながらカームは娘から離れた。
「何も心配はいらないわ。さぁ、ラサが安全な場所にいる間に襲名儀式を済ませましょう。手伝って頂戴ね、キーマ」
「え……えぇ!? だ、だって! 後継者もいないのに!」
一族の族長位、あるいはそれぞれの戦士たちの主導者を任じるときはいつだって、元の地位の者から次の後継者に額飾りが引き渡されるのをキーマは今までみてきていた。
サークレットを引き渡す娘もいないままに行われる襲名儀式などあり得ない。
「着替えを手伝って、キーマ」
柔らかな微笑みを浮かべたままカームは羽織っていた衣装を肩から落とし、腰帯をほどいた。豊満な胸と腰が覗く。
「カ、カーム! 何故、今……」
動揺するキーマにお構いなく、一族の母は着ている物を脱ぎ捨てていく。その度に白い肢体が露わになる。
「急いで、キーマ。私の魔力が使えるうちに、終わらせるわ」
「カーム!? まさか……!」
そのときになって初めてキーマは白い女主人の顔に浮かんだ焦燥感に気づいた。普段は決して見せることのない表情。張りつめた緊張感。
キーマは慄然とした。いずれ、自分の刻がくれば癒し手は自らその姿を消す、と言われている。どう消すのか、キーマはよく知らなかった。
だが今になってようやく判った。消すという意味は身体そのものを一族の者の目の前から隠してしまうのではない。
カームの癒しの力、治癒の魔力を消し、そしてただの女に戻るということなのだ。なんの力もない、ただの女に。
だが戦士として育てられていない女にこの一族のなかで居場所はない。それは何よりもカーム自身が一番良く知っていることだ。
青ざめたままのキーマに白い母は静かな眼差しを向けた。
迫っている刻に焦りはしても、自らの終焉を怖れてはいない空色の瞳。
どんな戦士よりも死を超越した者の双眸は、死の深淵を思わせる強い輝きを放っているようにキーマには思えた。
「戦況はどうなっている!?」
駆けつけた族長の声に黒衣の戦士たちの間から小さな歓声があがった。
「ようやくここまで押し返しました」
「兵士たちも交替で戦っていますから、これ以上敵に侵入されることは防げるかと思います」
口々に報告をする黒戦士たちの口調にはゆとりが感じられた。敵の侵入を知らされたときの切迫した様子はない。
「族長!」
その空間に割り込んできた声にその場にいた者は一斉に注目した。
「別働隊がいます! 敵の分隊が川幅の狭い岩場付近からこちら岸に渡っています。このままだと挟み撃ちです!」
「チッ。やはり……。ジーナ! シシリィ! お前たちの小隊を岩場に向かわせろ!岩場の上からなら容易く討ち果たせよう」
別働隊の報告に素早く対応するとクーンは前方に展開している戦闘の様子をうかがった。絶え間なく剣や槍を撃ち合わす音と鬨の声が上がっている。
「何を考えている……谷の女狐め!」
同じ女族同士、争い合っていたところでなんの得もないのだ。そんなことも解らない相手にクーンは苛立ちが隠せなかった。
純白の正装に着替えたカームの立ち姿は見るからに神々しい。
キーマはその姿に見惚れた。いつ見ても美しい、汚れなき尊い姿。それなのに、この美しいカームの刻の砂は終焉を迎えようとしているというのか。理不尽な怒りが沸き上がる。
「カーム。お願いですから、この館から逃げてください!それが無理だと仰るなら、ラサのいる地下部屋へ! いつ谷の者がくるか知れないのです」
だがキーマの注進はカームの穏やかな微笑みで無視された。
刻の終わりは自身の死を暗示するものだ。その闇が目前まで迫っているというのに、カームは穏やかな微笑みを絶やしてはいなかった。
「水晶球をここへ……」
柔らかな声はまったく震えてもおらず、微笑みのなかの双眸は力強いままだった。
言われるままに水晶球を差しだしながら、キーマはもどかしげに白い母の横顔を見つめた。
カームの手に触れられると水晶球は淡い光を放ちだした。
「いい子ね。さぁ、手伝って頂戴ね」
白い繊手が半透明の表面をなでる度に、水晶は様々な色を浮かび上がらせ、虹色に輝いていった。
幼子に話しかけるように水晶球と会話するカームの顔には、なんの憂いも見られない。
カームがそっと水晶を頭上に掲げる。それを待ちかまえていたかのように輝く珠は銀光を発し、部屋の中を月光で染めあげた。
小暗き途を往け
汝の途がそれなり
柔らかき草はなし
されど、そは天道の途
静かに、だが力強くカームが呪歌の詠唱を始めた。キーマが初めて聞く歌だ。
高く、低く響く声に反応するように水晶球が自身の輝きを強く弱く発する。珠までがカームの歌声に合わせて唱っているようだった。
銀の光のなかに立つ白い母の姿は半ば光に溶け込み、袖下に下がる月長石と額の白真珠がその白い輝きを増す。
歩むごとに荊に傷つき
求めるものは遙か彼方
助け手は何処にか在らん
引き込まれるようにカームを見つめるキーマの耳に守護者の声とは別の声が重なり聞こえる。聞いたことのない、しかし懐かしい声音。
聴き入るキーマにはどちらが目の前に立つ女の声で、どちらが虚空から響く声なのか判然としない。
鼓膜を震わす柔らかな音の波に飲み込まれて、キーマはガックリとその場に倒れ伏した。
見よ 汝らの前に立つ乙女を
その小さき者がアルテミスの娘であることを知れ
それこそが汝らの命脈を救う術なり……
カームが振り返る。そして、そこに倒れ込む娘の姿を見つけると首を傾げた。それが合図にでもなったのだろうか。今まで部屋の隅で大人しくしていた竜の幼獣がヒョコヒョコと娘に近寄っていった。
戯れに遊んでくれと言っているような足取りが、室内の緊張感とは対極の印象を与える。
沈黙は破られた
今こそ目覚めの刻ぞ……
「ネモ。キーマと子供たちをお願いね」
カームの詠唱は、虚空からの声とともに続いていた。だが、唱い続ける声とは別に明らかに彼女の声と思しき音の波が部屋の空気を震わせた。
それをジッと聴き入っていた竜の子は、解ったと言うように一度頷くと気を失っている娘の傍らに座り込み、その長い鼻面を眠る娘の顔に近づけた。
“浮ケ!”
詠唱が続く音の洪水のなかに子供の声が響いた。
幼子の声の後に続くようにキーマの身体が空へと持ち上げられた。重力に逆らって浮かび上がった娘の身体は不安定に空中を漂っている。
“月ノ青白キ横顔ト猛々シイ動乱ノ神ガ命ジル。幼キ者ヨ。秘サレタ部屋ニ往クガイイ”
幼い声が朗々と響く。部屋に水晶球の輝き以外の光が混じった。
金色の閃光が一瞬だけ部屋を満たし、すぐに元の銀の輝きが部屋に拡がった。何ごともなかったかのように、カームと虚空の声の詠唱は続く。
しかし、倒れ込んでいたキーマの姿は跡形もなく消え失せ、彼女の傍らにうずくまっていた小竜の姿も同じように消えていた。
癒し手の席は二つなく
その記憶も二つなし
継ぐべき者に名を与わば
清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……
「さぁ、ラサ。受け取りなさい。あなたが今から受け継ぐのです。魂の守護者のすべてを!」
詠唱の声と重なって、カームの肉声が部屋に漂う。血の通った人間の声。だが、どこか寂しげな。
聞く者のない声音がなおも朗々と続いた。
廻れ、廻れ 輪廻の歯車
和児を護りて 疾く廻れ
刻の波間に身を任せ
永遠の娘が生まれ来る……
水晶球を見つめるカームの瞳が笑っている。すべてを見透かすような空色の瞳が、死への諦観を含んで笑っている。
運命が回る。人の目には見えない、神々の戯れに誘われて……。
敵の不可解な動きに気づいたのは族長だった。
「おかしい。いつもの攻め方ではないぞ、谷の者は!」
谷の一族が攻めたててくると、いつも狂ったように苛烈な槍の攻撃が続くのだ。それが今回に限って自分たちを誘うようにジワリジワリと後退していく。そして、一定の距離を下がるといつも通りの剣戟が再開される。
それを何度も繰り返している。まるで時間を稼いでいるような……。
「まさか……」
族長は自分の不吉な予感に身震いした。まさか、我々をおびき出すためだけにこの作戦が行われているのではないか?
思い至った考えが行き着く先は、領内の館に残してきた一族の癒し手だった。
「まずい! 谷の族長め! 我らの守護者を殺めるつもりだ……!」
だが、敵軍との攻防は続いている。このまま敵に背を向けるわけにはいかない。
「族長! 行ってください! ここはあたしたちで充分です! ……カームを! 我らの母をお願いします!」
今しがた前線から交替してきたばかりの黒戦士の女が族長の独白を聞いて叫んだ。
もしクーンの推察が正しかったとしたら、今頃カームのいる館や幼い子供たちのいる屋敷は谷の軍勢に包囲されている。
護る者のいないカームや幼子などあっけなく殺されてしまうだろう。
「白戦士だけでいい! 黒とその配下の者はここを離れるな!」
迷う間もなく指示を出す族長の声を掻き消すように新たな鬨の声が上がった。だが、その声はあり得ない声だった。
「クーン! 谷の奴ら! 男たちを、男たちを軍に加えています!」
「なんだと!?」
女族にあるまじき行為だった。
自分たちが傭兵として雇われはしても、女族が他族の、しかも男を軍列に加えるなど、これほど恥さらしな行為はない。谷の族長は誇りまで売り渡してしまっているのか。
男たちのあげる喊声が空気を震わす。
こちらは今までかなりの時間を戦ってきている。交替しながらの戦闘とはいえ、味方の疲労は徐々に溜まってきていた。
持久戦になれば男たちには勝てない。体力差を補うには、こちらの軍勢の数は少ないはずだ。
谷の者もそれをよく知っている。こちらの陣営が破られたら、一気に領内に敵は侵入するだろう。
「あの女狐。よくも、こんな卑怯な策を!」
族長は前方から聞こえる剣戟の音を聞きながら吼えた。だが今さらどうにもならない。
初めに気づいていれば、罠にはまることもなかったのだろうが、味方の体力が落ち始めている今となっては、進むことも退くことも困難を極めることだった。
それでも一族の癒し手や未来のある子供たちを捨てておくわけにはいかなかった。
「エル・ブラン!」
族長は自分の片腕となって働く女の名を呼んだ。
「エル・ブラン、ここに!」
すぐに返事が返され、返り血を浴びた女が顔を覗かせた。
「私は館に向かう! 他の者はすべてお前の下に入れるから、お前がこの場を取り仕切れ!」
貴重な人員を連れて館へ向かうことはできない。自分が一人で行くしかあるまい。相手も隠密に行動しているのであれば、かなりの少数で館に向かっているはずだ。
「判りました、族長。ご武運をお祈りします!」
黒衣の女は強い眼差しを女主人に向けたまま頷いた。一刻の猶予もない事態だった。躊躇いがすべての生死を分けるだろう。
「ご武運を!」
「白き母上をお願いします!」
口々に兵士たちが族長に呼びかける。それに答えを返している暇はなかった。族長は配下の戦士たちが見守るなか、赤い烈風となって夜の闇へと駆けだしていった。
光の珠のなかから取り出した巻物を拡げて読み始めたラサは、読み進むうちに身体の震えを押さえられなくなっていた。
「これは……! この古書は……」
古書は確かにカームが書き記したものに違いはない。だが書き記された文字の古さと筆跡から見て、一人の人間によって書かれたものだ。決して歴代のカームたちが書きためたものではない。
それに、この内容は……。
「なぜ……。どうして、こんなことが……!」
見なければ良かった。
ラサはこの古書を読んだことも、この場所へ来たことさえも後悔し始めていた。こんなこと知らなければ良かった。
「お師匠様……。あなたもこれを読まれたはず……。なぜ? どうして、平気なのですか!?」
とうとう耐えきれず、ラサは紙面から目を背けた。
目をきつく閉じる。だが、今まで読み進んだ内容は記憶にしっかりと刻まれており、忘れることなどできるはずもない。
「いやよ……! お師匠様が死んでしまうなんて……。それに! それに、これには……わたしの……」
床にひれ伏し、頭を抱えてラサはもがいた。髪を振り乱し、全身を痙攣させる。狂ったように頭を振って声を震わせる様は狂女の様相。
沈黙は破られた
今こそ目覚めの刻ぞ……
再び、さきほどの声が響きだした。今度はすぐ頭上から聞こえてくる。
ラサは飛び上がって頭上を見上げた。そこには柔らかい輝きを発する光体がふわふわと浮かんでいるだけで、何も居はしない。
「誰なの!? ……姿を見せなさいよ!」
ラサはわめき声をあげた。
癒し手の席は二つなく
その記憶も二つなし
継ぐべき者に名を与わば
清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……
静かな声の詠唱が続く。そして、巻物を取り出した光体がゆっくりとラサめがけて降下してきた。ふわりふわりと漂いながら、だが確実に避ける隙も与えずに。
「ひっ……」
ラサは後ずさった。しかし、くじいた足では思うように動けない。物言わぬ光はラサの行く手を遮るように目の前まで降りてくると、そこでピタリと止まった。
そして眩い輝きを一度だけ発すると、徐々にその光を納め、淡い鈍い輝きだけを残して小さく縮んでいった。
「な……に?」
小さくなっていく光をラサは固唾を飲んで見守った。恐ろしさに逃げ出してしまいたかったが、身体はいっこうに言うことをきかなかい。
とうとう指で摘めるほどの大きさまで光は縮んでしまった。
淡い白く輝く珠。どこかで見たことのある形。
「……! こ、これ……お師匠様の、額飾りについている……!」
ラサは目の前に浮かぶ白い真珠を凝視した。
見たことがあるはずだ。いつもお師匠様の額を飾っている額飾りの中央にはめ込まれた真珠が目の前に浮かんでいる。
自身が意志を持つようにふわふわと浮かぶ珠はラサに手に取るよう促すようにクルクルと目の前で回りだした。
「いや……。側にこないで……」
ラサは首を振って真珠から目を逸らそうとした。しかし彼女が顔を背ける方向へ真珠は移動し、嘲笑うように目の前を行き来する。
「いやだったら! こっちに来ないで!」
身体の震えは止まらない。振り乱した髪は彼女の肩や背中でくしゃくしゃにもつれ、体中にまとわりついている。
いつまで経っても手に取ろうとしないラサに痺れを切らしたのか、真珠がググッと近寄ってきた。
ラサは声にならない悲鳴を発した。真珠はお構いなしに彼女にすり寄り、その額に飛び込んでいった。
「い……いやぁ〜!」
ラサの口から絶叫が迸る。半狂乱になって自分の額を掻きむしる。その彼女を嘲笑うように再び闇の声が響いた。
廻れ、廻れ 輪廻の歯車
和児を護りて 疾く廻れ
刻の波間に身を任せ
永遠の娘が生まれ来る……
わなわなと身体を震わせ、額に手をあてたまま白い娘は滝のような涙を流し始めた。
「お願い、やめて……! わたしがカームになったら……。お師匠様が……。お師匠様がぁ〜! あぁ〜……」
彼女の精神をなぶるように声が容赦なく辺りに響く。粛々と続く詠唱を、ラサが止める手だてはなかった。
残りし者が、すべてを継がん
逆巻きながれる河のごとく
初めからのすべてを継ぐがいい……
闇の声がさらに大きく反響してくる。耳を聾するほどの大音声にラサの意識は遠退き、支えるもののないその躰は崩れるように床へと倒れていった。
薄闇のなかに白い娘の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。
泣き濡れたその頬は血の気が引き、乱れた髪の間から覗く白い額には真珠の額飾りが輝いていた。
背後から荒々しい足音が聞こえてくる。白い女はそれを背に聞きながら、詠唱を続けていた。主なき声もともに唱う。
銀の光に満たされた空間は時に温かく、時に冷たく空気を染めあげられ、詠唱に翻弄されている。
「往きなさい。幼き者よ……。すべてがあなたのものです。……そう! 私の記憶でさえも!」
額に玉の汗を浮かべてカームは水晶球を見つめ続けた。
口は詠唱を続けているのに、別の肉声がどこからともなく響いてくる。
残りし者が、すべてを継がん
逆巻きながれる河のごとく
初めからのすべてを継ぐがいい……
呪歌に合わせてくねらせていたカームの両腕が、そのとき天高く突き上げられた。瞬く間に白き母の全身が白光に包まれる。
ともに詠唱を続けていた声が音とも声とも取れる奇妙な発音を繰り返しだした。うねるように空間に拡がる主なき声は、白い女の躰のまわりを旋回しているようだった。
「受け取るのです、ラサ! ……これであなたは私になる!」
一際高音の声が辺りを包んだ。
バタバタと扉に近づく足音がする。人間のわめき声も! 背にした扉を押し開けようと、体当たりしているらしい音もはっきりと聞こえる。
カームは突き上げた両手を水晶球へと伸ばした。珠はまだ銀の輝きを発し続けている。
珠を掴んだ癒し手の両手の間から目を焼く閃光が迸る。まともに目を開けてはいられない。カームは思わず目を閉じた。
そして また
脈々と続く記憶を受け継いで
再生の巫女が生まれよう
白い母のまわりにまとわりついていた声が最後とばかりに呪歌を唱いあげる。空気さえ焼き尽くしそうな閃光がゆっくりと退いていった。
癒し手が力尽きたように床に座り込んだ。恐る恐る目を開ける。辺りは今までの光の海が嘘のように薄暗くなっていた。水晶球ももう光を放ってはいない。
滝のように流れ出した額の汗を拭おうとカームは腕を上げた。
そのとき、背後から硬い物が弾ける音がこだました。
「いたぞ! カームだ!」
驚いて白い女は振り返った。その目の前に女戦士が立ちはだかっている。血走った目がカームの全身を舐めるように往復する。
「森の癒し手だね!?」
女の返答も待たずに侵入者は槍を振り上げた。
遠くに剣戟の音がする。目の前の殺戮者のことも忘れて、カームは剣戟に耳を澄ませた。聞き覚えのある剣を撃ち合わせる音のリズム。
「あぁ、アティーナ。戻ってきてしまったのね?」
白い母は静かな微笑みを浮かべた。
「死ね! すぐにお前の一族も後を追わせてやる! この性悪な魔女め!」
金切り声とともに槍が突き出され、白き母エイラの胸に吸い込まれていった。
全身を返り血で真っ赤に染めた女が睨みすえた。
「見つけたぞ! 谷のハルペラ!」
「遅いかったじゃないか……」
残酷な笑みを浮かべてハルペラと呼ばれた女は振り返った。
闇を溶かし込んだような黒髪がヌラヌラと光っている。笑みを浮かべる唇は血を吸ったように紅い。
「館にはもう部下が入り込んでいるよ。どうするね、森のアティーナ?」
可笑しくてたまらないといった風情で、ハルペラはケラケラと笑い声をあげた。腰から下げた剣がカチャカチャと音を立てる。
「貴様という奴は!」
森の一族を統べる族長は朱に染まった剣を振り上げた。
「アッハハ! 可笑しいねぇ、アティーナ! 癒し手一人のために血相を変えて一人で駆け戻ってきたのかい!?そんなに心配なら、隠した子供たちと一緒にあの白い性悪魔女もしまっておけば良かったじゃないか」
ゲラゲラと笑いながら、ハルペラは腰の剣を抜きはなった。月光に反射する白刃がギラリと輝いた。
「隠しただと……?」
苛烈な攻撃を続けながらアティーナは相手の顔色を伺った。
子供たちはいつも通り屋敷の部屋で眠っているはずだ。戸締まりの厳重なカームの館より容易に入れるはずの屋敷に、この悪辣な女が踏み込んでいないはずがない。
屋敷に子供たちの姿がなかったというのなら、カームは子供たちを連れて逃げ出した後なのか?
「なに考えごとをしてるんだい!? 戦いの最中に他ごとを考えるんじゃないよ! 面白くないじゃないか!」
悪鬼の形相で大きく剣を振りかぶったハルペラがアティーナの胴を薙ぎ払った。だが、紙一重の差でアティーナが避ける。
「お前こそ、ベラベラ喋るんじゃないよ! こうるさいカラスめ!」
お返しとばかりにアティーナの剣がハルペラの足元を狙う。
背後に飛んでその剣撃を避けたハルペラがすばしっこくアティーナの右側に回り込む。今まで戦闘で体力を使っていない分、相手より早く動けるのだ。
剣を持つ利き腕を狙うハルペラの動きにアティーナが気づき、すんでの所でその剣撃を避ける。
「この……! チョロチョロとうるさい蠅が!」
「喧しいね! サッサとくたばっちまいな、アティーナ! どうせすぐにあんたの大事なカームも後を追うんだよ!」
鋭い舌鋒がアティーナの胸をえぐる。カームの安全を確認したわけではない。館に残っているのなら、早く助けに行かなければ。
「ほらほら! どうした! もう動けないなったのかい!?」
ハルペラの嘲り声が鼓膜を震わす。
気を散らされたアティーナの脇腹をハルペラの繰り出した剣先がかすめた。思いの外鋭い剣撃にアティーナがよろける。
「下手くそ! さっさと死んじまいな!」
かわされた剣先をすぐさま引き戻し、ハルペラが先ほどよりも早い剣撃を繰り出す。鋭い切っ先が、未だに体勢を立て直せないアティーナの左胸に向けて突き出された。
「なめるなよ! 畜生……!」
アティーナが辛うじて盾でその攻撃を防ぐ。だが息が上がりかかっていた。
「ハッハァ〜! 全然なってないよ。なんだい、その戦いぶりは!」
嘲弄がアティーナの鼓膜を打つ。歯がみしたところで、どうにもならない。
「ほ〜ら! サッサと眠っちまったほうが楽でいいんじゃないかい!?」
ふらつきかかったアティーナの足元をすくうようにハルペラの剣が横薙ぎにする。
アティーナはやっとの思いで白刃を避けたが、続けざまに繰り出される切っ先は盾の間をくぐって、とうとう身にまとった鎧に達した。
鈍い音とともに鎧の肩部が弾けた。
「くそ……!」
アティーナの左肩から鮮血が噴き出す。
「あはは! あんたの髪の色とお揃いさね。血にまみれて死ぬがいいよ、アティーナ!」
肉食獣を思わせる八重歯がハルペラの口から覗く。
アティーナの動きは鈍かった。振り下ろされてくる剣が見えているのに、躰は緩慢な動きしかできず、その輝く刃を避けることは困難だった。
こんな所で死ぬわけには……!
地面に張りついたままの重い両足を動かそうと焦る。だが動かない。諦めと怒りがアティーナの体内を満たす。
「エイラ……!」
その時、友の懐かしい名を叫んだ彼女の声を掻き消すほどの大音声が森の樹という樹の梢を震えあがらせた。
怒りと焦りに彩られた声とともに一人の女が姿を現した。
「エル・ブラン! 何ごとだ!?」
族長は自分とカームの間に割って入ってきた乱入者に怪訝な表情を向けた。カームと話をしている間は誰も邪魔しないように伝えてあった。
「谷の一族が! 境界線を越えて、谷の一族がわが領地に進入しています。今、川上で黒戦士が応戦していますが手が足りません。このままではここもすぐに攻め込まれます!」
黒っぽい衣装を身にまとい、三日月型の盾と鋭い穂先の槍を掲げて立つ女はまだ若い。だがその声音には戦士の厳しさが滲んでいる。
「谷の者が!? あの女狐め……! 私も出るぞ!カームの護りに入る者をこちらに寄越せ」
クーンは同じ女族でありながら、長い間諍いを続けていた一族の族長の顔を思い出して地団駄を踏んだ。
あの一族はいつもそうだ。何かと言えば争いを仕掛けてくる。他国から受けた依頼を横からかすめ取っていくことも一度や二度ではない。
今度もこちらの寝込みを襲って何かを企んでいるに違いない。
「キーマ・ラスティを呼んであります。ですが白戦士たちすべてを護りに就かせるわけには……」
エル・ブランと呼ばれた黒戦士は、カームの護衛専門に配備されている戦士たちを前線に投入したいようだ。それほど前線の苦戦は酷いのだろう。
「何人をこちらに寄越せそうだ!?」
「クーン。私の護りはキーマ一人で結構よ」
素早くエルに問い返すクーンの声に続いて、カームはきっぱりと言い切った。穏やかな視線を向けてはいるが、クーンの抗議をはねつける強い光が眼光の奥に宿っている。
「すみません! 遅くなりました」
そのとき、一人の娘がバタバタと足音も荒く部屋に駆け込んできた。昼間、カーム見習いのラサ・モーリンに護衛で就いていたキーマだった。
「キーマ。……よし。ここはキーマ一人残す。残りの者はすべて谷の一族のほうへまわせ!」
「え!? な……どうして!?」
驚いて目を瞬かせるキーマを残してエルが駆け去っていく。
「クーン!? どういうことですか!?」
「キーマ。お前はここに残ってカームを守れ!」
自身の戦支度をするために族長は扉へと向かった。
「そ、そんな! カームの護衛がたった一人だなどと……」
一族の長の後を追おうとするキーマの肩に手を置く者があった。
族長の内心の葛藤を一番理解しているのはこの白い母であったかもしれない。何も言うなと首を振り、忍耐強い顔をしてキーマを見つめるカームの瞳には子供を諭すときの強さが宿っていた。
困惑を隠せないまま、それでもキーマは頷いた。
「良い子ね……。そうそう、ラサにはちゃんと伝えてくれたのね。ありがとう」
今までの力強い表情が嘘のように穏やかに白い女は微笑んだ。
「え? あ、はい。……あの、確かにお言いつけどおりに……。でも……」
「ラサを騙したようで心苦しいの? 大丈夫よ。あなたは嘘をついたわけではないから」
柔らかな笑みを浮かべたまま、カームは娘の肩を抱いた。ラサよりも背の高い少女だ。それでもラサとたいして歳は変わらない。
どうやらラサにカームの書き記した書物があることを伝えさせたのはカーム自身であったようだ。
族長も認知している計画らしいが、いったいラサに何をしようというのか?
それにしても他人を介して伝えることだろうか? 一族の守護者の命じることに従うしかない白戦士の娘にとって、いずれは自分の主人となる者を欺く行為はどんな裏切りを犯すよりも辛いことであったろうに。
「ラサ・モーリンは怒るかもしれません。彼女に禁忌を犯させたのは私です」
キーマが喘ぐように囁いた。その囁きに微笑みを返しながらカームは娘から離れた。
「何も心配はいらないわ。さぁ、ラサが安全な場所にいる間に襲名儀式を済ませましょう。手伝って頂戴ね、キーマ」
「え……えぇ!? だ、だって! 後継者もいないのに!」
一族の族長位、あるいはそれぞれの戦士たちの主導者を任じるときはいつだって、元の地位の者から次の後継者に額飾りが引き渡されるのをキーマは今までみてきていた。
サークレットを引き渡す娘もいないままに行われる襲名儀式などあり得ない。
「着替えを手伝って、キーマ」
柔らかな微笑みを浮かべたままカームは羽織っていた衣装を肩から落とし、腰帯をほどいた。豊満な胸と腰が覗く。
「カ、カーム! 何故、今……」
動揺するキーマにお構いなく、一族の母は着ている物を脱ぎ捨てていく。その度に白い肢体が露わになる。
「急いで、キーマ。私の魔力が使えるうちに、終わらせるわ」
「カーム!? まさか……!」
そのときになって初めてキーマは白い女主人の顔に浮かんだ焦燥感に気づいた。普段は決して見せることのない表情。張りつめた緊張感。
キーマは慄然とした。いずれ、自分の刻がくれば癒し手は自らその姿を消す、と言われている。どう消すのか、キーマはよく知らなかった。
だが今になってようやく判った。消すという意味は身体そのものを一族の者の目の前から隠してしまうのではない。
カームの癒しの力、治癒の魔力を消し、そしてただの女に戻るということなのだ。なんの力もない、ただの女に。
だが戦士として育てられていない女にこの一族のなかで居場所はない。それは何よりもカーム自身が一番良く知っていることだ。
青ざめたままのキーマに白い母は静かな眼差しを向けた。
迫っている刻に焦りはしても、自らの終焉を怖れてはいない空色の瞳。
どんな戦士よりも死を超越した者の双眸は、死の深淵を思わせる強い輝きを放っているようにキーマには思えた。
「戦況はどうなっている!?」
駆けつけた族長の声に黒衣の戦士たちの間から小さな歓声があがった。
「ようやくここまで押し返しました」
「兵士たちも交替で戦っていますから、これ以上敵に侵入されることは防げるかと思います」
口々に報告をする黒戦士たちの口調にはゆとりが感じられた。敵の侵入を知らされたときの切迫した様子はない。
「族長!」
その空間に割り込んできた声にその場にいた者は一斉に注目した。
「別働隊がいます! 敵の分隊が川幅の狭い岩場付近からこちら岸に渡っています。このままだと挟み撃ちです!」
「チッ。やはり……。ジーナ! シシリィ! お前たちの小隊を岩場に向かわせろ!岩場の上からなら容易く討ち果たせよう」
別働隊の報告に素早く対応するとクーンは前方に展開している戦闘の様子をうかがった。絶え間なく剣や槍を撃ち合わす音と鬨の声が上がっている。
「何を考えている……谷の女狐め!」
同じ女族同士、争い合っていたところでなんの得もないのだ。そんなことも解らない相手にクーンは苛立ちが隠せなかった。
純白の正装に着替えたカームの立ち姿は見るからに神々しい。
キーマはその姿に見惚れた。いつ見ても美しい、汚れなき尊い姿。それなのに、この美しいカームの刻の砂は終焉を迎えようとしているというのか。理不尽な怒りが沸き上がる。
「カーム。お願いですから、この館から逃げてください!それが無理だと仰るなら、ラサのいる地下部屋へ! いつ谷の者がくるか知れないのです」
だがキーマの注進はカームの穏やかな微笑みで無視された。
刻の終わりは自身の死を暗示するものだ。その闇が目前まで迫っているというのに、カームは穏やかな微笑みを絶やしてはいなかった。
「水晶球をここへ……」
柔らかな声はまったく震えてもおらず、微笑みのなかの双眸は力強いままだった。
言われるままに水晶球を差しだしながら、キーマはもどかしげに白い母の横顔を見つめた。
カームの手に触れられると水晶球は淡い光を放ちだした。
「いい子ね。さぁ、手伝って頂戴ね」
白い繊手が半透明の表面をなでる度に、水晶は様々な色を浮かび上がらせ、虹色に輝いていった。
幼子に話しかけるように水晶球と会話するカームの顔には、なんの憂いも見られない。
カームがそっと水晶を頭上に掲げる。それを待ちかまえていたかのように輝く珠は銀光を発し、部屋の中を月光で染めあげた。
小暗き途を往け
汝の途がそれなり
柔らかき草はなし
されど、そは天道の途
静かに、だが力強くカームが呪歌の詠唱を始めた。キーマが初めて聞く歌だ。
高く、低く響く声に反応するように水晶球が自身の輝きを強く弱く発する。珠までがカームの歌声に合わせて唱っているようだった。
銀の光のなかに立つ白い母の姿は半ば光に溶け込み、袖下に下がる月長石と額の白真珠がその白い輝きを増す。
歩むごとに荊に傷つき
求めるものは遙か彼方
助け手は何処にか在らん
引き込まれるようにカームを見つめるキーマの耳に守護者の声とは別の声が重なり聞こえる。聞いたことのない、しかし懐かしい声音。
聴き入るキーマにはどちらが目の前に立つ女の声で、どちらが虚空から響く声なのか判然としない。
鼓膜を震わす柔らかな音の波に飲み込まれて、キーマはガックリとその場に倒れ伏した。
見よ 汝らの前に立つ乙女を
その小さき者がアルテミスの娘であることを知れ
それこそが汝らの命脈を救う術なり……
カームが振り返る。そして、そこに倒れ込む娘の姿を見つけると首を傾げた。それが合図にでもなったのだろうか。今まで部屋の隅で大人しくしていた竜の幼獣がヒョコヒョコと娘に近寄っていった。
戯れに遊んでくれと言っているような足取りが、室内の緊張感とは対極の印象を与える。
沈黙は破られた
今こそ目覚めの刻ぞ……
「ネモ。キーマと子供たちをお願いね」
カームの詠唱は、虚空からの声とともに続いていた。だが、唱い続ける声とは別に明らかに彼女の声と思しき音の波が部屋の空気を震わせた。
それをジッと聴き入っていた竜の子は、解ったと言うように一度頷くと気を失っている娘の傍らに座り込み、その長い鼻面を眠る娘の顔に近づけた。
“浮ケ!”
詠唱が続く音の洪水のなかに子供の声が響いた。
幼子の声の後に続くようにキーマの身体が空へと持ち上げられた。重力に逆らって浮かび上がった娘の身体は不安定に空中を漂っている。
“月ノ青白キ横顔ト猛々シイ動乱ノ神ガ命ジル。幼キ者ヨ。秘サレタ部屋ニ往クガイイ”
幼い声が朗々と響く。部屋に水晶球の輝き以外の光が混じった。
金色の閃光が一瞬だけ部屋を満たし、すぐに元の銀の輝きが部屋に拡がった。何ごともなかったかのように、カームと虚空の声の詠唱は続く。
しかし、倒れ込んでいたキーマの姿は跡形もなく消え失せ、彼女の傍らにうずくまっていた小竜の姿も同じように消えていた。
癒し手の席は二つなく
その記憶も二つなし
継ぐべき者に名を与わば
清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……
「さぁ、ラサ。受け取りなさい。あなたが今から受け継ぐのです。魂の守護者のすべてを!」
詠唱の声と重なって、カームの肉声が部屋に漂う。血の通った人間の声。だが、どこか寂しげな。
聞く者のない声音がなおも朗々と続いた。
廻れ、廻れ 輪廻の歯車
和児を護りて 疾く廻れ
刻の波間に身を任せ
永遠の娘が生まれ来る……
水晶球を見つめるカームの瞳が笑っている。すべてを見透かすような空色の瞳が、死への諦観を含んで笑っている。
運命が回る。人の目には見えない、神々の戯れに誘われて……。
敵の不可解な動きに気づいたのは族長だった。
「おかしい。いつもの攻め方ではないぞ、谷の者は!」
谷の一族が攻めたててくると、いつも狂ったように苛烈な槍の攻撃が続くのだ。それが今回に限って自分たちを誘うようにジワリジワリと後退していく。そして、一定の距離を下がるといつも通りの剣戟が再開される。
それを何度も繰り返している。まるで時間を稼いでいるような……。
「まさか……」
族長は自分の不吉な予感に身震いした。まさか、我々をおびき出すためだけにこの作戦が行われているのではないか?
思い至った考えが行き着く先は、領内の館に残してきた一族の癒し手だった。
「まずい! 谷の族長め! 我らの守護者を殺めるつもりだ……!」
だが、敵軍との攻防は続いている。このまま敵に背を向けるわけにはいかない。
「族長! 行ってください! ここはあたしたちで充分です! ……カームを! 我らの母をお願いします!」
今しがた前線から交替してきたばかりの黒戦士の女が族長の独白を聞いて叫んだ。
もしクーンの推察が正しかったとしたら、今頃カームのいる館や幼い子供たちのいる屋敷は谷の軍勢に包囲されている。
護る者のいないカームや幼子などあっけなく殺されてしまうだろう。
「白戦士だけでいい! 黒とその配下の者はここを離れるな!」
迷う間もなく指示を出す族長の声を掻き消すように新たな鬨の声が上がった。だが、その声はあり得ない声だった。
「クーン! 谷の奴ら! 男たちを、男たちを軍に加えています!」
「なんだと!?」
女族にあるまじき行為だった。
自分たちが傭兵として雇われはしても、女族が他族の、しかも男を軍列に加えるなど、これほど恥さらしな行為はない。谷の族長は誇りまで売り渡してしまっているのか。
男たちのあげる喊声が空気を震わす。
こちらは今までかなりの時間を戦ってきている。交替しながらの戦闘とはいえ、味方の疲労は徐々に溜まってきていた。
持久戦になれば男たちには勝てない。体力差を補うには、こちらの軍勢の数は少ないはずだ。
谷の者もそれをよく知っている。こちらの陣営が破られたら、一気に領内に敵は侵入するだろう。
「あの女狐。よくも、こんな卑怯な策を!」
族長は前方から聞こえる剣戟の音を聞きながら吼えた。だが今さらどうにもならない。
初めに気づいていれば、罠にはまることもなかったのだろうが、味方の体力が落ち始めている今となっては、進むことも退くことも困難を極めることだった。
それでも一族の癒し手や未来のある子供たちを捨てておくわけにはいかなかった。
「エル・ブラン!」
族長は自分の片腕となって働く女の名を呼んだ。
「エル・ブラン、ここに!」
すぐに返事が返され、返り血を浴びた女が顔を覗かせた。
「私は館に向かう! 他の者はすべてお前の下に入れるから、お前がこの場を取り仕切れ!」
貴重な人員を連れて館へ向かうことはできない。自分が一人で行くしかあるまい。相手も隠密に行動しているのであれば、かなりの少数で館に向かっているはずだ。
「判りました、族長。ご武運をお祈りします!」
黒衣の女は強い眼差しを女主人に向けたまま頷いた。一刻の猶予もない事態だった。躊躇いがすべての生死を分けるだろう。
「ご武運を!」
「白き母上をお願いします!」
口々に兵士たちが族長に呼びかける。それに答えを返している暇はなかった。族長は配下の戦士たちが見守るなか、赤い烈風となって夜の闇へと駆けだしていった。
光の珠のなかから取り出した巻物を拡げて読み始めたラサは、読み進むうちに身体の震えを押さえられなくなっていた。
「これは……! この古書は……」
古書は確かにカームが書き記したものに違いはない。だが書き記された文字の古さと筆跡から見て、一人の人間によって書かれたものだ。決して歴代のカームたちが書きためたものではない。
それに、この内容は……。
「なぜ……。どうして、こんなことが……!」
見なければ良かった。
ラサはこの古書を読んだことも、この場所へ来たことさえも後悔し始めていた。こんなこと知らなければ良かった。
「お師匠様……。あなたもこれを読まれたはず……。なぜ? どうして、平気なのですか!?」
とうとう耐えきれず、ラサは紙面から目を背けた。
目をきつく閉じる。だが、今まで読み進んだ内容は記憶にしっかりと刻まれており、忘れることなどできるはずもない。
「いやよ……! お師匠様が死んでしまうなんて……。それに! それに、これには……わたしの……」
床にひれ伏し、頭を抱えてラサはもがいた。髪を振り乱し、全身を痙攣させる。狂ったように頭を振って声を震わせる様は狂女の様相。
沈黙は破られた
今こそ目覚めの刻ぞ……
再び、さきほどの声が響きだした。今度はすぐ頭上から聞こえてくる。
ラサは飛び上がって頭上を見上げた。そこには柔らかい輝きを発する光体がふわふわと浮かんでいるだけで、何も居はしない。
「誰なの!? ……姿を見せなさいよ!」
ラサはわめき声をあげた。
癒し手の席は二つなく
その記憶も二つなし
継ぐべき者に名を与わば
清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……
静かな声の詠唱が続く。そして、巻物を取り出した光体がゆっくりとラサめがけて降下してきた。ふわりふわりと漂いながら、だが確実に避ける隙も与えずに。
「ひっ……」
ラサは後ずさった。しかし、くじいた足では思うように動けない。物言わぬ光はラサの行く手を遮るように目の前まで降りてくると、そこでピタリと止まった。
そして眩い輝きを一度だけ発すると、徐々にその光を納め、淡い鈍い輝きだけを残して小さく縮んでいった。
「な……に?」
小さくなっていく光をラサは固唾を飲んで見守った。恐ろしさに逃げ出してしまいたかったが、身体はいっこうに言うことをきかなかい。
とうとう指で摘めるほどの大きさまで光は縮んでしまった。
淡い白く輝く珠。どこかで見たことのある形。
「……! こ、これ……お師匠様の、額飾りについている……!」
ラサは目の前に浮かぶ白い真珠を凝視した。
見たことがあるはずだ。いつもお師匠様の額を飾っている額飾りの中央にはめ込まれた真珠が目の前に浮かんでいる。
自身が意志を持つようにふわふわと浮かぶ珠はラサに手に取るよう促すようにクルクルと目の前で回りだした。
「いや……。側にこないで……」
ラサは首を振って真珠から目を逸らそうとした。しかし彼女が顔を背ける方向へ真珠は移動し、嘲笑うように目の前を行き来する。
「いやだったら! こっちに来ないで!」
身体の震えは止まらない。振り乱した髪は彼女の肩や背中でくしゃくしゃにもつれ、体中にまとわりついている。
いつまで経っても手に取ろうとしないラサに痺れを切らしたのか、真珠がググッと近寄ってきた。
ラサは声にならない悲鳴を発した。真珠はお構いなしに彼女にすり寄り、その額に飛び込んでいった。
「い……いやぁ〜!」
ラサの口から絶叫が迸る。半狂乱になって自分の額を掻きむしる。その彼女を嘲笑うように再び闇の声が響いた。
廻れ、廻れ 輪廻の歯車
和児を護りて 疾く廻れ
刻の波間に身を任せ
永遠の娘が生まれ来る……
わなわなと身体を震わせ、額に手をあてたまま白い娘は滝のような涙を流し始めた。
「お願い、やめて……! わたしがカームになったら……。お師匠様が……。お師匠様がぁ〜! あぁ〜……」
彼女の精神をなぶるように声が容赦なく辺りに響く。粛々と続く詠唱を、ラサが止める手だてはなかった。
残りし者が、すべてを継がん
逆巻きながれる河のごとく
初めからのすべてを継ぐがいい……
闇の声がさらに大きく反響してくる。耳を聾するほどの大音声にラサの意識は遠退き、支えるもののないその躰は崩れるように床へと倒れていった。
薄闇のなかに白い娘の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。
泣き濡れたその頬は血の気が引き、乱れた髪の間から覗く白い額には真珠の額飾りが輝いていた。
背後から荒々しい足音が聞こえてくる。白い女はそれを背に聞きながら、詠唱を続けていた。主なき声もともに唱う。
銀の光に満たされた空間は時に温かく、時に冷たく空気を染めあげられ、詠唱に翻弄されている。
「往きなさい。幼き者よ……。すべてがあなたのものです。……そう! 私の記憶でさえも!」
額に玉の汗を浮かべてカームは水晶球を見つめ続けた。
口は詠唱を続けているのに、別の肉声がどこからともなく響いてくる。
残りし者が、すべてを継がん
逆巻きながれる河のごとく
初めからのすべてを継ぐがいい……
呪歌に合わせてくねらせていたカームの両腕が、そのとき天高く突き上げられた。瞬く間に白き母の全身が白光に包まれる。
ともに詠唱を続けていた声が音とも声とも取れる奇妙な発音を繰り返しだした。うねるように空間に拡がる主なき声は、白い女の躰のまわりを旋回しているようだった。
「受け取るのです、ラサ! ……これであなたは私になる!」
一際高音の声が辺りを包んだ。
バタバタと扉に近づく足音がする。人間のわめき声も! 背にした扉を押し開けようと、体当たりしているらしい音もはっきりと聞こえる。
カームは突き上げた両手を水晶球へと伸ばした。珠はまだ銀の輝きを発し続けている。
珠を掴んだ癒し手の両手の間から目を焼く閃光が迸る。まともに目を開けてはいられない。カームは思わず目を閉じた。
そして また
脈々と続く記憶を受け継いで
再生の巫女が生まれよう
白い母のまわりにまとわりついていた声が最後とばかりに呪歌を唱いあげる。空気さえ焼き尽くしそうな閃光がゆっくりと退いていった。
癒し手が力尽きたように床に座り込んだ。恐る恐る目を開ける。辺りは今までの光の海が嘘のように薄暗くなっていた。水晶球ももう光を放ってはいない。
滝のように流れ出した額の汗を拭おうとカームは腕を上げた。
そのとき、背後から硬い物が弾ける音がこだました。
「いたぞ! カームだ!」
驚いて白い女は振り返った。その目の前に女戦士が立ちはだかっている。血走った目がカームの全身を舐めるように往復する。
「森の癒し手だね!?」
女の返答も待たずに侵入者は槍を振り上げた。
遠くに剣戟の音がする。目の前の殺戮者のことも忘れて、カームは剣戟に耳を澄ませた。聞き覚えのある剣を撃ち合わせる音のリズム。
「あぁ、アティーナ。戻ってきてしまったのね?」
白い母は静かな微笑みを浮かべた。
「死ね! すぐにお前の一族も後を追わせてやる! この性悪な魔女め!」
金切り声とともに槍が突き出され、白き母エイラの胸に吸い込まれていった。
全身を返り血で真っ赤に染めた女が睨みすえた。
「見つけたぞ! 谷のハルペラ!」
「遅いかったじゃないか……」
残酷な笑みを浮かべてハルペラと呼ばれた女は振り返った。
闇を溶かし込んだような黒髪がヌラヌラと光っている。笑みを浮かべる唇は血を吸ったように紅い。
「館にはもう部下が入り込んでいるよ。どうするね、森のアティーナ?」
可笑しくてたまらないといった風情で、ハルペラはケラケラと笑い声をあげた。腰から下げた剣がカチャカチャと音を立てる。
「貴様という奴は!」
森の一族を統べる族長は朱に染まった剣を振り上げた。
「アッハハ! 可笑しいねぇ、アティーナ! 癒し手一人のために血相を変えて一人で駆け戻ってきたのかい!?そんなに心配なら、隠した子供たちと一緒にあの白い性悪魔女もしまっておけば良かったじゃないか」
ゲラゲラと笑いながら、ハルペラは腰の剣を抜きはなった。月光に反射する白刃がギラリと輝いた。
「隠しただと……?」
苛烈な攻撃を続けながらアティーナは相手の顔色を伺った。
子供たちはいつも通り屋敷の部屋で眠っているはずだ。戸締まりの厳重なカームの館より容易に入れるはずの屋敷に、この悪辣な女が踏み込んでいないはずがない。
屋敷に子供たちの姿がなかったというのなら、カームは子供たちを連れて逃げ出した後なのか?
「なに考えごとをしてるんだい!? 戦いの最中に他ごとを考えるんじゃないよ! 面白くないじゃないか!」
悪鬼の形相で大きく剣を振りかぶったハルペラがアティーナの胴を薙ぎ払った。だが、紙一重の差でアティーナが避ける。
「お前こそ、ベラベラ喋るんじゃないよ! こうるさいカラスめ!」
お返しとばかりにアティーナの剣がハルペラの足元を狙う。
背後に飛んでその剣撃を避けたハルペラがすばしっこくアティーナの右側に回り込む。今まで戦闘で体力を使っていない分、相手より早く動けるのだ。
剣を持つ利き腕を狙うハルペラの動きにアティーナが気づき、すんでの所でその剣撃を避ける。
「この……! チョロチョロとうるさい蠅が!」
「喧しいね! サッサとくたばっちまいな、アティーナ! どうせすぐにあんたの大事なカームも後を追うんだよ!」
鋭い舌鋒がアティーナの胸をえぐる。カームの安全を確認したわけではない。館に残っているのなら、早く助けに行かなければ。
「ほらほら! どうした! もう動けないなったのかい!?」
ハルペラの嘲り声が鼓膜を震わす。
気を散らされたアティーナの脇腹をハルペラの繰り出した剣先がかすめた。思いの外鋭い剣撃にアティーナがよろける。
「下手くそ! さっさと死んじまいな!」
かわされた剣先をすぐさま引き戻し、ハルペラが先ほどよりも早い剣撃を繰り出す。鋭い切っ先が、未だに体勢を立て直せないアティーナの左胸に向けて突き出された。
「なめるなよ! 畜生……!」
アティーナが辛うじて盾でその攻撃を防ぐ。だが息が上がりかかっていた。
「ハッハァ〜! 全然なってないよ。なんだい、その戦いぶりは!」
嘲弄がアティーナの鼓膜を打つ。歯がみしたところで、どうにもならない。
「ほ〜ら! サッサと眠っちまったほうが楽でいいんじゃないかい!?」
ふらつきかかったアティーナの足元をすくうようにハルペラの剣が横薙ぎにする。
アティーナはやっとの思いで白刃を避けたが、続けざまに繰り出される切っ先は盾の間をくぐって、とうとう身にまとった鎧に達した。
鈍い音とともに鎧の肩部が弾けた。
「くそ……!」
アティーナの左肩から鮮血が噴き出す。
「あはは! あんたの髪の色とお揃いさね。血にまみれて死ぬがいいよ、アティーナ!」
肉食獣を思わせる八重歯がハルペラの口から覗く。
アティーナの動きは鈍かった。振り下ろされてくる剣が見えているのに、躰は緩慢な動きしかできず、その輝く刃を避けることは困難だった。
こんな所で死ぬわけには……!
地面に張りついたままの重い両足を動かそうと焦る。だが動かない。諦めと怒りがアティーナの体内を満たす。
「エイラ……!」
その時、友の懐かしい名を叫んだ彼女の声を掻き消すほどの大音声が森の樹という樹の梢を震えあがらせた。