永遠の娘
【一話】
原作:ANGEL-KISS 作文:おとわ
開け放たれた窓から燦々と陽光が降り注いでいる。
窓辺に寄った赤髪の女が、眩しい光に耐えられずに視線を室内へと向けた。目が暗さに慣れるまでに少しかかる。顔がその苦痛に歪んでいるが、そればかりが彼女の顔に翳りを与えているわけではなさそうだ。
外は雨上がりの草いきれで息苦しいほどだが、ほの暗い室内は微かな湿気を感じるだけで、古びた石造りの壁に静かに光を受け止めている。
部屋の中央の大きなテーブルの上には、飲みかけの薬湯が入ったカップが無造作に置かれ、その前には膝に竜の幼獣を片手であやす女の姿が陽光に浮かぶ。
「魂の守護者……。本当なのですか?」
窓辺の女の声に呼応するようにその赤髪が震えた。燃え立つ炎のようなその色合いが女の日に焼けた力強い顔立ちを一層に際だたせていた。
白い繊手で幼獣の背を撫でつけていたもう一人の女が顔を上げた。
窓辺の女とは対照的に静脈が透けて見えそうなほどの色白で優しげな顔立ち。淡い金色がかった茶髪や身にまとった白い衣装が時折、陽光に鈍く光る。
「えぇ。もうすぐ、私の役目は終わりです。跡はあの子に任せますよ」
カームは天空を思わす瞳を窓の外に向けると唄うように答えた。
「なぜ!? あなたはまだ若い!」
「……族長。歳など関係ないのです。私に定められた刻がきています」
白い女は膝の小竜を降ろすと静かに立ち上がり、ゆったりとした足取りで窓辺に近づいた。
長く垂らした広口の袖下では、月光を固めたような月長石がカームの歩みにつられてコクリコクリと揺れている。その揺れる石に興味を惹かれたのか、竜の幼獣が小さな前足で月の石を軽く小突く。
「でも……」
「ラ〜サァ〜!! いい加減にしとくれ!」
クーンの声を遮るように甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。その声に二人の間にあった重たい空気が一瞬だけ霧散する。
「ご、ごめんなさぁ〜い」
半べそをかいた声が怒鳴り声の後から続いて聞こえる。窓から眺めると林のすぐ側でがっしりした体格の女が小柄な白い娘にがなり立てている姿が見えた。
「あの子はまだ未熟です。それでもあなたの刻は終わると言われるのですか?癒し手を失えば、一族は滅びてしまいます。どうか……」
「大丈夫ですよ。あの子にもちゃんと務まります。呪歌ガルーナを詠唱できさえすれば」
柔らかい視線を白い娘に向けたまま、カームがクーンの言葉を再び遮った。静かな口調なのに、鋼のような強い意志を感じる。
もう決まっているのだ、口を出すな、と。
「それでも、白い母よ。私はあなたに見捨てられたような気がします」
クーンが唇を噛む様子を横目に見ながら、カームは口元をほころばせた。
「心配しないで。月の乙女の名に賭けて、守護者があなたたちを見捨てることなどあり得ない」
カームの言葉に頷くように、彼女の額に巻かれた真珠の額飾りがキラリと輝いた。それは、あなたの流す涙はすべて飲み込んでいくから、と囁いているような輝きだった。
廻レ、廻レ 輪廻ノ歯車
和児ヲ護リテ 疾ク廻レ
刻ノ波間ニ身ヲ任セ
永遠ノ娘ガ生マレ来ル……
「あ〜ぁ。いやになっちゃう。また最初っからだわ。どうして上手くできないのかしら」
ため息とともに乱暴に籠を草の上に投げ出すと、娘は草の上に寝そべって空を見上げた。
年の頃は十三〜四歳ほどであろうか。利発そうな顔立ちだ。
娘が草に寝転んだまま大きく伸びをした。背中は生乾きの草で少し冷たい。
「お師匠様の眼の色みたい……」
誰に向かって言うわけでもなしに娘はポツリと呟いた。
雨に洗われた木々の緑が目に眩しい。新緑の季節も終わりを告げようとしていた。これからは雨がまばらな時期に入るから、薬草も摘みやすくなるだろう。
空の青から逃れるように娘はゴロリと寝返りを打った。
先ほどはちょっと目を離した隙に、薬草を煮詰めていた壺を真っ黒焦げにしてしまった。あの薬草は焦げつきやすいからとお師匠様にも言われていたのに。
でも本当にちょっと目を離しただけなのだ。
「あ〜ぁ」
再びため息をもらすと娘は気怠げに身を起こして、伸びをした。
「薬草を摘まなきゃ……ね」
もらした言葉にはうんざりした気配が漂っていた。だが、薬が無くなりかかっているのだから、作らない訳にはいかない。
「ラサ・モーリン! ここにいらっしゃったのですか」
近くの低灌木の辺りから聞き馴れた声がかけられた。
振り返った視線の先には、同年代の娘が立っていた。背丈よりも長い槍を片手にして立つ姿は優美さとは無縁だが、日焼けした肌が闊達そうな印象を与える。
娘は着ている着物の丈を短く腰で結わえていた。伸びやかな四肢が猫科の動物を思わせる。
「キーマ。わたし、ついてきてって頼んだ覚えないけど?」
ラサは片眉だけをつり上げ、若草色の瞳で相手を睨んだ。
「私はあなたの護衛ですよ。警護につくのは当然です。厭な顔をされても側にいなければなりません」
律儀に恭しく頭を垂れるとキーマは畏まったまま答えた。
「もう! 同い年なのに敬語なんて使わないでよ! イライラするわ!」
こんなことでキーマに八つ当たりしてみても仕方ない。でも内心の焦りは埋火のように消えることなくジリジリと胸を焼く。
そんなふうに頬を膨らませて文句を言うラサの容姿はキーマと同い年にしては少し幼めに見えた。
「なにを怒っているのですか? あなたは次の魂の守護者を約束された人。敬語を使ってどこがおかしいのです?」
ラサの態度が心外だとばかりに、キーマは眉間にシワを寄せた。
「嘘よ! いつまで経っても半人前の見習いだって、みんな言っているわ」
うずくまって膝を抱える小さな娘の姿にキーマは苦笑した。そんなことを気にしているのか、とその顔がいっている。
今まで溜まっていた不満を吐きだすようにラサはさらに続けた。
「呪歌を唱うどころか、カームの雑事さえこなせないって!」
そんなラサをなだめるようにキーマが顔を覗き込んだ。
「あなたは生まれ落ちたそのときからカームの才覚を認められています。心配する必要はないと思いますが?」
だが、そんな言葉もラサには慰めにならないのか、沈んだ顔つきは一向に直らない。
「戦士として戦の庭に散ったほうがわたしには分相応だわ。……なのに、戦うことも許されないなんて」
暗い表情のままラサは立ち上がり、キーマに背を向けた。
その小さな背中を悲しげにキーマが見つめる。
「そんな哀しいことを言わないでください。カームの滅びは一族の滅びです。癒し手がいるからこそ、我々は戦えるのですから……」
「呪歌が唱えなければ、結局同じだわ。カームになれないもの」
月光のように金色に輝く自分の髪をクルクルと指で弄びながらラサはキーマのほうにチラリと視線を向けた。
「呪歌を唱えたら、カームになって頂けるのですね?」
何か思い詰めたような緊張を顔に浮かべてキーマが訊ねた。
「そうね……。それが私の定めだというのなら」
しかしラサはそんなキーマの様子にも気づかず空の青さに見とれた。引き込まれそうな青。お師匠様の瞳の色にそっくりな。
ふと我に返ったラサは足元に転がった採取籠を拾い上げた。薬草摘みがまだ途中だった。今日中に作りにかからないと、薬が切れてしまう。サボっている場合ではなかった。
薬草を探そうと辺りをキョロキョロと見まわすラサの傍らに立ったまま、キーマは黙り込んでいた。顔には何か迷いの色が濃い。
「キーマ。悪いけど薬草を見つけるのを手伝ってよ」
振り返ったラサの視線は真っ直ぐに自分を見つめるキーマのそれと絡み合った。
「……代々カームは呪歌に関する書物を書き記しているそうです」
声を潜めるキーマの顔は密談をしているというよりは、秘密を告白するとき特有の緊迫感に満ちていた。ラサはキーマの話に引き込まれる。
「それを読むことが叶えば、呪歌を唱うことなど、造作もないことだとか」
「!? そんな話……初耳だわ」
今までに一度だって聞いたことはなかった。にわかには信じられない。だが、キーマがそんな重要なことで嘘をつくとも思えない。
「……でしょうね。族長と我々近衛にしか伝えられていませんし、口外は禁じられています。もちろんカーム以外の者が読むことなどできるはずもありませんから」
その禁じられている秘密をキーマはラサに打ち明けてしまっている。このことが他のナイツやクーンに知れたら、キーマ自身無事には済むまい。
「それに……。カーム以外の者が読むと気が触れる、と」
付け加えられたキーマの最後の言葉はラサには耳に入っていなかったかもしれない。
カームの書物を読むことが叶えば、呪歌が唱える。自分が今までどうしても唱えなかった呪歌が、思いのままに使えるようになるかもしれない。
その可能性にラサの心は浮き足立ち、禁忌のことなど思いもしない。
「その書物、どこにあるの?」
夢中でラサは訊ねていた。薬草摘みのことなど、すっかり忘れている。
たじろいだようにキーマが半歩さがった。
「書庫の奥、だと聞いています。でも正確な場所は……」
「書庫に!? 全然気づかなかったわ」
カームが読めるというのなら、たとえ見習いでもわたしにだって……。本当にカームの才覚があるというのなら!
キラキラと目を輝かせるラサの表情を見つめながらキーマは自問を繰り返す。
(これで、良かったのだろうか? ……本当に良かったのだろうか?)
「お師匠様。これで薬は全部です」
おずおずと差し出した壺に注がれる師匠の視線を痛いほどに感じてラサの躰は縮み上がっていた。
ジャムのように粘りけのある薬は壺の深さの半分ほどしか入ってはいない。本来なら、壺一杯に出来上がるはずの薬がこれほどの量になってしまったことには色々な理由があった。
まず、初めに作った薬を焦がして無駄にしてしまったこと。そして、その後に採れた薬草が少なかったこと。さらに、この薬壺に移すときに手を滑らせて薬をこぼして土に還してしまったこと。すべて、自分の不注意が招いた結果だった。
悄然と俯くラサの手から薬壺が取りあげられた。
「ご苦労様。今年は薬草の生育が遅いから、草を摘み取るのも大変だったでしょう。今夜はゆっくり休みなさいね」
ラサは弾かれたように顔をあげて、微笑みを浮かべる師匠の顔を見た。
確かに今年の薬草の生育は少し遅い。でも、決して少なすぎるというわけではなかった。自分が失敗さえしなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
部屋の隅に備えつけられた棚に壺を納める師匠の後ろ姿を目で追いながら、ラサは情けない気分を押さえきれず一人落ち込んだ。
薬壺をしまい終わった師匠がゆったりとこちらに戻ってくる。その足元には竜の幼獣がじゃれついている。
師匠は泣きそうな顔をしているラサの手を取るとその白い両手で娘の小さな手を包み込んだ。
「薬草を摘むときにつけたのね、この傷。痛かったでしょう?」
師匠の優しい手が優雅に舞い、ラサの擦り傷だらけの手の上をなでていった。魔力の温かい波動がじわりと伝わる。
「さぁ、治ったわ。……ラサ?」
ボロボロと涙をこぼす娘に少し驚きの表情を向けた後、カームはその月光の輝きを放つ髪を優しくなでた。なにも心配するな、というようにゆっくりと、ゆったりと。
「お、お師匠様……。ごめんなさい。ごめんな……さ……」
なおも涙を流す娘にいっそう優しい微笑みを向けると、カームはその肩を抱き寄せて背中をさすった。そんなことをしたら、泣きやむどころではないであろうに。
案の定、ラサは師匠の胸に顔を埋めると全身を震わせて泣き続けた。
「ラサ。草はまた育つわ。今度はもっと上手くできる自信があるでしょう?」
ひとしきり泣き続けた娘の涙がようやく涸れ始めた頃、カームがそっと娘の顔を覗き込みながら囁いた。
コクリと頷くラサの様子に満足したのか、師匠は娘の身体を引き離すともう一度だけ髪をなでた。
「お休みなさい、ラサ。……月があなたの夢を見守り続けますように」
「はい、お休みなさい。お師匠様」
なんとか笑顔を作るとラサは強ばったその顔を師匠に向けた。そして、ふと師匠の足元にまとわりついている小竜に目をとめる。
「ネモ。お休み」
娘の呼びかけに竜の幼獣がその声の主を見上げた。大きなドングリ眼がキョロキョロと動き、娘の顔を凝視する。
「ネモ?」
カームが呼びかけながらその不格好な生き物を抱き上げた。
「ラサがお前に挨拶をしてるのよ?」
だが幼獣は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。小さな娘を小ばかにしたその様子にカームは困ったように顔を曇らせ、獣に無視された娘はしょんぼりとうなだれた。
「しようのない子ね、ネモは。ラサ。ゆっくりとお休みなさい」
小竜の額をトントンと突っついた後、カームはラサに微笑みを向ける。
目に見えて落ち込んでいる娘を促すようにカームは娘の肩に手を置いた。片腕では幼獣が退屈そうに鼻を鳴らしている。
「お休みなさい、お師匠様」
硬い表情を崩さず、ラサは一人と一匹に背を向けた。そして、逃げ出すように扉から滑り出ていったのだった。
その後ろ姿を見送った後、白い女はため息混じりに小竜に話しかける。
「ダメよ、ネモ。ラサ・モーリンを虐めては」
だが竜の幼獣はそんなことにはまったく頓着した様子も見せず、女の腕のなかで甘えた鳴き声をあげていた。
その竜の様子にヤレヤレと首を振り、カームは奥の扉へと歩き出した。
扉の奥には人の気配がしている。ラサがここを訪れる前から居座っている来訪者が今のやりとりを聞いていたであろうことはすぐに予想がつく。
カームは一瞬だけ苦笑いをその表情に浮かべたが、すぐにいつもの柔和な顔を作り、そっと奥の扉を開けた。
来訪者は渋い表情を作っていた。
予想通りのその顔にカームは再び苦笑いを浮かべそうになった。これは彼女のいつもの癖だ。気にしていては、きりがない。
竜の幼獣を抱き上げたまま白い女はテーブルの側まで歩み寄った。
「カーム。あれでよろしかったのか? ……あの様子だと、間違いなく書庫へ向かってるぞ」
納得がいかない、といった顔つきのままクーンは目の前に置かれた果蜜水のカップを取りあげた。しかし、手に持っただけで一向にそれに口をつけようとはしない。
「良いも悪いもありません。あの子が成人していようと、幼かろうと、定められた刻は間違いなく近づいているのです。私の刻が終わる前に、ラサにすべてを引き継がせます」
頑迷な、あるいは冷酷なほどにきっぱりと白い女は言い切った。腕のなかで小竜が居心地悪げに身じろぎした。
「それに、ラサは必ず呪歌を自分のものとするでしょう。あなたの心配することではありません」
小竜を床に放つとカームはまとった衣装を優雅に揺らしながら椅子に腰掛けた。文句のつけようのない優美な動きに竜の子が女をうっとりと見つめる。
「あの娘にカームの重圧に耐えられる精神力があると?」
苛立たしげに髪を掻き上げるとクーンはもどかしそうな表情で相手を見遣った。どうして、そんなに落ち着いていられるのか?
「……私にはそうは見えない」
そのクーンに癒し手が穏やかに笑みを向ける。子を見守る母のように。あるいは慈悲深く人間を眺める神のように。
「賭ですよ。これは、ね」
カームはまるで遊びの続きを話して聞かせるように、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
ことはそんな簡単なことではないのに。
女だけのこの一族で、癒し手の不在は緩慢な滅びを意味している。いや人としての血脈を保つだけならば、一族に男を加えてしまえば済むことだ。
だが誇り高い女族の血がそれを素直に享受するはずもない。
女だけの種族では限界がある。そのことには一族の者すべてが感じていることだ。それでも他の種族に取り込まれることなく一族が命脈を保ってきたのは、彼女たちが傭兵として他国の王たちに重宝がられていたからだ。
だがそれも、魂の守護者が居ればこそだ。
子を産む女にとって、戦で人の命を奪うことは自分で自分の子の命を否定しているようなものなのだ。その矛盾する感覚をなだめるためにカームは一族の者が背負う負の感情をすべて独りで引き受ける。
戦ですり切れてしまった者の心を呪歌の調べでもう一度紡ぎ直し、安眠させるのがカームの役目だ。癒し手がいるからこそ、戦へ向かう者たちは他国が怖れる力を出し尽くせる。
その、自分の魂そのものを救ってくれる癒し手が居なくなったら? 考えただけでも悪寒が走る。
族長はたまらず立ち上がった。
見えない恐怖と戦いながらクーンは癒し手の空色の瞳を睨んだ。なぜ、そんなに平然としていられるのか!? 判らない。この人の心は判らない。
「あなたの……。いや……エイラ! その信頼は、いったいどこからくるのだ!?」
「たぶん……あなたの思い及ばぬ所からよ、アティーナ」
返ってきた返事に一族の長はいっそうに困惑した。
自分とたいして歳の変わらない一族の白い母は、涼しげな顔をして微笑んでいる。自分の刻が終わるとあっさりと口にしたり、見習いの娘にすべてを託すと言ったり、何を考えているのかさっぱり判らない。
底が知れない。
幼い頃は一緒に野山を駆けたはずの友なのに、いつの間にこんなに理解しがたい存在になったのか。
族長は一瞬その心の深淵を覗いた気分になり、取り憑かれた闇を払うために天にあれし女神の名を口腔で転がした。
『なんて出来の悪い癒し手だろう』
そんなことない。わたしには才覚があるわ。お師匠様がそう言ってくださったもの!
『あぁ、厭だねぇ。いつまで半人前の見習いでいるつもりかねぇ』
わたしだっていつまでも見習いなんかでいたくないわ! だから……だから!
『このままじゃ、死に絶えるのを待つばかり。いっそ、他の後継者を捜したほうが、良くはないか?』
いや! 止めて! わたしを見捨てないで!
小さな悲鳴とともに飛び起きるとラサは肩で息をした。
厭な夢。
額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。その汗を拭おうとしてあげた手がふと止まった。
「ここは……?」
見慣れない景色だった。薄暗い空間にぼんやりと目が慣れてくると、白亜の柱が立ち並び、棺のような石の群が鎮座している様子が見えてきた。
「わたし、確か、書庫に忍び込んで……」
今まで自分の行動を思い出し、辺りを見まわそうと身体を起こす。
途端に足首に鈍い痛みが走った。
「い、痛い。足を捻挫したかしら。あぁ、そうだわ。書庫の奥で隠し階段を見つけて、降り始めてすぐ足を滑らせた……」
すぐ側に暗い階段が上へと伸びていっている。一番上がどの辺りか見当もつかない。
師匠の部屋を後にしてすぐ、ラサは書庫に忍び込んでいた。昼間にキーマから聞いた話が心から離れなかったこともあるが、何よりも追いつめられた心理が書庫へと向かわせた。
ラサはそろりそろりと身体を動かし、うっすらと明るい方へと這っていく。時折に足から伝わる痛みは、そこが熱を持ってきていることを教えていた。
「窓がどこかにあるのかしら? ぼんやりと月明かりが見えるような気がする……」
この地下部屋のどこかに地上からの明かりが射してくる可能性は充分にありそうだった。柱に取りすがってゆっくりと立ち上がると、ラサは光らしきものが見える奥を透かし見た。
「あ……! あれは!?」
思わず柱から手を離して、ラサはよろけた。
奥の光のなかにぼんやりと浮かんだものは、自分たちの信仰する女神像だった。それもかなり古びた感じのする等身大像だ。
随分と前から安置されていたのだろう。掃除されていたが、神像は所々に欠けや汚れが見えた。
その像に引き寄せられるように近づくとラサは自然とその前に跪いた。いつもの習慣で腕を胸の前で交差させ、軽く頭を垂れる。
一通りの祈りを捧げ終わると、ラサはその神像の顔を見上げた。
「お師匠様に少し似てるかしら?」
神の表情は柔らかさより力強さを印象づけるものだった。柔和な師匠の顔立ちに比べれば遙かに凛々しい顔立ちだと言っていいだろう。だが、厳しさの残るその表情の下に慈悲深い微笑みが見えるような気がする。
神の表情を見ているうちにラサは先ほどの師匠の態度を思い出していた。
優しい、滅多に怒らない師匠。それでも今日の薬の出来は叱られても仕方のないものだった。無惨な出来映えであるにも関わらず、師匠は叱りもせず、笑って次は上手くできると言ってくれた。
叱られなかったことにホッとする反面、見捨てられてしまったような心許なさが心の奥底には積もっていた。きっと師匠は呆れて怒る気にもならなかったのだ。なんと情けない弟子であろうか。
哀しげに俯いたラサは神像を安置してある台座に寄りかかると、疲れ切ったように長い長いため息をはいた。
茫然と台座に寄りかかっていたラサの目に、それが目に入ったのは本当に偶然だった。
「あら……? 何かしら?」
台座の端に切り込みが入っている。いや、切り込みくらいなら、装飾の一種だと割り切れる。だが、その切り込み部分は明らかに歪んでおり、暗がりのなかで見ても違和感があった。
ラサは好奇心に駆られてその切り込み部分に触れてみる。切り込みは握り拳ほどの範囲で大理石に刻まれていた。その部分がカタカタと揺れる。
「もしかして、隠し箱か何かかしら?」
ラサは苦労して大理石を引っぱりだした。手首が入りそうな穴がぽかりと開く。そっとその穴に手を差し込んで、中を探ってみた。
……が、中身は空っぽだった。
「何も入ってないわ」
穴に手を入れたまま、がっかりした様子でラサはうなだれた。
昼間に聞いていたカームの書物があるかもしれないと密かに期待していたが、当てが外れてしまった。やはりそんなに都合良く見つかるはずがない。
それにしても不可解な穴だった。神像を安置するための台座にこんな穴など必要ないはずだ。故意に刻みつけられたことは明らかで、何かを隠すために作られたとしか思えないものだった。
それともこれは書物を盗み見しようとやってきた者の目を欺くための仕掛けなのだろうか?
「女神よ……。わたしには書物を見る資格などないということなのですか?」
そのときだった。
力無く呟くラサの声が聞こえたかのように、密やかな声が響いてきた。
見よ…… 汝らの前に立つ乙女を
その小さき者がアルテミスの娘であることを知れ
それこそが汝らの命脈を救う術なり……
突然の囁き声にラサの心臓は飛び上がった。
慌てて辺りを見まわすが、何処からともなくもれてくる光と、闇に半分溶け込んだ石たちが沈黙を守るばかりで生き物の気配はまったくなかった。
「だ、誰!?」
ラサは怯えながらも気丈に声を出した。黙ったままでいては、沈黙の恐怖に心が押し潰されてしまいそうだ。
沈黙は破られた
今こそ目覚めの刻ぞ……
「誰!? 誰なの! いったいどこから話しかけているの!?」
問いに答えようとしない何者かに言いようのない恐怖を抱いてラサは身体を縮めた。まわりの闇に飲み込まれてしまいそうだ。
「誰なの!? 出てきなさいよ!」
ラサは金切り声をあげた。このままここにいてはおかしくなってしまう。だがくじいた足では逃げることも叶わなかった。
彼女のそんな様子を面白がるように闇の声が続く。
癒し手の席は二つなく
その記憶も二つなし
継ぐべき者に名を与わば
清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……
ラサは足の痛みも忘れて立ち上がった。知らず全身が恐怖に震える。このままでは自分の心が壊れてしまう。
「出てきなさいよ! この卑怯者! 姿を見せたらどうなの!?」
震えが止まらない。膝の力が抜けてくずおれそうだ。叫び声をあげる唇も震えて、声がうわずる。
ラサはくじけそうになる自分の気持ちを奮い立たせるように闇を睨んだ。その薄暗い闇の中にほのかな輝きが見えたのは、彼女が闇と対峙したその時だった。
輝きがどんどん強くなる。
「な、何!? 何かが近づいてきている!?」
闇のなかにいたとき以上に怯えてラサは背後の神像に身を預けた。足が震えてまったく動かせない。
廻れ、廻れ 輪廻の歯車
和児を護りて 疾く廻れ
刻の波間に身を任せ
永遠の娘が生まれ来る……
目を開けていられないほどの強い輝きが辺りを一瞬覆った。
「お、お師匠様……助けて」
とうとうラサは他人に、ここにはいない者に助けを求めた。だが、助け手がくるはずもない。
眩い輝きが一瞬で去り、その後には穏やかな月の光に似た輝きが宙に浮かぶ。恐怖も忘れて、ラサは茫然とその発光体を見つめた。楕円の形をしたその光はふわふわとたゆたうように揺れていた。
「な、なんなの……?」
一時の恐慌が落ち着いてくるとラサは光の中を透かし見た。何かが浮かんでいた。
「? ……何かあるわ」
闇から聞こえていた声はもう聞こえなかった。
ラサは恐る恐る神像から身体を起こすと痛む足を庇いながら光の源に近づいていった。
女神像からさして離れていない位置に浮かぶその光体に近づいたラサは、その中に浮かぶ物を確認して息を飲んだ。
「ま、巻物が……。これがカームの書き記している書物なの?」
歴代のカームが書き残している書物にしては、随分と少量な気がする。そして、古びた羊皮紙は光の中に浮かんで彼女が手にすることを望んでいるようにさえ見えた。
「神よ……。感謝します」
震える声と身体を押さえてラサは光に手を伸ばした。
一瞬、見えない壁が自分を遮るのではないかと頭の隅に疑問が浮かんだ。だが光の壁は彼女を拒絶することなく、その内側へと彼女の両手を導き入れた。
開け放たれた窓から燦々と陽光が降り注いでいる。
窓辺に寄った赤髪の女が、眩しい光に耐えられずに視線を室内へと向けた。目が暗さに慣れるまでに少しかかる。顔がその苦痛に歪んでいるが、そればかりが彼女の顔に翳りを与えているわけではなさそうだ。
外は雨上がりの草いきれで息苦しいほどだが、ほの暗い室内は微かな湿気を感じるだけで、古びた石造りの壁に静かに光を受け止めている。
部屋の中央の大きなテーブルの上には、飲みかけの薬湯が入ったカップが無造作に置かれ、その前には膝に竜の幼獣を片手であやす女の姿が陽光に浮かぶ。
「魂の守護者……。本当なのですか?」
窓辺の女の声に呼応するようにその赤髪が震えた。燃え立つ炎のようなその色合いが女の日に焼けた力強い顔立ちを一層に際だたせていた。
白い繊手で幼獣の背を撫でつけていたもう一人の女が顔を上げた。
窓辺の女とは対照的に静脈が透けて見えそうなほどの色白で優しげな顔立ち。淡い金色がかった茶髪や身にまとった白い衣装が時折、陽光に鈍く光る。
「えぇ。もうすぐ、私の役目は終わりです。跡はあの子に任せますよ」
カームは天空を思わす瞳を窓の外に向けると唄うように答えた。
「なぜ!? あなたはまだ若い!」
「……族長。歳など関係ないのです。私に定められた刻がきています」
白い女は膝の小竜を降ろすと静かに立ち上がり、ゆったりとした足取りで窓辺に近づいた。
長く垂らした広口の袖下では、月光を固めたような月長石がカームの歩みにつられてコクリコクリと揺れている。その揺れる石に興味を惹かれたのか、竜の幼獣が小さな前足で月の石を軽く小突く。
「でも……」
「ラ〜サァ〜!! いい加減にしとくれ!」
クーンの声を遮るように甲高い怒鳴り声が聞こえてきた。その声に二人の間にあった重たい空気が一瞬だけ霧散する。
「ご、ごめんなさぁ〜い」
半べそをかいた声が怒鳴り声の後から続いて聞こえる。窓から眺めると林のすぐ側でがっしりした体格の女が小柄な白い娘にがなり立てている姿が見えた。
「あの子はまだ未熟です。それでもあなたの刻は終わると言われるのですか?癒し手を失えば、一族は滅びてしまいます。どうか……」
「大丈夫ですよ。あの子にもちゃんと務まります。呪歌ガルーナを詠唱できさえすれば」
柔らかい視線を白い娘に向けたまま、カームがクーンの言葉を再び遮った。静かな口調なのに、鋼のような強い意志を感じる。
もう決まっているのだ、口を出すな、と。
「それでも、白い母よ。私はあなたに見捨てられたような気がします」
クーンが唇を噛む様子を横目に見ながら、カームは口元をほころばせた。
「心配しないで。月の乙女の名に賭けて、守護者があなたたちを見捨てることなどあり得ない」
カームの言葉に頷くように、彼女の額に巻かれた真珠の額飾りがキラリと輝いた。それは、あなたの流す涙はすべて飲み込んでいくから、と囁いているような輝きだった。
廻レ、廻レ 輪廻ノ歯車
和児ヲ護リテ 疾ク廻レ
刻ノ波間ニ身ヲ任セ
永遠ノ娘ガ生マレ来ル……
「あ〜ぁ。いやになっちゃう。また最初っからだわ。どうして上手くできないのかしら」
ため息とともに乱暴に籠を草の上に投げ出すと、娘は草の上に寝そべって空を見上げた。
年の頃は十三〜四歳ほどであろうか。利発そうな顔立ちだ。
娘が草に寝転んだまま大きく伸びをした。背中は生乾きの草で少し冷たい。
「お師匠様の眼の色みたい……」
誰に向かって言うわけでもなしに娘はポツリと呟いた。
雨に洗われた木々の緑が目に眩しい。新緑の季節も終わりを告げようとしていた。これからは雨がまばらな時期に入るから、薬草も摘みやすくなるだろう。
空の青から逃れるように娘はゴロリと寝返りを打った。
先ほどはちょっと目を離した隙に、薬草を煮詰めていた壺を真っ黒焦げにしてしまった。あの薬草は焦げつきやすいからとお師匠様にも言われていたのに。
でも本当にちょっと目を離しただけなのだ。
「あ〜ぁ」
再びため息をもらすと娘は気怠げに身を起こして、伸びをした。
「薬草を摘まなきゃ……ね」
もらした言葉にはうんざりした気配が漂っていた。だが、薬が無くなりかかっているのだから、作らない訳にはいかない。
「ラサ・モーリン! ここにいらっしゃったのですか」
近くの低灌木の辺りから聞き馴れた声がかけられた。
振り返った視線の先には、同年代の娘が立っていた。背丈よりも長い槍を片手にして立つ姿は優美さとは無縁だが、日焼けした肌が闊達そうな印象を与える。
娘は着ている着物の丈を短く腰で結わえていた。伸びやかな四肢が猫科の動物を思わせる。
「キーマ。わたし、ついてきてって頼んだ覚えないけど?」
ラサは片眉だけをつり上げ、若草色の瞳で相手を睨んだ。
「私はあなたの護衛ですよ。警護につくのは当然です。厭な顔をされても側にいなければなりません」
律儀に恭しく頭を垂れるとキーマは畏まったまま答えた。
「もう! 同い年なのに敬語なんて使わないでよ! イライラするわ!」
こんなことでキーマに八つ当たりしてみても仕方ない。でも内心の焦りは埋火のように消えることなくジリジリと胸を焼く。
そんなふうに頬を膨らませて文句を言うラサの容姿はキーマと同い年にしては少し幼めに見えた。
「なにを怒っているのですか? あなたは次の魂の守護者を約束された人。敬語を使ってどこがおかしいのです?」
ラサの態度が心外だとばかりに、キーマは眉間にシワを寄せた。
「嘘よ! いつまで経っても半人前の見習いだって、みんな言っているわ」
うずくまって膝を抱える小さな娘の姿にキーマは苦笑した。そんなことを気にしているのか、とその顔がいっている。
今まで溜まっていた不満を吐きだすようにラサはさらに続けた。
「呪歌を唱うどころか、カームの雑事さえこなせないって!」
そんなラサをなだめるようにキーマが顔を覗き込んだ。
「あなたは生まれ落ちたそのときからカームの才覚を認められています。心配する必要はないと思いますが?」
だが、そんな言葉もラサには慰めにならないのか、沈んだ顔つきは一向に直らない。
「戦士として戦の庭に散ったほうがわたしには分相応だわ。……なのに、戦うことも許されないなんて」
暗い表情のままラサは立ち上がり、キーマに背を向けた。
その小さな背中を悲しげにキーマが見つめる。
「そんな哀しいことを言わないでください。カームの滅びは一族の滅びです。癒し手がいるからこそ、我々は戦えるのですから……」
「呪歌が唱えなければ、結局同じだわ。カームになれないもの」
月光のように金色に輝く自分の髪をクルクルと指で弄びながらラサはキーマのほうにチラリと視線を向けた。
「呪歌を唱えたら、カームになって頂けるのですね?」
何か思い詰めたような緊張を顔に浮かべてキーマが訊ねた。
「そうね……。それが私の定めだというのなら」
しかしラサはそんなキーマの様子にも気づかず空の青さに見とれた。引き込まれそうな青。お師匠様の瞳の色にそっくりな。
ふと我に返ったラサは足元に転がった採取籠を拾い上げた。薬草摘みがまだ途中だった。今日中に作りにかからないと、薬が切れてしまう。サボっている場合ではなかった。
薬草を探そうと辺りをキョロキョロと見まわすラサの傍らに立ったまま、キーマは黙り込んでいた。顔には何か迷いの色が濃い。
「キーマ。悪いけど薬草を見つけるのを手伝ってよ」
振り返ったラサの視線は真っ直ぐに自分を見つめるキーマのそれと絡み合った。
「……代々カームは呪歌に関する書物を書き記しているそうです」
声を潜めるキーマの顔は密談をしているというよりは、秘密を告白するとき特有の緊迫感に満ちていた。ラサはキーマの話に引き込まれる。
「それを読むことが叶えば、呪歌を唱うことなど、造作もないことだとか」
「!? そんな話……初耳だわ」
今までに一度だって聞いたことはなかった。にわかには信じられない。だが、キーマがそんな重要なことで嘘をつくとも思えない。
「……でしょうね。族長と我々近衛にしか伝えられていませんし、口外は禁じられています。もちろんカーム以外の者が読むことなどできるはずもありませんから」
その禁じられている秘密をキーマはラサに打ち明けてしまっている。このことが他のナイツやクーンに知れたら、キーマ自身無事には済むまい。
「それに……。カーム以外の者が読むと気が触れる、と」
付け加えられたキーマの最後の言葉はラサには耳に入っていなかったかもしれない。
カームの書物を読むことが叶えば、呪歌が唱える。自分が今までどうしても唱えなかった呪歌が、思いのままに使えるようになるかもしれない。
その可能性にラサの心は浮き足立ち、禁忌のことなど思いもしない。
「その書物、どこにあるの?」
夢中でラサは訊ねていた。薬草摘みのことなど、すっかり忘れている。
たじろいだようにキーマが半歩さがった。
「書庫の奥、だと聞いています。でも正確な場所は……」
「書庫に!? 全然気づかなかったわ」
カームが読めるというのなら、たとえ見習いでもわたしにだって……。本当にカームの才覚があるというのなら!
キラキラと目を輝かせるラサの表情を見つめながらキーマは自問を繰り返す。
(これで、良かったのだろうか? ……本当に良かったのだろうか?)
「お師匠様。これで薬は全部です」
おずおずと差し出した壺に注がれる師匠の視線を痛いほどに感じてラサの躰は縮み上がっていた。
ジャムのように粘りけのある薬は壺の深さの半分ほどしか入ってはいない。本来なら、壺一杯に出来上がるはずの薬がこれほどの量になってしまったことには色々な理由があった。
まず、初めに作った薬を焦がして無駄にしてしまったこと。そして、その後に採れた薬草が少なかったこと。さらに、この薬壺に移すときに手を滑らせて薬をこぼして土に還してしまったこと。すべて、自分の不注意が招いた結果だった。
悄然と俯くラサの手から薬壺が取りあげられた。
「ご苦労様。今年は薬草の生育が遅いから、草を摘み取るのも大変だったでしょう。今夜はゆっくり休みなさいね」
ラサは弾かれたように顔をあげて、微笑みを浮かべる師匠の顔を見た。
確かに今年の薬草の生育は少し遅い。でも、決して少なすぎるというわけではなかった。自分が失敗さえしなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
部屋の隅に備えつけられた棚に壺を納める師匠の後ろ姿を目で追いながら、ラサは情けない気分を押さえきれず一人落ち込んだ。
薬壺をしまい終わった師匠がゆったりとこちらに戻ってくる。その足元には竜の幼獣がじゃれついている。
師匠は泣きそうな顔をしているラサの手を取るとその白い両手で娘の小さな手を包み込んだ。
「薬草を摘むときにつけたのね、この傷。痛かったでしょう?」
師匠の優しい手が優雅に舞い、ラサの擦り傷だらけの手の上をなでていった。魔力の温かい波動がじわりと伝わる。
「さぁ、治ったわ。……ラサ?」
ボロボロと涙をこぼす娘に少し驚きの表情を向けた後、カームはその月光の輝きを放つ髪を優しくなでた。なにも心配するな、というようにゆっくりと、ゆったりと。
「お、お師匠様……。ごめんなさい。ごめんな……さ……」
なおも涙を流す娘にいっそう優しい微笑みを向けると、カームはその肩を抱き寄せて背中をさすった。そんなことをしたら、泣きやむどころではないであろうに。
案の定、ラサは師匠の胸に顔を埋めると全身を震わせて泣き続けた。
「ラサ。草はまた育つわ。今度はもっと上手くできる自信があるでしょう?」
ひとしきり泣き続けた娘の涙がようやく涸れ始めた頃、カームがそっと娘の顔を覗き込みながら囁いた。
コクリと頷くラサの様子に満足したのか、師匠は娘の身体を引き離すともう一度だけ髪をなでた。
「お休みなさい、ラサ。……月があなたの夢を見守り続けますように」
「はい、お休みなさい。お師匠様」
なんとか笑顔を作るとラサは強ばったその顔を師匠に向けた。そして、ふと師匠の足元にまとわりついている小竜に目をとめる。
「ネモ。お休み」
娘の呼びかけに竜の幼獣がその声の主を見上げた。大きなドングリ眼がキョロキョロと動き、娘の顔を凝視する。
「ネモ?」
カームが呼びかけながらその不格好な生き物を抱き上げた。
「ラサがお前に挨拶をしてるのよ?」
だが幼獣は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。小さな娘を小ばかにしたその様子にカームは困ったように顔を曇らせ、獣に無視された娘はしょんぼりとうなだれた。
「しようのない子ね、ネモは。ラサ。ゆっくりとお休みなさい」
小竜の額をトントンと突っついた後、カームはラサに微笑みを向ける。
目に見えて落ち込んでいる娘を促すようにカームは娘の肩に手を置いた。片腕では幼獣が退屈そうに鼻を鳴らしている。
「お休みなさい、お師匠様」
硬い表情を崩さず、ラサは一人と一匹に背を向けた。そして、逃げ出すように扉から滑り出ていったのだった。
その後ろ姿を見送った後、白い女はため息混じりに小竜に話しかける。
「ダメよ、ネモ。ラサ・モーリンを虐めては」
だが竜の幼獣はそんなことにはまったく頓着した様子も見せず、女の腕のなかで甘えた鳴き声をあげていた。
その竜の様子にヤレヤレと首を振り、カームは奥の扉へと歩き出した。
扉の奥には人の気配がしている。ラサがここを訪れる前から居座っている来訪者が今のやりとりを聞いていたであろうことはすぐに予想がつく。
カームは一瞬だけ苦笑いをその表情に浮かべたが、すぐにいつもの柔和な顔を作り、そっと奥の扉を開けた。
来訪者は渋い表情を作っていた。
予想通りのその顔にカームは再び苦笑いを浮かべそうになった。これは彼女のいつもの癖だ。気にしていては、きりがない。
竜の幼獣を抱き上げたまま白い女はテーブルの側まで歩み寄った。
「カーム。あれでよろしかったのか? ……あの様子だと、間違いなく書庫へ向かってるぞ」
納得がいかない、といった顔つきのままクーンは目の前に置かれた果蜜水のカップを取りあげた。しかし、手に持っただけで一向にそれに口をつけようとはしない。
「良いも悪いもありません。あの子が成人していようと、幼かろうと、定められた刻は間違いなく近づいているのです。私の刻が終わる前に、ラサにすべてを引き継がせます」
頑迷な、あるいは冷酷なほどにきっぱりと白い女は言い切った。腕のなかで小竜が居心地悪げに身じろぎした。
「それに、ラサは必ず呪歌を自分のものとするでしょう。あなたの心配することではありません」
小竜を床に放つとカームはまとった衣装を優雅に揺らしながら椅子に腰掛けた。文句のつけようのない優美な動きに竜の子が女をうっとりと見つめる。
「あの娘にカームの重圧に耐えられる精神力があると?」
苛立たしげに髪を掻き上げるとクーンはもどかしそうな表情で相手を見遣った。どうして、そんなに落ち着いていられるのか?
「……私にはそうは見えない」
そのクーンに癒し手が穏やかに笑みを向ける。子を見守る母のように。あるいは慈悲深く人間を眺める神のように。
「賭ですよ。これは、ね」
カームはまるで遊びの続きを話して聞かせるように、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
ことはそんな簡単なことではないのに。
女だけのこの一族で、癒し手の不在は緩慢な滅びを意味している。いや人としての血脈を保つだけならば、一族に男を加えてしまえば済むことだ。
だが誇り高い女族の血がそれを素直に享受するはずもない。
女だけの種族では限界がある。そのことには一族の者すべてが感じていることだ。それでも他の種族に取り込まれることなく一族が命脈を保ってきたのは、彼女たちが傭兵として他国の王たちに重宝がられていたからだ。
だがそれも、魂の守護者が居ればこそだ。
子を産む女にとって、戦で人の命を奪うことは自分で自分の子の命を否定しているようなものなのだ。その矛盾する感覚をなだめるためにカームは一族の者が背負う負の感情をすべて独りで引き受ける。
戦ですり切れてしまった者の心を呪歌の調べでもう一度紡ぎ直し、安眠させるのがカームの役目だ。癒し手がいるからこそ、戦へ向かう者たちは他国が怖れる力を出し尽くせる。
その、自分の魂そのものを救ってくれる癒し手が居なくなったら? 考えただけでも悪寒が走る。
族長はたまらず立ち上がった。
見えない恐怖と戦いながらクーンは癒し手の空色の瞳を睨んだ。なぜ、そんなに平然としていられるのか!? 判らない。この人の心は判らない。
「あなたの……。いや……エイラ! その信頼は、いったいどこからくるのだ!?」
「たぶん……あなたの思い及ばぬ所からよ、アティーナ」
返ってきた返事に一族の長はいっそうに困惑した。
自分とたいして歳の変わらない一族の白い母は、涼しげな顔をして微笑んでいる。自分の刻が終わるとあっさりと口にしたり、見習いの娘にすべてを託すと言ったり、何を考えているのかさっぱり判らない。
底が知れない。
幼い頃は一緒に野山を駆けたはずの友なのに、いつの間にこんなに理解しがたい存在になったのか。
族長は一瞬その心の深淵を覗いた気分になり、取り憑かれた闇を払うために天にあれし女神の名を口腔で転がした。
『なんて出来の悪い癒し手だろう』
そんなことない。わたしには才覚があるわ。お師匠様がそう言ってくださったもの!
『あぁ、厭だねぇ。いつまで半人前の見習いでいるつもりかねぇ』
わたしだっていつまでも見習いなんかでいたくないわ! だから……だから!
『このままじゃ、死に絶えるのを待つばかり。いっそ、他の後継者を捜したほうが、良くはないか?』
いや! 止めて! わたしを見捨てないで!
小さな悲鳴とともに飛び起きるとラサは肩で息をした。
厭な夢。
額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。その汗を拭おうとしてあげた手がふと止まった。
「ここは……?」
見慣れない景色だった。薄暗い空間にぼんやりと目が慣れてくると、白亜の柱が立ち並び、棺のような石の群が鎮座している様子が見えてきた。
「わたし、確か、書庫に忍び込んで……」
今まで自分の行動を思い出し、辺りを見まわそうと身体を起こす。
途端に足首に鈍い痛みが走った。
「い、痛い。足を捻挫したかしら。あぁ、そうだわ。書庫の奥で隠し階段を見つけて、降り始めてすぐ足を滑らせた……」
すぐ側に暗い階段が上へと伸びていっている。一番上がどの辺りか見当もつかない。
師匠の部屋を後にしてすぐ、ラサは書庫に忍び込んでいた。昼間にキーマから聞いた話が心から離れなかったこともあるが、何よりも追いつめられた心理が書庫へと向かわせた。
ラサはそろりそろりと身体を動かし、うっすらと明るい方へと這っていく。時折に足から伝わる痛みは、そこが熱を持ってきていることを教えていた。
「窓がどこかにあるのかしら? ぼんやりと月明かりが見えるような気がする……」
この地下部屋のどこかに地上からの明かりが射してくる可能性は充分にありそうだった。柱に取りすがってゆっくりと立ち上がると、ラサは光らしきものが見える奥を透かし見た。
「あ……! あれは!?」
思わず柱から手を離して、ラサはよろけた。
奥の光のなかにぼんやりと浮かんだものは、自分たちの信仰する女神像だった。それもかなり古びた感じのする等身大像だ。
随分と前から安置されていたのだろう。掃除されていたが、神像は所々に欠けや汚れが見えた。
その像に引き寄せられるように近づくとラサは自然とその前に跪いた。いつもの習慣で腕を胸の前で交差させ、軽く頭を垂れる。
一通りの祈りを捧げ終わると、ラサはその神像の顔を見上げた。
「お師匠様に少し似てるかしら?」
神の表情は柔らかさより力強さを印象づけるものだった。柔和な師匠の顔立ちに比べれば遙かに凛々しい顔立ちだと言っていいだろう。だが、厳しさの残るその表情の下に慈悲深い微笑みが見えるような気がする。
神の表情を見ているうちにラサは先ほどの師匠の態度を思い出していた。
優しい、滅多に怒らない師匠。それでも今日の薬の出来は叱られても仕方のないものだった。無惨な出来映えであるにも関わらず、師匠は叱りもせず、笑って次は上手くできると言ってくれた。
叱られなかったことにホッとする反面、見捨てられてしまったような心許なさが心の奥底には積もっていた。きっと師匠は呆れて怒る気にもならなかったのだ。なんと情けない弟子であろうか。
哀しげに俯いたラサは神像を安置してある台座に寄りかかると、疲れ切ったように長い長いため息をはいた。
茫然と台座に寄りかかっていたラサの目に、それが目に入ったのは本当に偶然だった。
「あら……? 何かしら?」
台座の端に切り込みが入っている。いや、切り込みくらいなら、装飾の一種だと割り切れる。だが、その切り込み部分は明らかに歪んでおり、暗がりのなかで見ても違和感があった。
ラサは好奇心に駆られてその切り込み部分に触れてみる。切り込みは握り拳ほどの範囲で大理石に刻まれていた。その部分がカタカタと揺れる。
「もしかして、隠し箱か何かかしら?」
ラサは苦労して大理石を引っぱりだした。手首が入りそうな穴がぽかりと開く。そっとその穴に手を差し込んで、中を探ってみた。
……が、中身は空っぽだった。
「何も入ってないわ」
穴に手を入れたまま、がっかりした様子でラサはうなだれた。
昼間に聞いていたカームの書物があるかもしれないと密かに期待していたが、当てが外れてしまった。やはりそんなに都合良く見つかるはずがない。
それにしても不可解な穴だった。神像を安置するための台座にこんな穴など必要ないはずだ。故意に刻みつけられたことは明らかで、何かを隠すために作られたとしか思えないものだった。
それともこれは書物を盗み見しようとやってきた者の目を欺くための仕掛けなのだろうか?
「女神よ……。わたしには書物を見る資格などないということなのですか?」
そのときだった。
力無く呟くラサの声が聞こえたかのように、密やかな声が響いてきた。
見よ…… 汝らの前に立つ乙女を
その小さき者がアルテミスの娘であることを知れ
それこそが汝らの命脈を救う術なり……
突然の囁き声にラサの心臓は飛び上がった。
慌てて辺りを見まわすが、何処からともなくもれてくる光と、闇に半分溶け込んだ石たちが沈黙を守るばかりで生き物の気配はまったくなかった。
「だ、誰!?」
ラサは怯えながらも気丈に声を出した。黙ったままでいては、沈黙の恐怖に心が押し潰されてしまいそうだ。
沈黙は破られた
今こそ目覚めの刻ぞ……
「誰!? 誰なの! いったいどこから話しかけているの!?」
問いに答えようとしない何者かに言いようのない恐怖を抱いてラサは身体を縮めた。まわりの闇に飲み込まれてしまいそうだ。
「誰なの!? 出てきなさいよ!」
ラサは金切り声をあげた。このままここにいてはおかしくなってしまう。だがくじいた足では逃げることも叶わなかった。
彼女のそんな様子を面白がるように闇の声が続く。
癒し手の席は二つなく
その記憶も二つなし
継ぐべき者に名を与わば
清き宝珠失いし者 消えゆくが常なり……
ラサは足の痛みも忘れて立ち上がった。知らず全身が恐怖に震える。このままでは自分の心が壊れてしまう。
「出てきなさいよ! この卑怯者! 姿を見せたらどうなの!?」
震えが止まらない。膝の力が抜けてくずおれそうだ。叫び声をあげる唇も震えて、声がうわずる。
ラサはくじけそうになる自分の気持ちを奮い立たせるように闇を睨んだ。その薄暗い闇の中にほのかな輝きが見えたのは、彼女が闇と対峙したその時だった。
輝きがどんどん強くなる。
「な、何!? 何かが近づいてきている!?」
闇のなかにいたとき以上に怯えてラサは背後の神像に身を預けた。足が震えてまったく動かせない。
廻れ、廻れ 輪廻の歯車
和児を護りて 疾く廻れ
刻の波間に身を任せ
永遠の娘が生まれ来る……
目を開けていられないほどの強い輝きが辺りを一瞬覆った。
「お、お師匠様……助けて」
とうとうラサは他人に、ここにはいない者に助けを求めた。だが、助け手がくるはずもない。
眩い輝きが一瞬で去り、その後には穏やかな月の光に似た輝きが宙に浮かぶ。恐怖も忘れて、ラサは茫然とその発光体を見つめた。楕円の形をしたその光はふわふわとたゆたうように揺れていた。
「な、なんなの……?」
一時の恐慌が落ち着いてくるとラサは光の中を透かし見た。何かが浮かんでいた。
「? ……何かあるわ」
闇から聞こえていた声はもう聞こえなかった。
ラサは恐る恐る神像から身体を起こすと痛む足を庇いながら光の源に近づいていった。
女神像からさして離れていない位置に浮かぶその光体に近づいたラサは、その中に浮かぶ物を確認して息を飲んだ。
「ま、巻物が……。これがカームの書き記している書物なの?」
歴代のカームが書き残している書物にしては、随分と少量な気がする。そして、古びた羊皮紙は光の中に浮かんで彼女が手にすることを望んでいるようにさえ見えた。
「神よ……。感謝します」
震える声と身体を押さえてラサは光に手を伸ばした。
一瞬、見えない壁が自分を遮るのではないかと頭の隅に疑問が浮かんだ。だが光の壁は彼女を拒絶することなく、その内側へと彼女の両手を導き入れた。