折れた翼−Requiem−

この物語は亡くなった祖父に捧げる鎮魂歌である。君よ、心安らかに眠れ……。

この折れた翼を如何にしよう?
もう一度あの大空に羽ばたける緊張の瞬間があるだろうか?
緑滴るパレンバンよ
あの島は今も鬱蒼たるジャングルに覆われているであろうに──

 昭和十六年十二月八日。
 大日本帝国はアメリカ合衆国に宣戦布告した。
 双方に数多の血が流れたこの戦争で翻弄されたのは弱い立場の人民のみで、実質その指揮に当たっていた高官のなかで処罰された者は少ないと言う。


「大熊軍曹殿!」
 背後からの明るい声に栄三郎は振り返った。
 頭に包帯を巻かれ、右腕を肩から吊られた姿で自分に笑みを向ける青年の姿を確認したが、それよりもその青年が看護婦と話している光景が不思議な気がした。
「芝?」
 陸軍飛行学校時代の後輩があっけらかんとした笑みを浮かべている。痛む左足を庇いながら、栄三郎はゆっくりと相手に近づいた。
「お前、背が伸びたなぁ〜」
 身体検査ギリギリで飛行学校に合格した青年の背は栄三郎より握り拳二つ分高くなっていた。
「そうでしょう? 背高のっぽたちをことごとく追い越しましたから、もう誰もチビとは呼ばないですよ」
 ニッカリと笑みを見せる表情は背の高さとは反対に随分と幼い印象を受ける。
「なんだお前、女を口説いてるのか?」
 栄三郎のからかう口調に、芝と相手の看護婦が顔を見合わせて吹きだした。
「あはは。違いますよ。この人、斉藤信江さん。同郷なんですよ。まぁ、姉貴みたいなものですよ」
 芝の説明をニコニコと笑顔で聞いていた看護婦が、大熊にペコリと頭を下げた。
「幼なじみか。そりゃ失礼」
 別段、美人でもない看護婦だが丸い身体や笑うと糸のように細くなる眼が人なつっこそうな感じを受ける。
「じゃね。達夫ちゃん、大人しくしてるのよ!」
「ちょっと、その達夫ちゃんはやめてよ!」
 ふくれる芝を残して看護婦は早足で持ち場へと帰っていった。
 広島、呉軍港のこの病院には外地での戦傷者が収容されている。栄三郎もつい昨日、軍港から直送されたところだ。
「飛行学校卒業以来ですよねぇ」
 芝が目を細めて外の景色に魅入る。初夏の若葉が色鮮やかに木々を彩り、空気は生命に溢れている。
 栄三郎も窓の外の明るい陽射しに視線を向けた。
 自分はこんなところで何をやっているのだろうか? 帰りたいと願ったはずの内地なのに、心はひどく空しい。


「この作戦において重要なことは、飛行場内の残存航空勢力を一機残らずおびき出し殲滅することにある」
 隣の小谷中尉のため息を聞きながら、栄三郎は微動だにせず前の部隊長を注視した。
 出撃の時間は迫っている。説明は前日までにじっくり聞かされているのだから、早く解放して欲しいものだ。
 隣の中尉もそう思っているのだろう。ばれないようにそっとため息をつく。これで五回目のため息だ。
「まず爆撃機四機にてパレンバン飛行場上空を旋回し敵機をおびき出し、時間差で到着した我が戦闘機群がその敵機を撃墜する! 囮り機の乗員は戦闘機部隊と密に連絡を取り、敵機を引き渡すよう心がけよ!」
 部隊長の説明が終わったようだ。栄三郎は素早く敬礼すると、上官の後に従って愛機へと歩き出した。四機の爆撃機が銀翼を陽光に鈍く光らせている。
 小谷中尉、河内曹長二人が次々に操縦席に滑り込んで行く後ろ姿を眺める。
 ふと、栄三郎は基地を振り返った。マレー半島の端に位置するこの基地は、冬の季節にも関わらず頬をなでる風が暖かい。
 米国と開戦してからまだほんの二ヶ月。戦局は我が軍に有利に展開していた。シンガポールの陥落も時間の問題だろう。憂うべきことはなにもない。
 だが胸のなかにわだかまる、この重い空気はなんだろう?
「大熊軍曹、何をしている!編隊長機の我が機が配置につかなければ、他の機が離陸できんのだぞ!」
 河内曹長の落雷のような声に栄三郎は飛び上がると、通信室へと潜り込んだ。
「小谷機、配置よぉ〜し!」
 機外からの誘導員の声を合図にしたように、機体が滑走路上を滑り出した。地鳴りのような轟音が鼓膜を震わせる。
 胃が浮遊しそうな違和感とともに空に舞い上がった機体の窓越しに、栄三郎はマレー半島とその端に張りつくように建てられた基地に向かって敬礼した。
 ふとその姿勢のまま、故郷の家族の顔を思い浮かべる。今頃、故郷の岐阜は伊吹おろしに吹かれて寒かろう。
 かなりの飛行距離を飛んだあと、栄三郎はゆっくりとした足取りで操縦室へと向かった。
「中尉殿、敵は上手く罠にかかるでしょうか?」
 二度目の通信を報告すべく顔を出した栄三郎は小谷の背中に語りかけた。
「成功させるしかない。一機でも多くの戦闘機を引きずり出すんだ。たとえ我が機が墜ちようとも、な」
 聞くだけ無駄なことは全員が解っていることだ。それを一番年若い栄三郎が口に出しただけのことなのだ。
 囮り機に志願したときから、覚悟していることだ。墜落の二文字は飛行機乗りなら常に意識する。
「チッ! 積乱雲が出始めました。視界が利かなくなる前に高度を上げて雲上に出ないと……」
 河内が滑らかな動きで計器類の確認を始めると、小谷は操縦棹をしっかりと握りしめて機体をゆっくりと上昇させていった。防風窓から他の機も後に続いている姿が確認できる。
 行く手を阻むように拡がる雲海を眼下に眺め、栄三郎は上官たちの横顔を見比べた。
 二人とも日に焼けた浅黒い顔をシッカと前方に向け、鋭い眼光を時折計器類の上に注ぐくらいで、他にいつもと変わった様子はない。
 再び通信室へと滑り込みながら、栄三郎は自分のなかにわだかまる不安を払拭するように頭を振った。


 貧しい家の三男坊に生まれ、喰うに困らないからという簡単な理由で軍隊に入った若者は当然のことながら生活時間の多くを戦いに費やした。
 楽しかったわけではない。むしろ苦痛であったと言ったほうがいい。
 満州で砂まみれの行軍に飽き飽きして、内地に戻るために飛行兵に志願したのだって愛国心からではなかった。
 内地に帰れるのなら嫌われ役の憲兵に志願したって良かったのだ。
 もっとも憲兵は馬に乗れなければならない。どちらかと言えば足の短い栄三郎に「乗馬などは無理だ」と上官から不名誉な返答をもらっていたのだから、志願したところで聞き入れられるとは思えないが。
 内地に帰ってからはその嬉しさから、陸軍の飛行学校へ編入してからも教官の目を盗んでは悪さばかりしていた。飛行学校内でも六期の遠藤、大熊、中村の名はつとに有名で、皆が三人を指して“三羽がらす”と呼んだほどだった。
 遠藤と中村は達者でいるだろうか?
 栄三郎は内地で収容されたこの病院で見つけたお気に入りの場所から、遠くに飛ぶ鳥を眺めてぼんやりと考え込んでいた。


「こちら小谷機。パレンバン島を確認。上空は雲一つない上天気」
 友軍との連絡で電鍵でんけんを叩いていた栄三郎は、ふと手を休めて今はまだ小さな島影をじっくり眺めた。
 あんな小さな島に米国は基地を作っていたのか。日本ならまだ冬のこの時期にもかかわらず、パレンバン島もマレー半島と同じく緑が溢れ返っていた。
 あの小さな島に巣くっている米兵たちを追い払うのだ。
「叩き落としてやる」
 栄三郎は小さく呟いた。
 島影を視界に収めたときから、体中の血が沸き返ってきていた。大東亜戦争が始まる以前から従軍している兵士の血が、栄三郎のなかで目を覚ましている。
 栄三郎の呟きが聞こえたわけでもあるまいが、島から飛び立つ八つの機影が目に入った。
 まっすぐこちらへ向かってくるかと思われた敵機は、正反対の方向へと飛んでいく。まるで、恐れをなして遁走してくようだ。
「大熊! 機銃の準備はできているか!?」
 通信管から河内の声が響いた。
「はい! いつでも発射できます」
「よし! 来たぞッ!」
 栄三郎の答えを待っていたかのように敵戦闘機が反転すると、日本軍爆撃機に襲いかかってきた。
「右上方に二機行ったぞ!」
 小谷の声に河内が応じる声が響いてきた。栄三郎も右側機銃に飛びつく。
「どこだ……?」
「いたぞ! スピットファイヤー、ハリケーンの二機だ! 大熊、よく狙え!」
 河内の声に栄三郎は一層目を凝らす。こちらを威嚇するように飛行する二機が視界の隅をかすめる。
「この……! 当たれ!」
 爆撃機より素早い戦闘機を射撃するのは、骨が折れる。だが経験を積んできた栄三郎たちに出来ない芸当ではなかった。
 一度目の射撃を外したあと、栄三郎は慎重に敵機との間合いを計る。
 機長の小谷が地上からの高射砲を避けつつ、敵戦闘機からの機銃射撃範囲ギリギリの位置を巧みに飛び回る。
「もうちょい……。そうだ、こっちへ来い!」
 花の香りに惹かれて飛んでくるミツバチのように群がる敵戦闘機の鼻先スレスレをあざ笑うようにかすめ飛ぶ。
 そのすれ違い様に栄三郎はありったけの早さで相手に機銃を撃ち込んでいった。
 一機、燃料タンクにでも引火したのか、業火を噴いて失速していく。
「やった!」
 仲間の機が連携して敵戦闘機の背後を襲う勇姿が栄三郎の視界に入ってきた。
「やったぞ、これで二機を撃墜した。あとは……六機か?」
 再び栄三郎は首を巡らせて、残りの敵戦闘機の配置を確認した。味方四機に対して敵は残り六機。まだ決して有利とは言えない状況だ。二機を撃墜したとは言え、油断はできない。
「二、三、四番機! 編隊を組み直し始めました!」
 河内の声が通信管から流れてきた。見れば、今まで個別に戦っていた味方が当初の予定通りの編隊を組み始めている。
「よし! 我が機も合流する。敵に罠と感づかれないよう適度な距離に詰めるぞ」
 小谷が挑発するように敵戦闘機群の間を縫って飛び始めた。
 味方の戦闘機群の機影はまだ見えない。彼らにこの小うるさい蠅どもを引き渡すまでは、決して自分たちが囮りであることを悟られてはならないのだ。
「爆撃を再開する。他の機の様子はどうか?」
「編成に乱れなし! 各機、準備整っている模様です」
 小谷と河内の声に緊迫感が強まる。
「敵戦闘機の様子は?」
「我が編隊を囲むつもりのようです! 四散していた各機が徐々に包囲網を作り上げています」
 河内の声が一層の緊張をみせる。
「駄目か。仕方ない。編隊を解くぞ」
「しかし!」
 抗弁する河内の声を遮るように機長の声が響いた。
「忘れるな。友軍が到着するまでは、敵機を誘い出したままにしておかねばならんのだ!」
 他の爆撃機も編隊を解くと散り散りになる。
 敵戦闘機群を壊滅させなければ、明日以降に予定されている落下傘部隊の投入が遅れていく。
 パレンバン飛行場を占拠するには、敵戦闘機の殲滅は必須だ。
「左上方より敵機襲来!」
「急上昇する!何かに捕まれ!」
 言うが早いか小谷は操縦棹をあらん限りの力で引いた。
 胃の腑を押しつぶされそうな重圧のなか、敵戦闘機の射程範囲から逃れたことを確認すると、栄三郎は敵機の位置を確認しようと窓に顔を押しつけた。
 敵の機影はかなり離れた位置に見えた。
「中尉! 後方の敵機はかなり離れた位置に見えます」
「再度、編隊を組むぞ」
 栄三郎の呼びかけに小谷がすぐさま反応する。
 三々五々に散っていた日本軍爆撃機が瞬く間に集結して編隊を組み直したとき、敵戦闘機群はまだ包囲網を完成させてはいなかった。
「爆弾投下用意!」
 もしかしたら敵戦闘機八機すべてが残っていたとしたら、こうはいかなかったかもしれない。
 本当にほんの僅かの瞬間だった。だがその僅かの時間で爆撃機群たちには充分だ。猛烈な勢いで迫ってくる敵戦闘機の乗員たちにもその光景は見えたはずだった。
「爆弾投下!」
「了解。爆弾投下!」
 基地上空に差し掛かっていた日本軍の爆撃機部隊は、編隊長機の爆弾投下を合図に次々とその腹から禍々しい凶弾を吐きだしていった。
「全機解散!」
 味方基地の噴き上げる炎に気を奪われたのか、敵戦闘機群の包囲網にほころびが生じていた。
 日本軍爆撃機全機は、思い思いの方角へと回避していく。高射砲も届かない上空からの爆撃に基地は南面から火を噴き、ジャングルは赤く染まっていく。
「基地の様子は?」
「敵基地、南側が炎上している模様」
 栄三郎は小窓から眼下を覗く。基地は一部を炎に舐められながらもまだ機能しているかに見えた。だが更なる投下を試みるだけの爆薬はもはやない。
「大熊軍曹! 友軍に通信を入れろ。“我、爆撃に成功せり”」
 小谷の声が誇らしげに通信管から響く。
「了解!」
 栄三郎は嬉々として電鍵を叩き出した。


「おぉ〜い。熊! 山賊の熊!」
 栄三郎は頭上からの呼びかけに首を巡らせた。
 学舎の二階から手を振る同期生の姿に栄三郎も手を挙げて答える。エラの張った顔が特徴の中村は、その顔に屈託のない笑顔を刻んでいた。
「田舎からミカンが届いたんだ!喰いに来いよ」
「おぅ、すまんな! もらいに行くよ」
 栄三郎は軽快な足取りで二階に駆け上がると、頑丈な扉枠に頭をぶつけないよう気を使いながら講義室の扉をくぐった。
「おう、来た来た! おせぇぞ!」
「ホラよ! 熊用の餌だ」
 目の前に飛んできたミカンを片手で受け取ると、栄三郎はちょっとその匂いを嗅いでみた。その栄三郎の様子に中村が茶々を入れる。
「あ! なんだ、毒でも入ってると思ってるのか!? 失礼な奴だな。遠藤を見てみろ! 毒が入ってるように見えるか? それにしても、遠藤! お前は猿以下か! 猿だってもう少し行儀良く食べるだろうに」
 遠藤は口のなかのミカンを飲み込みながら、すでに次のミカンに手を伸ばしていた。
「ふはぁいぞ。なひゃむは〜」
「きったねぇなぁ。口のなかを空にしてからしゃべれよ!」
 ぎゃあぎゃあと喚く中村と意地汚くミカンを頬ばる遠藤を見比べながら、栄三郎は笑い声をあげた。
「お前ら、どこのガキだ! 少しは落ち着いて喰えよ」
 栄三郎の笑い声が勘に障ったのか、中村が顔を歪める。
「大熊! お前に言われたくないね! この前、寮長の隠してた酒を失敬してきて、一人だけで飲んじまっただろが! お前はあだ名の通り、本当の山賊だ!」
「何を言うか! あれは、みみっちく隠しておくほうが悪いんだ! 酒なんてものは呑んだ者の物だ!」
「かぁ〜! 人の物は自分のものかい! いやだねぇ〜。俺はそうはなりたくないね」
 二人の舌戦を横目に遠藤は一人で黙々とミカンを胃に収めている。
「こら、遠藤! 一人で全部喰う気か!?」
 さすがに遠藤の食欲に中村が鼻白んだ。こいつは放っておいたら、絶対に一人で食べ尽くす気だ。
「熊! 早く喰えよ。遠藤の奴、俺たちの分を残しておこうなんて了見は持ち合わせていないらしいぞ!」
 木箱一杯に詰められていたミカンがすでに三分の一は無くなり、遠藤の傍らにはミカンの皮がうずたかく積まれている。
 この皮の数だけ遠藤の腹に収まったのだとしたら、胃袋のなかはミカンで一杯に埋まっているはずなのに、遠藤の食欲は一向に止まることがなかった。
「おい! 遠藤。俺の分も残しとけ!」
 慌てて栄三郎が木箱に近寄ると、自分の分だと言わんばかりに両手を木箱に突っ込んで山盛りのミカンを掴みだした。
「お、お前ら! 遠慮ってモンがないのか!?」
「ぬぁい!」「ないね!」
 遠藤と栄三郎に即座に返答されると、中村は天上を一度見上げてため息をついた。聞いた自分がバカだった。
「畜生! 俺も喰わなきゃ損だ!」
 本来のミカンの所有者も参戦してミカン争奪戦は再開された。
 このあと、ミカンを食べ過ぎた三人が三々五々に医務室やらトイレやらに世話になったことは瞬く間に学校中に知れ渡ったのだった。


 誇らしげに爆撃の報告を電鍵に打ち込んでいた栄三郎の身体に異様な衝撃が伝わったのは、その報告を打ち終えようかというときだった。
 栄三郎は電鍵盤がまだ震えていることに気がついた。かなりの衝撃が機体に走ったのだ。軽快なエンジン音を響かせていたはずの愛機が、今は苦しげに呻いている。
「なんだ!?」
 栄三郎は操縦室へと駆け込み、その室内の有り様に息を飲んだ。
「小谷中尉殿!」
 小谷は敵弾の破片を頭部に受けて、全身を朱に染めていた。ガックリと倒れ伏している小谷を支えながら操縦棹を掴んでいる河内の半身も小谷の血がベットリと貼りついている。
 なんということであろうか。敵戦闘機との空中戦で巧みに相手の攻撃をかわし続けていたはずなのに。小谷ほどの熟練飛行士がこんなに簡単にやられて良いわけがない。
 栄三郎は膝の力が抜けていくような気分に、すぐ近くの壁に両手で取りすがった。気づけば、燃料がが白い煙のように機内に噴出していた。
「大熊! 手を貸せ!」
 河内の必死の形相に栄三郎はようやく我に返ると、河内の反対側から小谷を抱えた。
「俺は整備一辺倒で操縦は不慣れだ! 大熊、操縦棹を!」
 蒼白な顔色の河内の手から栄三郎は操縦棹を託されると、機体を安定させようと躍起になる。だが棹は栄三郎をあざ笑うようにジリジリとしか動かない。
 雲間に突っ込んだ愛機は、見る見るうちにジャングルに近づいていく。“自爆”の二文字が栄三郎の脳裏を駆け巡った。
「大熊! 敵基地に機首を向けられるか? どうせ墜落するなら、あの基地を道連れにしてやる!」
 血走った視線をウロウロと辺りに泳がしていた河内が、空いた手で辺りのスイッチを引っかき回しながら叫んだ。
「く……む、無理です、曹長。操縦棹が……」
 渾身の力を込めて棹を引き戻そうとあがく栄三郎の努力に反して、機体は横転、錐もみを続けていた。機体内で身体を踏ん張っているだけで精一杯だ。
「ゆ、友軍だ! 戦闘機部隊が到着したぞ!」
 揺れる機体の制御に気を奪われていた栄三郎の耳に河内の歓声が届いた。思わず栄三郎もその方角に視線を向ける。
 風のように飛来した味方戦闘機群が爆撃機に群がる敵戦闘機を一機、また一機と血祭りに上げていく様子が見えた。
 敵戦闘機からの執拗な攻撃から解放された仲間の爆撃機が、こちらへと飛んでくる姿が栄三郎の目に入った。
「二番水沼機と四番村山機が来ます」
 河内にもその姿は見えていると思えたが栄三郎は口にせずにはいられなかった。僚機は失墜していく編隊長機を気遣うように両側に寄り添い、その翼を振って励まし続けていた。
「作戦は成功したな」
 今までのうわずった声が嘘のような静かな声で河内が呟いた。
 栄三郎がハッとして河内を振り返る。泣きそうな笑顔で河内が僚機に手を挙げるところだった。
 決別の合図。
 これ以上、一緒に飛行していては残りの二機も一緒に墜落する危険性がある。この高度がギリギリのラインと言っていい。栄三郎は我知らずに唾を飲み込んだ。
 死にたくはない。……軍人にあるまじき考え。だが栄三郎はそのとき痛切にそう願った。
 生きたい、生きたい、生きて内地に帰りたい!
 その栄三郎の腕の下で小谷が身じろぎしたのは、河内が僚機との決別を済ませ、二機の爆撃機がゆっくりと高度を上昇させていったときだった。
「小谷中尉殿!」
 栄三郎の声に河内が素早く反応した。
「中尉!」
「……を」
 小谷の囁き声が二人の鼓膜を叩く。
「スイッチを……」
 朦朧とした意識のなかでも小谷は愛機を操縦している。栄三郎は小谷の身体を支えたまま、再び操縦棹を握った。
「引くんだ……。スイッチも……一緒に」
 小谷の声に答えるように栄三郎は操縦棹を引き、河内はスイッチを操作する。だが機体は一向に上昇する気配を見せず、地上はグングンと目の前に迫ってきていた。
 栄三郎の視界一杯にジャングルの緑色が拡がる。
 駄目だ。
 栄三郎たち三人を乗せたまま、戦爆連合編隊長機は南洋の密林へと一直線に吸い込まれていった。


 全身の骨が砕けるかと思うほどの衝撃が身体を襲ったあと、間髪をおかず三人の身体は機体の壁に激突し、その反動で機外へと放り出された。
 愛機は銃弾の痛々しい傷跡をさらし、どうにか爆発もせずに三人を地上へと送り返したのだ。
 栄三郎は身体を動かそうとしたが、断念せざるを得なかった。激痛に息が止まる。どこからか小谷と河内が苦痛に呻き声を発しているのが聞こえてくる。
「中尉殿……! 曹長殿……!」
 喘ぎに近い声で呼びかける。だが栄三郎自身の声が小さすぎるのか、二人から返答はない。
 痛みに混濁している意識が薄れていく。身体が重い。痛い。苦しい。栄三郎は機外へ放り出された姿勢のまま、ピクリとも動けずに気を失った。
 どれほどの時間気を失っていたのか定かではない。全身に叩きつける雨粒で栄三郎は意識を取り戻した。
 空中戦が開始されたのは、正午前後だったはずだ。熱帯地方特有のスコールが降り始めていることを考えると、かなりの時間眠っていたらしい。
 ギシギシと痛む身体を地面から無理矢理引き剥がすと、栄三郎はふらつく頭を抱えた。地面に叩きつけられたときに頭を打ったのかもしれない。
 体中が痛みに悲鳴をあげている。ややもすると混濁しそうになる意識が戻ったのは、この痛みのお陰かもしれない。
 生きている!
 意識がハッキリとして初めて頭に浮かんだのはそれだった。
 生きている。俺は生きている!
 他の何も浮かばない。ただその言葉だけが頭に響く。
「そ、そう言えば……中尉と曹長は!」
 ようやく残りの二人のことを思い出した栄三郎は、痛みでぎこちない動きではあったが辺りを見まわした。
 まだ夕方ではないと思うのだが緑の天蓋のように空を覆う密林とスコールが光を栄三郎の視界から遮っていた。
 薄暗がりのなかに眼を懲らすと、ねじくれた熱帯の樹木の影からゲートルを巻いた足が覗いていた。
「あ……!」
 よろけながらその足の持ち主の元へと歩み寄った栄三郎は、俯せになっているその人物の顔を覗き込んだ。
 小谷中尉だ。
「中尉……! 小谷中尉殿!」
 頭の傷からは血は止まっていたが肩や腕は血に染まったままだ。スコールに全身を打たれてもすべての血を洗い流すことは不可能だったようだ。
 上官の名を呼びながらその肩を揺する栄三郎の後ろから、今度は別の人物の呻き声が聞こえてきた。
「うぅ……。こ……こは……?」
 かすれた声の持ち主は河内だった。栄三郎は小谷の肩に手を置いたまま振り返って、もう一人の上官の姿を探した。
 シダ類の茂みに上半身を突っ込むように倒れている河内が見えた。緩慢な動きで身を起こすその背に栄三郎は声をかける。
「河内曹長殿!」
 その栄三郎の声に河内の意識の覚醒が早まった。
「大熊?」
 先ほどのかすれ声とは反対に意外と元気そうな声が返ってくる。
「大熊、無事だったか。……中尉殿!」
 栄三郎の足元に倒れている小谷に気づくと、河内は這うようにして近づいてきた。小谷の顔を覗き込んだ河内が気遣わしげに上官の名を呼ぶ。
「中尉! 小谷中尉! しっかりしてください、中尉!」
「曹長。中尉の怪我の程度はよく判りませんが手当をしないと……」
 微かに動いている小谷の喉仏が彼の生存を示している。河内もそれを確認すると安堵のため息を小さくつく。
「機内から備品を取ってきます」
 機敏とはとても言い難い動作で栄三郎は立ち上がると、河内の返事も聞かずに愛機へと歩き出した。
 自分たちをここまで運んでくれた愛機は、翼を折られ、窓を砕かれ、機体の各所は大きく歪み、原型を大きく崩していた。
 吹っ飛んで大きく口を開いている入り口からヨタヨタとなかへ這い上がると、栄三郎は応急備品があったと思われる場所へ向かった。
 備品を探し当てて元の場所に戻ってみると、河内が小谷の帽子を苦労して脱がせているところだった。
 血で頭に貼りついた帽子は脱がせにくい。だが力任せに引き剥がせば傷口が開く心配があって思うようにはいかない。
「曹長!」
 栄三郎は上官に呼びかけると、小谷の身体をそっと支えた。小谷の頭を持ち上げたことで作業は格段にやりやすくなったようだ。
 慎重に帽子を脱がせて応急手当を済ませると、栄三郎は再び上官を地面に横たえた。
 手当の間にスコールは止んでおり、辺りからは獣や鳥の鳴き声が間遠に聞こえる。
「大熊、偽装して機を隠さねば」
 ジャングルのなかとはいえここは敵地である。基地には未だ無傷の兵が残っていよう。爆撃機が墜落しただけで爆発などしていないことを敵が知っていれば、捜索隊が出ているかもしれない。
 栄三郎もその可能性に思い至ると痛む身体に鞭打って立ち上がった。
 愛機は無惨なその影を密林の暗がりのなかに溶かし込んでいた。よくぞ自爆もせずにここまで飛んできてくれた。
 一瞬の感傷に胸が詰まる。
 だがすぐにその感傷を振り切るように栄三郎は辺りに生えているシダや地面に落ちている木々の枝を集め始める。
 急がねば、完全に日が落ちる前に作業を完了させなければならない。
 大事な我が機を敵の手中に落としてたまるか。それに、墜落機の発見が遅れるということは、それだけ自分たちの発見も遅れるということだ。
 一言も口をきかないまま栄三郎と河内は黙々と偽装作業を続けた。
 大破したこの機が再び大空に舞い上がる日はこないかもしれない。だがともに空を駈け、敵を追った戦友に違いはない。
 ともすれば、その哀れな姿に涙しそうになりながら、栄三郎たちは夕闇が迫ってきている密林で作業を急いだ。


「あら、大熊さん。こんなところでひなたぼっこ?」
 頭のすぐ上から柔らかな声が聞こえた。見上げれば、芝の幼なじみ斉藤信江の笑顔があった。
「あぁ。ここは風の吹き溜まりみたいで、気持ちいいんですよ」
「へぇ〜? 飛行機乗りってみんなそうなの? 風がどうのって?達夫ちゃんもそんなようなこと言ってたし」
 栄三郎が座っている場所は病棟と病棟をつなぐ渡り廊下の外側だ。廊下の両端に立っている腰板に背中を預けている栄三郎の姿は廊下側からはわざわざ覗かない限り見つけることはできない。
 人に会う煩わしさから逃れたいときは栄三郎はだいたいここにいる。
 廊下を行き交う人の足音を背中に聞きつつ建物と廊下に囲まれたこの窪んだ空間にいると現実から切り離されたような感覚になる。さわさわと頬をなでる風も大人しい。
 栄三郎はこの空間が結構気に入っていた。
「飛行機乗りが皆そうかは知りませんよ。でも空を飛ぶ奴は大抵は風を意識していると思います」
 一人の時間を邪魔された煩わしさはあったが、後輩の知り合いを邪険に扱うわけにもいかず、栄三郎は丁寧に答えた。
「そうなの? 大熊さんも飛ぶのが好きなのね?」
 どういう解釈をしたらそんな答えが見つかるのだろう? 栄三郎は彼女の突飛な答えに内心は首を傾げたが、実際には肩をすくめて見せるだけだった。
「ここは大熊さんのお気に入りみたいね? ごめんなさいね、邪魔しちゃったわ。他の人には内緒、ね?」
 悪戯っぽく笑った看護婦の笑顔がえらく眩しく見える。栄三郎は陽射しを遮るように額に手をかざすと、同じように悪戯っぽく笑って答えた。
「えぇ内緒です。もちろん芝にも」
「じゃ、約束」
 そう言うと看護婦は腰板越しに丸みを帯びた小指を栄三郎に突き出した。面食らった栄三郎がその指をしげしげと見つめると、看護婦はプッと頬を膨らませた。
「ほら。指切り! お姉さんの言うことは聞きなさい」
「え?」
 別にそんなことしなくてもいい。いや、それよりお姉さんって言うのはどういうことだろう?
 栄三郎が躊躇いを見せる。それに有無を言わせぬ態度で看護婦が、再び小指を突き出した。
「年上の言うことは聞くものよ? ほら!」
 看護婦の強気な態度に困惑したまま、栄三郎はその柔らかい指に自分の無骨な小指を絡めた。
「はい。指切りげんまん、嘘ついたら針千本の〜ます。指きった!」
 赤ん坊をあやすように優しげな表情で指切りすると、看護婦はふわりとした笑顔を栄三郎に向けた。


 機の発電装置が破壊されているので、友軍との連絡はまったく取れない状態だった。この密林を自力で抜け出さなければならない。
 偽装が終わった頃にようやく意識を取り戻した小谷に肩を貸しながら、栄三郎は夕暮れの鳥の交響楽を聴いた。
 囮り作戦は成功したはずだ。ならば、明日にも落下傘部隊がこの島に投入される。密林から抜け出し、友軍と合流すれば助かるのだ。
「我々の位置は解っているのか?」
 苦しそうな息の下から小谷は囁いた。
「敵飛行場の北側に墜落したことぐらいしか判りません」
 河内が栄三郎の反対側から小谷を支えて返事を返す。
「そうか。落下傘部隊が投入されるのは島の西側平野部だ。西へ進路を取ろう」
 微かな光源から西の方角の見当をつけ、三人は互いを庇い合うように密林を進んだ。足を捻挫していたり、体中を打撲していたりと、満足に動ける者がいないのだから致し方ないが、歩行は困難を極めた。
 三人だけの行軍は遅々として進まない。ところどころで見かける果実や木の実を食べて、苦しい飢えからは解放されたが、ややもすると方向を見失いがちになる。
 日がとっぷりと暮れてからは一層方角が知れなくなり、木の根につまづき、夜行性の獣の唸り声に怯える。
 敵がどこに潜んでいるか知れなかった。それ故に火を焚いたり、ランタンなどに灯りを灯すわけにもいかない。躰は疲労を訴えてくるが、ゆっくりと休憩するだけの気持ちの余裕が三人にはまったく無かった。
 極限の緊張と際限なく続く鈍い痛み。もつれがちな足取りを前へと進めるのは、それぞれの気力だけだった。
「河内、どうした? 足が痛むのか」
 始めに河内の異変に気づいたのは小谷だった。自分を支えながら歩く部下の息がかなり激しく荒い。
「だ、大丈夫であります」
 苦しそうな息の下から聞こえてくる声は決して大丈夫な様子ではない。
「大熊、少し休もう。疲れたよ、俺も」
 小谷が河内の様子を察してつかの間の休憩を申し出る。だがその休憩中でも辺りに気を配ることを忘れない。
「偵察に行ってきましょうか」
「バカ。月も見えないほどの暗闇だぞ。ここへ帰ってこれなくなる」
 栄三郎の申し出は小谷にあっさりと却下された。お互いの表情も判別できないほどの闇が拡がっているのだ。偵察どころではない。
「……はい。河内曹長殿。具合はどうですか? 少し水を飲まれますか?」
 自分も左半身が痺れたままだったが、栄三郎は三人のなかでは一番体力が残っているようだ。
 余力のある者が限界に近い者を気遣わなければ、限界を超えた者は脱落してしまうだろう。この密林のなかで気力体力ともに失ったら、それは死を意味する。
「す、すまん。少しくれ」
 栄三郎は河内の声のする方角へ手探りで移動すると、その手に水筒を握らせた。
 河内の手は酷く熱っぽい感じがする。もしかしたら、躰のどこかの骨を折っているのかもしれない。
 喉を鳴らして水を飲む河内の動作には疲れの色が濃く、間断なく襲ってくる痛みがその疲労を増長させていることが手に取るよう判る。
 しかし栄三郎にはそれをどうしてやることもできない。
 栄三郎は胃に冷たいものが下りてくる厭な感覚を振り払うように努めて明るい声を出した。
「夜が明ければきっと友軍がきます。それまでの辛抱ですよ」
 水を飲み終わった河内が喉の奥で笑う。その笑みに力はなかった。
「俺は生きて帰るぞ」
 唸り声に似た小谷の太い声に栄三郎は振り返った。その視線の先に小谷がいるはずだが暗闇に覆われた小谷の姿はしかと判別できなかい。
「はい。全員で内地に帰りましょう」
 栄三郎は小谷の声に救われたような気分になった。お国のために死ね、と言われても、人はそう簡単に死ねるものではない。まして死への諦観の境地に達するには栄三郎たちはまだ若い。
「子供がな、生まれたんだ」
「……! お、おめでとうございます。いつです? どちらだったのですか?」
 小谷が小さく笑う声が耳に入る。
「先月の九日だそうだ。男だとさ」
 まだ見ぬ息子の姿を思い描いているのか、小谷はそれだけ言うと押し黙った。
「生きて帰りましょう、中尉殿。自分も家族の顔が見たい」
 河内が苦しげな息の下から囁いた。小さな声なのに驚くほどよく響く。
 辺りには温みのある沈黙が流れた。どこから敵が襲ってくるか解らない緊張感のなかでの一瞬の穏やかな安らぎ。それぞれが、それぞれの想いを噛みしめる。
「……そろそろ行くか」
 小谷の呼びかけに全員が身を起こした。
 行こう、日本へ。懐かしきふる里へ。


「あ。そう言えば、大熊さんを探している人がいたわ。どこだかの新聞社の人みたいだったけど? お知り合いの方?」
 栄三郎と指切りしたあと、看護婦の斉藤信江は今思い出したといった様子で栄三郎に問いかけた。
 栄三郎はちょっと考え込んで、今日の昼過ぎに新聞社の人間と会う約束をしていたことを思い出した。
「あ! しまった。約束してたんだ」
 病院にいると日にちや時間の感覚が狂ってしまう。ぼんやりしているときが多いせいか、今日が何月の何日かなんてどうでもよくなってしまうのだ。
「まぁ。それじゃ、急いだほうがいいわよ。お相手の方、随分と探し回ってると思うわ」
 他人事のため、のんびりと答える看護婦を後に残して、栄三郎はあたふたと廊下の腰板を乗り越えて病室へと急いだ。
 栄三郎を取材したいと申し出を受けたのはつい二〜三日前のことだ。
 気乗りはしなかったが断る理由も思いつかず、相手の「慣例ですから」との言葉に渋々承諾しただけだった。
 郷里の母親は喜ぶかもしれない。
 栄三郎の胸中にお国のためなどという感情はこのときも芽生えてはこなかった。
 自分は薄情なのか、それともひがんでいるのか。連日の戦勝に酔いしれる世間に取り残され、栄三郎の胸中は侘びしさに満たされるばかりだった。


 暁の鳥たちの交響楽を聴きながら栄三郎たちはジャングルでの朝を迎えていた。
 一睡もせずに行軍を続けていたため、身体の疲れは限界に近かった。一番体力が残っていた栄三郎も全身の倦怠感に悩まされている。
 ただ冬場でも暖かい南洋の密林にいるお陰で、まばらではあるが諸処に果実らしきものが実っていて、ひもじい思いはせずに済んでいる。
 密林のなかは朝になっても薄暗いところが多く、気をつけないとすぐに木の根や下草に足を取られて転倒してしまう。
「どれくらい来たでしょうね?」
「さて?かなり歩いたつもりだがな。河内、お前に合わせて進むから無理をするな!」
 朝日が昇ってからは小谷は栄三郎に寄りかかって歩いていた。
 河内の負担は幾分減っていたが、足を痛めている彼は杖にすがらなければ歩くのは困難な状態だった。道程で見つけた手頃な木の枝を杖代わりに歩いているが、河内の歩みは痛みに遅れがちだ。
「じ、自分なら大丈夫であります」
 平静を装うとするが、青ざめた顔色がそれを裏切る。
 後ろを歩く河内を気遣う小谷を支えながら栄三郎は頭上を覆う緑の天蓋を見上げた。
 ねじくれた枝や蔦があざ笑うように栄三郎の視界から空を切り取っている。もう少し空が見えたら、この閉塞感から解放されるだろうに。
 小さくため息をついた栄三郎の耳に聞き馴れた音が届く。
「……!? ち、中尉! あの音!」
 小谷の耳にも聞こえたのだろう。二人は肩を組んだままの姿勢で小さく切り取られた空を伺った。
「機銃弾の爆撃音……。友軍だ!」
 栄三郎の口から歓喜の叫びが漏れた。落下傘部隊を投入すべく、日本軍が再度の攻撃を開始しているのだ。爆音は遠くに近くにと繰り返し辺りに響き渡った。
「もうすぐだ! もうすぐ合流できるぞ」
 三人は疲れた身体を奮い立たせて、動かぬ体を前へ前へと進めていく。
 もうすぐだ。もうすぐ仲間の元へ行くことができる。もうすぐこの苦しい行軍ともおさらばだ!
 敵基地からも高射砲で応戦しているようだ。間断なく聞こえる懐かしい音に三人の心は舞い上がっていた。
 友軍だ。友軍が来た。
 今までの重い足取りが嘘のように三人は勇んで密林を進んでいく。だがどれほどの距離に友軍が来ているのかはまったく見当がつかない。
 闇雲に進むうちに爆撃音は間遠になり、そして途絶えた。


「聞きましたよ、軍曹殿。新聞に載るんですって?」
 芝が軽快な足取りで近づいてくるのを栄三郎は黙って見守った。
 芝の怪我の具合は随分と良くなっているようで、頭に巻いていた包帯は取れていたし傷はほとんど目立たなくなっていた。元々頑強で怪我の治りが早い質なのかもしれない。
「以前に一度載ってるよ。別に珍しいことでもないだろう?」
 見知らぬ相手からの過剰な賞賛にうんざりしていた栄三郎は、芝の遠慮ない口調にさえ神経がささくれてしまう。
 栄三郎の気難しい顔つきに芝が目を丸くし、驚きの表情を見せた。
「どうしたんですか? あの特派員、なにか失礼なことを言ったのですか!?」
 芝は勝手に勘違いな解釈をしたらしい。
 建物の外に止められている軍用車に乗り込もうとする新聞社の特派員の背中を鋭い視線で睨んでいる。人の良い芝の性格ならそんな解釈もできるのかもしれない。
「何も失礼なことなんか言ってないさ、あの人は。俺が疲れてるんだよ。たぶん、な……」
 栄三郎は疲れた身体をベッドに横たえると軽く目を閉じた。
 芝の困惑する気配が伝わってきた。栄三郎は片目を開けて芝の表情を確認すると、やれやれといった感じで身体をねじる。
 自分の疲れの原因など芝に解るはずもない。芝に当たったところで、気が晴れるわけではない。だがダラダラと話をするには気分が乗らなかった。
「あ! のぶ姉ぇから差し入れもらったんです。喰いますか?」
 大儀そうに身体を起こした栄三郎の脇に屈み込むと芝は抱えていた袋を差し出した。ほんわりと爽やかな香りがもれている。
「なんだお前、姉さんが面会に来たのか?」
 差し出された袋を反射的に受け取ると栄三郎は中身を覗き込んだ。
 夏みかんだ。ちょっと季節的には早いような気もするが、芝の郷里では珍しくないのかもしれない。
「面会なんか来てませんよ。のぶ姉ぇってのは、ほら。前に紹介したでしょう? 看護婦の斉藤信江。のぶえだからのぶ姉ぇ。たぶん誰かからもらったんだと思いますけど、遠慮なく食べてください」
 栄三郎は丸い体型の看護婦の顔を思い出して顔をほころばせた。もらった夏みかんを弟分たちにも分けてくれたわけだ。
 夏みかんの明るい色が彼女のふんわりとした笑顔と重なって、栄三郎はなんだか面はゆい気分になった。
「遠慮なく頂くよ」
 口腔一杯にじわりと拡がるその甘酸っぱい味をゆっくりと楽しむ。丁度、小腹が空いてきたところだったので、夏みかんの酸味が胃に染みわたった。
 栄三郎は胸のなかに溜まっているもどかしい寂寥感がほんの少し薄まった気がした。
「芝。斉藤さん、幾つなんだ?」
「? ……のぶ姉ぇの歳ですか? 俺より二つ上だったと思うけど?」
 栄三郎の突然の問いかけに芝は首を傾げながらも、先輩の機嫌が直ったことに安堵したようだった。
「のぶ姉ぇの歳がどうかしたんですか?」
「別に。ちょっと気になっただけだ」
 歯切れの悪い栄三郎の答えに芝の顔が怪訝そうに歪んだ。
「なんですか? ……ま、まさか!」
 どう言ったらいいものか、と顔を引きつらせる芝の視線から逃れるように栄三郎は立ち上がった。そして、そのまま窓際まで足を引きずって歩く。
 自分より一つ年上の看護婦の顔を脳裏に思い浮かべながら、栄三郎はぼんやりと考え込んだ。
 骨髄を損傷し左半身の自由が利かなくなった自分が空に舞う日はもう二度とこないだろう。どうせ長くない人生だがこれからは愉快でもないことをやって生きていくよりは、心穏やかに過ごして生きたいものだ。
 戦いのなかで敵に銃口を向けておきながら、自分だけ平穏に暮らそうというのは贅沢なことだ。
 だが栄三郎の飛行機乗りとしての生命は終わっている。それならば、少しくらい他の夢を見てもいいではないか。
 燦々と降り注ぐ太陽の光を窓越しに振り仰ぐと、栄三郎は抜けるような青空に憧憬の視線を送った。


 駄目か。このまま友軍と合流できないのか。
 爆音が聞こえなくなると、三人の足取りは途端に重く鈍いものになった。互いに顔を見合わせて、その顔に浮かぶ焦りと失望に一層孤独を深めていく。
 密林の木々が徐々に少なくなってきていた。もうすぐこのジャングルも途切れるはずだ。だがその先に彼らが求める友軍の姿はないかもしれない。鈍った足取りは止まりそうになる。
 そんな彼らの耳に再び聞き馴れた爆音が聞こえてきた。この音は……。
「手榴弾の爆発音だ!」
「落下傘部隊だぞ」
 期せずして三人の口から歓喜の絶叫があがった。
 相変わらず爆音は近づいたり、遠退いたりして友軍との距離は定かではない。だが確実に近づいてくる戦友たちの姿を思い描いて、三人は再びジャングルの端を目指して歩き出した。
 そして、とうとう密林を抜けると弾音は一層間近に聞こえ、その激しさを増した。すぐそこに友軍の突撃の喊声すら聞こえ出す。
 密林を彷徨っているうちに日は落ちかかっていた。爆撃音を聞いてから何も食べずに歩きづめていたが空腹感を感じる余裕もない。
 平野部をよろけるように進んでいくと、やがて遙か前方に民家らしきものが見え始めた。
 地面の各所に塹壕が数カ所掘られている。建物と自分たちの今の位置から見て、ほぼ中間地点の塹壕に敵軍旗が見えた。手榴弾と機銃で応戦しているのだ。
 その建物からこちらに向かって駈けだしてくる一団の姿が目に入った。三人ももつれる足にかまわず駈けだす。
 ウォンと空気を震わせる鬨の声がその一団からあがる。
 塹壕に張りついていた敵軍が背後の自分たちに気づく。彼らは前方の敵と挟撃されたと勘違いして、泡を喰って散り散りに逃げていく。
「日本軍だぞぉ〜!」
 三人は絶叫しつつ駈けだしていたが、足をもつれさせてもんどり打って倒れると、そのままへたへたと座り込んでしまった。
「お〜い! おぉ〜い!」
 自分たちに呼びかける仲間たちの声に胸が震える。勇んで駆けつけた戦友たちの腕に抱えられると、三人は堪えきれなくなって泣き始めた。


 友軍に救出され軍艦でマレー半島へ運ばれる間に、栄三郎たち三人は自分たちが勝手に英雄に祭り上げられていることを知った。
 少年兵だった頃には憧れていた英雄というものに自分がなっている、この不可解さが栄三郎に言いようのない苛立ちを募らせた。
 そんなものになりたくはない!
 だがどう反論しようと上司がお抱えの新聞社特派員に連絡を入れ、彼らを記事にするよう手はずを整えていた。
 勝手に作られていく偶像に栄三郎たち三人は途方に暮れるしかない。
 人々の勝手な賞賛に栄三郎は疲れ切っていた。
 自分の翼は今もあのジャングルで眠る愛機とともに折れ飛んだのだ。こんな身体では二度と空に舞う日はこない。あの緑の天蓋を見上げることももうないだろう。
 鬱蒼と茂る密林は自分のなかの何かさえ覆い隠してしまった。今の自分にいったい何が残っているというのか。
 生きて帰ってきた。
 ただそれだけが今の自分に残っている。これから先がどうなるかなど神でもない自分に解るわけもない。
 だけど……いや、それでもいい。
 生きて、生きて、生き抜いて……。
 そして静かに土に還ろう。
 自分のなかでだけ結論を出すと、栄三郎は自分でも気づかないうちにうっすらと笑みを浮かべていた。
 入院してから、いやもしかしたら飛行学校を卒業してから初めて浮かべる、穏やかで自然な笑みだったかもしれない。


 西暦一九九六年(平成八年)五月十七日。
 大熊栄三郎永眠。
 これでまた戦争の記憶を残す者が一人減った。
 彼はあまり多くを語ろうとはしなかったので、医者に「この戦傷では、四十歳まで生きられない」と宣告を受けながら、彼がその倍以上の人生を歩んだことを知る者は少ない。

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石獣庭園