混沌と黎明の横顔

第20章:風杖をふるう者 8

 予想以上に王都は混沌としていた。先に潜り込ませていた仲間の案内で移動しながら、目的の人物が潜伏していそうな場所を見張る隠れ家へと急いでいたが、警邏と呼ばれる街の警備役に呼び止められるたびに舌打ちしたくなった。
『若長、もうすぐ目的地ですから。本当に今日という日にあたったのが災難でしたな。昨日まではもっとのんびりしていたんですよ』
『事が起こるときは性急なものだ。潜入日を今日にした時点で、それが我々の運ということさ。誰を恨むわけにもいかない。覚悟だけはいつでもしておけ』
 故郷を遠く離れた場所にいるというのに、この場所に片割れがいるかと考えるだけでわくわくしてくる。再会したときあいつがどんな顔をするかと想像するだけでも胸の奥がザワザワと波立ち、肌が粟立つ。
『予定通りに事が運ぶとは思っていませんでしたけどね。しかし、このままだと奴らも予定通りには動けないでしょう。こちらの動きが気取られないようにすれば、すんなりと捕まえることができるかもしれませんよ』
『簡単に捕まるくらいなら姉者がとうに捕まえているだろうさ。慎重すぎるのも考えものだが、油断して逃げられるのは避けたいな』
『ごもっともです。それでは今までの苦労が水の泡ですから。……あ、こちらです。この先に見えるあの屋敷に潜り込んでいるのではないかと思われます』
 配下の者が指し示した先に見える建物は大きなものであった。が、想像の中の建物よりは小さい。この国の貴族は無駄に広いだけの屋敷は好まないのだろうか。東方では呆れるほど広大な敷地に屋敷を建てるバカもいるというのに。
『建前上は王都のこの屋敷が本宅と言われています。が、実際は当主が治める地方領の邸宅のほうが贅沢な造りになっています。金なら捨てるほど持っていますよ。外洋に出る船を用立てるくらい容易いことでしょう』
『金のあるところに人は群がる。そして人が群がれば、どこかで腐敗が起きるものだ。その腐臭に惹かれて、奴らは引き寄せられる……』
『腐敗は争いを呼びますからね。今この瞬間にも骨肉の争いが起こっている可能性があります。今朝から使用人の動きが活発になっていますし』
 隠れ家から覗き見る屋敷の様子は静かなものである。だが隣で説明する配下の口調から察するに、日常生活ではあり得ない動きをする者が出てきているということだ。それは屋敷内の変化を物語るものである。
『王都が混乱している今日、奴らが動くと見て間違いなさそうだな』
『街壁門は閉鎖され、港も封鎖されています。ここから出ていくとなると特別な通行証が必要でしょう。となれば、奴らが取り込んでいる貴族を利用しない手はありません。もし動く気なら絶対に何か変化があるはずです』
『逆にしばらくの間は潜伏して騒動をやり過ごす覚悟をしたとしても、その潜伏する先を用意せねばならんだろうな』
『えぇ、転々と移動を繰り返していたのでは、今朝の我らのように街の辻ごとに呼び止められて鬱陶しい思いをすることになるでしょうよ』
『奴らがあらかじめ用意しておいた隠れ家の一つは潰れたのだろう? となれば、次の潜伏先はそれなりの権力者に融通してもらうのが手っ取り早い』
『目の前の屋敷に匿われているのであれば潜入させて探れるのですが、奴が潜んでいるという確証がありません。無理をしてでも誰かを潜り込ませますか?』
『それが出来るのなら、とうの昔にしているのだろう? 難しいから外側から見張っているのではないか。無理は禁物だ』
『しかし、ここは無理をしてでも確認をしておかねば……』
 交わされる会話を破って背後の扉が開かれた。反射的に身構えた配下の者とは違い、彼は飛び込んできた気配に背を向けたまま呼びかける。
『何か変事が起こったか?』
 傍らに立つ部下は振り向きもしない若長に驚いた様子であったが、彼は眉ひとつ動かすことなく新たな入室者の返事を待った。
『若長! どうやら鬼子がお嬢や綾之丞あやのじょうと接触したようです。あの屋敷の使用人に確認しましたが、かなり派手にやり合ったらしいですよ!』
 周囲にいる者が息を呑む気配が伝わる。薄々は予想していたことだが、改めて報告されると胸を刺す単語だ。
はやが動いているか。こちらとあいつと、どちらが先に奴を見つけ出すかな?』
 窓の外を見つめたまま呟いた彼に隣の男がそっと耳打ちする。
『若長。あの、このことを更科さらしなに伝える気ですか? 黙っていれば判らないかと……』
『いいや。伝えておく。彼女には見届ける権利も義務もある』
 押し黙った部下を横目に彼はうっすらと微笑んだ。その微笑みをどう捉えたのか、傍らの男は慌てて顔を背け、報告を持ってきた若者に向き直った。
 他には何かあるかと問えば、若者は小さく頷き、辺りをはばかるように声を落とすと、ひとつの報告をもたらした。
『鬼子がお嬢を探しています。いえ、たぶん探しているのは鬼子だろうと思います。他にお嬢を探す者がいるとは思えませんから』
『どういうことだ? 判るように説明しろ』
 彼の声が一段低くなる。周囲の気温も下がったかのように冷え、目の前に立つ若者が緊張のあまり身体を強張らせた。
『お嬢の姿絵が秘かに出回っています。街の中でお嬢の行方を探している連中がいるんですよ。昨日まではそんなもの出回ってなかったんです。今朝、あの騒ぎと前後してお嬢の姿絵を持った連中が現れるなんて……』
『それだけの理由で彼女を探している人物を特定できたと判断するな。あいつが探して回っているという可能性がある、というだけだろう? もっとも花鷺はなさぎを探しているのはこちらも同じ。探している連中に気取られることなく見張れそうなら、そいつらの動きも監視しておく必要があるな』
 傍らの部下が小さく舌打ちする。
『若長、街に潜り込んだ仲間の数では監視は難しいですよ。お嬢を探しているのが鬼子かどうか確認するよりも、奴を捕らえる手段のひとつとしてお嬢を見つけるのを優先したほうが早く目的が達成できるでしょう』
 街の様子を報告された隠れ家にも数名の配下がいたが、それでもまだ街には何名か散っているはずだ。その人数をもってしても監視が無理ということは、今のこの街の異変が原因なのだろう。そうでなければ、潜入させた人数で街の各所を監視する程度の能力は備えているはずだ。
『若長、お嬢の姿絵を持ち込んだ男の名は判ってるんだ。探し回っている奴らが口にしているのを確認できた。その名から判断するに、鬼子と関係があるはずなんです。絶対に、鬼子は何か関係してる!』
 鬼子、鬼子とよくもまあ何度も口にしてくれる。彼は引きつりそうになる口許を引き結び、視線だけで若者に先を続けるよう促した。
『街でお嬢を探してる連中に依頼をした男の名は、ジャムシードだ。そいつは以前から鬼子と面識があるし、あの建物にも一緒に乗り込んでいってる。お嬢を探しているのは鬼子で間違いない!』
 憶測だけで報告をしていたわけではなさそうだ。しかし、ジャムシードと名乗る男が間違いなく片割れから頼まれて花鷺を探しているという確証はない。
 接触する時期が来たのかもしれない。片割れはもう間近にいる。彼の協力なくして奴を捕らえることは難しい。
『時が来たようだ。颯仁はやひとと逢おう。一族の者全員が賛同していないことは知っているが、あいつの力が今は必要だ。なんとしてでも、我々は瀞蛾じょうがから仲間を取り戻さねばならない時期に来ているのだから』
 強張った空気の中、彼はそっと周囲に視線を巡らせた。目の前の若者は言うに及ばず、傍らの部下も数名だけ従ってきていた男たちも一様に顔がひきつっている。誰もが時期が来たと感じ取りつつ、接触を恐れているのだ。
 それもまた仕方がないことだろう。鬼子と呼んで忌避しつつ、この十年以上の間で一族の者が彼を、颯仁を意識しない日はなかったはずだ。彼がいたからこそ一族はギリギリの選択を迫られ、同時に希望を抱き続けていられた。
 一族の者の中でもっとも複雑な感情を抱く己ですら、逢うと宣言した次の瞬間には迷いの淵に落ち込みそうなのである。血縁でもない者らに彼を受け入れろというほうが難しいのかもしれなかった。
『颯仁に逢いに行くのはオレと更科の二人だけでいい。他の者は……』
『なりません、若長! 更科を連れていくのはおやめ下さい』
 傍らの部下が裏返った声で叫ぶ。その表情が他の者よりも強い動揺を示していたが、彼は静かに首を振って要求を拒んだ。
『無理だな。オレがあいつに逢いに行くと言えば、更科は絶対についてくる。置いていくことなどできん。オレだとて逢わせたくはない。だが、彼女を止めることが出来る者など誰もいない』
『では縛り付けておきます。行かせるわけにはいきません! 父にもそう言われています。更科と颯仁さまを逢わせてはならん、と』
斯波しばの親爺殿がか? また随分とオレに気を遣ったものだな』
『いいえ。若長の……凪仁なぎひとさまのためではありません。更科を彼に逢わせれば、彼は間違いなく我々に協力するでしょう。ですが、それは彼にかけられた呪詛を解く機会を奪います。そんなことをして誰が喜ぶというのですか? 誰も、そんなことは望んではおらんのです!』
 罪悪感は誰もが持っているだろう。原因を造ったのが颯仁であったとしても、望まぬ争いを続けているのは他ならぬ自分たちのほうなのだから。
『それでも、だ。それでも、逢わねばならぬのだよ。……決着をつけに、な』
 恐れおののいたか、隣に立つ男がよろけた。見開かれた瞳にはありありと動揺が浮かんでいる。こんな顔をさせるつもりはなかったのだが、いつかは伝えねばならないことだった。たとえ、義理の兄であったとしても。
『お前には感謝しているよ。更科の兄としてオレを支えてくれた恩は忘れてはおらん。しかし、颯とオレのことで口出しは無用だ。大婆さまの卦にも出たそうだ。今回で決着がつくはずだとな。そうであるならば、更科にも花鷺にも結末を見届ける義務があろうよ』
『更科は、判っているのですか? あれは、もう十年以上も……』
『十年以上も治らぬままだという事実が、彼女が忘れてはいないという証明だ』
 癒されぬ傷を今度こそ治すために。歪んでしまった歯車の狂いを直すために。彼は片割れに逢いに行く決意を固めた。
『颯仁が王宮を離れたときに接触する。お前たちはあいつを見張れ。……いや。あいつのことだ。すでにこちらの存在に気づいているだろう。あちらから人の少ない場所へ移動するはずだ。そこへオレを案内しろ』
『え……。でも、我々が鬼子と接触したら……』
 彼が下す命令を聞いていた男が狼狽える若者を制す。
『若長のご命令通りに。お前たちは彼に若長が来ることを伝えるだけでいい。直接的な会話を続ける必要はないのだよ。後のことはこちらでやる』
 こちらの意を汲んで動く部下の律儀さに笑みを浮かべ、彼は再び窓の外へと視線を滑らせた。使用人の出入りは見えるが、屋敷の主人やその縁者が出入りする姿は見えない。静かなものだった。
 室内にいる他の者もそれぞれ動き始める。彼から命令が下ればそれに従い、行動することが最近では当たり前になってきていた。
愛房あいふさの姉者。オレのやり方は間違っているか? 姉者ならもっと他の行動に出ただろうか?』
 ひっそりとした呟きは慌ただしい室内の物音に掻き消され、発した本人の耳に辛うじて届いただけである。
『颯仁。オレたちは随分と遠くまで来たなぁ』
 ふと誰かに呼ばれた気がして彼は虚空を見上げた。しかし、薄曇りの空が広がるそこに誰かがいるはずもなく。彼の黒々とした瞳には薄い灰色の雲を浮かべる白っぽい空が映るばかりであった。




 見つけた。
 みつけた。
 ミツケタゾ──

 あの印は我のもの。
 我が手にあらねばならぬもの。
 ここで見つけたからには、決して見逃してなるものか。
 あれさえあれば、手駒はいくらでも作れるのだから。

 今なら最初のものが出来上がっている頃合い。
 ならば回収しておかねばなるまい。
 出来の優劣も見極めておかねば。

 完成した“核”は、我が子と同じ。
 我が手足となって働いて当然のもの。

 我が下で役に立って然るべきモノ──


 ゾクリと背筋に寒気が走り、サキザードは肩をすぼめた。常に不安感に襲われてるのは自分の記憶がないせいだ。が、今の寒気は普段の不安を凌駕する、何か得体の知れない薄気味悪さが感じられた。
 膝の上で丸まる黒猫はこちらの気も知らず暢気にうたた寝中である。先ほどまで凛とした姿勢で窓の外を眺めていた後ろ姿が信じられぬ無邪気さだった。
 ウニャウニャと寝言を呟く姿はどこからどう見ても子猫にしか見えないのに、この内側には兄が精霊ディンと呼ぶ異形が潜んでいるのである。当初の衝撃が去った今でも、驚きが拭えないのは致し方あるまい。
「あの人が忌むほど悪意があるようには見えないけど。それとも、この無邪気さの奥に何か潜んでいるとか?」
 滑らかな毛並みを撫でながら、サキザードは先ほどまでの会話を思い返した。どうして兄がこれほど精霊を退けたいのか理解に苦しむ。産まれる前からのつき合いだという兄と自分とでは感覚が異なって当然なのかもしれないが。
 ふとたった今、背筋に感じた悪寒を思い出し、彼は顔をしかめた。
 あの薄気味悪さを兄も感じたことがあるのだろうか。だとしたら、このファレスと呼ばれる精霊を敬遠するのも仕方がないことなのかもしれない。あれは確かに好きになれない感覚であった。
 王宮に引っ張っていかれた兄のことを考えていると、無意識のうちに視線が窓の外を追いかけた。薄曇りの空が広がるばかりで、そこには何もない。兄が向かった王宮はこの位置から見ることはできないのだから。
「早く話を聞きたいような、聞くのが怖いような……」
 呟きに応えるように子猫がウムウムと唸った。先ほどまでは幸せな夢を見ているようだったが、今は違う夢を見ているのだろう。
 視線を猫に戻せば、眠りながら毛を逆立てている姿が視界に飛び込んできた。身体も硬直し、先ほどまでの円やかな柔らかさを失っていた。
「何か悪い夢を見てるのか? 起こしたほうがいいかな」
 子猫をそっと揺り動かしてみるが、その程度では眼を醒まさない。
 先ほど得体の知れない悪寒に襲われただけに厭な予感がした。あれは何かの前触れだったのではないか、と考えると、黒猫の異変にも納得がいく。
「眼を醒ましなさい。夢に呑まれてはいけない!」
 抱き上げて揺すぶってみるも、子猫は脚を痙攣させるばかりで起きる気配がなかった。明らかに反応がおかしい。どうしたらいいのだろう。
「起きて! ファレス、起きてください!」
 再び呼びかけたが、反応は変わらなかった。この精霊がこのまま眼を醒まさなかったらどうなるのだろう。兄は接触を疎んじていたが、ファレスに異変が起こったと知れば不安になるだろう。実際、自分も不安になっている。
「ファレス! どうしたっていうのですか? 起きてください!」
 何度も小さな体躯を揺するが、硬直したままだった。
 焦るこちらを嘲笑うかのように、室内の空気が冷たく、重くなったのは、子猫の痙攣が全身に及んだ次の瞬間だった。
 ──出来損ないが邪魔しないようにしたえ。
 ビクリ、と肩が跳ねる。頭の中に直接響く女の声に薄ら寒いものを感じ、サキザードは部屋の中を見回した。どこかから見られているという不安は、彼の全身の肌を粟立たせるに充分なものである。
 ──ル・ファレの軌跡を辿ってきて正解だったねぇ。出来損ないのお守りなど怖くもないわえ。さぁ、一緒に行こうか、“我が子”よ。
「だ、誰です? この子猫に何をしたのですか!?」
 全身を震わせ、サキザードは見えぬ相手に向かって叫んだ。
 がしかし、彼の叫びはまったく無視された。締め付けられるような重みをもった空気が身体にまとわりつき、身体の自由を奪う。
 ──核が育つまで、お前の望み通りにしたのだえ。そろそろ戻る頃合いぞ。
「何を言って……クウゥッ!」
 背筋を走った痛みにサキザードは二つ折れになった。胸元に抱く子猫を潰しそうなほど身体を丸め、脂汗をかきながら痛みに耐える。視界が激しく明滅し、意識が飛びそうだった。この身体にいったい何が起こっているのだろう。
 ──おぉ、記憶を封じられておるのかえ。なんとまぁ、あざとい真似を。その枷を外してやろう。そうすれば、お前は願った通りに動けよう。
 しっかりと腕に抱く子猫の温もりと小刻みな震えだけが意識をつなぎ止めていた。少しでも気を抜けば、アッという間に気を失いそうである。ここで意識を手放してはいけないと、本能が告げていた。
 ──抵抗するでないわ。お前の核を解放するには以前の記憶がいるのだえ。望みを果たしたいのであれば記憶を取り戻すしかあるまいに。
 さぁ、言う通りにおし、と囁く女の音なき声が頭の中をグルグルと駆け巡る。いっそ従ってしまえば楽になるのだろうか。身体の芯から迸る痛みの熱に耐えられるのは、そう長い時間ではなさそうだった。
「た、すけ……兄さ……」
 声すらまともに出せない。そんな状態の中、サキザードが咄嗟に助けを求めたのは兄であった。誰にすがればいいのかを無意識のほうが悟っているのか、他の誰かが思い浮かぶことはなかった。
 ──なぜ逆らうのだえ、聖なる器ル・ハリ。お前の望みを叶えてやった“母”の言うことをお聞き。
 誰が誰の母だと? これが母親の仕打ちだというのか。信じられるものか。
 ──仕方がない。お前が逆らうなら無理にでも核を抜き取るとしよう。その器は核を培養するに適しておるが、母の言うことをきかぬ器なぞいらぬわえ。
 ギリギリと空気が鳴り、身体が絞られる圧迫感に襲われた。息をするたびに激痛が全身を駆け巡り、苦しさに子猫を抱く腕には力が入る。このままでは潰してしまう。黒い子猫とて苦しかろうに、異形の猫はまだ目覚めない。
 ──すぐに楽にしてやるわえ。もう器には用がないのだから神経を傷つける心配なぞせずともよかろうよ。このまま骨髄を潰して……おぉぅッ!?
 周囲の空気が揺れた。風が巻き起こり、部屋の調度品をガタガタと震わせる。なのにサキザードにはそよとも風は触れなかった。
 カタカタと鳴る目の前の卓を茫然と見つめていた彼は、己が激痛から解放されていることに気づいた。見えぬ女の音なき声は聞こえない。しかし、空気が捩れる感覚の底で、苦痛にのたうつ気配だけはしっかり伝わってきていた。
 異質な女を苦しめるこの風の正体はなんだろう。今ここで何が起こっているのか。渦中にありながら蚊帳の外に置かれている気分だった。
『勝手なことをぬかすな、クソババァ! ル・ファレのときにも忠告しておいたはずだぞ。馬鹿げた真似をする気なら切り刻んでやる!』
 幼い怒声が室内に響く。今度の声は耳で聞くことができたが、その声の持ち主の姿はいっこうに見えず、サキザードは不安から腕の中の子猫を抱きしめた。周囲を見回して窓や扉を確認したが、そこから逃げ出せる保証はなかった。
『失せろ! この世界にお前の居場所はねぇ。仕えていた主人の後を追え!』
 間近に雷でも落ちたような小刻みな振動が部屋を襲う。空気にも異様な熱が伝わってきたが、その熱がサキザードや調度品を焼くことはなかった。
『コラ、チビスケ。てめぇ、勝手にうたた寝して捕まってるんじゃねぇ! 自分からこの仕事に志願しておいて保護対象を危険にさらすたぁ何事だ、バカタレがぁ! こっちは忙しいんだ。てめぇの世話ばっかりしてられるか!』
 ピクリ、と腕の中の幼獣が身動きした。もぞもぞと蠢く気配に子猫の様子の窺えば、グッタリと疲れた様子ではあるが金色の瞳が開かれたところだった。
『ファーン……。そう怒るな。この子はよくやっている。まだ幼いのだ。疲れて寝入ってしまうこともある。今回のことは私の油断だ』
 かすれていたが間違いなくファレスの声だ。ホッとしたサキザードは、まだ周囲に風が渦巻いてはいたが全身から力を抜いた。
『ファレス、お前は青水晶の調整に集中してるはずだ。周囲の危険を察知するのはチビの仕事だぞ。庇ってやる必要はねぇ! 次はないと言っておけ!』
 風が突然収まり、室内には沈黙が落ちる。グッタリとしていた子猫が首を巡らせてサキザードを見上げた。ミャア、と鳴く細い声に彼は眼を細めた。
『すまない、サキザード。心配をかけた。今回の説明は後でいいか? 今の襲撃で結界の軸がぶれてしまった。修復するのを優先したい』
 説明が先だとは言い出せず、サキザードは複雑な内心を隠し、小さく頷く。兄が異形を忌避する理由の一端が判ったような気がしていた。