混沌と黎明の横顔

第20章:風杖をふるう者 7

 あのとき組織との関係を否定しておけば良かったのだろうか。いや、当時から王子はジャムシードを傍らに置こうとしていた。だからこそ近しくなるつもりはないとの否定を込めて、組織に戻ると言ってしまったのである。
 状況が二転三転し、組織に戻るメドは立たないまま官吏などになってしまったのが今の窮地を招いたのだ。自業自得である。
「俺が組織に依頼をすることは不可能です。破門者の言葉にまで耳を傾けていては組織の機能が維持できませんよ」
「君がそう思っているだけで、組織の者たちは意外と君のために動いてくれるんじゃないかな? 特に今回は水姫公に関わりがあることだ。カラス・ファーンが表面的にでも大公に恩を売る絶好の機会だと思うけど」
「いいえ。それは逆ですよ。今ここで件の姫君を見つけて水姫公に恩を売ろうなどとすれば、ラシュ・ナムル公は組織を自身の傘下につけるために暗躍を始めるでしょう。そんな危険は犯せません」
 王太子の表情が満足げに綻んだ。それを見て、ジャムシードはまたしても自分が失言したことに気づいたが、それも後の祭りであった。
「やはり君は組織の現状を逐一把握している。ナムルが個人的に使役できる人材を欲していることもよく知っているようだし。君自身が手に入らないのなら、カラス・ファーンに手を回して間接的に君を縛り付ける可能性があることも、きっとよく理解しているのだろうね?」
 奥歯を噛み締め、王子の言葉の衝撃に耐える。その可能性はうっすらとは考えたことはあった。しかし、水姫公がそこまでジャムシードに執着するかどうかは読み切れなかったのである。
「今すぐに組織に連絡を入れてやるといい。いいや、もしかしたら宮廷の中にいる仲間が知らせをやっているかな? 報告が届けば、カラス・ファーンの上層部の者たちはいくつかの可能性を考え、誰かに接触を開始するだろうよ」
 さらに歯を食いしばり、ジャムシードは背筋が冷えていく感覚を抑え込もうとした。が、それは無駄な努力だった。王子は限りなく正確に組織の性質を理解しようとしている。下手なことを口走れば情報を与えてしまう。
「君たちの組織の規模がどれほどのものか、僕は朧気にだけど推測している。その大きさから察するに、王都で人捜しをすることくらいは容易いと考える僕の勘はそう外れてはいないと思うよ」
 眩暈すら感じて、ジャムシードは体の芯が抜けたように肩を落とした。
「つまり、水姫公の傘下に入らない代わりにあなたの下につけ、と?」
 王族、いや貴族と関わりを持たないことで組織は均衡を保ってきている。上層部の“白”たちは水面下で貴族と交渉を重ねることもあったかもしれないが、末端に近い者らや実働部隊である“黒”を率いていたジャムシードには、そういう部分は隠されていた。その棲み分けが上手く機能していたというのに。
 王太子と接触し、彼に正体がばれた時点で組織とは一切の関わりを持ってはいけなかったのだ。師弟関係にかこつけて細く続いていた接触が、こんな小さなところから綻んでいってしまう。
 絶望的な眼差しで、ジャムシードは王子が口を開くのを待った。
「それは違うね。僕はカラス・ファーンを手に入れたいとは思わない」
 サルシャ・ヤウンの言う意味が一瞬理解できず、ジャムシードはまじまじと目の前の若者の顔を凝視する。なんと言っていいのか判らなかった。
「王族には巡検使がいる。それとは別に王家や各大公家には暗部を支える者らが仕えているんだよ。そこにカラス・ファーンが入り込んでしまっては均衡が崩れてしまう。だからといって君たちの組織が元老院と手を組むのも困る」
 だからね、そこだけ悪戯小僧のように微笑み、王子は首を傾げた。
「僕はカラス・ファーンと話し合いを持ちたいんだ。交渉の場を設けるために、僕の前にやってくるための口実をあげるよ」
 だから水姫家の姫君を見つけて王子の前に連れてこい、というのか。
「なんの話をする気ですか? そこで組織の仲間を拘束する気なら……」
「もし僕が組織を潰す気なら、とうの昔に君を利用している。そうではないんだよ、ジャムシード。僕はカラス・ファーンと棲み分けるための話し合いをしたいと思っている。正直、巡検使では手が出せない部類の事案も幾つかあるんだ。そういう部分は庶民の手に委ねるしかないからね」
「話し合いをするほど棲み分けを明確にする必要があるんですか?」
 少しだけ王子が考え込む。それはとても短い間であったが、ジャムシードは恐ろしいほど息苦しさを感じる時間であった。
「暗黙の了解で棲み分けは成されているとも言えるだろう。しかし、それはあくまでも暗黙の了解であり、確約されたものではなかった。これまではカラス・ファーンと巡検使は斜交いに互いを睨みながらお互いの仕事をこなしてきたはずだ。ときには互いの仕事がかち合って、衝突することもあったろうね」
 不正を働く高級官僚、庶民を虐げる貴族や聖職者が溜め込んでいる財産を盗みだし、それを庶民にばらまくのがカラス・ファーンのやり方である。
 不届き者の黒い噂を確証へと変えるべく暗躍するのが白なら、彼らの指示を受けて実際に盗みに入るのが黒だ。ジャムシードたち“黒”がこれまでに巡検使と鉢合わせるような事態に陥ったことはない。それはきっと裏で“白”が巧みに交渉を行うか、あるいは実働部隊を動かさないよう抑えていたためだろう。
「巡検使では神官職にいる者を糾弾するのは難しい。あそこは部外者が入り込むのが難しい領域だから。ところが、君たちカラス・ファーンが関わった事件を調べてみると聖職者の断罪が殊の外に多い。それは君たちが神殿や僧院に人脈を持つ組織だということを物語っている」
 ジャムシードは身体が震えだしそうになるのを止めるのに必死だった。
「逆に貴族階級者への断罪は思ったほど多くはない。意図的に巡検使が関わる案件から手を引いて様子を見ている節が窺える。つまり上流階級者への断罪は巡検使が関わっていないものに限って手を出している、とも断言できるわけだ」
 王太子は着実に組織の全容に迫っている。それはつまり、王子だけでなく王族全体がカラス・ファーンを知ることに繋がりはしないだろうか。ジャムシードの正体を水姫公も知っている。彼も同じ結論に達していたとしたら……。
「それでも時折、カラス・ファーンと衝突していることは巡検使の局から報告が上がってきているのだけどね。だからこそ君たちの組織の情報網が巡検使に匹敵するものを持っていることが判るんだよ」
 組織の全体図などこれまで意識したことはなかった。いや、多少は気にしていたが、それを知ろうとはしなかった。知れば黒の頭領ではいられなかっただろう。黒には盲目的に白の指示に従うことが望まれていた。黒に属する者が白に属する者に逆らうことは組織に大きな軋みを与えることに繋がるからだ。
 今サルシャ・ヤウンが語っている内容は、本来ならジャムシードが目を背けていたいと願っていることのひとつである。知ることで組織での立場が変化することは、組織へ戻る妨げになるかもしれないのだから。
「君は不愉快に思っているようだけど、この話を持っていけばカラス・ファーンの上の連中は絶対に僕に会いにくるはずだ。接触したいと思っているのは僕だけではない。君たちのほうでも僕に用があるはずだよ」
 王子が何を言い出すのかと身構えていたジャムシードだったが、予想外の言葉に面食らい、戸惑いを隠すことができなかった。
「まぁ、ともかく上層部の人間に話を振ってみたらいいよ。君が心配するようなことは起こらないから。カラス・ファーンは盗賊団の中でも歴史が長い。それは各方面との距離を適度に保ちつつ、芯は曲げなかったからだと思うんだ。そういう芸当ができる人間が幹部にいる限り、僕やナムルがどんなちょっかいを出したって崩れたりはしないものだよ」
 王太子の言葉を真に受けることはできない。どんな巨大な組織であっても、ふとした綻びから崩壊が始まることはあるはずだ。でなければ、歴史の中で国が興ったり滅びたりなどしない。それは王子とて判っているはず。
 ジャムシードの緊張を和らげるために告げた言葉であろう。年下の若者に混乱を見破られるほど動揺している自分が情けなくもあった。がしかし、この稀代の美貌を誇る王族の若者に勝てる気はしなかった。
「殿下の言葉は伝えましょう。ですが、組織が応じるかどうかは保証しませんよ。それを受けるかどうかは俺が決めることじゃない」
 きっと白の連中の中でも上位に位置する“司祭”が幹部を集め、協議するだろう。その決定に従うだけだ。たとえ黒の頭領を外されたとしても、一度でも組織に属していたからには決定に従うのが絶対だった。
 ジャムシードの答えに一応は満足したらしい。王子は何度も頷き、口許を弛めると、今ようやく気づいたといった様子で懐を漁り始めた。
「忘れるところだったよ。君に渡しておかなきゃならない物があったのに」
 取り出された物は蝋封を施された手紙であった。差し出されたそれを素直に受け取ったジャムシードは、宛先すら書かれていないのを確認して首を傾げる。
「それをフォレイアに渡してくれないかな。彼女、君が保護してるんでしょ?」
 すっかり砕けた口調になった王子の切り替えの早さに呆れつつ、どうせ屋敷に戻るのだからと気安く請け負った。
「ソージンから報告を受けたときには腑が煮えくり返るほどだったけどね。そんなこと言ってる間にジノンとその一味を捕まえることにしたよ」
 事も無げに告げる王太子の内心がどうなっているのか、ジャムシードには読み取れない。本心を隠しているときのサルシャ・ヤウンに太刀打ちできるはずもなかった。それは今し方思い知らされたばかりである。
「奴らが逃げ込んだ先の見当がついているのですか?」
「ソージンから上がってきた報告書に目を通していて思いついたことがあるんだよ。僕の推理が正しければ、害虫を燻り出せるんじゃないかな」
 冷徹な表情を浮かべる王子の様子に薄ら寒いものを感じた。が、何をする気かと訊ねても、きっとこの若者は答えをくれないだろう。その程度のことが理解できるほどには今までつき合ってきていた。
「あまり無茶なことをして王妃さまやアルティーエさまに心配をかけないでくださいよ。あなたに何かあったらこの国は大混乱です」
「判ってる。僕が陣頭に立って捕まえに行くわけじゃないから安心して。ただ最後の締めくらいは僕の手でやらなきゃならないかもしれないけどね」
 やっぱり自身で手を下す気ではないか! ジャムシードは眉間に皺を刻み、平然としている王太子を睨んだ。相手にはまったく通用しないと判ってはいたが、説教のひとつも垂れたい気分である。
「ジャムシード。そんな顔して館に帰らないようにしてよ。できれば、フォレイアには優しく接してやって欲しいんだ」
「承知しています。公女さまの様子は殿下にも炎姫公にも報告しますのでご心配なく。……とはいえ、俺も男ですからね。しばらくの間は彼女に近づかないように心がけたほうがいいのではないかと思いますが」
「その辺りは君の判断に任せるよ。でもフォレイアとの距離をあまり取りすぎないようにして。彼女は周囲が思っている以上に孤独に弱いから」
 王子の忠告に首を捻りそうになったが、ふとした瞬間に公女が淋しげな視線を誰かに注いでいる姿を眼にした記憶が甦り、口許を引き締めて小さく頷いた。
 彼女の視線の先にあるものはいつも温かな存在ばかり。無邪気に笑う子どもとそれを見守る父母だとか、あるいは大きく膨らんだ腹を愛おしそうに撫でながら微笑み合う若い夫婦であるとか、家族という存在が気にかかるらしい。
「アジル・ハイラーは彼女に厳しすぎるんだ。娘の傷心にすら気づいていないようだ。いや、気づいていても無視している、とも言えるかな」
 それにもジャムシードは頷き、微かにため息をついた。
「俺には理解しがたいことです。公女さまにはよくしてもらっているだけに、大公の言動は気にかかります。何かあるのではないかと……」
「僕も同感だよ。僕の父も娘のアルティーエに優しかったわけではないけど、存在すら無視するような態度は取らなかった。炎姫公のあれは誰だって不審に思うはずさ。相手が大公家の当主だから黙っているだけでね」
 炎姫公が公正な為政者であることは間近に見ていれば判ることである。が、娘のことに関してだけは例外だ。彼は公女をまともに見ようとすらしない。それはジャムシードだけでなく他の者も同じように感じていたらしい。
「だけど王家の人間が大公家のことに口出ししては問題が起きるんだ。様子は常に窺ってるけど、何もしてやれないのがつらいよ。だからね、君には出来るだけフォレイアの側についていてやって欲しい」
 王太子の気持ちが判らないではない。出来るなら自分の手でなんとかしたいと思っているのだろう。だがしかし、今のジャムシードは炎姫家に仕える身ではあるが、いずれは地方へ出向くことが決まっている。そんな人間が側にいても、公女はまたすぐに孤独に陥ってしまうではないか。
「本当はソージンが傍らにいてくれたら申し分ないんだけど。残念ながら、彼はフォレイアに対しては素っ気なさ過ぎる。礼儀は尽くしてくれるけど、異性として見ているわけではないようだし」
 肩をすくめ、ため息を漏らす王子の態度は年寄りが「近頃の若者は」と嘆く姿に似ている気がした。まだ十代のサルシャ・ヤウンがする仕草にしては老成しすぎていて、ジャムシードには居心地が悪い。なぜか老師匠を目の前にして説教でもされている気分に陥るのだ。
 自分では公女を支える役目は無理だ、などと口走ろうものなら、あからさまに落胆され、世の無情を嘆かれそうである。
「殿下、俺にソージンの代わりになれなどとは言わないでくださいよ。非公式ではありますが父の故郷で妻子を得る予定の男が独身の公女の周りをウロチョロしていて良い噂など立つはずがありませんからね」
「そうなんだよねぇ。君に頼むことで起こる唯一の問題がそれだよ。今は仕事の関係でフォレイアと一緒にいても言い訳が立つけど、その仕事が終わるまでに彼女が立ち直らなかったらどうしたものか……」
 先のことを決めかねている王太子の姿など初めて眼にしたかもしれない。
「確かに公女さまが立ち直らなければ問題ですね。今回のような事件が起きた以上、出来れば彼女には確かな身分の者が伴侶となって傍らで支えるのが理想ですが、それに期待するのは厳しいでしょう」
「この際、身分なんかどうでもいいよ。フォーレが立ち直れるなら、市井の者だろうが貴族だろうが関係はない。だけど、父親の命令を絶対視している彼女にとって自らの意志で伴侶を選ぶなんて不可能だろうね。そして炎姫公は彼女に夫を与える気など毛頭ない様子だ」
 ふとジャムシードは、なぜ自分が王族の婚姻についてまで話し合っているのだろうと疑問に思った。つい王子の会話に引き込まれて話に乗ってしまったが、本来なら貴族の婚姻については貴族同士で話し合うのが筋である。
 あぁ、そうだ。カラス・ファーンの話題が反れたのを幸いとばかりに話に食いついてしまったのが問題なのだ。王子はそれが判っているのか、それとも気づいていないのか、ジャムシードの目の前でブツブツと独り言を呟いていた。
「どれほどの事が出来るか判りませんが、公女さまが淋しい思いをしないよう注意します。それでいいのでしょう?」
「そうだね、頼むよ。君のような人がフォレイアの父親だったら、彼女の様子はまた違ったものになっていただろうにね」
 苦い想いを噛み砕くかのように、ジャムシードは噛み締めた奥歯に力を込める。公女の父親と比較されるほど出来の良い人間ではない。王子の買いかぶりに冷や汗すら出そうな気分だった。
「そんな顔をしないでよ。僕は自分が思ったことを口にしただけさ。フォレイアの父親が君だったら良かったと言ったのは冗談ではないよ。だけど、君からしてみたら突飛な内容だったろうね。……そうだな、父親ではなく兄と言い換えたほうがしっくりくるかもしれないね」
 父親が兄になったとて、ジャムシードの気持ちがほぐれるわけではない。しかし、それを上手く言葉にして王子に伝えることが出来なかった。
「戯れ言だと思って聞き流して。僕が真面目に考えていることであっても、君には受け入れがたいこともあるのは理解しているよ。僕の願望を逐一実現するために君が犠牲になる必要はないんだからね」
 苦笑いを浮かべたサルシャ・ヤウンがジャムシードの気持ちを引き立てようとあれこれ言い訳を並べていた。
「俺が殿下の側にいても役に立てることは少ないですよ。以前にも言いましたけど、あまり買いかぶらないでください」
 残念ながら気持ちが浮上するには至らない。王太子は己の目的のためなら強引な手法も厭わない。ジャムシードにも判ってきていた。王子がそれなりに気を遣ってはいても、振り回される身にはたまったものではない。
「買いかぶってはいないよ。君は優秀だ。少し考えすぎるところはあるけど、周囲との折り合いも悪くないし、実行力もある」
 ジャムシードは視線を伏せ、小さくため息をついた。
「それは俺の実力ではありませんよ。公女さまが貴族と引き合わせてくださったり、炎姫公配下の方々の口添えがあったり、俺の師匠の人脈を頼らせてもらったりと、助けられてばかりですからね」
「周囲の助けを上手く引き出すのも実力だよ。一人でやれることは限られているけど人数が増えれば実現力は増すでしょ。君は細工師として一人で工房アトーを切り盛りしていたから理解しにくいかもしれないね」
「仰りたいことは判っているつもりです。ですが、俺が言いたいのは、周囲に助けられた分まで俺の実力だと判断して欲しくはないと……」
「君から上がってくる報告書には必ず関わった人間の名が挙がっている。貴族との関わりがない市井の者の名であってもね」
 だから君の言いたいことは判っているつもりだよ、と答えるサルシャ・ヤウンは苦笑を浮かべている。彼にはジャムシードの内心の葛藤など手に取るように判ってしまっているに違いない。
「僕は君が自分の実力を低く見積もりすぎてるとは思うけど、そういう君だからこそ周囲の人間への接し方は柔らかい。今のフォレイアには、君のような対応をしてくれる者が必要だ。だから君に側にいてやって欲しいと頼んでいるんだよ。しばらくの間、上流階級社会から遠ざけてでもフォーレの傷を癒すほうを優先してやってくれないかな?」
 そうまで言われたら厭だとは言えなかった。もちろん混乱している公女を見捨てることはできない。弟のことがあるので公女と関わる危険性を考える必要はあるが、やれるだけのことはやってみるつもりだった。
「殿下の御心のままに。微力ながら俺も公女さまをお支えしましょう」
 王太子は不満げであったが、ジャムシードが態度を改めることはなかった。