混沌と黎明の横顔

第20章:風杖をふるう者 5

 私室から通じる裏庭を散策するシヴェラリアーナは、蔓薔薇の茂みが不自然に揺れる様子に気づいた。侍女は部屋に帰している。私室の裏庭ということで、彼女を守る近衛兵の姿もなかった。油断していたと言われても仕方がない。
 茂みがさらに数度揺れ動き、その背後から細身の人影が転がり出た。
こん畜生ジン・ガズー! なんて忌々しい薔薇だ。上着がボロボロになっちまったじゃないか!」
 それは見慣れない男である。地味な外見で、騎士のような勇ましさは感じられないし、貴族連中が醸し出す緩みきった愚鈍さもなかった。
 だがしかし、彼がいる場所が問題である。ここは後宮の一画であり、なおかつ王妃の部屋のすぐ側だ。警備が厳重なこの場所はまともに男が入ってこられる場所ではない。不法侵入者であることは間違いなかった。
「何者です。ここで何をしているのですか」
 ビクリと男の背が跳ね、慌ててシヴェラリアーナに向き直る。そこに彼女を認めて眼を大きく見開いたが、すぐに居ずまいを正し、優雅な動きで会釈した。
「お騒がせして申し訳ありません、妃陛下。残念なことに名前を名乗ることはできませんが、決して怪しい者ではありません。衛兵を呼ぶのは話を聞いて、その内容に納得してからにしていただけませんか?」
「名を名乗らぬ者を怪しくないと考えるほど愚かではありませんよ。ですが、その蔓薔薇を忌々しい薔薇と評したことには賛同しましょう。茂みが育ちすぎてドレスの裾を引っかけると、侍女が愚痴をこぼしておりました。……名を明かさぬのなら別の証明をしなさい。それによって判断しましょう」
 危害を加える気ならば茂みから転がり出てくるようなヘマはすまい。本来はすぐさま近衛兵を呼ばねばならないが、ふとした気まぐれを起こし、シヴェラリアーナは相手の出方を窺うことにした。
「ご厚情に感謝いたします。我が名も表向きの職業も明かすことはできませんが、これだけは明かすことを許されております」
 男は僅かに言葉を切って跪く。続いて深々と頭を垂れた。
「わたくしめは前黒耀樹公ワイト・ダイス直下の巡検使にございます、妃陛下。亡き主人の遺命により参上つかまつりました」
 驚きを顔に出さないのが精一杯である。王族の誰かが抱えているらしい非公式の役人が目の前に現れるとは、ほんの一瞬前まで露ほども思い至らなかった。
 巡検使の存在は夫や息子からそれとなく仄めかされてはいたものの、実際に眼にするとなんとなく落ち着かない。それは王族といえども女性には巡検使が従わないとされる慣例に知らぬ間に慣れてしまったからかもしれない。
「亡くなった主人にまで義理立てするとは殊勝な心がけ、と言いたいところですが。あのワイト・ダイスのことです、手抜かりがあろうはずがありませんね。何かよほど重要なことを命じていったのですか?」
 生前のワイト・ダイスとは決して親しく口を利いたことはなかった。息子の剣術指南役ということで、折に触れて顔を合わせることはあったが、主従関係が前面に出るばかりで炎姫公女ユニティアのように茶会にすら誘ったことはない。そんなよそよそしい関係であったというのに、何をしようというのか。
「ひとつは王家に関わる重要事ではありません。実はダイス公が生前最後に認められた手紙の一通が我々の元に届いたのですが、それを実行しようとしますと王太子殿下や他の大公閣下方の不興を買いそうでして」
 男の言葉尻が小さくなり、上目遣いにこちらを見つめる様子から、シヴェラリアーナは息子への口添えを望んでいることを察した。
「仲介役をせよ、ということですか」
「王妃陛下に仲介役など畏れ多いことと思いましたが、亡き主人の最後の望みでございますので。なにとぞお聞き届けいただきたく」
「聞き届けるかどうかは話の内容によるでしょう。息子が不利になるような事柄なら受け入れるわけにはいきません。それくらいは理解していますね?」
 もちろんでございます、と頷く男の表情には薄い笑みが絶えず浮かんでいる。この得体の知れない微笑みを長時間見ていると感覚が麻痺しそうだ。
「公は手紙にこう記されているのです。“弟のことは放っておけ、あれの好きにさせよ”と。ですが、弟君は放っておかれもしなければ、好きに生きているとも言い難い状況下にあります。このままでは公の望みは果たされません」
 突飛な内容にシヴェラリアーナは眼を瞬かせる。「弟は放っておけ、好きにさせよ」という文章は理解できても、含まれている意味が理解不能だった。
「ケル・エルスのことは以前から放置気味ではありませんか。彼は彼なりに好き勝手に生きているのでしょう? 公では王族の務めを果たし、私生活では自分の楽しみを優先していると聞き及んでいますが……」
 彼女の戸惑いを断ち切るように、男は両掌を顔の前で振って否定した。
「ケル・エルス様は好き勝手をしているように見えるかもしれませんが、あれはあれで苦労しているのですよ。あぁ、いや。ダイス公が記された弟君というのはケル・エルス様のことではなくて、もう一人のほうなのです」
「異母弟のナスラ・ギュワメですか? 彼こそ好き勝手に生きてきた見本のような人物ではありませんか。放っておかれてはいないかもしれませんが、これから先も好きに生きることくらい可能でしょう」
 シヴェラリアーナの返答は予測済みだったのだろう。侵入者は大袈裟な仕草で肩をすくめ、ため息をつく真似までして見せた。
「好き勝手なんぞしておりませんよ。あの男は大公家に入った瞬間から雁字搦めでございます。兄のダイス公ですら、手紙を認める少し前までは彼を縛り付けようとしていたくらいですからねぇ」
 首を振り振り、こちらの様子を窺う男の視線が少しばかり不愉快である。仲介役を頼みに来たはずが、どうやら値踏みされている節があった。
「貴族の家に入ったからには責任が生じるのは致し方がないことでしょうに。それが厭なら家名を捨てて出ていくしかありませんよ。ワイト・ダイスが言う放っておけ、好きにさせろというのは、大公家から出ていくも残るも勝手だという意味ではないのですか。それとも他に意味があるとでも?」
 そういう意味も含まれているでしょうね、と囁く男の表情には自嘲が混じる。
「実は私、ナスラ・ギュワメが大公に就いて落ち着いたら解任されることが決まっておりまして。これが黒耀樹家での最後のご奉公なのです。逆に彼が大公位から退けば契約が保留されるか、更新されると思うのですけど」
「つまり、あなたとしてはナスラ・ギュワメが大公でいてもらっては困る、ということですね。だから彼に自由を与えたい、と」
「有り体に申し上げるなら、その通りで。ただねぇ、留任が決まっている同僚もギュワメ公には同情的でして。大公家に縛られるくらいなら、サッサと自由になって元の遊民生活に戻ったほうがいいんじゃないかと危ぶんでいるくらいです。今の黒耀樹家はまともに機能しておりませんので」
 愚痴混じりの内情暴露に苦笑しそうになったが、シヴェラリアーナは平然とした表情を保ったまま小さく頷いた。
「元大公妃の専横甚だしい状況では、新米で継子の大公なら大いに手を焼くことでしょう。現状は厳しいものだということは理解しています」
 だが、それはナスラ・ギュワメが大公位を退く手助けをする理由にはならない。まして継子が退けば、いよいよリウリシュ妃の横暴がまかり通ってしまうではないか。ここは新大公に踏ん張ってもらわねば。
「ですが、ナスラ・ギュワメの退位を認めるわけにはいきませんよ。目の前にある困難を投げ出して彼が逃げるというのなら軽蔑するだけですが、立ち向かおうとしているのであれば手を貸しましょう。正式な王族となったからには、彼がその役割を果たすよう望みます」
「それはつまり、役割を果たしたのならば、後は好きに生きても良い、と?」
「地位に相応しい働きをし続けなさい、と言っているのです。それが担えないのであれば、周囲が彼を退位させるでしょう。王議会での評価が彼自身の進退を決めるのは間違いないでしょうし、王族間でも問題となるでしょう」
「なるほど。では、妃陛下のお考えに添うためにも、ナスラ・ギュワメ公が望む通りに成すべきことを成すよう、我ら巡検使が大公家をお支えしましょう。そのためには王太子殿下にもご助力を願いたいものです。国家の安泰に黒耀樹家の平穏は必要なことかと存じますが如何でしょう?」
 口が良く回る男だ。当初はナスラ・ギュワメが大公位を退くことを望んでいるかのような口振りであったのに、いつの間にか彼が大公を続けるために必要な手助けをしろとせっついてくるとは。しかも助力をしなければ王家にも影響が出ると言わんばかりの口調だった。
「国のために必要とあらばサルシャ・ヤウンも手を貸すでしょう。母親の仲介など不要ですよ。あの子は誰よりも国の未来を案じております」
 王位に就こうとしている者が国家安泰を願わないはずがなかろう。国があってこその国王なのだ。その土台が崩れてしまっては元も子もない。
「それをお聞きして安堵しました。では、殿下が心置きなく采配を振るえるよう、余計な憂いは断っておくに限りますね」
 当然である。息子の前途に暗雲が垂れ込めているような状況を喜べるはずもない。どんな手段を用いてでも障害を取り除いておきたいと願うのが親心というものだ。そんなことを逐一指摘されるまでもない。
「では、妃陛下。早々に王宮を退き、僧院にお入りになることをお勧めします」
 シヴェラリアーナは眼を細め、目の前の胡散臭い男を睨んだ。
「折を見て退きましょう。が、今はまだ服喪の時期ですよ」
 貴族社会では夫に先立たれた妻の多くは僧院に入る風習がある。周囲からそれとなく促されることも最近になって増えてきた。が、ここまであからさまに指摘されたのは初めてである。
「もちろん、それは充分に理解しております。ですが、状況が芳しくない今、風習のことは脇に置いておくべきかと……」
「夫を亡くしたばかりですぐに別の男を囲う女だとでも噂が立っていますか?」
 それはわざと流したものだ。そういう堕落した女だとの噂が広まれば、奏士を伴って夫の霊廟に出向いても情人を連れていくとは非常識な、と顔をしかめられるばかりで真実を知られることはない。
「わざわざ悪い噂を流される必要はありません。むしろ今はそれが逆効果になっております。僧院に入られるのがお厭なら、しばらくはご静観をお願いします」
 怪訝な表情を浮かべたつもりはなかったが、目の前の男はこちらの内心を瞬時に悟ったかのように言葉を繋げた。
「リウリシュ妃とその取り巻きが動いております。以前から妃陛下の周囲を嗅ぎ回っていたようですが、今回の動きは常のものと違います。どうやら本腰を入れて王太子殿下の即位を邪魔する気でしょう。あるいは、殿下の立場を弱めるために妃陛下を利用するつもりだと思われます」
 あぁ、なるほど。とシヴェラリアーナは納得した。自分がやっていることが諸刃の剣だということは理解していたが、どうやら状況は悪い方向に傾いていたらしい。敵の目をかいくぐっての裏工作はまだ成功していないというのに。
「どうやら、こちらがやっていることは筒抜けだったようですね」
「いいえ。妃陛下の裏工作に気づいている者は少ないでしょう。僧院の者らは口の固い者が多いので、我々も確認するのが遅くなったほどです」
 王妃はほんのわずかだけ口の端をつり上げ、苦笑を浮かべたが、すぐに平静な表情に戻ると、建物のある方角へときびすを返した。
「忠告は聞きました。あなた方の要望も心に留めておきましょう。ですが、すべて思い通りに行くとは考えないことです」
「陛下!? あの、まだお話が……」
 ふと立ち止まり、シヴェラリアーナは肩越しに闖入者を振り返る。
「そちらの要求のひとつは黒耀樹家の騒動に干渉しないこと、そしてふたつ目は王家の騒動に黒耀樹家を巻き込まないこと、でしょう? 持って回った言い方をする時間の無駄は好みません。用は済んだのですから帰りなさい」
 男が眼を見開き、すぐに苦笑を浮かべた。
「ご明察。助力という名の不干渉にお気づきでしたか。それでは妃陛下の賢明さに敬意を表して、最後にひとつだけ」
 本気で敬意を表しているかどうかは知らないが、目の前の人物はゆるゆると腰を折り、恭順を示す礼を取る。
「侍女らには心を許さないほうがよろしいでしょう。特に、紹介状を見て雇い入れた者ほど。彼女らの口は、外を向いておりますからね」
 今度はこちらが眼を見開く番だった。紹介状は身元のしっかりした者を介して届けられている。それが偽りだと言うのだろうか。貴族の口添えで仕方なく側に置いている侍女よりよほど気配りができる者ばかりなのに。
「誰がなんの目的で彼女たちを寄越したのですか? 彼女たちがどんな害をなそうとしているのか、あなたたちは知っているのですか?」
 淡い笑みを顔に貼りつけたまま、男は静かに一礼すると、騒々しい風を巻き起こし、その場から姿を消した。引き留める余裕はなく、シヴェラリアーナは焦燥を抱いたまま、庭に佇んでいた。
 紹介状を持ってきた侍女たちの身分は高くない。下級貴族か地方の有力者の身内だ。花嫁修業の一環で送り込まれてくる上級貴族の身内よりこまめに動き回って仕事をするので重宝しているのだが……。
「彼の言葉を信じるなら少し探りを入れてみる必要があるかしら」
 自身の周囲を嗅ぎ回られているのであれば、息子の王位継承に関わる今の時期には慎重にならざるを得なかった。どんな些細なことにも用心するに限る。
 いつも通りののんびりした足取りで私室まで戻ると、シヴェラリアーナはさりげなく寝室へと滑り込み、整えられた室内を見渡した。何も変わった様子はない。もちろん気づかれるようなヘマはしないだろうが。
 ハタと思い至り、彼女は専用の本棚へと歩み寄った。そこから古ぼけた詩編集を抜き取り、パラパラとページをめくる。が、その手はすぐに止まり、詩編集によく似た別の一冊を抜き取り、同じくページをめくった。
 それを数度繰り返し、シヴェラリアーナは苦り切った表情を浮かべる。
「あの手紙を持ち出したのね。……王子の母を貶めるのが目的で」
 本棚を元通りに片付けると、彼女は崩れ落ちるように脇の椅子に腰を下ろし、重苦しいため息をついた。心なしか顔色が悪い。
「あの手紙だけでは真実に辿り着けはしないわ。でも利用することはできる」
 真実を知る者はシヴェラリアーナただ一人。あぁ、いや……。あの老婆がいた。異形の女。得体の知れない気味の悪いまじない師。バチンという名の、異質な力を持つあの女も、彼女の真実を知る。
 だがバチンはリウリシュたちには接触しないだろう。あの老婆は人間を嫌っていた。そしてポラスニア王国を憎んでいた。だからこそシヴェラリアーナを利用したのだ。こちらも同じく利用していた。
 裏切った、裏切られたと罵り合ったとて、バチンが王族たる大公家の縁者と手を組むことなどあり得ない。リウリシュが王国を滅ぼそうとしているのなら別だが、あの愚かな女の野望は自身の繁栄。国が滅びては無意味であろう。
「サルシャ・ヤウンが王位に就くと困る者たちの筆頭は元老院の貴族たち。彼らは今まで王太子を蔑ろにしている。ヤウンが正式に王位を継げば、抑えつけられることは目に見えているもの」
 だけど、と呟き、シヴェラリアーナは考え込む。元老院の愚者どもに侍女の紹介状を改竄するような芸当ができるだろうか。むしろ、もっと下劣な方法を取るような気がする。そう、先日の王女襲撃のような。
「元老院とリウリシュを裏で操っている者らがいるとしたら……?」
 そう考えると辻褄が合う。知らぬ間に何者かに操られているのであれば、元老院の貴族らはしたり顔で王妃の手紙を利用し、王子の失脚を狙うはずだ。
「それでも今この時期に手紙を公開したところで益はないわ。本物かどうか疑わしいし、本物という証拠も示せない。それでも手紙を使うとしたら……。噂を広めるためのきっかけとして利用する、くらいかしらね」
 先ほどの巡検使が言うように、しばらくは静観するしかなさそうだ。下手に工作に走れば、余計にこじれてしまうだろう。
「それにしても、誰が裏で糸を引いているのかしら。元老院とリウリシュを手玉に取れる人物となると限られてくるわ」
 ポラスニアに介入したい諸外国の外交筋か、王太子サルシャ・ヤウンの国王就任を快く思わない国内の有力者筋か。
 貴族は元老院の貴族とその他の貴族では意見が真っ二つに割れている。王議会に参加できる上級貴族はヤウンの存在を煙たく思っているだろうが、そうではない貴族には変革につけ込める絶好の機会として王位継承の混乱は歓迎されているはずだ。となると、残るは王族の筋ということになる。
 傍系王族たちには中央の政治に深く関わるだけの力は残されていないはずだ。
 夫の兄が王であった時代には後ろ暗い魔術に傾倒した宗教が流行し、世相は荒んでいた。その潮流に乗る傍系の王族たちは中央に進出して我が物顔だったが、夫が王となり、腐敗を切り捨てていったことで力を失っている。
「傍系王族を取り込んでいるのが元老院だから油断はできないけど、刃向かう力を削ぎ落としておいたし、あまり重要視する一派ではないわね。となると、やはり大公家に連なる一派が動いているのかしら」
 王族の中でもっとも王家と緊密な関係を築いているのが大公家だ。その中でも黒耀樹家は格別の近しさで王家に寄り添っていたが、ワイト・ダイスが当主となった辺りから王家と黒耀樹家の間には微妙な軋みが生じている。
 ダイスの母親リウリシュの存在が二つの王族の間に影を落としていた。シヴェラリアーナもリウリシュも表面上はやり過ごしたが、内心では忌々しい女だと思っているのだから、それが互いの家の関係に響かないはずがない。
「もっとも王家に反目しているのは、皮肉なことに王家の番人たる黒耀樹家ね。でも王位に近いという意味では水姫家も炎姫家も黒耀樹家の上を行くわ」
 三大公家にはそれぞれ格というものがあり、水姫家が長子格、炎姫家が次子格、黒耀樹家が末子格という順位だ。王家に跡継ぎが存在しない場合、この順位で王位継承権が発生することになる。
 現在、第一王位継承権を持つのは立太子に冊立された王子サルシャ・ヤウンだ。ところが、ヤウンに万が一のことがあった場合や王位に相応しくないと判断された場合は、水姫家から次の王を選出することになる。
 そういうわけで、今のところは水姫公ラシュ・ナムルが第二王位継承権を持っていた。彼に息子がいたなら第三王位継承権はその子になっただろう。しかし彼には息子がいない。であれば、継承権は次の大公家である炎姫家に移り、当主のアジル・ハイラーが第三王位継承権を持つのだ。
 そして、炎姫公に息子がいたなら……と続くのだが、生憎と現在のポラスニア王国に王位継承権を持つ男子はサルシャ・ヤウン、ラシュ・ナムル、アジル・ハイラー、ナスラ・ギュワメ、ケル・エルスの五名だけである。
「この順位からいけば、次のラシュ・ナムルや第三位のアジル・ハイラーも王家に楯突く可能性が出てくるわね。しかも地藩都が焼かれてしまったとはいえ、水姫家の力はまだまだ侮れないほど強いものだわ」
 もちろん、先の流行病の痛手から立ち直りつつあるタシュタン地藩の支配者にも油断はできなかった。アジル・ハイラーは王族の中では最年長である。為政者としての経験は周囲に充分信頼されるものだ。
 国内がまだ不安定な今、信頼のおける為政者を、と望まれた場合、その筆頭に炎姫公の名が挙げられることは間違いない。
 王位継承の競争に出遅れている感がするのは黒耀樹ひとつだ。それもあってリウリシュはやきもきしているのだろう。息子が王位に就けないまでも、王家に影響力を持つ地位に就いていて欲しいと願っているはずだ。
「邪魔な継子を排除し、王家に影響力を持つために、彼女なら他の大公家の者と手を結ぶことも考えられるわ。ワイト・ダイスが当主ならあり得ない選択だけど、あの女にとって権力は遊戯盤の上の遊び程度の感覚しかないもの」
 本当に忌々しい女。そして、彼女を利用して陰から王家に干渉しようとしている輩にも腹が立つ。もう少しで息子が王になる。滅ぼされた国の血を引く王子が国の頂点に立とうとしている今、邪魔者を許す気にはならなかった。
「大公家の者たちに大人しく従う気はないわ。我ら王家こそが国を束ねる存在でなければ意味がない。彼らの力を削ぐ手だてを考えねば」
 まずは目の前に降りかかっている火の粉を払う必要はあるが、その先はもっと質の悪い連中が相手である。悠長にかまえている場合ではなかった。
「あの人が僧院を通じて作り上げた人脈を利用して故郷の者たちを王国内に引き入れる算段をしていたけど、その時間はなさそうね。それらは後回しにして、今は小うるさい女狐を始末しておかなければならないわ」
 引き結んだ口許に固い決意が見える。瞳にも強い輝きが灯っていた。
 引き出しから真新しい紙を数枚取り出し、彼女はおもむろに何かを綴り始める。その後、書き終わった手紙数通を蝋引きの封筒に収めて蝋封を施すと卓の上に置かれた呼び鈴を鳴らし、控えの間で立ち働いている侍女を呼び寄せた。
「離宮に行きます。近衛兵の手配をしなさい。それと、この封書を王太子と筆頭楽奏士に届けるように。今なら王議会の前に届けられるでしょう」
 決然とした表情で立ち上がった王妃が窓から差し込む光を振り返る。
「手段は選ばないわ。国が滅ぼされたときに、そう決めたもの」
 眩しげに光を見つめる彼女の瞳には余人を寄せ付けない厳しさが宿っていた。そして、その呟きの意味を知る者はどこにもいなかった。