混沌と黎明の横顔

第20章:風杖をふるう者 4

 神話の細密画の如き正確さで描かれた法陣を見つめ、彼は苦り切った表情になった。この方法での移動は、単に苦手などという控えめな表現では言い表せない。大っ嫌いだと声を大にして言いたい。
 だが今回のような場合には必要不可欠で、なおかつ権力を行使できる最大の機会でもあった。この法陣を抱えているからこそ我が家は大貴族と言えるのである。彼の好き嫌いで放棄していいほど軽々しいものでもないし、また放棄するということは貴族の身分を捨てるに等しい自殺行為だった。
「用意はできたのか、息子よ」
 背後から突然聞こえた声に彼の肩が小さく震える。が、内心の驚きを押し隠し、彼は悠然とした仕草で振り返った。
「出発の準備ならとうにできておりますよ、父上。短時間の間に相手先への贈答品やら荷造りやらを終わらせる能力はあなたよりも上ですからね」
「それを聞いて安心したよ。お前にも長所があると知れたら、都人も少しは感心するだろう。冷血漢と誹る奴らに宣伝してやったらどうだ?」
 嫌味に嫌味を返され、内心ではムッとしたが、彼は多少頬をひきつらせただけで、言葉による反論は引っ込めることにした。言い争ったところで父には勝てない。力をつけて実務能力を磨くしか、父に認めさせる方法はないのだ。
「すぐに出発しますか?」
「すぐにでも、と言いたいところだが、ユーゼの奴がまだ戻ってこない。あいつめ、この移動手段が厭で逃げ出したか?」
 叔父──あの軽薄男を叔父と呼びたくはないが、残念ながら血の繋がりがある以上、叔父と呼ぶしかない──は魔力の欠片も持たない人間である。彼もまた魔力を持たぬ身で、叔父と同じようにこの移動手段が好きになれない人間の一人だった。きっと妹なら喜んで使うだろうが……。
「叔父上だけ陸路をいったほうがよろしいのでは?」
「迎えにきたあいつが一人で後から戻るほうが不自然だろう。第一、オルトワが許すまいよ。あんな軽薄な男を野放しにしたのでは周囲が大迷惑だ」
 迷惑なら父も充分迷惑な存在である。人の身に魔力を宿したばかりに不具となり、自らの力で歩くことも叶わないのだ。父を世話するためだけに存在する奴隷を飼う費用とてバカにならないというのに。
 実の親を迷惑がっている薄情な息子の内心を知る父は、今この瞬間にも彼の警戒心をかいくぐり、こちらの意図を探っているだろう。
 だがしかし、腹立たしいことだが、そういう父あってこその我が家であった。父がこの家に養子で入り込まねば自分も妹も産まれてはいない。そういう意味では恩人ではあるのだ。親子の情には薄い関係ではあったが。
 法陣を抱えるが故に断絶することを恐れられてきた家系である。まっとうな家族関係なぞを期待するほうが間違っているのかもしれない。だからこそ母はこの家から逃げ出したのだ。愛情なぞ欠落しているのだから。
「叔父上を探すよう手配してきましょう。どうせ娼館にでも潜り込んで、女どもの肌に埋もれているに違いありません」
「否定しづらいところだ。あれは厭なことがあると、あれこれ理由をつけて娼館に入り浸っては自己憐憫に耽る悪い癖があるからな」
 自己憐憫なぞあの叔父にあるのか? 単に適当な理由をつけて遊びたいだけではないのか? 彼にはそうとしか思えなかった。
 人が持ち得ぬ魔力なぞという代物を抱える兄がいる重圧に、あの叔父は耐えられないのではないのだろうか。兄と一緒に我が家に養子に入ったというのに、勝手に出奔してオルトワの側へと寝返ったくらいだ。あの男に大貴族として生きていく覚悟があるとは思えなかった。
「では使用人に指示を出してきます。父上はこちらでお待ちになりますか?」
「そうしよう。この法陣を眺めるのも久しぶりだ。ゆっくりと見物しておこう」
 輿を担ぐ奴隷に舌を鳴らして合図し、父は悠々と法陣の傍らへと近づく。他家の者なら畏怖にひれ伏すであろう法陣を間近に見ても、単に見物していると言い切れる父の神経の太さがときには羨ましくなる。
 魔力なんぞは人の身には過ぎた力だと思うが、持っていないよりは持っているほうが何かと便利だ。体の一部が不自由になる代償を支払ってもお釣りがくる、と考える者は多かろう。それほど魅力的な力ではあるのだ。
 それに我が家の場合はこの法陣がある。法陣を使うには魔力は絶対条件だ。当主である彼に魔力はないが、父が役割を果たしている。さらに彼の代が本格的にやってくれば、今の父の役割を果たすのは妹になるはずだ。
 一度は嫁に出た女が出戻っても歓迎される理由はそこにある。本来なら婚家で子を成し、その子に魔力の兆候が見られたなら実家へ養子に出す手筈が整っていたというのに。性格の不一致程度で逃げ帰ってくる我が侭な妹である。
「どいつもこいつも好き勝手ばかりしてくれる。まったく迷惑な話だ」
「そうそう、レイゼン。忘れるところだった。今回はお前も一緒に来なさい。留守はシヴァンが預かってくれるそうだ。……良かったじゃないか。お前も初めて従姉妹に逢えるのだ。親戚が増えて幸せなことだ」
 囁きが聞こえたかのようにかかった父の声にレイゼンは竦み上がった。が、聞こえた内容の理不尽さに怒りがこみ上げてきた。マイダルリーガ公として務めを果たしているのは彼自身であるのに、なぜ妹が出しゃばってくるのか。
「父上。お言葉を返すようですが、当主たる身で遠出など出来ようはずがありません。まして父上が法陣を使われるのであれば、男二人で出歩いてどうするのですか。サッサと公王陛下にご挨拶なさって、取り巻きを連れてお出かけになればいい。後のことは、このレイゼンにお任せください」
「だから法陣を使うのではないか。派手な隊列を組んで行くのは見せかけだよ。実際の我らは先に移動して、正式な使者が到着する前に根回しを終えるのさ」
 飄々とした父の様子に呆れ果て、レイゼンは首を横に振った。
「それなら余計に父上お一人で行かれたほうがいい。法陣を使えば、まっとうな人間は使い物にならなくなりますよ。連れていけるのは、せいぜいシヴァンくらいなものです。それくらいお判りでしょうに」
「法陣を抜けた後に休む場所さえ確保できれば、すぐに動けるようになるだろうが。お前が心配するようなことは何もない」
 しかし、となおも渋る彼の態度に、父がニヤリと笑みをこぼす。
「オルトワの側にはキハルダがいるはずだぞ。ヨルッカを始末した後、すっかり意気消沈しているらしい。キハルダの娘が母親の仕事を代わりにこなしているようだが、慣れないことの連続で疲れているだろうなぁ」
 彼女がオルトワの側にいるのか。レイゼンはつい今し方まで渋い表情を作っていたことも忘れ、何年か前に顔を合わせた少女の顔を思い出していた。
 母親に似た金髪に褐色の肌という取り合わせが、我が国でもてはやされる美女の条件そのもので思わず見惚れたものだ。遊民特有の勝ち気な性格を表したようなつり目で見つめられ、鳥肌が立つほどゾクゾクしたのも覚えている。
「面白そうですね。キハルダは次期元締めとも噂されていることですし、遊民のご機嫌を取りに行くのも一興でしょう」
「お前ならそう言ってくれると思ったよ」
 父の思惑に乗るようで癪だったが、あの娘に逢う機会を逃す手はなかった。
 そうと決まれば自身の荷造りも必要になる。急いで準備しなければ。叔父を捜している間になんとかなるだろうか。
 あれもこれも、と頭を悩ませているレイゼンの背後で、父親が声を忍ばせて笑っていることに彼は気づいてはいなかった。いや、たとえ気づいていたとしても気にはしなかったろう。すでに彼の心は遠い異郷に飛んでいた。
 法陣を祀る部屋からふらふらと歩み出た後、レイゼンは石造りの階段を踊るような足取りで駆け上がった。地下にある法陣室の静けさからはほど遠い喧噪が地上には満ちている。故郷の輝かしい太陽そのものの笑い声が溢れていた。
 綺羅を尽くした衣装が目の前を横切る。レイゼンは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに元の表情に戻り、派手な容姿の妹と対峙した。
「おや、シヴァン。こんなところで何をしているんだ? お前の好きな金銀財宝なら宝物庫のほうだろうに」
「あぁら! お兄さまこそ魔力もない身で法陣室においでとはどういう了見なのかしら? まさかお父さまに泣き言でも漏らしていらっしゃったの?」
「当主として法陣に異常がないか確認していたのだよ。喰って遊ぶばかりの金のかかる女と違って、法陣は我が家が公国から預かる宝物だからな、何よりも手入れを欠かさないことが重要だろう?」
「まぁ、ご熱心ですこと。魔力がなくては法陣を直すこともできないのに。ところでお父さまは法陣室にいらっしゃいますよね。お話があるので通らせていただきますわ。よろしいですね?」
 良いとも悪いとも言っていないのに、妹はサッサとレイゼンの脇を通り抜けて地下へ向かう。止める暇もなかった。階段を降り始めたシヴァンの背に向かって、レイゼンは半ば叫ぶように呼びかける。
「シヴァン。この度はお前が留守役を預かるのだろう? 私が父上に同行している間、屋敷の采配を怠るなよ!」
 肩越しに振り向く妹の背で豪奢な金髪が蛇の如くうねった。
「もちろんですわ。お兄さまこそ、お父さまの足を引っ張らないようにご注意あそばせ。そうそう、お兄さまお気に入りの娘がオルトワの側にいるとか。お楽しみがあってよろしいわね。どうせなら妹への土産に従順な男の一人でもお連れ下さいませ。退屈な屋敷暮らしの潤いになりましょう」
 ぬけぬけと言い返してくる妹の性悪ぶりにレイゼンは顔をしかめた。
 つくづく妹は父に似ている。こちらがひとつ言うことに対して十は言い返してくる。棘のある言葉を吐き出す相手に苛立ち、彼は小さく舌打ちした。
「せっかく見つけた婿を勝手な理由で突き放してくるような女が、どの面下げて従順な男が欲しいなんぞとほざく。身の程を知れ、愚か者が」
「嫁の来るあてもないお兄さまに言われたくはありませんわね。第一、あんな男を夫にせねばならないなんて冗談じゃありません。後悔なんてしてませんからね。あちらの愚痴にお兄さまがつき合うのもほどほどになさいませ」
「愚痴を聞いているのではない。離婚の最終的な調整をしているだけだ。お前の我が侭のお陰で慰謝料を支払うはめになるのだからな」
「あら、それしきのこと。あの男には地味で大人しい女を紹介して差し上げればよろしいのよ。お兄さま以上にお金にしわい小心者ですもの」
 別れた夫のことなど少しも気にかけていないらしい。この妹には何を言っても通じない。今さらのことだったが、彼女の傍若無人ぶりにはほとほと呆れ果てるばかりだった。これでは後家のまま一生を終えよう。
 いっそ父と出掛けた先で遊民の男の一人でも見繕ってあてがってやろうか、とすら考えてしまった。不思議なことに遊民の男は同族の女に逆らうことが少ないと聞く。それが処世術なのかもしれないが、窮屈ではないのだろうか。
 気の強さなら遊民の女と同等かそれ以上の妹なら彼らのことも気に入るだろう。妹一人を手懐けることもできぬと都人に誹られてはたまったものではなかった。片付けることができるのなら、どんな男にでも妹をくれてやるものを。
 腰をくねらせながら階段を下りていく細い背中を見送り、レイゼンは奥歯を噛み締めた。気を抜いたら怒りのあまりにわめき声をあげてしまいそうだ。使用人の耳目が周囲にある状態でそんな失態は犯せなかった。
 なんとか内心に吹き荒れる嵐を鎮めると、彼は使用人に叔父の探索を任せ、自分は遠出のための荷造りを指示するために私室へと急ぐ。
 再び異郷の地にいる娘の姿に思いを馳せながら、レイゼンは人が二人は入りそうな大きな衣装箱を運んでくるよう奴隷に命じた。
 彼は気づいていない。己が気にかけている娘の容姿や性格が母や妹に似ていることも、彼女しか目に入っていない今の自分の状態のことも。娘に似合いそうな紗の布地を幾反も見繕い、華奢な手足や首筋に飾ってやりたい宝飾品を選ぶレイゼンの横顔は、少なくとも都人が知らない表情を浮かべていた。




 リウリシュは香炉から立ち上る煙にジッと見入りながら訪問者の訴えに耳を傾けた。何事かと先ほどからしきりと唸っているが、それをまともに取り合う気になれない。朝っぱらから押し掛けてくるのも無礼な輩だった。
「先ほどから何度も同じことを。いったい、そなたは何がいいたいのです」
 たまりかねて言葉を遮ると、相手はようやく我が意を得たりと今まで以上に忙しくさえずり始めた。
「ですから! 水姫家の娘をどうにかしませんと、王太子の即位が決まってしまいます。このままではあなたの苦労も水の泡ではありませんか!」
「あの王子が即位しようが別の誰かが即位しようが、どうでもいいことでしょうに。我々が成すべき事は、次の王に我らの力を示すことだけですよ」
「サルシャ・ヤウン王子は繊弱な若者ではありません! あれは水姫公が養育係を買って出ただけはある人物です。このままでは元老院の権力は削られてしまいます。その前に彼を王位から遠ざけて……」
「王への地位にもっとも近いのがサルシャ・ヤウンであることは誰もが知ることです。王太子に推されたとき、同時に跡継ぎとして冊立されているのですから。もっとも、王の血を引いていないとなれば別ですけどもね」
「王の血を引いていない? まさか! 王妃はドライラム陛下がまだ王弟であった頃ではありますが、正式に婚姻を結んだ後に身籠もったのですぞ。その間に彼女に触れた男など一人もいない。兄王にすら指一本触れさせなかったのは亡きドライラム陛下のみならず、王宮にいる者なら知らぬ者はおりません!」
 リウリシュは口の端をつり上げ、薄気味悪い笑みを浮かべた。元々の容姿に恵まれているだけに、底意地の悪い微笑みは仮面の下に魔物の顔が隠されていたかのような不気味さである。思わず訪問者もたじろいだほどだ。
「王妃が清純であったかどうか、それを知る者は亡き国王だけではないでしょうよ。それに、あの女が国王だけに操立てしたわけではない、と周知されるだけでも王子の立場は微妙なものになります。大公家の当主らは王子より年かさで為政者としての経験も豊富。彼らを次期国王にと推す声も出てきましょう」
「そ、そんなことができるのですか……?」
 香炉に手を伸ばし、煙を仰ぎ寄せながら、リウリシュは眼を細める。
「できるのか、ではなく……やるのですよ。決意を持って、ね」
「決意を持って? 何を……どんな決意を持てとおっしゃるのか?」
 リウリシュは小さく鼻を鳴らした。この男はなんと血の巡りが悪いことか。こんな有様だから元老院の末席に甘んじていなければならないのだ。もっとも、そのお陰で御しやすくはあるのだが。
「決意というのは内に秘めておくべきことです。お前はこれを持って王宮に行きなさい。ちょうどいいことに、今朝は早めに議会が開かれるらしいですね。その場で噂を広めるのです。……王妃はふしだらな女だと」
 懐にしまい込んでおいた紙切れを訪問者に手渡し、彼女はにんまりと笑った。
 手渡された紙片に書き連ねられた内容に目を通した男が首を捻る。そこに記されている意味を理解しきれていないのだ。
「これは、どういう意味の……」
「ここに記されている内容は、あの女が故郷で王弟だった頃のドライラム陛下と会談したとき、腹に子どもがいた、という意味ですよ」
「はぁ!? し、しかし、王太子が産まれた時期からすると、かの国を併呑したときに腹に子どもがいるはずは……」
「そんなことはどうでもよろしい。噂をバラまくときに真偽のほどを考えてどうするのですか。未婚の娘が腹に子どもを宿したまま敵将と逢い、そこで降伏の条件を話し合った。そして、その後に敵将の妻となり、双子を産み落とした。そう噂するだけでよいのです。後は世間が女の評価をするのですから」
 ごくり、と男が唾を飲み込む。その様子をつぶさに観察し、リウリシュはとりあえず自分の策が成功しそうだと判断した。
 簡略化された話は判りやすく、同時に仔細が判らないだけに誤解を生みやすい。それを利用して噂を流してやれば、王妃シヴェラリアーナの評判は地に墜ちよう。母親の評価が下がれば、王太子もやりにくくなるものだ。
 この手の噂は広まりやすい。今日か明日の間に王宮中に広がり、十日と経たない間に政局の情勢は変わっていくはずだ。王宮に居座る女を追い出し、その息子の足を引っ張るくらいのことは容易かろう。
 ナスラ・ギュワメの大公位就任を許した者を寛容に扱ってやる気などなかった。まして正統な跡取りを産んだリウリシュを蔑ろにしようとする者どもを生かしておく気もない。いずれ誰も彼もを始末してくれる。
 ぎこちない仕草で退出の挨拶をして出ていく男の背を見送った後、彼女は再び香炉から立ち上る煙を凝視した。
「ようやく重い腰を上げられたようですね」
 笑いを含んだ呼びかけにリウリシュはゆっくりと首を巡らせる。声が聞こえる大元は随分と近くに感じられたが、実際の声の主は部屋の隅に佇んでいた。暗がりに立つ人影は小柄で、声を聞かねば女か子どもだと思っただろう。
「わらわを焚き付けておいてよく言うではないか。今回のことはお前が寄越した品を元にして策を練った上でのこと。わらわに勝ち目があると踏んだからこそ、お前は手を組もうとしたのでしょうに」
「もちろん勝ち目はありますよ。但し、他の方々にも勝ち目はある。ご自分の優位を絶対のものと信じることはおやめになったほうがよろしかろう。油断は禁物だと、常に注意を怠らないことが負けないための定石ですよ」
 密やかな声だというのに、男の声はよく通った。これは普段から喋り慣れている者だとすぐに知れる。きっと今までに取り引きした相手にも、同じように語りかけてきたに違いない。相手の胡散臭さは相変わらずだった。
「そんなことより、ここで何をしているのですか。滅多なことでは訪れないよう言っておいたはずですが? よほどのことがあったのでしょうね?」
「そう邪険にしないでくださいませんか。少々やぼ用ができましてね、商品を早急にさばきたいので、船を用意していただきたく参上したのですよ」
 初めて逢ったときもそうだったが、この男ほど胡散臭い輩もそうはいまい。穏やかに微笑む口許や滑らかな語り口に騙されてしまう者も多かろう。がしかし、リウリシュはその裏側にどす黒いものを感じ取っていた。
「わらわがなぜ船など用立ててやらねばならないのですか。お前自身が用意してサッサと船出すればいいでしょうに」
「そんなことを仰って。我らが用意した品々をご堪能くださっているあなたが、なぜ我らのお願いを聞き入れてくださらないのですか?」
 役に立つ品物ばかりだったでしょうに、と囁く声に、陰惨な響きが混じって聞こえる。リウリシュは背筋に薄ら寒いものを感じ取った。が、顔は平静を装い、小さく鼻を鳴らしてみせた。
「売り手が買い手の役に立つものを用意するのは当然でしょう。それを指して恩を売る気ですか? そんな馬鹿げたことはありませんよ」
「もちろん、あなたに用立てた品が特別だからです。他にはない品ですからね」
 ニィッと相手の口許が横に広がる様子を、彼女は用心深く見守る。
「つい今し方だって例の手紙の写しを手渡していたではありませんか。あれだけの品を手に入れるために、我らがどれほどの危険を犯しているかお判りになりますか? 報酬の他に多少の色をつけてくださってもよろしいでしょうに」
 顎を上げ、さも見下したような視線でリウリシュは相手をめ付けた。ここで甘い顔をしては、次も美味しい汁を啜れると思われかねない。跳ねつけるべきときは断固とした態度を崩さないようにせねば。
「対価は支払ったはずですよ。それ以上応じる気はありません」
「えぇ、手紙の対価は確かに支払われました。ですが、少しくらい気前の良いことをなさってもいいと思われませんか? それが次の仕事に影響することもあるのですよ。あなたとの取引は特殊であるだけに、ね」
 お判りになりませんか、と囁く声がねっとりと蜜のように絡まる。肌の上を撫でていく相手の声があまりに不愉快で、彼女は眉間に深い皺を寄せた。
「取引に特殊も普通もないでしょう。品物に対する対価を払って終わりです。それ以上を求めるというのなら、それは盗賊と同じでしょうよ」
 だからサッサとこの場から引き取れ、と暗に伝えているのだが、相手はまったく消える気配がない。衛士を呼んで力尽くで退けるしかないのか。うんざりした気分のリウリシュに、白々しい笑い声が届けられた。
「頑なな方だ。そんな有様だから男に逃げられるのですよ。あなたの現状は間違いなくあなた自身が招いたことだと気づくべきでしょうね」
 一瞬だけ彼女の頬に赤みが差し、すぐに血の気が引いて青ざめる。夫を取られた哀れな女だと揶揄されているのだ。これほどの侮辱があろうか。
「おのれ……。わらわを侮ってただで済むと……」
「事実を述べただけですよ。夫に疎まれ、情人につけ込まれた挙げ句に望まぬ子を成した。そのお陰で夫の隠し子を始末することもできずにいるのは事実でしょう? 子どもの認知と引き替えに真実を闇に葬ったのですから」
 濁った蝋のごとき顔色でリウリシュは人影を見つめた。この人物はすべてを知っている。それだけの情報網を持っているのだ。
「あなたもまた、王妃と同じ危うい立場だという自覚を持ったらどうです。それが理解できれば、こちらの要求がなんなのかはっきり判るでしょうに」
 薄笑いを浮かべる男を凝視し、食いしばった歯の間から呻き声を漏らす。咄嗟の反論もできない衝撃に襲われ、彼女は全身を強張らせ続けた。