苛立ちを抑えることができずに部屋を出ていった兄の背を見送り、サキザードは本日何度目か判らないため息をついた。
「今日は厄日なのかな……。まともに話す時間もないなんて」
足許から「にゃぁお」と可愛らしい鳴き声がしなければ、彼はずっと佇んだままでいただろう。またしても自分を置いていった兄を恨み、その兄を呼びにきたという王宮からの使者を呪いながら。
『今日は王宮の方角から騒がしい気配が絶えない。何かあったのだろう』
「何かとは……? 吾を置いていくほどの用事なんですか?」
黒い小さな毛玉が動き、猫の姿をとった。伸びをし、何度か毛繕いをした後、悠々と尻尾を振りながらサキザードを見上げてきた。
『何が起こったのかは、この子猫の身では判らんな。だが、王太子に恩義を感じているジャムシードには拒否できまい。王太子直々の呼び出しとあっては』
内心でどれだけ苛ついていても呼び出しに応じざるを得ないだろう、彼の性格なら、と呟く子猫の金の瞳が何度か細められ、髭が震えた。それは人の顔で言えば苦笑しているように見える仕草である。
『兄を取られて不満か?』
「そ、そういう意味では……! こちらの約束のほうが先だったのに、勝手に出ていってしまうから腹が立っただけです!」
『それを不満というのではないのか?』
反論しかけ、サキザードは口をつぐんだ。ふてくされた表情が少し幼く見える。兄に置いていかれて拗ねている事実を認めるのが癪なのだ。しかも、それを指摘したのが兄の側にいる精霊とあってはなおさらだろう。
『帰ってきたら喧嘩のひとつもふっかけてやればいい。それでおあいこだ』
「な、なんで喧嘩をしなければならないんですか。あの人のことならなんでも知っているようなフリをして勝手なことを言わないでください!」
『フリも何も、ジャムシードのことなら大概のことは知っている。もちろん、お前たちの両親のことも。……先祖のことも、な』
最後に付け足された言葉が随分と暗く聞こえた。何か先祖にまつわる厭な想い出でもあるのかもしれない。が、子猫がそれ以上口を開くことはなかった。
お互いの間に見えない壁が存在する。それがなんとも居心地が悪い。お伽噺でしか知らない異形に対してどう向き合えばいいのか判らなかった。
『さて、それではどうするね? 何か訊きたいことがあるかね。私が答えられることなら答えもするぞ。どうせ時間は充分にあるのだ』
気を取り直したように姿勢を正した子猫がヒクヒクと髭を動かす。好奇心や悪戯心が湧き起こっているときに猫がよくやる仕草だった。
『但し、私とジャムシードの関係についての話は彼が帰ってきてからだ』
そう付け加えられては、いざ質問しようにも何から訊いたらいいのか判らなくなる。兄や自分が精霊とどんな関係にあるのかは重要な関心事のひとつだ。それを訊ねずに、他のことを訊ねろというのだから。
「兄に関することが訊けず、他に何を訊けと? 吾には思いつきませんよ」
拗ね気味に口を尖らせると、クツクツと猫が笑った。
『別にジャムシードに関するすべてに答えないとは言っていない。私との関わり合いについては、彼の許しなくお前に話をすることはできないが、彼自身を他人から見た場合はどうなのかを語ることはできるぞ』
しばしの間だけ唖然としたサキザードだったが、急に落ち着かない様子でそわそわと体を揺すり始める。訊いてもいいものかどうか迷っているのだ。
『勝手に訊いたことで嫌われはしまいかと心配をしているのか?』
「それは……まぁ。自分のことを知らぬ間に話をされるのは気分が良いものではないでしょうし。あの人と吾は兄弟といってもまだ……」
『ではジャムシードが厭がりそうなことを話すのもやめにしよう。その代わり、他の人間でも知っている程度の昔話なら良かろうよ。それとも兄に関すること以外で何か訊きたいことでもあるかね?』
精霊に関わることを訊いてはいけないのであれば、真っ先に思い浮かぶのが兄のことである。他の関心事については優先度は二の次だった。
「あの……彼の、いえ兄の子供時代は不幸なものだったのですか?」
『ある時点では幸福だったろう。しかし、別の時点では不幸だった。子ども時代を指して幸福か不幸かを問うて答えられるのは本人だけだ。ただ私が言えることは、ジャムシードは両親に愛されていた。それがあるから今の彼が立っていられると言えるのかもしれない』
訊き方が漠然としすぎていたらしい。幸福か不幸かは確かに本人が感じて初めて判ることである。他人が正しく批評などできはしない。問いの方法が朧気に見えてきたサキザードは、改めて居住まいを正した。
「両親は子どもが産まれたとき、どんな感じでした? 喜んでいましたか?」
精霊の視点で語られるであろう両親や兄を感じ取るには、大雑把な質問の仕方では駄目らしい。返事も抽象的になってしまうのだ。ということは、具体的な質問には具体的な答えが返ってくるのではなかろうか。
『母親は満足げだった。安産で産後の肥立ちも良かったから、子どもを産んだ後もほとんど寝付くことはなく、よく働く娘であったよ。逆に父親のほうは……なんというか……その……』
返ってくる言葉にサキザードは首を傾げた。言い淀んでいる内容が気にかかる。父は兄の誕生を喜ばなかったのだろうか。
「父は子どもが欲しくなかったのですか?」
『いや、欲しいとか欲しくないとかの問題ではなく、あの男自身が父親になる覚悟なんぞできてはいなかったのだろうよ。仕事は出来ても、こと赤ん坊に関する限りはまったくの役立たずだった。妻に叱りとばされて息子を抱き上げても、あやすことひとつできぬ有様だったよ』
母を語るときの精霊の声には亡くなった今でも気遣いが感じ取れた。が、父に対しては呆れ混じりの調子が声に滲んでいる。よほど父には子育ての才能がなかったのか、あるいは気心が知れた相手への軽口なのか。
「赤ん坊相手に母親に太刀打ちできる父親がそうそういるとは思えませんよ。父の姿は平均的な父親像なのでは?」
『……かもしれぬ。確かに過去を遡ってみても、初めから出来の良い父親であった者は少なかった記憶がある。だがしかし、日頃が手に負えないだけに赤ん坊を相手にしていたときのリゲルドの情けなさといったら……』
心底からため息をつき、何度も首を振る子猫の仕草はひどく老成したものであった。外見が幼い猫であるだけに、その落差はあまりにも激しい。
「それでも両親は子どもを可愛がっていたのでしょう? 兄は愛されていたと先ほど言っていたではありませんか。赤子の世話ができずとも、父は父なりに兄を慈しんでいたと思うのですが、違いますか?」
『いや、違わない。その通りだ。世話が出来ぬくせに、仕事から帰ってくると必ず息子にちょっかいを出して泣かせていた』
悪戯小僧のような父の所業を想像し、サキザードはうっすらと微笑みを浮かべた。精霊の語る両親の姿はとても温かに感じられる。
「では、両親は吾が産まれてくることを喜んでくれていたのですか?」
『当たり前ではないか。特にジャムシードの喜びようといったらなかった。それまでは人騒がせな悪戯をしてかしてばかりいたのに、弟か妹が産まれてくると知った途端に悪ガキぶりがなりを潜めたくらいだ』
猫が何度も瞳を瞬かせ、なぜそんな質問をするのかと眉をひそめている様子に、サキザードは曖昧な笑みを浮かべた。
兄を可愛がっていた両親が二人目の子どもを疎んじるはずがない。そう予測はできても、やはり言葉ではっきりと聞きたいものなのだ。特に父や母の顔を知らぬ身としては、兄や精霊から聞く両親の様子がすべてなのだから。
「彼はどんな悪戯を……?」
『他人を驚かせたり、落書きをしたり。他にも色々とやっていたが、数えていたらきりがない。あの悪童ぶりは父親譲りだった。それがすっかり大人しくなったのだから、初めは体の具合でも悪いのかと心配したのだが……』
それまでの間ゆらゆらと揺れていた猫の尻尾が止まった。
『子どもの頃のジャムシードは父親に似ていたが、どうやら成長するに従って母親の影響を強く受けたようだ。リゲルドも結婚してからは落ち着いてきたし、どうやらお前たちの母親は猛獣使いの才があったようだな』
独りで納得してウンウンと小さく頷く猫の姿にサキザードは眉間に皺を寄せる。今の兄しか知らない彼にとっては父や子供時代の兄を想像することは難しかった。それを知っている精霊に対し、不意に嫉妬心が湧き起こった。
「猛獣と呼ぶほど乱暴でもないでしょう。第一、あの人は周囲に気を遣いすぎるくらいで傍若無人に振る舞う姿など思いつきもしませんよ」
『まぁ、今はな。それでも未だに人の話を聞かないところはある。特に私の話など半分も聞いているかどうか。先ほどの態度を見ただろう? 私と話をするときの口調ときたら喧嘩腰もいいところだ』
そうだったろうか。猫が喋りだしたことに気を取られ、兄の口調がどうであったかなど覚えていない。が、今はそんなことはどうでもいい。
「喧嘩するほど仲がいいと言いますよ。あなたを信頼しているからこそ、つっけんどんな口調になるのではありませんか?」
『いいや。話し方は初めて対面したときから変わらぬよ。外敵を警戒する小動物のように毛を逆立て、少し打ち解けたと思ったら、次の瞬間には爪を立ててくる。まったく手の掛かる奴だよ』
兄をそんな風に評することができるということ自体、お互いの関係の強さを示しているということが、この精霊には判らないのだろうか。いや、きっと判ってはいないのだろう。あるいは理解した上で発せられた言葉であるとしたら、それは他人が入り込む余地のない絆を象徴しているのだ。
これ以上、精霊の口から兄についての評価を聞きたくない。話せば話すほど、彼らの関係の深さを垣間見る結果になるのだから。
むっつりと黙り込んでしまったサキザードの足許で、子猫が首を傾げてその様子を見つめていた。金色の瞳にはその姿がどう映っているのか、深淵を覗き込むように静かな視線から精霊の内心を探ることは不可能だった。
『他に訊きたいことはあるかね? 両親のことや父親の故郷のことは?』
喉の奥で声が詰まったように引っかかる。上手く話すことができず、サキザードは大きく首を振って意志表示した。
『興味がない、と?』
「ち、がう! そうでは、なくて……」
兄に興味を覚えたからこそ精霊に過去のことを訊ねてみたが、より具体的に訊こうと思えば思うほど胃に鉛を呑み込んだような重苦しさを感じて気が滅入ってくる。これでは兄の口から語られる話に耳を傾けているほうが良かった。
『ジャムシードに遠慮しているのではないのか?』
「違います! そんなことではない。吾は……」
どう言ったら上手く伝わるのだろう。兄の言葉で語られる話なら素直に聞き入れることが出来るのに、親しい他人から聞かされる昔話には苛立ちが募るばかりで心に入ってはこなかった。
『では、私が今お前に語るべきことは何もないのだな?』
心臓に冷たい刃を押しつけられたような寒気に襲われる。確かに家族のことは兄の口からのほうがいい。だが、そうではない別の話は今ここで精霊に訊いておかねばならない気がした。これを逃したら機会はない、と。
だがしかし、何を訊けばいいのか判らなかった。どういう言葉を使えば、自分の心が望んでいる答えが返ってくるのか見当もつかない。
「吾は……自身が、何を望んでいるのか……判らない」
『過去の記憶がないのだ。直感的な望み以外を考えるのはつらかろう。ゆっくりと考えることだ。時間はまだあるだろうしな』
動揺が収まらない若者に背を向け、小さな黒猫はヒラリと窓枠に飛び上がった。薄曇りの景色を切り取る黒い影が印象的で、サキザードは内心の混乱も忘れて天鵞絨のように艶やかな毛並みに見入る。
「あなたは、何者なんですか? 吾たちの先祖に逢う前はどこにいたのです?」
子猫が肩越しに振り向き、金色の瞳を細めた。
『それはジャムシードと一緒に聞くべき話ではないかね?』
「兄と一緒に聞くのは先祖の話やあなたとの関係であって、あなた自身の過去の話ではないと思いましたが? それとも過去も何か関わっていると見ていいのですか? 吾や兄の先祖と逢う以前から何かあったのだと」
長い髭が数度蠢き、一度瞬きをしてから黒猫は窓の外へと向き直る。
『聡い子だ。賢さだけならジャムシードよりもお前のほうが賢いだろう』
「それは吾の言葉を肯定したと判断していいのですか?」
『そうだな。限りなく黒に近い灰色、と言ったところか』
やはり人間に精霊がついているという状況は普通ではなかったのだ。兄は疑問に思わなかったのだろうか。それとも疑問に思うよりも先に精霊が側にいるのが当たり前の状況に慣れきってしまったのか。
「兄には話をしていないのですか?」
『少しだけなら話をしてある。たぶんジャムシードは深く考えてはいないだろうが。あれは興味のないことへの関心が薄いからな。きっと聞いた話もあらかた忘れているだろうよ。……つれない奴だ』
ポツリと呟かれた最後の言葉がサキザードの胸を突く。
兄はこの精霊の存在を弟には伏せておきたがっていた。それが兄なりの気遣いであったのだろうが、サキザードには除け者扱いをされたように思えて切なかったのである。それはこの精霊にも言えることではなかろうか。
産まれる前から知っている兄にきつい口調で拒絶され、つらくはなかったのだろうか。人とは違う心を持っているかもしれないが、最後の呟きは複雑な想いを含んだ声音であったように思う。
「兄があなたに関心がないのなら吾と一緒にいますか? 少なくとも今の吾はあなたに興味はありますよ?」
再び子猫が肩越しに振り向いた。が、瞳に浮かんだ光は鈍く、こちらの提案に気乗りしていない気配が濃厚に伝わってくる。
『残念ながらそれはできない。私はジャムシードから解放されはしないのだよ。……彼が私を手放さない限りは、な』
兄は喜んで手放すだろう。精霊との関わりを疎んじている様子だったのだから。しかし精霊は解放された気配がない。ということは、兄は内心では精霊を手放す気がないということだろうか。
『ジャムシードは私を手放す方法を知らぬのだ。本来、その方法は最初の対面のときに語られるはずなのだが、今の私は彼にそれを語る術を封じられている』
だから、彼は私を手放したくても手放せないのだ、と囁く声には苦々しいものが混じっていた。それが自分を疎んじる兄への感情なのか、語る術を封じられていることへの苛立ちなのかは、今のサキザードには判らない。
「なぜ封じられているのですか? それに、なぜそれを吾に語るのです?」
そして、判らぬという状況を見過ごす気がない以上、彼は無知を理由に図々しく問うことを決めたのだった。
『私が語ることを禁じたのはリゲルドだ。あれは私の習性を利用して、一世一代の呪いを私にかけたのだ。ジャムシードに語られるべき言葉は消え失せ、未だに私は半端なままの状態であれの傍らにいる』
双方の呪いの間で身動きがとれぬ、と呟いた子猫が肩を落として窓の外へと向き直る。その背中を見ていると、兄との、いや代々の者らとのんびり過ごしてきたわけではないことを想像させるには充分であった。
兄の前では語れぬ言葉を弟の自分の前では吐き出せる。それが精霊の口をほんの少し饒舌にしているのだろうか。あるいは弟の口から兄へと伝わることを期待して、わざと漏らしているのか。
「その呪いを解くにはどうしたらいいのですか?」
猫がゆっくりと空の高みを仰ぎ見た。まるでそこに誰かがいるかのように。
『解放の呪文を唱えるのだよ。“汝、新たなる主を求めよ”とな』
だが今のジャムシードでは不可能だ、と囁いた精霊の声に絶望の色が見えたのは気のせいだろうか。サキザードは思わず子猫の傍らへと歩み寄った。
「吾が唱えても意味がないのですね? 兄が唱えることに意味がある、と」
『そうだ。我が核の主人たる存在が、我ら一族の言葉で詠唱して、ようやく解放される。だが、今のジャムシードでは一族の言語を発音はできぬ』
子猫が首を傾げる。解放されることを望んでいるのか、あるいは諦めているのか、どちらとも判断がつかない相手の様子に、サキザードは眉をひそめた。
「発音できない? 根本的に人間には無理だということですか?」
『そう、人には無理だ。が、ジャムシードには可能なのだ。たぶん、お前にも発音は可能だ。しかし発音できる舌を持っていても、言語を習得しなければ発音は無理だ。ジャムシードがその気にならねば、言葉を覚えることなど……』
「吾が覚えます。そうすれば彼はきっと気にかけるでしょう」
興味さえあれば兄なら言葉を覚えるはずだ。イコン族と酒を酌み交わしたとき、酔っぱらった彼らの言葉に同じように受け答えしていた。ポラスニアの言葉ではない言葉を操ったくらいだ。他言語を使うことに抵抗はあるまい。
『やめておけ。ジャムシードのことだ、お前に言葉を教えていると判ったらカンカンに怒って私をなじり倒すだろうよ。それを想像するだけでうんざりだ。これ以上、奴を刺激したくはないぞ』
「でも吾はあなたに興味があります。兄に反対されて交流を断たれるのは我慢できません。あの人が何を言おうが、吾は興味のあることをするだけです」
呆れた様子で子猫がこちらを見上げる。が、金色の瞳が面白げに光っているのをサキザードは見逃さなかった。
「あの人を説得します。吾が勝手にやるのだから問題はありませんよ」
『言い出したら引かぬところは兄弟そっくりだな。……いいだろう。どうせ知らねばならぬことだ。まとめて面倒を見てやろう』
「知らねばならぬこと? 吾もいつかは知ることになっていたのですか?」
金の眼が数度瞬き、静かに子猫の首が振られた。
『いいや。本来、お前は何も知ることなく穏やかな人生を過ごしたはず。我らの諍いに巻き込まれたという点では、お前は被害者なのだろうよ』
「諍い? それはあなたと兄の間で、ということですか?」
『違うな。我ら一族の間で、ということだ。だが、それに関してはジャムシードが帰ってきてからにしよう。これはお前だけに話していいことではない』
もどかしさが湧き起こったが、サキザードは素直に頷く。ここで我を通したところで結果が変わるとは思えなかった。引き際は見極めなければ。
「では、あなたたちの言葉を教えてください。あの人が戻ってくるまでには、まだ時間がかかるでしょうからね」
子猫が髭をひくつかせる。それが苦笑だと判る程度には、サキザードは相手と親しい関係を築けたと自負していた。
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