ヒィヒィと足許で泣き伏している子らを見おろし、アジェンティアはため息を飲み込んだ。まだ幼い二人を襲った災難は同情するに余りある。がしかし、そこに至るまでの過程には呆れ果てるほかなかった。
「ご、ごめんなさぁい。こんなことに、なるなんて思わなくて……」
しゃくり上げる少女の髪に指を絡め、それをゆるゆると梳く。指先からほどけるように流れ落ちる髪を見つめながら、彼女は静かに微笑んだ。
「大丈夫よ。長老はそう簡単に捕まったりはしないわ。今頃はバチンの結界から脱出して、悠々とこちらに向かって飛んでいる頃合いよ」
そんな馬鹿な、と言いたげに二対の恨めしげな瞳がこちらを見上げる。二つの視線に苦笑を返し、アジェンティアはむつきを抱く腕に力を込めた。
「彼は竜なのよ。どんな擬態をしていようと、竜の身を拘束するのは容易ではないわ。バチンがどれほど強固な結界を張ろうとも、所詮は付き巫女でしかないの」
「神魔以外、真に竜を従えるは不可能?」
泣きじゃくる少女の傍らで涙を流していた少年が口を引き結ぶ。決意を噛み締めている表情に、アジェンティアは口許を綻ばせた。
「そうとも言えるし、そうではないとも言えるわ。現にわたしは神魔ではないけど、長老を我が竜と呼べる立場にいるもの。竜の主人になるには竜自身の承認がいるのよ。強制しようとしても拒絶されて終わりだわ」
「何が、出来る?」
自分たちに出来る償いをしようというのだろう。だが、彼らに出来ることは、いや出来たとしても、この件について関わって欲しくなかった。
「あなたたちに出来ることはほとんど何もないわね。唯一のことは、あなたも判っていると思うけど……繭の中に戻ることくらいかしら」
「否。何か手伝う。我は、繭には戻らない!」
いい度胸だ。己の不始末を償おうというのだろう。その心がけは立派なものだ。が、今の状況下ではそれは自殺行為でしかなかった。
「手伝う? 長老はバチンよりも巧みに魔力を御すけど、あなたたち二人はどうなのかしら? 強大すぎる魔力を御して、魔術に転換できて? それが無理なら手伝いはけっこうよ。あなたたちを死なせるわけにはいかないの」
長老と同等かそれ以上に魔力を御せる者など存在するはずがない。判っていて質問したことだ。案の定、少年は気難しい顔をして黙り込んだ。
「あなたたちは我が一族の最後の世代。あなたたちに何かあれば古い世代の者たちはどれほど落胆することか。お願いだから古老たちの希望を潰さないでやってちょうだい。……判ってくれる?」
口許を頑固に引き結んでいる少年の顔を見つめ、アジェンティアは声にならない苦笑を顔に刻む。どうやら別の説得法が必要なようだ。
「ねぇ、あなたたち。長老を助ける手伝いはしてもらえないけど、別の大切な用事をお願いしてもいいかしら。これをやり遂げてくれたなら、きっと長老も喜ぶと思うのだけど。引き受けてくれる?」
少年の眉間に皺が寄り、彼はまだ鼻をすすり上げている片割れの顔を覗き込む。自分ひとりで決めていいものか迷っているらしい。
先ほどまでは大泣きしていた少女もひとしきり泣いて落ち着いたようだった。少年の意図を察し、小さく頷いた。
「用事の内容次第では引き受ける」
「そう。ありがとう。では、この子を受け取ってくれるかしら」
アジェンティアは腕に抱いていたむつきを少女に手渡し、二人の目の前に座り込む。彼らの目線の高さで顔を合わせ、むつきの中を見るよう促した。
たぶん逢ったときから気になってはいたのだろう。アジェンティアに子どもはいないはずなのに、なぜ彼女は赤子と思われるものを抱いているのかと。
恐る恐るだが好奇心に瞳を輝かせ、少女がむつきの布をそっと剥がした。どんな可愛らしい幼子が顔を覗かせるのかと、彼女は期待に胸を膨らませていたに違いない。だから、次の瞬間に上がった悲鳴は傍らに立つ少年を驚かせた。
「な、なんなの!? これ、何!?」
わなわなと震える腕の中でむつきはピクリとも動かない。少年は慌てて少女の腕からむつきをひったくり、乱暴に布地を引き剥がした。
悲鳴こそ上げなかったが、彼はむつきの中身を確認した瞬間には息を飲み、凍りついた表情で目の前の物体を凝視する。
「それが、誰だか判るかしら?」
ひっそりとしたアジェンティアの声がかかるまで、二人はむつきを凝視したまま動けなかった。声を絞り出そうと唇は開閉するのだが、まともな音となって言葉が出ることはなく、呻き声のようなものが漏れるばかりである。
アジェンティアは少年の腕からむつきを取り上げ、愛おしげに頬ずりした。
「一族の者の中には、この子を“肉だんご”と呼んで蔑む者もいるわ。だけど、誰一人としてこの子に守られていない者はいないの。一族の繭の結界となる膜を構築して、あらゆる外敵から守ってくれているのは、この子に他ならないというのにね。この姿を見ただけで顔を背けてしまうのよ」
ぎこちなく首を巡らせ、アジェンティアとその腕の中にあるものを見つめ続けていた少年が振り絞るようにして、ようやく言葉を発した。
「白き狩人? リド・リトーの白き竜……」
「そうよ。この子がファレス、我が一族の裁き司にして結界の守護者。そして、わたしや長老の贖罪の対象者。この子をこんな身体にしてしまったのは、間違いなくわたしたちの罪だわ」
贖罪と聞いた途端に少女がブルリと身体を震わせる。一族の者なら物心つく頃にはファレスの存在を教えられるものだ。以前は敬意と畏怖を抱く対象だったその存在が、今ではそこに嫌悪と侮蔑がこめられるようになっていた。
完全体を目指す一族の者にとっては、自分たちを守る者が奇形種である現実は違和感を感じざるを得ないのだろう。
ファレスを一度も見ずに“肉だんご”と蔑む者には、この外見は衝撃的に違いない。現に目の前の二人は動揺を隠しきれずにいた。
「核を持つ竜は膜卵の段階で周囲の意識を取り込み、その望みに近い姿で産まれてくることは知っているでしょう? その膜卵の状態で、この子の自働意識が確認されなかったの。だから、わたしたちはこの子が生きているとは考えなかったわ。核を培養する肉の器になってしまったと思い込んだの」
腕の中の小さな存在は先ほどから身じろぎひとつしない。それがあまりにも切なく、アジェンティアは話をしながら眼許を潤ませた。
「実際には自働意識は無意識下の奥底で働いていたのよ。リド・リトーだけが意識は生きていると信じて、毎日のように様子を見に来てこの子に語りかけていったの。周囲の大人が落胆する傍らで、彼だけは諦めなかったわ」
アジェンティアはいつしか胡座を組み、その中心にむつきを据えると、意を決し、穏やかな手つきで布地を取り去っていく。隙間から覗いた白い肌に少女が怯えたように後ずさった。少年は辛うじて踏みとどまっていたが、その顔色は真っ青で、出来れば視線を反らしたいと考えている様子が見て取れた。
「この子には罪など何ひとつないのに、大人はこの子を避け続ける……」
むつきの中から現れたのは、白く滑らかな卵。ただその卵は固い殻ではなく、皮膚のように弾力のある肉膜の殻で覆われていた。奥に何か詰まっているのは判るが、透けて見えるわけではないのでただの肉の卵にしか見えない。
「きれいでしょう? 竜の鱗ひとつ生まれていない肌だというのに、この子は誰よりもきれいだわ。温かくて、静謐で、そして強大な魔力の波動を振りまきながら、今この瞬間も生きているのよ」
「でも、意識は感じない」
ポツリと少年が呟いた。その声があまりにも物憂げに聞こえ、アジェンティアは少年の顔をまじまじと見上げた。
「あなたは他人の意識の波動を読むことができるのね。そうよ、今この器に意識はないわ。以前にバチンが皮膚膜を切り裂いて核を回収しようとしてね、リド・リトーが取り出された核を横から奪い去っていったの」
バチンの乱暴さを耳にした少女が顔をしかめる。それを視界の隅に収めながら、アジェンティアは話し続けた。
「そのとき核に意識を絡みつかせていたこの子は器から離れ、核が器に戻された今も意識体だけになって存在しているわ。少し前までは長老の幻体を依り代に、今は契約主である核の主人の器を依り代にしているはずよ」
コクリと首を傾げ、少年が気難しげな顔で肉の卵を覗き込む。
「なぜ、戻らない? 意識だけの存在は負担が大きい」
「外の世界を見てしまったからでしょうね。核と一緒にこの器に戻れば、行動を制限されてしまうわ。どうやっても自力で動ける身体ではないもの。魔力の基点は器に残し、意識は外を自由に動き回っている。そうやって、この子は世界を学び、力の御し方を覚えていったのよ」
その傍らには常にリド・リトーがいた。大人の欲やしがらみなど一切意に介さない、気まぐれな核の主人が。契約という形を取りつつ、この子の存在を許す世界はどれほど居心地が良かったことだろう。
「アジェンティア。用事とこの者とどんな関係が?」
「そう、それを今話しておかなくては。あのね、この子を繭の中に連れていって。それだけじゃないわ。大人たちはこの子に危害を加えようとするかもしれないから、それらからこの子を守って欲しいの」
出来るかしら、と問えば、少年が途方に暮れた様子で少女を振り返った。
視線だけで問われた少女のほうも戸惑いが消えない。噂でしか知らない存在をいきなり突きつけられ、守れと言われたのだ。今までに守る立場に立ったことがない二人にとっては困惑以外の何ものでもない依頼に違いない。
二人は互いに見つめあったまま無言の会話をしているようだった。
不意に少年の強張っていた肩から力が抜ける。ぎこちなく振り返った彼の瞳にはまだ戸惑いが消えていなかった。が、複雑な表情ながら少女との話し合いで結論を出したらしき気配は伝わってきていた。
「ファレスを守るためには繭では無理。どうしても、というのなら別の場所で」
確かに古い世代の者がいる繭にファレスを連れて行けば、不快感を露わにされるだろう。歪な肉体など一族に相応しくないと思っている者は多かった。
「繭を維持している本人を害したら繭が維持できないわ。彼らは判っているからファレスを攻撃などできないのよ。だからあなたたちがファレスを守るのは容易いと思うのだけど? 他に何か問題でも?」
一族の者らは繭から出る気はない。今のこの世界は彼らには厳しい環境なのだ。繭が必要である限り、ファレスは無事である。
「だが……。ファレスを引き取ってきた我らが無事では済まない」
なるほど。少年もファレスを繭に収めてしまえば繭の安定度が上がることを薄々感じ取っているらしい。が、その肝心のファレスを連れていくのが問題なのだ。一族に不快感を与える者を連れてきたとなれば、当然彼ら二人に対する風当たりは強くなるだろう。場合によっては繭から放り出されてしまう。
繭から出て自由に動き回れるのは嬉しいが、それはあくまでも繭という安全圏が確保されているから出来ることだ。なんの守りもないまま外界で生きていくには一族の者は安穏と時を過ごしすぎたのである。
「そう、心配は判るわ。でも大丈夫よ。あなたたちに危害を加えさせはしない」
とりあえず、二人はファレスを受け取ることには了承を示していた。初めは薄気味悪いと思っただろうに、どんな心境の変化があったものか。
「ファレスの膜卵は核が一度抜き取られて以来、成長を止めてしまっているわ。だけど問題を解決さえすれば膜卵は成長を始め、無事に産まれてくるはずよ。そのために側で励ましてくれる存在がいるの」
その役割を二人に担って欲しいと頼むと、好奇心に駆られた少女が少年を押しのけ、アジェンティアの腕に抱かれた肉の卵に見入った。
「もう一度、産まれてくるの?」
「えぇ。その可能性は高いわ。魔力の波動によって本体と意志体が繋がっているのだから、双方が影響を与え続けていると思うの。意志体のほうに成長が見られるのなら、本体のほうでも何らかのきっかけで成長が見られてもおかしくはないと思わない? だから、成長を促すものが必要なのよ」
不思議そうに首を傾げた少女からは好奇心以上に柔らかな気配が感じられる。見た目は不気味な肉の塊であったとしても、そこに命が存在していると本能的に理解した途端、彼女にも母性が目覚めたのかも知れない。
「我らに可能なら、アジェンティアにもできるのでは?」
「いいえ。わたしの声をこの子は覚えているわ。ひとつの命としてではなく、核を培養する器として扱ったわたしの声を。もちろん長老やバチンの声もね」
そんな存在に励まされたとて成長しようという糧にはならないでしょ、と淋しげに笑うと、少女が困った表情で口を尖らせた。
「アジェンティアがいたから、繭の基礎を作ることができたのでしょ? 一族を守ろうと必死になっていて、少し周囲への注意を怠っていただけなんじゃないの? だからきっと、ファレスだってあなたがわざと物扱いをしたわけじゃないって判ってると思うよ」
「我も、そう思う」
少女に同意する少年はまだ膜卵に対する戸惑いが消えていないらしい。アジェンティアを見つめはするが、その腕に抱かれる存在を視界に入れないようにしていた。が、少女の意志を尊重する気はあるらしかった。
「この子の唯一だったリド・リトーはわたしたちとの接触を嫌っていたの。だからファレスが本心ではどう思っているのか判らないわ。今となっては歪みが大きくなりすぎて、何から手を付けたらいいか迷ってしまう有様でね。……だから、第三者のあなたたちに頼みたいの」
少女がそっと腕を伸ばし、柔らかな膜に覆われた卵を撫でた。伝わってきた温かな感触に口許が綻ぶ様子をアジェンティアはじっと見守る。
「あったかい……。生きてるんだね。身動きとれなくても」
「そうよ。身体は動かなくても、この子は生きてるわ」
少女が傍らの少年を振り仰ぎ、問いかけるように首を傾げた。未だに戸惑いから抜け出してはいないが、少年はしっかりと頷き返す。
「この子と一緒にいるわ。大人たちはいい顔をしないと思うし、まだちょっと怖いけど。その……だって、膜卵なんて見るの、初めてだし」
健気にこちらを見つめる少女の瞳にはまだ不安が拭い切れてはいなかった。それでも不安の中に確かな決意が見て取れる。
「この子の、ファレスの側にいてくれるの? 気味が悪いと思ってるのに?」
「うん。だって、長老は喜ぶんでしょ? 助けてもらった恩は返さなきゃ」
「我も、手伝う」
「長老が喜ぶから手伝ってくれるの?」
「そうよ。長老は一番古い竜で、とっても賢いのでしょ? そんな偉い竜が大切にしてるのなら、ファレスはもっと大切にされてもいいと思うの」
「長老は我らにも優しい。ファレスにも、だろう? ならば、我らは同等」
子どもに理屈など訴えても仕方がないということだろうか。が、ファレスを対等に扱ってくれる気でいるのはありがたかった。
本来のファレスの性格を知れば彼らはもっと大切に扱ってくれるだろうが、よく知りもしない者にそれを訴えたところで時間の無駄だ。
ともかく、今はこのきっかけを利用して一族の者にファレスという存在を再認識させ、なおかつ近しく感じてもらうのだ。
たとえ外見は“肉だんご”であろうと、放出される魔力の波動を感じ取れる者からしたら、これほど深く、そして淋しげな波動を持つ存在を無視はし難かろう。少しずつでいい。ファレスを受け入れてもらわなければ。
「では、この子をお願いするわ。バチンに見つかる前に繭に戻してあげるから、この子をしっかりと抱いていてあげてね」
何度も頷く少女がしっかりとむつきに包まれた膜卵を抱きしめた。それに寄り添う少年が緊張した面持ちでアジェンティアを見上げる。
「これから、どうする?」
誰が、とは少年は問いかけなかった。だが、アジェンティアにはそれが自分への問いだと認識できた。ファレスを手放した後、彼女はどう行動する気なのか、と少年は問うているのである。厄介払いしたのでなければ、他にファレスの本体を手放した理由があるのだろう、と。
意外と鋭い。とアジェンティアは苦笑した。そして、小さく肩をすくめながら、彼女は飄々とした態度で答える。
「以前にやり残したことをすべて終わらせるのよ。後始末はしておかないとね」
「やり残したこと? なに?」
なおも問いを続ける少年に微笑みかけ、アジェンティアはあなたたちが産まれる前のことよ、と応じた。その言葉で彼らが何かを感づくかもしれない。がしかし、下手な誤魔化しをするよりましだった。
「我らには関係のないことか?」
更に食い下がってくる少年のしつこさに戸惑う。感づかれたのだろうか、とも疑ったが、少年の真剣な瞳の奥から内心を読み取ることはできなかった。
「あなたたちに直接関係はないわね。でも、あなたたちを含めて一族全員に無関係だとは言えないことよ。ただね、やり残したことの大部分はわたし自身のことであって、繭で眠る者たちに関係する部分は少ないわ」
それでようやく好奇心が収まったか、少年は生真面目に頷き、引き下がった。
「さ、質問がそれだけなら早速あなたたちとファレスを繭に送ってあげましょうね。大丈夫よ。乱暴に飛ばしたりしないから」
少女が不安げに眉を寄せたのをアジェンティアは見逃さない。少女は高速移動でもさせられると思ったに違いない。だが卵を抱く少女をアジェンティアがそんな負荷のかかる移動手段で動かすはずがなかった。
「特別に道を造ってあげる。だから安心してちょうだい」
少女を守るようにして寄り添っていた少年の唇から安堵の吐息が漏れる。彼にとっても高速移動は負担が大きかろう。彼らが結界内に移動するためだけの道が造られるのならば、それは居心地のよい移動となるはずだ。
両腕でしっかりとむつきを抱きしめる少女にピッタリと寄り添い、少年が緊張の面持ちで頷く。いつでも準備は出来ている、ということか。
アジェンティアは両手をヒラヒラと舞い踊らせ、高速呪文を詠唱し始めた。
長い呪文を使って発動させる魔導術を効率的に発動させるために編み出された高速呪文は、人が聞いても金属音が鳴り響いているようにしか聞こえない。つまり人間の耳では聞き取れない言語を使っているのだ。
高低の音律を繰り返し、ようやく練り上げた魔力を術の型へとはめ込み終わると、少年と少女の形がグニャリと歪んだ。こうやって魔術の壁に守られ、繭への道を移動していくのである。
さざ波立つ水面に溶け込む残像のように二人の姿が消え失せた。見送り、彼らの気配が消えたのを確かめた後、アジェンティアはホッと肩の力を抜く。
「これでアインのことはしばらく大丈夫ね。残りの問題もこの調子で解決できればいいのだけど。場合によっては手間取ることも考えなければ」
ふと彼女は虚空を見上げた。風もないのにアジェンティアの白銀の髪がさわさわと周囲に流れる。彼女の視線の先には薄曇りの空に似た曖昧な蒼が広がる。次いで足許を見た。雲のように不確かな濁った白が延々と続く。
「わたしとアインを餌にバチンをおびき寄せようと思ったけど、決着のつかない遊戯が続いたのでは永遠に終わらないものね」
以前におびき寄せたバチンの幻体と盤上で勝負を試みたが、何度互いで賽子を振っても引き分けに終わったことがあった。あれで二人とも盤上での戦いでは勝敗はつかないと悟ったのである。
となれば、これからは別の方法で決着をつけるしかなかった。それも騙し合いに近い戦いが待っている可能性が高い。
顔をしかめて俯いていたアジェンティアだったが、一度鋭く息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。決然とした表情には何を秘めているのか。
「やるしかないわ。緩慢な滅びの道を歩む一族だけど、希望が消えたわけではないもの。バチンのように後戻りをさせる方法を取るわけにはいかないわ」
両手をゆっくりと持ち上げ、高々と頭上に掲げると、彼女は甲高い声で歌い始めた。何を歌っているのかは人間の耳では判るまい。先ほど唱えた高速呪文と同じ言語を用いた歌は、金属音が鳴り響いているようにしか聞こえなかった。
見えぬ渦が彼女を中心に広がり、空間を揺るがすように震え出す。空気が軋み、獣が苦痛にのたうつように暴れ出した。
『我が戦旗よ! この手に還ってくるがいい!』
人の耳で聞き取れる音が発せられる。それを待ちかねていたかのように渦が収縮し、アジェンティアの手の中へと凝縮されていった。
二人の子どもらは気づかなかったが、以前までの彼女なら錫杖か剣を必ず携えていた。が、今の彼女の両手は空っぽである。
極限まで縮まった渦を彼女が掴み取った瞬間、凄まじい轟音と共に彼女は白い光に呑み込まれた。落雷にも似た轟きが徐々に落ち着いてきた頃、同じように引いていく光の中心に佇む人影が現れた。
涼やかな銀環のさえずりが轟音の残滓を駆逐する。鎮まった光の余韻から現れた者は、青銀の髪をなびかせ、錫杖を掲げたまま、微笑みを浮かべていた。
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