混沌と黎明の横顔

第20章:風杖をふるう者 1

 混乱している王宮内で、彼は茫洋と周囲を見回した。王宮の廊下に立ち尽くすその姿は、ともすると幽鬼と間違われそうなほどしょぼくれている。灰色の髪も青ざめた肌の色も、病人か亡霊にしか見えないのだ。
 洒落者が着込めば颯爽とした爽やかさがある銀鼠色の文官服も、彼が着込んでいたのでは哀れな物乞いのようにしか見えないのだからいただけない。この官吏服の衣装を考えた者が見たら虚しさに号泣しそうだ。
「はぁ……。朝から皆さん気忙しそうですねぇ。これは人を捜すには不向きなようです。どうしたものでしょうぅ〜……」
 一言一言が気が抜けたようなしゃべり方も情けなさを増長している。他人から見たならば、こんな有様で官吏としてやっていけるのかと危ぶまれるような姿だった。とうの本人だけがまったく気にしていないようだが。
「たまに史編編纂室から出てくると、世間のめまぐるしさに息が苦しくなりますねぇ。皆、いったいいつ食事を摂っているのでしょうか?」
 朝から慌ただしい様子だとは思っていたが、何やら今日の気配はいつも以上にひどい。廊下を小走りに進む書記官の顔は引きつり気味だし、行き交う女官たちも無駄口を叩く者など誰一人いなかった。
 いつも以上に殺伐としている王宮の廊下に佇む彼一人が暢気である。宮廷で何事か起こったようだが、それを周囲の者に問い質す力が彼にはなかった。
「これは相当なことが起こったと見ましたがぁ……。誰に尋ねたらいいでしょうねぇ。今日は室長の姿も見当たらないしぃ」
 さてさて、どうしたものだろう。史編編纂室の資料になりそうな事件でも起こっているのであれば、是非ともその詳細を知らねばならないのだが。それともただ単に大がかりな宮廷行事があるだけなのだろうか。
 国王が亡くなり、王城の主がないまま宮殿全体が翳りに覆われているとは聞いていたが、今朝の具合を見る限りでは翳りというよりは殺気のほうが目立っている気がした。世間に疎い彼でも何かあると気づくほどである。
「やっぱり調べておいたほうがいいですよねぇ。何もしないままだと室長の大目玉を喰らいそうですしぃ。……さぁて、誰かいませんかねぇ?」
 そう首を傾げる彼の視線の先で、見知った顔が通り過ぎていった。普段から交流があるわけではないが、亡き国王の趣味を通じて面識がある。かの人物であれば王宮各所の情報に精通しているはずだ。
「あの人と私が知り合いだなんて、誰も知らないでしょうねぇ。国王陛下の趣味も知っている者はほとんどいないでしょうしぃ」
 寂しげにため息をつき、彼は見知った人物を追いかける。足早に進んでいく相手を追いかけるのは大変であるが、今は自らの仕事への義務感から足が動いた。いや、たぶん好奇心のほうが上回ってはいるだろうが。
「まぁ、陛下のあの厳めしいお顔で叙情詩を読むのがお好きだと言われても納得できかねるでしょうから、知らぬままのほうが陛下の威厳を損なわないでしょうぅ。表向きは叙事詩がお好きだということになってますしねぇ」
 その表向きの趣味である叙事詩を集めて回るのが彼の仕事の一つだった。公に調べ回っても誰も何も言わない。何せ彼は史編編纂室の一員なのだ。しかも風変わりなこの官吏が妙なことをしていても誰もなんとも思わない。
 逆に叙情詩のほうを集めているのが、彼が追う人物のほうだ。あちらも自分の仕事の一環として叙情詩を収集していると公言していたはず。そして、それを不審に思われないだけの地位を宮廷で得ている人物だった。
 不意に目の前を歩く人物が廊下の角を曲がった。あそこは王宮の一画でも人通りが少ない区画、人員削減された使用人が住まう区画へ通じる通路である。宮廷でも名の通った人物がいったいどんな用事があるのだろう。
 首を傾げた彼だったが、ふと思いついたことがあり、周囲を見回して人通りが途絶えていることを確認すると、素早く件の曲がり角を曲がって息を潜めた。
 先に曲がっていったはずの人物の姿が見えない。廊下の両脇に並ぶ質素な扉のどれかをくぐり抜けたに違いない。
 使われてこそいないが定期的に清掃されている廊下には塵ひとつ落ちていないので、相手の足跡を辿ることは不可能だった。どこだろうか、と呟きながら彼は手前の扉からひとつずつ開き、室内を確認していく。
 どの部屋もガランとした空き部屋で、以前そこが物入れだったのか、あるいは身分が低い使用人が暮らしていたのかを瞬時に判断することはできなかった。
 まだまだ廊下は先まで続いているが、お互いが角を曲がった時間差から考えてもそれほど離れた部屋にはいないはず。そう踏んでいた彼だったが、目の前に鋭い刃が突きつけられたときにはさすがに肝が冷えた。
「あんただったのか。鼻息荒く追いかけてくる奴がいるから、脂ぎったオヤジが物欲しげに追いかけてきてるのかと思ったじゃないかよ」
「ハ、ハハハ……。ちょっと、この刃物を退けてくださいませんかぁ、イルーシェン殿。なんか殺気が目一杯こめられていて落ち着かないんですが?」
 青白い顔を蝋よりも濁らせ、彼は相手の薄緑色をした瞳に懇願した。
「必死に追いかけてきてた用事は何かな? 事と次第によっちゃあ、この刃を横に滑らせることになるけど?」
 そんなことをしたら首筋から血飛沫を噴き出して絶命してしまうではないか。やらねばならない仕事が山積みの今、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。いや、やらねばというよりやりたい仕事なのだが。
「そ、それはですねぇ。今日の王宮内の様子が尋常ではないので、誰かに状況を教えて欲しいと思って……。私、ここ一ヶ月ほど編纂室に籠もってまして、世情にすっかり疎くなってしまいましてぇ」
「あんたはいつだって世情に疎いじゃないか、ヴィローイ。もう少し世間と関わらないと、そのうちに政争に巻き込まれて首を切られるぞ」
 今はあなたに首を切られそうですけどね、とは口が裂けても言えなかった。軽口を叩いてこそいるが、イルーシェンの眼は笑っていない。背後から追いかけたのが気に入らないようだ。よほど日常的に襲われているのかもしれない。でなければ、こうも用意周到に切っ先を喉元に突きつけられるだろうか?
「私はただの史編編纂室室員ですよぅ。政争とどう関わるっていうんですぁあ」
「元老院の貴族は言うに及ばず、薄給の木っ端役人だろうが、着飾ることに忙しい女官だろうが、厨房の見習い料理人だろうが、王宮や王城に関わる仕事に就いている者は誰かれかまわず政治に利用される可能性があるのさ」
 イルーシェンはゆっくりとした動作で離れていった。用心深いその動きに気圧され、彼はよろけた拍子に背中を壁にぶつけた。
「まして、ヴィローイ。あんたは王国の歴史に関わる資料を扱う部署の人間だ。どんな王朝にも後ろ暗いことの一つや二つはあるものさ。その探られたくない部類の資料の在処を知る役人を、自分の利益のために利用したいと思う輩がいるかもしれないじゃないか。用心するに越したことはないね」
「そういうものですかぁ? 私にはあり得ない気がするんですが……」
「あり得るさ。料理人なら狙った相手に毒を仕込ませることができるし、女官なら相手を誘惑させて人知れず連れ去ることもできる。あんたが扱う資料を使って、誰かの弱みを握ろうと考える奴だって出てくるかもしれないだろ」
 そういうものなのか。ヴィローイは途方に暮れた顔で相手を見つめた。
 完璧な調和を保つイルーシェンの風貌は、見る者の心をざわめかせるに充分である。眩い金髪と白い肌という取り合わせから、目の前の人物は神々から愛される神話の傀儡くぐつを連想させ、薄緑色の瞳に凝視されては居たたまれない思いをする輩が出てきても不思議ではなかった。
「何をジロジロ見てるんだよ。まさか、あんたも変な気を起こしたんじゃ……」
「あー、いえいえ。あなたは私などが触れてはいけないくらい美しいので、つい見惚れてしまったのですぅ。王家の皆さまも美麗な方々ですが、あなたは神がかった美しさで目がつぶれてしまいそうですよぉ」
 おだてているわけでも、卑屈になっているわけでもないのだが、彼の口からこぼれた言葉にイルーシェンの片眉がつり上がった。綺麗な弧を描いた眉が歪む様すら高名な絵師による絵画の一部のようだった。
「なに? あんたってそっちの気があるわけ?」
「そっちの気ってなんですかぁ?」
 ポヤァンと気の抜けた顔で首を傾げたヴィローイをイルーシェンは胡乱げに睨む。が、すぐにため息をつくと肩をすくめた。
「あんたに男色のなんたるかを説く日がこようとはね。こんなシモネタを真面目に話すなんて阿呆らしくてやってられないよ」
「あー、そっちの気ってそういう意味なんですかぁ。勉強になりましたぁ」
 よく理解したと言わんばかりにコクコクと首を縦に振れば、呆れ果てた様子のイルーシェンがため息混じりに首を横に振っている姿が目に入った。
「あんた、ほんっとぉーに極楽とんぼだな。もういい加減こっちも疲れたよ」
「はぁ、恐縮ですぅ。室長にも救いようがないといつも言われてましてぇ……」
「もういいって。あんたの天然ボケぶりを忘れてたこっちが悪いんだからさ。それで、あんたのさっきの質問。今日の王宮の様子についてだっけ? どこまで知りたいのさ? 包み隠さず全部? それとも上っ面の概要だけ?」
 全部と言えば本当に全部教えてくれるのだろうか。いや、そもそもイルーシェンは今の状況をすべて把握しきれているのか? 全部と言いつつ、それは彼自身が知っている範囲だけではないのだろうか。
 首を傾げながら天井を振り仰ぎ、ヴィローイが唸る。彼としては真剣に悩んでいるのだが、目の前の人物は何が面白いのか、腹を抱えて笑い出した。
「あんた、なんでそんなに悩むわけ? 普通は相手の知ってること全部知りたがるもんだろうに。不器用だなぁ。もう少し要領よく生きれば?」
「はぁ……。それでは、あなたが知っていることを、包み隠さず全部、教えてもらえますかぁ? この騒ぎの全容が明らかになるとは思っていませんがぁ、その一部なりとも知ることができれば幸いですのでぇ」
 ヴィローイが半病人の顔を社交辞令的に綻ばせるのとは逆に、イルーシェンは呆れたような怒っているような奇妙なしかめっ面を露わにする。
「何気なく嫌味を言うのかよ。僕がこの事件の全容を知らないこと前提か。ま、確かに全部は把握してないけど。それでもなんか癪に障るな」
「すみません、あなたをバカにしてるとかではないんですぅ。ただねぇ、人間は自分が思っている以上に何も知らないものです。こういう考え方は私の癖だと思って聞き流してくださいぃ」
「史編編纂室にいるあんたが言うと、なんか説得力があるのが腹立たしいよな。今にも死にそうなひどい顔してるくせに、ときどきポッと口にしたことに妙に含蓄があるんだからさぁ。あんた、実は猫被ってるんじゃないの?」
「私の知識や経験なんてたかが知れてますぅ。歴史から学ぶことは多いですけどぉ、地に足を着けて生きているあなたのほうが、遙かに多くのことをご存じですよぉ。それでも神々の英知には及ばないのだと言いたかっただけでぇ」
 ヴィローイは目の前で両掌を振り、同じように首を激しく振った。あまり振りすぎて、一瞬貧血を起こしたように目の前が暗くなったほどである。
「あー……、判った判った。あんた、ぶっ倒れそうな顔しながら説教するなよ。今ここであんたが倒れても僕は何もしてやれないからな」
「は、はいぃ……。すみません、さすがに一ヶ月の大半を編纂室に籠もっていると、体力が減退しているのを感じますぅ。ご迷惑をおかけしないよう気をつけますから、お話を続けてくださいぃ」
 ヘニャリと床に座り込み、背もたれ代わりに壁に寄りかかると、ヴィローイは盛大な吐息をつく。そういえば、この一ヶ月は食事も適当だった。体力が落ちていて当然か。自業自得というものだ。彼は目の前の人物に愛想笑いを向けながら、自身の怠慢を自嘲した。
「陛下直々の仕事がなくなって淋しいですぅ。あなたはどうですかぁ。以前と同じように仕事が出来ていますかぁ?」
「相も変わらず忙しく過ごしてるさ。僕の才能は引く手あまただからな。ただ、地位が上がれば周りも騒がしくなるね。王妃陛下に取り立てられてるのが気に入らない連中があちこちで難癖つけてきて鬱陶しいよ」
 確かにイルーシェンは以前と変わらない多忙の日々を過ごしているらしい。
 だが王国の主である国王が崩御した今、宮廷は浮き足立っていると言ってもよかった。王太子サルシャ・ヤウンが次期国王だと噂されてはいても、確実に王位に就かないことには騒ぎは収まるまい。
 ところで、国王とはよそよそしい夫婦関係を築いていた王妃にイルーシェンが取り立てられるとは意外だった。夫が贔屓にする奏士などに王妃は見向きもしないかと思っていたのだが。
「あなたは要領よく生きていらっしゃるようですねぇ。私には周囲に気を遣う生活なんて想像もつかないですよ。もう、自分のことで手一杯でして……」
「だろうね。あんた、自分の体調も管理できないみたいだし。そんな有様じゃ、王宮では生き残れないんじゃないの? 現に今、宮廷はかなり混乱してるんだぜ。今日の騒ぎだって水姫家の姫君がさらわれたってもっぱらの噂でさ」
 ヴィローイは壁に寄りかかったまま、イルーシェンの美麗な顔を見上げた。
「あのぉ、水姫公に子どもさんはいなかったと思うんですが、その姫君は水姫家の遠縁にあたる方なのでしょうか?」
「その部分が謎のままなのさ。血縁者なのか、どこの馬の骨とも知れない娘なのか、さっぱり伝わってきていない。さらに水姫公のごり押しで、その姫君が王太子殿下の花嫁候補に上げられているとなれば、今回の拉致には何かあるんじゃないかと憶測を呼んでるよ。元老院のジジイどもが王太子殿下の下に呼びつけられてるところをみると、今から彼らは締め上げられるんじゃないかねぇ」
 鎧戸が閉められたままの室内は薄暗いが、仄かに感じる午前の光がイルーシェンの薄緑色の瞳を輝かせる。殺気立っていた先ほどとは反対に無邪気さすら感じる青年の表情に、ヴィローイは首を傾げた。
「姫君がさらわれたのは元老院の仕業だと決まったわけではないでしょうに。殿下は随分と性急な真似をなさるのですねぇ」
「何か証拠を掴んでいらっしゃるのかもな。その辺りは詳しく知らないから。だけど、元老院のジジイどもも黙ってないだろ。何か良からぬ企みを進行中らしいって噂が聞こえてきてるよ。王族も貴族も必死ってことだな」
 どこか楽しげにこちらの問いに答えるイルーシェンの態度にヴィローイは呆れ半分、感嘆半分に吐息をついた。よくもまぁ、貴族のやり合いを楽しげに語れるものである。場合によっては今の地位を失うかもしれないのに。
 イルーシェン自身が前任者を蹴落として筆頭楽奏士の地位に就いているのだ。立場が逆になる可能性だとて視野に入っていようものを。それを平然としていられる度胸は大したものだ。よほど才能に自信があるのだろう。
「大貴族のお歴々がどういう行動を取るのか、あなたには判っているのですか、イルーシェン殿? それもあなたのツテ筋からの情報ですか?」
 小気味良い勢いで美眉の片方がつり上がるのをヴィローイは凝視した。
「なに? 僕の情報網を当て込んでるワケ?」
「いいえぇ、そうじゃないんですよぉ。知りすぎた人間というのは疎まれるものなんです。だから、あなたが少々情報通なのが心配になりましたぁ。余計なお世話ですけど、半端なのが一番よくないんですぅ」
「僕の情報が半端だっての? あんたにそれが判るのかよ」
 険のある声にヴィローイは口許を歪める。またやってしまった。一言多いのが問題だと室長にも言われていたのに。本当に余計なお世話だ。
「歴史って繰り返すんですよぉ。人間は以前にあったことから学んでいるようでいて、実は忘れて同じことを繰り返しているんですねぇ。その過去の出来事から推察するに、歴代の楽奏士が権力者の庇護の下で地位を確立している場合、その最期はけっこう悲惨なものが多いんですよ。あなたの今の状況もよく似ています。だから、私はあなたのそんな末路は見たくないんですぅ」
「僕から情報を引き出そうとした奴が言う科白かよ。何も知らないままじゃ、この王宮内では生き残っていけないのさ。そんなことくらい、あんたにだって判ってることだろ? ぼんやりしてるようでいて、あんたは鋭いところもあるからな。でなけりゃ、いつまでも史編編纂室にいられるはずがない」
 イルーシェンの言うことは、ある意味で是であり、ある意味では否である。
 ヴィローイは国史や諸外国史に関する知識欲が高かった。だからこそ史編編纂室に配属されているのである。が、目の前の若者のように情報通ではなかった。それ故に王宮内では取り残されがちである。
 一分野に突出した能力ゆえに他がおざなりになっているのだ。物欲や権力欲がないお陰で室長や同僚と敵対せずに済んでいるのが幸いである。
「私はぁ、ずーっと極楽とんぼのままでいいんですよぉ。出世したいとは思いませんし、王宮の片隅の官舎住まいですから生活にも困りませんし。でもねぇ、知り合いが危険な橋を渡っているかもしれないかと思うと、心穏やかではいられませんねぇ。あなたはとても賢い人だけど、どこか危ういですからぁ」
 ふぅん、と口の端を歪めて笑うイルーシェンの態度はバカにしているように感じられた。しかし、彼から漂う雰囲気はヴィローイを落ち着かない気分にさせることは事実である。知り合いでなければ目を反らしたまま通り過ぎていただろうが、生憎と顔見知り以上には相手を知ってしまっていた。
 ふてぶてしさと危なっかしさが同居した目の前の人物は、自分の立場をよく理解した上で危険に踏み込んでいるのだろう。が、人間関係を構築するのが苦手でも、史編や民俗史を通して人間を観察してきたヴィローイには、不安定に揺れる天秤のようなイルーシェンの姿が心配でならなかった。
「あんたさぁ、やっぱり僕に気があるんじゃないの? 王宮で起こっていることを教えてくれ、なんてのは口実で、お近づきになりたかったってのが本音だって聞かされたほうが納得できちゃうんだけど」
 イルーシェンの瞳が妖しく光る。薄暗い中で見るその輝きは獲物を狙う肉食獣の瞳のように感じられた。今にも頭からバクリと喰われてしまうのではないかという妄想に、ヴィローイはぶるりと背筋を震わせる。
 眩暈はとうに収まっていたが、魅入られたように身体が動かなかった。
「何が起こっているのか知りたいのは本当ですよぉ。編纂室は史編を綴るばかりが仕事ではないんですぅ。王宮の歴史そのものを記録していく役割も担ってますので。だから王宮の出来事には気をつけてはいるんですけどねぇ」
 でも歴史を調べるほうが楽しくってぇ、とヘラヘラ笑うヴィローイの目の前に薄緑色の瞳が降りてくる。息遣いを感じるほどに近づいた相手の顔をマジマジと見つめているうちに、ヴィローイはイルーシェンの顔が男のものなのか女のものなのか判らなくなってきていた。
「それなら、本当の意味で王宮で起こっていることを知りたいんじゃないの?」
 うっすらと浮かんでいた相手の笑みが深くなり、ヴィローイは再び眩暈に襲われる。今度は質が悪かった。視界が歪み、唇に生暖かい感触までする。
「教えてやるよ。王宮に巣喰っている狂気ってやつを」
 唇の感触が消え失せた後、目の前にあったのは薄緑色に瞬く星だけだった。