混沌と黎明の横顔

第19章:白月の惑乱 8

 もごもごと言葉を濁し、困惑を表したファレスの態度が腑に落ちなかった。
 何を言い淀んでいるのだろうか。よほど言いづらいことなのだろう。だからこそ、青水晶を持つ女に気をつけろと言いながらも、具体的にどうせよとは言ってこなかったに違いない。言いづらいことを後回しにしていたのだ。
「何を隠しているんだ? 言わないのなら俺は協力しないぞ。いや、むしろ積極的に公女さまに関わって、どういう可能性があるのか探らせてもらうけど?」
 子猫の顔がひきつる。気配だけだったが、ファレスが息を飲んだのが判った。
 反抗的な態度を取ることが多いジャムシードだが、よもやこれほどあからさまに逆らうとは思ってもいなかったのかもしれない。
 ──ジャムシード! いくらなんでも、そんな無茶はしないでくれ!
「何が無茶なのか、説明してくれるんだろうな? でなけりゃ……」
 ──お前は私を脅す気なのか!?
「理由も説明しないで言う通りにしろ、というほうが無茶だ。このことでお前が説明しないのなら、俺は俺のやり方で理由を探すしかないじゃないか。それのどこが悪いんだ? 至極まっとうなことだろう?」
 そこまで言ってもやはり言いづらいことなのだろうか。ファレスはキョトキョトと視線を彷徨わせ、無意識のうちにジャムシードの上着に爪を立てた。下に着込んでいる衣装のお陰で痛くはないが、珍しい光景に彼は首を傾げる。
「なぁ、ファレス。お前がものすごく言いづらいことを言おうとしていることは判ったよ。だけど、言う必要があることを言わずにおくほうが、後々面倒なことになるんだぞ? 言葉にするのは一瞬だ。けど、後になってから後悔するのは、もしかしたら一生かもしれない」
 説明を先延ばしにするな、と伝えてみるも、ファレスは恨めしげな眼でジャムシードを見ては、再び視線を彷徨わせるという行為を繰り返した。
「青水晶の影響を受けすぎる、と言っていたな。ということは、青水晶を所有している公女さまの影響を俺が受けすぎるってことだよな? 今の俺が公女さまに影響を受けすぎて困ることなんてあるのか?」
 ──それは……あー……その……
 らしくない歯切れの悪さに、ジャムシードは顔をしかめた。珍しすぎる。この踏ん切りの悪さは、あまりにもファレスには相応しくない態度だった。
「俺が公女さまに関わることは、そんなに悪い事態を引き起こすのか?」
 戸惑いが湧き起こり、ジャムシードは小さな黒猫を凝視する。鍵手に尻尾を曲げたまま固まり、視線を反らして俯いてしまった相手の様子を訝しく思い、それを問い質しても、まともな答えが返ってこないことがもどかしかった。
「俺はその影響の大きさを知るべきではないと思っているのか? 知れば何かよくないことが起こるとか、余計な考えに囚われることになるとか。お前がそれだけ言い淀んでいるってことは、そういうことなのか?」
 そろそろと顔を上げた子猫が上目遣いにこちらを見る姿に、ジャムシードはなんとも言いようのない気持ちになる。
 たぶん自分は今、ファレスの内心を当ててしまったのだ。ファレスとしては知って欲しくないことを明るみにしようとしていたに違いない。それだけ青水晶を持つ人物と関わるということには重いものがつきまとうのだ。
 ──いや、あのな……ジャムシード。それは、ちょっと違うと……
「言うに言えないってことは、説明すれば悪いことが起こるからじゃないっていうのか? 話せることなら、とうに話しているだろう?」
 ──言いにくいことであることは確かだが……。状況が悪化するかどうかは、お前次第であって、話したことでどうこうなるとは……いや、もしかしたら話したことで変に意識して……うぅぅ……
 ジタバタと前脚をよじって苦悩する子猫の姿に、ジャムシードはさらに戸惑う。結論がすぐに導き出せないほど悩むファレスの姿など初めて見たかもしれないのだ。困惑しないほうがおかしいだろう。
「なぁ、ファレス。俺が知らないほうがいいとお前が判断したのなら……」
「そんなところで何をしているのです? あれ? その猫は……?」
 急に廊下の向こうから声がかかった。ジャムシードは抱き上げていた猫と一緒に竦み上がり、一人と一匹は奇妙に強張った顔で声の主を振り返る。
「サ、サキザード。いつからそこに?」
「たった今、部屋から出たところであなたを見つけたのです。その子猫、いったいどうしたのですか? なんだか怖がっているように見えますが」
「迷い猫だよ。館中を追いかけ回されたらしいから、それで怯えているんだ」
 竦み上がっているのを、弟は恐がり震えているのだと勘違いしていた。それは今の会話を聞かれなかったことと同じくらい、こちらに都合の良いことなのかもしれない。ここでの会話は誰にも知られないほうがいい類のものだ。
「ちょうど良かった。サキザードの部屋に菓子があっただろう? あれを分けてくれないか。この猫、腹を空かせて館に迷い込んだのかもしれないんだよ。少し食べさせてやりたいんだけど」
「それはかまいませんが、猫が食べられるかどうかは判りませんよ?」
「まぁ、ものは試しってことで。厨房の連中に追いかけ回されていたから、彼らの手から餌をもらっても食べないかもしれないんだ。腹を空かせているのに餌をお預けじゃ可哀相だろう?」
 試しに与えるくらいなら、と言いながら弟が部屋に引っ込んだのを見計らい、ジャムシードは子猫の耳元で囁く。
「この話の続きは後で、だ。今はサキザードに気取られないよう協力し合おう」
 ――承知。それにしても気配に聡い子だな。お前が彼の足音や物音に気づかないくらいだ。気配を消されたら厄介な相手だぞ。
 微かに頷く子猫の額を指先で撫で回し、ジャムシードは口を尖らせた。
「サキザードがこそ泥のように忍んで動き回っているようなことを言うな。あの子は少し物静かなだけで、他人の背後を嗅ぎ回るような真似はしないよ」
 ――だといいのだが。彼の好奇心が彼自身の首を絞めないよう祈るばかりだ。
 何やら不吉なことを呟く黒猫の額を指先で弾き、ジャムシードは弟が待つ部屋へと足を踏み入れる。先ほど出ていったときよりも明るく感じられるのは、陽の位置が高くなりつつあるからだろうか。
「小さめのものを幾つか用意してみましたが、これでいいでしょうか?」
「食べやすいようにわざわざ砕いてくれたのか? ありがとうな」
 用意された小皿の上に親指の爪ほどの菓子が幾つか乗っていた。その小皿の前に子猫を据え、ジャムシードは別の皿に飲み水を用意する弟の背中を見守る。
「向こうの用事はもう終わったのですか?」
 振り向いた弟の表情は逆光でよく見えなかった。声は淡々としている。世間話のつもりで兄の行動を問うたのだろう。が、内容が炎姫公女個人のことに繋がるため、あまり明け透けに話をしてしまうのも躊躇われた。
「ん。まぁ、だいたいは終わったよ。後は結果を待つだけだ。それより待たせてしまって悪かったな。話も途中になってしまったし……」
わたしのほうはただ待つだけですから。それより、あなたのほうは今日は朝から散々なようですね?」
 子猫に近づき、その傍らに水を張った小鉢を置いた弟は苦笑いを浮かべていた。そんなに苦労しているように思われているのだろうか。ジャムシード自身は今朝の出来事の数々を苦労だとは思っていないのだが。
「必要なことをやってるだけだ。振り回されていても厭ではないよ」
「でも次から次へと騒ぎが舞い込んでくるじゃありませんか。それをまともに取り合っているから、あなたは自分がやりたいことの半分もこなせていないのではありませんか? 損な役回りだとは思わないのですか?」
「損得で動いているつもりはないけど、思い返してみると俺自身の物差しで騒ぎの損得を計算してると思うよ。それが他人と違う尺度だってことさ」
 兄弟が会話を続けている間、子猫は小鉢から水を飲んでいた。勢いよく水を飲んでいるところをみると、相当に喉が渇いていたのだろう。
 あるいは演技か、とジャムシードは勘ぐったが、一心不乱に喉を潤す小さな獣の姿を前に、そんな邪推は呆気なく消え去った。
「可愛いものですね。こんなに小さくても必死に生きている……」
 不意に呟かれたサキザードの言葉にジャムシードはふと顔を上げる。伏し目がちに子猫を見おろす弟の横顔に一抹の寂しさが浮かび、ゆっくりと消えていくのを彼は唖然と見守った。
「サキザード……? どうしたんだ?」
「吾はあなたをよく知りません。だから、あなたが本当のところどう思っているのかを理解しているとは言えないでしょう。ですが、あなたは損な性格をしていると思いますよ。頼られたら厭とは言えない、お人好しなんですから」
 門兄たちにも言われたことがある。慣れないうちは甘えるのも下手で、損をすると判っていても頼られたらついつい引き受けてしまう性分だと。
 厭なものは厭だと言うことはできる。今までも納得できないことは引き受けはしなかった。けれど、さして厭だと思わないことや自分より弱い立場の者から頼られると、どうしても拒むことができない。それはもしかしたら、産まれたばかりの弟を守れなかった罪悪感を引きずっているからかもしれない。
 そんな己の行動を弟本人から指摘されるとは思ってもみなかったが。
「この子猫もあなたは追いかけ回されているのを見て不憫に思ったのではありませんか? 迷い猫は街に出ればいくらでもいるのに、この館の、あなたの目の前で虐げられているのを見つけて、あなたが放っておけるとは思えません」
 確かに懐に飛び込んできた子猫を見て、無意識のうちに抱きしめていたことは否定できない。が、猫の世話をしようと考えた思惑の一部は弟と話をするきっかけが欲しかっただけだ。サキザードが言うように小さな者への憐れみが優先されたからではない。そう思っていたのだが……。
「イコン族の女性やガイアシュ、それに炎姫公女への態度をみていれば、あなたがどういう行動に出るか、おおよそ判ってしまうものですよ。
 先刻の話の中で、あなたは吾を守れなかったと仰っていましたが、吾が産まれたばかりであればあなたもまだ十歳にも満たない子どものはず。あなただって保護が必要な幼さだったのでしょう? そんな子どもが、悪意を持った大人から赤ん坊を守りきれるとは思えませんよ」
 サキザードの言うことはある意味正しかった。あの女奴隷商人の悪意は相当なものだったのである。ジャムシードが一人で対抗できるようなものではなかったと今なら思えるが、当時植え付けられた罪悪感は大人になっても残っているものだ。それを払拭するのは容易ではない。
「あなたは吾を心配しますが、吾もあなたのことが心配でなりません。一人で抱え込みすぎて、いつか潰れてしまうのではないかと。吾はこれから色々と家族のことで知りたいことが出てくるでしょう。そのときに話をしてくれる人がいなくては困ります。あなたには長生きしてもらわなければ」
 両親の話をするのに何十年もかかるとは思えなかった。だからサキザードが言う長生きという意味が文字通りの長寿ではなく、互いの抱える違和感が解消されるだけの期間を指しているのだろうとジャムシードは予測した。
「吾も手伝いますから言ってください。遠慮も過ぎれば嫌味ですよ?」
「判ったよ。サキザードが言う通り、俺は一人で何でも抱え込みすぎることは認める。お前のためにも少し余裕を持つように心がけるよ。父さんや母さんの話をしないうちに死ぬわけにはいかないからな」
 是非そう願います、と頷く弟の顔に安堵が過ぎったのを発見し、ジャムシードは戸惑った。まだ慣れ親しんだわけではないサキザードにすら案じられるほど、自分は何もかもを背負いすぎているだろうか? 今までそんなことを深く考えたことはなかったが、これからは少し考えなければならないだろう。
 ──私の忠告には反発するくせに、彼の願いなら無条件に叶えるのだな。まったくもって理不尽な奴だ。二十年以上に渡る私の努力はなんなのだ。
 ふてくされた様子の声なき声にジャムシードは微妙な表情を作った。今ここで声に出して反論できないのをいいことに、ファレスから痛烈に嫌みを言われようとは! 卑怯だぞ、と視線で訴えるが相手は素知らぬ顔である。
「今……何か聞こえませんでしたか?」
 戸惑った声が傍らから上がり、ジャムシードは凍りついた。もちろん目の前で水を飲んでいた子猫の尻尾も毛が逆立ち、固まっている。
「何かって……なんだ?」
「話し声のようなものが……。なんでしょうね。耳から聞こえたのではなく、頭へ直接響いてくるような声だったのですが。何を言っているのか聞き取れなくて、なんだかもどかしいのですけど……」
 思念の声が聞こえている!? 今までファレスが意図しなければジャムシード以外の者に聞こえたことはなかったのに。
 ──そんな馬鹿な! 核を持たぬはずの者に聞こえるはずが……!?
「あ、ホラ! 今また聞こえました。なんでしょう。どうして吾に聞こえるのでしょうか。あなたには聞こえないのですか?」
 ジャムシードは弟の顔をマジマジと見つめ、彼が冗談を言っているわけではないことを確認した。いや確認するまでもなく、サキザードがファレスの声を聞き分けていることはすぐに判っていたのだが、今まで思念の声が聞こえる者がいなかっただけに俄には信じられなかったのである。
「サキザード。その聞こえてくる声は、なんと言ってるか判るのか?」
「え? あの、一度目に聞こえたときも、二度目のときも、何を言っているのかは判らないんです。ただ、人の声がしているだけで。……信じてくれるのですか? こんな訳の判らない話を?」
 ──まさか……。もしや、彼には疑似核が植え付けられているのか?
 何やら聞き慣れない、不吉な雰囲気の単語がファレスから発せられ、ジャムシードは得体の知れない恐怖に身震いした。
「サキザードの話を信じないわけないだろ。だけど……」
「あなたには、聞こえていないのですか……? 今も聞こえました。吾の頭はどうにかなってしまったのでしょうか?」
 不安げに顔を歪めたサキザードが周囲に視線を彷徨わせ、最後にジャムシードを見据えて訊ねる。その問いかけに素直に返事をすることは躊躇われた。
 聞こえると答えればファレスの紡いだ言葉を教えろと迫られかねない。それは自分とファレスとか抱える因縁に弟まで巻き込むことになる。決して愉快ではない状況に弟を巻き込みたくはなかった。
 だがしかし、そうなると弟は聞こえもしないものが聞こえると怯え続けることになる。どうしたらいいのだ。
 ジャムシードの足許で「にゃぁん」と楽しげな鳴き声が響いたのは、彼が混乱の極みの中で言葉を詰まらせていたときだった。
 カリカリと床板の上で爪が滑る小さな音がし、子猫がサキザードの膝に飛びつく。唖然としている弟の足をよじ登ろうとする黒い小さな獣の必死な姿にジャムシードは戸惑ったが、落ちそうな子猫の様子に慌てて手を伸ばした。
「おい、何やってるんだ。そんなことしたら怪我するぞ!」
 肩の下まで登ってきた子猫だったが、それ以上を登るのは難しいらしい。一足登ってはズルリと滑り、滑り落ちては登ろうと足掻いていた。
 ジャムシードの手が黒猫を拾うより先にサキザードが子猫を抱き上げる。滑らかな毛並みの下から伝わる仄かな温もりに、彼は強張る顔を薄く綻ばせた。
「お腹が脹れたら遊びたくなったのですか? 餌をくれる人間が誰も彼も良い人だというわけではないのに、随分と懐いてくれるものですね」
 ジタバタと暴れる子猫がサキザードの肩先に座り込む。幼い獣は前脚で彼の頬を撫で、再び「にゃぁお」と楽しげに鳴いた。伸び上がってサキザードのこめかみに狭い額を押しつけると、グルグルと喉を鳴らす。
 くすぐったそうに眼を細めたサキザードだったが、まだ不安は心の片隅にこびりついているらしく、微笑む顔に翳りが見えた。
 ──あぁ、やはり……。ジャムシード。彼もまたお前と同じように、我ら一族から逃れられぬ運命の下にあるらしい。
 ギクリとサキザードの肩が揺れる。肩に乗る子猫を見る瞳は限界まで見開かれ、徐々に血の気が失われていく頬は強張るあまりに小刻みに震えていた。
 ──私の声が聞こえるようにした。この声はお前に届いているだろう、サキザード? 残念だよ。お前もまた、父リゲルドや兄ジャムシードと同じように、我らと運命を共にする身の上にあるようだ。
 ギクシャクとした動きでこちらを振り返った弟と視線を絡ませ、ジャムシードは心の奥底を棘で刺されたように、感じた痛みに竦み上がる。
「なぜだ……。なぜサキザードまで巻き込むんだ、ファレス? 俺一人で充分じゃないか。これ以上、俺の弟に関わるな」
 ──巻き込みたくないと思っても巻き込まざるを得ない。彼の中にはバチンの手による疑似核が植え付けられている。今のお前と一緒だ。彼もまた、心臓と核の癒着が始まっているだろう。このままでは、いつの日か彼の人格は抹消され、バチンのいいように書き換えられてしまう。
 それでも巻き込むなというのか、と囁く思念の声にジャムシードは肯定も否定もできず、ガックリと肩を落とした。
「あんまりだ……。俺から弟を取り上げる気なのか! ファレス、お前たちに振り回されて、まともに暮らしていけると思っているのか!? これから先、お前たちと関わるということがどういうことなのか、それを……それを……」
 俺に説明させるのか、と口内で呟きながら、ジャムシードは床に爪を立てる。
 人格が消滅する、と聞いて真っ先に思い浮かんだのが、サキザードの現状だった。記憶が失われているのは、もしかしたら“核”のせいではないのか、と。今ここで話をしている相手は本当に弟なのかとの疑念が頭をもたげた。
 ──お前が説明できぬなら私がする。どのみち、これから先のことはお前にも説明せねばならぬことだ。手間が省けてちょうどいい。
「ファレス! お前という奴は……」
 怒りと哀しみに喉が詰まった。最近になって打ち解け始めていたファレスとの関係が、再び初めて逢った頃のように冷えていく。
「あの、この声は、この猫から……? いったい何が起こっているのですか?」
 ──私はお前の血脈の祖と契約している精霊ディンだよ。本来は私と契約を結んでいる核の保有者としか話をしないのだが、お前が我々一族の運命に関わる以上、状況を説明しておかねばなるまい。
 やめろ、と叫びたかったが、ファレスを止めたところで今のジャムシードにサキザードが納得する答えが用意できるわけではなかった。むしろ混乱に拍車をかけるだけである。弟を巻き込みたくないのに巻き込んでいってしまう、己の血に繋がる運命が呪わしかった。
 ──さて、どこから話し始めたものだろうな……。
 ファレスの呟きを聞きながら、ジャムシードは絶望に押し潰されかかっていた。なんと己は無力な存在だろう。またしても弟を守れなかったとは……。
「話は、少し待ってもらえますか?」
 動揺しているが思ったよりもしっかりとした声がサキザードから発せられた。沈黙したファレスに了承を得たと感じたのだろう。彼は子猫を肩に乗せたまま、兄がうずくまる傍らへと跪くと「兄さん」と呼びかけた。
 弟の呼び声にジャムシードは大きく目を見開く。今サキザードは何と言ったか? 本当に兄と呼んでくれたのか? これは幻聴ではないのか?
「兄さん。お願いですから、一人で背負い込まないでください。吾にも手伝わせてくださいませんか? たった今、約束したばかりでしょう? 吾を弟だと認めてくださっているのなら、どうか……」
「サキザード。でも、お前までこんな……」
「あなたが“こんな”という状況がどんな状況なのか吾には判りません。ですが、吾をひとり置いていくような真似は許しませんよ。あなたは両親のことや自身のことを吾に話す義務があるんです。隠し立てするなどあり得ません」
 睨むように強い視線でジャムシードを見据えたサキザードだったが、厳しい目つきや強い口調とは裏腹に、肩に乗る子猫を支える手つきは穏やかだった。恐怖に震えることもなく、むしろ労るように静かである。
「サキザード。お前、怖くはないのか……?」
 思わずジャムシードは問いかけた。初めてファレスに逢ったときは、ひどく混乱したものである。弟は心配かけまいと無理をしているのではなかろうか。
「怖くない、と言えば嘘になります。けれど、自分が何者なのかという疑問への答えを何より欲しているのです。だから兄さんがなんと言おうと、吾は吾の意志で精霊殿の話を聞こうと思います」
 不意にジャムシードは廊下でのファレスの呟きを思い出した。“彼の好奇心が彼自身の首を絞めないよう祈るばかりだ”と言っていたはず。話を聞けば弟の首を絞めることになりはしないか。それが恐ろしいばかりだった。
 だがしかし、ジャムシードがどれほど反対しようと、サキザードが素直に引き下がるとは思えない。強固な意志を宿した弟の瞳に、ジャムシードは亡き父の頑迷さに共通するものを見出した。
「一緒に、話を聞いてくださいますよね?」
 お願いの形を取っているが、実質は強制力を持った確認に過ぎない。弟の意外な強引さに戸惑いながら、ジャムシードは頷くしかなかった。