混沌と黎明の横顔

第19章:白月の惑乱 7

 ナナイを部屋に送り届けた後、途中で放り出す形になっていた弟のところに戻ろうとしたジャムシードは、階下から響く叫び声に思わず立ち止まった。
 使用人たちが口々に叫びながら走り回っている。何事かと階段を降りていくと、叫び声の内容が聞こえてきた。
 声は「待て」だとか「あっちに行ったぞ」だとか、何かを追いかけていると予測できる内容である。もしやネズミでも出たのかと首を傾げ、一階にまで辿り着いたジャムシードは黒い塊が一直線に向かってくるのを認めた。
 避ける間もなく懐に飛び込んできた塊は温かく、柔らかな手触りが心地よい。黒々とした毛並みの隙間から金色の瞳が覗いていた。小さな鳴き声を聞くまでもなく、それが子猫であることはすぐに判った。
「この猫、どこから迷い込んだんだ? 裏口も人の眼があっただろう?」
 ギッチリと胸にしがみつく猫をあやしながら、ジャムシードは追いかけてきた使用人を手で制して問いかける。詰問しているわけではないのに恐縮した女中が、揉み手をせんばかりの低姿勢で返事をした。
「勝手口からだと思いますわ、若旦那。でも迷い込んできたところを誰も見ていませんの。きっとすばしっこい悪戯坊主なんだと思います。オイタをしないうちに館から追い出しますから、どうぞその猫をこちらに……」
 だがしかし、ジャムシードの上着に爪を立ててしがみつく子猫はそう簡単に引き剥がせるものではない。抵抗し、激しく抗議の鳴き声を上げられては、チクチクと罪悪感が刺激されるというものだ。
「まぁ、なんてこと。若旦那のことがすっかり気に入ったようですわね」
「猫は気まぐれだ。この猫自身が飽きるまで俺が世話をするよ。皆は仕事に戻ってくれ。奥にいる他の者にもそう伝えておいてくれるか?」
 承知しました、と頭を下げた女中の他にも厨房で働く男が数人、猫を捕獲するために頑張っていたらしい。が、それらも潮が引くように消えていった。
「お前、行くところがなかったからここに来たのか?」
 なぁーお、と鳴いた声が「そうだ」と言っている気がして、ジャムシードは低い声で笑い、再び階段を登り始める。が、ふと子猫に餌を与えなくて大丈夫かと心配になった。腹が減っていたから人家に入り込んだのかもしれない。
「これから弟のところへ行くから大人しくしてるんだぞ。彼は神経が細やかだから、あまり煩くすると体調を崩してしまうかもしれないからな」
 弟の具合は良くなったと聞いてはいるが、どうしても過保護になってしまう。それは彼のこれまでの生き方を知らないせいでもあった。
 なぜヒューダー・カーランのような男と行動を共にするようになったのか。なぜ得体の知れない魔力を使えるようになったのか。いや、記憶をなくしている今は、魔力の“ま”の字も弟からは感じ取れないのだが。
 なぁお、と鳴いた猫はまだ胸にしがみついているが、見おろしたジャムシードに向かって首を傾げて見せた。その仕草の可愛らしさなら、大抵の者は無条件に子猫を受け入れてしまうだろう。
 この館から積極的に出ることが少ない弟にとって、この小さな獣との接触が少しは慰めになるのではなかろうか。そんな計算が働いたからこそ、先ほどジャムシードは面倒をみると言ったのだった。
 これで弟の距離が縮まってくれたらいい。その程度は先ほどのやり取りの中で計算していた。実際、子猫を見ていると自然に笑みがこぼれる。やはり小さな生き物は可愛らしいものだ。
 そういえば、子どもの頃に猫を拾ったことがある。路地裏で見つけたので埃を被っていたが、とても美しい毛並みをした猫で、子どもながら高貴な身分の者が飼っている猫かもしれないと思ったのだった。
 飼い主が現れるまで世話をする約束で家に置いていた。
 父は猫が苦手なのか、ジャムシードが猫の世話をする最中も苦り切った表情でその様子を眺めているだけだった。あるいは、拾った猫の飼い主の性格によっては、猫を盗んだと疑われるのではないかと危惧していたのかもしれない。
 だから、その猫を迎えにきたのが十代半ばの娘で驚いたことを今も覚えていた。供も連れずに現れた娘に訝しさを感じたのに、父はこれ幸いと猫を娘に押しつけ、追い返そうとする。それもまた妙な感じだった。
 今さらながらに当時のことを思い出し、ジャムシードは困惑する。拾った猫に関してはうっすらとしか覚えていないのに、父に感じた違和感だけは鮮明に覚えているとはどういうわけだ。
 階段を上がりながら腕の中で大人しくしている猫を見つめていたジャムシードだったが、自身の抱いた違和感を誰に相談するわけにもいかず、思わず目の前にいる小さな猫に語りかけていた。
「どうして父さんはあのとき、あんなに猫を追い出そうとしたんだろうな?」
 なぁぅ、と鳴くばかりだった猫がジッとこちらを凝視する。何かを訴えているようにも見え、ジャムシードは僅かばかりたじろいだ。
「腹が減ったのか? もう少し待てよ。弟の部屋に行ったら何かあるはずだ」
 この館の主人は弟を拾ったときから何かと世話を焼いてくれる。兄である自分から見ても、ときに甘いのではないかと思うほどだ。
 聞いた話では、弟が食欲がなかった頃、弟の部屋に菓子を常備させ、少しでも食欲があるなら食べるようにさせていたとか。彼の故国の菓子で、病気で少量しか食事が摂れない子どもに与えられるものだそうだ。
 少し食べさせてもらったことがあるが、ほんのりとした甘みの中に微かな塩気が感じられ、後味で豆や根菜類の味が残っていたのを覚えている。
 たぶん、館の主人は今でも弟の部屋にその菓子を常備させているはずだ。猫がそのような食べ物を口にするか判らないが、一度試しに与えてみるくらいはいいだろう。それが駄目なら改めて厨房から猫用の餌をもらってくればいい。
 亡き父の不自然な態度のことを考えていたから、猫の視線ひとつで動揺してしまうのだ。今さら父の過去に何があったかなど考えても仕方がない。単に猫が苦手だっただけかもしれないではないか。
 今のジャムシードにとっては弟との距離を縮めることのほうが重要なのだ。その手段のひとつとして、この小さな黒い子猫を弟に見せるのもよかろう。姑息だと言われようがなんだろうが、弟との絆を深めておきたかった。
「お前は野良猫なのか? なんだか手入れされた毛並みのように思えるんだが。もしかして誰かに飼われていたんじゃないのか?」
 この子猫が飼い猫なら、今頃は飼い主が必死になって探し回っている頃かもしれない。となると、いずれは飼い主の元に帰してやらねば。
 今から少し淋しい気持ちが浮かび、ジャムシードは苦笑した。もしかしたら、自分はとんでもない申し出をしてしまったかもしれない。ほんの僅かな時間しか子猫を抱いていないのに、この温もりを手放すことが惜しくなっていた。
「お前がサキザードに懐きでもしたら困るなぁ。もし飼い主がいたなら、別れはつらいものになりそうだ。……お前が野良猫だったらいいのになぁ」
 苦笑いを浮かべ続け、ジャムシードは上階へとやってきた。弟の部屋までもうすぐである。先ほどの話の続きをし、他愛のない雑談をしよう。そうやって兄弟の絆を深めていこう。二人の意識の隔たりはそれほど大きかった。
 無意識のうちに子猫の額をグリグリと撫でさすっていたジャムシードだったが、ふとあることに思い至り、小さな獣を目の前に持ち上げた。
「そういえば、お前。雄か雌かどっちなんだ?」
 子猫のうちならどちらだろうがあまり関係はないかもしれないが、と呟きつつも、獣の股間を覗き込もうとしたジャムシードは、鼻先を尻尾で叩かれて顔をしかめた。どうやら無遠慮に覗き込まれるのは気に入らないらしい。が、何も叩かなくてもいいではないかと腹を立てた。
「お前な! 厭なら鳴くなり抵抗するなりすればいいじゃないか。何も狙ったように鼻先を尻尾で弾かなくても!」
 ──勝手に股ぐらを覗き込むほうが悪いに決まっているだろうが。
 聞き慣れた、しかし久しぶりに聞く思念の声に、ジャムシードは大きく眼を見開き、思わず辺りを見回した。幸いにして誰もいない。それに大抵の場合は、思念の声が他人に聞こえることはないのだ。が、それにしても心臓に悪いことには変わりない。唐突に聞こえる声には対処にしようがなかった。
「ファレスか? お前、やっと眼を醒ましたのか?」
 ──眠っていたわけではない。結界を維持するために意識を集中させていたから、外界のことに関心を示さなかっただけだ。
「それがどういう風の吹き回しで今ここで声をかけてきたんだ? 何か問題が起こったのか? そうじゃなけれりゃ、お前がいきなり話しかけてくるなんて、今までなかったように思うんだが?」
 これまでにも突然に思念の声が聞こえることはあったが、それは緊急を要するときだったり、何か選択する必要がある重要な場面でばかりだった。今回も同じだろう。何かが起こらなければファレスは出てこないのだ。
 ──今、私はお前の意識下から抜け出している。すでにお前の心臓とル・オルグの核との癒着は始まっていて、結界を張るにも限界が来ているのだ。
 はぁ、それで、と気の抜けた返事をし、ジャムシードは首を捻る。相手の言わんとしていることがいまいち理解できていなかった。歩んでいた足を止め、腕の中に閉じこめた子猫の温もりを確かめるように抱きしめる。
 ──危機感がないな……。それも仕方がないか。お前には理解の範疇を超えた話だ。簡単に言うと、このままではお前の人格はル・オルグに書き換えられてしまうと言っているのだ。判るか?
 書き換えられる? よく判らない。いや、心が判りたくないと叫んでいた。想像した通りであれば、それはとても恐ろしいことである。自身の存在が消されてしまうのだから。だが、ジャムシードの予測ははずれていなかった。
 ──ジャムシード。ル・オルグは奸計を用いてお前と入れ替わろうとするかもしれない。これからはいっそう自分の意識をしっかり持て。でなければ、お前は完全にこの世から消え去ることになるぞ。
「ファレスの結界でも無理な相手に、どうやって対抗したらいいんだよ。俺ごときの力なんぞ、たかが知れているじゃないか」
 ──お前の意識が生きていさえすれば、ル・オルグは手出しできない。世を儚んだり、完全に意識がなくなったりしたときが一番危ないのだ。乗っ取られぬよう気をつけていさえすれば、ル・オルグの思惑通りには進まないよ。何せ、奴はお前の身体を傷つけるわけにはいかないのだから。
 容易く言ってくれる。そういう曖昧な注文が一番面倒だということは、これまでの経験からすぐに察した。なんでもないことだと言いながら、ファレスの思念の声が緊張感を孕んでいることに気づいていないとでも思っているのか。
 ジャムシードは見えぬ相手をなじりそうになったが、その罵声を飲み込み、自身を落ち着けようと深い呼吸を繰り返した。
「俺は今まで通りに生活していていいんだな? だったら、俺は俺の思う通りに生きていくさ。お前の忠告はありがたく受けるけど、お前の言いなりになって生きていく気はないぞ。忠告通りに振る舞うということは、俺がその必要があると判断したからで、お前の傀儡になったからじゃないからな!」
 これまで振り回されてきた苦い経験がある。だから余計にファレスの言うことに警戒してしまうのだ。相手が決して自分のためにならないようなことは言わないと判っていても、何も判らないまま引きずり回された過去の出来事は心の中でわだかまりとなって残っているのである。
 ──それでいい。お前の心が死なぬ限り、我らに勝機はある。
 またこちらが知らぬところで争いが起こっているな、と感じさせる相手の声に、ジャムシードは苛立ちを募らせた。どうしてファレスは何も相談してくれないのだろう。何も具体案が出せなくとも、愚痴のひとつくらい聞けるのに。
「ファレス。お前にとって俺という存在はいったいなんだ? ただのお荷物なのか、それともまったく別の存在なのか?」
 相手の困惑が伝わってきた。いきなり何を訊くのか、といったところだろう。ファレスにとってのジャムシードは、決して主人ではないのだ。むしろ強制的に共存していかねばならない足手まといに違いない。
 ──ジャムシード。お前はお荷物ではない。なんというか……
 上手く言葉で表現できないのか、あるいは言葉を濁して誤魔化そうとしているのか。いや、ファレスに限っては、そういう下手な誤魔化しはしないだろう。
 言いたくないことには触れない、というのが、この精霊ディンの性格だ。あからさまであれ、さりげなくであれ、話を逸らさなかったということは答える気はあるのだろう。それが的確に表現できるかどうかは別にしてだが。
「無理に答えなくてもいいよ。お荷物じゃないってことが判れば。だけど同志のような対等な立場でもないってことも判った。お前にとっての俺は、あくまでも保護対象であって、何かを分かち合う存在ではないんだな」
 いっそうの困惑が伝わった。こんな言い方は卑怯だっただろうか。だがジャムシードから見た事実はこの通りなのだ。
「ファレスたちから見れば俺たち人はちっぽけな存在だろう? 保護する対象としてしか見られないのも仕方がないことだ。けど、自分で物事を決められるし、何も知らされずに結論を突きつけられて、大人しく従うほど素直でもない。少しでも俺に価値があるのなら、出来る範囲で俺にも状況を説明してくれ」
 しばしの沈黙が流れる。肯定しようか否定しようか迷っているのだろうか。そういうせめぎ合いは感じられないが、ファレスは内心を隠してしまうことが多かった。今この状況で感情を露わにすることはないかもしれない。
 ──お前の言う通りかもしれない。私には先が見えているから結論を導き出し、お前に伝えているつもりでも、お前から見れば突然命令を受けているだけに過ぎない。話せることと話せないことはあるが、これからは説明をしよう。
 ホッとしてジャムシードは肩の力を抜いた。さりげなくはぐらかされでもしたら、かなり落ち込んだことだろう。が、ファレスは真っ正面から彼の言葉を受け止めてくれたのである。これは重要な一歩と言ってもいい。
「ありがとう。……ところで、ファレス。俺の意識から抜け出したって言ってたけど、お前は今、俺の中にいるんじゃないのか?」
 白々とした沈黙が流れた。その空虚さを伴う沈黙が居心地悪く、ジャムシードは無意識のうちに腕の中の猫を抱く腕に力を込める。
 ──気づいていなかったとは驚きだ。私は今、お前の目の前にいるというに。
「は……? 目の前にいるって?」
 キョロキョロと周囲を見回しても、そこには誰もいなかった。
 ──ここにいるだろうが、ここに! どこを見ているのだ!
 ガリガリと上着を引っ掻かれ、ジャムシードは慌てて子猫を見おろす。爛々と光る金の瞳と視線が絡まり、彼はそこに強い意志を認めた。どこかで見たことがあると認識した途端に、腕が勝手に子猫を放り出す。
「えぇ!? なんで? どうして猫の中にいるんだ!?」
 ──私だと判った途端に放り出すか!? なんという差別だ!
 器用に身体を捻って床に着地した黒猫が威嚇するように毛を逆立てた。が、生憎と可愛らしい外見のせいで迫力に欠ける。
 ところが、威嚇されたジャムシードには充分罪悪感を感じさせることができたのか、途方に暮れた顔で彼は子猫の目の前にしゃがみ込んだ。
「本当にファレスか? まさか、お前のフリをした誰かがからかってる、ってわけじゃないよな? なんだって子猫の姿になんか……」
 ──私は私だ。他の誰かが演じたところで、お前にはすぐに判るだろうが。いったい何年のつき合いだと思っているのだ。お前が母親の腹の中にいるときからだぞ。少しは自分の感覚を信じてやったらどうなのだ!
 少しばかり耳に痛い言葉が聞こえた気がしたが、ジャムシードは敢えてそれを無視すると、未だに毛を逆立てている子猫をそっと抱き上げた。しげしげとその小さな身体を眺め、ふてくされてヒクヒクと蠢く細い髭を突っつく。
「ファレス。お前、俺の中にいなくても大丈夫なんだな? いや、俺の中にいたんじゃ不都合だから抜け出したってことだろ?」
 チッと子猫が舌打ちした。いや、舌打ちしたように感じただけかもしれない。
 ──どうしてお前は妙なところで鋭いのだろうな……。そうだ、不都合が生じたのだ。このままではお前の心臓とル・オルグの核との融合で私の意識まで取り込まれてしまう。そうなると、私は束縛されて動けなくなるのだ。
 ファレスの言うことを理解したつもりだが、実際にはどこまで理解できているのか判断できなかった。もしかしたら、全然理解できていないかもしれない。それでもジャムシードは心許なげに頷きながらも話の続きを促した。
 コホン、と黒猫が咳払いし、居住まいを正す。
 ──その状態でお前がル・オルグに乗っ取られでもしたら、私は彼に隷属しなければならない。それでは都合が悪いのだよ。私はお前についている存在であると同時に、我が一族の“狩人”でもあるのだから。
 そもそも、ジャムシードには狩人という言葉の意味がよく判っていなかった。獲物を狩るのが狩人だという単純さで、ファレスがその単語を使っているわけではない気がする。何せ精霊たちの狩人だ。よほどの獲物を狩るのでなければ、そのような単語を安易に使うとは思えない。
 だが以前に意味を尋ねたときには、律を乱した者を狩るのだ、としか教えられなかった。たぶん律というのは精霊たちの間での決まり事なのだろう。それを守らなかった者を捕らえるのが仕事なのだ。ということは……
「なぁ、ファレス。もしかしてル・オルグの存在もお前たちの律に反するんじゃないのか? だから俺の側にいるんじゃあ……」
 ──それは是であり、否である。ル・オルグが明らかに律に反する行動をとれば、私は遠慮なく狩るだろう。が、ル・オルグの存在は一族の中でも微妙なものだ。単純に狩れるものではない。現に彼はお前を使って律の範疇から逃れようとしている。お前が乗っ取られでもしたら、後始末が大変なのだ。
「だけど、お前は俺の中に結界を張ったって言ってたし、俺の意識さえしっかりしていれば、なんとかなるんだろ?」
 ──まぁ、そうなんだが……。ル・オルグを抑え込む手だてを考えてはいるが、あまり選択肢は多くない。上手くいくかどうか微妙なところだ。
「その選択肢を俺には教えてくれないのか?」
 ──今は無理だ。私自身が選択肢の先にある詳細を吟味しきれていない。が、今の段階で避けて欲しいことはある。先ほど話した通り、厭世的に振る舞ったり、睡眠以外で意識を失ったりする状況は避けてくれ。それと、青水晶に関わって欲しくない。今のお前はあの石に多大な影響を受ける状況下にある。
 ジャムシードは怪訝そうに眉をひそめた。青水晶は大変珍しい宝石である。あちこちに転がっているものではないのだから、関わり合いになる可能性は限りなく低いというのに、ファレスが関わるなと忠告してくるところが怪しい。
「何か俺に話していないことがあるんじゃないのか? いきなり青水晶に関わるなと言われても、それがどこにあるのかすら見当がつかないぞ」
 ──お前の身近にある。特に青水晶を所有する女には気をつけろ。
「そんなの、どうやって見分けるんだよ。青水晶ってものすごく貴重な宝石だろ。そんな珍品、貴族の姫君だって持ってるかどうか判らないぞ」
 ──少なくとも、お前の周囲に一人はいる。だから注意しろと言うのだ。
 そんな貴重品を持っていそうで、なおかつ身近にいる女性と言ったら、数えるほどしかいないではないか。というか、今現在の時点では一人しか思い浮かばないのだが、ファレスは判って言っているのだろうか。
「どう注意したらいいって言うんだよ。公女さまとは仕事上、これからも関わり合いになることが多いんだぞ。具体的なことを教えてくれないのか?」
 目の前にある金色の瞳が大きく見開かれた。その驚きの表情にジャムシードはガックリと肩を落とす。どうやらファレスは彼が青水晶の持ち主に気づくとは思ってもいなかったようだ。少し考えれば判りそうなものなのに。
「どうして判ったんだって顔をしてるな? お前たち精霊の間ではどうか知らないけど、青水晶はあまりにも貴重すぎるんだよ。並の貴族が持てる代物じゃない。その点、公女さまなら大公家の娘だし、ツテで珍品を手に入れる機会もあるだろうからな。俺の周囲にいる貴族の姫君で、青水晶を所有できるほどの大貴族となったら彼女くらいしかいないんだよ」
 ──不覚だった。青水晶は人の間ではあり得ないほど高値で取り引きされているのだったな。その事実をすっかり忘れていた。
「あり得ないほど高値っていうよりも、市場に出回ることがなくて、お目にかかる機会がないんだって。一般的には青水晶なんて物語の中にしか出てこない、幻想の石だと思われてるくらいだからな。俺だって細工師の知識がなけりゃ、知りもしなかった宝石だったろうよ」
 グルグルと喉の奥で唸るファレスの様子をしばらく見つめていたジャムシードだったが、そうしていたのでは欲しい情報はいつまで経っても手に入らないと、子猫の髭を指先で突っついた。
「なぁ、ファレス? どうして青水晶を持った女には要注意なんだ?」
 何か理由があるんだろ、と問いかけると、金色の小さな瞳があからさま挙動不審に陥った。視線を合わせるのを避けるかのようにキョロキョロと彷徨い、あまりにも慌てふためいた態度が厭な予感を増幅させる。
「まさか注意だけ促して、後は放っておくつもりだったわけじゃないよな?」
 ──いや、その……。放っておくつもりでは、なかったのだが……。