混沌と黎明の横顔

第19章:白月の惑乱 5

 以前は憎しみと羨望しか感じられなかった兄の存在が、今はとても近く感じられる。亡くなってからのほうが親しみを感じることになろうとは思いもしなかった。どうせなら生きている間にそれが叶っていたら良かったものを。
 兄は実の母が住まう屋敷にも間者を放っていたようだ。今の役人は屋敷からウラッツェが運び出された報告を受け、行動に出た者たちだ。
 決してウラッツェ自身に忠誠を誓っているわけではない。が、亡き兄ワイト・ダイスには絶対の忠誠を誓っていたのだ。それ故に、公母である元大公妃であれ兄の意志に背く者に仕えることはないというわけだ。
 目の前に放り出された布地を摘み上げ、ウラッツェは乾いた笑いを漏らす。
 庶民がよく着る旅装が用意されていた。綿の上下に薄いなめし革の上着、そして羊毛のマント。さすがに編み上げ靴まで用意することはできなかったようだが、人混みに紛れ込むには充分だった。
 さらに驚くべきことには母から譲り受けた短刀と彼が愛用している鎖鞭グィガーがある。継母に取り上げられたはずの品々が手許にある事実が、彼らがウラッツェに出した答えだと言えた。
 これさえあれば、下手な護身用の武器などいらない。それを彼らは判っていて継母の手許から持ち出したのだろうか。しかもウラッツェが運び出されたはずの短時間の間に取り戻し、なおかつ大公屋敷から持ち出したと……。
 兄の部下は恐ろしく有能な者らのようだ。これだけの準備を短時間で終え、ウラッツェを助ける算段までしたのだから。
 ゴトゴトと移動していく荷駄馬車は人々の喧噪から離れていった。仮設の役人詰め所の隣にある簡易厩舎に向かっているのだろう。馬は厩舎に繋がれ、馬車は詳しく検分するために詰め所の脇にでも置かれるはずだ。
 検分が始まる前に脱出を終えねばならない。が、まだ足の麻痺は取れていなかった。今度こそ迷わず血抜きをして解毒をしなければ。兄の部下たちが作ってくれた時間の猶予を無駄にはできない。
 急いで着込んでいた衣装を脱ぎ、生乾きの髪をゴシゴシと擦った。薬酒の匂いが完全に落ちるわけではないが、多少はマシになっただろうか。きっとまだ酒の匂いが残っているはずだ。朝っぱらから酔っぱらっている旅人を装えば、人混みに紛れ込んでも誤魔化せるかもしれない。
 ウラッツェが解毒を始めようとすると、荷台の端に人が立つ気配が伝わった。
 またしても邪魔され、ひどく不愉快な気分である。がしかし、見つかってしまっては元も子もない。今は隠れるほうが先決だ。
 物陰で息を潜めていると、幌の隙間から何者かが滑り込んでくる物音が聞こえてきた。先ほどの役人は御者台にいる。ということは、別の誰かがやってきたのだ。いったい今度はどこの誰がやってきたのか。
 手にした鞭鎖を握りしめ、いつでも使えるように身構えていると、侵入者は気配を殺すことなく大仰なため息をついた。
「そう殺気立たれると近寄れないんだがな、ウラッツェ?」
 聞き覚えがある声にウラッツェは飛び上がり、足が萎えていることも忘れて物陰から飛び出す。が、持ち主の意志に反して動かない足が重石となり、体勢を崩したウラッツェは頭から床へと倒れていった。
 咄嗟に頭を庇って床に転がったウラッツェのすぐ傍らに、呆れた様子で男が屈み込む。ばつの悪さにそっぽを向けば、軽く頭を叩かれた。
「何をやっとるか、このバカ者が。馬車が動いてなかったら物音が周囲に漏れて、人が潜んでいることがばれるだろうに」
「う、うるせぇ。オレだってまわりが静かなら考えて動いてるっての!」
「相変わらず減らず口ばかりだな、お前って奴は。少しは助けてくれてありがとうくらい言えんのか。可愛げのない甥っこだよ、まったく」
「叔父貴こそ、助けに来るのが遅ぇよ! 今までどこにいたんだ。助けるなら、もっと早く助けろよ。お陰で妙な薬は盛られるし、足は動かねぇし!」
 呆れ半分、疲れ半分といったため息が相手の口から漏れる。先ほどからため息ばかりつかせているのは自分のせいだ。それでも憎まれ口しか叩けない己の性格が恨めしい。我ながら素直ではない。
「暗器を届けたのは誰だと思ってるんだ、お前。あの女の手の内で動き回るのは簡単なことではないんだぞ。中の連中と外の連中の連絡を取りながら必要なものを揃えるのにどれだけ苦労したと……」
「もういいよ。それよりエフルシュネたちは無事なんだろうな?」
 助け手は叔父が用意したものだったらしい。よく考えれば判りそうなものだ。たとえ兄の忠臣が大公家に忠誠を誓っていようと、すべての忠臣が大公妃の動向を仔細に把握しているわけではないのだ。内外で連絡を取り合う情報網がどこかに存在し、その要に叔父がいたとしても不思議はない。
 自分の話を遮られて腹を立てたのだろう。叔父がもう一度ウラッツェの頭を叩き、兄の妻子は無事であることを告げた。
 ホッとして肩の力が抜けた。が、油断はできない。いつ、何を、あの女が仕掛けてくるか判ったものではないのだ。エフルシュネたちにつける警護役を吟味しておいたほうがいいのではなかろうか。
「なぁ、ウラッツェ。お前、自分が今置かれている状況を判ってるか? 他人の心配よりも自分の後始末をどうつけるか考えるのが先だと思うぞ」
 ごもっとも。叔父の言うことは正しい。兄の妻子の警護以上に自分の今後を考えておかねばならなかった。今ここで脱出できたとしても、あの女が継子の命を諦めるとは思えない。また次の手を考えてくるはずだ。
「どうしたもんかなぁ。いっそ、オレの存在がなくなっちまえばいいのになぁ」
 埒もないことしか思い浮かばない。何度も命を狙われ続け、さすがに参ってしまった。もういい加減に決着をつけたいという思いも強いが、何もかもどうでもいい、とやさぐれた考えも頭に浮かぶ。
 だが、そんな複雑な気分を噛み締めるのも僅かな間だけだった。気を取り直し、身体を起こしたウラッツェは叔父に向かって腕を差し出す。
「まずはここから脱出しようぜ。肩を貸してくれや。今のオレの足は役立たずで、誰かの支えなしじゃ歩けねぇからよ」
 承知、と囁きが聞こえた後、叔父が背を向けた。屈み込んで背を向けられてもなお、ウラッツェは叔父が何をしたいのか理解できずに困惑する。
「負ぶってやるから背中に掴まれ」
「なんだと!? 肩を貸せとは言ったけど、ガキみてぇに背負ってくれとは言ってないだろうがよ。何考えてやがるんだ」
「肩を貸すよりも背負ったほうが移動するには楽だ。効率の問題だよ」
 アッサリといなされ、反論する口調も弱くなった。なんだかんだと理由をつけてはみても、最終的には叔父の言うように背負われたほうが早いのである。
「なんか……ものすげぇ屈辱を感じるのはオレだからか?」
 長身の甥を背負っても楽々と移動する叔父の背で不満を漏らせば、忍び笑いとともに問いへの答えが返ってきた。
「お前を負ぶって歩き回ったと、巡検使の局で吹聴できる機会を見逃すはずがなかろうが。局の女連中は地団駄を踏んで悔しがるかもしれんが、男連中は次逢ったときに囃し立ててやれると大喜びだろうよ」
 それもまた腹立たしい事態である。自身が望んだことではないが、ウラッツェは局にいる女たちにもよくモテた。一部の女たちには受けが悪いが、大多数の女たちはウラッツェが局に立ち寄ると歓迎してくれる。他の男たちはそれが面白くないのか、突っかかってくることも多かった。
「オレが何したってンだよ。薬を盛られて動けなくなったことがそんなに楽しいか? だったら連中にも盛ってやるぜ」
 人目を避けて馬車から飛び降りた叔父は巧みに移動して街道を反れる。馬車を動かしている役人も心得て動かしていたのだろうが、あまりにも呆気なく脱出できたことが逆に不安を煽った。本当に脱出できたのだろうか、と。
「腹を立てるな。やっかみは今に始まったことではあるまいに。一部の祭り好きの連中の相手なんぞしてる暇はないだろう? サッサと自分の足場を固めることを考えろ。でないと、大公家が崩壊するぞ」
「こんな面倒なことになるンなら、兄貴の跡なんか継ぐんじゃなかった……」
 グッタリと叔父の背に寄りかかり、ウラッツェは何度もため息をつく。
「あの女の性格を考えれば、お前が跡を継いだら揉めることくらい判っていただろうに。今さら愚痴を言っても始まらん」
「あの女の孫でもあるクラウダ・ソロスがいずれは跡を継ぐんだぞ? 自慢の息子の跡継ぎがいるんだから、ドッシリとかまえてりゃいいじゃねぇかよ」
 叔父が小さく首を振るのを認め、ウラッツェはその横顔を覗き込んだ。
「なぁ、ウラッツェ。お前だって一人前の男なんだぞ。今後、妻を娶らないとは言えまい。王太子の命令でどこぞの女を妻に迎えざるを得ない事態になるかもしれん。となれば、子どもが、特に息子が産まれるかもしれない。そのとき、お前の妻が次の大公に自分の息子を、と望まないはずがなかろうが」
 叔父の言わんとしていることは判る。が、ウラッツェ自身は自分が妻を得、さらに子どもを持つことなど考えられなかった。
「お前の存在は次の大公を決める要だ。情が薄くとも実の息子のケル・エルスを大公に据えて背後で操りたいと、あの女が願っても不思議はなかろう。同じ意味で、クラウダ・ソロスの母親であるエフルシュネも邪魔だろうしな」
 うんざりした気分で叔父の話を聞いていたウラッツェだったが、ふとあることを思いついて考えに沈む。実行した場合の影響がどれほどのものなのか、じっくり予測してみる必要があった。特にあの女に与える影響を。
「なぁ、叔父貴。オレが次の大公を決める要だってンならよ。オレがエフルシュネと結婚したら問題は解決すると思うか?」
 僅かに叔父の背が強張った。それを腕の下で感じ取ってはいたが、ウラッツェは気づかぬふりをして相手の答えを待つ。
「無難なやり方ではあるな。エフルシュネを妻に、娘と息子は養子に迎え、次の大公はクラウダ・ソロスを指名しておけば、一般的には問題は解決したように見えるだろうが……。たぶん、あの女に限っては無理だ」
「普通なら解決するのに、あの女の場合は駄目な理由は?」
「あの女がパラキストの大貴族の娘だからだ。しかもあの女の母親の実家がイントゥリアの血筋だ。その貴族勢力も絡んでくるから厄介だぞ」
「あー……。そういうことか。だけど、オレは他国の貴族のご機嫌まで取らなきゃならねぇのかよ。なんか理不尽だぞ、それは」
 ブツブツと不満を漏らせば、叔父の口から呆れ混じりの吐息が漏れる。
「実の息子のワイト・ダイスも気を遣っていた。母親だから、という理由だけでダイスがあの女の我が侭をこうまで許したと思っているのか? 他国の貴族との綱引きが背後に隠れているからこそ、部下を間者に放っていたんじゃないか。お前もそれくらいの強かさはあるだろう? 少しは頭を使え」
 面倒だと呟けば、ばか者と叱責が返されたが、叔父が決して本心で言っているわけではないことは肌で感じられた。
「それにな、ウラッツェ。お前が言うことを実行すれば、エフルシュネとリウリシュの関係は完全に決裂するぞ。嫁姑という間柄はただでさえ厄介だというのに、そこに実家の勢力図が関係してくるんだからな。残念ながらエフルシュネの実家はリウリシュの母親の実家より格下だ。横槍が入るだろうな」
「他国の勢力が大公家に影響を与える今の状況を、いつまでも許しておくわけにはいかねぇな。……となると、オレが大鉈を振るうしかねぇのか」
「そういうことだ。ダイスが出来なかったことをお前がやるしかない。腹を据えて取りかかる覚悟が必要だぞ。それも並大抵の覚悟ではない。最悪の場合、ケル・エルスすら切り捨てる覚悟がいる。判っているか?」
 ウラッツェは叔父の肩に顔を埋め、漏れそうになるため息を噛み殺した。
「その覚悟が出来ねぇから今の状況があるんだろうがよ。そうせっつかないで欲しいぜ。兄貴が出来なかったことをオレがやれると思うか?」
「やるしかないだろうよ。……ウラッツェ。ダイスと並び立ちたいなら、お前自身が泥を被るしかないんだぞ。他の誰かが代わるわけにはいかん」
 兄と並び立ちたいなどとは思わない。いや、かつては並び立つどころか超えてやろうとすら思っていた。が、いつの頃からかそんな思いは消え失せ、兄の存在を感じるときは複雑な想いばかりが湧き起こってくる。
 兄は最期の瞬間、母親に何を言い残したかったのだろうか。何かを伝えようとして、伝えきれないまま事切れた死に顔には無念さはなかった。だから、今まで深い意味など考えもしなかったのだが。
 もしも、あのときにワイト・ダイスが重要なことを口にしようとしていたのだったら、最期の言葉をリウリシュ妃に伝えられないままでいる状況は芳しいことではないのかもしれない。それとも、兄が伝えたかった言葉は継子のウラッツェから伝えるようなことではないのだろうか。
 なんでお前が死んじまうんだよ、と呟いた言葉は叔父には届いていなかった。耳に届いていたとしたら、また説教されただけだろうから聞かれていなくて良かったのだが、ウラッツェは独り取り残された気分であった。
「大公ってのは、意外と孤独なモンだよなぁ……」
「地藩の頂点に立つ領主だぞ。誰かに内心を打ち明けられるはずもなかろう。孤独とつき合っていくのも領主の努めだ。大なり小なり、家を継いでいく者は孤独との戦いを強いられる。そういう覚悟もお前には必要だろうな」
 遊民には家を守る感覚がないしな、と続く叔父の言葉にウラッツェは眉間に皺を寄せる。確かに遊民には家を守るという感覚はないが、仲間を助ける意識はどの民族より強いはずだ。それが軽視されている気がして気に入らない。
「遊民の身内意識を軽視してもらっちゃ困るぜ、叔父貴よぉ。結束の強さだけならどんな集団より強いだからな!」
 強い口調で反論している間にも街道から反れた測道脇に到着した。ようやく地面に降ろされ、ホッとしていると目の前に酒壺が差し出される。
「なんで酒? 今さら酔っぱらえってのかよ」
「薬だ。遊民からの差し入れだ。どういうわけか、オルトワにはお前の状況が筒抜けだった。こちらが知らせるより先に薬が届けられたんだよ。それと、この書き付けも一緒にな。まったく訳が判らない集団だよ、遊民ってのは」
 さしものウラッツェも呆気に取られた。なんという情報網だ。信じられない。
 彼が継母に拉致されたのは今朝のことである。太陽はまだ東の空にあり、拉致されてさほど時間は経っていなかった。それなのに元締めはすでにウラッツェが薬を盛られ、連れ去られようとしていることを知っていたというのか。
 改めて遊民が持つ情報網の緻密さに驚かされた。自身もかつてはその中にいたというのに、外側から見た遊民という集団は巨大な生物を眺めるような畏怖を抱かせる。各国の為政者が恐れ、利用したいと考えるのも頷けた。
 ウラッツェは手渡された書き付けに目を通した。遊民の間でだけ使われる変体文字にささやかな郷愁を感じたが、そこに書かれている内容から受けた衝撃のほうが遙かに勝り、彼は読み終わってもしばらく動けなかった。
「ウラッツェ? どうしたんだ? 元締めは何を言ってきた?」
 律儀にも叔父はウラッツェ宛の書き付けを盗み見るような真似はしなかったらしい。一般人には読めないが巡検使として各地を転々とする機会も多い叔父ならば、遊民が使う変体文字を読めるはずなのに。
「……ヨルッカが、死んだって……どういう、ことだよ?」
「ヨルッカだと? 巡検使だったお前の影を務めていた女のことか? その女が死んだって? 死因については書いてないのか?」
 まともな会話を続けようとする叔父の言葉が頭の中を上滑りしていく。
 ウラッツェがヨルッカの様子を確認したとき、彼女の怪我は死に至るようなものではなかった。心が多少は弱っていたが、それだって時間が経てば落ち着くだろうと思える程度のものだった。いや、だった“はず”なのだが……。
 書き付けにはヨルッカの死因までは書かれていなかった。彼女の死と、今後はウラッツェ自身が遊民と接触することを禁じる通達だけが簡素な言葉で記されていた。これっぽっちの文章で納得できるはずがない。
「オレ、元締めに逢いに行かねぇと。こんな……何かの間違いだ。ヨルッカが死ぬはずがねぇ。オレと話をしてたんだぞ。それなのに、まさか……」
「ウラッツェ? おい、しっかりしろ! お前、まともに考えることも出来ていないのが判ってるか? 今のお前が正常な判断を下せるとは思えないぞ」
 肩を揺さぶられ、ゆるゆると叔父を見上げれば、そこに強い困惑と焦燥を滲ませた瞳があった。なぜ叔父が戸惑い、焦っているのか理解できず、ウラッツェは幼い子どものように首を傾げる。
「叔父貴? オレはまともだぜ。ヨルッカのこと、確かめに行かねぇと……」
 あぁ、だが足が動かないのだった。と思い直して、叔父が手渡した酒壺の口を開けた。まずは届けられた薬を飲まなければ。足の麻痺が治らなければ、元締めに事の次第を確かめに行くことすらできない。
「待て、ウラッツェ! 薬を飲むな!」
 壺に口をつけようとしたウラッツェを制し、叔父がそれを取り上げた。
「何すンだよ! 早いところ足を治さなきゃなんねぇんだ、邪魔すンな!」
 いったい遊民に何が起こっているのか。それを確かめにいかねばならない。非常事態が起こっているとなれば手を貸してやらないと……。
「ばか者が! これが本当に薬かどうか判らないだろうが! 毒だったらどうするつもりだ! それに書き付けの内容を思い出せ。お前自身が遊民と接触することを禁じていただろうが! オルトワに直談判なんぞしに行くな!」
「元締めに直接問い質さないで、どうやってヨルッカのことが判るんだよ。オレがヨルッカを助け出したことを知っているのは一部の奴らだけなんだぞ」
「だからといって、大人しくお前を行かせると思っているのか!? 自覚が薄いようだが、お前は大公なんだぞ。何かあったらどうする気だ!」
 叔父は大声で怒鳴りつけたいのを我慢しているらしい。街道から反れたとはいえ、怒鳴り合えば人目に付く。押し殺された声の震えに叔父の抱える焦燥の深さが現れているようで、ウラッツェは気圧され、目を背けた。
「悪い、叔父貴。……けどよ。オレ自身が遊民と接触することを禁じられたからと言って、素直に引き下がっていたんじゃ真実は見えないままだ。たとえ禁じられても、オレ自身の眼で確かめてこなけりゃあ……」
 背けた視界の端で叔父の口が開閉するのが見える。何か小言を言われるか、あるいは遊民との関わりが断たれるような行動に出るだろうかと危惧したが、叔父の口から言葉は漏れず、凝り固まったように動かなかった。
「行かせてくれよ、叔父貴。このままじゃオレはどっちにも踏み出せねぇ」
 もしかしたら叔父が言うように遊民と接触した途端に何かが起こるかもしれない。それでも動かずにはいられなかった。
 頼む、と深く頭を下げれば、叔父は途方に暮れたように虚空を見上げる。その後はゆるゆると項垂れ、深いため息をついた。今日だけで叔父に何度ため息をつかせただろう。不肖の甥だと呆れ果てたに違いない。
「お前って奴は……。本当にばか者だな。どうしようもない」
 褒め言葉ではないのに、叔父の口許には笑みが浮かんでいた。但し、その微笑みは“苦笑”と呼ぶべき笑みであったが。
「オルトワが何を考えているのか判らない以上、無闇に近づいて欲しくはないんだがな。……お前は昔から自分が決めたことで引いたことがない。いや、状況が変われば引いたが、納得できないことには梃子でも動かなかったな」
 今ここで昔を懐かしまれても相槌の打ちようがない。叔父が自分のことを話しているという感覚が薄すぎた。過去の自分の振る舞いがどうであったかなど、ウラッツェは頓着してはいないのだから、それも仕方がないことである。
 叔父貴、と呼べば取り上げられていた酒壺を改めて手渡された。戸惑いながら受け取ったウラッツェの目の前で叔父は肩をすくめ、再び苦笑を漏らす。
「クラウダ・ヌーンやワイト・ダイスが生きていたら叱りつけられそうだが、私はどうにもお前には点が甘いらしい。本当は力尽くでも止めなければならないのに、お前が納得できるのなら行かせてもいいかと思ってしまう」
 父が叔父を叱ることはあっただろう。が、兄が叔父を叱ることなどあろうはずがない。父の異母弟に気を遣っていた兄が目の前の男を叱責する姿が思い浮かばず、ウラッツェは困惑を押し殺すために壺の首を握りしめた。
「狡猾に立ち回れるお前が、私の前では無邪気な子どものままだ。それを嬉しく思ってしまう時点で、お前と私の力関係は決しているのだよ、ウラッツェ」
 必ず無事に帰還することを約束させられ、薬を飲んだが、そう早く効いてくるはずもない。場所を移動して薬が効き始めるのを待つことにした。
 再び叔父の背で揺られながら、ウラッツェはあれこれと考えた。大公家や遊民のこと、父や兄、そして叔父のこと。異母弟のケル・エルスや継母も頭に過ぎったが、今だけはあの二人以外のことを考えたかった。
 どうしたら一人でも多くの者が平穏に過ごせるだろう。遊民との絡みも出てくるとなれば、下手な真似はできない。こういうとき父や兄ならどうしただろう、と思考は一点へ向かい、自身の変わり様に苦笑いが浮かんだ。
『オレも黒耀樹家の人間だってことか。大公家なぞどうでもいいと思ってたのに、今じゃ大公家のことを抜きにはできない。もしや親父がそう仕向けたか?』
 他人の真実は知らない。だが自身の望む未来が他人にも受け入れてもらえるものであることを願い、ウラッツェは叔父の背で小さく祈りの言葉を口にした。
幸いの女神に称えあれインナ・デ・ヘステータ……」