振動が伝わるたびに腕の関節が痛む。無造作に転がされた体勢で固い板台に身体が接しているのだから痛みも当然のことだろうが、ここまで扱いが粗雑だと呆れを通り越して笑えてくるというものだ。
このまま運ばれていけば目的地に到着する頃には腕の感覚がなくなっているだろう。そんな状況になる前に脱出するとしよう。
身体を起こしてみると少しふらついたが、縛られた縄から抜け出せないほどではなかった。捕らえた者らは彼のことを見くびっていたのだろう。後ろ手に手首を縛り、さらに両足首を縛ったことで安心している節があった。見張りすらつけていないのがいい証拠である。まったく、甘く見られたものだ。
相手の油断は彼が薬を嗅がされていたこともあるだろう。生憎とこちらは薬への抵抗をつけるために身体を慣らしているのだ。薬に対する年季が違う。それも向こうが読み違えたことの一つに違いない。
手首を縛る縄は厳重に巻かれているように感じられる。が、修羅場をくぐり抜けてきた彼からすれば、これでもまだ緩いと言えた。
何度か手首を捻って関節を外すと縄はさらに緩みを生じ、呆気なく彼を解放する。再び関節を戻して足首の戒めを解く頃には鼻歌すら歌っている始末だ。
「さぁて、ちぃっとばかり気を失ってはいたがまだ王都の敷地から出てはいないだろうし、早いところ戻らねぇとな。あのババア、今度という今度は許さねぇぞ。よりによって女子どもを楯にしやがって」
手首や肩の関節を静かに回して具合を確かめてみたが、問題なく動く。となれば、次はこの忌々しい荷駄馬車から脱出することだ。
幌をかけた荷台に荷物を積み、その隙間に放り込まれたのだから狭いのは当たり前であるが、周囲の荷物よりもひどい扱いにはむかっ腹が立つ。次に逢ったときには相応の報復をしてやらねば気が済まないというものだ。
どうやって仕返ししてやろうかと歯噛みした一瞬、異母兄の困惑した表情が脳裏を過ぎり、小さく身体が震えた。
「悪ぃな、ワイト・ダイス。お前さんの母親だから少しは敬意を払ってやりたかったがよぉ……。どうやらオレとあの女は水と油だぜ」
絶対に呼んではくれないだろうと思っていた自分の名を異母兄が呼んだとき、互いの間に横たわっていた深い溝が埋められた気がした。母が名付けたこの名を呼ぶことに抵抗があっただろうに。
咄嗟に叫んだだけだったのかもしれない。「止まれ、ウラッツェ」と馬上から叫んだ兄の声は背に届いていた。あの叫びを聞いた瞬間、何が何でも兄を連れて生きて帰らねばと思ったのである。
ウラッツェは諦めが多分に含まれたため息をついた。
結局あのときの決意は完遂されず、兄は戦死し、自分はのうのうと生きている。しかも兄が就いていた大公位に収まった。なんという皮肉だろう。兄の実母が怒り狂ったのも当然の成り行きと言えた。
だが継子の命をつけ狙う気持ちも判らないではないが、彼女の場合はやりすぎである。こちらとしても手を打つしかないではないか。
「ケル・エルスを追い落としたくはないんだがなぁ……」
ガリガリと髪の毛を掻きむしり、ウラッツェはぼやいた。口許をへの字に曲げる横顔は心底困った表情をしている。
「考え込んでいても仕方ねぇか。ともかく脱出してからだ」
立ち上がろうと膝を立て、ウラッツェは違和感に気づいた。
両足の感覚が妙に鈍い。膝や足先を叩き、その感触から麻痺状態に近いことを確認した彼はさすがに愕然とした。これでは立つことは出来ても歩くことは難しい。元大公妃が用意した薬は伊達ではなかったということか。
東方の薬は思わぬ効果を発揮することがあると言うが、今回の薬はかなり厄介な代物のようだ。未だに服に染み込んだ薬の匂いに辟易しているというのに、ここまでしつこいものだとは思いもしなかった。
「まずい。このままだと幻都に運び込まれて閉じこめられる。あそこに入れられたら王太子でも手が出せねぇぞ」
黒耀樹家の本拠地であるドロッギス地藩都はひどく秘密めいた都市である。切り立った山の間にひっそりと存在し、王都の西門からしか道が繋がっていないのだ。出入りする者らの数は限定され、監視される。
王都の奥に隠されている都市として有名だが、初代大公である剣王の弟が何を思って造らせたのかは謎のままだ。王都から伸びる街道の門を閉ざしてしまえば侵略されにくいが、それは裏返せば逃げられない袋小路とも言える。
土地柄のせいで住民は排他的な者が多く、黒耀樹家に盲従していた。いや大公家に忠誠を誓わない者は生きにくい土地だと言える。そんな場所からでは脱出は格段に難しくなってしまう。ただでさえ目立つ容姿だというのに。
「僧院でも即効性の毒なら随分と飲まされて身体に馴染んだと思うけどなぁ。遅効性の、しかも吸引する系統の毒物だってそこそこは慣らしたんだが、そっちは完全には馴染んでなかったってことか。厄介だぜ……」
父の命令で毒物に身体を慣らしていたとはいえ、この世にあるすべての毒に耐性をつけるのは不可能だ。今回使われた薬は網羅しきれなかった系統のものだろう。そこまで調べて使ったとしたら、あの女も大したものだ。
やったことを許す気はないが、あの執念だけなら凄まじいと感嘆できる。
父によって僧院に押し込められている間、ウラッツェは二つの人種とつきあいがあった。一つ目は継母側につく敵対者と私生児を蔑視してちょっかいをかけてくる邪魔者。二つ目は父に仕える臣下と彼らと関係している教育者だ。
次々と送り込まれてくる暗殺者は刺殺、絞殺、毒殺、ありとあらゆる手段を用いてウラッツェを亡き者にしようと暗躍する。それらを退けながら武術を学び、医術を学び、果ては毒を受け付けない体質へと改善するために服毒術まで学んだ。すべてが父の指示で、ウラッツェを生かすための知識である。
毒への耐性をつけるために、ごく薄くした毒を少量服用するところから始め、徐々に濃く、多量の毒を飲む術を身につける方法は、当初は抵抗があった。
遊民の感覚では毒は解毒するものである。一般庶民でも同じだろう。ところが王族となると毒を飲まされることを前提に行動するのだ。価値観の違いを受け入れるまでには随分と悩まされた感覚だった。
「オレの身体は毒が染み込んでると思ってたんだがなぁ。まだまだ足りないってことかよ。まったく際限がないぜ」
際限がないのは当然と思えるが、王族の価値観を植え付けられたウラッツェには以前の感覚に戻ることはなかろう。それもまた、息子を遊民へと回帰させない父の策略であったかもしれない、と今なら予想できた。
「とにかく毒が抜けてねぇなら解毒しなけりゃならねぇが……。ここには解毒するための道具もなけりゃ解毒剤もねぇ。着替えもねぇだろうなぁ」
幻都に運び込まれる予定の荷物に混じっている身であるから、周囲に積まれているものは必要な物資のはずである。手近な木箱を触って中身を予測しながら、ウラッツェは対処方法を導き出そうと首を捻った。
一刻も早く幻都へ近づくこの馬車から離れたいのに、肝心の両足が思い通りに動かないのだから、苛立ちばかりが募っていく。
ウラッツェの焦りをよそに馬車は着々と道を進んでいった。石畳を進む規則的な音が否応なく彼の緊張感を高める。薬の作用なのか、動悸までしてきた。
「こん畜生め! 荷物を片っ端から開けて解毒に必要な道具を探すしかねぇか」
もっとも時間がかかりそうな方法がもっとも確実な方法となりそうである。が、その方法も荷物の中に道具があったらという仮定での話だが。
力の入らない両足で移動するのはつらい。四つん這いになって手近な荷物に這い寄ると、腕の力と腹筋でなんとか立ち上がった。蓋に手をかけ、ウラッツェは留め金や締め具の状態を確認する。どうやら簡単に開けそうだ。
腰帯の隙間に指を突っ込み、留め金を外すための針を取り出した彼は薄暗い幌内で苦笑いを浮かべる。大公になってまで巡検使時代の道具を持つ必要があるのかと一度は疑問に思ったが、持っていて正解だったとは。手放すなと忠告してくれた、同じ巡検使の叔父に感謝せざるをえなかった。
素早く留め金を外し、蓋を少しずらして中身を確認する。やはり幻都に必要な物資を運んでいるのだ。そのついでにウラッツェを拉致する手伝いまでするとなると、この馬車の持ち主は骨の髄まで大公家に盲従する一派に違いない。
私生児が大公位に就いた現実を面白くないと思っている者たちは多かった。実力さえあれば問題ないと考える者以上にいるらしい。現実が厳しいことは知っていたが、こういう目に遭うとつくづく身分という枠を思い知らさせる。
望んだ品が荷の中に入っていないことを確認し終えると、ウラッツェはよろけながら隣の荷へと移動し、先ほどと同じ作業を繰り返した。
次々に開けられていく荷物に期待する品は入っていない。幾つも積み上げられた荷を降ろすわけにはいかないので全部の荷箱を覗くことは不可能だが、これだけ見て回ってないとなると、初めから積んでいないのかもしれない。
「チッ! もうこうなったら、後は血抜きをするしかねぇか。あれをやると身体が怠くなって動きづらいから困るんだがなぁ」
逃げる算段をしている者にとっては身体が動きづらくなる作用が出る対処方法は出来れば避けたいものだ。がしかし、この非常事態ではえり好みをいつまでもしているわけにはいかない。まずは逃げ出すことが先決だ。
ウラッツェは腰帯を解いて上腕部にきつく巻きつけると、先ほど取り出した針を構えて自身の腕をつぶさに観察する。
血管の目星をつけ、いざ針を刺そうとした瞬間を狙ったかのように、荷馬車が止まった。それまでは車輪が起こす音で気づかなかった周囲の喧噪も耳に入り、ウラッツェは辺りの様子に聞き耳を立てる。
かなりの馬車や人間が立ち往生している気配がした。人々のざわめきをよくよく聞いていると、どうも王都が封鎖されているらしい。しかも王太子の名で出された命令で、一切の例外を許さないという厳しさだ。
「城で何かあったのか? 間違ってもオレを助けるための措置じゃねぇと思うけどよ。……王子さまには肝心なときに役に立たないとか言われてそうだぜ」
解毒の処置をしなければならないのだが、王都封鎖と聞いて一気に脱力してしまった。とりあえず、例外なしの厳命ならば、しばらく馬車は動くまい。その間に両足の麻痺が取れるかもしれない。
それに人混みの中に紛れるにしても、今のウラッツェの格好では目立ちすぎた。大公屋敷内にいたため衣装は貴族のものである。なのに薬酒を浴びたお陰でしわくちゃだ。薬臭いのもいただけない。
「人目がなけりゃ逃げ出す絶好の機会だけどよ……。あぁ、ついてねぇなぁ」
幌に寄りかかり、ウラッツェは盛大にため息をついた。その寄りかかった幌の外からひそひそと囁く声が聞こえてくる。聞く気だったわけではないが、その囁きが耳に入り、彼は成り行きで盗み聞くことになった。
「しばらく動かないみたいだな」
「そうらしい。貴族の娘をさらった奴を捕まえるためだと言ってるが、王太子から下った命令となると元老院級の上級貴族か大公家、あるいは王家そのものに関わりがある姫君だろう。でなけりゃ、こうまで厳しくはしないはずだ」
ウラッツェの脳裏にアルティーエ王女の顔が浮かぶ。異形に身体を支配されかかった娘は無事だろうか。今回のことに関わってはいないだろうか。心配し始めるときりがないが、だからといって無視できるほど薄情にもなれなかった。
「面倒だなぁ。さっさと荷物を運び終わって酒の一杯でも飲みたいってのに」
「朝っぱらから何を言ってる。この仕事が終わったら別の仕事が待ってるぞ」
「でもなぁ。こういうのは性に合わないんだよ。後ろのアレ、例のあの人の継子だろ? そんなのと関わって何かあったらと思うとさ。それに、今ここで荷物を調べられたら終わりだろ? 絶対に調べて回るぜ、あれは」
「そんなことはさせんよ。こちらには黒耀樹家のお墨付きがあるんだからな」
確かに今ここでウラッツェが見つかれば御者の二人は捕まるだろうが、都市間の関所を容易く通過できる通行許可証をあの女が発行していよう。
今回は王太子の厳命で例外なしで足止めを喰らっているが、それが解除されたなら荷を調べられることもなく通り抜けられるはずだ。
その前に逃げ出す算段をしなければならない。と同時に、黒耀樹家の醜聞に発展しないような配慮も必要だ。継母の愚行の尻拭いは今に始まったことではないが、今回のことは最悪の例に入りそうである。
「大公閣下が発行しなさる許可証を公妃さまが発行しちまっていいのかねぇ?」
「良いも悪いも、今の黒耀樹家でもっとも権力を握っているのはリウリシュ様だろうに。あの方の言う通りにしておけばいいんだよ。それに……」
不意に御者の一人が口をつぐんだ。何事かとウラッツェが耳をそばだてていると、役人が御者に話しかける声が聞こえてきた。
「荷を改めさせてもらう。後ろの幌を開けよ」
息を飲んだ御者二人だけでなく、ウラッツェも呆気に取られる。
「いやっ。あの! この馬車は黒耀樹公直々の……」
「例外はなし、との王太子殿下の厳命である。幌を開けよ!」
有無を言わせぬ役人の態度に御者らは言葉を失った。きっと真っ青な顔をしていることだろう。同じくウラッツェの顔からも血の気が引いた。
ここで見つかれば命は助かるが黒耀樹家始まって以来の大醜聞に発展する可能性がある。そんな無様な状況を招くわけにはいかなかった。何よりも、亡き異母兄ワイト・ダイスに合わせる顔がない。
ウラッツェとしては父親や母親、継母や異母弟の体裁などこの際どうでもいいが、異母兄とその家族に対してだけは責任感がつきまとっていた。兄の家族らの先行きには一点の曇りとて許せるものではない。
王家の番人と自認する黒耀樹家すら例外を許さない強硬さを見せる役人が王太子と重なり、ウラッツェは深々とため息をつきながら肩を落とした。
「サァルシャァ・ヤァウーン……。頼むぜ、王子さまぁ。無茶すんなよぉ」
だが、どれほど愚痴や嘆きを口にしたところで、自ら行動しなければ解決するはずもない。ウラッツェはブチブチと口内で不満をもらしながら腕の力だけで移動し、荷台の片隅に押し込められていた予備の幌布の下に潜り込んだ。
彼が姿を隠した直後、幌幕が跳ね上がり、凡庸な顔の役人が荷台を覗き込む。
荷台の床と同化せんばかりにベッタリと平らになりながら、ウラッツェは見つからないことを心の底から祈った。逃げ出すなら自力で逃げ出す。役人に保護されるような形で公の場に姿を見せるわけにはいかないのだ。
世間でもウラッツェと継母との確執は面白おかしく噂されている。それを公衆の面前で認めるような状況になれば、目撃した人々は噂に尾ひれを付けて喧伝して回ることだろう。下世話な話のネタを提供してやる必要はないのだ。
荷台の上を歩き回る役人の足音が板に伝わり、床に身体を押しつけるウラッツェの心拍数に呼応するように響いてくる。緊張のあまり口の中は渇き、こめかみに疼くような痛みまで感じられた。
早く立ち去ってくれ、と願うウラッツェの希望も虚しく、役人はいっこうに荷台から降りようとしない。むしろ執拗に歩き回り、積んである木箱を叩いてみたり、荷袋越しに穀物を確認する慎重な気配が感じられた。
相手の身分によって態度を変えることがない役人というのは貴重である。彼が有能な公僕であることはよく判った。が、今回ばかりはそれが恨めしい。
「も、もういいでしょう、旦那! 調べが終わったら早いところ出発させてくださいよ。この荷物を待っている人が大勢いるんですから」
ハラハラしながら見守っているのはウラッツェだけではないはずだ。荷下ろしを兼ねた御者二人も生きた心地がしないだろう。
荷台の奥まった場所とはいえ、ウラッツェは無造作に転がされていただけだ。間違いなく見つけられると踏んでいるだろう。
発見された瞬間、彼らは逃げ出すはずだ。ウラッツェも見つかることを半ば覚悟している。役人の意識が逃亡した者に反れる一瞬が勝負だ。自力で逃げ切らねばならない。そのときまでに両足が動いてくれるといいのだが。
あまりにも分が悪い勝負だ。九割九分の確率で負けが決まっている賭事に挑むようなものである。間の悪さと運の悪さを呪うしかなかった。
「おい、お前たち。ここに落ちている縄はなんだ?」
ギクリと身を強張らせたウラッツェは己の迂闊さに舌打ちしたい気分だった。
先ほど抜け出した縄を処分していない。残された縄は役人の眼には不自然に映ったに違いなかった。御者らはどう切り返すだろう。上手く誤魔化せるのか、それともボロを出すのか。緊張のあまり吐き気までしてきた。
ウラッツェはそっと口許を押さえて吐き気をこらえた。
「縄、ですか? 縄……だけ?」
唖然とした男の声の後にバタバタと駆け寄る足音が響く。ウラッツェはいっそう身を固くし、すぐにでも飛び出せるよう身構えた。
だが、逃げる気力は残っていても、生憎とまだ両足の感覚は戻ってきていない。下手をすると立ち上がることすら難しいかもしれなかった。
近づいてきた者が息を飲み、激しく動揺する気配が伝わる。御者二人が気づかないうちにウラッツェが逃げ出したと思っているに違いなかった。薬を嗅がされていたのに逃げられようとは予想もしていなかったのだろう。
「ど、どうしたら……。まさか、こんな……」
「おい! この縄はいったい何に使っていたんだ。まさかお前たち、何か良からぬことに荷担しているのではなかろうな?」
「め、滅相もございません! この縄は……その、捕まえた狐を縛り上げておいたものでして。で、狐が逃げ出して……」
認めていないとはいえ、大公を指して“狐”とは随分な言いようだ。がしかし、ウラッツェは御者が例えた“狐”という単語に身震いする。
彼が巡検使であった頃、指令書に示される暗号名は“金狐”であった。それを知るのは王族と巡検使仲間だけのはず。
たとえ大公家で権力を握る継母であっても、隠されている名まで知っているとは思えないのだが、たった今、御者らは“狐”という単語を使った。
咄嗟に思いついた言い訳だろうか? あるいはウラッツェの素性まで知らされた上での当てこすりだろうか? 判断がつかないだけに、御者らの背後にいる継母の存在が不気味だった。どこまで知っているのか、と。
「狐がこんな器用に縄を抜けられるか? 普通、獣がつけるはずの噛み千切った痕などどこにもないではないか! 嘘をつくのもたいがいにせよ。本当のことを話せないとあれば、お前たちを拘束するしかないな」
「そんな! 勘弁してください。この荷物を幻都に届けないとならないんです。ここで足止めを喰らったら仕事を回してもらえなくなる!」
しかし役人は懇願に耳を傾けなかった。ドカドカと荷台に上がり込む足音が複数響き、喚き散らす御者を引っ立ててどこぞに連れ去ってしまう。残された気配は最初に荷台に上がっていた役人のものだけだった。
「さて、邪魔者はいなくなったし、詰め所の厩舎に馬車を運ぶとするか」
役人の囁きにウラッツェの中の何かが反応する。引っかかりを覚えた意識が、たった今聞いた言葉の意味を分析し始めた。
役人は邪魔者と言った。御者たちを指して、邪魔者と。彼らを邪魔と感じる者らがいるとしたら、それはいったい誰だろう?
ウラッツェが潜む予備の幌布のすぐ脇に、役人が屈み込む気配が伝わってきた。今ここで布をめくられたらどうなるのかと身を固くする。が、ウラッツェが見つめる先で布と床板の隙間が広がることはなかった。
バサリと何か布のような物が床に落ちる音がした。次いでゴトゴトと固い物が床に転がる音が続く。最後に役人が立ち上がる気配がし、ため息とも吐息ともつかぬ息遣いがウラッツェの耳に届いた。
「海都の守備に就く弟に王都の騒動はどう伝わるだろう? あまり大袈裟には伝わらないで欲しいものだが」
役人がゆっくりと遠ざかっていく。彼の独り言はまだ続いていた。
「たとえ王族であっても産まれてくる腹は選べない。ワイト・ダイス公も不運な御方だ。母親に恵まれなかったお陰でご兄弟とは疎遠だったとお聞きした」
ふと淋しげな苦笑が役人から漏れ、ほとんど吐息のような囁きが響く。
「せめてもの救いは、最期に長年の胸のつかえが一つだけでも消えたことだ」
それを聞き取れたのは、ウラッツェが巡検使として周囲の気配を読む癖がついていたからだ。でなければ、僅かな息遣いから役人の漏らした囁きを聞き取ることはできなかったろう。それほど漏れ聞こえた囁きは小さかった。
荷台の端に辿り着いた役人が立ち止まる。周囲の喧噪を眺めているのか、あるいは幌の内側を眺めているのか、僅かな沈黙の後に再び独り言が続いた。
「我らはワイト・ダイス公の意志を継ぐ。このドロッギスに不穏の種ひとつ残すわけにはいかん。如何なる高貴な華であれ、例外を認めれば際限がない」
荷台から飛び降りた役人が御者台へと移動していく。大地を踏みしめる足音には迷いがなかった。それを聞きながら、ウラッツェはそっと身を起こした。
安堵の吐息とはほど遠い、喉が詰まったような息を吐きながら、ウラッツェは役人が消えた幌口を見つめる。
「ダイス。なぁ、兄貴よぉ。お前さん、大した奴だったんだなぁ。オレはこれから、それに何度助けられることになるンかな……」
独り囁く間にも胸が詰まり、ウラッツェは自身の胸ぐらを鷲掴み、喘いだ。
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