混沌と黎明の横顔

第18章:轟神は睥睨す 6

 兄の顔色が悪いように見えるのは気のせいだろうか。あるいは本当にどこか具合が悪いのではなかろうか。
 サキザードは両親や兄がどういう道を辿って今に至るのか、その話を聞いたことよりも目の前の男の顔色のほうが気になっていた。
 父は故郷の島を出奔し、花都レパンタスで宿屋を経営する父親を亡くしたばかりの母と知り合い、結婚した後は知り合いの騎士のツテを頼って王宮に勤めるようになったことは、以前にも少し聞かされていたことだった。
 が、それよりも兄の生きてきた道のほうが衝撃的である。部屋の隅で話を聞いていたガイアシュなどは顔を強張らせ、息を潜めてこちらを窺っていた。
 奴隷の焼き印を押され、商人の戯童フェデールとなり、十五で兵役についたときに盗賊にさらわれ、巻き込まれた火事騒ぎで記憶を失ったと聞いただけでも息が詰まる思いがした。
 なのにサキザードには兄がまだすべてを語ってはいないのだと直感的に判ってしまう。血の繋がり故か、あるいは記憶を失ったせいで他人の内心を知らぬ間に探る癖でもついたのか。この直感は間違っていないという確信があった。
 砂漠での初恋や神都カルバに戻ってからの義妹とのやり取りが優しげであればあるほど、兄が辿った道の歪さが際立ち、これだけのことを語る気力がどれほど必要だったかを容易く想像できる。
 それでも語り尽くせていない兄の人生とは、いったいなんだったのだろう。自ら茨の道を歩いてきたのではないかと思えるほどの道のりだった。
「あなたは、幸せではなかったのですか……?」
 今まで一言も口を挟まずに聞き役に回っていたが、訪れた沈黙に耐えかね、とうとうサキザードは口を開いた。
 伏し目がちな兄の顔が上がり、黒炭を連想させる瞳と視線が絡まる。その瞬間に悟ってしまった。兄が話していない苦悩がそこに映されている。
 つらいこともあったが幸せだったと答える声の裏側に、今もなお苦しみを抱え、何もかもを吐き出せてはいないのだと、気づいてしまったことが良いことなのかどうか、サキザードには判らなかった。
「まだ、他にも話していただいていないことがあるのですね? わたしが知っておくべきことは、その中に含まれているのですか?」
 恐る恐る問いかけると、兄は曖昧な笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「他人の利害が絡むことは話してやれない。たとえ弟でも、いや両親であっても話せない。だが、そうではないことについては話すよ。お前が知っておくべきことなのかどうか判らないけど、知らないよりはいいだろうから」
 ふと兄がガイアシュを見遣る。それだけで部屋の隅にいる少年がいっそう身体を強張らせ、小さく震えていることにサキザードは気づいた。
「ガイアシュ。お前に話してやると約束していた内容はここまでだ。これより先はサキザードだけに話す。この先は俺の話ではなくサキザード自身に深く関係している内容だ。お前に教えてやるわけにはいかない」
 兄の意外な言葉にサキザードは眼を瞬かせる。自身に深く関係していることが何なのか予想もつかなかった。が、よほど大切な話があるらしいことは兄の雰囲気を見ていればすぐに判る。今まで以上に重要なことなのだ、と。
 首振り人形のようにカクカクと首を上下させたガイアシュがぎこちない動きで扉へと向かった。彼は今聞いた話をどのように受け止めたのだろう。
 先ほどまでの突っかかってきていた態度はすっかり消え失せ、動揺を隠せない様子でフラフラと部屋を出ていく姿にサキザードは少しだけ同情した。
 身内でもなく、自身に関係する内容などない他人の人生を聞かされたのである。しかも普通に生きてきたなら知ることもなかったであろう生き方だ。少年には酷な内容ではなかったか。特に兄を尊敬している少年には。
「香茶を淹れ直そうか。話をしている間にすっかり冷えてしまった」
 一口か二口飲んだだけの香茶は器の中で褐色の水面を光らせていた。香茶すら今の話に凍りついたのではないかと思えるほど、その水面は静まり返っている。茶の温度も身体を冷やすほどになっているはずだ。
 だが茶を淹れ直すと言う兄の言葉を無視し、サキザードは茶器に残る香茶を一気に飲み干す。案の定、胃の腑に落ちていく茶の冷たさに身震いした。
 味も落ちている冷めた香茶をわざわざ飲み干す必要などない。が、兄が淹れた茶を無駄にするのが気が引けた。そう感じるのは今までの話を聞いてしまったからかもしれない。
 彼の一連の動作に困惑する兄へ微笑みかけ、空っぽの茶器を差し出した。
「冷めても美味しい茶ですね。もう一杯、いただけますか?」
 頷き、静かに立ち上がった兄の表情は晴れなかった。次に語られる内容は今までの話よりも更に重苦しいものになるであろうことを覚悟した。
 沸かしたての湯を取りに部屋を出ていく兄を見送り、ホッと肩の力を抜いたサキザードだったが、兄と入れ替わるように扉が叩かれて小さく飛び上がる。気を抜いているところだったので身体が竦んでしまった。
 彼が咄嗟に返事を返せずに扉を見つめていると、遠慮がちに開かれた隙間からガイアシュが顔を覗かせた。兄に話があってきたのだろうか。
「彼ならいませんよ。たった今、茶を淹れる湯を取りに行きましたから」
「知ってる。階段のところで逢ったから。ジャムシードには内緒で来たんだ」
 素早く廊下を振り返り、人の眼がないことを確認した少年が部屋に滑り込む。そして何事かと問い返すより前に勢いよく頭を下げた。
「ごめん。さっきは言い過ぎた」
「今さら謝罪をされても無意味です。吾は同席することに合意したのだし」
「あなたがジャムシードの弟というだけで気にかけてもらえるのかと思ったら腹が立ったんだ。だけど今の話を聞いていて、それだけじゃないって判った」
 不愉快な気分が湧き上がったことに少年は気づかない。自分の中に溜まった思いを吐き出さずにはいられないようだ。何を言っても聞きそうもない。そういえば、イコン族というのは思い込みが激しい一面があるのだったか……。
「あなたに対して八つ当たりする権利なんかないのにひどいことを言った。オレのこと許してくれとは言わないけど、オレのとった行動のことでジャムシードにきつく当たるのだけはやめてくれないか」
 彼は間もなく十五になると聞いた覚えがある。その歳にしてはしっかりしているのだろう。先ほどまで険悪だった相手に潔く頭を下げるなぞ、大人でもなかなかできるものではない。が、今ここでの謝罪は気分の良いものではなかった。またしても兄抜きで話を進めようとしているのだから。
「吾に許しを乞う気がないのなら出ていってもらえますか。今はあなたと話をしたい気分ではありません。ここより先はあなたが傍聴していい内容ではないと聞いたでしょう? 兄との話し合いを邪魔しないでもらいたい」
 大人げない態度だとは思う。兄の話をすりあわせれば、自分は十九だというのに年下の少年相手に何を意固地になっているのだろう。理性は己の言動に呆れているが、実際に口を突いて出る言葉は意地が悪いものばかりだった。
「兄に見つかると面倒なことになりますよ? 早く出て行ってください」
 何か言いたげなガイアシュの表情が視界の端に映ったが、サキザードはそれを直視する勇気が持てず、窓の外に広がる空を見上げて少年を無視した。
 どれほどもしないうちに扉が閉まる音が響く。少年はあれ以上何も言わずに部屋を出ていき、ここには自分ひとりだけだ。気を塞ぐ後悔が口腔いっぱいに広がっていたが、少年を追いかけていって謝罪する気にはなれなかった。
 不意に兄の哀しげな表情が頭に浮かぶ。今の態度を見たら悲しむだろうか。それとも呆れ果てて見捨てるだろうか。どちらにしても噛み締めている後悔が消えることはないのだ。自身の行動の責任は自身しか取れないのだから。
 兄が戻るまでの間、サキザードは今聞いた話を反芻していた。
 なぜあれほどの経験を経た兄が娘のジュペや妻のハムネアを容易く手放せるのだろう。若くして戦死した父のことを思えば、妻子と別れるつらさは言葉に尽くしがたいものがあるだろうに。
 弟といっても自分は産まれてすぐに里子に出され、兄との関係は無いに等しいのだ。実の弟に向ける遠慮がちな執着など妻子への情に比べれば薄いと考えて当然であろう。なのにどうして兄はかまってくるのだろうか。
 兄が何を見て、どう感じているのかがサキザードには判らなかった。ここまでの話の内容では、兄の感情はあまり語られてはおらず、淡々と事実を積み上げられてきただけだから仕方がないことかもしれないが。
 後で兄がどう感じているのか訊ねてみようか。不快に思うかもしれないが、自身と兄との間に横たわる溝を埋めるためにも必要なことだと思えた。
 そこまで結論を出したところで湯を満たした茶器を盆に乗せ、兄が戻ってきた。途端にガイアシュのことが思い出され、サキザードは眉間に皺を寄せる。
「今度は茶葉を変えてもらったよ。父さんの故郷で栽培されている茶葉だ」
 子どもの頃によく飲んでいたんだ、と語る兄の表情は先ほどよりは明るかった。蒸らし終わった茶を器に注ぐ横顔も穏やかである。兄にとって父や母の想い出は貴重なものなのだろうと想像できた。
「両親の仲はどうでした? あなたはどんな子どもだったのです?」
 豊かな湯気に包まれる茶器を受け取り、サキザードは一口啜った。喉を落ちていく熱がじんわりと身体を温める。その温度が兄の過去を訊ねる勇気をくれた。感情を伴った兄の過去を知ることが有意義なのかどうか判らなかったが。
「両親は喧嘩もしただろうけど仲が良かったよ。少なくとも子どもの前でみっともない罵り合いをすることはなかった。それと、俺が子どもの頃はと言えば、あまり褒められた子どもじゃなかったよ。悪戯と喧嘩が日常だったから」
「喧嘩? あなたが!? まさか、冗談でしょう!?」
「いや、本当に喧嘩が日常茶飯事だった。大人相手でも喧嘩をすることがあったよ。もっとも勝ち負けよりは自分の怒りをぶつけるのが目的だったんだけど。だから逃げ足の早さでなんとか切り抜けたことも多かった」
 ふと先ほど階下で怒鳴り声を上げていた兄の姿が思い出された。たぶん子どもの頃も自分の納得がいかないことに対しては果敢に食ってかかっていったに違いない。そういう不器用さは変わっていないのだろう。
 ガイアシュとのやり取りを振り払うように質問したのだが、穏やかな表情で話をする兄の顔を見ていると、今までの厭な感情が薄れていった。
「喧嘩や悪戯ばかりでは両親に叱られたでしょう?」
「そうだな。よく叱られた。特に父さんに叱られるときは戦々恐々だった。子どもだからって容赦しないから。殴られたりはしなかったけど、泣きたくなるくらいの罰を与えられたことは数知れないよ」
「罰? いったいどんなことを?」
「うーん……。一番多かったのは衣装箱の中に押し込まれて一晩出してもらえなかったことかな。鍵がついてない箱だから、一晩中蓋の上に父さんが座り込んでいるんだ。呼ぼうが泣きわめこうが絶対に返事をしてくれなくって。蓋を叩いた感触から父さんが座り込んでいることは判るのに返事がないからさ、このまま独りぼっちにされるんじゃないかと怖くて怖くて」
 子どもの感覚では恐ろしい罰だったのだろう。第三者的な視点から見れば、衣装箱の蓋を挟んで一晩中根比べをしている父と息子の様子に呆れるやら可笑しいやらといった感じだが、顔をしかめる兄の表情から察するに本当に怖い思いをしたらしいことは充分に理解できた。
「次の日の朝には出してもらえたんでしょう?」
「夜が明けてすぐくらいに母さんが呼びにくるんだ。前の晩は俺も父さんも夕食抜きだから腹ペコだよ。しかも俺は喉が枯れるくらい叫んだ後だし。もっとも父さんは徹夜明けみたいなものだから翌日の仕事は大変だったと思うよ。今さらだけど、あの罰は父さんにもきつかったんじゃないかな」
「褒められたこともあったのでしょう?」
 他愛ない会話をすることがこれほど楽しいと感じるのは記憶を失って以来、これが初めてかもしれない。笑っている兄を見るのも嬉しかった。
「褒められたことか……。色々あったよ。母さんの手伝いをすれば両親だけじゃなくて近所の大人からも褒められた。なぜ褒められるのか判らなかったけど、今から思うと騎士の息子が家事をこまめに手伝うのは珍しかったのかもしれないな。両親はそうは思っていなかったみたいだけど」
「他にもあるでしょう? あなたは悪ガキだったと言うけど、両親には愛されていたのでしょうから。叱られてばかりで両親を慕えるとは思えません」
「そういえば、父さんに泳ぎを教えてもらったとき、いつになく上手く泳げたときも褒められた。その後、水が苦手になって十年以上泳いでいないけど」
 サラリと口にしたつもりだろうが、兄の口許がひきつったことに気づいた。きっと水が苦手になった理由は兄が語ろうとしない辛い記憶に含まれている。
 茶請けの焼き菓子を勧められ、サキザードはそれをつまみながら考え込んだ。
「サキザード。お前が里子に出されたことなんだが……」
 固い兄の声に「あぁ、ついに来たのか」と胃が縮み上がる。
 兄の生き方は所詮は他人事で、聞いている分には楽しかった。だが次に兄の口から飛び出してくる言葉の数々は自分に関係してくることなのである。怯えるなというほうが無理な話ではないか。
 サキザードは耳を塞ぎたい衝動をなんとか堪えた。が、兄の表情と同様に自身の顔も強張ったであろうことは、銅板鏡で確認せずとも明らかである。
「お前が、里子に出されたのは、俺のせい、だ……」
 途切れがちに、絞り出すように囁かれた兄の言葉にサキザードは眼を瞬かせた。なぜ里子に出された理由が兄と関係しているのだろう。
「お前は神都カルバに入る少し前に産まれた。当時、俺は母さんと引き離されていてどんな状況での出産だったかは判らない。けど後で知った母さんの様子から楽な出産ではなかったことは予測できた」
 俺は抵抗ばかりして奴隷商に睨まれていたしな、と兄が苦く囁いた。震えそうになる両手を組み、固く握りしめながらサキザードは続く言葉を待つ。
「母さんは奴隷を買いに来た男と交渉して、お前を里子に出す代わりに俺を一緒に買うことを了承させた。元々買い手は赤ん坊を産んだばかりの奴隷を探していて、子どもまで買う気はなかったらしい。それを俺は奴隷商から聞かされた。そのとき言われたんだ。俺が奴隷商の許に残るなら弟は母親と一緒に買い手に渡す、と。だけど、俺は……残るとは、言えなかった」
 血の気が引いていく。一瞬、目の前が暗くなり、ゆっくりと視界に明るさが戻ってくるを感じながら、サキザードは目の前の男を凝視した。
 咄嗟にどう切り返せばいいのか判らない。兄の言葉を言葉としては理解できても、意識の上を引っ掻きながら通り過ぎていくばかりだ。ただ兄の後悔に満ちた表情が胸に痛いばかりである。
「お前に奴隷の焼き印が押されることは免れたけど、結果としてお前から母親を奪ったことに変わりはない。俺は二十二の歳まで母さんとの想い出があるのに、お前には家族の想い出を残してやれなかった」
 再び目の前に暗い陰が差し、サキザードは組み合わせて肘をついていた両拳に額を押しつけ、漏れそうになる苦鳴を砕くように奥歯を噛み締めた。
「もし、あなたが奴隷商の許に残り、吾が母親と一緒に買われていった場合、あなたはどうなっていました? それと吾や母はどうなっていたと思います?」
 答えは薄々と予想できる。たぶん兄も同じ結論を導き出しているはずだ。なのに敢えて口に出して問いかける行為の残酷さに自分でも身震いする。それでも確認せずにはいられないほどサキザードは動揺していた。
「俺の背に押されている焼き印は戯童のものらしい。だからどこかの娼館に売られたか、あるいは、まだ賞金を稼ぐほど頭角を現していない戦奴ドールの慰み者にでもされただろう」
 戦奴の持ち主が戦奴としての能力が低い者を高い者の相手にあてがうことは、歓楽街エルマイナに頻繁に出入りする者なら誰もが知っている。これは飾り細工職人として娼館に出入りがあったジャムシードが知らぬ間に身につけた知識の一つだった。
 記憶を失っているとはいえ王国内の知識は覚えているサキザードだが、歓楽街への出入りは無かったか無いに等しかったのだろう。知らぬ情報に思わず顔を上げ、唖然とした表情で兄の顔を凝視した。
「お前と母さんがどうなったかは判断が難しい。赤ん坊を戯童にするとは思えないから、しばらくは安全だったと思う。だけど、その後がどうなのかは……」
 兄が言葉尻を濁したことで、サキザードは自分が出した結論に確信を深めた。兄が辿った生き方の一部を自分が強いられたであろうことを。
 吐き気がこみ上げ、サキザードは口許を押さえた。そうでもしないと戻しそうである。あるいは怒りの咆吼を上げていたかもしれない。
 数多の感情が一度に押し寄せ、それを処理しきれなかった。
 母を奪われたと腹を立てたいのか、過酷な生き方を強いられなかったと安堵したいのか、あるいは今さらそんな話を聞かせるなと嘆きたいのか。何がなんだか判らない。自分の気持ちをどこへ向けたらいいのだろう。
 一瞬一瞬で心模様は変わり、サキザードは感情が高まりすぎて自身が目に涙を浮かべていることにすら気づかなかった。
 兄に名前を呼ばれ、遠慮がちに抱きしめられた瞬間、目尻から決壊した涙と一緒にグルグルと暴れていた感情が一気に噴き出した。
 混乱は答えをくれない。むしろ自分の心が判らず、戸惑うばかりだった。
 抱き寄せられた体温に縋り、サキザードは小さく震えた。何をどう感じているのかすら判らない状態が、これほど心を脆くするとは想像だにしていなかった。もっと冷静に話を聞けると思っていたのに、なんという体たらくだろう。
「無理にあれこれ考えないでくれ、サキザード。俺は俺が感じたことを話しているけど、それをお前に押しつけたいわけじゃない。俺の謝罪も後悔も、お前の考えとは別の場所にあるものだ。お前はお前でいればいいんだから」
 耳元で囁かれる言葉の震えに気づき、サキザードが泣き顔を上げると、深い闇色をした瞳が目の前で揺れていた。涙のにじんだ視界では兄の細かな表情までは判らない。だが、今この瞬間に相手の感情もひどく揺れていることは抱きしめられている腕から伝わってきた。
「どう、してっ! なぜ、そんな……ッ!!」
 兄のせいではないと判っている。だから責めているわけではないのだ。しかし、言葉が詰まって思ったようにしゃべれない。それを判ってもらいたい。
「すまない。この話だけでお前がこんなに混乱するとは思わなかった……。残りの話は後日にしたほうがいいだろうな」
 サキザードは縋っていた兄の腕を強く掴んだ。ここで離れたら、もしかしたら兄は二度と話の続きをしてくれないかもしれない。それは自分たちの間に横たわる歪みが修正されないまま過ぎていってしまうことを意味した。
「イヤ、ですっ! 話をすると、約束したでしょう! 吾は最後まで……」
「約束は守る。だけど、お前は今とても混乱してる。もう少し落ち着いてからじゃないと続きは話せないよ。今日のところは両親の話をしたし、俺の子どもの頃の話もできた。残りのお前に関する話は次にしよう?」
 兄が紡ぐ言葉ににじむ恐怖が伝わる。何が彼をこれほど怯えさせているのか。そう感じたとき、サキザードの高ぶった感情は落ち着いていった。まだ身体の震えは止まらないが涙が頬を濡らすことはない。
「もう、大丈夫です。だから、話の続きを……」
「ジャムシードさん! そこにいますか? 出てきてください。緊急事態です」
 叫び声がサキザードの声を掻き消した。扉を激しく叩く音が響き渡る。館の主人タケトーだ。彼がこれほど焦っているのは珍しい。
 見上げれば、しかめっ面をした兄と眼が合った。互いに邪魔が入ったことに苛立ちを感じているのが判る。
「すまない、サキザード。タケトーさんと話をしてきてもいいか?」
 問いかけだが、兄の中ではタケトーと話をするのは決定事項だ。沈黙を通そうにもタケトーはジャムシードが顔を出すまで叫ぶのを止めないだろう。この喧噪を止めるには相手の言う緊急事態の内容を聞くしかないのだ。
 がしかし。きっとその内容を聞いたなら兄は部屋を出ていくだろう。サキザードは再び自分が蔑ろにされた気持ちに陥り、不機嫌に兄から顔を背けた。
「吾の返事がどうであれ、あなたは席を立つ気ではありませんか!」
「約束は守ると言っただろう? 俺は必ず戻ってくるよ」
 離れようとした腕を取られ、再び抱きしめられた。今度は骨が軋むほど強い力で、サキザードの呼吸が詰まる。すぐに解放され、彼がホッと息をついている間に兄は立ち上がり、忙しない足取りで扉へと向かった。
 細く開けた扉の隙間から兄がタケトーと話す後ろ姿を見つめ、サキザードは顔を歪める。兄の背中に漂う緊張感が伝わってきた。館の主人が直々に伝えにきた内容は兄を部屋から連れ出すのに充分なものであるに違いない。
 二人の話が終わり、振り向いた兄の表情を見た瞬間、サキザードは己の感情を押し殺した。戻ってきた兄が苦しげな表情でサキザードの顔を覗き込む。
「出掛けなければならない。今日中に戻るから、それから話の続きをしよう」
 兄の掌が頬を撫でる感触に目を細めると、額に口づけが落とされる。慣れない感覚に戸惑ううちに、兄は背を向けて部屋を出ていってしまった。
 サキザードは閉ざされた扉を見つめる。兄にはお見通しだ。拗ねた弟をなだめる手管に歯噛みしたが、消えたはずの温もりを追うように指先が額を撫でる。
 扉から目を背け、外を見た。そこには自分たちに似た曖昧な色の空が広がる。ため息を殺すようにサキザードは唇を噛みしめ、空を睨んだのだった。