混沌と黎明の横顔

第18章:轟神は睥睨す 5

『そろそろぉ、限界だと、おもうのよねぇ。これ以上は、むりー』
 足許にうずくまる気配にアインは緩やかに覚醒した。今までも眠り込んでいたわけではない。休眠状態に近い意識にして余分な魔力の消費を避けていただけだ。それにも限界が来ていることは自分自身が一番よく判っている。
「だがジャムシードの用意が出来上がっていない。あと少し……」
『あとすこし、と言い続けて、ここまできたんでしょー? もうあとすこしは無しぃ。こっちも眠ってるのは限界なのよぉ』
 自分が休眠状態に陥っていた関係上、この者にも同調作用が起きていることは理解していた。間延びしたしゃべり方がそれを物語っている。
 とはいえ、元から成長段階に合わせるかのように態度や口調が変化する相手なので、今のしゃべり方が意識に引きずられているのか、それとも自身の成長度合いに合わせた停滞期の症状なのかは判らなかった。
「ジャムシード自身に核を守るだけの魔力を操る力がまだ備わっていないのだ。それを怠っていたツケを支払う覚悟はある。だから、もう少しだけ待て」
『もうっ。そんなことばっかり言って。ある日突然、麻痺状態に陥って構築してきた結界が崩壊しても知らないから!』
 自身の覚醒具合に同調して相手もしゃべり方がまともになってきている。やはり先ほどの間延びした口調は休眠する意識に引きずられたものだったのだ。
「ジャムシードには最優先で高速呪文の基礎を……」
『そんなことしてたら間に合わないってば。核の周囲に張った結界の力を信用して、早く器に移ってよ。このままじゃ喰われちゃうわ』
 大袈裟に身震いする気配にアインは苦笑を漏らす。以前の幼子のごとき口調と態度から随分と成長したものだ。こうなると判っていたら、ごり押ししてきた交渉相手と荷物のやり取りのように押しつけ合わなかっただろうに。
「器はどこにある? その器はお前自身のものだろうに、私が乗っ取ってしまっては支障が出るのではないのか?」
『意識を区切るから大丈夫。それより同調してるあなたが喰われたら、こちらまで魔力を喰われちゃうんだから! あまり我が侭言わないで』
 我が侭の一言で片付けられようとは思わなかった。が、確かに端から見ればアインの我が侭なのだろう。人間に関わろうとする一族の者は極端に少なかった。沈黙し、人間をやり過ごすのが一族のやり方なのだから。
 ところで、その我が侭を一族以外の者から指摘されようとは思いもしなかった。それほど我が侭の度が過ぎるのか、あるいは一族以外の者から見ても我が侭としか映らないのか。それをアイン自身が判断することは出来なかった。
 アインがなんとも答えようがなくて沈黙していると……。
『まぁね、あなたの場合は少しくらい我が侭を言ったところで、さしたる差はないと思うわけ。本当ならあなたの言うようにじっくりと時間をかけて教育したほうがいいから。でも状況が状況なわけでね、そうそうのんびりと構えていられないのはあなた自身が一番よぉっく判ってると思うのよ』
 とてつもなく年下の存在に噛んで含んだように言い聞かされる自分はなんなのだろう。何か根本的に相手が誤解しているのではないのか。
 微妙な心持ちでアインは遠い眼をして虚空を振り仰いだ。もちろん意識世界で虚空も何もない。虚空を仰いでいる気分でいるだけのことだ。たぶん、人間ならこれを途方に暮れるとでも表現するのではないのか。
『ねぇ、ちょっと。真面目に聞いてる? もしかして全然聞いてなかったの?』
「聞いている。状況をよく考えろ、と言いたいのだろう?」
『なんだ判ってるじゃない。だったら早速次の行動に移すべきでしょうね。時間が経てば経つほど腰が重くなっていくと思うのよ』
 指摘はもっともだが、もう既に腰が重い。というか気が重い。このまま核に張り巡らせた結界をそのままに宿主から離れていいものか。一歩間違えばジャムシードは聖なる息子ル・オルグに喰い殺されてしまうのに。
『あぁ、ほらほら! もうやる気がなくなってるじゃないの。いえ、そうじゃないわね。もともとやる気がないから動けない、と。困ったわねぇ。ここできちんと行動してもらわないと器を貸す意味がないのだけど』
 ご指摘いちいちごもっとも、と口内で呟き、アインは浅いため息をついた。仰いでいた虚空から足許に視線を向ければ、水晶色をした摩訶不思議な瞳と視線が絡まる。なんとなく落ち着かなくてアインは視線を反らした。
 真実の深淵を覗き込んだなら、こんな気分になるのかもしれない。と埒もないことを考えながら、抱き込んだままになっている剣に寄りかかった。
「離れ難き理由は心配だからだというだけではない。私の中にある罪悪感が鎖となって雁字搦めにされているからだ」
 ほんの一瞬の間が空き、座り込んだ膝にかすめるような温もりが寄り添う。
『罪悪感なら誰だって多かれ少なかれ、なにがしか持っているものだと思うわ。あなたの場合、その度合いが極端なんじゃないかとは思うのだけど』
「そうなのかもしれない。あるいは罪悪感など持たない者もいるだろう。私のように望まれても期待に添えない生を受けた者にとっては、この感情は四六時中つきまとうものだが。だからこそ、巻き込んでしまうジャムシードに対して持つ罪悪感は強い。特に彼は家族への思い入れが強いし……」
 まだ腕白盛りだった子ども時代のジャムシードを思いだし、アインは再び浅いため息を吐きだした。父親に似て乱暴なところはあったが、母親の教育が良かったのだろう、総じて正義感の強い子どもだった。今でもその面影は残っており、彼の土台を作る強い要素となっている。
 そんな背景を持つジャムシードに向かって人に対して距離を取れと伝えねばならないのだ。人ではない存在になれ、と。人と関わるな、と。そう伝えねばならない。そして、そうする理由を教えたならどれほど傷つくかを考えると、伝えることを先延ばしにしたくなってくるのだ。
「知らぬままやり過ごせたなら良かったものを。彼の核は目覚めてしまった。どう足掻いても“終焉”をもたらすのは彼しかいない。一族の者らも繭の中で固唾を飲んで見守っているはずだ。いや、場合によっては干渉することも辞さない覚悟をしているかもしれない。積極的に関わる者も出てくるだろう」
『干渉してくる者の存在は仕方がないでしょうね。それを言うなら我々だって干渉者のうちに入るのだし。ところで、宿主は異質な者への嫌悪感を抱いているのかしら? 以前に見た感じではそんな印象は受けなかったけど』
 柔らかな毛並みが温もりを伝える。傍らにある小さな命の存在に、思いがけず救われる形になり、アインは自身の脆弱さを突きつけられた気がして苦い笑みをうっすらと浮かべた。
「ジャムシードは異形に対しては嫌悪感を持っていないだろう。私で慣れているし、これまでの言動から見ても存在そのものを拒絶はなかった」
『だったら、なおさら教えてあげないと、ね。拒絶しないということは、多少はこちらを信頼してくれているか、してくれる可能性があるのよ? その信頼に応えるべきではないかしら? ここで彼との関係を崩してもいいの?』
 痛いところを突かれ、アインはいよいよ表情を歪める。
「判っている。彼が多少は私を信頼していることは。だからこそ、だ。これから伝える内容で、ジャムシードに拒絶されるかもしれんと考えると……」
 膝に寄り添う温もりが小さく息を漏らした。諦めの吐息か、呆れたためのため息か。ジャムシードのことに関してはいつまでも優柔不断に迷い続けているアインにとっては身が竦む思いがする相手の動作であった。
『どうしても伝えづらいのかしら? あなたから伝えるのが一番だと思うのだけど。まったく面識のない者や敵対している者から情報が伝えられる危険性を考えている? それこそ宿主は異形全体を拒絶しかねないわよ?』
 押し黙り、アインは小さき者が指摘した可能性について考え込む。伝えることで損なわれる信頼関係にばかり眼が向いていたが、他の者から伝わる可能性やその危険性についてはほとんど考えたことがなかった。
 これまでも同等の危険にさらされてきたというのに、なぜそこに思い至らなかったのだろう。以前に聖なる娘ル・ファレの巻き起こした騒動で経験済みだったというのに情けない。
「私は独りよがりの身勝手な存在だな。自分のことばかりを優先して、ジャムシードへの影響力など思いも及ばなかった」
『あなたが独りよがりで身勝手な存在かどうかは知らないけど……。我が主から離れてあなたに手を貸す以上、あなたとあなたの周囲に最善の結果がもたらされるよう考えるのが仕事なのよ。可能性はいくらでも示すわ』
 今まで以上にベッタリと膝に温もりが張り付き、グルグルと喉が鳴る。甘えているように見えるが、実は慰めを含んでいることがすぐに察せられた。
 剣から片手を離し、アインは傍らの温もりをゆっくりと撫でさする。柔らかな毛並みがくねり、いよいよ喉が大きく鳴った。
「動くしかないのだな。沈黙が良い結果を招く時期ではない。私も最善を尽くす努力を惜しまないことにしよう」
『それじゃあ、早速こちらに器を呼び寄せるわ。……大丈夫よ。ここを離れたからといって、宿主の側にいられないわけじゃないもの。むしろ今まで以上に宿主にこちらの気配を感じさせることだってできるわよ』
「お前に言われると本当にそうなる気がしてくるよ。不思議なものだな」
 愉しげに頭を揺らす小さな存在に落ち込んでいた気持ちが救われる。アインはしっかりと頷きながら掌中の剣を抱き寄せ、口許に微苦笑を浮かべた。




 地平線の先に見える山の頂から立ち上る煙にレイゼンは顔を歪めた。故国の遙か北方に広がる原生林は人の手が入っていない地である。あそこで今、何が起こっているのかを知る術はないのが口惜しかった。
「父上が出立するというのに異変が起こるとは……。いや、もしや父上の出立だからこそ異変が起こった、といううがった見方もできるか」
 忌々しげに呟く彼の視線は天を覆い始めている黒煙に注がれ、端正な顔に暗い翳りを色濃く浮かべる。彼の性格を知らぬ者が見たなら、その憂い顔に心騒がせ、気が晴れるよう心を砕いただろう。
 残念ながら父親にねじくれた性格と評される彼に、他人からの慰めなど笑止千万だった。己の憂いなら己で払う、と豪語するであろうレイゼンの態度をよく知る者にとっては、憂いを秘めた横顔は詐欺のようなものである。
「シヴァンが戻ってきてからろくなことがないな。父上はのらくらしておるし、フィユーゼ叔父も相変わらずヘラヘラしておる。まったくもって世も末だ」
 ブツブツと独りで愚痴をこぼす彼の様子を見守る者は誰もいなかった。
 父親から家督を譲り受けた身で、本来なら父親が果たす今回の役目は彼が担うのが当然の成り行きなのである。が、父が頑として譲らなかったために久々に親子で言い争いをしてしまった。まだまだ父に口で勝てるはずがないのに。
「さて、かの山が噴火したとなれば父上も不安になろう。どうせオルトワに逢うために喜々として出掛けていかれるのだ。その気分に水を差してやろうぞ」
 口角を歪め、意地悪げに目を細めたレイゼンは自室の窓を離れて、出立の最終準備に入っているであろう父親の私室へと足を向けた。
 先ほどまでは言い争いの名残から最後の見送りだけに留めようと思っていたが、異変に気づいたからには再び父親と嫌味の応酬をするだけの価値があろうと判断したのである。でなければ、自ら部屋を出るものか。
「父上、お耳にお入れしたいことがありますがよろしいか?」
 言葉では許可を求めているが、実際は許しを乞わずとも父の私室に足を踏み込み、再戦する気満々でいた。完全にやりこめることはできずとも、一矢報いてやらねば溜飲が下がらぬというものである。
 軽やかな風が吹き込む室内を見渡し、いつもの位置で見慣れぬ水盤を覗き込んでいる父親の横顔を見つけ、レイゼンはムッとした。あれは魔力が秘められた水盤に違いない。ということはオルトワと連絡を取っていたのだ。
 公国の大貴族として暮らしながら、なお昔の仲間との縁を絶とうとしない父の心情が理解できない。その日暮らしのいい加減な生き方をしていた時代など忘れてしまえばいいのだ。ただでさえ父の過去は醜聞だというのに。
「父上、老婆を口説き落としたところで益などありませんぞ」
 真剣な面持ちの横顔に腹が立ち、レイゼンは嫌味をたっぷりと含んだ口調で呼びかけた。反論してくるであろう相手の反応をワクワクと待ちかまえている辺り、彼のねじくれ具合が判ろうというものである。
「誰が老婆だ。遊民の元締めを捕まえて老婆なんぞとほざいては夜道を歩けぬぞ。如何にアルド公国の宮廷に出入りする身とはいえ言葉は慎め」
「何を仰る。五十過ぎの女を老婆と言わずしてなんと言うのです。我が家の格式から考えても、遊民ごときに気を遣う必要がどこにありますか」
「それを本気で口にしておるのか? 愚かしいにもほどがあるぞ、レイゼン。そういうボンクラさがシヴァンを苛立たせていることに気づけ」
 嫌味にチクリと返され、レイゼンは眉間に皺を寄せた。ここで妹の名が出てこようとは思わなかった。今この瞬間に癇癪を起こすのは簡単である。がしかし、そうなれば父親の掌でいいように転がされて終わってしまう。
「所詮は女の我が侭ではありませんか。シヴァンの言い分がどうだというのです。あれの言うことをまともに聞き入れていては仕事になりませんよ」
 宮廷は人の面を被った魑魅魍魎が跋扈する場所だ。そんな場所で四方八方に良い顔などできるはずもない。誰かに取り入り、誰かを切り捨てる。それが繰り返される毎日なのだ。父とて判っていように。
「お前は仕事にしか興味がないのか。それでは人としての幅に問題があるぞ」
「人格者になる気などございませんのでね。これで充分です。それより、窓の外をご覧になったほうがよろしかろう。北の原生林の奥にそびえる火山が噴火しておりますぞ。何百年も沈黙を守っていた山だというのに、今ここで噴火する意味をよくよく考えられたほうがよろしいのでは?」
 父親の顔から表情が消え、壁際に控えていた召使いが側に召された。レイゼンよりも頭二つ分は背が高く、胸板も二倍近く厚い大男である。父専属の召使いで、身体の大きさからは想像しづらい俊敏なところがあった。
 その大男に抱きかかえられ、父は東側の大窓まで移動すると、桟に腰を下ろして北方の空を凝視した。その横顔はまだまだ現役の為政者のものである。
「魔樹海で異変が起こったか……。公王陛下に黄土砂漠シーターンを封鎖するよう進言せねばなるまい」
 独り言にしては大きい呟きにレイゼンは眉間の皺を深くした。北の砂漠を封鎖するとは大袈裟な。たかが火山ひとつ噴火しただけではないか。しかも砂漠と樹海を挟んだ遙か先の山だ。何を怖れることがある。
「レイゼン。お前はすぐに公王陛下の許に参ずるがいい。きっとすぐにでも招聘されるだろうから先に駆けつけたとて問題はあるまいよ。そして陛下にお逢いしたなら、今から書く手紙を陛下に差し出すのだ。手紙を読まれた後、陛下がどうなさるかは聞くな。聞けばお前も巻き込まれるぞ」
 父親からの指示に首を傾げた。示された行動は具体的だが、その目的は一切語られない。国王が絡むことだというのに、なんという曖昧さだ。
 レイゼンは好奇心に駆られ、父親の書く手紙を盗み見てやろうかと考えたが、その想像に水を差す冷たい声がかけられた。
「間違っても手紙の内容を読むなよ。他人にも見られるヘマも犯すな」
 まるで心を読まれたかのようなタイミングでの指示にレイゼンの背に冷や汗が浮かぶ。こういうときの勘の鋭さが父を大貴族へと押し上げたに違いない。
「もし手紙を読んだ場合、お前は公王陛下の監視下に置かれる。当然、お前の持つ爵位や領土、その他諸々の権利は妹のシヴァンに受け継がれ、お前は無位の人間に成り下がる。いや、奴隷にされると言い換えてもいい」
 冗談ではない。貴族として生きてきた者が奴隷に落とされるなど尋常ではない。もしそんなことになればやり合ってきた貴族のいい笑い者だ。奴らに愚弄されるなど、レイゼンの矜持が許せる範囲ではなかった。
「その代償を払ってでも手紙を読みたいのであれば止めはせぬ。が、仕事にしか興味のないお前がそれに耐えられるかな?」
 わざわざ念押しして手紙を読まないよう仕組む辺り、父は息子の性格をよく判っている。こうまで脅されては手紙を読もうという気も失せよう。
 手紙には魔術が封じ込められるはずだ。生憎と魔力を持たぬ身であるレイゼンにはそれを避けて手紙の内容を知ることはできない。開封しようとした途端に仕掛けられた罠に絡め取られ、父が語った通りに奴隷に落とされよう。
 レイゼンが返事をするよりも素早く、父は召使いに抱えられて書記机に移動していた。手早く手紙を認める姿から父の思惑を読むことは不可能だった。
「遊民の老婆にはポラスニアで逢ったときに父上が直々に教えるのですか?」
 手紙の内容を知ることができないとあれば、他の視点から父の内心を探る必要がある。家督を継いだのはレイゼンであり、父は隠居の身なのだ。それなのに父は当主の領分を踏み越えて指示を出してくる。腹立たしいではないか。
「オルトワを老婆などと称するな。お前の頭はメルモの実の如く空洞か?」
 アルド公国南部の特産品である果実の名が出され、レイゼンはうんざりした。父に説教されたとき素直に聞き入れないといつもこの果実の名を出される。
 メルモの実は外側の分厚い皮を食する、中心はまばらに種があるだけの果実だった。そのことから外面ばかりで中身がない人間を揶揄するときによく使われる。つまり父は実の息子を「バカ」呼ばわりしたわけだ。
「あの女が我が館に出入りするとロクなことがございませんのでね。父上のように手放しに尊敬することなどできませんよ。母上が毛嫌いしていた女でもありますし。息子としては父上の態度は納得できかねます」
 羽根ペンを動かしていた手が初めて止まり、ほんの僅かの間だけ父の視線がこちらに向けられたのを肌で感じた。が、母の話題が父の口から出ることはなく、再びペンを走らせる音だけが室内に響く。
 誰も身じろぎひとつしない時間がしばらく続いた。退屈ではないが愉快でもない。そういう間延びした時間がレイゼンを苛立たせた。
「父上は息子を使い走りにして愉しいですか?」
「愉しいかどうかで人を使うわけではない。レイゼン、人をよく見ろ。上っ面ではなく、その中身を。今のお前は拗ねた子どもだ」
「人の中身などたかが知れましょう。この世にいる人間は二種類だけです。金で買われる人間とそれを買う人間。それ以外などおりませんよ」
 手紙に蝋封を施しながら父がため息をついた。その眉間の皺は深い。
「金で動かぬ人間もおる。お前の見方は狭量すぎて心配だよ」
「ハッ! 父上が心配することなぞございません。第一、金で動かぬ者などおりませんぞ。人の身も心も金で買うものです」
「お前の器が知れるわ。いつの日か、お前は信じなかった者の前で膝を折ることになろう。真実の敗北を味わったとき、今の言葉を思い出すがよい」
 完成した手紙を封箱に収める父の横顔に浮かんだ微かな翳りを訝しげに見つめ、レイゼンは不機嫌な表情のまま封箱を受け取ったのだった。