混沌と黎明の横顔

第18章:轟神は睥睨す 3

 苛立ちを隠そうともせず、黒耀樹公子は己の屋敷へと戻った。いつもなら出迎えた家令パレの挨拶には鷹揚に応えるのだが、今日だけは無理である。それもこれも大公屋敷での出来事があったからだ。
 一段飛ばしに階段を駆け上がり、己の戯童フェデールであるシュマが寝起きする部屋へと飛び込む。だが室内に見慣れた人影はなく、優雅な意匠の家具ばかりが屋敷の主人を出迎えた。
「くそっ! 本当にシュマをさらったのか!」
 もしかしたら母親の悪意ある冗談ではないかと一縷の望みを賭けたが、それは呆気なく潰えた。となると、シュマと一緒にいたはずの下男がなんらかの事情を知っていると考えるのが妥当だろう。
 ケル・エルスはきびすを返すと、再び階段を駆け下りて、主人の形相に驚く家令の胸ぐらを掴んで揺すぶった。
「最近になってシュマにつけた下男はどこだ!」
 ガクガクと首を揺らしながら「まだ二人とも戻ってきておりません」と息も絶え絶えに答える声を、半ば予測しながら公子は聞き取った。
「あの下男が行きそうなところは!?」
 大公屋敷に薬を届けたのは下男だったはず。その男はどこへ消えてしまったのか。シュマの代わりとあらば、その行方を知っているのはないのか。
「ぞ、存じません。ご主人様、いったい、何があったと……」
「シュマがさらわれたのだ! 母上の手下に捕まった。このままではシュマはゴミのように始末される! どこに行ったか見当はつかないのか!」
「そう仰られても……。あの下男はシュマの口利きで雇い入れた者でして」
 緩やかに全身に絶望が広がり、ケル・エルスは膝から崩れ落ちそうになった。それをすんでの所でとどまれたのは、屋敷裏からかかった声のお陰だ。
「あまり家令を虐めてやるなよ。ここで叫んでいても始まらないぞ。下男の行方を追うほうが先だ。どうせ母上は命じただけで具体的な実行内容を決めたのは下の連中のはずだからな。実行犯を捕まえる算段をするが賢明だ」
 振り向いた公子の視界には暗がりに立つ人影が映っている。家令が直立不動の姿勢を取り、慇懃に頭を下げた。屋敷の主人に対するが如き態度である。それをケル・エルスは咎めなかった。いや、むしろ当然のように受け止める。
「戻っていたのか。……そちらの首尾は? 奴は吐いたのか?」
「私が失敗するはずがないだろう? しっかりと必要なことは聞き出したとも」
 返ってきた答えにケル・エルスはホッと安堵の吐息を漏らした。
「良かった。やりすぎて相手を殺してはいまいかと案じていたのだ」
 憤然とした鼻息が聞こえ、階段脇の暗がりから影が歩み出る。朝の日差しが相手の足許を照らし、次いで膝を、腰を、腕を、胸を照らした。
「失礼な! そこは弁えている。だが予想以上に厄介なことになるかもしれん。聞き出した内容によれば、奴は得体の知れない東方人が持ってきた聖包布のかかる印章箱を見てバラドからの命令だと信じたそうだ」
 遂に肩先を照らした朝日の下に浮かび上がったのは……。
「それが本物だとしたら、背後には母上の思惑がある、ということか。偽物だとしたら、聖包布まで偽装できる集団が我が国で暗躍している、という結論に辿り着くわけだが。……バラドを捕まえたそうだな、我が片割れよ」
 ケル・エルスの目の前に立つ男の顔は、合わせ鏡に映したかの如く公子に瓜二つだった。潜められた声もよく聞けばそっくりである。天井の高い玄関に声が響いていたためにハッキリとは聞き分けることは難しいが。
 王国でもっとも有名な双子は王家の姉弟アルティーエ姫とサルシャ・ヤウン王子だ。似通った容姿を持つ王家の双子以外で王族に双子がいるという記録はない。ということは、彼ら二人は他人の空似なのだろうか。
「先ほど王議会に属する者は登城せよとの命令が出た。通常の議会の刻限よりも早い。王宮で何かが起こったらしい。王議会に属するバラドも急ぎ登城する頃だろう。今なら容易く奴を拉致できるのだがな」
「血気にはやってどうにかなる相手ではない。裏に母上がいるなら最終的に糸を引いているのは北方諸国だ。母上の実家はパラキストとイントゥリア双方の血が濃い家柄なれば、その両国が関わってくるかもしれん」
「慎重になれ、というのか? だが慎重になりすぎて機会を逃しては意味がない。そちらはシュマが母上の手に落ちたと大騒ぎではないか。こちらでバラドを引き受けてやったほうが気が楽だろう?」
 目の前の顔が浮かべた冷酷な笑みに同調し、ケル・エルスも酷薄な笑みを口許に刻んだ。よくよく見比べれば同じ冷たい笑みでも微妙な違いがある。声の調子も僅かながら違った。が、彼らの違いを判断できるのは二人並んでいるからだ。そうでなければケル・エルスが二人いるなどと誰が思うだろう。
「では、お互いに手を付けた仕事をやり遂げるとしようか。王太子殿下への報告は任せよう。部屋にある私の衣装を着ていけば誰にも判るまい。私は母上の息がかかった者の動向を探らせる。そちらで情報があれば人を使って知らせてくれ。私のほうでも何かあったら人を遣る」
 ケル・エルスが指示を出すと、彼と同じ顔をした男が小さく頷いた。
「任せておけ。サルシャ・ヤウン殿下とて我らのことは気づくまい。王宮で起こったことは定期的に知らせるとしよう。だが、そちらから上がってくる情報は定期的にというわけにはいくまい? 状況に変化があったときだけ知らせてくれればいい。こちらも自由に動かせてもらう」
 確かに人捜しの場合、状況に変化がなければ報告することなどない。人捜しの途中で仕入れた情報が役に立つかどうか判らないのだし、そんな細かいところまで報告し合っていては時間がどれだけあっても足りるはずがなかった。
「そうしよう。では私は他の者を連れて探索に出る。そちらも何かあったら家令に連絡を入れておいてくれ。……判ったな」
 最後の言葉だけは背後の家令に向けた言葉である。大人しく控えていた家令がケル・エルスの指示に恭しい態度で腰を屈めた。
 それは間違いなく主人に対する礼であったが、彼にはどちらが己の主人たる黒耀樹公子ケル・エルスだと判っているのだろうか。それとも二人ともが仕えるべき主人であるのか。微妙な沈黙が辺りを支配し、すぐに霧散していった。
 時間が惜しいとばかりにケル・エルスが屋敷奥へと足を向ける。それに触発されたか、片割れの男が嬉しげに喉の奥で笑い、きびすを返して階段を登り始めた。着込んでいる衣装が同じであったら見分けはつかなかったろう。
 屋敷の奥からは使用人たちが集まっているらしき気配がした。食堂で遅めの朝食を摂っているか、朝の仕事が一段落して安堵しているかだ。
 その脇を通り過ぎ、ケル・エルスは使用人たちしか使わない裏階段を登っていく。上がった先にある階段付近の部屋は静まり返っていた。しかし公子はなんの遠慮もなしに一つの部屋の扉を開いたのである。
「そこにいるか? 仕事が出来た。私と一緒に来い!」
 室内は薄暗かった。鎧戸を閉めた窓の上にある明かり取りの小さな隙間からだけ光が射し込み、細い糸のような筋となる。静かな部屋の様子に誰もいないのではないかと危惧が襲った。が、心配は杞憂に終わった。
「騒々しいのぅ。いったい何を騒いでおるか。おちおち眠ってもおれんわ」
 のんびりとした声が上がり、寝椅子から盛り上がった影が人の形をとる。
「シュマが母上の手の者に拉致された。お前の力で行方を探ってくれ」
 焦りに上擦るケル・エルスの声とは対極にある茫洋とした声で返事が返った。
「あー? シュマがかどわかされたのか。あの女狐、バカな真似をしたのぅ」
「判ったらサッサと動け! こうしている間にもシュマは……」
 怒鳴るエルスの神経を逆撫でるが如く、影の人物は大きく伸びをし、なおかつあくびまでする始末。公子のこめかみには青筋が浮かんだ。
「ヴィドーシャ! 仕事をする気がないのなら屋敷から出ていってもらうぞ!」
「仕事といってもなぁ。わたしのするべき仕事はないようだが。シュマなら炎姫公の手下に救い出されておるし。他に何をしろと?」
 エルスのひきつっていた頬が今度は凍りつき、眼はこれ以上はないというほど見開かれる。薄暗い室内でその表情がハッキリと確認できるはずがなかろうに、ヴィドーシャと呼ばれた人物は「マヌケ面だのぅ」と呟いた。
「あの子は、シュマは今どこにいる!?」
「そう焦らんでも、すぐに炎姫公から連絡が入るわい。ガツガツとせっつく男は嫌われるぞ。顔だけでなく行動まで女のようでは救われんわ」
「煩い! お前の説教など聞く気はない。シュマはどこだと聞いているんだ!」
 怒鳴っても影はまったく動じない。飄々とした態度を崩すことなく、「さぁて?」などとすっとぼけて見せた。だがケル・エルスの怒りが膨れ上がる気配を察したらしく、その機嫌をなだめるように掌をヒラヒラと振った。
「焦るな。シュマを迎えに飛び出せば母親に気取られるわい。それでは助かったのが水の泡。シュマが運び込まれた先は信頼できる場所だ。少し落ち着け」
 母親のことが持ち出され、公子はようやく怒りを自らの中に飲み込む気になったらしい。眉間に寄った皺はそのままだったが、眼許の険しさは薄らいだ。
「それで? とうとう決心したか。あの母親から離れるのだろう?」
 ケル・エルスは影の人物を凝視した後、ゆるゆると俯き、頷いた。
「もはや母上の暴走は止めようがない。このままいけば王家にも害をなすだろう。そのような女を野放しにしておくほど王国は甘くない」
「では、切り札をやろう。……次期国王にお出ましいただこうではないか」
 影の表情が見えるはずもないのに、公子にはその口許が愉しげに歪んだと感じられる。そして、それは間違いではないとも確信できたのだった。




 遠くから聞こえた怒鳴り声にサキザードは身を竦ませる。今の怒声は彼の肌を粟立たせるに充分な威力を持っていた。
 ここ数日の間に我が身に起こった出来事は、それ以前の短い記憶の中の日々と比較しても慌ただしさに満ちている。それが刺激になったのかどうか判らないが、時折脳裏に何かがぼんやりと浮かんでは消えていった。
 記憶が戻り始めているのかもしれない。あるいは重要な何かが引っかかりを覚えているのかもしれない。良い兆候なのか悪い兆候なのかは判らないが、確実に自分の中の何かが変わりつつあることを彼は自覚した。
 自室から出て廊下を進む。少し前に兄が出掛けたことは知っていた。用事を済ませたら話をしようと先ほど館に戻った際に告げられており、彼が慌ただしく外出したことを使用人が教えてくれたのである。
 表階段の手前まで来たところでサキザードの足が止まった。これから先に進んでもいいものかどうか、彼は躊躇したのである。が、僅かに湧き起こった好奇心には逆らえず、静かに階段を降りる。
 一段、二段、三段と進むにつれ、階下の怒鳴り声がハッキリと聞き取れた。
「ついでとはどういう意味だ、ついでとは! あんたや大公閣下にとって公女さまはその程度の価値しかないってのか!」
 兄の声だ。雷鳴の如き怒号に館の壁まで震えているように感じられた。これほど彼を怒り狂わせる人物とはいったい何者だろうか。いよいよ好奇心が脹れ、と同時に恐怖が鎌首をもたげた。
「あんたたちは何を考えてるんだ。彼女を移送するなんて論外だと言ってるだろうが! 薬煙がどういう影響を与えているか判らない、と。中和剤を作ることができる人間の側に置くべきだろう!」
 階段半ばの踊り場まできたところでサキザードは階段の隙間から階下を覗き込む。兄の後ろ姿の向こうに中年の男が腕組みして立つ姿が眼に入った。
「だから言ってるじゃないか。中和剤を作ることができるのはナナイだけだ。そのナナイも薬煙を吸っている。俺たちは彼女を出歩かせる気はない。公女さまと一緒に大公屋敷に連れていくなんて出来やしない!」
 周囲の壁際には使用人が張り付き、事の成り行きを見守る。兄と使用人たちの間にイコン族の男たちが立ち尽くし、途方に暮れていた。館の主人タケトーの姿はどこにもない。彼はどこにいったのだろうか。
 階段の隙間からでは辺りすべてを見渡すことはできなかった。だが館の中でこれほどの騒ぎが起これば主人の姿が見えないのはおかしいだろう。ということは、タケトーは館にいないのではなかろうか。
 思った以上にここの主人は多忙なようだし、早朝の騒ぎが一段落したところで本来の仕事をしに外出したのかもしれない。
 以前に商売上の経理の仕事を手伝ったときのことを思いだし、サキザードはハラハラしながら兄と見知らぬ男のやり取りを見守った。
「今のあんたたちに公女さまを預ける気にはならん! 自分の仕事に戻れ!」
 詳しいことは判らないが先ほど助け出した炎姫公女の関係者と揉めているらしい。兄の怒りようは尋常ではない気がするが、あまり大公家の関係者に楯突くのもどうかと思うのだが。それともあの男はよほどひどい要求をしたのか。
 怒鳴る兄の声ばかり聞こえ、男の話し声はここまで届かないのももどかしい。もう少し会話を聞き取れたら何か判るだろうに。
 サキザードは踊り場から身を乗り出して階下を覗き込もうとした。
 ところが、そうした矢先に腕を後ろに引かれる。いつの間に人が背後に立ったのか驚き、振り返ってみれば、眉間に皺を寄せたガイアシュが立っている姿が眼に映った。面白くなさそうな少年の表情が妙に引っかかる。
「姿を見られないほうがいいと思いますよ。あなたはジャムシードの弱点だから。あの男、確かドルスターリとは言ってましたけど、炎姫公の側近だそうですから、彼にあなたの姿を見られると面倒なことになるんです」
「どういうことです? 顔を見られた程度で何が起こるというのですか?」
 少年の言う意味が理解できず、サキザードは首を傾げた。
「ジャムシードを大公家に縛り付ける存在はいくつもありますが、あなたはその縛りになる最たる者なんですよ。あなたの存在は炎姫公には報告されてないと思うから、顔を見られたら利用されるだけです」
「どうして利用されると判るんですか。わたしの存在などちっぽけなものです。兄はいずれどこかの領主になるのでしょう? であれば、人質になる者など他にいくらでもいるではありませんか。生き別れた弟に深い情などかけている場合ではないはずです」
 ガイアシュの眉間の皺がいよいよ深くなる。目つきが剣呑だ。
「ジャムシードはそんな薄情な男ではありません。あなたは彼の足枷だ」
 少年のきつい物言いにサキザードは眼を瞬かせる。これほど険悪な雰囲気を醸し出されるような失言を自分はしただろうか。率直に思ったことを口にしただけなのだが、それが相手には気に入らなかったということか。
 困惑が伝わったらしく、ガイアシュが苛立ちを表情に表した。
「ジャムシードが戻ったらあなたと話をする約束をしているでしょう? その場にオレも同席していいことになっています。但し、あなたの同意があれば、ですけど。……断らないでくださいね。別に二人の話し合いの邪魔をしようってわけじゃないんですから。オレはジャムシードの話を聞かなければならないんです。これはオレや一族にとっては死活問題なんですから」
 言いたいことだけ言ってしまったのだろう。少年はサキザードの返事を待たずに背を向けた。本当に言いたかったことは後半の部分だけだろう。
 唖然としている間に階段の上へと姿を消した若者の言葉を反芻するうちに、彼は無性に腹が立ってきた。なぜ理不尽な怒りを年下の少年からぶつけられねばならないのか判らない。それが怒りに拍車をかける。
 一足飛びに階段を駆け上がり、廊下を歩いていたガイアシュを呼び止めた。
「あなたが何に腹を立てているのか知りませんが、兄と吾の話し合いに同席するのは遠慮してもらいます。身内の話し合いに同席する意味がないでしょう!」
 振り向いたガイアシュの眉はつり上がっている。相手も怒りを抱えているのだ。が、だからと言って、こちらが引いてやる必要などあるまい。
 階下の怒鳴り合いが移ったかのような険悪な睨み合いが続いた。
「随分と心の狭い人ですね。オレがいようといまいと気にしなければいいでしょう。オレは口を挟まない約束になっているんですから」
「邪魔しないから居てもいい、という理屈が理不尽です。兄弟の話し合いに他人が同席するなどあり得ません。遠慮してください」
「よく言うよ。ジャムシードのことを兄だなんて思ってないくせに。それならオレや一族のほうがよっぽど彼を家族として遇してる!」
 一瞬、サキザードは言葉に詰まったが、すぐに反論を始めた。
「記憶以前に生き別れているのだから当然でしょう! その溝を埋めるための話し合いだというのに、そこに赤の他人が割り込んで良い結果が出ると思いますか? その程度のこと、あなたにだって判りそうなものですけどね」
 感情に任せて怒鳴るのは初めてかもしれない。が、心を抑えようがなかった。
 ガイアシュが怒鳴り返そうと息を吸い込み、肩を怒らせる。が、吸い込まれた息は吐き出されることはなかった。少年の周囲にある空気が凍りつく。
 自分の肩越しに階段の降り口を見つめる若者の眼が大きく見開かれたのを認め、サキザードは勢い良く振り向いた。
 いつの間にそこに立っていたのだろう。暗い眼をした兄がこちらを見つめていた。その姿は深く思い悩んでいるようにも、怒りを湛えているようにも受け取れ、ひどく落ち着かない気分にさせる。
「ガイアシュ。話し合いへの同席はサキザードが認めることが条件で許したが、それをお前が話してもいいと許した覚えはないぞ」
 ゆっくりと廊下を歩み、こちらへと近づいてくる兄の表情から内心を読み取ることは不可能だった。サキザードは自分と同じ顔をしているはずの男の無表情に恐れおののき、思わず後ずさる。
 言い争っているところを見られたくなどなかった。ただでさえ兄弟間は緊張の連続だというのに、兄が懇意にしているイコン族の少年と揉めていたなどと知られては、お互いに体裁が悪いだけである。
「サキザード。すまなかった。先にお前の許可を取るべきだったんだが……」
 言葉尻を濁す兄の顔に初めて後悔の色が浮かんだ。それがきっかけだった。サキザードの中に沸き上がっていた恐れが怒りへと転じた。
「当たり前です! 順番が逆でしょう! なぜ彼から話し合いへの同席を聞かされなければならないんですか。あなたにとって吾は事後承諾でも許される程度の軽い存在でしかない証拠ではありませんか!」
 だが、怒鳴りつけた直後に苦い後悔が口腔いっぱいに広がる。こんな罵倒などしたところで兄の中にある優先順位が変わるわけがないのに。
 歩み寄った兄がジッとこちらの眼の奥を覗き込んできた。今までになく近い距離にサキザードがたじろいでいると、ジャムシードに頬を撫でられた。弾かれたように飛び上がりはしたが、サキザードはその手を払い除けられなかった。
「言い訳はしない。お前なら許してくれると軽んじた事実は変わらないから。だが面白半分にガイアシュの同席を許したわけではないことだけは判ってくれ」
 厭だと抗議すればいい。兄弟の話し合いに他人がいるなど異常だと。しかし、いつの間にかサキザードは小さく頷き、同意していた。そして安堵の吐息を漏らす兄の様子に、強張っていた肩から力が抜けていくのを自覚した。
 少し上にあるジャムシードの顔が静かに微笑むのを見つめながらサキザードは思う。地位や財産を手にしながら、なぜこの人の微笑みは悲しげなのかと。
「ありがとう。じゃ、約束通り話をしよう。もう邪魔する奴はいないだろう」
 不意に今まで以上に兄の顔が近くなり、サキザードは身を固くした。視界いっぱいに相手の喉元が広がり、額に人肌の温もりが灯る。
 小さな悲鳴が耳に届いた。少し離れた場所にいる少年が放った声に違いない。訳が判らず兄の顔を凝視したが、微笑む男からは事態を読み取れなかった。
 ギクシャクとサキザードは首を巡らせて、ガイアシュを振り返る。そこに驚愕の表情を認め、ようやく自分の身に起こったことを思い返す余裕が生まれた。
「な、なに今の!? なんで弟に接吻!? まさかっ。女より男のほうが……」
 やっとの思いで声を発した少年の声は裏返り、彼の激しい動揺を示す。それに引きずられるようにサキザードも自分の頬に血が昇ってくるのが判った。
「俺はもともとはポラスニア人じゃなくってバゼルダルン人なんだよ」
 それがなんだというのか。男から額に接吻を受けて嬉しいはずがなかろう。しかも実の兄からだ。冗談にしては質が悪いし、本気だったら迷惑である。
 赤くなった頬から一気に血の気が引き、サキザードは顔を強張らせた。
「ポラスニアでは高貴な身分の者が目下の者の額に接吻するのは“祝福”や情愛を示すものらしいな。けど、バゼルダルンではそうじゃない。額への接吻は家族やごく親しい者にする愛情表現だ。相手が男か女かは関係ない」
 二人の若者は怪訝な表情だが、ジャムシードはサッサと歩き出してしまった。
「そういえばさっきの奴、公子の情人だろ? 館に入れて良かったのか? ここの主人は平然と治療の手配をしてたけど男相手に色を売る奴なんか……」
 どうやらまた誰か館に運び込まれたらしい。少年と兄との会話を聞きながらサキザードは歩みを進めた。額にまだジンジンと温もりを感じる。
 性奴が嫌いか、と問う兄の声に少年がぎこちなく頷く。その瞬間、男の横顔に過ぎった暗い翳りにサキザードは身震いした。
「俺も、十五になるまでは、ある男の戯童フェデールだった」
 先ほどの比ではない衝撃に若者たちの足が止まる。先へと進むジャムシードが肩越しに視線を寄越し、着いてこいと促さなければ、彼らはその場に立ち尽くしたままだったろう。二人は顔を見合わせ、互いに答えを導き出せないままジャムシードの後ろへと従ったのだった。