混沌と黎明の横顔

第18章:轟神は睥睨す 1

 王宮に王族や元老院の貴族が呼びつけられることは予測済みだった。いや、そうさせるために王太子に報告を入れたのだから当然の結果と言える。
 そのお陰で王都は一時的に閉鎖され、探索を密にすることができたのだ。少々の不測の事態など怖れるに足りぬ。予定通りだと喜ぶべきであろう。
 娘の無事は確認された。周辺を嗅ぎ回っている者も数名、捕縛できた。そう報告を受けたというのに妙に落ち着かない。
 何かが足りない、と心の底から囁く存在がいた。
 ラシュ・ナムルは王議会が開かれる王城に登城するために着替え、馬車が控える車寄せへと廊下を進みながら考える。
 何が足りないのだろう。何も足りないことなどないはずだ。
「何か忘れている……。なんだ? 何を忘れている?」
 苛立ちを口にしてみたが、どうにもモヤモヤ感は拭えなかった。
 側近として仕えているエッラを王都が封鎖される直前に北方へと出発させているし、取り戻してこそいないが娘の居場所も分かっている。何も案ずることなどないはずなのに、心のざわつきはひどくなる一方だった。
「判らぬ。何かがこれから起ころうとしているのだろうか? となれば、私が一人で気を揉んだところでどうにもならんか」
 気を取り直し、ナムルは馬車の傍らで恭しく礼を取る御者に気さくに声をかける。嬉しげに眼を細めた御者が馬車の扉を開け、主人を中へと促した。
 三大公家に仕える使用人でもっとも気位の高い使用人はなんといっても元黒耀樹公妃リウリシュに仕える者たちであろう。使用人の気質は主人に似る、と言われているが、まさにリウリシュ妃の側仕えたちは彼女に似ていると聞く。
 だが、そうなるとナムルに仕える者は彼に似ているということが言えた。
 周囲の者が自身に似ているかどうか、ナムルにはよく判らない。が、きっと赤の他人からは水姫家の主従は似ていると囁かれているに違いない。
 水姫公が座席に腰を落ち着けると、ほとんど衝撃らしい衝撃を受けることなく馬車が動き出した。他家の御者がどうかは知らぬが、この馬車を操る者はたいそう腕がいいと言い切っても差し支えない。
 滑らかに走る馬車に揺られながら、ナムルは窓越しに街並みを眺めた。王都が封鎖されているせいで人が多く感じられる。その雑踏のざわめきを聞いていると、懐かしき故郷である神都カルバが思い出された。
 懐かしいと感じられる故郷が、かの娘にはあるだろうか。あるとしても、それは決して親しみを込めて呼べるものではなかろう。何せ産まれてからずっと、外の世界と接したことがなかったのだから。
 産まれながらに魔力を持ち、制御されない魔力の暴走に周囲にいる者たちは恐れをなして母親ごと彼女を塔に閉じこめたらしい。
「かしづかれる者たちにも蔑まれる姫君か。なんと惨めなことだろう。いや、あの子にはそれも判らぬか。己の影響力にどれだけ気づいていることか」
 己の意志で魔力を制御できるようになっても、塔から出されることはなかったのだ。ポラスニアのように僧院の修士や修女となって世間と関わる魔人ガダグィーンとは扱いがまったく違う。
 周辺国の、特に北国境付近の国々での魔人の無理解は呆れるばかりだ。
 そんな狭い世界に生きてきた娘が初めて外の世界に触れ、なおかつ心を傾けられる存在に出逢ったのである。その存在にのめり込まぬほうがどうかしていよう。彼女が惹かれた存在に近づこうとするのは当たり前ではないか。
 だというのに、また再び狭い世界へと押し込める気なのだ。娘の真の父親だとほざく男は。今まで不本意ながら親子の名乗りを上げられなかったが、今度は正式に娘として手許に置こうというのだろう。
 もちろん奪われぬように監視をつけ、外出を制限させ、甘やかしつつ束縛をやめようとはしないはずだ。幼いが、あの美貌は傾国の美と思われる。本人に意識がなくとも国を滅ぼす。そういう危うさがある。それを利用したいと父親や周囲の者が考えてもおかしくはなかった。
「周囲の都合に振り回されるとはな。己に権力がないのは、心許ない気分になる以上にやるせないことなのかもしれん」
 胸に沸き上がってきた憐憫にナムルは苦笑を漏らした。
「私としたことが……。あの娘の魔性に毒されたか?」
 もしかしたら初めて遭ったときから無意識に養女にすると決めていたのかもしれない。彼女を利用すると同時に、願いを叶えてやろうと思えるほどには、好意を抱いていたことは間違いないのだが……。
 今さら考えても詮無い問いを頭の中で繰り返し、水姫公は窓の外は後ろへと流れ去る風景を眺めて、浅い吐息を吐き出した。
「生きる糧を与え、こちらも利益を得る。その程度の距離が一番いい、か」
 適当な距離を置かないと飲み込まれてしまう。そういう得体の知れない吸引力を持った少女であることは認めざるを得なかった。
 利用するつもりが利用されて終わっては意味がない。まだ十代の少女だと侮ることだけはすまい。あの娘は自身が意識していなくても周囲を操る力を持っているのだ。それを念頭においておけば振り回されることはないだろう。
「とりあえず、姫君の救出の立て役者は王太子に譲らねば。か弱き乙女がさらわれ、それを救った王子と恋に落ちるのはお伽噺の定番だ。あの子も上手く王宮に入り込めるだろう。ヤウンがそれに素直に乗ってくれればいいがな」
 ナムルは窓に寄りかかり、見るともなしに外を眺めながら口許を引き締めた。
 まだ成年にも達していない子ども相手に慎重すぎる、という考えと、用心するに越したことはない、という思いが入り交じる己の内心の折り合いをつけるのは、それなりに困難なことなのである。
 まして相対するのは少女だけでなく、自身が教育した王太子もいるのだ。にこやかに微笑みながら腹黒く策を巡らせることができることは百も承知である。そういう王子に育てた張本人なのだから、サルシャ・ヤウンが大人しくこちらの言いなりになってくれるとは思っていなかった。
 だが、今回はいやに素早く対応してくれたのが気になる。予定通りの行動とはいえ、その動きは通常より早いように感じられた。気のせいであればよいが、そうでないならば、王太子は何か仕掛けてくるかもしれない。
「お互いが化かし合いをしているのだから、引っかかったほうが悪いのだ。となれば、ヤウンが張った罠に落ちぬよう用心してしかるべきだな」
 王子が聞いたら「そっちこそ腹黒いタヌキのくせに」と反論されそうだ。が、ナムルは自分のことは棚に上げて年若い王子をこき下ろす。
「外面と内面の差がありすぎる子に育ってしまったのは絶対にユニティアのせいだ。見た目と性格の落差を彼女から学んだに決まっている。もう少しくらい可愛げのある性格に育ってもよかっただろうに。まったく! 我が妻ながら死んでからも私の邪魔ばかりしてくれる。お前は大した女だよ、ユーニ」
 最後は亡き妻への恨み言まで呟きながら、ナムルは道を行き交う人々を見おろしていた。流れる景色の一部でしかない人影は一瞬の観察眼を鍛えるには丁度いい。そうやって人間を観察することも亡き妻と一緒に学んだのだったと、半ば追憶に沈みながら彼は馬車に揺られた。
 そんな暢気とも思える時間はすぐに終わりを告げた。馬車を引く馬の足並みが乱れ、御者が誰かを怒鳴りつける。ナムルは咄嗟に窓から離れた。座っていた場所とは反対側の座面に飛び移り、腰に下げた護身用の貴人剣を構える。
 身の危険を察知する能力に長けていてこその王族だ。暗殺とは隣り合わせである。そういう世界に身を置いている以上、なぜ自分ばかりが、と愚痴をこぼすこともできなかった。そんな輩は真っ先に暗殺の餌食である。
 ナムルが窓から離れて数瞬後、馬車の扉が乱暴に開かれ、諸刃の切っ先が馬車の床に突き刺さった。あのまま窓辺にいたら刃を身に受けていただろう。
 座面から飛び降りながら、ナムルは襲撃者の剣を蹴り折った。瞬時に判断した限りでも、相手の剣は大した作りではない。粗悪品ではなさそうだが、町中で持ち運べる程度の簡素なものだった。
 腕の良い暗殺者なら街の通りで襲ってきたりはしない。さらに長剣など使わず、暗殺用に開発された暗器を身につけているものだ。
 こんなちゃちな襲撃をする以上、彼らは本気でこちらの命を奪う気はないだろう。あるいはずぶの素人が本気で襲ってきたか。
 どちらにしても危険は回避せねばならない。馬車の中では逃げ場がなかった。一時的にでも相手の武器が使い物にならない状態にし、逃れることが先決である。背後をついてきているはずの護衛官がすぐに対処するはずだ。それまで持ちこたえるかどうかが王族としての命の分かれ目である。
 馬車の外に出た直後に襲われるかと危惧したが、目の前にいたのは剣を折られて困惑する男と、彼を援護しようと剣を構える男の二人だけだった。
 チラリと脇を見て状況を確認してみれば、二人の護衛官が五人ほどの襲撃者を牽制しているところである。襲撃者のほうもそれなりの人数は揃えたらしいが、お粗末な計画では成功するはずもなかった。
「下郎! 私が何者か知っての狼藉か!」
 朗々と響く声で怒鳴りつけ、目の前の男に自身の得物を突きつける。目の前に突き出された切っ先に男がたじろいだのをナムルは見逃さなかった。すぐさま身を翻し、二人の襲撃者から距離を置く。彼らの剣の間合いから出さえすれば、そう容易く殺されることはないはずだ。
「水姫公ラシュ・ナムル! その首、大人しく差し出せ!」
 手の中の得物が無事なほうの襲撃者が剣を脇にかまえて突進してくる。
「閣下! お逃げくださいっ! 危のうございます!」
 御者台のほうから悲鳴が聞こえた。暴漢の登場で怯える馬たちを抑えていた御者が主人の危機に叫んでいる。その声に片手を軽く挙げて応じると、ナムルは突撃してきた男の切っ先から身をかわした。
 王家の番人を自認し、王族一の武威を誇る黒耀樹家の者ならともかく、剣術は護身用のものしか使えないナムルが相手とまともに刃を交わして勝てる見込みは少ない。だから身を守ることを最優先に、だが王族の威厳は失わぬよう振る舞うことが肝心だった。それに、他人は知らぬことだが彼には秘策がある。
 ひらりひらりと逃げ回るナムルを暴漢二人が囲もうと走り回る姿を護衛官たちが見ていないはずがなかった。押さえ込んでいる男たちを一人、また一人と倒し、主人の元へ駆けつける算段を整えている気配が伝わってくる。
 だがしかし、十人にも満たない人数で大公の馬車を襲撃しようなどという無謀な真似をしでかすだけはあり、暴漢たちはそれぞれ腕に覚えがある者ばかりだった。少しでも気を抜けば大怪我をするだろうし、最悪は殺される。
「逃げるな! 貴様の首を持って国に帰るのだ!  大人しくしろ!」
「殺されかかって大人しくする奴などおらぬわ、痴れ者めが」
「このっ! ポラスニア人など、死に絶えてしまえっ」
 どうやらポラスニア人ではないらしいことは判った。外見に目立った特徴がない者ばかりであることから他国の混血児であることが察せられる。あるいは上流階級のように血の濃さを誇らない、身分の低い者かもしれない。
 今この国をもっとも憎んでいるのはルネレー人だ。他の国でここまで激しい憎しみを募らせ、王都にまで乗り込んでくるような者はいない。そこから導きだされる答えはナムルの中で容易く弾き出された。
「なるほど。先のルネレー軍の残党か。よくぞ王都に潜り込んだ、と褒めてやるべきかな? 戦同様にお粗末な襲撃だが、気力だけはあっぱれだ」
 嘲りを多分に含んだ口調が気に障ったらしい。得物を失った暴漢が訛りの強いルネレー語を叫びながら飛びかかってきた。
 この瞬間を待っていたのだ。ナムルは口の端を僅かにつり上げ、剣を持たない左脇で男の左腕を挟むと、飛びかかってきた勢いを生かして相手の身体を振り回す。その遠心力の勢いで吹っ飛んだ男が護衛官の足許に転がった。
「おい、左の足許だ! そいつを始末しておけ!」
 大公の鋭い一言の直後、護衛官の一人が腰に下げていた短刀を抜きざまに目を回している男へと放つ。首の急所に刃を受け、悲鳴すらあげることなく絶命した暴漢に同情する者はその場に誰一人いなかった。
 残された男が一瞬だけ唖然としたが、すぐに我に返ると斬りかかってくる。護衛官たちのほうでも残された暴漢は二人か三人だ。仲間を次々に殺され、怒りが収まらないのだろうが、自棄を起こしたとしか思えない。
「貴様らなんぞにっ。我らの気持ちが判るかぁっ!」
「己の不遇を他者のせいにする輩の気持ちなど知りたくもないわ!」
 剣を大振りにすればするほど刃の軌跡は読みやすいものだ。ナムルは悠々と凶刃をかわし、相手に隙が出る瞬間を待った。
 先ほど「逃げろ」と叫んだ御者がもがく馬をなだめすかしている姿が視界の端に映る。誰もが必死にこの事態を収めようとしていた。
 もちろんナムル自身が一番望んでいる。生き延びることが第一なのだ。生き延びねば未来はない。歴史は勝者が作り上げるものなのだから。
 そして、勝者になることは当然として、王族が人々の口の端に乗る物語の中で腰抜けや卑怯者の誹りを受けることもあってはならなかった。
 それもあり、逃げるという選択肢はナムルにはない。完全に逃げ切る余力があれば戦法として有効だろうが、ないときに護衛から離れては逆効果だ。
「やかましいぃ! 小娘の子守りなんぞで腕を錆びつかせるなどまっぴらだ」
 やはり先のルネレー軍の残党だったか。彼らがどうやって王都に潜入したのかは知らないが、今まで身を隠しておきながら襲撃を企てたということは、故郷での権力争いはいよいよ熾烈を極めているに違いない。
「我らは手柄を立てて領地を手にする! その手柄の証として貴様の首を持って帰るのだ! 貴様らなぞに……」
「故郷に帰ったとて、お前たちに仕える主人などおらぬぞ。直系王家の血筋は絶えたのだからな。傍系の者らには担ぎ上げる貴族が群れているし、お前たちが入り込む余地などどこにもあるまいよ」
 口調だけは同情しているかのように穏やかだったが、ナムルの顔つきは決して神妙なものではなかった。むしろ嘲弄を滲ませたものである。
 とは言っても、ナムルにもそれほど余裕があるわけではなかった。護衛官たちはまだ手こずっており、彼自身も気を抜けば斬り殺されそうである。
 基本的に武官向きではないナムルには戦いが長引けば不利になる理由が山ほどあった。その最たるものが武官との体力差だろう。
 特に逃げ回っているので息が切れだした。最小限の動きで刃を避けているつもりだが、身体を動かし慣れていないので激しい運動であることに変わりない。
 暴漢たちは短絡的だが騎士だ。持久戦になれば勝ち目はないと初めから判っていたのである。が、護衛官たちが手こずるほど腕がいいとは予想外だった。
 こういうときに限って大通りに人影がない。つい先ほどまでは大勢の人々が行き交っていたのに、庶民の生活圏を抜けた途端に人通りが途絶えていた。
 視界の端には幾何学的な神殿紋様を塀に刻んだ建造物が映る。そのことから宮殿区画の端に位置する細長い神殿群の辺りにいることは判っていた。となれば、王宮の近くまでは来ているのだ。
 普通は助けを乞えば誰かが助勢に出てくるが、生憎と今は時間が悪い。朝食前後は神官たちが建物内にこもる時刻で、表にいるのは神殿の門を警備する守護兵くらいだ。その兵士が声の届かない距離にいたのでは助けは望めない。
 今がまさにその状況であった。
 額に浮かんだ汗を拭う余裕もない。このままではまずい。ちょっとした判断違いが命取りになる。護衛官はまだ手が空かないのだろうか。
 横目で彼ら二人の様子を探るが、彼らは彼らで休みなく身体を動かして相手に競り勝とうと必死だった。下手に彼らに助けを乞えば手許が狂うだろう。
「さぁさぁ、どうした水姫公! 息が上がってきているぞ。そろそろ殺される覚悟ができた頃合いか!」
 対する暴漢はと言えば多少息が弾んでいるが肩で息をするほどではなかった。日常的に身体を鍛えていることがよく判る。小娘の子守りなどまっぴらだと言いながらも、自身の仕事に手を抜くことはなかったらしい。
 返事をする余裕もなかった。いや乱れた息で声を発すれば、こちらの余裕のなさがもろに伝わってしまう恐れがある。
 危惧していたことが起こったのは次の瞬間だった。まだ動けると思っていた足がもつれ、ナムルは身体の均衡を崩したのである。その不利を相手が見逃してくれるはずもなかった。唸りをあげて振り下ろされる刃を避ける術がない。
 ここまでなのか。焦りよりも悔しさが湧き上がり、ナムルは歯噛みした。
 遠くで御者が叫ぶのが聞こえる。彼はまだ逃げていなかったらしい。
 目の前に迫った凶刃が不意に視界から消えた。膝をついたまま茫然と相手を見上げれば、暴漢も唖然と己の手を見つめている。
 何が起こったのか、と周囲を見回し、そこに今しがたまで暴漢が手にしていたはずの折れた剣となんの変哲もない粗末な杖を発見した。
 あれが彼の危機を救ったのだ。そう理解した瞬間、膝をついたときに取り落とした己の剣に飛びつき、ナムルは勢いよく振り回して目の前で立ちすくむ男の首筋を薙ぎ払った。相手が突然の状況の変化に囚われ、意識がこちらに向いていなかったから出来たことだった。
 直前までの危機は脱したが、護衛官が戦っている相手はまだしぶとく粘っている。騒ぎを収めるにはこの二人の暴漢をどうにかしなければならないが、まずは自身が助かるほうを優先しなければならなかった。
 馬車のほうをチラリと流し見れば、御者台から飛び降りて馬を抑えている御者が青ざめた表情でこちらを見守る姿が視界に映った。まだ落ち着きがない馬を王宮の門内まで駆り立てるには不安が残る。
 やはり護衛官を助勢し、この場を収めるほうが解決が早いか。
 自身の剣術の腕前や体力に期待が持てないことは今の戦いでよく判った。それゆえに下手な手出しには腰が退けてしまう。護衛官たちの邪魔をするばかりで役に立たない可能性だとてあるのだ。
 ナムルが逡巡していると、彼の脇を素早く走り抜ける人影があった。その勢いに驚き、止める間もない。駆けつけたのは壮年の男だった。
 地面に転がる杖を取り上げた逞しい腕が護衛官の脇から暴漢に襲いかかる。容赦のない突きを首筋や腹に繰り出された。そのどちらもが的確に急所へ当たる。暴漢たちは叫び声をあげることなく昏倒した。
「見事な腕だな……。どこの者だ?」
 つばぜり合いで息が上がっている護衛が尋ねたが、助けに入った男は小さく首を振り、問いかけに答えることはなかった。
 ふと顔を上げた男と視線が絡まり、ナムルは小さく首を捻る。どこかで見たことがある顔だ。が、咄嗟に思い出せない。
「片が付いたなら先を急ぐぞ。もめ事はご免じゃわい」
 背後から聞こえたしゃがれ声にナムルは飛び上がった。気配もなく間近まで近づかれようとは。いったい何者か。
 振り向いたナムルが見たのは深い皺が刻まれ、豊かな口髭を蓄えた老人だった。眼光は鋭いが少し猫背気味の姿勢。それが随分と高齢であることを物語る。助けに入った男が手にした杖は、きっとこの老人の持ち物に違いない。
「老師。助勢、感謝する。礼を差し上げたいので名を教えてもらえまいか?」
 気絶している暴漢を護衛官に預け、ナムルは老いた男とその連れの壮年の男を呼び止めた。そうしなければ彼らは早々に立ち去ったろう。
「なに、水姫公閣下のお役に立てたのなら僥倖ですわい。儂らのことは気になさらず、閣下も早々に出発されては? 騒ぎが噂になれば面倒ですぞ」
 もっともな言い分である。暗殺されかかったと噂になれば、尾ひれがついて広まるのがオチだ。が、相手の言葉には素直に頷けない。
「ご子息の活躍がなければ私の命はなかった。恩人を手ぶらで帰したとあっては先祖に顔向けできぬ。どうか名を名乗られよ」
 言葉は穏やかだが口調は尊大である。それの態度に王太子なら納得するだろうが、庶民には脅されたのと同じだ。果たして二人連れは僅かに顔をしかめた。
「これは息子ではない。儂の不肖の一番弟子ですわい。故郷の地藩主が危機を見捨てておけなかっただけのお節介。恩に着ることなどありゃぁせんよ」
 敬語を使うのが面倒になったか、老人は投げやりな口調で返した。しかし、己が治める地の民と聞いては余計に引き下がれるものではない。
「我が地藩の民であればなおさらだ。是非とも力になろう。どこの者だ?」
 恨みがましい眼で天を仰いだ老人がため息をついた。
「では閣下。礼を受けるとしましょう。じゃが金品など儂の歳になれば無用の長物。是非にとあらば、弟子が助けを求めたときに相応の力添えを願いたい」
 言い終わるや否や、老人は背を向けて歩き出した。名乗りもせずに弟子の援助もあるものか。再び呼び止めようとしたナムルに壮年の男が一礼して告げた。
「我が師ガーベイは偏屈者。どうか老い先短い者の顔を立てていただきたい」
 再び唖然とし、ナムルは立ち尽くす。忘れもしない、ガーベイ・ロッシュと言えばジャムシードの師匠の名だ。その一番弟子はモスカイゼス。顔は知らずともジャムシードと雰囲気が似ていたから見覚えがあるような気がしたのだ。
 遠ざかる二人の背を見送り、水姫公は口許を曲げ、眉を寄せる。
 余計な約束をした。ジャムシードが助けを求めてきた場合も援助しなければならない。この約束が己の首を絞める結果にならねばいいが。
 警護官に呼ばれるまで、ナムルは通りの向こうを睨み続けたのだった。