混沌と黎明の横顔

第17章:水面《みなも》の面影 7

「ねぇ、ジャムシード。これからの青の部族にはあなたもハムネアもいないわ。この先、ジューザを筆頭にわたしたちだけでやっていかなければならないのよ。あなたやハムネアに甘えていたツケを払うときがきたの」
 だから若い世代を今から鍛えておかないとね、と笑うナナイの微笑みは見惚れるほどに鮮やかで美しい。だが見た目の笑みの柔らかさとは正反対に、それは厳しさを内心に隠したものだ。女のナナイですら危惧するほどに、イコン族内での青の部族の地位は落ちているのだろう。
「ごめんなさいね、ジャムシード。あなたとハムネアが二人で抱えている秘密はね、青の部族の主立った女たちなら薄々感づいているの。部族内で肩を寄せ合って暮らしていると、誰が何を考えているのか判ってしまうのよ」
 必死に隠してきたことが周囲に知られているという事実にジャムシードは愕然として眼を見開いた。ナナイには知られていても、他の者には知られているはずがないと思い込んでいた自分が滑稽ではないか。
「なんで……? それじゃ、ハムネアは知られていることに気づいていなかったのか? 彼女一人で今まで秘密を抱えていたと思い込んでいただけなのか?」
「たぶん、ハムネアも周囲に疑惑が満ちていることは察していたはずよ。それでも女たちは口をつぐんでいてくれると判っていたと思うわ。実際、今まで女たちの口から彼女の秘密が囁かれたことはなかったもの。男たちが思う以上に、わたしたち女の結束は強いのよ。男たちに任せきりにすると意地の張り合いになるでしょ。だから意地を張っている裏側で女同士で取引するのが常なの」
 砂漠に住む女たちは砂漠で育つ甘瓜に似ていると聞かされてきた。それは他の植物に寄生して育つ砂漠の瓜の特徴と同じく、男たちに守られて生きていかねばならないからだとも聞かされていたのだが……。
 どうやらこの言葉の裏側には強かで逞しい女たちの素顔が透けていたらしい。男たちがそれに感づき、あえて沈黙しているのか、それとも巧みに男たちを操る女たちのほうが一枚上手なのかは聞かずにおくのがいいだろう。
「青の部族にいる女たちの大半は怒っているわ。あなたがいてくれたらハムネアの問題は簡単に片付いたというのに、男たちの意地の張り合いでこじれてしまっている。だから、この問題をこれ以上引っかき回されたくはないのよ」
 でないと女たちが怒り狂って何をしでかすか判らないわ、と囁くナナイの口許に初めて苦笑が浮かんだ。それが彼女らしくない笑い方に見える。
「わたしが男だったら、と考えずにはいられないわ。そうでしょ? わたしが男だったら父の跡を継いでいたし、母は無理にササイを産んで命を縮めることもなかった。ジューザとは友人としてつき合っていけたし、他の者とも……」
「そうは思わないよ、ナナイ。この世で“もしも”を問うても意味がない。今ここにある事実を受け止めるしかないんだ。それはイコン族が一番よく理解しているだろう? 俺もナナイも、過去に戻ったとしても同じことをしたさ」
 苦笑を浮かべていたナナイの頬が歪んだ。が、すぐに何事もなかったかのように薄い笑みへと形を変えた。どれだけ内心で嵐が吹き荒れようと、今の彼女は狼狽えたり、嘆き悲しんだりはしないだろう。
「そうなると、あなたが青の部族にやってきたのは星神ヤヌの配剤だと言えるわね。ササイの死から立ち直れずにいたわたしを助け、次は他部族からハムネアを救い、今度はジュペやわたしたちの命を繋いだ。これだけの恩をいったいどうやって返したらいいのかしら」
 ジャムシードは小さく首を振った。何かを返してもらおうと思って動いたわけではない。自分が思った通りに動いた結果がたまたま良い方向に動いただけだ。とはいえ、多少の策を弄したこともあったのは事実であるが。
「俺に何かを返す必要はないさ。もしも、どうしても恩を返したいと考えているのなら、ジュペに対して頼むよ。あの子は今までに歳の近い子と親しく交わってこなかった。ハムネアが許さなかったこともあるけど、部族長の姪という立場は子どもの間でも重い。そういう溝は少しでも浅いほうがいいだろう?」
「そうね。ハムネアは自身が抱えている秘密を何かの拍子に嗅ぎつけられないように、そしてオズモーに隙を作らないために、ジュペが極力他人と関わらないで済むようにしていたから。それを止めなかったわたしも責任があるわね」
 子どもたちの間でのジュペの居場所を作るためにもジューザに覚悟を決めてもらわないと、と呟いたナナイが肩をすくめて笑って見せた。
「ねぇ、ジャムシード。本当に助けはいらないの? 官庁で噂になっている内容はわたしの耳にも届いているわ。あなた、父親の故郷にいる従姉妹と結婚するそうじゃないの。大公に何か弱みを握られているんじゃあ……」
「ナナイ。それについての口出しは無用だ。俺は俺の意志でジューン島に行く。他の誰の思惑にも踊らされてはいない。あちらには俺が必要なんだ」
 眉をひそめるナナイへ頑迷に首を振り、ジャムシードは話を打ち切った。
 下手なことを口にすればナナイはジューザをけしかけてジャムシードとティレミーたち母子との関わりを断とうとするだろう。ジャムシードを思ってしてくれたことでも、場合によってはありがた迷惑になるのだ。
「ジャムシード、好きでもない女と一生添い遂げるのはつらいわよ?」
「別に彼女を嫌ってなどいないさ。それに彼女も俺を男として見てやしないよ。彼女は領地での地位の確保のために俺がいる。そして俺は大公から請け負った仕事を成し遂げるために貴族に準ずる地位がいる。お互いの利害が一致し、嫌っていない相手で、父親の故郷の人間だ。断る理由は少ないだろう?」
 不満げに口を尖らせるナナイの様子に不安が頭をもたげる。彼女は気に入らないとなったら徹底的に抵抗を試みる悪癖があるのだ。今ここで機嫌を損ねようものなら、どんな手段に訴えてくるか判ったものではない。
「ハムネアとなら、お互いに好きあった相手なのに……」
「ナナイ。俺にとってはハムネアもジューン島の従姉妹も大差ないよ。俺から見た二人は友人か親戚かの違い程度だ。ナナイが期待するような甘い感情など持ち合わせてないんだからな。……ハムネアの問題をこれ以上はこじれさせたくないんだろう? だったら妙な真似をして俺を困らせないでくれ」
 渋々といった態度ではあったがナナイは確かに頷いた。それを見て、ジャムシードは胸を撫で下ろす。これ以上厄介事が増えるのは勘弁して欲しいのだ。彼女が諦めてくれたのなら言うことはない。
「じゃ、俺はそろそろ行くよ。まだやるべきことが山ほどあるから」
「……ねぇ、ジャムシード。ガイアシュは、答えを見つけるかしら?」
 立ち上がり、部屋を出ていこうと一歩を踏み出したジャムシードをナナイは呼び止めた。ようやく解放されると気が緩んでいたところだっただけに、彼女の固い声を聞いてヒヤリと背筋が冷える。
「あの子は賢い。自分の発言の重さを理解するさ」
「でも未だに十四の子どもだわ。正義感の強さが部族を崩壊させることもあり得るの。わたしはそれが心配よ。……あの子には早く大人になってもらいたい反面、今だけは子どものままでいて欲しいとも思うの」
 大丈夫だ、と返事をし、ジャムシードはナナイに背を向けた。彼女の危惧を感じていないわけではない。だが、今は少年を信じるしか術はなかった。ガイアシュは今この状況が自身の危機でもあると気づいていない。だからこそ口出しして判断を鈍らせたくないと思うのは、大人の傲慢だろうか……?
 それとも少年が判断を誤らないように積極的に関わるべきなのだろうか。
 ガイアシュが自身の今置かれている微妙な立場に気づいているとは思えない。このまま発言した場合、ハムネアとジュペが部族から放り出されるだけでなく、発言したガイアシュ自身も処分される可能性も出てくるのだ。
 誰が誰と婚姻を結ぶかということはイコン族の中では重要事項である。もちろんポラスニアの上流階級者の間でも同じだろう。もしかしたら中流階級でも似たようなことがあるかもしれない。
 だがイコン族ほど因習に囚われているとは思えなかった。
 ジャムシードは背中にナナイの視線を痛いほどに感じながらも、振り返ることなく部屋を出た。扉を開けたすぐ傍らにはガイアシュが立っており、うっそりとした視線でこちらを見上げてくる。
 魂が抜けたような少年の様子にジャムシードは眉を寄せた。
「ガイアシュ? 大丈夫なのか?」
 少年が唇を震わせたが、薄く開いた口から言葉が発せられることはなかった。
「見張りを代わってもらうか? 今のお前では、この部屋の前に立っているのはきついだろう。別の者を寄越すよう伝えてこようか」
 ハムネアに対して批判的な意見を出した直後である。それまでの関係が良好であったとしても、今この瞬間にはわだかまりがあるはずだ。そんな心理状態でハムネアがいる部屋の見張りなどできはすまい。
 待ってろ、と背を向け、一歩を踏み出すと、かすれた声が呼び止めた。
「あなたは、何を守っているのですか? ハムネアとジュペですか?」
 肩越しに振り返ったジャムシードはガイアシュの瞳が暗く翳っていることに気づいた。何を指針としたらいいか判らないのだろう。
 今までの少年は周囲が決めた習慣や因習を当然のこととして受け入れてきた。ところが、ここにきて因習を破っている者がいることを知ったのである。彼にとってはあってはならない不正だ。
 そのことを指摘してみせれば、因習を破っている女は多いと聞かされる始末である。これまで守り通してきたものはいったいなんだったのかと首を傾げたくもなろう。ガイアシュが唯一破った因習は幼いジュペについて王都に来たことくらいだ。それですら、か弱い者を守るためだという大義名分が自身の中にあってのことである。自身の意志で部族の規範を破る心理など理解できまい。
 何をしてやれるだろう。彼は今この瞬間にぐらぐらと揺れ、自身の中に存在していた価値観すら見失っているのだ。がしかし、ジャムシードは伝えるべき言葉が咄嗟には思いつかず、何度か瞬きした後、視線を虚空に彷徨わせた。
「俺が守っているのは特定の誰かじゃない。たぶん、俺は俺自身を守るために動いている。目の前の問題を片付けていくと、結局最後に残るのは自分が納得したかどうかという一点だけだ」
 顎を引き、少年の顔を見おろしてみれば、眉尻を下げて青ざめるガイアシュが途方に暮れた表情で耳を傾ける姿が眼に飛び込んでくる。
「だからガイアシュ。お前も俺も大差はないんだ。お前はお前の正義で動き、俺は俺自身の価値観で動いている。自身の価値観に合わないことには腹が立つし、覆してやろうと躍起になる。覆らないことが多いけどな」
「でもナナイは覚悟を決めろと……。絶対に揺らがない覚悟なんて、オレにはどうやったらいいのか判らない。あの言葉はいったいどんな意味が……」
 ガイアシュがきつく唇を噛みしめた。そんなに力を込めては唇を食い破ってしまうと思うほどだった。肩にも力が入り、握られた拳は震えている。
「ナナイが言ったような、絶対の覚悟なんてものは俺にも無理だ。どうやっても迷うし、戸惑うし、怯える。そんな無様なことの繰り返しだよ。こんな男の言うことなんかあてにはならないさ。それでも俺のことが聞きたいか?」
 大きく目を見開いた少年が激しく瞬きを繰り返した。きっと揺らがない覚悟は独りでするものだとでも考えていたのだろう。辛抱強くガイアシュが口を開くのを待っていると、何度も唾を飲み込んだ少年の唇から震える声が漏れた。
「聞きたい、です。あなたが、何を考えてハムネアの嘘に乗ったのか。どうしてジュペを自分の娘だと言い張れるのか。オレには判らない。オレはオレの血を引かない者を子と呼ぶ自信なんてない!」
 ジャムシードはそっと腕を伸ばすと目の前の未熟な肩を軽く叩いた。親しみを込めたようにも、励ますようにも取れる触れ方だったが、ガイアシュは熱い火に触れたかのように身体を震わせ、必死の形相で食い入るように睨む。
「一仕事終わらせたら弟にも同じ話をするつもりでいた。お前も同席したらいい。同じ話を何度もするより手っ取り早いからな」
 助言など上手くできない。だったら、今までの己が何を感じ、何を考えて生きてきたか話すしかない。そう判断したからこその言葉だった。
 ジャムシードが語る内容を聞いてどう判断するかはガイアシュ自身だ。肯定する部分も否定する部分も出てくるだろう。
 その受け止め方をジャムシードが決めるわけにはいかない。自分以外の人間にもそれぞれの考えが存在ていることを認められれば、自身の思考が否定されたから生き方が間違っているなどと考えることもないだろう。
「俺はお前が考えているほど高潔でもなければ有能でもないぞ。話を聞いて失望するかもしれない。お前の考えの足しにもならないかもしれないんだ。むしろ毒にしかならないかもしれない。それでもいいのか?」
 一文字に唇を引き結び、少年がしっかりと頷いた。次に何をしたらいいのかが見えてきただけでガイアシュの眼に力が戻ってきている。
 ジャムシードは安堵し、少年に頷き返すと、再び肩を叩き、手を放した。
「外での仕事がいつ終わるかは判らない。門兄のところと官庁に寄ってくる予定だから。だが終わったらすぐに戻る。戻ったら弟の部屋に呼ぶから、そのときはすぐに来るんだ。クィービには俺の仕事の手伝いだとでも言えばいい」
 判りました、と素直に返事をするガイアシュに先ほどの食ってかかってきた荒々しさはない。内心ではまだ動揺が収まってはいないだろう。が、外にそれをさらすようなことをしないだけ、彼は理性を取り戻していた。
 今度こそジャムシードは少年に背を向け、廊下を進む。
 故郷で暮らしていた頃から今までの話をしたところで、ガイアシュの不安が取り除けるとは思えなかった。が、重い責任を目の前にする少年に何かしてやれることといえば、今の自分にできる精一杯はこれだけだという気がする。
 ガイアシュの発言によってハムネアとジュペの運命が決まる現実は変わっていなかった。そして発言者の少年自身の行方もその発言内容に委ねられることになるかもしれない。そんな重い現実が目の前にある。
 不安に潰されそうなのはガイアシュばかりではないのだ。ジャムシードだとて恐れを抱いている。今までの努力が水泡に帰すかも知れないのだから。
 それでも自身の恐れで少年を脅すような真似はしたくなかった。どんな答えを導き出すにしろ、ガイアシュが自身で考え抜いて出した答えであれば受け入れてやらねばならない。そう考えるに至っていた。
 それでも揺れる。それもまた人の在りようのひとつなのだろう。ジャムシードはそう思えるようになっていた。