混沌と黎明の横顔

第17章:水面《みなも》の面影 6

 室内に再び戻ってからも痛いほどの緊張感が満ちあふれていた。誰かが話を始めねばならない。が、それをどう言葉にすればいいのか判断できずにいた。
 衝立の向こうから聞こえるのはボソボソと途切れがちに聞こえる女の囁き声と、あくび混じりに漏れる少女のあどけない寝言くらいである。
 窓辺に寄って窓を大きく開けた後、手持ち無沙汰で立ち尽くすジャムシードの傍らにガイアシュが歩み寄った。眉間に刻まれた皺が少年の困惑と猜疑心を如実に表し、ジャムシードはガイアシュが発するであろう問いに身構えた。
 だが少年が口を開くことはなく、窓から顔を出し、下に見える裏庭をジッと見おろすだけである。肩すかしを喰らい、ジャムシードは天井を仰いだ。そこに何かを見出したわけではない。単に今までのことを思い返しているだけだ。
「待たせたわね、ジャムシード。それにガイアシュも。そちらで話をするわ」
 衝立の向こう側から姿を現したのはナナイ一人だけである。
 話をしていたハムネアはどうなったのかが気になるが、それを問いかけられる雰囲気ではなかった。今この場の主導権を握っているのは、明らかに彼女のほうである。固い表情のままジャムシードは手近にあった椅子を引き寄せた。
 近づいてきたナナイから薬の匂いがする。先ほど薬盆を抱えていたところから、衝立の向こうで薬を調合していたことが推察できた。
 こちらが眼をすがめたことから内心を見透かされたらしい。ナナイが首を傾げながら得意げに笑った。薬師としての仕事をしているときの彼女はいつも自信満々である。それだけ己の仕事に誇りがあるのだ。
「ハムネアもジュペもまだ完全に薬が抜けきっていないわ。だから副作用で興奮しやすいの。あまり刺激しないでちょうだいね。まぁ、今ここで調合した薬が効けば、次に目が覚めたときには体調も元通りでしょうけど」
「燻されていた薬の中和剤をすぐに調合できたのか?」
 何が配合されているか判らない薬煙の中和剤をそう簡単に調合できるものなのだろうか。いかに彼女が優れた薬師の能力を持っていようとも、容易くはないはずだ。それとも自身が経験したからこそ判るのか。
「煙の匂いと自分の体調、それにあなたがくれた丸薬の味から予測したのよ。ジューザにもハムネアたちにも眠り薬と一緒に飲ませたからもう大丈夫。とはいえ、すぐに薬が手配できたのは、この館の主人が豊富に薬草を持っていたお陰ね。あなたからも礼を言っておいて」
 引き寄せた椅子に腰を落ち着けたナナイが窓越しに空を見上げた。
「この時期の王都の空は青いのねぇ。ファタナなら乾期に入った途端に砂が風に巻き上げられて朱く染まってしまうのに」
 ねぇ、そう思うでしょ、と窓の桟に寄りかかったままのガイアシュに問いかける女の横顔には、今のところ憂いも焦りも見出せない。
「何を言い争っていたのか聞かないのですか?」
 不機嫌さを隠さない声で少年が問いかければ、ナナイは眼を細めて首を傾げた。幼子がグズグズと泣いているときなどに、彼女が相手を観察するためによくやる仕草であることに、ジャムシードは気づいた。
「ハムネアは今まで我が侭らしい我が侭を言ってこなかったわ。物心ついた頃からずっと。ササイが亡くなってからはいっそう頑なになって、わたしもジューザも心配したのだけど、ジュペが生まれてからは変わったわねぇ」
 ガイアシュの問いに対する答えとは思えない。暢気に昔話をしている場合ではないのだが、ジャムシードはナナイを制止することができなかった。
「子どもが生まれてからの彼女は笑うことが増えたわ。わたしの仕事の手伝いは前からやっていたけど、ジュペが生まれた後は以前にも増して熱心だし、態度が柔らかくなって、ジューザともども喜んでいたの」
 追憶に浸っているのか、しばしの間、彼女は瞼を伏せた。圧倒的に黒髪が多いイコン族の中で、ナナイの髪は他の者よりも少しだけ色が薄い。肌の色は大差がないのだが、その髪の色味のお陰でかなり目立つ存在だった。
「だから、ジャムシードが戻ってきてくれたとき、これですべて上手くいくと思っていたのよ。それまでのハムネアは人当たりが柔らかくなったとは言っても緊張を解こうとはしなかったでしょ。なのに、ジャムシードが側にいるときはそうでもなかったのだもの。……だけど、あんなことが起こるなんてね」
「ナナイ、体調管理や心の問題をとやかく言っている場合ではありません。ハムネアは明らかに我らイコン族の因習に逆らって生きている」
 首を傾げたまま、ナナイが微笑みを浮かべる。目鼻立ちがはっきりしたイコン族特有の顔で微笑まれると、大半の男たちがひれ伏しそうだった。
「因習? それって、わたしに喧嘩を売ってるのかしら?」
「なっ!? 違います! オレが言いたいことはそんなことではなく、一族の不名誉を隠し立てるような態度は慎むべきだと……」
 しかし、ガイアシュが言葉を最後までつむげずに終わる。大抵の女は因習に逆らって生きてるわよ、ととんでもないことを口にするナナイの顔を、彼はあんぐりと口を開けて見つめた。今、少年はとんでもないことを聞いたのだ。
「因習に逆らわずに生きていける女などいないわよ?」
「何を……。いったい、なんのことを言ってるんですか、ナナイ。大抵の女って、誰のことです? それとハムネアのことがどう関係していると? 第一、あなたは最初の問いに答えていない。なぜ言い争っていたのか気にならないのですか? あなたは何を知っているのですか!?」
 混乱して質問責めにするガイアシュが口を閉ざすまで、ナナイは微笑みを浮かべたまま見つめ続ける。幼子の片言に辛抱強く耳を傾ける母親のように慈悲深い笑みだ。が、その横顔が決然とした色合いを帯びていることに気づいたのは、この部屋の中ではジャムシードだけだった。
「わたしはまじない師の娘。部族のことで知らぬことはないわ。わたしに対して部族の者が秘密を持つことなど不可能よ。誰も知らないでしょうけどね」
 ふふふ、と楽しげに笑うナナイの態度に冷や水を浴びせられたように凍りついたのはガイアシュだけではなかった。ジャムシードもまた言いようのない恐怖に顔を強張らせ、彼女の内心を探ろうと端正な横顔を凝視する。
「では! では、教えてください! ジュペの父親の名をご存じでしょう!?」
 ジャムシードはガイアシュの叩きつけるような声に歯を食いしばった。ナナイが真実を知っているということにも打ちのめされたが、改めてガイアシュが真実を確認しようとする態度にも恐怖を覚えたのである。
 すべてが明るみに出てしまえばハムネアやジュペはどうなるのだろう。いや、最悪の予想なら容易くできた。ジュペは婚姻を経ずして産まれた私生児として見下され、部族の中で最下層の地位に落ちる。そしてハムネアは自身の庇護者である兄を裏切った愚か者として糾弾されるのだ。
「ジュペの父親の名? 決まっているじゃないの。ジャムシード、よ。それとも、青の部族内だけで通じる名でいいのなら、ササイとも言うわね」
 死んだ弟の身代わりに拾われ、ジューザに認められた男の名じゃないの、と付け加えられたナナイの言葉に、ガイアシュは床を踏みならして抗議する。
「違う! 違う、違う! そうじゃない! オレが知りたいのは……っ!」
「違わない。ジューザが認めた以上、ジュペの父親はジャムシード以外いない」
 淡々としたナナイの態度にガイアシュが顔を歪めた。
「ナナイ! あなたもそうやって真実から目を反らすのですか!」
 食ってかかる少年の剣幕に引きずられたか、ナナイから微笑みが消える。魂のこもらない仮面の如き女の横顔に、ジャムシードの中で危惧が生まれた。
 部族長の妻と部族長の従兄弟の息子という関係にある二人の間に亀裂が生じれば、青の部族内はひどく険悪な空気が流れることになる。そんなことになったら、原因を作ったハムネア母娘は部族内にいられなくなるかもしれない。
 だが、制しようとしたジャムシードより先にナナイが口を開いた。
「では教えてちょうだい。あなたが言う真実とやらを」
「ハムネアは庇護者が認めた者以外の男と通じて子を成した。そして、その事実を隠して子を育て、地位を偽っている。ハムネアがいるべき場所は若長の側ではなく、朱の部族の羊飼いの隣だ!」
 ジャムシードは顔がひきつらないよう奥歯を噛み締めるのに精一杯だった。
 起こった事実を一族の因習に照らし合わせれば、ガイアシュの言う通りにせねばならない。だが、それはハムネアの本意ではないのだ。彼女は被害者でしかない。それなのに、これ以上傷つかねばならないというのか。
「なるほど。それがあなたの主張なのね。で、それをあなたは誰に話すつもりなのかしら? ジューザ? それとも、あなたの父親であるクィービ?」
「それは……。その、部族長に話をするのが筋かと……」
 公正さを求めるのであれば少年の言う対応は正しい。部族内の裁きには部族長が関わるのが常だ。が、今回はその部族長自身が当事者に巻き込まれる。そうなれば私情が入り込まないと言い切れるだろうか。
「では、ガイアシュ。今の話をジューザに話す場合、あなたはどういう立場で意見するというのかしら? クィービの息子として? それとも部族内の一人の男として? あぁ、男として発言するのなら当然、成年扱いを受けるわね」
 ガイアシュの顔に困惑が浮かんだ。自分がどういう立場で発言するべきか咄嗟に判断がつかないらしい。彼は正確にはまだ成年に達していないし、もし達していたとしても今まで公的に発言する機会など無きに等しかった。自身の立ち位置を把握しきれてはいないのだろう。
 ジャムシードは二人を交互に見比べたが、会話に口を挟むことなく成り行きを見守った。今ここで口出しすれば余計にこじれそうだった。
「オレは……オレ、あの……判らない、です。どういう……あの……」
 少年の高ぶっていた感情が急速に引いていくさまが見える。ジャムシードはここまでの会話の運びから、ナナイが何を狙っているのかおおよそを察した。
「ナナイ。いくらなんでもガイアシュにそれを問うのは酷だ」
 ようやく会話に割って入る気になったジャムシードだったが、ナナイからチラリと一瞥されただけで舌が凍りつく。彼女の視線は刃より鋭かった。少年を子どもとして扱う気はこれっぽっちもないらしい。
「ガイアシュ。あなたももう間もなく成年を迎えるわ。だから、大人が発言するということがどういう意味を持つのか、よく考えねばならないの」
 漠然とした感覚しかなかったであろう大人の自覚を促され、ガイアシュは頬を打たれたかのように眼を見開いた。少年がこれから味わうであろう驚愕と失意を想像し、ジャムシードは内心で身悶えた。
「あなたが一人前の男として発言するなら何を一番に守るのかを決めねばならないわね。それがぶれたが最後、あなたはすべてを失うことになる」
 ガイアシュが顔を強張らせる。今ここでナナイが口にしようとしていることが、自分に大きく関わりがあることを察したに違いない。
「あなたが守ろうとしているものは何? それをよくよく考えなさい。今すぐに答えろとは言わないわ。でも成年を迎えるまでに必ず答えを見つけなさい」
 ガイアシュが成年を迎える日まで一ヶ月もなかった。その僅かな期間の間に彼自身が生きていく上での指針を見つけろと言うのか。なんという厳しい試練を与えるのだろう。彼はようやく十五になる若者だというのに。
 ジャムシードは急に大人としての振る舞いを求められた少年に同情した。が、それを表情に浮かべることはなかった。
 自身の十五の頃を思い返せば判る。年長者に子ども扱いされる苛立ちは言い表しようがない。ガイアシュも揺れている年頃だ。大人になる自分とまだ子どもの自分との落差に恐れおののき、怒り、不安になっているに違いない。
 話は終わったとばかりに少年を退けるナナイの姿に、ジャムシードは不安を抱かずにはいられない。彼女がこんな話をするとは思ってもいなかった。
 ハムネアの問題は部族全体に関わる。そんな重い問題にガイアシュを関わらせるとは。彼が真実を知ったとしても、部族長の妻である彼女ならいくらでも説得する方法はあるだろうに。なのに彼女は少年に考えさせようとする。
 目の前の問題にどう対処するのかを口で諭すのは容易い。特に今回の場合のように重い問題であればなおさらだ。しかし、因習が絡むだけに個々人の立場は複雑を極める。自身の芯がなければ壁に突き当たって潰れてしまう。
 部屋の外で見張りに戻れと促されても、ガイアシュはぐずぐずとその場に留まっていた。助けを求めるようにジャムシードを見たが、彼がそれに応えることはない。すると、少年はナナイに向き直った。
「ナナイ。どうすべきか考えます。だから、あなたの知っている真実を教えてください。でなければ、何を守ればいいのか判らない」
「それは違うわね、ガイアシュ。真実を知って考えるのではないの。自身の芯を作ったものだけが真実に辿り着けるのよ。それも自身が思い描いた真実とは違う真実に突き当たっても崩れないために必要なことよ」
 青ざめたガイアシュの表情とは対照的に、ナナイの顔は穏やかである。甘やかす弱さや逃げの動揺は見当たらなかった。
「それじゃあ、オレが何を守るのかを決めたら教えてもらえるのですか?」
「あなたが覚悟を決めて、それでも真実が知りたいというのなら、わたしが知る事実を教えると約束するわ。だけど、中途半端な覚悟ならいらないわよ。絶対に揺らがない覚悟をしなさい。でなければ教えないわ」
 そんな強固な覚悟は大人でも難しい。それをやれというのか。
 ジャムシードは動揺する少年の様子を案じたが、ナナイはまったく気にしてないようだった。むしろ口を開けば開くほど厳しい条件を出しそうである。
 悄然と肩を落として部屋から出ていくガイアシュの背を気遣わしげに見遣りながら、ジャムシードはナナイに囁きかけた。
「ナナイ、なぜこんな無茶を……。あれではガイアシュは宙ぶらりんのまま悩み続けることになるぞ。ナナイの言う覚悟は並の大人でもできやしない」
 再び首を傾げて微笑んだナナイが小さな笑い声を漏らす。彼女の肩越しに少年が部屋の扉から滑り出していく背中が見えた。
「あの子はジューザの従兄弟の息子なのよ。並の大人では困るわ。ジューザやクィービを越える人間になってもらわなければね」
 ジャムシードは頬がひきつるのを抑えられなかった。十五になろうとしている子どもの将来をナナイはすでに見越している。それが青の部族が置かれている立場の厳しさに繋がっているようで、不安が頭をもたげた。