混沌と黎明の横顔

第17章:水面《みなも》の面影 5

 水底から浮き上がるような浮遊感と共に瞼を開けると、そこには暗い表情をした従兄弟の顔が見えた。ずっとこちらの顔を覗き込んでいたのだろうか。視線が絡まった瞬間、彼が少しだけたじろぎ、身を引いたのが判った。
「気分は、どうだ? いや、いい。気分がいいわけがないな。お前はあの部屋で薬煙を吸いすぎたんだ。今は声を出すのもつらいだろう?」
 あの部屋、と言われて、ぼんやりしていた頭の中が急速に覚醒する。
「部屋に、イコン族の者が……っ! あれは、あの部屋はいったい……」
「取引材料、というのが一番近い。炎姫公と渡り合うにはまっとうな仕掛けだけでは間に合わんからな。知られたからには、フォレイアにも当分の間はここに留まってもらうぞ。オレは誰にも邪魔されたくはない」
 邪魔されたくはない、と言いながら彼は視線を反らした。後ろめたさは拭いがたいらしい。だが決して後悔している様子はなかった。
「父上と渡り合うなどと。何をしでかす気じゃ。バカな真似をするのではない」
 フォレイアは起き上がろうとしたが手足に力が入らず、結局は呻き声を漏らしただけで終わった。その有様を見おろす従兄弟の顔が奇妙に歪む。
「バカな真似なものか。大公はオレを無視するばかりで話を聞こうともしない。つくづくあの男は異母兄ササン・イッシュに関わりのある者には冷淡だ」
「そんなことは……。父上には、父上のお考えがあるのじゃろう」
「考えはあるだろうさ。異母兄の影をすべて消し去ってしまおう、という後ろ暗い思惑がな。あっちがそういう気なら、こちらもそれに対抗するまでだ」
「ジノン、早まるでない。騒ぎになる前に、早く、イコン族を帰すのじゃ」
 従兄弟の口許が歪み、憐れみを含んだ視線が向けられた。
「お人好しが過ぎるぞ、フォレイア。お前だって被害者だろう。己の心配をするのが先だ。それとも自分だけは大丈夫だとタカをくくっているのか?」
わらわ自身の心配と、イコン族のことは、別問題であろうが。妾は大公家の者として、領民を守る義務を負っておるのじゃ」
「ご立派なことだよ、炎姫公女様。贅を尽くした暮らしで領民の血税を貪るばかりの“深窓の令嬢”とは大違いだ。しかしな、そういう態度が鼻持ちならないと思われていることもあるんだぞ。……特に上級貴族の間では、な」
 この国の貴族の性根も腐ってる、と嘲り笑うジノンの顔を、フォレイアはまじまじと凝視する。これほど悪意のこもった言葉を聞こうとは思わなかった。
「いったい、どうしたのじゃ。今日はやけに、つっかかるのじゃな」
 歪につり上がったジノンの口許がさらに醜くひきつる。今までに彼がフォレイアの前でそんな表情をさらしたことはなかった。これがジノンの本質なのだろうか。それとも何か意図があってこうしているのか。
「フォレイア。お前はおめでたすぎるよ。自分が置かれている状況が判っているのか? それとも判っていてわざと神経を逆撫でているのか?」
「この部屋に監禁されている、状況ではないか。判っておるわ」
 やはり何も判ってないのか、と嘲りとも苦笑ともつかぬ吐息がジノンの唇から漏れた。それが妙に癇に障り、フォレイアは眉をつり上げ、相手を睨む。罵ってやりたくても、声がうまく出ないのが口惜しかった。
「大公家でのお前の位置は微妙なものだということは判っているか?」
 ジノンの言葉にフォレイアは眉をひそめる。彼女が話したいことはそんなことではなかった。自分のことを話すよりもまずは領民のことを優先せねばならない。が、イコン族のことを追求してもかわされるだろうと判断した。
「妾がいたらぬばかりに、父上が呆れていらっしゃることは、知っておる。それをもって、大公家での位置が微妙だと申すのであれば、大きなお世話じゃ」
「違うな。お前の見解は間違っている。アジル・ハイラーは呆れているわけではない。あの男は排除したいのだよ。……異母兄に連なる者すべてを、な」
 いよいよ従兄弟が何を言いたいのか判らなくなり、フォレイアは首を傾げる。こちらの視線を避けるように、ベッドの端に座るジノンが顔を背けた。腰に巻く剣帯をいじる背中に迷いが見え、公女は相手が喋り出すのを待った。
「オレの母親がササン・イッシュの実妹であることは知ってるな? 母の遺品の中にはササン・イッシュ伯父直筆の手紙もあった。そこには僧院に押し込められ、鬱屈した想いを抱える伯父貴の心情が綴られていたよ」
 部下が犯した罪で連座に問われ、大公の長男という立場を追われて僧院に送られた公子には、心を許して話せる者が必要であろう。ジノンの母親がどれほど兄公子を慰められたのか判らないが、素直に心情を語っていたのであれば、かなり心を許していたと見て間違いないのではなかろうか。
「その文章の中で、アジル・ハイラーの妻……つまりお前とユニティアの母親のフィオナが僧院に伯父貴を訪ねてきた話があった」
 母親がそんな真似をしていようとは。思わぬことに公女は眼を見開いた。
「母上が? いったい、どのような用件で?」
「他愛のない茶飲み話をしていったらしい。しかも訪問は一度ではなかった。まだお前が生まれる前……そうだな、一年か二年前といった時期だろう。ちょうどユニティアに養育係がついた頃じゃないか? 確か大公家では三歳か四歳くらいから子守りとは別に専属の養育係がつくだろう?」
 フォレイアは慎重に頷いた。姉に養育係がつけられたのは三歳になる直前だったと聞いたことがある。では自分はどうだったかと聞かれれば、自身ではよく覚えていないが四歳の頃ではなかったか。
 姉の待遇とは一年の差が出ているところに、跡取り娘としての姉への期待の高さが窺える。その事実を改めて思い出し、公女は胸に痛みを覚えた。
「当時のポラスニアは厳しい状況に陥っていたはずだ。二六八年、ユニティアがまだ歩き始めたばかりの頃にアルド公国と開戦し、翌年二六九年にはルネレーとイントゥリア両国の連合軍とも衝突している」
 突如始まった歴史の講義にフォレイアの顔が歪む。王国史のことはある程度頭に入っているが、基本的に彼女は暗記が苦手だった。養育係の一人である歴史の教師は妹公女の出来の悪さによくため息をついたものである。
「我が祖国パラキストとは二六四年に和平協定を結び、今のタシュタン地藩ダッタ地方を譲り受けたが、パラキスト側国境も気が抜けるものではなかったはず。お前が生まれる前の数年は周辺国と膠着した戦況にあったわけだ」
 他国史にも詳しいジノンに公女は驚き、同時に自身を省みて落ち込んだ。
 自国の歴史をこうやって講義されるということは、彼女が歴史をあまり得意としていないことを知られている、ということである。これは大公家の娘としては非常に恥ずかしいことだと言えた。
「アルド公国出身の炎姫公妃たちは随分と肩身の狭い思いをしただろう。両国間の戦争回避のために二代続けて嫁いだはずが、なんの役にも立たなかったわけだからな。そんな状況が落ち着くのは二七一年のアルド公国との停戦合意と和平協定、翌々年の不可侵条約締結後だったと聞いている」
 神妙な態度で講義に聞き入っているフォレイアをどう思ったか知らないが、ジノンは物憂げに彼女を見つめ、次の言葉に迷うように唇を震わせる。
 公女が「ジノン?」と呼びかけると、彼は憂いを振り払うように小さく頭を振り、一度口許を引き結んだ後、おもむろに口を開いた。
「今話した期間に、アジル・ハイラーは父である前大公から大公位を譲られている。ササン・イッシュ伯父が僧院に送られたのが二六五年の二十歳、つまりアジル・ハイラーが十五の頃だ。翌年にはフィオナ妃が嫁いできているが、本来ならアルド公国から妻を迎えるのはササン・イッシュのほうだったんだ」
 その話なら聞いたことがある。アルド公国との不仲は先頃亡くなったラジ・ドライラムの兄だった先王が原因だったと伝え聞く。
 多情の王は妻こそ政略で迎えたルネレー出身の正妃一人だったが、他にも貴賤を問わずに愛妾が何人もいたらしい。それでも飽きたらず、各国の留学生や使節団に加わる貴族の家族にまで手をつけたというのだ。
 かの王のおくりなは宣王と言うが、それも多分に皮肉が込められたものである。というのも、当時の国王は自身のあちら方面の機能が衰えることを恐れ、不老不死を願ったらしい。
 そして、不老不死にまつわる薬やら術法やらには目の色を変えて飛びついたというのだ。それが神殿とは相容れない教義を持つ邪教であっても招聘することを厭わなかったと。周囲のひんしゅくはまったく無視したらしい。
 王に取り入ろうと目論む宗教関係者には願ったり叶ったりの風紀がはびこり、次々に訪れる不老不死の伝授者に対し、国王は新しい教団を設立することを許す令を乱発した。さらに諫める者には処罰を下したとも聞く。
 口を開けば無意味な宣旨を下す、との嫌味がこもった諡には、王家の葬祭を管理する神殿の激烈な怒りが込められたものなのだ。
 実際、当時を知る者の回顧を聞くと、かの王は自身の取り巻きには甘かったが、逆らう者には容赦がなかったと言う。であるから、謀反を起こした者にはとりわけ厳しい処分を下した。
 二七二年に巻き起こったユーバーダの乱は、愚王に対する地方官の謀反であったが、鎮圧後は関係者に目を覆いたくなるほど陰惨な刑罰を与えている。
 そんな状況下である。謀反を試みた罪に問われた部下の連座で跡取りの資格を剥奪されたササン・イッシュは、周囲が過敏に反応した結果の犠牲者と言えるかもしれない、とフォレイアは今さらながらに考えた。
 つらつらと思い出せる限りの当時の国内情勢を記憶から引っぱり出していた公女の耳に、大袈裟なほど大きなため息が聞こえた。ここにいるのは彼女と従兄弟だけである。となれば、誰のため息かは確かめるまでもなかった。
「どうかしたのか? なんぞ思い煩うことでもあったか?」
 なぜジノンがため息をついたのか判らないフォレイアは、首を傾げる。その態度に従兄弟はうんざりした様子で肩を落とした。
「鈍いにもほどがあるぞ、フォレイア。お前の母親は本当なら伯父貴に嫁ぐはずだったと言っているのに、なんだその暢気な態度は」
 そう言われても、政略結婚では直前になって相手が変わることなどよくあることだ。国同士、家同士の結びつきのために交わされる契約の一端である以上、相手個人が誰かではなく、どこに属する者かのほうが重要なのだ。
 彼女の不満げな顔つきから考えていることを察したらしい。ジノンは肩をすくめ、フォレイアから視線を反らして薄暗い虚空を仰ぎ見た。つられて彼の視線の先を仰いだ公女だったが、次いで聞こえた内容に全身を強張らせた。
「反逆罪の連座で牢獄のような僧院に繋がれた者と自身の役目を潰された者。虐げられた者同士で、しかも仮定で述べるなら元婚約者同士。ただの茶飲み話で終わったのかな? そこに何らかの意図が存在しなかっただろうか?」
 凍りついたフォレイアはたった今もたらされた内容に恐れおののき、呼吸すらまともにできぬほど混乱していた。
 母と伯父が何か企みがあって会していたというのか。一度や二度ではない訪問が何を意味するのかフォレイアには判らない。だが、ジノンは明らかに何かを疑っている。もしかしたら企みの内容すら分析しているに違いない。
「母上が、大公家に叛意を持っていたと。そう、考えておるのか、ジノン」
「可能性は否定できん」
 ゆっくりと振り返った従兄弟の瞳が鈍く光った。日に焼けた彼の顔は薄暗がりの中ではハッキリと見えない。だが、一本使いの燭台から差す弱い灯火がジノンの瞳に光を、そして同時に闇を届けていた。
「なぜアジル・ハイラーがお前に厳しいのか、考えたことはないか? 姉のユニティアには寛容だったと聞いた。ところが昔からお前には手厳しく、決して褒めようとはしないと言うじゃないか。おかしいとは思わないのか?」
「それは……。妾があまりにでも出来が悪いから……」
 静かに、だがキッパリと首を横に振ったジノンが真っ直ぐにフォレイアを見る。彼の瞳の奥に宿る暗い光はいよいよ闇を濃くし、重苦しい圧力を与えた。従兄弟から離れようと、フォレイアは横たわるベッドにさらに深く沈む。
「お前が扱っている仕事は官吏の間では定評がある。直に聞いて回ったから間違いない。官吏たちは口にこそしないが、お前に対する大公の対応には困惑してるんだ。それはそうだろう。ユニティアへの態度とはあまりに違いすぎる」
 声を出す気すら削がれ、フォレイアは小さく震えた。
 これ以上は聞いてはいけない。だが、聞かずに済ますこともできない。何より彼女自身が知りたかった。なぜ父にこれほど疎まれるのかを。聞けば後戻りはできないと直感的に理解しつつも、公女は従兄弟を止めなかった。
「フォレイア。お前はアジル・ハイラーに疎まれている。出来が悪いからでも、姉ユニティアに似ていないからでも、ない。オレの母親の手紙と、オレ自身がこの国に来てから周囲に探りを入れた結果から判ることは……」
 空気が一段と重くなり、冷えて固まった。それらはいつものようには喉を通り抜けてはいかず、ひどく呼吸が苦しい。彼女は喘ぐように口を開閉させたが、やはりその唇から音が発せられることはなかった。
 聞きたい。聞きたくない。恐ろしい。だが自身が納得する理由が欲しい。
 せめぎ合う内心の葛藤など従兄弟は知らぬだろうに、肝心のところで言葉が途切れ、フォレイアは苛立ちと安堵を抑えられなかった。
 が、彼女の混乱は次の瞬間には切り裂かれる。
「お前は、アジル・ハイラーの娘ではない、ということだ」
 寒い。手足の先が氷のように冷たい。
 ジノンの伝える言葉が頭の上のほうを滑っていくが、彼女はそれを理解しようとはしなかった。真っ先に頭に浮かんだことは、この部屋の温度が急に下がったと感じたことと、妙に身体が重く感じることだけである。
「お前の母親が伯父貴の僧院を訪ねた期間はお前が生まれる一年か二年前から生まれる少し前までだ。その後、フィオナ妃は自分の手で子どもを育てると言い出し、外出することもほとんどなくなったらしい。それまでは頻繁に街に出て領民の暮らしぶりを視察していたそうだがな」
 言葉は判る。だが従兄弟が語る内容は頭に入ってこなかった。小さかった震えが徐々に大きくなり、フォレイアは無意識のうちに両拳を握りしめていた。
「ユニティアは跡取りだったから自ら世話を焼かずに子守りや養育係りに任せたとも言えるが、普通の貴族の女は自ら子どもの世話などしない。お前の世話をしたのは、アジル・ハイラーがお前の父親ではなかったからでは……?」
 つまり、と言葉を区切り、ジノンは居心地悪そうに身じろぎした。フォレイアの強張った表情が見えているはず。彼はこれ以上話をしても従姉妹がすべて受け止めることができないのではないかと危惧しているのだろう。
「つまり、お前はフィオナ妃とササン・イッシュとの間に生まれた、私生児である可能性がある、ということだ。アジル・ハイラーはそう疑っている、とオレは推理した。……今朝、伯父貴の墓標とフィオナ妃の霊廟を見て、アジル・ハイラーが間違いなく疑いを持っていると確信したよ」
 室内が暗い。元から薄暗かったものが、いっそう暗さを増した気がした。しかも眩暈まで感じる。身体は寒さに震え、怠かった。先ほど吸い込んでしまった薬煙は何か特別な症状が出る類のものなのだろうか。
 そうぼんやりと考えていたフォレイアの視界いっぱいに、ジノンの顔が現れた。それは従姉妹を気遣うものではなく、侮蔑が込められたものでもない。表情を押し殺した緊張感だけが漂い、彼は瞳に暗く強い光を宿していた。
「アジル・ハイラーは異母兄の影を消し去ってしまいたいんだ。表立っては騒げないから、お前を飼い殺しの状態に置いて、徐々に排除していく気だろう。このままだと、お前はいつか殺されるぞ。実の父親だと信じていた男にな」
 ベッドに吸い付いたように動かない手足が冷え切っている。少しでも動かして温めたいのに、公女の意に反して身体はピクリとも動かなかった。
「だからな、フォレイア。殺される前に手を打たなければ駄目なんだ。お前もオレも、あの男にとっては目障りな存在でしかない。お前へのこれまでの仕打ちを見てきても、あいつに情などを期待しないほうがいい」
 ジノンの左手がそっとフォレイアの右肩を押さえつける。体重がかからないよう気を配っているが、決して逃げられないだけの力は込められていた。
「何を、する……のじゃ……」
 ようやく絞り出した声は上擦り、かすれきっている。フォレイアは己のざらついた声に驚いたが、目の前の男が浮かべた笑みに再び凍りついた。
「調べたが、アジル・ハイラーには庶子はいない。子どもはユニティアとお前の二人だけだと公式に記されている。ということは、あの男はお前をすぐには排除できない。異母兄の子だという証拠を示せない限りは」
 だから正式ではないにしろ、お前は跡取りの扱いを受けているのだ、と囁くジノンの声が破鐘のように頭に響く。眩暈がいっそうひどくなった。
「だったら手の打ちようがあるだろう? 跡取りの地位を確かなものにしてしまえばいい。生涯の伴侶を決め、次の跡取りを生んで王家に炎姫家の跡取りだと認めさせてしまえば、いかにアジル・ハイラーとはいえ手が出せない」
 従兄弟の右手が首筋に添わされたのを感じ取る。ゆるゆると滑り落ちていく指先が着込んでいる上着の結び紐に辿り着いた。
「お前の立場を確かなものにするためにも、今ここで決断しなければ座して死ぬのを待つだけだぞ。いずれ近いうちに、あの男は本格的にお前を排除しにかかるだろう。今のお前では太刀打ちできまい?」
 結び紐が解かれるのを感じる。さらに顔を寄せたジノンが耳打ちした。
「オレと手を組め、フォレイア。悪いようにはしない。いや、オレがお前を守ってやる。お前が大公家の跡取りを産めるよう手筈を整えてやるよ」
 ここでジノンが狡猾な笑みでも浮かべれば、即座に拒絶できただろう。だが、フォレイアの目の前にある男の顔は感情を押し殺そうとしてはいるが、内心の必死さを隠し切れてはおらず、なぜか悲しげにすら見えた。
 公女が唇を震わせると、ジノンは彼女を制するように早口でまくし立てる。
「おっと、誤解するなよ。オレがお前に結婚を申し込んだのは、何もこのことがあったからじゃない。お前の素直な性格を気に入ったからだ。
 なぁ? オレたちは釣り合いの取れた夫婦になると思わないか? オレは商人のツテがあるし、お前は貴族連中にツテがある。互いを助け合えば地藩を治めるくらいの力はある。今までだって、お前は上手くやってきたのだし。
 何より、跡取りとしての地位が確かなものになれば、お前もオレも中央貴族どもから距離を置かれることもなくなるんだぞ」
 貴族の間でのフォレイアの評価は二分される。跡取りと目されつつ微妙な立場にいる彼女と親しくしていいのか、それとも無視すればいいのか、貴族たちは戸惑っているのだ。それを暗に指摘され、彼女は羞恥に頬を染める。
「妾が貴族にどう思われていようと、そんなことはどうでもよい! やるべきことをやれば、おのずと結果はついてくるものじゃ」
 ジノンの申し出は公女の虚栄心の一部を満たしたが、同時に屈辱感も煽った。従兄弟の助力がなくては己の地位すら守れないと嘲られたも一緒である。たとえ事実であっても、今の彼女にはそれを素直に受け止める余裕はなかった。
「ジノン、お前の申し出は我が家全体にとって無礼じゃ。さがれ!」
 瞬間、押さえられていた右肩に痛みが走る。ジノンが手加減なく掴んだのだ。上着の結び紐が完全に解かれた気配も伝わってきた。
「離れよ! 妾に勝手に触れることは、なんびとといえども許さぬ!」
「黙ってろ! お前はなんにも判っちゃいない!」
 右肩は動かせないが右肘から下と左腕は自由になる。彼女は動かしづらい右腕を揺すり、残りの自由になる左手で従兄弟の頬を叩いて抵抗した。
「くそっ。このじゃじゃ馬が……!」
 頬を張られていっそう怒りを煽られたのか、ジノンは噛みつくようにフォレイアの唇を塞ぐ。暴れる彼女の両腕をまとめて頭上で押さえつけると、彼は従姉妹が着込んでいる衣装の胸元を引きちぎった。
 口を塞がれなくとも悲鳴を上げる余裕などない。身をよじって逃げようともがいても、男一人の体重が上にあっては拘束がはずれるはずもなかった。
 だが、それでも抵抗をやめない彼女を助けるように、どこからか物音が響いた。初めはそれがなんの音なのか判らなかった。いや、抵抗することに必死で物音そのものに気づいていなかったのである。
 フォレイアがやっとその音に気づいたのは、従兄弟の片拳が固く握りしめられ、鳩尾に食い込んくるのに気づいたのと同時だった。
 公女が助けを呼ぼうと口を開いた一瞬、ジノンは拳を柔らかな鳩尾にめり込ませた。拳を叩き込まれる激痛こそないが、拳での重い一押しは彼女の呼吸を奪い、意識を遠のかせるのに充分だった。
 口を開閉させても息ができない。従兄弟の腕を掻きむしり、フォレイアは途切れかかった意識の端、凄まじい勢いで扉が開かれる音を聞いた。
 小さな舌打ちが響き、薄暗がりの中に灯る燭台の炎が消される。扉から漏れる光が眼に痛い。誰かが室内に足を踏み入れる気配と間近にいる誰かが侵入者に向かって物を投げつける荒っぽい音が響いた。
 そのすぐ後、取っ組み合いの喧嘩が始まったところまでは公女の意識は保たれていた。が、それ以上は無理だった。
 朦朧とした意識と霞んでいく視界。その中で彼女は焦りを含んだ声が響くのを聞いた気がした。鋭いが柔らかさを失っていない声の主を知っているはずなのに、相手の名が咄嗟に思い浮かばぬままフォレイアは完全に意識を失った。
 それが、彼女が長くて短い眠りの前に見聞きした最後のものだった。