混沌と黎明の横顔

第17章:水面《みなも》の面影 4

 館に戻ったならすぐにでも炎姫家の者が接触してくるかと身構えていたが、館の周辺にも異常はなく、大公家の者らが公女を迎えに来る気配はなかった。
 もしや公女の危機が伝えられていないのか? ジャムシードはそう疑ったが、ソージンが伝え忘れるとは思えなかった。となれば、醜聞を怖れて公女との接触を避けているのか、あるいは彼女のことを軽視しているか、だろう。
 日頃のアジル・ハイラーの様子から察するに、故意に娘との接触を避けていると勘ぐってしまうのは、致し方ないことだ。それほどにかの御仁は娘との会話では素っ気なく、肉親の情を見せようとしないのである。
 大公家の介入がないのであれば、ジャムシードとしてはとりあえず門兄たちに頼んでおいたことを撤回しておかねばならなかった。無事にイコン族や公女を取り戻せたというのに、門兄たちを奔走させておくわけにはいかない。
 再び出掛ける準備をし始めたジャムシードに声をかけてきたのは、イコン族青の部族長についているはずのクィービだった。
「ジャムシード、ちょっといいか? ジューザが呼んでいるんだが」
「ジューザが? もう大丈夫なのか? まだ休んでいたほうがいいだろうに」
 困り切った表情の相手に首を傾げ、ジャムシードは話の続きを促す。
「いや、それが。女たちも意識は戻っているんだ。馬車の中で全員が意識だけは回復していたから。ただ身体の怠さがひどくて休ませているんだが……」
「どうした。何か問題でも起こったか。だからジューザが俺を呼んでるのか?」
「問題というか……。ジューザが砂漠に帰ると言ってきかないんだ。よほどナナイが心配なのだろうが、女たちの体調を見てからにしたほうがいいだろうし、何よりハムネアがせっかく考えてくれた言い訳のためにも薬を仕入れてから戻ったほうがいいと思うんだ。ところがジューザの奴が……」
 苦り切った表情でクィービが首を振る。ジューザがジャムシードを呼んでいるというよりは、部族長を説得してくれ、と言いたいらしかった。思い立ったら一直線のジューザらしい性急さに、ジャムシードはそっとため息をつく。
「流行病に効き目がある薬を仕入れるために砂漠を出る、という許可を大族長からいただいたのだったな。ハムネアはクラングの妻だ。砂漠を出るための許可は厳重だったろうし、その言い訳は成立させたほうがいい」
「そう思うだろう? だが、ジューザはナナイをここには置いておけないから帰ると言ってきかん。お前に旅の準備を手伝って欲しいと伝える気だ」
 妻のことになると実の妹や姪の立場や体調を気遣うことすら失念してしまうジューザに呆れてしまうが、普段は部族の者にも公平に接する男である。妻の点だけをあげつらって無能と断じることはできない。
「判った。ジューザを説得してみよう。だけど、そうなるとハムネアやジュペの体調のことを知りたいんだが。何も知らないままじゃ説得しづらい」
「あぁ、お前ならそう言ってくれると思ってハムネアに声をかけてきた。ジュペは疲れて眠っているだが、ハムネアは起きていたから逢えるぞ。ナナイはジューザが手放さないから話をするのは無理だが」
 あんな騒ぎの後ではジューザがナナイを側に置いておくことは予想していた。昔から暇さえあればナナイの顔見たさに周囲をうろついていたくらいである。妻として側に置けるとなったら遠慮などするはずがないだろう。
 ジャムシードは漏れそうになったため息を飲み込み、ハムネアと話をするために部屋を出た。モスカイゼスたちに逢いに行くのは後回しにするしかない。ここでジューザのことを後回しにすれば彼はまた一人先走るだろう。
 一緒に部屋を出ながらジャムシードはクィービに改めて今回の作戦で指揮権を横取りしたことを詫びた。すでにイコン族と距離を置いている者がしゃしゃり出てきて、内心では不愉快に思ったのではなかろうか。
 ところがクィービは屈託なくジャムシードの肩を叩き、お前がいて良かったと笑いさえした。一度でも懐に入れた者には寛大な単純さがイコン族らしい。
 その後、クィービは腹ごしらえをしてくると厨房へと消えた。部族長が単独行動に出た後にイコン族をまとめていたのは従兄弟の彼である。騒動が一段落してホッとしたら腹の虫が騒ぎ始めたのだ。無理もなかろう。
 行動前に館の主人のタケトーが軽食を用意してくれたが、クィービは食べ物が喉を通らないと苦い顔をしていた。一族の者を無事に連れ帰る責任感に囚われて、胃が痛い思いを味わったに違いない。
 ジャムシードは足取りも軽く廊下の角を曲がる姿を見送った後、ハムネアが待つ部屋へ急いだ。彼女が休む部屋は以前の部屋ではない。前の賊に襲われた部屋では厭だろうと、内装がまったく異なる部屋が用意されていた。
 見張りに立つイコン族の者に断りを入れ、ジャムシードは室内に足を踏みいれる。香草が焚かれているらしく室内は甘い香りに満ちていた。用心に大窓は閉じられているが小さな採光窓からは光の筋が伸びている。
 眠っていると聞いたジュペを気遣い、ジャムシードが小さな声でハムネアを呼べば衝立の陰から顔が覗いた。くつろいだ部屋着に着替えているかと思ったが、意外にも彼女は身なりを整え、化粧までしていた。
「ハムネア、まだ横になっていたほうがいいんじゃないのか?」
「もう平気よ。兄さんがすぐにでも出発しそうな勢いでいるそうね。相変わらずナナイが絡むと後先考えないで困った人。ごめんなさいね、ジャムシード。あなたにも、あなたのお知り合いにも随分と迷惑をかけているのでしょう?」
 こちらに歩み寄ったハムネアがジャムシードの腕にそっと縋る。他の者の前では気丈に振る舞う彼女が不意に見せる弱さだ。だが、その手をそっと引き剥がし、ジャムシードは半歩後ずさる。
「ハムネア。駄目だ、俺に縋っては。その権利は俺にはない」
 恐ろしい目に遭った彼女を慰めてやりたいとは思う。だが伴侶でもないのに、気安く弱っている彼女に触れるわけにはいかなかった。
「そんなこと……! 今ここにクラングはいない。誰も何も言わないわ」
「黙認してくれるから何をやってもいいわけじゃない。それにジュペが眼を醒ましたらどうするんだ。俺たちが親しくしている姿を見れば、あの子は無用な期待をする。望みはないのに、そんな残酷なことはできない」
 ハムネアが痛みを堪えるように唇を噛みしめる。彼女の眼許には光るものが浮かび、その姿がジャムシードにも痛みを与えた。
「だったら、ジュペの望み通りにすればいいわ。親子三人で暮らしていけばいいのよ。他の誰にも邪魔されないところで」
 呆気に取られ、気を抜いていたジャムシードは、胸元に飛び込んでいた柔らかな体を抱き留めるだけで精一杯だった。
「ジュペを連れて、誰も知らないところに逃げればいいわ。青の部族に広がった病でわたしもジュペも死んだことにすれば……」
「バカを言うな。クラングがそれで納得すると思うか? 追求されたらジューザも無事ではすまないんだぞ。いや、青の部族そのものも不興を買う。ハムネアは自分の責任を果たす気でクラングの元に行ったんじゃないか。今さらそれを覆せば、どういうことになるか判っているだろう!?」
 今回のことでハムネアは混乱しているのだ。自分が何を口走っているのか判っていない。そう思いたかった。でなければ、彼女を傷つけることになる。
「それが部族長の妹としての責任だと思っていたわ。だけど、捕らえられて、もう二度とあなたに逢えないかもしれないと思ったとき、そんなことはどうでもよくなったの。ジュペを抱きしめることもできない、あなたにも触れることができない、そんな場所にまた戻りたいなんて思わない!」
 頬を伝い落ちる涙が光を反射した。こんな風に泣くハムネアを見たのは天幕での再会以来だ。今回の拉致事件ですっかり心が弱っている。それでも彼女の意に添うようにはできなかった。
 今にも壊れてしまいそうなハムネアの様子に心を痛めながら、ジャムシードは彼女の頭をそっと抱き寄せ、顔を歪めた。
 今から伝えることは残酷なことだ。ハムネアも噂では耳にしているだろう。それを改めて突きつけることになろうとは。
「俺はハムネアとジュペの側にいてやることはできない。時期を見て、俺は父の故郷の領主になる。そのとき俺の隣にいるのはハムネアじゃない。俺の……従姉妹とその子どもたちだ。そう決められた」
 ハムネアの気配が鋭くなった。息を詰め、ジャムシードの言葉を拒絶するが如く固まった身体からは、強い緊張感がにじみ出していた。
「ハムネアとジュペを連れて逃げるだけの覚悟は、今の俺にはない」
 ひきつったようにハムネアの喉が鳴る。嗚咽をこらえる気配に、ジャムシードはいっそう顔を歪めた。こんな風に泣いて欲しくはなかったのに。
 今の言葉は母娘二人を助けるためには必要な言葉だった。そして青の部族を助けるためにも、ジャムシード自身がこれ以上彼らと関わるのは賢明な判断ではない。だが、それをハムネアに悟られるわけにはいかなかった。
 父が逃げ出した故郷に渡り、領主の座に収まる理由は二つある。一つは従姉妹とその子らを助けるためだ。島小父たちとの間に嫡流の正当性を巡って諍いが起こりそうだと聞かされた。それが表向きの理由である。
 もう一つ、暗黙の契約としてジャムシードの目の前に横たわる理由があった。彼がジューン島に行くのならば、イコン族が王都で少々のいざこざを起こそうとも目を瞑ろうと、炎姫公は言外に匂わせたのである。
 それは逆に言えば、受けねばイコン族への追求が厳しくなるということだ。手加減せずに騒ぎに介入されれば、ジャムシードの力では庇いきれない。ハムネアが取り繕った嘘が暴かれ、青の部族は大族長の怒りを買うだろう。
 今の自分の顔を見られてはハムネアに感づかれそうだ。だからこそ慰めを装って抱き寄せているのだが、それでも気配で悟られそうで落ち着かない。
「あなたは、ジュペの父親になってくれると言ったのにっ!」
 か細い悲鳴混じりの声が耳朶を打つ。その言葉に口許をひきつらせ、ジャムシードは噛み締めた奥歯に力を入れ、天井を仰ぎ見た。
「あれは砂漠限定だ。今の俺は炎姫公に仕える官吏の一人。勝手は許されない」
 簡素な作りの部屋の天井は木目が剥き出しであった。歳月を経た木目は素朴な風合いをさらし、都会の真ん中にあってどこか田舎臭さを感じさせる。この部屋を造った施主か大工はそこまで計算していたのだろうか。
 黙々と飾り細工を作っていた頃が懐かしい。作業の間は雑念が入り込む余地がなかった。せいぜい義妹のことや盗賊団のことを考える程度だった。
「それにな、ハムネア。前にも言ったけど、今の俺はハムネアを女として見てないよ。十五の頃とは違う。俺たちの歯車は食い違ってしまったんだ。ずれたものは戻らない。それはハムネアも判っているだろう?」
「だったら今は公女さまを見ているっていうの? それとも領主になるために妻に迎える従姉妹殿のことを? わたしと彼女たちとどこが違うっていうの」
 ハムネアを説得するのは無理なのだろうか。抱き寄せたのがまずかったのか、彼女はしがみついて離れようとしなかった。
「十五の頃のあなたは確かにわたしを見てくれたわ。今のあなたがそうならないとどうして言い切れるの! それとも。あなたも、一族の者と同じなの!? あの男に、ジュペの父親になるあの男に穢された女なんか汚ないと……」
「ハムネア! 自分を貶めるなと前に言ったはずだ! 俺はハムネアが穢れたなんて思っていない。俺がハムネアを選べないこととは別問題だ」
「わたしには同じこと……ッ!」
 悲痛な声を上げる彼女の口をジャムシードは自分の唇で塞いでいた。一瞬もがいて抵抗を見せたハムネアだったが、すぐに大人しくなった。
 唇が離れたとき、彼女は困惑を隠しきれない様子だった。強引に唇を奪った罪悪感に自己嫌悪しながら、ジャムシードは相手の瞳を覗き込む。
「俺はハムネアが嫌いになったわけじゃない。逆に好きだと断言できるよ。但し、それは人としてだ。前にも伝えただろう? ジュペを育てながらナナイを助け、ジューザを諫める手腕は尊敬に値するって」
 いっそう困惑を深めたハムネアの頬に残る涙を指先で拭い、ジャムシードは苦い思いを噛み殺した。やはり彼女を完全に突き放す勇気はない。
「十年前の夜はハムネアには不幸な出来事だっただろうけど、それを知っている者はいない。俺が始末したんだ。ハムネアは胸を張って生きていけばいい。……だけどな、俺はもう側にはいられないんだよ」
 再び流れ出した涙がハムネアの頬を滑り、顎を伝い落ちた。いつもなら強い意志の光が宿る瞳が今は暗く澱んでいる。彼女に失望を与えたのは自分だ。ジャムシードは朱茶色の瞳を見つめたまま無力感を味わった。
「結局、わたしは独りになるのね。誰も側にはいてくれないんだわ」
 ゆるゆるとハムネアが俯き、両手で顔を覆う。声も上げずに泣く彼女の姿にジャムシードは途方に暮れた。が、今の自分では何をやっても意味がない気がする。彼女を拒絶した時点で慰める資格は失ったのだ。
 いっそハムネアに嫌われるような態度でも取れたらいいものを。いや、憎まれ役を買って出るべきなのだろう。それが出来ない己の弱さに嫌気が差した。
 嫌ってくれとも、忘れてくれとも、言うことは容易い。が、実際にその言葉を口にしたとて陳腐なだけだ。あまりの白々しさに反吐が出る。
「すまない、ハムネア。俺は……」
「何も言わないで! 聞きたくないわ。あなたなんて、好きにならなければ良かった。そうしたら、こんな……こんなっ!」
 胸に刺さった言葉の刃にジャムシードは顔を歪めた。立ち尽くして肩を震わせるハムネアに触れることができず、彼は彼女に背を向けるしかなかった。
 かつて砂漠を去るときに見送ってくれた少女は「あなたに逢ったことを後悔はしない」と言ってくれたのに。自分は期待を裏切ることしかできないのか。
 疲れに襲われ、ジャムシードは肩を落とした。今は何も考えたくない。だが、やるべき事は山とあり、今も心の片隅で彼を追い立てる。
 扉を開けようと腕を伸ばし、ジャムシードはそこで固まった。扉が薄く開いている。入室したときにきちんと閉めたはずだ。なのになぜ開いている?
 ジャムシードは乱暴に扉を押し開け、廊下に飛び出した。見張り役の者が室内の会話を聞いていたのならば、ハムネアの抱える秘密が明るみになってしまう。そうなる前に対処しなければならない。
 だが、結果としてジャムシードは見張りを捜す必要はなかったのである。
 室内での会話を聞かれたことは間違いなかった。一瞬でそう判断できるほど相手の動揺は大きいように見受けられる。もちろん誰が聞いても衝撃は大きかろう。今まで真実だと思っていたことが覆されるのだから。
 声にならない呻き声を飲み込み、ジャムシードは目の前の人物を凝視した。端から見たらお互いに強張った表情をしていることだろう。
「ガイアシュ……。なぜ、お前がここにいる……?」
 こんな風に彼と向き合う日がこようとは思いもしなかった。
「ナナイが一服盛ったので今はジューザが寝ていることと、ナナイがあなたに話があるので来て欲しいと伝えに。それに朝食は軽めでしたから見張りを交代してまともな食事をしてもらおうと、その間はオレが見張りにつくつもりで」
 上擦った声であったが意外と平静に受け答えるガイアシュの様子に、ジャムシードは詰めていた息を静かに吐き出した。後ろ手に扉を閉め、素早く周囲の気配を探ってみたが、この辺りに別の気配はない。
 複数名に秘密が知られたわけではなかったことに安堵した。後はガイアシュさえ丸め込んでしまえば……。
「ジュペの父親は、まさか、朱のまじない師だったというオズモーですか?」
 限りなく核心に近い位置に切り込まれ、ジャムシードは奥歯を噛み締めた。
「違う。朱の部族は関係……」
「嘘です! 青の部族と対立関係にあった朱の部族の者なのでしょう? だからこそ、ハムネアはジュペが生まれてからもずっと隠し通してきたんだ。ハムネアはオズモーを嫌っていた。あれは、彼女が、そういう……」
「違う。オズモーじゃない。ジュペの父親は俺だ。他の奴に譲る気はない!」
「何を言ってるんですか! ジュペはあなたの娘だと思われていたから部族の者に受け入れられていたんです。それが朱の部族の血を引くとなれば話は別です。そんな娘が部族長の養女になるなど、誰も納得しませんよ」
 ジャムシードは奥歯をいっそう強く噛み締める。気を抜いたら何もかもおしまいだ。そんなことになればハムネアもジュペもイコン族にいられなくなる。いや、どこにも行くあてがない以上、彼女たちは蔑まれながら砂漠で暮らすことになるだろう。そんな目に遭わせるわけにはいかない。
 だが、反論しようとしたジャムシードの背後で扉が軋みながら開かれた。ガイアシュはまだ気づいていない。そして室内にいる者も。
「なぜ庇うんです! ジュペの父親が朱の部族にいるのなら、その男にハムネアとジュペを養わせればいいんだ。あなたである必要などないじゃないか。こんな……! あなたが部族の者を欺くとは思わなかった!」
 ジャムシードは拳を握りしめた。少年の言葉に反論するのは容易い。だが深く傷ついた眼をしている彼がそれを聞けば反発するのは必至だ。
「養う? 誰がわたしやジュペを養うと? あの男にそんな甲斐性はなかったわ。オズモーの言いなりに、いずれわたしを娼婦のようにオズモーに譲るのが関の山よ。……そうなったとき、ジュペはいったい誰が守るのかしらね」
 扉から滑り出したのはハムネアだった。ジュペが起きたのでない限り、部屋から出てくるのは彼女だろうとは予想していた。ハムネアは泣きはらした眼こそしてるが、落ち着きを取り戻したようである。
「口を塞がれ、手足を押さえつけられて、あの男にのし掛かられたときの、わたしの気持ちが判るかしら? あの夜、砂嵐がこなかったら、手足を押さえつけていた他の男たちにも、わたしは汚されていたでしょうよ」
 ハムネア、と名を呼んだが、彼女はこちらを一顧だにしなかった。冷静すぎるほどの態度でゆっくりとガイアシュに近づいていく。
 いったいどんな顔をして話しているのか、ジャムシードからは見えなかった。だが彼女の顔を凝視する少年はすっかり狼狽している。
「ねぇ、聞かせてちょうだい。あなたならどうする? すべてが終わった後、死ねば良かった? でも、わたしは死ねなかった。わたしが死ねばオズモーはきっと次にナナイに何かを仕掛けてくる。そうなれば兄さんは何もかも放り出してナナイを取るわ。部族長が部族を捨てる不名誉に部族の者が耐えられた?」
 目の前に迫る女が放つ鬼気にガイアシュは完全に呑まれていた。
「それじゃあ兄さんに正直に教えれば良かったかしら? いいえ。もしそうなっていたら、兄さんはわたしをただの羊飼いにくれてやらなければならなかったのよ。部族長の妹が羊飼いの妻! これほどの侮辱があるかしら。秘密を抱えれば、兄さんはオズモーの言いなりになるしかなかったでしょうよ」
 知らぬからこそジューザが強気でオズモーと対峙していただろうことは想像に難くない。そしてオズモーは己が最高に有利になる時期を虎視眈々と待っていたからこそ、十年という歳月口をつぐんでいたのだ。
 ジャムシードが現れなければ、青の部族はいったいどうなっていただろう。
「それとも赤ん坊が生まれてくる前に腹の中で殺せば良かった? あるいはジュペを連れて砂漠から逃げれば良かった? いいえ。そうした時点でオズモーは兄さんに真実を告げたわ。青の部族の名誉を踏みにじるために」
 ガイアシュが後ずさった。だがすぐによろけ、崩れるように尻餅をつく。
「もうわたし一人では太刀打ちする術がなくなっていたわ。それに何もかもが知れたらジュペは不名誉な子だと虐げられる。あの子は何も悪くないのに。あんな腐った男の子でも、わたしにはたった一人の娘なのよ!」
 ハムネアの声は囁きより少し大きな程度だった。それなのに名工による剣の如く鋭く、触れる者を容赦なく切り裂く残酷さを含む。
「ジャムシードがあの男を殺したときのオズモーの顔! 見物だったわ。あんなに清々したことは後にも先にもない。あの一太刀で、真実を知る残りの者も沈黙したわ。もっとも騒動の後始末で粛正されたから永遠に話せないけど」
 ゆっくりとハムネアがガイアシュの上に屈み込んだ。笑い声のように震える声音であったが、チラリと覗いた横顔は決して笑っていない。それをジャムシードは金縛りにあったように動けないまま見つめていた。
「ねぇ、教えてちょうだい。真実を明るみにして誰が幸せになるの? それとも今度はあなたがオズモーの代わりに兄さんを脅す気? だとすれば、わたしはあなたを殺すわ。決してあなたを生かしてなどおかない」
 少年の首にハムネアの指先がかかった瞬間、ジャムシードは弾かれたように一歩を踏み出し、彼女の腕を引き寄せていた。
 名前を呼び、ガイアシュと引き離そうとするが、思わぬ力で振り払われる。首を絞められそうになった少年は床に座り込み、揉み合う二人の男女を唖然と見上げるばかりだった。離れろと忠告しても呆けたままである。
「ハムネア、落ち着いてくれ。今ここで騒ぎを大きくしてどうするんだ」
 拘束を逃れようとハムネアは暴れ続けた。これほど負の感情を露わにする姿は初めてである。まるで彼女の姿をした別人を見るようだった。そんなハムネアに気を取られ、ジャムシードは廊下を歩く者への注意を怠っていた。
「あなたたち、いったいここで何をしているの!?」
 振り返って、ジューザと一緒に休んでいたはずのナナイが一人、両腕に薬道具を抱えて立ち尽くす姿を見た瞬間、ジャムシードは自らの全身の血の気が引いていく音を聞いた気がしたのだった。