辺りの景色が回転する。自分を中心に回り続ける。平衡感覚が崩れた状態では真っ直ぐに立つことも難しい。手をばたつかせ、なんとか立ち続けながら、フォレイアはキョロキョロと周囲を見回した。
ここはどこだろう。見覚えがある気がした。懐かしいような、しかし思い出すのがつらい、温かで淋しい記憶がふわふわと頭の隅をかすめる。
少女特有の高い声が茂みの奥から響いてきた。誰かを呼んでいる声は明るく、無邪気な気配は聞くほうの心すら浮き立たせる。
聞いたことがある声だ。いや、忘れるはずもない。あの声は姉の声だ。聞き間違えるはずもない、懐かしい声である。だが覚えている声より幼い声だった。どうして姉の声が子どもの声のように聞こえるのだろう。
その呼び声に誘われ、フォレイアはよろけながら茂みを掻き分けて進んだ。
あぁ、覚えがあるはずである。ここは王都の大公屋敷の敷地内ではないか。ただ、奥まった庭であまり足を踏み入れたことがない場所ではあるが。
再び姉が呼ぶ声が聞こえた。今度はハッキリと聞き取れる。あれは父を呼ぶ声だ。なんの疑いもなく、全幅の信頼を寄せる声に胸が痛む。
深い茂みを抜けた先には岩と草地が織りなす庭が広がり、片隅に建てられた四阿に姉の姿が見えた。
ヒラヒラと手を振る姉の視線の先に深いえんじ色の上着を羽織った男が立っているのが目につく。後ろ姿であったが、その人物が父アジル・ハイラーであることをフォレイアは素早く見て取った。
ひどく胸が痛み、目を背けたくなったが、どうしても視線を反らすことができない。視線だけではなく、身体すらピクリとも動かせなかった。
姉の姿はまだ十にも届かぬ幼い姿。ということは背を向ける父も若いだろう。
娘に呼ばれて歩み寄る父の様子はくつろいでおり、のんびりとした空気が辺りには漂っていた。ゆったりと上がった腕が姉の呼びかけに応えるものであることは改めて確認するまでもない。なんとのどかな風景であろう。
そんな父の姿などついそ見たことがなかった。想い出の中のかの人はいつも厳しい表情をしている。誰にも隙を見せず、強大な権力を行使する為政者の態度をとり続けていた。姉娘に対してだけは別の顔を見せていたが。
これは夢なのだ。ずっと昔の夢を見ているに違いない。だが父の若かりし頃の顔も今とそれほど変わらぬはずなのに、よく思い出せないのはなぜなのか。
歴代の炎姫公の多くが持つ黒髪と朱茶けた瞳。確かに父も、そしてフォレイア自身も持っている色彩であるはず。それを有する男の顔を思い出そうとするのだが、望んだようには浮かんでこなかった。
ただ、胸の痛みと共に引っぱり出された記憶が間違いなければ、今この脳裏の浮かんでいる顔こそが父の顔ということになるのか。となれば、この記憶はなんと心塞ぐ想い出であろう。
フォレイアには決して向けられない表情がなぜ思い起こされるのか。父の顔にときに浮かぶ笑みは決してこちらには向けられず、横顔に刻まれる微笑みを羨ましく見上げていたものだ。姉と会話するときは穏やかに微笑むのに。
こちらを向いて欲しいと何度思ったかしれない。横顔に浮かぶ笑みなど欲しくはなかった。そう、だからこそ思い出せないのかもしれない。父の顔を。横顔の記憶しかないのだ。だから、かの人の正面に浮かぶ笑みなど想像もできない。鋭い眼差しで射抜かれた記憶しかないのだから……。
とうさま、と呟いた己の声がひどく幼いものだった。呆気に取られたフォレイアだったが、すぐに立ち直ると掌を目の前に掲げて原因を確認した。
姉が幼い姿で夢に登場した以上、自身もそれに見合った身体になっていて当然であろう。今は三、四歳といった体つきではなかろうか。ぷにぷにとした指の具合から確認しただけなので、確証はなかったが。
茫然と掌を見つめていた彼女の耳に姉の声が届いた。こちらの存在を認め、驚いて叫んでいる。どうやら夢の中ですら、この場にいるべきではない存在らしい。ゆっくりと顔を上げると、姉が駆けてくる姿が目に入った。
ねえさま、と呟きこそしたが、足はやはり動かぬままである。姉の向こうに見える父の顔から表情が抜け落ち、固い雰囲気が辺りに漂っていた。先ほどの穏やかな空気は霧散し、フォレイアを非難するかのごとき態度である。
「後をついてきたのね。独りでこんな奥庭まで来てしまったの? それとも侍女の誰かが一緒なのかしら? まだ小さなフォーレを独りにするなんて!」
首を傾げて問いかける姉をぼんやり見上げていたが、じわじわと喉をせり上がってくる熱い塊が口から放たれた途端、フォレイアは声を上げて泣き出していた。幼子が泣く様子に困惑する姉が父親に助けを求めるが、不機嫌な大公は視線を反らし、泣き叫ぶ我が子を見ようともしない。
「どうしたの、フォーレ? どこか怪我でもしたの?」
泣きやまない妹を心配した姉が怪我の有無を調べるが、そんなものはどこにもなかった。それでは身体の不調か誰かに虐められたかと気にかける。そんな姉娘の母親の如き世話の焼きように大公の機嫌は一気に急降下していった。
「用事などあるまい。どうせ侍女をおいて逃げ出したのだろう」
フォレイアの背を抱いたまま振り向いたユニティアが首を傾げる。父の機嫌の悪さを察しはしたが、何が原因かまでは判らないのだ。
抱きしめられ、少し落ち着いてきたフォレイアがグスグスと鼻を鳴らしながら姉を見上げ、次いで父の顔色を盗み見る。己の出現によってぶち壊された場の空気に居たたまれなさばかりが募った。
「だったら侍女を呼んでくるわ。一人きりで屋敷まで戻るのは危ないもの」
姉自身が屋敷に連れて行くと言わないところをみると、父と一緒に何かの勉学に入るところだったのだろう。フォレイアを連れて戻るよりも一人で駆けていき、侍女を連れてくるほうが遙かに早い。判断は的確だ。
妹を四阿の隅に座らせ、大人しくしているよう言い聞かせたユニティアは、場の空気の固さを無視して屋敷へと飛んでいく。
椅子の上で膝立ちになって姉を見送ったフォレイアは、気まずさから屋敷の方角ばかりを見透かし、父親を振り返ろうとしなかった。
だが幼子の忍耐などたかが知れている。百も数えぬうちに退屈になり、キョロキョロと周囲を見渡した。草地はともかくとして岩場は登れそうもない。が、一際大きな岩に上れば辺りを一望できそうだ。
ところが視線を転じて四阿の間近を見おろしたフォレイアは、そこに小さな池があるのを発見した。今まで岩場に意識が向いていたものを、今は池に気を取られる。しかも眺めているだけでは飽きたらず、水に触れてみたくてたまらなくなってきた。思いつけば即実行、が幼子である。
椅子から這い降り、腰板伝いに出入り口までやってくると、フォレイアは勢いよく地面に飛び降りていった。父の不機嫌すら意識の外であった。
大人なら飛び越えられそうな池だが、小さなフォレイアの身体なら難な沈んでしまうほどの大きさはある。この池は周囲の景観を損なわぬように水を引いてきているのだが、設計者の苦労をフォレイアが知ろうはずもなかった。
目を輝かせ、小さな指先でつつきながら鏡の水面を眺めてみれば、少し歪んだ、丸い頬の幼女の顔がこちらを覗き込む。
波紋の揺れに見入っていたフォレイアは、水鏡の少女の背後にいる人影に気づいた。幼い童女によく似た男の影はひどく思い詰めた表情である。険しさの中に何か思い煩っている気配が漂っていた。
首を傾げてしばらくの間は様子を眺めていたフォレイアだったが、そのうちに小さな身体を乗り出し、水鏡の男に触れようと腕を伸ばす。
水面の少女も同じ動きをするのを見て注意がふと反れた瞬間、フォレイアは冷たい衝撃に襲われた。何がなんだか判らずにばたつくが、助けを呼ぼうと叫ぶたびに水を飲んでまともにしゃべれない。
「と……さまっ。いやっ。こわ、いっ! とう、さまっ!」
どこかに父親がいるはずと、彼女は無我夢中で叫んだ。水中に没しては浮き上がり、僅かに息継ぎをしては沈み込む。幼子には永遠とも思える時間だった。
その恐怖は急激な浮遊感によって終わりを告げる。鈍い衝撃の後、えんじ色の胸に抱き留められると、微かな日向の匂いがフォレイアの鼻腔を満たした。
「何をしておるのだ、お前は!」
頭のすぐ上から聞こえた怒鳴り声も気にならぬほど恐怖に支配されていたフォレイアは、えんじ色の布地にしがみつき、声を振り絞るように泣き出した。
「泣くでない! お前が悪いのだろうが!」
泣くなと言われても簡単に泣き止めるものではない。むしろ泣くなと怒鳴られるほどに体が竦み、涙がこぼれてくるのだ。少女の身体はヒクヒクと肩が痙攣し、今にも引きつけを起こしそうである。
「まったく世話の焼ける……。じゃじゃ馬ぶりだけはフィオナにそっくりだ」
深いため息が聞こえた。父を失望させたのかと、余計に泣けてくる。
「あっちへフラフラこっちへフラフラと……。どうしてお前はそんなにフィオナに似ているのだ。こちらの気が休まらぬわ」
父は立ち上がったようだ。上着の前をくつろげて少女を懐に押し込むと、再び深いため息を漏らして、虚空を仰ぎ見ている。
フォレイアは泣きやもうと息をこらえるのだが、身体は言うことなど聞いてはくれなかった。逆にえずきそうになり、端から見ると余計にしゃくり上げているようにしか見えない始末である。
「そんな風に泣くな。泣く姿まで同じでは気が滅入る。本当に、どうしてお前は……。あぁ、もう、かまわぬ。泣きたければ泣いておれ。私は知らぬ」
抱きかかえられてこそいるが言葉では突き放され、フォレイアは再び激しく泣きだした。うんざりした様子のため息が聞こえたが、それで泣きやもうとはもう思わない。身体中の水分が流れ出るが如き勢いの号泣だった。
「お前はいったい誰の子なのだ? 顔が私に似ているというだけで我が子と信じられるほど私は暢気ではないのだぞ」
父の声が頭上から響く。密やかな囁きであるはずのその声が、フォレイアには雷鳴の如く聞こえた。訳もなく胸が痛むのはどうしてだろう。
「……いや。私に似ているからこそ恐ろしい。いっそのこと、ユニティアのようにフィオナに似ておれば良かったのだ。それならば、私はどんな戯れ言にも耳を傾けず、真実を探ろうなどとは思わなかっただろうに……」
父の声ににじむ苦痛が胸を刺した。いっそ本物の剣で貫かれたほうが痛みは少なかろう。そう思えるほど、ジリジリとひりつく痛みだった。
遠くで甲高い叫び声がする。わぁわぁと泣いてはいても、フォレイアの耳はそれが姉のものであることを瞬時に聞き分けていた。
「お父さま!? いったいどうしたの! まぁ、フォーレがびしょ濡れ!」
妹の泣き声に慌てて駆けてきたユニティアが父と妹の様子に飛び上がる。
懐からハンカチを取り出してフォレイアの髪や頬を拭っていくが、小さな布きれ一枚では限界があった。アッという間に布地は水分を吸い取り、役に立たなくなってしまう。それでも彼女は諦めきれずにハンカチを使い続けた。
「ユニティア、もうそのへんにしておけ。それより侍女が来たぞ。早くこれを屋敷に連れていけ。いくら乾期に入ったとはいえ、このままでは風邪を引こう」
大公から小さな公女を受け取った侍女が羽織っていた薄物の上着でしっかりと包む。そうしていても幼い少女の顔色は悪かった。
姉になだめられ、号泣からしゃくり上げる程度まで落ち着いてはきたが、それでも涙は止まらない。ほろほろとこぼれ落ちる雫は彼女の心が流す血だ。
「と、さま……。ごめん、なさい。ご、めんな、さい。とう、さ、ま……」
言葉もまともに紡げぬ有様であるのに、幼子は何度も父に謝る。その様子にユニティアが眉をひそめたが、とうの父親はといえば決して妹娘を見ようとはせず、濡れてしまった自身の衣装をじっと見おろすばかりだった。
謝罪すら受け付けてもらえぬと悟ったとき、幼い娘の中で何かが凍りついた。それ以降、幼いながらも彼女は父を儀礼的に“父上”と呼び、決して親しい呼称を口にしなくなったのである。
走り去った馬車を見送り、キッショーボーは薄笑いを浮かべた。予定よりも早い段階で館を燃やすことになってしまったが、足として確保されていた馬車は無事だったし、邪魔な者は置いてくることができた。
囮に使った者らも役割を果たしてくれそうで、差し引きすれば順調と言える。
「ハナサギ、お前は本当に私のことをハヤヒトに話していなかったようだな」
「ご不満でしたか? 兄に話すなと命じられたのはあなたですが?」
クツクツと喉の奥で笑い、キッショーボーは肩越しに怨敵の妹を振り返った。
「不満などとは言ってないだろうに。しかし、次に逢うときにはさすがに気づかれているだろうよ。いつでも脱出できるよう手筈を整えておけ」
「承知しました。ロ・ドンイルはどうしましょう? 彼の船には手が回っているでしょうし、今後お役に立つとは思えませんが」
「この国では役に立たぬが、次の土地ではまだ使えよう。ドンイルの船が使えるか使えないか、彼自身に探らせるとしようか」
「それではロ・ドンイルを解放するよう申し伝えて参ります」
ハナサギが立ち去る気配がする。彼女と一緒に従者の若者も姿を消していた。ハナサギが目をかけている若者で、穏やかそうな風貌とは別に時折ではあるが鋭い眼差しを向けてくることがあった。
「ヒヨッコよな。鬼気が漏れているようではまだまだ半人前だ」
キッショーボーにとってハナサギの従者は人材としての有能さを判断するだけの存在にはなっていない。若者にとって今は雌伏の時期と言えるはずだ。
路地を幾つか折れ、馬車から下車した地点から徒歩で移動する。そのうち背後に湧き起こった殺気にキッショーボーは薄笑いをさらに深めた。
「ご苦労なことで。がしかし、珍しく迅速だ」
振り向きざまに彼は懐刀を殺気の主へと向ける。気配で何者がやってきたのか察してはいたが、目の当たりにすると多少は怖じ気づくというものだ。
「初めまして、と挨拶したほうがいいのかな。ずっと監視下に置かれていたとは思えないし、今までは積極的に関わってきていないはずだが」
「初めまして、だな。しかし初めましての今日がお前の最期の日だろう?」
キッショーボーの背後に忍び寄っていた者は、長身に大振りの剣を肩にかけて佇んでいた。気配すら完全に消し去っていたのである。気づかなかったことを怖れても不思議はあるまい。キッショーボーは内心でそう言い訳をした。
「つまり、どこぞの誰かに私を殺していいと許可をもらったわけですか?」
「不審者を捕らえるのは街の警邏が担当。そして不穏な輩を狩るのは我らの仕事だよ。上からの命令に従うのが我らの義務なんでな」
二人分の間隔で向き合った相手は軍人だった。それも街の守護に回っている兵卒とはまったく違う。たぶん騎士だろう。
街に溶け込むために質素ななりをしているが、姿勢の良さや周囲への視線の配り方、足運びの如才なさに素性が透けてみえた。
「貴族の情婦の屋敷で派手に暴れたようだな。警邏どもが泡を食っていたぞ」
「私たちも慌てて逃げ出してきたのですがねぇ?」
「そういう見え透いた言い訳は聞いても無駄だから聞かないことにしている。さて、お前に用意された選択肢は二つだ。まず一つ目は大人しく我らに捕まることだな。そして二つ目が……ここで首と胴を切り離されるか、だ!」
言うが早いか騎士が剣を薙ぎ払う。鞘に収めたままであったが、剣の勢いは鋭く、身体に当たったら骨くらい折れていただろう。
背後に飛んでそれを避けたキッショーボーは苦笑を漏らした。見え透いているのはどちらだ。選択肢などと言い出した時点で、こちらは彼がどう動くのかなど判っているというのに。もう少し言い方にひねりを加えたらどうだ。
「私としては三つ目の選択肢を選ばせてもらうしかありませんね」
そう、捕まるのも殺されるのもごめんである。こういうときは下手な矜持などにしがみつかず、サッサと逃げ出すに限るのだ。
だが、素直に背を向けて走り出せば、目の前の男は遠慮なく斬りつけてくるだろう。逃げる時間を稼がねば。
「選択肢は二つだと言っただろう? 三つ目なんぞは存在せん!」
立て続けに剣が振り回された。力任せに動かしているように見えて、大きく振り抜くということがない。そのため、男の身体の軸はぶれることなく、小刻みに動いて逃げるキッショーボーにしっかりとついてきていた。
「そちらの選択肢に従う義理などないのですよ。あまり邪魔をしないで欲しいですね。私にもやらねばならないことがあるのですから」
「その“やらねばならないこと”については別の場所で訊いてやるさ!」
選択肢などと言いつつ、実際に騎士に下された命令は捕縛なのだろう。ここで捕まれば拷問され、根ほり葉ほり詰問する気だ。やはり逃げすしかない。
体格差を利用し、キッショーボーは男の脇をすり抜けて、後ろへ前へと立ち位置を変えた。少しでも止まれば鞘が身体に食い込むことは判りきっている。
「チョロチョロとネズミのようにすばしっこい奴だな。大人しくできんのか!」
「大人しくするのも時と場合によりましょう。いい加減に諦めてください」
「そういうわけにもいかんな。こっちも仕事だ」
「まぁ、そうでしょうねぇ。そこを曲げてもらわなければなりませんね」
「曲げられるわけがなかろうが。我らの仕事は遊びではないわ!」
避けるにも体力と集中力がいるのだ。このままではどちらかが疲れて動きが鈍るまで決着がつかない。いや、助勢が期待できる騎士のほうが優勢か。なにせキッショーボーの仲間は分散して逃走中だ。助けなど期待できない。
「そろそろ諦めろ。お前の逃げ場などどこにもないぞ」
持久力も体格に比例するというのか。あるいは逃げるほうが体力を使うのか。息が上がりだしたキッショーボーに比べ、騎士はまだまだ余裕があった。
「残念です。こんなことになろうとは……」
騎士が持つ剣の鞘がキッショーボーの脇腹を捕らえる。勢いに乗った剣に払われ、キッショーボーの身体が吹っ飛んだ。地面に転がって肩で息をする東方人に動く体力がないらしいことを確認し、騎士は慎重に近づいていく。
脇腹に鞘が入ったことで呼吸が苦しいのだろう。キッショーボーは何度もむせ返り、袖口で口許を押さえていた。
「悪く思うなよ。罪があるかないかは問題ではないのだ。我らは我らの仕事をするまでだからな。……それでは、用心に縛らせてもらおう」
両腕を掴もうと屈む騎士の目の前で、キッショーボーはうっすらと笑う。
「あなたの仕事をなさい。私も相応の仕事をするまでです」
ギクリと身体が固まった男に向かっていよいよ笑みを深くし、キッショーボーは至近距離から騎士の両目に向かって唾を吐きかけた。途端、男は東方人の腕を掴んでいた手を放し、掌で眼許を覆って悲鳴を上げる。
痛みに転げ回る騎士の傍らで悠然と立ち上がったキッショーボーは衣服についた土埃を払い落とし、悪戯小僧のごとく笑い声を漏らした。
「しばらくは痛いでしょうね。これが私のやり方ですからご容赦ください」
赦しなど必要なかろうに、嫌味ともとれる捨て台詞を残して走り出す。浅葱色の瞳は今の顛末を見た者がいないかと周囲を観察した。しかし朝市に通じる通りではなかったのが幸いしたらしく、どこにも人影はなかった。
幾つかの路地を曲がり、大通りに出た途端に人の流れが目に入る。道一本違うだけでこれほどの違いがあるのが面白いではないか。
キッショーボーはざわめきの流れに乗って歩きながら周囲をさりげなく見回した。こちらを見つめる者の姿はない。まずは一安心といったところだ。
「やれやれ。どうやらまだ運には見放されてはいないらしい」
だが用心するにこしたことはなかろう。今この時点で人影がないからといって、騎士と争っていたときに人の眼がなかったとは言い切れないのだ。それにあまりにも都合良く騎士に見つかったことも気になる。
「下っ端貴族お抱えの騎士ではなかった。訛りはなく、一見するとくだけた態度だが動作は上品だった。となると、元老院所属以上の大貴族、つまり王族か上級貴族の息がかかった軍人といったところか」
面白げに口の端をつり上げ、キッショーボーは背後を振り返った。彼が知る顔はどこにもない。もちろん顔を知っている者を尾行者にするわけはなかろう。
「さぁて、どこに潜り込むか。下手なところに行けば捕まるやもしれん。そんな顛末などまっぴらだ。ここは是非とも安全な場所に避難する必要があるか」
彼はブツブツと呟きながら朝市が開かれている大広場へやってきた。
露天が広がる光景は壮観と言える。この国の活気を象徴していた。先頃のハスハー地藩での戦の影などまったく感じさせない。いや、まったくないとも言い切れないか。そこここに街の守備兵が立つ姿が見受けられた。
「となれば、行くべきところは決まっているか。他の者らと一緒に行動したのでは危なかろう。私一人で雲隠れするとしよう」
決して配下の者らを気遣っているという顔つきではない。むしろ己が消えることで周囲がどう動くか想像して楽しんでいる気配が濃厚だった。
「人質を移すか。どうも予想以上に介入が早い。切り札を失うわけにはいかん」
露天商と客との値切り交渉で騒がしい大広場を抜け出すと、キッショーボーは踊るように軽やかな足取りで新たな路地へと足を踏み入れる。すでに朝食も終わる頃合いで、家々からは仕事の準備に追われる物音が響いていた。
人の営みを感じる騒音に耳を傾け、口の端をつり上げる。彼の様子からは、人質を奪還され、アジトを失った傷心などどこにも見られなかった。
時折現れる小広場で洗い物をする女たちを後目に、彼は完璧すぎて人情味のない笑みを顔に貼りつけたまま、工人街の路地を通り抜けていくのだった。
前へ 次へ もくじ