周囲の風景は緩やかに後ろへと流れる。だが頬に当たる風は皮膚を切り裂くほどの勢いで遙か後方へと過ぎ去っていった。
だが一気に跳躍した勢いを殺すことなく飛んできたものの、アジェンティアはここにきて飛翔する速度を落とす気になったらしい。徐々に周囲の唸りが小さくなり、引きちぎらんばかりに感じられた風の猛威も収まっていった。
静かに立ち止まった彼女は下界を見おろし、そこにあるものを凝視した。
「先頃来たときに比べて地熱が高くなっているわ。……あぁ、ごめんなさいね、アイン。あなたが封じられていた空間と隣り合う場所がこんな場所で」
腕の中のむつきに向かって囁きかけながら、銀の娘は厳しい視線で目的地とその周囲を注意深く観察する。違和感を感じる場所はないかと見回すが、彼女が怖れているような変化は見当たらなかったようだった。
肩の力を抜き、安堵の吐息をついた横顔は少し柔らかさが増して見える。
「バチンやあの人が下天に這い出してきた以上、生け贄となる者が必要なの。あなたに恨まれるのを承知の上で、わたしは彼を呼び寄せるわ。わたしが初めからそのつもりだったから、あなたは腹を立てたのでしょうけどね」
でも、それで他の者が救われるのだもの、と呟き、アジェンティアはゆっくりと下降していった。高度を下げるほどに発せられる熱を肌に感じる。これが最高点に達したとき、大気は業火に呑まれるだろう。
「故郷にある島に少し似ているわね。炎を孕んだ山は植物すら生えぬほどの熱を蓄えていたもの。ここも同じ地脈を持つのであれば、あれと同じ灼熱を内包していてもおかしくない。それゆえにバチンを封じる地に選んだのよね」
後方を振り返り、彼女は小さく首を傾げた。頑是ない子どもの如き仕草であったが、瞳に浮かんだ怜悧な光が内心の計算高さを感じさせる。
「この熱がある限り、バチンが完全に復活することはないと思うけど。なにせ彼女の力は水に依るわ。水分が蒸発するほどの灼熱地獄では、魔力が霧散してしまうものね。だけど、彼女自身ではなく誰かが手を加えるとなると……」
続く言葉を飲み込み、アジェンティアは居住まいを正して間近に迫った岩肌を睨んだ。そこに異変がないかと観察する眼は猛々しく、強い光を湛えている。外見の麗しさからは想像しづらい剛直な気配を漂わせていた。
「わたしはわたしがやるべきことをやるわ。だから、一人の犠牲でその他大勢を救う道を選ぶ。それが正しいかどうかは後の世の者が判断すればいい」
予言が落ちてきた以上、それは成就される。もっとも高い確率の未来を見る予見ならば回避することが可能だが、予言は違う。避けることができぬ障害物のように厳然と未来のどこかに横たわっているのだ。
「世界は、滅びる。それがどんな形なのか、わたしは知らない。知りたいとも思わない。そしてわたしの力と共に世界を次世代に引き継がせると決めた以上、後戻りさせようとする輩を許しはしないわ」
アジェンティアはむつきを左腕で支え、右腕を高々と頭上に伸ばす。ぶつぶつと口の中で呪文を唱えれば、青白い閃光と共に白銀の錫杖が姿を現した。
「この世界を滅ぼそうとしているバチンとわたしは同じようなものかもしれない。でも、対立と権力によって世界を支配していた時代に戻そうとするバチンと共生を促そうとしているわたしとでは、世界に願う土台が違うわ」
隆々とそびえ立つ岩肌から伝わってくる地熱は高く、気温差に風が渦を巻く。巻き上がる大気の流れに彼女の髪が流れ、まるで毛を逆立てているかのような錯覚をもたらした。その姿は、神と見まごう存在感である。
いいや、自らを神と称さぬだけで、銀の娘は人を超越した神の一員だと認めねばならないかもしれない。岩肌を見上げる彼女の横顔には、見る者を畏怖させるに足る神々しさが確かにあった。
「あなたはそれでも批判するかもしれないわね、アイン。あなたの主人核を生け贄に差しだそうというのだから。あなたに憎まれるのはつらいけど、今になってやめるわけにはいかないの。バチンが弦から矢を放ってしまった以上、わたしはその軌跡をずらしながら矢の勢いを助けるのみ」
アジェンティアは静かに振り返り、岩肌を背に遙か虚空を見上げやるせない顔で微笑む。囁くように小さな声で高速呪文を編み上げると、彼女は右手の錫杖を一振りし、それを白銀の剣へと変化させた。
「荒れ狂う焔よ。我が声を聞け。汝らを解放せん。その赤き腕を天に伸ばせ。熱き吐息を地に広げよ。雄叫びと共に拳を振り上げ、諸々の民の頭上に打ち下ろすがいい。聞け、火蜥蜴の末よ。仮初めの主人は今還った!」
右手首を捻り、頭上で刃を一閃した後、アジェンティアは振り向きざまに剣を岩肌へと打ち込む。固いはずの岩の表面に白刃が易々とめり込んだ。まるで柔らかくなったバターにナイフを突き立てているかのようである。
「火を噴け、原始の山よ! 火蜥蜴の巣を空にするがよい!」
巨大な竜が喉を鳴らしたなら、こんな低い音を発するだろうか。あるいは群をなした獅子が一斉にうなり声をあげたなら、これほどの音量になるだろうか。
大気まで鳴動する地響きがアジェンティアの遙か下方に存在する大地から伝わってきた。風の流れが変わり、彼女の銀髪を乱す。蛇のごとき髪のうねりの間から突き立てた切っ先の感触を探っていた手が再び一閃した。
今度は頭上に向かって刃を斬り上げ、固い岩肌を裂いていく。虚空を一蹴りするごとに白刃は岩を深くえぐり、悲鳴のような轟きを鳴り響かせた。
「往け、朱き焔!」
切っ先と共に駆け上がったアジェンティアが眼前に現れた山頂を踏み台に虚空へと舞い上がる。その姿を追うようにして、山頂の火口から黒煙が噴き出し、耳障りな不協和音を響かせながら岩石の地肌が砕けた。
真っ赤な舌が裂け目から伸びる。一度、二度と躊躇するように裂け目の奥へと引き下がるが、外界に邪魔するものがないと悟ったか、三度目に伸び上がったときの炎は萌え盛りの若木の如き勢いで蒼穹へと突き上がった。
その雄叫びは雷鳴。あるいは竜の咆吼だと言う者もいたかもしれない。噴出した黒煙は天を覆い、天蓋を串刺す炎の槍が穂先から岩石を吐き出す。
負けじと噴き上がる爆風に乗り、煙が変じた軽石の大群が鬱蒼と茂る緑の大地に降り注いだ。樹海に生きる獣たちは逃げ惑い、落ち来る石の格好の餌食。豊かであるはずの原生林は岩石の攻撃に為す術もなかった。
さらに溢れ出したマグマの熱き舌は岩肌を滑り落ち、樹海の緑を舐め尽くしながら青き海へと落ちていく。灼熱の狂乱で海は濁り、立ち上る水蒸気によって立ちこめた霧が焼けた木々の匂いを大地へと押し込めた。
虚空に浮かんだままアジェンティアはその有様を冷徹に見おろす。内心で何を思っていようとも、今の彼女の瞳には何も感情が見えなかった。
「この噴火を止めることができるのは、わたしとあの人と、上位核の保有者のみ。但し、実体を失ったあの人には制御は不能。また核の保有者といえども人の身では焼け死んでしまう。となれば、御することができる者は……」
ふと口をつぐみ、銀の娘は海とは反対の方角を振り返る。己がやってきた方角には長大な山脈が横たわり、荒々しい火を遠巻きにしているかに見えた。その山脈の向こうに広がる沃野を、彼女は食い入るように見つめる。
言葉にされなかった想いが溢れた瞳は業火に劣らぬ激しい炎を秘めていた。
馬車が大通りを反れて路地を三つ曲がる頃、ジャムシードは肩の力を抜いた。
先の馬車にナナイたち女三人と一緒に館へ潜入した男たちが乗り込んだと聞いただけでも安堵したが、当初予定していた辻で監視のイコン族が護衛に加わったと連絡が届き、まずは一安心といった心地であった。
だが、その安堵も表情に出すことはなく、彼はしかめっ面をしたままである。
原因は少し離れた場所で幌の外を見つめる若者だった。自身の十代後半頃の顔立ちによく似た青年、そう弟サキザードの存在である。
今回の作戦にサキザードの出番はなかった。外に出て体調を崩しては作戦に支障が出るからだ。が、他にも弟を外部と接触させたくない思惑もあった。
彼の過去を知る人物と鉢合わせ、弟が謀反人の烙印を押された故ヒューダー・カーラン元枢機卿と密接な関わりがあるなどと世間に暴露されたくはない。そんなことになれば、弟にどんな処罰が待っていることか。
出来ることなら世間の喧噪から身を引いて、以前関わっていたであろう僧院関係の暮らしに戻って欲しかった。もちろん、その場合は元いたハスハー地藩とは別の、出来るだけ遠地の僧院に入れるつもりであるが。
そういったジャムシードの思惑を吹っ飛ばし、表へ出してくるとは思わなかった。なぜ急にこんな真似を……。少し前まで外出を避けていたはずなのに。
もっとも、サキザードの記憶が戻るようなことがあれば彼自身から姿をくらます可能性が高いし、その際には実兄の命を狙うことも考えられた。今まさに記憶が戻り、兄の命を奪うために近づいてきたとも勘ぐれる。
「後はつけられていないようですが、もう少し路地を迂回しましょうか?」
急に声をかけられたジャムシードは振り向いた弟の視線を受けて息を詰めた。
「いや、襲撃する余裕はないだろう。どうせ俺たちの居場所は知られているんだから、今さら逃げ隠れしても無駄だ。このまま館にやってくれ。……ソージン、公女さま絡みだから大公閣下に報告を入れたんだろう?」
ソージンからは当たり前だ、と答えが返ってくる。それを受けてサキザードが御者に声をかけると、馬車は表通り目指して方向を転換した。
「後でお話があります。お時間をいただいてもよろしいですか?」
今までは眼を合わせなかったのに、弟は真っ直ぐに見つめ返してくるではないか。いったいどんな心境の変化があったのだろう。
「公女さまが落ち着いたら話を聞こう。だけど、いったいどんな話が……?」
「両親のことを教えてください。吾の記憶はいつ戻るか判りません。ですから、今できることから始めようと思います。だから、その、手伝っていただけるでしょうか?」
手伝うも何も、きちんと伝えなければならなかったものを今までグズグズとして伝えきれなかったのはこちらの落ち度だ。上っ面の情報だけ与え、本当に伝えなければならないことを伝えていなかったのだから。
「もちろん、二人のことは教えるよ。本当はもっと早くに伝えていなければならなかったんだから。他に教えて欲しいことがあったら遠慮なく言ってくれ。俺に出来ることなら何でも手伝うから。……でも、まさかそれを言うためだけにここに顔を出したんじゃないだろう?」
少し首を傾げた相手から「そうかもしれません」と返事をされて、ジャムシードは思わず眩暈を感じて頭を抱えた。
なんという無茶をするのか。説教の一つも口にしたくなったが、その資格が自分にあるとも思えず、複雑な感情を無理に飲み込んだ。
「正直言って、あなたを兄だと思えません。両親のことを聞いたとしても実感が伴うことはないでしょう。ですが、己がどこから来た存在であるかを知り得る機会があるのに、それを放棄するのもどうかと思ったのです」
最初の一言が胸に突き刺さり、顔を強張らせたジャムシードだったが、続いた言葉を聞くうちに弟の中で何か変化が起きたことを理解した。歩み寄る一歩を踏み出す勇気がなかった自分より、彼はよほど覚悟を決めている。
「記憶がなくても生きていかねばなりませんし、何がどう役に立つかも判りません。だから自分のことを知ることから始めようと思います。あなたが昔記憶を失ったとき、どうやってそれを取り戻したのかも聞いてみたいですし」
緊張して身体を強張らせているが、サキザードは現実を受け入れる覚悟を持ったのだ。となれば、ジャムシード自身も変わらざるを得ないだろう。
「そうだな。俺のことも話しておかないとな。時間が取れるなら今日からでも始めよう。だけど、無理はしないでくれ。ここでお前の顔を見たとき、心臓が止まるかと思ったよ。何があるか判らないんだから……」
「それはあなたも同じです。ここで命を落とすか大怪我をするかしたかもしれません。そうなったら、誰が吾の身の上を教えてくれるのですか。吾のことを心配するのなら、ご自分のことにも気を配ってください」
逆に説教らしきことを言われ、ジャムシードは眼を見開いた。そんな兄弟のやり取りを聞いていたソージンが喉の奥でクツクツと笑う。
「ジャムシード。お前の負けだ。せいぜい自分の安全にも気をつけろ」
ジャムシードが横目でソージンを睨むが、本気で腹を立てているわけではないので迫力がなかった。むしろ、ふてくされているようにしか見えない。
「言われなくても気をつけてるつもりだよ。そう簡単に死ぬ気はないさ」
「とか言いつつ、無鉄砲なことをしそうで危なっかしいんだよ、お前は」
いよいよふてくされたジャムシードが眉間の皺を深くし、今度は真正面からソージンを睨みつけたが、とうの本人は涼しい顔でにやつくばかりだった。
「あんたにだけは言われたくはないよ。どう考えたって、あんたのほうが危ない橋を渡ってると思うんだけどな」
「そういうのは実力差って言うんだ。不満があるなら、おれに追いついてから言え。今のお前じゃまだまだだな」
弟が微妙な表情で兄とその友人のやり取りを見守る気配が伝わってくる。巧妙にサキザードへの返答を濁したことを怒っているようだ。ソージンの手前、横槍を入れるのを遠慮しているだけなのだろう。
「やめた。あんたと言い合ってると自分がバカみたいだ。やってられないよ」
「現実を直視する能力はあるな。それがあれば成長は見込めると思うが?」
「余計に落ち込むようなこと言うなよ。ほとんど嫌がらせの領域だぞ」
弟の目の前でやりこめられた腹立たしさはあったが、これ以上言い合いになっても不毛なだけである。睨み合いにすらならない現状に嫌気が差し、ジャムシードは膝の上にある温もりへと視線を落とした。
「そういえば、ソージン。そろそろ殿下に報告に行かないとならないんじゃないのか? ここは俺とサキザードがいるから、護衛はそろそろ引き上げても問題ないだろ。……まさか公女さまに小言のひとつも言う気じゃないだろうな」
間近でため息が聞こえる。ジャムシードは訝しく思い、顔を上げた。そこには苦虫を噛み潰した表情で、眠る炎姫公女を見おろす白い顔がある。何事かを思い煩っているらしいが、険しい眼許は問いかけを拒絶していた。
刺すような痛みを伴う沈黙の末、ソージンが口を開く。その声音はとても今までの不遜な態度からは想像できない、重苦しいものだった。
「ジャムシード、正直に答えてくれ。フォレイアは立ち直れると思うか?」
胃に重い石が落ちてきたような衝撃が襲う。ソージンがここに残っていたのは公女の状況を把握するためだったのだ。
そして彼の頭の中では最悪の事態を受け入れる準備が整っている。凍えたように固い視線は暗く、彼女がここにいる現実に戸惑っているようにすら見えた。
彼女が無事だと、ほんのひとかけらでも思いはしないのだろうか。彼の表情から感じ取れるのは、公女の名誉が穢されたことが前提としか思えない問いだということだ。ジャムシードは唖然とし、しばらく返事ができなかった。
「お前なら現状を見ているだろう。どうなんだ? このまま大公屋敷に戻しても問題ないのか? それとも何か理由をつけて静養させたほうが……」
「ソージン! あんた、何を誤解してる? 彼女は無事だ。ひどく混乱はしているけど何もなかった! 落ち着けば問題ない」
ソージンがゆっくりと視線を上げ、まじまじとジャムシードの顔を覗き込む。彼は誤魔化されているのではないかと疑っているのだ。吸い込まれそうな深い色をした黒眼の奥に異様な熱が揺らめいているのが垣間見える。
「ジャムシード。おれにまで嘘をつく必要はない」
「嘘じゃない! 俺を信じてくれ。彼女は無事だった。何もなかったわけではないと思うけど、最悪の事態は避けられたんだ」
息が詰まりそうな沈黙が幌内に漂った。再びソージンの口許からため息が漏れ、視線が反らされるさまを、ジャムシードは固唾を飲んで見守る。
「お前の言葉を信じよう。サルシャ・ヤウンにもそう伝える。だが事態は決して楽観視できん。この炎姫家の醜聞が少しで外部に漏れたなら、真実がどうであれフォレイアの名誉は穢されるだろう」
喉が鉛で塞がれたように重苦しかった。反論を口にしたいのに言葉は何も出てこない。息をすることすらままならず、ジャムシードは苦痛に顔を歪めた。
「そんな、公女さまは何も悪くないだろ。何もなかったのに。どうして……」
「それが人の心理だ。真実ではなく、自分の見たいもの、信じたいものに縋る。そうやって噂が事実になり、歴史となっていくんだ」
青ざめた頬をした公女の寝顔を見おろし、ジャムシードは唇を噛みしめる。
「この問題に関わった者はイコン族だけ。ヤウンはそう処理するだろう。炎姫家が関わっているにしても被害者として関わっているのと、統治者として関わっててるのとでは、受ける傷の大きさが違いすぎるからな」
「でも。大公閣下は娘を守るはずだろう? 彼女が自分から奴らと関わっていたわけじゃない。大公家なら噂話になどびくともしないさ。そうだろ?」
「炎姫公がヤウンのような性格だったなら娘を世間から守るだろう。だがな、おれはどうもアジル・ハイラーという男を信じ切れん。彼は大公家やその領地を守るためなら娘ですら犠牲にしそうな気がしてならんよ」
大公家が事件との関わりを避けることは予測していた。だからこそジャムシードからは大公に報告せず、王家側のソージンから伝えられたはずだ。そして報告されたなら何らかの対処が施される。大抵はもみ消し工作だろうが。
だがしかし。世間に漏れた場合に流布するのは大公家ではなく公女個人の醜聞になるのか。世間の風評にさらされながら大公家の擁護もないとなれば、彼女はどれほどの暴力的な言葉に痛めつけられるだろう。
このまま大人しく公女を大公家に帰していいものかと迷いが生じた。世間の噂話だけでなく、大公家からも誹りを受ける可能性があるではないか。
ジャムシードの中に湧き起こった疑念を感じ取ったらしく、ソージンがフォレイアを一瞥した後、再び口を開いた。
「お前が支えてやれ。アジル・ハイラーが娘の醜聞にそっぽを向けば、貴族どもは愚劣な噂話に飛びつくだろう。そのときフォレイアを支えてやれる人間が必要だ。その役目をお前が担え」
「なに言ってるんだ。その役割ならあんたかヤウン殿下のほうが適任だろ」
ソージンが眉を寄せ、厳しい表情を浮かべる。その顔つきからジャムシードは彼が何か伝えていないことがあるのだと悟った。事件への思惑があるのか、あるいは言うに言えない事態に陥っているのか知らないが。
「なぁ、ソージン。館であんたの許嫁の弟だって奴と話をしたよ。あの館にはあんたの故郷の連中が大勢いたんだろう? そいつらと何かあったのか?」
ほんの一瞬、ソージンの表情に痛みが去来した。しかし改めて見つめれば、そんな影はどこにも残っていない。見間違いかと思ったほどだ。
「近い時期におれはこの国を去る。消え去る者では力になってはやれんよ」
問いに答えない相手に再度の問いかけはできず、ジャムシードは白い顔を凝視する。彼は昔持ち出された品を見つけて故郷に帰ると言っていた。その失せ物はまだ見つからない。なのに国を出ると言うのか。
ジャムシードには言いしれぬ不安が広がるのを止める術がなかった。
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