混沌と黎明の横顔

第16章:惑える焔《ほむら》の下 6

 移動の途中で立ち止まり、ジャムシードは届いた轟音に顔をしかめた。
「騒ぎに注目が集まるのはいいが、混乱すれば人質を連れて逃げ出す動きがあるはず。ここからは別行動だ。クィービとガイアシュはハムネアたちを連れて裏門へ。通りに馬車が止まっているから二人を乗せて屋敷から離れるんだ」
 この階の裏階段まで引き返し、渋る二人を追い立てると残った二人を連れて目当ての場所へと急ぐ。先ほどからファレスに行く先を探らせていたが、やはりこちらにも見張りが立ってはおらず、呆気ないほど簡単に探索は終わった。
 完全に意識がないナナイに貰った薬袋の丸薬を含ませて一人に背負わせると、ジャムシードは意識が朦朧としているジューザにも同じように薬を飲ませて残った一人と一緒に担ぎ、再び廊下を移動し始めた。
 力が入らないジューザは重く、思ったように移動できない。焦りは禁物だと判っていても、思うように動けない苛立ちが募った。
 ハムネアとジュペには移動途中で丸薬を含ませておいたが、どれほどの時間で薬の効果が出始めるのかは判らない。あまり期待できないし、これが毒でないことを祈るしかなかった。薄く意識が残っているジューザには効果が早く出たのか、定まらなかった視線に少しだけ力が戻っていた。
「ここは、どこだ……? オレは何を……」
「どこかの貴族の屋敷だ。ジューザ、今は喋らなくていいから足を動かせるのなら歩いてくれ。逃げ出す時間がほとんどないんだ」
 ここにきてようやく人質のことを思い出した者がいたらしい。慌ただしく駆けてくる足音が表階段のほうから響いてきた。
 ジャムシードが部族長を支えるよう指示を出し、一人で表階段へと走る。彼は足音の主が同じ階に駆け上がってきたのと同時に目の前に飛び出すと、相手が反応する前に手首を掴み、相手の勢いを殺すことなく振り回した。
 鉢合わせた相手が東方人だったのが幸いし、ジャムシードでも片手で易々と吹っ飛ばすことができた。咄嗟に受け身を取ることもできずに壁へと激突した男が痛みに身動きできぬ間に、鳩尾への一撃で昏倒させる。
 丸薬は確かに中和剤で間違いないようだ。裏階段へと急ぐジューザの足許が先ほどよりしっかりしている。後は意識が覚醒さえすれば、逃げるのに手間取ることはないだろう。となれば、最後に残った公女を助けに行くほうがいい。
「裏門へ急げ! 俺は炎姫公女のところへ行く!」
 そのまま表階段を駆け下り、ジャムシードは爆音に混乱している召使いを無視して廊下を走った。何人かがジャムシードの姿を目にして口々に何か叫んだが、それらに耳を貸している暇はない。それに囮も兼ねて目立つ動きをしているのだ。立ち止まるわけにはいかなかった。
「ファレス、公女の部屋にだけ見張りが一人いるのは間違いないな?」
 囁きへの返答は「是」である。この騒ぎで見張りは用心しているだろう。どうやって屋敷の者らの手を逃れて公女を助け出そうか。ファレスの魔力を使うしかないだろうか。出来れば人相手には使いたくないのだが。
 幸い下働きの者がジャムシードに追いすがることはなかった。彼らは言われた仕事しかしない類の者らである。人質の存在を知っていたとしても、己の仕事の範疇でなければ関わってなどこないのだ。
 むしろ轟音に度肝を抜かれ、屋敷から逃げ出すための荷造りでもしているかもしれない。後ろ暗いことをやっている輩と同類であれば、騒ぎに駆けつけるであろう守護兵や警邏に捕まり、尋問されたくはないだろうから。
 得意の俊足で瞬く間に廊下を駆け抜けて目的の部屋の前に立つと、ジャムシードは扉の取っ手に手をかけた。先ほどまでは人質の部屋に鍵などかかっていなかったのに、なぜかこの部屋だけは鍵がかかっている抵抗がある。
 なんだろう。ものすごく厭な予感がした。見張りがいると聞いたが、その者は扉の外にはいない。ということは見張りのくせに内側にいるわけだ。公女と二人で、さらに鍵までかかけて。怪しまないほうがおかしいだろう。
 ジャムシードは懐から愛用の櫛を取り出し、連なる歯の一本を折った。通常の櫛は掌に収まるような小振りな品が多いが、腰まで届く長い髪を持つジャムシードには浅い櫛歯ではすぐに髪に絡まってしまう。そのため、彼は歯の間隔は少し粗めだが、歯の長さが通常の倍はある長歯の櫛を使っていた。
 自身の小指よりも長い歯を指先でつまみ、身を屈めて扉の鍵穴に鋭い先を差し込む。盗賊団で身につけた技術が、またしてもここで役に立った。
 ジャムシードは目をすがめ、指先の感覚で鍵を外しにかかる。すぐに手応えを感じた。小さな音と同時に鍵が外れ、難なく室内への侵入を許す。
 いつもなら室内の物音や気配を確認するのに、そのときは焦るあまりに確認を怠った。目の前に飛んできたクッションを払いのけると、次は小刀が飛んで頬をかすめる。こちらに押し寄せる殺気に背筋が寒くなった。
 飛んでくる物がなくなれば相手は丸腰になるか。いや、あまり期待はできまい。頬をかすめた小刀だけが武器とは思えなかった。
 窓が閉めきられた部屋は暗く、人影は見えても顔までは判別できない。廊下の光が差し込んでいるので目が慣れさえすれば……。
 ──ジャムシード。外で走り回っている者たちの足音が聞こえる。たぶん馬車を用意しているぞ。すぐにでも公女を連れ出しに人が来る。
 こちらから呼びかけもしないのにファレスが声をかけてきたということは、事態はかなり差し迫っているのだ。時間の猶予は無きに等しい。
 舌打ちし、ジャムシードは腰に差した短刀を握りしめた。ベッドの側にある小物を投げ尽くしたのだろう。移動した人影が調度品の上や中から掴みだした品を次々に投げてくる。それが鬱陶しくてたまらなかった。
 だがしかし、なぜ相手は物を投げてくるばかりで襲ってこないのだろう。
 そこまで考え至ったとき、ジャムシードは飛んできた品が肩や胸に当たる痛みすら無視し、相手に向かって突進していた。
 先ほどの小刀が相手の唯一の武器だったに違いない。ベッドから移動しているのは、本来の得物を手にするための時間稼ぎだ。
 そう判断できれば黙って相手を有利にしてやる義理などない。
 元から動きの俊敏さには自信があった。相手の動きの先を読み、肘掛け椅子へと走る。こちらの意図に気づいた人影が弾かれたように駆け出したのを感じ取り、いよいよ自分の予測が当たったことに確信を深めた。
 僅かに相手のほうが椅子まで近い。出足は遅れたが一瞬だけ早く到着した相手が肘掛けにかかっていた剣を掴み取るのが見えた。
 今度こそ腰の短刀を引き抜き、ジャムシードは身を屈める。相手が振り向きざまに刃を薙ぐ下をかいくぐり、相手の軸足の太股を斬りつけた。
 獣のうなり声のような悲鳴が上がる。が、それに同情してやる気が起こるはずもなかった。転がるように距離を取った相手が戸口から差し込む光の中へと足を踏み入れる。それでようやく相手の正体を確認できた。
「ジノン卿、あんたか! ということは、あんたもここの連中とグルだな!?」
 手にしていた短刀を腰の鞘に戻し、ジャムシードは逃げだそうと足を引きずる炎姫公の甥に飛びかかる。薄々は予感があった。この男が何か企んでいるのではないかと。その予測が当たったことがひどく腹立たしかった。
 体格から考えればジャムシードより大柄なジノンに掴みかかったところで相手が揺らぐはずがない。だが怒りにまかせて振り上げた拳が間違いなくジノンの頬に当たり、鈍い音と供に相手が吹っ飛ぶ様子を見て、ジャムシードもようやく自分の身に起こったことを理解した。
 一瞬にして湧き起こった怒りが僅かに削がれる。
 なんだ、今のは。門兄と喧嘩したときですら、こうも容易くはなかった。
「クソッ! この馬鹿力め。よくもやりやがったな!」
 頬を押さえたジノンが飛び起き、剣を振り上げる。その動きが妙に緩慢に見えて、ジャムシードはいっそう動揺した。
 しかし、身体は勝手に動く。凍ったように思考を止めた頭の中は真っ白なのに、凶刃を避けた身体は器用に旋回し、寸分の狂いもなく相手の剣の柄を蹴り上げていた。得物をもぎ取られ、手首の痛みに呻きながらジノンが愕然とした顔をしてこちらを見る姿が遠い場所での出来事のように感じられる。
「この国を売ろうとする輩に手加減なんかしないぞ。覚悟は出来てるだろうな」
 自分の声すら遠いところから聞こえた。いや、この声は本当に自分が出しているのかすら確信が持てない。言葉と内心の動揺の差がありすぎた。
「国を売るだと? オレにとってこの国は他国だぞ。売るも何もあるものか!」
「だったら手心を加える必要は本当にないな。炎姫公の甥をぶん殴ったら寝覚めが悪いかと思ったがそうでもないし」
 ニヤリ、と口の端を歪めたのは本当に自分だろうか。これほど人の悪い笑みを浮かべることが出来るとは思わなかった。
「お前こそ、随分と猫を被っていたな。それほど腕が立つと……!?」
 言葉など交わす気もない。身体はそう言っているようだった。武器を失った相手にも容赦なく蹴りを繰り出し、足許をさらう。盗賊団にいた頃の戦い方だ。慣れた手法で戦っているのに心はそれについていかなかった。
 ――ジャムシード! 自分を失うな。そんなことをしたら……。
 ファレスの声が頭の中に響く。冷や水を浴びたかのように身体が震え、どこか間遠かった心と体の距離が一気に縮まった。
 たたらを踏んで部屋の外に逃げたジノンを追い、ジャムシードは戸口を飛び出す。深追いする時間はないのに、凍った思考が溶けた途端に怒りの熱が全身を包み、相手を叩きのめさずにはいられない苛立ちに駆られた。
 ジノンの上着の裾を掴まえると、ジャムシードは手加減なく引っ張る。絹を撚り混ぜた上質な麻の上着が悲鳴を上げた。元から上衣の裾まで乱れていたが、ジノンの着衣は今の衝撃で見るも無惨な有様へと成り下がった。
 つんのめった相手の上にのし掛かり、起きあがれないように腰を全身で押さえ込む。さらにジャムシードは相手の胸ぐらを掴んで、振り上げた拳を思い切り叩き込んだ。ジノンの顔が歪むほどの強打である。こちらの拳にも鈍い痛みが走ったが、相手の頬の痛みのほうが遙かに大きかろう。
 さらに拳を振り下ろし、二度三度と殴りつけた。普段のジャムシードからは想像もできない激昂だった。悪鬼に乗り移られているという形容詞はこういうときに使うのが相応しい。あまりにも一方的な暴行だった。
 ジノンとて決して喧嘩に弱いわけではあるまい。だが、腕を振り回して抵抗しているが、ジャムシードの膝が鳩尾と股間のすぐ上にガッチリと食い込んでいては思ったように動けなかった。
「イコン族や炎姫公女に手出しして、無事に済むとは思ってないだろうな!」
「やめ……っ。も、やめ、ろっ!」
「人さらいに手を貸した代償だ! こちらの気が収まるまで殴られろ!」
 これでは八つ当たり……いや私刑である。口内を切ったか、歯が折れたのか、ジノンは口の端から血を滴らせ、鼻血まで流していた。徐々に眼許も腫れ上がる。それでもジャムシードが拳を止めることはなかった。
 ――ジャムシード、止めろ! やめないか! 人が来た!
 ファレスの警告にジャムシードの拳がピタリと止まる。全身を包んでいた熱が急速に引いていき、やっと目の前のジノンの様子に気づいた。
 やりすぎだと、認めねばならぬ。まだ意識はあるが動きが鈍いジノンから離れて立ち上がったとき、複数名が駆け寄る足音がジャムシードの耳に届いた。
 三人の東方人が険しい表情で駆けてくる。口々にジノンの名を呼び、何か訳の判らないことを叫んでいた。たぶん罵っているか、脅しているかだろうが、言葉が判らぬでは恐ろしくもなんともない。
 ジャムシードは口の端だけで嗤った。彼を知る者ならば、陰惨な嗤いを浮かべる姿に肝を冷やしただろう。暗い光を宿した瞳が次の獲物を狙っていた。近づいてくる新たな標的に向き直り、彼は一歩を踏み出した。
 ――よせ、ジャムシード! これ以上ここで時間を取られるわけにはいかん。
 ファレスから忠告が飛ぶが、身体が止まることはなかった。
 先ほどのように感情と身体が乖離していれば違和感を覚えたのかもしれない。が、今のジャムシードは多少頭は冷えてはいても完全に怒りが収まってはいないのだ。むしろ感情に引きずられるまま身体が動く。
 ――ジャムシード、落ち着け! このままではル・オルグに取り込まれる!
 上擦ったファレスの叫びにわずかに身体が震えはしたが、動きが止まることはなかった。取り囲もうとする東方人の中に突っ込み、手近な一人の首根っこを掴むと、助けようとした仲間に向かって放り投げる。
 避ける間もなく東方人たちは絡まりあい、廊下に転がった。すぐに立ち上がったが、不用意に近づくのは危険と判断したか、間合いが広い。
 再び聞き慣れない言語が耳に飛び込んできた。気配もなく背後から近づいてきたらしい。咄嗟に壁際に逃れると、脇腹を刃がかすめた。
 身を捻って体勢を立て直してみれば、新手の東方人も加えて取り囲まれ、壁際に追い詰められているではないか。向こうも戦い慣れた輩ばかりらしい。
 グルリと見回し、五人の東方人のうち一人が女であることを見て取った。その女に見覚えがある。昨夜の女だ。親切顔で酒を勧め、それに眠り薬を仕込んでまんまとハムネアたちをさらっていった、あの女だった。
 その女の隣に悠然と佇む男にも見覚えがある。ジノンの連れだと紹介された、キッショーボーとかいう東方人の商人だ。他の者らが険しい表情をしている中でただ一人、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべているのが不快である。
「どうやら人質を助け出せたようですね。おめでとうと申し上げるべきかな」
「ふざけた真似を……! 何が目的でこんなことをする!」
「さぁて、どうしてでしょうねぇ? ここまで追ってきたのなら、それくらい探ってみたらどうですか。あなたに出来るものならね。……ハナサギ、先に行け。ジノンにはここで捕まってもらうわけにはいかないからな」
 キッショーボーが手を振った。それが合図だったのだろう。女と男が一人、素早くジノンに駆け寄り、痛みに呻いている身体を脇から支えて立ち上がった。
 ジャムシードが一歩踏み出せば、残った者らが包囲網を狭めて威嚇してくる。
 遠ざかるキッショーボーが喉を鳴らした。その嗤い声がひどく癇に障る。ジャムシードは力任せに目の前の二人に飛びかかった。男たちは身軽に避けながら小刀を振り、巧みにジャムシードの行く手を遮る。
「鬱陶しいっ。用のない奴は引っ込んでろ!」
 相手の身体が小さいため、いつもの蹴り技が出しにくい。ジャムシードは敵一人の腕を掴むことに成功すると、相手の足を払い、浮いた身体を投げ飛ばした。とても正統な投げ技とは呼べない、荒っぽい喧嘩技である。
 かろうじて受け身をとった相手であったが、吹っ飛ばされた挙げ句に後頭部から壁に激突して目を回したようだ。ふらふらと立ち上がりはしたものの視点が定まらず、膝から力が抜けて崩れ落ちる。
 その間すでにジャムシードは残った一人と掴み合いになっていた。小刀を振り回してジャムシードに捕まるまいと頑張っていた男だったが、髪を掴まれて引きずられては動きが制限され、思ったようには逃げられない。
 喚きながら片手で小刀を振り回し、残りの手は髪を掴んだ腕を必死に叩く。だがジャムシードも残った腕で小刀を持つ手を掴まえようと懸命だ。
 どちらが互いを圧するか判らないもつれ合いの中、ジャムシードは廊下の彼方から響く、獣の咆吼もかくやという雄叫びを聞いた。
「ジャムシード! そこをどけぇい!」
 振り返って確認するまでもない。異質な容姿を持つ友人の到着にジャムシードはうっすらと笑みを浮かべた。残念ながら安堵の微笑みではなく、一歩間違えれば邪悪とも取れそうな陰険そのものの嗤い顔だったが。
「残念だったな。時間切れだ」
 目の前の小男の顔がキョトンとし、こちらの意味を察した途端、いっそう激しく暴れ始めた。足音もなく烈風のごとき勢いで駆け寄ったソージンが太刀を一閃し、その男の脇腹に鋭い一撃を加えるまで抵抗は続いた。
「なんだ。真っ二つにする気かと思ったのに」
「ばか者! ここでの生き証人がいるだろうが! それよりフォレイアはどうした? まさか連れ去られたとは言わないだろうな!?」
 ハッと我に返り、ジャムシードはきびすを返す。背後からソージンが罵る声が聞こえたが、それにかまっている暇はなかった。
 部屋に飛び込み、窓を勢いよく跳ね上げる。窓辺から振り返ったジャムシードは息を呑んだ。初めに目にしたのは激しく乱れた黒絹の髪。次に飛び込んだのは皮紐を引き千切られた皺だらけの上着と青白い鎖骨。
 そして最後に、身を守るように身体を折り、微かに震える細い体躯……。
 慌てて駆け寄ろうと一歩を踏み出したが、すぐに足取りは重くなり、恐る恐るといった歩調でベッド脇に近づいた。公女もまた薬を嗅がされたのか、いつもは鋭い朱茶けた瞳が虚ろな光を浮かべている。
「公女さま、聞こえていたら返事をしてくれ」
 ベッド脇に跪き、ジャムシードはそっと声をかけた。先ほどまで身体の中で荒れ狂っていた怒りが潮が引くように消えていく。いや、奥底にはくすぶっているが、受けた衝撃から立ち直れずに感情が空回っているのだ。
 炎姫公女から返事はない。どれほど薬を嗅がされたか判らないが、抵抗の激しさを物語るベッドの乱れようから考えても、公女の意識が薬で混濁しているとは思えなかった。ただ、意識があるからこそ心に受けた傷は大きかろう。
 公女の乱れた衣服を直そうとしたジャムシードだったが、伸ばしかけた手は途中で止まり、オロオロと空中で逡巡を繰り返した末に引っ込められた。
 どう呼びかけていいのか判らない。何度か「公女さま」と呼んではみたが、炎姫公女の意識がこちらに向けられることはなかった。
 先ほどの焔硝の炸裂音かジャムシードの突入かで、ジノンの邪な行いは邪魔されたはずだ。公女の衣服は乱れてはいたが、最悪の事態を予想させるほどの乱れではない。それでも彼女が殻に閉じこもってしまっているということは、従兄弟に襲われたことが思いも寄らない衝撃的なことだったということか。
「公……フォレイア。戻ってきてくれ。もうここは大丈夫だから。フォレイアを傷つける者はもういない。一緒に屋敷に戻ろう」
 先ほどは躊躇った末に引いた腕を再び伸ばし、ジャムシードは公女の乱れた髪をゆっくりと直していった。触れた瞬間、身体を震わせた公女だったが、髪を整える手が危害を加えないことが判るとゆるゆると身体から力を抜いた。
 髪を払い、露わになった頬を掌で包むと、ジャムシードは上擦りそうになる声を抑え、静かに囁き続けた。大丈夫だ、と何度も繰り返すうち、ぎこちない動きでフォレイアの視線がこちらに向けられた。
「と、う……さま?」
 たどたどしい、幼子のような口調にジャムシードの頬が強張る。だが彼は公女の問いかけを否定することなく、緩やかに微笑みながら彼女の名を呼んだ。
 炎姫公を父上と呼んでいた公女が「とうさま」と呼びかけてくる。今の彼女は混乱するあまりに心が子どもの頃に戻ってしまっているのだ。
 青ざめた公女の瞳に薄く涙が浮かぶ様をジャムシードは苦い想いで見つめる。現実から目を背ける公女を今ここで正気づかせるのは酷だろう。
 幼い口調で父を呼び、しがみついてきた公女を抱きしめながら、彼はジリジリとこみ上げてきた哀しみを押し殺し、きつく奥歯を噛み締めた。
 ――ジャムシード、急げ! 屋敷のあちこちから火が出ている。ここにいては巻き込まれる。奴らは自分たちの足跡を焼き消すつもりだぞ。
 ジャムシードは赤ん坊のようにむずがる公女をなだめ、乱れた着衣を手早く直す。さらにベッドからシーツを引き剥がし、それで彼女の全身をすっぽりと覆い隠すと、重病人を運んでいる風体を装って力の抜けた身体を抱え上げた。
 抱えた公女に振動を与えぬように廊下に出ると、そこには険しい表情のソージンが待ちかまえていた。彼も両脇に東方人二人を抱えている。相変わらずの怪力ぶりだ。共に早足で廊下を進みながら二人は言葉を交わした。
「フォレイアの具合はどうなんだ? 意識はあるのか?」
「珍しいな。あんたのことだから用意が遅いと怒鳴り込んでくるかと思ったよ」
「……お前な、おれをいったいなんだと思ってるんだ?」
「ウラッツェに言わせれば“ソージン様”だってさ」
「あンの、女ったらしのぼんくらがっ! お前もまともに相手にするな!」
 軽口を叩いているが二人が交わす視線は真剣である。会話の裏側で見えないやり取りをしているのだが、第三者から見ただけでは嫌味の応酬だった。
 しかし彼らの会話はジャムシードの頬に伸びた白い掌によって遮られた。何かを探るように公女が褐色の頬を撫でる。さらに再び父を呼び始めた。
 裏庭に出た二人は混乱する使用人の間をすり抜け、公女と身元不明の東方人たちを抱えたまま表通りに飛び出す。そこで乗り込むべき荷馬車を探した。
 辻の端で荷台から手を振る馬車があるのを見つけ、駆け寄って荷台に飛び乗る。が、ジャムシードはそこに思いがけない人物を見つけて声を上げた。
「サキザード! お前、どうしてここに!?」
「すぐに出発します。姿勢を低くして荷物の陰に入ってください」
 弟がこちらの問い答えることはなかった。視線すら合わせないところを見ると後ろめたさを感じているのは間違いなかろう。ソージンに引きずり倒され、ジャムシードは荷台で打った尻の痛みに呻いた。
 その後、公女と弟を交互に見て、彼はもどかしげに唇を噛みしめたのだった。