時間を幾分か遡る。二つある裏門のうち、行商人の出入りに使われる門を巧みにすり抜け、館の裏方で働く使用人が使う戸口から館に入ることに成功したジャムシードとイコン族は裏階段を使って上階へと急いでいた。
運の良いことに使用人たちは食事をしているらしく、奥まった厨房脇の使用人専用の食堂に集まっている気配がする。表方で動き回る者たちは使用人とは別の時間帯で動いているのか、上階にはほとんど人の気配がなかった。
「ジャムシード。本当にこっちでいいのか? それに女たちがいる場所が判るのなら、二手に別れたほうが早く助けられるのでは?」
不安が拭いきれない様子のクィービが前を走るジャムシードに声をかける。それを肩越しにチラリと見遣ったジャムシードだったが、すぐに前に向き直ると廊下の奥を透かし見るように目を細めた。
「その問いへの答えは初めに伝えてあるはずだぞ、クィービ。今さらだろう。もし納得できないのなら独りで通りまで戻れ。見咎められずに脱出できないと思えば、俺たちが女たちを連れてくるまでここで待機だ」
「わ、判った。お前の判断を信じる。置いていかれるのはご免だ」
身分の高い者が使う表階段を避けて裏階段を使っているからか、妙に空気が重苦しい。呼吸をするたびに嗅ぎ慣れない匂いが鼻腔に流れ込んできていた。どうやらソージンが言っていた薬の匂いのようだった。
周囲のイコン族に気取られぬよう、ジャムシードは呪文を舌の上で転がした。
“風よ、流れよ。渦となりて我らを守れ!”
呪文が完成すると同時に頬に風を感じた。前方から緩やかに流れてきているのかと思いきや、うねるように動く風は小走りに走る男たちの身体にまとわりつくように動いているではないか。これが呪文の効果なのか。
身体を麻痺させる煙から身を守る措置とはいえ、体験してみると驚きだった。
呪文の効果はこれでいいのか。そう自身の奥底に問いかければ、微かな囁きが「是」と耳の奥にこだまする。さらに目的の場所の気配を探るよう頼めば、音なき声が「求める者以外の生存者なし」と返ってきた。
ソージンと別れる間際に「異形に目的地までの道案内をさせろ」と耳打ちされて、結界を張っているらしきファレスにそんなことが出来るだろうかと危ぶんでいたのだが、呆気ないほど簡単に了承されたのには驚いた。
どうやらファレスに何か変化があったらしい。が、今はその仔細を聞ける状態ではなかった。まずは女たちと部族長を助け出さねば。そのために精霊をこき使うことへの良心は、まったく咎めなかった。
むしろ、義妹を探し出すときに使えたのなら今回も使えて当然といった意識が働き、当時と違ってジャムシード自身が呪文を操れることに気づけない。人は自分のことになると意外と無頓着なものだ。
砂漠から旅立った頃よりジャムシードは秘かに古代語の発音の練習を重ねていたが、どうやらここにきてその効果が目に見えだしたようだった。但し、まだ自信を持って唱えている段階ではないらしいが。
「この館は基本的に一直線だが所々が鈎の手になっている。脱出するときに人と出くわしそうになったら、近場の柱の陰に飛び込むことを忘れるなよ」
了解の声が周囲で小さく湧き起こった。それを耳だけで確認し、ジャムシードは最後の鈎手の陰から慎重に一歩を踏み出す。
クィービたちには偉そうに言い放ったものの、俄仕立ての潜入隊を組んで指揮することになったジャムシードにも余裕がなかった。
がしかし、昔馴染みとはいえ詳しい気質が掴みきれない男たちを指揮するには態度が堂に入っている。彼が盗賊団“カラス・ファーン”で黒の頭領として働いた経験がこんなところで役に立っていた。
瀟洒だがジャムシードの趣味ではない扉の取っ手を掴むと、内部の気配を窺いつつゆっくりとそれを開いていく。ドッと噴き出した煙にむせそうになったが、先に唱えておいた風の呪文によって昏倒する者は一人もいなかった。
朝だというのに室内は暗い。廊下も薄暗かったが、それ以上だ。眼が慣れるまで数瞬かかったが、寝椅子や少ない調度品を男たちは見回した。
とそのとき、ジャムシードの斜め後ろでガイアシュが小さな叫びを上げた。
「あれ! あそこに人がいる!」
少年が指さす先を皆が一斉に振り向き、そこにうずくまる人影を発見すると、誰もが我先にと駆けていく。真っ先に辿り着いたクィービが「ハムネアとジュペだ」と叫び、男たちが次々と歓声を上げた。
ジャムシードは扉から動かず、廊下の向こうの気配を探り続けている。見張り役が誰かいなければ、万が一のときに袋の鼠だからだ。これもまた盗賊団で働いていた頃に叩き込まれた習性だった。
「ジャムシード! 二人とも意識がないぞ!」
歓声の後、すぐに困惑が男たちの間で広がったことにジャムシードは気づいていた。クィービの呼び声にようやく振り返ったが、それでも扉から離れることはせず、彼は脈があるかを問うた。
「脈はある。だが息が細い。暗くて顔色は判らないが身体が震えている」
上擦った声で答えるクィービに二人を連れてくるよう指示し、ジャムシードは開いていた扉を静かに閉めていく。
ハムネアとジュペの様子を自分の眼で確認する間は外の気配を窺う余裕がなくなってしまうだろう。その間だけは廊下からの眼を遮断しておきたかった。
男たちがハムネアとジュペを引きずるように連れてくる。抱き起こしたかったらしいが、焦って上手くいかなかったに違いない。彼らの顔は気を失っているハムネアやジュペの顔が穏やかに見えるほど混乱に歪んで見えた。
ジャムシードは素早く二人の口許に鼻を寄せ、特別な薬を飲まされていないか確認したが、周囲の煙が邪魔してハッキリとは判らない。だが特に強い匂いが嗅ぎ取れなかったことから、煙の中毒だけだと予測した。
「二人は大丈夫だ。ともかく外に出よう。あまり時間を取れないしな」
ジャムシードはハムネアをクィービに、ジュペをガイアシュに背負うよう指示を出す。女たちを背負った二人を真ん中に配置し、この状態での移動のコツを周囲の男に伝えると、音をさせないよう慎重に扉を押し開いた。
「焦って動くなよ。静かに気配を殺すことが最優先……っ!?」
ジャムシードの声が途切れたことに不審を抱き、斜め後ろに立つ男が肩越しに廊下を見遣る。そこに彼は小柄な人影を発見し、思わず声を上げそうになった。すんでの所でそれを飲み込めたのは、相手が小さく礼を取っている様子が見えたからだった。でなければ、腰の得物を抜きはなっていただろう。
「驚かせてすみません。ヤタカと申します。あなた方と供に働く白い男の、かつての許嫁の弟です。僭越ながら、皆さんのお手伝いをいたします」
いつの間に階段を上がってきたのだろうか。人の気配はなかったのに。咄嗟に相手をねじ伏せようかと動きかかったジャムシードだったが、薄闇の中で生真面目に礼をする少年の姿と彼の言葉に引っかかりを覚えて動きを止めた。
本来なら致命的な失敗に繋がりかねないことだったが、なぜかこの少年の言葉を聞かねばならないという気にさせられた。
「あんたの言う白い男はソージンのことか?」
こちらのポラスニア語を聞き漏らすまいと耳を傾ける少年とは反対に、背後のイコン族たちはすぐにでも彼を蹴散らそうと息巻いている。それをなだめすかすように手で制し、ジャムシードはヤタカと名乗る少年と対峙した。
「ソージン……ハヤヒトの異音ですね。確かに、その男です。我々は仇に人質を取られ望まぬ仕事を強いられています。その意趣返しをさせていただきたく、皆さんの手伝いを申し出ました。お許しいただけますか?」
「何をバカなことを。この館にいる東方人を信じるわけにはいかんぞ、ジャムシード。サッサと殺してしまえ!」
今にも腰に差した短刀を抜く勢いでイコン族が唸る。ジャムシードも今までの経験から相手の言葉を受け入れるなどあり得ないと判断したかった。が、理性ではない、本能の部分がひそひそと囁きかけてくる。
「人質を取られて仇に従っている者が些細な意趣返しを思いつくかな? 下手をしたら裏切りがばれてひどい目に遭うだろうに」
「先頭に立って道案内をするというわけではありません。他の者の眼を皆さんから反らすのが役割ですので。そして、ハナサギさまからの伝言を伝えるのがここでの仕事です。それが我々の報酬だとお思い下さい」
礼の姿勢を崩さない少年から堅苦しい生真面目さが漂っていた。こういう輩は仕える主人に絶対的な忠誠を誓っている場合が多い。彼の場合は仇ではなく、ハナサギと呼ぶ人物を主人と仰いでいるのだろう。
「俺たちに伝言して何をさせようというんだ。命を寄越せなどとは言うまいな」
「我らの仇たるジョーガは王国に潜り込んで人の心を操ろうとしています。その布石のために人質になる人物を手許に置くのが彼のやり方です。そちらのご婦人とお嬢さんもその人質の一部です」
一度言葉を区切ったヤタカが不意に顔を上げた。両手を顔の前で組んでいたのを解き、少年は左手で懐を探って拳大の袋を取り出した。
「ここに渦巻く薬の煙は神経に作用する薬です。この中和剤を差し上げれば、こちらの話を信じていただけますでしょうか?」
それは喉から手が出るほど欲しい代物だったが、それを素直に認めるのは弱みを見せるようで素直に頷けない。イコン族たちはざわついたが、ジャムシードは奥歯を噛み締めて動揺を見せぬよう注意を払った。
「これを受け取ってください。中毒症状が出ていない者にはなんの効果もありませんが、麻痺している者には効果覿面です」
「ありがたく受け取るには胡散臭すぎる。女たちに飲ませて、それが劇薬だったら取り返しがつかないからな。誰かが試し飲みするにも、効果が判らないときては本物の中和剤かどうか、どうして判断できるんだ」
ヤタカが首を傾げるのをジャムシードは注意深く見守る。こちらが信じないとなれば彼はどういう出方をしてくるだろう。
「仕方ありません。時間もありませんから伝言を先に伝えます。信じる信じないは皆さんの勝手。こちらも伝えるのは勝手ということで」
無造作に足許へ袋を放り出し、少年は言葉を継いだ。
「ジョーガに仕える者同士も仕事は分業制なので他の者の詳しい仕事内容は知りません。ですが、ジョーガはこの国の貴族に幻覚剤を売りつけ、虜にする気でいます。そちらの砂漠の民も同様です」
ざわりとイコン族の唸り声が大きくなる。
「こちらの取引に従わぬ者は人質を取るか殺すかするでしょう。すでに堕落した貴族の何人かは取り込まれています。あなた方が人質を助け出せなければ砂漠の民も炎姫家も隷属させられることになります」
ジャムシードは歯を食いしばって相手に掴みかかりたい衝動に耐えた。
この国を食い物にされてたまるものか。人の弱い部分につけ込むような輩と一緒に生きていきたいとは思わない。なんとしてもジョーガの野望を打ち砕き、国に入り込もうとしている悪意を払わねば。
「ですから、皆さんがここを出た後は、貴族の篩い分けをするよう国の上層部に伝えて欲しいのです。このままでは国政の中枢に関わる者が標的にされるのも時間の問題ですからね。我々も仕事に時間をかけるようにして引き延ばしてきましたが、それもそろそろ限界なのです」
ヤタカが肩を落とし、ため息をついた。東方人の年齢は外見で判断できないが、どれほど多く見積もって彼は十代半ばから後半だろう。そんな若者が疲れた様子でため息を吐くほどに、ジョーガの仕事は汚れているということか。
「我々がお伝えできるのはこれくらいです。これ以上お話ししてしまうと、我らが皆さんに伝えたことが露見し、我らの側の人質の命が危うくなります。どうぞ詳しい内容をお伝えできないことをお許しください」
----
全面的に信じるわけにはいかないが、聞いた内容はヨタ話だと無視するにはあまりにも危険すぎた。事実であったなら王国の屋台骨が崩れかねない。
「ジョーガとかいう輩がろくでもないことを考えているのは判った。あんたが伝えた内容は速やかに王太子殿下にお知らせし、その判断を仰ぐことになるだろう。……それで、そちらはこの場で具体的にどう動く気だ?」
「つい今し方、あなた方の仲間であるソージンが表に乗り込んできました。騒ぎにつられて大半の者は庭に出ています。残りの階下にいる召使いたちの注意を反らすために火事騒ぎを起こしましょう。……これで」
喋りながらヤタカが懐から取り出したのは真っ黒な塊である。見慣れない品にジャムシードが眼をすがめると、その反応を予測していたらしく、これは加工した焔硝だと教えられた。
「物騒なものを持っている。それを使って火事を起こす気か」
「正確には火事ではなく煙が大量に噴き出すのです。もちろん使い方次第で火を起こすことも可能ですが、今回はめくらましと時間稼ぎが最重要ですから、見た目は派手でも効果は地味ですよ」
ニッコリと微笑んだヤタカの顔は無邪気である。取り扱いを間違えれば自身にも危険が及ぶ品を掌中にしているとは思えない表情だった。
とはいえ、焔硝なるものの効果を知らないイコン族の面々も東方人の少年と大差ない無邪気な反応であったが。
「ジャムシード。こいつが敵だとしても、その焔硝とやらを使えばめくらましになるのだろう? だったらサッサと使って他の者を探しにいこう!」
焔硝をどう使うのか知らないから暢気なことが言えるのだ。が、使い方をあれこれ聞き出せば、それを脇で聞いたイコン族が怖じ気づく可能性も出てくる。
人質は残り三人。人目を避け、素早く動き回る必要がある。となれば、混乱に乗じて助け出せるとなれば、それは何よりありがたい申し出だった。
焔硝はいつ使うのかとジャムシードが問えば、それを了承と受け取ったヤタカが再び晴れ晴れと微笑み、階下を指さして「すぐにでも」と答える。
「判った。騙されたとしても乗ってみる価値はありそうだ」
感謝します、と頭を下げる相手を追い立て、ジャムシードは残された薬袋を拾い上げて走った。時間を喰い過ぎた。次の目的地に急がねば。
爆音が追いかけてきたのは、彼らが階下を移動し始めた直後のことだった。
大きな木箱や樽に幌布をかけた荷台を振り返り、彼は不備がないことを確認した。すでに出発の時点で確認済みであるにも関わらず、先ほどから何度もこうやって振り向いては確認し、またしばらくしては振り向く、を繰り返す。
こうまで神経質になっているのは気が高ぶっているからだ。落ち着かない気持ちを目視による確認で誤魔化しているにすぎないことは自分自身が一番よく判っている。落ち着かねばならないと焦るから余計に高ぶるのだ。
「坊ちゃん、あまり振り向かないでくださいよ。前の馬車に乗っている旦那のようにドッシリと構えていてください」
隣で手綱を握る御者の男が苦笑いを浮かべながら囁きかける。こうやって指摘されるほどに落ち着きのない態度を取っているのだ。本当に落ち着かねば。焦っては駄目だと、内心で言い聞かせながら御者に頷き返す。
「落ち着かない気持ちも判りますがね。兄上が危険にさらされてるかもしれないと思えば、誰だって気が焦るでしょうよ」
まるで天気の話でもするかのような暢気な口調で御者が話し続けた。御者台に座っている以上、大人しく耳を傾けるしかないのだが、相手の言葉は上滑りして心に残らない。まったく集中できていないのだ。
「目的地はまだなのですか?」
話の腰を折っている自覚はあるが、相手を思いやる余裕はない。むしろ今は何も話しかけてくれるな、といった気分だった。それでも会話しなければならないのであれば、事に集中できる話題が欲しい。
「あぁ、もう間もなくですね。前の旦那から合図があったら距離を取りますから、そうしたら目的地に着いたとすぐに判りますよ」
こちらの焦りを見越していたのだろうか。御者は話を中断されても厭な顔ひとつせず問いかけにのんびりと答えた。御者が旦那と呼ぶ男の背を凝視し、彼は合図が今くるか、もうくるか、と息を潜める。
「今から気を張っていたんじゃ保ちませんよ。糸だって引っ張りすぎれば切れちまう。適度に緩みがあり、適度に張りがあったほうがいいんです。坊ちゃんは集中する箇所が違う。今は前じゃなくて周囲に気を配るんですよ」
ハッと我に返り、彼は御者をまじまじと見つめた。余裕がないことは判っていたが、それでもやるべきことはやっていると思っていたのである。ところが御者は見るべきところが違うと言うのだ。
「やるべきことが判っているだけでは駄目なときもあるんですよ。相手がある場合は特にね。やるべきことをやる覚悟を決めた上で、物事の流れがより円滑になる部分をよくよく考えてみたらどうです?」
曖昧な忠告に彼は顔をしかめたが、すぐに表情を取り繕い、重苦しい動作で頷いた。具体的に言わないからといって相手を非難するわけにもいかない。むしろ具体的な部分は自分で気づけ、ということなのだと解釈した。
「吾にできることを考えてみます。すぐには思いつきませんが、きっと何かあるはずです」
「それでいいんです。常に考え続けること、それがいつだって答えをくれます。ただね、もう一言申し上げておきますと、考え続けて煮詰まったときは、その考えを放り出すことをお勧めしますよ。しがみついていたときには判らなかったことが、離れた途端に理解できるようになることも多いんです」
今度こそ彼は途方に暮れた顔で御者の横顔を凝視した。考えろと言ったり、考えを手放せと言ったり、いったいどちらを取ればいいのだろうか。
彼の困惑を読み取ったのだろう。御者は喉の奥で小さく笑い、片手を目の前でヒラヒラと振ってみせた。違う、そうではない、と身体全体で伝えているのは判るが、御者が言わんとしていることに皆目見当がつかない。
「考え続けて煮詰まったら、少しだけ考えるのを止めたらいいと申し上げたんです。何も今まで考え続けてきたことを否定する必要はなんですよ。すべてを満たすか、まったく無しかの両極端では疲れてしまいますからね」
「つまり、働くべきときは働き、休めるときには休む、ということですか?」
御者の主人に何度も言われた言葉だった。余計な考えにはまってしまったときには身体を動かして考えることを止めたらいい。そうするうちに、ふと別の視点から見えてくるものがあるから、と言っていた覚えがある。
二人が同じことを言っているのだと彼はようやく理解した。考えすぎるな。だが閃かないからといって思考に臆病になるな、と。
「働くべきときは働き、休めるときには休む。これは頭も身体も両方に言えることですよ。やるべきことは決まっています。今さら考えたところで何にもなりません。決めた通りに動けばいいんです。その代わりに、決められていない部分を考えるんです。それが視野を広げる手助けをしますから」
御者の静かな笑い声を聞きながら、彼は言われた言葉を口内で反芻した。
だがすぐに首を振り、繰り返していた言葉を振り払う。知らず、口許には自嘲が浮かび、眉間には苦しげな皺が寄った。
御者の忠告は今の彼にとっては無意味なことである。完成された計画で、彼は異端者でしかない。そうだ、異端者なのだ。前を行く男や御者は計画の内側にいるが、彼はいないはずの人間だった。
「確かに、やるべきことは決まっています。吾以外は。この計画では、吾の存在は入っていません。だから考えずにはいられないのです。吾の存在が計画に綻びをもたらしはしないかと。これは愚かな行為ではないかと」
「完璧に作り上げた計画をあなたが壊すと思っているんですか?」
前を見ていた御者が目線だけで振り返る。無精髭のように薄く張り付く顎髭がくたびれた印象を与えるのに、御者の声は豊かで落ち着いたものだった。前を行く主人に似ているように思えるのは、彼ら二人が主従だからだろうか。
「予定外の者が入り込んで計画が破綻しない保証はないのです。吾がついてきたのは失敗だったかもしれません。そう思うと……」
彼は後ろ向きな発言を繰り返そうとした。今にも自分が何もかも台無しにしてしまうのではないかという不安が胸にせり上がってきたのだ。が、それを嘲笑うかのように前方の馬車の御者台で男が手を挙げるのが見えた。
「旦那の馬車が速度を上げました。こちらは少し遅らせますよ」
計画が進んでいく。彼の考えなどおかまいなしに。いや、初めから判っていてついてきたのは自分自身なのだ。それなのに愚痴めいたことを言うほうがおかしい。もう余計なことは言うまい。言葉にするほど不安は募る。
徐々に離れていく馬車を見ていると、押さえ込もうとしている不安がいっそう大きなものへと変わった。自分でも呆れるほどである。
その不安が頂点に達しようとしたとき、前方の区画から轟音が轟き渡った。
「何が……? あの音はいったいなんですか!?」
「あちらさん、えらいモンを抱えてますね。あれは焔硝ですよ」
エンショウ? それはもしや焔硝のことか。では、あれは爆発音か。普通では手に入らないはずのものが置かれている屋敷に向かっているのだ。
「ちょ……っ!? ぼっちゃん! お待ちなさい。サキザード様っ!」
御者の叫びを背に受け、彼は通りを一直線に走る。こみ上げてくる不安に突き動かされ、サキザードは目的の屋敷へと飛ぶように駆けていった。
前へ 次へ もくじ