混沌と黎明の横顔

第16章:惑える焔《ほむら》の下 1

 この国の乾期の早朝に見る蒼穹ほど鮮やかな蒼を彼女は知らない。遠景の薄墨混じりの青い山並みすら、引き込まれそうなほど美しいと思えた。
 そう、あの方の瞳のようで、いつまでもウットリと眺めていられる。もうすぐ逢えるかと思えば、なおさら胸が弾んだ。
 彼女の朝は意外と早い。貴族の娘らしからぬ振る舞いだと、一部の貴族なら顔をしかめるだろうが、彼女の新しい身内は彼女同様に早起きすることもある人種であったから、とやかく言われるようなことは一度もなかった。
 昔からそうだった。人々が寝静まっている夜中は空恐ろしく、早朝の小鳥のさえずりが届くまでまんじりともしないのである。
 己がここにいていいのか、いつかいらないと言われるのではないのか、どうしたら解放されるのか。昼も夜もそればかり考えていた。
 おかしなもので、今は眠りを妨げるものなど何もないはずなのに、この習慣はなかなか抜けない。どれだけ夜更かししても、早寝をしても、彼女は夜明けとともに眼を醒ましていた。習慣とは恐ろしいものである。
「あらっ! 今朝は蕾が開いているわ。昨日まであんなに固く閉じていたのに」
 お気に入りの散策路の端にある早咲きの薔薇が小さな蕾を綻ばせていた。まだ開ききっていない花びらは慎ましく、恥ずかしがる少女のようにそっぽを向いている。が、彼女は親しい友人と出逢ったかのように歓声を上げた。
「素敵! 今年初めての薔薇なのでしょ。この花を書記机の上に飾りたいわ」
「お気に召しましたか。では摘み取ってお部屋に飾りましょう」
「駄目よ。わたしが摘むの。この花以外も摘んでみたいわ」
 背後に従う者を制し、彼女は彼が腰に下げていた刈り鎌を強引に奪い取った。危ないからと諫める声に頬を膨らませ、絶対に自分で摘むのだと言って聞かない。相手が根負けするまで、その問答は続いた。
 扱いづらい刈り鎌の使い方を教わり、手ほどき通りに鎌を動かして一輪摘み取っては棘を折り取り、また一輪摘んでは棘を折り取りして、丁寧に丁寧に薔薇を摘んでいく。危なっかしい手つきで、彼女はその作業を愉しんでいた。
「エッラ卿。ちょっとよろしいでしょうか?」
 背後でハラハラしながら見守っていた若者に声がかかる。朝早くから忙しいことだ。一度は振り向いた彼女だったが、ぼそぼそと話をする二人の男のことなどすぐに興味を失い、再び花摘みに没頭した。
「イヴ様。そろそろ戻りましょう」
 エッラの声に顔を上げ、彼女は小さく首を傾げる。愛らしい仕草にエッラだけでなく、用事を伝えにきた者も目尻を下げた。
「なぁに? まだいつもより早い時間でしょ?」
「私が大公様に呼ばれましたので警護ができません。ですから、今日のところはお部屋にお戻り下さい」
「まぁ、いやよ! だって、今日が最後なのよ。もう王宮に上がると聞いたわ。そうなれば朝の散策が自由に出来るかどうか判らないでしょ。お願いよ、エッラ。もう少しだけ散歩をさせてちょうだい」
 うるうると瞳を潤ませ、上目遣いで懇願して見せれば、言葉に詰まって固まるエッラが顔を赤く染める。昔から多少のことであれば、こんな仕草ひとつで自由にしてきた。不自由な生活の中で自由を得ようとすれば、それ相応の駆け引きが必要になるのだと、身をもって学んだ結果だった。
「エッラ卿。小生でよければ姫のお供をしましょうか?」
 伝言さえ伝え終わればお役ご免なのだろう。傍らに立つ中年男が人の良い顔で進言してきた。エッラ以上に彼女の懇願に免疫がない男が同情心から申し出たとしてもおかしな事ではない。
「エッラ、聞いた? 彼がお供をしてくれるのなら大丈夫でしょ。ここは大公屋敷の奥庭なのよ。危険があるとは思えないわ!」
 相手の申し出に、彼女は過剰なほど喜んで見せた。初めは渋い顔をしていたエッラであったが、何度も懇願され、同時に屋敷の使用人からもせっつかれては強硬な態度に出ることも難しい。ついには彼女の願いに折れ、いつもの道を外れぬよう強く言い含めた後、屋敷へと戻っていった。
「さぁ、もっと奥にたくさん花が咲いているわ。あちらにも行ってみましょ」
 摘み取った薔薇の束を使用人の男に押しつけると、貴族の娘らしい楚々とした歩みで庭の奥へと向かう。時折、辺りの芳しい緑の匂いや空の美しさにうっとりと立ち止まりはするが、彼女は決して引き返そうとはしなかった。
 追いかけてくる者と他愛のない会話をしながら彼女は庭をそぞろ歩いていた。大袈裟なほど彼女を褒めそやす召使いの言葉にニコニコと笑顔を向け、その実、彼女は物思いに耽っていた。
「褒めてもらえて嬉しいわ。王宮でも褒めてもらえるかしらね」
「姫様ほどの美貌の持ち主が他にいるものですか。諸侯の令嬢とて姫様の前では色褪せてみえますよ。宮廷の紳士たちが皆ひれ伏すことでしょう」
 かつて空想した暮らしが今ここにある。それが心を浮き立たせ、彼女の顔に輝きを与えた。銀細工のように美しい、と賞賛の言葉を浴びる日々も楽しいものである。王宮に上がった後もこんな暮らしが続くのだろうか。
 褒めることに関しては饒舌な召使いが、ふと彼女の姿を眺めて眼を見開いた。
「そろそろ戻りましょうか。朝露に濡れてお召し物が湿っておりますよ。このまま放っておいたのでは、お風邪を召してしまいます。早くお着替えになったほうがよろしいかと。朝食前に温かい飲み物も用意しましょう」
 確かに花を摘んで抱えたために上着の袖や胸元、肩先がしっとりと濡れている。だが下着にまで浸みるほど濡れているわけではなかった。エッラもだが、この男も随分と心配性なようである。
 付き従う彼の言葉に悪戯心が湧き、彼女は突然走り出した。上半身が隠れるほど大量の花束を抱えている召使いがすぐに反応できるはずもなく。背後から呼び止める叫びが聞こえてくるが、彼女は無視して茂みのひとつに飛び込んだ。そう、それが、後悔の元になるとも知らぬままに……。
 小枝が頬や額を刺したが耐えられぬ痛みではなかった。息を潜めていると、小走りの足音が響き、そのまま庭の小径を通り過ぎていった。あちこちで立ち止まり、その度に「姫様」と呼ぶが、返事がないので先へと進んでいく。
 部屋に戻るのが厭で拗ねているのを察しているのだろう。遠くから聞こえる召使いの呼び声は焦りが混じっているものの、まだどこか悠長であった。
 部屋に戻れば窮屈な作法が待っているかと思うと、彼女にとっては楽しい時間ではない。少しでも部屋に戻る時間が遅いほうがいいに決まっているではないか。それが判っているなら早く戻れなどと言わないで欲しかった。
「王宮に上がるのはいいわ。でもお作法が細かすぎてうんざり。どうしてあの方に逢うためだけに、こんなに面倒なことをしなければならないのかしらね。一緒にお喋りしていたとき、あの方は作法のことは煩く言わなかったのに」
 子どもっぽく頬を膨らませ、下唇を突き出す。が、さすがにその顔つきは可愛くないだろうと思い直し、彼女は両頬を掌で包み込むと、目の前に大好きなあの方がいることと想像してニッコリと微笑んだ。
「もうすぐお逢いできますわ。また二人で楽しくお喋りしましょうね」
 無邪気な微笑みは彼女の愛らしさを強調している。だが、うっとりとした表情の奥底に、何か得体の知れない狂気が感じられるのは気のせいだろうか。
 召使いの男は木立の奥へ向かったようで、呼び声も今は聞こえてこなかった。
「エッラは他の道を行くなというけど、今日くらいは羽根を伸ばしましょう」
 うきうきと身体を弾ませ、彼女は普段は通らない小径へと足を踏み入れる。そこは花が少なく、その代わりに深い色の緑に溢れ返っていた。茂みは丈高く、小柄な彼女はすっぽりと覆い隠されてしまいそうである。
「なんて静かなのかしら。ここでは鳥の鳴き声すら聞こえないわ」
 彼女は知らないことだったが、この小径は本来、大公とその側近しか通らない場所だった。奥まった突き当たりには日当たりの良い小さな広場があり、そこに辿り着くまでの鬱蒼とした木立を忘れさせる開放感がある。
 時には内輪の話し合いのため、時には気持ちを落ち着けるため、そして時には政治に深く関わる密談のため、その場所は作られたのだった。
 だがしかし、彼女がその小作りの広場に辿り着くことはなかったのである。
 離れた場所の茂みがゴソゴソと蠢いた。静まり返った小径で、その音は通常よりも大きく聞こえる。彼女の耳にもそのざわめきは届き、小動物よりは大きい生き物が潜んでいることを物音から伝えた。
 一人きりのときに見知らぬ場所で聞く物音ほど不安を煽るものはない。まして、そのざわめきが徐々に近づいてくるのが判れば、余計に気味悪かった。無邪気な彼女でも身の危険を感じて当然であろう。
 元の小径に戻ろうと彼女がきびすを返すと、その得体の知れない生き物の動きが一気に加速し、彼女の行く手を遮るように立ちはだかった。
 恐怖に声も出ない娘の目の前に立ったのは、質素な行商人の格好をした三十代後半と思われる男である。特に目立つ特徴もなく、街で擦れ違ったとしても、次の瞬間には覚えていないような男だった。
「やっと見つけました、イーヴリン様。お父上が国元で首を長くしてお待ちですよ。私と一緒に帰りましょう」
 足が竦んで動けない少女に一歩ずつ近づき、男は値踏みするように彼女の顔から胸元、足先までを舐めるように眺め回す。それはまるで美術品の鑑定をするような冷たい視線だ。ゾッと背筋を凍らせ、彼女はよろけた。
「だ、誰……? あなた、何を言っているの?」
 男が大袈裟なため息を吐く。己の苦労も知らずにのうのうと、と囁く声には棘があった。この男は不快な存在だと見極め、少女は逃れる術を考え始めた。
「ルネレーでは、あなた様のお父上が必死にあなた様を探しておいでなのです。このような場所にどうしておいでなのか知りませんが、見つけたからには私と一緒に帰国していただきますよ。まったく、穢らわしい場所だ」
 大公屋敷の庭を指して穢らわしいと言うならば、それは侮辱もいいところである。歴代の大公が見込んだ庭師が手入れをする庭々だ。醜い場所などあろうはずがない。もちろん屋敷の建物も壮麗と称するに相応しかった。
「意味が判らないわ。わたしはこの屋敷の娘よ。今の父はこの屋敷の主人である大公さまなの。他に父などいないわ。いったい、どこの誰がわたしの父だなどと騒いでいるのかしら。馬鹿げたことを言ってないで、そこをどいてちょうだい。そろそろ部屋に戻って朝のお作法の勉強をしなければ」
「なんと愚かな……。あなた様のお父上はルネレー公国の宰相様です。贅を尽くして国を傾けた王が死んだ今、親子の名乗りを上げて不都合なことなど何もありません。正妻の子ではなくとも認知なさるそうです。お早くお戻りを」
 男が無遠慮に手を差し出す。その手を取れば彼女は今の暮らしを捨てることになるのだ。その代わりに別の生活が約束されるが、それが彼女の望むようなものである保証はどこにもない。
 困惑が抜けず、彼女は男の手と顔を交互に見比べた。戸惑いが相手にも伝わったのだろう。男はまた深くため息をつき、説明を続けた。
「奴隷として売られていたあなた様のお母上を買われ、初めに手許に置かれたのは宰相様です。深く愛でられましたが、その美貌を偶然に王が見初め、宰相の地位と引き替えに奪い取られたのです」
 少女の呆気に取られた表情を確認することなく男は蕩々と語り続ける。相手の動揺などまったく意に介していなかった。
「当時はご存命だった宰相様のご両親が勝手に王と取引なさったとかで。宰相様が地方の領地を巡察する旅に出た直後にお母上を王に引き渡されたそうです。旅から戻ってきてみれば、いずれは妻にとまで望んだ女性が王の愛人にされ、しかも懐妊していると知らされて。宰相様のご心中をお察しください」
 何を察したらいいのだろう。十代前半の彼女に男女の仲のあれこれを素早く理解せよというのが無理な話だ。幼い気質の少女には生々しい。
「私は子どもの頃から宰相様にお仕えしております。あの方の苦悩を間近に見て参りました。王の愛人となった女性の腹にいる赤子が、自分の子か王の子か、迷われたでしょうに。それでもあなた様を認知なさると言う。正気とは思われませんが、あの方がそう決められたことに従います」
 言外に男自身は少女の存在を認めていないことを匂わせていた。主人に従うがゆえに彼女を主人の子として扱うが、そうでなければ価値などない、と。それが判れば充分だ。彼女の知らぬ事実など、どうでもよい。
「訳の判らないことを言わないで。あなたが何者であろうと、わたしには関係ないわ。そこをどきなさい。でないと後悔するわよ」
 男が小さく舌打ちした。苛立ちを隠そうともしない態度に寒気がする。
 昔も今も、幼い彼女にとって大人の異性という存在は脅威でしかなかった。怯えが相手に伝わればいいように振り回される。それを過去の軟禁生活から学んだのだ。今さら屈辱を味わうためにへりくだる気はない。
「敵国の有力者に媚びてまで贅沢な暮らしがしたいとは。我が主人には申し訳ないが、お前のような小娘の言葉に従う気はないのだよ。あの女の娘だということを考えれば、お前もどうせ男を踏みつけにして嗤っているのだろう!?」
 掴みかかってきた男の腕をすんでの所で逃れ、彼女は深い茂みの奥へと逃れた。頬や腕に傷がつくのもかまわず、必死に明るい方向へと走る。人目がある場所まで逃れたなら、この逃走劇も終わるはずだ。
 普通の貴族の娘であればすぐに息が切れただろう。が、幸いなことに少女は毎日の早朝散歩を日課にしていた。身体を鍛えている戦士には遠く及ばないが、年頃の令嬢と比べれば遙かに体力がある。
 それが彼女にとって唯一の希望と言っても良かった。捕まったらどんな目に遭わされるか知れたものではない。なんとしても逃げおおせなければ。
 遠くで少女を呼ぶ召使いの声がした。庭の奥に姿が見えないことから戻ってきたのだろう。徐々に近づいてくる声を目指して、彼女は大地を蹴った。
 母がどんな女性であったのか知らない。彼女が知っていることといえば、魔力を持った女性だったが、その制御方法を知らなかったということだけだ。
 身籠もった母は娘を出産した際に魔力を暴走させ、その力で自らを傷つけて亡くなったらしい。そして魔力を持った女が産み落とした娘として、少女は生まれてすぐに堅牢な塔に監禁されたのだった。他には何も知らない。
 物心ついた頃から父親だと聞かされていた男に気に入られたい一心で着飾ることを覚え、特に大人の男たちの態度には気を使ってきた。彼らを憎々しく思いながらも無邪気さを装って懐柔する手管も身につけたというのに。
 今頃になって本当の父親が誰だと知らされても心に響くものか。父親に認められようと必死になっていた自分は、あの炎の中で消え失せてしまったのだ。今の少女の希望はあの方と再会することだけ。
「いやよっ。絶対に厭っ! わたしはここで生きていくの!」
 茂みを突き抜け、見慣れた小径に出ると、彼女はボロボロの身体に鞭打ってなおも走った。背後から罵り声を上げながら追跡してくる気配がする。早く誰かに保護してもらわなければ、彼女が望む未来はないだろう。
「ひ、姫様!? いったい、どうしたのですか、そのお姿は!」
「助けてっ! 知らない男がいるわ!」
 ようやく先ほどの召使いと再会し、少女の胸に希望が灯った。背後に迫る男が人目を避けて彼女に接触してきたのは明らかである。ここで顔を見られるのはまずいはずだ。娘を連れ出すのを諦めるかもしれない。
 召使いが花束を放り出し、代わりに彼女を抱えて走り出した。少女の形相によほどのことがあったのだと判断したらしい。不審者から姫君を守ろうと、警備の者がいる屋敷へと一直線に向かった。
 中年男に抱えられたまま、少女は男の肩越しに後ろを覗いた。小径のどこにも侵入者の姿は見えない。諦めてくれたのだろうか。
 僅かな希望に安堵しかかったときだった。召使いがたたらを踏んで立ち止まったのである。急停止に彼女は男の肩にしがみついた。
「何奴! ここを水姫家の屋敷と知っての狼藉か!」
 背後にばかり気を取られて前方にはまったく注意が向いていなかった。慌てて振り返った少女の視界に、悪鬼の形相で立ちはだかる先ほどの侵入者の姿が映った。しかも今度は片手に短刀を構えている。
 少女は恐怖で悲鳴を凍りつかせた。否応なく炎の中の出来事を思い出す。容赦なく自分に向けられた白刃の不気味な鋭さ、痛烈な罵声、頬に走る炎の痛み。そして、熱さの中で感じる絶対的な孤独。
 二度と戻るまいと誓った過去の恐怖が、今再び目の前に現れたのだ。
 助けを呼ぶ召使いの叫びと、侵入者が飛びかかってくるのは同時だった。
 声にならない悲鳴を上げ、少女が身体を硬直させる。その直後、彼女の身体は放り出され、小径の石畳の上に叩きつけられた。
 痛みのあまりに呻き声すら出ない。目の前がチカチカと瞬き、彼女は恐怖から逃れようといっそう身体を縮め、ガタガタと震えた。
 召使いの絶叫が聞こえる。そして、その声はすぐに途絶えた。温かく、生臭い液体が彼女の頬や肩を濡らす。目を開けて現実を直視する勇気が出なかった。間近に息遣いを感じた直後、猛々しい罵倒が鼓膜を揺らす。
「お前のような娘を実の子とされる宰相様の気が知れん。だが私はお前を国に連れて帰ると約束してきたのだ。お前の愚かな真似がどう裁かれるかは我が主人にお任せしよう。……さぁ、私と一緒に来るのだ!」
 肩に担ぎ上げられ、恐怖が最高潮に達した少女は激しく暴れ出した。目的を持った抵抗というよりは恐慌状態に陥ったと言ったほうが正確だろう。手の付けられない暴れように男が再び舌打ちした。
 屋敷の方角から複数の足音が響いてきたのも侵入者の苛立を増長する。少女を貶める悪口雑言を吐き出すと、男は幼いその鳩尾に拳を叩き込んだ。
 とても忠誠を誓う主人の娘に対する行為ではない。が、彼がそれを頓着している気配はまるでなかった。物品を扱うかのような無造作さで少女を担ぎ直すと、侵入者は入り組んだ小径を駆け抜けていった。
 完全に意識を失っている娘はついに知らぬままであったが、侵入者は大公と側近しか使わぬはずの小径を通り、突き当たりの広場に出たのである。
 そこで少女を降ろすと懐から取り出した麻袋に彼女を押し込み、血の付いた自らの上着も放り込むと、一緒に取り出したシャーフで顔を覆い隠して、再び袋ごと娘を担ぎ上げ、深い木立伝いに移動を始めたのだった。
 悲鳴を聞きつけて現場に駆けつけた警備兵が眼にしたのは、心臓を一突きされ、喉を掻き切られた召使いの骸と、無惨に踏み荒らされた庭の草花の残骸だけであった。守られるべき姫の姿は消え失せ、狼藉者の行方も知れない。
 この有様を報告され、水姫公はすぐさま探索の手筈を整えたが、届く知らせは彼を満足させるものではなかった。
 その日、王城に招かれる予定だった水姫家の姫は、体調を崩して休養することになったと伝えられた。だがしかし、いつ休養が終わり、王城に上がれるのかは、伝えられることはなかったのである。