混沌と黎明の横顔

第15章:朱く冷たい月の声 4

 身動きできない身体のあちこちが痛む。落下した後にどこかに激突したことだけは覚えているが、それ以降の記憶がスッパリと抜け落ちていた。たぶん気を失ったのだろう。それくらい墜落時の衝撃は凄まじかったのである。
 彼はここに至るまでのことを思いだそうと、開いていた瞳を再び閉ざした。もっとも眼を開けていたとしても真っ暗闇で何も見えなかったが。
 確か繭から遁走した子らを捕らえ、元の場所に戻そうと連行していたのだった。その途中でバチンの仕掛けた歪曲空間にはまり込み、脱出を試みるも自らは捕らわれの身となり果てたのである。
 一緒に異空間に囚われそうになった二人の子らだけでも脱出させられたのは、不幸中の幸いと言ってもいいはずだ。
 彼、ハインは口許に苦笑を浮かべた。じゃじゃ馬と腕白のお陰で回り道をさせられたものである。あの子らが素直に戻ってくれたなら仕事は早く済み、このような事態には陥らなかったに違いない。
 あぁ、いや。そうではない。きっとそれでもバチンとの対決は避けられなかったのだ。彼女は執念深く、こちらの甘い考えなどにほだされはしない。
 昔のよしみで手加減をしようと思った自分が悪いのだ。容赦している場合ではないと、アジェンティアにも言われたはずなのに。それでも「もしや」と期待せずにいられなかった。その期待は見事に裏切られたわけである。
「私を捕らえてどうする気だ、バチン。こんなことをしても状況が改善されるわけではないだろうに。むしろいがみ合う機会を増やすだけだ」
「そういう後ろ向きの思考が嫌いだと、昔々に言ったはずだえ」
 動かぬ身体をギシギシと揺らし、ハインは目を開けて声がした方角を見ようと首をねじ曲げた。仄白い影が闇の中に浮き上がって見える。先ほどは感じ取れなかった気配を今は感じられるということは、この空間内ではバチンは思いのままに動き回れるということを示していた。
「動けまい、タルク。お前の身体に暗示を入れてあるえ。少々の意志では振り解けぬほどの拘束力があるからのぅ」
「私を縛り付けたとて何になる。アジェンティアが唯々諾々と従うには、私に人質としての価値はないぞ。無駄な真似はやめて大人しくしておれ」
 前髪に隠れたバチンの瞳が鋭く光ったように見えた。真っ赤な唇の片方だけがきつくつり上がり、彼女が不快感を表したことを教える。
「そんな薄情な女に仕える己の身を不幸だとは思わぬかえ? あの御方なら、今の世にはびこる歪んだ理などお許しにならなかったろうに」
「それはそなたの思い込みに過ぎぬ。バチンよ、第二の者はすでにこの世におらず、世界は自転を続けておる。そなたの役割はとうに終わったのだ」
 古風な音律で返事をすると、バチンはいよいよ不快感を示した。だが予想したような罵り声は上がらず、彼女の髪の奥に光る瞳にいっそうの激情が宿った。
「この身の役割が終わっておるなら、あの御方の下に召されよう。それが叶わぬということは、世界にはまだあの御方の意志が残っているということだえ。確かめる価値はあろうよ。そうは思わぬかえ?」
「私には興味もないことよな。我らは緩慢な滅びの道を辿っていたことに気づいておらぬのか、バチンよ。アジェンティアが決断を下すまでもなく、我ら一族に繁栄という未来など存在しなかったというのに……」
「相も変わらず戯言をほざくかえ。あの御方がおいでであれば、世界が我らを滅ぼすこともなく、一族は下天の頂点に君臨しただろうよ」
 ハインはどうしようもない徒労感にため息を吐いた。どうして彼女との話し合いはいつも平行線なのだろう。世界の滅びに対する認識はまったく逆で、何をどう言い募ろうとバチンがこちらの言い分に耳を傾けることはなかった。
「これ以上、何をどれだけ話し合おうと無意味であろうよ。そなたは私の言葉など欲してはおらぬ。他者を認めぬ者が他者に認められると思うでない」
 全身を覆う疲れにハインは眼を閉じる。アジェンティアに振り回され、バチンにも振り回され、もはや己の身体が擦り切れてしまいそうな気分だ。もうどうにでもなれ、とやさぐれた気分になっても不思議はあるまい。
「タルク、なぜ気づかない。世界は滅びてなどおらぬえ。滅んだと思い込ませ、世界を乗っ取ったのはアジェンティアのほうだ」
 それまでより幾分柔らかくなったバチンの声が頭上から降ってきた。彼女は未だに彼の傍らに立ち、彼女なりの説得を試みている。それが無駄な行為だとなぜ判らないのか。バチンの態度は主人に絶対忠誠を誓う竜のようだった。
 昔ながらの古い音律で対峙されたときに彼女は気づくべきだったのである。ハインは竜王人ドルク・リードの血を引く竜なのだと。彼女が神魔サフサリたる主人に仕えるのと同じく、自身の価値観に重きを置く生き物なのだと。
「他者を認めないのは私も同じか。……では、私たちは永遠に平行線だな」
 今も頭上で熱心に語るバチンの声を無視し、ハインはため息混じりに独りごちた。何もかもが煩わしく、己の身すら保つのが億劫である。
「いっそこのまま消え失せてしまおうか。幸いにも主人からは解放の呪文を受け、呪縛からは解き放たれているのだし」
 あぁ、そうか……。こうやって仲間たちは去っていったに違いない。
 徐々に数を減らしていくドルクとその使い手が、なぜ、どうやって、その姿を消していくのか気になっていた。骸すら残さずに、果たして彼らは何処へ往くのだろうか、と。
 リド・リトーが去ったとき、なぜ行方をくらますのか理解できなかった。己の竜すら捨てて遙か果てへと旅立つ彼は狂気に支配されたのだと呆れもした。
 だが、そうではない。彼らは自らの命に価値を見出せなくなったのだろう。果てしない大河の岸にもやわれた船に乗り、身体ごと飛び去ってしまったのだ。
「そうか。リド・リトーよ、だからあの子を置いて往ったのか。だがしかし、あの子は未だに解放されていないのだぞ。真性核が消えても複製核が残り、契約を引き継いでしまった。主人の声と言葉で放たれた呪文が届かぬ限り、あの子に解放の日は来ないではないか。なぜ消える前に完全に解放しなかった?」
 未だにバチンはとくとくとして己の主人の完全さと自身の優位性を主張している。が、ハインにはもはやそんなものはどうでもよくなっていた。
 己が消えるにしても、幾つかの気がかりはある。それが解決さえすれば、もうこの世界になんの未練も残っていない自分に気づき、ハインは苦い想いを噛み締めた。いつの間に、こんなにも心がすり減っていたのだろう。
 ふと頭上で金切り声が聞こえ、ハインは顔をしかめた。バチンが怒鳴り散らしている。どうやら彼が彼女の話をまったく聞いていなかったことに気づかれたようだ。面白くないと思っているのだろう。バチンは肩を怒らせていた。
「親切に説明してやっておるのに何という態度だえ。そんな有様だからアジェンティア如きにいいように言いくるめられるのではないか!」
 うるさい。なぜ静かに考え事をさせてくれないのか。彼女はいつもそうだ。己が望むように振る舞い、願った通りに事が運ばないと喚き続ける。まったく始末に負えない性格だ。どうして今まで我慢してきたのだろう。
「黙らぬか、バチン。そなたの厚かましい声も醜い態度もうんざりだ」
 いつもより厳しく叫び声を遮れば、彼の急な変化にバチンは唖然とした。
「戯れ言につき合うのは飽き飽きしたと言ったのだよ、バチン。何をやっても我々は平行線ではないか。無意味なことに時間を割くのは無駄だろう」
「無駄だと決めつけるでないわえ。その説明を繰り返しておるものを、お前はまったく聞いておらなんだではないか!」
 またもヒステリックにバチンが叫ぶ。その騒々しさにハインはあからさまに顔をしかめ、素早く無視を決め込んだ。
「真面目に話を聞けと言うておるのだえ! この話はお前にも興味が持てる内容だと……。えぇい、このボンクラめが。何を拗ねておるか!」
「拗ねてなどおらぬ。もう顔を見るのもうんざりしているだけだ」
 絶句するバチンの気配を感じたが、興味を失った彼は眼を閉ざして何も見ようとしない。彼女にもハインが本気で言ってるのだと判っただろう。
「タルク……。もしや、消える気かえ……?」
 信じられぬことだがバチンの声に怯えが混じった。それまで居丈高で、傍若無人ぶりを発揮していた彼女の態度がすっかりなりを潜めている。
「そなたには関係のないことよな。放っておいてくれ」
「この空間でお前の自由になることなど何もないぞえ。死を願ったとて叶いはせぬわ。莫迦なことなど考えるでない。頭を冷やすのじゃな」
「私は充分に冷静だ。そなたの助言など不要だよ」
「タルク! お前は長老タルクとしての役目をすべて放棄して逃げ出すつもりかえ!?」
 悲鳴に近い叫び声にハインはうっそりとした様子で眼を開いた。耳障りな声に反応したくはないが、黙らせるには説得するしかなさそうである。
「長老としての役割を負っているのは私だけではない。繭で眠り続けてはいても、他の長老たちが順次、眼を醒ましていくだろう。そうなれば私など遅かれ早かれお役ご免だ。そんなことくらい知っていただろう?」
 相変わらず手足は動かせないが首は多少動かせた。真っ暗闇の中でボゥッと光るように浮いている白い人影が心許なげな風情に見える。
「もっとも年かさのお前が行方をくらませば、後に残された者どもがどれだけ混乱するか判らぬかえ。世界を再構築するためには……」
「出来の良い者を残し、不出来な者は容赦なく葬り去る世界を再び作り直すつもりだというか。そのような愚かな計画、成功するとは思えぬな」
 ハインの瞳がゆるゆると閉じかかった。眠気があるわけではないが、妙に身体が疲れていた。先ほどまでは感じなかったものだが。
 きっと自ら消える意志を持った者にだけ訪れる兆候なのだ。そう思えば、この倦怠感すら喜ばしいことに感じられるから不思議である。
 ただ気がかりなことが僅かにあった。その未練だけが彼をこの世界につなぎ止めていると言っても過言ではない。
「小さき者よ、汝に幸いあれ……」
 ハインの呟きが聞こえたのだろう。バチンが息を呑む気配が伝わり、次いで「愚か者めが!」との怒鳴り声が響き渡った。
「出来損ないがそれほど気がかりかえ! なのに、この世界から消えようとするとは……。どこまでも愚かな竜であろう。お前のような者を説得しようと試みたのが間違いであったわえ。そうやってウジウジと考えておれ!」
 長い衣の裾を乱暴に捌く荒々しい物音が耳に届く。が、すぐに物音は消え、バチンの気配もプツリと途絶えた。怒りに任せてどこかへ消えたのだろう。
 これでやっと独りで考え事ができるというものだ。ハインはホッと息を吐き、意識を保ったまま微睡みの中にゆったりと沈んだ。
 一族の繁栄を願っていたのはバチンだけではない。彼だとて同じだった。しかし、新たな核が子らの中から誕生しなくなり、やむを得ず己らの手で人工核を作り始めても事態は好転しなかった。
 幾度も実験を繰り返し、ようやく一族の身体に馴染む核を作り出せるようになったのはいいが、自然核に比べて新たな核は歪であった。
 宿した者の精神を徐々に蝕み、周囲や宿主自身を傷つけていくとあっては、新しい人工核を作り出す気も萎えようというものである。ハインは一族の健やかな繁栄を願ったのであって、歪んだ命を望んだのではない。
「己が神にでもなったつもりでいた慢心に罰が下ったのだろうな……」
 一族の者は神ではないのだ。もちろん、それはバチンの主人たる存在にも言える。どれほど“神の血”を引こうとも、混じり者には違いないのだから。
「核をすべて回収し、処分しなければ。アジェンティアもそのために動いている。主人の意向だからではなく、間違いは正されなければならぬのだ」
 静かに瞳を開いたハインの表情に僅かな輝きがあった。失意の中でも意志を保つ頑強さが未だに残っているのだ。その能力が発揮されようとしていた。
「バチン、そなたは私を見くびりすぎる。アジェンティアを主人と仰いでいた時点で私がどれほどの魔力を持っていたか、長老となり一族の要を担っていた時点でどれだけの影響力があるか、判っていなかったのか?」
 小さく首を左右に揺らし、彼はため息のように密やかな吐息を漏らす。すぐに半眼になっていた瞳を大きく見開き、なんの反動もつけずに腕を大きく振り抜いた。それまでピクリとも動かなかった四肢が難なく動く。
「動かす意志さえあれば、そなたの束縛を振り切ることなど容易いのだ。私はそのような力を持つ竜だということを忘れた、それがそなたの罪だな」
 主人の望む世界を創造するのだと息巻いている割に、バチンのやることはずさんなものばかりだ。彼女自身があちこちにばらまいた分身が一体ずつ行動しているからだろう。収拾をつけるはずの本体が封印されているのだから、本来集約されるはずの情報を統制することができずに足掻いているに違いない。
「たぶんアジェンティアの周囲にもバチンの分身がウロチョロしているのだろうよ。私を説得して味方につけようとするくらいだ。彼女にも余裕はあるまい。だが我らには失敗した策略も人間相手であれば容易いやもしれぬ。あの子や残った核の保有者に助け手が必要なことに変わりはない」
 囁きながら立ち上がったハインは何も見通せない暗闇に覆われた周囲に耳をそばだてた。バチンが戻ってくる気配はない。彼を捕らえたと安心し、いきり立った神経を鎮めるために歪曲空間から出ていったのだろう。
 単純にこのまま異空間から飛び出せば彼女と鉢合わせる危険がある。だが脱出するには強引に空間の殻を破るしかなかった。
「迷っていても仕方がないか。……つくづくバチンとは対立するしか関係を結べぬようだ。因果な関係よ。やはりドルクとドルク・リードでは立場が違いすぎるということか」
 胸の奥に沈み込む失意は深い倦怠感となって全身を覆っている。それは彼の精神を蝕み、近いうちに存在の消滅を促すだろう。そうなっても後悔しない確信はあったが、やるべきことを終えなければ往くことはできなかった。
 ジワリと闇が蠢く。捕らえた獲物が逃げぬよう、再び拘束する気なのだろう。しかし手足の自由を取り戻した彼の敵ではなかった。軽々と跳躍し、闇の隙間から抜け出すと、ハインは耳をつんざく雄叫びを上げる。轟々と鳴る大気の揺れに乗り、彼は異空間の境界線へと突っ込んでいった。