混沌と黎明の横顔

第15章:朱く冷たい月の声 3

 目的を果たせない、などという事態は彼にとって珍しいことだった。
「時間がない状況でなければ奥に押し入ってやったものを……。まったく!」
 腹立ち紛れに舌打ちをしてみても、果たせなかったことは事実で、それを覆すことはできない。判っているだけに腹立ちは収まらなかった。
 ソージンが王宮に戻って主人のサルシャ・ヤウンがいる建物の一画へと向かうと、厳しい顔をしたアイレンが立ちふさがった。
 王太子から誰も通すなと言われている。その一言で退けられた。
 炎姫家に仕えているアイレンにも関わる事態だと説明しても、彼女は頑として譲らず、それは自分が手を出す範疇にない、とすげない態度である。
 元々の主家の危機よりも派遣された王家の指示を優先する態度はいかにも騎士だ。が、そこまで冷徹に振る舞えるアイレンの心境が信じられない。
 怒鳴り散らして後宮区画の端にある建物に押し入ろうかとまで思ったが、ソージンは怒りを呑み込み、連れてきた証人を尋問をしておくよう言い渡した。
 アイレンは勝手に王太子を監禁するような性格ではない。王子が誰も通すなと言ったのならば、それは彼女にとって絶対の命令なのだ。たとえそれが王太子の守護騎士扱いの傭兵であっても曲げることはできないのだろう。
 そう察したからこそ退いたのだ。でなければ、我慢できない状況である。
「あの若造のことはヤウンに任せるとしよう。おれは状況証拠だけではなく、物証を押さえておかねばならんな。王家が動くときは確証がなくてはまずい」
 炎姫公女を拉致した東方人の企みははっきりしないが、彼女が国外にでも連れ去られるような事態は避けたかった。特に炎姫公の甥が一味に関わっているらしき状況であれば、醜聞が広がる前に収拾をつける必要がある。
 王宮の敷地を飛び出したソージンは、貴人用の通りを凄まじい形相で駆け下りる人物に出くわし、思わず立ち止まった。向こうも道一本隔てただけの通路を行く王太子直属の傭兵と行き会い、引きつった顔のまま立ちすくんだ。
「ソージン卿、ここで何をしておいでか?」
「そちらこそ、慌ててどこへ行く気だ、ケル・エルス公子」
 黒耀樹公を間に挟み、二人は微妙な敵対関係にある。いや、ソージンはそう思っているが、ケル・エルスのほうはどう思っているか知らなかった。
 黒耀樹公子がこんなひどい顔色で焦っているということは、黒耀樹家でも何事かが起こったに違いない。今日はとんでもない日になりそうだ。
「私は屋敷に戻って仕事にかかるところですよ。王太子殿下の側にいるはずのあなたがここにいるとはどういうことでしょう? もしや王子の不興を買って解雇されましたか? それとも、仕事をサボっているのですか?」
「仕事中だ。護衛役はおれ以外にもいる。おれはおれにしか出来ない仕事をするだけだ。母親の顔色を窺うだけのお前と一緒にするな」
「……ッ! 母など知ったことか! あの女のせいで我が家がどれほど苦渋を舐めているか、それは王宮にいる者なら誰でも知っていように!」
 母親に似た優美な顔立ちを歪ませ、ケル・エルスが火を噴くように叫んだ。強い自己主張をしない公子には珍しい激昂である。
 さしものソージンも一瞬唖然とした。が、すぐに口角をつり上げ、ふてぶてしい態度で肩をすくめて見せた。
「面倒を避けて唯々諾々と従っていれば相手は増長するだけだ。それを許している時点で、お前も母親と同じ穴の狢だな」
「私は母とは違う! 黒耀樹家や王家への忠誠を忘れたことはない!」
「では母親を抑えることだ。どうせ今もろくでもない陰謀を企んでいるのだろうが。あの女ひとりいないだけで、王宮がどれほど平和になることか」
 母親に鬱屈した感情を抱いているらしい公子をどのように焚き付ければ、黒耀樹家がまともになるのか、ソージンには読み切れない。だがしかし、ウラッツェが日々王宮の裏庭でぼやくほどには腐っているのだ。
「ウラッツェが欲しくもない大公位をなぜ継いだのか、お前には判らないのか」
 怒りに声を詰まらせるケル・エルスにソージンはなおも言葉を繋げる。時間は刻々と過ぎていくが、この機会を逃したら公子と話をすることはできないだろう。そう思うと、今言うしかないという思いが彼を駆り立てた。
「あいつが辞退すれば次の大公はお前だ。そうなったとき、お前の気力だけで母親を退けられるか? お前ひとりで前大公の妻や子どもたちを守り切れるか? ウラッツェは自分が餌になって女子どもを守っているんだぞ。お前が自分を母親から守れないで苛立っている程度は子どもの癇癪と同じだ」
「私が子どもだと言うのか……っ!」
「子どもでなくてなんだ。お前は兄の妻子を守る楯になれたか? 無理だろうが。お前に出来ないなら他人を頼ることを覚えたらどうなんだ。その頭はなんのためについている。母親の言いなりになるだけなら心などいるまい!」
 王族相手に言い過ぎているのは判っていた。これだけの口を利いてしまえば、いかに王太子直属といえども何らかの咎を受けるだろう。それでも言わずにいられないほど、今の黒耀樹家の状況は歪んでいるように見受けられた。
「私にも心はある。大切な者もいる。母の言いなりになるばかりではない!」
「では証明することだな。言葉でなどいくらでも言い繕える。行動し、結果を出してこその証。出来ぬなら、それは偽りを言うのと同じだ」
 引きつり、憤怒の形相を浮かべたケル・エルスの様子にソージンは満足した。怒りは力になる。行動のきっかけを作るだろう。母親の前だと無気力になる公子が、束縛から解放される原動力となれば幸いだ。
「王太子は黒耀樹家の状況を憂慮している。より良い方向に向かいたいのなら、サルシャ・ヤウンを頼るがいい。あいつなら後から恩着せがましく言うこともない。むしろ大公家の浄化を諸手を挙げて喜ぶだろう」
 宮廷に巣喰う上級貴族の大多数は利害の有無によって動く。それは人間の心理として当然と言ってもいいだろう。だが、それがあからさますぎるのが今の王国の現状だ。他者を踏みつけにしすぎれば己の首を絞める結果に繋がることが彼らには判っていない。気づいた頃には遅すぎるだろう。
 その勢いに黒耀樹家が呑まれれば、王族として生きている者ら全員にも悪影響が及ぶに違いない。王家が危惧しているのは、腐敗した身内に足を引っ張られることだ。それを食い止めるのは今しかない。
「殿下にこれ以上の負担を強いろというのか? ただでさえ……」
「黒耀樹がふらついているからヤウンも足場が固まらないんだ。王都はドロッギス地藩内部にあるんだぞ。王家の番人たる家系が貴族どもに迎合してどうする。そんな気質を生むのなら黒耀樹家など滅んでしまえ!」
「この……ッ。言うに事欠いてなんということをっ!」
 生け垣を挟んでのやり取りであったが、ケル・エルスが思わずといった勢いで一歩を踏み出した。腕を伸ばしたところでソージンに手が届くわけではない。が、頭に血が昇った彼はそんなことすら忘れていた。
「自分の力量がどれほどのものかをよく考えることだな。今のお前にどれほどの力がある。どうせ今ここにいる理由も母親絡みだろう?」
「母には関係ない。私はやるべきことを……」
「大公家の公子が馬車にも乗らずに大公屋敷を出る不自然さに気づいてるか?」
 ケル・エルスの顔が青ざめ、噛み締めた唇が震える。己の失態にようやく気づいたようだ。身分高き者が敷地の外を自らの足で歩くとなると、よほどの理由があってのことである。黒耀樹公子の行動は、馬車で大通りを堂々と行くことができる者にあるまじき行動だったのだ。
「自分用の馬車を玄関先に寄せる時間すら惜しんで飛び出してきたか。それほど焦っているとなればよほどの理由があるはずだ。大公家か、お前自身になんらかの不利益がもたらされ、それがお前にとって許し難いほどの苦痛をもたらしたであろうことが予測できる。この状況をヤウンに報告すれば、王家は黒耀樹家に疑惑の眼を向けるぞ。たとえば現当主が謎の死を遂げたりすれば……」
「やめろ! 憶測で報告の内容をねじ曲げる気か!?」
「憶測? いや、限りなく核心をついた真実だと思うがな。金剛石アダマスのエルスとまで呼ばれる、鉄壁のお前を突き崩すことができる事実はさぞかし興味深いものだろうさ」
 ソージンは平静を取り繕おうとしている公子の様子をつぶさに観察した。青ざめた顔や震える拳、動揺に揺れる瞳は、今まで遠巻きに眺めたことがあるケル・エルスという若者からは想像しづらい。
 城塞戦では鉄壁の守りで長い持久戦にも耐えると言われる将だけあって、多少のことでは内面を覗かせないはずだが、さすがに今回はよほどのことが起こったのか、自らさらした綻びに足を引っ張られた格好になった。
「何があった? ウラッツェを殺せとでも言われたか?」
「あなたには関係ない。ギュワメ兄上を殺せば、母や私が真っ先に疑われるではありませんか。この現状で私が手を下すとでも? それに私が屋敷を出てくるとき、兄上は元気でしたよ。あの人は殺しても生き返ってきそうだ」
 確かにウラッツェには図太いところがある。が、同時にどうでもいいと思ったなら自分の命すら粗末に扱いそうな荒んだところもあった。
「滅多に異母兄と顔を合わせないってのに、今朝に限ってあいつと顔を合わせたのか? 随分と黒耀樹家の屋敷は狭いらしいな」
 ウラッツェは意図的に自分から継母には近づかないようにしていたはずである。その継母の側にいるケル・エルスも必然的に異母兄とはあまり顔を合わせないはずだ。それなのに現黒耀樹公が元気だなどと……。
「それとも、大公を監禁することに成功したか?」
 ケル・エルスが顔を伏せた。表情を読まれまいと咄嗟に取った行動であろうが、それがかえって不自然さを感じさせ、ソージンの言葉が正しいことだと裏付けているかに見える。確証がないので断言できないことだが。
「あの女もばかではないだろう。今すぐには大公を始末しないはずだが、宮廷に打撃を与える機会があれば躊躇うことなくウラッツェを殺すに違いない」
 公子は沈黙を守ったままだ。肩が強張り、俯いている顔が蝋のように濁った。
「おれには黒耀樹家のことは関係ない。だが、ウラッツェにはこの国に来てから世話になっている。迷惑をかけついでに一緒に旅をしてきたからな。少々の縁があり、恩も感じる相手に何かあれば、おれは黙ってはいないぞ」
 ジャムシードやウラッツェ、あるいはサルシャ・ヤウンなどが聞けば、お前に恩を感じる心があったのか、と目を剥かれそうだが、ソージンとて常識を知らぬわけではない。自分の生きてきた道が常識外れだからといって、周囲にいる人間にまでそれを適用する気はなかった。
「あなたに言われるまでもない。母のことは私がなんとかします」
 だといいがな、と呟き、ソージンは再び肩をすくめた。
「前当主の妻子とお前の母親はあまり親しくないと聞く。癇癪持ちの女は己の認めた者以外には極端に冷淡だからな。息子の嫁など屑以下の扱いしかしないだろう。お前が保護できないのであれば、王家に彼女らの安全を託すんだな。これからウラッツェは忙しくなるはずだ。あいつの邪魔をするな」
 ウラッツェが監禁されているならば忙しいも何もないだろう。が、ソージンはあえてウラッツェ自身がまだ自由に動き回っているかのように話した。
 巡検使として危険な目にも遭ってきただろう男が、少々のことで潰れるとは思えなかったのである。相手もそれを肌で感じているのか、それともこちらに話を合わせたのか、再び顔を上げた公子の顔色は少し赤みが戻っていた。
「どうしてギュワメ兄上が忙しくなると判るんですか。兄は何をしようとしているんです? あなたは兄と綿密に連絡を取り合っているのですか?」
 ソージンは口角だけで笑い、すげなく相手の態度を無視した。
「あいつの顔を見てりゃ判る。そろそろ本腰を入れないと駄目だってことは、あいつ自身が一番判っているだろうからな。そのとき、お前はどちらにつく気なんだ? 母親に従うか、それとも異母兄の側につくか」
 物悲しげに眉をひそめたケル・エルスの態度に強い戸惑いが現れている。
 どちらを選ぶべきなのか公子自身も本当は判っているだろう。彼の母親はあまりにも排他的すぎた。彼女の考えは大公家そのものを腐らせるだけだ。
 だがしかし、彼にとっては実の母親を見限ることになる。内心では女の身勝手な行動にうんざりしていても、実際には身動きとれずにいるところが、ケル・エルスの葛藤の大きさを如実に表していた。
「異国の話をしてやろう」
 いきなり何を、と怪訝そうに眼をすがめた公子を無視し、ソージンは虚空を見上げて「そこは代々女が領主を務める土地柄でな」と話し始めた。
「姉妹が家督を争い、姉が勝ち、破れた妹は故郷を去った。だが、それぞれに娘が出来てみれば、姉の娘には当主の資格がなく、妹の娘にはそれがあった。ところが連れ戻された妹の娘は従姉妹に殺されそうになり逃げ去った。
 当主となるべき者を失った領地は荒れ果て、ついには周囲の領地に大半を呑み込まれて小さなものへと落ちぶれた。そこは偽りの血統に縋る女領主が今もなお治めているが、往事の繁栄を偲ぶのは難しい」
 ケル・エルスは苛立ちを身体の端々で表していたが、ソージンの話が心に引っかかったのだろう、唇を噛みしめて語り手を凝視した。
 周囲が正統と認めた者を追い落とそうとする者に繁栄はない。それが伝わっただろうか。黒耀樹公子は頭が悪いわけではない。きっと今の話の真意が判ったはずだ。それをどう咀嚼し、自らの血肉とするかは彼次第だが。
 王家や他の二大公が認めた当主を蔑ろにすることが何に繋がるのか、元公妃はよく考えるべきだったのだ。そして、そんな母親に従うことが何を意味し、どういう結末を招くのかを、ケル・エルスはもっと吟味すべきだ。
「姉の娘には当主としての実力がなかったのですか? それを示す機会も与えられずに当主の候補から外されたなら、従姉妹を殺したくもなるでしょう」
「確かに実力があるかどうかを試されもせずに見捨てられたなら腹も立とう。だがな、それを理由に他人の命を奪っていては為政者としてやってはいけんぞ。人は恐怖では治められん。そんなことくらいお前にも判っているはずだ」
 ソージンは厳しい表情で話中の人物を擁護する公子と対峙した。
「ケル・エルス。お前は大公になりたいのか? 黒耀樹家を支配できるのなら手段を選ばないのか? どうなんだ?」
 曖昧な笑みが若者の顔に浮かび、すぐに無表情の底へと沈んでいった。
「籠に捕らわれた鳥は放してやるべきでしょう。私が手助けできるかどうかは判りませんが。自由を渇望する鳥に同情しますよ」
 けれど、と囁きながら公子が背後の大公屋敷を振り返り、忌々しそうに舌打ちする。険しい表情へと変わった彼には、最初に見た苛立ちが戻っていた。
「すぐさま動く余裕はありません。私には私の守るべき者がある。何を最優先にするのかと聞かれたなら、私は大公家よりもそれらのものを取るでしょう」
 ソージンへと向き直ったケル・エルスの視線には燃えるような怒りが浮かぶ。この場にいない存在への憤怒が刻まれた表情は、皮肉なことだが、ソージンが今までに見た公子の態度の中でもっとも人間臭いものだった。
「私を怒り狂わせる作戦は失敗です。あなたの言葉に腹を立てるより前に、私はすでに激怒している。これ以上はないほどの憎悪を、です。……怒りも哀しみも、極限を超えれば反応を返せない。あなたにそんな経験はありますか」
 ソージンは眼に見えぬほど小さく片方の口角を持ち上げた。皮肉な笑いを浮かべたつもりだったが、どうやらそれは失敗に終わったらしい。
 もしケル・エルスが東方人の顔つきを見慣れていたなら、白い異邦人が珍しく内心の動揺をにじませたと気づいたろう。だが生憎と公子には東方人の表情を読む力はなく、なおかつ他に意識が向き、それに気づくことはなかった。
「子の努めだと母の罪も黙殺するつもりでしたが、今日より先、私が母を母親として扱うことはありません。あれは、私を産んだというだけの女です」
 だから黒耀樹家のことにこれ以上は口出しするな、というのだろう。
「王子に報告されるのでしたら伝言をお願いします。その結果がどうなろうと、私は王家を恨みません。これであなたの忠告への返答になりましたか?」
 王太子の周辺にいる者に大公家の内情を知られた以上、今までのようにケル・エルスがコソコソと動き回る機会は減るはずだ。サルシャ・ヤウンが監視し易い環境になると思えば、公子に喧嘩をふっかけた甲斐があったというもの。
 表面的に冷静さを取り戻した若者をこれ以上挑発しても無意味そうだ。ここは身を退いておくか。そう判断し、ソージンは相手の問いかけに頷いた。
「王子への伝言を受けよう。……ところで、肝心のウラッツェはどこにいる?」
 うっすらと笑みすら浮かべ、公子が「今頃は幻都ダレムに向かっているでしょう」と囁く様子を見、ソージンはようやくケル・エルスが本気であることを認める気になったのだった。