神などいない。そう思ったときもあった。
確かに神など見たこともない。だが、だからといって存在を否定する気は、今はない。信じる者は信じていればいい。信じない者は信じないだろうけど。
朱い月の伝説を、かつて目の当たりにして以来、神に準ずる存在くらいはいてもいいではないかと、そう思えるようになったからかもしれない。
「ねぇ、あなたはどう思う? わたしの考えって極端かしら。ハインは振り回されてヘトヘトだと言うけど、思いついたことを試してみるくらいの気軽さで動かないと、この世界では何も変わらないと思うのよね」
アジェンティアは腕の中で大人しくしている存在を覗き込み、まるで共犯者に語りかけるようにひそひそと囁きかけた。
「あなたの養い親は心配性ね。わたしの考えは単純明快だと思うのよ。一度は見逃してあげたのに、その後に一族の方針に逆らう意志を示した者を再び赦すのは難しいわ。今度は厳格に対処するのが当然でしょ?」
彼は彼女に甘いのよ、とぼやきながらアジェンティアは腕に抱いたむつきに頬ずりする。端から見れば赤子を抱く若い母親に見えた。
「だからね。ハインが甘い分、わたしが厳しくしないと。あなたと契約者との間にどんな約束があったにしろ、わたしはバチンを処断しなければならないわ」
座り込んだ虚空で足先を揺らしながら、アジェンティアは頭上を仰ぎ見た。
「何も見えないわねぇ」
何を見ようというのか。
「一度しか見たことないのだけど」
再び見つけたらどうすると?
「見えたら変わるかもしれないと思ったけど」
変化は意志の力ではないのか。
「ハインに免じて朱月に賭けてみたいけど、駄目みたい」
暁ではなく、朱い月に何を賭ける?
「彼は残念がるかし、ら──……ッ!?」
アジェンティアは息を飲み、今まで何もなかった頭上を凝視する。眦が裂けんばかりに見開かれた彼女の視線の先には──
「あぁ……。とうとう、現れた。そう。遂に、わたしの時代が、終わる。やっと、このときが来たわ。ようやく……」
茫洋とした朱い光がアジェンティアを照らした。白銀の髪や乳白色の肌も夕焼け色に染まる。唯一、彼女の暗緑色の瞳だけが、あらゆるものを飲み込み、沈黙を守る原生林のように、朱い光の浸食を拒絶していた。
「あの人の時代が終わったときに、現れて、以来ね」
腕のむつきをしっかりと抱き直し、アジェンティアはそっと立ち上がる。
「予言はどこまで正しく動くかしら。確かハインに降りた予言はこうだったわ。
“世界は三度滅びたり。七の二倍なる者、風と供に道標を目指し、海を渡らん。畢竟、終わりとは始まりなり。咎人は罪を雪ぎて目覚めたり。眠らずの竜王人、天に消えし星を指し、墓標とせん”」
アーモンド型の瞳を何度か瞬かせ、彼女は頭上に浮かぶ朱い月を睨んだ。
「わたしの時代が始まったとき、世界は滅びはしなかった。ハインが知ったら目を剥くでしょうね。大地の荒廃を目の当たりにしたのだから。彼には崩壊していく文明を見て、世界の滅びと映ったはず。……ねぇ、アイン。あなたが縛られている契約はこの予言を成就させるものなのでしょうね」
仰ぎ見ていた朱い光から目を反らし、銀の娘はむつきを見おろす。愛おしげに、しかし哀しげに、彼女は微笑みさえ浮かべていた。
「七の二倍なる者は世界を滅ぼすと言うわ」
だが“第三の者”たる自分は、世界を滅ぼしはしなかった。
「もし今、世界が滅ぶなら、これが三度目」
次なる七の二倍なる者が現れた今こそが滅びのときなのか。
「道標を目指して海を渡り……」
供に行く風は誰なのか。
「咎人は罪を雪ぐために立ち上がる」
その罪はいったい何……?
「わたしは、賭けに勝ったのかしらね?」
途方に暮れたような囁き声がアジェンティアの唇からこぼれると、鋭い風が彼女の周囲に巻き起こり、白銀の髪を舞い上げた。
──そもそも賭けが成立するのか、我が愛しき者の娘よ。
弾かれたように再び頭上を仰ぎ見るが、そこには朱い光があるばかりで、思念の声を作り出す存在は見えない。どこから聞こえた“声”だろうか。
──そなたは輪廻の理から外れた存在。賭けても意味がなかろうに。
「この声……。滅ぼしたと思ったのに生きていたのね、“運命を弄ぶ者”が」
アジェンティアは虚空に浮かぶ朱い光を見上げた。茫洋とした輝きの奥は見透かせない。あそこに声の主がいるに違いなかった。
──生きてはいない。器は滅び、今は意識の残滓。この世界では幻にすぎぬ。
「だからと言って看過することはできないわね」
──再び私と対決すると? お前の母は哀しむよ。姉と、娘が殺し合いとは。
「あなたを野放しにするほうが危険だわ」
麗しい容貌に残酷なほど冷たい表情を浮かべ、彼女はきっぱりと言い放つ。
──野放しというわけでもない。私はこの光の中でしか意識を保てぬ。
「まさか。そんなはずないでしょう。意識体がそんな制限を受けるはずがない」
──我らが七の二倍の者であることを忘れたか。縛られているのだ、星に。
「……星に? この朱き星。死を仰ぎ見る、指北の星に?」
冷酷は表情が歪み、眉を寄せながらアジェンティアは呟いた。無意識のうちに腕のむつきを抱く力が強くなる。彼女の身体も強張っていた。
──星は死ではない。新たなる倍数の者が産まれた兆候を示したにすぎぬよ。
「それでも、わたしの時代は、終わるわ」
──それを望んでいたのではないか? 私から奪い取り、代わりに支えることを望んだのは、他の誰でもないお前自身のはず。
「そうよ。わたしが望んだわ。この世界を滅ぼしてしまうわけにはいかないの」
──お前の夫のために、な。歪みを内包したまま、世界を御し続けたか。
再び厳しい表情を取り戻すと、白銀の娘は虚空を蹴って舞い上がった。
「夫のためだけではないわ。父も、母も、我が民も、滅んでいいわけがない」
──国が興れば、いずれは衰退する。我らの民が滅亡への道を歩むように、お前の父が統べた民も国を失い、また新しい国を手に入れる。
「そうよ。そうやって世界は回っていくわ。だけど、国の土台となる世界を滅ぼして新たな国を作ろうなどという考えは間違っている!」
虚空を一歩ずつ駆け上がっていくアジェンティアの右腕が輝き、青白い光の筋を掌に掲げる。見る間にそれは錫杖の形を取り、彼女の傍らに寄り添った。
──お前との問答はいつも平行線だ。滅んだ私にまで喰ってかかるでない。
「だったら、わたしの前に現れないことよ。世界の歪みはいずれ世界そのものが修正していくわ。わたしたちは傍観者に徹すると決めたのだから!」
しばしの沈黙が訪れ、アジェンティアは自分の周囲を取り巻く空気が緩やかな渦を巻いているのに気づいた。意志が働くところに魔力が集中する。この流れの勢いは下天で行使される魔力以上に顕著だった。
気力が弱ったら渦に巻き込まれ、否応なく朱き光の先に飲み込まれる。
この先にあるであろう“魂の船”の波止場はひどく穏やかに違いない。が、今はまだそこに行き着くわけにはいかなかった。
──私の時代は終わっている。同じように、お前の時代も終わるだろう。そのときはどうする気かね? 次の世界に留まることも出来ようが……。
「わたしは次の世界の暁を見ないと決めたわ。この世界が終わるというのなら、次の者に世界を託して“魂の船”に乗る!」
──神として君臨する気はないのだな。いかにもお前らしい。魂の船に乗り、夫を追いかけて行くか。私には真似できぬことよ。
「あなたは虎視眈々と次の世界の幕開けを狙っているのではないの? 狭間の時期はぶれも大きいわ。次の世界の時守に成り代わるなら……」
──器は滅んだと言っただろう。新しい器を手に入れたとしても紛い物の生を送ることになるだけよな。たゆたう意識を呼び覚まされなければ、私は永遠を漂い、二度と再び下天を望むことはなかったろうに。
思念の声がどこか遠くを見遣っていることをに気づき、白銀の娘は背後を振り返る。そこには足許と同じ虚空が広がっていたが、漂ってくる気配に馴染んだものを感じ取り、盛大に顔をしかめた。
「付き巫女がまた何か企んでいるようね。少しもオイタに懲りないんだから困ったものだわ」
──やはり私を呼んだのはルーミだったか。思い込んだら他が見えぬ子であったが、今もなおそれは治っていないのだな。
「治るわけがないでしょう。彼女が下天を散々に引っかき回した後、強引にわたしが封印したけど諦めずに這い出してきたのよ。執念深さだけなら誰にも負けないでしょうね。あなたを復活させる気満々で大迷惑よ」
──愚かなほど真っ直ぐな子だ。それが自らの精神を削っているというのに。
「モノは言いようね。彼女の手段を選ばないやり方を見てもそう言えるかしら」
──さぁな。見ていないのだから答えられぬよ。だが、確かにあの子は己を見失い、自身で決着を着けられぬ思いに責め苛まれているのだろうね。
判っているならなぜ付き巫女などにした。思い込みの激しさを熱心な崇拝と勘違いしたのか。それとも一直線の情熱だとでも?
今さらながらに腹立たしさが募り、アジェンティアは腕のむつきをしっかりと抱え直して頭上に溢れる光に反抗的な瞳を向けた。
「あなたがまた顔を出したということは、世界は神々の選択肢によって振り回されるということかしら? 姿すら見えぬ神に対しての敬意はわたしにはないわよ。わたしの時代が終わるときに道連れにしてやりたいくらいだもの」
──振り回されるかどうかなど私に判るはずがない。だが選ぶというのならば、人には賢い選択をして欲しいものだね。
「朱き指北の星は何を選ぶ気? 命を呑み込む星はもう存在しないというのに」
──選ぶという行為自体が傲慢だ。神は選びはしない。伸ばされた腕をとるのみ。気まぐれに見えようともな。それこそが真の神の定義であろうよ。
気に入らない。星を神として崇めている一族の現実も、それを受け入れがたいと感じる己の感性も、神に等しい力を持ちながらこの手によって封じられた存在の気まぐれ具合にも。己が支えている世界そのものも。
「あなたの話を聞いていると無性に腹が立ってくるわ」
これは、たぶん、八つ当たり。
──すべて素直に受け入れろと言っても無駄だろう?
「当然でしょう。あなたは母を追いやり、父を滅ぼそうとしたのよ」
正々堂々と復讐を口にするバチンが羨ましい。
──理由があってのこと。だが許せとは言わない。
「言ったら張り飛ばすわ。あなたの言葉を丸飲みにするほどおめでたくないの」
世界など欲しくはなかった。
──望めば世界を新しく作り替えられたろうに。
「新しい世界を創造すれば、新しい秩序とともに新しい人間がくる。そのために今現在までを支えてきた者たちを失うわけにはいかないでしょう」
ただ大切なものを守りたかっただけ。たったそれだけの理由だ。
──破壊と創造の循環を断ち切る気だな。
「自然の摂理には従うわ。でも他人が傷つくのは厭なだけよ」
いかにも彼女らしい理屈で世界の均衡を保っている。そのどれかひとつでも欠けていたら、世界はとうに崩壊していただろう。
クスクスと笑う声が周囲に渦を巻いた。悪意は感じ取れないが、からかわれているようで気分が悪い。顔をしかめたアジェンティアの内心を見越したように、笑い声は不意に途絶え、しごく真面目な声が後に続いた。
──お前は賢い。だが一直線だ。ルーミと同じく。
「ふざけてるの? わたしとバチンが似ていることは承知してるけど、性格まで同じように言われるのは腹が立つわ。訂正しなさい!」
──そうもいくまい。己の正義を信じて動く姿は容姿と同じくよく似ている。
「いいえ。絶対に似てなんていないわよ!」
──まぁ、そういうことにしておこう。決定的に似ていない部分もあるしな。
昔話などにうつつを抜かしている暇はない。早々にこの場を離れたほうが良かったのだろう。が、周囲に奇妙な気配が漂い、その判断を誤った。
──七の二倍の者は手中に収めたか?
「それを話す義理も義務もないわ」
──そうか。でも、お前が役目から解放されたいのならば次なる者を用意せねば。そうでなければ我らの星は次の世代に引き継がれない。
腕のむつきを抱きしめたまま、彼女は小さく鼻を鳴らした。
「わたしですべてを終わらせることもできるのよ」
──そう、できるかもしれない。が、それ以外の道もお前は用意している。
「そんなこと、あなたに判らないでしょ。いい加減なこと言わないで」
──いい加減ではない。お前はあの男の娘。将として戦地にも立った娘だ。命が如何に容易くむしり取られるかをよく知っている。そのお前が、自身が失敗した後のことを考えずに享楽的でいられるはずがない。
片手の錫杖を強く握りしめた。何かを試されているように感じられる。その何かが判らず、ひどくもどかしかった。
──お前は神ではない。だから選ぶことになる。ひとつは一人を犠牲にして多くの者を救う。もうひとつは一人を守るために世界が崩壊する。どちらを選べばいいか、賢明なお前には判っているだろうがね。
「言われなくても判っていたわ、そんなこと。だから呼び寄せることにしたのだし。納得ずくで協力してもらいたいものね」
瞬き数回分の沈黙の後、思念の声が苦笑ともため息とも判らぬ息を漏らした。
──では、お前は再び世界を救うだろう。
ほんの一瞬、返答に窮してアジェンティアは言葉に詰まった。
いつもは己のやっていることに絶対的な自信を持っているのに、今このときばかりは自身の中にぽっかりと空洞ができたように感じられる。だが、僅かに生じた困惑を振り払い、彼女は平然と微笑んだ。
「ご指摘ありがとう。言われるまでもなく、わたしはやるべきことをやるわ」
気に入らない世界である。だが大切な者を育んでいる世界だ。だからこそ、崩壊させることなく静かに見守り、次の世代へと移行させようと決意した。そのための犠牲を厭わぬと、かつて誓ったはずなのに。
なぜだろう。その決意が間違っている、と指摘された気がした。
再び世界を救う。その言葉がひどく重苦しさをもって迫ってきた。
何かが違うのだろうか。二つの選択肢のうち、片方しか選べないのであれば、より確かで、有益なほうを選ぶのが定石ではないか。
世界そのものが崩壊してしまっては、一人を救っても意味がない。
間違ってはいない。そう、こんな簡単なことを間違えるはずがないのだ。であれば、不安を感じる必要などない。
今話をしている相手が相手なだけに、裏があるのではないかと不安になっているのが原因だ。この場を離れたなら、感じなくなる種の感情だろう。
右手の錫杖を折れんばかりにきつく握り、左腕のむつきを柔らかに抱きしめながら、銀の娘はゆっくりと奥歯を噛み締めた。
──では、愛し子よ。お前の決めた道を往くがいい。私が暁の行方を憂い、終焉を引き延ばした末に得た安寧は、お前が断ち切ってくれるだろう。
「……? どういうこと? わたし自身は世界を滅ぼしはしないわ。滅びを招くとしたら次の世代の者が自ら手を下す瞬間よ」
──あぁ、確かに。世界は三度滅びる。そして、新たなる存在が下天をその腕に抱くだろう。そのとき我らはその世界にいない。だが、銀の娘よ。世界の滅びがどういうものなのか、誰が知っているというのかね?
何をばかなことを。大地が荒廃し、死が世界を覆い尽くした状態を滅びというのだと、かつてそう教えたではないか。今さら何を言い出すのか。
──滅びはひとつではない。そう気づいたとき、私の時代は終わったのだ。お前もいずれ気づくだろう。そのとき、自身の選択が何をもたらすのかを、お前も悟ることになるに違いないよ。
「後悔するかもしれない、と? あり得ない。たとえ後悔しようと、わたしは世界を滅ぼさないわ。次世代に移行後、世界は滅び、新たなる夜明けが来る」
──お前は後悔などしない子だよ。たとえどれほどの責めを受けようとも。その意志があればこそ私の後を引き継いだのだ。
今さら言われるまでもない。後悔などしている暇はなかった。そして、どれだけ責められようとも後戻りをする気はない。それだけのことだ。
──だが世界は私を忘れはしなかった。それ故に世界は滅びなかったのだ。お前の選択は間違ってはいなかったが、正しくもなかったということだよ。私がこうして意志を保っていることがその証だ。
唖然としてアジェンティアは立ち尽くした。錫杖を握る腕が震える。なんとか左腕でむつきを支え、膝に力を入れているが、気を抜けば崩れ落ちそうだ。
──お前が自らを縛めたばかりに世界は“忘却”を忘れ、生じた歪みが次世代へと繰り越される。いつか世界は自らの力で歪みを正すだろう。それこそがもうひとつの“滅び”だとは思わないか?
滅びの定義など考えたこともない。死こそが滅びだと思い込んでいたのである。それ以外の可能性など毛一筋ほども疑ったことはなかった。
「朱い月は啓示だというの? 死の象徴ではなく?」
──死の象徴でもあるが、別の意味もあるのだろうね。人が矛盾の塊であるのと同じく、星もまた矛盾を抱えているのかもしれない。
「なぜ今さらそんなことを教えるの? わたしに親切にしたからって……」
──親切? そうではないとお前は知っている。私は利己的な存在だ。私の言葉や声が親切そうに聞こえるのなら気をつけることだ。
小刻みに震える錫杖が銀環を揺らし、チリチリと鳴り響く。
──銀の魔女たる娘よ。これだけは覚えておくがいい。世界は今、お前の手の中にある。それは同時に、他の誰の手の中にもあるものだ。
朱い光が薄れてきた。虚空を見上げたままの彼女の視界も赤みが薄れ、薄暗さを増していく。見つめ続ける視線の先に、アジェンティアは闇を感じ取った。
「あなたなんか、大っ嫌い……って、そう言えたらいいのに」
子供じみた言葉だと判ってはいても、喉から迸った言葉を訂正する気はない。
彼女の呟きに返事はなかった。返ってこないことが判っていたから言えたのだろう。もはや残像すら残らぬ虚空の最果てに、彼女は朱い月を見ていた。
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